SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

精神攻撃は基本中の基本。


久々にダクソ2を起動させましたが、やっぱりDLCエリアの力の入りっぷりは本編とは比較になりません。ボスも含めて情熱の熱量が違う気がします。


Episode18-13 悲劇の待ち人

 誰かが名前を呼んでいる。肩に触れて揺さぶっている。

 聞こえるのは鐘の音。無機質であるが、とても懐かしく、望郷にも似た愛着を思い出させる機械の音色。

 薄っすらと瞼を開けた『彼女』の瞳に映ったのは、青空で輝く太陽の光、開けられた窓から吹き抜ける風で靡く白のカーテン、和気藹々と談笑する学生服姿の少年少女だった。

 ここは何処だろう? 瞼を擦りながら『彼女』は上半身を預けていた、過去の記憶に残した、鉄パイプと木板を組み合わせた、機能性と『その場所』の象徴性を持つ机に、赤・白・黄の3色のチョークで男子生徒が描いたラクガキに、鼻を擽る豊かな食事と甘いお菓子の香りに、意識を束ねていく。

 

「あ、やっと起きた。食べてすぐに寝たら牛になるわよ?」

 

 そして、『彼女』は信じられないものを見るように目を見開いて、自分の肩を揺さぶっていた、自分『達』が着ることも無かった近所の高校の制服を着た、自身の半身とも言うべき存在に唇を震えさせる。

 まるで鏡を覗き込んだように、自分と同じ姿をした少女。だが、自分よりも少しだけお淑やかさを持っている。それは生まれた時から続く『彼女』との関係がもたらしたものだろう。

 

「姉ちゃん!?」

 

「もう、どうしたの? 随分とうなされていたみたいだけど、もしかして悪い夢でも見てたの? 食べてすぐに寝るからよ、木綿季」

 

 そして、『彼女』は……ユウキは大声を張り上げて、数秒の教室に沈黙と静寂をもたらしながら椅子を転倒させて立ち上がる。驚いて1歩遠ざかったのは、ユウキが2度と会うことはない、会えるはずがない、双子の姉の藍子だった。

 再びざわつきを取り戻した教室で、ユウキはパクパクと金魚のように口を開閉し、自分の血色の良いピンク色をした爪がある指を見つめ、姉が纏うのと同じ黒のセーラー服の裾を掴み、僅かな希望を持って胸に触れてペタペタという擬音が聞こえてきそうな平らさに絶望し、だが眼前の姉に涙を湛えて目を潤ませる。

 

「本当にどうしたのよ? もしかして気分が悪いの? 今から保健室に――」

 

「姉ちゃん!」

 

 心配そうな藍子に、ユウキは衝動のままに飛びかかり、抱きしめ、2人して派手に転がる。涙と鼻水でべっとり汚れた顔を藍子の……自分よりも若干以上にふくよかな胸に押し付けて、細い腕で腰をホールドする。

 泣きわめくユウキの周辺に、クラスメイト達は何事かと駆け寄り、『紺野が壊れた』や『これが双子百合……!』などと口々に漏らす。だが、ユウキはそんな声など聞こえないとばかりに、藍子への……永遠に失ってしまった自分と同じ血が流れる家族との再会に嗚咽する。

 周囲の視線に頬を紅潮させた藍子は、ユウキの手を引いて教室から脱出すると、人気が無い、屋上まで続く階段に腰かけさせる。

 

「落ち着いた?」

 

 グズグズと泣き顔のまま現状に混乱するユウキの肩を摩り、一緒に階段に座る藍子の手の温もりに、どうしようもなく懐かしさがこみ上げて、増々涙と鼻水が溢れる。

 差し出されたポケットティッシュの中身を全て抜き取り、鼻をかんで涙を拭いたユウキは、ようやく状況を把握しようとする冷静さを取り戻す。

 

(ここは学校? どうして、ボク、学校に? アルヴヘイムでボス達と一緒にいたはずなのに……)

 

 まるで靄がかかったように霞んだ最後の記憶をユウキは引っ張り出す。行商人として出発して、大きな町にたどり着き、その酒場で奇妙な噂を耳にした。だが、そこから先がよく思い出せない。いかなる悪夢も目覚めれば曖昧になってしまうように、朝陽に溶かされて形を失う氷のように、輪郭すらもぼやけている。

 違う。夢は『こちら』だ。ユウキは首を横に振って頬が千切れる勢いでも、確かな痛みが生まれる。

 

「い、いひゃい……!」

 

「痛いに決まってるでしょう?」

 

 呆れる藍子に、ユウキは再び目を潤ませそうになるが、袖で目元を拭いながら答える。

 藍子は……姉は死んだのだ。自分たちが生まれた時から続く呪い……あの忌々しい病に蝕まれて、『死にたくない』と繰り返しながら、世界を呪いながら、神に救いを求めながら、その命が尽きたのだ。

 

「姉ちゃんがどうして生きてるの?」

 

「酷くない? お姉ちゃんが生きてたら木綿季には不都合なのかな? ちょっとショックかも」

 

 クスクスと笑う藍子は、まるでつまらないジョークに付き合うかのようだ。ユウキは更なる追及の刃を突き立てようとするも、どうしても愛する姉を否定しようとする言葉が零れない。

 

「本当に悪い夢を見てたみたいね。どんな夢だったか、お姉ちゃんに教えてくれる? 昼休みいっぱい付き合ってあげる」

 

 双子なのに、姉として年上のように振る舞おうとする藍子は、ユウキの記憶にある通りだ。違和感など1つとして存在しない。だが、今の状況そのものが不可思議なのだ。

 

「ボク達……高校生なの? でも、ボク達って高校に通ってなかったよね?『通えなかった』よね!?」

 

 あの頃のユウキ達は病室の囚人だったはずだ。ユウキは記憶のパズルを組み立てながら、この不自然な世界に否定のナイフを振るう。だが、藍子は呆れたように嘆息した。

 

「『姉ちゃん、勉強教えてー!』って中学3年の冬になって泣きついてきたのは誰だったかしら? 木綿季は油断し過ぎなの。言っておくけど、この学校はこの辺では名門の難関進学校なんだからね?」

 

「……そうだっけ?」

 

「そうよ。はぁ、徹夜の日々が馬鹿らしくなったわ。でも、木綿季らしいかも。あ! だけど、大学受験は手助けしないからね? 木綿季も勉強はできるんだから、自分の将来は自分で考えて、自分で努力する事! 幾ら双子でも同じ道をずっと歩き続けるわけじゃないんだから……ね?」

 

 やっぱり姉ちゃんだ。死に怯えていた頃の……暗い病室にいた頃のユウキを慰めてくれた姉そのものだ。だからこそ、ユウキは涙を堪えながら呟く。

 

「ボクね……『夢』を見てたんだ。姉ちゃんが、スリーピング・ナイツの皆が……死んじゃう『夢』。独りぼっちになって、それが怖くて、神様を否定して……ボクはたくさんの人を裏切る選択をしたんだ」

 

 それは特定の『誰か』という意味ではなく、世界中の人々に……DBOのデスゲームに巻き込まれるだろう人々に対する最大の裏切りだ。ユウキは茅場昌彦の手を取り、DBOのデスゲーム化を見逃した。

 全員が不治の病を抱えて死を待つしかない、仮想世界に生きた証を求めた者たち。それがスリーピング・ナイツだ。リーダーだった藍子が始めた、常人よりも死が身近だからこそ、世界に存在した証を刻み込もうという意志から始めた活動であり、ついには成し遂げられなかった目的だ。

 彼らの遺志を継承したのはユウキだけだった。彼女だけが神を否定したからこそ、死を隣人と認めたからこそ……あるいは身も蓋も無い話をすれば、高いVR適性が茅場昌彦の目に留まったからこそ、生の延長を得た。

 全ては【黒の剣士】を倒す為に。SAOで伝説となり、英雄と謳われた、誰もが仮想世界最強と呼ぶ彼を超える事で、スリーピング・ナイツの墓標は永遠となる。遺志は果たされ、神様に自分たちの生の足掻きを示せる。

 

「……そう。私も、皆も、死んじゃう『夢』を見ていたのね? 怖いのも当然だよね」

 

 肩を抱き寄せる藍子に、ユウキは反抗する意思も芽生えさせられなかった。自分の始まりを……DBOに至るまでの物語を明かしたからだろう。急速に『夢』は現実感を失い始めていた。いや、あれは正しく『夢』だったのだと虚ろになっていた。

 

「でも大丈夫。ほら、ちゃんと皆生きてるよ」

 

 そう言って藍子はポケットから携帯端末を取り出し、チャット式の会話アプリを起動させる。その中の『スリーピング・ナイツ』というグループを選択すると、平日昼間にも関わらず、次々とコメントが更新されている。

 

 

 

 

テッチ<上司が糞過ぎる件について。1日は48時間じゃないんですが? この仕事を明日までとか無理でしょう。マジで転職したい(´・ω・`)>

 

ジュン<またテッチの愚痴が始まったよー>

 

ノリ<無視一択で>

 

タルケン<それよりも今日はどうする? あのネームド倒したいけど、他のギルドの縄張りだし、レイドに入れてもらえないかな?>

 

シウネー<頭を下げる必要はありません。あのネームドには第3段階がある噂もあるし、レイドが全滅するのを待ってから横取りしましょう♪>

 

ジュン<最近のシウネーさん黒くない? あれか。まだ元カレを引き摺ってるのか。幾らVRMMO内とはいえ、3股をかけられたのは堪えたようだ>

 

タルケン<そして、ジュンのこの無慈悲の追い打ちである>

 

テッチ<今日のログイン無理かも。会社でお泊りコース確定(´;ω;`)>

 

ノリ<でも辞めない。辞められない。これだから社畜は>

 

 

 

 

 

 

(……あれ? ボクが知っているよりもノリが軽い!?)

 

 確かに、スリーピング・ナイツの方針は『明るく! 楽しく!』だったとは思うのだが、こんなノリは彼女の脳内ログには検索をかけても出てこない。

 

「あははは。またテッチが愚痴ってるね。でも、不思議だよね。見た事も無い、会った事も無い人たちと、こうして繋がっていられるなんて。みんな野良だったのに、ネームド倒したい余りに団結して、そのままギルドを作っちゃうなんて私達らしいかも」

 

 違う。スリーピング・ナイツの設立経緯が違う。だが、こうしてスリーピング・ナイツは実在する。彼らは確かに生きて、この世界の何処かで、各々の人生を謳歌している。

 ならば間違っているのは自分の方だろうか? 悲劇に塗れた『夢』だったのだろうか? そうであれば良い……いや、『そうであって欲しい』とユウキは胸の奥で……心臓が締め付けられる程に願う。

 予鈴が鳴り、藍子は考え込むユウキを誘うように先に階段を下りて、その右手を差し出す。

 

「ほら、昼休み終わっちゃうよ。行こう、木綿季?」

 

「う、うん……」

 

 そうだ。全ては『夢』だったのだ。ユウキはまだ曖昧な『現実』を歩むべく藍子を追う。

 だが、ユウキの鼻を何かが擽る。封鎖されたはずの屋上の扉が開いたかのように、彼女の髪を舞わす風が吹く。

 それは死臭。常に死の傍にあったユウキだからこそ分かる、生物が忌避するニオイ。イメージしたのは滴る赤色であり、『夢』の中に埋もれた何かが刺激されてユウキは振り返る。

 開け放たれた屋上の両開きの扉。その前に誰かが立っている。太陽が逆光になって顔は分からないが、誰かがユウキを見つめている。

 途端に喉を掻き毟りたくなるような、気道が焼き爛れるような、逆光の向こう側へと駆け寄りたい衝動がユウキを突き動かす。

 

「ねぇ、何処行くの?」

 

 だが、ユウキが1歩を踏み出すより先に、藍子の温かな手が彼女の右腕をつかむ。行かないでと叫ぶような藍子の眼差しに、ユウキは僅かに躊躇った。そして、全ては幻であったかのように屋上の扉は元からそうであったように閉ざされていた。そこには誰もおらず、ユウキは名残を求めるように振り返りながら、藍子に手を引かれて教室に戻る。

 机から教科書を引っ張り出せば、ユウキは急速にこの『現実』の質感を得る。数学の教科書は新しくも何度も捲られた形跡がある。

 

「今日は小テストをする。全員、教科書を机に戻せ」

 

「嘘だろ!?」

 

「抜き打ちとか卑怯だろ、禿先生!」

 

