コルレオーネ家の病弱末娘になっちゃったので、家族全員救ってみせます 作:シチリアスキー
カメラマンが三脚を広げはじめたので、そろそろだなと思った。
一九四五年、八月の終わり。ロングビーチの屋敷の庭は、姉のコニーの結婚式に集まったお客でごった返している。楽団はさっきからタランテラばかり弾いているし、子供たちはテーブルの下をくぐって走り回っているし、親戚のおじさんたちはもうワインで耳まで赤い。
ママが手をたたいて、家族を芝生の真ん中に集めはじめる。花嫁のコニー、花婿のカルロ、ソニーとその奥さんと子供たち、フレド、トム。私も肩掛けを直されながら、ソニーに背中を押されて列に入った。
あとは父がうなずけば、シャッターが切られる。
なのに、父は首を横に振った。
「マイケルが来ていない」
はい、来ました。生で聞けました。
ソニーが「親父、もういいだろ」と文句を言いかけて、父にひと睨みで黙らされる。この流れも知っている。知りすぎていて、口が勝手に動きそうになるのを、私は唇の内側を噛んでこらえた。
待っているあいだ、三脚の横にいるカメラマンの助手と目が合った。若い男の子で、さっきからファインダーをのぞくふりをして、ちらちらこっちを見ている。にこっと笑ってみせたら、手にしていたフラッシュの電球を芝生に落とした。
ソニーがそっちをにらむと、助手は真っ赤になって電球を拾いに這いつくばる。
今年で十八になる。黒い巻き毛に、まつ毛の長い大きな黒い目。日に当たらないせいで肌は青白く、肩掛けにくるまれた体は、姉のコニーより頭一つ小さい。鏡の前に立つたびに思う。男だったころの私が見たら、一目で惚れていた。中身が私じゃなければ、の話だけど。
さっきから、親戚のおばさんたちが代わる代わる縁談の話を持ってくる。よそのファミリーの若い男がダンスに誘いに来れば、ソニーが壁みたいに前に立って追い返す。本人の私は、まだ一曲も踊っていない。
前世の私は、この映画を数えきれないくらい愛した成人男性だった。自分の名前はもう思い出せないのに、この庭でこれから誰が何を言うかは全部言える。我ながら記憶の配分がおかしいと思う。
死んだのかも、わからない。気がついたら、一九二七年のニューヨークで産声を上げていた。生まれたのはコルレオーネ家。父はヴィト・コルレオーネ。原作にいない、五人目の子供として。
転生先としてどうなんだろう、これ。ガチャならたぶん大当たりで、同時に大外れだ。
もっとも、男だった記憶があるのは前世の分だけだ。こっちでは十八年、女の子として育ってきた。ママにはスカートの裾を直され、兄たちには何かあるたびに抱き上げられて、気がつけば兄に抱きつくのも、新しいドレスにはしゃぐのも、何の抵抗もなくなっていた。考え方もずいぶん女の子のほうに寄ったと思う。男だった私は、今ではたまに頭の中で顔を出す、口の悪い同居人くらいのものだ。
おまけに体は最悪だった。生まれてすぐ医者に「この子は長くない」と言われたらしい。冬が来るたびに肺炎になりかけ、階段を一つ上がれば息が切れる。それでも十八まで生きてきたのだから、私の体はしぶといのか、医者がやぶなのか、たぶん両方だ。
寝てばかりの子供に、できることは少ない。私はベッドの上で新聞を読み、株価の欄を毎日書き写した。九つのとき、父の前で「その会社の株は来月下がるよ」と言ったら本当に下がって、父はしばらく黙って私の顔を見ていた。
それから、コルレオーネの末娘の勘は外れない、という噂が少しずつ広がった。
前世の知識のおかげだけじゃない。この体はろくに動かないくせに、頭のほうはやたらとよく回る。帳簿は一度めくれば数字ごと覚えてしまうし、トムが計算機を叩き終わる前に、答えはもう出ている。家庭教師は三人続けて辞めていった。もう教えることがない、と言って。
そして父は、私に甘い。それはもうデロデロに甘い。熱を出すたびに仕事を放り出して枕もとに座っていてくれたし、欲しいと言った本は次の日には部屋に積まれていた。ドン・コルレオーネが娘の部屋でスープを冷ましてあげている姿なんて、ファミリーの誰に話しても信じないと思う。
その父が、一度だけ私に「だめだ」と言ったことがある。十三のとき、家の仕事を手伝いたいと言ったときだ。
結局、父は条件付きで手伝いを許してくれた。触っていいのは、オリーブオイルの会社の運営だけ。表の、きれいな商売の数字だけで、それより奥には指一本入れさせない。寝てばかりの娘に何か打ちこめるものを、と医者に言われたこともあって、トムの横で帳簿を見ることだけは許された。
私にはそれで十分だった。オリーブオイルの会社の金を、表の、きれいな金のまま何倍にも増やしてきた。ソニーは私が何をしているのかよく知らない。知っているのは父とトムだけで、トムのほうは、たまに私を見る目が怖い。
「ルチア」
隣のフレドが、私の肩を叩く。
「マイキー、ほんとに来るのか? 俺、腹減ったよ」
「来る来る。もうすぐ来る」
「なんでわかるんだよ」
「勘」
フレドが「出た」と笑った。うちの家族は、私の勘を21世紀の天気予報くらいには信じている。
列が崩れて、またみんながばらばらに散っていった。父は書斎に戻っていく。結婚式の日、シチリアの男は頼みごとを断れない。だから書斎の前には、もう順番待ちの男たちが並んでいる。葬儀屋のボナセーラさんが青い顔で汗を拭いているのが見えて、私は目をそらした。あの人の頼みが何かも、私は知っている。
