SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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現実世界編です。
SANチェックを行ったリズベッドのその後になります。
こちらも不穏になってきましたが、まだまだ生命の危機は低いですね。


Side Episode13 手探りの真実

 聞こえる。

 カサカサ、と。

 カサカサ、と。

 カサカサ、と。

 頭の中を這い回る蜘蛛の足音が聞こえる。

 どろりと粘質な唾液が滴り、それは蜘蛛の巣を湿らせ、枯れ果てた獲物を慰める。

 溺れるように暗闇の奥底を覗き込めば、そこには渦巻く朝焼けの音色に満ち、細波が奏でる砂浜には溺れた真理を知らぬ愚かな盲人の亡骸たちが打ち上げられている。

 時計の針はありもせぬ13番目を示し、鐘は鎮魂と行軍を謳い、月光は夜風となって風車を回す。

 灰の砂を踏みしめて、黄昏の蛍を探し、夜明けを知らぬ宵の海に浸る。口に、鼻に、目に、耳に、子守唄が浸み込む。

 

 聞こえる。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 頭の中を這いずり回り、神経を貪り、思考を蝕み、魂にまで巣を張る蜘蛛の足音が聞こえる。

 

 

 

 

「リズベットちゃん!」

 

 

 

 

 そして、彼女は目を覚ます。過呼吸に陥り、右手を縛るロープが千切れかける程に暴れ、涙と唾液で汚れた顔を痙攣させ、虚ろな眼で半開きのカーテンから覗ける夜明けが近い薄焼けの空に我を取り戻す。

 続いてリズベットに朧になって自意識を取り戻させたのは、右手首の痛みだ。度重なるリストカットで傷ついた肌は、まるで古傷が破られたように血が滲んでいる。だが、それは悪夢に魘された彼女が千切ろうとしたロープが食い込み、柔肌を傷つけたからだ。

 

「光輝、さ、ん?」

 

 クーラーが利いた室内であるはずなのに蒸し暑い。べっとりと肌を濡らす汗は血と混じり合って異臭となり、ベッドのシーツを赤く染めている。

 優しい手つきで、それも慣れているように、光輝はリズベットの手首を拘束するロープを外す。そして、備え付けの救急箱を取り出すと夜明け前の空から差し込む薄明かりだけを頼りにして応急処置を行う。

 

「また悪夢かい?」

 

 アルコール消毒で浸み込む痛みにリズベットは顔を顰めながら、唾液と涙と鼻水で汚れた顔面を濡れティッシュで拭き取る。以前は乙女の恥じらいもあったが、もはや慣れたものである。

 

「頭から離れないの。教授の死が……どうしても消えないの」

 

 SAOの頃の悪夢と蜘蛛の悪夢、リズベットの精神を削り続ける2つの悪夢のせいで安眠に程遠い日々が続いている。SAOへの回帰が無かったと思ったら蜘蛛が導く暗い神秘の夢が、蜘蛛の夢を見なかったと思ったら心を抉る過去の記憶が、何度も何度もリズベットを拷問するかのように苦しめる。

 最近は光輝と共に夜間のトレーニングを行って肉体疲労を蓄積して夢を見ない程の爆睡をする事で改善を図っているのだが、それでも完全には振り払えない。睡眠薬も多少の手助けにはなっているが、劇的変化を与えるほどではない。

 

「やっぱり止めよう」

 

「その話はもう決着をつけたはずよ。あたしは逃げない。光輝さんの故郷に行くわ」

 

 悪夢を見る度に、光輝はリズベットの決意を否定しようとする。帰郷を共にする事を拒もうとする。だが、リズベットからすれば、それは『篠崎里香』に戻る最後のチャンスを捨てるという逃亡に他ならない。

 笹倉教授の死後、校舎内では18名にも及ぶ異常死体が発見された。いずれも笹倉教授のゼミの学生と同じ、まるで蜘蛛の巣に捕らえられた獲物のように、血という血を搾り取られて殺され、あるいは蜘蛛の苗床にされていた。

 正気とは思えない犯罪行為に日々直面するプロたちすらも顔を背けるような、人間が立ち入るべきではなかった禁域。否応なく精神を削り取り、現場検証を行っていた者たちの半数が嘔吐と頭痛に襲われた。

 あの蜘蛛が何なのか、未だに調査結果は出ていない。新種の可能性が高いとの事であるが、VR犯罪対策室のオブザーバーであるリズベットに閲覧の権限は与えられなかった。あるいは、誰かがこれ以上の精神の負荷を鑑みて、許可を下ろさなかったのかもしれない。

 処置を終えた右手首からはいまだに血が垂れている。予想以上に深く抉ってしまったのだろう。病院に行かねばならないかもしれないとリズベットは憂鬱になる。

 

