神は言った、『光あれ』と。そうして世界が出来上がった。
だが、ここには一切の光明が存在しなかった。
最果ての彼方のその先までも、深淵の闇の底に飲み込まれている。
そんな暗黒の宇宙のただ中を、独り
しかし自分には手も足も無い。
それどころか体も顔も、耳も目も無かった。
意識だけがポッカリとくり貫き出され、それが水中を漂うクラゲの様に力無く舞っている。
自分の意志で動く事は出来なかった。
動かすべき物を何一つ持っていなかったから。
ただそこに在るだけだった。
どれくらいの時が過ぎたのか、それとも一瞬の時も経っていないのか、時間の流れというものも存在していなかった。
唐突に変化が訪れたのに気が付いた。
暗闇の中に
満月だった。
月光に照らされて、一羽の金糸雀が飛んでいた。
金糸雀は吹き荒れる黒い死の風に飲み込まれた。
満月の陰に浮遊する城があった。
城では巨大な龍が、冒涜的な黄金の竪琴の音を子守唄に、数千年の悪夢に
空から巨人の一族が大樹に降り注いだ。
人喰いの獣が狂い踊った。
片目の魔神がそれを見ていた。
蛇が自らの尾を飲み込んだ。
陽が落ち、月も墜ちた。
不浄なる狂った角度を持つ石造りの古代都市があった。
封印されし古の闇の底より、目覚めし者があった。
それは正義であり悪であった。
それは人類の終わりであった。
旧き者は忌まわしき暴虐の力を振るい、この世に終末をもたらした。
生きる事も出来ず死ぬ事も出来ず、全ての魂は煉獄の炎で焼かれ続けた。
あらゆる者達が、おぞましき悪夢の如き世界で苦悶の声を上げた。
誇り高き希望の翼は折れた。
死んで逝く。死んで逝く。立ち上がる者皆死んで逝く。
── 人の世の 滅びの時ぞ 来たるなり 誰一人とて 残る者無し ──
荒れ狂うようなイメージの奔流が過ぎ去ると共に、意識がゆっくりと覚醒に近づいていくのが分かった。
先ほどまで感じなかった手や足などの体の感覚も戻ってくる。
同時に、自分の体が何か柔らかく、暖かなものに包まれていると気づいた。
暗闇が晴れる。瞼を開けたからだ。
最初は焦点が合わなかった視界が段々とハッキリしてくる。
真っ先に飛び込んだのは、知らない天井だった。
体の方を見下ろしてみると、どうやら自分はベッドに寝かされている様だった。
しかし何故……?
記憶を探るが、どうにも現在の状況に置かれる理由が分からない。
首だけでなく体全体を起そうとするが、怠さが酷く力が入らない。口から微かに呻き声が漏れた。
「気が付きましたか」
サウザンドアイズの女性店員は、意識を取り戻した天童貞夫に言った。
「店員さん……?」
ボンヤリと女性店員の姿を見つめながら、確かめるように声に出していた。
貞夫は彼女から視線を外し周囲を見渡す。
今いる室内には見覚えがあった。
それは、耀が担ぎ込まれた臨時の隔離病棟となった部屋と同じ作りだった。
「何で……僕はここに……?」
「倒れたんですよ」
店員はベッドの横で椅子に腰かけたまま、簡潔に答えた。
「倒れた?」
まだはっきりとしない頭では理解が追いつかない。
目を閉じ探る様に、ゆっくりと昨日の事を思い出す。
「僕は……魔王のゲームの攻略法を見つけて……そうだ、参加者を増やそうと思ったんだ。だから魔法で皆を治してまわって……それで……」
徐々にこれまでの出来事が思い起こされていく。
「貴方は丸一日休みもとらずに治療を続けていたんです。そして、
貞夫が回復させた人々の数は100人を越した。
無論自分一人の力ではなく他の治療ギフト保持者の協力もあっての事だが、それでも未だかつてここまで力を使い続けた経験は無かった。そのため、溜まっていた疲労が一気に噴出し気絶したのだった。そうして担ぎ込まれ、今に至るという訳だ。
「魔王とのゲームはどうなったんです?」
首を動かして頭上に設置されている窓を見る。
上空が蒼く染まっている事から、夜が明けている事がうかがえた。
「そろそろ始まっている頃かと……」
言葉の途中で、地面が揺れ始めたのを感じた。
椅子から立ち上がった店員が、窓に近づき外の様子を確認する。
地上から空に向かって幾本もの黒い光が立ち上り、それが空に当たって波紋となり、街一帯を夜の様な光景に塗りつぶした。
さらに、そこかしこで建物が土煙を上げながら次々と地の底に沈み、代わりに木造建築の古めかしい建物がせり上がってくる。
「何ですか、これは」
この異様な事態は明らかに魔王の仕業であろう。
街一帯を造りかえるという大規模な力の行使に女性店員は戦慄した。
勝利条件の1つであるステンドグラスの破壊と保護だが、ジンはステンドグラスが設置されている場所について、おおよその検討をつけていた。しかし街全体の構造を造り替えられては、この考えも通用しないかもしれない。
「い、行かなければ……!」
貞夫は辛い体に鞭打って無理やり起き上がった。
しかし、ベッドの上に上半身を起こしただけで、すでに息が上がっている。
さらに立ち上がろうとした所を店員が止めた。
「お止めなさい。今の貴方ではゲームに参加するのは無理です」
両肩に手を置きベッドに寝かせようとするが、貞夫はその手を取ると、ゆっくりと振り払った。
「僕だけ呑気に休んでる訳にはいかないんです。アマギ隊員がピンチなんだよ」
今だ疲労の残る頭で訳の分からない事を口走る。
ベッドから出て立ち上がるが、その体はフラフラと揺れ安定していない。
