SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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今回は仮想世界から現実世界に戻ります。
こちらも次々と謎を追いながら、リズベットのストーリーを進めるつもりです。

スキル
≪千里眼≫:オブジェクトを透視する事が出来るスキル。モンスターやプレイヤーの位置をオブジェクト越しで有視界に捉えられるようになる。
≪回復補助≫:回復アイテムによるHP回復効果を微量であるが高める。

アイテム
【遠声の奇石】:遠くに声を響かせる石。別名で木霊石とも呼ばれる珍品。ある王はこれを軍略に用いようとしたが、多くの奇石が反響し合い、兵たちは混乱を極めた。それが進軍を疎かにし、結果として国が滅んだとも言われている。
【目覚めの縛輪】:夢から現に戻る事が出来る鎖の指輪。夢と現の境界線は常に曖昧であり、微睡の中で人は垣根を超える。これはひと時の夢を現実にし、現実を夢にする指輪である。


Side Episode5 ミュンヘン2028

 異国の大地を踏む度にリズベットが思い出すのは、現実世界に帰還してから体験した数々の『人生ハードモード』以外の表現をしたくない出来事の数々である。

 須郷事件に始まり、イギリスの同時多発電脳テロ、中国・シンガポール・インドネシア・ベトナムの4カ国を24時間で巡ったVR大規模詐欺事件、VRC(仮想都市)を運営するロシアのカルト教団を相手取った須郷から漏洩した洗脳技術を巡る通称『100時間の決戦』、そしてGGOの裏で非合法な実験と計画を企てていたPMCとの戦いでアメリカ全土を駆け回った。

 撃たれた横腹の銃創は乙女の柔肌に癒えぬ傷痕を残し、体験した死線は恐ろしい事にアインクラッドに閉じ込められていた時よりも現実味が無い。

 須郷事件の最後、須郷とそのボディガードとのカーチェイスと銃撃戦でリズベットは横腹を銃弾でぶち抜かれた。

 同時多発電脳テロの時は麻痺したロンドンの交通網の中で暴走する地下鉄の屋根に乗り、習得したばかりの拙い英語(しかもブリテンイングリッシュである為に1部単語が上手く頭の中で和訳できていなかった)での指示で爆弾の解除を行った。

 VR大規模詐欺事件では僅か24時間の間に谷底に落とされたり、あの有名なマリーナベイサンズの屋上プールで敵のボスを追い詰めたかと思えば敵のナンバー2の裏切りで事態が急転して突如現れた軍用ヘリから銃弾をばら撒かれたり、挙句に豪華客船へと飛行機からスカイダイビングで突入して被害総額1200億ドルにも上る、アジア経済どころか世界経済を転覆させかねないシステムトラップを発動前に停止させた。

 ロシアのカルト教団の時は仮想世界と現実世界を行き来し、洗脳されて操り人形になった被害者や根っこからの狂信者、更には良く分からない最新兵器や生体兵器まで登場して中世の街並みの中で銃撃・剣戟・爆発のオンパレード。最後は頭がイカレた教団のトップが密やかに入手した核ミサイルの自爆ボタンを停止すべく、リズベットは仮想世界で、光輝は現実世界で完全に息を合わせて爆発まで300秒というタイムリミットの中で自爆コードの解除を行った。

 そして、トドメにはGGOの裏側に潜んだ非合法な実験を行っていたPMCとの対決であり、これには米国の政治的暗部も絡んでか、いつの間にか警察には追い回され、日本政府から派遣された公安には『騙して悪いが』され、CIAやFBIといったアメリカドラマでしか知らないアメリカン達の協力を取り付けたかと思えば、敵に追い詰められてニューヨークの高層ビルから命綱無しのダイビングを敢行し、敵に捕らわれて拷問で生皮を剥がされかけ、最後には敵の黒幕だった副大――(規制)の決定的な証拠をつかむべく敵の本拠基地に潜入して、光輝やアメリカン達がドア1枚越しで守ってくれる中でリズベット1人がVR管理されているサーバーにログインして証拠を探し出すという地獄を体験した。

 

(……あたし、本当に何で生きてるんだろう)

 

 そして、意外にもこれらがトラウマになっているかと問われれば、リズベットの手首の傷痕が証明するように、彼女の心を蝕んでいるのはあくまでSAO事件の記憶だ。これら現実世界で起きた数々の事件は、不思議な事に彼女の中で過去として消化されていた。

 ただし、恐ろしい事にこれらは全て半不可抗力で巻き込まれたものばかりである。故に、リズベットは事件が終わる度に神社で御祓いを受けているのだが、一向に効果が発揮される兆しは無い。

