SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ
イリス、死亡。お疲れさまでした。
そして、チームシャッフルへ。


今回の現実世界編の注意点
・お蔵入り予定だった設定をふんだんに使用しています。
・ブラボ要素? 知っている。管轄内だ。
・たぶん、読み飛ばしても本編に影響ないよ。ほんとだよ。ヒッシャ、ウソツカナイ。シンジテ!


Side Episode14 狩人の里

 朝1番の便で発ち、ローカル線を乗り継いだ頃には、顎まで汗が滴り、本当に今年は冷夏なのかと問いたくなるほどの夏真っ盛りの陽光が清々しい程に青空が降り注いでいた。

 

「この路線であと1時間半も揺られて、そこからバスに乗れば、忌々しい僕の故郷……九塚村だよ」

 

 普段のスーツ姿とは異なり、ラフな白シャツと紺のジーパン姿の光輝と共にクーラーの冷気を求めて入った、アメリカに本店を持つ世界チェーンの喫茶店でリズベットは何とも言えない居心地を味わっていた。

 ガールズトークに花を咲かせていた女子高生たちも、旦那様を差し置いてケーキを頬張る奥様達も、婚期に焦って飢えた独身女性の方々も、彼女たちの視線は光輝に集中してしまっているからだ。

 普段はまるで意識せず、また都心で人口密度の違い故にハッキリとは感じられなかった……いや、そもそも去年の冬までまともに光輝と向かい合っていなかったリズベットにとって、それは絶妙な匙加減の視線だ。

 

「こうして一緒の席に座っていたら、心底痛感したわ。光輝さんって……今更だけど、モテモテよね?」

 

 窓際国家公務員(離島勤務危機)よりもモデルなどの芸能活動をしていた方が何倍も人生の成功が得られるだろう容姿をした光輝は、リズベットの目から見ても、客観的に見ても、人種的垣根を超えても、等しく『美形』と呼べる類だ。それも凛とした男らしさと頼れる逞しさも黄金比でミックスされている。全身も職業柄なのか、よく鍛えられており、なおかつ180センチを余裕で超す長身ともなれば、まさしくパーフェクトと言っても過言でも無い。

 無論、以前のリズベットならば『本当に容姿だけは良いわよね、容姿だけは』と即座に嘆息したのだろうが、長きにわたる乙女の脳内闘争の末に、これまで駄々をこねていた非乙女派の脳内リズベットは、乙女回路全開の脳内アスナによって駆逐されてしまった。

 

(あたしは同僚として同伴して言うだけ。同僚として同伴しているだけ。同僚として同伴しているだけ! 本当にそれだけ! 光輝さんのお父さんとかお母さんに誤解されないようにしないと!)

 

 アイス珈琲を飲んで体を冷やそうとしているはずなのに、心拍の上昇によって血流の熱は高まり、筋肉は火照る。リズベットは頭を振って、今回は光輝の帰郷に付き合うという大義以上の深い意味はないのだと再三になって自身に言い聞かせる。

 

「ああ、視線の事かい? モテるかモテないかと尋ねられたら、もちろんモテたよ? 今では半ば黒歴史の不良を気取っていた10代思春期の頃は色々と派手に遊んでいたし、1人暮らししてた大学時代も、それにリズベットちゃんに会うまでも、恋人……いや、夜の相手には困らなかったよ」

 

「知ってるわよ」

 

「でも、僕が愛しているのはリズベットちゃんだけ。唯一無二の僕の未来のお嫁さんさ。結婚指輪はもちろん給料半年分で準備するよ」

 

「それくらいならあたしだって払えるわよ。納税できない真っ黒ボーナスだけで銀行口座のゼロの数が酷い事になってるし」

 

 片手の指だけでは足りない程度には世界を救っている2人には、口止め料と諸々の労いとして相応の額が振り込まれている。その額は成した功績には到底見合わないものであり、一生遊んで暮らせるとまでは言わないが、日々にちょっとした贅沢が何の気構えなくできる程度には人生を豊かに出来る資産だ。

 だが、そもそも金銭面にそこまで執着が無いリズベットと光輝では生活水準をいきなり変化させる事などない。今以って2人の暮らしは自炊であるし、スーパーの安売りチラシに踊らされ、10円単位の節約の為に貴重な休日でもタイムバーゲンに挑む。

 

「ふむ、つまりリズベットちゃんに愛を示すには、それこそル○ン三世に登場するクラスの指輪でないと不足していると? そういう事だね」

 

「あたしは金額よりも込められた愛情を評価するタイプなのよ」

 

「じゃあ、プラチナ製の指輪をオーダーメイドで手配しないとね。いや、僕の愛を込めるなら、今から匠に弟子入りして――」

 

「はいはい」

 

 涼しく氷の音を立てた、半分ほど飲み終わったアイス珈琲をストローで混ぜながら、リズベットは話を振った途端に目に見えてテンションを下げた光輝に嘆息しそうになる。傍目から見れば夏の日差しに憂鬱さを隠せない美形であるが、彼女からすれば未だに踏ん切り切れていない相棒だ。

 確かに腹を括ったように見えるが、リズベットでも見抜ける程度に、仕事用の携帯端末を意識している。呼び出しがあれば、『仕事なら仕方ないね!』と言ってUターンしかねない表情だ。

 

「折角、皆が気を利かせて夏休みと有給の併用を認めてくれたんだから、仕事は忘れてよね」

 

 光輝の手から携帯端末を取り上げ、リズベットは即座に電源を切る。

 VR犯罪対策室は今日も今日とて大忙しのはずだ。むしろ、学生が夏休みのこのシーズンはある種の地獄である。

 VRアレルギーは政界にも蔓延しており、失脚の『地雷』扱いされている節がある。優秀なブレーンであるはずの官僚たちも、先進技術の塊である日進月歩のVR・AR技術には遅れを取っている。いや、のらりくらりと『キャリアに汚点を付けたくない』とばかりのあり様だ。未だにVRシティ関連の法案、特に知的財産権問題に切り込まず、曖昧なグレーゾーンのまま放置している。

 対して、今や『VR先進国』というお株を日本から奪い取ったアメリカと言えば、その法整備から国家予算投入までのスピードたるや、ウサギと亀の競争を見ているかのようだ。特にINC財団は、SAO事件という大ダメージを負った日本とは土壌が違う事を活かし、世界最高シェアを獲得するVR機器『ニューワールド』シリーズを手掛けている。

 レクトのアミュスフィアシリーズは『日本専用モデル』とまで馬鹿にされていた程だ。それは盛大にコケたアミュスフィアⅡも大きな要因なのだろうが、SAO事件に起因するVRアレルギーこそが最大の原因だろう。

 このVRアレルギーとは、積極的にVR技術を遠ざけるという意味ではない。本来は公民一体で、この苛烈な技術戦争に挑み、社会との融合を図らねばならない、まさに新技術戦国時代において、『自称知識人』は総出でVR・ARを劇物扱いし、法整備は遅々とし、支援は微々たるものであり、何よりも国民感情の根底にVRへの恐怖感が根強い事だ。

 だが、SAO事件で多くの被害者を出したはずの若年層ほどにVRへの抵抗が薄いのも事実だ。学友がSAO事件で亡くしたはずの者たちが平然とVR依存症となる。VRシティで買い物をし、デートをして、結婚式を挙げる。去年の某掲示板の勝手にネット流行語大賞で『現実こそ仮想』が選ばれたのは、1部の者たちからすれば真新しい衝撃だ。

 加速し続ける世界に恐怖心を覚えるのはリズベットも同じだ。むしろ、SAO事件の被害者であり、多くのVR・AR事件に巻き込まれ、生命の危機を経験したリズベットだからこそ、まだまだ未知なる分野であるVR・AR技術に恐怖心を抱くのは自然な事だ。

 だが、言う程にリズベットは仮想世界を毛嫌いしているわけでもなく、愛着に近いものを感じていないわけでもなく、SAOはトラウマばかりではなく郷愁にも似た愛しい思い出があるのも事実であると認めている。そして、そんな彼女でも『現実こそ仮想』なんて言いきれない。まだ『どちらも現実』の方が共感も持てる。

