SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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今回は現実世界、リズベットのターンです。
時期は同じクリスマスイヴからクリスマスにかけての2日間となります。


Side Episode7 聖夜前日

 世間一般でクリスマスイヴと言えば、何を想像するだろうか?

 恋人たちの甘い夜?

 家族と大切な団欒の時間?

 友人たちとの馬鹿騒ぎ?

 はたまた、神の名の下に教会へと足を運ぶだろうか?

 リズベットにとってクリスマスイヴとは、デスマーチ明けに見る朝陽に他ならないだろう。

 

「……光輝さん、終わった?」

 

「…………」

 

 返事が無い。ただの屍のようだ。口から変な液体を垂らして椅子にもたれて昇天しているパートナーを横目に、リズベットは自動販売機へと缶珈琲を買いに立ち上がり、VR犯罪対策室の死屍累々とした有様を見回す。

 春日は仮眠室に行く途中で倒れたのか、そのドアの直前でうつ伏せとなって沈黙。ファットマンは体重が支え切れなくなった椅子の背もたれが壊れて転倒しまま爆睡。他のメンバー達も言い表すのも憚れる惨状である。

 こうなった理由はただ1つ、先日警視庁に仕掛けられた大規模なVRクラッキングである。監視システムへのVR技術の試験導入が12月より行われたのだが、悪質な国際クラッキンググループ【アサルトセル】によってシステムを乗っ取られた挙句、何処かの馬鹿なお偉いさんがサーバールームの空調まで統一管理を進めていたらしく、サーバールームの冷房はいつの間にか暖房に切り替えられ、データも何もかも物理的に溶解されてしまったのである。

 それが12月15日当たりの話であり、事態を重く見たVR犯罪対策室は日本国内のアサルトセルのメンバー逮捕に乗り出したまでは良いのだが、当然のような流れでリズベットと光輝はアサルトセルが画策していた、イギリス同時多発電脳テロの再現、東京交通網の麻痺を目論む電力供給遮断計画をつかみ、更にその背後に某国や某国や某国などの陰謀が入り乱れるいつも通りの展開が引き起こされた。

 都市高速道路でのカーチェイスに始まり、そのまま上海にいって武闘派チャイニーズと激闘を繰り広げたかと思えば、参戦してきた米国のVRテロ対策局(軍属)も入り乱れる三つ巴、最後はいつもの爆発オチである。

 恐ろしい事に、今回の事件をリズベットは『いつもに比べれば楽過ぎ』という感想を抱いてしまった事だ。こめかみを銃弾が通り抜けたり、危うくトラックに頭部が潰れそうになったり、世界ではガス爆発と報道されている爆炎の映像を見る度に『あの程度で騒ぐ程じゃないだろうに』と基準が狂い始めている。

 だが、真の地獄は帰国してから待っていた。警視庁のサーバーがドロドロに溶けてしまい、技術者総出で復旧作業を始めたは良いものも完全復元は土台不可能であり、紙資料として保存されていたデータの再入力が待っていたのである。

 圧倒的な人手不足かつ事態をマスコミに知られるわけにはいかない。この状況で取れる手段は1つ、使える人員をすべて使って手作業入力である。

 12月18日に帰国後即座にデスマーチ。死線を潜り抜ける事には慣れていても、部屋を文字通り埋め尽くす資料の山との事務作業には本気で殺されると思ったほどである。しかも、クリスマスまでに終わらせろという死刑宣告である。

 

「ねぇ、光輝さん。ノウハウ活かしてVR専門の探偵業とか面白いと思わない? 絶対に儲かるわよ。浮気調査とか浮気調査とか浮気調査とか」

 

 ケタケタ壊れたように嗤うリズベットに、魂が戻ってきた光輝は口周りの髭をジョリジョリと撫でながら力なく頷く。

 

「凄い魅力的だ。僕も、もういっそ離島勤務で巡査として一生を終わった方がマシなんじゃないかなって思い始めてる」

 

「臨時ボーナス……幾らかな」

 

「日当1万円だよ。ちなみに残業扱いではありません」

 

「死ね」

 

 スチール缶が歪ませるほどの握力を発揮して怒りを表現しながら、それでも自分はまだ無事な部類かと溜め息を吐く。丁度仮眠3時間がラストスパートで重なったお陰で、辛うじて精神力を残したままクリスマスイヴの朝日を迎えることができた。

 対して光輝はデスマーチ24時間突破済みである。ブラック企業も真っ青な超過労働である。スーツはよれよれ、口周りは髭だらけなのであるが、元の素材が良い為か、イケメン度に下方修正を受けていないのはさすがと言うべきだろう。ただし、目は完全に腐った魚であるが。

 

「それで、今日は、さすがに、休みよね?」

 

「残念。今、本部から次のお仕事のメールが届きました。民間企業にVRクラッキングの疑いあり。早急に捜査せよ、だってさ」

 

「死ね。本当に死ね」

 

 まともに動けるのはオブザーバーのリズベットだけである。体力超人の光輝は辛うじて動けそうであるが、さすがに24時間突破して苦手なデータ入力作業に従事した彼に無理をさせるわけにはかない。

 