 そして、昼休み直後の数学教師は『夢』の中で何度もユウキを叱ったマクスウェルその人だ。だが、彼はユウキに特別な視線をぶつけることなく、ツルツルピカピカの頭に皺を寄せながら頬を痙攣させる。

 

「禿ではない。潔いというのだ。良し、今回のテストで80点未満は補習するぞ」

 

「うげぇえええええ!」

 

 80点!? 配られた小テストの難題に、ユウキはマクスウェル改めて禿先生へのヘイトを高めて、『夢』と『現実』のすり合わせを放棄する。

 黙々と小テストを解く音が教室でオーケストラとなって緊張を高める。並ぶ数式の厭らしさに、この小テストを作成したのは根性が捻じ曲がった偏屈者だとユウキは内心で罵倒しながらも、教室を満たす空気をたっぷりと深呼吸で吸い込む。

 ずっと取り戻したかった。『特別』になりたかったわけではない。こうした日常が愛おしかった。何処にでもいる学生として成長して、何処にでもいる大人になって、何処にでもある普通の死を迎えたかった。

 だが、『夢』では決して手に入らないだろうものが『現実』には確かな手触りと共にある。それが愛おしくて堪らずに、ユウキは笑みを耐え切れなかった。

 

「ギリギリセーフ!」

 

 小テストは80点ピッタリで補習を免れたユウキは、その後の授業を消化し、禿先生に連行される多数のクラスメイトを見送りながら、藍子と共に下駄箱で履き替える。普段からVRMMOで遊んでいる2人は部活動に所属していない。当然のように『健在』である両親は『2人とも運動神経は良いのに』と嘆いているが、双子揃って笑顔で『ゲームの方が好き』と答えた。まさに親泣かせの所業である。

 

「ねぇ、さっきの『夢』の話だけど、木綿季は私達が死んだ世界で何をしたかったの?」

 

「……【黒の剣士】を倒したかった。仮想世界で1番強い人を倒して、ボク達が生きた証を残したかったんだ」

 

 コンビニでお気に入りのカフェオレを購入し、並んで帰路につきながら、ユウキは藍子に心中を吐露する。

 

「何のために生まれたのか。ボク達は……『夢』のボク達は死がいつだって傍にあって、怯えて、苦しんで、毎日に絶望を感じながら生きてたんだ。だからね、生きた証が欲しかったんだと思う。心の何処かで生に諦めていたからこそ、死の先に残るものを求めていたんだと思う」

 

「でも、木綿季は生き残った。寂しくなかったの?」

 

「もちろん寂しかったよ。不思議とね、皆がいなくなってから、死ぬのはだんだん怖くなくなったんだ。死は友達。死は生まれた時からずっと傍にいてくれた……姉ちゃんみたいな自分の半身みたいなものなんだって分かったんだ。だから、死ぬのは怖くなかった。きっと死んでも……ボクは『ボク』のままのはずだから」

 

 靡く風は夕焼け空に相応しく、夜の冷たさを浸している。道行く自動車のライトが薄暗い世界で尾を引き、街灯がユウキと藍子を人工光と陰の闇で線引きする。

 きっと藍子が死んでしまったからだろう。ユウキは『夢』でどうして死が怖くなくなったのか、ユウキが1番恐れているものは何だったのか、『現実』でたどり着く。

 

「ボクが怖いのは『独り』になる事。姉ちゃんも、皆も、何もかも失せた、あの病室に戻される事。もう独りぼっちは嫌なんだ」

 

「……そっか。でも、もう怖くないね。だって私がいるもの。木綿季の1番の『願い』は『独りぼっちになりたくない』なんでしょう? ここには皆いる。私も、スリーピング・ナイツも、お父さんやお母さんも……木綿季が大切にしたい人たちが皆いる。もう何も怖がる必要はないよ?」

 

 今にも泣きだしそうな笑顔をした藍子に、ユウキはもう手放したくないと彼女の温かな手を握る。

 もう間もなく我が家に着く。藍子は休みの父が久々に料理の腕を振るう事に辟易し、きっと母がサポートして無難な形に収まるか、それとも結局は外食になるのか、と嘆息しながらも楽しみだと語り、ユウキも頷く。

 と、そこでユウキは公園の入口で……点滅する街灯の真下で、小さな何かが震えていることに気づく。

 それは子猫だった。肉に突き刺さる痛々しい棘の首輪をつけた、傷だらけで、真っ白なはずの毛並みはどす黒く汚れている。爪や牙を染める同じ色は自然と繰り返し浴び続けた血なのだろうとユウキには理解できた。

 血で汚れた白猫はユウキが近寄ると公園内に逃げ込んでしまう。きっと野良猫だろう。迷子なのだろう。気に留める必要はないとユウキは我が身に言い聞かすが、どうしようもなく息苦しくなる。

 知らないといけない。思い出さないといけない。藍子に語った『夢』の全て。だが、まるで守るように大切な『何か』を封じ込めている。きっと、あの子猫が全てを教えてくれる。

 ユウキは白猫の後を追いかけようとするが、屋上の時と同様に、藍子の手がユウキを止める。

 

「早く帰らないと、お父さんもお母さんも心配するよ?」

 

「でも、あの猫……傷だらけだったよ? あんなにも血で汚れて……」

 

「だから何? それは木綿季にとって大切な事? みんなと一緒にいられる幸せよりも優先しないといけない事なの?」

 

 指が肉に食い込むのではないかと思う程に、骨が軋んで砕けるのではないかと思う程に、藍子の手に力が籠る。

 聞こえる。何かが耳を擽る。

 それは聖夜に響いたクリスマスソング。赤鼻のトナカイだ。

 いつの間にか世界には白い雪が降り始めていた。空気は凍てつき、吐息には白が混じり、月光を反射する雪は白い宝石のようであり、同時に踏み躙られた雪は汚水となって2人の足元で泡立つ。

 季節が変わった? 違う。ユウキは否定する。歌声を求めて、藍子の手を今度こそ自分の意思で振り払い、血だらけの子猫を追って公園に飛び込む。

 ブランコは無人のまま揺れ、鉄棒にはカラスたちが止まり、砂場の城は雪風で崩れ落ちる。ユウキは白猫を追って息が切れるまで走り続ける。

 そうしてたどり着いたのは、電灯に囲われた噴水だった。水柱が幾本も立ち上がっては失せるライトアップされた幻想的な水の広場で、1人の長い白髪を濡らす『誰か』が歌っていた。

 その歌声に満たされたのは途方もない程の慈悲と慈愛。1人の死者の為の弔いの歌であり、全ての『命』を想う愛情だ。

 なのに、その歌声に反して、その伸びた白髪は水で洗い流されない程に血がこびり付き、見える肌という肌には醜い傷跡が刻まれ、膿が零れ落ちている。それらは水面を汚染し、穢し、呪詛の産声を上げている。

 歌声の主はユウキに気づいたように歌を止めて振り返ろうとする。だが、ユウキは静かに首を横に振ってそれを拒絶する。

 

「木綿季」

 

「姉ちゃん……ボクね、やっぱり『夢』に帰るよ」

 

 追いかけてくれた、今にも泣きだしそうな……いや、涙している藍子へと振り返り、ユウキは笑顔で告げる。何の迷いなく、今ここにある全ての幸せを……ユウキが確かに望んだ『願い』を否定する。

 

「お姉ちゃんの事……嫌いになったの?」

 

「違うよ。今も大好き。これからも、ずっとずっと愛してる。だってボクのたった1人の姉ちゃんだもん。でもさ、ボクの1番の『願い』は他にもあるんだ。ううん……それを『1番にしたい』んだ」

 

 だからこそ、『彼』はきっとこの世界に現れてくれたのだろう。ユウキの宣言に、藍子は驚くように目を見開いたかと思えば、その顔から表情が洗い流される。

 

「……複数の『願い』。あなたは混沌としている。誰もが胸の内にたった1つの譲れない『願い』を持つ。必ず優劣がつく。なのに、あなたの願いは全て溶けて、混ざり合い、形と色を成していない」

 

「当然だよ。ボクは女の子だよ? 乙女の心は宇宙の神秘にも勝るんだ」

 

 悪戯っぽく、かつて藍子にそうしていたようにウインクしたユウキに、顔の、首の、全身の皮膚が剥げて鏡のような表面を晒し始めた藍子は、何かを悟ったように小さく微笑む。

 別れを告げるように藍子に背を向けたユウキは、降り積もる雪によって崩れていく世界の中で、歌声の主に歩み寄る。

 

「キミの祈りは『ここ』にある。ボクが守る。忘れないから……ボク『だけ』が憶えているから」

 

 自分の胸に……首に下げられたペンダントを握りしめ、ユウキは『夢』に帰る為に瞼を閉ざす。ガラスが砕けるような音が雪と交差した。

 途端に空気は湿り、どろりとした液体が滴る音が聴覚を支配する。暗闇の中に光と色を取り戻したユウキが目にしたのは、オレンジ色の不気味な光を宿したクリスタルが光源となった洞窟である。

 自由が利かない。ユウキは壁面を、足下を、天井を、模様替えのように染める粘液を視界に捉え、それが自分を拘束している事に気づく。首から上は動くが、肩から太腿にかけて粘ついたスライム状の液体が張り付いている。

 まるで何かの巣のようだ。そう察知したユウキは、自分のHPが緩やかにだが減少し続け、間もなく2割を切ろうとしている事に焦る。そして、同時に自分の腹の内で何かが蠢いている異物感に言い知れない恐怖感を募らせた。

 当然ながら母親になったことは無いユウキがイメージしたのは妊婦だ。今まさにユウキの臓物を餌にして、何かが産声を上げようとしている。恐らくは寄生の類だろうと察知したユウキは、レコンならば寄生対策のアイテムを保有しているはずだと首だけを動かして彼の姿を探し、自分と同じように粘液に捕らわれている彼の姿を発見する。

 だが、その口元からはだらしなく幸せそうな涎が垂れ、ニヤニヤが抑えきれないといった腑抜けた顔である。

 

「直葉ちゃーん……待ってよぉ……」

 

 どうやら随分と幸せな夢を見ているようだ。レコンの腹でも何かが蠢いている様子がある。そのHPもユウキと同じく2割未満だ。彼女は深呼吸を1つ挟んで、現状の分析よりも現状の打破こそ最優先と頭を切り替える。

 

「スノウ・ステインは抜けないけど……影縫なら!」

 

 粘液の下で指を動かし、影縫に手をかけてギミックを発動させ、歪んだ刃を射出させる。粘液は抉られ、拘束が緩んだ隙に、ユウキはSTR出力を引き上げて残りを振り払うように脱出に成功する。

 ユウキもステータスの高出力化は体得しているが、どちらかと言えばDEXが本領であり、STRの出力強化は得意ではない。そもそもSTRが低すぎる彼女では高出力化しても得られる恩恵は小さいのだ。

 本当ならば、このまま見殺しにしても構わないのだが、レコンの荷物は早急に必要だ。深緑霊水でHPを回復させたユウキは影縫でレコンの拘束を解き、倒れた彼の口に深緑霊水……ではなく、勿体ないと思いながらも白亜草を押し込む。

 

「直葉ちゃんのキス……凄い草っぽい……草……草の味ぃいいいいいいいい!?」

 

「おはよう」

 

 レコンの顎を軽く蹴り続けて白亜草を咀嚼させ続けていると、レコンは我を取り戻したかのように飛び起きる。そして、自分の唇を何度も撫でるとガクリと項垂れた。

 

「随分と幸せな夢を見てたみたいだね」

 

 自分も他人の事は悪く言えないのであるが、寝言から察するに、さぞかし煩悩溢れた夢だったのだろうとユウキは絶対零度の眼でレコンを見下ろす。だが、今はそれよりも寄生対策アイテムである。

 レコンも自分の腹の異常に気付いたのだろう。背負ったままのリュックのアイテムストレージを開き、2つの小袋を取り出す。中に入っているのは粒状の丸薬だ。【黒蛆虫の苦丸薬】と呼ばれる、DBOでも5本指に入る、胃がひっくり返るどころか五臓六腑が口から漏れる程に反吐が出る味だ。

 だが、良薬は口に苦し。飴のような表面の硬質感と内部のグミのような食感に、アイテム名称を連想しないように言い聞かせながら、ユウキは1人分に当たる小袋全てをしっかりと奥歯で擦り潰しながら食べ終える。

 体内で脈動していた存在が死滅した。それを感じ取ったユウキは腰を下ろし、口直しに水を含む。レコンは涙を流しながら、残りの半分を一気に口内に流し込んで頬を膨らませると、一心不乱に食し終える。

 

「僕たち、確か……」

 