 そうして仮想世界にのめり込み過ぎる者もいれば、逆に仮想世界は『別物』と割り切って、インモラルな行動に移る者も後を絶たない。たとえば、昨今問題になっているのは、未成年女性による売春行為だ。

 VRシティではアバターのモデル変更を全面的に禁じている。これは『著しく本来の身体と異なる容姿であり続けた場合、精神に変調を来たす事例がある為』という理由もあるが、他にも身分偽装……犯罪行為に直結するからだ。故に、VRシティでのアバターモデルの変更……もちろん、性別の変更も法的に禁止されている。これに違反しただけで刑事罰は免れない。

 だが、幾ら容姿は現実世界に残した身体に依存するとはいえ、化粧とは『化ける』ことであり、アバターのカスタマイズは法的範囲内なので女性はより美しさを目指し、男性はよりカッコイイを求める。美醜の概念がある以上はこの楔から逃れられない。

 たとえば女性の永遠の敵である体重。アバター化した体の体重を減らした『予想図』を適応させる事はできる。過半のVRシティでは有料サービスとして実装されている。他にも髪型や髪色まで自由自在だ。

 そうして別人になっていく。あるいは、本来の容姿から大きく逸脱せずとも、何でも自由にできると錯覚してしまう。違法ツールが裏で流通し、グレーゾーンは犯罪の温床となる。

 先日のファイトクラブへの潜入調査など酷いものだった。出血・損傷表現過多にされたアバターで、ファイター同士が鉄檻の中で殴り合う。痛覚遮断はほとんど機能せず、ゲロも吐き、歯は砕けて折れ、血反吐は飛び散る。リズベット達が捜査に入ったのは、ファイトクラブのファイターの1人と目されてマークされていたプロボクサーがVR機器を接続したままショック死していたからだ。

 VR犯罪対策室の医学的見地のキーマンにして、最もVR犯罪を脳科学的・フラクトライト的に観察できる男、ただし独身なので飢えた看護師たちに狙われている須和は、ボクサーの死因を『痛覚』による心臓麻痺……DBO事件被害者たちの死因となっているファンタズマエフェクトに近しいと断定した。

 はたして殺人罪が適応されるのか? 答えはノーである。せいぜいできたのは、『グレーゾーン』ツールによるアバター改造、並列されていた児童買春の摘発、違法認定されたタイプの電子ドラッグ販売による逮捕くらいだ。だが、法の抜け穴を突くことに長けた者は後を絶たず、次々と『グレーゾーン』は生み出されている。

 極論を言えば、VRシティで殴り合っても傷害罪にはならない。人を騙して金品を奪っても詐欺罪にはならない。無理矢理犯しても強姦罪にはならない。それが現日本のVRシティの実態だ。

 莫大な富を生む利権が絡むので政財界は凄まじい攻防を繰り広げているらしいが、今秋になれば大よその『妥協』によってVR犯罪対策室もようやく一息つけるのだ。DBO事件を捜査せねばならない本部の捜査官まで某怖い方々が関与していた『エンジェルコール』事件や政財界をひっくり返しかけた『ブラックSMの愛の館』事件などで疲弊することもなくなる。DBO事件解決の為に力を注ぐことができるようになるのだ。

 いつの世も政治と現場は乖離する……って、あたしは世間一般じゃ華の女子大生のはずなのに。昨日までの激務を思い出し、オブザーバーのはずなのにほとんど捜査官と同業をさせられている自分にも有給が欲しいと切望する。オブザーバーという外部扱いなのは時に自由であり、時として権利を主張できないのだ。

 YOU、永久就職しちゃいなよ♪ 脳内アスナが元気にダンシングしながらマイクを持ってチャーミングにウインクする。死人のくせに人の頭の中で桃色波動を振りまく女子力の塊にリズベットは悶絶する。これで実は生きてましたとなどと言われた日には、喜びに勝って憎さ100倍で顎に強烈なアッパーを打ってしまいそうだ。

 

「そろそろ時間だね。行こうか」

 

 光輝に促され、喫茶店を出たリズベットはその足で駅に向かう。地方のローカル線であり、採算は取れないはずであるが、廃線になることなく走り続けている。鉄道マニアがレトロな車両を撮影し、これからリズベット……いや、光輝と同様に里帰りだろう人々が幾人もいる。とはいえ、全員席に座るには十分である。

 ペットボトルのお茶を置き、駅弁を貪る……と普段ならば余裕を見せる場面であるが、リズベットは光輝を席に残すと早々に化粧室に駆け込む。

 

「へ、変じゃないわよね?」

 

 これで朝から何度目になるか分からない身だしなみチェックだ。腰まで伸びた髪はピンク色に染色されているが、それを除けば、今のリズベットは清楚女子に擬態している。水色を基調としたワンピース、山道が多いと聞いて妥協した暗色ブーツ、職場の女性陣にジト目の中で春日に渡された赤のヘアピンがある。なお、職場の男性陣からは最高の笑顔で東○バナナをたっぷりとお土産で渡しておいてというお願いと共に押し付けられた。

 職場の独身女性陣からすれば、光輝はイケメン&資産家の息子という認識らしい。出世コースからは大外れしているが、女性の扱いも上手く、仕事も出来る。しかも、やろうとしないだけでやれば家事も万能。歌って踊れてイケメンの公務員だ。当然ながら倍率は天文学的数字である。

 対して独身男性陣からすれば、出会いという出会いを潰す元凶だ。合コンに同席すれば総取り。出現すれば視線を独り占め。もはや食虫植物並みのホイホイっぷりである。リズベットと出会う前は実際に『食べていた』のだから、男性陣からすれば血涙ものだろう。

 

「枝毛はない。隈もギリギリ隠せてる。香水……ちょっと強過ぎるかな?」

 

 普段はパンクのカッコイイ系の恰好をしているリズベットは、こんな清楚女子の恰好をするのは生まれて初めてである。だが、これから突入する場所は光輝の故郷であり、既にご両親は待機済み。しかも全ての決定権を握っていると言っても過言ではない祖父というラスボスも待っている。

 たとえ思考では同僚としてでも、乙女の本能は告げている。ここが分水嶺。ここが天下分け目の関ケ原。ここを逃せば『終わる』と脳内アスナが警鐘を鳴らしている。

 

「ストレートパーマーかけるべきだったかしら」

 

 ロングヘアになっても重力に抗おうとする我が遺伝子、憎たらしい! だが、あまりにも過ぎたイメチェンはボロが出る。ここまで髪を伸ばしたのも生涯初めてなのだ。リズベットは深呼吸を入れて席に戻る。

 疲れているのだろう。リズベットと違い、諸々の事務作業も重なって、連日連夜で仮眠室にて夜を明かしていた光輝は、うとうとした様子だ。夏の日差しとクーラーの光が混じり合い、丁度良い眠気を誘う空気を形成しているのだろう。

 これから2時間ほどの、のんびりした電車の旅だ。長い停車時間もご愛敬である。その間に、リズベットは得られた分だけの九塚村についての情報を纏める。なお、情報源の過半は光輝と須和である。

 まず、不思議なほどに九塚村に関しての情報はインターネットで拾えなかった。検索エンジンのいずれでもまともな情報は得られなかったのである。だが、そもそも人目に触れることもない山奥の村ならば、情報が得られないのも仕方ない。

 九塚村と最も近いのは塚守町である。この塚守町からも自動車で行くことができるらしく、山道を通ることにはなるが、たどり着けるらしい。今回の利用予定のバスも定期ではなく、今回のような祭り……血縁者が村に戻る際に臨時で住民が出しているものらしいのだ。

 九塚村は塚守町に平成の大合併の際に吸収された。四方八方を山に囲まれた九塚村に関する写真は1枚として出てこない。現代日本における秘境のように隔離されている。須和曰く『知らない方が幸せな時もある』部類らしい。

 光輝が出立の際に渡してくれたものは2つ。1つはミサンガに似た赤い紐だ。これを必ず左手首につけておいて欲しいらしい。何でも『ヤツメ様の赤糸』というお守りらしいのだが、村にいる間はなるべく……外出する際には絶対に外さないように頼まれた。