「どうして、僕に黙ってヤツメ様の事を調べたんだい?」

 

「尋ねたら、素直に教えてくれるの?」

 

「絶対に無理だね」

 

 困ったように光輝は微笑みながら、リズベットの細い右腕をつかみ、舌を這わせる。それは垂れる血を舐め取り、同時に生温い舌の感触が痺れるようにリズベットの首裏を撫でた。

 顔を真っ赤にして光輝を振り払う。唇についた血が口紅のような光輝は普段とは異なる、冷たく異様な威圧感がある。

 

「ごめんね。消毒したばかりなのに。車の準備をしてくるよ」

 

「大げさよ。すぐに血は止まるわ」

 

 何事も無かったように、光輝は改めて右腕をタオルで血を拭き取る。リズベットは高鳴る心臓を押さえながら、淡々と処置が施される右手首を見つめる。彼女の予想通り、しばらくして血は止まり、白い包帯が傷口を覆い隠す。

 リビングに移動したリズベットはテレビの電源をつけて朝のニュースで気分を紛らわせる。それは恐るべき速度で普及し始めたMTによって蹂躙された中東の戦場だ。だが、レポーターのお目当てはこの最新兵器ではない。MTを文字通りのスクラップに変えてしまった、もう1つの兵器だ。

 強奪されたMTを用いた都市部へのテロ攻撃。これに対して地元政府は米国に支援要請し、派遣されたのはMT開発元であるINC財団肝入りの部隊だ。

 MTが脚部のついた機動性に富んだ『戦車』だったならば、これは新時代の『歩兵』なのかもしれない。リズベットは何処か冷めた心で、時代の加速に取り残されているような錯覚に陥り、実際にそうなのだろうと最新技術の犯罪現場に身を置く我が身を嘲笑う。

 それはどう言い繕っても『人型』としか言いようがない兵器だった。MTをコアにして開発された新型駆動兵器。MT以上の機動性、戦車にはない汎用性、航空機には無い強耐久性、そして都市部での戦いに適した運動性能。ネット掲示板ではMTが登場した以上の、まるで世界の終わりがやってきたような大騒ぎだった。当たり前だろう。数年前……いや半年前までは人型兵器など実用性がないという論調が主だったのに、それを現実があっさりと覆し、なおかつ多大な戦果を挙げたのだ。

 

(あれが……AC)

 

 人型駆動兵器と言えばヒーローチックな外観をイメージするが、ACは兵器としての泥臭さが色濃い。INC財団が公開したACはたった2機であるが、兵器開発のスパンを考えれば、MTに続いてACを短期間に実戦投入できるなど常識外れだ。

 リズベットがこれらの情報を得ているのはINC財団が惜しみなく情報公開をしているからであり、またACには最新技術であるはずのAR技術も大いに導入されているからだ。

 まだ実験段階であり、本格的な生産には早くとも2年から3年以上かかかるが、ACは1つの兵器ジャンルとして既に確立された不動の存在となった。

 

「まるで戦いを煽っているようだね」

 

 一足早い朝食を準備した光輝はニュースに対して端的な感想を述べる。

 

「その内に空を飛び回る人型兵器でも登場するんじゃないの?」

 

 冗談のつもりでリズベットは茶化すが、光輝が本気で悩むように眉を顰めたのを見て、技術が人心を置き去りにして加速し続ける世界ならば、十分にあり得るかもしれないと背筋を冷たくした。

 

「まるでデモンストレーションだよ。わざとメディアに露出させて、危機感を煽るフリをして有用性を世間に刷り込ませている」

 

 世界中でスポンサーとして名を馳せるINC財団が、わざわざマイナスイメージになる報道を許すはずがない。そもそも、中東の危険地帯にレポーターがいる事自体が既に計画的であるとも言える。

 誰かが脚本を書き、役者は踊り、そして結末に観衆は振り回される。リズベットは溜め息を吐きたい気持ちを抑えながら、トーストの上にのった目玉焼きを食む。胡椒の効き具合も彼女の好みであり、すっかり家事を任せる駄目女になってしまったと涙を流したくなる。

 

「兵器の普及には時間がかかるよ。ACもMTも戦場の主役になるには未来の話さ。もしかしたら、生産が本格化する前に見直されるかもしれない」

 

「そんな未来を期待するわ」

 

 まるで子供が新しい玩具を自慢したがっているようだ。リズベットはそんな感想を抱きながら番組を切り替えた。

 朝食を終えたリズベットはVR犯罪対策室の分室に光輝と共に赴き、先日まで捜査していた柳野家失踪事件についての調査ファイルを開く。

 失踪など本来はVR犯罪対策室の出番ではないのであるが、VRシティやVRゲームで『新世界に行きたくないか』という謎の勧誘が多発している。本来ならば悪戯で済ませられるのだが、その中で実際に行方不明になっている事例が生まれている。