庭の隅の木陰に、大きな男が一人で立っていた。
ルカ・ブラージ。父の用心棒で、この界隈の大人なら名前を聞いただけで顔色を変える男だ。結婚式だというのに誰も近寄らず、ルカの周りだけ芝生がぽっかり空いている。
ルカは小さな紙を手に、口の中でぶつぶつ何か言っていた。
「ルカ」
声をかけると、ルカの肩がはねた。紙を背中に隠し、それから私だと気づいて、目尻を下げる。
「…お嬢」
「また練習してるの?」
「ドンに、ちゃんと礼を言いたいんで」
ルカがお祝いの言葉を練習するのを手伝うのは、これで何度目だろう。私が十歳のころ、廊下で同じように紙を握りしめていたこの男に、「一緒に読んであげようか」と声をかけたのが最初だった。娘があのルカ・ブラージに話しかけているのを見て、ママが悲鳴を上げかけたのを、まだ覚えている。
あの日から、ルカは私に遠慮しなくなった。というより、ルカを怖がらない女の子を、ルカは私しか知らないのだと思う。
「聞かせて」
ルカが紙を見ないで、低い声で言った。
「ドン・コルレオーネ。お嬢さんの結婚式に招かれて、光栄に、思っています」
「うん、いいじゃん。でも顔」
「顔?」
「顔がね、今から誰か消しに行く人の顔になってる。『光栄です』のところで、もうちょっと口の力を抜いて」
ルカが口の力を抜こうとして、余計に怖い顔になった。私は思わず吹き出して、ルカは困ったように頭をかく。この大男が困った顔をすると、ちょっと可愛い。
ルカと別れて、テーブルのほうへ戻る途中で、花婿とすれ違った。
カルロ・リッツィ。濃い色の髪を撫でつけて、笑うと歯が白い。コニーの腕を取って、来る人みんなに愛想よく挨拶して回っている。
「やあ、ルチア。今日もきれいだ」
歯の浮くような台詞に、眉がぴくっと動いた。笑いそうになるのを、どうにか口の中で噛み殺す。
「ありがと、カルロ。コニーをよろしくね」
声がちゃんと明るく出て、ほっとした。
この男がこれからコニーを殴ることも、ソニーを売ることも、私は知っている。それでも、この結婚は止められなかった。コニーが初めてカルロを家に連れてきたとき、私は体調がすぐれなくて、数か月寝込んでいた。起き上がれるようになったころには、コニーはもう指輪をしていた。
――大丈夫。まだ、時間はある。
自分に言い聞かせて、グラスの水を一口飲んだ。
門のほうがざわついたのは、そのすぐあとだった。
軍服の男が、背の高い金髪の女の人を連れて入ってくる。海兵隊の制服に、胸の略綬。日に焼けた顔。
マイケルだ。
足が勝手に動いていた。走るなと何百回も言われているのに、芝生を蹴る。三歩目で息が上がり、五歩目で胸が痛くなる。どうでもいい。
「ルチア!」
先に気づいたのはマイケルのほうだった。駆け寄ってきて、私の肩をつかむ。
「走るなって言ってるだろう」
「……おかえり」
息が切れて、それしか言えなかった。マイケルは怒った顔のまま、それでも私を抱きしめてくれる。軍服の生地はごわごわで、糊が効いていて、知らない匂いがした。
戦争に行くと決めたマイケルを、父は許さなかった。家の誰も見送りに行かなかった日、私だけが熱で震える体を奮起させて駅まで行き、ママにこっぴどく叱られてしまった。それから三年、私は毎週手紙を書いた。返事は月に一度来ればいいほうで、届くたびに帳簿を放り出し、ベッドの上で三回は読み返したものだ。
「紹介する。ケイだ」
マイケルの後ろで、金髪の女の人がにこりと笑った。
「はじめまして。あなたがルチアね。マイケルから、手紙の話をたくさん聞いてる」
そう言いながら、ケイは私の顔をまじまじと見た。
「……でも、こんなにきれいな妹さんだとは聞いてなかった」
「口を開くまではな」
マイケルが横から余計なことを言う。
「ひどくない? ……で、手紙のこと、なんて言ってました?」
「字が汚いって」
「マイキー!」
マイケルが笑い、ケイも笑う。私もつられて笑いながら、ケイ・アダムスという人を見ていた。賢そうで、優しそうで、この家のことを何も知らない人の顔。
テーブルに座ると、ケイはすぐにルカのことを聞いた。木陰の大男が、さっきから怖い顔でこっちを見ている、と。
マイケルが、ルカと父と、ある歌手の契約の話をはじめる。私はその話も知っている。銃口を頭に突きつけて、契約書にサインさせた話。ケイの顔がみるみるこわばっていくのを見ながら、私は口をはさまずにはいられなかった。
「ルカ、ほんとはいい人だよ。ちょっと誤解されやすい顔をしてるだけで」
「顔?」
「さっきもパパへのお祝いの言葉を練習してたんだけどね、三回やって、三回とも凄い形相で、もう大笑いしちゃって」
ケイが笑い、マイケルが「余計なこと言うな」と私の頭を小突く。それからマイケルはケイのほうに向き直って、きっぱり言った。
「あれが僕の家族なんだ、ケイ。でも、僕は違う。家の仕事には関わらない」
ケイがうなずく。
私は曖昧に笑うだけで、うなずくことができなかった。
三年ぶりに見る兄の顔は、少し痩せて、大人びていた。この人が五年後、十年後、どんな顔になるのかを、私は知っている。目の奥から何もかもが抜けて、誰の言葉も届かなくなって、それでも家族のために、家族を殺していく顔だ。
ケイが化粧室に立ったすきに、私はマイケルの袖をつまんだ。
「マイキー。お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「家の仕事には、ぜーったい入らないでね」