「とりあえず、仕事してますよアピールしてきてもらえる、かな? 僕も……す、ぐに……」

 

 そこで力尽きた光輝がついに意識を手放す。72時間フルで戦える超人も、24時間通しの事務作業には耐えられなかったという事だろう。

 

「お疲れ様」

 

 仮眠室から毛布を持ってきたリズベットは光輝の肩にかけ、朝日を浴びながら背筋を伸ばす。背骨と肩甲骨が盛大な音を立ててなり、首を左右に振れば更に骨が削れて軟骨が泡立つような心地良い音が体内で響く。

 さすがに運転するのは危険と判断し、VR犯罪対策室分室を出たリズベットはタクシーを呼ぶ。ここから自宅までとなれば相応の代金を支払わねばならないのであるが、リズベットの愛車は自動運転機能が搭載されていない。12月に入り、ついに発売された自動運転機能搭載モデルは冬のボーナスも重なって好調な売れ行きのようであるが、さすがに運転まで機械任せというのはリズベットの性に合わなかった。

 今のところは事故も起きていない為、安全性は確かかもしれないが、自分の生命を機械任せるのはSAO事件の被害者であるリズベットには理解できない点の1つである。

 自宅に戻ったリズベットはシャワーを浴び、冷蔵庫の生鮮食品が全滅している事を確認して口をへの字にした。帰国後、分室に缶詰だった事もあり、食料品がどうなったかは想像できていたが、なかなかに香ばしい惨状に、次のゴミ出し日はいつだったかと確認する。

 

「クラッキングねぇ。一体いつから明治創業の老舗和菓子屋がVRシティへのクラッキング技術なんて身につけたのよ」

 

 端末に表示された捜査対象を見て、どう考えてもガセだろうと、リズベットは大量貯蔵されている栄養ドリンクと目玉焼きトーストという味覚破壊の組み合わせを胃袋に入れながら呆れる。

 とはいえ、口ではそう言いながらも半分ほども否定できないのが昨今の世の中だ。VRシティ……仮想都市は拡大を続け、既存社会に変化をもたらしている。

 たとえば料理。味覚データさえあれば、いかなる味付けも再現が可能であり、食材の生産・運搬・衛生管理・調理といったコストが不要なのだ。仮想世界で得た食事が栄養として肉体には行き渡らないが、限りなくリアリティある食事が取れるのだ。

 最近になって問題になっている事の1つが『味』の知的財産権だ。現実世界の料理をスキャンし、仮想世界で再現する技術は日々進歩し、小型と簡易化も進んでいる。精度に関しては完全再現となれば億単位の設備が必要になるが、大よその輪郭、大味ならば個人でも再現可能になり、後は手動で微調整を繰り返せば『そっくり』程度ならば誰でも作れるのだ。

 こうして『味』の財産権を巡る時代が幕を開けたとも言える。特に、こうした権利意識が薄い老舗程に味をコピーされる傾向にある。特に法整備が遅れている日本では、外資によって無作為にコピーされ、訴訟もできないまま泣き寝入りどころか、味の知的財産権を奪われる店が続出している。その被害総額は既に兆クラスに及んでいるという試算もある。

 そんな時代だ。義賊気取りのハッカーやクラッカーが被害に受けた店から依頼を受け、復讐を代行する事も珍しくない。先日も老舗料理店の味をコピーした外資が復讐を請け負ったクラッカー達から攻撃を受け、数百億の被害を出して爆散四散、負債を撒き散らして倒産するという前代未聞の事態が起こった。

 仮想世界に現実世界が呑まれている。リズベットはVR犯罪に携われば携わるほど、そんな印象を強く持つようになった。

 

「やっぱりコピーされてるか。うーん、灰色かなぁ」

 

 今回の捜査対象である老舗和菓子屋について軽く検索したが、某掲示板でスレが立つ程度には被害を受けたようだ。これならば、店自体がクラッキングに手を染めておらずとも、復讐代行に依頼、ないし技術を持った従業員が憎しみに駆られてクラッキングしたとも考えられる。

 今回のクラッキング内容というのが、外資が経営する日本向けVRシティで販売されていた菓子130種の味覚データが書き換えられたというものだ。その中にはこの老舗和菓子屋の商品をコピーした疑惑のものが11点も含まれている。

 灰色どころか黒かもしれない。いつものようにジャケットとミニスカ、それにブーツという、世の中の誰が見ても警察関係者とは見えない恰好でリズベットは出発する。伸び放題の肩甲骨まで伸びた髪を適当にキャスケットに入れ、積もった雪を蹴散らしながら駅を目指す。

 夢枕に立つアスナの鬼指導の賜物か、美容院に行く程度には女子力を取り戻し始めたリズベットであるが、それでも染み付いた油汚れがなかなか取れないのと同じで気を抜けばこの様である。伸びた前髪をヘアピンで止めて誤魔化し、枝毛対策でハサミを入れてもらうが髪型を弄るのも面倒なので髪の量を減らす程度という堕落っぷりは相変わらずだ。

 これではいけないと自覚し、また日に日に鬼の角が伸びているアスナに怯えているのであるが、それでも失った女子力を取り戻すのは並大抵の努力ではない。

 

