玉京台は、人で埋まっていた。
石畳の広場いっぱいに、
「すごい人だな! 吟遊野郎の言ってたとおりだ!」
宙に浮かんだパイモンが、人垣の頭越しに身を乗り出した。
「ほら
蛍はうなずいて、人の間をすり抜けた。
七星迎仙儀式。年に一度、この国の神――
神に会えば、兄の行方がわかるかもしれない。そのために、モンドからここまで旅をしてきた。
「あそこ、香炉の前に立ってるのが、璃月七星の『
パイモンが小声で指さす。白い髪を高く結い、金の飾りを日に光らせた女が、祭壇の前へ進み出たところだった。
女が片手を空へ掲げる。
あれほどざわめいていた広場が、水を打ったように静まり返った。
蛍も空を仰いだ。
雲の切れ間に、何かが見える。
「来た……! 帝君だ!」
パイモンが息をのむ。
巨大な影だった。長い胴、枝分かれした角、岩と琥珀を思わせる色の鱗。竜とも麒麟ともつかない威厳ある姿が、天からゆっくりと――
ゆっくりと、ではなかった。
影は風を裂く音を立てて、まっすぐに落ちてきた。
玉京台の中央に、叩きつけられる。
石畳が砕け、地鳴りが足の裏を突き上げた。舞い上がった土煙の向こうで、巨体はもう、ぴくりとも動かない。
一拍の、空白。
それから、悲鳴が玉京台を揺らした。
「帝君が……帝君が!」
「息を……息をしてないぞ!」
その悲鳴の、ただなかで。
蛍は見た。亡骸が落ちてきた空の、同じ一点に――黒い染みのようなものが三つ、にじむように現れるのを。
染みは見る間に形を持ち、人の姿になった。いや、ひとつは、どう見ても人ではない。黒い衣をはためかせた、白い骨だ。
三つの影は、亡骸を追うように落ちてくる。
「な、なんなんだよ、あれ……!?」
パイモンの声が裏返った。
◇
(落ちてる落ちてる落ちてる!)
モモンガは、落ちていた。
眼下に広がるのは、見たこともない街だった。断崖にへばりつくように重なる赤い屋根。その向こうで光る海。そして真下――大きく張り出した石の台の上で、豆粒のような人の群れが渦を巻いている。
(なんで!? ナザリックは!? 円卓の間は!? サービス終了は!?)
顔に吹きつける風が冷たい。顔といっても皮も肉もない、ただの骨だが、その骨を叩く風が冷たい。
漆黒のローブが、狂ったようにはためいた。手の中の杖――七匹の蛇が絡み合い、それぞれの口に宝玉をくわえたギルド武器、スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを、モモンガは骨の指で必死に握りしめる。これだけは、絶対に落とせない。
(そうだ。俺は、ついさっきまで――)
DMMO-RPG『ユグドラシル』、サービス最終日。
ナザリック地下大墳墓、第九階層。円卓の間には、四十一の席がある。
埋まっていたのは、ひとつだけだった。
ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』のギルド長、
最後に顔を出してくれたヘロヘロも、仕事の疲れのにじむ声で別れを告げ、先にログアウトしていった。また、どこかで。そう返した自分の声だけが、広い部屋に残った。
壁には、ギルドの象徴である杖が飾られていた。仲間たちと素材を集め、皆で作り上げた、たった一本の杖だ。
最後くらい、持たせてもらってもいいだろう。
杖を手に取ったとき、ふと思いついた。
たっち・みーさんとウルベルトさんの子を、最後くらい――。
指輪の力で第七階層へ飛び、守護者を連れてきた。三つ揃いのスーツに丸眼鏡、銀の板に覆われた尾を持つ悪魔、デミウルゴス。創ったのはウルベルト・アレイン・オードル。
同じ第九階層からは、執事を呼んだ。白髪と白い髭の老紳士、セバス・チャン。創ったのはたっち・みー。
二人を、それぞれの創り主の席の後ろに立たせる。
たっち・みーとウルベルト・アレイン・オードルは、顔を合わせれば言い合いになった。正義を掲げる聖騎士と、悪を愛した魔法詠唱者。円卓の会議が二人の口論で終わったことも、一度や二度ではない。
その二人がいなくなって、もう何年になるだろう。
主のいない席の後ろで、二人の子は黙って前を向いている。NPCだ。命令がなければ動かないし、喋りもしない。わかっている。
それでも、こうして見ると、少しだけ――あの頃の円卓に似ていた。
「最後くらい、並べてやりたかったんだ」
誰に聞かせるでもない呟きが、四十一の椅子の間に落ちていった。
視界の隅の時計が、二十三時五十九分を指す。
五十七。五十八。五十九。
零時。
目を閉じて、強制ログアウトの暗転を待った。
次に感じたのは、足元がすっぽりと抜ける感覚だった。
(――で、なんで落ちてるんだよ!)