「うん。【メラン廃坑道】で奇妙な失踪事件が多発しているって噂を聞いたんだよ。メラン廃坑道の奥にはノームの古い地下砦があって、そこにはかつて深淵狩りの騎士が住み着いていた。だから手掛かりを探しに来たんだ……よね? ボクも少し記憶が曖昧で……」

 

「ユウキちゃんの言う通りだとと思う」

 

 オベイロンの撃破の為には3体のネームドを撃破せねばならない。町の傍にあるダンジョンともなれば、さすがにネームドの住処とは言わないが、手掛かりくらいはあるだろうと4人で乗り込んだのである。

 攻略自体は順調だった。モンスターはリザードマン系と黒い深淵の泥に汚染されたスライムだ。赤い目玉を複数持ち、極めて攻撃的であり、闇属性のブレスを連発する。大きさも様々であり、最大サイズの10メートル級はHP量も凄まじく、また攻撃力も過多だった。

 そうしてメラン廃坑道を進み続けていたら、急に視界に霧が現れたのだ。そこからは意識が曖昧となり、ユウキは何かに誘われて藍子の夢を……『皆がいて独りではない』世界に捕らわれていたのだ。

 その間に寄生攻撃をしてくるモンスターの餌食となってしまったのだろう。仮に身動きが取れない状態で攻撃を浴びせられ続けていたならば、幻覚を打破するより先に死亡していたかもしれない。そう考えるとユウキはむしろ不幸中の幸いだったと頷く。

 

「僕たち以外いないのかな? まさか死んじゃったかのかな!?」

 

 オレンジ色のクリスタルに顔半分を照らされながら、奇跡の中回復でユウキと共にHPを回復させたレコンは不安が籠った声で震える。ユウキも見た限りでは、少なくとも視界に入る範囲内では赤髭もユージーンも確認することはできない。

 レコンも体験している以上は、ユウキに限ったことではなく、4人全員に同じ現象が発生したと考えるべきだろう。DBOではおよそ考えられなかった、言うなれば精神攻撃に、アルヴヘイムの本性を垣間見る。

 

「……ごめん、分からない。ボスもユージーンも強いけど、あの幻覚は簡単には破れないと思う」

 

「ユウキちゃんも幻を見てたの? その……誰かとキスとか『色々』する夢を?」

 

 チラチラと様子を窺ってくるレコンの視線に、ユウキはそんな馬鹿な話があるかと思い、同時にクゥリの唇が迫ってくるイメージをして、ほんのりと頬を赤くする。

 

「違うよ! きっと、あの幻はボク達が心の中で1番望んでいる願望みたいなのを読み取っただけ! だから、レコンが誰かとキスとか……もにょもにょ……と、ととと、とか? してたのは全部キミの願望だから!」

 

「うわぁ……凄い納得した」

 

 落ち込むレコンの夢は、どうやらキス以上に色々と『酷い』状態だったようである。自己嫌悪しているレコンの状態からも大よその内容は察することができ、ユウキは密やかにレコンの評価を1段階落とした。

 だが、仮想世界で見た夢であるならば……それも意図的なものならば、それは幻という事も出来ないVRが成した1つの『現実』とも言える質感があるのも仕方のない話だろう。極論を言えば、仮想世界とは夢の世界だ。ユウキ達がこうして四苦八苦している間も現実世界の肉体は微動せずに生命の鼓動を刻み続けているのだから。

 そもそも現実とは何なのか? よく映画や漫画で使われる題材であるが、現実世界と思い込んでいたら仮想世界だった……という事も、これだけ質感が伴った現実世界以上に現実らしく五感に訴える世界ならば……アルヴヘイムのように『命』ある存在が闊歩するならば、もはや現実世界との境界線は剥離してしまっているとも言えるのではないだろうか?

 ならば、ユウキが見ていた幻も1つの現実になり得たかもしれない。そこまで考えが深化して、ユウキは首を横に振って危険な思想を打ち消す。

 

(皆は死んだ……死んだんだ! たった1つしかない『命』を燃やし尽くした。ボクは少しだけズルをして、皆よりも長生きするチャンスをつかんだだけ。皆は生き返らない! あの幻はボクの『願い』が作り出した都合の良い世界なんだ!)

 

 だが、その一方でDBOでは死者が平然と蘇り、生者と肩を並べて生活している。その罪深き光景の、何たる冒涜的な事か。

 ユウキは完全回復したHPを睨み、これこそがこの世界で唯一無二の生と死を分かつ数値だと再認識する。

 

「ボスたちを探そう。死んでるにしても……遺体が残ってるはずだよ」

 

 腹から『何か』が突き破った惨たらしい屍を晒すボスなど見たくないが、それでも彼らの生死は確認しておかなければならない。ユウキはスノウ・ステインを抜き、レコンに後衛を任せる。

 オレンジ色のクリスタルはまるで妖精の悪戯のように瞬き、ユウキ達を奥底へと誘っていく。彼女の最後の記憶が正しければ、霧が現れた頃には既にノームの地下砦に到着していたはずである。

 だが、周囲は明らかに洞窟の類であり、壁にも人の手が加わった様子はない。それは逆に言えば、坑道と呼べるものでもなく、巨大な何かによって掘り進められた『巣』という表現が最も相応しい。

 1番の望んでいる『願い』だからこそ、最も強固に捕らえる檻となり、故に打ち砕くのは困難を極める。ユウキは改めて藍子の幻影を思い出しながら、そこに確かな愛着を抱きながら、あの幻の残酷な罠を分析する。

 仮にひたすら拷問されるような地獄の幻ならば、反抗心か逃亡のどちらかを選択して、幻をかき消すことが出来ただろう。だが、幸福に満たされた幻ならば、たとえ幻だと分かっていたとしても、その甘く蕩ける『夢』に浸り続けたいと思わずにはいられないのが人心だ。そして、辛く厳しい『現実』に帰りたくないという逃避が働く。

 ユウキがあの幻を砕けたのは、託された祈りがあったからだ。それはユウキの強い願望と結びつき、彼女の願いを……藍子の姿をした幻の主からすれば、混沌となった願望によって掻き乱したからだ。

 と、そこでユウキは洞窟の向こう側から聞き慣れた咆え声を聞き、表情を明るくして早歩きになる。

 そこは見覚えのある、ノームの地下砦の通路である。ユウキ達は壁に空いた大穴の向こう側に連れ込まれていたらしく、青い水晶のタイルが敷き詰められた、砦よりも城といった方が何倍も似つかわしい通路では、アリーヤが待ちわびていたようにお座りして尻尾を振っている。

 

「無事だったなら助けてくれたら良かったのに」

 

「アリーヤは戦いが苦手なの! それにアリシアと違って臆病だし、でも頑張る時は頑張るんだからね!」

 

 わしゃわしゃとアリーヤの頭を撫で、再会の喜びで頬を舐める黒狼の首を抱きしめたユウキは、愚痴を零すレコンに静かな殺気を送り込む。自分は幻の中で愛しい人と規制が乱立するような真似をしていたくせに、とユウキの中でヘイトがサービス精神旺盛に増量する。

 だが、アリーヤの追跡能力ならば効率的にボスたちの居場所を探せるはずである。ユウキは先導するアリーヤに続き、所々に粘膜が張り付く、荘厳な砦を汚す何者かの後を追うように深部へと進んでいく。

 シャンデリアが天井に吊るされ、蝋燭の代用品のようにオレンジ色のクリスタルが発光している廊下を進む。そうして砦の心臓部だろう、今までのクリスタル造りとは異なり、ザラザラとした岩肌を削っただけの開けた場所に到着する。

 そこで蠢くのは、人間の顔を張り付けた無数のミミズのような胴体をした怪物たちだ。だが、ミミズと決定的に違うのは、人間の手を模した……いや、人間の手そのものとも言うべき多足がつき、百足のように這って動き回ることができる点だろう。口内から際限なく黄ばんだ白い液体を零し、そこには卵と幼虫がたっぷり詰まっている。

 あのまま寄生を放置していたならば、あの人面ミミズもどきが腹を突き破っていたのだろうと考えると、ユウキは言い知れない悪寒と吐き気に襲われる。

 

(纏まっているし、ソウルの剣系なら一掃できないこともない。だけど、一撃で倒しきれる保証もないし……)

 

 この場所が人面寄生ミミズの巣の中心部である事は間違いないだろう。こうした巣を作るモンスターにはたいていの場合、女王とも言うべきリーダーがいる。これを倒せば他のモンスターも沈静化するのがお決まりだ。

 だが、群がる人面寄生ミミズはいずれも大きさに差異こそあれども、決定的な違いはない。いずれも外観は似たり寄ったりであり、女王と区別できるポイントが無いのだ。

 ここはあくまで人面寄生ミミズの溜まり場に過ぎず、女王は別の場所にいるとも考えられる。ユウキは思案するように唇に指を当てる。ユウキ単独ならば、今から地上に戻る事も難しくはない。だが、それは生死不明のボス達の死を決定づける要因になりかねない。

 それに、今ここでレコンに死んでもらうのも都合が悪い。忌々しい事に、レコンが保有するアイテムはいずれも有用なものばかりであり、今後のアルヴヘイム攻略の大きな助けになるだろう事は間違いないからだ。

 

「もしかして、2人とも僕たちを発見できないで、寄生虫を殺すアイテム欲しさに地上に戻ったってことは無いかな?」

 

「あり得なくはないけど、回復しながら地上を目指すにしても時間がかかるし、あの様子だとボク達のお腹を突き破られてたのは10分か20分が上限だと思う。2人ならレコンを探す方に賭けると思うけど」

 

 断言できないのは辛い部分だ。人面寄生ミミズたちはこちらに気づく様子はない。ならば、アリーヤの追跡能力を頼りにして、ユウキの≪追跡≫で補助をかければ、2人の発見は飛躍的に早期化するだろう。

 ユウキは≪追跡≫を発動し、周囲の探索を開始する。≪追跡≫は文字通り対象の足取りを探るスキルであり、パーティ登録されているメンバーならば無条件でその足取りを確認することができる。ただし、≪気配遮断≫などの隠密系スキルで妨害も可能であり、レベル60で習得したばかりのユウキでは熟練度が足らず、年季が入ったシーフ系プレイヤーには大きく溝を開けられている。

 戦闘すれば熟練度が得られる武器系スキルと違い、成長する事によって性能が増すタイプの補助系スキルは使用回数と時間がそのまま性能に直結する。ユウキの≪追跡≫では、パーティメンバーと言えども、せいぜい発見できるのは5分前が限度である。蛇足であるが、ユウキが≪追跡≫を習得した理由はクゥリのストーキングの為であり、貴重なスキル枠の1つを潰したのである。

 

「ボスたちはこの周囲に来てないみたい。一旦戻ろう。地上とまではいかずとも、その道中でボク達が来るのを待っているかもしれない」

 

 レコンを率いてユウキが踵を返そうとした時、群がる人面寄生ミミズの群れの頭上、天井が崩壊して瓦礫の雨が降り注ぐ。続く連続した爆発はユウキも聞き慣れた火炎壺の類である。悲鳴を上げそうになるレコンの口を咄嗟にユウキは右手で押さえつけ、混乱する人面寄生ミミズたちへと舞い降りながら銀光を振るう影を目にする。

 それは群青色のマントに血のような赤色で狼のエンブレムを描いた剣士たちだった。軽量性に特化した革装備でありながらも、要所を金属プレートで補強した独特の防具。目元以外の全てを覆いつくす兜。右手に持つのは身の丈ほどもある大剣であり、左手には連射性に特化したクロスボウを装備している。

 剣士たちは軽々と銀光を纏う大剣を振るい、人面寄生ミミズたちを次々と屠っていく。その動きはDBOという魔境で生き抜いたプレイヤー達にも迫る……あるいはそれ以上の、洗練され、なおかつ獰猛な剣技だ。

 ふわりと浮いたかと思えば全身を独楽のように回転させながらの叩きつけ斬り。囲まれたかと思えば回転斬りからの正面への連続薙ぎ払いから必殺の刺突。背後を取られたかと思えば即座に逆手に構えて脇を通すようにして刺突し、串刺しの状態のまま強引に引き摺って壁に押し付けながら肉を抉る。

 クロスボウはあくまでも中距離の補助なのだろう。逃げ出そうとする人面寄生ミミズたちへと斉射し、足止めしたところに容赦なく油壷を投げて火力ブーストの下準備をしたところに、次々と火炎壺を投擲して丸焼けにする。

 

「深淵のバケモノ共め。性懲りもなく蔓延りやがる」

 

