SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

リーファ、ついに舞台に上がる。



今回の話はリーファ大増量でお送りします。



Episode18-16 狂騒・狂奔・狂劇

 それは、とてもとても昔の話だ。

 1人の男は鉄の城の夢を見た。男は誰にも夢を語ることなく、空を見上げることもなく、地に俯くこともなく、夢と現の境界線だけを真っすぐと見据えていた。

 それは、今では遠い遠い昔の話だ。

 1人の男は鉄の城の夢を見た。男には才能があった。正しく振るえば、万人より羨望と嫉妬を集められるだけの富を得られる才能があった。だが、男は野心とも呼べない滑稽な物語に恋い焦がれて、才能を神への問いかけに注いだ。

 それは、ずっとずっと昔の話だ。

 1人の男は鉄の城の夢を見た。男は故郷から離れた異国の地で知恵を得た。そして、1人の狂える血筋の少年と巡り合った。男は少年に夢を与え、少年は男に財と権威を秘匿と共にもたらした。

 それは、本当に本当に……昔の話だっただろうか?

 1人の男は鉄の城の夢を見た。やがて夢と現の境界線は崩れ去り、男の夢は万の命を平らげて本物となった。だが、男は鉄の城の頂上……黄昏の空の向こう側を知った。そして、少年にかつて自分がそうであったように、知識と導きの限りを尽くした。

 1人の男は鉄の城の夢を見た。黒衣の剣士と白髪の傭兵に敗れ去り、鉄の城の終わりを見届けた。夢は夢で無くなり、現もまた現ではなくなった。黄昏の中に確かに男は見つけたのだ。成すべき『答え』を。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 人間は極度の理解を超えた事態に巻き込まれた時に取れる対応は大きく分けて3つある。

 1つ目は混乱。思考を乱し、正常な判断力を失い、場合によっては解決策をもたらすヒントを自身の手で潰す。だが、時として意識の手綱から放たれた本能的行動は突拍子が無いように思えて、その実は事態を解決する最短ルートを導き出す場合もある。だが、大抵の場合、それは神の気まぐれ……偶然の産物である。本能的行動とは理性と知性を重んじる人間にとって最も忌むべき原始の姿なのだ。文明人を気取るならば尚更である。

 2つ目は冷静。生命の危機が伴うならば、それは大いなる助けとなるだろう。人間は屈強な肉体を持たず、一撃で命を刈り取る毒を持たず、優れた生命力を持たず、しかし、その知性を発達させた。情報を瞬時に整理し、分析し、解決案を導き出す。知性は多彩な言語を生み、数式を書き出し、法則を暴いた。ならば、それは窮地において救いの力となるだろう。だが、知性とは理性であらず。優れた知性ある理性無き暴力程に手に負えない者はなく、多くの者は理性の希少性を見失っている。なんと滑稽な事だろうか。

 3つ目は拒絶。現状否定と逃避という最も愚かな選択肢であり、最も幸福なあり方である。自ら解決への道筋を断ち、殻に籠り、破滅まで微睡む姿は愚者に映るだろう。しかし、優れた知性がもたらすのはより硬質な死の未来の想像であり、想像の産物とは時として現実以上の質感を伴う。ならば、あり得る未来の死を拒絶し、思考を暗闇の中に放棄する事はある意味で神の慈悲にも似ているのかもしれない。

 

「ふぅ、落ち着いた。あたしは大丈夫。クールになるのよ、直葉。あたしはリーファ。あたしはリーファ。あたしはリーファ。3回唱えれば本物! 良し、いける!」

 

 ホットミルクを飲み干し、頬を両手で叩いて喝を入れ、謎の少女が与えてくれた装備の一式を身に着けたリーファは『冷静』に現状の認識に努める。

 いつものように髪をポニーテールにして、身にまとうのはグリーンを基調とした軽量防具である。金属製防具を排し、革で要所要所を強化された機動性を重視した仕立てである。装備一式は【古い女シルフ騎士の旅装束】であり、例外的に左手の籠手だけはやや分厚いドラゴンの鱗が使用されている。咄嗟の受け流しやガードに利用できるが、過信できるものではない。

 全体的に物理防御力よりも属性防御力……特に魔法防御力が顕著に高い。魔法剣士に相応しい防具だろう。そして、悲しき事実であるが、リーファが今まで入手したいずれの防具よりも高性能かつレアリティも高い。

 片手剣は軽量寄りの中量剣【古竜の水晶剣】だ。銀色の細い刀身を覆うのは薄く黒ずんだクリスタルであり、刃渡りも重量も申し分ない。かつて巡礼の地にあったとされる古竜たちの骸から搾り出した竜血と結晶を結び付けたものであり、その刀身にもかつての竜たちの力が宿っている……との事である。能力は【竜の一閃】。ドラゴンウェポンではスタンダードな攻撃を伴う衝撃波を放つものであるが、この剣の場合は突きで解放される。実際に使わない事には不明であるが、かなり出が速く、溜めによる威力の強弱も利くだろう。

 そして、魔法剣士……というよりもアンバサ戦士であるリーファはサポート程度に奇跡も使う。元々は生存率を高める為のものであったが、奇跡の有無によって窮地における粘り強さが激変するのは、アンバサ戦士ならば誰もが知る感動である。そんな彼女の為に準備されたように、奇跡の触媒であるタリスマンとして【世界樹のタリスマン】がある。複数種ある奇跡の触媒でも近接型が邪魔にならないように使う、手に巻き付けるタイプであり、世界樹のタリスマンは小さな金の鎖で結ばれた世界樹を模るコインだ。

 

「奇跡は……あった! これで少しは変わるかも」

 

 リーファが習得した奇跡は全て揃っている。魔法枠に奇跡を埋めていくも、世の中はそう甘くないというように、アイテムストレージは完全な空だ。だが、レベルは彼女の記憶通りであり、『ALOのリーファ』の顔になった事と無一文になった事を除けば、十分に切り抜けられる状態である……なんてはずがない。

 回復アイテムは無し。食料も無し。当然ながら水も無し。マップは完全な真っ暗闇。装備だけ整えた状態で未知なるダンジョンに放り出されて情報無しで脱出しろと言われているようなものである。辛うじてリーファが現状に対応しようとしているのも、精神がこの状況に適応しようともがいた『冷静』の産物である。

 思い出せ。リーファは実験施設を思わす冷たい青の空間で、壁に並べられた金属製のカプセルを1つずつ覗き込みながら、この場所にいる以前の状態を思い返す。

 

(サクヤさんと言い争いになって、あたし、飛び出して……それで……)

 

 秘密には理由がある。故に無理に暴かない。暴くべきではない。それがリーファの主義だ。最愛の兄に接触しなかったのも、彼には彼なりの理由があるのだろうと考慮した結果である。しかし、それは関与しない事にはならない。

 むしろ、兄の幸福に繋がるならば、その悲願の手助けをしようと志すのが良き『妹』というものだ。

 

<キミのお兄さんは最愛の女性を取り返す為に戦うだろう。彼の力になりたければ、妖精の国を目指したまえ。DBOでキミを待っている>

 

 アミュスフィアⅢを購入した後に、ALOのDBO先行予約キャンペーンで当選したリーファの手元に届いたソフトには、まるで貴族が舞踏会に誘うような、気取った封蝋がされた古風な封筒が添えられていた。対して、中身には無機質なコピー用紙に印刷された謎の誘いの文面である。

 元よりDBOは過激なテイストのダークファンタジーであり、過去のいかなるVRMMORPGも凌ぐ自由度と死闘感を宣伝していた。だが、リーファは全国クラスの剣道女子という事もあり、ALOでも腕の立つ剣士ではあったが、血で血を洗うような戦いにのめり込んでいたかと言えば違う。妖精間の領土戦にも興味はほとんどなく、むしろ辟易していた程である。

 だからこそ、彼女がDBOにログインした最大の理由はこの謎の手紙だった。SAOから生還した兄が家に帰らず、むしろ家族と距離を置いた生活を続け、しかも年中行方不明である。唯一の手掛かりは兄の相棒だったクゥリである。

 そのクゥリが展覧会でアミュスフィアⅢには言い知れない何か……ナーヴギアに近いものを感じたと語った。そして、この不可思議な手紙。音信不通の兄。彼女が意を決したのも仕方なく、またデスゲームを予期しろというにも無茶がある。

 名のあるALOプレイヤーも宣伝を兼ねてログインしている中で、根性で店頭販売分のソフトを購入したレコンと待ち合わせしたリーファは、DBOの荒廃した世界に不安を憶えながらも、仮想世界を毛嫌いする兄の相棒だった男に何も言わないで行動を起こした事を少しだけ後悔した。

 そして、デスゲーム化によって狂乱するレコンと組んだ後に、リーファはすぐに1つの流れを理解した。この世界には兄がいる。そして、兄はこの世界に最愛の人……死人であるはずのアスナさんが囚われている事を知っている。ならば、兄はこのデスゲーム化することまで知っていたのではないだろうか? ならば、そこまで業を背負ってまで最愛の人を取り戻したいならば、『妹』として影ながら援護するのは当然の事である。

 知己のALOプレイヤーと少しずつ合流していき、ギルドとしてDBOで生き抜く基盤を作っていく中で、リーファにとってリーダーのサクヤが打ち出した中立方針は喜ばしい事だった。目立ち過ぎれば大ギルドに目を付けられ、いずれは自分の存在が兄に知られる切っ掛けになるかもしれない。だが、中立ならばギルドが急成長する恐れも無く、また実力も備えられる。

 だが、いつまで経っても妖精の情報は得られない。中立とはそれだけ大ギルドから深部の情報を貰えない立場である。ならば、自分の足と僅かばかりの情報網に頼るしかない。リーファは妖精の情報を探し続けた。

 やがて耳にしたのはクラウドアースが積極的に廃聖堂の攻略をしており、その先には妖精の国があるという、酒の席で大ギルドがポロリと零した情報だ。だが、当然ながらフェアリーダンスがクラウドアースの傘下に入ることができるわけでもなく、また他に妖精の国への行き方がある事も探り切れなかった。

 そんな時だった。リーファは夜な夜な奇妙な夢を見るようになった。

 暗い森を1人で彷徨う夢だ。手元には心細いが、夜霧を照らすランタンがある。明滅を繰り返す蝋燭の光が導くのは小川のせせらぎだ。不安なのに、まるで甘い蜜には抗えない蝶のようにリーファの足は森の奥地に進んでいく。

 目覚める度に、石化したのではないかと思う程に体が重く、疲労感が増す。そして、覚醒すれば夢は少しずつ薄れていき、やがて内容を語れない程にぼやけてしまう。だが、何故かイメージだけは脳裏にこびり付く。

 やがて眠っていない間も、リーファは子どもの囁きを物陰から、人混みから、クローゼットの中から聞くようになった。

 そして、夢の中で森の奥を目指し続ける『理由』が明らかになる。彼女が追い求めていた黒衣の裾。愛しき背中。それがどれだけ叫んでも振り返らずに小川を渡る。

 

 あの小川の向こう側に妖精の国がある。行けばお兄ちゃんに会える! お兄ちゃんを助けられる!

