コルレオーネ家の病弱末娘になっちゃったので、家族全員救ってみせます   作:シチリアスキー

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家族写真

カメラマンが三脚を広げはじめたので、そろそろだなと思った。

 

一九四五年、八月の終わり。ロングビーチの屋敷の庭は、姉のコニーの結婚式に集まったお客でごった返している。楽団はさっきからタランテラばかり弾いているし、子供たちはテーブルの下をくぐって走り回っているし、親戚のおじさんたちはもうワインで耳まで赤い。

 

ママが手をたたいて、家族を芝生の真ん中に集めはじめる。花嫁のコニー、花婿のカルロ、ソニーとその奥さんと子供たち、フレド、トム。私も肩掛けを直されながら、ソニーに背中を押されて列に入った。

 

あとは父がうなずけば、シャッターが切られる。

 

なのに、父は首を横に振った。

 

「マイケルが来ていない」

 

はい、来ました。生で聞けました。

 

ソニーが「親父、もういいだろ」と文句を言いかけて、父にひと睨みで黙らされる。この流れも知っている。知りすぎていて、口が勝手に動きそうになるのを、私は唇の内側を噛んでこらえた。

 

待っているあいだ、三脚の横にいるカメラマンの助手と目が合った。若い男の子で、さっきからファインダーをのぞくふりをして、ちらちらこっちを見ている。にこっと笑ってみせたら、手にしていたフラッシュの電球を芝生に落とした。

 

ソニーがそっちをにらむと、助手は真っ赤になって電球を拾いに這いつくばる。

 

今年で十八になる。黒い巻き毛に、まつ毛の長い大きな黒い目。日に当たらないせいで肌は青白く、肩掛けにくるまれた体は、姉のコニーより頭一つ小さい。鏡の前に立つたびに思う。男だったころの私が見たら、一目で惚れていた。中身が私じゃなければ、の話だけど。

 

さっきから、親戚のおばさんたちが代わる代わる縁談の話を持ってくる。よそのファミリーの若い男がダンスに誘いに来れば、ソニーが壁みたいに前に立って追い返す。本人の私は、まだ一曲も踊っていない。

 

前世の私は、この映画を数えきれないくらい愛した成人男性だった。自分の名前はもう思い出せないのに、この庭でこれから誰が何を言うかは全部言える。我ながら記憶の配分がおかしいと思う。

 

死んだのかも、わからない。気がついたら、一九二七年のニューヨークで産声を上げていた。生まれたのはコルレオーネ家。父はヴィト・コルレオーネ。原作にいない、五人目の子供として。

 

転生先としてどうなんだろう、これ。ガチャならたぶん大当たりで、同時に大外れだ。

 

もっとも、男だった記憶があるのは前世の分だけだ。こっちでは十八年、女の子として育ってきた。ママにはスカートの裾を直され、兄たちには何かあるたびに抱き上げられて、気がつけば兄に抱きつくのも、新しいドレスにはしゃぐのも、何の抵抗もなくなっていた。考え方もずいぶん女の子のほうに寄ったと思う。男だった私は、今ではたまに頭の中で顔を出す、口の悪い同居人くらいのものだ。

 

おまけに体は最悪だった。生まれてすぐ医者に「この子は長くない」と言われたらしい。冬が来るたびに肺炎になりかけ、階段を一つ上がれば息が切れる。それでも十八まで生きてきたのだから、私の体はしぶといのか、医者がやぶなのか、たぶん両方だ。

 

寝てばかりの子供に、できることは少ない。私はベッドの上で新聞を読み、株価の欄を毎日書き写した。九つのとき、父の前で「その会社の株は来月下がるよ」と言ったら本当に下がって、父はしばらく黙って私の顔を見ていた。

 

それから、コルレオーネの末娘の勘は外れない、という噂が少しずつ広がった。

 

前世の知識のおかげだけじゃない。この体はろくに動かないくせに、頭のほうはやたらとよく回る。帳簿は一度めくれば数字ごと覚えてしまうし、トムが計算機を叩き終わる前に、答えはもう出ている。家庭教師は三人続けて辞めていった。もう教えることがない、と言って。

 

そして父は、私に甘い。それはもうデロデロに甘い。熱を出すたびに仕事を放り出して枕もとに座っていてくれたし、欲しいと言った本は次の日には部屋に積まれていた。ドン・コルレオーネが娘の部屋でスープを冷ましてあげている姿なんて、ファミリーの誰に話しても信じないと思う。

 

その父が、一度だけ私に「だめだ」と言ったことがある。十三のとき、家の仕事を手伝いたいと言ったときだ。

 

結局、父は条件付きで手伝いを許してくれた。触っていいのは、オリーブオイルの会社の運営だけ。表の、きれいな商売の数字だけで、それより奥には指一本入れさせない。寝てばかりの娘に何か打ちこめるものを、と医者に言われたこともあって、トムの横で帳簿を見ることだけは許された。

 

私にはそれで十分だった。オリーブオイルの会社の金を、表の、きれいな金のまま何倍にも増やしてきた。ソニーは私が何をしているのかよく知らない。知っているのは父とトムだけで、トムのほうは、たまに私を見る目が怖い。

 

「ルチア」

 

隣のフレドが、私の肩を叩く。

 

「マイキー、ほんとに来るのか? 俺、腹減ったよ」

 

「来る来る。もうすぐ来る」

 

「なんでわかるんだよ」

 

「勘」

 

フレドが「出た」と笑った。うちの家族は、私の勘を21世紀の天気予報くらいには信じている。

 

列が崩れて、またみんながばらばらに散っていった。父は書斎に戻っていく。結婚式の日、シチリアの男は頼みごとを断れない。だから書斎の前には、もう順番待ちの男たちが並んでいる。葬儀屋のボナセーラさんが青い顔で汗を拭いているのが見えて、私は目をそらした。あの人の頼みが何かも、私は知っている。

 

庭の隅の木陰に、大きな男が一人で立っていた。

 

ルカ・ブラージ。父の用心棒で、この界隈の大人なら名前を聞いただけで顔色を変える男だ。結婚式だというのに誰も近寄らず、ルカの周りだけ芝生がぽっかり空いている。

 