 他の剣士たちよりも一際目立つ青い房が取り付けられた兜をした、リーダー格だろう剣士が兜を外す。外気に触れ、汗ばんだ皮膚を晒した姿はスプリガンだ。人面寄生ミミズの体液で汚れた剣士たちはそれを気にする様子もなく、それぞれの得物の確認し、破損が無いかチェックする。

 

「【ガジル】、女王はいないわ。ここは『姫』の為に新しく準備された巣に過ぎないようね」

 

 同じく兜を外したのは、猫のような耳を持つ種族……ケットシーの女性である。ガジルと呼ばれたスプリガンの剣士は、ふむと無精ひげが生えた顎を撫でた。

 

「ならば『姫』の卵だけでも潰すぞ。連中の繁殖力は侮れん。人間性を糧とするバケモノからすれば、対抗する術も力も無いアルヴヘイムは肥沃な大地。種をばら撒き、根を張り、土地が枯れるまで吸いつくすだろう。それに、深淵の魔物……『黒獣』も出現したと噂もある。結託するとは考え辛いが、放っておく道理も無い」

 

 彼らの会話の内容から察するに、この人面寄生ミミズを討伐しに来た騎士団、あるいは傭兵といった所だろうか? だが、彼らから醸し出される空気は犯罪ギルド所属のユウキには手に取るように分かるが、明らかに堅気のものではない。

 話が通じるならばコミュニケーションを取って情報収集も吝かではないが、敵対するか否かも判断できない以上は慎重になるべきだろう。ユウキはハンドサインでレコンにこの場から離れるように伝える。彼も頷いて1歩後退するが、背負うリュックの重さを勘定に入れていない、及び腰の後ずさりは大きくバランスを崩し、派手に転倒してしまう。

 いかに≪気配遮断≫を発動しているとはいえ、この物音に気付かない程に彼らは間抜けではない。総勢12名の剣士たちは素早く臨戦態勢を取り、リーダー格のガジルは兜を被らないまま、腕を上げて仲間を制す。

 ……口に油を注ぎ込んで内側から焼き殺したい。ユウキはあわわわと震えるレコンを横目に、彼を放ってアリーヤと共に逃げても十二分に言い訳は立つだろうと計算する一方で、ここで彼を失った場合のアイテムの損失を考慮し、なおかつ剣士たちの未知なる実力も付け加えて、大人しくホールドアップして彼らの前に姿を晒すことを決定した。

 

「この深淵に穢れた砦に踏み入るとは、随分と物好きな娘のようだな。迷子というわけではあるまい?」

 

 若い娘と見て油断したのか、あるいはユウキに敵意はないと感じ取ったのか、ガジルは剣を背負い、それに倣うように他の剣士たちも武器を収める。どうやら戦闘は免れたらしいと安堵するユウキは、威嚇するアリーヤに押し留まるように言い聞かせて、両手を上げたままガジルに数歩近づく。だが、それを妨害するように、ケットシーの女剣士が間に入ってサブウェポンだろう短剣を抜いた。

 

「ガジル! ダークレイスに男も女も無いわ! ここは深淵に穢れた伝承を持つ砦! 常人はもちろん、命知らずの賞金稼ぎや冒険者も忌避する呪われた地よ!?」

 

 ダークレイスとはPK推奨誓約【闇の巡礼】を結んだプレイヤー、あるいはこの誓約に属するNPCや人型モンスターの総称である。大ギルドは当然ながらPK推奨誓約を結ぶことを全面的に禁じている。だが、ダークレイスによって得られる誓約スキルとアイテムはいずれも対人戦において強力なものばかりだ。だが、誓約レベルを上昇させる方法は唯一無二……PKである。故に大ギルドは闇の巡礼を結んだ時点で『殺人の意思があり』と判断し、無条件での捕縛・殺害を認可している。

 ダークレイスに対して著しく敵対心を燃やしているのは暗月の剣である。神の敵であるダークレイスは宿敵なのだ。ならば、彼らは暗月の騎士なのだろうかともユウキは考えるが、その態度はどうにも異なるように映る。

 何よりも狼のエンブレム。そして先程の剣技。いずれも何処かで、ごく最近に似たようなものを見た気がしたユウキは、彼らの剣技がガウェインと似通っている事に勘付く。

 

「あなた達はもしかして……深淵狩り?」

 

 正答率は半分。そう見当をつけたユウキに、ガジルはケットシーの女剣士の肩を叩いて下がらせると、無理して穏和な笑顔を作ろうとする……だが、生来の強面のせいで今にも食い殺そうと歓喜している人狩り族にしか思えない表情を浮かべた。

 アリーヤが悲鳴のように鳴いて、レコンはガクガクと今にも失禁しそうな顔で腰を抜かす。だが、ユウキは相手が友好的な態度を見せていると判別して、落ち着くように呼吸を1つ入れた。

 無害を装うのは悪手だ。ケットシーの女剣士が言った通り、ここはアルヴヘイムの住人……戦い慣れている冒険者も滅多なことでは近寄らない禁域なのだろう。ユウキ達からすれば倒すのも難しくないモンスター群であったが、アルヴヘイムの住人たちは強くてもレベル20、高くても30が限度ならば、実力的にも立ち入らないのは当然だ。

 

「いかにも。我々は深淵狩りだ。そういうキミ達は同胞ではあるまい?」

 

「……ボク達はランスロットの情報を求めて来たんです」

 

 元より交渉を得意とはしないユウキであるが、あくまで専門にしないだけであり、いろはを心得てはいる。

 まず交渉において重要なのは、1も2も無く、相手にテーブルにつかせる事だ。互いにとってのメリット、デメリットを論じるよりも先に、対等あろうと優劣があろうとも、交渉が『通じる』という環境を整えねばならない。

 その為には相手の欲している情報がいる。興味を惹かせるキーワードがいる。その1点において、極力ではあるが、嘘を混じらせるべきではない。

 

「ランスロット……裏切りの騎士か。参ったな。俄然としてキミ達を放っておくわけにはいかなくなった。よもや、ランスロットの信奉者……深淵に与することを望んではいまいな?」

 

 明らかな憎しみが籠った眼で問うガジルに、ユウキは彼らが一様に深淵に対する憎悪から深淵狩りとなったのだろうと見抜く。ならば、話は早いと小さく笑った。

 

「むしろ逆だよ。ボク達はランスロットを倒しに来たんだ」

 

「冗談……ではなさそうだな。どうする、【メノウ】? 私としては、彼らから是非とも話を聞きたいのだが」

 

 困ったようにガジルは腕を組み、ケットシーの女剣士に問いかける。すると彼女は溜め息と共に耳をピクピクと揺らして背を向けた。

 

「ランスロットは我ら深淵狩りの怨敵でもある。彼女の言葉が真実かどうかは別として、確かに話を聞く価値はあるわね」

 

「そういう事だ。悪いが、拒否権はない。我々と同行してもらう」

 

 少なくとも背後から刺してくる相手ではない。だが、無条件で信頼できる仲間でもない。しかし、有用な情報を持っている事は間違いない。総合して彼らと繋がりを持つのはアルヴヘイムの事情に疎い自分達からすれば願ってもない申し出だとユウキは拳を握った。

 

「あはは。怪我の功名……かな?」

 

 引き攣って笑うレコンに、ユウキは否定する言葉も無いが、無性に腹立たしくなる。同行者2人が加わるも、動揺する様子もなく、深淵狩りの剣士たちはリーダーのガジルの指示に従い、あの人面寄生ミミズの次期女王……『姫』の卵を探し始める。

 

「そういえば、ボクの仲間で2人の男を見てないかな? 1人はバンダナを付けた赤い髭の……こう、野武士みたいな人で、もう1人は赤い鎧姿の大柄の剣士なんだけど」

 

「悪いが、見ていないな。だが、【深淵の虫】は人を苗床にして人間性を啜って育つ。寄生されたならば、早急に処置を施さないとまず助からないだろう」

 

「……そっか」

 

 ガジルは松明を手に、砦の更なる地下……人面寄生ミミズたちが掘っただろう巣穴に潜っていく。それに続いたユウキは、ボスの安否を気にしながらも、彼ならば幻覚を打ち破って自分よりも先に自由を取り戻しているはずだと信じる。

 と、そこでアリーヤが鼻をピクピクと震えさせ、ユウキの手の甲に頭を擦りつける。狼を象徴とする為か、深淵狩りの剣士たちから干し肉などを貰ってチヤホヤとアイドル扱いされていたアリーヤのこの反応は、ボスたちを見つけたからだとユウキは安堵する。

 駆けるアリーヤに続いてユウキも暗い洞窟を進み、ようやくたどり着いたのは、粘液滴る巨大な空洞である。その中心部には不気味な黒真珠のような卵が鎮座しているのであるが、その周辺では猛々しく炎が巻き上がっている。

 焼かれているのは人面寄生ミミズたちだ。その遺体は分厚い刀剣で斬り払われ、あるいは叩き潰されている。そして、今まさに卵へと分厚い刃を通し、なおかつ呪術の火から大火を生んで焦がすのはユージーンだ。彼のすぐ傍では、気を失ったままの赤髭が横たわっている。

 

「なるほど。どうやらキミのお仲間は単なる苗床だけではなく、『姫』の養分にもされていたようだな。だが、それが逆に連中の仇になったようだ」

 

 納得した様子のガジルであるが、ユージーンの戦いの凄まじさに感心しているようである。彼らからすれば、≪剛覇剣≫を使っていない状態でも、ランク1のユージーンの戦いっぷりはアルヴヘイムでも滅多に見れない勇猛なのだろう。

 ユージーンは減り続けるHPを回復アイテムで治癒させて生き長らえたのだろう。ボスがまだ幻に捕らわれているのは予想外だが、仲間2人の無事にユウキは胸を撫で下ろす。

 

「貴様らも無事だったようだな。そこにいる連中は……」

 

「彼らは深淵狩りだよ。ボク達がランスロットを追ってるって聞いたら、是非とも話をしたいってさ」

 

「……そうか。オレは構わん。構わんのだが……腹下しの薬をくれ」

 

 鎧で隠されているが、ボコボコと皮下で寄生ミミズが蠢いているのだろう。顔色の悪いユージーンに、レコンは慌てて黒蛆虫の苦丸薬を取り出す。ユウキも1人分もらうと意識を失ったままの赤髭の口に押し込む。

 

「うげぇええええええええええ! マズ! ゲロマズ!」

 

 すると1秒と待たずして、舌を突き出した赤髭が飛び起きる。覚醒と寄生ミミズの除去を同時に済ましたユウキに、感心したようにケットシーの女剣士は傍らで膝を折った。

 

「凄いわ。深淵の虫を殺すには多量の聖水で3日3晩の治療が必要のはずなのに。何処の薬なの?」

 

「えーと、ボクは薬師じゃないから詳しくないんだ。ごめんね」

 

 彼らの実力は目に見張るものこそあるが、やはりアルヴヘイムでは十分な薬や武器の開発は望めないのだろうとユウキは睨み、これもまた取引材料になるかもしれないと期待する。

 

「どうやら俺がビリのようだな。情けねぇな」

 

 ユージーンやレコン、それにユウキを見回し、自分だけが幻を見ていたわけではないのだろうと悟っただろう赤髭は、苦笑しながらユウキから受け取った水を飲む。その双眸にはまるで愛しい故郷にたどり着いたかのような、ある種の哀愁が漂っている。

 あの幻が最も望んだものを見せるならば、その願いの重さの分だけ幻に深く囚われるのかもしれない。

 自力で幻を振り切っただろうユージーン。

 幻の中で幸せを貪っていたレコン。

 幻だと分かっていても愛着を捨てきれないボス。

 そして、2つの願いが反発し合っていたユウキの幻。

 

 幸福の微睡みを誘う白昼夢。その先で出会った深淵狩りの剣士たちはユウキ達を次なる道へ導く。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「起こすにしても、やり方があると思わない?」

 

 小川で顔を洗っていたシノンが口を尖らせると、小岩に腰かけてピナに飴玉を食べさせていたシリカは嘆息する。

 場所は漁村から遠く離れた渓谷。豊かな森の実りは多様な生物を集めたのだろう。草食獣はもちろん、それらを餌にする肉食のモンスターまで幅広く生息している。途中で出会った狩人によれば、この渓谷の川の上流には、金脈で潤う都市があり、各地から出稼ぎの労働者が集まる、アルヴヘイムでも有数の人口密集地という事だった。