マイケルが目をまるくして、それから笑った。
「入るわけないだろ。大学に戻って、ケイと結婚して、まともな仕事をする」
「約束?」
「約束する。どうしたんだ、急に」
「別に。マイキーにはさ、似合わないから。ああいうの」
冗談めかして言ったのに、袖をつまんだ指が離れなかった。マイケルはそれに気づいて、私の手の上に自分の手を重ねた。
「心配するな。俺はずっと、お前の兄貴のままだ」
それは知ってる、と言いそうになった。知っているから怖いのだ。マイケルは最後まで、家族のことだけを考えている。考えすぎて、壊れていく。
「おーい! マイキー!」
ソニーの大声が飛んできた。
「親父が呼んでる! 写真だ!」
もう一度、家族が芝生に集まった。今度は全員そろっている。父がマイケルを自分の隣に呼び、マイケルがケイも入れようとして、私も袖を引っぱって、ケイを列に入れた。ソニーが「ルチア、真ん中に来い、倒れるぞ」と言って私を引き寄せ、フレドが反対側から私の肩に腕を回す。
父の手が、うしろから私の頭に置かれた。大きくて、乾いた手だった。
カメラマンが手を挙げる。
私は、思いきり笑った。
前世で、この場面を何度も見た。家族全員がそろった、たった一枚の写真。この写真のあと、誰が撃たれ、誰が死に、誰が誰を殺すのか。スクリーンの外から、全部見ていた。
今は、ファインダーのこっち側にいる。
フラッシュがパシャリと光った。
*
秋になった。
マイケルはケイと一緒に街へ戻り、屋敷はいつもの毎日に戻った。とはいえ、書斎には毎晩誰かが出入りしている。
その夜も、私はトムと二人で、書斎の隅の机に帳簿を広げていた。
トム・ヘイゲン。うちの兄弟の中で、一人だけ血のつながらない兄。子供のころ、ソニーが道端で拾ってきたのを、父がそのまま家に置いた。今は弁護士で、父の相談役で、家の仕事の頭脳だ。
その頭脳が、さっきから一つの数字の上で指を止めている。
「ルチア。この土地、なんで買った」
「どれ?」
「ネバダの砂漠だ。こんなところ、何もないぞ」
「勘」
「勘で、こんな金額は動かさないでほしいな」
トムの声は、いつもと同じで平らだった。顔を上げると、眼鏡の奥の目がまっすぐこっちを見ている。
ラスベガスがこれからどうなるかを、私は知っている。砂漠のど真ん中にネオンが並び、ホテルが建ち、そこに流れこむ金を、コルレオーネはいずれ欲しがるようになる。そのときに、汚い金で取りにいくか、もう持っているきれいな金で取るか。その違いは大きい。
でも、トムにそれは言えない。
「トム。私が今まで外したこと、ある?」
「……」
「じゃあ、それでいいじゃん」
トムは何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐いて、帳簿のページをめくる。
「ドンもいつも言ってるよ。ルチアの好きにさせろ、と」
「パパ、話わかるなあ」
「俺はわからない」
トムがぼそりと言った。
「わからないことが、一番気持ち悪い。疑うことが仕事だからな」
私は笑ってごまかした。トムのこういうところが好きで、怖い。この家で、私の勘を勘のまま放っておいてくれないのは、トムだけだ。
ペンを置いて、窓の外を見た。庭の向こうの門に、見張りの男が二人立っている。
私の頭の中には、カレンダーが一枚ある。前世で見た映画を、何度も思い出して、日付を埋めていったカレンダーだ。
その次の印がついている日付は、トルコ人がこの家に来る日だった。
*
ソロッツォがこの家に来たのは、十一月の終わりだった。
ヴァージル・ソロッツォ。通り名はトルコ人。浅黒い顔に、よく動く目。麻薬の商売をやっていて、その後ろには、ニューヨークの五大ファミリーの一つ、タッタリア家がついている。
ソロッツォは、コルレオーネに出資と、政治家や判事への顔利きを求めにきた。父が持っている、街じゅうの判事や警官とのつながりだ。それがあれば、麻薬の商売は守られる。
父はきっぱりと断る。それは決まっている。
問題はそのあとだ。父が断りかけたところで、ソニーが口をはさむ。タッタリアが元手を保証するのか、と。ソニーが乗り気だと見たソロッツォは、父さえいなくなればコルレオーネは麻薬に乗ると感づいてしまうのだ。
つまり、ソニーのたった一言が、父を撃たせる。
だから私は、コーヒーを運ぶ役を、ママから奪い取った。
「ルチア、あなたは寝てなさい」
「寝てばっかりだと体がなまるの。運ぶだけだから」
書斎の扉を開けると、男たちの目が一斉にこっちを向いた。父、ソニー、トム、クレメンザ、テッシオ。それから、客の椅子に座った男。
ソロッツォは、私を見た。
目が合ったのは一瞬だったと思う。顔、首、肩掛け、手。値踏みするような目が、私の全部を撫でていって、最後に口もとだけで笑った。
「ドンの娘さんかな」
「末娘だ」
父が短く答えた。ソロッツォは「お美しい」とだけ言い、すぐに話の続きに戻った。
私はカップを一つずつ配りながら、ソニーの横に回った。
ソロッツォが麻薬の話をし、父が黙って聞いている。父の顔は、何を考えているのか一つもわからない。前世でスクリーン越しに見たときより、本物のほうがずっと怖かった。
「――お断りする」
父が言った。
「ソロッツォさん。あんたの商売は、いずれ人を殺す。わしの友人の判事や政治家も、ギャンブルや酒なら見逃してくれるが、麻薬となれば話は別だ。わしがそれに手を貸せば、友人を失うことになる」
