最速の私と、大逃げの先輩   作:Lagavulin

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もう一度、隣へ

「レースのあと、ここで食べよう!」

 

 ワンダが見せた店の写真を、ルミナは覗き込んだ。

 

 晩秋の東京。芝2400mのジャパンカップを翌日に控えて、2人は短い散歩をしていた。

 

「先輩、もう予約しましたか」

「まだ。ルミナに聞いてからと思って」

「では、2人でお願いします」

「早いね!」

「先輩と行きたいですから」

 

 ワンダはその場で予約を入れた。

 

 画面で2人分の予約を確認し、携帯電話をしまう。

 

 ルミナは隣で、出走予定の掲示を見ていた。

 

 春の海外戦のあとも勝利を重ね、その名前は大きく扱われるようになった。誰が勝つかという話には、真っ先にルミナが出てくる。

 

 そのたびに、ワンダは頷いた。

 

 強い。知っている。

 

 何度も映像を見た。先頭に立っても、誰かを追っても、最後まで脚が伸びる。以前のように、後ろから来るとだけ考えてはいられない。

 

 だからトレーナーと話した。

 

 どうすれば、自分が前に残れるか。

 

 答えが簡単でないことは、話す前から分かっていた。

 

「先輩、明日は」

「行くよ!」

 

 先に答えると、ルミナが顔を向けた。

 

「まだ、聞いていません」

「聞きたそうな顔してた!」

 

 ルミナが小さく笑った。

 

 ワンダはその顔を見てから、走路の方を向いた。

 

「行く。遠くまで。ルミナが来る前に、ゴールしたい」

「はい」

「来るでしょ?」

「行きます」

 

 返事を聞いて、ワンダは笑った。

 

 ルミナが遠慮しなくなってから、こういう話がますます楽しくなった。

 

「じゃあ、明日!」

「はい。レースのあとも」

 

 そうだった、とワンダは携帯電話をしまったポケットを軽く叩いた。

 

「いっぱいお腹すかせとこう!」

 

  *

 

 ゲートが開いた。

 

 ワンダは前へ出た。

 

 外から来る足音を聞きながら、先頭へ向けて脚を運ぶ。譲らず、急ぎすぎず、コーナーへ入るまでに位置を決める。

 

 前が開いた。

 

 息を吸う。

 

 風が正面から当たった。

 

『先頭はワンダラスト! 今日も自分の形に持ち込みます!』

 

 ここが好きだった。

 

 誰かの肩の後ろを選ばずに、自分で走る道が決まる。地面を蹴った分だけ前へ行く。次の角も、その先の直線も、全部自分が最初に通る。

 

 速さを上げる。

 

 後ろの音が遠くなった。

 

 無理に振り返らなくても、離れているのは分かった。いつもなら、それだけで少し嬉しくなる。

 

 今日は、まだだった。

 

 ルミナはどこにいるだろう。

 

 答えを探す代わりに、前の標識を見た。

 

 決めてきた走りをする。勝つためにここへ来た。

 

 向こう正面で、風が少し横から吹いた。

 

 ワンダは姿勢を整えた。長く脚を使う。残りの距離を身体の中で数え、強く蹴りすぎないように運ぶ。

 

 それでも、前へ行きたかった。

 

 もう少し遠くへ。

 

 ルミナが自分を見つけても、届かないところまで。

 

 大きな画面が視界の端に入った。

 

 先頭の自分。その後ろの空白。

 

 集団の前寄りに、黒い髪が見えた。

 

 思っていたより前にいる。

 

 ワンダは画面から目を戻した。

 

 分かっていたことだった。今のルミナは、あの位置でも最後まで脚を残せる。

 

 こちらにも、自分の走りがある。

 

 3コーナーへ入る。

 

 脚の重さが変わってきた。呼吸を整え、腕を引く。

 

 まだ走れる。

 

 残っている力を、ここから使う。

 

『ワンダラスト、先頭で直線へ! 後続は差を詰めてきています!』

 

 長い直線が開けた。

 

 ワンダは前を見た。

 

 ここを越える。坂を上り、その先まで。

 

 後ろの歓声が大きくなった。

 

 足音が聞こえた。

 

 早い。

 

 去年より、ずっと早い場所だった。

 

『エクアルミナが来た! 好位から一気に加速! この末脚で、先頭との差を詰めていく!』

 

 ワンダは腕を振った。

 

 まだ。

 

 まだ先へ行ける。

 

 隣に気配が来た。

 

 黒い髪が見えた。ルミナの身体は、大きく揺れていない。脚が伸び、次の一歩がすぐに地面を捉える。

 

 ワンダも脚を伸ばした。

 

 肩を並べていられたのは、短い間だった。

 

 ルミナが前へ出る。

 

 ワンダは、その背中を追った。

 

 海沿いを走ったとき、ルミナはこんなものを見ていたのだろうか。近くにいた人が、自分も速く走っているのに離れていく。

 