風の音が戻ってくる。
鼻の奥――鼻などないが――を、甘い煙の匂いがかすめた。香を焚く匂いだ。
(匂い……?)
ユグドラシルで、匂いを感じることはない。そういう決まりだった。
(じゃあ、これは何なんだ。ゲームじゃないなら、いったい――)
考えがまとまるより先に、石の台が迫ってきた。
(地面! 地面地面地面! 〈飛行〉! ……って、こういうときどうやって唱えるんだよ!)
恐慌が胸の内でふくれ上がり――ある一点で、唐突に凪いだ。
頭から冷水を浴びせられたように、思考が静まる。恐怖が、焦りが、すうっと引いていく。
(……え? なにこれ。急に落ち着いた)
次の瞬間、モモンガは玉京台に激突した。
石畳が砕ける音。土煙。
痛みは、なかった。
(……生きてる? いや、アンデッドだから最初から死んでるけど。落下ダメージ、入ってないのか?)
ひび割れた石の上で、モモンガはゆっくりと身を起こした。骨のどこにも欠けはない。杖も無事だ。
すぐ両脇に、二つの影が音もなく降り立った。執事服の裾ひとつ乱さないセバスと、指で眼鏡の位置を直すデミウルゴス。
土煙の向こうから、悲鳴と怒号が押し寄せてくる。何百という人間の目が、こちらを向いていた。
モモンガは立ち上がり、周囲をゆっくりと見渡した。眼窩の奥で、赤い光が揺れる。
支配者として練習してきた無数の台詞の中から、この場にふさわしいものを選び取る。
「――騒がしいな」
低く、よく通る声だった。それだけで、広場の悲鳴がぴたりとやんだ。
(いや、騒がしいのは当たり前だろ! 何が起きてるのか一番わかってないの、俺だろ!)
「モモンガ様、お怪我はございませんか」
右から、セバスの声がした。
(……え?)
「足元にお気をつけくださいませ、モモンガ様。人間が、ずいぶんと集まっておりますね」
左から、デミウルゴスの声。
(喋った。セバスが。デミウルゴスが。NPCが、自分から)
声も口調も、設定どおりだ。だがユグドラシルのNPCに、こんな受け答えができるはずがない。
(コンソールは!?)
視界のどこにも、見慣れた画面は出てこない。GMコールも、ログアウトも、何ひとつ。
(落ち着け。……いや、落ち着いてはいる。強制的に落ち着かされてる。それはそれで怖い!)
デミウルゴスが手で示した足元に、目を落とす。
すぐ脇に、巨大な獣が横たわっていた。
角をいただいた長い首が、砕けた石畳の上に力なく投げ出されている。鱗の一枚一枚が、磨いた石のように鈍く光っていた。美しい獣だ。そして、ぴくりとも動かない。
(……死体?)
「骸骨が……喋った……」
「帝君のすぐ後から、あいつらが空から降ってきたんだ!」
「帝君を……あの骸骨が、帝君を!」
群衆のささやきが、また悲鳴へ変わっていく。
(帝君? 神様? これが? ――俺がやったことになってる!?)
