最速の私と、大逃げの先輩   作:Lagavulin

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逃げ切って

「ルミナ! 外、見て!」

 

 空港の出口で、ワンダが振り返った。

 

 ガラスの向こうに、見慣れない色の空が広がっている。日差しは強いのに、肌に当たる風は乾いていた。

 

 ルミナは鞄の紐を握り直し、先輩の隣へ出た。

 

「着いたね!」

「はい」

 

 昨秋の勝利に続き、ルミナは暮れの大舞台も勝った。

 

 そのたびに先輩は大きな声で祝ってくれた。次は負けないから、と付け足すことも忘れなかった。

 

 年が明けて、ワンダが選んだのは海外のダート戦だった。

 

 今日は、その応援に来ている。

 

「匂い、違いますね」

「ね! あと、空が広い!」

 

 先輩はすでに何かを見つけている。

 

 ルミナは肩を並べた。出国前から、先輩の携帯電話には現地の地図が入っていた。市場、古い建物、食べてみたい料理。画面を見せるときはいつも楽しそうだった。

 

 けれど、迎えの車に乗ると、ワンダが開いたのはレース場の資料だった。

 

 砂の状態と、相手の走り。前に行きたがる子がどこから出てくるか。

 

 トレーナーとの話を聞きながら、指でコースを辿っている。

 

 ルミナは窓の外から目を戻した。

 

 先輩は、この知らない場所で勝つつもりなのだ。

 

  *

 

 レース前日に、練習を見せてもらった。

 

 ダートの上で、先輩の靴が砂を蹴り上げる。

 

 芝で見慣れた足音とは違っていた。それでも、遠くへ向かう背中は同じだった。

 

 戻ってきたワンダは、息を整えながら笑った。

 

「どう? こっちでも速そう?」

「速かったです」

「よし!」

 

 先輩が差し出したタオルを受け取りかけて、ルミナは首を振った。

 

「まだ汗を拭いていませんよ」

「あ、そうだった!」

 

 ワンダは自分の額を拭いた。少し浮き立っているらしい。

 

 トレーナーとの話が終わるまで待ち、並んで歩く。

 

「明日、最初から来る子が多そうですね」

「うん。簡単には先頭をくれないと思う」

「それでも、行くんですね」

「行くよ!」

 

 返事が早かった。

 

「最初のところは大事。そこで譲って、誰かの後ろで終わりたくない」

 

 先輩の目は前を向いていた。

 

 ルミナは、秋の直線を思い出した。足音に気づいて、もう一度速度を上げようとした背中。

 

 今日も、明日も、追いつかれたくない人なのだ。

 

「ルミナ、明日さ」

 

 呼ばれて、顔を上げる。

 

「勝ったら、いちばん大きい声で呼んでね!」

 

 先輩は笑っていた。

 

 ルミナは少し考え、それから頷いた。

 

「勝つ前から、呼ぶと思います」

「おお! ルミナの声、聞こえるといいな!」

 

 ワンダが嬉しそうに肩をぶつけてきた。

 

 ルミナも、軽く押し返した。

 

  *

 

 スタンドに立つと、練習のときより走路が遠く見えた。

 

 照明が砂を白く照らしている。観客の声がいくつもの方向から聞こえ、どこを向いても人がいた。

 

 ルミナは先輩の姿を探した。

 

 見つけると、自然に背筋が伸びた。

 

 ワンダは前を向いている。こちらを探す様子はなかった。ゲートへ進む足取りには、迷いがない。

 

 ルミナは両手を重ねた。

 

 扉が開く。

 

『好スタート! ワンダラストが前へ出る!』

 

 隣からも、外からも、先頭を取りに来る。

 

 先輩は引かなかった。

 

 短い区間で、肩が何度も並んだ。ワンダが少し前へ出て、また相手が近づく。こちらで見ているだけなのに、ルミナの脚まで力んだ。

 

 最初のコーナーへ入るところで、先輩が抜け出した。

 

『ワンダラスト、先頭を取り切りました!』

 

 息を吐く。

 

 けれど、後ろは離れていなかった。

 

 秋の東京とは違う。大きな空白を作る前に、すぐ後ろに相手がいる。砂を受けても、追う足が鈍らない。

 

 ルミナは先頭から目を離せなかった。

 

 先輩の腕の振りは変わらない。後ろの気配を受けながら、それでも自分の速さで前へ進む。

 

 中盤を過ぎる。

 

 集団の外で、1人が上がってきた。内側にいた子も、その動きに合わせて位置を変える。

 

 ルミナには分かった。

 

 みんな、先輩に届く場所を探している。

 

 直線で前が開く位置。先頭が苦しくなったときに、すぐ踏み込める距離。

 

 何度も自分が考えたことだった。

 

『先頭はワンダラスト! 各国の強豪を引き連れて、最後の直線へ!』

 

 先輩が直線へ出た。

 

 後ろも広がる。

 

 外の子の脚が、鋭く伸びた。

 

 この速さなら届く。

 

 そう判断した自分に、胸が冷えた。

 

「先輩」

 