 

 もはや強迫観念にも等しかった。リーファは夢の光景がマスタングの記憶にある風景と合致している事を突き止めた。いや、『突き止めさせられた』。そして、あの晩……衝動的にマスタングの記憶に単身で向かおうとしたのをサクヤに発見され、らしくない程に感情的になったリーファは暴言を吐いて飛び出した。

 僅か1分にも満たない現状を整理する回想の中で、ここ数週間の自分の精神状態がおよそまともではなかった事に、リーファが気づかないはずがない。肝心要のマスタングの記憶で何があったのかは思い出せないが、それこそがこの場にいる直接的な原因だろうと彼女は見当をつける事にした。

 

「このままジッとしてられない。いい加減に行動しないと」

 

 腰に差した水晶剣を意識し、リーファは右手に握る黄金の鍵を見つめる。あの漆黒の肌の少女の言う通りならば、この鍵に付随したタイムリミットが示す通りならば、リーファが『何か』を出来るのは1時間……いや、残り55分しかないのだ。

 そう思った矢先に、リーファはカプセルの1つに見知った顔を発見する。白い蒸気のような気体が密閉されたカプセルの中に収められた人間……それは間違いなくサクヤだ。瞼を閉ざしたまま眠りついた彼女を見て、リーファは思わず短い悲鳴を上げる。

 どうしてサクヤさんがここに!? そう思ってカプセルに触れた瞬間に、リーファの目の前に黄金枠のシステムメッセージが表示される。

 

<マスターキーを使用しますか? 残り5回>

 

 それはカプセルの解放の可否を問うものだった。一瞬の迷いの後に、リーファはYESを選択する。するとカプセルが音を立てて開き、リーファがそうであったように、サクヤが裸体のまま床に放り出される。

 

「ゲホ……ゲホゲホッ……!」

 

「サクヤさん!」

 

「リ、リーファ? あなた、どうして……ここは? とても……とても、寒い……」

 

 虚ろな目をしたサクヤに、漆黒の少女がしてくれたようにリーファは床に落ちたままのタオルをかける。分厚く、ふわふわの毛布は一糸と纏わぬ彼女からすれば天の助けにも等しいだろう。また、リーファも寄り添う事でガタガタと震える彼女に熱を送る。

 少しは落ち着きを取り戻したのだろう。また、サクヤにとって『ALOのリーファ』は見慣れた顔だ。解せない様子であるが、タオルを体に巻き付けて最低限の人間としての尊厳を得た彼女は一息入れて立ち上がる。

 

「リーファ、状況の説明を」

 

「あたしにも理解できません。でも、助けてくれた女の子はここがアルヴヘイムだって言ってました。それに、この鍵の名前からすると……ここは世界樹の内部かもしれません」

 

 まだこの部屋から1歩も出ていないリーファには憶測と推測でしか語れない。だが、リーファは自分の容姿の変化と鍵の件も含めてサクヤに伝える。だが、あの漆黒の肌の少女のことだけは言わなかった。得体が知れないという事もあったが、どういうわけか、リーファはあの少女の事を秘密にしたかった。それはきっと、異形の姿でありながらも、可愛らしく恥ずかしそうに笑ってくれた姿が脳裏にまで焼き付いてしまっているからだろう。

 

「何がなにやら。だが、リーファのお陰で助かったみたいだな。ありがとう」

 

「……感謝なんてされても。あたしが巻き込んだのかもしれませんし」

 

「そう言わないでくれ。DBOでプレイヤーのヒステリーなんて珍しくないが……あの時のリーファは何かがおかしかった。この状態の前兆だとしたら頷けるよ。改めて言う。助けてくれてありがとう」

 

 優しく抱擁され、リーファは思わず目を潤ませる。サクヤが自分と同じ奇怪な状況下にある事への責任感が薄らいだ気がした。

 

「もしかして、他の人たちも……」

 

「分からないが、確率は高そうだな」

 

「助けます?」

 

「いや、駄目だろう。助けられた私が言うのもなんだが、そのマスターキーは残り4回しか使えないのだろう? カプセルにいるのは残り3人。彼らを助ければ、あと1回しか使えなくなる」

 

 サクヤの指摘の通り、このマスターキーは時間限定の切り札のようなものだろう。残りの3人を助け出せば、あと1回しか使えなくなってしまう。リーファは苦渋の選択として、彼らをここに残し、助けを呼ぶことを優先する。

 

(助け? 助けって誰に? だって、こんな変な事になってるんだよ? そもそもGMコールする運営もいないのに、誰に助けてもらうの!?)

 

 デスゲームなんて真似を引き起こした茅場の後継者だ。プレイヤーを拉致して玩具にしているとしてもおかしくない、とリーファは慄く。

 そもそも、どうしてあの少女は助けてくれたのだろうか? 本当に助けてくれたのだろうか? あのドアを開けたら、そこには後継者が両腕を広げて待ち構えているのではないだろうか?

 疑心暗鬼に呑まれたリーファであるが、今は希望を絶やさずに行動すべきだと覚悟を決め、部屋から唯一外に繋がるドアに手をかける。幸いにもマスターキーは不要らしく、ドアノブにふれると自動でスライドし、外の豪奢な廊下へと繋げる。

 赤い絨毯が敷かれた廊下には、無数の純白の石像が並んでいる。石像にはいずれも翅があり、妖精の騎士の類なのだろうと見て取れた。そして、そんな騎士像の間に挟まれるようにして、一際大きな……まるで妖精の王のような黄金像も設置されている。

 見張りの類はいない。天井からは紫に縁取られた銀色の垂れ幕が並び、まるで風が吹き続けているように靡いている。窓ガラスの代わりのように壁にはステンドグラスが色彩豊かに光っているが、いずれも王を讃えるような図式ばかりだ。

 ALOの通りの世界樹ならば、ここは妖精王の居城という事になる。ALOプレイヤーが未だに到達したことが無い領域だ。

 サービス初期から妖精王に謁見を果たせば種族単位でアルフに転生させてもらえるという売り文句があったALOであるが、やがて運営から飛行時間の大幅緩和という大規模アップデートと共にアルフ転生関連は廃止となり、世界樹はただの巨大オブジェクトとなった。批判も多かったが、それ以上に飛行関連の制限緩和を英断する動きも大きく、またその後もALOが続々と他タイトルとのイベントを増やしてプレイヤーを飽きさせない運営がされた事もあり、今アルフ関連は黒歴史呼ばわりされていた程だ。

 

「まずは着るものを探しましょう。あたしの後ろにいてください」

 

 武器はもちろん、防具無しのタオル1枚のサクヤではどう足掻いても戦えない。リーファはマスターキーをポケットに入れ、腰の水晶剣を抜いて廊下を踏みしめる。足音を立てないように忍び足を目指しつつも、今も刻一刻と失われるマスターキーの制限時間を思えば、自然と早歩きになってしまう。

 

(お兄ちゃんに会いたい。お兄ちゃん……お兄ちゃんっ!)

 

 DBOで死にかけた事は何度もあるのに、リーファは過去に無い程に恐怖が募る。元より中立かつ中小ギルドであるフェアリーダンスは、間違っても未開ダンジョンなどには行くことは無い。常に情報が保有された、ある程度の攻略法が分かっているダンジョンにしか踏み込まない。

 デスゲームにおいて未知とはそのまま死の濃度だ。これに対応できるか否かこそが真の意味で上位プレイヤーとそれ以外を分かつ条件の1つだろう。リーファのレベルはフェアリーダンスでも高く、レベル60を唯一突破している。だが、そのレベルの高さは必ずしも未知を潜り抜けた経験値ではない。

 緩やかな曲がり角から顔を出し、無人である事を確認したリーファは半楕円形の黒茶色の木製の両扉を発見する。≪聞き耳≫が無いとはいえ、耳を澄ませば何か聞こえるかもしれないと、扉に耳をつけ、何も物音が聞こえないことを確認した後にそっと開いて覗き込む。

 そこは衣裳部屋の類なのか。多くの衣服が壁にかけられ、姿見用の鏡が無数と設置されている。だが、衣服の大半は露出度が高い……より直接的に言えばエロい服ばかりであり、サクヤからすれば無いよりもマシと呼べるものばかりだ。

 その中で辛うじてまともの部類だろう、白いワンピースを発見する。豪奢とは言い難いが、基本を忘れず、また静かに金細工も光るそれは高貴な人物の為に仕立てられたものだろう。

 

「動き辛いが贅沢は言えないか」

 

 嘆息するサクヤであるが、男子はもちろん、女子にとってタオル1枚で動き回るのは、ある意味で生命以上に大きな問題である。リーファは武器や役立つものを求めて衣裳部屋を物色するが、さすがに都合よくとはいかないのか、得物になりそうなものはない。

 こういう時にゲームとしての武装システムは大きな障害である。たとえば、薄緑の花弁の細工が施されたライトスタンドはそのまま振り回せば自衛には十分に役立ち、また人命を奪うに足る凶器にもなるだろう。だが、それは現実世界の話であり、実際に武装できない限りには、これはオブジェクト品であり、最低限の火力しか発揮しない。

 しかし、だからと言ってまるで役に立たないわけではなく、たとえば聖剣騎士団のリーダーとして高名なディアベルは、ボス部屋に飾られていた巨大なシャンデリアを落下させ、その重量でボスを叩き潰す事によってプレイヤーが与えられるダメージの限界を大きく突破した一撃を与えた事もある。また、逆に落石などによって叩き潰されたプレイヤーが即死した例もあり、オブジェクトだからといって軽んじればプレイヤー・モンスターの双方にとって手痛い損害が待っているのだ。

 

「武装としては心許ないが、リーファの援護くらいはできるだろう」

 

 近接攻撃は薙刀などの長物で対応するサクヤであるが、本職は指揮と魔法援護だ。DBOの曲者揃いのモンスターたちを個人で相手取るには些か以上に不安がある。だが、それをカバーするのは接近戦こそ本領のリーファだ。

 だが、それでもDBOでは2人組でも十分以上に戦力としては心許ない。リーファも単独で強敵と戦った事もあるが、だからこそ身に染みてチームプレーのありがたさが分かっている。援護してくれる仲間のありがたさを知っている。だからこそ、単身で戦い続ける事の恐怖は大きくなる。

 ライトスタンドを両手で握ったサクヤを背後に、リーファは衣裳部屋から頭だけを出して廊下を確認する。タイムリミットはもう40分しかない。慎重に動くにしても限度があり、多少の大胆さが必要になってくる時間だ。

 

「でも、逃げるにしても何処に……」

 

 無鉄砲に歩き回っても危険が増すだけだ。剣の腕に覚えがあると言っても、複数人の人型モンスター……特に剣技に秀でた騎士型を相手にすればサクヤを守りながら勝つのは不可能に等しい。

 いや、そもそも、このユグドラシル城はまともなダンジョンと呼べるのだろうか? それさえも曖昧な世界で、『プレイヤーとしての力』が何処まで通じるのか?

 

「立ち止まっていても解決しない。いざという時は私を置いていけ。デスゲームが始まって1年以上だ。覚悟くらいはできているさ」

 

「……サクヤさん。ふふ、ありがとうございます。でも、あたしは見捨てませんから」

 

 サクヤに優しく肩を叩かれたリーファは、何としてもフェアリーダンスに……いや、現実世界に帰るという意思を確固たるものにする。

 

「それにしても、サクヤさんの素の口調……久しぶりだなぁ」

 

 小走りで何処までも続くような廊下を小走りで進みながら、リーファは不安を誤魔化すように笑う。するとサクヤは恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「リーダーとして、大ギルドと交渉する毎日だったからな。ALOの時はまるで気にした事なんて無かったが……。そういうリーファも、昔は呼び捨てだっただろう?」

 

「あたしのは敬意ですよ」

 

 フェアリーダンス結成当時は、大ギルドが組織拡大に積極的だった成長期の頃だ。今は3大ギルドも成熟し、不動の立場となっているが、当時は生半可なギルドは容易く吸収され、また下部組織として喰われていった。そんな中でALOプレイヤーが集結して生まれたのがフェアリーダンスだ。

 楽しかった思い出もある。辛かった思い出もある。そして、生きているという実感が持てた日々でもある。リーファは足音を聞き、サクヤを手で制して廊下の角から覗き込む。

 

「しかし、オベイロン様も無茶するよなぁ」

 

「レギオンプログラムか。あんな狂ったものが本当に存在するとはね」

 

 廊下を歩いているのは2人の男たちだ。いや、『男』と呼んでいいのだろうか? リーファは背筋が凍りながら、その異形の存在に目が奪われる。

 まるで研究者の証明のように纏っているのは白衣だ。だが、その全身の皮膚はブヨブヨとした黄ばんだ弾性を感じさせるものであり、あるべき頭部の部分はタコのように膨れ、口からは複数の触手が伸びている。両手の指は長く、関節は4つと異常。背はどちらも2メートル近く、体格は大柄だ。

 あの手の奇怪なモンスターは何十種と相手取った事があるリーファであるが、思わず血の気が引くほどに衝撃を受けたのは、彼らの立ち振る舞いが余りにも人間臭かったからだろう。まるで生きた怪物の皮を被っているかのように、その動作の節々に人間らしさが主張されている。