 

「先の異常殺人事件も含めて、もうVR犯罪対策室の限界を超えた事例よ。そもそもVRもARも世に広まって10年も経ってないのよ? 進歩速度も普及速度も尋常じゃないわ」

 

 そもそも人員が足り無さ過ぎる。VR犯罪はネット環境さえあれば何処でもあり得るのだ。知的財産権問題、電子ドラッグ、法整備が間に合っていないVR売春などのグレーな案件、VRの影響による現実における犯罪行為の誘発、VR関連のモラルレクチャーに至るまで、VR犯罪対策室はもはや『VR・ARの何でも屋』状態だ。DBO事件を集中的に追いたくても、本部も人員不足著しく手が回らない。

 

「全てが1本の線に繋がっていると仮定しましょう。茅場昌彦は『こうなる』未来も予見していた。VR犯罪で溢れかえり、軍事利用され、世界が滅茶苦茶になっていく未来を想定……いえ、そうなるようにわざと混乱の種をばら撒いた」

 

「茅場昌彦の最期は脳の電子信号をデジタルコードに変換による自殺。成功率は極めて低く、また茅場独自の理論に基づいた可能性の話に過ぎないから、成功しても人格のAI化なんて不可能。本部は茅場が仮想世界への妄信から生んだ凶行と判断した」

 

「確か、使用した変換機器はメディキュボイドの前身って話よね」

 

「仮想世界の無秩序な拡大と接続。まさしく『新世界』だね。だけど、リズベットちゃんの……いや、桐ヶ谷くんの推測通りなら、茅場は仮想世界に『命』を与える為にSAO事件を引き起こした。より完全な異世界を……新世界を作り出す為に」

 

 会話とは恐ろしいものだ。リズベットは何気ない情報確認のつもりだったはずが、光輝と思わず顔を見合わせる。VR犯罪対策室分室には『情報漏洩の観点』から敢えて監視カメラなどは設置されていない。盗聴器なども24時間毎に調査が行われている。そして、早朝であったが故に分室にいるのはリズベットと光輝だけだ。

 

「少し調べたいことが出来たわ」

 

「僕もだよ」

 

 デスクを立ち上がり、リズベットと光輝は今日の調査対象の資料を携帯端末にダウンロードすると、出勤したての欠伸を掻いた春日と廊下ですれ違い、足早に駐車場へと向かう。

 

「フラクトライト。VR技術から端を発した最新分野。茅場の研究資料の中には、既にフラクトライトの存在を前提としたものがあったわよね? 確か、ソウル・トランスレーターとかいう、フラクトライトを『翻訳』する機器だったはず」

 

 光輝の車には多量の紙資料として保存された茅場昌彦関連の情報が積み込まれている。データベースの照会の方が遥かに手間もかからず、また嵩張らないのだが、何処に『目』と『耳』があるかも分からない現状では、古い手法こそが効果的なのだ。

 

「フラクトライトの研究は今や世界中で行われているよ。最先端はアメリカだけど、日本にも研究所はあったんだ」

 

 過去形なのは、日本最先端の……いや、当時は世界最先端のフラクトライト研究が行われていた、表面上は海洋研究の母船とされていたラースは全焼。研究に従事していた人員の大半は焼死。その後の調べで、研究員の過半が自衛隊及び防衛省からの出向だった事が判明した。民間と偽って国家主導でフラクトライトの研究が行われていた事にバッシングは集まり、結果的に日本がVR分野に続いてフラクトライト分野でも他国に後れを取る要因にもなった事件である。残存したラースの研究資料はVR技術研究所に保管される事になった。

 ラースの目的は『殺意を持ったAI』の開発である。既に生物のフラクトライトをコピーする事には成功していたが、コピーされたフラクトライトは『コピーである』事を認識すると自壊する欠陥品であり、また多くの部分で不安定だった。

 そこでラースはフラクトライト研究の新たな段階として、自意識が芽生えていない子ども……つまり赤子のフラクトライトをコピーして、ライトキューブなる記憶媒体に保存し、複製し、自己成長させる事によって電脳的知的生命体の育成及び文明シミュレーションを行っていたらしい。

 とはいえ、実験は全焼時に初期段階であり、方向性も手探りの状態だった。ラースが目指していた『殺意を持ったAI』の開発は事実上の凍結となった。

 フラクトライト分野自体が未だに基礎研究である。アメリカの最新研究によればフラクトライトは脳と同様の、あるいはそれ以上の自意識・思考・感情の発露を有する『魂』として着目しているらしい。VR研究所にも各国の研究員が頻繁に足を運び、ラースの基礎研究の共有の交渉を行っているが、国家防衛の観点からアメリカ以外にはラースの研究を共有しないのが日本政府としての方針である。

