SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

リーファはお姫様を救い出し、波乱の種はばら撒かれる。




Episode18-17 雨と森と月明かり

 インプ、もといスプリガンの地下遺跡都市から脱し、湿地帯を前にしてオレ達は出発の準備を整えていた。

 昨日までは同じ釜の飯を食う仲……とまでは言わないが、それなりに互いの距離と腹の探り合いをしていたオレ達も、今はそれぞれ離れ離れになって各々で出発時間まで装備の修理、アイテム整理、食事などを行っている。

 全てはPoHのカミングアウトが原因だ。建前だろうと何だろうとオベイロン抹殺の1点において、オレ達は淀みなく動いていたはずだった。だが、PoHのアクションは泥水を注ぎ込んだ。元より互いに利用し合う腐り切った関係だったとはいえ、これまでのような無関心の仮面を続けるのは不可能だ。

 オレも目的を改めて整理する必要がある。狂縛者との戦いで消耗した贄姫にエドの砥石を使用して耐久度を回復させ、欠けたアビス・イーターの具合をチェックしながら、今後の方針について改めて検討する。

 まずは大前提としてオベイロン抹殺は揺るがない。アスナを助け出すには必須条件であるだろうし、リーファちゃんが被害に遭ったチェンジリングも同様に解決の糸口となるだろう。ならば、極論でも何でもなく、至極当然として、オレが目指すべきはオベイロン抹殺だ。

 だが、『アイツ』がアルヴヘイムに現時点で侵入を果たし、反オベイロン派に接触し、オベイロン撃破を目論んでいるならば、目的は同じでも方針を変更しなくてはならない。

 これまでは反オベイロン派の戦力こそ当てにしていなかったが、有用性はあるだろうと認識していた。情報はもちろんであるが、さすがにオベイロンに歯向かう組織なら相応の資源を確保しているはずであり、もしかせずとも物資補給ができる拠点になるかもしれないと期待していた。

 しかし、『アイツ』が反オベイロン派と組む路線にいる以上は、オレが反オベイロン派と組むわけにはいかなくなった。廃坑都市に到着するのはどちらが先かなど関係ない。『アイツ』もよりにもよってアルヴヘイムでオレと無理してでも顔合わせしたいとは思わないだろうが、オレの場合は事情が異なる。アスナが『アイツ』の悲劇の鍵になっている危険性が排除できない以上は、必ずオレの方が先んじてアスナを確保し、その状態を検査しなければならない。もちろん、1人のプレイヤーに過ぎないオレでは限界もあるはずであるが、最低限の推測くらいは立てられるはず……と信じたいところだな。そして、場合によってはアスナを殺す。悲劇が起きる前に始末する。

 他にも理由はある。『アイツ』が今のエギルの状態を認知しているか否かは不明であるが、幾ら自意識を奪われて襲ってきているとはいえ、エギルと分かっていて『アイツ』が割り切って殺せるとは思えない。いや、最終的には殺すことができたとしても、『アイツ』の心には生涯に影を落とす悔恨が残る。レッドプレイヤーを斬った事さえも、自己防衛でさえも、殺人行為に罪悪感で押し潰されそうになっていた程だ。それに『アイツ』ならばエギルを助ける方法があるかもしれないと足掻くに違いない。

 レギオンプログラムはそんな生易しいものではない。オレは知っている。魂まで蹂躙されたケイタを知っている。獣狩りの夜、修道女長だったというアルビジアがレギオンプログラムに蝕まれ、『獣』に堕ちた様を知っている。

 殺すしかない。殺さなければ、彼らの『命』は冒涜される。これ以上エギルを苦しませるわけにはいかない。

 

「何処まで響くものやらな」

 

 考えてもしょうがない事はある。あれこれ未来の不安を溜め込むよりも、目の前の問題を解決する術に頭を悩ませた方が有意義だ。エギルは殺す。オベイロンも殺す。アスナは状態次第だが、最悪の場合は殺す。リーファちゃんはオベイロンを殺せば問題無し。

 だが、もしもリーファちゃんもレギオンプログラムに蝕まれていたならば……彼女も殺す。アビス・イーターの鋼色の刀身に映るオレの眼は、自分でも吐き気がする程に冷え切っている。

 

「『殺す』……か」

 

 殺す。殺す殺す殺す。我ながら、本当にそれ以外に能が無いものだ。思わず自嘲も零れるというものである。少しは別の解決案を、この頭は捻り出そうという意欲がないのだろうか? だが、真実としてオベイロンは殺すしかないし、レギオンプログラムに汚染されてしまえば殺す以外に手段が思いつかないのも事実だ。あるいは、後継者がカウンター処置としてレギオンプログラムに対するワクチンを保有していないとも言い切れない部分もある。だが、あるかどうかもあやふやな存在に希望を託す程に愚かしく、またヤツの術中に嵌まるものはない。

 あるいは、茅場昌彦ならば……いや、それこそ意味が無いな。あの男はモラルという面では茅場の後継者よりもマシに感じる部分もあるが、その根本は後継者と同等かそれ以上に破綻している。そうでもなければデスゲームなど引き起こしたりはしない。ヤツは自分の思想と理想の為ならば、数多の犠牲を容認できるタイプの狂人だ。

 ギンジの時の二の舞を起こす気はない。ノイジエルの時もオレを病ませた理想が余計な犠牲を生んだ。ギンジを殺すきっかけを作ったのも、殺したのも、他でもないオレ自身だ。だが、それでも『痛み』は生まれる。胸の奥底で疼く。

『アイツ』ならば……きっと最後の最後まで、自分の命が危うくなっても救う道を模索するのではないだろうか? そんな姿にこそ、人々は英雄を見たのだろう。オレ自身がそうであったように……あの『強さ』に惹かれていくのだろう。

 殺しの迷いなんて捨てた方が良いに決まっている。1人殺す度に悩み苦しんでいては人生が病んでしまう。それでも、『アイツ』は立ち止まり、死者達に悔恨を抱かずにはいられないのだろう。

 刀身のチェックを終えたオレはアビス・イーターを背負い、ついに残弾の底が見え始めた連装銃を見つめる。高火力かつスタン蓄積と衝撃も優秀な連装銃が使えなくなるのは手痛い。残弾は有効に活用せねばならないだろう。だが、やはり重要なのはアビス・イーターの破損だ。

 

「まだ試作だ。壊れるまで使っても損失はないが……」

 

 アビス・イーターはデス・アリゲーターを素体として、その運用データを基にして開発されたグリムロックの意欲的変形機構を備えたキメラウェポンだ。だからと言ってロストして良いわけではないし、元々はデス・アリゲーターであるだけに、少しは思い入れがある。

 

「そろそろ出発の時間よ」

 

 と、そこで予定時間よりも早めに準備が終わっただろう、ザクロがわざわざ呼びに来る。あちらはあちらでイリスとの作戦タイムがあったはずだ。

 オレ達はPoHの術中にいる。このチームのプライオリティはPoHに握られている。この状況を打破する為には何らかのアクションが必要不可欠なのであるが、次に爆薬に引火させれば殺し合いが始まるかもしれない以上は、誰もが慎重になるはずだ。いや、そうであって欲しい。さすがにこの状況下でお独り様になるのは、色々と面倒だ。本当に面倒なのだ。なにせ、一刻も早く『アイツ』の周辺状況をつかまねばならない。そうである以上は、PoHの策に乗ることこそが現時点では最短だ。

 

「お前、まだ髪を結ってなかったの?」

 

 と、ザクロは呆れたように呟く。思えば確かに、オレの髪はエギル戦の時に解いたままだ。結い直すにしても時間がかかるので放置していたのだが、そのまますっかり忘れていた。骨針の黒帯は金具を差し直して元に戻したし、眼帯も付け直したのだが、未だに慣れない三つ編みだけはどうにも後回しにしてしまう癖がある。

 嘆息したザクロはオレの背後に回ろうとする。もちろん、オレは彼女を正面に捉えるべく体を回転させる。右回り、左回り、もう1度右回りでオレの背後を執拗に狙うザクロは……もしかしてアレだろうか? いよいよ本格的にオレを殺しにかかるつもりなのだろうか?

 

「良いからジッとしてなさい! 面倒臭い奴ね! 私がやってあげるわよ!」

 

「何を?」

 

「だ・か・ら! 髪よ、髪!」

 

 思わず茫然として、10秒ほど悩み、胡坐をかいた狩人の膝枕の上で爆睡しているヤツメ様を見て本当に殺意無き申し出なのだろうと受け取り、オレはザクロの額に手を触れようとする。だが、彼女は摺り足で即座に後退してオレの手から逃れる。

 

「どういうつもり?」

 

「熱でもあるのかと」

 

「……本当に他意はないわ。この状況でお前と敵対するのは分が悪い。PoHの考えは読めない以上、オベイロン殺しというシンプルな行動理由があるお前の方がまだ動きが分かるだけマシだ」

 

 それはどうだろうか。理性的に判断できる復讐なんて限られているものだ。そもそも復讐とは感情より生じるものであり、リスクマネジメントが平常に作用するとは思えないのが、今まで多くの復讐者を返り討ちにしてきたオレの実感籠った結論である。

 まぁ、ヤツメ様がぐーぐー寝ている内は大丈夫だろう。オレは手頃な倒木に腰かけてザクロに背中を許す。彼女はやや意外そうに息を呑んだ。自分から申し出たことだろうに。

 

「……忌々しい程にサラサラな髪ね。これって市販プラグインじゃないでしょう? 絶対にイベント入手系の数量限定タイプよ」

 

「オレのマネージャーが買ってきたものだ。お陰で資産の何割かが飛んだよ」

 

「馬鹿じゃないの? でも納得の肌触りと艶だわ」

 

 ザクロも女という事だろう。櫛を持参しているらしく、オレの髪を梳いてくれる。少しだけ気持ちが良く、オレは瞼をゆっくりと閉ざす。

 エギルとの戦いでは武器の損耗こそ最大限に抑えられたが、脳の疲労は蓄積した。右手の指先に少しだけ痺れが溜まっている。これは簡単に取れるものではない、緩やかに侵蝕を始めた後遺症の芽吹きだ。

 

「随分と眠そうね」

 

「そこまでじゃないさ。SAOでは3日3晩寝ないで戦い続けた事もある」

 

「なにそれ、バケモノじゃない」

 

「言葉を選ばないとオレも傷つくからな?」

 

 どうでも良い会話を重ねている間に、ザクロの指が一房ずつオレの髪を束ねていく。最後に毛先に止める黒リボンを取り出して手渡しておこう。

 

「……眠っても良いわよ? 出発までに少しくらいなら時間はある」

 

「要らない心遣いだ。それに、復讐者に背中だけじゃなく首まで預ける程に自殺願望はない」

 

「……そうね。私はお前が憎い。憎たらしくて堪らない」

 

「むしろそうでなかったら驚きだ。シャルルの森、それにナグナ。あれだけやらかしておいて、殺意も憎悪も無いとか逆に阿呆かと言いたくなるぞ?」

 