ルカは小さな紙を手に、口の中でぶつぶつ何か言っていた。

 

「ルカ」

 

声をかけると、ルカの肩がはねた。紙を背中に隠し、それから私だと気づいて、目尻を下げる。

 

「…お嬢」

 

「また練習してるの?」

 

「ドンに、ちゃんと礼を言いたいんで」

 

ルカがお祝いの言葉を練習するのを手伝うのは、これで何度目だろう。私が十歳のころ、廊下で同じように紙を握りしめていたこの男に、「一緒に読んであげようか」と声をかけたのが最初だった。娘があのルカ・ブラージに話しかけているのを見て、ママが悲鳴を上げかけたのを、まだ覚えている。

 

あの日から、ルカは私に遠慮しなくなった。というより、ルカを怖がらない女の子を、ルカは私しか知らないのだと思う。

 

「聞かせて」

 

ルカが紙を見ないで、低い声で言った。

 

「ドン・コルレオーネ。お嬢さんの結婚式に招かれて、光栄に、思っています」

 

「うん、いいじゃん。でも顔」

 

「顔?」

 

「顔がね、今から誰か消しに行く人の顔になってる。『光栄です』のところで、もうちょっと口の力を抜いて」

 

ルカが口の力を抜こうとして、余計に怖い顔になった。私は思わず吹き出して、ルカは困ったように頭をかく。この大男が困った顔をすると、ちょっと可愛い。

 

ルカと別れて、テーブルのほうへ戻る途中で、花婿とすれ違った。

 

カルロ・リッツィ。濃い色の髪を撫でつけて、笑うと歯が白い。コニーの腕を取って、来る人みんなに愛想よく挨拶して回っている。

 

「やあ、ルチア。今日もきれいだ」

 

歯の浮くような台詞に、眉がぴくっと動いた。笑いそうになるのを、どうにか口の中で噛み殺す。

 

「ありがと、カルロ。コニーをよろしくね」

 

声がちゃんと明るく出て、ほっとした。

 

この男がこれからコニーを殴ることも、ソニーを売ることも、私は知っている。それでも、この結婚は止められなかった。コニーが初めてカルロを家に連れてきたとき、私は体調がすぐれなくて、数か月寝込んでいた。起き上がれるようになったころには、コニーはもう指輪をしていた。

 

――大丈夫。まだ、時間はある。

 

自分に言い聞かせて、グラスの水を一口飲んだ。

 

門のほうがざわついたのは、そのすぐあとだった。

 

軍服の男が、背の高い金髪の女の人を連れて入ってくる。海兵隊の制服に、胸の略綬。日に焼けた顔。

 

マイケルだ。

 

足が勝手に動いていた。走るなと何百回も言われているのに、芝生を蹴る。三歩目で息が上がり、五歩目で胸が痛くなる。どうでもいい。

 

「ルチア!」

 

先に気づいたのはマイケルのほうだった。駆け寄ってきて、私の肩をつかむ。

 

「走るなって言ってるだろう」

 

「……おかえり」

 

息が切れて、それしか言えなかった。マイケルは怒った顔のまま、それでも私を抱きしめてくれる。軍服の生地はごわごわで、糊が効いていて、知らない匂いがした。

 

戦争に行くと決めたマイケルを、父は許さなかった。家の誰も見送りに行かなかった日、私だけが熱で震える体を奮起させて駅まで行き、ママにこっぴどく叱られてしまった。それから三年、私は毎週手紙を書いた。返事は月に一度来ればいいほうで、届くたびに帳簿を放り出し、ベッドの上で三回は読み返したものだ。

 

「紹介する。ケイだ」

 

マイケルの後ろで、金髪の女の人がにこりと笑った。

 

「はじめまして。あなたがルチアね。マイケルから、手紙の話をたくさん聞いてる」

 

そう言いながら、ケイは私の顔をまじまじと見た。

 

「……でも、こんなにきれいな妹さんだとは聞いてなかった」

 

「口を開くまではな」

 

マイケルが横から余計なことを言う。

 

「ひどくない? ……で、手紙のこと、なんて言ってました?」

 

「字が汚いって」

 

「マイキー!」

 

マイケルが笑い、ケイも笑う。私もつられて笑いながら、ケイ・アダムスという人を見ていた。賢そうで、優しそうで、この家のことを何も知らない人の顔。

 

テーブルに座ると、ケイはすぐにルカのことを聞いた。木陰の大男が、さっきから怖い顔でこっちを見ている、と。

 

マイケルが、ルカと父と、ある歌手の契約の話をはじめる。私はその話も知っている。銃口を頭に突きつけて、契約書にサインさせた話。ケイの顔がみるみるこわばっていくのを見ながら、私は口をはさまずにはいられなかった。

 

「ルカ、ほんとはいい人だよ。ちょっと誤解されやすい顔をしてるだけで」

 

「顔?」

 

「さっきもパパへのお祝いの言葉を練習してたんだけどね、三回やって、三回とも凄い形相で、もう大笑いしちゃって」

 

ケイが笑い、マイケルが「余計なこと言うな」と私の頭を小突く。それからマイケルはケイのほうに向き直って、きっぱり言った。

 

「あれが僕の家族なんだ、ケイ。でも、僕は違う。家の仕事には関わらない」

 

ケイがうなずく。

 

私は曖昧に笑うだけで、うなずくことができなかった。

 

三年ぶりに見る兄の顔は、少し痩せて、大人びていた。この人が五年後、十年後、どんな顔になるのかを、私は知っている。目の奥から何もかもが抜けて、誰の言葉も届かなくなって、それでも家族のために、家族を殺していく顔だ。

 

ケイが化粧室に立ったすきに、私はマイケルの袖をつまんだ。

 

「マイキー。お願いがあるんだけど」

 

「なんだ」

 

「家の仕事には、ぜーったい入らないでね」

 

マイケルが目をまるくして、それから笑った。

 

「入るわけないだろ。大学に戻って、ケイと結婚して、まともな仕事をする」

 

「約束?」

 

「約束する。どうしたんだ、急に」

 