(明日はさすがに休みだと思うし、光輝さんと食事でも……いやいや、まだ付き合ってるわけじゃないんだし)

 

 駅前のコンビニで、また燃料不足で眠気が増幅してきたために缶珈琲を大量購入したついでに飲食店のクーポン付きフリーペーパーを手に取ったリズベットは、明日のクリスマスをどう過ごそうかと思いを馳せる。

 馬車馬の如く働かせる上も、さすがに明日くらいは休日をくれるだろうというのがリズベットの希望的観測である。ならば、デスマーチ解放記念に食事でもどうだろうかと考えたが、あの女好きにそんな発言をすれば、交際承認と取られかねない。

 いい加減に白旗を上げても良いのであるが、それはリズベットが『篠崎里香』に戻ってからの話だ。これは彼女にとって決して覆してはならないケジメである。

 

「さてと、あの店か」

 

 本店は福岡にあるが、さすがに今から新幹線や飛行機を手配するわけにもいかず、リズベットはデパ地下にある件のクラッキング疑惑がある支店を目視できる場所に陣取る。クリスマスイヴという事もあり人の海と化しているデパ地下は、各有名店の東西問わぬ菓子の甘い空気で満たされており、呼吸しているだけで糖尿病になりそうである。

 もちろん、オブザーバーであるリズベットは捜査権限も無ければ、事情聴取も出来ない。だが、何事も地道な調査が何処かで芽吹くものなのだ。

 

「貴島 杏(きじま あんず)、23歳。過去にハッキングとクラッキングで威力業務妨害罪で逮捕された経歴あり。最有力容疑者かな」

 

 売り子をしている笑顔が可愛い女性と端末に表示される本部から送信された過去に犯罪歴を持つ従業員のリスト、それらを照らし合わせて本人であると確認を取る。

 貴島は高校時代に父親を自殺で亡くしている。原因は彼女の両親が経営していた和食料理店で食中毒が起き、マスコミに叩かれた事によるストレスだ。100年以上の歴史があり、大物政治家や資産家なども利用する、いわゆる高級料亭だった。

 新聞・テレビ・週刊誌に至るまで、料亭側が政財界との繋がりもあってか、かなり激しいバッシングがあったようである。母親は心身衰弱し、彼女は高校を中退。以降、持ち前のパソコン技能と優れた容姿を活かして当時の卸業者から顧客まで調べ上げ、父親の名誉を挽回しようとしたようである。結果、卸の水産業者と第1報をすっぱ抜いた記者の癒着、『事件』が意図的に起こされたものだと暴いた。

 彼女の恐ろしいところは、更にテレビ局のネット放送をハッキングし、自身が調べ上げた全てを全世界に配信した点である。だが、その後はこの事件について握り潰され、またマスコミ同士の庇い合いもあり、続報が国民に届く事は無かった。だが、件の水産業者は倒産、癒着していた記者とその関係者は『消える』という顛末を迎えたようである。

 服役の後、貴島は現在の老舗和菓子店に就職し、現在は5歳年上の同社の跡取り息子と婚約中。経営の切り盛りを学ぶべく、今はこうして東京支店で1人の従業員として健気に就労中との事である。

 

(……相変わらずプライバシーも何も無いわね)

 

 リズベットも思わず引きたくなる程度には私生活についても詳細が纏め上げられている。事実上、企業を1つ潰したのだから当然かもしれないが、服役後もかなり厳しい監視下にあるようだ。こんなスキルを持った逸材ならば、いっそスカウトすれば良いのにというのがリズベットの感想だ。

 とはいえ、VR技術とAR技術が日進月歩の現在、幾ら天才的な技能を持っていたとしても、常にハッキング技術を磨き続けていなければ、とてもではないが今回のような大企業へのクラッキングは不可能である。

 経歴だけならば最有力ではあるが、除外しても良いかもしれない。少なくとも、報告に記載されている分には、彼女にはパソコン技能を磨くだけの時間的余裕は無いようである。

 それに何より、犯罪者とはいえ彼女の経歴には同情するには余りある。リズベットの心証としても、彼女がようやく幸せに向かって歩みだしたならば、過去を穿り返して邪魔したくないという気持ちもあった。

 一方で、父親を不正によって自殺に追い込まれた彼女の強烈な正義感は今回の事件を引き起こすには十分だ。犯罪者の汚名を被った自分を受け入れてくれた店の味を盗んだとなれば、激情に駆られて復讐に走ってもおかしくない。

 しばらく監視を続けるが、貴島は笑顔を絶やさず、営業手腕もなかなかのようである。ショーウインドウを覗いた老若男女は彼女のトークに引き込まれ、次々と紙袋を手に満足そうに去っていく。

 

(後はこれをレポートにまとめて、『仕事してますよ』アピールは終わりで良いかな)

 

 正直やってられないという気分の方が圧倒的に上回っているリズベットとしては、彼女が白だろうと黒だろうと興味が無い。仮に黒だとしても、企業倫理観に劣る連中に鉄槌が下っただけだと唾棄できる。見逃しても良いくらいだ。

