ES_000_Prologue
『それ』だけがここにあった。
「うぉおおらッ!」
「ぁああああッ!」
怒号とともに拳が放たれた。
型やらフォームやらもなにもない滅茶苦茶な一撃だが、適当というわけでは到底なくて。正確にして粗暴、荒々しくも鋭いその左手は、吸い込まれるように人体の急所へと向かっていった。急所──俺の鳩尾。
俺は上体を右にずらして回避。実に華麗なひねり具合。
鳩尾に最短直線で迫る暴力に、すれ違うつもりで俺の右拳をかすらせて、そのまま相手の顔面へ向かわせた。躱す? 馬鹿言え、そんなことできるはずない。
コイツにそんなこと、するつもりはない。
その結果、お互いがお互いの拳をド素直に受け入れる羽目になった。
「ガッ……!」
「ゴッ……!」
零れた濁音は声帯の震えによるものじゃなく、口内にあふれる鮮血のせいで。拳がきいたかどうかなんて確認するまでもない。変則的なクロスカウンター。
一対一、ノーガードのぶつかり合い。
持てる力、全霊全力。
痛い。
すげぇ痛い。
だが、止まらない。痛い程度で
なら、止まらないのが道理。
「ぉおおおおッ!」
気合い。
鳩尾に残る衝撃なんて奥歯を噛み締めてないものと仮定して、もやっぱり痛いけどだけど関係なんてなくて、突き出していた右手を無理矢理に引き戻す。それと同時、左手を手刀に揃えて横薙ぎに。滑車の要領。できるだけコンパクトに、鋭く、速く、正確に。
ゴッ、と顎から脳天目がけて衝撃が貫いた。
いきなりブレた視界。そのなかで舌を噛まなかったのは褒めてほしい。
簡潔に、俺の放った手刀よりも、やつのアッパーのほうが速く俺に届いたのだ。デタラメな速さ。アホじゃねぇのか。いくら避けないっていったって、コイツは少々容赦がなさすぎる。オマケに、そうやって仰け反る俺の右脇腹に蹴りを入れる徹底さ。ふざけんなよおまえ。ただでさえアーマーリング付きで鳩尾叩かれて、こっちは咳き込みたくてしかたないんだぞ。
正直な話、俺は
だが、実力で劣っているなど、断じて思わない。
「ば……ぁああああああああッ!」
漏れる空気の塊を咆哮で押し出し、上向く頭蓋を力技で振り戻す。戻して戻って、構えをとる。再び敵に相向かわんと攻勢に出る。
そう、『敵』である。
視界は二重三重残像世界。安定なんてせずにブレまくる。鳩尾から這い登る不快感は健在だし、蹴られた脇腹は変に熱い。なんだこれ、折れてんのか?
ゴッ、と情けはなくて。
強引に構えた俺に、敵は容赦なく意中の脇腹へと回し蹴りを加えてきた。それも踵。踵が刺さって、グリグリ抉り込んでくる。容赦も情けも願い下げだが、痛烈に主張する肋骨だけはごめん被りたいのが正直なところ。肉のなかで骨と骨がこすれるような軋み。左足を軸に右回転して、実に鮮やかスマート直行。脇腹にて遠心力が盛大に炸裂していた。
なんという信頼だ。回し蹴り、ならば回転しないと成り立たない。回転すれば、もちろん一瞬といえど視線がうしろを向く、隙ができる。にもかかわらずその隙を俺のブレた視界で相殺して、ものの見事に決めやがった。俺が構えなおすのをわかっていたかのような動き。
これは信頼だ。
『オレとタメ張れる奴がこんなことも出来ない愚図なはずはねェだろ?』
実にわかりやすい。
こと、信じるというものに対して最大まで対極にありながら、その実それ以上とない信頼関係。歪んでる。これを信じるというなら最高位で歪んでいる。
しかしそんなの、あいにくながら俺は許容できない、したくない。他人の一切を排斥するかのような絶対個我による信用。唯一至高たる己あってこその他者。そんな在り方、悲しいだろ。そんなの、自分しか愛せないのと同じだろうに。
──ただし。
「ギ──あ゛あああああああッ!」
そんな俺も、自分を誰よりも信じてるわけで。
つまりそれがなにを意味するかって? ようはそれ以上に信用たる存在がいないってことなんだよコンチクショウ!
