ES〈エンドレス・ストラトス〉   作:KiLa

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第六話【深夜手当】

 ES_006_深夜手当

 

 

 

 サアアアアァァ、と。

 細やかな水しぶきが肌に落ちる。当たって、弾けて、砕けるように。しかし決して強くない、柔らかな感触。シャワーが降り注ぐ。

 第三アリーナのシャワールーム。熱めに設定されたお湯を吹き出しながら、シャワーノズルが機械的な音を鳴らす。雫の雨を機械的と感じてしまうほどに、その部屋は静かであった。響くのは流れ出るお湯のしぶきと、どこか遠くで駆動している水道管の振動。

 その部屋唯一の住人、セシリア・オルコットは、それほどまでに物静かに、お湯の流れに身を任せていた。

 

「…………」

 

 ある意味、これは静謐か。

 普段なら雑多に聞こえたりするシャワー音でさえ、今の彼女の前では自然現象にほかならない。それほどまでに、セシリアの存在感は薄まっていた。

 白い肌にまばゆい金髪。しゅるりと細く長い手足に、同年代よりいくぶん発育しているであろう乳房。長いまつ毛が縁取る青い瞳は、シャワーの熱によって色づく頬と相まり、年不相応ともいえる色気を醸し出している。が、それを上塗るほどの、打ち消すほどの、存在感の希薄さ。シャワーのお湯によって、存在を希釈されていると表現されても、今にかぎってはなんら違和になることはないだろう。

 否、呆けているというのか。

 

(……先ほどの試合)

 

 ようやくか。一体どれほどシャワーを浴びていたのか知らないが、しかしやっと彼女の思考がめぐり始めた。茫洋としていた意識がどうにかまとまりの兆しをみせ、人間らしい思考を取り戻す……無論、その焦点はつい先刻の試合であった。

 模擬戦。織斑一夏との、『決闘』。

 

(……引き分け、ですか)

 

 正直、どうやってシャワー室までやってきたのか定かではない。試合終了直後、どのような手順で、道筋で、自分はここにたどり着いたのだ。ISスーツを脱いだ記憶も、そもそも歩いた記憶さえ曖昧だ。

 もとより記憶なんてものは曖昧にすぎる。自身の主観によって、あるいは第三者の言葉によって、それこそ誰かに観測されることによって『肯定』されるこの世界にとって、いくら自分だけのものと言い張ろうと、それが一〇〇というパーセンテージを満たすことはありえない……が。そんな脳科学的・哲学的なあれこれはさておき、事実として、彼女は試合後の記憶が不確かだった。

 ──とはいえ。

 

 

()()()()

 

 

 その事実を、一言一句と心のなかで噛み締める。

 試合そのものの記憶は、驚くほどに鮮明だった。それが鮮烈にすぎるからこそ、今までの感覚があやふやだったのかもしれない。それほどまでに、苛烈、峻烈。

 引き分け。

 代表候補生であるこの自分が、高々一般生徒の一人に、しかも男に、引き分けた。──その事実、どこか遠くのことに感じながら、しかし繰り返す内心が結果を肯定する。

 よみがえる試合模様。決闘の過程。

 途中まで圧倒していた。一撃目から全霊で、己が技術でもって全力で。徹底した。徹底して徹底した。技能を晒し、気合いを入れ、策を弄し、どころか限界を越えた戦いをしたといっていい。少なくとも、今持ち()るカードすべて、現在行えるであろう選択すべて、それをもって受けて立った。

 勝ちを狙った。なのに。

 

(ですのに、引き分けた……!)

 

 それがいかほどの衝撃であるか。

 勝つと誓った。勝ち続けると誓った。『負けなかった』という解釈はどうでもいい。ただひたすらに、『勝てなかった』ということが腹立だしく苛立たしい。

 その忌むべき相手の姿、顔。今だからこそ鮮明に。

 白の翼、英雄の大刀──ああ、確かに彼は与えられるだけの者だろう。なんの苦難すら超えたことのない、土の苦味も知らない素人だ。悠々ただただ、座して待っていた愚か者だ。……それに、勝てなかった。

 

『なんでそんなお前が、ひとを馬鹿にしてるんだよ』

 

 その一言。

 ああ、自覚はする。事実、セシリア・オルコットという人間は、他人を見下しがちにあるだろう。それが決して褒められたことじゃないのは承知しているし、改めるべきだろうとも考える。とはいえ第一、誰も彼にもそんな態度をとっているわけじゃない。その切っ先が向くのはごく少数の輩達だ。

 努力をしない者がきらいだった。

 現状を良しとして、それに抗わない者がきらいだった。

 たとえば、そう。ISに抗わない男とか。そういうものに強く当たってしまう。

 すべてに『否』と、斜に構えろといっているんじゃない。万事にことごとく食ってかかるような、第一に否定から始めるような少年の考えを指してるんじゃない。

 ただ今を甘受するだけ……そんな怠惰が、心底疎ましいのだ。

 セシリア・オルコットは努力の人だ。それは自負しているし、事実そうだし、そうあろうとしてきた。なにせそれが最愛なる父親の言葉であったし、仮になにも言われなかったとしても、セシリアはその『あり方』に共感していただろう。

 

『セシリア……私は駄目な男だ。駄目な夫だ』

『どうして、お父さま?』

『幼い君でもわかるだろうが……私は、何もできない男なんだ』

 