「帝君が害されました。千岩軍、玉京台を封鎖。誰ひとり、外へ出さないように」
祭壇の前に立つ白い髪の女が、張りのある声で告げた。
「はっ、凝光さま!」
応じたのは、ひときわ立派な鎧の男だった。千岩軍の隊長らしい。その号令で、広場の四方から槍を構えた兵士たちがなだれ込んでくる。
あっという間に、三人の周りに槍の穂先が林のように並んだ。
「動くな、神殺しの下手人ども!」
隊長が吠える。
「帝君の御前だ。武器を捨てて、跪け!」
跪け。その一言で、モモンガの隣の空気が変わった。
デミウルゴスが、穏やかに微笑んでいた。微笑んだまま、眼鏡の奥の宝石の目が、すうっと細くなる。
「モモンガ様に向かって、跪けと?」
(あ、まずい。この顔はまずいやつだ)
「跪くのは、君たちの方だ」
デミウルゴスは、ほんの少しだけ声を張った。
「平伏したまえ」
次の瞬間、玉京台の上の人間が、一斉に崩れ落ちた。
槍が石畳に転がる。兵士たちが、見えない手で頭を押さえつけられたように額を地につける。隊長も、その後ろの兵も、群衆も。商人も、船乗りも、母親も。
「ふぎゃっ!?」
群衆の中で宙に浮いていた小さな子どもまでが、べしゃりと石畳に落ちた。
「な、なんだこれ! か、体が勝手にぃ!」
見渡すかぎり、何百という人間が地に伏している。
その中で、立っている者が二人だけいた。
一人は、祭壇の前の白い髪の女。凝光と呼ばれた女は、膝ひとつ折らず、裾ひとつ乱さず、静かにこちらを見据えていた――骸骨ではなく、その隣の眼鏡の男を。
もう一人は、群衆の只中。白い衣に金の髪、髪に白い花を挿した少女が、地に伏した小さな連れの傍らに立っていた。その手には、いつの間にか一振りの剣が握られている。
(……効いてない? 〈支配の呪言〉は、格下になら効くはずだ。じゃあ、あの二人は格下じゃないってことか。この世界で? まさか――プレイヤー?)
胸の奥で、何かが跳ねた。もしもあの少女が、ユグドラシルのプレイヤーなら。去っていった誰かへ、繋がっているなら――
「立っている娘がいるぞ!」
額を石畳に押しつけられたまま、目だけを横へ向けて、隊長が叫んだ。
「金の髪の娘だ! あの者どもの一味に違いない、逃がすな!」
「違う。私は――」
少女が言いかける。だが地に伏した何百もの目が、今はもう、彼女の足元を見ていた。
(あー……巻き込んだ。完全に巻き込んだ)
「モモンガ様」
デミウルゴスが、恭しく一礼する。
「呪言を退ける者が二人。いかがいたしましょう。始末いたしましょうか」
(始末って……これ以上ややこしくしてどうする!)
「不要だ」
モモンガは、重々しく首を横に振った。それから、ぐるりと周囲を見渡す。
砕けた石畳。動かない神の亡骸。その横に立つ、黒衣の骸骨。
「……退くぞ」
(神様が死んだ現場に骸骨って、どう見ても犯人だろ!)
踵を返しかけて、モモンガは足を止めた。剣を握った少女を振り返る。
「そこの娘。共に来るがよい」
「どうして、私が」
「ここに残れば、お前も“一味”だ」
デミウルゴスが、眼鏡の奥でうっとりと目を細めた。
「さすがはモモンガ様。呪言を退けるほどの駒、手元に置いておくに越したことはございませんね」
(駒って……いや、そういうんじゃなくて!)
少女は唇を結び、足元に目を落とした。
「蛍ぁ……オイラ、動けないぞぉ……」
石畳に張りついたまま、小さな連れが情けない声を出す。
少女は剣を消し、その体を片腕ですくい上げた。それから、まっすぐにモモンガを見た。
「話は、あとで聞く」
◇
玉京台から港へ下る長い石段を、五人は駆け下りていた。
正確には、走っているのは四人だ。パイモンは蛍の腕の中で、ひれ伏した格好のまま、板のように固まっている。
「おい! これ、いつまで続くんだよ! オイラ、ずっとおでこが下なんだぞ!」
「静かに」
石段の下から、鬨の声が上がった。
呪言の届かなかった、下の詰所の千岩軍だ。二十人はいる。槍の穂先をそろえ、石段を駆け上がってくる。
「モモンガ様。この程度の人間ども、もう一度――」
眼鏡の男が、一歩前へ出た。
「よい」
骸骨が、短く遮る。
「しかし、モモンガ様。放っておけば、いくらでも湧いて出ましょう。いっそ、この街ごと――」
「よい、と言った」
骸骨の声の温度が、一段下がった。眼鏡の男は口をつぐみ、深々と頭を下げる。
「セバス」
「かしこまりました」
老執事が、蛍の横をすり抜けて前へ出た。
速くはない。少なくとも、蛍の目にはそう見えた。散歩でもするような足取りで、老人は槍の林の中へ入っていく。
最初の兵士が槍を突き出した。老人の手が、その柄にそっと添えられる。それだけで兵士の体はくるりと回り、石段の脇の植え込みへ尻から落ちた。
二人目。三人目。突き出される柄を払い、足を払い、手首を返す。兵士たちは次々に転がり、尻もちをつき、気がつけば石段の両脇に積み上がっていた。
誰ひとり、血を流していない。
「失礼。少々、道を空けていただきます」
最後の一人の槍を指先でつまみ取って、老人は丁寧に一礼した。
「な……なんなんだ、このじいさん……」
尻もちをついた兵士が、呆然と見上げる。
蛍は走りながら、その背中から目を離せなかった。
手加減だ。それも、ずいぶんと余裕のある。
――この人たちは、何者なの。
石段を下りきり、港へ続く路地へ飛び込んだところで、腕の中のパイモンが急にじたばたと暴れだした。
「う、動く! 動けるぞ! やったー!」
◇
港の外れの倉庫街。積み上げられた木箱の陰に、五人は身を潜めていた。
遠くで、銅鑼が鳴っている。自分たちを探す合図だろう。
(とりあえず、撒いた……か?)
