最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
ワンダの名前が、同じ出走表にあった。
ルミナは、分かっていたその並びを、もう一度確かめた。
ジャパンカップ。
東京、芝2400m。
去年、先輩の背中が遠ざかっていった舞台に、2人で戻ってきた。
初めて先輩へ追いついた天皇賞からは、2年余り。もう並べないかもしれないと言われた日から、1年が経った。
その間に、先輩は何度も違う国へ行った。帰ってくるたびに土産を渡してきて、こちらの予定が空いていると分かれば、すぐ次の外出へ誘った。
会えないときには電話をした。
レースは、見られるものを全部見た。
最後まで逃げ切った日も、追いつかれた日もあった。そのたびに、直線の先輩を見直した。
少しずつ、捕まえにくくなっていた。
「ルミナ!」
呼ばれて、顔を上げる。
ワンダがトレーナーとの話を終え、こちらへ来るところだった。
「おはようございます」
「おはよう! 今日、いい天気だね!」
「はい」
ワンダは隣へ立ち、同じ出走表を見た。
栗色の髪が揺れる。近くに来た先輩の肩を、ルミナは少し長く見ていた。
「気になる?」
顔を覗き込まれた。
「はい」
「調子、いいよ!」
「……そう見えます」
ワンダが笑う。
「私、今日も先に行くから!」
「はい」
「ルミナは?」
「捕まえに行きます」
先輩の目が細くなった。
いつもなら、そこで楽しそうに手を振る。
今日は一歩近づいて、耳元へ口を寄せてきた。
「捕まえたあとも、気をつけてね」
ルミナは息を止めた。
先輩が離れる。
胸の奥で、鼓動が速くなっていた。
「楽しみにしています」
ようやくそう答えると、ワンダは満足そうに頷いた。
*
ゲートが開いた。
ワンダは、迷わず前へ出た。
ルミナはその背中を確かめながら、集団の前寄りへ位置を取った。内へ寄せる相手の動きを見て、脚を運ぶ場所を決める。
最初のコーナーへ向かう間にも、先輩との差が開いた。
『ワンダラスト、先頭! 後ろを離していきます!』
以前と同じだった。
誰より先に、誰もいない場所へ行く。
ルミナは肩の力を抜いた。
あの背中を追うために、最初から脚を使い切るわけにはいかない。自分が最後まで速く走れる調子を探し、その中で、できるだけ前へ進む。
向こう正面へ入った。
先輩は遠かった。
ゆっくり走っている感覚はない。周りの足音も速い。それでも、いちばん前に見える栗色の髪が近づかない。
走路の向こうの大画面に、ワンダが映った。
コーナーを抜けても、腕の動きが急に大きくならなかった。そのまま、同じリズムで遠くまで進んでいく。
あの速さで、まだ力を使い切っていない。
ルミナは唇を結んだ。
待ちすぎれば、届かなくなる。
前にいる子の外へ、少しずつ進路を取った。
『エクアルミナが位置を上げていきます! 前はまだ遠い! ワンダラスト、大きく離して3コーナーへ!』
腕を引く。
脚が、応えた。
前にいた子の肩が横へ来て、後ろへ下がる。次の相手の背中へ近づく。
ルミナは、さらに先を見た。
先輩。
今日は、どこまで行けますか。
*
直線へ入った。
ワンダはまだ先にいた。
ルミナは前にいた相手をかわし、空いた走路へ脚を伸ばした。
『エクアルミナ、2番手へ! ここから得意の末脚で、ワンダラストを追う!』
差が縮まる。
坂へ向かう先輩の肩が、少しずつ大きくなる。
これまでなら、その縮まり方は途中からもっと速くなった。前が苦しくなり、こちらはまだ加速できる。その違いが、残りの距離を埋めていた。
今日は、違った。
ワンダの腕が動く。
歩幅が伸びた。
詰まっていた差が、ほとんど変わらなくなる。
『ワンダラストも伸びる! 大きく逃げて、ここからもう一段加速する!』
ルミナは、思わず目を見張った。
映像で見ていた。
最後に脚を残せるようになったことも、そこから前へ出られることも。
けれど、自分の脚で追うと、こんなに違う。
こちらも速くなっている。
それなのに、簡単には近づけない。
ルミナは腕を振った。
嬉しいと思うより先に、届かないかもしれないと身体が反応した。
もっと。
ここから、もう少し速く。
坂を上りながら、長い脚で地面を押した。
前との差が、再び縮み始める。