 分室の皆にお菓子を買って帰ろう。そうしよう。リズベットは仕事モードを早々に切り替え、財布の中身が幾ら入ってただろうかと算盤を弾く。

 と、リズベットは周囲の客の視線が妙な動きを始めたのに気付く。

 それは、蜜蜂が食虫植物だと分かっていても無視できずに吸い寄せられるような、無意識な視線の動き。例の老舗和菓子店へと向かう1人の女性へと、誰もが釘付けになる。

 ハッキリ言って、その女性の恰好は田舎から旅行に出てきたかのように野暮ったい。足首まであるロングスカート、もこもことしたセーター、毛糸の帽子を被り、前髪はリズベット級にだらしない。

 だが、これまで幾多の事件を潜り抜けたリズベットにはそれらが演出であると見抜ける。その証拠に、女性の髪は妥協なく手入れされた艶やかで扇情的な烏の濡れ羽のようであり、歩き方はかなり偽装しているが、隠しようのない気品に満ちている。それに一見すればシマ○ラやユ○クロで揃えたような衣服も、いずれも高級素材で纏められたオーダーメイドである事に間違いない。

 脳内アスナが『ほう。やるじゃない。あれは女子力53万といったところね』と腕を組んで評価している。ちなみに、脳内アスナのリズベットの女子力評価は0.1である。

 ただ視界に入れているだけで惹きつけられる。そんな女性に、誰もが無意識の内に道を開けているのか、彼女はスムーズに老舗和菓子店……貴島の元にたどり着く。貴島はどうやら女性にかなり驚いているようであるが、その顔には先程までの営業向けの笑顔とは違う、親しい者に向ける微笑みに変わっていた。

 あの様子からして友人、それも昔馴染みや幼馴染といったところだろうか。リズベットは距離を取り、洋菓子店のケーキを選ぶフリをしながら様子を窺う。

 貴島は高校中退後、知人友人とは縁を切り、連絡は一切取っていない。唯一、彼女の母親の面倒を見ていた親戚とは細々と連絡を取っていたようである。現在は母親も社会復帰し、料理教室で働いているようだが、自分が不甲斐ないばかりに父親の復讐で手を汚してしまった娘に負い目を感じ、親子関係の修復は上手くいっていないようである。

 だとするならば、彼女は母親を預かっていたという親戚の者だろうか。ファイルを開いて検索するが、同年輩の親戚筋はいない。ならば、服役後にできた友人とも考えられる。

 

(髪で上手く隠してるけど、輪郭とパーツからしてかなりの美人ね)

 

 この距離からでは何を話しているのか聞き取れない。リズベットは距離を詰めようかと思案した時、女性の頭部がゆらりと動く。

 途端に、リズベットはまるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように動けなくなる。女性が僅かに、首を傾げる程度に動かす中で、こちらを正確に視線で射抜いたからだ。

 ふわりと女性の指が動き、その唇に触れる。それはリズベットに『黙ってそこから動かないでね』と命令しているかのようだった。

 金縛りにあったように動けないでいるリズベットに、話を終えたらしい女性は和菓子が入った紙袋を手に近寄って来る。

 

「あ……ああ……っ!」

 

 上手く呼吸ができない。過呼吸に陥りそうになっているリズベットの前に立った女性は、にっこりとこれから獲物を貪る蜘蛛のように笑った。

 

「落ち着いて。怒ってないから」

 

 お茶目にウインクし、女性はまるで清涼な風で靡く絹のような声でリズベットに敵意が無い事をアピールする。

 全身から脱力したリズベットは倒れそうになるが、伊達に死線を2桁潜り抜いているわけではない。腰が抜けそうになったのを耐えたリズベットは、ごくりと生唾を飲みながら、それでも緩む事無く女性の前髪に隠された双眸と向き合う。

 すると女性はやや驚いたように口を開け、すぐに嬉しそうに微笑む。

 

「ちょっとお話ししましょうか。『犬』は撒いたつもりだけど、随分と距離を詰められてるみたいだしね。ホント、連中の執念だけは感服するわ」

 

「あ、あたしも、あなたにお話を聞きたい事があります」

 

「杏との関係? 良いわよ。あなた、『特別』みたいだし、少しだけならサービスで話してあげる」

 

 そう言ってリズベットは女性と肩を並べてデパ地下を出ると、何処かでゆっくり喋れる場所は無いだろうか、と周辺の地図を広げていく。

 そう言えば、とリズベットは女性のオーダーで複数回無意味に……まるで尾行を振り切るように電車と地下鉄を乗り換え、ある店を目指す。

 その店の名は【Dicey Cafe】、プレイヤーネーム【エギル】、本名【アンドリュー・ギルバート・ミルズ】が経営する喫茶店兼業バーだ。

 現実世界への帰還後、SAO生還者……サバイバー達のほとんどは互いに連絡を取り合う事を拒否し、各々の人生へと戻っていった。その中でもリズベットは特に交流を拒否した部類だ。

 だが、唯一頻度は少ないが連絡を取っていたシリカの誘いで、彼女と現実世界で対面した時に利用したのがダイシー・カフェである。エギルともSAOでは交流があったリズベットからすれば、断ち切っていたSAOの関係を繋ぎ直した数少ない1人だ。

