最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
ルミナが先頭へ出た。
ワンダは、立ち上がりかけていた身体を止めた。
春の海外遠征。広い芝のコースで、黒いポニーテールがいちばん前に揺れている。
『エクアルミナ、先頭に立ちました! 自らレースを引っ張ります!』
「……行くんだ」
口からこぼれた声は、周りの歓声に紛れた。
朝、顔を合わせたとき、ルミナはいつもどおり静かだった。
こちらが手を振れば微笑み、応援に来てくれたことへお礼を言った。どこから走るつもりか尋ねると、少し考えて答えた。
「出てみてから決めます。前が空いていたら、行くかもしれません」
「おお!」
「でも、先輩みたいには飛ばしません」
「そこは違うんだ!」
「最後まで走れる速さで行きたいんです。練習でも、先頭で運んでから最後に上げてみました」
「ちゃんと脚、残った?」
「はい。途中で後ろを離そうとしなければ。でも、先頭を取るまでに脚を使いすぎるなら、いつもの位置で走ります」
ワンダが笑うと、ルミナも笑った。
その言葉どおり、先頭を取ってからの脚は穏やかだった。
誰かが強く競りかけてくる気配はない。ルミナは走路の内側へ収まり、一定の調子で進んでいく。
肩も、腰も、ぶれない。
初めて海で見た頃は、速くなろうとすると腕ばかりが先へ行っていた。今は身体全体が、ひとつながりに前へ運ばれている。
長い脚が、芝を捉える。
ワンダは柵へ近づいた。
自分なら、ここから後ろを離したくなる。
でも、ルミナは離しにいかなかった。相手を引きつけたまま、落ち着いて走っている。
後ろから2人が位置を上げた。
そろそろ動かされる。そう思ったところでも、ルミナは大きく姿勢を変えなかった。
先頭で風を受け、周りに合わせて速さを乱すこともなく、コーナーへ入る。
「いいよ、そのまま!」
ワンダは声を上げた。
聞こえなくても構わなかった。黙って見ているのが、もう難しかった。
*
直線に向いたとき、後ろとの差はまだ小さかった。
誰かが来る。
ワンダは後続の足元を見た。
外へ出た子が、腕を強く振っている。その隣も加速を始めた。ここまでついてきた相手は、どの子も先頭を目指している。
ルミナが、脚を伸ばした。
『エクアルミナ、先頭からさらに加速! ここまで引っ張って、まだこの末脚がある!』
差が開いた。
後ろも速くなっているのに、先頭がさらに遠くなる。
ワンダは息を吸った。
「ルミナ、行けーっ!」
黒髪が揺れる。
ルミナは前を向いていた。誰もいない先へ、まっすぐ走っていく。
ワンダは、その横顔を大きな画面でも見た。
あの子は今、何を見ているのだろう。
自分の背中を追ってきたときと同じように、静かな顔で前を求めている。そこには、追いつく相手がいない。
それでも、速い。
『後続も追っていますが、差が開く! エクアルミナ、直線でさらに伸びる! 独走です!』
ワンダは柵から手を離し、両手を口元に添えた。
「そのまま! 最後まで!」
『エクアルミナ、先頭でゴールイン! 後続を寄せつけない! 海外の大舞台で圧巻の完勝です!』
ルミナのあとに、間を置いてほかの子たちがゴールを越えた。
ワンダは何度も手を叩いた。隣の観客と顔を見合わせ、また拍手した。
胸が熱かった。
ルミナが勝った。自分で先頭へ出て、最後は誰より速く走った。
秋に後ろから来たあの脚を、あんな場所から使えるようになっている。
次に自分が先へ行ったら、どのくらいの距離を作ればいいのだろう。
勝った嬉しさのすぐ隣に、その問いが浮かんだ。
ワンダは画面を見上げた。
ルミナが笑っている。
思わず、こちらまで大きく笑ってしまった。
「強くなったなあ!」
声にしても、まだ足りない気がした。
*
会うまでには、思っていたより時間がかかった。
ルミナはライブを終えたあとも取材を受け、写真を撮られ、何度も名前を呼ばれていた。
ワンダは少し離れたところで待った。先月は自分もあちら側にいたのだから、時間がかかることは分かっていた。