 

「頭が痛くなってきたわ」

 

「あはは。いつもの事だよ。むしろ僕たちらしくなってきたんじゃないかな?」

 

 発進した自動車の助手席で、茅場昌彦とフラクトライトの関連資料を捲りながら、リズベットは痛む右手で額を押さえる。気楽に笑う光輝が羨ましくてしょうがないが、確かに幾度となく世界を救ってきた自分達らしい派手な展開になってきたと諦めている自分がいて、リズベットは苦笑した。

 

「『発達した自己とは唯一無二の存在である。思考ロジックはコピーする事が出来ても、確立された自己から生じる自意識はランダム性とオリジナル性を持つ。共有された魂、あるいは分離された魂。我々はそこにある筆舌しがたい神の領域を垣間見る』」

 

「誰の言葉だい?」

 

「今現在、日本でフラクトライト研究を行っている唯一の人物よ。インド系ロシア人のサーダナ博士。彼の著書の序文よ」

 

「相変わらず勤勉だね」

 

「光輝さんが買ったまま埃被らせていた1冊だけどね」

 

 脳の電子信号をデジタルコードに置き換えても自己同一性は保証されない。だが、茅場昌彦は実行した。自らが電脳的存在となり、フラクトライトという魂の枷から外れた。自らが立証したはずの『魂』を捨て去った。

 仮想世界を生み出す妄執と大虐殺にも至るプレイヤーの幽閉を行う強固な自意識。フラクトライトすらも捨て去ってなお、思考で以って自己を認識する。リズベットはようやくたどり着いたと確信する。

 

「フラクトライトを追う。その点には僕も賛成だ。そうなると『本場』に行く必要があるね」

 

「……嫌な予感しかしないけど、それしかないでしょうね」

 

 申請して通るのは2人の過去の『実績』からしてあり得るだろうが、明日明後日に認可される事は無いだろう。また、警察内部には茅場の後継者のネットワークが張り巡らされていると見て間違いない。そうなると、真相に迫っていると勘付かれるのは危険だ。

 密やかに、なおかつ怪しまれないように、真実を追いかけるしかない。

 

「次のVR・AR技術展覧会の開催地はアメリカだ。チャンスがあるとするならば今年の12月だ。それまでに、いかにコネとヒントを集めておくかが鍵になるだろうね」

 

「サーダナ博士に接触しましょう。アポ取りは任せて。VR研究を個人でやっているんだし、捜査協力を理由にすれば怪しまれないわ」

 

 これが事件を追う次なる手掛かりになる。リズベットは早速アポイントを取るべく携帯端末を操作して指を鳴らす。

 

「グッドタイミング。今日、秋葉原で講演会をやるみたい。なかなか面白いお爺様ね。ブログで日本各地のラーメン食べ歩きレポートやダイエットヨガの動画投稿とかしているみたい。他にもアニメの原作をやったと思えば映画監督、プログラマー、プロゲーマー、なんでもござれの多才ね」

 

 年齢は90歳を超えるはずであるが、外観はどう見積もっても60代だろう。彼の付き人が運営するサイトで豚骨ラーメンを啜りながらVサインをした写真を見つけ、こんなお爺さんが本当に日本で唯一のフラクトライト研究者なのかと疑いたくなる。

 そもそも、インド系ロシア人がどうして日本にいるのだろうか? 来日したのはSAO事件が始まる少し前……茅場昌彦がナーヴギアを開発し、世間に流通し始めた頃だ。その後は多額の資産で物を言わせて北海道に研究所を構え、自由気ままに日本中を旅して回っている。

 主な著書は『ドミナント論を紐解く』・『天敵論』・『仮想世界と人類種の進化』の3冊だ。世間一般で認知されていない『自称』博士であり、実際に博士号を持っているわけではない。だが、科学者、文学者、経済学者、世界的富豪や企業家、果てには政治家にまで彼の信奉者は多い。

 その一方でリズベットが感じるのは、一貫性の無いサーダナという人間の思考だ。過去の経歴は一切記載されておらず、売れない著書を自費出版し続け、世界中を翻弄した末に日本にたどり着いた。

 サイトの付き人にメールを送り、近日中にサーダナと面会をしたいという旨を伝える。すると5分と経たずして返信が来る。それもサーダナ本人からだ。

 

「講演会が終わったらすぐにでも会ってくれるそうよ」

 

「嫌な『ニオイ』がするね」

 