 頭頂部にあるのは見慣れないカーソルのみ。リーファの目にはサクヤのプレイヤーネームとHPバーが映っている。モンスターでも確認できるはずの、システムとして与えられる情報が余りにも少な過ぎる奇怪な男たちはどんどんこちらに近寄ってきている。

 倒すべきか? それとも隠れるべきか? リーファは腰の剣を抜こうとする。隠れられそうな場所は近くにはない。石像の物陰など余程の間抜けでもない限りは察知されるだろう。

 

「もっと実験体が増えれば良いんだがな。DBO以外からも引っ張り込めないものかね」

 

「VR適性はともかく、イレギュラー値の測定ばっかりはな。それに、デスゲームのような精神に高負荷をかける環境じゃないと仮想脳の発達は乏しいらしいぜ」

 

「仮想世界の法則を支配する……か。仮想脳を解明し、我が物とする。そうすれば、オベイロン様はシステムの枠に捕らわれずに、自在に神の如き権能を振るうことができる」

 

「そのお零れを俺達がもらう。良いね良いんねぇ! イレギュラーだ何だと言っても所詮はモルモット。実験動物らしく、俺達の肥やしになってもらいましょうや」

 

「だな。問題はその実験動物が希少種だからか。実験中のE-07はもう『駄目』だからな。新しいのを解凍しないと」

 

「お前は遊び過ぎなんだよ。チェンジリングだっていつ再開できるかわかったもんじゃないんだ」

 

 いかなる内容について話しているのか、リーファには理解できない。理解できないが、その中身はおよそ人間における外道と下種の類である事くらいは……そして、あの2人の男たちにおよそ正常な倫理観と呼べるものはない事も嫌でも分かってしまう。そして、同じくらいに、彼らが実験動物と呼んだのは他でもない自分やサクヤの事であるとも直感してしまう。

 それはサクヤも同様なのだろう。怒りと恐怖を食いしばった奥歯で堪えるリーファとは対極的に、顔を青くして口を手で押さえて恐怖が染み出た吐息が漏れるのを耐えている。

 

「でも研究は全然進まないよな。やっぱりさぁ、もっとイレギュラー値の高い奴を拉致んないと駄目なんじゃないかなぁ? ほら、たとえばプレイヤーで凄い名のある子がいるじゃん? ほら、【雷光】とか呼ばれてるさぁ」

 

「お前は若い女の子を弄繰り回したいだけだろう? まぁ、ああいう澄ました女が泣き崩れて叫ぶ様も面白いって言えば面白いが。だが、オベイロン様の話では、アルヴヘイムの侵入者はイレギュラー値が高い実験動物候補ばかりらしい。殺すには些か惜しいな」

 

「アルフ達に捕縛優先させるか?」

 

「馬鹿言うなよ。オベイロン様に殺されるぞ? このままオベイロン様についてけば、俺達も意識を電子化してもらって上位存在になれるんだ。命を大事にしていこうぜ」

 

 接触まで10メートル! いよいよ足音が近づき、リーファは鞘から半ばまで刀身を抜く。立ち振る舞いで分かるが、彼らは死線を潜り抜けた猛者ではない。だが、いかなる能力を持つかも不明である以上は手加減できない。いや、リーファは『人間として』手加減などしたくない。

 だが、異形の2人は不意に立ち止まる。角の向こう側から伸びる影に脅威が映り込み、リーファは呼吸を止めて鞘からほとんど抜けた状態の剣に込めた殺気を抑える。

 

「……オベイロン様からの新しい命令だ。凍結中の実験体はそのままアルフに改造するんだと」

 

「意識操作は? イレギュラー値が高い奴にはせいぜい出来て誘導催眠が限度だぜ?」

 

「レギオンプログラムを使うんじゃないのか? まぁ、アレを使ったらまともな思考なんて残らないだろうけどさ」

 

「いっそ意識は残したまま、アバターの操作を俺達が代用するってのはどうだ?」

 

「そいつは良いなぁ! 早速オベイロン様に進言しようぜ!」

 

 身を翻して元来た道を戻る異形の2人の影が遠ざかっていくのを見届けたリーファは鞘に剣を収めて胸を撫で下ろす。相手が『まとも』ならば斬り伏せられる自信もあったが、隠密行動中なのだ。交戦などデメリットを増やすだけである。

 

「ここは地獄か? それとも、天国が地獄に模様替えしたのか?」

 

 顔の半分を右手で埋め、サクヤは正気を保つように、我が身に訴えかけるようにそう吐き捨てる。リーファは同意することも否定することも出来なかった。

 彼らの会話の限りを精査すれば、あの異形の2人はNPCではなく、プレイヤーですらも無い、GM側の存在なのだろう。だが、リーファには彼らがDBOの管理を行う、デスゲームを取り仕切る運営にはどうしても思えなかった。

 そして、リーファの心を疼かせるのは、自分が見捨てた3人の他の眠れる囚われ人たちだ。あの2人の異形の言葉を推測する限りでは、彼らを待ち構えているのは、人間的な嗜虐の限りを尽くした道楽だ。血の1滴、骨の髄、魂の原初まで踏み躙られる蛮行だ。

 今からでも引き返して3人を助けるべきだ。リーファは身を翻そうとするが、それをサクヤの手が左腕を掴んで止める。

 

「切り捨てろ。私達では助けられない」

 

「でも!」

 

「そうだ! これは私の判断だ! リーファの選択じゃない! だから……『私のせい』にしろ。先に進め。ここから逃げるのが最優先だ」

 

 頭の芯にある冷静な思考はサクヤの言い分を噛み砕いて了承している。これからあのカプセル部屋まで戻り、マスターキーを使って3人を助け出したとしても、あの異形たちに捕まるのは目に見えている。何よりも制限時間が残されていない現状ではどう取り繕っても、何ら打開策なくタイムアップだ。

 泣きたくない。でも、涙が両目に溜まり、視界が濁る。リーファは自分の無力さを噛み締める。

 DBOに来てから何度となく味わった、自分がどれだけ小さく取るに足らない存在なのか思い知った悔しさ。それが胸の内より湧き出す。

 デスゲームが始まったばかりのDBO初期、レコンに人殺しをさせてしまった。自分たちを襲ってきたプレイヤー達を返り討ちにしただけであるが、この世界の残酷さ……いや、現実世界の秩序と道徳で塗り固められた、隠されていた人間の暴力的な一面を思い知った。

 強大なネームドと遭遇し、自分の剣技がまるで通じず、真正面から叩き潰され、他のパーティを見捨てて命からがら逃げだした事もあった。

 敗走と敗北。そして付き纏うのは無慈悲な死と恐怖。それに心折れずに今日まで戦ってこれたリーファは、たとえ本人が認めずとも、崇高なる善意を宿した、人並み以上の精神力の持ち主である事は認められるべきだ。

 だからリーファは右拳を額に叩きつける。今ここで感情的に動く事は、助け出したサクヤすらも危機に晒す行為であり、自分は万能なる救い手ではなく、両手が届く範囲すらも守り切れない脆弱な人間なのだと言い聞かせる。

 

(こんな時にお兄ちゃんだったら……篝さんだったら……どうするんだろう?)

 

 リーファにとって2人はとても近く、また遠い存在だった。

 兄と最後にまともに顔を合わせて話をしたのはいつだっただろうか? SAOから帰還した後の兄はすっかり別人だった。根本は変わっていないのだろうが、余りにも過酷過ぎる環境はリーファが知る兄の面影を大きく塗り替えていた。

 2人の関係は繊細なものだ。それは過去に由来するものであり、血縁に影響されるものであり、共有しなかった時間がもたらした差異だ。

 リーファは失った事で再認識し、兄への愛情を深めた。病室で眠り続ける兄の傍らでその帰還を待ち焦がれた。誰よりも1番に現実世界に迎える為に。

 だが、帰還した兄はリーファと向き合ってくれなかった。彼が追い求めていたのは死者の影だった。リーファは納得した。それも仕方ない事だ。デスゲームから帰還したばかりで、いきなり自分が望んだままに笑顔を向けてほしいなど身勝手にも程がある。

 だからリーファは待った。待ち続けた。だが、健康面が回復しても兄は向き合ってくれなかった。むしろ邪魔するように、シリカと名乗る同じデスゲームの生還者が間に入るようになり、あれよあれよと時間が流れていく内に2人は姿を消した。

 家族との連絡を絶ち、自分の道を進み始めた兄はアインクラッドで何が起こったのか、教えてくれることは無かった。見舞いに行っても曖昧に笑って誤魔化すばかりだった。

 

『聞いても面白くないさ。スグは……知っちゃいけない。知ってほしくないんだ』

 

 共有したかった。その『痛み』を妹として受け入れたかった。なのに兄が示したのは拒絶だった。

 だから、リーファは自分の力でアインクラッドの真実を手に入れる事にした。SAO生還者の話題で持ちきりのメディアとネット、そのどちらにも散漫とした情報しかない。生還者から兄の実像を知らねばならない。

 そして、兄の相棒だったという少年の話を聞いた。初期から兄を支えてくれた戦友の1人だった男から聞かされたのは、兄が最愛の人を失った後に組んだのは……SAOで最も恐れられた傭兵だった。

 だが、リーファは病室の戸を叩いた。兄の相棒だった少年から真実を聞く為に。

 病室は暗闇だった。分厚い黒のカーテンに閉ざされ、まるで夜の闇が濃く留まっているかのようだった。

 灯りをつけると、病室のベッドには痩せ細った少年がいた。男性とも女性とも思えない中性的な顔立ちをした、何処となく子供っぽさが強い少年だった。赤みがかかった黒の瞳はじろりと気怠そうに動いてリーファを捉えた。

 怖いという感情はあった。恐怖心が無いなど嘘は吐けない。それは第一印象だけではなく、多くの生還者が『あんなバケモノに会うべきじゃない』と口を揃えたからだろう。

 

『ああ……少しだけ「目」が似ているな。「アイツ」の妹の……えと、直葉ちゃん、か?「アイツ」はよく言ってたよ。アンタに会いたいってな』

 

 だが、柔らかく笑って迎えてくれた兄の相棒に、リーファは恐怖よりも喜びが勝った。

 兄は忘れていなかった! 死闘の日々でも、自分の存在を確かに憶えていてくれた! しかも再会を待ちわびていてくれた! 思わず泣き崩れ、看護師たちが駆けつける程に大粒の涙を流したリーファに、逆に篝の方が気を使ってくれた程だった。

 篝は端的に言っても優しい人だった。ぶっきら棒であり、口も悪く、また人見知りも激しいようだったが、それらを除けばリーファが今まで会った人々で最も穏和な人物だったと断言できる。

 

『直葉ちゃんは不思議だな。「アイツ」の妹だからかな? 話をするのが苦にならねーよ』

 

 差し入れ……もとい、兄の話を聞き出す為の戦略的賄賂の菓子を食べながら、篝はよく微笑んで直葉を迎えてくれた。まるで実の妹のように接してくれた。兄の話を聞き出す為だけに接しようとした自分を、リーファは大いに恥じた。

 ああ、この人はきっと……騙されて、嘘を吐かれて、何度も何度も傷つけられた人なんだとリーファは気づいてしまった。

 多くの生還者は気狂いしていた。精神が破綻していた。何らかの問題を抱えていた。そんな中で、篝は唯一と言っても過言ではない程に、リーファとまともに取り合ってくれて、よく笑って接してくれて、なおかつ気軽にジョークも挟んで、時にはお粗末な口説き文句やエロい発言をして場を彼なりに和ませてくれた。

 リーファが知る中で、最も精神が安定していたのは篝だった。他の生還者と言えば、いずれも酷い状態だった。発狂して夜な夜な無意識に自傷行為に走る女の子もいた。突如として妻に殴りかかろうとする男がいた。仲間たちの名前を何度も何度も壊れたラジオのように唱え続ける人もいた。

 そんな中で、兄の素晴らしさをこれでもかと教えてくれたのは、篝だけだった。彼がいたから、リーファはメディアが編纂した書籍などではなく、その場にいた生還者から見た……兄の隣に立っていてくれた少年から、その実像を聞くことができた。