 そしてバスの乗車券だ。事前に支払いを済ませているらしく『絶対に普通の貨幣を使って支払いをしてはいけない』と念を押されて渡されたものである。見た目は普通の乗車券であるが、出発時刻の判子が押してあるのだ。

 既に須和は先んじて九塚村で待っている。リズベットの事はそれとなく話しておくとは言っていたが、何処まで力になれるか分からないと、らしくない程に弱気だった。どうやら、今回の祭りには普段よりも血縁者が戻っているらしく、大忙しになることは間違いないらしい。

 

「おばあちゃん! しっかりして、おばあちゃん!」

 

 と、そこでリズベット達が乗っている車両で叫び声が響く。何事かとリズベットが立ち上がって振り返り、光輝は瞼を見開くと機敏に、だが落ち着いて駆け寄る。

 

「どうかなされましたか?」

 

「おばあちゃんが急に苦しみだして! ど、どうしよう!? 救急車を呼ばないと!」

 

 まだ10歳くらいの麦わら帽子が似合いそうな少女の隣では、顔色が青い老婆が倒れている。リズベットは呼吸、脈拍、瞳孔を確認していく。

 

「意識は……あるようだね。次の駅で降りよう。僕が付き添うから、リズベットちゃんは先に行っていてくれ」

 

「あたしも付き合うわ」

 

「乗車券には判子が押してあっただろう? その時間以外にバスはないんだ。僕は車を借りて後から行けば良いけど、リズベットちゃんの場合は『駄目』なんだ」

 

 さすがの光輝も病人を出汁にして里帰りを取り止める口実にする気はないのだろう。だが、先んじてリズベットに行かせる意図が読み切れない。仕方なく、リズベットは承諾し、次の駅で老婆と少女を伴って下車した光輝を見送った。

 

「相棒の里帰りに同僚だけ先について、どうしろって言うのよ?」

 

 そもそも説明不足なのだ。今日の為に準備を進めてきたが、光輝にしても須和にしても、九塚村については口を閉ざして話そうとしない。2人とも『現地に着けば、嫌でも分かる』とまるで打ち合わせしていたように同じ言葉を告げるばかりだった。

 行き方にしても不鮮明だ。21世紀の日本において、世間ではVR・AR技術の革新によって急速に社会形態と都市構造に変化が求められている時代にしては、あまりにも前時代的過ぎる。

 とはいえ、田舎とはそういうものと言われればリズベットも納得する事は出来ずとも受け入れるしかない。左手首の赤紐を撫で、彼女は電車に揺られ続ける中で、窓の外の風景を見つめ続ける。

 青々とした葉を蓄えた木々。耳を澄ませば聞こえてきそうな清流の水音。古い路線なのだろうか。まるで整備されているようには思えない山奥の風景は、都市暮らしに慣れたリズベットからすれば異界のようだ。どちらかと言えば、アインクラッドの風景を思い出させる。

 トンネルを幾つも潜り、まるで蛇のように右へ左へと曲がる線路をゆっくりと電車は走っていく。そうして、まるで予定外に止まるかのように、電車は速度を緩やかに落としていく。

 

『えー、塚守坂駅。塚守坂駅』

 

 やる気のない車掌のアナウンスに、リズベットはローカル線とはいえ適当過ぎると思いながらも荷物を抱える。録音アナウンスではなく、わざわざ車掌自らの放送は些か以上に不自然な気もしたが、リズベットは開いたドアを潜り抜ける。

 そして言葉を失う。ハッキリと言えば、それは廃駅と呼んだ方が相応しい、何年も人の手が入っていないかのようなボロボロのホームだった。木造の屋根には蜘蛛の巣が張り、錆だらけのスタンド型の灰皿には穴が開いて雨水と煙草のブレンドが溢れている。各所には蔦が絡まり、不気味な赤い花を咲かせていた。だが、まるでリズベットを誘うように、駅の改札口には橙色の行燈が取り付けられている。

 

「ひへー。想像以上だな」

 

「おにぃ、ココ……なんか寒くない?」

 

「そりゃ冷夏の山奥だし」

 

「そうじゃなくて! なんて言うか、お化け屋敷的な寒さって言うか……」

 

 どうやら駅に降りたのは自分だけではないらしい。複数名の人間が、廃駅同然の塚守坂駅に降りたらしい。まず目についたのは、兄妹だろう男女である。

 年齢は10代後半。そこそこ鍛えているだろうが、運動部の類ではない。武道の心得は無さそうだが、荒事に慣れているだろう事は雰囲気で何となく察せられる。どちらかと言えば童顔の部類なのだろうが、眼が睡眠不足以外で淀んでいるせいで、人生にくたびれた中年のような哀愁を背負っているかのようだ。

 対して妹だろう少女の方は10代前半。小学生……いや、中学生くらいだろう。兄だろう少年によく似ており、元気さをアピールするようなポニーテールだ。精一杯のオシャレのようにミニスカとキャミソール姿であるが、背負っている世界的に人気の黄色の電気鼠を模したリュックサックが色々と台無しにしている。

 

「あ、どーも」

 

 リズベットの視線に気づいたのだろう。軽く会釈する少年の視線に違和感を覚える。あれは何かを察したような目だ。何処かで面識があっただろうかと思い浮かべ、リズベットはネットニュースやたまにワイドショーで取り上げられる、日本でも有名な1人の高校生の名を思い出す。

 高校生探偵、坂上翼。行く先々で事件に遭遇する、天性のトラブルメーカー、あるいはトラブルブレーカー。彼が解決した難事件は数知れず、その中には科学捜査すらも欺いた犯人の緻密な殺人計画も含まれ、迷宮入り間違いなしと目された事件を次々と解決した、警察のプライドをアッパーカットで叩き潰した少年である。

 

「確か、坂上翼くん……よね? たまにテレビに映ってる高校生探偵の」

 

「いやいや、俺は1度だって高校生探偵なんて自称した事ありませんって。俺も迷惑してるんですよ。マスコミにはあれこれ騒がれるし、ネットでは玩具にされるし、学校では友達できないし」

 

「そして、おにぃがこうして山奥に来ると必ず事件が起きる。えへへ、思い出すね、おにぃ♪ ほら、『まだ』家族が皆いた頃にいった北海道のキャンプ!」

 

 腕に抱き着く妹に、翼はどんよりと瞳を濁らせる。どうやら、彼の人生には絶えることなく事件が待ち構えていたようだ。同情しようとしたリズベットであるが、SAO事件に端を発して世界中で大事件を解決してきた自分も同類ではないかと苦笑した。

 

「あたしはリズ……じゃなくて、篠崎里香。あなたが何処にでもいる普通の高校生なら、あたしも何処にでもいる普通の女子大生ね。あなた達も九塚村に?」

 

 握手を求めると、まるで怨敵に遭遇したかのように翼の前に妹が出て代理人のように手を握る。全力握力で指の骨を潰すパワーを発揮しているつもりなのだろうが、せいぜい少し痛いくらいしかリズベットは感じない。

 

「はじめまして。私は妹の坂上美桜です。美しい桜と書いて『みお』って読みます」

 

「へぇ、素敵な名前ね」

 

 あー、これ面倒なタイプだわ。リズベットは即座にこの兄弟間の捩じれた関係を見抜く。だが、これだけ分かりやすい反応をしてくれるならば、接し方さえ間違えなければ無害の子犬型だろうとも分析を終える。

 

「俺も九塚村に来たんですよ。夏休みを利用した小旅行って奴です。こっちはオマケ」

 

「オマケって何よ!? おにぃが美人生徒会長に誘惑されてホイホイされちゃったから、こうして妹の私がしっかり守ってあげないといけなくなったんだから! 安心して! おにぃの貞操は――」

 

「人様の前で何言っちゃってんの!? メチャカワ女子大生の前でチェリーボーイとか暴露すんなよな!? そもそもお前は勝手について来ただけだろうが! 生徒会長に何て説明すればいいんだよ!? こっちはタダで泊まらせてもらう身なのによぉ!」

 