ソロッツォは顔色ひとつ変えない。
「タッタリアが、元手を保証すると言っても?」
ソニーの体が、椅子の上で前に出た。
口が開く。
その瞬間、私の手がすべった。
ポットごと。
「あっっっつ!!」
ソニーが椅子から跳ね上がった。熱いコーヒーが太ももにまともにかかって、ソニーは書斎の真ん中で片足跳びをしながら、聞くに堪えない言葉を立て続けに叫んだ。
「ご、ごめんソニー! 手が、手がすべって!」
「ルチア、てめっ、お前、わざと――あっつ!」
クレメンザが腹を抱えて笑い出した。テッシオが顔をそむけて肩を震わせ、トムが眼鏡を押し上げて天井を見ている。ソロッツォまで、口の端だけで笑っていた。
父は笑わなかった。
ソニーが着替えに出ていったあと、父はもう一度ソロッツォのほうに向き直り、さっきとまったく同じ声で言った。
「わしの答えは変わらん。わしの家族も、同じ考えだ」
ソロッツォは丁寧に頭を下げて、帰っていった。
客を送り出したあと、私は床にこぼれたコーヒーを拭いていた。膝をついたら、立ち上がるのがきつくなった。体がだるい。たった一杯のコーヒーで、こんなにくたびれる体だ。
「ルチア」
顔を上げると、父が私を見下ろしていた。
「わざとか」
「手がすべっただけだよ」
父は長いこと黙っていた。そのあいだ、雑巾を握ったまま父の目を見返す。逃げたら負けだ。
やがて父が、口もとをゆるめる。
「次は、熱くないのにしなさい」
それだけ言って、書斎を出ていった。
一人になってから、雑巾を握った手が震えているのに気づいた。
ついに変えた、変えられた。
原作の流れは、変えられるんだ。ソニーは何も言っていない。ソロッツォは、コルレオーネが割れているとは思わずに帰っていった。
何かしらの原作に戻る力があるかもしれないが、ひとまず流れを変えられることだけは分かった。
それで父が撃たれなくなるのかどうかは、わからない。この先は、もう誰も見たことのない映画だった。
*
それでも、確かめられることは確かめておこう。
数日後、父がルカを呼んだ。タッタリアの店に行って、コルレオーネに不満がある振りをしてこい。向こうの腹を探れ、との命らしい。
原作どおりだ。
ルカはその店で、カウンターに置いた手をナイフで縫いとめられ、うしろから首を絞められて死ぬ。そのあと、コルレオーネに届けられるのは、魚に包まれたルカの防弾チョッキ。シチリアのやり方で、「ルカは魚と一緒に眠っている」という意味だ。
十歳の私の横で、紙を握りしめて照れていたあのルカが、そうなる。
黙って見送るなんて、できるわけがない。父がルカを呼んだ日の夜、私はフレドに頼んで、車でルカの部屋まで連れていってもらった。
「なあルチア、ほんとにこんなとこ来ていいのか? ママにばれたら俺が殺されるぞ」
「ばれなきゃいいの。フレドは車で待ってて」
「お前さあ……」
ルカの部屋は、思っていたより片付いていた。テーブルの上に、拳銃と、聖母マリアの小さな絵と、食べかけのパン。ベッドの下から、防弾チョッキがのぞいている。
扉を開けたルカは、私を見て、それから廊下の左右を確かめた。
「お嬢さん。こんな時間に、こんな場所に来ちゃいけません」
「明日、タッタリアの店に行くんでしょ」
ルカの顔から表情が消えた。
誰から聞いたのか、と問う目。私は答えず、ルカも聞かなかった。
「ドンの命令です」
「うん。行ってもいいよ。止めない」
止めても無駄なのは知っている。ルカは父の命令なら、火の中にでも入っていく。
だから、止めない。その代わりに。
「ルカ。カウンターに、手を置かないで」
「……手?」
「絶対に置かないで。どんなに話が盛り上がっても。それから、うしろに人を立たせないで。背中に誰かいたら、すぐ振り向いて」
ルカは黙って私を見ていた。大きな体が、狭い部屋の中でいっそう大きく見える。
「お嬢さんの勘ですか」
「うん」
「わかりました、お嬢の勘は百発百中ですからな」
ルカは一度だけうなずいた。
それだけだった。理由も、どうして知っているのかも、ルカは一度も聞かなかった。
帰りの車の中で、フレドが何度も「何の話だったんだよ」と聞いてくる。「お祝いの言葉の練習の続き」とだけ答えて、窓に頭をもたせかけた。
その夜は、ベッドに入っても目がさえたままだった。ルカの大きな手がカウンターに置かれるところを、何度も思い浮かべてしまう。
翌朝、まだ暗いうちに屋敷の門が騒がしくなる。
窓から見下ろすと、庭に車が一台入ってくるところだ。後部座席から降りてきた大きな男は、左手を布でぐるぐる巻きにしていて、その布が血で真っ赤に染まっている。
ルカだ。
ルカが、生きている。生きて帰ってきてくれた。
あとでトムから聞いた話では、ルカはタッタリアの店で、うしろから首に紐をかけられる寸前に振り向き、二人を殴り倒して店を出てきたらしい。手の傷は、逃げるときにナイフで切られたものだという。
縫いとめられたのではなく、切られただけ。
私は自分の部屋で、ベッドに座ったまま、しばらく動けなかった。
生きてる。
ルカが、生きてる。
声に出したら、急に涙が出そうになって、慌てて天井を見上げた。
喜んでいられたのは、その日の昼までだった。
「ルチア」
書斎から出てきたトムが、廊下で私を呼び止めた。
「ドンが、しばらく外に出るなと言ってる。家族全員だ」
「……何かあったの?」
「タッタリアの店で、ルカが二人やった。向こうは、こっちが仕掛けてきたと思ってる」