 手を伸ばしても届かない。

 

 だから、脚を動かした。

 

 前へ。

 

 もう一度、横へ。

 

 けれど、差は開いた。

 

『エクアルミナ、先頭! 捉えてからも伸びる! 最後まで末脚が鈍らない!』

 

 ワンダは息を吐いた。

 

 今のルミナに、ここから追いつく力は残っていなかった。

 

 左から足音が来た。

 

 次の子が迫っている。

 

 ワンダは進路を保ち、腕を振り直した。前の背中だけを見ていた視界に、隣の勝負服が入る。

 

 その子にも、簡単に譲りたくなかった。

 

 ゴールまで、まだ走る場所がある。

 

 脚を動かす。

 

 1つでも前へ。

 

 最後の数歩まで、ワンダは顔を上げていた。

 

  *

 

 掲示板のいちばん上には、ルミナの名前があった。

 

 自分の順位を確かめると、ワンダは一度だけ目を閉じた。

 

 勝てなかった。

 

 2着にも残れなかった。

 

 トレーナーのところへ戻り、息が落ち着いてから、途中で見たことを話した。想定より早くルミナに来られたこと。そのあとも追おうとして、残りの脚を使ったこと。

 

 悔しさは、話しても消えなかった。

 

 ただ、何が起きたのかは、ちゃんと口にできた。

 

 着替えを終えて画面を見ると、ライブを終えたルミナが取材を受けていた。

 

 嬉しそうだった。

 

 最後まで走り切れたことを話し、支えてくれた人たちへお礼を言っている。

 

 ワンダは椅子へ座り、最後まで見た。

 

 こちらへ回ってくるまで待とうと思った。

 

 けれど、すぐに立ち上がった。

 

 顔を見て話したかった。

 

  *

 

「ルミナ!」

 

 廊下の先で呼ぶと、ルミナが振り返った。

 

 近づいてくる足取りは、レース中よりずっとゆっくりだった。

 

「先輩」

「おめでとう!」

「ありがとうございます」

 

 ワンダは目の前で立ち止まった。

 

 言いたいことが多かった。勝ったこと、速かったこと、悔しかったこと。

 

 最初に出てきたのは、いちばん単純な言葉だった。

 

「今日は、全然だめだった!」

「……はい」

「私、あそこからもう1回伸ばしたんだよ。それでもルミナ、行っちゃうんだもん!」

 

 ルミナは頷いた。

 

「並んだとき、分かりました。先輩も、まだ上げていました」

「上げた!」

「だから、私も最後まで緩めませんでした」

 

 ワンダは息を吐いた。

 

 ルミナは、こちらの走りを見ていた。

 

 あの速さで通り過ぎながら、何をしようとしたか分かっていた。

 

「どこから来るって決めた?」

「向こう正面で、先輩との差を確かめていました。去年より前にいましたから、直線に入る前から少しずつ動きました」

「ああ、だから、あんなに早く」

 

 2人でレースの話をした。

 

 ワンダは、ルミナが息を入れていた場所を聞いた。ルミナは、先輩が途中で一度速さを抑えたところに気づいていた。

 

 話すほど、今日の差がはっきりした。

 

 それでも、聞くのをやめたくはならなかった。

 

「強くなったね、ルミナ」

 

 口にすると、ルミナは少しだけ目を伏せた。

 

「先輩に、追いつきたかったんです」

「もう、追い越してる!」

「はい」

 

 ルミナが顔を上げる。

 

「今日は、先輩より先に行けて、嬉しいです」

 

 ワンダは頷いた。

 

 それは分かった。あんなに前を向いて、あんなに速く走ったのだから。

 

 並びかけられたときの顔を思い出す。ルミナは、まだ先を見ていた。自分が必死に脚を伸ばしていた場所から、さらに遠くまで走れる顔だった。

 

「私さ」

 

 ワンダはすぐ後ろの壁に、軽く肩を預けた。

 

「もう、レースでは一緒に並べないかもしれないね」

 

 ルミナが動かなくなった。

 

 言ってから、笑うのが少し遅れた。

 

「今日、追いかけたんだよ。抜かれてからも。もう1回、横まで行こうと思って」

「分かっています」

「でも、全然届かなかった。来年、私がもっと速くなっても、その頃にはルミナ、もっと先にいそう」

 

 今までは、追いつかれない距離を考えていた。

 

 今日は違った。

 

 あの脚で、自分の前へ行かれてしまったら。どこから走れば、もう一度同じ場所に立てるのか。

 

「レースではもう敵わないけど、旅行なら一緒に――」

「嫌です」

 

 ワンダは口を閉じた。

 

「ルミナ?」

「レースでも、先輩がいいです」

 

 ルミナの声は小さかった。

 

 けれど、廊下に誰がいるかを確かめる余裕もなさそうだった。こちらへ一歩近づき、下ろしていた手を取ってくる。

 