 

「それにしても、さすがはドイツね。見事な雪景色」

 

「だね。僕はやっぱり新婚旅行は南国が良いんだけど、リズベットちゃんはどう?」

 

「そうね。とりあえずアンタ1人で無間地獄まで旅行してもらえると嬉しいかな?」

 

 隣で相変わらずふざけた発言を初動から号令の如く放つ光輝にリズベットは最高の笑顔で毒を吐きつけた。

 だが、すぐにリズベットは、数週間前ならばあり得ない事に、自身に欠片程ではあるが反省を促す。

 先日の須和との会話により、光輝の弟がDBO事件に巻き込まれている事を知り、そして休憩室で出会った女性との語らいにより、自身が少なからず光輝に対して惹かれる物を持っていることを自覚させられた。

 あの後、リズベットは光輝を居酒屋に誘い、半ば絡み酒で何故身内がDBO事件に巻き込まれている事をパートナーである自分に打ち明けなかったのか光輝に問い詰めた。

 

『大丈夫だよ。僕の弟は簡単には死なない。そう信じているのさ』

 

 そう確信を持って答えられた時は、思わず言葉を失ったが、その次の瞬間に見せた光輝の悲しげな眼差しはリズベットに焼き付いている。

 DBOの解析は進んでいるが、そのゲームコンセプトや難易度がSAOとは比較にならず、デスゲームとして生き抜き、ましてや完全攻略するのは絶望的である事は既にVR犯罪対策室でも周知の事実だ。

 

『ごめんね。リズベットちゃんを心配させたくなかったんだけど、逆に苦しめちゃったみたいだね』

 

 本当は分かっていた。光輝はSAO事件を今も引き摺るリズベットに無用な重荷を背負わせたくなかっただけだ。

 だからこそ、これまで無神経だった自分を変えなければならないと彼女は誓った。

 だが、千里の道も1歩から、という諺がある様に、一朝一夕ではしみついた態度……良くも悪くも光輝との間で成立していたコミュニケーション手法を変える事はできなかった。半ば反射であるのもタチが悪い。

 そして、何よりもリズベット自身が光輝の事を意識するようになってしまったのも問題だ。

 

(そりゃ、軽薄で女好きで軽口ばかりだけど、顔は良いし、優しいし、あたしの事を1番に気遣ってくれるし、何だかんだで有能だし)

 

 残念過ぎる性格と言動さえ除けば、誰に紹介しても恥じる事のないカレシや夫に成り得るスペックを持った優良物件なのであるが、前述したように、余りにも言動がリズベットの癪に障る為にマイナス評価から脱せられないのだ。

 もちろん、リズベットからすれば自分などマイナスどころかマントルを突き抜けて地核に到達するくらいに最低であるという評価を下している為、それ以前に自分を好む稀有なこの男が何を考えているのかまるで分からないというのが大前提として、自分が抱いている『感情』への肯定を阻んでいるのだが。

 仕事に切り替えよう。雪は止んでいるとはいえ、12月ドイツ、ミュンヘンは十分に凍えさせるだけの寒さを湛えている。時差を修正した腕時計が示す時刻は午前11時半だ。ミュンヘン国際空港のカフェでの休憩を済ませたリズベット達は、今は雪雲が去って青空が広がる正面玄関外に出る。

 

「〈久藤光輝捜査官、それに日本VR犯罪対策室オブザーバー篠崎里香さん、お待ちしておりました〉」

 

 最近になって聞き分けられるようになった、いわゆる各国の訛り……特徴が現れた英語で正面玄関を出たところで待っていたのは、体格が良い栗色の髪をした男だ。

 さすがはドイツ人。巨体だ。海外を飛び回る機会が多いリズベットであるが、日本人女性として高くも低くも無い身長をした彼女からすれば巨人そのものだ。光輝も180センチにも届く日本人男性にしてはそれなりの体格なのだが、彼以上に横幅も身長もある。

 やや気圧されながらも、自分は日本VR犯罪対策室から代表として派遣されたオブザーバーなのだと自覚を取り戻したリズベットは胸を張り、オブザーバー用の身分証明書を提示しようとする。だが、それよりも先にリズベットよりも1歩前に出た光輝が右手を振り上げた。

 一瞬だが、この馬鹿は殴り合いでも始まめるつもりなのではないかと嫌な予感がしたが、それは当然ながら杞憂であり、光輝とドイツ人男性はがっちりと握手を交わす。

 

「〈堅苦しい挨拶は無しにしよう。久しぶりだな、カミル!〉」

 