「別に。マイキーにはさ、似合わないから。ああいうの」

 

冗談めかして言ったのに、袖をつまんだ指が離れなかった。マイケルはそれに気づいて、私の手の上に自分の手を重ねた。

 

「心配するな。俺はずっと、お前の兄貴のままだ」

 

それは知ってる、と言いそうになった。知っているから怖いのだ。マイケルは最後まで、家族のことだけを考えている。考えすぎて、壊れていく。

 

「おーい! マイキー!」

 

ソニーの大声が飛んできた。

 

「親父が呼んでる! 写真だ!」

 

もう一度、家族が芝生に集まった。今度は全員そろっている。父がマイケルを自分の隣に呼び、マイケルがケイも入れようとして、私も袖を引っぱって、ケイを列に入れた。ソニーが「ルチア、真ん中に来い、倒れるぞ」と言って私を引き寄せ、フレドが反対側から私の肩に腕を回す。

 

父の手が、うしろから私の頭に置かれた。大きくて、乾いた手だった。

 

カメラマンが手を挙げる。

 

私は、思いきり笑った。

 

前世で、この場面を何度も見た。家族全員がそろった、たった一枚の写真。この写真のあと、誰が撃たれ、誰が死に、誰が誰を殺すのか。スクリーンの外から、全部見ていた。

 

今は、ファインダーのこっち側にいる。

 

フラッシュがパシャリと光った。

 

*

 

秋になった。

 

マイケルはケイと一緒に街へ戻り、屋敷はいつもの毎日に戻った。とはいえ、書斎には毎晩誰かが出入りしている。

 

その夜も、私はトムと二人で、書斎の隅の机に帳簿を広げていた。

 

トム・ヘイゲン。うちの兄弟の中で、一人だけ血のつながらない兄。子供のころ、ソニーが道端で拾ってきたのを、父がそのまま家に置いた。今は弁護士で、父の相談役で、家の仕事の頭脳だ。

 

その頭脳が、さっきから一つの数字の上で指を止めている。

 

「ルチア。この土地、なんで買った」

 

「どれ?」

 

「ネバダの砂漠だ。こんなところ、何もないぞ」

 

「勘」

 

「勘で、こんな金額は動かさないでほしいな」

 

トムの声は、いつもと同じで平らだった。顔を上げると、眼鏡の奥の目がまっすぐこっちを見ている。

 

ラスベガスがこれからどうなるかを、私は知っている。砂漠のど真ん中にネオンが並び、ホテルが建ち、そこに流れこむ金を、コルレオーネはいずれ欲しがるようになる。そのときに、汚い金で取りにいくか、もう持っているきれいな金で取るか。その違いは大きい。

 

でも、トムにそれは言えない。

 

「トム。私が今まで外したこと、ある?」

 

「……」

 

「じゃあ、それでいいじゃん」

 

トムは何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐いて、帳簿のページをめくる。

 

「ドンもいつも言ってるよ。ルチアの好きにさせろ、と」

 

「パパ、話わかるなあ」

 

「俺はわからない」

 

トムがぼそりと言った。

 

「わからないことが、一番気持ち悪い。疑うことが仕事だからな」

 

私は笑ってごまかした。トムのこういうところが好きで、怖い。この家で、私の勘を勘のまま放っておいてくれないのは、トムだけだ。

 

ペンを置いて、窓の外を見た。庭の向こうの門に、見張りの男が二人立っている。

 

私の頭の中には、カレンダーが一枚ある。前世で見た映画を、何度も思い出して、日付を埋めていったカレンダーだ。

 

その次の印がついている日付は、トルコ人がこの家に来る日だった。

 

*

 

ソロッツォがこの家に来たのは、十一月の終わりだった。

 

ヴァージル・ソロッツォ。通り名はトルコ人。浅黒い顔に、よく動く目。麻薬の商売をやっていて、その後ろには、ニューヨークの五大ファミリーの一つ、タッタリア家がついている。

 

ソロッツォは、コルレオーネに出資と、政治家や判事への顔利きを求めにきた。父が持っている、街じゅうの判事や警官とのつながりだ。それがあれば、麻薬の商売は守られる。

 

父はきっぱりと断る。それは決まっている。

 

問題はそのあとだ。父が断りかけたところで、ソニーが口をはさむ。タッタリアが元手を保証するのか、と。ソニーが乗り気だと見たソロッツォは、父さえいなくなればコルレオーネは麻薬に乗ると感づいてしまうのだ。

 

つまり、ソニーのたった一言が、父を撃たせる。

 

だから私は、コーヒーを運ぶ役を、ママから奪い取った。

 

「ルチア、あなたは寝てなさい」

 

「寝てばっかりだと体がなまるの。運ぶだけだから」

 

書斎の扉を開けると、男たちの目が一斉にこっちを向いた。父、ソニー、トム、クレメンザ、テッシオ。それから、客の椅子に座った男。

 

ソロッツォは、私を見た。

 

目が合ったのは一瞬だったと思う。顔、首、肩掛け、手。値踏みするような目が、私の全部を撫でていって、最後に口もとだけで笑った。

 

「ドンの娘さんかな」

 

「末娘だ」

 

父が短く答えた。ソロッツォは「お美しい」とだけ言い、すぐに話の続きに戻った。

 

私はカップを一つずつ配りながら、ソニーの横に回った。

 

ソロッツォが麻薬の話をし、父が黙って聞いている。父の顔は、何を考えているのか一つもわからない。前世でスクリーン越しに見たときより、本物のほうがずっと怖かった。

 

「――お断りする」

 

父が言った。

 

「ソロッツォさん。あんたの商売は、いずれ人を殺す。わしの友人の判事や政治家も、ギャンブルや酒なら見逃してくれるが、麻薬となれば話は別だ。わしがそれに手を貸せば、友人を失うことになる」

 

ソロッツォは顔色ひとつ変えない。

 

「タッタリアが、元手を保証すると言っても?」

 

ソニーの体が、椅子の上で前に出た。

 

口が開く。

 

その瞬間、私の手がすべった。

 

ポットごと。

 

「あっっっつ!!」

 