 幼子の記憶……思案という段階を踏まずとも、その記憶は容易に思い起こせる。

 『何もできない男』──その言葉の通り、父親はなにもできない人だった。しかしそれは、なにも彼が無能でクズなろくでなし、ということではない。真面目で誠実で、人あたりもよく、セシリアからすれば良き父親でもあったし、彼女の母親も心から愛していて──なにより努力家だった。

 だが、しかし。

 

『駄目な、父親なんだ』

 

 彼は、努力が実らない人であった。

 

『そんなことありません! お父さまががんばっているのはわたくしだって、お母さまだってしっています!』

『ああ、ありがとう。だがね、だからこそ、なんだよ。私の努力を君たちは誰よりも理解してくれていると思う……だから私は、それでも何もできない自分が恥ずかしい』

 

 父親は決して無能ではなかった。有名な大学を次席で卒業していたし、それに満足しないで努力し続けてもいた。ただ、でも。

 それでも……その努力は、ついぞ実ることはなかった。その『結果』が、ゼロの終点が、父親を惨めな『無能』という存在に押し()めていた。無能ではないのに、無知ではないのに……それはセシリアのみならず、母親だって真に、深に承知していた。

 その結果、母の負担が増していった。母親はそれに怒りを露ほども感じていなかったろう。そんな父親の姿を知っているから、努力し邁進しようとする姿を知っているから……ゆえ、より一段とがんばるのだ。父の分も働こうと、がんばろうと。彼が一層努力に(のぞ)めるように……それが、父親には心苦しかったのであろう。

 『結果を淘汰する過程はない』。努力の過程だけで測れるほど、世界は甘くないのだ。

 

『「私は無能だ」、っと、これはアイツの口癖か。いけないな。これじゃあもう、彼をたしなめることはできないよ。……とはいえ、セシリア』

『……なんでしょうか?』

『君は、努力するんだ』

『…………』

『何も実を結ばない私が言うのもあれかもしれないが、それでも、君は努力をするんだ。確かに君は私の子だ。でも、母さんの子でもある。セシリアはきっと、努力すればするほど結果が得られるはずだ。

 ……ふふ。親バカ、ではないよ。私は君のなかにそういう可能性を見ている』

『可能性……』

『現状に甘んじるな、とは言わない。すべてを否定するのはそれこそ馬鹿げているだろう。

 だが、「それでも」と言う力強さを忘れないで欲しい。強く立ち続けて欲しい』

 

 彼の口から言われるからこそ、その言葉は薄っぺらく感じてしまう。結果を残せない負け犬の言葉だと、人は解釈してしまうだろう……けれど、セシリアにはそんなことなくて。その一言に、強く胸を打たれた。他人からすれば惨めに映るだろう男の言葉に、とても強く惹かれた。共振した。熱く加熱するその心臓を、今でも失わず知っている。

 それに事実、幼いセシリアにも、がんばってできないことなどないという自負があった。

 才気にあふれる母親、努力家の父親。尊敬するその二人の血を受け継いでおいて、自分が現状に甘んじるなんてありえない。

 綺麗で、厳しくて、強くて、でも優しくて、父を愛していた母。真面目で、努力家で、真摯で、でも脆くて、母を愛していた父。両親に愛されていたという自覚は考えるまでもなく、そして自分も二人を愛していた。自慢の両親だった……だった。

 過去形。今さら語るのは無粋かもしれないし一際陳腐に聞こえるかもしれない。しかし事実。

 

 セシリアの両親はもういない。

 

 もう三年も前のことか。あり(てい)に言って事故、それが二人を亡き者にした。大規模な鉄道事故。両親だけでなく、多くの人が死んだ。

 二人が旅行に向かったときの出来事だった。少し気を使って夫婦水いらず……などと考えて、こうなった。

 当然泣いた。己に怒りを感じた。ともすれば『自殺』の一言を選択肢に入れさせるほどに……でも立ち上がった。

 『それでも』と、踏ん張った。

 後追いの自害など両親は望まないとか、そんな故人を慮ることはしなかった。もとを辿ればセシリアにも非はあるかもしれない、原因かもしれない。第三者からしたら冷血にも劣る、それこそ冷徹な女に思われるかもしれない。だけど立ち上がって、前を向いて、生きている。

 

 それでも──それでも、わたくしは抗わなければいけないのだ。強くあらねばならないのだ。

 

 死者を乗り越えるなんて大仰なものじゃない。しかし二人の娘なのだ、二人に愛されていたのだ、愛していたのだ。だったら止まる道理など絶対にない。勝利を目指して勇往邁進、『オルコット』に恥じぬ生き方を。

 残されたオルコット家頭首の座と莫大な遺産。道は二つあった。

 一つ、父の遺言だ。フランスにいるという、父母共通の大学時代の友人夫婦。彼らの養子になるという道。

 そしてもう一つ。それはオルコットの頭首として生きる道。言うまでもなく、永遠万苦の人生にほかならない。

 

 逡巡すらしなかった。

 セシリアは頭首として戦う『未知』を選んだ。

 

 戦いの日々だった。遺産を狙う下賎な大人と対するために勉強し、名誉を汚さぬように毅然とした。

 そしてなにより、父を無能だと罵る馬鹿を黙らせるため、母の娘だと胸を張って言うため、努力し続けた。

 父の言葉通りか、結果は必ずついてきた。しかしそれに満足せず、一層の努力を惜しまなかった。

 そのなかでISの適正が発覚し、《ブルー・ティアーズ》──BT兵器運用試験者に抜擢、さらには候補生にもなった。並み居る強豪を押し退けて、セシリア・オルコットでい続けた。