 とはいえ、自ら店へと足に運ぶなど滅多にない。特にエギルはSAO生還後も現実世界に適応しきれず、奥さんともそれが元でトラブルが頻発し、ついに離婚するという彼にとっては絶望に続く絶望だった為、リズベットもどう声をかけたら良いものか分からなかったからだ。

 だが、リズベットがVR犯罪対策室のオブザーバーである事を知る数少ない1人である。あの店ならば日中夜中問わずに客もおらず、この女性とも人目を気にせずに話ができるだろう。

 

「いらっしゃい……って、リズか」

 

「久しぶりね、エギル」

 

「……アンドリューだ。その名で呼ぶな」

 

 ダイシー・カフェの扉を開き、軽やかな鈴の音を鳴らせばカウンターで寛いでいたエギル……ではなく、アンドリューが、SAO時代ではあり得なかった辛気臭い仏頂面で迎える。そんな風だから味が良くともリピーターが来ないのだ、とリズベットは自分の事を棚に上げて嘆息する。

 

「雰囲気の良い店ね」

 

「雰囲気だけです」

 

「雰囲気だけだ」

 

 女性、リズベット、そして店主であるアンドリューまで同意すると言う散々な評価であるが、喫茶店として落ち着いた趣ある内装は、雰囲気だけは一流と呼ぶに相応しい。その全てを台無しにするのが店主の腐った眼というのも洒落が利いている。

 テーブル席に案内され、リズベットと女性は向かい合いながら注文した珈琲が届くのを待つ。

 

「あたしはVR犯罪対策室分室、オブザーバーのリズベットです」

 

 身分証明書を提示するリズベットに、女性は不思議そうに首を傾げる。

 

「あら、もしかして外人さん? でも、記載されてる名前は違うわね」

 

「……偽名みたいなものだと思ってください」

 

「ふふふ、冗談よ。サバイバーさん」

 

 こちらの事はお見通しか。珈琲を運んできたアンドリューは『厄介事を運んで来やがって』と睨むが、リズベットは何処吹く風で珈琲にミルクを入れる。一方の女性は角砂糖を1つ入れ、まるで指先がダンスを踊っているかのような錯覚を覚えるほどに美しくスプーンで混ぜる。

 その動作の1つ1つが他人を魅せる為のようである。カウンターの奥に戻ったアンドリューすらも見惚れて頬を赤らめた程だ。

 

「お名前をお伺いしても?」

 

「謎の女その1じゃダメかしら?」

 

 両手を組んで顎をのせ、女性は同性すらも魅了する微笑を浮かべる。

 

「だ、駄目です」

 

「でも、あなたはオブザーバーであって警察の方じゃないでしょう? 強制力は何も無いと思うけど?」

 

 痛いところを突かれる、が予想通りではある。リズベットとて、伊達に修羅場を潜り抜けていない。

 この女性が何者なのかは知らないが、明らかに何者かに尾行されている節があった。つまり、後ろ暗い立場にある人間なのだろう。そんな人物が、今まさに灰色扱いの貴島と接触したとなれば、彼女がどのように扱われるかは火を見るより明らかだ。

 こっそりと今回の事件の参考人とダイシー・カフェにいる事を光輝にメールを送りつつ、リズベットは強気に口元を歪めて交渉に乗り出す。

 

「貴島杏さんと仲がよろしいようですね。なら、協力的な方が彼女にとって何かと都合が良いと思いますよ? 貴島さん……婚約中らしいじゃないですか」

 

「あら、顔に見合わずえげつないのね」

 

「犯罪を取り締まるのが仕事ですから」

 

「でも、あなたの推測はかなり見当違いの部類よ。まぁ、杏を調べられればバレる事だろうし、あなたがVR犯罪対策室なら色々と『面白い』事になるから、その『説得』に乗ってあげる」

 

 そう言って女性は毛糸の帽子を……目元を隠す前髪ウィッグ付きのそれを外す。

 瞬間、アンドリューが大口を開けて硬直して磨いていたコップを落とし、ガラスの破砕音を響かせる。

 リズベットは、とんでもない馬鹿をやらかしたと頭を抱える。

 そこにいたのは、ほのかに赤みがかかった黒の瞳が特徴的な、日本人ならば知らぬ者はいない有名人。

 12歳で子役として電撃デビューしたかと思えば、その美貌と演技力、理想的な大和撫子として老若問わずに男性を虜にした女優。

 そして、先日グルジア出身のハリウッド俳優と交際疑惑がスクープされ、日本中を阿鼻叫喚に陥れた美女。

 

「「あ、あああ、AKARIぃいいいいいいいいいいい!?」」

 

 アンドリューとリズベットの絶叫が重なり合い、女性が鼓膜を震わせられるよりも先に自身の耳を塞ぐ。

 

「その芸名気に入ってないのよね。なんでも英語にすれば良いってものじゃないと思うけど事務所の意向に逆らえなくて。だから、普通に灯って発音でお願い」

 

「ファンです! デビューの『学校のゴーストストーリー6~気になるアイツは火星帰り~』からファンでした! サイン! サインをお願いします! あ、あと写真も!」

 