ソニーが椅子から跳ね上がった。熱いコーヒーが太ももにまともにかかって、ソニーは書斎の真ん中で片足跳びをしながら、聞くに堪えない言葉を立て続けに叫んだ。

 

「ご、ごめんソニー! 手が、手がすべって!」

 

「ルチア、てめっ、お前、わざと――あっつ!」

 

クレメンザが腹を抱えて笑い出した。テッシオが顔をそむけて肩を震わせ、トムが眼鏡を押し上げて天井を見ている。ソロッツォまで、口の端だけで笑っていた。

 

父は笑わなかった。

 

ソニーが着替えに出ていったあと、父はもう一度ソロッツォのほうに向き直り、さっきとまったく同じ声で言った。

 

「わしの答えは変わらん。わしの家族も、同じ考えだ」

 

ソロッツォは丁寧に頭を下げて、帰っていった。

 

客を送り出したあと、私は床にこぼれたコーヒーを拭いていた。膝をついたら、立ち上がるのがきつくなった。体がだるい。たった一杯のコーヒーで、こんなにくたびれる体だ。

 

「ルチア」

 

顔を上げると、父が私を見下ろしていた。

 

「わざとか」

 

「手がすべっただけだよ」

 

父は長いこと黙っていた。そのあいだ、雑巾を握ったまま父の目を見返す。逃げたら負けだ。

 

やがて父が、口もとをゆるめる。

 

「次は、熱くないのにしなさい」

 

それだけ言って、書斎を出ていった。

 

一人になってから、雑巾を握った手が震えているのに気づいた。

 

ついに変えた、変えられた。

 

原作の流れは、変えられるんだ。ソニーは何も言っていない。ソロッツォは、コルレオーネが割れているとは思わずに帰っていった。

 

何かしらの原作に戻る力があるかもしれないが、ひとまず流れを変えられることだけは分かった。

 

それで父が撃たれなくなるのかどうかは、わからない。この先は、もう誰も見たことのない映画だった。

 

*

 

それでも、確かめられることは確かめておこう。

 

数日後、父がルカを呼んだ。タッタリアの店に行って、コルレオーネに不満がある振りをしてこい。向こうの腹を探れ、との命らしい。

 

原作どおりだ。

 

ルカはその店で、カウンターに置いた手をナイフで縫いとめられ、うしろから首を絞められて死ぬ。そのあと、コルレオーネに届けられるのは、魚に包まれたルカの防弾チョッキ。シチリアのやり方で、「ルカは魚と一緒に眠っている」という意味だ。

 

十歳の私の横で、紙を握りしめて照れていたあのルカが、そうなる。

 

黙って見送るなんて、できるわけがない。父がルカを呼んだ日の夜、私はフレドに頼んで、車でルカの部屋まで連れていってもらった。

 

「なあルチア、ほんとにこんなとこ来ていいのか? ママにばれたら俺が殺されるぞ」

 

「ばれなきゃいいの。フレドは車で待ってて」

 

「お前さあ……」

 

ルカの部屋は、思っていたより片付いていた。テーブルの上に、拳銃と、聖母マリアの小さな絵と、食べかけのパン。ベッドの下から、防弾チョッキがのぞいている。

 

扉を開けたルカは、私を見て、それから廊下の左右を確かめた。

 

「お嬢さん。こんな時間に、こんな場所に来ちゃいけません」

 

「明日、タッタリアの店に行くんでしょ」

 

ルカの顔から表情が消えた。

 

誰から聞いたのか、と問う目。私は答えず、ルカも聞かなかった。

 

「ドンの命令です」

 

「うん。行ってもいいよ。止めない」

 

止めても無駄なのは知っている。ルカは父の命令なら、火の中にでも入っていく。

 

だから、止めない。その代わりに。

 

「ルカ。カウンターに、手を置かないで」

 

「……手?」

 

「絶対に置かないで。どんなに話が盛り上がっても。それから、うしろに人を立たせないで。背中に誰かいたら、すぐ振り向いて」

 

ルカは黙って私を見ていた。大きな体が、狭い部屋の中でいっそう大きく見える。

 

「お嬢さんの勘ですか」

 

「うん」

 

「わかりました、お嬢の勘は百発百中ですからな」

 

ルカは一度だけうなずいた。

 

それだけだった。理由も、どうして知っているのかも、ルカは一度も聞かなかった。

 

帰りの車の中で、フレドが何度も「何の話だったんだよ」と聞いてくる。「お祝いの言葉の練習の続き」とだけ答えて、窓に頭をもたせかけた。

 

その夜は、ベッドに入っても目がさえたままだった。ルカの大きな手がカウンターに置かれるところを、何度も思い浮かべてしまう。

 

翌朝、まだ暗いうちに屋敷の門が騒がしくなる。

 

窓から見下ろすと、庭に車が一台入ってくるところだ。後部座席から降りてきた大きな男は、左手を布でぐるぐる巻きにしていて、その布が血で真っ赤に染まっている。

 

ルカだ。

 

ルカが、生きている。生きて帰ってきてくれた。

 

あとでトムから聞いた話では、ルカはタッタリアの店で、うしろから首に紐をかけられる寸前に振り向き、二人を殴り倒して店を出てきたらしい。手の傷は、逃げるときにナイフで切られたものだという。

 

縫いとめられたのではなく、切られただけ。

 

私は自分の部屋で、ベッドに座ったまま、しばらく動けなかった。

 

生きてる。

 

ルカが、生きてる。

 

声に出したら、急に涙が出そうになって、慌てて天井を見上げた。

 

喜んでいられたのは、その日の昼までだった。

 

「ルチア」

 

書斎から出てきたトムが、廊下で私を呼び止めた。

 

「ドンが、しばらく外に出るなと言ってる。家族全員だ」

 

「……何かあったの?」

 

「タッタリアの店で、ルカが二人やった。向こうは、こっちが仕掛けてきたと思ってる」

 

トムの声はいつもどおり平坦だったけれど、眼鏡の奥の目は、さっきから私の顔から離れなかった。

 

「戦争になるかもしれない」

 

背中が冷たくなった。

 

