SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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ダクソ3の発売までもう間もなくですが、筆者はトレーラーだけで我慢して、なるべく情報を仕入れないようにしています。
今回でソウルシリーズは終わりという噂がありますが、ならばブラボの続編が出れば良いなと切に願っています。


Episode16-19 一夜の過ごし方

『浮かない顔ですね』

 

『ろくでもない任務を押し付けられたからな』

 

 数日前、太陽の狩猟団の本部の修練場にて、ラジードは珍しく『切り札』の準備をしているベヒモスに言い知れない不安感を覚えた。

 シャルルの森、世間一般では『竜の神事件』と呼ばれているそれは、まるで劇薬を投与したかのように、これまでの秩序に急速な変化をもたらした。

 大ギルドへの不安感が爆発して反大ギルドという秩序への挑戦者『テロリスト』が生まれ、戦争の機運と安全地帯など無いという真実は精神的集中を求めさせて神灰教会に信徒が殺到し、表向きの友好の仮面を剥ぎ取りつつある大ギルドは戦争への本格準備を進めて戦力増強と勢力拡大を推し進める。

 皆の意思は同じはずだ。この死と狂気に彩られた悪夢のような仮想世界から脱出する事のはずだ。なのに、今はそれを望んでいるのは少数に過ぎないというかのように、完全攻略はただの大義名分と化し、誰もそれを信じてもいなければ望んでもいないかのように思えてならない時がある。少なくとも、ラジードはそれを今も胸に宿す自分が異常者なのではないのかと自分に迷いと疑問を覚える事がある。

 

『ラジード、お前は強くなった。副団長は好かんが、お前を昇格させた事は今後の太陽の狩猟団にとって大きな財産になるだろう』

 

 太陽の狩猟団の本部があるのは≪滴る水のエアリスの記憶≫だ。山岳地帯ステージに本拠地を置く聖剣騎士団とは真逆の、広大な湿地帯に設けられている。正しいルートを取らねば足を取られ、溺れかねない湿地帯は常に薄い霧が張られ、なおかつ水中から襲い来るモンスターは防壁にもなって攻め込まれにくい。唯一の弱点は、この本拠地まで通る1本の木製の大橋であるが、これには多量の爆薬が常時仕込まれており、場合によっては爆破して陸路からの侵入を限りなく断つ陸の孤島になれる。故に、外部への移動は基本的に炎剣の転送のみだ。

 風情があるではないか、というサンライスの鶴の一声で崩落寸前の『館』を『砦』に大改修するには多大なコストがかかったが、それに見合うだけの要塞であり、やや多湿である事を除けば不満は無い。そもそも、あくまで本部であり、自宅を別に持つ者が大半である事を考えれば、サンライスはまさに英断をしたと言える立地だ。

 ちなみにラジードは武器の新調や整備ばかりに金をかけ、自宅の購入を見送っているので本部暮らしだったが、先日ついに業を煮やしたミスティアに同棲を申請されたところであり、マイホーム探しに赴かなければならないとやや憂鬱だ。付き合い始めたのはクリスマスからなので、かれこれ4ヶ月近く続いた関係になるのだが、それでもラジードとしては『まだ早い』と考えてしまうのである。

 

『幹部とはいえ、大部隊を指揮する事はありません。少数精鋭による機動力重視の早急な治安維持を想定した特殊部隊の隊長を任せる、と』

 

 そして、もう1つの憂鬱な理由はミュウに自分を合わせた最大6名、パーティ上限数の部隊作成を言い渡された事である。戦力増強路線に従い、下部組織や主力メンバー補欠だった人員から引き上げを行うらしく、有望なメンバーを選抜しなければならない。

 治安維持などと綺麗な題目を立てているが、要は対人戦を想定した部隊だ。ラジード自身もサンライスが主催するデュエル大会で高い結果を出し、対人戦における適性の高さを証明している。鈍重で対モンスター戦を得意とするベヒモスを破り、他の古豪も下したが、槍と奇跡のコンビネーションでDBO女性プレイヤーでも5本指に入るミスティアに一太刀入れることもできないまま敗退した。

 なお、そのミスティアは決勝戦でサンライスの開幕アッパーで場外まで飛ばされるというオチである。ミスティアが手抜きをしたのではなく、サンライスがいつものように豪快に笑ったかと思えば間合いを詰められ、彼女が得意の奇跡を織り交ぜた高速戦闘を始動する前に勝負を決めたのである。

 3位決定戦でラジードがぶつかったのは、ミュウの側近である双子の片割れのルーシーだ。女傑が多い太陽の狩猟団らしく、普段はミュウの秘書のような真似をしている彼女も攻略活動には参加しないとはいえ猛者だ。辛うじてラジードは勝てたが、彼女の本領は双子による連携である事を考えれば敗れても悔しさを見せないルーシーの態度も分かるというものである。

 何にしても、今やラジードはこれまで文句を垂れていた者達を黙らす程度には実績と実力を身につけた。そして、治安維持を始めとした対人戦想定部隊の必要性も、今のDBOの惨状を考えれば、分かると言えば分かる。だが、だからこそ納得はできなかった。

 

『ソロの方が気楽か?』

 

『僕は伝説の【黒の剣士】とは違いますよ。ソロなんて、もうコリゴリです』

 

 ここまでの力を短期間で手に入れたのは、無理でもソロで攻略活動をさせてもらっていたからだ。徹底的に自分の弱さを見つめ直し、戦い方を知り、死線を潜り抜ける為の力を蓄えた。だが、それとソロでありたいと思うのは別だ。言うなれば、これまでは武者修行のようなものである。正直、精神の方に限界が来ていた。

 誰にも頼ることができない。1対1でも、1対多でも、常に自分が劣勢であり、後が無い。何度も無様に逃げては生を噛み締めて涙を零した。ダンジョン内で震えて眠れない夜など日常だった。

 実力があっても精神が先に折れる。無尽蔵に湧くとはいえ、雑魚相手にこれなのだ。ボスを相手にソロで挑んだ【聖域の英雄】の異常性をまさに思い知るところだ。ユージーンも先日、メインダンジョンの中ボス級ネームドを敢えて単身で挑んで撃破したそうだ。どちらも規格外である。今や双方ともユニークスキル持ちであることが明かされているが、ラジードには彼らが傭兵最強候補に挙げられる理由がソロの武者修行のお陰で嫌でも分かった。

 

『ならば選抜は真面目にやれ。少数精鋭という事は、それだけ我が強い連中が集まり易くなる。スキルやバトルスタイルの構成ではなく、人間関係を重視しろ』

 

 組織化された大部隊とはいえ、隊内の諍いも絶えないのだろう。ベヒモスの助言をありがたく受け取り、『切り札』を収納するベヒモスを呼ぶ彼の部下が修練場に来て出発を告げるのを耳にした。

 

『……ご一緒しましょうか?』

 

 不安だ。ベヒモスは滅多な事が無い限りに『切り札』を持ち出さない。それは彼が対ボス戦でも引っ張り出さない、DBOでも屈指の『モンスターウェポン』だからだ。太陽の狩猟団の工房が、ベヒモスの要望に則り、コスト度外視で開発し、断念し、最後は何処かの鍛冶屋に頼って『外注』したものである。多大なレア素材をその鍛冶屋に要求されたらしいが、それに見合うだけの怪物だ。

 ラジードは元部下として、『切り札』を使う所を1度だけ見たが、バランスブレーカー確実であり、デスゲームでなければ即座に運営が≪鍛冶≫の自由性規制の修正アップデート作業をサービス1週間停止覚悟で決行するクラスである。

 

『これは任務だ。お前にはお前の仕事があるだろう? もう部下ではない。部下を持つ側だ。気楽なソロが嫌ならば、組織で戦う意思を示せ』

 

 手厳しい。苦笑するラジードに、ベヒモスは腕を組む。

 

『それに私は死んでも生きて戻る。なにせブ男代表の私にもついに嫁ができたのだからな!』

 

『え!? おめでとうございます!』

 

『嘘だ』

 

『だと思いました。その癖、止めた方が良いと思いますよ』

 