「だけど、だからこそ……私はお前とこうして会いたくなかった。時間を共有したくなかった」

 

 それはどういう意味だろうか? 気に入らなかったのか、8割がた結い終えていたはずの三つ編みを丁寧にザクロは解く。そして、また櫛で丁寧に梳く。

 湿原のカエルの鳴き声と天雷山脈の雷鳴が交差する。それが逆に静寂を深めていく。

 

「ねぇ、【渡り鳥】。キャッティは良い人だったでしょう? 強くて、優して、頑張り屋で……素敵な女性だったでしょう?」

 

「……ああ」

 

「私には分かる。お前はキャッティを殺していない。殺したとしても、それは仕方のない理由があったはずだ。あの狂縛者のように……殺すしかない理由があったはずだ」

 

「そうか? 腐敗コボルド王の戦いを知らない訳が無いだろう? オレは殺したよ。他にも選択肢があっても殺すさ」

 

「その話は私も聞いている。でも、あれこそ『仕方がない』というものだろう? お前はベストな判断をした。誰にもできなかった、残酷だが、最も正しく、最も皆が生き残れる判断をした」

 

 どういうつもりだろうか? ザクロの意図が読めない。困惑しそうになるオレは振り返ろうとするが、ザクロは動くなと両手でオレの頭に制止をかける。ヤツメ様は目を擦り、欠伸を掻いて少しだけ面を上げるが、すぐにやる気なくまた眠り始める。やはりザクロに殺意や害意はない。

 

「でもね、弱い人間ほどに、合理的判断に不条理を感じるものだ。弱い人間ほどに、強い人間に不条理を押し付けたがるものだ。失ったものが大きければ大きい程に、別の誰かに代償を求めるものだ。それは間違いなのかもしれない。でもね、人間は正しさが全てじゃない。時には間違いの中にこそ意義を見出すものよ」

 

「…………」

 

「私が言っても説得力はないだろう。だから聞き流せ。お前に不条理な殺意をぶつける復讐者の戯言だと聞き流せ。お前は……もっと別の誰かに責任を押し付けて良いんだ。それしか選択肢が無いわけじゃない。逃げる事も、投げ出す事も、立派な選択だ」

 

「気持ち悪いな」

 

 だから聞き流せと言っただろう? そう付け加えたザクロは終わりだとばかりに小さな黒のリボンを三つ編みに結び付けてオレの両肩を叩く。

 振り返ったザクロは、本当に彼女なのかと疑いたくなるほどに穏やかな微笑みをしていた。彼女は1本に結った黒髪を尾のように靡かせながら去っていく。

 ぐしゃりと前髪をつかんだオレは、ザクロの寂しげな背中を追うことはできない。

 ああ、本当に面倒だ。面倒臭いヤツだ。オレも、オマエも、どっちも……本当に面倒臭い。

 分かっているさ。ザクロはオレを油断させたいわけではない。本当に面倒臭い事に、あの女は復讐の対象であるはずのオレに気遣ってくれたことくらいは分かるし、認めるし、受け入れるさ。

 出発時間となり、オレはPoH達と合流する。これから目指すのは銅水の盆があるという、天雷山脈の反対側にある湖畔の町だ。天雷山脈を越えるとなると、地下道を通るか、迂回するか、それとも山越えするかのいずれかが必要になる。

 オレ達は騎獣を有しているので機動力もある。ならば迂回ルートが最も安全であり、騎獣では通り難い地下道ルートは除外される。だが、1分未満の話し合いという名の意見の直球ストレートのぶつけ合いの結果、最短距離の山越えが決定した。

 オレとしては1日でも早く、1時間でも早く、1分でも早く、とにかく『アイツ』より先に廃坑都市に到着しておきたい。間に合わずとも、『アイツ』が反オベイロン派と本格的に組むより先に廃坑都市には潜り込んでおきたい。なので最短ルートを要望したのであるが、意外にも2人とも山越えルートを提示した。

 細い崖際の道は1歩踏み外せば奈落に落ちる。だが、ヘス・リザードはまるで我が道とばかりにペースも早い。元々は山獣なのかもしれないな。逆に重々しい鎧のような皮膚をした4足獣のPoHの騎獣は体格もあって辛い部分がある。その重量も厄介であり、そこに重鎧装備のリビングデッドも加われば、増々1歩の重みが増す。

 出現するモンスターと言えば、どれもこれも殺る気のないものばかりだ。岩肌に擬態した、背中が苔生した巨大トカゲ。全身が帯電している岩の巨人。たまに襲ってくるモンスターといえば、足が体格の3倍ほども長い蜘蛛である。

 細長い脚部は針金のように硬質であり、胴体もなかなか刃は通らない。だが、背中に乗って拳打を浴びせて甲殻を砕き、そこに剣を押し込めば簡単に討伐できる。特に炎には弱いらしく、ザクロの呪術が役立った。

 だが、この細長蜘蛛くらいしか敵対するモンスターはいないとはいえ、地形そのものが強敵として立ち塞がっているようなものだ。天雷山脈という名に相応しく、常に天候は荒れ、雨のように落雷が頻繁に各所で轟音を響かせる。雷鳴の度にヘス・リザードが全身を硬直させれば、騎乗しているザクロも緊張で顔を引き攣らせる。

 できれば適度に休憩を入れておきたい。この山脈はオレ達の足ならば1日で反対側にたどり着ける。だが、集中力の摩耗は些細なミスを生み、それが死に直結する。転落死などDBO初期どころか現在でも確認されるポピュラーな死因なのだから。

 

「このルートはいけないな。チッ、この図体が邪魔になるとはな」

 

 そして、思わぬところでオレ達は行き止まりに阻まれる。それは繰り返された落雷で道が削れてしまったのだろう。崖縁を沿うような1本道だ。だが、横幅人間1人が歩ける程度であり、2足歩行のヘス・リザードならば通れるかもしれないが、PoHの騎獣とリビングデッドではやや厳しい。

 舌打ちするPoHを横目に、オレは屈んで崖下に目を通す。落下すれば高VIT型でも即死確定だろう高さだ。1歩足を踏み外せばどうなるかなど言うに及ばず、またこれまで以上に脆くなっているだろう足場は騎獣どころかオレ達の体重にも耐えられないかもしれない。

 

「だから素直に迂回すべきだったのよ。今からでも引き返した方が時間の浪費にならないわ」

 

「そいつはどうだかな。他にも道があったはずだ」

 

 自分も山脈ルートを提示したくせに、ザクロは溜め息を吐きながら下山を申し出る。対してPoHは頑なにも思える程に山脈ルートに固執しているようにも思える。

 ロザリアとは日付などの約束は取り付けていないとはいえ、なるべく早めに廃坑都市にたどり着きたい。だから、心情的にはPoHに賛成だ。だが、無用なリスクを背負う場面でもなく、安全策を重視するザクロの言い分にも同意する。

 だが、節穴全開で毎度の如く陰謀にはまり込んでいるオレの目も、今回ばかりは真実を見抜いていた。

 

「タイムロスと言っても、ここまで半日も経ってないわ。今から下山しても遅れは十分に取り戻せると思うけど?」

 

 饒舌に迂回ルートを進めるザクロの足。その両足が小刻みに震えているのだ! この女、もしかして単にこの崖っぷちの細道を歩くのが怖いだけか!? 怖いだけなのか!?

 

「ですが、この崖道を通れば大きな近道になることも確かなようですね」

 

 1匹だけ飛行能力を駆使して周囲の索敵に専念していたイリスが雷鳴から逃れるように降下してくる。DBOにおいて落雷による感電死……もといHPの全損はない。もちろん、雷系の奇跡は除くという注釈は必要になるが、さすがの茅場の後継者も自然現象のデストラップは仕込んでいなかった。だが、天雷山脈は存在そのものがトラップのようなものだ。偶発的な落雷による致命ダメージはあり得るかもしれない。

 

「騎獣は諦めるか。リビングデッドは鎧さえ脱げば――」

 

「それは絶対に嫌。断固として拒否する」

 

 オレの提案をザクロは一蹴する。PoHの騎獣はともかく、ヘス・リザードを気に入っているザクロとしては、時間の節約よりもヘス・リザードの方が優先だろう。

 しかし、このまま何もせずに立ち尽くすわけにもいかない。オレは崖際の道を撫で、あまりにも脆くなった細道は微かな衝撃で崩れる危ういものだと感じ取る。だが、ヤツメ様はスキップしながらその細道を進む。

 確実に『1人』は渡れる。ここでオレが『様子見も兼ねて先に行く』と言えば、オレだけならば天雷山脈を突破できる。問題はPoHが銅水の盆を起動させる方法と合言葉を独占している事であるが、銅水の盆の場所は既に教えてもらっている。ならば、あとは適当に反オベイロン派を捕まえて情報を引き出せば良い。

 何を迷う必要がある? 何の為に目的を再確認した? オレは彼らを裏切っていない。ヤツメ様の導きなど……本能が囁く不確かな情報であり、何ら確証も保証はない曖昧な未来だ。

 違う。裏切る? オレが『裏切る』ってなんだよ? そんな仲間意識は芽生えてなんかいないはずだ。ザクロも、PoHも、オレも、互いに利用し合っているだけではないか。

 だったら、オレは何を戸惑っている? 何を拒んでいる? 酷く苛立つ。丁寧に梳いてもらって、整えてもらった三つ編みから熱が疼く。

 

「下山しないにしても、もっと安全に突破できる道があるかもしれない。騎獣も立派な資産だ。反オベイロン派に売れば物資に変換できる。リビングデッドの鎧はここで処分すれば良いだろう。さすがに防具分のアイテムストレージを消耗しきれないだろうしな」

 

「OK。俺は全面的に同意だ」

 

「……私もそれで良いわ」

 

 こういう時の纏め役はイリスが出しゃばるべきだろうに。だが、イリスは何故か沈黙を保ったまま、ジッとオレを見つめている。ザクロの頭の上から動こうとしない。

 また幻攻撃(亜種)でも始まっているのだろうか? 狂縛者戦の反動か、脳の奥から頭痛の鐘が響く。それが血流と共鳴しているかのように全身に疲労感を募らせる。

 

「一雨きそうだな。あの横穴で雨宿りするぞ」

 

 これで何体目か分からない蜘蛛退治。PoHは青緑の体液で汚れた頬を袖で拭いながら、変形させた大曲剣で何処まで続いているかも分からない横穴を指し示す。

 元々は天雷山脈越えを行う旅人が使用していたのか、それとも更に古い頃には軍の遠征や見張りに使われていたのか、横穴は入口に比べて内部は広く、また人工的に拡張された痕跡があった。金属製の壺には鉄の矢などが詰められており、最奥には封鎖するように鉄格子まで嵌めてある。そして、鉄格子の向こう側には両手を鎖で縛られた白骨死体がまるで助けを求めるように格子に寄りかかっていた。

 骨格からして女性か。随分と長い年月の間、ここに囚われていたらしい。捕虜? 裏切り者? それとも利用していた山賊が捕らえた『商品』だろうか?