「おい、そこのガイコツ!」
宙に浮き直ったパイモンが、モモンガの鼻先――鼻はないが――に、びしりと指を突きつけた。
「オイラになにしたんだよ! おでこに石畳の跡がついちゃったじゃないか!」
(ガイコツ)
「やったのは私ではない」
「じゃあ、そっちのしっぽメガネか!」
パイモンの指が、くるりとデミウルゴスに向く。
デミウルゴスは、にこやかに微笑んでいた。微笑んだまま、銀の尾の先が、こつりと石畳を叩く。
(あ、だめだ。その笑顔、さっきのやつだ)
「しっぽ、メガネ」
「そうだぞ! しっぽがあって、メガネだからな!」
「モモンガ様。この小さな生き物の舌を、少々――」
「デミウルゴス」
モモンガが、低く名を呼んだ。
「……は」
デミウルゴスは一礼し、それから、パイモンにだけ微笑みかけた。
「覚えておきますよ、小さなお嬢さん」
「ひっ」
パイモンが、蛍の肩の後ろに隠れた。そこから顔だけ出して、今度はセバスに指を向ける。
「じゃ、じゃあ、じいさんは執事じいさんな!」
「セバス・チャンと申します」
「執事じいさん!」
「では、お好きなように」
(受け入れるのかよ)
蛍が、木箱から背を離した。その手に剣はない。それでも、少しの隙もない立ち方だった。
「答えて。あなたたちが、帝君を殺したの?」
小柄な少女だった。だが、その目には、骸骨の王を前にした怯えがひとかけらもない。
(この子、本当に何者なんだ。呪言は効かないし、骸骨相手に一歩も引かないし)
「知らぬ。我々は、空から落ちてきただけだ」
(本当に。本当にそれだけなんだって)
「そんな言い訳、通るわけないだろ!」
蛍の肩の後ろから、パイモンがわめいた。
「帝君が落ちてきて、みんなが悲鳴を上げて――そのすぐ後に、おまえらが降ってきたんだぞ! 怪しすぎるだろ!」
(すぐ後……)
眼窩の奥で、赤い光が小さく揺れた。
「名前は」
蛍が、短く訊いた。
(名前。……ここで、どっちを名乗る?)
鈴木悟、ではない。ここにいるのは、骸骨の魔法詠唱者だ。
「モモンガ。そう呼ぶがよい」
「モモンガ? 変な名前! ガイコツでいいだろ、ガイコツで!」
(よくない)
「オイラはパイモン、こっちは蛍だ! 言っとくけど、オイラたちは帝君のこととは関係ないからな。おまえらのせいで、とんだとばっちりだ!」
わめくパイモンを眺めながら、モモンガは別のことを考えていた。
ユグドラシルのプレイヤーなら、悪名高きギルド『アインズ・ウール・ゴウン』の長の姿を、「ガイコツ」で済ませるはずがない。
(プレイヤーじゃ、ないのか……)
蛍とパイモンが戸口へ寄り、外の様子をうかがい始める。その隙に、デミウルゴスが音もなく主の傍らへ寄った。
「モモンガ様」
ひそやかな声だった。
「お見事でございました。この地の神が斃れた、まさにその刻に、御降臨なさるとは」
(は?)
「人間どもの悲鳴が上がった、その瞬間でございました。偶然であるはずがございません」
眼鏡の奥で、宝石の目が楽しげにきらめく。
「――神の座が、空きましたね」
(やめろ)
モモンガは、重々しくうなずいた。うなずくほかなかった。
(やめろ。その笑顔はやめろ。俺はただ、サービス終了を見届けてただけなんだって!)