 敢えて死亡フラグを立てる事こそが生存フラグ、と信じるベヒモスの虚言に何度も踊らされたラジードは、去っていくベヒモスの背中に声をかけなかった。任務が命懸けなのはお互い様だ。部隊作成中のラジードを遊ばせる気はないというように、ミュウから新たな任務着任への要請があり、執務室に呼び出しが来ている。病み上がりで万全ではなく、今にも倒れそうな顔で執務テーブルに齧りついて事務処理に励むミュウを見ると、自分がいかほどに余裕ある日々を送っているのか思い知って、どんな任務でも引き受けざるを得ないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アンバサァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、あの時無理を言ってでもベヒモスに同行すれば良かった。眼前で両腕を大きく広げながら跪き、雄叫びを上げるポーズを取る鈍い金色の甲冑を身に着けた騎士を前に、ラジードは陸に打ち上げられて数時間後の魚のような中途半端に死んだ目をしていた。

 

「おお、我らが神よ! 灰になりても我らを見守り、再誕の日を待つ我が神よ! この身に流れる血より油を育み、大火となるあなたを迎え入れる我が祈りを聞き届けたまえ!」

 

 そこは終わりつつある街にある、神灰教会の大聖堂の1室、『第4の祈りの間』だ。小部屋には4人掛けの黒塗りの木製長椅子が4客設置され、小さな聖壇には鈍い銀色の杯に【ヘルメスの油】が注がれて蒼白い火が揺れている。その熱が生み出す歪みの向こうにあるのは、神灰教会のシンボルとも言うべき十字架と炎を組み合わせたシンボルである。それはDBOの象徴ともいうべき転送機能や記憶の余熱が得られる炎剣をモチーフにしている事は間違いないだろう。

 どうしてこうなった? 顔を覆いたくなるラジードを尻目に、神への愛と忠誠をマシンガンで並べ立てるのは、聖剣騎士団が誇る円卓の騎士の1人にして最高クラスの≪戦槌≫使いとして知られる【聖騎士】リロイだ。その特徴的な鈍い金色をした甲冑、背負う白い炎を模したとされる絵が描かれた盾【サンクトゥス】、ユニークアイテムにして高いSTRとMYSが要求される銀色の巨槌【グラント】の全てにオートヒーリング効果があり、とにかく粘り強さと高火力が驚異的な、聖剣騎士団でも古参中の古参メンバーである。

 その活躍はラジードも耳にしていたし、これまで幾度かも肩を並べた事がある。だが、戦闘中はひたすらに寡黙であり、また紳士的である事から、まともな人格者かと思っていたらこの有様である。

 

『サンライス団長も神灰教会には多大なお布施を希望されています。団長は心強き御方ではありますが、弱き人々を鑑みぬ御方ではありません。慈善活動を成す神灰教会を支援されたいのでしょう。ですが、お布施はすでに大小様々なギルドが行っています。当然、そこには政治的な意図があり、聖剣騎士団はいち早くに円卓の騎士を「教会を守る剣」に派遣したと聞きます』

 

 呼び出されたミスティアに、混乱する時間も与えられずにまくし立てられたラジードは、同じく呼び出されたらしい心底胡散臭そうな顔をしてミュウを見つめるミスティアと共に、任務の『建前』を聞かされた。

 

『あなた達2人はいち早い治安維持活動で多くの支持を集めています。内部から他ギルドが神灰教会で「勝手」をしないように、善意の見張り人を務めてもらいたいのです』

 

 良く分からないが……他に頼るものがない人々にとって精神的支柱となっている神灰教会が大ギルドの政治の場にならないようにすれば良いのか! ミュウの疲れ切った笑顔に快く同意したラジードであるが、執務室を出ると同時にミスティアに溜め息を吐かれた。

 

『ラジードくんは素直……ううん、単純過ぎ。あのね、副団長はつまり得体の知れないカルトに潜入して、他の大ギルドの人々が暗躍する中で、アタシたちに教会内で確固たる地位を確保しろと言ってるの。戦争には大義が必要だし、大義は人を集める。これは戦争の下準備なの』

 

 その後、1日かけてヨーロッパにおけるキリスト教と戦争の歴史についてミスティアに講義を受け、何となくであるが、自分がとんでもない『政治』の世界に放り込まれたのだとラジードは知ったのだった。

 神灰教会は3つの組織によって運営されている。『修道会』・『教会を守る剣』・『工房』だ。

 工房は分かり易い。他のギルドがそうであるように、武器や防具を開発する部門だ。彼らは修道会や教会を守る剣を支える縁の下の存在だ。

 修道会は表向きの慈善・福祉活動を主導し、ミサ(ミスティアの講義によれば『ミサ』とはキリスト教の祭儀の1つであり、神灰教会が執り行っているのは名前を借りた別のものらしいが、ラジードにその説明を受ける時点で既に思考放棄していた)などを管理する。『女性プレイヤーの今を考える会』などを定期的に開いて修道女の確保も進めているらしく、ミスティアはこちらからの神灰教会に入る事になった。

 そして教会を守る剣とは、修道会や工房を守る『自警団』だ。ギルドの垣根を超えて教会を守るという大義の下に集結したプレイヤーによって運営されている。普段は聖堂や修道会の警護をしているらしい。そして、ラストサンクチュアリの御株を奪うように終わりつつある街の巡回活動まで始めたらしい。こちらにはラジードが入る事になっている。

 

(だけど、それぞれの組織には実力以外の『別の何か』で選抜されたプレイヤーがいて、それが実質的な教会の運営を行う『上層部』になっているみたいだ。一体全体どうなっているんだ?)

 

 これでは『ギルド』という枠組みが無い分だけ余計に厄介極まりない、密議で運営されている『大組織』ではないか。頭がくらくらするラジードは『新入り』としてリロイに神灰教会の説明や『立ち入り許可』された聖堂内部を案内されながら、ぼんやりと見えてきた神灰教会の姿に血の気が引いたものである。

 リロイは聖剣騎士団から派遣される以前から神灰教会の信徒だったらしく、教会を守る剣でもトップクラスの実力者だ。だが、上層部ではない。つまり、『別の何か』を満たしていないが故に運営には口出しできないのだ。また、本人も聖剣騎士団に派遣されたとはいえ、根っこからの信者なのでそこは気にしていないらしい。

 

(むしろ狂信者だよなぁ。それよりもアンバサってどういう意味なんだろう?)

 

 修道会でも【聖者】と崇められる程の善人である【ウルベイン】ともラジードは挨拶したが、彼も同じ単語を発していた。祈りの言葉かとも思ったが、教会正式発行の聖書(価格10万コル※支払いは経費)を読んでもそのような単語は登場しない。だが、MYSを高めた近接プレイヤーをアンバサ戦士と呼ぶのは、どうやらリロイとウルベインが発端なのだな、という事は何となくだがラジードにも予想がついた。何でも2人はリロイが聖剣騎士団に属する以前からの付き合いらしく、ウルベインは地道な慈善活動の先に神灰教会と合流を、リロイはディアベルの理想に共感して聖剣騎士団へと属したらしい。

 

「ふぅ、祈りで汗を掻く。これもまた素晴らしいな。早く甲冑の発汗対策が欲しいところだが、この蒸れる汗のニオイもまた神への敬愛の証明ならば、何とも濃厚で芳醇なものよ」

 

 そして変態だ。あるいは狂信者とは等しく変態なのか。同じ道の同志らしいが、より信仰の道を真摯に切り開いていたウルベインの方はまともそうだったのを考えれば、信仰の篤さではなく本人の素質なのだろう、とラジードは無理に目を逸らす。

 

「ラジードよ、お前も祈りを捧げてみろ。我らはたとえ道を違えた敵対組織の間柄であるとしても、教会を守る剣である時は共に神と信徒を守護する仲間だ! さぁ、共に神への愛に身を任せようではないか!」

 

「あ、えと、僕はまだ祈りの言葉を憶えて――」

 

「確かに祈りの言葉は大事だ。だがな、それ以上に重要なのは……『ココ』だ!」

 

 トントンと自分の胸を左手の親指で叩くリロイは、兜の向こうで汗だくのどろどろとした中に爽やかさをもたらすような笑みを浮かべている事を、ラジードは嫌でも感じ取ってしまう。