 廃坑都市とも呼ばれているならば、同じく鉱脈と舵で発展した都ならば情報も得られるだろうとシノン達は方針決定をし、クラーケンを神と祀る冒涜的な漁村を出立した。なお、そこでシノンは危うくクラーケンへの生贄にされそうになったのであるが、UNKNOWNの機転で危機を脱し、漁村は逆にクラーケンによって滅ぼされる自業自得の顛末を迎えた。

 禁海と漁村という2回連続で危うい冒険を潜り抜けたのだ。次の渓谷はシノン達のレベルからすれば危険なモンスターなどいないに等しく、襲ってきても3人どころかUNKNOWN1人でも軽々と撃破できる。DBOでも滅多に味わえない、のびのびとした自然の狭間の旅にシノンは肩の力を抜いていた。

 そう思っていた矢先に、突如として霧が濃くなったかと思えば、シノンは幻を見ていた。あの忌まわしい事件が起きる前の、母も健在だった頃の、何も不安など無かった幸せな頃の夢である。

 いや、正確に言えばシノンには夢を見ているという自覚さえも無かった。あの事件も、DBOも、何もかも一夜の悪夢だったのだと思い込み、家族で囲う温かな食卓を満喫していたのである。

 

(感謝はしているわ。でも……)

 

 顔を洗い終えたシノンはタオルで拭い、幸福な夢の残滓を振り返る。今でも指先にまで母の温かな手の感触が残っているかのようだ。口の中でふんわりと広がった卵焼きの味は今では思い出すこともできない過去の美味だ。それらを打ち砕いたのは、容赦ないシリカの蹴りだった。

 意識を失っていたシノンは食虫植物に捕らわれ、蔦にある棘で生きたまま吸血……HPを吸われ続けていたのである。幸いにも相手は低レベルであり、高VIT型でもないシノンでもHPを吸いつくされるには時間がかかった為に一命を取り止めたが、シリカの蹴りが無ければ死んでいただろう。

 どうやら夢を見ていたのは3人とも同じらしく、1番に目覚めたのはシリカ、次に蹴り起こされたシノン、そして最後まで目覚めなかったのはUNKNOWNだった。もちろん、彼の場合にはハエトリ草型にぱっくりと食べられていた事にも原因はある。シリカがシノンを真っ先に起こしたのは、自分の力だけでは絡まる蔦を振りほどけなかったからだ。

 

「私は低STR型なんです。ほぼ初期値なんですよ。短剣を振るえる以上のSTRは元より不要ですからね。ピナも『あの人』と一緒に食べられていましたし、シノンさんを起こすしか助かる術はなかったんですよ」

 

「私もSTRは高い方じゃないわよ」

 

 ついつい口を尖らせてしまうのは、あの夢に今も少なからずの執着心があるからだろう。

 シリカもUNKNOWNも、どんな夢を見ていたのかは教えてくれなかった。UNKNOWNに至っては、目覚めてしばらくの間は茫然としたまま現実感を失って立ち上がれずにいた程である。だが、彼らの口振りの限りでは、シノン同様に幸福そのものとも言うべき夢を見ていたのは違いなかった。

 携帯調理セットで、渓谷の果実を材料にしてクレープを作るシリカは、その甘い香りを漂わせる。食欲には勝てなかったのだろう。茂みの向こう側で、雑念を振るうように素振りをしていたUNKNOWNが蜜に誘われた蜂のようにフラフラと現れる。

 

「でも、シリカはよく幻に勝てたわね?」

 

 奇麗にカットされた果実が蜂蜜と絡むクレープに舌鼓を打ちながら、シノンはいつまでも幻に捕らわれたままだと振り払うように食事の談話の種とする。

 あっという間に1つ目のクレープを食べ終えたシリカは、親指で口回りについた蜂蜜を拭って舌で舐め取り、つまらなさそうに目を細めた。

 

「幻は所詮どんなに緻密でも幻です。あの夢は私達の願望を見せる類だったのでしょうが、だからこそ私には看破も容易でした。私の1番の願いは『絶対に叶ってほしくない』ものですからね。そして、私は叶わないでも良いと思っています。だから振り払うのは簡単でしたよ」

 

「絶対に叶ってほしくない願望っておかしくない?」

 

「考え方次第ですよ」

 

 そういうものだろうか。シリカの願望がどのようなロジックで成立しているのかは見定められないが、そもそも願望とはプライバシーの部類であり、安易に踏み入るべきではない秘密にも成り得る。シノン自身も、仮に問われても、あの幻の内容を語ろうとは思わないだろう。

 

「だけど、悪趣味よね。あんなトラップを準備しているなんて、アルヴヘイム……ううん、茅場の後継者らしいと言えばらしい気もするけど」

 

 だが、それでも精神に直接訴えて殺しにかかるトラップなど、DBOには今まで無かった。

 もちろん、幻覚系トラップが無かったかと言えば断じてそんなことは無い。そもそもVR技術の根幹とは『自由自在に夢を見させる』技術とさえ揶揄されているのだ。五感を支配された脳に別の情報を新たに送り込むだけで幻は完成する。

 シノンもダンジョンで幻の敵に囲まれるパニック型のトラップに引っかかった事はあるし、相手との距離感を狂わせる鱗粉を使用する蛾のモンスターに苦戦を強いられたこともある。多くの経験で最も苦々しかったのは、強制的に空腹にさせられたかと思えば御馳走が見つかって食欲に負けて口にしてみれば虫たっぷりの腐葉土だったという、ダメージも無ければデバフもつかない、正真正銘の『嫌がらせ』である。

 DBOプレイヤーは後継者の底知れない、同時に子供じみた狂気の孕んだ悪戯に頭を悩ませ、この憎たらしいゲームマスターに日々呪いを吐きつけるである。

 だが、精神攻撃にそのままモンスターと連動したデストラップなど今まで1度も無かった。いや、そもそも後継者ならば、幸福な夢を見せたまま殺すよりも、一転して悪夢に変じさせて地獄の底に叩き落とすくらいの真似をする方が性に合っているはずである。

 

「確かにおかしいんだよな。アルヴヘイムの特徴と言えばそれまでだけど、集めた情報の限りでは幻を見せて惑わすモンスターはいても、殺しにかかる奴はいるって聞いてないし」

 

「本土にはそんな危険なモンスターがいた事を知らなかっただけかもしれないわね」

 

「だけど……確かに後継者らしいんだけど、何か引っかかるんだよな」

 

 クレープを4つも平らげたUNKNOWNはお腹を擦って満足しながらも、今は仮面で隠されていないスライドさせたまま、両手を地面について青空を見上げる。

 

「これは俺のゲーム勘なんだけど、あの幻覚とモンスターの連携は別物だったんじゃないかな? 俺達が死にやすそうな場所でわざと幻を見せて惑わせたとか」

 

「人食い植物なら『ご飯』を捕まえるのに幻覚くらい見せるんじゃない?」

 

「いや、あのモンスターは『肉食』であって『人食』じゃないと思うだよな。甘い香りで他の大型動物を誘うのが主な狩りの仕方だろうし。人間だったら、良く取れる果実とか有用な薬草に擬態する、そんなデザインにならないか?」

 

「それは真っ当な進化の話でしょう? ここはどれだけ本物の世界に似ていてもゲームの世界よ、仮面の傭兵さん」

 

 DBOよりもずっと平然と生物に溢れているとしても、アルヴヘイムも根幹はDBOと同じ、人の手でデザインされた仮想世界のはずだ。だからこそのシノンの反論だったのだが、まるで異論があるようにUNKNOWNは胡坐を掻いて前のめりになった。

 

「本当にそうかな? 確かにDBOのダンジョンには明らかな人の手による、ゲーム性を増す為のデザインが組み込まれている。イベントだってしっかり準備されてるし、トレジャーボックスみたいなアイテム配置もある。でもさ、アルヴヘイムで1度でもイベントがあったか? NPCとのフラグ立ては? モンスターもいたけど、クラーケン以外は何かおかしいと感じなかったか?」

 

 確かに言われてみれば、モンスターにしても単純なオペレーションに従うタイプとはほとんど遭遇していない。いや、正確に言えば漁村を占拠していた半魚人などもモンスターに分類されていたのであるが、どうにも奇妙な行動ばかりとるのだ。

 たとえば、半魚人の最初の一撃は銛による突きから薙ぎ払いだった。それは単調な攻撃に見えたが、そこから派生する動きには自由性が豊富に含まれ、まるで動きに規則性が無いのである。言うなれば『最初の一撃は2種に限る』というオペレーションだけが機能しているようだった。

 

「俺はアルヴヘイムでAIが自己進化して、それに引きずられる形でアバターも変異しているんだと思っている。アルヴヘイムでは確かな生態系があって、学者なんかが次々に新種を発見しているんだ。でも、アルヴヘイムという舞台だけで何百種……植物や虫も含めれば何千種も準備するくらいなら、DBOの他ステージもそれくらい作り込まれていると思わないか?」

 

 DBOではその気になれば、あらゆるアイテムを収集できる。足下の小石はもちろん、花から雑草まで自由にアイテムストレージに収納できる。だが、もちろんであるが、装備や薬などに加工できるアイテムは採取・採掘ポイントでしか収集できない制限もかけられている。その気になればダンジョンにある松明などの照明も利用できるなど、自由性の高さに関して言えばシノンが経験したVRゲームでも随一だ。

 3人分の皿を片づけるシリカも、UNKNOWNに同意するように軽く頷いてツインテールを揺らす。

 

「私もアルヴヘイムはDBOと決定的にゲームデザインが違うと思います。DBOがSAOのゲームシステムを下地にして開発しているように、アルヴヘイムもDBOのシステムを借りてはいますが、全くの別物と考えた方が『安全』です。それにオベイロンの動きにも、私には人間的な意図を感じます」

 

「俺もだ。仮にオベイロンの指名手配が【来訪者】……プレイヤーのアルヴヘイム到着から時間経過で発生するイベントであるにしても、違和感が残るんだ」

 

 情報不足と言えばそこまでであるが、全ては仮説の域を出ない。今のシノン達にできるのは反オベイロン派に接触する事だけである。

 

「ところで、このクレープ美味しかったわね。さすがはシリカね」

 

「それは良かったです。やっぱり甘い香りがするものは相応に味も甘いようですね」

 

 それってもしかして……とシノンは近くで、シャルルの森と同様に消滅することなく残っている人食い改めて肉食植物の亡骸を見て、食べる側と食べられる側が逆転したこと……そして、仮想世界とはいえ、自分の血をたっぷりと吸った植物からドロップしたアイテムを食した事に、思わず胸にせり上がるものを感じた。

 そうして渓谷の川、その上流を目指して歩き続け、夕闇が訪れる頃になって、せいぜいは狩人がよく使用する獣道程度だったはずの足場に舗装された道路に出る。

 本来ならば海岸からこの金脈都市まで続く道路はなく、大きく迂回して4つ以上の町を通り、更に別の都市から定期便に乗らなければならない。だが、漁村から直行する渓谷ルートならば大幅に近道できると踏んだUNKNOWNの計画が実ったのだ。シノンも安心して髪や肩に貼りついた木の葉やブーツを汚す泥を払い除ける。

 

「シャワー浴びたいわね。それに、やっぱり野宿は体に堪えるわ」

 

「それが傭兵の発言ですか?」

 

「傭兵でも女の子のつもりよ」

 

 即座に吸血蔦並みに棘だらけの発言をするシリカに、シノンはやはり何か恨まれることをしただろうかと振り返りながら、疲労感のままに反論する。義手化してからは『お姉様』と慕う女性レイヤーの数が倍化したとはいえ、シノンは乙女を捨てたわけではないのである。

 アイテムストレージに余裕が無かったので香水なども持ち込んでいない。脇のみならず、全身からは渓谷突破の功績を示すような汗臭さが醸し出されている。途中で何度か川の水で体を洗い、汗を流したとはいえ、どれだけ戦い慣れても現代人である……しかもお風呂文化が発展に余念なかった日本で生まれ育った以上は我慢ならないのだ。

 

「そういえば、シリカからは良い香りがするわね」

 

 同じく汗まみれのはずのシリカであるが、シノンに比べればニオイが薄く、むしろ仄かに色っぽい、薔薇をベースにしたような香りがする。それは鼻を強く刺激するものではなく、意識せずに、だが空気のようにふわりと吸い込まれていく、絶妙な配合がされたものだ。

 

「『女の子』なら命と同じくらいに身だしなみに気を使わないでどうするんですか? 女の子の戦場は日常からプライベートまで全部なんですからね」

 