「〈……お前はもう少し体裁を考えてくれよ、コウ〉」

 

「〈ハハハ! 僕とお前の仲だろ? それよりも嫁さん元気?〉」

 

 肩を組み、まるで親しい旧友に再会したように笑う光輝が見せるのは、リズベットも知らない彼の無邪気な表情だ。それに対し、やれやれといった感じながらも嫌な顔をしないカミルを見て、リズベットはまた自分の知らない顔をこの男は持っているのだと、妙なもやもやを胸に覚える。

 

「〈今度2人目が生まれるよ〉」

 

「〈そいつは最高にハッピーだ。あ、紹介するよ。こっちは僕の仕事兼プライベートでもパートナーの篠崎里香ちゃん。まぁ、コードネームの【リズベット】で呼んであげてくれ〉」

 

「〈仕事はともかく、プライベートは違いますから。篠崎里香です。こちらの馬鹿が言ったように、リズベットで構いません〉」

 

 光輝の足の甲を踏み潰しながらリズベットはカミルと握手を交わす。ゴツゴツとした豆だらけの手は、この男が少なからずの荒事に携わっているのかを語り、どちらかと言えば頭脳労働が主なVR犯罪対策室でも現実世界での実働を分野にしているのだと明かす。

 

「〈カミル・ボルツマンだ。そこの馬鹿とは研修時代に組んでいた〉」

 

 そう言えば、とリズベットは自分と組む前、SAO事件終結後、世界各国でVR犯罪対策室が次々と立ち上がる中、茅場晶彦の居場所を後1歩の所まで追い詰めていた光輝が海外研修で欧州に赴いていたという情報を思い出す。

 あの頃の光輝はいわゆるエリートコースを歩んでいたのだが、生来の性格が上下関係が厳しい組織ではトラブルばかりを起こし、また型通りの捜査では能力も発揮できず、更に須郷事件ではリズベットを撃たれた事で激昂して須郷の用心棒を数名射殺した事をトドメに、完全に出世街道から外れてしまった。

 言うなれば、カミルとはエリート時代の友人なのだろう。この様子からするに、カミルは光輝の現在の境遇については把握しているようである。

 何やら昔話や近況報告で盛り上がる男2人の後ろを付いて生きながら、リズベットはやや羨ましそうに笑んだ。今の自分には、ああして本心を曝け出して語らえる友人がいない。同じVR犯罪対策室の春日とは仲が良いが、それは同じ職場の同僚としてだ。大学には友人がいないし、SAO事件以前の友人との交流は断たれた。同じく事件を生き抜いたシリカとは定期的に連絡を取っていたが、それ以上の物は無く、『彼』とは……アスナの事を考えたらどうしても顔を合わせる事が出来なかった。

 カミルの車に乗り込んだリズベットは後部座席に腰かけ、暖房が利いた車内では暑い為、毛糸の帽子とマフラーを脱ぎ、分厚いコートもボタンを外した。

 

「〈それで今回僕らが呼ばれた件だけど、資料は目に通しているが、お前の口から聞かせてくれないか〉」

 

「〈……そうだな。実は、今回呼んだのはドイツVR犯罪対策室というよりも、俺の意向が強い〉」

 

 やや言い難そうに、カミルは駐車場から出発する。フロントガラスにはVR技術とAR技術を応用したものか、速度計や残り燃料や電力などが半透明で表示され、目的地までのナビゲーションが起動する。

 

「〈11月21日、ミュンヘン郊外で変死体が発見された。名前はエアハルト・ダイムラー、32歳。デイトレーダーで、業界ではそれなりに名が通っていた奴だ。注目の若手って奴だな。第1発見者は彼が雇っていたメイドだ。フルダイブ機器を装着したまま心肺停止状態だったらしい〉」

 

「〈個人投資家か。最近はVRに引きこもって不眠不休で取引している奴もいるらしいな。日本でも長時間ログインで死者が出て、本部の連中が出張ってたよ〉」

 

「〈ドイツでも珍しくない。だからダイムラーも同様のパターンだと思われた。検死解剖でダイムラーは心筋梗塞である事も判明し、長時間フルダイブによるストレスが原因であり、事件性は無いと片づけられた。最初は『死銃事件』のような他殺も疑われたが、ダイムラーの遺体が発見されたのは彼のマンションの私室、セキュリティは万全で監視カメラにも不審者は無し。何よりも遺体に注射針の跡のような外傷すらなかった〉」

 