 逃げられない! ガッチリと汗で蒸れた手甲装備の腕を肩に回され、ステンドグラスに夕陽の光が差し込んで彩色を得た陰を映す聖壇の前に引きずられる。

 ミスティアはどうやら『女性プレイヤーの今を考える会』の申請窓口で友人と出会ったらしく、憂鬱な任務に喜びを得たと言うように意気揚々と出陣した。あちらは街の清掃活動や炊き出しなどがメインである。今頃は皆で食事を取っている頃だろうと思うと、彼女が教会を守る剣に属さないで良かったと涙が出る。

 我が身より恋人の幸せを案じるカレシの鑑のラジードは、聖壇の前で半強制的に跪かされる。

 

「恥ずかしがる事は無い! まずは共に叫ぼう! アンバサァアアアアア!」

 

「あ、あんばさぁああ」

 

「何だ!? その腑抜けた声は何なのだ!? それでは神にお前の言葉は届かんぞ! さぁ、もう1度! アンバサァアアアアア!」

 

「あんばさぁああああ!」

 

「もっと腹から声を出さんかぁ! 仮想世界で酸欠になる事は無いし、喉が切れる事も無い! お前の全てを乗せるのだ!」

 

 助けて、ミスティア! 助けて、クゥリ! 頼りになる恋人と傭兵を思い浮かべるも、ミスティアならば華麗に演技を決め、クゥリならばそもそもこのような場面になる以前に戦略的撤退を済ませているだろうという結論に達し、ラジードはミスティアに判子を押された『単純』という評価を噛み締める。

 

(現実世界に帰ったら勉強に励みます! アルバイトばかりにかまけていた大学生活を見直します! 社会の歯車になるなんて嫌だなんてガキっぽい事は言わないで銀行マンを目指します! だから神様、この危機から御救いください!)

 

 これぞ本当の神への祈りだ。そして、この死と狂気が蔓延した世界に、人の祈りを素直に聞き届ける神などいるとは思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちわーす。客人が来ているぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祈りの間の扉が開かれ、空気の流れが一瞬だけ生まれる。振り返ったラジードは、夕暮れの闇が訪れたせいか、自動的に灯された蝋燭の光に照らされた1人の男だ。煤けたような、静脈の血のような赤色の髪と髭、それに左腕にはアウトローを思わす蒼の入れ墨が彫り込まれている。格好もラフであり、どちらかと言えば傭兵と呼んだ方がずっと様になっているのだろうが、その首には金色の教会を守る剣のシンボルである『竜頭を貫く剣』のペンダントがある。

 

「おうおうおう! お前が太陽の狩猟団から加入要請があった期待のルーキーか! なかなか良い面構えだな! ギャハハハ!」

 

「【主任】、もっと教会を守る剣としての品性を持て。初対面の相手に失礼だぞ」

 

「良いじゃん良いじゃん、リロっち! これから仲良く一緒に教会を守るお仲間じゃーん。だろ、ルーキーくん?」

 

 軽い態度とは裏腹に、ラジードはどうしても主任と呼ばれる男から目が離せなかった。

 逃げたい。今すぐ、ここから逃げたい。生まれた時から備わっていて、戦いの日々でようやく目覚め始めた、人間も他の動物たちと同じで本能を宿していると囁くような、胸の奥底より湧きだす生の渇望。生存本能の声がけたたましく脳髄に響く。

 

「というかここ汗臭くね? キャロり~ん、ファブリーズ持ってきてぇえええ……って、今日はキャロりん不在だったか。失敗失敗」

 

 鼻をつまんで手を団扇のように振っていた主任は、やれやれといった感じでガジガジと頭を掻いた。

 

「期待しているよ、ルーキー。見せてみな、『人間の可能性』って奴をな……っと、そろそろ『バレる』か。本当にあの堅物も監視の目が厳しくなったねぇ。なんとか誤魔化す手段を考えないと。じゃあ、そういう事で!」

 

 一方的に言うだけ言って、まるで嵐のように主任は去っていく。彼の姿が視界から消えて、ようやくラジードは自分が長く呼吸していなかった事に気づく。ここが仮想世界で無ければ酸素が頭に回らず倒れていただろう。

 

「あの人はいったい?」

 

「さぁな。ウルベイン曰く、竜の神騒動の後に入って来た新入りらしいが、教会を守る剣でも最強格であるエドガー神父と互角に亘り合って、あの姿でも加盟を許可されたそうだ。自身もそうだが、この教会に多大な戦力を提供した事から『警備主任』と呼ばれている。もっとも、本人は名も明かさぬ上に独り言が多い変人で、ほとんど教会にいる事もないし、慈善活動にもミサにも参加しないそうだがな」

 

 それって戦力を提供した以外はいる意味が無いのではないだろうか、とラジードは言おうとしたが、恐らく教会でもアンタッチャブルなのだろう主任の事は深く掘り下げるべきではないと言葉を呑み込む。

 

(あれ? でも、あの声、あの雰囲気、何処かで……)

 

 これ程のプレッシャーは無かったが、似たようなものを何処かで、いつか、感じた事がある。だが、思い出そうとしても霞がかかって輪郭も浮かび上がらない。

 だが、何にしても助かった。客人が来たともなれば、ラジードを解放せざるを得ないだろう。リロイは汗のニオイが充満した祈りの間を離れる。ラジードはこれをチャンスとばかりに別れようとするが、リロイがそれを許すはずが無く、客人を待たせている応接室に連行される。

 こじんまりとしていながらも、壁に立てかけられた神灰教会のシンボル、そして天井の簡素なシャンデリアに灯された光が照らし、厳かな雰囲気を持つ応接室に待っていたのは、2人分の影だ。

 

「へへへ、【聖騎士】の旦那。お元気そうでなによりです」

 

 1人は似合わない法衣を纏ったパッチだ。彼の姿を見た瞬間に、大ギルドもまた神灰教会を利用するだけではなく、その不気味さの正体に探りを入れているのだろうということを勘付く。そして、悲しきことにラジードという御人好しの善人から見てもパッチは『捨て駒』にされたと即断でき、その上で哀れみの感情も湧かなかった。

 

「客人とはお前か。教会を守る剣として自覚が芽生え、祈りを捧げに来たのか?」

 

「俺はいつも胸の内で神に祈ってますって。それよりも、今日は紹介したい御方がいるんだ。何でも教会に救われたかなんかで、この教会を守る剣であるパッチ様に低頭低身で自分も加えて欲しいと拝まれましてねぇ。そうなれば、このパッチ様もお布施次第ではって――」

 

「もう良い、退席せよ。『彼』にもらったお布施は経理部に収めろ。後で確認しに行く」

 

 先程までとは異なる、温情もない冷たい物言いでリロイはパッチに言い渡す。ヒクヒクと鼻を痙攣したパッチはそそくさと応接室から逃げ出していく。クゥリに借金の無心ばかりをする屑だとは聞いていたが、真実は噂に勝るというわけか、とラジードはらしくない程に冷淡な眼差しでパッチの背中を見送った。

 

「後で経理部よりお布施は適額を差し引いてお返しする。確かにお布施は信仰の表れであるが、あくまで大事なのは祈りの重さだからな。まったく、あのような詐欺師を教会を守る剣にするとは、エドガー神父も何を考えているのやら」

 

「俺が無理を言って渡したんだ。彼は責めないでもらいたい」

 

 残されたもう1人は、シャンデリアの光が足りないせいか、顔が良く見えない。先に彼に対するようにソファに腰かけたリロイに続き、聖騎士の背後に立ってパッチが連れて来た客人との距離を詰めたラジードはぎょっとした。

 それは全身黒ずくめであり、唇から上をややくすんだ包帯で巻いた青年だった。頭をすっぽりと覆える程の大きめのフードを被っているのは、その異常な姿を隠す為だろう。

 これにはさすがのリロイも言葉を失ったらしく、唖然としている。それを悟ったのか、青年はクツクツと喉を鳴らして笑う。

 

「気にしないでくれ……って言っても無理だよな。これは不治の呪いで抉られた傷を隠す為のものさ。不思議な事に『痛み』が抜けないものでね。こうして包帯を巻いていないと傷が疼くんだ」