 PoHは変形曲剣を見つめたまま渋い顔をしている。重ショットガンを温存しているとはいえ、あの変形武器に負荷をかけすぎているのだろうか。グリムロックの腕前を知るオレとしては、あの変形武器は短期決戦でこそ重宝するだろうが、今回のような長期任務には適していない。恐らくは強力過ぎる変形機構を支えるだけの腕前と素材の両方が作成者には不足していたのだろう。

 対してザクロはイリスを抱えたまま、横穴の入口付近で豪雨と雷鳴に浸された外を眺めている。何か思うところがあるのか、普段ならばこのメンバーの中で1番口数が多いはずなのに、何も語ろうとせず、青い雷撃が山脈に降り注ぎ続けるのをぼんやりと見つめている。

 

「アナタはいつも落ち着きが無いね」

 

 慣れない環境のせいか、横穴でウロウロと歩き回るヘス・リザードの頬を撫で、オレは休むように促す。PoHの騎獣は反オベイロン派に高く売れるかもしれないが、ヘス・リザードはこの気性では高値がつくとは思えない。何よりもザクロが手放す事を拒否するだろう。

 腰を下ろしたヘス・リザードに餌のカエルを投げながら、オレはぼんやりと今後の事について考える。

 そろそろこのチームは『寿命』だ。これ以上は駄目だ、とヤツメ様から感覚が失われたオレの左腕に抱き着いて囁いている。普段は喜んで、歓んで、悦んでくれるはずのヤツメ様がオレの事を心配そうに見上げている。

 分かっている。『寿命』はオレの方だ。

 PoHは構わない。別に死のうが生きようが関係ない。むしろ殺しても過分に問題ないだろう。オレ自身の手で1度殺している。ならば、もう1度あの世に送り返す事くらいは……いや、前回は『殺しきれなかった』とするならば、今度こそ喉元を喰らい千切る。

 だが、ザクロとイリスは駄目だ。オレは……オレは彼女たちに興味を持ってしまった。

 誰かが言った。好意の反対は無関心なのだと。ならば、興味を持つことは好意の扉をノックする好奇心の始まりだ。

 相手の武装を知る。思想を知る。思考を知る。過去を知る。感情を知る。そうして対策を立てて、狩る。今まで何度も繰り返した手法だ。

 昔からそうだ。オレは惚れっぽい子どもだった。本当の意味で『愛する』事を知らずとも、他人に興味を持たずにいられない。それは、まるで獲物の事を良く知ろうとする狩猟本能にとても似ている。

 世話焼きなのも、きっと、相手のことを良く知って『効率的に狩ろう』とする本能の動きがもたらした、非効率的な副産物なのかもしれない。あるいは、本来は心なんて備わっている事を予期しなかった……まさしくイレギュラーな反応なのかもしれない。

 

「……壊れているな」

 

 いいや、そんな表現は相応しくないか。最初から『そうである』ものを壊れているとは言わない。狂っているとも言わない。

 だったら、どうしてヤツメ様は寂しそうな目をしているのだろう。いつもならば『獲物』が増えたと愉しそうに笑ってくれるはずのヤツメ様は、このチームの解散を訴えている。

 考えたくない。オレは1人で戦える。だから、そろそろ心を決めておくことにしよう。

 廃坑都市に到着し、情報を得たら、チームを抜ける。オベイロンと繋がっているか否かはともかく、PoHの行動は怪し過ぎる。オベイロン抹殺の為には障害になりかねない。何よりもロザリアとかいうスパイかどうかも怪しい人物がオベイロン陣営に紛れ込んでいるならば、それと繋がりを持つPoH自身も予期しない情報操作によってオレを結果的に罠に嵌めるかもしれない。PoHの戦闘力と情報は魅力的であるが、ただでさえ物資補給が期待できた反オベイロン派を頼れない以上は、ワンマンで動いた方が逆に好都合な部分も増える。

 ザクロはザクロで行動が読めない部分が多い。ポンコツっぷりは別枠として処理するにしても、彼女は復讐の対象であるはずのオレに不可解なアクションを繰り返している。それは同情ではないだろうし、仲間意識でもないだろうし、友情でもないだろうし、ましてや異性への愛情であるはずもない。傭兵としての協働意識も希薄だった彼女を突き動かしているのは何なのか。それは……不思議なくらいに知りたくない。

 廃坑都市に着いたら、まずは自力で情報収集を行った方が良いな。ロザリアからだけの情報では信用に足らない。それに『アイツ』が接触するのは反オベイロン派の主力のはず。その実力を売り込むはずだ。そうなると、オレの狙いどころは反オベイロン派の主流から逸れた外様だな。情報は持っているだろうし、主流から外されているならば何かと隠蔽工作と情報漏洩には協力してくれるだろう。あくまでオレの目的はオベイロン抹殺だ。その点さえ売り込めば、主流派から冷や飯を食わされている外様ならば交渉する価値もある。

 場合によっては『アイツ』の邪魔もしなければならない。『アイツ』が先にアスナにたどり着いては遅いのだ。だが、妨害ばかりするわけにもいかない。『アイツ』の援護を陰から行う必要性もある。つまりはバランスだ。『アイツ』が何ら不審に思うことなく、オレが先んじてオベイロンを殺し、アスナを救い出さねば、『アイツ』の悲劇は止められない算段は高い。

 大丈夫。オレなら、この広大なアルヴヘイムでも1人で戦える。SAOでは『アイツ』と会う前はずっとそうであったし、DBOでも何度も1人で危機を潜り抜けてきた。どんな強敵だって倒してきた。だから、今回も大丈夫なはずだ。

 笑ってよ、ヤツメ様。こういう展開は大好きだろう? いつだって、『オレ達』だけで生き抜いてきた。今回もそうなるだけだ。オレが腰を下ろすと足と足の間に座り込んだヤツメ様が顔を見上げて、頬を優しく撫でてくれた。だが、笑ってくれない。寂しそうな目のままだった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 雨は嫌いだ。いいや、違う。青空以外の全てが彼女は嫌いだった。

 ザクロは翅を閉ざして膝で丸まるイリスの背中を撫でながら、雷雲から降り注ぐ大粒の雨と地面を抉る雷を眼に映す。

 普通の少女だった。ザクロは何処にでもいる、ごく普通の少女だった。

 友達はそれなりに多く、活発で笑顔の絶えず、裏表のない性格をしていたザクロは、その時々で絶妙に発揮するポンコツっぷりも助けとなり、良好な人間関係を築いていた。

 父はVRゲームの隆盛を見越して企画発案も出来る、才気溢れる多忙なゲームクリエイター。母は専業主婦ではあるが、田舎育ちののんびりとした女性だった。そんな2人が出会ったのは、上京したばかりの母がチンピラに絡まれているのを、父がヒーローのように助けたという惚気話から始まる。

 父親譲りの優秀さを持つザクロは、世間がSAO事件で荒れる中で、正確にこの先の時代はVRとARを支配する者こそが富と名声を得るだろうという父の言葉を信じていた。だから、彼女はVRゲーム研究会を立ち上げた。それは世の若者たちの心をALOが掴んでいた時流もあり、瞬く間に部活にまで成長した。だが、ザクロはリーダーになろうとはしなかった。彼女は自分が何を発案し、行動し、結果を出すのは苦手な人間だと熟知していた。

 優秀ではあるが、それは勉学の面のみ。父親のような創造性豊かな感性はない。それがザクロの自評である。子供らしからぬ達観性ではなく、子供だからこそ気づいてしまった父親の偉大な背中だった。

 

『×××は本当にお母さんそっくりね』

 

 母方の祖母はよくザクロの事を母親似だと褒めてくれた。それは面影を見てか、それとも性格から母と同じ『優しさ』を見出してか、あるいは血筋という名のリップサービスだったのか。

 寂れた寒村で祖母は亡き祖父の墓だけを縁に生きていた。父も母も、年々弱まる祖母から故郷と祖父を奪うことはできなかった。それは祖母への深い愛情があるからこその選択だったのだろう。

 ザクロは祖母が大好きだった。無条件で甘やかしてくれる祖母が、母の幼い頃の話をしてくれる祖母が、青空の向こう側をいつも見つめている祖母が大好きだった。

 だからだろう。母にそっくりと言われるたびに、ザクロは母のようになりたいと望んだ。母は取り柄らしい取り柄もない、優しく穏やかな女性だった。料理は人並み、掃除洗濯はできるが早い部類ではない。むしろ鈍臭さがいつも目立つ。しかも何もない路上で転倒して小指の骨を折ったこともあるなど、ザクロの人並み外れた鈍臭さは母親譲りだろう事は疑う余地も無い。

 だが、母は笑顔を絶やさなかった。父を、ザクロを、親戚を、ご近所を、見ず知らずの他人を、気遣う事を忘れなかった。

 思春期になったザクロは1度だけ尋ねたことがある。近所の溝掃除のボランティアで指が絆創膏だらけになった母に、どうしてそんなにも他人に優しくできるのか、と尋ねた事がある。

 

『だって、それしか取り柄が無いんだもの。私が「人並み」にできるのは……それだけなのよ、×××ちゃん』

 

 カレーが焦げちゃうわ。そう言って母は辛そうな笑みを隠して夕食の準備に戻った。その日の夜は豪雪であり、父は会社から帰れず、2人で夕食を共にした。

 記憶の中で母の辛そうな表情を見たのは、笑顔が曇りかけたのを見たのは、あの1度だけだ。今の母はきっと泣いているだろう。ザクロがデスゲームに囚われ、なおかつ何人も惨忍に殺害している事を知らされているならば、悪意に染まった子どもを『正しく育てられなかった』と我が身を呪っているだろう。母は自傷することしかできない優しい女性だから、ザクロにはその光景がぼんやりと見える気がした。

 ザクロは母のようになりたかった。母のように優しい女性になりたかった。将来に何か偉大な事をしたいとか、職について富を得たいとか、そんな欲求は無かった。母のように優しく笑える女性になって、好きな人を見つけて、一生支えてあげられるような……それが無理でもひと時で良いので安らぎを与えらえる人になりたかった。それが大好きな祖母と愛する母と自慢の父への恩返しだと信じていた。

 だからザクロは否定する。あの日の母を否定する。『優しい』のは、きっとこの世で最も偉大な『人』らしい、素敵な才能なのだろうと。

 どれだけ裕福な家庭に生まれても、どれだけ貧しい国に生まれても、不思議と聖人のように『優しい』人は生まれる。それは環境でもなく、教養でもなく、血統でもない、純粋に生まれ持った天啓なのだろうとザクロは信じていた。

 だが、世界は優しくない。怖がりなザクロはALOのようなライトファンタジー系VRゲームには手を出しても、魑魅魍魎が跋扈するようなダークファンタジーや荒廃した世界が舞台のGGOには興味を示さなかった。そんな彼女がDBOにログインしたのは、いよいよ高校3年生となり、VRゲーム研究部を後輩たちに預けて身を引き、受験勉強に専念しなければならない時になって、設立に協力してくれた友人たちにせがまれたからだ。