 その成果だろう、父を蔑む下衆はいなくなった。……しかし代わり、湧いて出たのは、どこまでも軟弱な『男』の群れ。遺産が目当てか、オルコットの家名か、はたまた自分の体か……自分でも、容姿が人並みではない程度に整っているのは知っている。自覚というのは努力する上でも重要なファクターであるから、ともあれ。見え透いた下心で近寄ってくる輩があとを絶たなかった。なんと……なんと奸佞な存在だろうか。

 そんな男どもと自らの最愛、父を重ねて見てしまう。

 

『ああ……男というのは、こうも弱いのか』

 

 改めて、自分の父親を誇りに思った。そんな父と結ばれた母を羨ましく感じた。

 ISが跋扈するこの時代。もはや気骨ある雄など絶え失せたか。『それでも』と上を見続ける気概なんて、どこにも一切ありはしない。卑小で矮小。ある意味、世界は死んでいた。

 だからセシリアは、ことさらきつく、男性に接してしまう。()(くだ)して()()ろして、差別する。褒められたことじゃない……しかし、それに共感する部分があることも、一概に悪いと断ずることもまた、できないはずだ。

 人は、そんな考えを、気持ちの持ちようを、傲慢というのだろうか? だったらそれでいい、そう蔑まれていい。そんな非力をはやし立てることが正しいなら、自分は愚かしいまでに驕溢とする女でいい。

 

 そんななか、現れたのが織斑一夏という男だ。

 

 初めて、自分に食ってかかった存在だった。

 そのときのセシリアの感情は──もちろん『気に食わない』。

 いかに初めて異をとなえた男性だろうが、しかし言ってしまえば、吠えるだけなら誰でもできる。否定や怒りの発露など、口にするのも考えるのも、そんなの一歩踏み出せば容易なこと。重要なのは、それを押し通せる『結果』を持っているか。努力という『過程』だけではだめなのだ。そこから紡ぎだされる純然たる結果があってこそ、その過程は輝くのだから。

 決闘をするにあたり、もちろんセシリアは一夏のことを調べている。候補生という立場ゆえに簡単なことだし、そもそもオルコット家の手にかかれば容易い。

 得られた事実に落胆した。

 中学校の成績を見るに、悪くはない。しかし、その程度。努力がとんと見られない、痕跡がない。どころか喧嘩沙汰が多く──いや、多いどころじゃない。警察沙汰になりかねない事例もいくつかあった。小規模ながら、屋敷の人間を使って身辺調査も行ってみたが……別段優れているような話は聞かない。とりあえず訊く人きくひと口々に『人に優しい』とは答えているようだったが……それは自分をおろそかにしていい理由にはならない。どころか他人に優しい人間というのは、言い得て大抵、自分にも優しいやつだ。

 オマケに友人と喧嘩して二ヶ月の入院……なぜかそれに関する情報は驚くほど少なかったが、しかしため息が出るのは事実。ろくでなしの所業にしかみえなかった。

 こんな人に負けるはずがない。最早確信。全力で臨んだといえ、『勝利』に対する渇望がほんの少し別種の色を帯びた。

 

 そして、引き分けたのだ。

 

「…………ッ!」

 

 ゴッ。気づけば、拳を壁に打ち付けていた。

 血が滲む、打ち付けたタイルにわずかの亀裂、しかし痛みは湧き上がる灼熱が食い殺した。怒りか憎悪か、両方か。内で反響する激情の波濤。先ほどまでの静けさが嘘のように、アドレナリンが過剰分泌。悔しかった。

 ただただ、悔しかった。

 勝ちたかった。勝ちたかった勝ちたかった勝ちたかった!

 ……確かに、この直前の一週間、彼は努力していたろう。認める。そうやって戦いに臨んだ姿勢は認める、だけど!

 

 その付け焼刃に、引き分けた。

 

 ギリ。奥歯を噛み砕かんばかり、上顎と下顎が噛み合う。打ち付けたままの拳をねじりこむ。白魚を思わせる五指が熱をにじませる。

 (しん)(てい)から湧き続ける、怒りと憎悪と悔しさと。

 認めない。認めてなどたまるものか。一週間あまり、その程度の辛苦を我が物顔で振りかざす、そんな阿呆を容認できるはずがない。許可して支持するわけがない。

 お前の在り方など許容できない。『強い』などと認めない。

 

 そんなお前をほかならぬセシリア・オルコットが許してしまったら──それはすなわち、自分が今まで乗り越えてきたもの、淘汰してきたもの、礎になったことごとく、すべてに対する侮辱である。

 

 より一層、より一段。

 セシリアは勝利への渇望に駆られた。

 

 

 ◆◆◆

 

 

「お疲れ様、一夏」

「ありがとう、箒」

 

 ピットに戻った俺を迎えたのは、幼馴染みの労いであった。腕を組んではいるもののそこに威圧的な色はなく、心なしか笑みをたたえてやわらかい。

 そのさまに、素直にありがとうの一言。家でもどこでも、帰ったときに人がいるっていうのはやっぱりいいものだ。なにせ中学時代、家で待っているのは俺の役割だった。そりゃあ織斑家の家事担当は俺だもの、ご飯作って風呂沸かさないと。

 PICで停止してISを解除する。溶けるように装甲がほどけて、翼の残像が瞬いた──そうしてその光が左手首に集まって、腕輪の輪郭をかたちどる。白い腕輪。

 

(これが《白式》の待機状態か)

 

 とっ。と《白式》を脱いだことによる落差。PICから解放されて、軽い衝撃を足首に感じながら着地する。

 左手首に現れた白腕輪をしげと眺めて、俺は改めて《白式》存在を感じ取った。

 きらりとピットの照明を照り返すなめらかな金属。(しろ)(がね)といった風ではなく、それよりももっと白い、真っ白。手首よりはいくぶんか大きな輪っかで、しかし引っこ抜けないほどにはせまい細腕輪。なにも知らない三者がみれば、それこそファッションかなんか、アクセサリーの一種にうつるだろう。──その白のなかに。

 

 

(……ひび、か?)

