スキル
≪バトルヒーリング≫:受けたダメージの1部を10秒かけて回復することが出来るスキル。熟練度の上昇により、回復割合が増加する。ただし、デバフによるスリップダメージには効果を発揮しない。
≪生命活性≫:短期間に連続で攻撃を受けると防御力が上昇するスキル。熟練度の上昇により、防御力の増加率が上がる。
≪絵画作成≫:絵画を描くスキル。熟練度の上昇により、使用できるアイテムが増加する。
アイテム
【明星の槍】:夕闇に輝く美しき星の光を映した聖なる槍。今は名も知れぬ神の使徒が作り上げた祭具であり、僅かな上位の神官にだけ触れる事が許された。だが、神に挑まんとした蛮王によって略奪され、穢れ無き祭具は血を啜る戦の道具へと成り果てた。
【風霊の双剣】:世にも珍しい2つで1つの双子のドラゴンウェポン。風竜ノリアは空を舞い続ける旅の導き手である。ノリアは気に入った吟遊詩人を守護する為に自身の尾を切らせて力を分け与える。言うなれば、この双剣は優れた吟遊詩人である証であり、名誉の象徴なのである。
滴るのは粘つく、重油を想像させるような黒い液体だ。
全身に纏わりつくそれは不愉快極まりないが、オレのHPが減っている様子は無い。震える体を立ち上がらせたオレは、どれくらい意識を失っていただろうかと望郷の懐中時計で時刻を確認する。
現在時刻は午後9時半。ざっと3時間ほど気絶していたってところか。四肢に欠損は無し。各種関節にも問題無し。右目の視界は良好。武装とアイテムを確認するが、記憶に間違いが無い限り、紛失は無く全て揃っている。
思い出せ。いったい何が起こった? まるで寝起きの寝惚けた頭のように気絶する以前に何が起きたのか曖昧だ。ゆっくりと深呼吸をして、オレは1つ1つ記憶を丁寧に掘り返していく。
そうだ。まずはグリムロックの家を発って、彼と一緒に想起の神殿に来て、見送って、それでサチとケーキを……
「そうだ。サチは!? 何処にいる!?」
オレが彼女に手渡した黒猫の鍵、あれが何かしらのトラップの発動キーだったのだろう。茅場の後継者め! 何が骨休めをしろ、だ! 相変わらずのトラップ満載の腐れ思考じゃねーか!
どうやらオレがいるのは宿屋らしき1室のようだ。だが、床は黒い粘着質の液体で浸され、今も天井からは同様の液体が滴り落ちている。家具はいずれも赤黒い毛細血管のようなもので覆われ、壁は筋肉のように脈動している。窓には白い靄がかかっていて外の風景を確認できないが、今はそれよりもサチの安否が優先だ。
膝まで浸る黒い液体のせいで動きが鈍い。オレは周囲を見回し、まるで助けを求めるように黒い水面から伸びる、手首がだらんと下がったサチの右手を見つける。
慌ててオレはサチの右腕をつかんで引っ張り上げる。黒い液体の中で溺れていたはずのサチであるが、HPが減った様子は無い。いや、そもそも彼女にはHPバーが無いのだから確認することができないのだ。
顔面蒼白で気絶するサチを抱き上げ、オレはベッドに寝かせようとしたが、そこにもまた血管のようなものが張り巡らされている為、コートを脱いでシーツ代わりにして寝かせる。
とりあえずオレもサチも無事である事を喜ぶべきだろう。状況はまるで改善していないが、これが茅場の後継者のトラップイベントならば、無理難題であるとしてもクリアできない物ではないはずだ。その1点だけは茅場の後継者と名乗る以上ヤツを信頼できる。
先程までのシステムウインドウの1番上に記載されていた安全圏化キャンペーンに関する記述は消失している。試しにオレは茨の投擲短剣で自身の左手の手のひらを軽く裂いた。するとHPが僅かに減少する。
やはり安全圏化は失われているな。何が全ステージ安全圏化だ、糞ったれ。それとも、ここだけが例外なのか? 嘆息1つを入れて、オレは現状を打破する為、仮名『クリスマスダンジョン』の突破を目的として定める。