 今回ばかりは光輝の『嗅覚』でなくとも、リズベットも直感してしまう。フラクトライトに関する助言を欲しい程度なのであるが、このサーダナという老人はリズベット達の想像を上回る『怪物』だと過去の経験から理解してしまう。

 秋葉原の雑居ビルにて、リズベット光輝は公演時間になるまで缶珈琲を飲みながら車内で待機する。日本は茅場昌彦の生誕の地であり、VRゲーム発祥の地だ。今や世界人気タイトルのTOP10の半分は海外勢に抑えられているが、逆に言えば日本1国で残りの半分を占めている。その為か、秋葉原にはそうしたVRゲーム関連グッズを目当てとした旅行者も多い。

 

「僕は思うんだ。茅場昌彦はさ、最初はとても単純に『新しい世界』が作りたかっただけなんじゃないかな。子どもみたいに、自分の夢を『本物』にしたかっただけなんじゃないかな」

 

「『大人』なら何処かで折り合いをつけるものよ。それが出来なかった茅場は『子ども』だったんでしょうね」

 

「だったら、後継者が『たった1人の個人』と仮定した場合、どんな人間なんだろうね」

 

「……茅場以上の『子ども』ね。それも権力と財力と才能を持て余した『子ども』よ」

 

 未だに茅場の後継者の犯人像が絞り込めない最大の理由は、DBO事件の本質に誰も到達していないからだ。だが、今まさにリズベットと光輝はDBO事件とSAO事件を結びつけるキーポイントにたどり着いた。

 茅場昌彦は仮想世界を『新世界』として完全なものにしたかった。だが、きっと不足していた。SAOでは完成に至れなかった。至れないと悟ってしまった。だからこそ、彼は自らの意志を継ぐ者を準備した。

 

「昔は、珈琲が美味しいと感じられたら『大人』になれた証だと信じていたよ」

 

「あたしもよ」

 

 笑い合ってリズベットは光輝と缶珈琲で乾杯する。そうして、サーダナの公演時間となり、雑居ビルに踏み入れば、簡素な長テーブルとパイプ椅子が並んだ講演会場には、老若男女の数人が既に腰かけて配布された講演資料と彼の著書を手にメインの登場を待っている。

 せいぜい収容できて30人が限度だろう、小さな講演会場だ。告知もサーダナのサイト以外ではされておらず、平日の午前中ともなれば集まりも悪い。事前予約をしてなかったリズベット達でもあっさりと席を取ることができた。しかも講演料はタダである。タダならばと時間潰しになるだろうと考えた暇人も合わせれば、サーダナの講演目当ては数人いるかいないかである。

 やがて講演開始の午前10時となり、ドアが開かれてよれよれの白衣を着た男が入室する。写真よりもずっと若々しく、また眼には渇いた感情が張り付いている。

 

「…………っ!」

 

 そして、光輝もまたその全身に脂汗を滲ませ、口元だけは心底『嬉しい』ように歪ませる。

 沈黙の中で、ボリボリと頭を掻き、パイプ椅子を開き、腰かけて足を組んで頬杖をついたサーダナは一呼吸を入れて退屈そうに講義を開始する。

 

「諸君、仮想脳という概念をご存知かな? 高いVR適性者が、その脳内……フラクトライト構造を変質させ、いうなれば脳に仮想ハードドライヴを作るように、VR空間に適応し、逆に『支配』しようと干渉する為に発達した領域の事だ」

 

 コツコツと膝で指を鳴らし、サーダナは定説にすらなっていない、仮説の域を出ない、妄言と罵られてもしょうがない、与太話を語らうように告げる。

 

「VR適性と運動アルゴリズムの関係性は今更語ってもしょうがないだろう。VRとの接続とは、言うなれば脳との情報交換だ。反応速度とはこの情報交換において運動アルゴリズムに齟齬なく情報を伝達し、変換できるかという点に掛かっているわけだ。仮想脳は高度な情報交換と運動アルゴリズムとの変換作業において、より効率的に作業を行うべく人間の脳が適応化した結果の産物だ。VR適性の成長とは仮想脳の発達である。今日はそれを前提としてフラクトライト構造の変質についてキミたちと語らおう」

 

「サーダナ博士! 博士はフラクトライト構造の変質と仰られましたが、フランスの最新研究によれば、フラクトライト構造は『個性』が無い……まったくの白紙であるという事が証明されたばかりのはずです! なのに仮想脳とはナンセンスではありませんか!?」

 

 まるで出鼻を挫くように、リズベットの隣の席にいた、眼鏡をかけた黒髪の40代だろう、まるでやり手の銀行マンのような男が挙手と共に反論を投じる。

 顎髭を撫で、サーダナは数度小さく、やや嬉しそうに頷き、そして90代とは思えぬほどに歯が揃った口内を披露しながら笑う。

 