 

 

 その腕輪。とある一点を起点にして、まるでくもの巣みたいな線が走っていた。その色は銀。稲妻のように、あるいは引き裂くように。白を押しのけ主張する、純粋なる銀色のひび。

 一見すると、それすら装飾の一部に見えるだろう。『白』の中に走る『銀』ゆえ、色合い的にはあまり栄えないが、しかしかえってそういう加工のものだとも思えなくない。通常時なら境目は曖昧だが、光を反射するその一瞬、ちらりと銀色が顔を出すのだ。それはなかなかにかっこいいと思う。でも、

 

 この《白式》に、銀色は絶対ありえない。

 俺はそれを確信している。

 

 だって俺は知っている。この《白式》はゼロの具現だ。俺の()()をかたちどる翼だ。それに銀色が混じるはずがない。

 人に言ったら理解してもらえないだろう領域での解決。俺のなかでは実に整合性のとれた帰結であるが、しかしこの感覚を他人はわかってくれないだろう。というか自分でも言葉にするのが難しいくらいだし……ともかく、俺は《白式》と()()()()()()。なんとも不思議な感覚であるが、事実そう表現するのが一番しっくりくる。だからおかしい。この銀は、なんだ──?

 

「どうした一夏。《白式》の待機状態に不備でもあるのか?」

 

 出迎える箒をそっちのけで思考し始める俺に、続いてかけられた声は千冬姉のもの。ヒールの踵が床面を叩き、その残響が俺の意識を連れ戻した。

 

「いや、なんでもないよ」

「そうか」

 

 一瞬言い淀んだ俺だったが、しかし千冬姉は言葉通り、本当にどうでもいいようだった。……まぁそりゃ第三者にしてみれば『だからどうした』って話だけどさ、そんな実姉の応答にもなれた俺だけどさ。だけどそこまでそっけないと、さすがになんだか寂しいよ。

 しかしそれより、腕輪のことを一抹程度にあつかうのはどうかと思うがそれより。それより俺は、千冬姉に聞かなきゃならないことがあった。

 

「なぁ千冬姉……どうして《白式》が《零落白夜》を使えたんだ?」

 

 今一番の疑問はそれだ。

 零落白夜。

 それは、千冬姉が乗っている《暮桜》という機体の唯一仕様能力(ワンオフ・アビリティー)。エネルギー質のものならビームだろうがバリアーだろうが、問答無用で無効化にする能力。()()()()()()()

 そして同じ唯一仕様能力(ワンオフ・アビリティー)は存在しない。それは俺でだって知っている。確かに《白式》は一次移行(ファースト・シフト)したかもしれないが……そも発現は第二形態からのはずだ。だから疑問で、驚愕。どうしてそんな代物が《白式》あるんだよ?

 

「さてな。それは私の与り知ることではないよ。束にでも訊ねてくれ」

 

 えぇー。なんだよそれ。一応、《白式》持ってきたの千冬姉じゃん。それってどうなのさ……っておい待て、『束にでも訊ねてくれ』? それってなんだよ……やっぱりなのか?

 

「千冬姉。やっぱ《白式》って、」

「ああ、その通り。私の友のお手製だ」

 

 ……だよ、な。

 第一形態からの唯一仕様能力(ワンオフ・アビリティー)発現、《雪片》……これだけでもう察しがつく。こんなけったいな機体、あの人以外の誰がいるというのか。

 篠ノ之束。千冬姉の親友にして箒の実姉にしてISの生みの親。

 ……そう考えればわりと納得、ってわけにはいかねぇよ。おんなじ能力はありえないんじゃなかったのか? どうなってんだ?

 思考がわだかまって新たな疑問が絡みつき、さらに大きな疑問点を咲き誇らせる。

 もとよりISには未知の部分が多い。パーセンテージにしたら五〇も解き明かされてないかもしれない。しかしそれでもほうっておくわけにはいかないほどに強力で、強大で、強烈なIS。しかし束さんが失踪している今となっては、もはやそのすべての秘密を知る者はいないだろう。

 そう、失踪だ。どういったわけかはてんで知らないが、とにかくあの人は行方をくらませた。1100個のISコアを残し、いずこかへ……とかいいつつ、千冬姉とはしっかり連絡取り合ってるようでして。昔っから思うけど、ほんと二人は仲がいい。『水魚の交わり』っていうのがよく似合うよ。

 

「それと、その《雪片弐型》は私が直々に頼んでおいた。どうだ、嬉しいだろう?」

「──ああ。最高だよ」

 