『エクアルミナ、さらに脚を伸ばしてきた! ワンダラストも止まらない! 2人が後続を離していく!』
周りの足音が遠くなった。
先輩の背中だけが近づく。
ここまで来た。
ルミナは最後の隔たりを詰めた。
残りの距離を示す標識が、視界の端を流れる。
栗色の髪が、隣に来た。
ワンダの横顔が見えた。
歯を食いしばり、前を向いている。苦しそうだった。けれど、肩は落ちていなかった。
追いついた。
ルミナが、わずかに前へ出た。
その瞬間、隣の足音が強くなった。
ワンダが腕を引く。
こちらへ並び直した肩が、さらに前へ出ようとする。
『ワンダラスト、差し返す! エクアルミナにかわされかけて、もう一度伸びた!』
ルミナの喉から、息が漏れた。
来た。
先輩が、来た。
少し前へ出た栗色の髪を追い、もう一度脚を伸ばした。
並ぶ。
今度は、離れなかった。
*
200mの標識が後ろへ消えた。
隣で、先輩が走っている。
腕を振るたび、肩の位置が入れ替わった。こちらが前へ出ても、次の一歩でワンダが戻ってくる。
ルミナは口を開けて息を吸った。
もう、余裕はなかった。
隣にいてほしいと願った相手が、そこから前へ出ようとしている。
負けたくない。
その気持ちで、脚が動いた。
『並んだまま、残りわずか! エクアルミナの末脚に、ワンダラストが食らいつく! まだ伸びる!』
歓声が大きくなる。
先輩の顔を、もう一度見たい。
そう思っても、振り向く余裕がなかった。視界の端に揺れる髪と、途切れない足音で、隣にいることだけが分かった。
去年は、ここにいなかった。
自分が前へ行ったあとも追ってくれていたのに、気配はすぐに消えてしまった。
今日は、消えない。
少しでも力を抜けば、その背中を見ることになる。
ルミナは、歯を食いしばった。
先輩の呼吸が聞こえた。
短く、鋭い息だった。
次の一歩で、ワンダの肩が出る。
追う。
地面を押し、前へ身体を運ぶ。
こちらの肩が出る。
すぐに、隣の腕が見える。
どれだけ速く走っても、先輩がそこにいた。
胸が熱くなった。
苦しい。
でも、まだ終わりたくなかった。
『2人とも譲らない! ワンダラストか! エクアルミナか!』
ゴールが近づいた。
残った力を全部使う。
ルミナは腕を引いた。脚が、もう一歩前へ出た。
隣でも、靴が地面を捉えた。
先輩。
声にはならなかった。
白い線が迫る。
2人で、その向こうへ飛び込んだ。
*
減速しても、すぐには顔を上げられなかった。
肺へ空気を入れる。脚を止めずに、ゆっくり走る。
隣で、ワンダも同じように速度を落としていた。
まだ、隣にいる。
ルミナはそちらを見た。
ワンダが顔を向けた。口を開きかけて、言葉より先に息を吐く。
「……どう?」
それだけで、何を聞かれたか分かった。
ルミナは首を振った。
「分かりません」
自分の方が、ほんの少しだけ前だった気がする。
けれど、先輩の最後の一歩も見えていた。どちらが先に線を越えたか、確信は持てなかった。
ワンダが、大きく息を吐いた。
それから、笑った。
「並べた」
短い声だった。
ルミナは頷こうとして、うまくできなかった。
先輩の口元が、悔しそうにも、嬉しそうにも見えた。
「最後まで、いたでしょ」
ルミナは、何度も頷いた。
「いました」
声が震えた。
「ずっと、いました」
掲示板には、写真判定の表示が出ていた。
2人でゆっくり歩きながら、結果を待った。呼吸が落ち着いてきても、隣の足音を聞くたびに、最後の直線が戻ってくる。
やがて、掲示板の表示が変わった。
いちばん上に、ルミナの番号。
その下に、ワンダの番号。
着差は、ハナだった。
ワンダが目を閉じた。
「ああーっ!」
悔しそうな声が、近くで響いた。
「最後! あと、ちょっとだった!」
頭の後ろへ手をやり、もう一度掲示板を見る。
ルミナも結果を見た。
勝った。
先輩に、勝てた。
安堵が遅れて胸へ広がり、そのあとに、抑えられない嬉しさが来た。
「……勝ちました」
言うと、ワンダがこちらを向いた。
「うん! おめでとう!」
笑ってくれた顔を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
ルミナは先輩に抱きついた。
ワンダの腕も背中に回る。強く抱き返されて、ルミナは先輩の肩に顔を寄せた。