その為にも現状装備の確認だ。武装は黎明の剣、断骨の鉈、血風の外装、蛇蝎の刃だ。いずれも耐久値はマックスまで回復させてあるベストな状態だ。防具はグリムロック謹製強化コートであるが、既に最前線では軽装装備というジャンルの中でも防御力の低さが目立ち始めている。依然として火炎属性防御力だけは通じるレベルだが、それ以外は軒並みに二線級だ。
装備している指輪は【耐える貧者の指輪】と【温もりの指輪】だ。前者は入手コルが減る代わりに入手経験値が増加する。後者は寒冷耐性が上昇だ。
現状では耐える貧者の指輪は不要だな。指輪はアイテムストレージの容量を食うので余り持ち歩けないのだがネックである為、せいぜい限界で3つだ。傭兵業での依頼ならば徹底的に精査して指輪も厳選して装備分しか持ち歩かないのであるが、今回は奇しくも突発的なトラブルである為にアイテムストレージも雑多なままだ。お陰で先日入手した【星巡りの指輪】がそのまま残っている。
星巡りの指輪は魔法属性防御力をゼロにする代わりに、火炎・水・雷属性へと均等に防御力を分配する指輪だ。魔法防御を捨てるならばそれなりに有用な指輪である。
「……どっちにしても使えないじゃねーか!」
さすがにどんなモンスターが出現するかも分からないダンジョン(?)で魔法防御力をゼロにするリスクは冒せない。ただでさえVITを成長させていないせいでオレのHPは近接型としてあり得ない低さなのだ。どれか1つでも防御力をゼロにさせるなど自殺同然である。
仕方なく耐える貧者の指輪のまま続行だ。残りのアイテムの在庫を確認する。
「深緑霊水が2、燐光草が9、紅燐光草が4、白亜草が3、火炎壺が14、黒い火炎壺が7、火竜の唾液が3、茨の投擲短剣が32、毒紫の苔玉が4、松脂が2、修理の光粉が1、止血包帯が2……使えそうなのはこんなもんか」
ヤバいな。この異常な場所がダンジョンであると仮定するならば、アイテムがまるで足りない。特にバランドマ侯爵のトカゲ試薬が無いのは痛過ぎる。1度でも欠損状態になれば、辛うじて止血包帯は2つあるが、これでは欠損部位を再生できない。それに回復アイテムの不足も深刻だ。早急にHPを回復できる深緑霊水が2つしか無い。HP4割を20秒かけて回復させる白亜草が3つもあるのは喜ばしいが、とてもではないが在庫が足りない。それに蛇蝎の刃……暗器にセットできる薬物の予備もなく、現在セットしているレベル2の麻痺薬だけだ。
幸いな事があるとするならば、義眼は今装備している通常の義眼以外に梟の義眼を持っているので一時的ではあるが左目の視力を回復できる。
武器と防具が万全であるだけマシだと開き直るしかないな。唸りながら目を覚ましたサチを横目に、オレは不安を表情から押し出した。
「ここは……いったい、何処ですか?」
頭を押さえながらサチは搾り出すように問う。苦しげに眉を曲げる姿を見てオレはできれば安心するように言葉をかけてあげたくなったが、悪いが彼女に無用なリスクを背負わせない為にも、現実を彼女に伝える。
「分からん。サチはここに見覚えは?」
「……断言できませんが、『サチ』の記憶に薄っすらと。ですが、こんなに禍々しいものではありません」
だろうな。明らかに悪意によって汚染されたような宿屋らしき1室は、とてもではないが人間が暮らせるような空間ではない。
だが、少なからず見覚えがあるという事は、恐らくこの空間に引き摺り込まれる原因となった黒猫の鍵がサチと接触した事によって発動した事も含め、明らかに彼女に関連したクリスマスダンジョンなのだろう。
「サチ、ハッキリ言っておく。ここがダンジョンだとして、オレのアイテムはとてもじゃないが単独でもクリアを目指せるだけの在庫が無い。つーか、そもそもダンジョンは1人でクリアするような物じゃない」