 見透かしたような実姉の言葉に、俺は躊躇わず満腔の謝意を口にした。

 嬉しい。本心から。脚色なく、嘘偽りのくもりもなく、感謝していた。

 憧れていた。《()()》を()る彼女の姿に、俺は今も焦がれている。幾度となく、何度となく、コイツを振る彼女を見てきた。

 ゆえに俺にとって、《雪片》は『それ』の象徴にも等しく。

 正直、誰よりも《雪片》を上手く使うことができると思っている。……さすがに本来の持ち主を除いてであるが。

 だからこそ嬉しい。格好から入るってわけでもないが、しかし彼女の片鱗、どころか片腕も同然のそれ。その一端を握って飛べることに、俺の感謝はとどまることを知らない。

 なるほどどうりで、《白式(こいつ)》は俺のためにあった。だが、しかし。

 

「最高、な。そう言う割に、引き分けっていうのはどうなんだ、一夏?」

 

 しかしそれをもってして、俺が行き着いた結果は引き分けという、なんとも中途半端なものだった。

 やや嫌味のような箒の言葉に、俺はぐうの音も出ない。

 

「……恥ずかしいかぎりだよ」

「まったく、私の教えたことを忘れるからそんなことになるんだ」

 

 面目次第もございませんです。はい。箒には本っ当に申しわけないと思う。この一週間誰よりも、ともすれば俺自身よりも親身になってくれた幼馴染み。その恩に報いることができなかったのが、痛い。

 しかしだが、この結果の原因は俺のせいほかならない。箒に対する責任なんて、それこそ語るまでもなく皆無である。絶無である。

 引き分け──俺とオルコット、両者のシールド・エネルギーが『0』になったことで、引き分けた。その原因、それは《零落白夜》の代償だ。

 エネルギーすべてを無に()す『超』能力だが、ゆえに代償がつきもので。《零落白夜》は、自身のシールド・エネルギーを消費することによって発動するのだ。命綱ともいうべきシールド・バリアー、それの燃料たるエネルギーを削って形を成す破壊刀。いってまさしく、諸刃の剣である。そうして俺のシールド・エネルギーがゼロになるのと、オルコットのエネルギーがゼロになるのが同時だったわけだ。だから引き分け。

 もちろん俺はその特性を知っていたし、土壇場でテンパって忘れたわけでもない。

 ただ単に、俺の力不足だ。

 与えられたものですら満足に使いこなせない、俺の責任だ。

 えも言えぬ悔しさに、あのとき感じた全能感は消え失せていた。

 だが。しかし。

 

 

 俺は、負けなかった。

 

 

 そんな俺の心中を察したのか──少なくとも悔しいというの()()()読みとれたのか、箒はそれ以上はぐちぐちという事もなく、ふっ、と。わずかに頬を緩め。

 

「そうやって悔しがる頭があれば十分だな。疲れたろ? 今日はもう寮に戻るとしよう」

「オーケー。あと……ありがとう」

「ふふ。気にするなよ」

 

 箒の言う通り、悔しく思う反面、やっぱり疲労は隠しきれない。あんまり動いたつもりはないんだけど、疲れが体中を占領してる。ISのアシストがなくなったせいもあって、体が重くてしかたないよ。箒の言葉通り、さっさとシャワー浴びて休みたい。……こういう時こそ、ほんと、風呂に入りたくなるぜ。はぁ。

 とりあえずシャワーでも浴びようか。確かアリーナに備えつけのがあったはず……この時間この状況、さすがに使ってる女子はいないよな? ばったり出くわしたら大変なことになるぞ。変態になるぞ。大変な変態……あんまし上手いこと言えなかった。

 

「……くだらないことに思考を割く元気はあるんだな」

 

 みれば箒がさも呆れたようにため息をついていた。うるせえやい。そういう性分なんだよ、ほっとけ。

 そうしてピットの出口へと向かおうとすると、箒は「ああ、そういえば」と、とってつけたような言い回しで、しかし『後で聞くつもりだった』というのがはっきり判る色を混ぜて、疑問を口にした。

 

「一夏。お前、ISに乗ってどうだった?」

「どうだった、って。どういう意味だよ」

「そのままの意味だ。乗ってどう思った? 何を感じた? 好きに答えてくれていいぞ」

「……あー、そうだな、」

 

 急になにを言い出すかと思えば、ISに乗った感想? なんとも判然としない質問だ。実に茫漠とした話だけど……まぁ聞かれたからには答える。というか、これしか答えはねぇだろっていうくらいなのが一つある。

 

「……うん、そうだ。色々感じることはあるけど、強いて一つにするならあれだよ。ISと一体になったみたいだったぜ?」

「…………そうか」

 

 そうやって答えてみれば、箒はなんともいえない表情で、はぁと息をもらしていた。なんだ、どうしたっていうんだ? つーか真面目に答えたのに失礼だぞ。

 さらに気づけば視界のすみで、話を聞いていただろう千冬姉がそれこそ箒以上に曖昧な、やに下がるような含み笑うような、または納得するような、どうとでも言えそうな顔をしていた。……意味が違うとわかっていながら使わせてもらうが、とりあえずにやけていた。

 そうしたもろもろの疑問を口に出す前に、とうの彼女は、ともすれば憮然ともいえた表情を元に戻し、

 

「何でもない」

 

 先んじて、そう言った。

 

 

 ◇◇◇

 

 

「…………」

 

 ひゅう。

 緩やかな風切り音で脇をすり抜ける春風は、時間帯相応の温度でもって肌をなでた。金髪が空気を孕んで星の下に揺れる。柔らかな星光に浮き上がるそれは砂金にも似て。深夜であった。