「ホテル代くらい払える程度には貯金下ろしてあるもん! いざとなればおにぃと一緒の布団でも良いし」

 

 うーん、この兄妹のノリ……嫌いじゃないわ。兄妹漫才を繰り広げる2人にほっこりしたリズベットは、続いて彼らの奥にいる別の2人組に目を向ける。

 1人は色黒の背の高い青年だ。スポーツマンのような短い黒髪であり、目付きは鋭い。何処となく雰囲気が光輝に似ているように思えるのは、彼もまた血縁者の1人だからだろうか。

 もう1人はボサボサとも思える程に髪を伸ばした女の子だ。夏場にも関わらず、長袖と厚いロングスカートであり、前髪も顔の過半を隠す程に伸びている。両手には黒の手袋をしていた。

 

「大丈夫か、弥生?」

 

「少し眩暈するだけ。最近……外に出て、なかったから」

 

「ごめんな。出来れば車を準備したかったんだが、これもシキタリでさ」

 

「良いの。錫彦さんがいれば……私は、それで」

 

 あちらもあちらで厄介ネタそうだ。リズベットは坂上兄妹の喧嘩を後ろに改札口へと向かう。そこにはクリーニングしたばかりのような制服姿の駅員がニコニコと笑って待っていた。年齢は30代半ばくらいだろう。笑顔が『上手』な人だとリズベットは警戒心を高める。

 

「ようこそ、塚守坂駅に。皆様は九塚村に参られる。相違ありませんね?」

 

「ええ、そうよ。あたしと後ろの2人はね」

 

「なるほどなるほど。ではバスの乗車券を拝見致します。ふむ……これは大変失礼いたしました。どうぞこちらに。さて、あなたは……ああ、なるほど。あの名高い高校生探偵様ですか。実に『お可哀想に』とだけ申し上げておきましょう。後ろのお嬢さんは血縁ですか?」

 

 駅員に美桜の事を指摘され、翼は肩を竦めた。少しだけであるが、駅員の笑みの質が変化したように思えたのは見間違いではないだろう。そして、それは翼も察知したように、やや気圧された様子の妹を守るように1歩前に出た。

 

「ああ、そうだ。ウチの妹は1人メシするとジャンクフードかカップラーメンしか食べない不健康女子なもんでね。お兄ちゃんとしては心配で放っておけないつーわけだ」

 

「そうでしたか。まぁ、身内の方でしたら『何とか』なるでしょう。お次は……おやおや、これは『草部』の坊ちゃまではありませんか! 大学生活はいかように?」

 

 久坂兄妹を通すと、今度は色黒の青年たちに、恭しく駅員は頭を下げる。それは主君への挨拶のような、時代錯誤を思わす忠義のような、それでいて不気味さが抜けない道化のようだった。

 

「その『坊ちゃま』は止めろ、腐れカス。大学は卒業済みだ。今は――」

 

「御学友とVR関連のベンチャー企業を立ち上げられたのでしたね。存じ上げています。業績も好調。この調子ならば一部上場にもそう時間はかからないでしょう。世はVR技術で革新にあると聞きます。さすが坊ちゃまは時流をよく見ていらっしゃいます」

 

 相変わらず喰えない野郎だ。色黒の青年はそう吐き捨てると隣の女性を引き連れて改札口を通り抜ける。そして、最後に駅員は構内が無人である事を確認すると改札口にチェーンをかけた。

 駅前は廃駅のような風貌と同様に、雑草が茂り、腐葉土が蓄積し、ガードレールは拉げていた。バス停である事を示す時刻表は長年の雨露でドロドロに溶けて原型は無くなっている。そんな世界において、不自然な程に自動販売機は電気の輝きを発し、白いベンチはピカピカに磨いてあった。

 

「バスが来るまであと30分ほどあります。僭越ながら、私が皆様の昼食をご準備致しました。お口に合えばよろしいのですが」

 

 駅員は慣れた手つきで皆々に紙コップを配り、水筒の中身を注ぎ込む。黒い液体は珈琲の類かとも思ったが、リズベットはすぐにドロドロのアイスココアだと気づく。それも、須和がよく出してくれるマシュマロたっぷりのドロ甘ココアだ。

 

「う、うえー。おにぃ、これ甘過ぎ」

 

「これは失礼しました。お嬢様のお口には合わなかったようですね。では、すぐにお茶を準備致しましょう」

 

 ポケットから1000円紙幣を取り出すと自動販売機でお茶を購入し、駅員は何事も無かったような自然な動作で美桜から紙コップとペットボトルを取り返す。

 駅員は美桜が口を付けた紙コップを傾けると中身を自分の喉に流し込む。わざとらしく喉を鳴らして飲んだかと思えば、紙コップを手で握り潰した。そして、再び掌が開かれる頃には潰れたはずの紙コップは消えている。

 呆然とする美桜に、駅員は自分で自分を讃えるように拍手する。

 

「お粗末ながら、奇術を嗜んでいます。都会暮らしの方は携帯端末を弄っていないと死んでしまう病にかかっているとお聞きしました。御慰めになればよろしいのですが」

 

 バスケットを開いてサンドイッチを振る舞いながら、駅員はそれからもリズベット達を楽しませるように、次から次へと芸を披露する。マジックはもちろん、1人漫才、パントマイム、コサックダンスと1人で宴会芸をフルコースである。

 最初こそ1歩か2歩は引いていた坂上兄妹であるが、駅員の芸に引き込まれるように、最後はアンコールの連発である。対して色黒の青年はボサボサ髪の女性を気遣うように寄り添ったまま、駅員の一切を無視していた。

 

「おやおや、バスの御到着のようですね。楽しい時間はあっという間でした」

 

 それは廃駅に負けないくらいにボロボロの、塗装が剥げた青いバスだった。排気ガスを垂れ流す旧式であり、自転車操業のバス会社でも扱っていないだろう。だが、驚いた事に運転手は駅員と瓜二つの容姿であり、恰好をシャッフルすれば、どちらがどちらなのか見分けできない程に似ている。

 双子にしても似過ぎだ。停車させたバスから降りた運転手と駅員は小声で幾らか言葉を交わすと、やがて頷き合った。

 

「お待たせ致しました。さぁ、お好きな席にどうぞ」

 

 そして、声までもが驚くほどに同じである。そして笑顔すらも寸分の角度の狂いもなく同一だ。まるで鏡から抜け出したドッペルゲンガーと名乗っても信じられる程である。

 

「妹は乗車券が無いんだけど幾らかな?」

 

「おや、妹様がご一緒でしたか。乗車券を拝見します。ふむ、『紫藤』のお嬢様の……少々お待ちくださいませ。静様!」

 

 バスに戻った運転手は乗客を呼びに戻ると、リズベットも目を見張る程の美少女がステップを踏んで姿を現した。

 艶やかで癖のない黒髪、氷を思わす程に冷たく整った顔立ち、赤が滲んだ黒の瞳は妖艶だ。高嶺の花という表現がこれ程に似合う人物もいないだろう。白いワンピース姿も含めて、同じ清楚系でファッションを固めたはずのリズベットは完全敗北を味わう。

 こ、これが生粋のお嬢様と庶民育ちの格の違い……! 心折れて膝まで折りそうになったリズベットは、トランクの中に突っ込んであるいつも通りの服装に今からでも着替えるべきかと悩む。こんなお嬢様と並ばされては、自分の『なんちゃって清楚系』などバレバレの金メッキだ。

 女子力50万……60万……120万、それ以上ね。脳内アスナが冷や汗を垂らす美少女は、チラリとだけリズベットを見ると微笑んだ。計算されていないのは分かるのに、計算され尽くされているような微笑の優雅さに、リズベットは更なるダイレクトダメージでオーバーキル状態である。

 

「あら、翼くん。妹さんとご一緒なの?」

 

「せ、生徒会長! ごめんなさい。妹がどうしてもって……もちろん、宿泊費は出すよ!」

 

「ふふふ、心配しないで。妹さん1人くらいは負担でも何でもないわ。ううん、実はね、2人分の来客の準備は済ませてあるの。こういう『ニオイ』に敏感だから、分かっちゃうのよね」