 それは過分な英雄視も入っているようだったが、時々死んだ魚のような目をして兄の無意識混沌女事情を懇切丁寧に教えてくれた事はリーファも『妹として』実に有意義だった。

 

『確かに、「アイツ」は色々な事で苦しんでいる。オレも組む前の事は詳しく知らねーし、知りたいとも思わねーよ。でもな、これだけは信じてやってくれ。「アイツ」は良い奴だ。直葉ちゃんが信じなくても足りるくらいに、強くて、真っ直ぐで、多くの人の希望だった男だ。オレが保証してやる。直葉ちゃんの兄貴は……間違いなく英雄だ』

 

 まるで本当の兄のように、リーファの頭を撫でてくれた篝の表情は今でも忘れられない。

 

『だから……だから、「アイツ」を想ってやってくれ。この世界でまともに生きていけるように、支えてやってくれ。「アイツ」の家族として……「妹」として1番支えられるのは、直葉ちゃんのはずだから』

 

 黒いカーテンの狭間から、黄昏の光を浴びた篝の双眸を忘れられない。

 

『もうオレの「相棒」としての仕事は終わったんだ。鉄の城の英雄譚が終わった以上、「アイツ」の傍にオレは要らねーんだよ。「アイツ」はオレとは違う。オレみたいな……外道とは違う。「アイツ」が歩むべき「普通」なんて程遠い……関わっちゃいけない存在だ』

 

 それはとても寂しそうな……今にも消えてしまいそうな程に儚い微笑みだった。

 誰よりも精神が安定している? 違う。断じて違う。

 この人は継ぎ接ぎなのだ。取り繕うのが上手なだけなのだ。必死に必死に必死に……『何か』を抑え付けようともがき苦しんでいるのだ。

 兄の事を嬉々と語ってくれた人の苦しみを知った時、リーファは痩せて骨と皮だけになったような指を……その手を取って微笑んだ。きっと、兄ならそうするのだろうと信じて。

 

『違います。篝さんはとても良い人ですよ。だって、あたしにこんなに優しくしてくれる。お兄ちゃんの事を大切にしてくれている。そんな人が……真っ当に生きられないはずがないです』

 

『……無理に決まってるだろーが。オレがSAOで何人……何百人殺したと思ってる? 知らないはずがねーだろ? そもそもな、オレの一族は――』

 

『知りません! あたしが知っているのは、こんなにも優しい篝さんだもん! それ以外なんてどうでも良いです! あたし、篝さん以上に優しい人なんて知りません! あ! もちろん、お兄ちゃんは例外ですけど!』

 

『お兄様は殿堂入りかよ、おい。まぁ、それは抜いておくとして、オレが優しい人だとか人類への侮蔑じゃねーかな?』

 

『人類冒涜罪上等です! お兄ちゃんの相棒だった人を悪く言う位なら死んだ方がマシですし! だから、あたしを信じてください! お兄ちゃんの妹である桐ヶ谷直葉を信じてください!』

 

 強引にリーファは、いつかの兄がそうしてくれたように、篝の右手の小指と自分の小指を結び付けた。驚いて目を見開く彼を置いてきぼりにして、地平線から注ぎ込む黄昏の陽光を2人で浴びながら、約束を交わしたのだ。

 

 

 

 

 

『篝さんは良い人ですよ。だから……きっと、誰でも得られるような、「普通の幸せ」が見つけられますよ』

 

 

 

 

 

 あたしが保証してあげます。そうリーファは指切りして、笑顔で告げた。

 茫然とした篝は窓の向こう側の夕闇を遠い目をして見つめた後に、仕方ないなと言うように苦笑した。

 

『……そっか。「アイツ」の妹が言うなら、信じるしかねーな。普通……うん、悪くねーかもな。よーし、まずは大学でも目指すか! エロ可愛い美人おねーさんとのキャンパスライフがオレを待ってるぜ!』

 

『あははは。篝さんのそういう所は本当にサイテーですよね!』

 

 その日からの篝は変わった。リハビリにも人一倍に積極的になり、いち早い社会復帰に向けて努力を重ねた。健康面の回復が遅いせいか、病室に政府派遣の教師を誰よりも先に招き入れて勉学に励んだ。多くの生還者が肉体面で回復しても、精神を病み、あるいは社会から距離を置くように隠遁を望んでいる中で、篝だけが真っ先に、SAO帰還者から脱する事を……『普通』を目指した。

 直葉が足を運ぶ度に、彼の病室は参考書で埋もれて行った。政府派遣の教師だけで足りないと思うや否や、自力で不足分を補う努力を重ねた。そうして、彼は地方とはいえそれなりに名の通った大学へ進学し、SAO生還者という肩書もなく他の学生たちに混じった受験で、確かな実力で勝ち取った。

 VR技術に……仮想世界にSAO生還者として仮想世界に深く関与し続ける道を進んだ兄とは距離を取って、何処にでもいる少年として、何処にでもいる大人を目指す道を進んだ。

 

 同じSAO帰還者の2人は、デスゲームから解放された後に対照的な道を歩み、そして運命は2人の道が交わる事を強要するように同じデスゲームに閉じ込めた。今度は……2人の道を決定的に分けた張本人であるリーファすらも呑み込んだ。

 

 兄ならば、篝ならば、同じ状況に置かれた時に、どんな判断をするのだろう?

 SAOで伝説とまで称される白黒コンビだったとされるあの2人ならば、リーファとは違う結果を引き出せるのだろうか?

 考えてもしょうがない事だ。この場所にいるのはリーファだ。自分自身で選択しない限りは何も変わらない。

 

(誰かに頼るだけじゃ駄目! あたしが何とかしないと! サクヤさんは戦えないんだもん。あたしが心折れたらサクヤさんも負けちゃう)

 

 こんな時になって……いや、こんな時だからこそ、コバンザメのようにいつも傍にいてくれたレコンのありがたみが身に染みる。自分以上にパニックに陥りやすい彼のお陰で、どれだけ逆に冷静さを保てたことか。何よりも、レコンはああ見えて適確なサポートといざという時の爆発力は頼りになるのだ。

 マスターキーの使用回数は残り4回。タイムリミットは30分。勿体ないからとギリギリまで温存しても価値はない。リーファも『エリクサー勿体なくて使えない病』にかかっている部類ではあるが、温存は死に直結する。

 黄金の獅子が向かい合う両扉を開き、リーファは大気の息吹に金髪を靡かせる。広大でありながらも充満した悪意で息が詰まりそうだった城内の外に出れた解放感は束の間であり、彼女の鼻を擽ったのは潮風だった。

 それは渡り廊下だろう、空中にかけられた橋だった。だが橋の縁から眼下を見下ろせば、そこにあるのは青々とした海であり、ジャックと豆の木のように巨大な蔦が幾つも天を目指して伸びている。空には五芒星が無数と煌き、流星となっては散っていく。

 幻想的で美しい光景であるが、言い知れない感覚をリーファは得る。その理由はすぐに分かった。振り返れば、扉があるのは円塔であり、あの歩き回るだけでも疲労感が蓄積したユグドラシル城はない。無限に続くような海原も、星の空も、橋を照らす青の炎を揺らすガス灯も……この空間自体に『ズレ』があるのだ。

 

「あの扉が別の仮想空間と接続されていているわけか。どうやら、この城は複数の仮想空間の継ぎ接ぎで肥大化しているようだな」

 

 仮想空間のギミックとしては珍しいものではない。多くのVRゲームで使い古された手法だ。

 本来は座標管理が徹底されている仮想世界は、地理において特に整合性が求められる。つまり、外観以上の面積・体積は得られず、小さな小屋の内部は周囲から見た通りの広さと定められている。

 だが、それでは仮想世界という無茶が利く世界において面白味が欠ける。リアリティの追及は当然ながら必要であるが、あらゆる魔法が世界の真実のように振る舞える仮想世界において、現実世界をお手本にした法則だけで充満させる事の何たる愚かしさか。

 そこで思いつかれた手法の1つが『パッチング技法』とされる、別の仮想空間に接続する事によって、座標管理を『騙す』手法である。これは茅場昌彦がアーガススタッフにSAO作成に当たって手解きした、今でもVR作成において基本とされる技法である。だが、同時に茅場昌彦はこの技法の便利さを多用すべきではない『欠陥建築技法』とすら呼んだ。というのも、外観にそぐわない空間面積の獲得を容易化し、また座標同士を繋げ合わせる事によって複数の仮想世界と接続させる事は、その分だけサーバーに大きな負荷をかけるからだ。

 

『パッチング技法はあくまで応急処置と考えてもらいたい。ダンジョンの作成とワールド作成、その座標管理の整合性が取り切れないときに、ダンジョン外観を「ハリボテ」として、入口から別のVRにあるダンジョンと繋げる。端的に言えば「美しくない」やり方だ』

 

 兄が視聴していた、メディア露出が極端に少なかった茅場昌彦のVR作成講座の動画を思い出し、リーファは肥大化したユグドラシル城に言い知れない不安を覚える。

 DBOはステージ制という、他のVRゲームにおいて『古臭い』と馬鹿にされていたやり方を取っている。多くのVRゲームにおいてそうであるが、オープンワールド至上主義であり、広大な世界が隈なく繋がっているという魅力を売りにしている。それはまさしく本物の世界と錯覚させるに足るだろう。

 だが、DBOの場合は想起の神殿からワープする事によって、多くのステージ……複数のVR空間に転移させる。つまりは葡萄のように、多くのVR空間が互いに干渉することなく、それぞれの箱に収められている。基本的にそれらは座標同士が接続されることはなく、破綻する恐れも無い。

 ステージ制は古い。その考えこそがVRゲームにおける革新性を疎かにし、またパッチング技法の乱用を招いている。温故知新という言葉があるように、茅場昌彦がSAOにおいて……アインクラッドにおいてゲーム根幹として導入したのはステージ制だ。オープンワールドでありながらも、層を成す事によって違和感なくステージ制を入れ、違和感のない多様性の確保に成功したのだ。

 対してDBOは敢えてステージ制にする理由の1つとして、ゲームストーリーを上手く活用している。それぞれのステージは記憶や記録といった過去の事象であり、それらが繋がり合う世界ではないとまず最初に否定している。その上で、座標転移を用いたワープ技法によって移動の手間を省き、また敢えてワープを制限する事によって探索する楽しさと恐ろしさを十分に発揮させているのだ。

 リーファは運営サイドに立ったことがないので断言はできないが、茅場の後継者は『後継者』を名乗るだけの事はある。これまで1度としてDBOにおいて破綻を見たことがない。ステージはまさしく本物の世界のようであり、ダンジョンは外観通りの巨大さと広大さを持ち、寸分と狂うことはない。憎たらしい程に繊細かつ芸術的だ。

 橋を渡った先にあったのは、黄金の燭台が無数と浮かぶ廊下だ。まるで見えない亡霊が燭台を手にもって浮かんでいるかのように、妖しく、また危うく、蝋燭の火は揺れている。窓の無い暗闇の廊下では天井など闇ばかりであり、蝋燭の光だけが道標である。

 だが、そんなゴシックホラーを思わす光景の中で、突如として近代的な光沢が目に入る。

 

「これってエレベーター? もう無茶苦茶ね」

 

 まるで高級マンションに備えられているかのような、鈍い茶色の光沢がある機械仕掛けの横開きの扉、そして脇の壁に取り付けられたボタン。いずれも間違いなくエレベーターである。確かにDBOでもエレベーターは何度となく目撃できる。神々の時代、王の時代、人の時代、終末の時代の大きく分けて4種類に分けられるDBOのステージにおいて、いずれにおいてもタイプは異なれどもエレベーターは出現する。

 だが、西欧ファンタジーの世界において、剣と魔法が隆盛を誇った時代において、電力式のエレベーターが突如として登場すれば違和感は途方もない。

 

「まずは下に行くか? この城が私達の知るALOの世界樹と同一のものだと仮定すれば、央都アルンが地上にはあるはずだ」

 

「それはどうでしょう? あたしは上に行くべきだと思います。このお城の構造は把握し切れていないけど、下に出口があるとしても、その分だけ見張りも多そうですし。それに、これだけ捻じ曲がったお城に常識を求めても仕方ないですし」