 新月。月のない、星の宴。

 セシリア・オルコットは星影のささやかな夜を歩いている。

 時刻は一二時を過ぎている。ほとんどのものが就寝しているだろうそのときに、彼女は一人で外出していた。舗装された学園の夜道。規則正しく並んだ街灯が延々続いてるように感じる。

 いくら四月とはいえ、やはり日のなくなった空は寒い。パジャマの上からストールを巻いて防寒にしているが、隙間に入り込むような外気がときおりゾクリと背筋をなぞる。

 そんな時分、彼女はわざわざ外出し、とある場所へと向かっていた。

 その場所。第三アリーナ。

 つい数時間前、彼女が戦っていた場所である。

 もちろん、シャワールーム忘れ物をした、なんていう理由じゃない。──いいや、これはある種忘れものみたいな感覚か。なにかを置き去ってしまったかのような、少なくとも、あれから数時間たって掻痒になるような、なにか。

 寝つけなかった。

 体中を今なおめぐる怒りのせいか、感情があふれて止まらない。いくぶんと熱が引いたものの、それは燃え尽きたとか冷めたとかではなく、虎視眈々と気炎の発露を待つ、猛虎のごとく。それが彼女の目を冴えさせ、どうしたものかと持てあまして……散歩がてら外に出た先、ふと気づけば、向かうさきはアリーナだった。

 意識したつもりはない。戦場跡を眺めて感慨に浸る……そんな老兵めいた感覚はセシリアにないし、どころかそこにいけばそれこそ、なりを潜めつつある怒りが再燃し、なおのこと安眠が遠くなるに違いない。

 で、あれば。この名状し難い感覚は、なんだ? 先の決闘を改めて戒めろと、流れるオルコットの血が叫んでいるのか? ともあれ、進む足取りに淀みはない。少々と早る心境で、セシリアはじくりとした熱の赴くまま、足を回す。

 そうして視界の先に映る巨大なシルエット。この刻限、使用時間をとうに過ぎた学園施設に光はなく、星夜の中では漆黒の輪郭しか捉えられない──なんてことはなく。

 

(照明が……点いてる?)

 

 件の第三アリーナは、グラウンド部を煌々と照明が照らしていた。

 

 

 ◇

 

 

 アリーナの客席。そこに踏み入った目線の先、広がる光景は悽愴とした戦闘の跡、などではなく。

 

「……っ、っ、──ッ!」

 

 ──アリーナ内を駆け飛ぶ、白い機影だった。

 白い機体が飛び回る。

 加速し、急停止し、かと思えば鋭角的な切り返し、そこからバレルロールによって()()()()()、直後跳ね上がるように急上昇、そして急降下の方向転換──教科書にある初歩的な軌道の数々。それをただ延々と繰り返す白の翼。奇抜な軌道は一切となく、基本に忠実、ひたすらにそれらを繋げていく。

 説明するまでもない。白のISを駆るその人は、誰に見られるでもなく訓練していた。

 その人。織斑一夏。

 

「お、ぉぉ……!?」

 

 機体がブレる。なめらかな軌跡が、その一瞬だけ、欠けたシャープペンシルの芯のように、歪に乱れた。それはやはり、自身が思い描くものとは違っていたのか。一夏はいったん《白式》を停止させると、ウィンドウパネルを表示させて──おそらく学園のデータベースにアクセスして教本を読んでいるのだろう、「なるほど」と頷きながら、同じマニューバを実践する。

 その眼差しは真剣そのもの。

 息が乱れていた。汗をかいていた。体中が泥かなにかで汚れていた。それでもまだやめない。それこそなにかに憑れているんじゃないかと錯覚するほど、彼は無心に訓練を続けていた。

 そのさまを、なにやらありえないものを見ているかのような眼差しで、セシリアはぼうっと眺めていた。ともすれば、背後から近づく第三者の足音が聞こえない程度には。

 

「どうしたオルコット。一夏が訓練しているのが不思議か?」

 

 はっとしたように振り返ると、通路の影から姿を見せたのは同じクラスの篠ノ之箒だった。その顔はなにやら得意げで、そんな彼女の表情を見てか、毅然を取り繕うようにセシリアは表情筋を引き締めた。

 

「いいえ。ただ、ほんの少しばかり驚いただけですわ」

「そうか」

 

 簡素に答えて、箒はセシリアに並んで立つ。腕組みしたその目の焦点は、無論、一夏を追い続けている。

 どうして彼女がここに? と思い至って、そういえば彼女と織斑はルームメイトだったか、とさしてひねりのない答えに行き着く。それに第一、そんなことをいったら自分こそどうしてここに、と訊かれる立場にほかならない。理由なんていまさらだろう。

 依然として一夏は訓練を続けている。今はどうにも逆噴射機動(スラスト・リバース)──推進器(スラスター)を前方に向かって噴射する機動を練習中のようだった。そう認識した先、後ろに迫っていた遮断シールドに激突した。

 

「どうだ。あいつ、努力してるだろ?」

「……()()から、ですか?」

「そうだな。ざっと二時間ぐらいじゃないか? 何にせよ、あと一時間は続けるだろうさ」

 

 「そうですか」、と口にして、セシリアの目は、本人が意図することもなく一夏へと向けられた。

 上下に激しく揺れる肩。改めていうべくもないほど、はたから見てとれる疲労量。二時間も続けっぱなしというのも当然に原因だが、ただでさえ、昼間はほかならぬ自分自身と戦っていたのだ。それは疲れて当然だ。

 