5歩と歩かない内にヨロめいて、そのまま地面に崩れ落ちるかに思われたが、その前に店員が抱き止めてくれたおかげで倒れずに済んだ。彼女の肩を借り、一先ずベッドに腰を下ろす。
「御覧なさい、歩く事もままならないではありませんか。そんな状態で戦えるわけがないでしょう」
店員は無茶をしようとする貞夫に怒っている様子だった。
滅多に感情を表さない彼女にしては声を上げている。
貞夫は項垂れた様に顔をうつむけたまま呟く。
「……夢を、見たんです……」
「夢?」
「恐ろしい夢でした。この箱庭が滅びる夢だ。皆、皆死んでしまうんですよ……」
「ただの夢ですよ」
店員は貞夫の隣に腰を下ろすと、慰めるようにその背中をさする。
「僕にはそうは思えない。あれは僕の
「さあ、もう一度横になって……」
貞夫の体を横たえようとするが、彼は首を振ってそれを拒否する。
「皆、僕なんかよりもよっぽど強い」
皆とは十六夜、飛鳥、耀の事だ。
「でも、あの子達だってずっと勝ち続けられる訳じゃない」
事実、耀はラッテンの笛の前に為す術が無く、飛鳥も敗れてしまっている。
今の所、魔王相手に対等にやりあえているのは十六夜だけだ。しかし
「逆廻くんだって、いつかは負けてしまう日が必ず来る」
考えたくない事だが、規格外の力を持つ十六夜であっても、神々の住まう箱庭ではまだまだ下層に位置する存在であろう。対応できない事態はいくらでもある筈だ。
「僕1人加わった所でどうにかなる訳じゃないけど、それでもそんな運命に一石投じる事が出来るなら、やるしかないでしょう?」
飛鳥に代わってガルドを討った時の様な、強い決意が今の貞夫の瞳には宿っていた。
それは大人としてより、組織の1人のメンバーとして仲間を思う感情から来たものだった。
その気持ちは、同じ様に組織に属し、組織や仲間のために働いている女性店員にも十分にわかるものであった。
真っ直ぐ見据えられた彼女は、それ以上貞夫を押し止めるための言葉が出てこなかった。逃げるように貞夫から視線を逸らす。かといって、このまま黙って行かせる訳にもいかない。
「相手は魔王なのですよ。下手をすれば、死んでしまうかもしれないんですよ?」
店員の声は泣きそうなものに変わっていた。
天童貞夫という人間の事は、未だに良くわからないが、それでも悪い人間ではない事は自分でも理解している。この男が望むなら、これからも懇意にしてやるのも悪くないとさえ思える。それなのに、ここで死に急がれては後味が悪いではないか。店員はどうにかして貞夫を引き留められないかと考える。
「それでは、私の名前を教える事も出来ないではありませんか」
この言葉は貞夫にとっても、店員自身にとっても思いがけないものであった。
彼女の一族のしきたりとして、その名を伝える相手は生涯を共にすると誓った者のみ。
貞夫をその相手と決めた訳では無いのだが、そんな未来があっても良いのではないか。
店員はボンヤリとそんな風に思い始めていた。
貞夫は彼女の言葉に、驚いた様に目を見開いていた。
しかし、その表情はやがて苦しげなものに変わる。
「……ごめんなさい、僕は……貴女の名前を知る訳にはいかない」
絞り出す様に言った。
貞夫の
すなわち、女性との接触を許せば同時に消えてしまう脆い代物でもある。
仲間を助けるために戦う事を誓った貞夫にとって、それは致命的な行為だ。
「散々付きまとった癖に今更と思うかもしれないが、まだこの力を手放す訳にはいかないんです」
貞夫は仲間と自分の恋愛を天秤にかけ、前者を選んだ。
これからも訪れるであろう数々の魔王との戦いのために、微力でも手を貸したい。
それにノーネームには100人以上の親の無い子供達がいる。
そんな不憫な子供達を置いて、自分だけ幸せを手にする事は出来なかった。
どうせなら皆で一緒に笑いあえる日が来てほしい。
そのためにもこの
貞夫の決意を聞いた店員は逡巡した後、小さく溜息を吐いた。
子供の我儘を聞くような、仕方ないと言った表情で貞夫を見つめる。
「わかりました、もう止めはしません。行ってください」
そう言って貞夫の手を握り締める。
「その代り、私の力も使ってください」
貞夫の魔法には、他人から生命エネルギーを吸収して自身の力にするものがあった。
それを使えば、今のギリギリの体力状態から脱する事が出来る。
「いいんですか?」
「私も、皆さんの力になりたいという気持ちは同じです。その、貴方の力にも……」
店員は頬を染め顔を逸らすが、その手は離さなかった。
彼女の意を汲み、貞夫は
あれほどあった疲労感がみるみる内に消えていくのは、単純に女性店員の力を貰い受けただけでなく、その心遣いを得た事もあるだろう。
今度は逆に、力を分け与えた女性店員が倒れるように貞夫にもたれかかった。
貞夫は店員を抱き上げると、そっとベッドに横たえる。
「ありがとう。貴女の力、無駄にはしません」
「必ず勝ってくださいね」
貞夫は店員に一礼し、窓を開けた。
遠くから人々の喧騒が聞こえ、魔王との戦闘で生じているであろう光の迸りが見える。
窓枠に足をかけた貞夫は、力を込め空中に跳躍し、そのまま魔法で一気に加速し戦場へと飛び出していった。
去っていく貞夫の背を見送りながら店員は独り言ちる。
「そうやって仲間を思いやる貴方だからこそ、私も名前を告げてもいいと思ったのかもしれませんね」