 回復アイテムを削ってでも香水を持ち込んだのだろう。命懸けの女子力の差にシノンは汗臭い自分を恥じるようにUNKNOWNと距離を取ろうとするが、思えばシャルルの森では互いの体臭など嫌と言う程に鼻にして、スミスの鍛錬でもお互いに汗を散らしていたのだ。今更と言えば今更なのであるが、急速に恥ずかしくなかったシノンは頬を赤くしながら、心なしか早歩きで金脈都市に入る。

 衛兵は『また出稼ぎか』といった調子でろくな調査もせず、名簿だけ差し出す。シノン達は適当に名前をでっちあげて門を潜れば、都全体が工房なのかと思う程に、煙突が突き出した都が目に入る。

 冷却用の水が各所で熱せされた歯車に触れて蒸気を生み、赤錆のような煉瓦に似た石材で作られた石畳には線路が敷かれ、大量の金鉱石を乗せたトロッコが行き交う。ノームだろう鍛冶屋たちの怒号が鳴り響き、商人だろうレプラコーン達は市場で加工された装飾品に値切り合戦を熾烈に繰り広げている。

 シリカが代表して渓谷と漁村で入手したアイテムを売り捌き、ユルドを稼ぐ。コルが使えない以上はアイテムの売却が唯一無二のユルドの稼ぎ方である。

 

「クラーケン像が思った以上に良い値が付きました。やっぱり何処にでも物好きはいるものですね」

 

「あんな呪いの1品を欲しがる人が本当にいるのね」

 

 確かに匠を感じる、漁村で奉じられていたクラーケン像が10万ユルドという大金に生まれ変わったのを見て、シノンは世の珍品も個々人の感性と富によって天文学的な値段がついているのだろうな、とぼんやりと思った。

 だが、資金が有限である以上は無駄遣いなど以ての外である。鉱山労働者が集う町というだけあってか、宿泊施設は多い。1番安いのは20人の雑魚寝部屋であるが、これはシリカとシノンの猛反対によって却下された。だからと言って個室は逆に危ういという事もあり、男女混合ではあるが、3人部屋に宿泊が決定する。

 

「個室風呂は無いみたいですね。でも、地下に浴場があるみたいですし、そこで我慢しましょう」

 

 心なしか歩みが軽いシリカも、口では何とでも言っても、汗でベタベタする体は我慢ならなかったのだろう。宿の地下にある公衆風呂まで一足先に赴く。後を追ったシノンが見たのは、どうしてアルヴヘイムという西洋風世界なのに、日本の銭湯にしか思えない、青と赤で暖簾で男女が分けられた公衆浴場の入口だった。

 

「やっぱり、最初はコンセプトデザインがあったんじゃないかなぁ?」

 

「考察は後にしましょう」

 

 腕を組んで首を捻るUNKNOWNを放っておいて、シノンは脱衣室に入る。金脈都市という名前こそあるが、わざわざここに金細工を買いに来る女性はいないし、旅行にも適さない。また鉱夫も基本は男性が従事する職だ。故にであるが、夕陽が落ちたばかりの1番混み合う時間のはずなのに、女性浴場は無人である。逆に壁1枚向こう側の男性浴場はむさ苦しい地獄絵図と化しているだろう。

 

(石鹸1つ200ユルドとタオル1枚50ユルド。それに入浴料が500ユルド。合計750ユルドの出費か。高いのやら安いのやら)

 

 DBOで1番お手頃な公衆浴場と言えば、ガルム族の英雄ラーガイの記憶にある。使用料も初期プレイヤーを想定しているので安上がりであり、大衆食堂もあるので、今も利用者の数は多い。だが、繰り返された大ギルド間の利権争いの末に、太陽の狩猟団から聖剣騎士団が奪い取り、シノンのような太陽の狩猟団陣営のプレイヤーには使い辛くなってしまった。

 他にも最近でいえば、コロシアムの傍にはクラウドアースが建設したホテルがあり、屋上には露天風呂が設置されている。維持だけでも高額のはずであるが、娯楽性を重視しているクラウドアースは全面開放しており、何処の陣営だろうと使用可能だ。だが、使用料は1泊で1万コルにも届くほどである。とてもではないが、気軽に使用できる場所ではない。それでもギルドの慰安やデートの締めによく利用されている。

 湯気で視界が遮られる浴場は30人以上が一緒に浸かっても余裕がある程に大きく、また想像以上に凝ったデザインである。中心部には噴水のように4つ首の金箔のライオン像があり、その口から途絶える事無く湯を流している。灯りとなっているのは天上で吊るされているガラス製のランタンなのであるが、灯っているのは炎ではなく煌々と輝くクリスタルだ。それらは月明かりよりも強く、だが太陽程ではない、地下の浴場に相応しい温もりの光を与えている。

 さすがにお風呂の最中には義手を付けたままとはいかずに、シノンは片腕のまま、ややバランスを取るのに苦労しながら足が滑らないように浴場を歩いて見回す。

 

(タワシ……というよりも、スポンジに近いかしら?)

 

 この辺は欧米スタイルだ。体を洗うスペースには、サービスで設置されている、動物の毛を編み合わせたスポンジがある。ゴワゴワとしているが、200ユルドの1回分の小さな石鹸を使用すると泡立ち、複数の薬草を混ぜた香りが汗臭さを忘れさせてくれる。

 発汗こそするが、『今のところ』は垢など皮膚から老廃物が排出される様子が無いDBOにおいて、体を擦り洗う事にどれだけの意味があるのかと問われれば、ニオイ落としと石鹸による香りづけ、そしてそれ以上に『気分』の問題がある。

 どれだけシステム的に垢が無くとも、人間の先入観は汚れを落とすという作業をしなければ、永遠に意識にこびり付いたままになってしまう。言うなれば、体を擦り洗うのは意識を洗浄する為に必要不可欠な作業工程なのだ。

 

「その様子だと後悔していないようですね」

 

 隣で桶のお湯を頭から被り、今はツインテールを解いた小柄な少女、シリカはそう言いながら、シノンが買いそびれていたシャンプーを差し出す。わざわざ半分残してくれたのだろう小瓶の中の薄緑の液体をありがたく使わせてもらい、シノンはこれぞ人間の至福と息を漏らす。

 

「今日までの旅で分かったと思いますが、アルヴヘイムはDBOからも逸脱した仮想世界です。ダメージにもシステム的違いが見られましたし、デバフではない病気もあります。インプやケットシーの扱いを見た通り、21世紀の水準には法的にも道徳的にも到達していません。モラルが『破壊された』DBOとは決定的に違う。『成長途中』の文明なんですよ」

 

 丹念に残りの石鹸で顔を洗ったシリカは、桶の中で浸かって『極楽♪ 極楽♪』と言っているようなピナのお腹を指で掻く。シノンには目を合わさずに、だが確かに『心配』という情を滲ませた目をしていた。

 だが、それはシノンの安否を気遣うものではない。いい加減に彼女も学習している。

 シリカが心配しているのはUNKNOWN1人だけだ。仮にシノンが死んでしまった時、自己責任と自己嫌悪で彼が押し潰れてしまわないかという1点だ。

 2人で一緒に湯船に入り、やや熱めのお湯に息苦しさと心地よさを同居させ、シノンは無言でシリカの言いたい事を噛み砕く。

 この都市は人口が多い分だけ人目も散漫になる。隠れて暮らすならば最適だろう。日銭を近くの渓谷での狩りで稼げば、十分な食事と宿には困らない。

 確かな安全がここにはある。ならば、2人に攻略を任せて、シノンはここでドロップアウトするのも1つの選択肢として十分に確立するだろう。

 

「……私ね、実を言うと、少しだけワクワクしているわ」

 

「ハァ!?」

 

 だからだろう。そんな選択肢に興味はないとばかりに、シノンは恥ずかしそうに、自分の胸中を吐露する。これにはさすがのシリカも馬鹿でも見るような目をして大口を開けた。

 

「あなた達の目的を考えたら不謹慎だとは思う。でもね、このアルヴヘイムの冒険には……私がDBOの生活の中で忘れかけていたものを取り戻せるような気がするのよ。大切な……大切だった時間の名残を」

 

 薬草に浸していあるのだろう。やや緑色をしたお湯の中で思いっきり足を伸ばしたシノンは、未だに驚愕から抜けきらないシリカに笑いかけた。

 ディアベルとクゥリ。3人で、未知なるDBOの冒険をした時間。毎日を実入りが無い雑魚との戦いでレベリングに励み、互いに協力し合い、笑い合い、未知に挑んでいたあの頃。たとえ、デスゲーム開始直後の大きな不安があったとしても、シノンの中では不思議なほどに、あの事件以来最も楽しかったと思える記憶として刻まれている。

 まずい食事と不十分な寝床。それでも、確かな心の豊かさがあの時間にはあったのだ。

 きっと『傭兵』としてではなく、『シノン』としてアルヴヘイムの旅に同行しているせいだろう。気の緩みに繋げるつもりはないが、それでもシノンは今の気持ちをシリカに知ってもらいたかった。

 

「シノンさんは凄いですね。私はそこまで強くなれません」

 

 膝を抱えたシリカは、ブクブクと泡を吹いて、しばしの沈黙の後に湯気に向かって呟く。

 

「私は昔から戦うのが苦手だったんです。ピナと『あの人』がいなければSAOでも死んでいました」

 

「…………」

 

「いつだって限界ギリギリです。私はね、このアルヴヘイムで死ぬだろうって思っていました。『あの人』を守れて死ねれば本望だって……。でも、私もまだまだですよね。あの幻のせいで、どうにも……心が軋んでしまって……」

 

「どんな夢だったの?」

 

 自分が見た夢を明かさずに尋ねるのはフェアではない。そう咎める心があった。だが、野次馬根性に似た好奇心は無かった。シリカはきっと聞いてほしいからこそ、この湯気に今から語る全てが溶けて消えてしまって欲しいと望んでいるからこそ、『弱さ』を見せているのだろうとシノンは直感する。

 

「……大好きな人と結ばれる夢です。私だけを真っ直ぐと見てくれて、愛を囁いてくれて、永遠の幸せを誓う夢です」

 

「それは――」

 

「変ですよね。私は『それ』を否定したはずなのに。だから『あの人』の隣にいたはずなのに。やっぱり心の奥では願っちゃってるんですよね。あはは……はは……」

 

「それが……女の子なんじゃないの? ううん、違うわね。人は誰だって、愛する人の『1番』になりたいんだと思うわ」

 

 恋人もいたことがない私が言っても説得力ないだろうけど、とはシノンも付け加えなかった。

 シリカはそれ以上何も言わなかった。だが、心なしかシノンに対する笑みが前と同じような柔らかなものになったような気がした。

 阿鼻叫喚の男性浴場のせいか、あるいはシノン達よりも長風呂なのか、UNKNOWNはまだ部屋に戻ってきていなかった。シノンは義手を装備して、タオルを首にかけたまま火照った体を冷ますように、仕事帰りの鉱夫で溢れかえる都へと1歩出る。シリカは渓谷突破で溜まった疲れが出たのか、食事もせずにベッドで横になってしまったので、1人で出歩くことになるのだが、シノンには不安など無かった。

 大きな満月の夜だ。シノンは蒸し饅頭や焼き鳥といった定番から、何をこね回したかは分からないが、小さな粒々が見える肉団子など、興味深い食べ物が並ぶ市場を抜け、冷却水の滝が交差する脇道を抜けて、一際静けさと草木が生えた区画に到着する。

 それは神殿だろう。シノンがDBOでも知る限り、多くの宗教があり、それはアルヴヘイムでも共通するものがある。だが、無論として神灰教会の布教はアルヴヘイムまで届いているはずもなく、神殿のシンボルとなっているのは妖精王オベイロンだ。

 金脈都市の住人はあまり信仰に熱心ではないのか、神殿の内部には12人は腰かけ出来るだろう長椅子が左右10列も準備されていたが、参拝者は1人としていない。灯りとなる蝋燭は揺らいで飾られた絵画を照らし、妖精王オベイロンの威光を虚しく主張するばかりだ。

 そして、シノンは1枚の絵画……妖精王オベイロンの伴侶たるティターニアの『聖杯拝領』と題がつけられた、妖精王オベイロンに葡萄酒を捧げる『慎ましい妻』として描かれた絵画の前で、見知った黒衣の男の背中を見つける。

 仮面で覆い隠された眼はティターニアを見つめている。それが嫌でも分かる程に、情念に満ちた気配がUNKNOWNから放出されている。シノンは声をかけるのも一瞬だが憚れたが、足は自然と彼の隣に立つことを選んでいた。