 話を聞く限りでは、リズベットもまたダイムラーの死は長時間フルダイブによるストレスが引き起こした心筋梗塞である事は明白であると考える。日本を発つ前に送られた詳細な捜査資料に関しても、ダイムラーの死を他殺と結びつけるような物は無かった。

 VR適性が低い者ほどフルダイブがもたらす心身へのストレスは増大だ。SAO事件やDBO事件で囚われた被害者たちは医師と看護師による24時間体制のケアによってフルダイブ状態でも最低限の健康が維持されるように徹底した管理が成されている。

 

「〈なら、何が引っ掛かったんだ?〉」

 

「〈診療記録だ。ダイムラーはVR依存症ではあったが、健康には最大限に配慮していた。資産に物を言わせて2週間に1回は全身をメディカルチェックする健康オタクさ。奴の最後のメディカルチェックは死亡する3日前。その頃は優良健康体さ〉」

 

「〈ストレス性って言っても2日や3日でいきなり発症するものじゃない。確かに死因としては若干不自然だけど、事件性があるとは言えないわよね〉」

 

 口を出したリズベットに、その指摘を待っていたというようにカミルは小さく頷く。

 

「〈コウ、ベルリオーズ教官を覚えているか?〉」

 

「〈忘れるわけないだろう。フランスのナンバー1刑事でインターポールの伝説。僕らに国際捜査のいろはを教えてくれた恩人だ。でもあのジジイ、もう退職したはずだろう?〉」

 

「〈ああ。今は引退してフランスVR犯罪対策室のオブザーバーをしているらしいが、教官からリヨンでも同様の変死体が発見されたと連絡があった。教官も事件性を疑っている〉」

 

 途端に、後部座席からでは見えない光輝の表情が険しくなったのをリズベットは雰囲気だけで察する。

 ベルリオーズとは余程光輝とカミルの両方にとって信頼を置ける人物なのだろう。

 沈黙が流れている内に、事件の被害者であるダイムラーのマンションに到着したのだろう。マンションの管理人に身分証を提示したカミルに導かれ、3重の防弾ガラスの自動ドアを潜り抜ける。

 どうやら若手のデイトレーダーとはいえ、名が売れる程だ。多額の財を築いていたのだろう。1フロア全てが自宅であり、客間は4部屋、ミュンヘン郊外の景色を楽しめるガラス張りのジャグジー、加えて仕事部屋には彼の趣味だろう、VR関連の書籍やグッズで埋め尽くされていた。

 

「〈事件からもう2週間以上経っているのに現場保存されているのね〉」

 

 掃除こそされているが、死者の荷物が整理された形跡もないダイムラーの仕事部屋を見回しながら、思わずリズベットはそう零す。

 

「〈ダイムラーは10歳の頃に両親を交通事故で亡くし、親戚の家を転々とたらい回しにされていた。彼にとって家族と呼べる人間はいなかったよ。恋人と呼べるような女性もいなかったらしい。せいぜい1晩の付き合いだ。可哀想な事だが、今では彼を蔑ろにした親戚連中が弔いもお粗末に、財産を巡って醜い争いをしているよ。お陰でこの部屋を訪れる者は皆無さ〉」

 

 同情を禁じ得ないといったカミルの口振りに、リズベットは資料にあったダイムラーが息を引き取っていたと資料に記載されていた肘掛椅子に触れる。革張りのそれはつい先程まで暖房が入れられていなかった為か、冷気を啜って氷のように冷たかった。

 孤独な男は自分の才覚だけ信じて投資の世界に身を投じ、財を築き、人知れずにこの世を去った。リズベットは無念だろう彼の魂を慰めるように黙祷を捧げる。

 

「〈俺も教官と同様に事件であると考えている。だが、上はもう終わった事件だと捜査を打ち切るつもりだ。だから、せめて『次』の為に何かヒントを得たい。今の解決は無理でも、『次』の犠牲を止められずとも、『次の次』は阻止できるように。お前は『嗅覚』が利く。何でも良い。この部屋から何か感じるものはないか?〉」

 

「〈人を警察犬みたいに言いやがって。まぁ、確かに腐れたニオイはするけどね。〉リズベットちゃん、悪いけど協力頼むよ」

 

 頭を掻く光輝に、リズベットは言われずともその為に自分がいるのだと嘆息する。

 少なくとも光輝はこの部屋に何かを感じ取った。即ち、今回のダイムラー変死は何かしらの事件性……他殺の確率が存在する余地があるという事になる。

 床暖房が利いてきたせいか、ブーツの底からも熱が伝わって来る。リズベットは本棚に並ぶ世界各国のVR関連書物を手に取った。いずれもVRゲーム関連であり、日本でも人気第1位のALOや世界的に広がりを見せているGGOなどに関する本もある。開いてみれば、ダイムラーのデイトレーダーとしての勤勉性を示すものなのか、チェックした文面にはカラーマーカーで線引きされていた。