「ナンセンス! たかだか100人や200人のデータを取った程度で、真理に到達したぞと天狗になった阿呆共の言葉は聞き流せ。フラクトライト構造は確かに出生時の頃は差異が無い。だが、そもそもフラクトライトは脳に集中しているだけであり、実際にはその構造体は全身に隈なく張り巡らされている。そして、脳の他にもう1つ、より高密度にフラクトライト構造が密集している場所がある。『ここ』だ」

 

 トントン、とサーダナは自らの心臓を叩くように右手の人差し指で左胸を叩く。

 

「心臓。古来より『心』は!『魂』は! 常に我らの胸の内にあった。まだデータの集積段階であるが、心臓のフラクトライト構造の情報が血中の鉄分を介した電磁パルスによる情報伝達によって脳のフラクトライト構造に影響を及ぼす事は私の研究で明らかになった。そして、脳のフラクトライト構造で蓄積された情報もまた心臓にも蓄積される。脳のフラクトライトと心臓のフラクトライトは言うなれば鍵と錠前の関係だ。脳だけでは真価を発揮せず、心臓だけでは何も見出せん。人は平等に生まれない。地位も、財力も、権力も、才能も、何1つとして平等ではない。血の重みを知りたまえ」

 

 その存在感にリズベットは思わず感服する。サーダナという男は反論を喜び、切り返し、銀行マンを黙らせる。いや、むしろ自身の反論を正面から受け取ってもらえた事が嬉しいように、銀行マンは感涙していた。

 

「丁度良い。寄り道をしよう。フラクトライトのコピーによる人格模写……レプリカの作成について、倫理はここで語る気はない。語るべき謎は1つだ。何故、複写されたレプリカは自身がコピー体であると認知すると自己崩壊するのか。まだ私も仮説の段階であるが、『フラクトライト構造は完全にはコピーできない』。この1点に尽きるだろう。フラクトライト構造が変質されていく段階で、『自己認識のパスワード』のようなものが無意識化に組み込まれているのだろうな。このパスワードはコピーされたフラクトライト構造では読み取れない。だから自己認識作業にエラーが生じる。実に残念極まりないが、自己の複製は『不可能』だ」

 

「なるほど。フラクトライト構造はそもそも脳や心臓といった有機物の中で構築される事を前提としている。ライトキューブのような無機物にコピーしても、有機物で構築されたフラクトライト構造とは生成プロセスが異なる。だからコピーできないのか」

 

 あれ? あたし達って最新技術の犯罪現場にいるはずなのに、オタクたちよりも圧倒的に無知じゃないかしら!? サーダナの意味不明な解説で早々に納得したらしい、リズベットの背後の席のズボンからはち切れんばかりの脂肪のお腹を垂らした男は腕を組んで納得の言葉を漏らす。

 そして、それはどうやら光輝も例外ではないらしく、額に手をやって、まるでテストの難問に直面した学生のように汗を垂らしていた。

 

「だが、『抽出』することはできる。脳内のフラクトライトを解体し、再構築させる。技術的難易度は相当なものであるが、可能だろう。当然ながら専用の機器は必要になるだろうが、抽出のみに限定するならば……断言しよう。可能だ。だが、それは――」

 

 と、そこでサーダナは聴衆を見回しながら、その実は明らかにリズベットに視線を凝縮させ、乾いた唇を舐めた。

 

「『まるで高出力のマイクロウェーブで焼き切られたように、脳を破壊してしまう殺人行為』だ。人道的な観点からも、『抽出』の研究は遅々たる速度だろうな。それこそ、非合法な研究でも行われていない限り」

 

 そこでサーダナは息を吐いて区切る。まるで、リズベットの思考が凍り付いたのを見抜いたように。

 

「さて、本筋に戻ろう。仮想脳の可能性……『人の持つ意思の力』について諸君とこの2時間、たっぷりと語り合おうではないか」

 

 それからの2時間の濃縮された知性の交流は、リズベットが受けた過去あらゆる授業・講義に及ばない程に甘美であり、これこそ知性が高まる本物の『伝授』なのだと否応なく思い知らされた。あの光輝すらも学生に戻ったかのように、メモ帳を懐から引っ張り出して、サーダナの講演の一字一句を逃すまいとしていた程である。

 惜しみない拍手で講演を終えたサーダナは、それから30分以上に亘って聴衆の1人1人からの質問を受け付け、丁寧に解説し、また論破した。だが、著書へのサインにだけは決して応じなかった。

 

「知性の交流は人間の正しき業であり、最たる悪行だ。そう思わないかね?」

 

 サーダナ、リズベット、光輝の3人を残すに留まった講演会場。老人はパイプ椅子に相変わらず腰かけたまま、彼の前で断つリズベット達を見上げる。

 

