ガルバルディβが基地へ帰還したのは、それから程なくしてのことだった。
機体に異常はなかった。
新型ホイールユニット、Lún HYPER R45。
可変機構、B.T.B.S.。
いずれも設計上の問題は認められず、各部の作動状態は良好だった。
整備兵からの問いかけにも、少佐は短く答えただけだった。
「……問題ない」
それ以上、何も話さなかった。
* * *
基地内、パイロット用ロッカールーム。
薄暗い室内には、換気設備の低い唸りだけが響いていた。
少佐は一人、ロッカーの前に立っていた。
身体には疲労が残っている。
気温の上昇とともに吹き出した汗が、深緑のパイロットスーツを肌に貼りつかせていた。
だが、不快なのはそれだけではなかった。
いつもの汗とは違う。
粘りつく。
まるで機械油を全身に塗りつけられたような、重く、どろどろとした感覚。
それはシャワーを浴びたところで、簡単に洗い流せるものではないように思えた。
少佐はロッカーに手をついた。
「…………」
脳裏に、あの光景が蘇る。
灰色の機体。
航空機を思わせる、鋭く研ぎ澄まされたシルエット。
そして、視界を切り裂いていった圧倒的な速度。
ゼータプラスC-1。
「……くっ」
少佐は奥歯を噛みしめた。
自分も決して流していたわけではない。
巡航速度は十分に上がっていた。
新型ホイールの性能を確かめながら、いつも以上に力強くペダルを踏み込んでいた。
それなのに。
あの機体は、まるで止まっている障害物を避けるかのように、ガルバルディβの横を通り抜けていった。
一瞬だった。
反応する暇すらなかった。
「……何なのだ、あれは」
誰に向けたものでもない問いが、室内に落ちた。
返事はない。
少佐は俯いた。
思い返せば、ここまで随分と手を加えてきた。
ロード運用のためのポジション変更。
専用ブラケットの設計と製作。
可変機構の開発。
操縦桿の変更。
ホイールの換装。
タイヤの選定。
数え切れないほどの調整と試走。
一つ問題を解決すれば、また次の問題が現れる。
そのたびに考えた。
寸法を測り、図面を引き、部品を作り、組み直した。
機体を少しでも自分の理想に近づけるために。
もっと速く。
もっと遠くへ。
ただ、そのために。
「…………」
なのに。
あの速度差は何だ。
機体の違いなのか。
パイロットの能力なのか。
あるいは、その両方なのか。
自分が積み重ねてきたものは、いったい何だったのだ。
少佐は拳を握った。
別に、エースになれるなどと思ってはいない。
そんなことは、最初から分かっている。
年齢も、体力も、これまでの経験も。
すべて承知の上だ。
それでも、少しずつ前へ進んできたつもりだった。
昨日より今日。
今日より明日。
たとえわずかでも、速くなれると信じていた。
しかし。
「……あまりにも」
少佐の唇が震えた。
「あまりにも、残酷ではないか……!」
あの灰色の機体に、敵意などなかったのかもしれない。
向こうはただ、自分の速度で走っていただけなのだろう。
それが、なおさら腹立たしかった。
こちらが必死に追い求めてきた速度を、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
振り返ることさえなく。
ただ、遠ざかっていく。
追いつくこともできない。
競うことさえ許されない。
まるで、自分がそこに存在していなかったかのように。
「……ふざけるな」
少佐は低く呟いた。
「……ふざけるなよ……!」
胸の奥で、何かが煮え立っていた。
悔しさ。
怒り。
嫉妬。
そして、それらすべてを覆い尽くす、どうしようもない無力感。
何を変えればいい。
どこを改修すればいい。
あと何ワット必要なのだ。
どれほど軽量化すればいい。
どれほど身体を鍛えれば、あの背中に近づける。
分からない。
いつもなら自然と浮かんでくる改善の思考が、まるで凍りついてしまったようだった。
考えようとしても、答えが見つからない。
ただ、あの灰色の機影だけが、何度も何度も脳裏を横切っていく。
ゴォォォォッ!!
耳の奥に、あの風切り音が蘇る。
「……くそっ!」
少佐は手にしていたHJCのエアロヘルメットを強く握りしめた。
指先に力がこもる。
「何が次世代ユニットだ……!」
握った手が震える。
「何が可変機構だ……!」
歯を食いしばる。
「これだけやって……!」
肩が怒りに震えた。
「これだけやっても……!!」
そして。
「くそったれぇぇぇッ!!!」
少佐は渾身の力を込め、手にしたヘルメットを頭上へと大きく振り上げた!!
……だが投げない。
高価なのである。
軽量性と空力性能を両立させたHJCのエアロヘルメット。
しかも購入当時の新色で、今でも結構気に入っている。
少佐は振り上げた腕を、ゆっくりと下ろした。
「…………」
そして、ヘルメットをロッカーの棚へ丁寧に置いた。
「…………」
深い溜息が漏れた。
「……やはり、パイロットの資質なのか……」
少佐は自らの身体に目を落とした。
「…………」
実は、少佐は3キロ太っていた。
「……脂質か」
しばしの沈黙。
「認めたくないものだな……」