恐らくクリスマスイベント用のダンジョンである為、クリアするのに7日や10日かかるような長大な物ではないだろうが、ミニダンジョンだとしても慎重に探索すれば2日はかかる長丁場になる。正直、今のアイテムの在庫ではとてもではないがクリアできる物ではない。
「だから情報がいる。隠し事は無しだ。サチの情報を全てくれ」
「……分かりました」
さすがのサチも今が緊急事態であると納得したのだろう。普段ならばどれだけDBOについて尋ねてもNPCのように決まり文句で躱すだけのサチが、無表情をやや崩して不安を滲ませながら頷いた。
「以前も言った通り、私は『サチ』という女性を基にして生まれた存在です。いつから存在したのかは分かりません。気づいた時には想起の神殿にいて、DBOに関する情報と自分が存在する為のルールが知識として備わっていました。ルールはたった1つ、『DBOの直接的攻略に関わる情報を決してプレイヤーに口外しない事』です。これを破った場合、私はこの世界から排除される事になっています」
「排除? 誰にだ?」
「セカンドマスターと呼ばれる存在……いえ、より正確に言えばカーディナルに仕える天使のいずれかに」
セカンドマスター? 茅場の後継者の事だろうか。カーディナルといえば、確かSAOの管理システムの名前だった気がする。
これで1つ分かったな。DBOはSAOと同様にカーディナルの支配下にある。だから何だという話であるが、この仮想世界をシステムの側面で考察しながら攻略する上で、この知識はいずれ有用になるだろう。
「天使ってのはどういう奴らだ?」
「……私はDBOが正規サービス開始前に【エクスシア】という天使にお会いしましたが、一言で説明するならば『胡散臭い』です」
胡散臭いとは、これまた神聖さの欠片も無いというか、逆に天使らしいというか、どう反応すべきか困るな。
「エクスシアか。確か日本語にすれば能天使だっけか?」
大学の講義でキリスト教史を取っていたが、ほとんど居眠りしていた為に知識が曖昧だ。
何にしても、カーディナルという『神』に仕える天使がDBOを監視している。そう整理しておけば、オレは既に当てはめられる情報を有している。
他でもないダークライダーだ。想起の神殿の地下迷宮の1件では、電脳的存在であるAI連中の誰かがオレを嵌めてユイを地上に連れ出そうと画策したとヤツは推論を述べていた。恐らく、天使とはカーディナルを守護し、またDBOの運営に携わるAIの事なのだろう。
「申し訳ありませんが、これ以上の事は何も」
「そうか。だったら鍵はどうだ? このダンジョンに引き摺り込まれたのは、傷つける言い方になるかもしれねーが、サチが鍵に触れたからだ。恐らく、サチが鍵に触れると発動するトラップが仕掛けられていたんだと思う」
確か黒猫の鍵はサチの私物だったはずだ。クリスマスプレゼントで茅場の後継者がわざわざ贈った事からも、このトラップはクリスマス限定と見做すべきだろう。ならば、鍵に纏わる事でダンジョンのコンセプトが推測できるかもしれない。
「その鍵についてですが、チュートリアルで配布される物と同じものです。なので、特別珍しいアイテムではありません」
そう答えるサチに対し、オレは記憶を掘り返してDBOのチュートリアルを思い出す。確か地図、金貨、蝋燭、指輪、そして鍵の5つから1つを選択するはずだ。
オレが選んだのは金貨で、失われた王国の金貨というアイテムだ。指輪は確か、ディアベルがシノンからDBOの知識を買う為にシノンへと譲渡した聖なる怠惰の指輪だったか。だが、それ以外は特別調べもしなかった為にオレも無知だ。
サチもこの状況で嘘を吐くわけがない。だとするならば、何でわざわざ茅場の後継者はクリスマスプレゼントで黒猫の鍵を贈りつけたんだ?