 

 不治の呪いと聞いてラジードが思い浮かべたのは、左目を常に眼帯や止血包帯で隠すクゥリだ。彼は他でもない病み村の戦いでカークより呪い攻撃を受け、その左目を欠損してしたまま再生できなくなってしまったのだ。今は義眼などで補っているようだが、それでも常に片側の視界が失われているので、その戦闘能力に大きな陰りを与えているというのが多勢の分析である。逆に言えば、彼がその左目を取り戻せば、今以上の脅威となると恐れられている。

 

「この傷のせいでギルドからも追い出されてしまったんだ。こんな世界で独りでは生きていけない。落ちぶれていくしかない。そんな時に神灰教会の人に優しくして貰って、神への祈りの尊さを教えてもらったんだ。だから、こんな醜い俺でも教会を守る剣として……」

 

 包帯で隠されているが、輪郭などから結構な美形だろう、とラジードは推測する。ならば、尚更その顔に醜い傷が刻まれたとなれば周囲の目も大きく変わったに違いない。リロイもラジードのように同情の念を抱いたらしく、鼻を鳴らし、兜の隙間から早くも涙をあふれさせる号泣だ。

 

「友よ! もう苦しむ必要はないのだ! これから教会が! 教会を守る剣の仲間が! キミの居場所となるだろう!」

 

 がっしりと黒づくめの手を握りしめ、リロイが熱弁する。本当に、どうしてこんな狂信者が戦闘の時はあれ程までにクールな男になるのだろうか。しかも、兜を取ったらバーのマスターが似合うようなダンディなおじさまというのも間違っている。

 どうやらリロイの反応に黒づくめも驚いているようで、ぶんぶんと振られる手もされるがままだ。この辺りでストップを入れるべきだろうとラジードは咳き込む。

 

「僕はラジード。今日から入った新米だけど、キミと同じ教会を守る剣だ。リロイさんの言葉を借りれば、外ではどんな立場であろうとも、教会内では同じ教会を守る剣の仲間だ」

 

「噂は知っているよ。【若狼】だっけ?」

 

「まだ慣れないけどね」

 

 竜の神の1件と武者修行のソロのお陰か、ラジードは最近になって【若狼】と呼ばれているらしい。要は『若さ故の無鉄砲で強い1匹狼野郎』という皮肉から派生した2つ名である。

 しかし、こうして2つ名がつくのも【黒の剣士】のような英雄が生まれる事にあやかっての事だろうと思うと悪い気分ではない。2つ名など恥ずかしいばかりだと思っていたが、付けばこれはこれで微かな特別感が出てこそばゆくも嬉しいものである。

 

(【黒の剣士】、【閃光】、【竜の聖女】、【戦斧】、【赤武者】か。SAOは凄いよなぁ。最後まで諦めずに、内輪揉めも無く攻略し続けたんだから)

 

 今でもSAO時代を知るリターナーがたまに零すアインクラッドの物語。彼らがどれだけ強かったかを語るのは、多大に美談になっているかもしれないが、100層攻略という絶望的な目標を成し遂げた彼らは、間違いなく英雄だ。

 そして、彼らを影で支えた【鼠】、殺人鬼としての汚名を持つ傭兵【渡り鳥】。いずれも2つ名がつくのは、彼らが単なるプレイヤーではなく、善悪関係なく『特別』だったからだろう。あるいは『例外』か。

 

「それで、名前を教えてもらいたいんだけど……」

 

 こちらの事は知られていても無理はない。ラジードもそれなりに名が売れ、リロイは言わずと知れた円卓の騎士だ。だが、素顔を隠した黒づくめは、たとえ上位プレイヤー級だとしてもこちらからは見当がつかない。

 

「ああ、そうだな。俺はキ――」

 

「「キ?」」

 

 そこで、何故か黒づくめはわざとらしくゴホゴホと時間を稼ぐように無理矢理咳を差し込むも、DBOでも善人ランクTOP10に入るだろうラジードとリロイは露とも疑わずに、『仮想世界でも咳き込む事って何故かよくあるよね』という感想を抱くのだった。

 

「――キアヌだ」

 

 仮想世界といえば、やっぱりあの俳優だもんなぁ、とラジードはすっかり古典になったVFX革命を起こした仮想世界がテーマの映画を思い出して納得した。ちなみに彼の場合は当時中東の紛争ニュースを聞いていた時に、なんか中東っぽい名前ってカッコイイよねという安直な結果である。こうしてデスゲーム化して現実世界と同じ外観になった今は、無駄にネタに走った名前にしなくて良かったと過去の自分に感謝した。

 

「うむ、教会を守る剣に相応しい名だな! キアヌよ、共に教会を守り抜こう! ところで、武器は何を使うのかな?」

 

「片手剣がメインさ。『彼』の伝説にあやかって二刀流を目指しててね。完成度はとても及ばないけど、実戦ではそこそこ使える」

 

 DBOでも【黒の剣士】2号になろうと初期から無謀にも二刀流で挑んだプレイヤーが多くいたが、いずれも手痛い目に遭うか、才能の無さに気づいて挫折するか、死ぬかのいずれかの運命を辿った。だが、中には二刀流技術を確かに物にしているプレイヤーもいる。また、流れこそ違うが、傭兵や上位プレイヤーは左右に違う武器を持ち、同時に運用する攻撃過多なスタイルが少数ながらも存在する。そうなると左右に武器を持つというのはDBOにおいて火力を手にする上での必然なのだろう。

 そして、そう考察するラジードも二刀流に憧れを抱くプレイヤーの1人だ。特に【聖域の英雄】のようにスキルとしての≪二刀流≫には男として羨ましい。

 やはりユニークスキルは浪漫だ。しかもDBOでは実用性がある。ユージーンの持つ≪剛覇剣≫もエンチャント型で≪二刀流≫とは違う浪漫が詰まっている。敵対すれば恐ろしいが、ヒーローに心が奪われるようなものなので憧れを止めることはできない。

 

「ふむ、そうなると仮に【聖域の英雄】が教会を守る剣になってくれれば、ダブル二刀流使いとなるわけだな」

 

「そんな事あるわけないと思いますけどね」

 

「ははは。冗談だ」

 

 ラジードのツッコミに、リロイもそんな事があるはずがないと頷く。【聖域の英雄】は傭兵であり、ラストサンクチュアリの守護神なのだ。これで教会を守る剣にでもなったら過労で死んでしまう。

 

「ああ、そんな事あるはずもないさ」

 

 と、そこで何故かキアヌは意味深な微笑を浮かべる。同時に首を傾げるリロイとラジードだが、話を進めたいらしいキアヌを前に疑問を呑み込んだ。

 

「それで、具体的に俺はどうしたら良いんだ? 教会を守る剣としての活動方針もそうだけど、ギルドを追い出されてからは生活も厳しくて、武器も使い古ししか残っていないんだ」

 

「それはいかんな。良し、今日はもう遅いので、明日にラジードと共に工房を案内するとしよう。神灰教会が誇る武器の数々に度肝を抜くが良い!」

 

「……へぇ、それは気になるな。こう見えても武器には目が無いんでね」

 

 ミュウから渡された資料に教会の武器はいずれも癖があると記載されていた事を思い出し、興味を示すキアヌに同意するようにラジードは胸を高鳴らせる。

 

「さて、明日は工房に行くのだから、2人には今日中に祈りの言葉を暗記してもらうぞ」

 

「「うぇ!?」」

 

 同時にラジードとキアヌは悲鳴にも近い声を上げる。あの長々とした祈りの言葉を一晩で暗記できるとは、とてもではないが、高校時代に英単語テストの度に休み時間まで単語帳を開いて粘っていたラジードにできるとは思えない。

 そして眠れぬ悪夢が始まった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 疲れた。慣れない慈善活動にシノンはすっかりと疲弊し、割り当てられた部屋にたどり着くと同時にベッドへとダイブする。簡素であり、ふかふかとは程遠いが、質は決して悪くないベッドに、これならば安眠できそうだ、と息を漏らす。