 

「〈カミルさん、ダイムラーさんはVR依存症って言ってたけど、VRゲームにかなりハマっていたみたいね〉」

 

「〈ああ。日本では有名じゃないかもしれないが、ドイツ発のデッドステイン・オンラインやアメリカのソード&ソーサリークロニクル・オンラインで、彼は上位ランカーだったようだ。ドイツ版GGOにもログインしていた形跡はあるが、肌に合わなかったのか、数日でアバターを消去しているな〉」

 

 デイトレーダーとして資産を築いた男は仮想世界の魅力に囚われた。孤独な男にとって、現実世界の方が『幻想』だったのかもしれない。デスクの上に置かれているのは、ダイムラーが最期に装着していたフルダイブ機器、3ヶ月前に米国企業からリリースされた【CW‐04】である。フルダイブ機器Changing Worldシリーズの4代目であり、アミュスフィアⅢよりも高品質を謳い文句に発売されたのであるが、コストを度外視しているらしく、お手頃価格で高品質だったアミュスフィアⅢと違い、ハイエンドである代償として極めて高額だ。

 日本ではDBO事件を引きずってか、それともレクトがアミュスフィアⅢの安全性を確保して販売するアミュスフィアⅢADのリリースを12月25日に控えているせいか、CW‐04の売れ行きはイマイチだ。

 どちらかと言えば、ナーヴギアを彷彿させるデザインのCW‐04に薄ら寒いものを覚えながら、リズベットはデスクに並べられた、紙が擦れて手垢で汚れた、何度も読み返されているらしいSAO事件に関わる本を手に取る。

 内容は被害者のリズベットからすれば、余りにも内容を美化し過ぎた【黒の剣士】を主役にした英雄譚的な物。複数人のサバイバーを取材して纏められた資料としての側面が強い物。そして、茅場晶彦に関わる記事のスクラップしたファイルもある。

 単純にVRゲームにハマっていただけではない。ダイムラーはSAO事件に魅せられていた人間のようだ。

 

「〈そういえば、ダイムラーさんはフルダイブ状態で死亡したのよね? 最後は何をプレイしていたの?〉」

 

「〈それが……分かっていないんだ。CW‐04のフリールーム状態。つまり、デイトレード用のカスタムルームにも、ゲームにもログインしていない〉」

 

 フリールームとは、フルダイブ機器その物に備わっている仮想空間の事だ。初めてフルダイブ機器を購入した場合、まずは全身のキャリブレーションを行う。そうしたデータの反映したアバターをフリールームでは確認できるのだ。これは、VRゲーム以外の用途に仮想空間が用いられ始めたからこそ作成された機能である。たとえば、仮想空間での会議で、現実世界と異なる容姿をしたアバターを使用すれば『何かやましい意図がある』と疑われかねない。現実の容姿のまま仮想世界に存在する事こそが信用と信頼を生むのだ。

 とはいえ、せいぜいフリールームの機能はその程度だ。拡張機能を用いたカスタムルームならば、アバターによる現実離れした運動能力を体験できる『トレーニングルーム』やダイムラーがデイトレードしていたような『ビジネスルーム』も作成できる。とてもではないが、フリールームに何時間もログインするなどVR中毒者であろうとも耐えられないだろう。初フルダイブならばフリールームで大はしゃぎするのも分かるが、あの白の面と黒い線で構築された味気のない空間に何時間もいれば気が狂ってしまう。

 まるで意味が分からない。ダイムラーはいったい何の為にフリールームにいたのだろうか? リズベットはデスクに並べられた書物の中で1番真新しい、VR技術とAR技術関連の雑誌を手にする。ドイツ語で記載されている為に内容は分からないが、写真から察するに、どうやら特集の内容は『VR・AR技術展覧会』に関する物のようだ。ダイムラーも注目していたのか、幾つかの企業名にグリーンのマーカーが入れられている。貼られた付箋には航空機の便名と出発時間らしきものも記述されている。

 

(雑誌は……10月号。随分と前から楽しみにしていたみたいね)

 

 だとするならば、仮にダイムラーが生きていたならばリズベットは彼と遭遇していたかもしれない。と言うのも、今回の仕事の本筋はイタリアのミラノで開かれるVR・AR技術展覧会を視察する事だからだ。