「鍵を返してもらっていいか? 少し調べておきたい」
オレはサチが握りしめたままの黒猫の鍵を受け取ると、アイテムの説明欄を読む。アイテムの1つ1つにはDBOについて考察するバックストーリーが記述されている。そこから何か推測できるものがあるかもしれない。
〈かつて悲劇の末路を迎えた黒猫達のアジトの鍵。彼らは嘘吐きの剣士によって過ぎた力と理想を得た果てに罠に陥った。仲間の死を知った黒猫の長は絶望の果てに自ら死を選んだ〉
相変わらず絶好調で悲観的な説明文だ。だが、お陰で幾つか推測できた事もある。
黒猫『達』という複数形。つまりサチと仲間達のアジトの鍵という事だろう。嘘吐きの剣士とは誰なのか知らんが、そいつに唆されて分不相応な力と目標を持ってしまったという事だろうか? そして、増長して慢心した為に罠にかかって死んだ。それを知って絶望したボスは自殺してしまった。
要はサチが死んだ原因といったところか? だとするならば、サチは罠にかかって死んだ側か、それともボスで自殺した側か。
「簡潔に答えてくれ。サチの死因は?」
容赦などしない。オレ自身が生き残る為にも、サチと共に無事に脱出する為にも、彼女の心を抉る質問だろうとオレは口にしない訳にはいかない。
明らかにサチの目に恐怖と怯えが映った。だが、オレは残酷であると承知の上で無言の圧力をかける。
「……仲間の1人が、その……トレジャーボックスのトラップに気づかなくて、モンスターがたくさん出てきて……それ以降は余り憶えていません」
ガタガタと手を振るわせて拳を握り、俯くサチの言葉に続きは無い。自分の死に際を語れという方がさすがに無茶か。恐怖もそうだが、死ぬ寸前ともなればパニック状態だっただろう。記憶が曖昧でも仕方ない。
「嘘吐きの剣士ってのは誰だ?」
あと気になるのはサチ達の死の遠因となった嘘吐きの剣士だ。下手すれば、このステージのボスとして登場するかもしれねーからな。それに、サチも憎しみを抱いていて暴走されても困るから確認しておかねばならない。
「彼は嘘吐きじゃありません!」
だが、返って来たのは鋭い刃物のような怒鳴り声というよりも叫び声だ。
「彼は……『あの人』は寂しかっただけです! 独りが辛かっただけです! 私も……『サチ』も同じでした! どんなに仲間がいても、いつも死と戦いに怯えていたのが『サチ』で、誰も彼女の恐怖を分かってあげてなかった! 誰も分かってくれなかった! だけど、『あの人』の強さが『サチ』を救ったんです!『あの人』が傍にいるだけで……『死なないよ』って語り掛けてくれるだけで、安心して眠ることができたんです!」
それはサチにとって、決して侵害されてはならない、彼女の核である大事な感情にして記憶なのだろう。普段からは想像できない程にサチは激昂する。
「だから……だから、『あの人』を嘘吐きなんて呼ばないでください。お願いです……お願いします」
ああ、そういう事か。オレは彼女の頬を伝う涙を見て、この嘘吐きの……いや、この剣士こそがサチが依然語っていた、憧れを抱いた……彼女が寄り添ってあげたかった人物なのだろう。
「悪かった。好きなだけ恨んでくれ。許さなくていい。オレはそれだけの酷い事を言っちまったからな」
泣き続けるサチの肩を抱くことも、慰めの言葉をかける事も、彼女の不可侵の想いを踏み躙る言葉を吐いたオレにはできない。
……デリカシーが無い、か。見直すべきかもしれないオレの悪癖かもしれねーな。
「いえ、あなたのせいではありません。声を荒げてすみませんでした」
「謝るな。悪いのはオレだからな」
落ち着きを取り戻したサチは涙を拭う。オレはもう2度と彼女の前で件の剣士について決して悪く言わないようにしようと誓う。
気を取り直して、オレは改めて黒猫の鍵を調べる。アイテムとしての効果はトラップの発動キーだけならば消滅してもおかしくないのであるが、未だ手元に残り続けているところを見ると消費アイテムの類ではないのか、あるいはまだ用途があるのか。
「何だこれ?」
アイテム説明欄の下には新たに『召喚』という項目が追加されている。物は試しだ。オレは『召喚』の項目を開いた。
〈黒猫の鍵を持つ者同士は異世界でも繋がりを持つ。僅かな時間であるが、あなたの友の幻影が力になるだろう〉
友が力になる? どういう事だろうかと更に読み進めると、そこにはラジードとパッチの名前が記載されている。
「なるほど。そういう事か」
茅場の後継者め。よりにもよってダンジョン攻略のキーシステムにお独り様殺しを導入しやがって。オレは我が身の交流関係の狭さを改めて呪う。
チュートリアルで配分された黒猫の鍵の目的は、クリスマスイベント専用トラップとしてではなく、このダンジョンを攻略する為のキーアイテムとして機能させる為だ。サチに鍵を渡すという発想をクリスマスに引き出せるのは、クリスマスプレゼントでわざわざ黒猫の鍵を入手したプレイヤーくらいだろう。そして、そのトラップの発動過程からもこのダンジョンに到達できるのは運が良くてもパーティ最大人数の6人だ。それで情報ゼロのダンジョンを攻略しろというのは余りにもゲームとして破綻している。