けれど、目の前を通ったルミナに声をかけ損ねると、つい半歩追いかけてしまう。
今の話が終わったら。
そう思っているうちに、また別の人が近づいた。
ワンダは鞄の紐を持ち直した。
今日は、先に行って待っている場所がなかった。
「先輩」
呼ばれて顔を上げると、ルミナがこちらを見ていた。
隣にいたトレーナーへ何か伝えてから、人の間を抜けてくる。
「お待たせしました」
「おめでとう! すごかった!」
「ありがとうございます」
近くまで来たルミナの頬は、まだ少し赤かった。
ワンダは肩へ両手を置いた。
「すごいよ! 最初から最後まで、全部自分で作って勝っちゃった!」
「はい」
「最後もまだ速くなるんだもん! もう、見てて立ちっぱなし!」
ルミナが笑った。
周りで見せていた笑顔より、目元が柔らかくなった気がした。
「先輩、どこで気づきましたか」
「何に?」
「まだ、脚が残っているって」
「直線に入る少し前。後ろが動いても、ルミナの肩、上がらなかったから」
「肩に力を入れないようにしていました」
返事が少し早くなった。
「前に出たときも、落ち着いていました。風は思ったより受けましたけど、無理に離さなければ大丈夫だと思って」
「うん。見えたよ」
「最後は、去年の秋より長く伸びられました」
「伸びてた! 追う方は大変だよ、あれ!」
ルミナが嬉しそうに息を吐いた。
ワンダは顔を覗き込んだ。
「取材でも、今みたいに話してきた?」
「少し、話しました」
「じゃあ、もう1回説明してるんだ」
「先輩にも、聞いてほしかったんです」
ワンダの手が止まった。
ルミナは、まっすぐこちらを見ていた。
「先頭の景色、見えました」
「うん」
「気持ちよかったです」
少し間を置いて、付け足す。
「先輩が、前に行きたくなるのが分かりました」
ワンダは肩をつかんだまま笑った。
「でしょう!」
ルミナが頷く。
その額へ、自分の額を軽く寄せた。近くでルミナの息が止まり、それから小さく笑う気配がした。
「でも、次は私が先に行くよ」
「はい」
「今日の見たら、ますます負けたくなくなった!」
「私も、また勝ちたいです」
ワンダが離れると、ルミナも顔を上げた。
追いついてきた子は、もう遠慮せずにそう言う。
それが、嬉しかった。
*
その晩、ホテルのラウンジで、ルミナは携帯電話を差し出した。
海辺の町の写真だった。
白い家が坂道に並び、その下へ細い道が続いている。岬の先まで歩けるらしかった。
「この町を知っていますか」
「初めて見た! すごい、海のすぐそばに道がある!」
「シーズンが終わったら、一緒に行きたいです」
ワンダは画面へ身を寄せた。
ルミナの指が地図を動かす。
「この町で泊まって、次の日に向こうへ行けます。電車の本数は少ないですけど、時間を合わせれば大丈夫です」
「調べたんだ」
「はい。先輩が好きそうだと思って」
ワンダは地図から顔を上げた。
「私、連れていってもらっていいの?」
「そのつもりです」
「やった!」
声が少し響いたので、ルミナが笑った。
ワンダも声を落とす。それでも、抑えた声に嬉しさが残った。
「じゃあ、その時期、空けよう。トレーナーにも相談する!」
「はい」
ワンダも携帯電話を出して予定を確かめていると、ルミナが隣へ寄ってきた。
去年の夏、アルバムを見ながら肩を借りてきたときと同じ近さだった。
ワンダは、自分の携帯電話を少し低く持った。
「ルミナ」
「はい」
「今日は、もうちょっとここにいよう」
ルミナが顔を向ける。
「先輩も、疲れましたか」
「うん。いっぱい叫んだし!」
そう言ってから、少しだけ正直に付け足した。
「あと、ちゃんと顔見て話したかった。さっき、ずっと遠かったから」
ルミナは携帯電話を伏せた。
こちらの手へ、自分の手を重ねる。
「私もです」
しばらく、そのまま座っていた。
やがてワンダが、次の町の写真も見せてと頼んだ。ルミナは手を重ねたまま、片手で画面を開いた。