最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
「先輩、ここで降ります」
ルミナに呼ばれ、ワンダは窓から顔を離した。
「もう? 今の海、すごくきれいだった!」
「宿からも見えますよ」
「そうだった! 楽しみ!」
シーズンを終え、春に約束した町へ来た。
宿も、海沿いを歩く道も、ルミナが調べてくれた。ワンダが相談を受けたのは、乗り換えに必要な時間くらいだった。
改札を出ると、ルミナが地図を閉じた。
「こちらです」
黒いポニーテールが、坂道を上っていく。
ワンダはその後ろを歩いた。
次の角でルミナが振り返った。目が合うと微笑んで、それからまた前を向く。
レースのあと、あれほど強く手を握っていた子が、今日は案内するのを楽しんでいた。
「ルミナ! あのお店、あとで寄りたい!」
「今でも大丈夫です」
「やった!」
並んで窓を覗き込むと、菓子の名前が書かれた札をルミナが読んだ。2つ選んで、半分ずつ分けることにした。
店を出てからも、ルミナはなかなか先へ行かなかった。
ワンダが包みを開くのを待ち、ひと口食べるところを見ている。
「おいしい!」
そう言うと、待っていた顔がほころんだ。
ワンダは自分の包みを差し出した。
「ほら! ルミナも!」
*
昼の海を見て、港の階段を上り、夕方に宿へ戻った。
窓の下で、波が白く砕けている。
ワンダが椅子へ座ると、ルミナが隣の椅子を少し寄せた。携帯電話を持っている。
「明日、移動する予定だったんですけど」
「うん」
「ここで、もう1泊しませんか」
ワンダは顔を上げた。
「この町で?」
「はい。もう少し先輩と、ゆっくりしたいです」
ルミナの耳が、こちらを向いていた。
行きたい場所を調べ、順番まで決めてきた子が、その予定を自分で開き直している。
「いいね! 朝の海も、まだ見てない!」
「では、空いているか聞いてきます」
「一緒に行こう!」
手を出すと、すぐに取ってきた。
部屋はそのまま使えた。列車も変更できた。帰ってきてから、ルミナは携帯電話を机へ伏せた。
ワンダはその肩へ寄りかかった。
「いっぱい歩いたねえ」
「先輩、階段を見つけると下りていくんですから」
「下からも見たくなるんだもん!」
ルミナが笑った。
背中へ腕が回る。ワンダは少し身体を預け、窓の外を見た。
「先輩」
「ん?」
「ジャパンカップのあと、無茶を言いました」
顔を上げると、ルミナは窓を見ていた。
「言ったね!」
「取り消すつもりは、ないんですけど」
「ないんだ!」
思わず笑うと、ルミナも少し笑った。
「でも、私が言ったから、先輩が苦しくなったら嫌です」
ワンダは肩から頭を離した。
「苦しくなるよ。速く走るんだもん」
「そういう意味では」
「うん。分かる」
膝の上の手へ、自分の手を重ねた。
「今日ね、トレーナーから連絡が来た。もう一度ジャパンカップを目指してみようって」
ルミナがこちらを向いた。
「ジャパンカップ、ですか」
「うん! まだ先の話だけど、あそこでルミナと走りたいって、相談してたんだ」
ルミナに置いていかれた、あの長い直線。
あのときのワンダは、抜かれてからも追おうとした。けれど、腕を振るほどルミナの背中は遠くなった。
今のルミナを相手にするなら、あそこで違う走りが必要だった。
「私、前にいる間も、ルミナのこと考えてた。まだ来ないでって」
「はい」
「次はね、来たところで、もう1回勝負したい!」
言うと、ルミナがじっと顔を見た。
「そんな脚が使えたら、ほかにも行きたい場所が増えるよ。最後に誰かが来るの、今より楽しみになる!」
胸の奥が弾んだ。
まだ、できていない。
けれど、できたら見たいレース場がいくつも浮かぶ。それぞれの直線を、今までとは違う速さで駆けていく自分も。
「だから、ルミナも速くなってて。追いついたら、私が抜くから!」
ルミナは返事をする前に、こちらの手を両手で包んだ。
「私も、トレーナーさんに話します」
「うん!」
「同じところへ、行きたいです」
ワンダは頷き、もう一度肩へ頭を預けた。
今度は、ルミナの方から身体を寄せてきた。
*
冬の練習で、ワンダは最後に加速する走りを繰り返し試した。
最初の案は単純だった。
前半を少し遅くする。その分を、最後に残す。
確かに、直線で速度は上がった。後ろから来た練習相手に並ばれても、腕を振ればもう一度前へ出られた。
「できた!」
そう言って戻った日の記録を、トレーナーが見せた。
最後は速い。
けれど、途中までに失った時間の方が大きかった。
「……これだと、ルミナ、もっと早く来ちゃうね」
ワンダは息を整えながら、数字を見た。
少し前を走っているだけでは、後ろも余裕を持って追ってくる。最後に残した力だけを比べたら、ルミナはもっと速い。
大きく先へ出たうえで、2400mの最後にも、もうひと伸びできる脚が欲しかった。
トレーナーと映像を見直すと、コーナーを出るたびに自分の腕が強く動いていた。後ろが近づいていなくても、そこで速さを上げている。
先へ行きたい気持ちのままに、何度も脚を使っていた。
「曲がり終わるたびに、また飛び出そうとしてるね」
画面を止める。
あの瞬間は気持ちがよかった。前が開くと、遠くの景色まで一気に近づく。
その全部を続けたまま、最後だけ変えることはできなかった。
次の練習では、コーナーを抜けても腕の振りを変えずに走った。
前は空いている。
もっと行ける。
身体が浮きかけるたび、今の足音を聞いた。間隔を乱さず、遠くへ運ぶ。