 日進月歩のVR技術とAR技術の最先端に触れねば日々進化するVR犯罪に対応できなくなる。そこで派遣されたのが光輝とリズベットであり、ドイツに立ち寄ったのはファットマンとも繋がりがあるカミルが捜査協力を頼み込んだからだ。

 

「〈悪いな、カミル。さすがの僕もお手上げだ。せめて事件直後なら何か嗅ぎ取れたかもしれないけどさ〉」

 

「〈いや、構わない。お前の直感の鋭さは嫌という程に知っているからな。お前が『臭う』と言った。それだけで事件と断定するには十分過ぎる材料だ〉」

 

 これ以上は進展が無いと判断したのだろう。カミルと握手を交わし、光輝は無念そうに首を横に振る。リズベットも今回ばかりは降参だ。ダイムラーの死に関して不自然な点は多いが、他殺を決定づけられるものは無い。既に科学捜査や聞き込みは済ませているのだろうから、リズベットの考察力と光輝の直感を合わせても手繰り寄せられないならば、根本的にこの部屋には犯行に繋がる『糸』が残されていないのだろう。

 今日の所はミュンヘンのホテルで1泊し、明日はドイツVR犯罪対策室本部があるベルリンに赴いて挨拶を済ませ、その足でVR犯罪に関するフランクフルト大学の講演を拝聴して現地で1拍、その後はミラノへと赴いてVR・AR技術展覧会の視察だ。ドイツへの立ち寄りはカミルからの強引な依頼であるが、出張費が税金で賄われる以上、相応の理由づけが必要なのだ。

 とはいえ、ミュンヘンのホテルに関しては光輝が取ってくれたものである。何でも『ボーナスに使い道が無いからね!』という事らしく、リズベットも予約するホテルのホームページを見せられた時には思わず目を剥いたものだ。何せ1泊いくらか想像したくもない、まるで童話の世界にあるような、少しだけ懐かしきアインクラッドを思い出させるミュンヘンの夜景を楽しめる高級ホテルだからである。

 どうせ厭らしい考えがあるに違いない、と疑いもした。どうせダブルを取るつもりなのだろうと身構えもしたが、彼はリズベットに対して『僕はリズベットちゃんには紳士でありたいんだよ』という断言通り、シングル2部屋の予約である。

 ドイツの12月の日暮れは早く、5時を過ぎる頃には深夜とも見紛う程の闇夜だ。銀色の月が雪に包まれたミュンヘンの街を煌めかせ、人工の光と交差して、幻想的な風景を生み出している。

 普通ならばこんな夜景を見せられれば一瞬で恋に落ちる物なのだろう、とさすがのリズベットも窓が覗けるミュンヘンの街に心が奪われる。

 

「あたしも……素直になるべきなのかな?」

 

 白いシーツに包まれたベッドに身を投げ、リズベットは瞼を閉ざす。今も彼女の心を占めるのは黒き衣を纏った『彼』である。だが、それは後ろ姿であり、手を伸ばすリズベットを振り返ってくれない。

 

「シリカは苦しくなかったの?『アイツ』は振り向いてくれないんだよ? 今も……今も、『アイツ』はアスナ以外見えていないのに」

 

 秘書として、相棒として、現実世界に帰還後もシリカは『彼』の傍にあり続ける事を選んだ。そうしなければ、『彼』の心がいつか壊れてしまうと恐れたからだろう。あるいは、いつか自分という存在が『彼』にとってアスナと同じで心に寄り添い続けられる温もりになれると信じていたからなのだろうか?

 リズベットは恐れた。『彼』を憧れ、恋い焦がれ、求めはしたが、傍に居続けるには彼女の心は傷つき過ぎていた。

 

「違う。あたしは逃げたんだ。アスナを失った『アイツ』の傍にいるのが卑怯みたいで、そう感じる自分が醜くて……嫌いになって、逃げたんだ」

 

 だからなのだろうか? 自分が幸せになるべきではない。幸福を手にする事などできるはずが無い。そう思い込んでしまっている。

 

(光輝さんは……きっと本気であたしの事を好きなんだと思う。軽薄で、女好きで、軽口ばかりだけど、いつも真っ直ぐに気持ちを言ってくれる)

 

 リストバンドに隠された傷痕を撫でる。

 アインクラッドから安全圏が消失してからしばらくして、店を襲撃され、リズベットがオレンジギルドに拉致された時の事だ。攻略組でもトップに君臨する『彼』の専属ブラックスミスとして多額のコルを稼いでると思われていたのだろう。

