最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
ルミナから送られてきた乗換案内には、ワンダの知らない駅名があった。
夏の休養に入る、少し前のことだった。
『今度は、ここに来てもらえませんか』
行き先を調べるより先に、返事を打った。
『行く! どんなところ?』
しばらくして、短い文が届く。
『私の家がある町です』
ワンダは画面を見直した。
これまで一緒に出かけたのは、海や湖、途中の電車から見えた町だった。どこへ行くにしても、ルミナはまず地図を見て、それからこちらの話を聞いていた。
その子が、今度は案内すると言っている。
『泊まりで行ける? せっかくだから、ゆっくり見たいな』
送ってから宿を探そうとしたところで、次の連絡が来た。
『うちに泊まれます。母にも聞きました』
ワンダは、開きかけていた検索画面を閉じた。
*
駅の階段を下りたところで、黒いポニーテールが揺れた。
「先輩」
先に帰省していたルミナが、両手で鞄の紐を持って待っていた。隣まで行くと、いつもの小さな会釈をする。
「遠くまで、ありがとうございます」
「楽しみにしてた! 案内、よろしく!」
「はい」
返事のあと、ルミナは迷わず歩き始めた。
ワンダはその横へ並びかけ、駅前の古い時計に目を留めた。数字の代わりに、鳥の絵が描かれている。
「面白い時計だね」
「時間になると、扉が開くんです」
「鳥が出てくるの?」
「はい。子どもの頃は、あれを見てから帰ることもありました」
ルミナが時計の針を見る。
「次は、少し先です。帰りに間に合うと思います」
「じゃあ、それも見たい」
手帳を出そうとすると、隣から声がした。
「覚えています」
「ん?」
「帰りに寄ることは、私が覚えておきます」
ワンダは手帳をしまった。
「そっか。お願い」
ルミナは頷いて、駅前の通りを右へ曲がった。
ワンダは、旅先で誰かの後ろを歩くのが久しぶりだった。
知らない角に来ても、立ち止まらなくていい。標識を探す前に、前のポニーテールが行き先を教えてくれる。
住宅の間に細い路地があり、奥に小さな店の看板が見えた。色のついたガラスが窓辺に並んでいる。
「あっち、寄ってもいい?」
「帰りでもいいですか」
「いいけど、何か時間が決まってる?」
「夕方に、行きたいところがあるんです」
ルミナは携帯電話の時計を確かめた。
「明るいうちに着きたくて」
普段なら、こちらが寄り道を提案するとすぐについてきた。今日は、先に決めている行き先があるらしい。
「よし、じゃあそっち優先! 楽しみ!」
そう答えると、ルミナの歩幅が少し大きくなった。
*
家へ荷物を置きに寄ると、ルミナの母が出迎えてくれた。
挨拶をして、部屋へ通される。机の横には古いレース雑誌が並び、壁には学園で使っているものと似た予定表が掛かっていた。
ただ、書かれている文字は少し丸い。
「入学する前も予定表を使ってたの?」
「はい。その頃の予定表です」
ルミナが鞄を下ろしながら答えた。
予定表には、雨の日にも小さな印がついていた。走れない日は家でできることをして、終わると印をつけていたという。
「ずっとやってたんだね」
「空いているところがあると、気になってしまって」
「なるほど」
ワンダは日付の端を見た。
1日だけ、予定の欄をはみ出して「海」と書かれている。
「これは?」
「家族で行った日です」
「印もついてる」
「たくさん泳ぎました」
真面目な答えに笑うと、ルミナも少し口元を緩めた。
夕飯までには戻ると母に伝え、また2人で外へ出た。
大通りから離れるにつれ、家と家の間が広くなる。道の先に運動公園があり、その向こうには低い丘が続いていた。
ルミナは公園の入口で足を止めた。
「小さい頃は、ここで走っていました」
舗装された周回路の内側に、短い直線のコースがある。端の木は枝が広く、根元に乾いた葉が集まっていた。
「友達と?」
「はい。帰る前に、よく競走していました」
「勝ってた?」
「勝ったり、負けたりです」
そこで話が終わるかと思ったが、ルミナは木の方へ目を向けた。
「負けた次の日は、朝早くここへ来ていました」
「どうして?」
「練習です。負けたままでは悔しくて、次こそ勝ちたかったんです」
ワンダは笑ってしまった。
「みんなと走る前に?」
「はい」
「みんなは、練習に戻ってたことを知ってた?」
「聞かれたことはなかったです」
少し考えてから、ルミナが付け足す。