「ちょ、アンドリュー、あたしが先よ!? あ、あの!『THE シャチ3~さらば、自動人形。また会う日まで~』見ました! 公開初日に3回見ました!」

 

 いつか芸能人が来る日を心の隅で待っていたのか、カウンターから色紙とペンを引っ張り出してきたアンドリューを阻み、リズベットは手帳にサインをねだる。そんな彼らに灯は、慣れた手つきで順番にサインを書く。

 

「写真はごめんなさい。今日はオフだし、それにこれから『大切な人』と待ち合わせがあるの」

 

 舌を小さく出して、やんわりとデジカメを持ってきたアンドリューに断わりを入れる代わりに、彼の手を優しく包み込んで握手する。それだけでアンドリューは昇天したのか、似合わない口髭をぶわりと立て、悶絶し、フィギアスケート張りにアクセルを決める。

 全てが計算し尽くされているのに、1つとして嫌味が無く自然。これが女優! リズベットも握手をねだり、本当に同じ女性なのか疑いたくなるほどに艶々した、思わず頬擦りしたくなる肌触りに血液が沸騰しそうになる。

 

「そ、それってやっぱり……!」

 

「ふふふ、秘密にしてくれるわよね? ちゃんと籍を入れたら正式発表するつもりだから、それまで待っててね」

 

「「もちろんです!」」

 

 人生何があるか分からない! 一生の宝物だとサインを抱きしめ、リズベットは続いて自分がとんでもない人物に嫌疑をかけた事を思い出し、顔を青くした。

 これは事務所を通して正式抗議というお決まりのパターンだろうか? 頭を抱えそうになったリズベットに、灯は何も気にしていないというように笑む。

 

「お仕事だから仕方ないわ。疑うのが仕事だものね」

 

「そ、そう言っていただけるとありがたいです」

 

「それで、杏との関係だったわね。いわゆる幼馴染かな? 父が良く彼女のお父さんの料亭を使ってたの。だから、その関係で仲良くなったのよ。警察の方ならご存知だと思うけど、『事件』以来疎遠になってて、でもやっぱり友達は見捨てたくないから、ああして時間がある時にこっそり会うようにしているの。でも、ほら……やっぱり、『彼』と付き合ってから、海外のパパラッチにも追われちゃって」

 

 だから尾行を巻くような真似をしたのか。これにはリズベットも納得である。

 

「あたしに気づいたのも、やっぱり理由はそれなんですか?」

 

「うーん、少し違うかな。私ね、視線というか……正確には表現できないんだけど、『鼻が利く』って言うのかな。色々と敏感なの」

 

 灯がそう恥ずかしそうに笑うだけで、またもアンドリューが昇天して天使が迎えに来たラッパの音が聞こえてきた。

 

「それで、もしかして杏は何か問題を起こしたの?」

 

 心配そうに灯は眉を曲げ、当然の帰結として貴島を監視していた理由を尋ねてくる。

 貴島は現在、白と黒の間で揺れる灰色だ。リズベットもここで灯から情報を引き出す為にクラッキング疑惑について明かすわけにはいかない。幼馴染のピンチとなれば、彼女を通して容疑者に捜査情報が伝わってしまう。そうなれば隠蔽工作されかねない。

 

「え、えと、それは……」

 

 口を濁らせるリズベットの手に、そっと灯の柔肌が……まるで雪のように白い指先が這う。

 

「お願い、リズベットちゃん。杏は大切な友達なの。もしも何か犯罪に手を染めているなら、私は止めてあげたい。杏の幸せを守ってあげたいの」

 

 いつの間にか涙で潤んだ瞳。それは至近距離で手榴弾が爆発したかのような衝撃をリズベットに与え、思考を一瞬で蕩けさせた。

 まぁ、十中八九、白だろうし別に良いか。リズベットはネジが複数本抜け落ちた頭でそう判断し、彼女にクラッキング疑惑がある事を、端末まで見せて丁寧に教えてしまう。

 

「クラッキング疑惑か……確かに杏なら、でも今のあの子じゃスキルが追いついてないだろうし……それにこの『腐った』ニオイ、なるほどねぇ」

 

 納得したように頷いた灯は、脊髄に冷水が流し込まれたかのように寒気を覚える程に美しくも、何処か人間味の無い眼差しを見せる。

 

「ありがとう、リズベットさん。素人意見だけど、その被害に遭ったっていう外資さんを調べてみるのをお勧めするわ。自作自演よ。大方、コピー商品を取り扱っている批判を避ける為に、自分が『被害者』になろうって魂胆でしょうね」

 

「自作自演、ですか?」

 

 端末を受け取ったリズベットは、部外者相手に意見を求めて何をやっているのだと自覚を取り戻そうとするが、いつの間にか灯の一挙一動に魅入られて思考が縛られ、その声に集中する以外の選択肢が思い浮かばない。

 

「そうよ。誰だって加害者よりも被害者に同情するでしょう? ましてや、事情を知らない大多数の人間は単語の意味で関係を把握する。コピー商品を取り扱った加害者は、より分かり易い犯罪行為の被害者に成りすます事で、本来の被害者を加害者に仕立て上げる。とても単純だけど、それ故に効果的な『嘘』ね」