 

 ペロリ、と唇を舐めた美少女……静の姿に、リズベットは首筋に冷たいものを感じる。まるで命など何とも思っていないかのような、絶対的な捕食者のような、冷たい蜘蛛の目だ。

 

「美桜ちゃん、だったわよね? 左手首を出して」

 

 静は有無を言わさぬように要求すると、美桜はおずおずといった調子で左手を差し出す。すると彼女はポケットから青い紐を取り出すと、美桜の手首に括り付けた。

 

「絶対に外しちゃ駄目よ? それはね、お守りなの」

 

 2人を伴い、バスに戻る静は最後にもう1度だけリズベットに視線を這わせると、楽しそうにクスクスと笑った。

 色黒の青年はそれに続き、伴う女性の荷物も持ってバスに乗り込む。最後に残されたリズベットは運転手に乗車券を渡すと、意味深な微笑みで招き入れられる。

 

「それでは行ってらっしゃいませ。またお会いできる日をお待ちしております。ええ、お待ちしておりますとも」

 

 見送る駅員は土下座でもする勢いで膝を折りながら頭を下げた。

 ゆっくりとバスは走り出す。リズベットは何処に座ろうかと見回し、駅から乗り込んだ自分たち以外の乗客を確認する。

 談笑している男女が最奥の席で5人。迷彩柄のジャケットを着た体格の良い男が1人。そして、ショートカットの切れ長の目の女が1人だ。

 

(奥の5人は大学生かしら? 女は……ちょっと危ない感じ。この男の人はカメラを持っているし、旅行者ね)

 

 仕事柄か、座席の位置と人物像の把握に努めたリズベットは、我に返って自分こそ仕事モードが抜けきっていないと自身を叱咤する。運転席のすぐ後ろの席に腰かけると、リズベットは発進したボロボロのバスの振動を受けて小さく悲鳴を上げそうになる。

 

「いやはや、申し訳ありません。なにせこの通りの老骨ですからね。毎日の整備は欠かしていないのですが、今日ははらわたに詰め込み過ぎたのでしょうねぇ。エンジンさんも喜んじゃってますよ」

 

 気持ち悪い表現は歓待のつもりなのか、運転手は耳聡くリズベットの短い呼吸音から驚きを感じ取る。

 

「あの駅員さんと双子なんですか?」

 

「ええ。よく似ているでしょう? 入れ替わっても決してバレない……とは、さすがに言えませんがねぇ。テクノロジーの進歩は恐ろしい。ほら、今は声紋、静脈、虹彩と個人を分離・特定する技術が山ほどあるでしょう?」

 

「でも、それは『登録された個人』を特定するものであって、あそこまで似ているなら、まず気づかれませんよ。機械の情報っていくらでも誤魔化せますし」

 

 それに最新技術ほど古典的手法に弱い。それは紺野姉妹の双子トリックに翻弄されたリズベットからすれば、実感の伴った発言である。それに対して上機嫌そうに運転手は笑った。

 

「篠崎里香様。九塚村にはどのようなご予定で?」

 

「知人の里帰りの付き添いです」

 

「そうですか。ご友人様ですか?」

 

「友人というか、同僚というか……」

 

 恋人じゃないのは間違いない。常にアタックを仕掛けてくる光輝に返答していないリズベットは、関係的には同僚以上恋人未満なのであるが、同棲している時点で周囲の暗黙の公認を受けたカップル扱いである。

 あたしって本当に中途半端。思わず溜め息が零れると、運転手は蛇行する山道を見事なハンドル捌きでオンボロバスを操って進んでいく。いつしか、森の木々は鬱蒼とし、まるで夜の闇が訪れているかのように日光が遮られて薄暗い。

 

「九塚村ってどんなところですか?」

 

 不安に駆られた心を落ち着ける為に、山道の運転で集中していると分かっていながらも、リズベットは運転手に声をかけてしまう。だが、彼は気楽そうに喉を鳴らして笑うと応じた。

 

「さぁ? 印象は皆様次第でしょうね。ですが、私からすれば良き故郷そのものです。水も空気も極上。ですが、都会のように娯楽が多いわけではありませんので、篠崎様のようなお若い方には退屈かと。ああ、ですが温泉はなかなかの名湯です。入浴は健康と美容と長寿の秘訣。篠崎様も是非ともご利用くださいませ。運がよろしければ、猪の殿方と混浴などできるかもしれませんよ?」

 

 饒舌に語らう運転手に、これは情報源として有用かもしれないとリズベットは認識を改める。光輝について理解するには、その故郷に足を運び、親族と接するのが最も手っ取り早いのであるが、事前情報の有無で動き方が大きく異なる。

 何よりも笹倉教授の末路がリズベットの頭から離れない。悪夢を見る度に、脳髄を駆け回る蜘蛛の足音が消えないのだ。

 

「ところで、この赤紐は何? ヤツメ様の赤糸って聞いたんだけど。お守りの類?」

 

「ええ、仰る通りです。その紐は少々素材が特殊でしてね、様々な薬草を似て作った秘薬で煮込んであります。いわゆる獣除け、虫除け、魔除け。秘薬も本来は狩人の香として九塚村の珍品として扱われていました」

 

「へぇ、お香の原液が……。あ、確かに薄っすらと香るかも」

 

「ふふふ。それは篠崎様の汗と香水が混じったからでしょうね。狩人の香は周囲のニオイと『混じる』ように作られています。狩りの基本は気取られない事。そして、獣相手に最優先で隠すべきはニオイ。狩人の香とは周囲のニオイと混じり、使用者のニオイを隠すのです。とはいえ、一般の方が使われても自身の体臭が混ざってしまいますので、狩人の専用品でございます」

 

 あ、汗と香水。言葉を選ばない運転手の説明に、鮮やかな赤の紐に、女の努力の香水と夏の日差しの結晶である汗が混じってこのリラックスできる甘い香りを作っていると思うと、少々以上に気分がよろしくない。しかし、そもそも香水とは体臭と混ざり合う事を想定している。

 体臭が人種によって異なるのは常識であるが、意外な程に認知されていないのは香水とは汗のニオイと『混ざる』ことを想定の下で開発されている事だ。強いニオイで隠す香水は三流。真の一流の香水とは、自身の体臭とブレンドさせて周囲を魅惑する香りを醸すものなのである。

 だが、お香の原点は体臭を『隠す』ことにある。この矛盾の解消こそが、お香や香水の歴史の編纂……『美』を追究し続けた人々の英知と言えるだろう。

 

「特産品なんだ。なーにがつまらない田舎よ。こんな面白いもの、村興しに丁度良いじゃない」

 

「どうやら篠崎様は1発ネタでブレイクする芸人がお好きのようですね。ですが、それは狩り道具。篠崎様のお考えになるような村興しには適さぬものでしょう」

 

「そう、残念。ところで、ヤツメ様って神様の名前? もしかして狩人の守り神か何か?」

 

 なるべく周囲に聞こえないように声のトーンを落としながら、リズベットは1歩踏み込んだ質問をする。だが、運転手の態度も雰囲気も変わった様子はない。そこに若干の拍子抜け……いや、不気味さを感じずにはいられない。

 まるで『想定』していたかのように、大きなSの字カーブをゆっくりと丁寧に曲がっていく運転手は、右手だけで運転しながら左手で帽子を被り直す。

 

「間違いではございません。ですが、篠崎様がイメージされる神とは語弊がありますね。我らにとってヤツメ様とは祀り、討ち、狩り、鎮め、そして奉じる存在なのです」

 

「つまり『畏れて鎮める』……古き日本の神々ってわけね」

 

「……言葉ではご説明するのは難しいので、その認識で『今は』問題ないでしょう。故に篠崎様、十分にご注意くださいませ。ヤツメ様の赤糸は、ヤツメ様に『外嫁』であると示す証。そして、他の狩人たちに『お手付き』……要は『自分の女だ』という警告でございます」

 

「はぁ!? ちょ、つまり、この赤糸って……!」

 

「最近の流行りで申し上げますならば、婚約指輪の概念に近しいかと」

 