 父の伝手を使って入手した、少しズルをして得た店頭販売分の3本のDBOのソフト。ザクロはログインする気など無かった。これは自分の思い付きと父への憧憬から始まった部活に協力してくれた友人たちへの感謝の印だった。

 だが、ザクロは押し切られた。DBOにログインしてすぐに後悔した。こんな怖くて、暴力に溢れた世界の何処に魅力があるのだろうかと周囲の感性を疑った。父が作るのは、いつだって日本が得意とするライトファンタジーの世界だった。最後にはハッピーエンドが待っている物語だった。

 すぐに気づいた。恐らく、このDBOにおいて、白い狩人よりも先に、ザクロは真っ先に底知れない悪意を嗅ぎ取った。友人たちに早くログアウトしようと何度もお願いした。だが、聞き届けてもらえず、怯えている間にログアウトボタンは消失し、デスゲームが始まった。

 デスゲーム開始から1週間後、友人2人の酷い言い争いに耐え切れず、ザクロは夜更けに宿から逃げ出した。どうしてDBOにログインしたのか、何で誘ったのか、そもそもザクロさえいなければこんなことにはならなかった、といった内容だったと思うが、彼女はよく憶えていない。

 当時は大ギルドが台頭する気配もないデスゲーム初期だ。多くのプレイヤーが引き籠もるか、自暴自棄になるか、緩やかであろうとも戦いに備えて力を蓄えるか、いずれかを選んでいる時期だった。そして、その中でも自棄になった者、力を蓄える者には、他者を害する事を厭わない者たちも多かった。特にベータテストの時点でPKには高い経験値が与えられる事が判明しており、それを知る者たちは積極的に他プレイヤーに殺害に及んだ。

 何処にも行く当てがない、隠れる場所も、逃げる場所も無い、現実逃避だと社会で批判の的だった仮想世界で過酷な『現実』を突きつけられたザクロにとって、友人たちだけがDBOで生き抜く為に必要な場所だった。

 だが、宿に戻ってきたザクロが見たのは、小さなランプ1つが揺れる寂れた部屋で、友人2人が『乱暴』されている姿だった。

 口を両手で閉ざし、後ずさり、≪気配遮断≫を発動させた。当時のザクロの武器は≪暗器≫で得た鉤爪のみ。友人2人を組み伏せる男3人に抗う術はなかった。

 いや、奇襲をかけ、背後から急所を貫き、あらん限りのアイテムで攪乱すれば、助けることは出来たかもしれない。だが、ザクロにはそれが出来なかった。彼女は『英雄』ではなかった。彼女はそこまで『強さ』を持っていなかった。

 友人たちとドアの隙間から目が合ってしまった気がした。ザクロは『全て』が終わるまで……死後の赤黒い光の残滓も消え去り、男たちが満足そうに失せるまで、隠れ潜んでいるしかなかった。

 見殺しにした。助けられなかった。だが、生き残った自分に……『あんな風に』ならなかった自分に安心した。自己嫌悪よりも安堵ばかりが胸を占めた。それが途方もない吐き気となって心を押し潰した。

 ザクロは母のような人間になれなかった。優しい人間になれなかった。

 誰もが生き残りたいだけなのだろう。他人を犠牲にしても強くなりたいだけなのだろう。それの何が間違いだろうか? そう自分に言い聞かせて、友人たちを辱めて殺した者たちを『弁護』した。

 友人たちの尊厳よりも、自分の心の安定を優先した。

 終わりつつある街を出た彼女は面影を求めた。友人たちの背中を追った。死んだ彼女たちの『代わり』を求めた。

 こんな残酷な世界で生き残るなんて無理に決まっている。必要なのは心に安定をもたらす杭だ。この力こそが正義の世界で生き残る為の、死の本流に流されない為の重石だ。

 

『こんな所で何をやっているの!?』

 

 それは≪カタナ≫が得られる渓谷。終わりつつある街から離れた土地で、野犬の群れに囲まれていたザクロを助けてくれたのは、自分とは違って、誰かを助けるという意志を持った女の子だった。

 名前はキャッティ。彼女は防具も擦り切れ、鉤爪も折れたザクロに色々な世話を焼いてくれた。無知な彼女に、自分が集めた情報を隠すことなく教えてくれた。当時は存在も認知されていなかった≪カタナ≫の入手方法などその最たるものだろう。

 キャッティは優しかった。母と同じように温かく、人の心を溶かし、元気づける力を持っていた。だが、そんなキャッティも心に傷を負っているのはザクロには見抜けた。

 何も声を掛けられなかった。彼女の『痛み』に触れることは出来なかった。ザクロにそんな『強さ』は無かった。

 自分に出来る事はない。友人たちを身の殺しにした挙句、犯人たちを正しいと論じた自分に、キャッティに優しくしてもらう価値も、また彼女に寄り添う資格もない。

 

『ザクロちゃんはもっと笑った方が良いわよ? 女の子はね、笑顔さえ忘れなければ幸せになれるの。これ、あたしのカレシの豆知識』

 

 たまに惚気るキャッティには静かな殺意も芽生えたが、そんなキャッティ自身が笑顔を何度も何度も絶やす姿を、夜中に飛び起きて友人だろう名前を繰り返す姿を、ザクロはある種の安心感と共に見つめていた。

 キャッティもきっと誰かに手酷く裏切られ、喪失し、穴を埋めるチャンスを待っているのだ。

 ああ、彼女ならきっと自分を受け入れてくれる。新しい『居場所』が手に入る。今度は見捨てない。今度は手放さない。何を殺してでも守ってやる。だって、この世界は殺して奪うことが……殺して守ることが許される世界なのだから。

 いいや、違う。世界とは、現実世界でも仮想世界でも同じだったのだ。欲しければ、他人を傷つけても奪わなければならない。維持する為には、他人を害してでも守らなければならない。父が作るような皆がハッピーエンドになれる物語は、きっと『人』が心を持った瞬間から世界から溶けて消えてしまったのだ。

 ザクロは知らない。キャッティがどんな風に生まれ、どんな過去を持ち、どんな決意でDBOを生き抜いていたのか知らない。そんなものに彼女は興味など無い。

 必要だったのは『居場所』だ。自分を維持できる為の心のスペースだ。その為の物語が必要だった。

 だからザクロはキャッティに仲間にしてくれとせがんだ。ソロで戦い抜くのは無理だと尤もらしい言葉を並べた。だが、キャッティの傷に触れられない彼女に、その心の壁を崩すことなど出来なかった。

 もっともっと強くなければキャッティの心に潜り込めない。だからザクロは力を求めた。まず狙ったのは、終わりつつある街で不良行為を繰り返すプレイヤーだった。

 修理した鉤爪で背後から喉を斬り裂き、混乱している間にカタナで心臓を何度も突き刺す。これを3回も繰り返せば、膨大な経験値とコルがザクロの糧となった。

 金は優秀な武器を揃えるのに必要不可欠であり、経験値はそのままレベルアップにつながることで生存率を高め、スキルの獲得に繋がり、あらゆる面での強化に繋がった。だが、それ以上にザクロにとって有益だったのは、母への憧れへの断念だった。

 だが、ザクロは同時に無駄な殺しをしなかった。特に無抵抗の人間だけは絶対に傷つけなかった。彼女は理解していた。その一線の向こう側にいけば、キャッティの心に潜り込むなど不可能だ。彼女の優しく強い心を支えるピースは、黒でも白でもない、適度な灰色が望ましいのだ。

 待ち遠しかった。いつかキャッティがソロに限界を感じる日が来る。その時になって、自分を助けてくれたヒーローだった彼女のように、今度は自分がピンチに登場するのだ。そうすればキャッティは認めてくれる。『必要だ』と言ってくれる。そうすれば、この世界で自分を定義できる『居場所』が得られる。

 

 

 だが、キャッティは死んだ。何の前触れもなく、ザクロが思っているよりもずっと早く、簡単に死んでしまった。

 

 

 毎日のようにチェックしていた死者の碑石に、キャッティの名前に線引きされた日、ザクロはコンパスを失った。自分を定義する『居場所』を示す大事な羅針盤を失くしてしまった。

 どうして?

 どうしてどうしてどうして、キャッティが死んだ?

 決まっている。彼女がこの世界に負けたからだ。

 世界とは何だ? 奪ったのは誰だ? 茅場の後継者か? 違う。違う違う違う! もっと直接的な誰かに決まっている。キャッティを殺したのは、『自分のような』醜い殺人鬼に決まっている!

 それはきっと根本的な間違い。

 ザクロにとってキャッティの死は『言い訳』だった。新しい『居場所』を作る為のコンパスだった。

 

 

 

 ああ、そうだ。キャッティを殺した奴に復讐すれば良い。そうすれば、キャッティの仇を討たんと志す『彼女の仲間』という『居場所』が手に入るのだから!

 

 

 

 

 不幸だったのは、ザクロという少女は壊れてしまっていて、同時に子どもの頃から自己分析ができる程に酷く理知的な面を持ち合わせていたことだろう。

 彼女は執念とも思える行動力でキャッティの死に関わった人物を洗い出した。僅かな証言から、キャッティの死亡に関与したのは【渡り鳥】だと突き止めた。

 すぐに復讐は始めなかった。当時の彼女からすれば【渡り鳥】は恐怖の代名詞。SAOで虐殺を繰り広げた怪物の名前だった。勝てるはずがない。何よりも、単純に殺すのは駄目だ。あっさりと背後から刺し貫くのは駄目だ。必要なのは『時間』なのだ。それがザクロに早急な行動を押し止める冷静さを与えた。

 

 じっくりじっくりじっくり、弱火で煮込んだスープの中で、野菜がぐじゅぐじゅに溶けてしまうくらいに、復讐は『長く長く長く続ける』必要がある。

 

 復讐者というポジションこそがザクロにとって新しい『居場所』だった。いつか惨たらしく【渡り鳥】を殺すことこそが生き甲斐になった。

 

『主様、どうしてそんな辛そうな顔をなさっているのですか?』

 

 そのはずだったのに、たった1つのスキルが生んだのは、もう1つの『居場所』だった。

 偶然の産物か、あるいは計算された必然か、ユニークスキル≪操虫術≫から誕生したパートナーは、確かな知性と自我を持ち、ザクロに寄り添ってくれた。

 無条件で自分を慕ってくれるのは刷り込みか、それともスキル保有者への忠誠がAIに組み込まれているからか。最初は単なる人形に過ぎなったはずのイリスが、自分以上に感情豊かで、道徳心を持ち、何よりも自分を『正しい』と思う方向に導こうとしてくれた。

 時を同じくして、ザクロは気づいてしまう。綿密に調査を続ければ続ける程に、【渡り鳥】は言われている程に残虐な人物ではない事に気づいてしまう。きっと、キャッティを殺したにしても何か理由があったのだろうと悟ってしまう。 