トムの声はいつもどおり平坦だったけれど、眼鏡の奥の目は、さっきから私の顔から離れなかった。
「戦争になるかもしれない」
背中が冷たくなった。
ルカを生かしたことで、ソロッツォに、コルレオーネが気づいていると知らせてしまった。向こうは急ぐ。原作の時期より、きっと早く。
原作の日付は、もう当てにならない。
*
パウリー・ガットは、父の運転手だ。
小柄で、愛想がよくて、いつもガムを噛んでいる。クレメンザの子分で、父の送り迎えを任されている。
そして、ソロッツォに買われている。
原作では、父が撃たれる日に、パウリーは仮病を使って休む。その裏切りがばれて、パウリーはクレメンザに始末される。
その男に、私は自分から頼んだ。
「パウリー、クリスマスの買い物に行きたいの。車、出してくれる?」
パウリーは一瞬、目を泳がせた。外に出るなと、ドンから言われているはずだ。でも、末娘のわがままに逆らうのもそれはそれで面倒なのだろう。結局「少しだけですよ」と言って、車を出してくれた。
マンハッタンに入ったところで、私は後部座席から身を乗り出した。
「ねえパウリー。トルコ人に会いたいんだけど、連れてってくれる?」
ハンドルが、目に見えてぶれた。
「な、なんの話です、お嬢さん」
「知ってるよ。パウリーがあの人と話してるの」
本当は見たことなどない。知っているだけだ。でもパウリーの顔から血の気が引いていくのを見て、それで十分だとわかった。
「パパには言わない。約束する。私はただ、あの人と話がしたいだけ」
バックミラーの中で、パウリーの目が、私と道路のあいだを何度も往復した。
三十分後、私はブロンクスの小さなレストランの奥の席で、ソロッツォと向かい合っていた。
店には客がいなかった。入り口に男が二人立ち、厨房の奥からもう一人、こっちを見ている。私が肩掛けを外すと、入り口の二人がそろって帽子のつばに手をやった。ソロッツォの手下でも、そういうところは律儀なようだ。パウリーは車に残された。窓の外に、ハンドルを握ったまま固まっている横顔が見える。
ソロッツォは、ナプキンで口を拭いてから言った。
「コーヒーをこぼしたおてんばのお嬢さんが、何の用かな」
さすがに覚えられてるか。
「父を撃つのを、待ってほしいの」
ソロッツォの手が、ナプキンを置いたところで止まった。
それから、声を立てずに笑った。
「おもしろいことを言いますな」
「おもしろくないよ。あなたは父がいなくなれば、ソニーが麻薬に乗ると思ってる。乗らないよ。ソニーはパパのこととなったら、頭に血がのぼって何も考えなくなる人だから。あなたが父を撃ったら、ソニーはあなたもタッタリアも、ニューヨークじゅう全部、火の海にする」
「それで?」
「それで、あなたが欲しいのは金でしょ。麻薬じゃなくて」
ソロッツォは何も言わない。
私は肩掛けの下から、小さく折った紙を出して、テーブルの上を滑らせた。
「来週の木曜、そこに書いた会社の株が跳ねる。試しに買ってみて」
ソロッツォは紙を開き、一度読んで、また私を見た。
「あんたの勘は外れない、という噂は聞いている」
「噂じゃないよ」
「なら、なんだ、何が目的だ。こんな危ない店に、病気がちな娘が一人で来る理由がない」
この人は頭がいい。原作でもそうだった。だからこそ、父を一番正しいやり方で狙う。
「パパは、麻薬の話を二度と聞かない人だから」
半分だけ本当のことを言った。
「私なら、別のお金を作れる。パパの名前を使わない、きれいなお金。年明けまで待ってくれたら、その話をちゃんとする」
長い沈黙があった。厨房の奥で、皿が一枚鳴った。
やがてソロッツォは、紙を胸のポケットにしまった。
「いいだろう。年明けまでだ」
それから立ち上がり、私の椅子のうしろに回る。
肩に手が置かれた。私の肩掛けの上から、指の形がわかるくらいの強さで。
「コルレオーネは、宝を隠していたらしい」
耳もとでそう言って、ソロッツォは店を出ていった。
車に戻ると、パウリーが真っ青な顔で私を見た。窓越しに、全部見ていたのだろう。私がトルコ人と向かい合って座り、紙を渡し、最後に肩に手を置かれたところまで。
「パウリー、帰ろ。おもちゃ屋に寄ってね。ソニーの子供たちにお土産買わないと」
パウリーは返事をせずに、エンジンをかけた。
帰りの車の中で、私は窓の外を流れていくクリスマスの飾りを見ていた。
年明けまで。そんな約束を、あの男が守るとは思っていない。それでも、一日でも延びれば、それでよかった。
その一日のあいだ、私はずっとパパのそばにいる。
*
それからの私は、父の行くところ、どこにでもついていった。
事務所にも、床屋にも、教会にも。肩掛けを二枚重ねて、咳をしながら、父の横にくっついて歩いた。
床屋では、見習いの男の子が鏡ごしに私ばかり見ていて、父の揉み上げを片方だけ短くしてしまった。店の主人は真っ青になったけれど、父は鏡をのぞいて「娘を連れてきたわしが悪い」とだけ言い、いつもどおりの代金を置いて帰った。
「最近、やけにくっついてくるな」
父はそう言いながら、私の手を自分の外套のポケットに入れてくれた。ポケットの中は温かかった。
「パパの近くが一番あったかいから」
「ママに怒られるぞ」
「もう怒られてる」
父が喉の奥で笑った。
十二月の、クリスマスまであと一週間という日の夕方だった。
事務所の前に車を回してきたのは、パウリーではなくフレドだった。
「パウリーは?」
「今朝から熱だってさ。休み」