 馬鹿光輝さんの大馬鹿! 顔を真っ赤にして赤糸を外そうとしたリズベットであるが、須和と光輝の忠告を思い出し、これも何か意味があるはずと渋々諦めてそのままにしておく。そして、改めてバスを見回せば、色黒の青年が連れる女性の左手首にも同様の赤糸が、そして翼の右手には白糸が結んである。

 

「男は白糸なの?」

 

「ええ。ですが、赤糸とは違い、ヤツメ様への『お許し』を請うという意味が強いですね。『外嫁』とは違い、『外婿』に子は産めません。そして、男は狩人であらねばならない。ですが、『外婿』は狩人にはなれません。故にヤツメ様に狩人であらずとも狩人の『父』として血に列する『お許し』をもらうのです」

 

 なるほど、と納得した素振りを見せるリズベットであるが、脳内は大混乱を引き起こしていた。

 ヤツメ様の情報を聞き出すはずが、運転手が再三に亘って口にしているのは狩人という単語だ。

 狩人と言えば、獣を狩って生計を立てる者。古き時代より続く由緒正しき職業である。人類は狩猟民族であり、やがて定着する農耕民族などにも分かれもするが、祖先は必ず狩りを生業とした……いや、それを唯一無二の生存手段としていたのだ。

 だが、運転手の言う狩人とは、本当にリズベットがイメージする『狩人』なのだろうか。間違いなく乖離があるはずだ。

 

「全然知らなかったわ。そういえば、猪と混浴なんて吃驚したけど、いわゆる狩人ジョークなの?」

 

「篠崎様は鋭い……と言いたいところですが、私は狩人ではございません。ヤツメ様の小間使い。ただの運転手でございます。それに、九塚村の狩人が狩るのは獣ばかりではありません。その昔は『神』や『鬼』を狩ることを専売としていました。それに、一言で獣と申し上げましても、獣とは多くの『意味』を持つものです」

 

「それってどういう……」

 

「良く言うだろう? 道徳を持たない乱暴者や無法者を『獣みたい』ってね。つまり、九塚村の狩人たちは蛮人や盗賊を狩っていた、今で言う傭兵だったってわけさ」

 

 と、そこにいきなり話に割って入ってきたのは、迷彩柄のジャケットを着た男だ。人懐っこそうな顔をした、他人の警戒心を解く天性の才覚を持っていそうな男に、リズベットは思わずそういう事かと頷いてしまう。

 

「なかなか面白そうな話をしていたもんでね。私は地獄耳で、本当は聞こえないフリをしていようと思ったんだけど、どうしても好奇心を抑えられなくて」

 

「えーと」

 

「あ、レディに挨拶無しは無礼千万かな? 私はミステリーハンターの【隅木 譲司】だ。親愛を込めてジョーと呼んでくれて結構だよ」

 

 フレンドリーに握手を交わしてきたジョーのペースに巻き込まれたリズベットは、渡された名刺を拝見する。確かに職業名はミステリーハンターのようだが、小さく『自称』という彼の嘘が吐けない性格を表すような注釈がある。

 

「私が思うに、九塚村の狩人たちは時の権力者に雇われて、様々な『狩り』をする傭兵集団だったんじゃないかな? 戦国時代では珍しくないよ。ほら、たとえば伊賀とか甲賀とか忍者では有名だけど、彼らも傭兵みたいなものだからね。もしかしたら、九塚村もそうした忍軍の生き残りって奴なのかもね。それに今と違って、昔は獣害や虫害も死や年貢に直接関わったんだ。狩人達がそうした災害への対処のプロだったとも捉えられる」

 

「へー。忍者が傭兵かぁ。言われてみれば確かに」

 

 納得するリズベットに、運転手は少しだけ苦笑する。ようやく連続カーブ域を抜けたのだろう。再び、木々に囲まれた天然のトンネルに戻る。

 

「でも、私が気になるのは『獣』を狩るところじゃなくて、『神』や『鬼』を狩るってところかな? どうにもイメージがつかない。運転手さん、そこはどうなんだい?」

 

「いえいえ、私は運転手。郷土史の専門家ではございませんので。伝承の通り以上は何とも申し上げられません。ジョー様がお気になるならば、九塚村で『ゆっくり』とお調べになるのがよろしいかと」

 

「そこを1つ! どうかお頼み申す!」

 

「仕方ありませんね。では、1つだけ。篠崎様もジョー様も現在の痩せた価値観、現在という文明と法律が発達した肥えた視点をお持ちです。古き時代において、神とは、鬼とは、何だったのかとご想像ください。そうすれば、答えの『1つ』にたどり着きます。ですが、時として真実は奇々怪々。人理の外側にあるものかもしれませんが。そこはミステリーハンター様の腕の見せ所。仮にも『狩人』と名乗られるならば、私にはお手並み拝見以上は申し上げられません」

 

 含みたっぷりの言い方で区切った運転手は『間もなく九塚村です』と話を打ち切る。

 

「ふーむ、九塚村。一筋縄ではいかなそうだな」

 

「ジョーさんは取材か何かで訪問を?」

 

「ん? まぁ、そんなところさ。今まで世界各地を回ってたんだけど、日本にもまだまだ謎が溢れていると思ったもんでね。すこーしばかりディープに調べていたら、『ヤツメ』っていう神様と狩人の伝承に行き着いたのさ」

 

 途端にバスの気温が氷点下まで急落したかのように、リズベットは体を震わせる。

 それはこれまでの危機の中で幾度となく経験した殺気。だが、それはリズベットに向けられたものではなく、常に隣で守ってくれた光輝から放出されていたものと同質のものだ。まるで全身を蜘蛛の糸で縛り付けられたような、息が詰まる、呼吸できなくなる殺意である。

 

「訂正しなさい」

 

 タン、という重々しい足音を立てたのは、先程まで他の乗客に迷惑にならない程度の小声で翼と楽しげに談話していた静だ。その赤みがかかった黒の瞳は、無機質と思えるまでに冷たい。同じく、色黒の青年も黙ってこそいるが、その双眸は今にも血走って火を吹き出しそうだ。

 

「え、えーと」

 

「2度はありません。訂正しなさい」

 

 ジョーの傍まで歩み寄った静は座る彼を見下ろしながら、酷く感情を殺した声で命じる。何を訂正すべきなのか考える素振りの様子のジョーに、呆れかえったように静は目を細めた。それは汚物を見るかのような蔑みだ。

 ハッとしたように、ジョーは両手を振って弁解のチャンスを求める。それに応じるように静は唇を真一文字にした。

 

「大変申し訳ない。ヤツメ『様』だ。私が悪かったよ」

 

 訂正を入れた途端に、静は満足したように微笑んで頷いた。これを激写して芸能事務所に持ち込めば、10年に1度の人材だとスカウトが殺到するような美麗の微笑みである。

 席に戻った静を見送ったジョーは、焦ったとばかりに額の汗を拭った。

 

「私としたことが。ちょっと浮かれていたみたいだね。ヤツメ『様』は九塚村の宗教そのものだったようだ。それを呼び捨てするなど、世が世ならば不敬で斬首だったかもしれない」

 

「大げさな」

 

「そんな事はない! 日本ではあまり実感が無いかもしれないだろうけど、海外では今も宗教とは大きなパワーを持っているんだ。現に宗教関係のテロの多さは周知の事実だろう? 私が今したことは、いうなれば聖書の焚書やイスラム教での偶像崇拝と同じさ」

 

 九死に一生を得たようなアクションを取るジョーは、少し落ち着こうと言い残して自分の席に戻る。

 リズベットも海外を飛び回った関係上、宗教が絡んだ場合の厄介さは嫌でも痛感した。だが、幾ら山奥の僻地とはいえ、現代日本においてそんな事が……と思いつつも、笹倉教授の最期がフラッシュバックして喉が痙攣する。

 あたしも少し落ち着こう。まるで夜のように暗い森ばかりが映る窓の外を眺め、呼吸を整える。SAOと同じくらいに、笹倉教授の凄惨な末路……内側から溢れ出た蜘蛛たちの足音は消えないのだ。