 残念ながら≪料理≫を持たないシノンは炊き出しや夕食の手伝いができず、ひたすらに掃除や片付けに終始したのだが、どうやら女性プレイヤーは≪料理≫を持っている事が半ば必須だったという真実を知り、思わず空白のままのレベル60で解放された新スキル枠の1つを≪料理≫で埋めそうになった。それを堪えたのは、今後の傭兵業を成す為にヘンリクセンから譲り受けた義手の重みである。

 女子力が足りないのは理解していたが、周囲の残念な人を見るような目にはさすがにダメージが大きかった。

 

(レベル60は無理でも、レベル80になったら絶対に≪料理≫を取るわ。取ってやるわ)

 

 これでも≪演奏≫と≪作曲≫というフレーバースキルをしっかりと持ち、休日には作曲活動に勤しむシノンは、現実世界のスキルをそのまま持ち込めば、総合女子力に関してはなかなかに高いのであるが、残念ながらDBOはスキルを入手していない限りはスープ1つでもゲロを吐く程に不味くなってしまう。

 

「すっかりお疲れですね」

 

 ベッドの枕を抱えたまま眠りにつきそうになったシノンを繋ぎ止めたのは、相室の金髪ポニーテールの少女の声である。幾らデスゲームに慣れて来たとはいえ、見ず知らずの相手と同部屋なのはどうしても緊張して寝つけない。そこで、各ベッドには【警蝶の赤ランプ】が取り付けられている。これを点灯しておくとプレイヤーの接近を感知すると奇跡のフォースのような物が自動で発動する。更に夕食には隠密ボーナスを下げる薬品も混ぜられているらしく、≪気配遮断≫の熟練度が高くとも警蝶の赤ランプの索敵を逃れることはほぼ不可能だ。

 逆に言えば、この事実を食後に知った為に、マユの探索に夜中寝静まった頃に乗り出す予定だったシノンは計画を変更せざるを得なかった。隠密ボーナスを高めるアイテムで相殺しようにも、元より誓約も合わせて隠密ボーナスが高いシノンは不要と判断して持ち込んでいない。

 お前って傭兵として詰め甘くない? 何で潜入で隠密ボーナス軽視しちゃってるの? 何処かの白い傭兵と煙草傭兵の冷たい眼差しの幻覚に、今回は油断しただけだと必死になってシノンは言い訳する。断じてカレーが美味し過ぎて3杯も大盛でお替わりした結果、隠密ボーナスがほとんどゼロになっている事を隠している訳ではないのだ!

 

「でも、まさかあの【魔弾の山猫】と相室なんて、あたし緊張しちゃうなぁ」

 

 目をキラキラさせる金髪ポニーテールの少女は、髪を結うリボンを解くと、支給された寝間着に着替える。支給法衣と同じく白を基調とした簡素なものであるが、彼女の肥大な胸部のせいか、妖艶に映るのは衣服とは着る者によってどうにでも左右されるという証左だろう。

 

(……デカい)

 

 そして、こんな感想を無意識に抱いてしまった自分は、傭兵という野郎&野郎&野郎の世界にどっぷり漬かりきってしまったからなのだとシノンは誰にでもなく弁解する。

 

「竜の神の話は聞いてます。当時はあたしも終わりつつある街にいましたけど、本当に怖かったです。あんな怪物がもしも街を襲ってたら、きっとたくさんの人が死んでました。シノンさんのお陰です」

 

「照れるわね。でも、実際に救ったのは【聖域の英雄】よ。私は雀の涙にもならないサポートをしただけ。お陰でこの様よ」

 

 寝間着になったお陰でより目立つように垂れ下がる左袖を振り、シノンは以前とは違う、義手という未来がある明るさ滲む苦笑をする。だが、それが分かる金髪少女ではなく、心配そうに眉を曲げる。

 

「あたしのギルドのリーダーってレアな奇跡も持っているヒーラーなんです。もしも呪いの類なら――」

 

「レベル3の呪いなのよ。解呪の手段は大ギルドも今以って分かっていないわ。それに解決案もあるから心配しないで」

 

「そうですか。余計な事言ってすみません」

 

「心遣いは感謝するわ。ありがとう」

 

 そう言って、金髪少女とシノンは笑い合う。思えば、同年代の同性と話をするのは久方ぶりだった。シノンもどれだけクールを装っていても女性だ。男性ばかりの傭兵業界に身を置けば、自然と警戒心も高まる。心の奥で同性であるが故の安堵を覚えている自分を自覚し、シノンはもう少し肩の力を抜くかと、危険そうではない金髪少女への警戒心を下げた。

 と、そこで何故か金髪少女は髪のプラグインを変更する。それは黒髪のショートカットであり、ガラリと彼女の雰囲気を変えた。

 

「……この世界はとても『生きてる』って実感があるから、だから『帰るべき場所』を忘れたくないんです」

 

 ああ、そういう事か。シノンは何となくだが、少女が髪型と彩色を変更した意味を理解する。恐らく、これこそが現実世界にログインした時の、現実世界に残した肉体の姿なのだ。あの金髪ポニーテールの姿は、きっとDBOという世界を生きる上での『アバター』なのだ。

 シノンは限りなくGGOのシノンに近しい姿を維持する事を選んだ。GGOで戦い続けた経験を、仮想世界に追い求めた『強さ』という目的を忘れない為だ。何よりも、『シノン』という存在と自分を深く重ねる事こそが生きる為に不可欠だったからだ。

 だが、彼女は『忘れない』事を選んだ。たとえ、それが弱さを再起させる行為だとしても、『アバター』から受け継ぐ力と現実世界に残した『自分』を区分しながら生きていく事を選んだのだ。

 どちらが正しいというものではない。どちらを選んだとしてもシノンはこの世界では『シノン』なのだ。現実世界に残した本名よりも深く魂に刻み込まれた名前こそが、この世界での名前なのだ。

 VRゲームにはハッキリとした傾向が現れる。ランダム制を無視すれば、自分と似たアバターを作成するか、それとも全く異なるアバターを作成するか、だ。

 GGOのシノンとDBOのシノンは同じアバターを使用した。アバターのコンバートが認可されていた事もあるが、それ以上に『シノン』と『朝田志乃』は全く同じで無くともそれなりに似ていたからだ。それは偶然であり、必然でもあっただろう。髪型と色彩を合わさっていれば、朝田志乃の外観があっても『シノン』とほとんど同じになるのことができた。そうすれば表情が顔つきを変えていく。それは『シノン』へと彼女をより近づけ、溶け合わせ、1つにしていった。

 元よりシノンは仮想世界と現実世界、アバターと本物の肉体にそこまで区分を求めていなかった。だからこそ、シノンと溶け合う事に拒絶反応も無かった。だが、彼女は違うのだろう。現実世界と仮想世界をハッキリと区分させておきたいのだろう。

 

(自分以外の自分になんてなれない。それが答えよ)

 

 変わるとか変わらないとかではない。常に真実の姿は1つなのだ。それを自覚するか否かだ。シノンとは朝田志乃であり、朝田志乃とはシノンなのだ。それ以上の理屈などシノンには不要である。本質とはそういうものだ。

 

「さてと、始めないと」

 

 そう言って少女はアイテムストレージから小さなエメラルドグリーン色のバッグを取り出す。そこから取り出したのは裁縫道具だ。フレーバースキルの≪裁縫≫は、より高度なデザインを行う為のフレーバースキルだ。≪鍛冶≫などでも防具を作成する際にデザインを決定できるが、細部までこだわる場合には≪裁縫≫を使用せねばならないし、デザインの質がまるで異なるので、有名な鍛冶屋でも最終的な仕上げを≪裁縫≫専門家に任す事も多い。

 少女が縫い始めたのは、オブジェクト作成されているだろう人形だ。そこに丁寧にフリーモードで糸を縫い込んでいく。画面によるデザインモードで作成するのではなく、手作業を好むらしく、シノンも惚れ惚れする程に華麗に糸を縫い込んでいく。

 

「人形作りが趣味なの?」

 

「手持無沙汰なのが嫌で始めたら嵌まっちゃったんです。お兄ちゃんのお見舞いしていたら、見守るしかできなかった自分が嫌になって、誤魔化すのに始めてたらすっかり癖になっちゃって」

 

