最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
「ルミナ、こっち!」
控室へ向かう廊下で、ワンダが手を振った。
見慣れた緑の上着ではなく、勝負服を着ている。短い髪の下で、耳がぴんと前を向いていた。
「来たね!」
「はい」
「今日の東京、すごい人! 外、見た?」
「少しだけ」
夏に一緒に歩いた町の話をするような声だった。
それでも、差し出された手を握ると、先輩の指には力があった。
「やっと一緒に走れるね」
ルミナは頷いた。
春から、身体が変わってきていた。最後に速度を上げても、以前ほど上半身が揺れない。トレーナーと繰り返した練習では、速く走れる区間を少しずつ長くしてきた。
ここへ出ると決まってから、ワンダのレース映像を何度も見た。
大きく離れた先頭が、直線でもなかなか近づかない。その距離を、自分の脚ならどこで詰められるか。考えては走り、走っては考えた。
「今日も、先に行きますか」
「もちろん! 思いっきり行くよ!」
先輩が握った手を軽く振った。
「ルミナも、あのときみたいな顔してる」
「あのとき?」
「海! もう1回走りたいって言ったとき!」
ルミナは先輩を見た。
あの走路には、何度か戻った。2人の予定が合うたび、灯台まで歩き、走れる区間では並んだ。短い勝負で横へ出られることも増えた。
今日は秋の天皇賞、2000m。先輩がいちばん得意な走りをする。
「今日は、追いつきます」
「うん。来て!」
手が離れた。
ワンダは自分の控室へ向かっていく。その背中を見送り、ルミナも歩き始めた。
*
『ワンダラスト、先頭へ! 外から並びかける相手を振り切っていきます!』
ゲートを出た直後から、先輩は速かった。
ルミナは集団の中で位置を取り、前を見た。ワンダの勝負服が、見る間に遠くなる。
初めて一緒に走ったときと同じだった。
身体が追おうとする。脚をもっと前へ出したくなる。
そこで一度、長く息を吐いた。
今の速さで飛び出せば、近づくことはできる。けれど、それでは追いつく前に自分の脚が止まる。海でも、映像の中でも、先輩はその先を走り続けていた。
ここから届くように走る。
ルミナは前の子との間隔を保ち、腕の余計な力を抜いた。
『先頭はワンダラスト! 後続を大きく離していく! ワンダラストの大逃げだ!』
向こう正面で、距離はさらに開いた。
先輩はもう、周りの誰とも違う景色の中にいる。
こちらには肩があり、尻尾があり、重なった足音がある。あの背中の先には、誰もいない。
見たい、と思った。
追いついて、自分もあそこへ出たい。
3コーナーを回る。近くの子が動き、集団が少しずつ縦に伸びた。ルミナも進路を確かめながら速度を上げる。
先頭との差は大きい。
それでも、前を行く子たちは先輩を追っている。外から上がっていく肩を見て、ルミナはその後ろへ続いた。
直線へ向く。
『ワンダラスト、まだ大きなリード! 逃げ切れるか!』
スタンドから先輩の名前を呼ぶ声が重なった。その歓声が、ルミナの耳の奥で大きく膨らんだ。
前が開く。
脚を伸ばした。
地面を捉えるたびに身体が進む。春には力んでいた肩を下げ、腕を後ろへ引く。隣にいた勝負服が視界の端へ流れていった。
もう1人。
その先へ。
『外からエクアルミナ! すばらしい末脚! 前の集団をまとめてかわしていく!』
先輩の背中が、まだ遠い。
ルミナは見つめたまま走った。速くなっている。さっきより、確かに近づいている。けれど、先輩も前へ進んでいる。
残りの距離が減る。
脚の奥が熱くなった。
今までなら、この辺りで伸ばしきれなくなっていた。今日はまだ地面を押せる。息を吸い、足を運び、前へ出る。