 だからこそ許せなかった。その強さを憎んだ。叩き潰してやろうと、友人を、キャッティを、自分を狂わせたDBOの生みの親、茅場の後継者と手を組んでも復讐者という『居場所』に固執した。

 そして思い知らされた。【渡り鳥】を知る為に身を置いた傭兵業の中で、嫌と言う程に味わった策略の限りを駆使し、このような謀を好まないイリスから様々な知恵を借り、更にはPoHとも協力して、【渡り鳥】を追い詰めた。

 殺せるとは思っていなかった。この程度でキャッティの死に関わった者が……復讐の対象が……『居場所』が失われていいはずがなかった。

 なのに、【渡り鳥】は予想を覆し過ぎる程に強かった。あれだけの傭兵を倒し、後継者御自慢の死神部隊を退け、挙句にシャルルまで倒した。

 それが嬉しかった。復讐が難しければ難しい程に、こんな強い人を絶望させた後に殺したいと欲した。

 ザクロは分かっている。これは八つ当たりだ。自分にはない強さを持っている、キャッティをの死に関わっただけの、白の傭兵への八つ当たりだ。

 

(後継者は見せてくれる。このDBOが生まれた意味を。仮想世界の先を。私に見せてくれる)

 

 イレギュラーを殺す。後継者はそれに固執している。『人の持つ意思の力』を許せない。それはきっとザクロのこの感情に似ている。

 自分と同じ子どものような憎しみ。

 自分と同じ子どものような八つ当たり。

 そして、自分とは違う、確かな目的意識。

 後継者はきっと人間嫌いだ。ザクロの事も、PoHの事も、根本的には何ら信じてなどいない。だから、このアルヴヘイムで自分たちがオベイロン抹殺にどれ程の貢献をするのかなど期待すらしていないだろう。

 どうして自分を引き入れたのか、ザクロは1度だけ後継者に尋ねた事がある。彼はしばらく悩んだ素振りを見せた後に、最初から答えなど決まり切っているだろうと嘲うように、口元を歪めた。

 

『滅茶苦茶にしたい。着地点は何処であれ、君はこの世界を憎んでいる。壊したがっている。神様の間違いを知っている。ボクの「駒」になってもらうのはそれだけで十分さ。何よりもキミの復讐心はとても面白いよ。いつ破綻するか見物だね』

 

 ザクロは正しく認識する。自分は【渡り鳥】に八つ当たりをしているだけの女だ。そして、そうする事でしか『居場所』を得られない程に歪んでしまった。

 殺せるまで新しい復讐の方法を探すだけ。ザクロは知っている。ナグナで、あれ程までに心も体も痛めつけられて、それでもなお立ち上がる【渡り鳥】が簡単に死ぬはずがない。きっと『自分程度』では殺せない。

 

(なのに……どうして?)

 

 永遠の復讐。永遠の鬼ごっこ。それが『居場所』であれば良かった。【渡り鳥】が傷つきながらも足掻き、立ち上がる様に悔しさを覚え、また新しい策謀をイリスに溜め息を吐かれながらも協力してもらって搾り出す。それが『居場所』で良かったのに。

 惹かれている。仲間としてではなく、友人としてではなく、異性としてではなく、仇としてですらもなく、もっと別の部分でザクロは惹かれている。

 

(私は優しい人にはなれなかった。そのはずなのに……)

 

 私は……また欲しがっているの? 母さんが持っていた『優しさ』を欲しがっているの?

 亡き祖母の幻影が過ぎる。足腰が悪く、最期は階段から転げ落ちて脳挫傷だった。その遺体は何日も発見されず、郵便配達員が詰まったポストを訝しんでくれなければ、腐敗が進んだ祖母はより惨たらしい姿で火葬場に送られただろう。

 あの時、キャッティを引き止められなかったのは、彼女についていけなかったのは、自分本位で、誰かに優しくすることを忘れていたからだ。もしも自分が傍にいれば、キャッティは死ななかったのではないだろうか。あの時、友人たちが乱暴される部屋に飛び込む勇気があれば、自分は何も失わないまま、歪まないまま、たとえ死のうとも、少なくとも悪人ではなかったのではないだろうか。

 もう1度だけ、『優しい』人間になりたい。そう願うのは間違いだろうか?

 

「主様、お寒いのですか?」

 

 いつの間にか震えていたのだろう。ザクロはほんのりと温かいイリスの体を少しだけ強く抱き寄せる。

 

「ねぇ、私は醜いでしょう? とても醜い復讐者でしょう?」

 

「……ええ」

 

 イリスは否定しない。シャルルの森の時と同じように、ザクロの醜さを誤魔化さない。それがイリスの優しさだ。

 ザクロは壊れた少女だった。狂った少女だった。間違いばかりを犯した少女だった。

 

「ねぇ、イリス。私は――」

 

 私は……優しくなりたいのかな? 自嘲が先に零れ、続きを問うことはできなかった。

 嫌になる。【渡り鳥】の目と微笑みを見ていたら、とても自分が気持ち悪い汚物に思えてならなくなる。

 あの時、狂縛者との戦いの時、【渡り鳥】がかつての戦友を殺せばどれだけ苦しむだろうかと心躍る一方で、彼女は胸にざわめきを覚えていた。

 手は勝手に動いていた。適当に狂縛者を追い払えば良いだけなのに、殺すつもりで大火球を投げていた。

 先程もそうだ。【渡り鳥】の眼帯に覆われていない右目を見てたら、放っておけなくなった。

 

(優しくなんかなりたくない。このチームを維持する為には適度なコミュニケーションが必要なだけ)

 

 それは【渡り鳥】も分かっているはず。むしろ足手纏いは積極的に切り捨てねばならないはず。

 なのに、どうして助けてくれた? 水底から引っ張り上げて、甘く優しい現実から引き戻してくれた?

 まったく違うはずなのに、重なる。母と【渡り鳥】の微笑みが……あの雪の夜と重なる。それが腹立たしくて仕方ない。

 

「ザクロ。ちょっと面を貸せ」

 

 自問自答を繰り返すザクロを、PoHは小声で呼びつける。まだ雨は上がっておらず、しばらくはこの横穴から動くことは出来ないだろう。

 横穴の隅、明らかに【渡り鳥】に会話が聞かれないような場所にて、ザクロは先程までの悩みを振り払うように冷たい眼でPoHを睨む。

 

「ルートの件なら謝る気はないけど?」

 

「そうじゃない。今後の事について、お前の力を借りたくてな」

 

「へぇ、私の借りは高いわよ? 返済できるの?」

 

「相応の見返りは準備するつもりだ。俺も切羽詰まっていてな、猫の手も借りたい状況なのさ」

 

 それはそうだろう。あのタイミングでの、明らかに自分に不利なスタートになる場面でのカミングアウトは、早急なチームの方針転換を提案せねばならない状況に陥っていたからだ

 

「どう思う、イリス?」

 

「要求次第ですね。たとえば、主様に不利になる、あるいは【渡り鳥】様に害を及ぼす作戦への参加ならば――」

 

「むしろ逆さ。クゥリを『守る』為に、お前達の力を借りたい」

 

 PoHの口から『守る』とは、まさに天変地異の前触れなのではないだろうか。困惑するザクロであるが、これまでPoHと組んで仕事をした事は片手の指の数程度はある身だ。見返りがあるならば、手を貸さないこともないのがザクロの心情である。

 確かにPoHは頭がキレる。人の心を操るのが上手く、弱点を鋭く抉り、悪意ある方向に心理誘導してしまう。ノイジエルがそうであったように、PoHにかかれば高潔な騎士も邪悪で利己主義な殺人鬼にジョブチェンジだ。

 だが、そのノイジエルもその最期の最後には騎士の誇りを取り戻してしまった。罪と向き合い、【渡り鳥】に自らが鍛え上げたOSSを託して逝った。そういう意味では、あれはPoHの珍しい『失敗作』だったのかもしれない。あるいは、話術で唆された多程度では、本当の意味で悪意に染まる人間などいないのかもしれない。

 

「廃坑都市につき次第、俺と交替でクゥリの見張りをしてもらいたい。それと、秘密裏に、かつ迅速にお前の≪操虫術≫で廃坑都市全域の警戒網を作れ」

 

「……後者は問題ない。元からそのつもりよ。でも、前者の目的は?」

 

「両方の目的は1つ、『ある人物』をクゥリと接触させない為だ。俺はなるべくアイツを人目が付かない場所で大人しくさせる。だが、アイツは必ず、自分の足でも情報を集めようとするはずだ。目立つ行動はしないだろうが、自分の目で廃坑都市の状態を確認する。それに同行して、お前はアイツが『奴』と接触しないように、その索敵能力を使って誘導しろ。それと、正確に『奴』を襲撃できるタイミングが分かり次第、俺に伝えてもらいたい」

 

 そっちにはノーリスクだ。PoHはお使いでも頼むように右手の人差し指を立てて要求する。

 確かにザクロのユニークスキル≪操虫術≫はPoHの≪死霊術≫と同様に、サポートでこそ最大級の効力を発揮するタイプであり、直線戦闘ではあまり猛威を振るわない。むしろ、無理に戦闘に組み込もうとすれば、それが濁りとなって相手に攻撃のテンポを見切られ易くなってしまう。

 そして、PoHの≪死霊術≫は強力な兵隊を増産する事に関しては≪操虫術≫以上であるが、索敵能力に関しては、全ユニークスキルを知らないザクロではあるが、間違いなくDBO最強だと言い張れる。都市クラスの全域の網羅するなどザクロにかかれば1時間と待たずして準備できる。

 だが、≪死霊術≫と同じで≪操虫術≫にはコストがかかる。たとえスピードはあっても支払うコストは膨大だ。更に維持するとなるとザクロはスキルの制約によって戦闘能力が激減する。

 

「そのある人物とは【黒の剣士】の事ですか? でしたら心配ご無用かと。【渡り鳥】様は【黒の剣士】と接触する事を拒んでいるご様子。警戒網でこちらから情報を渡せば、偶発的な接触は避けられます」

 

「そうじゃない。俺が心配しているのは、【黒の剣士】以上にある意味で厄介な奴だ。ストーカー女と言えば分かるか?」

 

「ストーカー女? もしかして、あの……」

 

 チェーングレイヴの幹部の1人にして【絶剣】の正体、そして今はクラウドアースでセサルのメイドとして働く少女。その実力はPoHとザクロの2人がかりでも勝てるかどうか怪しいだろう。

 そして、【渡り鳥】の情報収集を常に行うザクロは知っている。彼の行く先々にこっそりと付いて回り、合鍵を使用して部屋に潜り込み、仕事終わりにはサインズ本部で狙って待ち伏せする。まさにストーカーとしか言い様がないとザクロも認めるところだ。

 

「……もしかして、来ているの? ここアルヴヘイムよ?」

 

 と、そこで当然の帰結に至り、ザクロはぞくりと背筋を凍らせる。ボスを倒すまで帰還できないと噂された未知なるステージだ。アルヴヘイムにたどり着くには3人の船守のいずれかに金貨を渡さねばならない。つまり、廃聖堂か常夜のどちらかの船守にまで辿り着き、追いかけてきたという事である。