そこで、茅場の後継者からの温情(とはできれば言いたくないが)こそ、黒猫の鍵を持つ者の召喚だ。恐らく、白霊という形でフレンド登録しているプレイヤーの中で黒猫の鍵の所有している人物を召喚できるのだろう。
簡単に言えば、『友情パワーで困難を乗り越えろ!』という少年漫画のノリで難関クリスマスダンジョンを攻略しろというわけだ。
だが、生憎な事にオレはお世辞でもフレンド登録者が多い方ではない。しかもどうやら黒猫の鍵の保持者は2人しかいないようだ。
説明からして召喚できる時間は長くない。緊急事態、それこそ避けられないボス戦などのような場面で使用すべきだろう。パッチはともかく、ラジードならばそれなりに戦力になる。
絶体絶命である事には変わらないが、切り札は得た。後はいかなる場面で使うかだな。オレは黒猫の鍵をいつでも使えるようにコートの内ポケットに入れておく事にした。
「そろそろ出発するぞ。サチ、絶対にオレの傍を離れるな。守り切るとは口が裂けても言わねーが、傍にいる限りは火の粉くらいは振り払うつもりだ」
「頼りにしています、闇の血を持つ者よ」
床を浸す黒い液体に足を突っ込みながら、オレはサチを伴って部屋の扉を開ける。当然と言うべきか、そこには廊下が広がっている。オレも何処か既視感を覚える風景だ。相変わらず天井や壁からは黒い液体が染み出ている為、オレはサチを後ろに黎明の剣に比べれば狭所の戦いに向いている鉈を抜いて進む。どうやらここは2階らしく、階段を下りねばならないが、当然ながら黒い液体に満たされている為、誤って踏み外さないように慎重に下りる。
1階のフロントには白黒の、まるで古い映画のフィルムから抜け出したかのような、この宿屋の主人だろう、やや太った中年女性が椅子に腰かけて何やら家計簿のような物を難しい顔で記載している。
「すみません」
余り期待せずにオレは話しかけるが、女性は反応を示さない。試しに鉈を振り下ろしてみるが、接触した瞬間に刃は止まる。紫の不死属性や破壊不能エフェクトではなく、まるで見えない弾力ある壁に阻まれているようだ。
オレはサチと目を合わせ、覚悟は良いかと無言で確認すると、宿屋の出口の扉を開ける。
その先に広がっていたのはオレ自身にも見覚えがある光景だった。
空を染め上げるのは血のような赤。地に敷かれているのは西洋の街並みを想像させる石畳。街並みはまるでファンタジー世界からそのまま引っ張り出したかのような理想そのもの。
「おいおいおい……これはどういう事だ!?」
奇しくも、オレはDBOに初めて踏み入った時と同じ衝撃を味わうことになった。
どう見ても、それは懐かしきアインクラッドの……はじまりの街の風景そのものだ。それにこの赤い空は間違いなくデスゲーム初日、茅場晶彦によって執り行われたSAOの真のチュートリアルの時の物だ。
「やはり、ここはアインクラッドだったのですね」
振り返れば、サチが懐かしむように、怯えるように、赤い空を見上げている。
アインクラッドを知っている!? オレは心の何処かで、DBOが始まって以来積み重ね続けていた1つの仮説の裏打ちされていくのを感じていた。
「彼女の恐怖の始まり。この世界は……やっぱり『サチ』の記憶なのですね」
「サチの記憶って……つまり、サチはアインクラッドにいたって言うのか!?」
どうか頷かないでくれ。オレは自身の仮定が少しずつ『真実』へと変質していっている事に気づく。
脳裏を過ぎ去ったのはオレが首を刈り取った懐かしき男の後ろ姿だ。誰よりも善でありたいと望みながら、内なる『悪』によって狂い、死ぬことでしか自身の善性を保てなかった悲しき剣士だ。
「はい。『サチ』はアインクラッドに囚われたプレイヤー、ギルド【月夜の黒猫団】の1員です。彼女はこのアインクラッドでその最期を迎えました」
首肯するサチに、オレは何とか精神の揺らぎを抑え込む。
オレはてっきりサチもまた『命』ある存在であり、何かしらの体験をさせられたAIの類であると考えていた。それでも彼女は『1つの生命』であると認めていたからこそ、オレは彼女を人として扱い、接し続けた。
だが、オレの思い込みは根本的に覆される。
つまり何か? サチは正真正銘、蘇った死人……リビングデッドとでも言うのか? 色白とはいえ、生気ある肌をしたサチは、とてもではないが死人には見えない。それはもちろん仮想世界のアバターという事もあるかもしれないが。
以前から気になっていた、サチが『命』ある存在であるかどうか。最初こそ曖昧で区別が付かなかったが、今ならば確信を持って彼女には『命』があると断言できる。だが、そうだとするならばサチという少女はどうやって生き返ったというのか?
