荒川サイクリングロード。
通称、荒サイ。
都心を貫く巨大な河川に沿って、長く伸びる平坦な航路。
そこは数多くの機体が集まり、それぞれの性能とパイロットの技量を試す、関東有数の戦闘空域だった。
ワインレッドの機体が、風を切って進んでいた。
RMS-117、ガルバルディβ。
その速度は依然として30km/h前後を行き来している。
「……むぅ」
少佐は速度表示を睨んだ。
『少佐、先ほどから速度が安定しませんね』
通信回線に整備兵の声が響く。
「分かっておる」
『機体の調子は悪くないはずですが……』
「機体はな」
『……はい?』
「何でもない」
少佐は手元の操縦桿を握り直した。
その操縦桿は、通常のガルバルディβとは異なる形状をしていた。
3T Aeronova。
左右に大きく張り出した翼のような断面を持つ、空力特性に優れたカーボン製操縦桿。
その両端にはSTIと呼ばれる複合操作レバーが装備されている。
本来、この機体に搭載されるはずのない装備だった。
ガルバルディβ BMC TM-02。
それは、純粋な高速巡航とタイムトライアルを目的として設計された機体である。
極太のダウンチューブ。空気抵抗を抑えるための特殊なフレーム形状。そして、パイロットを通常のロード機より前方へ配置する独特のジオメトリー。
その機体を、少佐はロード機として運用していた。
だが、問題があった。
* * *
数か月前。
エウーゴ技術開発局、第三整備格納庫。
「……位置が出んな」
機体にまたがった少佐が、サドルの位置を確認しながら呟いた。
傍らで図面を広げていた若い女整備兵ステファニーが顔を上げる。
「少佐、やはり後退量が不足しています」
「分かっている」
「この機体は、通常のロード機とシートポストの傾斜角が違います。元々パイロットを前方に配置する設計ですから」
ステファニーは図面の一箇所を指した。
「サドルをレールの後端まで下げても、希望するロードポジションには届きません」
「……ならば、固定位置そのものを後方へ移せばよい」
「え?」
「ブラケットを作る」
「……少佐?」
「シートポストの支持構造を変えれば、まだ後退させられるだろう」
ステファニーは図面と少佐を交互に見た。
「……それを、今から?」
「他に方法があるか?」
「…………」
ステファニーは小さく息を吐いた。
「また設計変更ですね……」
こうして、最初のシートポスト延長ブラケット1号機が製作された。
その後も改良は続き、ついにガルバルディβはロード機として実用的なポジションを獲得する。
だが、少佐はそこで満足しなかった。
ある日の整備記録に、こんな言葉が残されていた。
『ロードポジションの確立には成功。しかし本機本来の空力性能を活用するには、再び前方乗車位置への移行が必要となる。両形態の共存は不可能なのか』
その記録を読んだステファニーは、嫌な予感を覚えた。
「……少佐」
「何だ?」
「まさか、また何か作るおつもりでは……」
少佐は作業台の上に、小さな金属部品を置いた。
「これを見ろ」
黒く鈍く輝く、複雑な形状の可動部品。
ステファニーの目が細くなる。
「……偏心軸?」
「そうだ」
少佐は図面を開いた。
「サドルを単純に前後へスライドさせるのではない。偏心軸を中心に円弧を描かせる」
「円弧……」
「前方へ移動すると同時に、座面の高さも変化する」
ステファニーは図面に視線を落とした。
「つまり……ロードポジションとTTポジションを、ひとつの機構で切り替える?」
「ふっ……そういうことだ」
「ですが、こんな機構をTM-02の専用シートポストに取り付けるには……」
「だから専用ブラケットを設計したのだよ」
「…………!」
その設計は、市販のRedshift Dual Position機構を基礎としながら、TM-02固有のシートポスト構造に対応するためのものだった。
独自に製作された金属ブラケットが、両者を接続する。
その名は、
B.T.B.S.
BMC Timemachine Bracket System.
従来の機体には存在しなかった、可変式サドルポジションシステムである。
「……少佐」
「何だ?」
「これ、もし本当に動けば……」
「ロード機として走行しながら、必要なときには本来のTT機へ戻れる」
ステファニーは、機体の上部に目を向けた。
Aeronovaの上には、すでに二本の細長い操縦桿が装備されていた。
Profile Design T4+。
前方へ伸びたバーと、パイロットの肘を保持するパッド。
本来のTTフォームを実現するための装備だ。
ステファニーはもう一度、手元の図面を見た。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……可変機、ですか」
少佐は不敵に笑った。
「面白かろう?」
「…………」
ステファニーはしばらく黙っていた。
「……本当に、少佐は……」
「何だ?」
「普通にロードバイクを買うという選択肢はないんですか?」
「つまらんだろう」
「そういう問題じゃありませんっ!」
* * *
そして、現在。
ガルバルディβは荒川の長い直線航路を進んでいた。
少佐は速度計を確認する。
30。
31。
風向きが変わったのか、速度がわずかに伸び始めている。
「……頃合いだな」
『少佐?』
「ステファニー。可変機構の実走試験を行う」
通信回線の向こうで、何かが落ちる音がした。
『……えっ!?』
「B.T.B.S.を起動する」
『少佐!待ってください!まだ長時間の負荷試験が終わっていません!』
「分かっている」
『でしたら!』
少佐は右手を操縦桿から離し、サドルの下部へ伸ばした。
指先が、可変機構の操作部に触れる。
「……行くぞ」
カチンッ!