 

「奇麗な人ね」

 

「ああ。本当にアスナそっくりだ」

 

 どれだけ本物に迫っているのかは分からないが、少なくとも絵画のティターニアは絶世の美女として描かれている。多くの男を骨抜きにしそうな美貌の持ち主なのは間違いないのだろう。

 妖精王オベイロンの伴侶ティターニアが仮にアスナであるならば、オベイロンの撃破は必須条件だろう。だからこそ、シノン達は3体のネームドの情報を求めて廃坑都市の場所を探しているのだ。

 

「ねぇ、オベイロンを倒して、アスナさんを取り戻して、その後はどうするの?」

 

「傭兵を続けるよ。俺は【聖域の英雄】だ。ラストサンクチュアリを守る義務と行く末を見届ける責務がある」

 

「そう意味じゃないわ。私が言っているのは、DBOを『クリアした後』よ」

 

 全ては思い描いた通りに上手く事が運ばれたとして、アスナをUNKNOWNが取り戻させたとして、DBOを完全攻略したとして、この死と狂気のデスゲームに決着がついた日の事をシノンは話しているのだ。

 捕らぬ狸の皮算用と嗤われるかもしれないが、シノンはUNKNOWNならば完全攻略も成し遂げられると期待している。大ギルド同士が手をつなぐことは出来なくとも、彼が本当にSAOを完全攻略に導いた英雄であるならば、その象徴性はDBOプレイヤーに残された、辛うじて繋がり合っている最後の糸を紡ぎ合わせて、あらやる戦力が集結して攻略を目指す事も可能になるかもしれない。

 しかし、アスナは死人だ。それは紛れも無い事実のはずだ。ならば、DBOが完全攻略した日……現実世界に帰還せねばならない時に、アスナには意識を戻すべき肉体は残されていないという事になる。

 そして、SAOの顛末がそうであったように、DBOも完全攻略の暁にはフォーマットされるならば、あるいはデリートされるならば、彼女には避けがたい死が待つ事になる。

 

「……俺も全てを知っているわけじゃないから断言できないけど、後継者は完全攻略を成し遂げたプレイヤーには相応の報酬を約束した。変な話だけど、あの男は土壇場で自分が負けたからと言って約束を破る奴じゃない」

 

「だからアスナさんを現実世界に連れ帰る事も可能だと思ってるの?」

 

「俺もそこまで期待はしていないさ。でも……今も、俺達がこうして仮想世界に囚われている間も、仮想空間は増殖と拡散を続けている。際限ないVR技術の蔓延とAR技術による現実世界と仮想世界の境界の希薄化。たとえアスナに肉体が無くとも、彼女と暮らせる世界があるはずだ」

 

「夢物語……って言いたいけど、否定する要素もないわね」

 

 力説するUNKNOWNの言う通り、シノンが知る限りでも、VR技術の発展には目覚ましいものがあったのだ。いずれは人間の文化・経済・生活の中心の場は現実世界から仮想世界に移るかもしれない。それが決して妄言ではない。

 いや、そもそもDBOは既に現実世界以上に現実らしい質感を獲得している。そして、アルヴヘイムの住人達は確かに生きている。ならば、肉体の有無など生命の根幹には意味を成さないかもしれないとさえシノンには思えた。

 だが、それは途方もなく冒涜的であり、間違いなく宗教的騒乱を引き起こす火種となるだろう。シノンは薄ら寒さを覚えて、それが湯冷めしたからだと無理に思い込む事で頭の中でざわつく異質な思想を振り払う。

 

「OKOK。ノープランじゃないだけマシみたいね。私も乗った船だし、アスナさんを取り戻した後にじっくりと『全員』で話し合いましょう」

 

 無理に話を切ったシノンは、何はともあれアルヴヘイムの攻略……その最終目的でもあるアスナの奪還だけに今は集中すべきだと意識を切り替えて、踵を返す。風呂で気分爽快になったならば、次は食事をして満腹感を得るべきだ。まだまだアルヴヘイムの旅は長いのだから。

 そう思ったシノンの生身の右手にUNKNOWNの手が触れる。まるで自分を夜の神殿に引き止めるような温もりに、思わず彼女は心臓が高鳴る。そして、彼女が手を握る真意を聞き出すよりも先に、UNKNOWNは力任せにシノンを引っ張り、自分の胸に飛び込ませた。

 

「ちょ、何を!?」

 

 あなたには愛しいアスナさんがいるでしょう!? 急に抱擁されて顔を真っ赤にしたシノンであるが、その刹那の後に先程まで自分が立っていた場所に大矢が突き刺さり、瓦礫が飛び散るのを見て唖然とする。

 神殿の扉が施錠されたのか、金属音が鳴り響き、突風が窓も開いていない神殿内で荒れ狂う。それは光源だった蝋燭を吹き消し、ステンドグラスから差し込む月光だけが神殿を照らす光となる。

 

 クスクス、と。

 クスクス、と笑い声が暗闇の内側から響く。

 クスクス、とこれから始める狩りが楽しくて堪らないような笑い声が暗闇の内側から響く。

 

「シノン、武器は持ってきているか?」

 

「当たり前のことを聞かないでもらえる。それよりも……いい加減に放してちょうだい!」

 

 これは失礼、と言って苦笑しながら抱きしめるシノンを解放したUNKNOWNは背中のドラゴン・クラウンとメイデンハーツを引き抜く。シノンもまた手早く再装備した弓剣を弓モードに変形させる。

 奇襲は大矢だった。大弓による射撃は連射性こそ低いが、強力な狙撃に適する。UNKNOWNがシノンを抱き寄せねば、彼女は頭を≪狙撃≫で貫かれ、大ダメージ+クリティカルヒットで、敵の攻撃力次第では一撃死もあり得た。

 この都市のシンボルなのか、富と武力の象徴であるライオンの彫刻が彫り込まれた柱。そこから伸びる白い梁の上で蠢くのは2つの影。

 ずるり、ずるり、ずるり……そんな皮が擦れる音は蛇の類だろう。事実として闇の中で視認できる限りでは、襲撃者の胴体は異様に長い。間違いなく蛇の類のだろう。だが、その一方で上半身は明らかな人型だ。

 

「どうやら簡単には外には出してくれないみたいね」

 

「それじゃあ、サクッと倒して夕飯にしよう。あの蒸し饅頭を食べ損なったら一生後悔しそうだ」

 

「それは同感ね!」

 

 シノンは竜狩り人の矢を引き抜き、半人半蛇の襲撃者へと撃ち放つ。

 

 

 そして、神殿を舞台にして弱者達の『悲劇』が幕を開けた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 インプの古代遺跡はオレが想像していたよりも原型を留めておらず、大半が崩れて埋もれ、植物の侵蝕を受けていた。

 すぐ傍が湿地帯という条件も悪かったのだろう。水が流入し、地下の過半も水没してしまっている。辛うじて生活の痕跡と思われる、長年使用されていない後から拵えられた調理場や食糧庫などは発見できたが、そこに転がるのは人骨……もとい妖精骨ばかりであり、生者の気配はない。

 

「期待はしていなかったが、生存者はいなさそうだな」

 

 護身の為に抜いたアビス・イーターは腰の携帯ランプの光を浴びて輝き、崩れた天井から差し込む月光と合わさって暗闇を斬り裂いているかのようだ。

 苔生した水場には小魚が群れを成して泳いでおり、イリスは泳げないながらも、その縦割りの顎に隠されたもう1つの顎を伸ばし、瞬時に小魚を捕らえて夕食前の軽食を済ませている。こうした場面だけを見れば、そのグロテスクな外観も含めて、イリスに高い知性と常人以上の道徳観念が備わった高度な知的生命体とは誰も思わないだろう。

 リビングデッドには万が一に備えて、古代遺跡の近く、騎獣の世話を任せるついでに湿地帯との狭間の茂みに隠れさせている。敵襲があった場合は大きな物音を立てて警告してもらうオペレーションをPoHが組み込んだ。これならば、外部の襲撃に必要以上に気を張る必要はない。

 

「あくまで昔、反オベイロン派が根城にしていただけで、随分前に放棄されたようね。それもとびっきりの殺し合いがあったようよ?」

 

 口元を歪めて頭蓋骨を手に取ったザクロの言う通り、その後頭部には明らかな鈍器による破損が見られる。死体が残るだけではなく、死後も遺骨が残っているのは情報源としてはありがたい。

 

「粛清された様子はないな。仲間内の殺し合いか?」

 

 PoHは腕を組んで唸り、食糧庫で凄惨な殺し合いがあっただろう、遺骨の様子を見て回る。確かに彼の言う通り、武器を持ったまま死んではいるが、外敵と戦った様子はない。なぜならば、仮に外部から襲撃があった場合、少なからず遺体は遺跡の外に向かって倒れているはずだ。だが、まるで遺骨は1カ所に集まって律儀に殺し合いに励んだかのように集結している。

 仮にオベイロンの粛清があって纏めて殺害されたにしても、武器を持ったまま……ましてや殺し合いをさせられたとは考え辛い。そんな暇があるならば、武器があるならば、反撃に転じるのが反抗勢力の意地だろう。だが、腰抜け揃いだったならば、あるいは? いやいや、こんな山奥に拠点を持っていた程だ。それなりの気概があったに違いない。

 何にしても、大半が水没していたのでは情報を得るにしても手掛かりが無い。PoHは松明を掲げて、地上から伸びた根より咲くピンク色の花に眉を顰めながら、まだ水没していない地下の階段を発見して先んじようとする。

 

「ちょっと待ちなさい。これだけ広いと探索も容易じゃないわ。私が少しだけ力を貸して効率化してあげる」

 

「どういう風の吹き回しだ?」

 

 PoHの肩を掴んで止めたザクロに、彼は憚ることなく疑念をぶつける。だが、ザクロは怯む様子も無ければ、言い淀んで取り繕う様子もなく、ただ少しだけ目を伏せた。

 

「『チームワーク』よ。私達の目的は表面上一致している。時間は有限である以上、私は手札を切ることを惜しまないと言ってるのよ」

 

「……主様!」

 

 感動するイリスは同調を求めるようにオレに複眼の目を向ける。いやいや、そんな目をされても反応に困るだけなのだが。

 PoHもザクロが勝手に能力を披露する事に関しては止める義理もないのだろう。地下に行くのを中止して、ザクロの行動を見守る。

 光も届かない地下へと続く階段を前にしたザクロは右手を地面につける。すると彼女の周囲で影が渦巻き、そこから飛び出したのは体長5センチ程度の百足だ。だが、頭部が異常発達しており、まるで眼球のような器官を備えている。

 100を超える百足の大軍は、虫嫌いならば見ただけで卒倒してしまうような濁流となって地下へと這って消える。瓦礫を椅子代わりに腰かけたザクロは、オレ達にも見易いように拡大させたシステムウインドウを展開する。

 アルヴヘイムではマッピング機能が封じられているが、これはザクロの≪操虫術≫の能力の1つなのだろう。百足を示す赤い点が黒1色の画面の中で忙しなく動き回っている。

 

「あの百足に攻撃力はほとんど無いけど、プレイヤーやモンスターを発見したら攻撃する習性があるわ。これで地下の脅威を事前に察知できる」

 

「便利だな。さすがはユニーク」

 

 オレが褒めると、ザクロは『お前に褒められても吐き気がするのよ』と言わんばかりに殺意が籠った目で睨む。最低限は距離を縮められたと思っていたのはオレの勘違いらしい。

 10分間ほどの沈黙が続き、オレ達はザクロのシステムウインドウを見守り続けるが、赤い点は1つとして消えることなく、やがて探索し尽くしたかのように動きを止める。それを見届けたザクロは小さく息を吐いた。

 

「少なくとも地下に百足が攻撃する対象はいないわ。トラップが無いとは限らないけどね。百足は水中に入れないから、浸水している場所があったら未探索状態だから注意して」

 

 ……『注意して』か。オレはザクロからそんな気遣いの言葉が聞こえるとは思わず、少しだけ口元を緩めてしまう。それを目敏く見ていたザクロが短刀を数センチほど鞘から抜いたのでオレは逃げるように地下へと続く階段を下りる。

 この古代遺跡は元々墓地だったのか。埋葬されたらしい棺が壁には敷き詰められている。また、身分が低い者なのか、壺で丸められた状態で安置されている遺体も多い。

 

「百足はスケルトン系にも有効なのか?」

 

「もちろん。ゴースト系だろうとアンデッド系だろうと無差別に攻撃するわ」

 