 家族が病人なのか、とシノンは同情の言葉を述べそうになって呑み込む。自分がそんな言葉を聞かされたならば不愉快である。余計な同情は不和を生むものだ。ならば、彼女が見ず知らずの自分に語ってくれた真実を素直に受け入れるだけだ。

 そうして彼女が縫い上げていくのは、デフォルメ化された男の子の人形だ。ほっぺは可愛らしく赤であり、黒髪で黒い服を着ている。

 

「へぇ、可愛いわね」

 

「お兄ちゃんがモデルなんです。本物そっくりも作りたいんですけど、どうしても可愛くしか作れなくて」

 

 どうやら彼女は相当なお兄ちゃんっ子のようだ。やや熱っぽい視線で完成した人形を親指で撫でる少女に、1人っ子の自分には分からない兄妹の絆なのだろう、とシノンは寂しく思う。

 

(……ん? だけど、この人形、何処かで見たことがあるような)

 

 それもごく最近に、妙なくらいによく視界に入れているような気がする。だが、どうにも思い出せず、シノンは思考を放棄した。

 だからだろう。『それ』を見た瞬間に衝撃を受ける事も無く受け流すことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女が出来上がった人形をバッグに入れた時、その中には今にも零れそうな程に同じ黒づくめのキャラクターの人形が押し込められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼとぼと、と。

 ぼとぼと、と。

 ぼとぼと、と。溢れる。まるでファスナーという縫い目が破れて、臓物から溢れだしているかのように、黒い人形がバッグから零れていく。

 

「……ねぇ、シノンさん。噂ですよ? あくまで『噂』ですよ? あの【聖域の英雄】と協働したのは、個人的に仲が良いからなんじゃないか、って聞いたんですけど、本当ですか?」

 

 あれぇ? おかしいなぁ? 黒髪のショートカットのはずなのに、顔を下げた彼女の顔が良く見えないわぁ? ダラダラとシノンは汗を垂らしながら、いつの間にか隣に移動していた少女に、そっと右手の甲に手を重ねられる。

 

「傭兵業界は狭いわ。私は遠距離からの援護が得意だから、彼とは連携上相性が――」

 

「『男女』の相性が?」

 

「だ、男女の相性じゃないわよ!?」

 

「だったら『体』の? やっぱり傭兵だから戦いで火照った体を持て余して――」

 

「だから違うわ! それって傭兵への偏見よ!?」

 

 ガタガタと震えながら、シノンは先程まで安息を得られる同性の空間と思っていた寝室が、その実は肉食獣の檻だったのではないかと考え始める。だが、それを深く追究してはならないという脳内会議の満場一致により、眼前の『脅威』に対してどう対処するかに努める事にした。

 

「シノンさん、嘘ってどんな意味があると思います? あたしはね、何を隠しているかではなく、隠そうとする行為に意味があると思うんです。だから、あたしは『暴かない』。『触れない』。『知らないフリ』をするのが愛の証明だと思うんです。だって、隠す事には何か意味があるはずだから」

 

 ゆっくりと少女は顔をあげていく。そこには魅力的な、それこそ世の男を纏めて骨抜きにするような笑顔があった。

 

「竜の神との戦いについて教えてもらえますか? もちろん『シノンさんが話せる範囲』で構いません。あたし、凄い興味があるんです。【聖域の英雄】の物語に……ね」

 

 助けなさいよぉ! シノンは涙目で、3人部屋の寝室で、早くも眠りにつこうとするもう1人の相室仲間に助けを求めるように視線で縋る。

 

「う~ん、ぱぁぱぁ……まぁまぁ……あいたいよぉ……」

 

 完全に良い子のお休みタイムじゃない! しかも凄い可愛い顔で無駄なくらいに可愛い寝言を漏らしてる!? というか、あの黒髪眼帯ってもしかして噂の!? シノンが聖剣騎士団最大の謎に触れようとする間もなく、少女の指が手の甲を撫でて背筋を冷たくする。

 大丈夫よ。あなたの『正体』は絶対に明かさないから。もはや雨の中で震える猫同然のシノンは竜の神との戦いについてぼそぼそと語り始めた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「第12回、愛を語らう会を始めます」

 

「はい、師匠!」

 

「……うん?」

 

 話が読めない。支給された寝間着に着替え、明日はどうやって神灰教会に探りを入れようかと、『女性プレイヤーの今を考える会』の日程カリキュラムを見て、明後日の夜に控えたミサの補佐に申請を出せば、教会内をある程度は自由に歩けることから、倍率が高そうだが、これを選ぶのが1番だろうと計画を練っていた時だった。突如として、相室のツインテール少女のシーラの号令が響いたのである。

 

(≪演奏≫さえあれば聖歌隊の演奏で深く潜り込めるんだけど、こういう時にフレーバースキルの有無って大きく左右するよね。だからといって、聖歌隊は正式な修道会のメンバーだけしか参加が許されないみたいだし、少し策を考えないと)

 

 そもそもボスはどうして神灰教会に探りを入れたがっているのか、という根本的な意図が見えない以上は、何処から調査すれば良いのかも分からない。レグライドにメールを飛ばして尋ねてみたが、『適当にやれば良いんですよぉ、適当に』という返答だった。

 適当とは1番の難題だ。手ぶらで帰ってボスに微妙な顔をされるのも癪である。だからと言って、ユウキのスキル構成は探索・調査特化ではないので限界がある。

 

「はいはい、ユウキさん。まずはお菓子を広げてお茶の準備をしましょう。こういう時に仮想世界って良いですよね。寝る前にお菓子を食べても太る心配がありませんから」

 

 だが、ユウキが必死に目の前の現実から目を背けてプランを練るという策も通じず、シーラは彼女の肩をがっしりつかみ、3つの並んだベッド、その中心であるシーラのベッドに可愛らしい竜の柄が描かれた風呂敷を広げ、瞬く間に真夜中のティータイムの準備を始める。

 

「シーラちゃん特製ハーブティですよ。選別に選別を重ねたスペシャルブレンドの1品物です」

 

「あ、凄い良い香り」

 

「さすが師匠ですね」

 

「いえいえ、ミスティアさんのクッキーもなかなか。もうお菓子作りは超えられてしまったかもしれませんね。ふふ、湯煎も知らなったミスティアさんがここまで急成長するとは想像もしていませんでした」

 

 風呂敷と同じように竜が描かれたティーセットで、3人分のハーブティを注いだシーラに渡された、ほんのりと緑の中に金の粒子が踊る、仮想世界だからこそあり得るのだろう不思議な色合いをしたハーブティは、彼女の自信通り、ユウキがこれまで味わったことがない程に優しく、心身の疲れを癒してくれるものだ。この1杯の為に、シーラが並々ならぬ努力を重ねているだろう事が分かる。

 そして、クッキーもテツヤンの店に並べても遜色が無い味わいだ。サッパリとした甘みはしつこくなく、だがお茶を飲みたくなる程度には菓子の本分を忘れていない。まさしく理想的なクッキーである。欲を言えばバタークッキーではなくチョコチップクッキーが欲しい所であるが、そもそもユウキは自身がそこまで≪料理≫を極めようとしていない事に女子力の差を感じる。

 

(いつもブレンド渡してたけど、色気が無いよね。やっぱりクーもお菓子とかもらった方が嬉しいのかな?)