 

 確かに、灯の言い分は捜査する上でリズベットも考えていた視点の1つだ。だが、どうして灯がここまで自信を持って断言できるのか不可思議だ。それは、友人を守りたいという意識とは違う、まるで真実を最初から嗅ぎ分けたかのような……リズベットが良く知る相棒と同じ、過程を省いて真実に至る要素を引き摺り出す光輝のようだ。

 

「私ね、昔から『嘘』を嗅ぎ分けるのが得意なの。演技や虚言……たとえば、冷たい皮肉に隠された情熱とかね」

 

「あたしの知り合いにも似た人がいます。その人は何ていうか、犯罪とか悪意とかの『ニオイ』が分かるみたいで」

 

「でしょうね」

 

 何故かあっさりと納得……いや、同意した灯にリズベットは首を傾げる。

 いや、それよりも、彼女の輪郭というか雰囲気というか、画面越しでは分からなかった容姿の細部に、何処か既視感を覚える。

 

「そろそろ時間ね。アンドリューさん、余計なお世話かもしれないけど、大切な人からの電話には出た方が良いわよ。聖夜は奇跡が起こるものだから、後悔の無いようにね」

 

 そう言って席を立た灯はリズベットの分も会計を済ませながら、灯はアンドリューに微笑んで告げる。驚く彼を尻目に、彼女は優雅という単語以外に思い浮かばない足取りで店をドアを開けた。暖房が利いた店内に凍える外気が流れ込み、そのまま彼女は去っていく。

 残されたリズベットは余った珈琲を一口飲み、呆然とするアンドリューへと視線を向ける。

 

「電話ってどういう意味?」

 

 そう尋ねると、アンドリューは無言でポケットから、今では珍しいガラケーを取り出して彼女に見せる。そこにはつい数十秒前に彼の別れた妻からの着信報告が表示されていた。

 あの会計の瞬間、丁度アンドリューに奥さんから電話がかかっていたのだ。彼は着信画面を見てそれに気づいていたはずだが、無視していた。それを、リズベットが聞き逃していたバイブレーションの音と彼の顔色だけで灯は事態を見抜いたのだろう。

 これが女優! 芸能界はバケモノだらけか!? リズベットは慄きながら、席をカウンターに移動させ、お替わりの珈琲を注文する。

 

「凄い美人よね、灯さん」

 

「ああ」

 

「それで、自分も美人の奥さんがいながら離婚しちゃって、それでも心配して電話をかけてくる奥さんを無視して、オンリーロンリーのクリスマスを過ごそうとしている某アンドリューさんは、どうしたいわけ?」

 

 珈琲にミルクを入れながら、灯のように気品ある混ぜ方をできないものだろうかと挑戦しつつ、リズベットは興味も無さそうに問う。

 割れたコップの破片を集めながら、いつもの仏頂面に戻っているアンドリューは抑揚のない声で呟く。

 

「修復できない関係もある」

 

「たとえば?」

 

「寝ても覚めても、自分が『殺されるんじゃないか』って怯えている男にとっては、愛する妻すらも『自分を殺そうとしているんじゃないか』っていう妄想の中の殺人鬼。そんな関係だ」

 

 ああ、確かにそれは重症かつ致命的だ。リストバンドに隠された傷痕を撫でながら、リズベットも思わず同意しそうになる。

 だが、アンドリューの表情はともかく、眼差しには未練のような物を感じる。それはそうだろう。彼は妻が嫌いで別れたのではない。むしろ愛し、その上でいつの日か傷つけてしまいそうで怖いから別れたのだ。

 リズベットもそうであるが、SAO生還者というのは等しく面倒な連中ばかりだ。何処かしらに心傷を抱え、社会復帰しているようで、永遠にあの事件から解放されずに歪められ続ける。

 

「それでも、やり直したいって思ってるなら、会うだけ会ってみたら?」

 

「アイツには新しい人生を歩んでもらいたい。俺みたいな精神破綻者と一緒にいたら不幸になるだけだ」

 

「それは奥さんが決める事でしょ? 少なくとも、心が壊れたアンドリューも、死に怯える【エギル】も受け入れてくれるような人、この先の人生で巡り合えるとは思わない方が良いわよ」

 

 リズベットも必死に『篠崎里香』に戻ろうと足掻いている。それに比べれば、SAOを生きたエギルを否定しようとするアンドリューの方が彼女よりも数歩先を行っているだろう。

 ならば、後は勇気を出して、差し出された手をつかむだけだ。

 

「……俺は、幸せになるべきじゃない」

 

 だが、アンドリューはガラス片を詰めた新聞紙を丸めながら、薄暗い闇を潜ませた双眸を細める。

 

「多くの人を見殺しにした。償っても償いきれない」

 

「あれは仕方なかったでしょ? それに、エギ……じゃなくて、アンドリューは立派よ。200人も命を救ったじゃない」

 

 安全圏消失後、アンドリューは第1層へと赴き、多くの戦えないプレイヤーの支援に尽力した。上層から下りる強力なモンスターたちによって次々と中層・下層プレイヤーが殺戮されていく中、資産の全てを使って回廊結晶を揃えた彼は200人という、SAO生還者の半分以上の人数を救い出すという偉業を成し遂げたのだ。他の多くのプレイヤーを見捨てたとしても、それは称賛されこそすれ、蔑まれるべき行いではない。