 リズベットは命乞いをして全てのコルを差し出した。だが、それでも彼らが考えていた額には程遠く、何処かに隠し財産があるのだろうと疑われた。

 喉が引き攣る。蘇っていく。指を1本1本切り落とされ、虫系Mobが詰まった壺に頭を何度も押し込まれ、髪を縛られて馬に引きずり回された。

 永遠に続くような暴力。痛みはなくとも、度重なるサウンドエフェクトが脳髄に響き渡り、幻想の痛みがやがてゆっくりと四肢に広がっていく。眠る事も許されず、食べる事も許されず、仮想世界のデータの血肉が削ぎ落されていく。

 最後には指を強引に動かされ、倫理コードの解除をさせられた。その頃のリズベットは精神が疲弊し、抵抗の意思も無かった。

 このまま嬲られ続け、いずれ死ぬのだろう。殺されるのだろう。漠然とリズベットは先に精神の死を迎えながら、己の生命の終わりを悟った。

 だが、気づけばリズベットは保護されていた。シリカと出会ったのはその時だ。当時、【竜の聖女】とまで謳われていたシリカは『彼』と共に最前線に立ち、攻略組を鼓舞し続ける、まさしく聖女そのものだった。

 

『知らない方が良いですよ。あの人って気まぐれですし、お礼を言いに行っても「依頼のついでだ」で済ますと思いますから会うだけ無駄です』

 

 聖女という称号に相応しくない程に擦れた眼差しをしたシリカは、リズベットをオレンジギルドから救い出した人物をそう評した。

 結局のところ、リズベットは自分を救ってくれたのは誰なのか、シリカから聞き出す事は出来なかった。だが、誰かがリズベットを拉致したオレンジギルドの『皆殺し』を依頼し、そのオマケとしてリズベットは助けられたという事実だけが残った。

 誰なのかは知らないが、助けてもらった事には感謝している。だが、一方で今もリズベットにはあの拷問の日々とアインクラッドの恐怖が刻み込まれている。それがある限り、彼女は未来を直視することはできない。

 過去には『彼』がいて、未来には『光輝』がいる。今もアインクラッドに縛らて『リズベット』のままの彼女は、現実世界を生きる『篠崎里香』に戻らない限り、未来を選ぶ事は出来ない。

 

「リズベットちゃん、いるかい?」

 

 ドアをノックする音が響き、リズベットは体を起こす。ボサボサになった、肩甲骨まで伸びた髪を慌てて指で梳き、服装を正してドアを開ける。

 相変わらずの軽薄そうな微笑。だが、だからこそリズベットは心の底から安堵する。彼は変わる事無く、常に自分に笑顔を向けてくれるのだと知っているからこそ、どろどろに澱んでいた心に平静を取り戻せる。

 

「どうかしたの? カミルさんと夜の街に繰り出すんじゃなかったの?」

 

 久々に会えた海外の友人である。自分に時間を割くならば親交を温めるべきではないかと歪んだ感情が叫ぶ。

 これは嫉妬? あるいは卑屈? リズベットは自分が今最高に可愛くない顔をしているだろうと舌打ちしたくなる。須和やあの女性と語らう以前ならば、それで上等だと中指を立てていただろうが、自分の感情の正体に、徐々にであるが自覚と理解が芽生えつつあるリズベットには耐えがたい事だった。

 

「ああ、アイツには可愛い嫁さんと娘がいるからね。今頃高速道路を飛ばして我が家に帰ってるさ。野郎との酒盛りよりも家族サービス優先だよ。それが良き旦那さ。それよりも、最上階のレストランに行かないかい? 実は予約取ってるんだ」

 

 ウインク1つに、この高級ホテルのレストランで予約とは馬鹿げた金額も良いところではないだろうかとリズベットはゼロを4つ……いや、5つ付けた数字を思い浮かべる。

 本当にふざけてる。ふざけ過ぎた男だ。リズベットは半目で睨むも、ニコニコと光輝は変わらず笑む。

 

(本当に……変なヤツ)

 

 だけど、いい加減に根負けかもしれない。リズベットは伸びすぎた前髪をやや赤面した頬を隠すように垂らす。

 

「あたし、こんなホテルのレストランに似合うドレスとか持ってないんだけど?」

 

「僕もこの通り使い古しのスーツだよ。それに、リズベットちゃんはお洒落だから普段着でも十分さ。それとも、僕と食事は嫌?」

 

 嫌なわけがない。リズベットはこれ以上顔を見られたくないと背を向ける。せめて、髪を梳き、化粧をし直さなければならないだろう。それが、ここまで自分の気を惹く為に頑張る紳士への礼儀だ。