ルカを生かしたことで、ソロッツォに、コルレオーネが気づいていると知らせてしまった。向こうは急ぐ。原作の時期より、きっと早く。

 

原作の日付は、もう当てにならない。

 

*

 

パウリー・ガットは、父の運転手だ。

 

小柄で、愛想がよくて、いつもガムを噛んでいる。クレメンザの子分で、父の送り迎えを任されている。

 

そして、ソロッツォに買われている。

 

原作では、父が撃たれる日に、パウリーは仮病を使って休む。その裏切りがばれて、パウリーはクレメンザに始末される。

 

その男に、私は自分から頼んだ。

 

「パウリー、クリスマスの買い物に行きたいの。車、出してくれる?」

 

パウリーは一瞬、目を泳がせた。外に出るなと、ドンから言われているはずだ。でも、末娘のわがままに逆らうのもそれはそれで面倒なのだろう。結局「少しだけですよ」と言って、車を出してくれた。

 

マンハッタンに入ったところで、私は後部座席から身を乗り出した。

 

「ねえパウリー。トルコ人に会いたいんだけど、連れてってくれる?」

 

ハンドルが、目に見えてぶれた。

 

「な、なんの話です、お嬢さん」

 

「知ってるよ。パウリーがあの人と話してるの」

 

本当は見たことなどない。知っているだけだ。でもパウリーの顔から血の気が引いていくのを見て、それで十分だとわかった。

 

「パパには言わない。約束する。私はただ、あの人と話がしたいだけ」

 

バックミラーの中で、パウリーの目が、私と道路のあいだを何度も往復した。

 

三十分後、私はブロンクスの小さなレストランの奥の席で、ソロッツォと向かい合っていた。

 

店には客がいなかった。入り口に男が二人立ち、厨房の奥からもう一人、こっちを見ている。私が肩掛けを外すと、入り口の二人がそろって帽子のつばに手をやった。ソロッツォの手下でも、そういうところは律儀なようだ。パウリーは車に残された。窓の外に、ハンドルを握ったまま固まっている横顔が見える。

 

ソロッツォは、ナプキンで口を拭いてから言った。

 

「コーヒーをこぼしたおてんばのお嬢さんが、何の用かな」

 

さすがに覚えられてるか。

 

「父を撃つのを、待ってほしいの」

 

ソロッツォの手が、ナプキンを置いたところで止まった。

 

それから、声を立てずに笑った。

 

「おもしろいことを言いますな」

 

「おもしろくないよ。あなたは父がいなくなれば、ソニーが麻薬に乗ると思ってる。乗らないよ。ソニーはパパのこととなったら、頭に血がのぼって何も考えなくなる人だから。あなたが父を撃ったら、ソニーはあなたもタッタリアも、ニューヨークじゅう全部、火の海にする」

 

「それで?」

 

「それで、あなたが欲しいのは金でしょ。麻薬じゃなくて」

 

ソロッツォは何も言わない。

 

私は肩掛けの下から、小さく折った紙を出して、テーブルの上を滑らせた。

 

「来週の木曜、そこに書いた会社の株が跳ねる。試しに買ってみて」

 

ソロッツォは紙を開き、一度読んで、また私を見た。

 

「あんたの勘は外れない、という噂は聞いている」

 

「噂じゃないよ」

 

「なら、なんだ、何が目的だ。こんな危ない店に、病気がちな娘が一人で来る理由がない」

 

この人は頭がいい。原作でもそうだった。だからこそ、父を一番正しいやり方で狙う。

 

「パパは、麻薬の話を二度と聞かない人だから」

 

半分だけ本当のことを言った。

 

「私なら、別のお金を作れる。パパの名前を使わない、きれいなお金。年明けまで待ってくれたら、その話をちゃんとする」

 

長い沈黙があった。厨房の奥で、皿が一枚鳴った。

 

やがてソロッツォは、紙を胸のポケットにしまった。

 

「いいだろう。年明けまでだ」

 

それから立ち上がり、私の椅子のうしろに回る。

 

肩に手が置かれた。私の肩掛けの上から、指の形がわかるくらいの強さで。

 

「コルレオーネは、宝を隠していたらしい」

 

耳もとでそう言って、ソロッツォは店を出ていった。

 

車に戻ると、パウリーが真っ青な顔で私を見た。窓越しに、全部見ていたのだろう。私がトルコ人と向かい合って座り、紙を渡し、最後に肩に手を置かれたところまで。

 

「パウリー、帰ろ。おもちゃ屋に寄ってね。ソニーの子供たちにお土産買わないと」

 

パウリーは返事をせずに、エンジンをかけた。

 

帰りの車の中で、私は窓の外を流れていくクリスマスの飾りを見ていた。

 

年明けまで。そんな約束を、あの男が守るとは思っていない。それでも、一日でも延びれば、それでよかった。

 

その一日のあいだ、私はずっとパパのそばにいる。

 

*

 

それからの私は、父の行くところ、どこにでもついていった。

 

事務所にも、床屋にも、教会にも。肩掛けを二枚重ねて、咳をしながら、父の横にくっついて歩いた。

 

床屋では、見習いの男の子が鏡ごしに私ばかり見ていて、父の揉み上げを片方だけ短くしてしまった。店の主人は真っ青になったけれど、父は鏡をのぞいて「娘を連れてきたわしが悪い」とだけ言い、いつもどおりの代金を置いて帰った。

 

「最近、やけにくっついてくるな」

 

父はそう言いながら、私の手を自分の外套のポケットに入れてくれた。ポケットの中は温かかった。

 

「パパの近くが一番あったかいから」

 

「ママに怒られるぞ」

 

「もう怒られてる」

 

父が喉の奥で笑った。

 

十二月の、クリスマスまであと一週間という日の夕方だった。

 

事務所の前に車を回してきたのは、パウリーではなくフレドだった。

 

「パウリーは?」

 

「今朝から熱だってさ。休み」

 

心臓が一回、大きく鳴った。

 

仮病だ。

 

年明けまで待つと言ったのに。いや、わかっていた。わかっていたのに、手のひらが一気に冷たくなった。

 