 

 何よりも、地上を一望できるかもしれない。そうすれば、自分たちがどのような場所にいるのか、その全貌が少しでも掴めるかもしれない。リーファは期待してエレベーターのボタンを押す。

 下の階から上昇してきたエレベーターが開く。蛍光色のランプで照らされた内部の正面には身だしなみを整える為の鏡が設置され、左右には版画のような王と女王の横顔が飾られている。だが、リーファがそんな事よりも先に視線を集中させたのは、まるで古代ローマの侍女のような、白い薄布と金細工のベルトをしただけの女性の姿だった。

 リーファ達を目にした女性はポカンと口を開ける。咄嗟にリーファは彼女の口を塞ぎ、サクヤはエレベーターを閉ざす。

 

「大声を出さないで」

 

 敵意もない相手を斬りたくない。リーファは左手で女性の口を押えたまま、僅かな油断があったと我が身を呪う。そもそも、ここまで無人かつ誰とも遭遇しなかった事の方が奇跡だったのだ。

 涙目の女性はコクコクと頷き、リーファはサクヤとアイコンタクトした上でそっと彼女の口を塞ぐ左手を外す。

 

「あなた達は……いったい」

 

「それはこちらの台詞だ。ここは何処だ? 私たちはどうしてここにいる?」

 

 サクヤの言う通り、むしろ事情を説明してほしいのはリーファたちの方だ。脅している身では申し訳ないのであるが、彼女から少しでも情報を引き出したいのが本音だった。

 

「混乱した新入りさん、というわけではなさそうね。そうなるとアルフ候補の方々? でも、洗脳はされていないみたいだし……」

 

 ブツブツと呟いた女性は、やがて疲れ切ったように鏡に背中を預けて自分の喉をトントンと叩く。

 

「もう何でも良いわ。その剣が本物なら、私の首を斬って頂戴。こんな生活……もうたくさんなのよ」

 

 自らの死を望む女性の薄暗い闇を秘めた眼に見つめられ、リーファは思わずたじろぐ。

 

「毎夜毎夜嬲られて……辱められて……。帰りたい。お父さん、お母さん……皆の元に、帰りたい。でも、故郷には帰れない。帰っても、きっともう誰も生きてない。だから殺して。私を殺して。お願い。私達は互いを傷つけられないように呪いがかけられているの。誰にも逆らえない。自分で死ぬ権利もない。でも、もしもあなた達が部外者なら妖精王の呪いにかかっていないはず! だから……お願いだから私を殺して! 私を殺してよ!」

 

「ちょ、な、泣かないでください! えーと、何があったのか分からないけど、死にたいなんて言わないでください!」

 

 縋り付いて、いきなり取り乱して死を懇願する女性を慰めるように肩を撫で、リーファは落ち着かせようとする。

 

「あたし達も目覚めたらこんな場所にいて、事情も何も分からないんです。知っている事を1つでも多く教えてください。そしたら、殺すことはあたしには出来ないけど……助ける努力はします」

 

「……ありがとう。私は【ジュリア】。この世界樹に連れて来られた……メイドのようなものよ。突然アルフが来て、私に妖精王に仕える名誉を与えるとか言って、この地獄に捕らえた。それが数百年前。老いることなく、死ぬことも出来ずに、この城で延々と妖精王に仕えて、飽きられたら配下の『玩具』にされる。そんな日々を送っているわ」

 

 涙を拭ったジュリアはリーファ達に死の希望を見たのか、嬉しそうに笑いながら身の上話をする。

 人間は数百年も生きられない。ならば、彼女はそうした『設定』が与えられたNPCなのだろう。リーファはそう判断しようとして、何かが違うと引っ掛かりを覚える。このユグドラシル城に……いや、DBOに従来の常識を当てはめて考察・行動をしても痛い目を見るだけだ。白紙の気持ちで素直に受け取るべきだろう。

 

「私達はこの城を脱出したい。何か方法はないか?」

 

「難しいわね。私達はそもそも世界樹の外には妖精王の許可なく出られないし、下層には城門の守護者がいて出られないわ。方法があるとするならば、アルフ達が使っている国土転移魔法陣かしら。でも、あれは翅を持たない者は使えないし……」

 

 やはり地上に脱出の道は無かったのだろう。リーファは自分の直感が正しかったのだと少しだけ自信を深める。慢心すべきではないが、自信無き行動は躊躇いを生む。それは刹那の戦いを続けた剣道女子だからこそ分かる勝敗を分ける要素だ。

 

「妖精王の部下の研究者達はこの中層を主な生活域にしているわ。でも、ほとんどはそれぞれの部屋に閉じこもっていて、妖精王の命令以外で招集されることは無いの。だから注意する必要はないけど、アルフには気を付けて。彼らは翅を取り戻した妖精たち。その代償として妖精王への絶対的服従の呪いをかけられている。いずれもアルヴヘイム全域から長い歴史の中で集められた猛者たちよ」

 

 その後、手短にジュリアからアルヴヘイムの事情……かつて深淵の呪いによって妖精たちは翅を失った歴史を聞かされる。そして、今や翅を持つことが出来るのは妖精王の配下たるアルフだけなのだ。

 この城からの脱出には翅が無ければならない。だが、その翅を得る方法はオベイロンの配下しか知らない。このマスターキーならば、あの異形の研究者たちの研究室に殴り込みもかけられるだろうが、実力行使で事が素直に運ぶとは思えない。そもそも、ジュリアの話通りならば、このユグドラシル城には100人単位の精鋭たるアルフが存在し、有事には彼らが駆けつける。高い武力と飛行能力を持つ彼らに囲まれれば、リーファもサクヤも成す術はないだろう。

 

「もしかしたら……ティターニア様なら何か知っているかも」

 

 手詰まり感が強まってきたリーファに救いをもたらすように、ジュリアはぼそりと呟く。

 

「ティターニア様? それってオベイロンの奥さんよね?」

 

 異形の研究者たちも口にしていた人物。ジュリアが妖精王と呼ぶのはオベイロンの事だろう。そして、物語に則するならば、オベイロンの妻はティターニアだ。

 この地獄の魔城の主の妻ならば、確かに翅を得る方法は知っているかもしれない。だが、考え得る限りでも協力を求められそうにない人物である。思わず渋い顔をするリーファから悟ったのか、ジュリアは悲しそうに首を横に振る。

 

「私も何度かお会いしたけど、とてもお優しい御方よ。それに妖精王の妻と言ってもそれは伝説の中だけ。妖精王を毛嫌いしているわ。しかも、鳥籠のような牢屋に閉じ込められて……お可哀想に」

 

「ティターニア様は何処にいるの?」

 

「上層の鳥籠と玉座の間にいるわ。でも、このエレベーターでは行けるとは思うけど、特別な力が無いと……」

 

 どうやらティターニアは聞く限りではオベイロンによって無理矢理囚われたお姫様のような人物らしい。ならば協力もしてもらえるかもしれない。リーファは淡い希望ではあると思いながらも、賭けに出るべく、エレベーターの操作パネルに触れる。すると表示されたシステムウインドウの中には、金色に塗り潰された<鳥籠と玉座の間>という階層がある。触れても権限が無いと弾かれる。

 

「マスターキーを使ってみたらどうだ? 単純に開錠するものではなく、システム的ロックを解除する、管理状態をフリーにするものだとしたら……」

 

 サクヤのアドバイスに従い、リーファがシステムウインドウにマスターキーを近づけると、封印されていた全ての階層への移動が許可される。世界樹地下の最下層までアンロック状態である。

 

「ビンゴ! さすがサクヤさん!」

 

 リーファは早速だが、<鳥籠と玉座の間>までエレベーターを上昇させる。無論、扉の向こう側で敵と遭遇するリスクもあるが、ここまで来た以上は度胸なくして解決はない。剣を抜いて高鳴る心臓に鎮まるように言い聞かせながら、どうか敵が待ち構えていないようにと願う。

 神様はリーファに味方してくれているのだろう。到着した鳥籠と玉座の間には誰もいない。今にも動き出しそうな、4メートルはあるだろう甲冑の青銅像が出迎えるが、それ以外は無人である。

 赤いカーペットが敷かれており、まるでボス部屋を思わす広大な空間の奥には黄金の巨大な玉座と慎ましやかな銀の女王の椅子がある。だが、今はそこに腰かける主はいない。

 

「こちらの天空庭園にティターニア様は囚われています。急いで」

 

 玉座の間の左脇にある、真紅のカーテンに隠された扉を開けると、眩い太陽光がリーファ達に注ぎ込み、そして緩やかな風が吹き込む。そこは世界樹と呼ばれた大樹より伸びる1本の枝、そこに設けられた巨大な庭園である。

 本来ならばこれだけの高度ならば立っていられない程の風が吹き荒れているのだろうが、そこは仮想世界であり、ただでさえ狂ったユグドラシル城なのだろう。せいぜいリーファのポニーテールがふわふわと靡く程度だ。

 ハイビスカスのような南洋の花が咲き乱れているかと思えば、四方の噴水から注がれる水路には青い薔薇が蓮のように咲いている。虹色の羽毛を持つ鳥たちは歌を奏でてリーファ達を歓迎し、その羽根を散らして庭園の最奥にある銀の鳥籠へとリーファ達を案内する。

 遠目で見ても大き過ぎる鳥籠。それは人間1人を閉じ込めるに足る、そして心に閉塞感をもたらす狭さを持っていた。剣を1度鞘に収め、サクヤとジュリアを後ろで待機させたリーファは足音をなるべく立てないようにして鳥籠に歩み寄る。

 鳥籠の中身は簡素なものだった。あるのはベッドと本棚くらいなものであり、娯楽品と呼べるものはない。そして、汚れの無い白のシーツの上に腰かけて分厚い本を捲っているのは、1人の美しい少女だ。

 

「……誰?」

 

 やや虚ろとも思える眼で少女はリーファを見る。それに答えようとするも、フォーカスロックし、より精密に視認した囚われのティターニアの容姿を知った時に、彼女は息を呑んだ。

 実際に会ったことは無い。リーファが知ったのは、SAO事件終了後に、兄について調べている内に知り合った警察のお陰だ。兄は決して『彼女』の事を明かそうとせず、また語ろうともしなかった。篝もまた『彼女』の事は知っていたが、そこまで親しい間柄ではなかったらしく、兄との関係とその末路を教えてくれただけだった。

 リーファが知ることができたのは、被害者家族として事件終了後にいくつかの誓約書の記載と聴取を受けた際に対応してくれた、国家公務員とは思えない程に軽く、また思わずリーファも3秒ほど魅入ってしまう程に美形だった刑事のお陰である。

 女性には優しくする主義だったらしく、リーファの熱意に負けた刑事は被害者ファイルを見せてくれた。その中にいた1人の少女。プレイヤーネーム【アスナ】……本名、結城明日奈こそが兄の最愛の人だと知ることができた。

 見間違えるはずがない。リーファは鳥籠の柵をつかみ、ベッドから立ち上がってこちらに向かってくるティターニアに目を潤ませる。

 

(お兄ちゃん、あたし……やったよ! ようやく! ようやくお兄ちゃんの1番大切な人に会えたよ!?)