 

 素材をごちゃ混ぜにしたブレンドを山ほど作っては処分に困ってクゥリに渡していたが、今にして思えば迷惑だったのではないだろうか。そして、自身の恋心を自覚したユウキは、そうした自分の意味不明な行動も、少しでも彼と接点が持ちたいという無意識の動機づけだったと悟って頬がほんのり赤くなる。

 

「ユウキさんは何か持ってないんですか?」

 

「えーと、えーと……コレくらいかな」

 

 さすがに自分だけ何も出さないのは恥ずかしい、という事で、シーラに促されるままに、ユウキが取り出したのは白くゴツゴツとした砂糖菓子だ。普段からユウキが持ち歩いている自作の携帯食料である。

 

「金平糖?」

 

 不思議そうにミスティアが砂糖菓子を手に取り、口に放り込むと咳き込む。

 

「う~ん、ちょっと甘過ぎですね。余程の甘党じゃないと毒物です」

 

「ボク専用だからね。甘過ぎる方が戦っている時に力が沸くんだ」

 

 ユウキからしても甘過ぎるので常食にしたくはないくらいだ。ハーブティで口内を洗浄するミスティアはもう砂糖菓子に手を付けず、シーラも触れようともしない。

 

「さて、そろそろ本題に入りましょう。今日は新たにユウキさんを加えたという事もありますので、初心に帰りましょう。題して『GMB!』です」

 

 意味不明だ。唖然とするユウキを尻目に、自信満々そうに見本を見せると言わんばかりにシーラが平たい胸を張る。

 

「私と『彼』の出会いはとても劇的でした。当時の私は傲慢で、無謀で、無知でした。それが大切な友達を失う結果になったのですが、彼は絶体絶命の私を救ってくれたんです。そして、友達と再会する為に尽力してくれました。ですが、そこに現れたのは非道なる悪党!」

 

「師匠、長いです」

 

「これは失礼しました。つまり、私と『彼』の出会いは映画のヒーローとヒロインのようなロマン溢れるものだったんです。はい、では次にミスティアさん」

 

 なるほど、Girl Meets Boyの略……つまり自分の想い人との出会いを語れば良いのか、とユウキは理解するも、考えてみればクゥリとの出会いはとてもではないが他人に聞かせられるようなものではない。だからと言って嘘を吐けば見抜かれそうで、ユウキは悩んで唸る。

 

「アタシと『彼』はダンジョンで出会いました。彼は期待されていないルーキー。当時のアタシは慣れない指揮で疲れ切っていて、しかもダンジョンに取り残されて、救援が来るのを待つしかない自分の弱さを噛み締めていました。だから、つい『彼』に甘えちゃったんです。でも――」

 

「ミスティアさん、長いです」

 

「す、すみません、師匠! えへへ、省くと、アタシにとって『彼』は王子様だったんです」

 

 名前を言ってはならないルールがあるのだろうか。だとするならば好都合だ、とユウキは小さくガッツポーズを握る。ユウキはまるで気にしていないが、【渡り鳥】といえばジェノサイド・モンスター、人の命を何とも思わない殺人狂、あんな綺麗で可愛い子が(以下略)という扱いなのである。

 というよりも、ボクって完全に場の雰囲気に流されている? こんな『ゲーム』に参加する必要なんてないのに。だが、ユウキも女の子だ。ガールズトークの花形である恋愛話に興味が無いわけではない。

 

「う~ん、ボクと『彼』の出会いは……デュエルかな? ボクからデュエルを仕掛けて、危うく殺し合いになりそうになった。それでおしまい」

 

「イカれていますね」

 

 思わずシーラが1秒未満の高速ツッコミを入れるのも仕方ないだろう。ミスティアも何と言えば良いのか分からない顔をしている。

 

「仕方ないよ! だって……一目惚れだったんだもん」

 

「一目惚れでデュエルに発展する経緯が分かりませんけど、今は仲が良いですか?」

 

「うん、それなりにね」

 

 ミスティアのおずおずとした質問に、仲が良いとは言ったが、置いてけぼりにされた事実を思い出してユウキはうな垂れる。

 

「まぁ、人の出会いなんて千差万別。星の数だけあります。ですが、大事なのは運命を感じたら手放さない事です。次のチャンスがある? 甘いです。この砂糖菓子くらいに甘いです。運命は想い人にも同じ数だけあるんです。つ・ま・り! 私達が油断すればお星さまはあっさりと別の誰かの網に引っ掛かってしまいます」

 

「分かります! ラジードくんもここ最近有名になってきて、毎日のようにラブレターが届けられてるんです!」

 

 あ、名前を明かした。『ゲーム』は終わりという事なのか、それともミスティアがヒートアップしてルールを破ったのか、どちらにしてもシーラはそれを責める様子は無いのでセーフのようだ。

 ユウキもミスティアとラジードの噂は聞いている。特にラジードはここ最近で急激に存在感を増し、今では太陽の狩猟団でも上位の猛者だ。特大剣と両手剣を使い分ける巧妙な戦闘スタイルには定評があり、双剣型の片手剣による連撃は【黒の剣士】を彷彿させるとまで言われている。ユウキも彼と戦うような事があれば、一筋縄ではいかないだろうと警戒している相手だ。

 

「だから毎朝・毎夕に『ゴミ処分』するのが大変です。でも、ラジードくんって真面目だから、きっと毎回のように悩んで律儀に対応するだろうから、アタシが頑張って守ってあげないと!」

 

 ……あれ? 今何かとても不穏なワードが聞こえなかっただろうか? 途端に楽しいガールズトークにどろどろとした石油が流れ込んで来たかのような雰囲気を察し、ユウキはガジガジと両手で握るクッキーを口に入れて精神安定を図る。

 可愛らしくガッツポーズをするミスティアに共感するように、水平線のような胸の前で腕を組むシーラは数度頷いた。

 

「まったくです。ちょっと有名になったら、それに群がる『虫』の何たる数の多さか。ですけど、ラジードさんはちょっと子供っぽい顔してますけど――」

 

「そうなんです! だからこそ、笑ったら可愛過ぎて! はふぅ、でも、子どもっぽいせいか、ラジードくんって少し……ううん、かなり奥手なんです。それが悩みで。この前も団長のセッティングで良い雰囲気のホテルで1泊したんですけど、キスだけ! キスだけなんですよ!? 同じベッドにいるのに!?」

 

「据え膳を食べないとか男として終わってますね。でも、ラジードさんだって女性と付き合うのは初めてではないのでしょう? そうなると、やっぱりミスティアさんは美人ですし、有名過ぎて、自分はまだ釣り合わないという強迫観念があるのかもしれませんね」

 

 上手く修正されてきた。脳内にある深淵の闇のブラックホールから命綱無しでロッククライミングして這いあがって来た司令官ユウキが、自分に絡みつく闇の蔦を剣で振り払い、まだまだ負けぬと鼻を鳴らす。

 

「やっぱり、アタシって魅力が無いんでしょうか? もっとセクシーな下着で誘惑すべきだったんでしょうか?」

 

「無軌道にエロに走るのは逆効果です。ミスティアさんの魅力はその清楚さにあるエロさ! 実に不愉快……実に不愉快ですが! ラジードさんは巨乳派と見て間違いありません。ミスティアさんには無自覚エロという強みがあると私は思いますので、このまま行けば遅くとも2ヶ月以内に陥落するでしょう」

 

「む、無自覚エロ……ですか?」

 

 戸惑うミスティアは、膝の上で両手の指を擦り合わせる。それが結果的に腕で胸部を挟む形となり、衣服のせいか余り目立っていなかった山岳部を強調させる。

 こ、これが無自覚エロ!? 雷撃を受けたユウキはペタペタと自分の胸に触れ、ホロリと涙を流す。仕方ないではないか。闘病生活が長かったのだ。栄養が胸部に回る余裕が無かったのだ。

 

「ですが、不味いですね。ラジードさんは奥手ですが、決してこれまで恋愛関係を持った女性がいなかったわけではありません。エロに耐性が無いわけではないんです。そういう奥手は……自覚あるエロを強みとする『虫』のアタックに弱い。そして『関係』を持ってしまえば、誠実性がある故に『関係』という事実を重視してしまいます」

 

「そ、そんな!?」

 

「ご安心ください。まだミスティアさんには早いと思っていましたが、『コレ』を渡しておきましょう」

 

 そう言ってシーラがアイテムストレージから取り出したのは、怪しげな赤色をした液体で満ちた小瓶だ。手のひらに収まる程度であるそれに、ユウキは言いしれない恐怖心を抱く。

 不思議そうに受け取った小瓶を見つめていたミスティアに、シーラは『にっこり』と笑う。

 

「攻撃力アップのバフをもたらすアイテムには、プレイヤーに細やかですが興奮作用をもたらす物があります。それをベースにして、私が≪薬品調合≫で各種アイテムを調合して作り上げた興奮剤です。効果はすでに『彼』で実証済みです」

 

 ……それって麻薬系アイテムが過分に含まれているのでは? ユウキは薬の正体をぼんやりと勘付き、顔を真っ赤にする。たまにレグライドが娼館に赴く時に、鼻歌交じりで呆れるマクスウェルから似たような薬品を受け取っていた事を思い出す。