金属音が響いた。
ロックが解除される。
少佐はペダルへの荷重を調整しながら、身体の位置を移した。
銀色のブラケットに接続された機構が動く。
偏心軸が回転を始める。
サドルを支える機構が円弧を描き、座面が前方へせり出していく。
同時に、サドルの高さが変化する。
それは単なるスライド機構ではなかった。
パイロットの骨盤位置を、ロード走行用から高速巡航用へと変化させる装置だった。
カチンッ!
再びロックが掛かった。
『B.T.B.S.、前方ポジションへの移行を確認!』
「よし……!」
少佐は上体を深く倒した。
STIから両手を離し、Aeronovaの上に伸びるT4+を握る。
肘をパッドに預ける。
肩をすぼめ、頭を低くする。
背中が風の流れに沿うように沈み込んだ。
ロードポジションとはまったく異なる、極端な前傾姿勢。
TTフォーム。
『少佐!変形シーケンス完了!』
「うむ」
『機体姿勢、安定しています!』
「……どうだ?」
『各センサー正常!サドル位置も保持されています!』
少佐は速度計に目を向けた。
32。
33。
……34。
風が変わった。
それまで全身を押し返していた空気の壁が、ふっと薄くなったように感じられた。
ペダルに伝える力は変わらない。
それなのに、速度だけが伸びていく。
35。
「……これだ」
少佐は小さく笑った。
「この感覚を、私は待っていたのだ」
長い時間を掛けた設計。
何度も繰り返した寸法の検討。
製作したブラケット。
位置の調整。
試行錯誤の末に完成した可変機構。
そのすべてが、今この瞬間、ひとつの結果として現れていた。
『少佐!35km/hです!』
「ふっ……」
『すごい……本当に変形したんですね!』
「当然だ」
少佐は低い姿勢のまま、前方を見据えた。
「これが……ガルバルディβの、本来の性能だ」
『少佐……!』
整備兵の声にも、興奮が混じっていた。
『B.T.B.S.、実走試験成功です!』
「うむ……!」
だが。
その笑みは、長く続かなかった。
「…………ん?」
最初は、ほんの小さな違和感だった。
胸の奥に、何かがつかえている。
「……ぐっ」
少佐は息を吸おうとした。
しかし、思うように空気が入ってこない。
「……何だ?」
もう一度、大きく息を吸う。
「……くっ!」
腹部が圧迫されていた。
深く折り曲げられた上体。
前方に移動した骨盤。
極端な前傾姿勢。
そのすべてが、少佐の腹部を容赦なく押し潰していた。
『少佐?』
「…………」
『少佐、どうしました?』
「……息が……」
『えっ?』
「息が……苦しい……!」
『少佐!?』
「くっ……腹が……!」
『腹部!? 被弾したんですか!?』
「違うっ!!」
少佐は必死に呼吸しようとした。
しかし、突き出た腹部が太腿と上体の間に挟み込まれ、十分な呼吸ができない。
「ぐおおお……!」
『少佐!呼吸が乱れています!』
「……分かって……おる……!」
『TTフォームを解除してください!』
「……まだだ……!」
『少佐!!』
速度計の数値が変化する。
35。
34。
33。
少佐の踏力が落ち始めた。
「……くっ……!」
『少佐!出力低下!』
32。
31。
『少佐!もう限界です!』
「……ええい!!」
少佐はT4+から手を離した。
上体を起こし、STIを握る。
サドル下の操作部へ手を伸ばす。
カチンッ!
ロックが解除された。
身体の位置を戻すと、偏心軸が再び回転し、サドルが後方のロードポジションへと復帰する。
カチンッ!
『B.T.B.S.、ロードモード復帰を確認!』
「はぁっ……!」
少佐は大きく息を吸った。
「はぁ……はぁ……!」
ようやく、肺に空気が入ってくる。
「……ふぅぅ……」
速度は28km/hまで落ちていた。
通信回線に、しばらく沈黙が流れた。
『……少佐?』
「……何だ」
『大丈夫ですか?』
「……問題ない」
『問題しかありません!!』
「…………」
『あれほど無理はしないでくださいと!』
「……機構自体は正常に作動した」
『それはそうですけど!』
「変形動作も問題ない。固定も確実だ」
『はい……』
「……設計は成功だな」
整備兵は何か言おうとして、言葉を止めた。
少佐の言うことは、間違っていなかった。
機械は正常に動いた。
サドル位置は設計どおりに変化し、TTフォームへの移行にも成功した。
実際、空力性能の向上も体感できた。
問題は、機体にはなかった。
『……少佐』
「変形時間を記録しておけ」
『……30秒です』
「…………」
『TTモード、継続時間30秒』
「…………」
『少佐』
「何だ……」
『カップラーメンすら作れません!!』
「ええい!分かっておるわ!!」