……冷静になろう。今はサチの正体を深く追求すべきではない。今のオレの思考にはサチの正体に関して割ける程にリソースが残っていないし、割くべきでもない。
一息入れて、今はダンジョン攻略に専念する。全てを解決した後にこの問題とはじっくり向き合えば良い。今のところは、サチにはアインクラッドを生きたプレイヤーとしての記憶がある。それ以上の認識は不要だ。
「そう言えば、サチには何か武器になるものはあるか?」
さすがに自衛の武器くらいはないとサチもダンジョンで生き抜くのは厳しいだろう。HPバーは見えないが、不死属性ってわけじゃないだろうしな。
サチは黒いローブの内側を探ったが、小さく首を横に振る。まぁ、彼女も期待していなかったのだろう。いつも着ている服なのだから装着物は分かっているはずだ。
ここがアインクラッドのはじまりの街であるならば、この風景からして南のメインストリートか。ならば、確か近くに武器屋があったはずだ。オレは曲がり角に注意しながら、相変わらず目に悪い赤い空の下、懐かしき始まりの街を歩く。
記憶通りの場所に武器屋を発見し、オレはドアを蹴破ると前転しながら侵入する。鉈を構えて左右と天井を確認し、記憶と変わらない白黒の円形禿げオヤジが新聞をカウンター奥で読み耽っている以外に何もいない店内に安堵する。
ここは始まりの街でも1番質が良い武器を扱っている店だ。品揃えは2層の中盤くらいまでしか戦えない武器ばかりであるが、禿げオヤジの後ろ、カウンターの向こうに飾られている槍、片手剣、戦槌は20層にも通じるレア武器だ。18層の禿げオヤジの親戚から受注できるクエストをクリアしなければ入手できないのが難点であるが、それを除けば性能も悪くない武器だ。
カウンターを跳び越えてオレは武器を手にする。幸いにも武器は入手可能のようだ。これでは略奪し放題なのであるが、はじまりの街の装備やアイテムなど幾ら入手しても性能が低過ぎてアイテムストレージを圧迫するゴミになるだけだ。
「サチは武器を装備できるのか?」
そもそも装備ウインドウを開けなければプレイヤーは武器も防具も装備状態にできない。プレイヤーカーソルもNPCカーソルも無いサチに、はたしてプレイヤー側のシステムが扱えるのかどうか疑問が残る。
サチは無造作に筒の中に突っ込まれている片手剣を手に取ると振るい、近くにある鎧を飾る木の棒を斬り裂く。さすがアインクラッドを生きた知識があるだけに、それなりに様になっているな。少し及び腰なのは、彼女の生まれ持った素質が戦いに向いていないからだろう。
「どうやら装備しなくても、手に所持していれば武器として機能するようです」
「便利だな。まさに、現実世界と同じようにゲームの世界でも振る舞えるわけか」
武器を手放してファンブル状態にもならないというのは大きな強みの1つだ。代わりに、システムウインドウで手放した武器を遠くから回収することもできないし、アイテムストレージも無いので自身の体積を上回る多量のアイテムを持ち歩くような真似もできないだろう。
後はSTRやDEXだな。サチは次に両手剣を手に取るが、ぷるぷると腕が震えて持ち上げることができていない。どうやらサチに設定されているSTRは低めのようだ。
確か戦槌はSTRが高めだったな。だとするならば、片手剣や槍になる。サチの素質を考えるならば、敵と距離を取って攻撃ができる槍の方が幾分か適性はあるだろうな。
「槍で構わないか?」