「まったくあの馬鹿は。昔から変わらないよ、本当に」

「昔から、ですか?」

「ああ。出会ってからずっと、あいつはいつもこんな感じだ。兎に角、影でこそこそ鍛錬してる。どうにも他人に『努力』しているのを見せたくないんだろうな。深夜の鍛錬なんて、それこそ一夏には打ってつけだろうさ」

 

 ……なんだ、それは。

 

「オマケに同室の私に気づかれてないと思っているらしい。深夜私が寝たのを見計らって、こそこそ部屋を出て行くんだよ」

「……ということは、」

「ん? ああ、今日は勝手についてきた。流石にオルコット、貴様と戦ったあとだからな。倒れないか心配なんだよ」

「……どうして、かしら」

「うん?」

「どうして彼は……その、『努力』しているところを見せたがらないのかしら?」

 

 セシリアにとって、それは疑問であった。彼女自身、なにも努力をひけらかすつもりはないといえ、けれど無理に隠そうとするつもりもない。努力はそれこそ過程であるわけだし、だったら他人の目があろうとなかろうと、自分のためになればいいのではないか?

 そんなセシリアの疑問に面を食らったのか、箒は一瞬『へ?』っとした顔になって、直後笑いをたたえていた。

 

「……なにかおかしいことでも言いましたか?」

「ふふ。いや、違うよオルコット。そういうことじゃない、だからそう睨むな」

「では?」

 

 そう催促するセシリアに、箒はそれこそこともなげに。

 

 

「男が影で努力するときなんて決まってるだろ。カッコつけたいんだよ」

 

 

「────、」

 

 なにか、セシリアのなかで欠けていたものがはまった気がした。

 思えば一夏に対して行った身辺調査。秘密裏のことだったのであまり多くの人に聞くことなどなかったが、しかし回答はある一言だけ一貫して共通していた。

 

『織斑一夏は優しい──よく人を助けている。それをなによりもがんばっている』

 

 それが悪いことじゃないのは当たり前だ。しかしでも、当初それを聞いたセシリアの反応は『それで?』、だ。確かにそれも立派であろう。けれど、それのみに終始して、自分をおろそかにするのは愚かだといえる。他人はもちろん大事だが、ならばこそ自分をもっと大事にするべきでは? そんな感想だった。

 しかし、もし。

 その努力を、一片あまさずすべて他人のために費やしているとしたらどうだろう。誰かを守るために労しているならどうだろう。

 己のすべてを賭けて捧げて、誰かのために時間を費やす。

 それはまさしく、父が言う『努力』と同じでは──?

 

「…………」

「どうしたオルコット、ぼーっとして」

「、いや。なんでもありませんわ」

 

 いいや、まだだ。まだそうと断定するには早計だ。

 なにせまだ、出会って一週間しか経っていない。いくら矛を交えたといえ、それだけで相手を理解するなど……少なくとも現状のセシリアには不可能だ。

 けれど、だから。純粋に、彼と話してみたいと思った。

 知りたいと、感じた。

 

「行ってくるといい」

「えっ!?」

「さっきの貴様の顔、そう言ってるように見えたが?」

「……まぁ、当たらずしも遠からずといいますか」

 

 「それみろ」、と屈託なく笑う箒に、しかし言い当てられた察しのよさを怒るような感情は起こらなかった。なんとも気持ちのよい笑顔。

 

「それじゃあ私は、帰って寝るとしよう」

「あら、あなたは? あなたは織斑さんに会っていかないんですの?」

「当たり前だろ。男がカッコつけたがってるんだ、だったらそれを立ててやるのも女の努めさ、オルコット」

 

 ……多分、こういうのを『イイ女』というのだろう。今の自分では、到底たどり着くことのないだろう極地。まぁ、そんなことを考えたことがなかったせいかもしれないが。

 そうして(きびす)を返そうとする箒に、寸前セシリアは声をかけて呼び止めた。

 

「あの、篠ノ之さん」

「ん、なんだ?」

「その『オルコットさん』というの、やめてくれません? あなたには『セシリア』と、ちゃんと名前で読んでいただきたいですわ」

「承知した、セシリア。私は箒でいいぞ」

「え、ええ。箒さん」

 

 なんの躊躇もなく、あっさりと二つ返事の箒のさまに、呼び止めたセシリアのほうが変な躊躇いを見せた。……どうにもこの人の思考は男性的なところがあるようだ。さすがはサムライガール。この『敬称』とも呼べる呼び名は、すでにこの一週間を通じて一組全体に伝播していた。

 しかし名前で呼ばれることに(いや)はない。この女性には、それこそ対等であって欲しいから。

 密やかな対抗心の芽生えであった。

 

 

 ◇

 

 

「こんばんは、織斑さん」

「ん? ああ、オルコットか」

 

 そうして一夏がグラウンドに降りたのを見計らって、セシリアは彼に声をかけた。箒と別れてから幾ばくとたってはいない。

 一夏に話しかけるのに一瞬躊躇いはしたものの、しかし声をかければとうの一夏、さりとて驚くようなこともなかった。疲れているからかもしれない。

 

「で、こんな夜更けにどうしたんだよ? まさか昼間の決着をつけにきたってんじゃないだろうな?」

「……違いますわ」

 

 少しおどけるような一夏に言われて、『引き分け』の事実を再認識した。怒りや熱を忘れたわけでもないのだが、けれど今は、彼に言いたいことがあった。それこそ箒に言ったように対等に、彼を知りたいと思うから。

 

「『他人を馬鹿にしてごめんなさい』」

「えっ?!」

 