去年は、勝ったあとであんなことを言った。
今日も勝った。
今日の勝利は、少しも手放したくなかった。
ルミナは顔を上げた。
「先輩」
呼ぶと、ワンダが頷く。
言いたいことが多すぎた。来てくれたこと。離れなかったこと。あのまま抜かれるかと思ったこと。
けれど、トレーナーがこちらへ向かっていた。先輩のトレーナーも、すぐそばまで来ている。
2人は腕をほどいた。ワンダがこちらの手の甲を軽く叩いた。
「あとで、全部聞く!」
ルミナは頷いた。
今度こそ、ちゃんと笑えた。
*
ウイニングライブを終え、取材で最後の直線について聞かれたとき、ルミナはすぐには答えられなかった。
最後まで力を出し切った。
それは間違いなかった。あの先でもう少し速く走れと言われても、今日はできなかったと思う。
「ワンダラストさんに、並び返されましたね」
「はい」
頷くと、レース中の足音が戻ってきた。
「あそこから、もう一度来ると思っていましたか」
「来てほしいとは、思っていました」
答えてから、少し笑ってしまった。
「でも、本当に来たら、負けたくなくて。それだけになりました」
勝てたのは何がよかったからかと聞かれ、ルミナは考えた。
途中の位置。動き始めた場所。最後まで崩れなかった脚。
どれか1つでも違えば、先輩が前にいたかもしれない。
「全部、出せたからだと思います」
そう答えたあと、もう一度付け足した。
「全部、出さないと勝てませんでした」
*
着替えを終え、廊下へ出る。
ワンダは窓のそばで待っていた。
こちらを見つけると、携帯電話をしまって片手を上げる。
「お疲れ!」
ルミナは足を速めた。
目の前まで行って、止まるより先に両腕を伸ばした。
ワンダの身体を抱き寄せる。
「わっ」
少しよろけた先輩を支え、そのまま肩へ顔を寄せた。
手の中に、あの直線を走っていた背中がある。
「……先輩」
「うん」
「来ましたね」
ワンダの腕が、背中へ回った。
「行ったよ! あと少しで勝てたのに!」
その悔しさまで聞くと、また嬉しくなった。
腕に力が入る。
「今日の先輩、ずっと忘れません」
「私も。最後のところ、たぶん何回も夢で見る!」
ワンダが笑った。
ルミナは顔を上げた。
「もう1回、走りたいです」
先輩が、少し目を丸くした。
「今、終わったばっかりだよ?」
「はい」
「全部聞くって言ったのに、もう次の話!」
ルミナは頷いた。
あの脚を見せてもらうまでは、1回でも最後まで並べたらと思っていた。
並んだら、もっと欲しくなった。
「次も。その次も、先輩と走りたいです」
肩を抱いた手を緩められなかった。
「どこまで速くなっても、今日みたいに来てください。私も、捕まえに行きますから」
ワンダは、しばらくこちらを見ていた。
それから背中の腕に力を込め、もう一度抱き寄せてきた。
「うん。私も、1回じゃ足りなくなっちゃった!」
耳元で、明るい声がした。
「あそこまで行けたら、勝ちたいよ。次は、私が先にゴールしたい!」
「負けません」
「言うと思った!」
笑い声が近かった。
ルミナも笑った。目元が濡れたままだったので、先輩の肩へもう一度顔を伏せた。
ワンダは何も言わず、しばらく背中を撫でていた。
*
外へ出る頃には、日が傾いていた。
ワンダが鞄から手帳を出す。
「次、どこ行こうか!」
ルミナは隣から覗き込んだ。
レースの予定の間に、行きたい国の名前がいくつも書かれている。以前一緒に調べた観光名所にも、丸がついていた。
「走る方ですか。旅行の方ですか」
「両方!」
返事が早くて、ルミナは笑った。
「今日なら、旅行を決めたいです」
「いいね! どこがいい?」
ルミナは、丸のついた名前を指した。
「ここ。まだ、一緒に行けていません」
「じゃあ、ここから!」
ワンダがそのページの角を折り、手帳をしまう。
空いた手を取ると、先輩が指を絡めてきた。
「ルミナ、今日はよく眠れそう?」
「分かりません。何度も、レースを思い出しそうです」
「私も! 最後にもう半歩出せてたらなあって!」
ワンダが、悔しそうに空を見上げた。
ルミナは握った手を引いた。
先輩がこちらを見る。
「その半歩、渡しません」
目の前の顔が、嬉しそうに笑った。
「取りに行くよ!」
ルミナも笑って、先輩の手を握り返した。