 

「女の情とは恐ろしいものですね」

 

 遠い異国の事件のように呟くイリスの頬を軽く叩いて現実に引き戻させたザクロは、PoHの狙いを計算する。

 シャルルの森でPoHと【絶剣】は1度殺し合っている。その結果は引き分けであるが、PoHは片腕が千切れかけた事実上の敗走だ。恐らくはそこで何らかの因縁が結ばれたと見るべきだろう。あの時は既に撤退を進めていたザクロはあくまでPoHの口からしか顛末を聞いていない。

 

「それで、お前がそうまでしてあのストーカー女と感動の再会をさせたくない理由は?」

 

「そいつは言えないな」

 

「つまりは、ろくでもない目的の為って訳ね」

 

 ザクロとしては2人が遭遇したところで、いかなる化学反応が起こるのか予想もできないが、PoHには都合が悪い展開が待っているのだろう。

 

「対価は期待しておくわ。手伝ってあげる。イリスも文句は?」

 

「ありません。ただし、主様に実害があると見なした場合、即座に手を引く旨を進言させてもらいます」

 

 相変わらずPoHの目的は不透明だ。だが、そこには一貫したロジックが隠されているのだろう。ザクロは知りたいとも思わないので追及もしない。

 間もなく雨は止むだろう。ザクロは乾いた目線で自分の右手を見つめる。

 優しくなりたい。母のような優しい人になりたい。その願いは潰えたはずなのに、指先には【渡り鳥】の髪を結った時の熱がこびり付いているかのように……ほんのりと温かった。

  

 

▽    ▽    ▽

 

 

 アルフ達の目を逃れる為に飛行を極力抑え、鬱蒼と茂る森で隠れ潜みながらリーファ達は、何処を目指すべきかも分からないままに歩き続けていた。

 幸いにもアルフ達の索敵能力はプレイヤーの≪気配察知≫程度しか備わっていないらしく、広大で深い森を隈なく調べ尽くすことは出来なかった。だが、それ以上に、サクヤを置き去りにしたショックで思考が停止したリーファに代わり、アスナが機転を働かせ、森の中を歩き回る、羊のようにモコモコとした毛を生やした巨大鼠の毛の中に隠れた事により、アルフ達の包囲網を無事に切り抜けられた点が大きいだろう。

 幸いにも温厚かつ愚鈍だったらしい綿毛鼠たちは森の中を周回し、芳醇な果実が生る餌場と清らかな水場を巡っているらしく、食料と水は補充が出来た。また、途中でモンスターに倒された旅人なのか、白骨死体より空き瓶などを拝借することにより、補充の術も手に入った。

 動き辛いドレス姿で森を徘徊するのには苦労も絶えないが、アスナはそれを顔に出すこともない。旅人の遺体から得た地図には、この森の周辺の大雑把な地理が記載されていた。ここはアルヴヘイムの北方地域であり、近隣には大小様々な村や町がある。

 地図に添えられた手記には、旅人の素性を窺い知れるものだった。どうやら旅人は学者だったらしく、かつてアルヴヘイムで隆盛を誇った強力な魔法、あるいはその産物がこの森に残されているのではないかと考えていたらしい。パトロンの援助を受けて森に入ったが、モンスターの襲撃によって護衛を失い、やがて自分も命を落としたのだろう。

 この森はかつて古いウンディーネが魔法の鍛錬をする為に籠ったとされる場所であり、各所にはその名残も多い。リーファが一息つく池には水草に覆われた青色の石像が水没しており、苔生した台座や石柱などが各所で見受けられる。

 だが、そんな風景を楽しむ余裕などリーファには無かった。悔恨ばかりが胸を締め付ける。

 あれだけの大軍に飛び込んだのだ。サクヤはまず無事では済まないだろう。情け容赦なく殺されているか、あるいはオベイロンに捕らわれておぞましい拷問によって身も心も責め苦を味わっているかもしれない。

 

(あたしのせいだ。あたしに力が足りなかったから……!)

 

 澄んだ水面に涙を落とし、波紋を作るリーファは、あの場面で自分に何が出来たと自問する。

 ジュリアとサクヤは盾になる事を選んだ。ジュリアは死に、サクヤは生死不明ながらも最悪しか思い浮かばない。結果としてリーファとアスナは生き延びた。

 冷たい水で顔を洗って涙を流す。泣きたくない。弱さを零したくない。だが、胸の奥で傷口がギチギチと音を立てて広がり、風穴から負の感情が出血する。

 耐えなければならない。サクヤの為にも、力強く立ち上がらねばならない。あんな鳥籠で囚われ続けていたアスナの方が、武器も何も持たない彼女の方がずっと不安のはずだ。兄の為にも気丈に振る舞い、今後を生き抜くために知恵を搾らねばならない。

 仮面を被れ。リーファは自分にそう言い聞かせる。元気溢れた、苦境にも立ち向かえる自分になれ。必死になって口元に笑みを作ろうとするが、どうやっても唇が震えて歪んだ曲線しか描けない。

 

「リーファちゃん」

 

 そっと背後からリーファを抱きしめたのは、優しい声音と温かな人肌だった。

 

「アスナ……さん?」

 

「泣いて良いんだよ。辛い時に泣いておかないと、苦しい時に涙を流しておかないと、心はいつか壊れてしまうから」

 

「嫌、で……す。あたし、負けたくない。この世界に……負けたく、ない!」

 

「リーファちゃんはそっくりだね。私が大好きな……『あの人』にとてもそっくり。でも、だからこそ泣かないと駄目」

 

 振り返ろうとしないリーファを無理矢理自分と向き合わせたアスナは、母性に溢れた柔らかな微笑みと共に自分の額とリーファの額を合わせる。水面を揺らす森を吹き抜けた風が2人の少女の髪を靡かせ、木の葉を舞わせた。

 

「涙は悪じゃない。涙は心が生きている証拠だから。泣いた分だけ強くなれるって信じよう?」

 

「そんなの、嘘に決まってます。だって、弱いから、涙は……出るんだもん! 悔しいから! 何も出来ない自分が悔しかったから! そんな自分を甘やかしたいから! 涙で誤魔化そうとしているだけだもん!」

 

「そうかもしれない。だけど、リーファちゃんは頑張ったじゃない。私が今ここにいるのはリーファちゃんのお陰。サクヤさんのお陰。ジュリアさんのお陰。3人が私を助けてくれたから、須郷の檻から逃げ出すことができた。だから、否定しないで。リーファちゃんは無力じゃない。私を助けてくれたんだから」

 

 結果に重きを置けば過程を蔑ろにし、過程を評価し過ぎれば結果を踏み躙る。どちらかを重視すれば良いのではない。天秤にかけるものでもない。生きているならば尚更の事だ。

 

「ありがとう、リーファちゃん」

 

 そんな優しい言葉をかけないで。嬉しそうな笑顔で褒めないで。あたしはそんな資格なんかない。何もできなかった愚か者なんだから。

 だが、リーファは堪えきれず、甘えたくて、思いっきり泣きたくて、世界の理不尽さをぶつけたくて、アスナの胸にしがみついて嗚咽を漏らした。アルフ達の耳に届くのではないかという不安すらも掻き消される程に大声で泣きわめいた。

 言葉すらも紡がれず、ひたすらに泣きじゃくるリーファを、アスナは抱きしめながら子どもをあやすようにゆっくりと腰かける。リーファの頭を穏やかに、何度も何度も優しく労わるように撫でる。

 

「私もね、悲しい涙や悔しい涙は流したくないの。自分にも世界にも負けたくないから」

 

 心を抉る傷痕は、涙を流せば流す程に、それをしっかりと受け入れてくれるアスナがいる事に安心する度に、まるで泣いた分だけ瘡蓋となって塞いでくれているように『痛み』を和らげる。

 

「だけど涙を我慢した分だけ強くなれるんじゃない。涙を流さないくらいに強い心が尊いの。それに、仲間の為に涙も流せないなんて……そんなのは『強さ』じゃない」

 

 慰めなのかもしれない。哀れみなのかもしれない。同情なのかもしれない。共感なのかもしれない。だが、リーファには関係なかった。アスナが確かな優しさで抱擁と涙の許容をしてくれる事が彼女の心を覆うとした仮面を洗い流した。

 

「ご……ごめん、なさい」

 

 どれだけの時間を泣くのに費やしたのかは分からない。だが、ようやく泣くだけ泣いて平静を取り戻したリーファは、ほんのりと羞恥で頬を赤らめる程度には精神力も回復していた。

 

「謝っている暇があるなら行動しましょう。忌々しいけど、須郷はサクヤさんを殺していないはず。彼女にどんな手段を使ってでも情報を引き出そうとするはず」

 

 つまりは、生きている限りは助け出すチャンスもあるというわけだ。それはサクヤが最悪の絶望的な状況だと当てはめた場合に成立する希望的な予想だ。

 だが、事実としてサクヤは何も知らない。リーファは奇しくも自分を助けてくれた漆黒の少女についてサクヤに何も伝えなかった。断片的な情報から、自分を助けてくれたあの少女に繋がることはないだろう。また、サクヤとリーファは脱出後にどのような行動を取るのか計画して動いていたわけではない。たった1時間で何とかユグドラシル城を脱出せねばならないと足掻いていただけだ。

 結論から言えば、サクヤは情報源としては無価値なのである。つまり、どれだけ拷問しても情報は吐けない。そして、リーファも推測に過ぎないが、オベイロンも赤毛の女も有用な情報源としてサクヤを扱うことはないだろう。特にオベイロンの場合は鬱憤を晴らす為だけに、おぞましい方法でサクヤを蹂躙するかもしれない。

 そう思うだけで沸点に到達した感情が怒りを生む。このまま逃げ回っても解決しない。オベイロンに一矢報いるだけで終わる訳にもいかない。助けも期待できない状況ならば、自分たちで動いてオベイロンを倒すくらいの意気込みでなければ負ける。

 

「これを見て。この森の周辺の地図よ。アルフ達は必ず周辺の村と町、それに街道を見張っているはず。でも、大っぴらに包囲網を敷いているとは考え辛いわ」

 

「どうしてですか?」

 

「言ったでしょう? 須郷はプライドが高い男よ。妖精たちに私達を神のように崇めさせているってよく自慢してたわ。妻に逃げられた妖精王なんて滑稽な話を広めたがると思う?」

 

 言われてみれば確かにその通りだ。たとえば、リーファはともかくアスナの似顔絵を各所にばら撒いたとすれば、たとえ真実は伏せられても、民衆はティターニアがオベイロンの元から逃げたと判断するだろう。時代や国、宗教によっては妻の離縁など男にとって最大の屈辱として扱われていた程だ。微かでもそんな噂が立つことをオベイロンは好まないだろう。