「でも、近所の人には見られていたと思います」
海沿いで息を切らしながら、もう1回走りたいと言った顔を思い出した。
あのとき初めて見たつもりの顔は、この町ではずっと前からあったらしい。
ワンダはコースの端へ歩いた。木までの距離を目で測る。
「ここから?」
「はい。その木のところまでです」
「ねえ、今度ここでも勝負しよう! ルミナの得意なコースで!」
「短いですよ」
「短いと困る?」
「先輩に、先に行かれてしまうかもしれません」
ルミナはそう言ったあとで、こちらを見た。
「でも、やりたいです」
その返事が聞けたので、ワンダは満足して頷いた。
「今日は?」
「歩く約束です」
「ちゃんと覚えてたか」
「先輩も、言っていました」
休養中の散歩を勝負に変えないように。駅で会う前、2人でそう決めたのだった。
ワンダは両手を上げ、公園の出口へ向かった。
今度はルミナが、笑いながら隣へ並んだ。
*
丘へ上る道は、途中から石段になった。
両側の木が日差しを遮り、さっきまで暑かった首筋に風が触れる。ルミナは角を曲がるたびに振り返り、ワンダがついてきているのを確かめた。
「この辺りは少し滑りやすいです」
「分かった」
歩き慣れた子の足は迷わない。
石の端を避け、少し平らなところを選んで上っていく。追っているうちに、ワンダも同じところへ足を置いていた。
「あ、ルミナ! 待って!」
木の隙間から見える町を撮っている間に、少し離されていた。ルミナが振り返る。ワンダは携帯電話をしまい、段を上った。
最後の段だけ、少し高さがあった。
先に上ったルミナが振り返り、手を差し出す。
「どうぞ」
ワンダは、その手を取った。
指が長かった。温かい掌を握ると、しっかり力が返ってくる。
段を上り終えたところで、視界が開けた。
町が見えた。
駅前の屋根も、公園の木も、家の間を細く曲がってきた道も、丘の下に収まっている。線路は町の端を回り、大きな川へ向かって延びていた。
「ここです」
ルミナはつないだ手をそのままに、空いている方で駅を指さした。
「先輩が来たのは、あっちからです」
「あ、本当だ。橋、渡ったね」
「はい。夕方になると、川が光るんです」
西へ傾いた日が、水面に細長く映っていた。
ワンダは少し前へ出た。ルミナも隣へ来る。足元はもう平らだったが、握った指はほどけなかった。
「うわあ、いいところ! 下からは、こんなに見えると思わなかった!」
隣で、小さく息を吐く音がした。
「よかったです」
「よく来てたの?」
「はい。走ったあとに。ここまで来ると、帰るのが少し面倒になるんですけど」
「下りるだけなのに?」
「疲れていると、坂を下りるのも嫌になるんです」
「ああ、それは分かる」
2人で笑った。
眼下の道を、小さな車が通っていく。遠くから列車の音が届いた。
ルミナがそれを見つけ、そっと指さした。先ほどの橋へ向かって、窓に夕日を映した車両が進んでいる。
「初めて海へ行ったとき、電車の中でも、先輩はいろいろ見つけていたでしょう」
「市場とか?」
「はい。私が見ていなかったものまで、たくさん」
列車が橋にかかった。
ルミナはそちらを見ながら続けた。
「先輩と行きたいところを探したんです。でも、写真を見ているうちに、ここを見せたくなって」
ワンダは隣を向いた。
「ここからなら、私も先輩にいろいろ教えられます」
ルミナの頬に、夕方の光が当たっていた。
「先輩と出かけると、いつも、来てよかったって思うんです。知らない場所でも、先輩が楽しそうだと、ついていきたくなります」
握っている手に、少し力がこもる。
「今日は、先輩にもそう思ってほしかったです」
「思ったよ! 連れてきてくれて、ありがとう!」
ルミナは町へ顔を戻した。口元だけは、笑ったままだった。
ワンダは握っていた手を少し動かした。顔を向けてくれたので、目を合わせて笑う。
「教えて! あの赤い屋根は?」
「あれは体育館です」
「その隣の大きい木」
「小学校の庭です。あそこまで行くと、毎年……」
話の続きを聞きながら、ワンダは町を見た。
さっきまで知らない建物だったものに、ルミナの話が1つずつ増えていく。
庭で拾った木の実。帰りにわざと遠回りした道。雨宿りをした軒先。
ルミナは言葉を探すとき、こちらの手を持ち直した。それからまた、町のどこかを指さした。
日が山の端へ沈みかけても、ワンダは帰る時間を調べなかった。
*
夜、ルミナの部屋に布団を敷いてもらった。