「最初から気づいていたのかい?」

 

「可能性を感じただけだ。私に新たな知の探究をもたらしてくれる劇物の可能性を。戦いとは探究の手段に過ぎないが、死の縁にこそ真理に至る毒は隠されている。数式は神が作り出した絶対なる理であり、欺瞞に満ちた虚ろな文学だ。自らの力を恐れたまえ。だが、二の足を踏むな。そこの娘が大事ならば尚更な」

 

 珍しく顔を引き攣らせる光輝に、サーダナはマイペースに途切れることなく語り続ける。そして、その矛先は1歩退いていたリズベットにも例外なく向けられる。

 

「お嬢さんの事はもちろん知っている。SAO事件の被害者の人相と氏名は全員記憶している。私に接触するのは時間の問題だろうと思っていたよ。私の説明で事足りたならば良いのだが、お気に召したかな? ああ、質問は受け付けない。知識は授けても知恵は与えられない。自力でたどり着くべきだ。それがお嬢さんの進化に繋がる。それに私もまだまだ真理にたどり着かない未熟者だ」

 

 閉口したままリズベットは、ごくりと喉を鳴らす。質問は受け付けないと先制された。だが、リズベットには問わねばならない義務がある。

 ずっと疑問に思っていた。茅場昌彦はどうしてプレイヤーを『殺害』する事に固執したのか。仮想世界に『命』を吹き込むにしても、他にやりようがあったのではないか。妥協しない男がどうしてプレイヤーの幽閉という直接的な手段を訴えたのか。

 

「SAO事件の被害者は……生きている。そう、博士はお考えなんですね?」

 

「質問は受け付けないと言った。だが、真実に至るパン屑は必要だろう。『命』とは何を以って定義するのか。生死は何を以って区分されるのか。それはお嬢さんが決める事だ。法でもなく、道徳でもなく、神でもなく、お嬢さんが生と死をどう分かつのかだ。傲慢でありたまえ。神は人に自由な思考を与えられた意味を噛み締めたまえ」

 

 腰を数度叩き、サーダナは凝り固まった体を解すように腕を回し、光輝の肩を軽く叩く。

 

「さらばだ、若人たちよ。世界は謎に満ちている。知の探究を怠らず、慢心せず、未来を見据えたまえ」

 

 そうしてサーダナは去っていく。残されたリズベットは改めてサーダナの著書を読み直してみるかと改め、光輝は俯いて歯を食いしばっていた。

 

「年の功って怖いわね」

 

「本当にね」

 

 90歳オーバーの長生きお爺ちゃんは伊達ではない。耄碌していないならば尚更だ。

 どうしてSAO事件の被害者を熟知しているのか。どうして光輝の奥底を看破したのか。それはリズベットにも分からない。

 講演会場を後にしたリズベットは、いつの間にか携帯端末に届いていたメールを見て顔を顰める。それは須和からのメールであり、笹倉教授の事件から行われているカウンセリングの通達だ。今日がその日だった事をすっかり忘れていたリズベットは、サーダナからもらったヒントを解き明かしたい衝動を抑えつけた。

 

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 憂鬱だ。須和は嘆息を吐いてデスクに放られた1人の男の資料に目を通し、白髪混じりの頭を掻き毟りたくなる。

 先の笹倉が引き起こした猟奇殺人はメディアによってセンセーショナルに取り上げられ、黒魔術崇拝という形に『誘導』された。民俗学研究に没頭していた家族も伴侶もいない孤独な男による理解し難い凶行。いかにも事件に飢えたメディアが食いつきそうな餌だ。

 今回の1件は下手をすれば、笹倉を通してヤツメ様が世間に露呈する危険性を孕んでいた。第1発見者が光輝でなければ、最悪のパターンもあり得ただろう。須和も隠蔽活動に関与した。検死解剖結果の改竄に始まり、笹倉の個人の持ち物や研究資料からヤツメ様への足掛かりにならないように細心の注意を払った。

 笹倉教授のように、自力でヤツメ様にたどり着いた事例は過去に無かったわけではない。だが、今回のような大事件を引き起こす事は稀だ。

 余計な仕事を増やしてくれた。須和は悪態を吐きたいのを我慢しながら、処分済みの赤判子を笹倉の写真が張り付けられた資料に押してファイルに閉じる。ただでさえVR犯罪対策室のオブザーバーとして、PE技術の解析に日夜神経を削っているのだ。笹倉のような好奇心のままにヤツメ様に触れた人間の後始末が最も手間がかかる案件であり、精神が摩耗する。

 

「失礼します」

 