 そうなると必然として広域手配できるのはリーファに絞られる。つまり、リーファの場合は大々的にオベイロンに歯向かった裏切者として捜索する大義名分もある。つまり、リーファがアスナと同行しているのは、それだけで彼女の危険が増すという事だ。

 だが、リーファはアスナと離別する考えはない。彼女に単独行動を許すのはそれこそオベイロンの思う壺であり、また反撃のチャンスを不意にする愚行だからだ。何よりも兄の想い人である以上は『最愛の妹』として守るのは当然である。

 

「まずは互いの情報を交換しましょう。リーファちゃんが知りたいことは何でも言って。私も訊きたい事は遠慮なく訊くつもりだから」

 

 ニッと笑ってリーファを元気づけるアスナに、思わずつられて頷いてしまう。これが天性のカリスマというものなのだろうとリーファは見惚れてしまう。

 

(こんな『お姉ちゃん』なら悪くないかも……)

 

 兄が惚れるのも分かる。アスナは『強い』人だ。そして、きっと同じくらいに『弱さ』も抱えている人だ。だからこそ共感してあげることが出来るのだろう。リーファは妖精の女王というの称号が相応しいアスナの美麗な容姿も含めて、兄の『最愛の女性』に相応しいと納得する。その上で『最愛の妹』としての行動を考える。

 最優先すべきなのはアスナを守る事だ。サクヤとジュリアの犠牲を無駄にしない為にも、リーファは全力で生き延び、なおかつアスナを守護しなければならない。だが、コソコソと隠れ潜んでいるわけにはいかない。

 たとえば、オベイロンがどれだけの行動がとれるのかは分からない。アスナからの情報によれば、オベイロンこと須郷(アスナ曰くオベイロンの本名だと補足された)は、アルヴヘイムにおいて強力な管理者権限……神にも等しい力を振るうことが出来る。たとえば、巨大なモンスターを生み出したり、地形を変動させたり、海と島を繋げる巨大な橋を作ったりなど、まさしく神の御業を成すことができる。

 だが、決して万能ではない。どうやら力を振るうにしても様々な制約があるらしく、たとえば完全無敵のモンスターを作成することはできない。著しくバランスブレーカーなステータスを保有するモンスターもまた生み出せない。自身を不滅の存在にする事も出来ない。アルヴヘイムの住人全てを操ることも出来ない。

 

「最近のオベイロンは特に【来訪者】を気にしていたわ。アルヴヘイムの外部から来た『プレイヤー』を敵視していた……ううん、恐れているようにも見えたわ。ここからは私の推測だけど、このアルヴヘイムはSAOとは異なるゲームの1つのステージ、エリア、ダンジョンに過ぎないと思うんだけど、どう?」

 

 大当たりだ。囚われの生活でどれだけの情報を得ていたのかは定かではないが、アスナはほぼ満点に等しい推理を立てる。リーファは補足しようと、SAO終了後から数年が経ち、茅場の後継者と名乗る自分がデスゲームを開始した事、そして兄が必死に『最愛の女性』を求めている事を伝えようとした。

 だが、リーファの舌を凍らせたのは、何処まで喋るべきかという『心遣い』だった。

 ハッキリ言えば、今のアスナを見て、リーファにはとてもではないが『死人』と断じられる要素が無かった。無論、アスナは現実世界で肉体を既に失った身である。彼女の精神だけが仮想世界に残っていると考えるのが最も妥当なところだろうとリーファは考える。

 どうする? どう答えるのが正しい? リーファは悩み、思案し、決断する。

 

「アスナさんは、オベイロンに囚われる前は何処まで憶えているんですか?」

 

「……実はぼんやりとしか憶えていないの。アインクラッドにいて、75層のボスを倒して……そこからは曖昧で……」

 

 辛そうに目を伏せたアスナは、必死に思い出そうとするように眉間に皺を寄せる。

 

「でも、どうしてもそこから『先』が思い出せないの。私がここにいる『理由』のはずなのに、どうしても思い出せないの。それは……きっと『私が死んだ記憶』のはずなのに」

 

 やはりだ。リーファは自分の想像が正しかったと確信する。アスナは正しく現状を認識している。自分が死人であると理解し、その上でアルヴヘイムは別ゲーム上にあると認識している。

 

「あたしがこれから話す事は全部真実です」

 

 だからリーファは全てを話す事にした。既にSAOは完全攻略され、茅場の後継者によってDBOという新たなデスゲームが開始された事。DBOの凄惨な毎日、大ギルドの台頭、教会の登場、傭兵たちという一騎当千の戦力。その全てを話した。

 しばしの間、茫然とし、悲しげに空を見上げたアスナは辛そうに、だが嬉しそうに笑った。

 

「そう。SAOは完全攻略できたんだ。良かった」

 

「その立役者になったのが【黒の剣士】です! あたしのお兄ちゃんなんですよ!」

 

「へぇ、リーファちゃんのお兄ちゃんなんだ。ねぇ、どんな人?」

 

「またまた冗談を! アスナさんの方が【黒の剣士】についてはずっとずっと詳しいですよね?」

 

 むしろ、あたしの方が教えてほしいくらいなのに。リーファは、アスナからどんな兄の話を聞かせてもらえるのかと期待しながら、その真一文字の唇を開かせようとする。

 だが、アスナは青空を映し込んだ池に浸す両足を見つめ、悲しそうに視線を伏せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。私には……【黒の剣士】が『誰』なのか、分からないの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスナの告白に、リーファの心臓は大きく跳ねた。

 分からない? 分からないとは何だろうか? リーファが知る限りでは、【閃光】のアスナは兄の伴侶であり、悲劇の剣士であり、そして兄がDBOに飛び込む程に強く愛した女性のはずだ。そして、同じくらいにアスナもまた兄を愛していたはずだ。それはリーファが出会った多くのサバイバー達から聞いた『事実』のはずだ。

 

「もしかして、『あの人』が【黒の剣士】なのかな?」

 

「『あの人』?」

 

「どうしても思い出せない人がいるの。とても大切なはずの人。大好きだったと思う人。どうしても……どうしても『あの人』の事が思い出せないの。たくさんたくさん思い出があったはずなのに、エピソードは憶えているのに、『あの人』の事だけは抜け落ちているの」

 

 辛そうにアスナは抱えた両膝に顔を埋める。それは涙を零さない為か、あるいは愛する人を思い出せない薄情な自分を許せないからか。

 

「名前も、顔も、声も、何も思い出せない。それが怖い。怖いの。私は……何で思い出せないの?」

 

 肩を震わすアスナに、リーファはそっと手を伸ばそうとして堪える。

 何と言えば良い? こんなピンポイントな記憶喪失など聞いたことが無い。これが死者復活の代償ならば、余りにも重過ぎる対価ではないか。

 仮に兄が再会したとして、自分の事を何1つ憶えていないアスナを前にしたならば、絶望してしまうかもしれない。あるいは、また1から思い出を作り直せば良いと力強く彼女を抱きしめるかもしれないが、それをアスナが受け入れるかどうかは定かではない。

 兄の事を伝えるべきか否か。リーファは『最愛の妹』として最優の判断を迅速に下さねばならなかった。

 

 

 

 

 

「思い出せないなら、今は思い出すべき時じゃない。あたしはそう思います」

 

 

 

 

 

 リーファの判断は『否』だった。

 今ここでアスナに全ての情報を伝えるのは簡単だ。兄とアスナはSAOで夫婦となって愛を誓い合ったという『事実』を伝える事くらいはリーファにも出来る。だが、それを伝えたからと言ってアスナの今の苦しみは拭えるだろうか? 兄の全てを忘れてしまったアスナに、兄がどれだけの代償を支払って再びデスゲームに身を投じたのか、その深過ぎる愛の顛末を教えて良いのだろうか? 

 駄目だ。リーファは否定する。アスナが兄の事を何もかも忘れてしまっているからこそ、彼女を『見つける』のは兄でなければならない。アスナが『あの人』が兄であると知るのは、リーファの口ではなく、兄の旅路の果てでなければならない。そうでなければ、余りにも兄もアスナも哀れではないか。

 もしもアスナが兄を受け入れられないならば、リーファは『最愛の妹』として2人を支えよう。それでもアスナの心が離れたならば、兄に寄り添ってその傷心を『最愛の妹』として癒そう。

 

「アスナさんは『その人』が大好きだった。それはちゃんと憶えているんですよね? だったら大丈夫ですよ! きっと『その人』と出会えます。アスナさんの名前を呼んでくれるはずです。だから、その時はアスナさんも……『その人』の名前を呼んであげてください。きっと顔を合わせれば思い出しますよ! 名前も、思い出も、何もかも……」

 

「……リーファちゃん。そうね。うん、そうかもしれない! 思い出せないんだもん。くよくよしててもしょうがないよね!」

 

 空元気なのかもしれないが、それでもアスナは確かに笑みを作り、リーファの手を取った。

 この人を支えよう。兄と再会するその日まで守り抜こう。リーファはそう剣士としての誓いを立てる。それが『最愛の妹』の役割だと信じて。

 そして、リーファは話題を変えるようにDBOのデスゲームが始まってからの日々とシステム面について詳しく伝える。アルヴヘイムで何処まで通用するかは分からないが、妖精の翅を除いたシステム面はDBOとほぼ同一である。他にも流血表現などが余りにも生々しい点などが上げられるが、戦闘やスキル面は大よその違いは無かった。

 どうやらアルフ化の際にアスナもプレイヤーとしての能力がアンロックされ、システムウインドウが開けるようになったらしく、彼女のステータスが明らかになる。

 

「やっぱりレベル1よね」

 

 溜め息を吐くアスナの言う通り、彼女のレベルはたったの1……まったくの無成長である。アルヴヘイムのモンスターがどれだけの強さかは定かではないが、DBOにおいてレベル1は何を以ってしても抗い難い最弱の存在である事は言うまでもない。

 

「で、でも防具だけは桁違いの性能ですよ! こんな薄着なのに最前線の金属鎧級の防御力なんて……!」

 

「須郷なりの『気配り』でしょうけどね。フフフフフフ」

 

 暗い目をして薄暗く嗤うアスナの言う通り、彼女の装備がいずれも大ギルドが両目の目玉を飛び出す程の防御力を誇るのは、オベイロンが暴力を振るっても一撃死しない為の処置なのだろう。その証拠のように【ティターニアの白ドレス】には特殊性能として、耐久度を大幅に減少すると引き換えにダメージを大減少させるというものが備わっている。

 アスナさんが怖い! リーファ必死にプラスになるような面をアスナのシステムウインドウから探るも、アイテム1つ、スキルすらも備わっていない。しかも肝心要のスキルさえも何故か自力で獲得できないようにロックがかかっている始末だ。

 通常プレイヤーとは何かが異なるのだろう。自力でスキルを獲得できず、なおかつレベル1のアスナでは、どう足掻いても1人では生きていけない。幾らSAOでは【閃光】と謳われた剣士でも、この状況では無理だ。

 

 

 

 

 

 