「はい。『サチ』も槍使いでしたから、扱い方には心得があります」
「そのへっぴり腰じゃ期待できねーがな。援護くらいは期待しておくから頼むぞ?」
彼女の緊張をほぐすように笑ってオレは、穂先に白のオリーブの装飾が施された槍【ホワイト・ベル】を投げ渡す。長さは1.5メートルほどとサチとほぼ同じである。軽量であり、アインクラッドでも女性プレイヤーに人気があった槍だ。
サチは手に馴染ませるように槍を振るう。確かに先程の片手剣に比べれば動きが鋭い。だが、それでも本当にアインクラッドで戦っていたのか疑わしい程に気迫がまるで足りない。
件の月夜の黒猫団がどの程度まで生き抜けたのかは知らんが、オレにも記憶がない、いつの間にか消え去った中小ギルドの1つであることは間違いないな。実力は黒猫の鍵から推測できる通りってわけか。
だとするならば、サチの大切な人……例の剣士は何で月夜の黒猫団に所属したんだ? サチがアインクラッドにいたならば、当然ながらその剣士もSAOに囚われたプレイヤーだろう。サチの話しぶりからして、月夜の黒猫団とは釣り合わない高レベルのプレイヤー……恐らくは上位陣、攻略組予備軍か攻略組のプレイヤーだ。それも、わざわざ中小ギルドに自身の実力を偽って所属したならば仲間のいない1匹狼、ソロプレイヤーだろう。
それなりに実力を持ったソロプレイヤーだった連中は何人か記憶にある。その内の誰かが月夜の黒猫団を増長させたプレイヤーってわけか。
……まるで見当がつかん。そもそも、ソロプレイヤーってのは他人と繋がりを持てない、持つ必要がないからソロなのだ。ソロに限界を感じたという理由ならば、実力に見合った有力ギルドに入るはずだ。
オレが何故【渡り鳥】なんて呼ばれていたのかも、傭兵としてあらゆるギルドやパーティを渡り歩いただけではない。むしろ傭兵業を開く以前、オレがまだ『仲間』を追い求めていた頃、あらゆるギルドやパーティに馴染めず、また見限られ、見捨てられ続けたからだ。
苦々しいアインクラッドの記憶が蘇り、オレは苛立たしくサチに気づかれないように舌打ちする。その剣士は少なくとも月夜の黒猫団と悲劇が起こるまで上手くいっていた。ならば、根本的にソロではなく、他者と戦いの中でも繋がり合える人間だ。オレのように、依頼での協働で戦果を挙げる関係しか持てない人間ではない。オレのように……見捨てられたり、見限られたり、挙句に仲間を全員死なせて独りになろうとも戦い続けられる人間とは違う。
オレは羨ましいのか? 妬ましいのか? 憎たらしいのか? 件の剣士に複雑な想いを抱きながら、オレは槍を装備したサチを伴って店の外に出る。
「とりあえず広場を目指すぞ。この赤い空は茅場がデスゲーム開始を宣言した時と同じだ。だったらプレイヤーは全員広場にいるはずだ。このダンジョンがサチの記憶なら、記憶の主である『記憶の世界のサチ』を探すのが攻略の近道だろうしな」
このサチの記憶を辿り続ければ、いずれ件の剣士についても情報が得られるだろう。仮にSAOを生き抜いていて、今もリターナーとしてDBOにいるならば、この苛立ちの分だけその面をぶん殴ってやる。
その為にも必ずサチと一緒にこのダンジョンから脱出してやる。
サチの記憶を巡り、そして黒の剣士の因縁を辿る、それがクリスマスダンジョンです。
ただし、挑戦者兼被害者は完全に無関係のお独り様傭兵です。
それでは、107話でまた会いましょう。