 ザクロの言い分が正しいならば、いかにもスケルトンによる襲撃が起きそうな地下遺跡は正真正銘の敵がいない安全地帯という事になる。もちろん、ザクロが能力を秘匿してオレ達を嵌めようとしているとも考えられるが、それならばイリスが何らかの横槍を口にしそうなものだ。

 ……いや、イリスも最終的にはザクロの味方をするだろう。ならば過度な信用は禁物か。ザクロが表示したシステムウインドウと百足の動きから、この地下神殿の広さを推測し、オレは贄姫の柄に触れながら1つの提案する事を決める。

 

「分かれて探索しよう。少なくとも敵で溢れているわけじゃないんだ。オレ達なら個々で探索した方が『効率的』だ」

 

「俺は構わないぜ。仲良しこよしで3人で固まって動く『チーム』じゃないだろう?」

 

 何か言いたげのザクロだったが、飛行するイリスを頭にのせると無言で彼女は左右に分岐した通路の右側へと向かう。オレとPoHは左側を選ぶも、それもすぐに分岐してオレ達は何も言葉を交わさずに分かれた。

 ザクロもPoHも上位プレイヤー以上の実力は疑う余地も無い。たとえ単身でネームドに遭遇しても簡単には死なないだろうし、実力を見誤らずに撤退できるだけの判断も可能のはずだ。だから、オレが分散して探索をする『効率』を重視した提案は決して悪いものではないはずだ。

 地下墓地は腰の携帯ランプで妖しく照らし出され、死者の眠りを暴こうとする不届き者を睨むように、頭蓋骨にある目の空洞で暗闇が眼のようにオレを睨んでいるかのようだ。オレは情報を求めて腰のランプを手に取り、人間が2人並べば窮屈だろう、硬い岩盤を削っただけだろう通路を歩む。

 途中途中で蠢く百足は唯一の目印であり、ヤツメ様は屈んで指でツンツンと百足を触って退屈凌ぎのように遊んでいる。これならば本当に脅威となる存在はこの地下遺跡にはいなさそうである。

 オレ達以外の7人のプレイヤーは今この瞬間をどうしているだろうか? オベイロンが【来訪者】の排除に躍起になっているならば、1人か2人は既に始末されていても不思議ではない。だが、少なくとも『アイツ』ならば多少の危機は容易く切り抜けるだろう。

 正直に言えば、この古代遺跡で情報ゼロなのは避けたい。他のプレイヤーに先んじられるとは、そのままアスナと『アイツ』が再会してしまう危険性に他ならないからだ。オレは何としても他のプレイヤーを出し抜いて、誰よりも先に、1番にオベイロンの元に到着しなければならない。

 焦りは禁物であるが、余裕も無いのも事実だ。長引けば長引く程に消耗は強いられ、決戦を潜り抜けるだけの余力が失われてしまう。ザクロの今回のアクションも、彼女なりの時間の有限性への訴えだったのかもしれない。

 と、そこでオレは地下の開けた場所……一際大きな棺が安置された空間に行き着く。水が流入しているのか、足首程度の深さまで水が張っているが、壁に空いた横穴に流れ込んで溜まる様子はない。

 

「これは湧き水……か?」

 

 近くには雪が積もる天雷山脈がある。常に雷雲が轟く山脈から流れる地下水だろうか? それが湿地帯の水源とも考えられるのだが、そうなると増々以ってアルヴヘイムのデザインは完全なる環境依存という事になり、人の手が加えられていない事になる。

 増々以って奇々怪々だな。もはや壮大な文明シミュレーションをアルヴヘイムで実施していると考えた方が良さそうだ。DBOにも確かな歴史がある事を考慮すれば、アルヴヘイムはある意味でDBOがゲームとして『加工』される前の原初の姿と言っても差し控えないのかもしれない。もちろん、まだ推測の域を出ないが、こうなってくるとアルヴヘイムの謎を解けばDBOの秘密もまた暴けるかもしれないな。

 そんな余計な思索に耽るのはオベイロン殺しの目途が立ってからにしよう。オレは携帯ランプの光を受けて、ドーム状の空間の天井に描かれた壁画を目にする。

 それは蝶……だろうか? 美しさと不気味さを組み合わせたような緑色の蝶の群れ。それが羽ばたく白枝の森だ。

 生死の概念を綴った宗教画だろうか? 確かな物語を感じるのだが、≪言語解読≫で読めそうな文字はない。オレは更なる情報源を求めて見回すも、残る手がかりは黄金の装飾が施された棺だけだ。

 さぞかし身分の高い人物だったのだろう。貴金属と宝石が使用された棺は埃を被り、苔生していようとも、その色合いは失せることはない。だが、オレは自分が死んでもこんな絢爛豪華な棺は御免被りたいところだな。

 鍵がかかっているかと思った棺であるが、意外にもオレが触れるとシステムメッセージが表示される。

 

<古き人の棺を開きますか? YES/NO>

 

 システムメッセージにYESと回答すると、棺が僅かに動いて土埃が舞う。残りは自分の力で開けろという事だろう。

 

「当たりか」

 

 笑みを禁じえず、オレは左手で小さくガッツポーズを作ってしまう。携帯ランプを腰に戻し、アビス・イーターを背負う。棺の蓋は重量もあるが、オレのSTRならば難なく開けることはできるだろう。

 この棺は明らかにアルヴヘイムに設置された【来訪者】向け……つまりはプレイヤーに与えられたヒントだ。高確率で後継者が残してくれたアルヴヘイム攻略の情報が得られるだろう。あの狂人はそういう部分だけはキッチリとしているからな。サチの記憶でも嫌という程に『ヒント』は味わったので、このアルヴヘイムが『アイツ』を殺しにかかる為に準備されたとしても、最低限の攻略の手がかりは意図的に設置されているはずなのだ。

 棺を開くと収められていたのはミイラだ。その首にかけられているのはペンダント型の羅針盤だろうか? オレはそれを手に取ると【探索者の羅針盤】という名前と共にアイテムを入手する。

 もしかしたら、この古代遺跡はこのアイテムが設置された空間……この地下ドームに神性を見出したインプが築いたものなのかもしれない。そして、恐らくこの棺はプレイヤー以外では開けることができない仕組みになっているのだろう。

 これは大きな収穫だ。ザクロたちに良い土産ができた。そうオレは改めて羅針盤の内容を確認しようとした時、水を蹴って遊んでいたヤツメ様がゆらりと立ち上がり、オレがこの地下ドームに踏み込んだ入口へと視線を向ける。

 蠢くのは闇。あるいは影。その空間の歪みにオレは覚えがあった。かつてクリスマスダンジョン……サチの記憶で遭遇した呪縛者が出現する前触れだ。

 このアルヴヘイムも後継者が準備したものならば、重要アイテムの守り手に何らかの強力なネームドを配置していてもおかしくない。百足が反応できなかったのも、アイテムを入手するまで出現しないならば納得だ。オレは右手にアビス・イーターを、左手に連装銃を抜き、闇から現れる存在に目を向ける。

 蠢く闇から1体の騎士が現れる。それは全身に密着するような黄金色の……まるで竜の鱗を繋ぎ合わせたような甲冑の騎士だ。その頭部は竜と牛を混ぜたかのような兜である。2本の牛のような黒い角があり、銀の飾り房が夜風に揺れている。左手には円状の身を隠すほどの分厚い大盾。そして、右手には柄の半分を巨大な片刃の戦斧である。

 その外見には見覚えが無い。だが、ヤツメ様は昂り、歓喜する。予定外のお菓子を手に入れることが出来たと狂喜する。

 

<狂縛者>

 

 頂くのは1本のHPバー。呪縛者の亜種だろうか? ならば、射撃攻撃を無効化ないし限りなく無力化するバリアを保有しているとみて間違いない。だが、至近距離の連装銃ならば十分なダメージも期待できるだろう。

 呪縛者の動きは覚えているが、外見が大きく様変わりしている上に名前も異なるならば、完全なる別種として対応するに越したことはない。

 なのに不思議だ。オレは言い知れない懐かしさを……寂しさを……狂縛者に感じずにはいられない。胸の奥底から『殺したい』という強い衝動を感じずにはいられない。

 

「アナタは……『誰』ですか?」

 

 問いかけるオレに、狂縛者は堪える義理もないとばかりに、呪縛者と違い、その足を地面について大きく踏み込み、オレに斬りかかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「アイザックが準備した、MHCPを基盤にして開発した対プレイヤー用の精神攻撃AI【ザ・ミラー】。少々やり方としてはスマートではないが、アルヴヘイムの挑戦者として『登録』されたプレイヤーに直接干渉できるコイツらを使えば、居場所の検索なんて簡単にできるのさ」

 

 大きな満月を愛でながら、極上の葡萄酒を嗜むオベイロンは、世界樹に設けられた世界を一望できるようなテラスにて晩酌に興じていた。侍らすのはアルヴヘイムで『収穫』した美女たちであり、彼女たちは自意識を奪われることなく、だが逃げ出す術もなく、オベイロンへの奉仕を文字通り『永遠』に命じられている。

 ある者は諦め、ある者は来る希望に縋り、ある者はオベイロンへと媚びる。それらを等しく愛でながら、オベイロンは薄切りにされたローストビーフを味わう。それは現実世界の一流シェフが作成した味をそのまま再現したものだ。手間暇はかかっているが、その分だけの価値がある完全再現の絶品である。

 

「あらあら。王様ったら、そんな切り札を使っちゃって良いの? ザ・ミラーは『登録』されたプレイヤー数しか生産されないわ。しかも1度きりの精神攻撃。ここぞという場面で使ってこそ効果があるんじゃないの?」

 

 月見をするオベイロンのテーブルの向こう側、テラスでくるくると踊り、月を囲うように手を伸ばすのは1人の少女。オベイロンの給仕の美女たちは、少女だけには絶対に目を合わせないように視線を下にして、歯を鳴らして耐えがたい恐怖に震える。

 だが、オベイロンは少女に恐怖することないかのように、ワイングラスを振るって中身の血のような葡萄酒の香りを堪能する。

 

「ザ・ミラーは催眠から入るから、精神が昂っている状態では効果が発揮し辛い。戦闘中の干渉は非常に難しいんだよ。だから、ザ・ミラーには近隣モンスターとの連携を組むように僕なりにオペレーションを上書きしておいた。アイザックは馬鹿だねぇ。精神攻撃するにしても、他と組み合わせないと効果が薄いだろうに」

 

「あの狂人さんには狂人さんなりのポリシーがあるのよ。でも、王様のやり方も嫌いじゃないわ」

 

 クスクスと楽しむように少女はその白いワンピースを花弁のようにふわりと舞わせて踊り続ける。月を愛でるように手を伸ばし続ける。

 

「でも、果たして正解を引き当てられたかしらね? 狂縛者が上手く剣士さんとぶつかってくれれば良いんだけど」

 

「正答率は3分の1か。僕は運が良い方だけど、失敗しても痛くも痒くもない。検索結果でプレイヤー3チーム全てに戦力を派遣することができた。ロザリアも『彼女たち』を率いて襲撃を仕掛けたし、何らかの成果を出せるだろうし、プレイヤーの情報は結果がどうであれ手に入る。今回の僕の戦略的勝利は揺るがないわけだ」

 

「残りの1チームはどうするの? アルフ達を派遣するくらいなら、私に遊ばせてほしいんだけど」

 

 まるで淡く発光しているかのような白髪を翻し、少女はおねだりするようにオベイロンに提案する。

 しばらくの間、オベイロンは考え込むように口元を手で覆ったが、結論を出すと仰々しく頷いてみせた。

 

「良いとも。僕としてもキミの成果を見ておきたい」

 

「ええ、もちろん。『成長』したレギオン・シュヴァリエ……彼らに味合わせてあげるわ♪」

 

 少女は満足そうにくるくる回る。人肌とは思えない漆黒色の肌を月光で染める。そして、オベイロンには聞こえない小声で、少女は嬉しそうに呟く。

 

「さぁさぁ、遊びましょう? 王殺しの挑戦者は10人。剣士さん、猫さん、ドラゴン女子、赤バンダナ、ランク1、ミスター荷物持ち、ストーカー、殺人鬼、忍者ガール、それに……レギオンの王。誰が最初に王様の元にたどり着くかしら」

 

 最もオベイロンが欲しがっているはずの10人の【来訪者】の素性。それを真っ赤な舌で唇を舐めながら、少女は……マザーレギオンは月に内緒話するように囁いた。




狂縛者、カスタマイズされて出陣。
黒獣もスタンバイ。

それでは、248話でまた会いましょう!

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