「ルチア? 顔、真っ白だぞ」

 

「……寒いだけだよ」

 

父が、通りの向かいの果物屋を見た。

 

「少し、オレンジを買っていこう。ママが欲しがっていた」

 

オレンジ。

 

前世の私は、この映画のオレンジが死亡フラグだと知っていた。誰かが死ぬ場面には、たいていオレンジが転がっている。ネットの考察で読んだ内容だった。

 

その果物屋に、父が、歩いていく。

 

「パパ、待って」

 

「すぐ済む」

 

追いかけた。走れない足で。

 

果物屋の店先に、オレンジが山になって積まれていた。父が一つ手に取り、店の主人と何か話している。フレドは車にもたれて、新聞をめくっている。

 

通りの向こうから、外套の男が二人、まっすぐこっちへ歩いてきた。

 

帽子を深くかぶっている。手を、外套のポケットに入れている。

 

二人の歩く速さが、一歩ごとに上がった。

 

「パパ!」

 

声が出た。生まれてから一番大きな声だったと思う。

 

父が振り返った。男たちのポケットから、手が出てきた。黒いものを握って。

 

私はなりふり構わず父の前に出る。

 

考えたわけではなかった。体のほうが先に、父と男たちのあいだに入っていた。

 

音が二つ、三つ、立て続けに鳴った。うしろで父がうめく声がした。

 

最初は痛くなかった。誰かに胸を強く押されたみたいで、そのまま後ろへよろけ、父の外套にぶつかる。二つ目で脇腹が熱くなる。三つ目はどこに来たのかわからない。

 

足から力が抜けた。

 

地面が近づいてきて、頬に冷たい石が当たった。目の前を、オレンジが一つ転がっていく。

 

遠くで、フレドの声がした。何か叫んでいる。銃を出そうとして、取り落として、拾おうとして、また落とす音がした。

 

男たちの足音が遠ざかっていく。

 

「ルチア! ルチア!」

 

父の顔が、上からのぞきこんでいた。外套の左袖が裂けて、腕から血が流れている。私の体を抜けた弾か、それた弾か、父の腕にも当たっていたのだ。それでも父は、自分の腕なんか見ていなかった。

 

――腕だけで済んだんだ。よかった。

 

そう思ったら、急に安心して、まぶたが重くなった。

 

「目を開けろ!ルチア!」

 

父がこんな声を出すのを、私は前世でも一度も聞いたことがなかった。

 

口の中で、鉄の味がした。何か言おうとしたけれど、言葉の代わりに咳が出て、咳と一緒に温かいものがあふれ出た。

 

父が、撃たれた腕もかまわずに私を抱き起こし、胸に抱えこんだ。写真のときと同じ、大きくて乾いた手が、私の背中を支えている。

 

それから、何も見えなくなった。

 

---

 

マイケルがそのことを知ったのは、新聞からだった。

 

クリスマスの買い物を終えて、ケイとホテルへ戻る途中だった。通りの角で、新聞売りが声を張り上げている。見出しに、父の名前。

 

ヴィト・コルレオーネ、銃撃される。同行の娘、重体。

 

ケイが何か言ったが、マイケルには聞こえなかった。新聞を握ったまま公衆電話に飛びつき、屋敷にかける。出たのはソニーだ。

 

「親父は腕だけだ。ルチアが……ルチアが、親父の代わりに撃たれた」

 

ソニーの声が割れていた。

 

「まだわからねえ。医者は、今夜が山だって」

 

その夜、マイケルは一人で病院へ向かった。

 

ケイはホテルに残してきた。来ると言い張るのに、首を振って置いてきた。あの家のことに、ケイを近づけたくない。それがなぜなのかは、自分でもうまく言えなかった。

 

病院の廊下には、誰の足音もしない。

 

おかしい、と思ったのは、二階に上がってすぐだった。父の病室の前に、見張りが一人もいない。ソニーが手配したはずの男たちが、誰もいなかった。

 

看護婦をつかまえて聞くと、刑事が来て全員を帰したと言う。面会時間はとうに過ぎている、と。

 

マイケルは父の病室に入った。父は眠っていた。左腕を包帯で吊り、顔色は悪いが、息は落ち着いている。

 

それを確かめてから、廊下の突き当たりの部屋へ向かった。

 

ルチアは、ガラスの向こうにいた。

 

ベッドの上に、透明な酸素テントがかぶせられている。その中で、妹はひどく小さく見えた。胸と脇腹に厚く巻かれた包帯。腕に刺さった管。黒い巻き毛が枕の上に広がっていて、その真ん中の顔は、紙よりも白かった。

 

テントのビニールが、ルチアの息に合わせて、浅く動いている。

 

動いている、とマイケルは思った。それだけを見ていた。

 

背後の看護婦が、医者の言葉をくり返した。もともと肺が弱い。弾は一つが肺をかすめ、一つが脇腹を抜けた。助かっても、前と同じには戻らない。

 

「前と同じ、とは」

 

「……長くは、とお医者様が」

 

看護婦はそれ以上言わなかった。

 

ガラスに額を押しつけた。冷たかった。

 

駅のホームで、熱で赤い顔をしたルチアが、手を振っていた。家の誰も見送りに来なかった日に、ルチアだけが来てくれた。毎週届いた、字の汚い手紙。最後の一枚には、「家の中でマイキーの悪口を言えるの、もう私しかいないから早く帰ってきて」と書いてあった。

 

三か月前の結婚式で、袖をつまんで離さなかった指。

 

家の仕事には、入らないでね。

 

あのとき、どうしてあんなことを言ったのか。どうしてあんなに、指が離れなかったのか。

 

マイケルは、ガラスから額を離した。

 

病院の外に車が止まる音がした。

 

窓から見下ろすと、黒い車が一台、エンジンをかけたまま玄関の前に止まっている。中で、男たちの影が動いた。

 

誰も守っていない病室に、撃ち損ねた男と、撃たれた娘が寝ている。

 

マイケルは看護婦に手伝わせて、父のベッドを別の部屋に移した。それから、ちょうど見舞いに来ていた、父に恩のあるパン屋の青年をつかまえて、二人で病院の玄関の前に立った。外套のポケットに手を突っこみ、銃を持っている振りをして。