 

「だ、駄目だよ! そんな薬に頼っちゃ駄目!」

 

 思わず声を荒げてユウキはミスティアの手から薬を奪い取る。

 

「その、ボク……こういう物に頼っちゃ駄目だと思う! 今は良くても、絶対に後悔するよ!」

 

 後悔をしない人生なんてない。だが、後悔すると分かっていて選択と行動をするのは愚かだ。ユウキはそう信じて小瓶を握り潰そうとする。

 

「ふふふ、ユウキさんは純情ですね。ですが、『甘い』」

 

 だが、シーラはひょいっとユウキの手から小瓶を取り上げる。くるくると宙を舞わせるとキャッチし、その可愛らしい桃色の唇でガラス瓶にキスをした。

 

「確かに、こういった物に頼るのは愚かです。ですが、別に相手の意思を支配するわけではありません。あくまで少しだけ背中を押してあげるだけです。それに使い方も人それぞれです。あえて薬の正体を明かした上で飲ませるというのも1つの使い方でしょう。私だって『彼』には教えてから飲ませました」

 

 椅子に縛り付けてからですけど、と最後に小声でシーラがそう付け加えたのをユウキは耳にする事が出来なかった。

 双方の同意があるならば、確かに自由意思に基づいた使用だろう。だが、それでも薬に頼るのは何か間違っていると思うのはユウキの感覚がズレているからなのだろうか。いつの間にか、シーラはユウキの背後に回り込み、その耳元で囁く。

 

「それに『虫』はこんな薬なんて可愛らしいくらいの『外道』に頼ることも躊躇いませんよ? あなたの想い人にも、もしかしたら既に――」

 

「…………っ!」

 

 そうだ。ユウキは犯罪ギルドとして『外道』を常に見ている。ボスは裏の世界にも一定の秩序をもたらしたが、それ以前は酷いものだった。犯罪ギルド同士が争い合い、秩序なく麻薬系アイテムをばら撒き、いつ『討伐』されてもおかしくない位にモラルの欠如が蔓延していた。

 だが、ボスは全てを変えた。圧倒的な力で、マクスウェルやレグライド、ユウキといったDBOでも最高クラスの戦力で逆らう者を黙らせ、自分の秩序への挑戦者を『粛清』した。

 今でも麻薬系アイテムが流通しているが、それらは全てチェーングレイヴによって管理されている。

 

『欲しいヤツには売れば良い。全ては自業自得だ。だがな、無秩序に、病原菌みたいにばら撒く先にあるのは破滅だ』

 

 どうして麻薬系アイテムを根絶せずに、麻薬系アイテムを売る元締めをしているのかと問われ、ボスはそう答えた。たとえ、今ここで自分達が全ての販売・製造ルートを壊滅させたとしても、必ず何処かから新たに芽吹く。ならば、最初から管理した方が何倍も効率が良い。そして、そうした裏の世界に自ら手を伸ばすような輩に情けなど無用だ。

 悪には悪の存在意義がある。たとえ、醜く罵られようとも、混沌を制する支配者が必要なのだ。ボスはそれこそが自分だと宣言し、実際に力を示した。そして、それすらもチェーングレイヴの『真の目的』を達成する為の隠れ蓑だ。

 

『来い、ユウキ。テメェの目的なんて微塵も興味は無い。だが、俺の目指す道の先に【黒の剣士】は必ず立ち塞がる』

 

 広いDBOの世界で、どうやって【黒の剣士】を探そうかと彷徨い、夜道で襲い掛かって来た犯罪プレイヤー3人を躊躇いなく斬殺したユウキに、ボスは手を差し伸べた。

 

「それにミスティアさんとラジードさんは元より両想い。ただラジードさんがヘタレなだけです」

 

 続いたシーラの言葉がユウキを我に返らせた。何にしても、こんな薬に頼るのは間違っているはずだ。ユウキはもう1度それを主張しようとする。

 

「で、でも――」

 

「では言い方を変えましょう。結婚指輪も立派な『物』です。だけど、より綺麗で、より高価な指輪であればある程に、私達の胸は高鳴ると思いませんか? それも立派なドーピングです」

 

 それは違う! 否定したいはずなのに、そっと喉に這って来たシーラの指がユウキの反論を優しく抱擁するように呑み込んでいく。

 

「私も『こんな物』は必要ないと思います。本心からそう思います。コレを渡すのも、ミスティアさん達の関係がより発展した頃に、ちょっとした刺激が必要な時に渡すつもりでした。でも、『虫』は甘いニオイに寄って来るものです。そして、『虫』は宿主を喰らい尽す」

 

 クスクス、とシーラの甘い笑い声が脳髄に染み込んでいく。司令官ユウキが奮闘し、何とか耐えろと叫んでいる。

 

「ボクは……ボクは……」

 

 と、そこでシーラはユウキから離れ、元の自分の場所に戻って腰を下ろし、風呂敷の上に置かれたティーカップを手に取る。

 

「……なーんて、冗談ですよ」

 

「「え?」」

 

「確かに興奮作用はありますが、教えないと自覚できない位に効果は低いんです。大半はプラシーボですよ。本当の効果は、少し頭をリラックスにさせて、お互いの本音を話し易くさせるくらいです。襲わせるならお酒を飲ませた方が100倍効率的ですよ」

 

「な、なーんだ。もう、シーラは演技が上手過ぎだよぉ!」

 

 ホッとして、それもそうかとユウキは安堵する。確かにマクスウェルは『そうした薬』を作れると噂されているが、あくまで噂だ。

 

「ですから、これは『そういう選択肢もある』という意味でミスティアさんに渡しておきます」

 

「肝に銘じます、師匠!」

 

 うん、これで一件落着だ。安心するユウキであるが、結果としてシーラの提案通りにミスティアへと薬が渡っているという『結果』を完全に見落としているのはご愛嬌というものだろう。

 そして、シーラの言葉の何処に真実と嘘の境界線があるのかもまた薬が実際に使われるまで分からないのである。

 

「さて、では恋バナの続きをしましょう。他人の惚気も自分が恋する乙女なら良薬です」

 

 唇に人差し指を触れ、シーラはウインクする。自分の可愛さの引き出し方を熟知した姿に、ユウキは自分も真似しようとして、どうせ似合わないだろうと諦めた。

 

 そうして夜は更けていく。山猫の悲鳴が響き、2人の野郎と変態1人の祈りが夜に染み渡る。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「糞が。本当に最低の夜だな」

 

 天上を支配するのは、夜の深い青ではなく、濁った赤黒い渦巻きの暗雲。それが古いナグナに今まさに災厄の根源がある事を主張しているかのようだ。

 立ちはだかるのは3体の巨人兵。安全ルートで入ったはずが、まるで待ち伏せされていたかのように出合い頭で強化巨人兵とか頭がおかしいんじゃねーの?

 

「ふむ、新装備を試すには絶好の相手ですな」

 

 弾切れのショットガンに代わり、エドガーが装備しているのがボールドウィン作の重ショットガンだ。金属製となり、より反動が増した事によって使い辛くなったそうだが、何処まで使いこなせるかは不安が残る。

 どうでも良い。今は眼前の強化巨人兵を始末する事が先決だ。衝撃で思考が停止することなく、即座にグリセルダさんは陣形指揮を執る。この辺りはナグナを生き抜いた猛者たちと言うべきか、動きに澱みは無いが、いずれも緊張がある。

 

「ああ、最高にクレイジーな夜だな」

 

 だが、だからこそ血沸き肉躍る。この糞ったれな気分の全てをぶつけられるのだからな!

 オレは背負う深淵殺しを抜き、重々しい刀身を地面に叩き付け、コンクリートの破片を舞い上がらせる。その中で強気に笑んだ。

 

「血塗れのパジャマパーティの始まりだ。お替わりはセルフサービスで頼むぜ」 




ヒロインズ:楽しくガールズトーク
主人公(黒);潜入成功
主人公(白):うん、ごめんね。相変わらずの難易度ジェノサイドなんだ。


それでは、204話でまた会いましょう。

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