心臓が一回、大きく鳴った。
仮病だ。
年明けまで待つと言ったのに。いや、わかっていた。わかっていたのに、手のひらが一気に冷たくなった。
「ルチア? 顔、真っ白だぞ」
「……寒いだけだよ」
父が、通りの向かいの果物屋を見た。
「少し、オレンジを買っていこう。ママが欲しがっていた」
オレンジ。
前世の私は、この映画のオレンジが死亡フラグだと知っていた。誰かが死ぬ場面には、たいていオレンジが転がっている。ネットの考察で読んだ内容だった。
その果物屋に、父が、歩いていく。
「パパ、待って」
「すぐ済む」
追いかけた。走れない足で。
果物屋の店先に、オレンジが山になって積まれていた。父が一つ手に取り、店の主人と何か話している。フレドは車にもたれて、新聞をめくっている。
通りの向こうから、外套の男が二人、まっすぐこっちへ歩いてきた。
帽子を深くかぶっている。手を、外套のポケットに入れている。
二人の歩く速さが、一歩ごとに上がった。
「パパ!」
声が出た。生まれてから一番大きな声だったと思う。
父が振り返った。男たちのポケットから、手が出てきた。黒いものを握って。
私はなりふり構わず父の前に出る。
考えたわけではなかった。体のほうが先に、父と男たちのあいだに入っていた。
音が二つ、三つ、立て続けに鳴った。うしろで父がうめく声がした。
最初は痛くなかった。誰かに胸を強く押されたみたいで、そのまま後ろへよろけ、父の外套にぶつかる。二つ目で脇腹が熱くなる。三つ目はどこに来たのかわからない。
足から力が抜けた。
地面が近づいてきて、頬に冷たい石が当たった。目の前を、オレンジが一つ転がっていく。
遠くで、フレドの声がした。何か叫んでいる。銃を出そうとして、取り落として、拾おうとして、また落とす音がした。
男たちの足音が遠ざかっていく。
「ルチア! ルチア!」
父の顔が、上からのぞきこんでいた。外套の左袖が裂けて、腕から血が流れている。私の体を抜けた弾か、それた弾か、父の腕にも当たっていたのだ。それでも父は、自分の腕なんか見ていなかった。
――腕だけで済んだんだ。よかった。
そう思ったら、急に安心して、まぶたが重くなった。
「目を開けろ!ルチア!」
父がこんな声を出すのを、私は前世でも一度も聞いたことがなかった。
口の中で、鉄の味がした。何か言おうとしたけれど、言葉の代わりに咳が出て、咳と一緒に温かいものがあふれ出た。
父が、撃たれた腕もかまわずに私を抱き起こし、胸に抱えこんだ。写真のときと同じ、大きくて乾いた手が、私の背中を支えている。
それから、何も見えなくなった。
---
マイケルがそのことを知ったのは、新聞からだった。
クリスマスの買い物を終えて、ケイとホテルへ戻る途中だった。通りの角で、新聞売りが声を張り上げている。見出しに、父の名前。
ヴィト・コルレオーネ、銃撃される。同行の娘、重体。
ケイが何か言ったが、マイケルには聞こえなかった。新聞を握ったまま公衆電話に飛びつき、屋敷にかける。出たのはソニーだ。
「親父は腕だけだ。ルチアが……ルチアが、親父の代わりに撃たれた」
ソニーの声が割れていた。
「まだわからねえ。医者は、今夜が山だって」
その夜、マイケルは一人で病院へ向かった。
ケイはホテルに残してきた。来ると言い張るのに、首を振って置いてきた。あの家のことに、ケイを近づけたくない。それがなぜなのかは、自分でもうまく言えなかった。
病院の廊下には、誰の足音もしない。
おかしい、と思ったのは、二階に上がってすぐだった。父の病室の前に、見張りが一人もいない。ソニーが手配したはずの男たちが、誰もいなかった。
看護婦をつかまえて聞くと、刑事が来て全員を帰したと言う。面会時間はとうに過ぎている、と。
マイケルは父の病室に入った。父は眠っていた。左腕を包帯で吊り、顔色は悪いが、息は落ち着いている。
それを確かめてから、廊下の突き当たりの部屋へ向かった。
ルチアは、ガラスの向こうにいた。
ベッドの上に、透明な酸素テントがかぶせられている。その中で、妹はひどく小さく見えた。胸と脇腹に厚く巻かれた包帯。腕に刺さった管。黒い巻き毛が枕の上に広がっていて、その真ん中の顔は、紙よりも白かった。
テントのビニールが、ルチアの息に合わせて、浅く動いている。
動いている、とマイケルは思った。それだけを見ていた。
背後の看護婦が、医者の言葉をくり返した。もともと肺が弱い。弾は一つが肺をかすめ、一つが脇腹を抜けた。助かっても、前と同じには戻らない。
「前と同じ、とは」
「……長くは、とお医者様が」
看護婦はそれ以上言わなかった。
ガラスに額を押しつけた。冷たかった。
駅のホームで、熱で赤い顔をしたルチアが、手を振っていた。家の誰も見送りに来なかった日に、ルチアだけが来てくれた。毎週届いた、字の汚い手紙。最後の一枚には、「家の中でマイキーの悪口を言えるの、もう私しかいないから早く帰ってきて」と書いてあった。
三か月前の結婚式で、袖をつまんで離さなかった指。
家の仕事には、入らないでね。
あのとき、どうしてあんなことを言ったのか。どうしてあんなに、指が離れなかったのか。
マイケルは、ガラスから額を離した。
病院の外に車が止まる音がした。
窓から見下ろすと、黒い車が一台、エンジンをかけたまま玄関の前に止まっている。中で、男たちの影が動いた。
誰も守っていない病室に、撃ち損ねた男と、撃たれた娘が寝ている。