ワンダの髪が見えた。
揺れる肩。強く引かれる腕。
先輩は振り返らなかった。
足音に気づいたのか、腕の振りがさらに大きくなる。最後まで行こうとしている。こちらが追いつこうとするのと同じ強さで、逃げ切ろうとしている。
『エクアルミナ、坂を上っても脚色が衰えない! 先頭へ迫る! ワンダラスト粘る!』
声をかけたかった。
先輩、と呼びたかった。
代わりに、ルミナはもう一歩踏み込んだ。
肩が並ぶ。
先輩の横顔が、一瞬だけ見えた。
歯を食いしばり、まっすぐ前を見ていた。その顔を見たら、最後の力まで出したくなった。
横を抜ける。
前が、全部開いた。
『エクアルミナ! 捉えた! エクアルミナ、先頭でゴールイン!』
ゴールを越えても、すぐには止まれなかった。
息が苦しい。脚が熱い。手を握ろうとしても、うまく力が入らない。
振り返ると、先輩もゴールを越えていた。
掲示板へ目を向ける。
自分の名前が、いちばん上にあった。
「……勝った」
声にすると、今度は大きく息が漏れた。
勝った。
先輩に追いついた。そのまま、抜いて走り切った。
ルミナは両手を握った。笑っているつもりなのに、目の奥が熱かった。迎えに来たトレーナーに何か言おうとして、最初は頷くことしかできなかった。
*
ワンダと会えたのは、表彰もライブも取材も終えたあとだった。
ルミナはまだ、勝ったと答えたときの自分の声を覚えていた。どこがよかったか、誰に伝えたいか。何を聞かれても、自然に笑顔になった。
先輩の姿を見つけると、その顔のまま近づいた。
ワンダは壁際に立っていた。こちらに気づいて、片手を上げる。
「ルミナ!」
いつもの声だった。
ルミナは目の前で止まった。
「先輩、追いつきました」
言いたかった言葉が、ようやく言えた。
ワンダは口を開き、一度閉じた。
「……うん。追いつかれた!」
笑っている。
けれど、先輩の眉は少し下がっていた。
「おめでとう! 最後、すごかったよ」
「ありがとうございます」
「あそこまで行ったら、今日は勝てると思ったんだけどなあ!」
先輩が天井を見上げた。
ルミナは黙って待った。
「足音、聞こえたんだよ。海のときより、ずっと速いの」
「はい」
「もう、来ないでって思った!」
ワンダは大きく息を吐いた。
「悔しい!」
声が廊下に響いた。
その声を聞いて、ルミナの胸の奥が熱くなった。先輩は本当に勝ちたくて走っていた。自分は、その先輩に勝った。
「私、嬉しいです」
ワンダがこちらを見る。
「ずっと、追いつきたかったんです」
「……うん」
先輩の顔が、今度は少しだけ緩んだ。
「そんなに嬉しそうに言われたら、困るな」
言い終えると、ワンダは半歩近づいた。
額が、ルミナの肩に触れる。
「ちょっとだけ、貸して」
ルミナは鞄を反対の手へ移し、先輩の背中へ腕を回した。
近くで、長い息が聞こえた。
先輩の身体は熱かった。いつも先に歩き出す人が、今は動かずに寄りかかっている。
ルミナは支えたまま、肩の位置を少し下げた。
「そのままでいいよ」
「はい」
しばらくして、先輩の手が勝負服の袖をつかんだ。
春に、自分がしたのと同じ持ち方だった。
その手の上へ触れると、指が少し強くなる。
「次は、もうちょっと遠くまで行くから」
「はい」
「今日ので、捕まえ方が分かったと思わないでね」
肩のそばで言う声に、少し勢いが戻っていた。
ルミナも笑った。
「また追います」
ワンダは顔を上げた。
「よし! 次も勝負!」
「はい」
立ち直った勢いで歩き出しかけてから、先輩がこちらを振り返る。
「……でも、今日はもうちょっと一緒にいて」
「います」
ルミナが答えても、袖を持つ手は離れなかった。
だから、そのまま隣へ並んだ。