 

黒い車が、玄関の前をのろのろ通り過ぎていく。窓の奥から誰かがこっちを見て、それから車は速度を上げて走り去った。

 

パン屋の青年が、震える手で煙草に火をつけようとして、何度も失敗した。マイケルは自分のマッチで火をつけてやった。

 

自分の手は、震えていなかった。

 

そのことに、マイケル自身が一番驚いていた。

 

数分後、警察の車が来た。降りてきたのは、大柄な警部だった。マクラスキー。ソロッツォに金をもらっている男だと、のちにトムから聞くことになる。

 

「何をしている、ここで」

 

「父と妹の見舞いだ。見張りはどこへ行った」

 

マクラスキーは答えず、マイケルの顎を殴った。

 

歯が鳴り、口の中に血の味が広がる。膝をつきかけたところへトムの車が止まり、クレメンザの男たちがなだれこんできた。マクラスキーは舌打ちを一つ残して引き上げていく。

 

腫れ上がった顎を押さえて、マイケルは病院の二階を見上げた。

 

突き当たりの窓。カーテンの向こうに、酸素テントの白い影がぼんやり見える。

 

――

 

翌日、ロングビーチの屋敷の書斎には、家族とファミリーの幹部が集まっていた。

 

ソニーは部屋の中を歩き回っていた。目の下に隈を作り、一晩で十も年をとったような顔をしている。テッシオが窓際で黙り、クレメンザは汗を拭き、トムは机の上で何かを書きつけていた。

 

床に、パウリーがいた。

 

両脇をクレメンザの男たちに抱えられ、顔は殴られて腫れ上がっている。今朝、熱があると言ったはずの男は、自分のアパートで荷造りをしているところを見つかった。

 

「誰に頼まれた」

 

ソニーが、パウリーの前にしゃがみこんだ。

 

「し、知らねえ、俺は本当に熱が――」

 

ソニーの拳がパウリーの頬に入った。もう一発。三発目の前に、トムが「ソニー」と短く呼んだ。

 

パウリーは床に血を吐き、それから、這いつくばったまま顔を上げた。目が、部屋の中の人間の顔を順に見ていく。助かる道を探している目だった。

 

「お、俺だけじゃねえ」

 

「何だと」

 

「お嬢さんだ。末のお嬢さんが、トルコ人と会ってた。俺が車を出したんだ。ブロンクスの店で、二人で、何か紙を渡して――」

 

ソニーがパウリーの襟首をつかんで、壁に叩きつけた。

 

「てめえ、ルチアがどんな目に遭ってると思って――」

 

「本当だ! 本当なんだ! お嬢さんが、自分から連れてけって――」

 

三発目が入った。パウリーは声を出さなくなった。

 

ソニーが息を荒らげたまま振り返る。

 

「連れてけ」

 

クレメンザの男たちが、ぐったりしたパウリーを引きずって部屋を出ていった。誰も、パウリーがこの屋敷に戻ってくるとは思っていなかった。

 

扉が閉まる。

 

書斎に沈黙が落ちた。

 

ソニーが「ふざけやがって」と吐き捨て、窓の外をにらむ。テッシオは何も言わない。クレメンザは汗を拭くのをやめていた。

 

マイケルは、トムを見た。

 

トムはペンを止めて、机の上の一点を見ていた。視線の先にあるのは帳簿だ。ルチアがトムの横で毎晩開いていた、あの帳簿。

 

「トム」

 

「あいつは、命乞いで何でも言う」

 

トムはそう言って、またペンを動かしはじめた。

 

その声がいつもより一つ低かったことに、マイケルは気づいた。気づいて、見なかったことにした。

 

あの子は父の前に出たのだ。撃たれたのだ。

 

――でも、なぜあの日、あの子は父のそばにいた。

 

ここ二週間、ルチアはどこへ行くにも父についていったという。体の弱いあの子が、寒空の下を、毎日。

 

何かが起こるのを、知っていたみたいに。

 

マイケルは首を振って、その考えを頭から追い出した。

 

ソニーがまた、タッタリアの名前を叫んでいる。ソロッツォを消す、タッタリアを消す、ニューヨークを焼き払う。そのたびにトムが冷静な声で止める。ソロッツォは警部のマクラスキーを護衛につけている。警官を撃てば、ほかのファミリーも、警察も、街じゅうが敵に回る。

 

「向こうは話し合いを求めてる。こっちから誰か一人、出せと」

 

「話し合いだと? ルチアをあんなにしやがった野郎と、何を話すんだ!」

 

マイケルは、腫れた顎に指で触れた。

 

「僕が行く」

 

全員がこっちを見た。

 

「話し合いの席に、僕が行く。ソロッツォと、マクラスキーと。向こうは僕を、家の仕事に関係ない大学生だと思ってる。警戒しない」

 

ソニーが笑い出した。クレメンザも、テッシオも笑った。カタギのお坊ちゃんが、何を言い出すのか、と。

 

マイケルは笑わなかった。

 

笑い声が、一人ずつ止んでいった。最後まで笑っていたソニーが、弟の顔を見て、口を閉じた。

 

「店の便所に、銃を隠しておいてくれ。僕が二人を撃つ」

 

窓の外は、雪が降りはじめていた。

 

マイケルの目には、病院の白い酸素テントが映っていた。その中で浅く動く、薄いビニール。

 

約束する、と言った。家の仕事には入らない、と。

 

あの約束を破れば、あの子はきっと怒る。

 

それでもいい。ソロッツォが生きているかぎり、あの子も父も、また狙われる。生きて、目を覚まして、怒ってくれるなら、それでいい。

 

---

 

目を開けたら、天井が白かった。

 

知らない天井だ、と言おうとして、喉が動かなかった。代わりにひどい咳が出る。胸の内側をガラスの破片でかき回されるような咳。

 

「ルチア!」

 

横から、聞き慣れた声がした。

 

フレドだった。椅子から転げ落ちそうな勢いで身を乗り出して、私の手を握っている。目の下が真っ黒で、髭が伸び放題で、ひどい顔だった。

 