マイケルは看護婦に手伝わせて、父のベッドを別の部屋に移した。それから、ちょうど見舞いに来ていた、父に恩のあるパン屋の青年をつかまえて、二人で病院の玄関の前に立った。外套のポケットに手を突っこみ、銃を持っている振りをして。
黒い車が、玄関の前をのろのろ通り過ぎていく。窓の奥から誰かがこっちを見て、それから車は速度を上げて走り去った。
パン屋の青年が、震える手で煙草に火をつけようとして、何度も失敗した。マイケルは自分のマッチで火をつけてやった。
自分の手は、震えていなかった。
そのことに、マイケル自身が一番驚いていた。
数分後、警察の車が来た。降りてきたのは、大柄な警部だった。マクラスキー。ソロッツォに金をもらっている男だと、のちにトムから聞くことになる。
「何をしている、ここで」
「父と妹の見舞いだ。見張りはどこへ行った」
マクラスキーは答えず、マイケルの顎を殴った。
歯が鳴り、口の中に血の味が広がる。膝をつきかけたところへトムの車が止まり、クレメンザの男たちがなだれこんできた。マクラスキーは舌打ちを一つ残して引き上げていく。
腫れ上がった顎を押さえて、マイケルは病院の二階を見上げた。
突き当たりの窓。カーテンの向こうに、酸素テントの白い影がぼんやり見える。
――
翌日、ロングビーチの屋敷の書斎には、家族とファミリーの幹部が集まっていた。
ソニーは部屋の中を歩き回っていた。目の下に隈を作り、一晩で十も年をとったような顔をしている。テッシオが窓際で黙り、クレメンザは汗を拭き、トムは机の上で何かを書きつけていた。
床に、パウリーがいた。
両脇をクレメンザの男たちに抱えられ、顔は殴られて腫れ上がっている。今朝、熱があると言ったはずの男は、自分のアパートで荷造りをしているところを見つかった。
「誰に頼まれた」
ソニーが、パウリーの前にしゃがみこんだ。
「し、知らねえ、俺は本当に熱が――」
ソニーの拳がパウリーの頬に入った。もう一発。三発目の前に、トムが「ソニー」と短く呼んだ。
パウリーは床に血を吐き、それから、這いつくばったまま顔を上げた。目が、部屋の中の人間の顔を順に見ていく。助かる道を探している目だった。
「お、俺だけじゃねえ」
「何だと」
「お嬢さんだ。末のお嬢さんが、トルコ人と会ってた。俺が車を出したんだ。ブロンクスの店で、二人で、何か紙を渡して――」
ソニーがパウリーの襟首をつかんで、壁に叩きつけた。
「てめえ、ルチアがどんな目に遭ってると思って――」
「本当だ! 本当なんだ! お嬢さんが、自分から連れてけって――」
三発目が入った。パウリーは声を出さなくなった。
ソニーが息を荒らげたまま振り返る。
「連れてけ」
クレメンザの男たちが、ぐったりしたパウリーを引きずって部屋を出ていった。誰も、パウリーがこの屋敷に戻ってくるとは思っていなかった。
扉が閉まる。
書斎に沈黙が落ちた。
ソニーが「ふざけやがって」と吐き捨て、窓の外をにらむ。テッシオは何も言わない。クレメンザは汗を拭くのをやめていた。
マイケルは、トムを見た。
トムはペンを止めて、机の上の一点を見ていた。視線の先にあるのは帳簿だ。ルチアがトムの横で毎晩開いていた、あの帳簿。
「トム」
「あいつは、命乞いで何でも言う」
トムはそう言って、またペンを動かしはじめた。
その声がいつもより一つ低かったことに、マイケルは気づいた。気づいて、見なかったことにした。
あの子は父の前に出たのだ。撃たれたのだ。
――でも、なぜあの日、あの子は父のそばにいた。
ここ二週間、ルチアはどこへ行くにも父についていったという。体の弱いあの子が、寒空の下を、毎日。
何かが起こるのを、知っていたみたいに。
マイケルは首を振って、その考えを頭から追い出した。
ソニーがまた、タッタリアの名前を叫んでいる。ソロッツォを消す、タッタリアを消す、ニューヨークを焼き払う。そのたびにトムが冷静な声で止める。ソロッツォは警部のマクラスキーを護衛につけている。警官を撃てば、ほかのファミリーも、警察も、街じゅうが敵に回る。
「向こうは話し合いを求めてる。こっちから誰か一人、出せと」
「話し合いだと? ルチアをあんなにしやがった野郎と、何を話すんだ!」
マイケルは、腫れた顎に指で触れた。
「僕が行く」
全員がこっちを見た。
「話し合いの席に、僕が行く。ソロッツォと、マクラスキーと。向こうは僕を、家の仕事に関係ない大学生だと思ってる。警戒しない」
ソニーが笑い出した。クレメンザも、テッシオも笑った。カタギのお坊ちゃんが、何を言い出すのか、と。
マイケルは笑わなかった。
笑い声が、一人ずつ止んでいった。最後まで笑っていたソニーが、弟の顔を見て、口を閉じた。
「店の便所に、銃を隠しておいてくれ。僕が二人を撃つ」
窓の外は、雪が降りはじめていた。
マイケルの目には、病院の白い酸素テントが映っていた。その中で浅く動く、薄いビニール。
約束する、と言った。家の仕事には入らない、と。
あの約束を破れば、あの子はきっと怒る。
それでもいい。ソロッツォが生きているかぎり、あの子も父も、また狙われる。生きて、目を覚まして、怒ってくれるなら、それでいい。
---
目を開けたら、天井が白かった。
知らない天井だ、と言おうとして、喉が動かなかった。代わりにひどい咳が出る。胸の内側をガラスの破片でかき回されるような咳。
「ルチア!」
横から、聞き慣れた声がした。