 

 兄は間違っていなかった! 死者は確かにDBOに……仮想世界で生きているのだ! 涙ぐむリーファに、ティターニアは困惑した様子で周囲を慌ただしく見回しながら駆け寄る。

 

「あなたが誰かは知らないけど、ここにいちゃ駄目! 須郷……じゃなくて、オベイロンなら分かる? 彼は許可なく私に近づくことを禁じているわ。早く行きなさい!」

 

「できません! あたしはあなたと会う為に! お兄ちゃんの助けになる為に!」

 

「もしかして……耳も丸いし……あなたはアルヴヘイムの住人じゃないのね!? DBOのプレイヤーなの!?」

 

 リーファをアルヴヘイムの住人と勘違いしていただろうティターニアは、認識の齟齬に気づくと、その細い指で拳を握る。

 

「須郷が慌ただしいのも納得ね。それで、あなたがここまで来れたという事は、オベイロンを倒したの!?」

 

「……いいえ。あたしも目が覚めたらこのお城の中にいて――」

 

「リーファ、話はあとだ。妖精の女王ティターニア、お初にお目にかかります。私はサクヤ。女王陛下の力をお借りしたく参りました」

 

 ティターニアの正体を知らないサクヤは、恭しく頭を下げる。苦々しそうなティターニアは事情の説明をリーファに要求するように視線を投げたが、今は時間が無いと判断したのだろう。小さく頷いて了承する。

 

「敬称も敬語も要らないわ。私にできることなら何でも言って頂戴」

 

「あたし達はこの城から逃げたいんです。でも、その為にはアルフの翅が必要なんです。アスナさんは翅を手に入れる方法を何か知りませんか!?」

 

「どうして私の名前を……いいえ、今は追及するべき時じゃないわね。翅を手に入れる方法は私も詳しくは知らないけど、新しいアルフ達はこの階層より上から連れて来られていたわ。オベイロンは私を鳥籠から連れ出して、よくそれを見せつけていたの」

 

 この鳥籠の庭園は玉座の間……あのエレベーターで昇ってこれる最上である。ならば、別のルートで更なる上に進まねばならないだろう。リーファはマスターキーが示すタイムリミットが20分を切っていることに焦る。ようやく脱出の糸口が見えたのだ。もはやじっくりと考えている時間はない。迅速に発案し、行動に移さねばならない。

 そうなると頼りになるのはジュリアだ。彼女は考え込むように腕を組み、やがて思い出したかのように顔を上げる。

 

「確か、アルフの方々だけが使える城内の転移陣があります! 全ての階層に繋がっているわけではありませんが、もしかしたら……」

 

「でも、それってアルフの拠点に繋がるって事よね!?」

 

「鼠が猫の住処に入り込むようなものだな」

 

 アルフを生み出すのはアルフの拠点というのは理路として正しいかもしれないが、皿まで喰らった毒で死んでしまっては意味が無い。リスクは背負うべきかもしれないが、自殺行為を望んでいるわけではないのだ。

 またしても手詰まりだ。そう考えた時、リーファは名案とも呼べない、だが1つの賭けるに足る策を思いつく。

 

「ジュリアさん! アルフは洗脳されているって言ってましたよね!?」

 

「は、はい。妖精王は新しいアルフ候補を歓待した後に転生させられて、妖精王に絶対の忠誠と敬意を払う騎士にされてしまいます。ですが、お優しい方はお優しいままですし――」

 

「そうじゃなくて! ティターニアにアルフ達はどう接しているの!?」

 

 ジュリアは妖精王に決して逆らうことができない。自害することもできない。恐らくは彼女と同じ境遇のような同じ女性たち同士で傷つけあうことも許されていないのだろう。それもまた洗脳の1つだとリーファは捉えた。

 では、その洗脳とは何処まで適応されるのだろうか? たとえば、オベイロンはティターニアを鳥籠の外に出されてアルフ達の前で『美しき女王』として見せびらかしていたはずだ。つまりはアルフ達にとってティターニアとは絶対忠誠を誓うオベイロンの『最愛の妻』として認識されているはずだ。

 

「もちろん敬意を払います。妖精王の奥方様に不敬を働けば、どんな罰があるのか目に見えていますでしょうし……」

 

 勝ち目はある! ジュリアの回答に、リーファは希望の光を見つけて笑みを零す。つまりはアルフ達にとってティターニアは無下にできないどころか、妖精王オベイロンに次ぐ忠誠の対象として認識が『刷り込まれている』と考えて良いだろう。それはオベイロンの望んだものではなく、あくまでオベイロンへの絶対忠誠の副産物に過ぎない。故に過信はできないが、ティターニアさえいればアルフ達は彼女の権威を前にして何もできなくなる。

 

「アスナさん! あたしと一緒に来てください! あなたがいないと誰も助からない! ううん、違う! あなただけは見捨てちゃいけない! こんな所に閉じ込めておくわけにはいかない!」

 

 自分を救い出してくれた漆黒の肌をした白髪の少女。彼女が授けてくれた、たった5回の切り札。黄金の鍵を握りしめたリーファは鳥籠を閉ざす、無機質な施錠パネルへと押し付けた。

 それは13桁のパスワードと彼だけが持つ白金の鍵でのみ開くことができるティターニアを閉じ込める錠前。黄金の鍵はこれこそが正しく合致する鍵穴だと主張するようにパネルへと溶け込み、使用の有無をリーファに求める。

 一瞬と呼ぶことすらも烏滸がましい、刹那よりも短い、思考と思考の狭間に悪魔の囁きが滑り込む。

 本当に解放して良いのか?

 彼女を自由にして、兄と再会させれば、兄は彼女を深く愛するだろう。もう2度と手放さないと誓うだろう。

 今ならば、まだ『最愛の女性』の席に自分が座ることができるかもしれない。

 昔はそうだった。リーファが求めたのは兄の1番大好きな人に……最も愛する女性になる事だった。彼の愛の全てが欲しかった。

 死者は蘇らない。いいや、蘇ってはならない。死者が生者の権利を侵すのか? もう死んだならば、棺の中で大人しくしていれば良い。なのに、死してなお兄の心を占めるだけでは飽き足らず、生き返ってまで兄の隣を譲らないというのか。

 憎たらしい。妬ましい。腹立たしい。そんな感情が混沌と渦巻き、腹……いや、胎から血流に乗り、心臓を縛り付け、脳髄に呪いの言葉を紡がせていく。

 

 

 

『「アイツ」の家族として……「妹」として1番支えられるのは、直葉ちゃんのはずだから』

 

 

 

 リーファは幻視する。いつか見た、黄昏の光が差し込む病室で、儚く微笑んでくれた、温かな篝火を思い出す。

 違う。否定する。リーファと直葉は拒絶する。

 それは昔の想いだ。まだこの感情に振り回され、闇雲に兄の『1番』になろうとした、その心を踏み躙ってでもアスナがいた席を奪い取ろうとした、浅ましき頃の感情だ。

 兄の最愛の女性は……最も愛した妻は……アスナだ。それは認めねばならない。だから、リーファが望むのは『最愛の妹』だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ティターニアを閉じ込めていた鳥籠は……1人の少女の決断によって、その扉を重々しく開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 信じられない。そんな感情を表情いっぱいで彩り、まるで四肢を長年縛られていたかのように、鳥籠の外に1歩出たティターニアは頬から涙を1滴だけ流し、空に輝く太陽へと手を伸ばす。

 リーファには想像できない程に、ティターニアはあの鳥籠の中で地獄の日々を送っていたのだろう。時間の消費だと分かっていても、サクヤも何も言わずに、ティターニアの感動の一瞬を邪魔しない。

 

「私……外に、出れた、のね。あはは……バカみたい。あれこれ策を考えて……助けは来ないって絶望して……なのに、こんなに、いきなり」

 

 笑顔で止まらない涙を両手の甲で拭い続けたティターニア……いや、アスナは、先程までの囚われの女王と同一人物とは思えない程に強く凛とした光を眼に宿す。

 悔しいなぁ。やっぱりお兄ちゃんが愛した人だ。女性でも惚れ惚れする程にアスナは端麗な顔に歴戦の剣士のような力強さを秘めている姿に、リーファは分かっていながらも悔しがる。まだまだ10代の乙女だ。心を整然としろ言う方が無茶である。

 

「リーファ、さっきから彼女の事をアスナって……それってもしかして――」

 

「話は後よ。リーファちゃん、サクヤさん、それと……ジュリアさん? 私が自由になったと知れば、須郷は……オベイロンは形振り構わず、死にもの狂いで捕まえようとするはずよ。あのプライドの塊みたいな男は屈辱を笑って消化できるような人じゃないわ」

 

 アスナは問おうとするサクヤに待ったをかける。警報のようなものは無さそうだが、もしも誰かが空中庭園に来れば、一目で鳥籠が無人であると気づいてしまうだろう。そうなれば城の警備はリーファ達を捕まえようとするはずだ。

 頷いたリーファはジュリアに先導され、玉座の間……2体の青銅像の傍らにある青い魔法陣に触れる。その輝きはDBOでも時折見かける召喚サインの光に近しい。

 当然のようにリーファ達に魔法陣の使用は許可されていない。タイムリミットは15分を切っている。もしかしたら、こうして比較的誰とも遭遇せずに自由に行動できているのも、あの少女の目に見えない援護のお陰なのかもしれない。そう思うとリーファの心に焦りが芽生える。

 マスターキーの使用回数は残り2回。リーファは迷いを捨てて魔法陣に鍵を押し付け、アンロック状態にする。自由な使用が許可された魔法陣はシステムウインドウを開き、転移先を提示する。

 

「これじゃないか!?」

 

「<再誕の間>……1番確率が高そうね」

 

 サクヤが指差した転移先にアスナが同意し、リーファも首を縦に振る。他にもそれらしい名称は幾つかがあるが、これが最もストレートな名称だ。

 魔法陣に4人とも立つとリーファが代表して転移を認可する。ワープ特有の浮遊感の後に、重力を感じたかと思えば、薄暗い青の空間が目に入る。それは自分たちが閉じ込められていたカプセル部屋によく似ていた。

 中心部にあるのは4本の円柱によって支えられた天井付きの何らかの装置だ。人間1人が立てるだろうスペースには、青い光のタイルが敷き詰められ、まるで演奏でもするかのように光が膨張と縮小を繰り返している。

 空間の各所には七色のクリスタルが生え、それらは共鳴するように色を濃く、また淡く変化させ続けている。それらは幻想的であると同時に、まるで巨大な無機質の子宮のような、言い知れない恐怖感を心に注ぎ込む。

 

「貴様ら、何者だ!? いったいどうやってここに――」

 

 と、そこでリーファ達を取り囲んだのは、この部屋と装置を守るアルフ達だろう。いずれも純白に金糸の騎士装束、あるいは重厚な白銀の鎧を纏っている。ある者は地で槍を構え、ある者は翅で浮遊して剣を向けている。

 その数は8人。武装していないアスナ、ライトスタンドが武器のサクヤ、戦闘できるかどうかも怪しいジュリアの3人を守りながらでは、リーファではどう頑張っても勝ち目はない。

 だが、リーファは剣を抜くも、先手必勝とばかりに斬りかからなかった。むしろ、正々堂々と、まるで女王を守る騎士のようにアスナの前に立つ。

 

「控えよ! 控えよ! ここにおわす方をどなたと心得る!?」

 

「アルヴヘイムの支配者、偉大なる妖精王の奥方様、ティターニア様であらせられるぞ!」

 

 日本人の心に刻み込まれた長寿時代劇の何たる素晴らしさか。今では再放送しか見れない、水戸のお偉い様のようにアスナを頂き、多くの死闘でそうであったように、打ち合わせも無くリーファにサクヤは呼応する。

 そして、アスナもまた自分の役割を即座に判断したのだろう。一息入れる間もなく、女王の威厳を示すように肩にかかった髪を手で振り払う。

 

「私に剣を向けるとは、我が夫オベイロン様に反意ありと見なします。ですが、オベイロン様のお手を煩わせるのは妻としても望まぬ所。此度の無礼、見逃してやっても良いが?」

 

 冷たい眼で睨めば、アルフ達は一斉に武器を捨て、その場で恭しく跪く。そして、この部屋を守護する隊長格だろうアルフが前に進み出る。

 

「申し訳ありません! よもや黄昏の君! 妖精王の宝玉! ティターニア様がこのような場所にいらっしゃるとは露とも思わず……!」

 

「良い。私も先んじて一言伝えなかった非もある。我が夫は多忙である事は存じているはず。城内の士気向上の為、こうして私も夫の騎士たちの仕事ぶりを視察している。不信と思えば剣を向ける警戒心、見事と言わざるを得ません」

 

「あ、ありがたき幸せ!」

 

 女王の演技でアルフ達を平伏させたアスナは涼しい顔をしているが、耳の裏はじっとりと汗で湿っている。リーファ以上にアスナには彼らを騙すという大仕事がある。1つでも警戒心を持たれれば、そのままオベイロンに通達され、即時にゲームオーバーだ。

 