 濃い闇を秘めた森は、日本人が森林浴で闊歩するような類とは異なる異質さを持つ。

 蔦が絡まった古木や自然に侵食された祠が幾つも映ったかと思えば、茂みより鹿が、猪が、熊が、獣がこちらをジッと見つめているかのような気配が満ちる。

 

「え?」

 

 何かが揺れている。リズベットはゆっくりと過ぎ去っていく窓の外の風景に一瞬だけ映った『何か』に目を擦った。

 だが、見間違いなどではない。リズベットが目撃したのは、腐った荒縄で首を吊った死体である。

 

「ひゃあああああああああああああああ! お兄ちゃあああああああああああああああああん!」

 

 リズベットが辛うじて衝撃に耐えられたのは、美桜の悲鳴とこれまでの経験でついた死体耐性のお陰である。だが、高校生探偵の妹とはいえ普通の中学生である美桜には衝撃が強過ぎたのだろう。泣き叫んで兄の懐に飛び込む。

 

「運転手さん、バスを止めてください! 首吊り死体が!」

 

 事態を察した翼の対応は早い。伊達に多くの難事件、もとい多種多様な死体と遭遇していないわけではないのだろう。死体を目撃したのに冷静さを失わないのは、もはや日本の高校生の域を超えた精神である。

 だが、美桜の悲鳴を聞いても、翼の伝達を耳にしても、運転手は停車させるどころか、むしろリラックスした様子でクツクツと喉を鳴らして笑った。

 

「あれは首吊り死体ではありません。まぁ、この辺りは森も深いですので『消えたい』と望まれる自殺者も後を絶えませんが、車道の傍で吊るような御方はいませんよ。あれは『吊り贄』でございます。坂上様もモズの早贄をご存知でしょう? あれと似たようなもの。よくよくご覧くださいませ。ただの人形でございます」

 

 スピードを落とした運転手がバスガイドのように説明しながら、窓の外で揺れる新たな首吊り死体……もとい、首吊り人形を指し示す。確かに言われた通り、よくよく見れば人形である。藁人形に獣皮を縫い付けた類なのだろう。森の闇と先入観に騙されて、本物の死体と見間違ってしまったのだ。

 

「恐らく子どもの悪戯でしょう。困ったものです。この時期になるといるのですよ。皆様のような旅行客を驚かせたがる子が。いやはや『本当に誰なんでしょう』ねぇ……」

 

 心底楽しそうに運転手はアクセルを踏む。再びスピードに乗って流れ出す風景を、リズベットにはもう直視する勇気はなかった。

 

「ご、ごめんなさい、翼くん! 美桜ちゃんも泣き止んで!」

 

 泣きじゃくる美桜を慰める翼に、先程のジョーを見下ろしたのとは同一人物とは思えないほどに、静は慌てふためいている。色黒の青年は傍らの女性を引き寄せて2人の世界。最後部座席の大学生たちは興奮した様子で携帯端末で吊り贄を撮影していた。

 

「あれ、アップできてねぇ。おい、運転手さん! 電波が悪いんだけど!」

 

 大学生の1人が写真を早速ネットに上げようとしたのだろう。不満を漏らすと、運転手はヒラヒラと左手を振った。

 

「大変申し訳ありません。基地局の関係上、九塚村は携帯電話をはじめとしたあらゆる通信機器は大きく制限されています。九塚村にはインターネット回線も1部を除いて引かれていませんので、滞在中のご利用は不可能かと」

 

「おいおいマジかよぉ。さすが田舎だな!」

 

 下品に笑う男に、隣の恋人らしき女は肩を小突いて諫める。一貫して無言を貫く切れ長の目の女性は彼らを馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 そうしてトンネルを1つ、2つ、3つ、4つと潜っていく。先の見えない暗闇の捩じれたようなトンネルは、まるで異界と現実に通じさせる穴のようだ。トンネル内は湿っているのか、バスのライトが照らし出すのは湿った凹凸ある地面と水溜まりである。そして、トンネルの外壁にはまるで地蔵のようなものが彫り込まれ、天井には錆び付いた灯篭が垂れ下げられている。それは年代ものであり、10年や20年前ではなく、このトンネルは100年単位の代物であるとリズベットは直感した。

 興奮した様子のジョーはカメラのシャッターを切りたそうだが、近くの席にいる翼に睨まれて自重する。

 時間間隔が薄れるような光と闇の連鎖。その果てにリズベットは開けた空間を目にする。

 

「ようこそ、九塚村に」

 

 まず目に広がったのは青々とした畑と水田。民家。家畜小屋。そして四方八方を囲む山々だ。盆地なのだろう事は容易に想像がつく。そうした畑と水田と酪農地域を進むと、やがて村の中心部だろう、想像とは異なる風景が待っていた。

 それは純和風……いや、和風『チック』という表現が適切だろう、小奇麗な街並みだった。鮮やかな石を埋め込んで整備された歩道、漆塗りのような気品ある灯篭を模した街灯。現代風の建物はなく、街並みそのものが文化遺産として登録されていないのが不可思議な程だ。

 これにはバスに乗車していた大学生たちも、ジョーも、坂上兄妹も、切れ長の目の女も、リズベットも息を呑む。これが本当に『田舎』なのかと思いたくなるほどの、まるで仮想世界に入り込んだような美しさだ。

 

「えー、九塚村中央。九塚村中央。次は社大道前。次は社大道前。皆様はここでお降りになられるのがよろしいかと。次は九塚村の北方。ヤツメ様の社を祀ります、ヤツメ様の森に続く最後のバス停でございます。そこで下車されますと大変不便ですので、ここでお降りになることをお勧めします」

 

 運転手のアドバイスに従い、まずは5人の大学生が、次に切れ長の目の女性が、色黒の青年と女性が、ジョーが、坂上兄妹と静が、最後にリズベットが下車する。

 

「ああ、篠崎様。御忠告申し上げます」

 

 だが、リズベットが降りる直前に、運転手は帽子の鍔を握って深く被ると、厳かに、だがまるで悪魔が沼の深みに誘うように立ち止まらせる。

 

「我ら血によって人となり、人を超え、人を失う。知らぬ者よ――」

 

 まるで祈るように、呪うように、運転手は『それ』を見せつけてきた。

 

 

 

「――かねて血を恐れたまえ」

 

 

 

 それは、まるで獲物の血が滴る肉を早く堪能したくて我慢ならないような、白い歯を見せつけるように口元を歪ませた、運転手の狂貌。

 

「神子様不在の九塚村。何が起こるか分かりません。狩人達は大祭を前に殺気立っている。私はヤツメ様の小間使い。神子様の下僕。あなた様は血の揺り籠になるやもしれぬ、貴種の血筋に連なる外嫁候補。故に神子様の下僕としてお教えしましょう。ヤツメ様は人の肝に飢えております。血に乾いております。もしも巡り合えばそれが終わり。ですが、ヤツメ様は甘いものに目がございません。もしも傍に狩人がいらっしゃらない時に出会われましたら、菓子をお渡しして、平身低頭にお鎮まりになるように祈りなさい。そうすれば、ヤツメ様は気まぐれを起こしてくれるかもしれません」

 

 餞別のように運転手がポケットを漁って投げ渡したのは絹の小袋だ。紐を解いて中身を見れば、鮮やかな金平糖が詰まっている。

 運転手は体を捩じらせ、リズベットを舌なめずりするように笑う。大きく開かれた目はまるで暗闇を映し込んでいるようだった。

 

「えー、次は社大道前。次は社大道前。お乗りの方はお急ぎくださいませ」

 

 自動ドアを閉ざし、黒い排気ガスを吐き出しながらボロボロのバスはテールランプを光らせて去っていく。トランクを引き摺りながら、リズベットは運転手の狂ったような笑みを思い出して身震いしながらポケットに金平糖を押し込んだ。

 

「うわー、おにぃ! 見て見て! 錦鯉! 錦鯉が水路で泳いでる! あっちにはデカい亀がいるよ! 蓮もめっちゃキレイ!」

 

「こら、恥ずかしいから騒ぐなよ! ごめん、生徒会長」

 