「起きた……起きた、ルチアが、おい、誰か! 先生!」

 

「……ふれど」

 

声というより、息に近いものが出た。

 

「しゃべるな、しゃべんなくていい。先生呼ぶから、待ってろ、な」

 

フレドは立ち上がりかけて、やめて、また私の手を握り直した。

 

「ごめん」

 

「……なに、が」

 

「俺、銃、落としたんだ。二回も。お前が撃たれてんのに、俺、拾えなくて、手が、震えて」

 

フレドの声が崩れていく。

 

「ルチアじゃなくて、俺が前に出りゃよかったんだ。俺が、俺が撃たれりゃよかった。お前、体弱いのに、なんで、なんでお前が」

 

握られた手に、フレドの涙が落ちてきた。温かかった。

 

フレドが銃を落とすのも、私は知っていた。それでもいいと思っていたのだ。フレドはそういう人だから。優しくて、気が小さくて、肝心なときにいつも何かを取り落とす。それがフレドの一番いいところだと、私は本気で思っている。

 

なのにフレドは、それを一生、自分の傷にしようとしている。

 

「……フレドの、せいじゃ、ないよ」

 

「お前、俺のせいだって言えよ。言ってくれよ、そのほうが」

 

「やだ」

 

フレドが、泣きながら変な顔で笑った。

 

それからしばらく、フレドは私の手を握ったまま、何も言わなかった。窓の外で、雪が降っている。

 

「パパ、は」

 

「無事だ。腕だけ。今は家で寝てる。毎日来るって言って、ママに止められてる」

 

よかった。

 

それは本当に、心の底からよかった。

 

「みんな、は」

 

フレドの手が硬くなる。

 

「ソニーは元気だよ。トムも。コニーも見舞いに来た。カルロは来なかったけど」

 

それから、フレドは無理に明るい声を出した。

 

「見舞いの花がさ、廊下まであふれてんだ。半分はよその家の若いのからで、ソニーが全部窓から捨てようとして、ママに怒られてた」

 

笑おうとしたら胸が痛んで、咳になった。フレドが慌てて背中をさする。

 

「……マイキー、は」

 

フレドは答えなかった。

 

握った手の中で、フレドの指が逃げようとして、また戻ってきた。

 

「フレド」

 

「……シチリアだ」

 

フレドは私の顔を見ないで言った。

 

「マイキーが、ソロッツォと、警官を撃った。レストランで。もう、帰ってこられない。親父の故郷に、隠れてる」

 

窓の外で、雪が降っている。

 

私はそれを見ていた。

 

――撃った。

 

――マイキーが。

 

前世の私は、あのレストランの場面が一番好きだった。便所から出てきたマイケルが、席に戻って、電車の音にかき消されそうな中で、二人を撃つ。銃を床に落として、店を出ていく。主人公が主人公になる瞬間。かっこよかった。何度も巻き戻して見た。

 

スクリーンの向こうなら、それで済んだ。でも、撃ったのは私の兄だ。駅のホームで私に手を振って戦争に行ったマイキーが、今度は自分の手で、人を殺している。

 

あの人は、私のせいで撃ったのだ。

 

私が父の前に出たから。撃たれて、死にかけて、酸素テントの中に入ったから。

 

ルカを救った。父も救えた。原作より、ずっとうまくやれていると思っていたのに。

 

それで、マイケルの指に引き金を引かせた。

 

家の仕事には、入らないでね。

 

約束する。

 

あの日、袖をつまんだ指を、マイキーは上からしっかり握りしめてくれた。

 

「ルチア?」

 

フレドの声が遠い。

 

「おい、ルチア、どうした。痛いのか? 先生、呼ぶか?」

 

痛くはなかった。胸の傷も、脇腹も、今はどこも痛くなかった。

 

息の仕方が、わからなくなっていた。

 

吸おうとすると、胸がそこで止まる。吐こうとすると、喉の奥で何かが詰まる。フレドが叫び、看護婦が走ってきて、誰かが私の口に何かをかぶせた。冷たい空気が流れこんでくる。

 

天井が白い。

 

結婚式の芝生も、白っぽい夏の光だった。家族全員で並んで、私は真ん中で、思いきり笑っていた。

 

あの一枚を撮れたことで、何かを守れた気になっていた。

 

――

 

その夜、私は一人で目を覚ました。

 

フレドは椅子で眠っていた。首を変な角度に曲げて、口を開けて、いびきをかいている。看護婦が置いていった毛布が、肩からずり落ちていた。

 

酸素のマスクを、自分で外した。

 

胸の中は、まだガラスでいっぱいだった。息を一つ吸うたびに、胸の内側がきしむように痛む。医者が言わなくても、わかる。この体は、もう前と同じには戻らない。

 

それでも。

 

ベッドの横の小さな棚に、手を伸ばした。フレドが家から持ってきてくれた、私の帳簿が置いてある。ルチアはこれがないと落ち着かないから、とフレドがママに言ったらしい。

 

帳簿を膝の上に開いた。

 

指が震えて、なかなかページがめくれない。それでも一枚ずつめくって、一番うしろの、何も書いていないページを開いた。

 

ペンを握った。

 

ここから先は、もう誰も見たことのない映画だ。予定は崩れた。ソロッツォは年明けを待たなかったし、パパは腕を撃たれただけで、私は死にかけて、マイキーはシチリアにいる。

 

それでも、変わっていないものもある。

 

カルロは、まだコニーの夫だ。

 

カルロがコニーを殴り、それを聞いたソニーが一人で車を飛ばし、高速道路の料金所で、蜂の巣にされる。原作のその日まで、まだ時間はある。

 

真っ白なページの一番上に、字の汚い名前を一つ書いた。

 

ソニー。

 

インクがにじんだ。手の震えのせいか、別の何かのせいかは、わからなかった。

 

隣で、フレドがいびきの合間に、何か寝言を言った。私の名前だったと思う。

 

私は帳簿を閉じて、胸の上に抱えた。

 

次は、ソニー。

 

今度は、誰にも引き金を引かせない。

 

 

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