夕飯のあと、母に見せてもらった写真の話から、昔のアルバムも出てきた。2人で壁に背を預け、膝の上に広げる。
写真の中のルミナは、今よりずっと短い髪をしていた。
遠足で、こちらを見ずに弁当を食べている。運動会では、目を細めて前の子を追っていた。
「このときは?」
「抜けました」
「即答だ」
「覚えています」
ページをめくる指が、別の写真で止まる。
「このときは負けました」
「それも覚えてるんだね」
「はい」
ルミナは写真を見たまま、当日の話を始めた。
競走で負けたあと、家へ帰ってもずっと不機嫌だったこと。夕飯の好きなおかずをおかわりして、それでも悔しかったこと。
「おかわりはしたんだ」
「だって、おいしかったんです」
「それはよかった」
肩が触れるほど近くで笑うと、ルミナは少し顔を伏せた。それでもアルバムを閉じず、次のページをめくる。
知らない話が、まだいくつもあった。
ワンダが写真の端を指で押さえると、ルミナは見えやすいようにこちらへ傾けてくれた。
その拍子に、黒髪が腕に触れた。
「先輩、今日は楽しかったですか」
ワンダは顔を上げた。
「楽しかった! まだ聞いてない話、いっぱいありそうだし!」
「寄れなかったところも、ありましたけど」
夕暮れまで丘にいたので、帰りにはガラスの店が閉まっていた。駅の時計にも間に合わなかった。
「明日でも見られる?」
「はい。帰りの電車より前に、寄れます」
「じゃあ、それでいいよ」
ルミナが頷く。
ワンダはアルバムに目を戻し、さっき見つけた写真を指さした。
「この写真も、さっきから気になってたんだ」
「どれですか」
「この大きい袋。ルミナ、何持ってるの?」
「あ……それは」
ルミナが声を止めた。
聞いてみると、運動会でもらった景品を全部1つに入れ、どうしても自分で持って帰ると言い張った日の写真らしかった。袋が足に当たって歩きにくいのに、家まで渡さなかったという。
「持ってもらえば楽だったのに」
「自分で持って帰りたかったんです」
「そっか」
少し得意そうな、小さな子の顔。
今、隣で話している子の横顔と見比べると、ルミナに気づかれた。
「何ですか」
「ううん。今日も、そんな顔してたなって」
「そんな顔?」
「案内してくれてるとき」
ルミナは写真へ目を落とした。
それから、ゆっくりこちらへ体重を預けてきた。
頭が肩に触れる。ワンダが動かずにいると、ルミナは少し位置を直し、今度は落ち着いてそこへ寄りかかった。
「重くないですか」
「平気」
そのままアルバムの次のページを開く。
ルミナの声が、さっきより近い。
写真を指さすと答えてくれる。答えたあとで、写っていないところであったことまで話してくれる。
ワンダは、その声を急かさずに聞いた。
*
アルバムを閉じてから、今日撮った写真を見返した。
駅前の時計。公園の木。丘から見た町。
途中に1枚、ルミナだけが写っていた。
丘を下りたあとの道で、ワンダが名前を呼んだときの写真だった。ポニーテールがまだ横へ揺れ、振り返った顔がこちらを見ている。
口元には小さな笑みがあった。
「いつ撮ったんですか」
「帰り道。こっち見てくれたとき」
「気づきませんでした」
「いい顔だったから」
ルミナは画面を覗き込んだ。写真より近いところで、同じ口元が少し緩む。
「今の写真も送ってもらえますか」
「もちろん!」
送信してから、ワンダは携帯電話を膝へ下ろした。
隣の重みは、そのままだった。
「明日、あの公園を通って帰れる?」
「通れます。少し、遠回りですけど」
「行こう! もう一度、あのコースを見たい!」
ルミナが小さく頷いた。
「じゃあ、今度は別の入口から行きましょう。そこにも、見せたいものがあります」
「うん」
ルミナが携帯電話で町の地図を開いた。道順を指で辿ってから、ワンダを見上げる。
「いつも、先輩の後ろばかり見ていました」
「今日は、私がルミナの後ろを見てたね!」
「はい。……先輩もついてきてくれるんだって、嬉しかったです」
肩に寄りかかった頭が、少し動いた。
「レースでも、隣まで行きたいです。先輩が全力で走っているところへ」
「いいよ! 来て!」
「行きます」
返事は静かだったが、すぐに返ってきた。ワンダは肩越しにその顔を見て、秋の出走予定を思い浮かべた。
ルミナはまた道順へ指を戻した。明日は、ここから入って。話す声は、もう少し弾んでいた。
ワンダは肩を貸したまま、次はどこへ連れていってくれるのかを聞いていた。