 だが、1時間後のリーファは全く真逆の結論に至っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ♪ これでレベル6ね! 経験値が多くて助かっちゃう♪」

 

 ガタガタガタガタ! そんな擬音が全身から発せられる程に、リーファは恐怖で悲鳴が漏れそうな口を両手で押えて、その凄惨な光景を目撃していた。

 まずアスナは旅人の死体が持っていた護身用のナイフを装備すると、森の中で攻撃手段が乏しい、子どものようなキノコ型のモンスターにバックアタックを決めた。暗器程ではないが、致命ボーナスが高い短剣の性質を知るアスナは無表情で、まるで料理の為に解体するかのように、子どもキノコを短剣で刻んだのである。

 指こそないが両手両足を持つ子どもキノコは逃げようと暴れ回る。だが、アスナはまず両足と両腕を削ぎ取り、何度も何度も何度もナイフを胴体に振り下ろす。DBOでは何ら珍しくない光景だ。弱いプレイヤーはなるべく安全なモンスターを安全に倒す。それが最も容易いレベリングの道だ。だが、冷静に傍目から見れば、それは極めて異常な光景であると思い知らされる。

 叫び声も出さずに逃げ回る、子どもキノコたちを次々と狩り、着実にレベルアップしていくアスナは、SAO時代を思い出したと言わんばかりに、機械的に子どもキノコを倒していった。

 あっという間にこの周辺の子どもキノコは絶滅した。多量の子どもキノコの遺体が残り、リーファはせめてもの供養とばかりに、ドロップしたアイテムをアスナに代わって回収していく。DBOと違い、リザルト画面でアイテムが自動回収されないのもアルヴヘイムの特徴のようだと静かに学んだ。

 

「でもEXPキャップかぁ。このキノコからじゃ、もう余り経験値はもらえないみたいね」

 

 残念そうに刃毀れしたナイフを鞘に戻すアスナに、リーファは乾いた声で『そうですねー』と同意しておくことにした。

 

(そういえば皆言ってたっけ。アスナさんは『攻略の鬼』だったって……)

 

 きっと、この人がお兄ちゃんの尻を叩いて攻略を急がせてたりしたんだろうなぁ、と兄の事を思い浮かべながらリーファはかつて仮想世界にあった鉄の城を思い浮かべた。

 と、その時だった。リーファは背筋にぞくりと冷たいものを覚える。それはアスナも同様だったのだろう。顔色を急に蒼くして、森の奥からズシズシと地面を揺らして接近してくる何かを睨む。

 

 

 

 それは、先程の子どもキノコを数倍大きくしたような、まるで父親のような威厳を持った、まさしく『パパキノコ』だった。

 

 

 

 あ、ヤバい。これ死ぬパターンだ。DBOで1年以上も生き抜いてきたリーファは、無謀にもナイフを逆手で構えてパパキノコと戦おうとするアスナの手を掴む。

 

「逃げましょう! アレと戦ったら死にます! 絶対に死にます!」

 

「で、でも経験値多そうよ!? せめて1体だけでも……」

 

「絶対に! 絶対に死にますから!」

 

 逃げるリーファ達を追いかけるパパキノコの足取りは遅い。子どもキノコも十分鈍足だったが、それを少し早くした程度の足取りではリーファとアスナの足では追いつけない。アスナのレベリングと情報交換の間にすっかり夕暮れとなり、森には闇が降り始めている。思えばアルヴヘイムの旅人が護衛を雇っても死ぬような森なのだ。凶悪で攻撃的なモンスターが生息していると注意して、迅速にキャンプ地を確保すべきだったのだ。

 それはSAOの意識が抜け切っていないアスナとDBOで鍛えられたリーファの危機管理能力の違いだろう。痒い所に手が届く、プレイヤーの安全に最低限以上の気配りを示していた茅場昌彦と違い、茅場の後継者のプレイヤーへの気配り=遠回しの罠なのは、既にDBOプレイヤー全員が知るところである。

 と、そこでリーファ達の周囲で獰猛な唸り声が響き始める。それは夜の帳と共に目覚めた肉食獣たちの狩りの始まり。大樹の木陰から次々と舞い降りてきたのは、全長4メートルはあるだろう、全身を黒い体毛で覆われた、まるで豹のような体格をした獣たちだ。背中には鶏冠のように赤い突起物が生え、血走った両目は飢えを浸している。

 アスナを守るように剣を抜いたリーファであるが、黒豹たちの標的は彼女たちだけではなく、たった1体の動きが鈍いパパキノコ、そしてアスナが全滅させた子どもキノコの亡骸なのだろう。

 武器を構えたリーファに警戒する黒豹たちは、襲い掛かるタイミングを待つ。リーファの目につくだけでも10体はいるだろう。

 これだけの数のモンスターに囲まれたのは1度や2度ではない。フェアリーダンスに参加する前は、組ませてもらっていたパーティがモンスターハウスのトラップに引っかかった事もあるし、マスタングの記憶では人面蠅にレコンが攫われた時には危うく死にかけた。前者はパーティのメンバーを犠牲にしながらも命からがら逃げて、後者は偶然傍を通りかかった『最も理想的な傭兵』との評価を受ける独立傭兵最高ランクであるスミスに助けてもらった。

 今回はどうやって切り抜ける? アスナさんを守りながら、どうやって? リーファはたらりと汗を滴らせた時だった。

 まずは孤立しているパパキノコを狩ろうと黒豹たちが動き出す。鈍重なパパキノコを囲み、その四肢の攻撃では迎撃できない数で一気に襲い掛かろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、パパキノコの姿が『ブレ』た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで残像のように、あまりの高速過ぎる動きにリーファの脳が追い付かなかったように、事実として彼女のフォーカスロックから完全に逸脱する超スピードで、パパキノコの姿が『ブレ』たのだ。

 黒豹の頭蓋を叩き割り、その破壊力は全身に伝播し、ぐちゃりという音すらも置き去りにして、その身をミンチに変えたのは、パパキノコの正拳突き。

 仲間の無残な死に怯えた黒豹たちに、一切の容赦なく、同情なく、パパキノコはまたも高速運動したかと思えば、2体目に空中回し蹴り、そこから3体目に前転踵落とし、着地と同時に右肘による打撃で4体目を文字通り『破壊』する。

 

 こぉおおおおおおおおおおおおおおお! そんな闘志の吐息が聞こえてるようなパパキノコの構えにあるのは『死』のみ。

 

 後ずさる黒豹たちに、パパキノコは好機と見て、体勢を屈めながら1体の前面に飛び出し、加速をつけた右アッパーで顎を砕くどころか首を吹き飛ばす。華麗なアッパーで露になったかに思えた背後に2体の黒豹が襲い掛かるも、ひらりと宙を跳んだかと思えば、大樹の枝を蹴って加速しながら落下し、まるで隕石の衝突を思わす衝撃音と共に繰り出されたダブルパンチによって2体を背中から『割る』。

 あっという間に3体まで減った黒豹たちは一目散に森の中に消える。両手と両足を血みどろにしたパパキノコは仁王立ちから、ガクガクと両足を震えさせて抱き合うリーファとアスナへと鬼の如く振り返る。

 

「奇跡【平和の霧】!」

 

 そこでリーファが咄嗟に発動させたのは、視界を奪う霧を発生させる奇跡である。純粋な目くらましであり、それ以上の効果はないのだが、視界を奪うという有効性から犯罪プレイヤーは『暗殺』で使用する事も多々ある奇跡である。また、煙幕と違って風などで吹き飛ばすことができず、必ず一定の空間に効果時間残り続ける事からも、地味でありながらも価値がある奇跡だ。

 リーファがこの奇跡を得たのは攻撃の為ではなく、無論こうした場面での闘争の為である。使用する魔力量はその地味な効果とは比較できない程に高く、戦闘で疲弊した状態では発動できないので、彼女が主に使用するのは危険と判断した未知なるモンスターと遭遇した場合のみである。

 

「な、なにあれ……何なの、あれぇええええ!?」

 

 今にも泣きだしそうな顔で、先程まで子どもキノコをジェノサイドしていた【閃光】とは同一人物とは思えない程に取り乱したアスナに、『デスゲーム』では先輩でもやはり『DBO』においては自分の方が先達のようだ、とリーファは引き攣りながら笑った。

 

「アスナさん、DBOではこれが日常ですから。これが普通ですから! 油断する暇もなく殺しにかかりますから!」

 

 その後、パパキノコから無事に逃げられたのはまさしく奇跡の賜物であり、その日の晩、アスナは大樹の陰でガタガタと震えたまま寝付くことはできず、リーファは自分もDBO初期の頃は似たようなものだったなぁ、と感慨深く夜番に従事するのだった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 月の光が差し込むのは、まるで巨大なクレーターに作られたかのような土色の都市。

 多くの煙突の塔は立つも、それらは消えた炉を証明するように煙はなく、だがまだ鍛冶屋の炎は生きているかのように、静かに蒸気が各所に充満する。

 まるで谷を思わす溝は崩落した岩盤か、それとも鉱山夫たちの無秩序な採掘の名残か、それらを繋ぐように石橋が隔絶された区域同士を繋げる。

 

「ここが廃坑都市」

 

 月光を浴びた黒紫の髪を夜風で靡かせ、少女は熱が籠った眼で都市を見つめ、唇を歪ませる。

 

(クーのことはちゃんと分かってるよ? 情報収集する為にも、必ず反オベイロン派に接触するはず。それと、クーはわざわざDBOで【黒の剣士】と離別している。だからアルヴヘイムでも組むはずがない。だから、クーはこう考えるよね。『【黒の剣士】が反オベイロン派と組むなら、情報だけ抜いて、反オベイロン派には属さない。でも、場合によっては【黒の剣士】を援護、あるいは妨害する為にも、反オベイロン派については綿密に調べる。そうなると、廃坑都市で接触する対象は反オベイロン派の主力人物ではなくて、主流から漏れたアウトサイドを狙う』。うん、間違いない!)

 

 少女は月光と踊るようにステップを踏み、廃坑都市を物珍しく見回す荷物持ち、深淵狩りが保有する拠点への案内を頼む赤髭、どっしりとした構えのまま周囲の視線を集める豪傑の剣士よりも先んじて、都市の全てを見通すようにくるりと回る。

 

(つ・ま・り、廃坑都市の非主流の有力人物を見張っていれば、クーと必ず会える♪ その邪魔をする奴は全員……ね♪)

 

 その為にも、反オベイロン派を毛嫌いしている深淵狩りの剣士たちを『利用』しなければならないだろう。クゥリはその気が無くてもあの容姿だから目立つ。【黒の剣士】がいるとなれば多少は隠すだろうが、探し出す方法など幾らでもある。

 

 ああ、待ち遠しくて堪らない! 早くクーに会いたい! クスクスと、少女は……ユウキは笑いを禁じ得なかった。




本作のパパキノコ=原作カンスト火力+香港映画インストール+ハリウッド補正となっています。

そして、いよいよ舞台は全員集合の廃坑都市へ。

それでは、252話でまた会いましょう。

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