「ところで、この再誕の間はアルフに転生させる儀式ができると聞きますが、本当ですか?」

 

「はい、女王様。この儀式聖壇において、我らはアルフに転生を果たしました! 我らには使い方が分からないのですが、あちらの円盤でオベイロン様の使徒が操作される事によってアルフとなり、翅を取り戻すことができたのです」

 

 装置の隣にある浮遊する紫色の円盤をまじまじと見つめたアスナは、ウインクしてリーファを手招きする。円盤に触れると複数の文字が表示され、それらは多種多様な言語で記載された操作マニュアルのようだ。英語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、中国語、韓国語……そして基本言語としてもちろん日本語も存在する。

 

「彼女たちはオベイロン様から授かった私の専属騎士候補です。これから私自らの手でアルフに転生させます」

 

「で、ですが……」

 

「これはオベイロン様にも許可を得ている決定事項。私に意見するとはオベイロン様に意見するという事。その意味が分かりますね?」

 

 冷たい流し目でアルフの隊長を黙らせたアスナは、まずリーファに転生するようにと装置に上らせる。

 アルフになればオベイロンへの絶対的な忠誠が刷り込まれる。だが、あの円盤を操作すれば、洗脳を除外してアバターをアルフに変化させることができる。他人に精神の自由を委ねる事の恐怖心はあるが、リーファは兄が愛したアスナを信じて瞼を閉ざす。

 一瞬だけ自分が分解されるような喪失感の後に、リーファは眩い光の内で自分に懐かしい感覚が……ALOアバター特有の翅の保有感を得る。

 瞼を開けば、リーファの背中には虹色に光る妖精の翅があった。シルフの緑の翅に見慣れているリーファとしては違和感があるが、かつての感覚の通り……背中から本来存在しない筋肉が伸びているような感覚、ALOの飛行システムの真骨頂たる随意飛行を機能させる。

 革新的な飛行システムの礎となった随意飛行……即ち随意運動とは、ALOで初実装された、しかし茅場昌彦によって提唱されていた仮想世界特有のシステムだ。

 運動アルゴリズムの接続によってアバターを動かす事を可能とする人類の脳であるが、そもそもアバターを人型で固定する事は自由度の喪失に他ならない。そもそも、VR技術とAR技術の目指すべき点の1つとして、人間以上に複雑な機構を兼ね備えた、高度な火器管制と姿勢制御システムを有したロボット兵器のコントロールという『夢物語』が示唆されていた。

 人類に仮想世界との接続を案異化させた運動アルゴリズムはたった1つの雛型から派生を続けている。そして、ALOのアバターは運動アルゴリズムに新しくアバターの『翅』の部位を与えた形態である。

 即ち、本来存在しない運動器官を人間の脳がコントロールする。それが随意運動である。ALOでの正式な成功例を持って、人型から脱したアバターを操作するVRゲームは増加し、またモンスターロールと呼ばれる、モンスターアバターを利用した『敵役』としてゲームに参加できる幅広さを獲得した。

 そして、この随意運動であるが、実はDBOにも実装されている。リーファはまだ未獲得であるが、デーモン化によってアバターが変化したプレイヤー達には尻尾や翼を得る者も多い。彼らはそれを自由自在に操ることができる。特にフェアリー型と呼ばれる、光の翅を持ち、疑似的な飛行能力が持てるデーモン化は、特に随意飛行の分野が過度に要求されるだろう。

 だが、ALO時代から既に問題視されていたが、この随意運動には相応のVR適性が求められる。当然ながら『本来存在しない器官の操作』は脳に負荷をもたらす。それを補うAI補助もあるが、完全操作モードとは雲泥の差である。そして、DBOにはAI補助などという『甘え』は存在しない。

 リーファは学校の健康診断でVR適性を測定してもらった時に、行政機関の人間が来るほどに高い数値を叩きだした。VR適性A+……仮想世界への接続によってVR適性は拡張するとはいえ、接続時間と比例した場合、異例の高さだった。

 兄譲りなのだろう。未だにVR適性の遺伝関係は解明されていないが、アメリカのVR依存症級のゲーマーカップルの赤子が高いVR適性を持っていたというネットニュースをリーファは見たことがある。

 先天的か、それとも後天的才能か。後者の方を人間は渇望する。そうであって欲しいと残酷な現実に歯向かう。

 確かに後天的……環境と努力の成果は確かにあるだろう。それは否定すべき事ではない。実際に一般数値だったVR適性の人物が、長時間ログインによって極めて高い数値まで拡張したという例は多い。だが、後天的才能を認めるならば、同じくらいに先天的才能もまた認可せねばならない。

 そして、随意運動と同時に、必然的に発生したもう1つのVR技術、思考制御……イメージによるアバターやポリゴン、システムのコントロール。それもまたDBOプレイヤー達の日々の研究によって、このデスゲームに密やかに関与しているのではないかと言われている。あるいは、既にそれを表層まで押し出したスキルや装備が存在するのではないかと。

 

「耳が尖っているわ。本当に妖精になったのね」

 

 アスナに指摘された耳に触れれば、ALOの頃と同じ懐かしき尖った耳が生えている。リーファは翅を動かしてふわりと儀式聖壇から降り立った。

 

「次はサクヤさんよ」

 

「分かった。リーファ、これを」

 

 ライトスタンドを預けられたリーファは、儀式聖壇に立ったサクヤが光に包まれるのを見守る。

 

「ところで、どうしてライトスタンドをお持ちなのですか?」

 

「え!? き、決まっているでしょう!? ティターニア様の新しい家具よ! でも、これは気に入らないから、あなたの槍を寄越しなさい!」

 

 無茶苦茶な論理でアルフにライトスタンドを押し付け、代わりに銀色の槍を譲り受けたリーファは、翅を得たサクヤにそれを渡す。

 久々の飛行感覚に酔っているのだろう。うっとりした様子でサクヤは虹色の翅を何度も羽ばたかせる。どうやら、この翅はシステム操作で消すこともできるらしく、隠蔽と収納に優れているようだ。

 次はジュリアの番と言いたいところであるが、彼女はメイドとして認知されている。新顔のリーファ達ならば騙せるだろうが、ジュリアがアルフに転生するとなるとひと悶着が起こるかもしれない。

 

「空を飛べるとは素晴らしいものね。私はオベイロン様の妻となった時、愛を裏切らぬ約束として自ら翅を捨てました。ですが……空を飛んでいたあの頃が少しだけ懐かしくなります」

 

「ティターニア様……」

 

 と、そこですかさず演技を差し込んだのはアスナだ。同情を誘うような顔で目を潤ませ、そっと人差し指で涙を拭う。同じ女性であるリーファも少しだけ背筋が凍りたくなる演技派である。

 も、もしかして、計画的にお兄ちゃんのハートを奪いに行った確率……大!? 女の駆け引きに関して言えば、剣道女子だったリーファは男連中に囲まれて育った部類である為に疎い。むしろ徹底したスポ根女子である。彼女が知る由も無い、純粋培養お嬢様学校+上流階級のコンボで、生まれた時から揉まれてきたアスナとは経験値が圧倒的に違うのだ。

 

「どうか見逃してもらえませんか? ひと時で良い。私に翅を……」

 

「畏まりました。偉大なる妖精王オベイロン陛下もティターニア様の涙を望まれぬはず。我らは王の為に、今この時は盲目となりましょう!」

 

 洗脳だとは分かっていても、元の人格からして高潔な騎士たちだったと嫌でも分かるアルフ達の乱れぬ忠誠に、リーファは言い知れない悔しさが滲む。彼らの騎士道は、今まさに忠義を誓うオベイロンによって踏み躙られているのだ。

 勝利! アスナの口元がそう小さく歪むのを見て、リーファは悟る。

 

(あ、駄目だ。この人に逆らっちゃ駄目だ。社会的に抹殺される)

 

 どこぞの白の傭兵と同じく、リーファの政治力はサクヤと違って底値寸前である。剣の駆け引きは一流でも、政治になれば素人以前の鴨葱なのだ。

 光に包まれたアスナは翅を手に入れ、嬉しそうにジャンプして飛行しようとして盛大に顔面から床に叩きつけられる。カーソルしか見えないが、きっとHPは僅かに減っただろう、盛大な顔面落下である。

 

「ア、アスナさん……随意飛行はコツがいるから」

 

 いかに【閃光】と謳われた天才美少女剣士でも、いきなりありもしない翅を自在に動かせと言われても無茶があるのだ。ううう、と悔しそうに唸るアスナであるが、すぐに立ち上がってゴホンと咳を入れる。

 

「どうやら飛び方を忘れてしまったようですね。練習が必要のようです。できれば、是非ともアルヴヘイムを一望したいのですが……」

 

「でしたら、あちらの昇降機から我らアルフが使う飛行地があります。転移リングを使えば、アルヴヘイムの東西南北あらゆる地に赴くことが出来ます。我らが護衛として――」

 

「いえ、先も申した通りこれは私のワガママ。オベイロン様に無用な心配をかけたくありません。そうですね、私の忠実なる騎士2人と……彼女を世話係として連れて行きたいのですが。ですが、飛べないのは不便ですね。彼女もアルフにしたいのですが――」

 

 上手い! このままジュリアを放っておくわけにはいかない。どうせユグドラシル城から逃げ出すのであるならば、共犯である彼女を同伴させるべきだ。

 信じられないと喜びを隠せずにいる、先程まで死を望んでいた女性はアスナに喜びのあまり駆け寄ろうとした時だった。

 不意に転生の間の扉が、自動ドア特有の機動音と共に開く。薄暗い空間に差し込んだ外部の光はリーファの目を眩ませ、そして影は彼女に絶望を与えた。

 

 

 

 誰かが言った。希望とは芽引き、蕾を膨らませ、花開こうとするまさにその瞬間こそ刈り取るに相応しいのだ。

 

 

 

 それはリーファ達が遭遇する寸前だった、あの異形の研究者達だった。彼らは茫然とアスナを、リーファを、サクヤを見回す。

 

「おいおい、アルフ共。コイツはどういう事だぁ!? 転生プログラムのアップデートに来てみれば、実験動物2体とオベイロン様の奥様が逃げ出しているじゃねぇか!」

 

「ヒヒ、こうしてみると、やっぱりあの2人って可愛いよねぇ。早く弄繰り回したいなぁ……じゃなくて、何でここにぃ!?」

 

 混乱する研究者とアルフ達。その硬直の中で動けずにいたリーファの手を引っ張ったのはアスナだった。

 彼女は簡素さの中にも気品がある城のワンピースドレスを翻し、アルフが指差していた昇降機に真っ直ぐと駆けだす。どうやらロックはかかっていないらしく、彼女がパネルに触れれば大口のように扉を開ける。

 

「馬鹿アルフ共! 奴らを捕まえろ!」

 

 研究者が口汚く罵り、ようやくアルフ達も事態を察したのだろう。だが、オベイロンの次に忠誠を誓うティターニアへの攻撃は歯止めになっているのか、その動きは鈍い。それを見かねてか、研究者はその右手を掲げると、雷の槍に似た、黄金色の光の槍が生み出される。それは異形の姿に不釣り合いなほどに神々しい輝きだ。

 まずはリーファが、次にサクヤが、そしてジュリアがエレベーターに飛び込む。アスナは即座に、最上階までのボタンを押して扉を閉ざそうとするが、それよりも先に黄金の光の槍が飛来する。

 狭いエレベーターの内部に回避スペースはない。リーファは接近型としてVITにもそれなりに振っている。ならば盾になるべきは自分であるが、剣を抜くことすら間に合わない。

 あの光の槍にどれだけの威力が秘められているのか。必殺級のダメージがあるのか。そんな恐怖がリーファを駆け巡る間に、彼女の視界を人影が覆う。

 ぴちゃり。そんな音をして、リーファの顔に飛び散ったのは、DBOで見慣れした……しかし、それよりもずっとドロリとした、生々しい質感を持った赤黒い光。いや、もはやそれは血と呼ぶ他ない。

 リーファを庇ったのはジュリアだった。彼女はその胸で光の槍を受け止め、背中から先端が突き出す程に深々と貫通させ、グラリと倒れる。それと同時に扉は閉ざさ、エレベーターは音もなく、重力だけを感じさせて上昇する。