 ぴったり四五度に腰を折って頭を下げる。不思議と、屈辱に感じることはなかった。しかしそれは、やっぱりセシリア自身、それがよくないことであるというのを弁えていたからであろう。言葉はすんなり口をついた。

 そんなセシリアの言葉に、さすがの一夏も驚愕だった。

 

「えっと、どういった心境の変化なんだよ?」

「……別に、間違っていることを正しただけですわ」

 

 そうして頭を上げた矢先に一夏と目が合って、なんとはなしに顔をそらす。

 なんだか、胸が軽かった。

 

「……そうか。じゃあそれは俺にとっての決着だよ。一組の代表は君だ」

「えっ?!」

 

 打って変わった驚愕は無論のことセシリアで、その答えに思わず詰め寄ってしまった。

 

「ど、どうして?」

「だから言ったじゃないか。俺が勝ったら君に謝ってもらうって。だから俺には決着なんだよ」

 

 言われてそういえばと、セシリアはそれを思い出す。

 しかしなるほど、一夏の答えは当然でもあろう。そもそも彼はそんなセシリアの態度が許容できなかったわけで、それが撤回された以上、一夏が噛みつく理由はなくなった。

 なるほど道理で、しかしそれを理解していようとも、すぐに納得できるわけもなく。

 

「で、ですが、」

「食い下がるなよ。別に与えられるもの全部が悪いわけじゃないだろ? 与えられるだけがいやなら、それこそそれでも、って吼えればいい。抗えばいい」

「……『それでも』」

「だから、それでも俺に納得できないっていうなら、俺はいつでも相手になるぜ?」

 

 そうして向けられた屈託ない笑顔は、つい先ほどにも見たことがあるもので。

 それに、思わず頬がゆるんだ。

 

「──いいでしょう。

 でしたら、あなたはなにやら納得したようですが、()()()()わたくしは否と言わせていただきますわ。あなたは必ず、わたくしが倒します」

「承知した。それでも俺は負けないよ」

 

 互いににっと笑って、ここに再び約束は交わされた。

 両者譲れず、退くつもりがない。なれば当然進むしかなく、立ちはだかるなら押し通れ。決闘の宣言。負けるつもりは毛頭ない。

 交わす誓言──しかしもう一つ、セシリアには言うべきことがある。

 互いが対等であるというなら、それこそ名乗るのが筋だろう。

 

「改めまして。わたくしはセシリア・オルコット。オルコット家党首にして、イギリス代表候補生。セシリアとお呼びなさい」

「──俺は織斑一夏だ。誰でもなんでもない、織斑一夏だ。一夏でいいぜ」

 

 少し芝居がかった言い回しをしてみれば、なんの迷いもなく乗っかってきた。

 ……本当、どうやらこの男性はそういう『男の子的なこと』には人一倍敏感らしい。きっとおそらく、それ以外の部分がないがしろになっているはすだ、と。セシリアは誰にいわれるでもなく直感した。

 そんな心地よい夜のなかで、一夏はポツリと口にする。

 空を見上げ、視線を上げて、はるかはるか、遠く遠く、その意識を伸ばしていく。

 それこそ──そこに、なにかを見るように。

 

 

 

 

 

「────『月が綺麗ですね』」

 

 

 

 

 

 いわれて見上げて、はて、と。キョトンとした顔で、しばし夜空を見つめていた。自覚できるほどの間抜け(づら)を晒しているだろうが、しかしてそれもしかたないことだろう。

 だってなにせ、今夜は新月。月のない夜だ。

 意味不明、としかし断ずるには惜しいだろう。もしかしたら、なにやら詩的表現でそんな言い回しを選んだのかもしれないし、あるいはそれを通じて伝えたいことがあったのかもしれない。だとすれば星の栄えるこの閑雅、そこに月の有無を問うのは無粋であろう。

 しかしなるほど、なればこうして星夜で月の『美』を語らうというのは、どうして風趣あふれるではないか。

 そうしてから数瞬後、なにやら感心していたセシリアだが、しかしまるで我に返ったかのようにあわあわと慌ただしくなるのは一方の一夏。

 

「いやいやいや! さっきのはそういう意味で言ったんじゃなくて嘘とか冗談とかまぁ月が綺麗なのは確かなんだけどでもそういうつもりで言ったんじゃまったくちっともぜんぜんなくってだなっ!!?」

「は、はい?」

 

 がー、っと頭をかきむしる一夏はさも『恥ずかしい』といわんばかりのありさまで、それこそ地面の上を転がりだしそうな勢いだ。どうにも風情うんぬん婉曲なんたら、セシリアの誇大な勘違いだったようで。

 なにやら一夏は顔が赤いのであるが、それをなかったことにするように「とにかく!」、と言い放つ。

 

「今日はこれで解散! じゃあなセシリア! さっきのは忘れてくれ!!」

 

 そうしてセシリアの反応を確かめる()もなく、一夏は逃げるように去っていった。

 どうしたのだろう? とイマイチ意味を測りかねていたセシリアは、再び顔を上げていた。

 

 

「──本当。綺麗な月ですわ」

 

 

 

 

 

 後日、意味を理解して赤面していたイギリス人がいたとかないとか。




書いてる内にどんどんセシリアがすきになって、気づいたらすごい勢いで書いていた。

二〇二一年の四月の新月は本当は一〇日らしいけど二日くらいなら誤差の範疇なはず。
そう思いたい。

改行のしかたを変えました。
レイアウト試行中です。
見づらかったら報告してくれると嬉しいです。

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