加速を始める目印を越えたところで、思い切り腕を引いた。
脚が前へ出た。
けれど、数歩で呼吸が詰まった。肩に力が入り、思っていたほど先へ進まない。
ゴールを越えて、ワンダは膝へ手を置いた。
「難しい!」
声にすると、少し笑えた。
あの子は、こんなところから涼しい顔で速くなる。
今すぐ会って、すごいと言いたくなった。言いに行ったらきっと喜ぶ。それから、どこがうまくいかないのか、一緒に考え始めるだろう。
ワンダは顔を上げた。
今度会うときには、こちらにも見せたいものが欲しかった。
*
春のレースは、3着だった。
先頭で直線へ入り、脚に余裕を残して坂へ向かった。
背後に足音が来たところで加速した。いったんは、近づいていた相手を引き離した。
そこまではよかった。
最後の100mで脚が重くなり、2人にかわされた。
ライブを終えて控室へ戻り、ワンダは何度も同じ場所を再生した。
伸びた。
伸びたのに、最後までは持たなかった。
携帯電話に、ルミナからの連絡が来ていた。
短い文のあとに、電話をしてもいいかと書かれている。ワンダからかけると、すぐにつながった。
「見てた?」
「はい。直線で、差が開きました」
「でも、最後は捕まっちゃった!」
「はい」
その返事が、少し嬉しかった。
惜しかった、とだけ言われるより、同じ最後を見ていたと分かる。
「早かったかなあ。上げるの」
「あそこまで待てたことには、驚きました」
「そう?」
「前なら、コーナーを出たところで、もっと離していたと思います」
ワンダは再生を止めた。
電話の向こうで、ルミナが一度息を吸った。
「私があの後ろにいたら、すぐには追いつけなかったです」
ワンダは画面を見た。
先頭の自分と、追ってくる2人。
その場所に黒髪の子がいるところを想像する。
「最後は?」
少し間があった。
「捕まえます」
ワンダは笑った。
「だよね! じゃあ、次はもっと先まで!」
通話を終える前に、ルミナが小さく言った。
「先輩、今日の走り、好きです」
「勝ったところも見せたいな!」
「見たいです。……でも、私が出るときは、私が勝ちます」
「分かってる!」
電話を切ってから、ワンダはトレーナーへ声をかけた。
最後の加速を、もう少し長く続けたい。
そのために変える場所は、まだ残っていた。
*
夏、ルミナがまた勝った。
遠征先の画面でそのレースを見たワンダは、最後の直線で思わず立ち上がった。
速い。
前にいた子をかわしてからも、黒髪がどんどん遠くなる。
秋に思い描いた相手は、もうその場所にいなかった。
ワンダは拍手し、画面が切り替わってから椅子へ座った。
鞄から手帳を出す。自分の次のレースと、その先に書いた東京の予定を見た。
レース後のライブを見終え、しばらくしてから携帯電話が震えた。
「先輩、見ていましたか」
つないだ電話から、少し弾んだ声が聞こえる。
「見た! また速くなったね!」
「はい」
嬉しそうな返事のあと、静かになった。
ワンダは、その沈黙が気になった。
「ルミナ?」
「……先輩に、見てほしかったんです」
明るく話したかったのだろう。
けれど、その声にはほかのものも混じっていた。強くなるたび、また並べなくなったと言われるのを、どこかで恐れている。
ワンダは手帳を閉じた。
「見てるよ! 最後、前より腕が大きく振れてた。あれでまだ伸びるんだね!」
「はい。最後まで、身体が動きました」
「うん。私も、そこまで走りたい」
電話の向こうが静かになった。
「今日ので、また目標が速くなっちゃった! 大変だ!」
「……すみません」
「謝るところじゃない! あそこまで行くって、私が決めたんだから!」
少しして、小さく笑う声がした。
「待ちませんよ」
「うん! 待たなくていい!」
ワンダは窓から外を見た。
遠征先の空は、まだ明るい。向こうには、明日の練習で走るコースがあった。
あの子の勝利を見たあとで走ると、いつも少し前へ出たくなる。
冬に同じ衝動へ任せた日は、最後の脚が残らなかった。
だから今は、その速さを最後まで持っていく。
*
夏の終わりの練習で、初めて、最後の区間でもゴールまで脚を伸ばし続けられた。
先頭へ出るまでに使う脚は変えなかった。
そこからの足取りを揃え、コーナーを抜けても肩を固めずに運んだ。息を吐くたび、余計な力が抜けていく。足音は一定の間隔で続いていた。
後ろにいた練習相手が近づいた。
聞こえている。
今度は、その足音に急かされなかった。
直線の目印が過ぎる。
腕を引く。
脚が伸びた。
その次も、もう一歩先へ出た。
ワンダは前を見た。ゴールが近づく。まだ、地面を押せる。追いつこうとしていた足音が、再び遠くなる。
線を越え、十分に減速してから振り返った。
トレーナーが記録を確かめていた。
「最後、落ちてない?」
頷きが返ってきた。
ワンダは両手を握った。
「よしっ!」
息が弾む。脚は疲れている。それでも、最後に上げたときの感覚が残っていた。
もう一度走りたかった。
けれど、今日はその感覚を持ち帰ることにした。次の練習でもできるか。相手が本気で来たときにも、同じように使えるか。
試したいことは、まだあった。
ワンダは携帯電話を出した。
ルミナへ、途中まで文を打つ。
最後の区間で、どれだけ速くなったか。
そこまで書いて、数字を消した。
代わりに、短く送った。
『ジャパンカップ、楽しみにしてて!』
返事は、着替えを終えた頃に来た。
『ずっと楽しみにしています』
続けて、もう1つ届く。
『ちゃんと、捕まえに行きます』
ワンダは笑って、画面を閉じた。