 

「ジュリアさん!」

 

 光の槍が消失し、胸部の中心部に大穴を明けたジュリアは、傷口から止まることなく出血し、そのアバターの内部……赤黒い肉の光を晒している。コヒューコヒューと、まるで割れた窓ガラスから風が入り込んでいるような呼吸音の中で、ジュリアのカーソルは緑から黄色、黄色から赤へと変じていく。

 

「あ、あはは……高望み、しちゃった、から、かな? もしかしたら、誰もいなくても、故郷に、帰れるかも……って」

 

「駄目! 今すぐ奇跡を……!」

 

 リーファは中回復を持っている。これならばHPを十分に回復させられるはずだ。奇跡を発動しようとしたリーファの手を、そっと優しく、拒むようにジュリアは血塗れの右手で包み込んで首を横に振る。

 

「私は……死に、たかった。ようやく、解放、されるわ。ああ、白銀の月の君……狩人の守護者アルテミス様……私のソウルは、ようやく、帰れます。イーストノイアスの……古い、森、へ――」

 

 満足そうにジュリアの目から光が失われ、リーファから手が零れ落ちる。血だまりの中でリーファは怒りと悲しみを噛み締め、彼女の亡骸を抱きしめた。

 ほんの数十分だけの付き合いだった。互いの気心も知らず、過去も知らず、それでも絶望があるからこそ、ジュリアは自分たちを助けてくれた。殺してくれることを望んで力を貸してくれた。

 救われて良いではないか! 彼女が何か悪い事をしたというのか!? リーファは嗚咽を漏らしてジュリアの遺体を抱きしめる。サクヤはそっと彼女の瞼を閉ざし、アスナは無言で唇を噛んだ。

 まるでリーファを嘲笑うような電子音と共に、エレベーターの扉が開く。そこは世界樹の頂上に最も近い枝の1つだろう。八面体の紫のクリスタルが滑走路を囲むように浮かび、四方八方には大小様々なリングが浮かんでいる。

 あれが転移リング……このユグドラシル城から唯一逃れられる術だ。リーファはジュリアの遺体を故郷に帰してあげたいという気持ちを抑え、血塗れの体を恥じることなく、エレベーターの外に立つ。

 

「たくさんあるな。どれを使えば良いんだ」

 

「贅沢なんて言ってられないわ。リーファちゃん、サクヤさん、どれでも良いから私を担いで飛んで頂戴! 悔しいけど、私はまだ飛行に慣れていないわ! あなた達の力を借りないと――」

 

 全てを言い切るよりも先に、まるでリーファ達を囲むように……いや、正確に言えば、この飛行場で何処にも、誰にも飛び立たせないように、半透明のガラスのドームが覆いつくす。

 そして、続いてリーファ達に襲い掛かったのは黄金の矢だ。同色の雷を纏った大矢はリーファの顔面を狙ったものであるが、持ち前の高い反応速度と培った見切りの技術で彼女は回避に成功する。

 

「あらあら、モルモットが逃げたと聞いていたけど、なかなか活きが良いじゃない」

 

 それは虹色の翅を持つ赤毛の女だった。顔立ちはそれなりに整っているが化粧は濃く、やや安っぽさが目立つ。グラマーな体つきをアルフ達と同じ白の騎士装束で身に纏い、その右手には禍々しい棘付きの鞭を供えている。乗るのは異形のキメラであり、唸り声をあげて今にも『肉』に飛びかかるかのような獰猛さを主張する。

 そして、彼女の傍らにいるのは2体の、上半身は女性、下半身は大蛇の、まさにギリシャ神話に登場するメデューサだ。その伝説はリーファも知るところであり、目を見た瞬間に呪いが蓄積したのを見て視線を下ろす。だが、それを赤毛の女性は許さないとばかりに鞭を振るってリーファを弾き飛ばし、地面に転がせる。

 冷たい金属の床で抉られた頬から疼くダメージフィードバッグに唸りながら、リーファは立ち上がる。サクヤは槍を振るって応戦しようとするが、多腕のメデューサの連撃を捌き切れずに肩を、腕を、横腹を斬られていく。

 もう1体の大弓持ちのメデューサは冷気を伴った大矢を構え、真っ直ぐとリーファに狙いをつける。これで勝負ありと見たのだろう。赤毛の女性は面倒くさそうに溜め息を吐いた。

 

「手を煩わせないでよ。どうやって逃げたのか知らないけど、ただでさえオベイロン様は【来訪者】の相手で大変なのよ? フフフ、きっとあなた達は最高の玩具にされるでしょうね。まずは頭から爪先までしゃぶり尽された後に、心も体も雌豚に堕とされて、最後は怪物に改造させられるでしょうね。ああ、それとも本当に豚と性交させられるかもね! アハハハハ……本当に嫌になるわぁ。それでオベイロン様の怒りが済めば良いけど。アタシに当たり散らかされたら大迷惑じゃない」

 

 どうしてくれるのよ? そう言って鞭を振るい、サクヤの顎を強打して吹き飛ばした赤毛の女性は嘆息する。唯一非武装のアスナは後ずさるも、それを可愛らしいと嬲るように赤毛の女性は笑った。

 

「あなたにもきっと大層な罰が与えられるでしょうね、ティターニア様? その真っ白な肌にどんな傷がつくのかしら? それとも女の悦びを魂の芯まで教えてあげるのかしら? それとも、そちらの2人の凌辱風景を王様のワインとチーズを嗜みながら鑑賞会? ああ、これが1番確率高そうねぇ!」

 

「外道! あなたに人の心はないの!?」

 

「あるわよぉ? だからこそ楽しいんじゃない。『人』ってね、自分よりも強かったり、美しかったり、地位が高かったり……そんな人々がズタボロの雑巾になって生ゴミにみたいに扱われる姿に! 快楽を覚えるんじゃない! 特に女はそういうものでしょう? アタシも妬ましいわぁ、【閃光】さん」

 

 自分の正体を知っている。ただのアルフではない。そう感じ取ったのだろうアスナは歯を食いしばり、両拳を握る。【閃光】と言えば高速の刺剣使いであるが、それ以外の戦い方を身に着けていない訳ではない。だが、それはSAOでも護身術クラスである。

 そして、駄目押しはやってくる。エレベーターからアルフが流れ込み、それに護衛される形で姿を現したのは、金髪ウェーブの美丈夫だ。余裕たっぷりの顔をしているが、リーファはその双眸に耐えがたい屈辱と憤怒の色を見て取る。

 

「やぁ、ティターニア。子供じゃないんだ。家出なんてするものではないよ?」

 

「……須郷!」

 

「駄目駄目。言っただろう?」

 

 にこやかに、だが、翅の1回の羽ばたきでアスナの前に移動したオベイロンは、醜悪な笑顔で本性を一瞬だけ晒し、左手の裏拳でアスナの頬を殴りつける。まるでボールのように跳ねて地面を転がったアスナは激しく咳き込みながらも立ち上がる。それを見たオベイロンはやれやれと首を横に振った。

 

「美しくないなぁ。諦めは肝心だよ? まぁ、そういう反骨精神ある君も捨てがたいが……今回はやり過ぎだ」

 

「オベイロン様、彼らはどのように?」

 

「あの2人は捕まえろ。誰が力を貸したのか聞き出す必要がある。アイザックめ。何か仕掛けを施していたな」

 

「畏まりました。聞こえたな? あの2人は生け捕りにしろ!」

 

 アルフ達はジリジリとアスナに、リーファに、サクヤににじり寄る。リーファは剣を構え、最後まで戦う意思を示そうとするが、この絶望的な状況を覆す方法が思いつかなかった。

 

(ここまで……なの? もう、あたしに何も出来ることはないの?)

 

 たった1時間。たった60分。それで何が変えられたというのか? あの少女は何を求めていたというのか?

 と、その時になってリーファのポケットが赤く光る。目を向ければ、黄金の鍵は今や赤錆となってボロボロと崩れ始めていた。タイムアウトが近いのだ。もう1分も残されていないのだろう。

 

『スグ……何があっても絶対に諦めるな。前を向いて生きてくれ』

 

 それは兄と最後にまともに顔合わせをした日、病院の休憩室で珈琲を奢ってくれた兄の言葉。

 どんな困難に直面しようとも、真っ直ぐと向き合って、乗り越えてくれることを兄は願ってくれていた。それは、あるいは自分に出来なかった願いだったのだろうか。

 

『「アイツ」と同じで……いや、負けん気だけはそれ以上だな。さすがは妹だよ』

 

 リハビリのバスケで、運動神経に優れているリーファを、幾ら男女の差があるとはいえ、病み上がりの体で圧倒した篝の言葉。

 負けると分かっても、汗を撒き散らしながら追いすがり、なおも勝ちに行こうとしてくれたリーファを認めてくれた微笑みだった。

 

「負けない。あたしは……負けない!」

 

 聞こえたような気がした。

 漆黒の翼を広げる、白髪の少女の讃美歌が聞こえたような気がした。

 リーファはポケットに手を入れ、空を封印するガラスのドームに駆ける。もはや袋の鼠であるリーファの反抗を無理に追おうとするアルフはいない。だが、彼女が崩れる黄金の鍵を取り出した時、アスナは、サクヤは、その意図を正確に理解する。

 サクヤは羽ばたいてアスナの腕をつかんで舞い上がり、リーファはガラスのドームに鍵を押し付けて、マスターキーの最後の1回の力を使って解除する。砕け散ったガラスの破片は雪のように降り注ぎ、オベイロンは大きく目を見開く。

 

「貴様ぁああああああああああああああああああ!」

 

 それは王の仮面を剥ぎ取ったオベイロンの絶叫。リーファに飛来したのはその右手から離れた橙色の雷撃であるが、それをリーファはALOで培った飛行技術を披露するように軽やかに舞い上がり、翅を精一杯に動かす。

 最も近場の転移リングは青の輝きを秘め、その内側を水面のように風景を歪ませている。それに向かって一直線に飛ぶリーファであるが、その身を急速にレベル1の石化の呪いが蓄積していく。

 それは2体のメデューサの両目から放たれる妖しい光。それを浴びただけでレベル1の石化の呪いが蓄積しているのだ。1体だけの蓄積速度は大したことはないのだろうが、2体同時の石化の呪いがリーファに集中砲火され、加速度的に呪いが高まっている。

 リングにたどり着くより前に呪われてしまう! リーファは更なる加速を求めて羽ばたこうとした時、彼女にアスナの体が飛び込んでくる。

 

「……リーファ、生きて」

 

 それは短い別れの言葉。リーファにアスナを押し付けたサクヤは優しく笑いかけ、そのまま身を反転すると2体のメデューサに特攻する。石化の眼光を使っていたメデューサ達は突進してきたサクヤに対応が遅れ、石化の呪いを中断してしまう。

 

「嫌だ、嫌だよ……サクヤさぁああああああああああああああああああああああああああん!」

 

 絶叫するリーファも舞い戻ろうとするが、たどたどしくも翅を動かすアスナが彼女を抱きしめ、青のリングに飛び込む。

 リーファの眼下の風景が変わる。鬱蒼と茂る森、白い冠を被った山脈、はるか向こう側にある雷鳴轟く火山。それは広大なアルヴヘイムの姿だ。リーファ達を追ってきたアルフ達の目を誤魔化す為に、アスナは早くもコツを掴み始めた飛行技術で、だがまだまだ不慣れで幼い羽ばたきで、大樹の森へと急降下する。

 もはやリーファにサクヤがどうなったのか、知る術はない。赤毛の女の言葉通りならば、彼女は死ぬよりも辛い目に遭うだろう。

 

 それはリーファの冒険の始まり。彼女が愛したALOを模した、DBOの血が注がれた、妖精王が作った歪んだ妖精の国の冒険の始まり。




黒白コンビを差し置いて、原作メインヒロインを奪還成功するリーファちゃん。

いったい何時から……妖精王編でアスナが囚われのお姫様ポジションを貫くと錯覚していた?

なお、この行動によって主人公(白)のミッションが更に難易度上昇しました。

それでは251話でまた会いましょう。

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