 

「先に行ってて。ちょっと準備するから」

 

「了解。待ってるよ」

 

 ドアを閉めたリズベットはダッシュでシャワー室に駆け込み、普段日常生活で使用している100均シャンプーとリンスで傷んだ髪を見て、これからは夢枕に立って『女の子の何たるか』を毎度のように説教するアスナ(亡霊)に従う事を心に誓う。髪も惰性で伸ばし続けているのだが、最低でも整える程度には毎月切りに行こうと枝毛を発見して叫びながら脳内予定表に書き込む。

 キャリーバックから1番お洒落が出来そうな、なおかつ品があるだろう服装を探す。幸いにも春日と買い物に行った時に購入した冬用の黒のワンピースが放り込まれており、これならばドレスとは言わずとも最低限のレベルはクリアできるだろうと着替える。

 

(こんな事ならヒール持ってきておけば良かった! なんで、こんな実用性重視の革ブーツしか持ってきてないのよ!?)

 

 それも仕方ない。海外に行くたびにダイ・ハードの連続だったのだ。今ではキャリーバックに、ファットマンに準備してもらったプラスチックナイフを秘密裏に仕込んでいる程度には彼女の警戒心は膨れ上がっている。

 まだ午後5時半だ。まだ店も閉まっていない為、今から急いで駆け込めばヒールを調達できるだろう。鬼の角を生やしたアスナを幻視しながら、コートを手にリズベットはエレベーターの前までかけてボタンを押す。今からエントランスまで下りるのに30秒から1分。ヒール購入に10分……いや7分。最上階までヒールを履いて、最後のチェックを済ませて光輝の前に登場まで5分。

 

(いける! ギリギリいける! 光輝さんなら30分までなら許してくれるはず! 本当にごめんね、アスナ! だから怒らないで! 睨まないで! 怒鳴らないで!)

 

 どうしてリズは女の子である事を捨てたのかなぁ、と言いながらオレンジジュースにストローから吹き込んだ息で泡をボコボコさせるアスナの冷ややかな視線をリズベットは脳内で浴びる。

 エレベーターの扉が開くと同時にダッシュで内部に入り込んだリズベットだが、1階から上がってきたエレベーターである。内部にはこの階で下りる客がいたのか、彼女は頭から激突してしまう。

 

「おっと」

 

 衝突の反動で尻餅を付きそうになったリズベットだが、そっと添えられた腕が腰を捉えて倒れるのを防ぐ。

 

「大丈夫かな?」

 

「あ、はい……じゃなくて、ごめんなさい! あたし急いでて、それで……」

 

「ははは。別に良いって! そんなに駆け足なんて、とても大事な用事があるんだろうねぇ。もしかして、青春ってやつかな?」

 

 流暢な日本語……というよりも、イントネーションが日本語そのものだ。驚いたリズベットは冷静になって激突した相手を見てみれば、まさしく日本人オブ日本人といった、30代半ばだろう男だ。高級ホテルに似合わない安物のよれよれスーツを着ている。

 

「恋せよ乙女! 青春は麗しい! アヒャヒャヒャ!」

 

「主任、そろそろ彼女を放してあげてください。それに、いつまでもエレベーターを占領していては迷惑です」

 

 と、男の背後に立つ、こちらはクールビューティといった眼鏡をかけた20代半ばだろう、秘書といった職が似合いそうな金髪美人が感情が微動としない眼差しを向けている。口振りからして男の部下なのだろう。

 男の腕から解放されたリズベットは深く頭を下げる。それを笑って男は受け止める。

 

「本当にすみませんでした!」

 

「良いって良いって。それじゃあ『また』会おうね、お嬢ちゃん。走り過ぎてコケないように気を付けな」

 

 エレベーターが扉が閉まり、男と女の姿が見えなくなる。リズベットは深呼吸を1つ挟んだ。

 アスナが『何をやっているのかなぁ、リ・ズ?』と鬼の形相で笑顔である事に身震いしつつ、リズベットはエントランスに到着すると同時にヒールを求めて夜のミュンヘンを駆けた。

 

 

 

 

 ……余談だが、準備バッチリのつもりで光輝の前に登場したリズベットであるが、ヒールに値札が付いたままであり、それをずっと静かに彼に笑われ続けていた事に気づくのは帰国してからの話である。




次回も現実世界編です。
現実世界の伏線が仮想世界に影響したり、仮想世界での伏線が現実世界に関与したり、と交差する事もありますので、その辺りもお楽しみください。

それでは、102話でまた会いましょう!

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