荒川サイクリングロード。
通称、荒サイ。
都心の北方から東京湾へと続く、長大な河川敷の航路。
その広大な空間には、今日も数多くの機体が集まっていた。
軽量性を追求したロード機。
長距離巡航を得意とするエアロロード。
太いタイヤと強靱な足回りを備えたグラベル機。
そして、純粋な速度を求めるタイムトライアル機。
それぞれ異なる設計思想を持つ機体が、同じ航路を行き交う。
時には互いの速度を競い、時には黙ってすれ違う。
そこは、パイロットたちが日々、自らの能力を試す戦場だった。
* * *
ワインレッドの機体が、荒川の堤防に沿って進んでいた。
RMS-117、ガルバルディβ。
極太のダウンチューブが風を切り、Lún HYPER R45のエアロリムが乾いた回転音を響かせる。
少佐は操縦桿を握り、前方に伸びる航路を見据えていた。
今日の任務は、新型可変機構B.T.B.S.の作動試験と、換装された次世代ホイールユニットの性能評価。
その両方を兼ねた試験航行だった。
速度計は、30km/hを超えている。
31。
32。
少佐は手元のシフトレバーを操作した。
カチンッ。
チェーンが一段、重いギアへと移る。
ペダルに力を加える。
車体がわずかに加速した。
33。
「……悪くない」
少佐は口元を緩めた。
以前装着していた軽量ホイールとは、明らかに異なる感触。
踏み出しの軽さだけではない。
速度が乗ってからの伸び。
高速域で車体が前へ進もうとする感覚。
それが、今回の改修で得られた新しい特性だった。
『少佐、各部の状態は良好です』
通信回線から、聞き慣れた女の声が届く。
「うむ」
『新型ホイールの感触はいかがですか?』
「いいぞ。高速域での安定感が増したようだ」
『それは何よりです。ですが、可変機構の試験については……』
「分かっておる」
『本当ですか?』
「……お前は毎回それだな」
『毎回、心配になることをなさるからです!』
少佐は小さく笑った。
そのときだった。
ピッ。
モニターの片隅に、小さな警告表示が現れた。
『後部レーダーに反応』
「……何?」
少佐は視線を落とした。
後方から接近する物体を示す、小さなマーカー。
だが、その表示には違和感があった。
「……待て。妙だな」
ここはサイクリングロードだ。
自動車が高速で接近してくるような場所ではない。
にもかかわらず、後部レーダーは明確な接近反応を示していた。
「誤検知か?」
少佐は左肩越しに振り向いた。
後方に続く長い直線。
堤防の緑。
遠くに見える建物。
……何もいない。
「…………」
少佐は再び前方へ視線を戻した。
ピッ。
『後方に反応あり!』
「何だ!?」
マーカーが再び現れる。
今度は先ほどよりも近い。
「どうなっている!?」
『接近目標を捕捉!』
「目標だと?」
少佐はもう一度、後方を確認しようとした。
その瞬間。
ビー! ビー! ビー!
警告音が連続して鳴り響いた。
『接近目標、相対速度上昇!』
「何だと!?」
モニターのマーカーが、信じられない速度で接近してくる。
『目標との距離、急速に縮まっています!』
「馬鹿な! こちらも巡航速度に乗っているんだぞ!」
速度計は33km/hを示していた。
決して低速ではない。
少佐は反射的に踏力を増した。
34km/h
だが、接近警報は止まらない。
ビー! ビー! ビー!!
「くっ……!」
『少佐! 接近速度が速すぎます!』
「分かっておる!!」
『目標、至近距離!』
「どこだ!?」
『少佐! 右舷です!!』
ゴォォォォッ!!
灰色の機影が視界を切り裂いた。
「……ッ!!」
少佐の右側を、一機の機体が猛烈な速度で通過していく。
その一瞬。
少佐は異様なシルエットを目撃した。
航空機を思わせる低い機首。
極限まで絞り込まれた前面投影面積。
長く前方へ伸びる操縦桿。
そして、後方へ向けて鋭く収束していく、独特の機体形状。
それは通常のロード機とは、明らかに異なる存在だった。
空気抵抗を減らすこと。
高速域で速度を維持すること。
その目的だけを徹底的に追求したかのような、恐ろしく合理的な造形。
灰色の装甲に、一瞬だけ白い文字が見えた。
Cervélo P5。
機体識別コード
ゼータプラスC-1。
「くっ……可変機かっっ!!」
少佐が声を上げたときには、すでに敵機は前方へ抜けていた。
その機体には、無駄な動きがなかった。
上体を低く構えたパイロットは、操縦桿に肘を預けたまま、淡々とペダルを回している。
力任せに踏み込んでいるようには見えない。
呼吸が乱れている様子もない。
ただ、速かった。
恐ろしく、速かった。
少佐は速度計を確認した。
34km/h。
自分も決して流しているわけではない。
むしろ、普段より強く踏んでいた。
それなのに。
目の前の灰色の機体は、あっという間に距離を広げていく。
「……何という速度だ」
ビー……。
ビー……。
やがて警報音が途切れた。
モニター上のマーカーが、前方へと遠ざかっていく。
少佐はしばらく、その後ろ姿を追っていた。
追撃しようという考えは浮かばなかった。
いや。
正確には、追撃などできるはずがなかった。
自分の機体も、高速巡航に特化した設計である。
フレームの空力性能。
新たに換装したHYPER R45。
独自の可変機構。
決して性能の低い機体ではない。
それでも、あの機体との間には、埋めようのない隔たりがあるように感じられた。
『……少佐?』
通信回線に整備兵の声が響いた。
少佐は答えなかった。
『少佐、応答してください。機体に異常はありませんか?』
「…………」
『少佐?』
「……ああ」
少佐は小さく息を吐いた。
「異常はない」
『……そうですか』
整備兵も、それ以上は何も言わなかった。
少佐は前方を見つめた。
灰色の機影は、すでに遠く、小さな点になりつつあった。
ほどなくして、それさえ見えなくなった。
長い直線航路に、再び静けさが戻る。
風切り音。
チェーンの回転音。
タイヤが路面を転がる、かすかな振動。
いつもと変わらない荒川の風景。
ただ、少佐の胸の内だけが、先ほどまでとは違っていた。
「…………」
少佐は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……生かされたのか」