こんな伝承がある。
『童貞のまま30歳を迎えると、その人間は魔法使いになれる』
この世界では、いつの頃からかその噂が現実のものとなっていた。
「あんな女に声かけるんじゃなかった……」
季節は冬。真っ白な雪が降り積もり辺り一面の雪景色の中、鮮やかなピンクのセーターを着た貞夫の姿だけが浮かび上がる。
強風に飛ばされないよう、普段より目深く被ったキャスケット帽子によって表情はいっそう暗く見える中で、帽子に付けられた星形のバッジが、雲の切れ間から差し込む太陽の光に反射しキラリと輝いた。
足元の歩道は、人の往来により雪が溶け泥と混ざり、汚いの一言につきる。水跳ねを気にする余裕のない貞夫の足取りは安定せず、バチャバチャと飛沫を上げる汚水がズボンのすそを汚している。
泣き顔を覆って隠すような体制のため前方は見えておらず、フラフラと右へ行ったり左へ行ったりと進行方向が定まらないその姿は、さながら酔っ払いの千鳥足だ。
「神様、年明け早々この仕打ちは酷いって……」
今日はめでたいお正月、貞夫は一人初詣に出かけていた。いつもなら寒さに負けて寝正月を決め込むのだが、この日は珍しく雪も止み太陽も顔を見せていたため、気分転換にと久しぶりに家から出たのだった。
しかしそれは、運命の悪辣なイタズラだったのかもしれない。
今年こそ童貞を捨てられますように。唯一の願いを賽銭に載せて神の元へと送り出す。
これで大丈夫だと、根拠のない確信に満たされ帰路につく途中で悲劇は起きた。
鳥居の下でたたずむ一人の女性の姿が目にとまる。地味な見た目だが貞夫の好みとピッタリ合致したため、これは運命の出逢いなんだと思考がとんでもない飛躍を始めた。
普段は大人しく、とりたてて人前で目立つような行動もしない貞夫だが、女性に対して思い込んだら一直線。今を逃せば脱童貞の機会にはもう巡り会えないだろうと意気込み、あろう事かナンパなどという暴挙に出てしまう。
結果、女性の外見からは想像もできないヤンキーめいた口調で、男のプライドを地の底へ貶める数々の罵声のお年玉を頂くハメになった。
おまけに突然の横風で、見られてはならない帽子の下の秘密までさらけ出したせいで貞夫は気絶してしまう。意識を取り戻した後にはすでに女性の姿は無かった。震える手つきで帽子をより深くかぶり直し、力ない足取りで一人トボトボと帰路についた。
「ちくしょう……。魔法さえ使えれば、女なんて一発で堕とせるのに……」
公にはされていないが、この世界には何人もの魔法使いが存在している。貞夫もその一人だ。
しかし、その事を他人に告げようとする者は誰一人いない。
なぜなら魔法使いとなれる者は、30歳を超えるまでただの一度も女性とイタした事のない人間だけだったからだ。誰が好き好んで、自分が経験のない事を触れ回れるだろう。魔法を使うという事は自身の童貞証明の公言に他ならない。魔法使いは人目を忍んで生き続ける影の存在なのだ。
魔法使い達の中でも、貞夫の力は高位の物であった。それは童貞の上に彼女が出来た事も無く、女友達すらいなかったせいだ。生まれてから一度も、女に対するあらゆる縁を持てなかったという
貞夫の魔法の一つに、相手の精神を支配するというものがある。これは心を読む魔法の上位能力で、誰もが使えるというわけではない。
だが貞夫はこの力を封印し、決して使わないと誓いを立てていた。いくら女に飢えているとはいえ、心を歪めてまで手に入れようというほど人間性は捨てていないのだ。
「時間を巻き戻したい……。せめて記憶を消したい……」
未だ罵詈雑言のショックから抜け出せず、ヨロメきながら歩みを進める。
唐突にクラクションが聞こえてきた。かなりの音量に驚き顔を上げる。
どうやら横断歩道を歩いていたようだが、問題は歩行者信号が赤になっている事だった。
横を見ると大型トラックが迫ってきているが、雪道のせいでスリップしてブレーキが効かないようである。
運転手の必死な顔が窓越しに見えたが、このままブツかれば即死は確実という速度だった。
貞夫の脳内で思考が高速回転する。
(これヤバいジャン避けれないじゃん。どうする?どうしようもなくない?)
トラックは目前。現実の時間で、肉体をかわしている余裕はもう無かった。
(
魔法使いの標準能力として備わっている
後になって思い返せば、自宅を移動先とすればよかったのだが、もはや後の祭りである。そしてここが貞夫の運命の分かれ道だった。
(ああああああああああああああ!!!!)
トラックがもう目と鼻の先まで迫ってきている。冷や汗を流す間も残されていない。
取るべき手段は一つだけだ。
(童貞のまま死んでたまるかよおおおお! 一か八かだ!!)
貞夫の体が一瞬ブレると、その場から瞬時に消え去った。
そしてそれは、この世界から天童貞夫という人間が消えた瞬間だった。