 指が強く握られた。

 

「追いついたら終わりだなんて、思っていません」

 

 ルミナが息を吸った。

 

「私が速くなったせいで、もう並べないなんて、言わないでください」

 

 ワンダは肩を壁から離した。

 

 目の前の顔には、さっきまであった勝者の穏やかさがなかった。言いたいことに口が追いつかないように、唇が何度か動いた。

 

「私、先輩が海外で勝ったとき」

「うん」

「後ろから来た子に、追いつかないでって思いました。先輩を捕まえるのは私なのにって」

 

 声が、そこで一度かすれた。

 

「今日は、先輩に追いついてほしかったです」

 

 ワンダは握られた手を見た。

 

 ルミナは、その手を自分の胸元へ引き寄せた。

 

「抜いたあとも、来てほしかった。隣に先輩がいて、もう少し速く走らないと負けるって、そう思いたかった」

 

 指の向こうで、呼吸に合わせて胸が上下している。

 

「勝ちたいです。先輩にも、絶対に勝ちたい。でも、今日みたいに離れたら、それでよかったって、全部は思えなくて」

 

 ワンダは返事を探した。

 

 勝ったのだから喜べばいい。そう言ってしまうには、目の前の子が必死すぎた。

 

「先輩は、私がどこまで行っても、追いかけてきてください」

 

 顔が上がった。

 

「私ばっかり、先輩と走りたがるのは嫌です」

 

 ワンダの喉が詰まった。

 

 今日も一緒に走りたかった。勝ちたかった。全力で追って、それでも離された。

 

 そのことを分かっていて、ルミナは次を欲しがっている。

 

「……すごいこと、言うね」

「はい」

「私、今日だって、全部使ったんだよ」

「はい。見ていました」

 

 ルミナの目が潤んだ。

 

「それでも、嫌なんです」

 

 握る力は緩まなかった。

 

 ワンダは空いている手を伸ばし、ルミナの頬へ触れた。顔を伏せようとしたところを、軽く支える。

 

「負けて悔しいの、私の方なんだけどなあ」

 

 ルミナの口元が歪んだ。

 

「すみません」

「うん。結構、無茶を言うね」

 

 頷く顔を見ながら、ワンダは考えた。

 

 あの背中に追いつく。

 

 今日の差を思い出すと、簡単にできるとは言えなかった。ルミナはこれからも速くなる。その隣を求めるなら、自分も今までどおりではいられない。

 

 けれど、直線で一瞬だけ肩が並んだとき。

 

 あのまま、もう少し走りたかった。

 

 もう少しどころではなかった。ゴールまで競り合って、最後にはこちらが前へ出たかった。

 

「すぐには、追いつけないかもしれない」

 

 ワンダが言うと、ルミナが息を止めた。

 

「次も離されるかも。その次も、分かんない」

「はい」

「でも、頑張る。あの場所から、もう1回ルミナの横へ行けるように」

 

 ルミナの指が動いた。

 

 ワンダはその手を、今度はこちらから握り直した。

 

「私も、ルミナと走りたい。今日、追いつけなくて、すっごく悔しかった!」

 

 言うと、悔しさがはっきり戻ってきた。

 

 ほかの子との順位を争っている間も、ずっと遠くの黒髪を見ていた。あそこまで行けたらと、最後まで思っていた。

 

「だから、次はもっと困らせる。今日みたいに、すっと前へ行かせない!」

 

 ルミナが唇を噛んだ。

 

「……はい」

「そのとき、ちゃんと本気で走ってね。横にいてあげようとか、考えないでよ」

「できません。先輩には、勝ちたいです」

「うん! それでいい!」

 

 ようやく笑うと、ルミナが額を肩へ押しつけてきた。

 

 つないだ手を間に挟んだまま、身体が寄ってくる。

 

 ワンダは背中へ腕を回した。

 

「私、そんなに遠くへ行かせちゃったんだね」

「……先輩が、いつも先へ行くから」

「今度は追いつく方かあ。大変そう!」

 

 返事の代わりに、肩へもう少し重さがかかった。

 

 しばらく、そのままでいた。

 

 人の足音が近づいてきたところで、ルミナが顔を上げた。目元を拭き、少し離れる。

 

 手だけは、まだ離さなかった。

 

「先輩」

「うん」

「ご飯は、行きたいです」

 

 ワンダは笑ってしまった。

 

「行こう! 私、負けて、いっぱい話して、お腹ぺこぺこ!」

 

 鞄を肩へかける。ルミナも自分の鞄を取り、隣へ来た。

 

 歩き始めてから、握った手が少し揺れた。

 

「ルミナ」

「はい」

「次の作戦、全部は教えないよ」

 

 こちらを見る顔に、初めて小さな笑みが戻った。

 

「見つけます」

「うん。よく見てて!」

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