息を吸い込めば肺に流入する、少し乾燥した空気。それに乗って漂ってくる薬品の匂いが、ここを慣れ親しんだ医務室だと
「……ん、っ……くぅ、ふぁ……」
大きく息を吸えば、反り返る身体のラインと同時に少しだけ浮き上がるなだらかな胸。これまた見慣れた入院着に覆われたそれらは、半ばお約束じみた今の
「あら、起きていましたか。おはようございます、菊月さん」
「明石か。……分かってはいたが、また眠りこけていたようだな、私は……」
自嘲するように言えば、明石はくすくすと含み笑いを漏らす。何となく気に障ったことを示すように鼻を鳴らせば、明石は更に笑みを深める。実に恥ずかしい、と菊月もぼやいていた。
「ふふ、今回はそう大した怪我はしていませんよ。どちらかと言えばおそらく疲労――になるのでしょうか、それが原因です。まあ、寝ぼすけさんだったことに変わりはありませんけれど、ね」
「……むう」
「苦しそうな顔じゃありませんでしたし、存分に頰っぺたも突っつかせて貰いました。いやー、皆さんの寝顔は元気の源ですね!」
胸を張ってそう言う明石に一抹の不安さを覚える。彼女もこの二段作戦で心労が溜まっていたのだろうか。少しの懸念を感じる『菊月』に頷きつつ、『俺』は口を開く。
「……そろそろ、この寝ぼすけにも現状の説明をしてくれると有り難いのだがな」
「ああ、すいません。――と言っても、それほど重要な連絡事項は無いんですよ」
「と、言うと?」
「ええとですね。まず、二段作戦に関しては終了しました。南方の敵艦隊、海域最深部の敵艦隊旗艦隊を撃滅し、今は後詰めや他の鎮守府、他の基地の艦娘達が海域の掃討・警備を行っています。完全勝利、私たちの勝ちですよ」
「……そうか、良かった。姉妹や仲間達は?」
「菊月さんの姉妹や、第一艦隊を始めとした皆さんもそれなりの損傷をしていましたが、今はいずれも修復は完了しています。大破している幾つかの艤装の持ち主の方が出撃できない以外は、概ね問題ありませんよ――あ、艤装と言えば」
明石の言葉に、
「……ああ。済まない明石、お前に鍛えて貰った『護月』を喪失してしまった」
「そうですね。ですが、艤装とはやはり使われる為にあるものです。最期のその時まできちんと使って貰った結果の喪失ならば、『護月』も無念を抱いてはいないでしょう」
「……そう、か。そうだと、有難いな」
俺と明石の間に、暫しの沈黙が訪れる。窓から吹き込む冷たい風が、カーテンをふわりと舞い上げた。そこから覗く海は、いつもと変わらずに青い。風に吹かれてぶるりと身体を震わせると、明石が布団を掛けてきた。そしてそのまま彼女は、
「それで、菊月さん。『護月』は喪われてしまいましたが、あなたはいつも二刀を提げて出撃していました。新しいものを鍛つならば、またお話を聞くことになりますけれど、どうします?」
明石からの問いかけに、少し黙り込む。頭の中で巡らせるのは、二刀を使うことの利点。深海棲艦の現状や自身の練度、仲間との足並み、砲雷撃と比較しての戦術。それらを思考し『菊月』と向き合う。向き合った上で、俺達の用意していた結論は全く同じだった。
「いや……不要だ。これからは一刀で構わない」
深海棲艦の装甲が刃を通さなくなって来ている現状、重視するべきは本来の砲雷撃戦だ。駆逐艦の本分は高機動戦闘だとは言っても、接近するのは雷撃距離までだろう。ならば二刀を構えるよりも、砲と刀を片手ずつに持つ方が状況に対応もし易い。そして何より、
「色々と理由はあるが、あれは……『護月』は、私の意志、私の願いを名に冠したものだからな。折れたからと言って変える訳にも行くまい……」
「――はい、分かりました。それでは菊月さんの艤装の修復は、背部艤装のみをさせて頂きますね」
「ああ、頼む。……報告は終わりか? もしそうならば、私は部屋に戻りたいのだが」
「そうですね、報告は以上です――っと、ごめんなさい。もう一つ報告、というよりお伝えしたいことがあります」
慌てた風に言葉を繋げた明石に、「なんだ」と問い返す。問い返せば、明石は少しだけ表情を険しくして口を開いた。
「ええと、その前に一つお願いしても良いですか?」
「……別に構わんが」
「ありがとうございます。――その、報告に上がっていました、黄金の
「分かった。何故そんなものを見たがるのかは分からんがな……」
「ああ、出来れば立ってお願いします」
明石の言葉に、無言でベッドから這いずり出る。すとんと裸足で着地すれば明石も椅子から立ち上がり、対等だった目線が彼女の顔を見上げるものへと変わった。
「……では行くぞ――っ、ふっ!」
全身に力を込め、魂を燃やす。全身に広がった『俺』の意志がどんどんと押し出されるように、金色の気焔が全身から立ち昇る。
「……これで良いか?」
「はい、ありがとうございます。それでは収めてください」
「ふむ……。実際のところ、何が何やらなのだが――あ、?」
気焔を収める――と同時に、がくんと、ふわりと、全身から力が抜けた。糸の切れた人形のように床に倒れ込……む寸前、しゃがんだ明石に身体を抱きとめられる。そのまま抱き上げられ、
「試すような真似を、というか実際試してしまったんですが。すみませんでした、菊月さん。そして、やっぱり菊月さんが眠っていた原因が分かりましたよ」
「……あ、あ?」
意識ははっきりとしている。が、何故か思うように声が出せない。まるで身体だけが、俺の意識から外れているような感覚。だが、明石の言う原因とやらは容易に推察できた。態々こんなことをされれば当然だろう。
「今回目立った損傷も無かった菊月さんが寝込んだのは、やはりその金色の気焔が原因です。何故そうなるのかの原理は分かりませんが、間違いないでしょう。恐らくは、症状から見て極度の疲労とエネルギーの喪失、と思いますが。
「……ん、あ。……ふ、睦月型駆逐艦に対して、燃費が悪いとは。面白い冗談だ……」
「ええ、全く。そして、これで理解したと思いますが、くれぐれも戦闘であの金色の気焔を使わないようにして下さい。理由は言わずもがなでしょう?」
「……ああ、理解したさ」
たった数秒纏い直立するだけで、纏い終わった直後に崩れ落ちるような代物ならば、纏ったまま海を駆ければどうなるかは想像に難くない。それどころか一度体験しているのだ。……しかし、必要があれば俺はまた使うだろう。これも言うまでもないことだが。
「よし! それでは、本当に伝達すべき事は全て終わりです!」
「ああ、世話になったな明石。今度また、間宮でも奢るさ」
明石に礼を言い、ベッドから降り立つ。休憩したからか足元がふらつくこともなく、問題なく立つことが出来た。そのまま制服に着替え、扉を開く。
開け放った南の窓から吹き付ける風に背中を押されるように、
次回から日常回だー!