 

「そうじゃない。俺は……俺は、背負わなかった。見殺しにするという責任すら負えなかった、臆病者だ。なのに……自分よりも年下の、俺が背負うべき物だったはずの物を背負った、まだ子どものはずのアイツを醜く詰った。そんな馬鹿野郎が幸せになるなんて、許されるべきじゃない」

 

 新聞紙を握りしめ、中身のガラス片が飛び出してアンドリューの掌を貫く。溢れだした血が滴り、ポタポタと音を立てた。

 具体的な事は聞かない方が良いだろう。リズベットは店のドアの前に左右にフラフラ揺れながら死にかけの光輝が到着したのを見て、慌てて珈琲を飲み終えると代金をテーブルに置く。

 

「良く分からないけど、アンドリュー、アンタが幸せになっちゃいけないなんて誰も決めてない。以前のあたしと同じで、勝手にアンタが思い込んでるだけ」

 

「…………」

 

「あたしは必ず『篠崎里香』に戻って見せる。あたしを……こんなあたしを、飽きる程『愛してる』って言ってくれる人の為に」

 

 背中を見せたまま振り返らないアンドリューにそう宣言し、リズベットは店のドアを開けて出ていく。ここからどのような選択をし、クリスマスをどう過ごすかは彼次第だ。

 

「ごめんなさい、光輝さん。もう終わっちゃった」

 

「あははは。別に良いよ。僕もそろそろ起きようと思ってたところだしね」

 

 ドアの前で待っていた光輝に謝罪する。メールしたは良いが、灯が帰った事を伝え忘れていたリズベットの渾身のミスである。しかも、今にして思えば、絶賛で捜査情報を漏らしたというオマケつきだ。

 どう報告したものだろうか。雪が積もった歩道を並んで歩みながら、リズベットは皴を寄せた額の中心を押さえながら唸り声を漏らす。

 

「そう言えばクリスマスだけど、光輝さんの予定は?」

 

「うーん、どうだろうね。多分、仕事じゃないかな? 今回のクラッキング事件はそれなりに時間がかかりそうだしね。上は早期解決がお望みみたいだし」

 

「あ、その件だけど、多分早く決着つくと思うわよ」

 

「どういう意味だい?」

 

「あとで教えてあげる」

 

 さすがに灯のサインを貰った挙句にアドバイスまで貰ったとまで、ここで報告するわけにはいかない。

 

「ところで早かったけど、もしかしてそんなフラフラな状態で運転したんじゃないでしょうね?」

 

「あははは。まさか、僕がそんな……」

 

「…………」

 

「はい、仰る通りです」

 

 無言のリズベットの圧力に、あっさりと光輝は白旗をあげる。どうやら精神的にもすっかり衰弱しているようだ。

 

(あたしが無遠慮なメールなんか送ったせいか)

 

 さすがに責める気にはなれない。リズベットとしては、灯を足止めして十分に時間を稼いで光輝の到着を待つつもりだったが、この馬鹿が自分からメールを受け取ればどんな反応を示すのかくらい予想がついたはずである。

 

「そこに座ってて。珈琲でも買ってくるから」

 

 こんな事ならばダイシー・カフェの中で一休みするんだった。雑居ビルの階段に光輝を座らせ、リズベットは自動販売機は何処かに無いかと探す。

 記憶を辿り、確か2つ程先の交差点の角にあったはずだとリズベットはやや早足で赴いた。

 

「えーと、光輝さんの好きな銘柄は……」

 

「失礼、そこのお嬢さん」

 

 硬貨を入れ、光輝がいつも飲んでいる銘柄を探す中、リズベットは背後からかけられた声に振り返る。

 そこにいたのは、神父服に紫のコートを羽織った黒髪の男が立っていた。年齢は30代半ば、いや後半といったところだろうか。1度聞けば忘れないような渋い声音である。

 

(コスプレ? いや、クリスマスイヴだし、教会の人かな)

 

 一瞬だがたじろいだリズベットであるが、恰好自体は時期的にも不思議ではないと判断する。

 

「この近くにダイシー・カフェという店があると聞いたのだが、どちらにあるかご存知かな?」

 

 ああ、アンドリューの知り合いか。生粋のアフリカン・アメリカンの彼ならば、宗教的な知人という事もあり得るだろう。納得したリズベットは、今しがた自分達が歩いてきた道を指差す。

 

「この道を真っ直ぐいけば、すぐにありますよ」

 

「そうか。ありがとう、お嬢さん」

 

 軽く会釈し、男性はそのままリズベットに背中を向けて去っていく。

 無性に嫌な予感がしたリズベットであるが、丁度その時に光輝の好きな銘柄を思い出し、早く買っていこうと自動販売機のボタンを押す。

 

 温かな熱を孕んだ缶珈琲であるが、それを手に取ったリズベットの手は……理由もわからず震えていた。




次回も現実世界編です。

いつから現実世界が安全地帯だと錯覚していた?

それでは、130話でまた会いましょう。

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