脇腹に刺さるその踵、しかしそれを上下ではさんで捕まえた。俺に到達した瞬間、両手で掴んで足首を捕える。受け止めたのでなく捕まえた──そうなれば。そうやって攻撃に対して行動に出れば、蹴り刺さる衝撃で倒れるのは必須。
つまり、一緒に倒れろ馬鹿野郎。
ともに支えのないため、接触の衝撃そのままにコンクリートの床面にブッ倒れた。
真っ先に落ちた肩がコンクリを打つ。ついで腰を削り、ふくらはぎが擦れた。ボロボロの施工面が粗末なおろし金みたいに皮膚を裂く。でも、そんなのかすり傷で。
倒れこむその
狙い打つなんて高等技能は無理に決まってる。なら、当たるまで闇雲にぶん殴れ。
「ぐ……ォガ、ァアア゛ァァ!」
「ゲェ、ら゛ぁぁああああッ!」
叫び声、噎せる声、唸り声の
倒れこむまで三秒とない。その間、実に一四もの拳と手刀が飛んだ。顔面を叩き、腹を打ち、当然コンクリを殴る不発も無数。皮膚が破れる、骨がきしむ、巡る血潮は加熱する。
痛い、痛い、痛い。
痛い、が。それがどうした。
「「お、らぁああ!」」
同時、激情を迸らせて、互いが互いの腹を蹴り、反動で距離をとった。さらにそのまま体を反転、膝を屈伸、勢い任せに立ち上がる。
直後疾走。力いっぱいにコンクリを蹴り上げて、敵に向かって疾駆する!
強襲特攻、ストライクバック的な奇襲攻撃。
けれど
すでにむこうも走り出していた──そのまま衝突。最高速で手刀を薙ぎ出し、超高速で
拮抗する。速さが筋力が耐久度が思考が実力が、互いの存在が同等であると主張する。
虎爪がド正直に正面からかぶさる。のを拳をぶつけて撃退する。相手の中指がへしゃげて俺の肩が外れた。
反転した体から横薙ぎの手刀を放った。が、それを膝と肘ではさんで白羽取りされる。手のひらの中心でごり、と骨が砕けた。
殺し合いだった。
血が滾っていた。体中が沸騰したみたいに熱くて脳がとろけてしまったみたいだ。
拳が爆発する、手刀が閃く、虎爪が空気を破る。
鳩尾を叩く、右足を踏まれる、左肘が弾かれる、鎖骨を抉る、側頭部を突く、視界がぶれる、頭突きを交わす、顔面を叩いて蹴り上げられる。
左肩を突く、右脛を蹴られる、顔面を叩く、腹を打たれる、右股を、鳩尾を、腹、顔面、顎、胸、顔面、左膝、踝、爪先、右足首、顔面、顔面、後頭部、肩甲骨、顔面、恥骨、臀部、金的、耳口目鼻顔面顔面顔面五臓六腑右脇腹ちょっとまてそこは折れているって言ってるだろう。
全身満遍なく強打する。隙間なく傷つける。
筋肉が悲鳴を上げている。酷使に耐えかね、裂けて血を流してる。骨が皮膚を突き破っている。視界が半分赤い。小うるさいノイズが右から左へ横断してる。舌の根あたりでごろごろしてんのは折れた歯か? 爪なんてとうに剥げ落ちてるし、とろけたくせに脳みそが頭痛を主張して──ないな。そういえば痛みがなくなってるよ。
だからどうしたそれがどうした。
痛いだけじゃ止まらない。辛いだけなら躊躇わない。苦しいだけなら我慢できる。
腕が壊れた? 足を使え。
足が上がらん? 頭突きでいいだろ。
目が見えない? ちょうどいい、さっきの腕でもぶん回せ。
傷ついてない部分がなくなるまで身体を使い続けろ。傷ついた部分だけになってもなお痛めるのを
蹴りと拳の応酬。手刀と虎爪の乱舞。ぶつかり合う殺意と怒気は一層と加速する。
コンクリが血だらけ。全身赤まみれ。けれど満腔の決意でもってさらに一歩を踏み出して。
血が足りない。生命を道連れに体温が流出していく──けれどもこの熱意までは奪えやしない!