 小さく呼んだ。

 

 ワンダはまだ前にいた。腕を振り、砂を蹴り、前へ進む。

 

 差が縮まる。

 

 ルミナは柵を握った。

 

 あと少し先まで行ってほしい。そこを越えれば、もう相手には時間がない。その地点まで、今の速さを保ってほしい。

 

「先輩!」

 

 声が出た。

 

 大きな画面に、追ってくる子の顔が映った。自分と同じように、先頭へ届くと信じて走っている顔だった。

 

 あの子が、先輩の横へ並ぶ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が強く拒んだ。

 

 嫌だ。

 

 あの背中を捕まえるのは、私だ。

 

 海沿いで置いていかれて、何度も映像を見て、ようやくあの肩に並べた。歯を食いしばって前へ進む先輩の横顔を、今も覚えている。

 

 あそこへ追いついていいのは、自分だけであってほしかった。

 

 ルミナは柵を握りしめた。

 

 今日は走路へ出られない。先輩の隣を、自分の脚で取りに行くこともできない。

 

 だから、そのまま先へ行って。

 

 誰にも捕まらないところまで。

 

「逃げ切って!」

 

 喉が痛くなるほど声を張った。

 

『ワンダラスト粘る! 外から迫る! 先頭はまだワンダラスト!』

 

 先輩の脚は止まらなかった。

 

 差が減る。その減り方が、最後に少し緩んだ。

 

 ワンダが、胸を前へ出す。

 

『ワンダラスト! 逃げ切った! 世界の強豪を振り切りました!』

 

 ルミナは、しばらく柵を離せなかった。

 

 ゴールを見て、掲示板を見て、もう一度先輩を見る。

 

 勝った。

 

 先輩が、いちばん前にいる。

 

「……勝った」

 

 隣の観客に声をかけられて、ようやく頷いた。

 

 自分が勝ったときのように、胸の中がいっぱいだった。笑おうとすると、また先輩の名前を呼びたくなる。

 

 ワンダが遠くで腕を上げた。

 

 ルミナは両手を高く上げ、何度も振った。

 

  *

 

「ルミナ!」

 

 関係者の集まる場所で待っていると、ライブを終えた先輩の方が先に見つけた。

 

 こちらへ一直線に来る。

 

「見た!? 最後まで行った!」

「見ました。先輩、おめでとうございます!」

 

 言い終える前に、腕が回ってきた。

 

 ルミナは一歩下がって受け止め、その背中を抱いた。先輩の身体が、腕の中で弾む。

 

「勝ったよ!」

「はい!」

「怖かったー! 後ろ、ずっといるんだもん!」

「すごく、追ってきていました」

「でしょう!」

 

 ワンダは笑いながら、もう一度強く抱きついてきた。

 

 顔が肩へ埋まる。

 

 秋のときと同じ場所だった。けれど今日は、先輩の息まで笑っている。

 

 ルミナは腕に力を込めた。

 

「先輩、格好よかったです」

「……本当?」

「はい。私、ずっと叫んでいました」

 

 先輩が顔を上げた。

 

「聞きたかった!」

「もう、声が」

「あ、ほんとだ。ちょっとかすれてる!」

 

 笑われて、ルミナも笑った。

 

 近くで声がかかる。ワンダを待っている人がいた。先輩はそちらへ手を上げてから、こちらへ向き直った。

 

「あとで、ちゃんと話してね! どこで何て叫んだか!」

「はい」

「全部聞く!」

 

 腕が離れる。

 

 ルミナは先輩の背中を見送った。

 

 そこへ次々と人が集まってくる。知らない言葉で祝福され、肩を叩かれ、先輩は何度も笑って頷いていた。

 

 自分が秋に追いついた背中が、また大きく見えた。

 

  *

 

 翌日、町へ出ると、ワンダに気づいた人が声をかけてきた。

 

 写真を頼まれ、先輩が隣へ立つ。ルミナは預かった携帯電話で2人を撮った。

 

 お礼を言って去っていく相手へ、ワンダが手を振る。

 

「びっくりした! 覚えてくれてるんだね!」

 

 ルミナは頷いた。

 

 遠い国でも、先輩を見ていた人がいる。

 

 その隣を歩いていると、自分まで少し背が伸びたような気がした。

 

「先輩」

「ん?」

 

 角の向こうで賑わっている通りへ、先輩はもう目を向けていた。

 

 ルミナは、その腕へ触れた。

 

「私も、海外で走りたいです」

 

 ワンダが振り返った。

 

「春の遠征、トレーナーさんと話しています。今日、ちゃんと行きたいと伝えます」

 

 先輩は目を丸くした。

 

 それから、大きく笑った。

 

「行こう!」

「今度は、走りに行きます」

「分かってる! 今度は私が見に行くんだよ!」

 

 腕をつかまれ、引き寄せられる。

 

「ルミナが勝ったら、私も声、かれるまで叫ぶ!」

 

 ルミナは頷いた。

 

 賑やかな通りへ、2人で歩き出す。今度は先輩が指さすより早く、ルミナが見つけた看板を教えた。

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