 一息ついてアイスココアを飲んでいた須和は病院の執務室にて細やかな休憩を取っていたが、次なる仕事が早速『到着』する。

 入室してきたのは、須和以上に暗い表情をした篠崎里香だ。リズベットというSAO事件でのプレイヤーネームを名乗り続ける、未だにSAO事件から脱却しきれていない被害者の1人であり、先の笹倉の事件の『被害者』の生き残りである。 

 

「待っていたよ。アイスココアで良いかな?」

 

 6月の蒸し暑い空気を癒すクーラーの人工的な冷気で浸された須和の執務室で、縮こまるようにソファに腰かけたリズベットは頷く。

 笹倉の事件以降、須和はカウンセリングと称してリズベットの『監視』を行っている。

 彼女は秘密裏にヤツメ様に関して探りを入れていた。簡単にはヤツメ様にたどり着くことは出来ないだろう。だが、問題なのは光輝の相棒であり、同居人である彼女がヤツメ様を暴こうとしていた点だ。

 とはいえ、他でもない久藤の血筋である理輝がリズベットにヤツメ様を調べるように唆した事はその後の調査で明らかになった。これならば、いっそ最初から須和が教えられる事を教えておけば、このような事態にはならなかったのではないかと自責の念を抱いている。

 

「今も悪夢を見るのかい?」

 

「SAOと蜘蛛の両方を見ます。頻度は……SAOの方が少し多いかも」

 

「PTSDの治療は根気がいる。社会復帰できるだけの精神力がリズベットちゃんには備わっている。蜘蛛の件も、笹倉教授の死と事件の異常性によるものだ。一時的なものだろうけど予断は許さない。手首は後で治療するように。予約は取ってあるから……ね?」

 

 真新しい右手首の包帯を見逃さない須和の指摘に、リズベットは俯きながら小さく頷く。

 PTSD……いわゆるトラウマは時として一生の傷となって心の内に残り続ける。薬物治療にも限界があるし、カウンセラーは魔法使いではない。最終的には本人の精神が解決する以外にないのだ。

 そもそも須和はカウンセラーではない。VR技術に通じる脳外科医だ。今回のリズベットのカウンセリングも『他に任せるべきではない』という須和独自の判断によるものだ。

 

「先に言っておくけど、私は反対だよ。本音を言えば、今すぐにでもオブザーバーを辞退して、学生としての本分に戻って、自分の新しい未来についてじっくり熟考してもらいたい。だから、キミが八ツ目祭に光輝君と行くなんて認めたくない」

 

「行きます」

 

「だろうね。私にキミの自由意志を縛る権限はない。だが、1度踏み入れば2度と逃げ出せない蜘蛛の巣というものもある。それを先の事件で思い知ったのではないかな?」

 

 やや強めに、誠意を込めて、須和はリズベットの説得を試みる。だが、光莉がそうであったように、1度決心を固めた女性の気持ちを揺るがすのは並大抵のことではない。

 

「あたし、ずっと逃げてたんです。SAO事件からも、未来からも、『篠崎里香』からも……ずっと逃げて逃げて逃げて、『リズベット』のまま凍っていたんです。だけど、光輝さんはウザい位にあたしに関わってくれた。こんなあたしに好きだって何度も何度も言ってくれた。だから、あたしはそれに応える義務が……ううん、あたしが『そうでありたい』と望んでるんです」

 

 SAO事件の被害者はいずれも歪んでいる。リズベットも例外ではなかった。彼女は現実世界を生きた『篠崎里香』に戻れなくなっていた。髪をピンク色に染め続けるのも、彼女の魂が今もSAO事件に縛られたままだからだ。

 だからこそ、本来は自発的に過去を乗り越えようとしているリズベットを1人の医師として応援すべきなのだろう。だが、ヤツメ様に関わった者の末路を知るだけに、須和は頭を悩ませる。

 腰まで伸びた髪の毛先を指で弄りながら、リズベットは須和を真っすぐに見つめる。それは以前の彼女には無かった、静かで暗く湿った信念を感じる。

 

「あたしはもう『普通の女の子』にはなれないし、『普通の人生』なんて歩めない。SAO事件で篠崎里香は1度『死んだ』。それを受け入れないと何も始まらない。あたしが取り戻したいのは『リズベットを乗り越えた篠崎里香』なの」

 

 女性はやはり恐ろしい。須和は諦めを込めて降参するように両手をあげる。

 

「今後も治療は続けるよ。そこだけは譲れない。良いね?」

 

「よろしくお願いします」

 

 今年の祭りはかつてない程に波乱が起こりそうだ。須和は久しぶりに擽られた好奇心を慰めるように、リズベットにお代わりのアイスココアを差し出した。




次回から妖精王編もといアスナ編です。

舞台はもちろん妖精の国(魔境)です!

それでは、235話でまた会いましょう。

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