薄暗い廊下に、乾いた足音が響いていた。
カツ、コツ、カツ、コツ……。
規則正しいその音には、時折、鈍い金属音が混じる。
空気には機械油の匂いが染みついていた。長年にわたって蓄積された油脂と金属の匂い。それは、この施設が単なる建造物ではなく、巨大な機械の一部であることを物語っていた。
その廊下を、一人の男が歩いていた。
深緑を基調としたパイロットスーツ。首元から胸にかけては白く切り替えられ、左胸には「De Marchi」の刺繍が施されている。胴体の正面と側面を走る白いラインは、身体の輪郭をいっそう際立たせていた。
同色のパンツは鍛えられた大腿部にぴたりと密着し、膝の上で途切れている。その裾には「GORE」の文字が刻まれていた。
白いソックスはふくらはぎの中ほどまでを覆い、その上には長年の鍛錬によって形作られた筋肉が露わになっている。
男は無言のまま歩き続けた。
「少佐!」
背後から若い女の声がした。
男が振り返るより早く、女は小走りで追いつき、その歩調に合わせた。
二十代半ばだろうか。
男と同じ深緑の作業服を身にまとっているが、こちらは上下がつながったツナギだった。胸元まで下ろされたジッパーの隙間から白いTシャツが覗いている。
整えられた髪と清潔感のある顔立ちに反して、その袖口や膝には黒い油汚れが残っていた。
「可変機構の作動確認は完了しました。ただし、実走での負荷試験はまだ十分ではありません。そこはくれぐれも……」
「分かっている」
男は前を向いたまま答えた。
「しかし、試さなければデータも得られんだろう?」
「それは、そうですが……」
「無茶はせんよ」
短い返答だった。
女は何か言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。
やがて廊下の先に巨大な隔壁が現れた。
男が近づくと、重々しい駆動音とともに隔壁が左右へ開いていく。
その向こうには、広大な格納庫が広がっていた。
金属を打つ音。
工具の回転音。
作業員たちの怒号にも似た指示の声。
そして、そのすべてを圧倒する存在が格納庫の中央にあった。
ワインレッドの機体。
照明を受けた装甲は鈍く輝き、複雑な曲面と鋭角的な構造が入り混じったその姿は、見る者に独特の威圧感を与えていた。
決して最新鋭の機体ではない。
しかし、時代遅れと呼ぶには、あまりにも洗練されていた。
男は一瞬だけ足を止め、機体を見上げた。
そして、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「……悪くない」
機体の胸部へ向かって、細い移動通路が伸びていた。
男はその通路を小走りに進み、開放されたコックピットへと身体を滑り込ませた。
「少佐! あの、もう一つ確認が!」
整備兵の女が後を追う。
しかし、その声が届くより早く、
ガコンッ!
重厚なハッチが閉鎖された。
「……もう」
女は小さく息を吐いた。
そして、閉じられたハッチを見上げながら呟いた。
「本当に、分かってるのかしら……」
* * *
闇。
コックピットの内部は、完全な暗闇に包まれていた。
やがて、男の正面に小さな光が浮かび上がる。
起動スイッチ。
男は迷うことなく指を伸ばした。
カチッ。
低い電子音が鳴った。
次の瞬間、暗闇が消えた。
正面、左右、頭上、そして足元。
あらゆる方向に格納庫の風景が広がっていく。
全周囲モニター。
機体外部の光学情報が統合され、コックピットの内壁そのものが外界へと置き換わったのだ。
先ほどの移動通路も見える。
そこには、腕を組んでこちらを見つめる整備兵の姿があった。
「……さて」
男は手元のレバーへ指をかけた。
カチン。
低いモーター音が響く。
カチン、カチン。
レバーを順に起こしていくと、視界の各所に半透明の情報ウインドウが展開された。
機体姿勢。
速度。
出力。
各種センサーの接続状況。
『衛星を捕捉しました』
電子音声が告げる。
『各センサー接続完了。ペダリングダイナミクスを表示します』
男の視線の先に、左右の出力バランスとパワーフェーズを示す図形が浮かび上がった。
『レーダー接続完了』
続いて、別系統の音声が割り込む。
『Shokzへようこそ! バッテリーは充電されています』
「……よし」
男は満足げに頷いた。
手元に置かれたグローブを取り上げ、一本ずつ指を通す。
指先を露出させたそのグローブは、操作系との直接的な接触感覚を重視したものだった。
男は両手を軽く握り、開いた。
そして、正面へと伸びる操縦桿を握る。
左右に大きく張り出し、風を切り裂く翼のような曲線を描く操縦桿。
その先端には、STIと呼ばれる複合操作グリップが装備されていた。
指先がレバーに触れる。
カチリ。
機体の駆動系が応答した。
ウゥゥゥン……。
低く唸る機械音。
それは次第に高まり、やがて機体全体が静かな鼓動を始めたかのように感じられた。
「ガルバルディ、発進準備よろし?」
管制官の声が通信回線に入った。
男は正面を見据えた。
「各系統異常なし。オールグリーンだ」
一拍置いて答える。
「いつでも行けるぞ」
『了解。発進シークエンスへ移行します』
足元で小さな金属音が鳴った。
カチンッ!
クリートがペダルに噛み合う。
男はもう一度、操縦桿を強く握り直した。
『発進経路クリア』
『周辺安全確認』
『RMS-117、ガルバルディβ。発進どうぞ!』
男の腰が、ゆっくりと持ち上がった。
膝が伸びる。
大腿部の筋肉が膨張し、スーツの生地が張り詰める。
全身の重量が駆動系へと伝わっていく。
そして。
「ガルバルディβ……」
男は低く呟いた。
次の瞬間、全身に力を込める。
「出るぞッ!!」
ゴォォォォォッ!!
機体が弾けるように加速した。
格納庫の出口が一瞬で迫り、視界いっぱいに外の光が広がる。
ワインレッドの機体が、解き放たれた。
* * *
陽光の下に、その全貌が現れた。
ボリュームのあるフレーム。
極端なまでに太く造形されたダウンチューブ。
空気の流れを意識した鋭い輪郭。
機体側面には、誇らしげに刻まれた文字があった。
TIME MACHINE TM-02
そしてダウンチューブを横切る、大きなBMCのロゴ。
シートポスト上部には、見慣れない鈍く銀色光る機構が組み込まれていた。
後輪が唸る。
高速で回転するスプロケット。
チェーンを介して伝えられた駆動力が、Lún HYPER R45のエアロリムを回転させる。
路面を捉えたタイヤGP5000STRが、その力を余すところなく前進へと変えていく。
風切り音が高まった。
周りの景色がスピードに引きずられていくのがわかる
モニターのスピードメーターの数値が加速していく
「25、26、27、28、29...」
「......」
「29、29、28、27...」
整備兵「少佐!そこは30まで行きましょうよ」
少佐「分かっているっ!」