なのに、泣いていた。
泣いていた。気づけば泣いていた。本当に唐突、脈絡もなにもありゃしない。涙が俺の頬を伝っている。殴り合いの最中に、潰し合いのさなかに、涙が眼球を潤した。『それ』だけのこの存在が、人間みたいな純粋を流出する。
痛いから? 馬鹿言うな。確かに全身血みどろ傷だらけのありさまだが、決してそんな程度で泣いてしまう俺じゃない。
辛かった。
悲しかった。
苦しかった。
そうだ、そうなんだ。
結局『お前』とはいつもこう。こうして最後は殴り合い。いくら正しさを説こうと、理屈をつけようと、否定して賛同しようとも。
いくら綺麗事を並べて言い飾っても、最後は必ず
────いいや違う、腹立たしい。
そうだ。ああそうだ馬鹿言うんじゃねえ。辛い? 悲しい? 言い飾るな誤魔化すな。そんな最もらしい台詞で美化するな。
誰もが納得するような常套句、そんな大それたものでまとめんなよ。あたかも高尚なものに昇華しようとしてんじゃねぇ。
俺は。俺は、そう。コイツが、この『男』がただただ──。
「くたばれぇええええッ!!」
「死に腐れぇええええッ!!」
久々に吐き出した人語は罵倒のそれで。宿る感情も怒りで
闘いは終わらない、争いは続く、己の存在を賭けて──闘い? なに言ってやがる、冗談だろ。こんなのが闘いなんてあるはずない。こんな程度が闘いなんておこがましいよ。そんな大層高尚なもんじゃない。
これは喧嘩だ。
ひたすらに殴る。
禁じ手など存在しない。金的目潰し当たり前、倒すために全力を尽くせ。
血まみれの泥仕合。『まいった』タブーの一騎打ち。拳で語る喧嘩祭り。怒りと憎悪を撒き散らし、納得いかないと声を荒げる。相手の意思を否定して、己が意志を叩きつけて刻み込む。地面はすでに赤花畑。血生臭く、赤黒い。その赤をにじり潰し、さらなる死地へと踏み込み
もはや言葉は不要。必要なのは立ち上がる気概と明確な殺意のみ。理性を捧げて炸裂し、己を賭して吼え猛ろ。
憎悪か怒りか、いいやもっと普遍的ななにか。くだらないと言い捨てられるなにかに
そして日が落ちる。夕方。黄昏の残光が薄暮となって、徐々に徐々にと夜へ移り変わる。穏やかな色調、安らかな刻。そうして健やかなままに眠りにつく。
その、直前。日が沈む、太陽の今わの際。俺達はまだ加速する。加熱して赤熱して灼熱になって赫々と。気合でもって暴力に耽る。
意識が遠い。薄い。打ち合うたびに常世を別かつような存在。
『それ』だけを残して。もとから『それ』しかなくて。
よりまっとうな機構へと、不純物を投げ捨てて行軍する。
しかし、倒れない。
拳を握って立ち上がる。脚を抉って無理矢理に走る。頬の内側を噛み締めて意識を留める。爪を剥いで気合を入れる。
倒れない。倒れてはいけない投げ出してはいけない逃げ出してはいけない──諦めてはいけない。
諦めることは負けること。
負けることは認めること。
そんな決着だけは、断じて認めない────!
「「うぉおおおおオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッ!!!!!!」」
俺達の想いは奇しくも重なり、叫び声が夕闇を裂いた。
これは決断の記憶。
中学三年最後の夏、その夏休みの最終日、中学校校舎屋上。
その日、織斑一夏は、無二の友達と決別した。