フレドだった。椅子から転げ落ちそうな勢いで身を乗り出して、私の手を握っている。目の下が真っ黒で、髭が伸び放題で、ひどい顔だった。
「起きた……起きた、ルチアが、おい、誰か! 先生!」
「……ふれど」
声というより、息に近いものが出た。
「しゃべるな、しゃべんなくていい。先生呼ぶから、待ってろ、な」
フレドは立ち上がりかけて、やめて、また私の手を握り直した。
「ごめん」
「……なに、が」
「俺、銃、落としたんだ。二回も。お前が撃たれてんのに、俺、拾えなくて、手が、震えて」
フレドの声が崩れていく。
「ルチアじゃなくて、俺が前に出りゃよかったんだ。俺が、俺が撃たれりゃよかった。お前、体弱いのに、なんで、なんでお前が」
握られた手に、フレドの涙が落ちてきた。温かかった。
フレドが銃を落とすのも、私は知っていた。それでもいいと思っていたのだ。フレドはそういう人だから。優しくて、気が小さくて、肝心なときにいつも何かを取り落とす。それがフレドの一番いいところだと、私は本気で思っている。
なのにフレドは、それを一生、自分の傷にしようとしている。
「……フレドの、せいじゃ、ないよ」
「お前、俺のせいだって言えよ。言ってくれよ、そのほうが」
「やだ」
フレドが、泣きながら変な顔で笑った。
それからしばらく、フレドは私の手を握ったまま、何も言わなかった。窓の外で、雪が降っている。
「パパ、は」
「無事だ。腕だけ。今は家で寝てる。毎日来るって言って、ママに止められてる」
よかった。
それは本当に、心の底からよかった。
「みんな、は」
フレドの手が硬くなる。
「ソニーは元気だよ。トムも。コニーも見舞いに来た。カルロは来なかったけど」
それから、フレドは無理に明るい声を出した。
「見舞いの花がさ、廊下まであふれてんだ。半分はよその家の若いのからで、ソニーが全部窓から捨てようとして、ママに怒られてた」
笑おうとしたら胸が痛んで、咳になった。フレドが慌てて背中をさする。
「……マイキー、は」
フレドは答えなかった。
握った手の中で、フレドの指が逃げようとして、また戻ってきた。
「フレド」
「……シチリアだ」
フレドは私の顔を見ないで言った。
「マイキーが、ソロッツォと、警官を撃った。レストランで。もう、帰ってこられない。親父の故郷に、隠れてる」
窓の外で、雪が降っている。
私はそれを見ていた。
――撃った。
――マイキーが。
前世の私は、あのレストランの場面が一番好きだった。便所から出てきたマイケルが、席に戻って、電車の音にかき消されそうな中で、二人を撃つ。銃を床に落として、店を出ていく。主人公が主人公になる瞬間。かっこよかった。何度も巻き戻して見た。
スクリーンの向こうなら、それで済んだ。でも、撃ったのは私の兄だ。駅のホームで私に手を振って戦争に行ったマイキーが、今度は自分の手で、人を殺している。
あの人は、私のせいで撃ったのだ。
私が父の前に出たから。撃たれて、死にかけて、酸素テントの中に入ったから。
ルカを救った。父も救えた。原作より、ずっとうまくやれていると思っていたのに。
それで、マイケルの指に引き金を引かせた。
家の仕事には、入らないでね。
約束する。
あの日、袖をつまんだ指を、マイキーは上からしっかり握りしめてくれた。
「ルチア?」
フレドの声が遠い。
「おい、ルチア、どうした。痛いのか? 先生、呼ぶか?」
痛くはなかった。胸の傷も、脇腹も、今はどこも痛くなかった。
息の仕方が、わからなくなっていた。
吸おうとすると、胸がそこで止まる。吐こうとすると、喉の奥で何かが詰まる。フレドが叫び、看護婦が走ってきて、誰かが私の口に何かをかぶせた。冷たい空気が流れこんでくる。
天井が白い。
結婚式の芝生も、白っぽい夏の光だった。家族全員で並んで、私は真ん中で、思いきり笑っていた。
あの一枚を撮れたことで、何かを守れた気になっていた。
――
その夜、私は一人で目を覚ました。
フレドは椅子で眠っていた。首を変な角度に曲げて、口を開けて、いびきをかいている。看護婦が置いていった毛布が、肩からずり落ちていた。
酸素のマスクを、自分で外した。
胸の中は、まだガラスでいっぱいだった。息を一つ吸うたびに、胸の内側がきしむように痛む。医者が言わなくても、わかる。この体は、もう前と同じには戻らない。
それでも。
ベッドの横の小さな棚に、手を伸ばした。フレドが家から持ってきてくれた、私の帳簿が置いてある。ルチアはこれがないと落ち着かないから、とフレドがママに言ったらしい。
帳簿を膝の上に開いた。
指が震えて、なかなかページがめくれない。それでも一枚ずつめくって、一番うしろの、何も書いていないページを開いた。
ペンを握った。
ここから先は、もう誰も見たことのない映画だ。予定は崩れた。ソロッツォは年明けを待たなかったし、パパは腕を撃たれただけで、私は死にかけて、マイキーはシチリアにいる。
それでも、変わっていないものもある。
カルロは、まだコニーの夫だ。
カルロがコニーを殴り、それを聞いたソニーが一人で車を飛ばし、高速道路の料金所で、蜂の巣にされる。原作のその日まで、まだ時間はある。
真っ白なページの一番上に、字の汚い名前を一つ書いた。
ソニー。
インクがにじんだ。手の震えのせいか、別の何かのせいかは、わからなかった。
隣で、フレドがいびきの合間に、何か寝言を言った。私の名前だったと思う。
私は帳簿を閉じて、胸の上に抱えた。
次は、ソニー。
今度は、誰にも引き金を引かせない。