「謝らないで。故郷を褒められて嬉しくない人はいないわ。どう、美桜ちゃん。九塚村は気に入ったかな?」

 

「……ま、まぁ?『おにぃと私』のひと夏の思い出には最高のロケーションなんじゃない? さすがは近所でも評判の美人生徒会長のホームグラウンドね! でも、やっぱり娯楽が――」

 

「ちなみに、あそこの角にはこの村唯一の甘味処があるんだけど、メニューはこんな感じよ?」

 

 まず見かけることはない、凝った和綴じの冊子を静が手渡すと美桜の目がスイーツで埋め尽くされる。もはや勝負になっていない。完全に弱点を看破され、篭絡間近である。涎ダラダラの美桜は、大好きお兄ちゃんを守る為という意地を見せつけるように、袖で口元を拭って踏み止まった。

 

「ふ、フン! や、ややややや、やるじゃない! でも、私を舐めてもらったら困るわ! 生まれて12年! おにぃの貞操を守り続けたこの美桜様にはちょっとばかしパワー不足だったようね!」

 

 子犬が可愛らしく咆えている様を微笑ましく見守るように、静はクスクスと笑った。その姿は既に獲物を巣に捕らえた蜘蛛のような余裕すらもある。

 5人の大学生たちは九塚村を闊歩し、切れ長の目の女性は足早に消える。色黒の青年は女性を伴って早々にバス停から離れた。ジョーだけは美桜並みに興奮して水路を激写し続けている。

 光輝の指示によれば、バス停で待っていれば誰かしらが迎えに来るというアバウトなものだったが、誰もリズベットに近寄ってくる者はいない。

 トランク1つでバス停にて待ち人も悪くない選択肢であるが、このまま1人残されるのは不安が大きい。どうしたものかとリズベットが悩んでいると、見かねた様子の静が歩み寄った。

 

「えと、篠崎さんでよろしかったですよね? 私は紫藤静。その赤糸、本家の外嫁候補とお見受けいたしました。いかがでしょう? そのご様子だと待ち人のようですが、時は有限。これから私は翼くんたちに村の案内をするつもりなのですが、ご一緒なさいませんか?」

 

「悪いわよ。見ず知らずのあなたにそんな真似させるなんて」

 

「いえいえ。お気になさらずに」

 

「その申し出、私も同行して良いかな! いやぁ、やっぱり現地人のガイドはフィールドワークに欠かせないからね!」

 

 そこに一切の遠慮なく絡んできたジョーに、静は少しだけ眉を顰めたが、すぐに取り繕って笑む。バスであれだけの修羅場を演じたのに、この男の胆力は何処から搾り出されているのだろうかとリズベットは呆れた。

 静は左右を見回すと、丁度通りかかった軽トラックに手を挙げる。すると慌てた様子で、首にタオルをかけた30代前半だろう男が飛び降りた。

 

「これは静様!」

 

「この荷物を館まで運んでおいてもらえるかしら?」

 

「もちろん! いやぁ、静様もすっかり美人になられて。紫藤と言えば光莉様を生んだ名家! いや、名血! やはり血筋ですな! 静様も光莉様に似てお美しい!」

 

「分家とはいえ、久藤の血筋に『美』を問うのは門外漢と見られて必然。過ぎた世辞は不要よ。それよりも荷物はよろしくね。粗相のないように」

 

「もちろん! 愛するトマトと同じように、真心込めて、傷1つ付けずにお届けします! そらよっと!」

 

 ポカンと口を開いたまま硬直する4人を尻目に、静は男に荷物を次々と荷台に積ませて送り出す。無手になった事で動きやすくなったが、自分の荷物の行く先は何処なのだろうかとリズベットはおずおずと尋ねようとする。

 

「安心してください。あれは狩人の小間使い。館に迷うことなく届けるでしょう。特に今は大祭前。各地より血縁と来客で溢れています。隅木さんも、どうせ本日の宿には心当たりがないのでしょう? あとで旅館の手配を致しますので、お荷物もそちらに」

 

「それはありがたい! 何せ九塚村については何も調べられなかったものでね! しかし、まさか旅館があるとはね。それに見たところ、村といっても結構栄えてるみたいだし、想像とちょっと……いいや、かなり違うかな」

 

 確かにジョーの言う通りだった。閉鎖的な村だとばかり思っていたリズベットであるが、旅館まであるならば、外部からの訪問者も一定数以上いるという事である。今まで培ったイメージとは異なる。

 だが、瞬間に静は薄く鋭利に笑う。いや、嗤う。それは蜘蛛の巣にかかった獲物を嘲笑するような、捕食者の微笑だった。

 

「ええ。祭りなどには外来の方も多く来られますし、こちらに家を持たぬ者も相応にいますので。特に大祭前となれば、帰郷しました板前たちも予行に腕を振るうはず。お安いお値段で極上の料理、お酒、それに温泉もお楽しみになれますよ。ですが、隅木さん」

 

「ジョーで頼む! 親しい連中もそうでない奴らもそう呼ぶ!」

 

「そ、そうですか。ではジョーさん。1つだけ御忠告申し上げます。九塚村で見聞きした一切は他言無用。そのカメラの中身も宿で楽しまれた後は処分されるとよろしいかと。これは翼くんと美桜ちゃんにもお願いよ。お土産はあとで渡すわ。だけど、絶対に学校の友人には話しちゃ駄目。家族にもよ」

 

 それを破ったらどうなる? リズベットはそう口を挟むことは出来なかった。それは九塚村の絶対なる不文律のように、あるいは掟を破った者はその時点で終わりだと告げるような有無を言わさぬ強制力を含んでいた。

 

「へぇ、でも本当に奇麗な所よね。テレビの取材が入ったら、それこそ日本中から観光客が来るでしょうに」

 

 風情ある小道には黒猫が歩み、意図的に入り組ませて自動車が入り辛くなくなった道路は鮮やかな石を埋め込んで目を楽しませる。街路樹の柳や銀杏は街並みの風景と一体化している。

 だが、不可思議と思えるのは、これだけ美しく整えられているのに、何処の門戸の陰にも蜘蛛の巣が張られているのだ。それが美しい景観に汚点をつけている。そのはずなのに、蜘蛛の巣すらも1つのパーツのように丁重に扱われている。いや、蜘蛛の巣無しでは完成しないと主張しているかのようだ。

 

「普段はどれくらい人がいるの?」

 

「そんなに多くありません。本家分家小間使い問わずに、幼少はこの村で育つのが通例。私もこの村で生まれました。ですが、村の外に仕事を持つ者が過半ですので、今では一概に言えない部分もありますが。それに出退勤には時間がかかりますが、隣の塚守町に職場を持つ者もいますので、村暮らしの者も相応数いますよ」

 

 リズベットの質問に丁寧に答える静は大人びているが、熱が籠った視線でチラチラと翼を見ている。観光案内とはいえ、それは口実。本命は彼との距離を縮める為だろうとリズベットの脳内アスナが見抜く。なお、リズベット本人の乙女センサーはSAOにて大破しているので機能していない。

 女子力で圧倒的敗北。だけど、胸だけなら勝ってるか。ペターンという擬音が聞こえてきそうな静の胸に、脳内アスナが唯一の勝利点だねとリズベットを慰める。本当にこの亡霊はどうしてあたしの脳内に住み着いているのだろうかと、今度墓参りついでにお祓いしてもらおうかと真剣に悩む。

 

「紫藤さん、あれは何だい?」

 

 だが、リズベットが空気を読んだかと思えば、今度はジョーが出張る。静はどんよりとした眼差しでジョーを一瞬だけ睨んだが、すぐに笑みを繕うのは生粋のお嬢様力の成すところなのだろう。

 ジョーが指差した先にいるのは、和装に似た装束を着た女性たちの一団だ。いずれもかわいい系、奇麗系など様々であるが、天然美人ばかりである。彼女たちはまるで白無垢のような純白の衣に赤い曲線が描かれた装束に、透明感のあるベールのようなものを頭に被り、底が厚い漆塗りの下駄で歩んでいる。

 

「ああ、白依たちですね」

 

「シロエ?」

 

「簡単に言えば巫女です。『神の子』と書く神子様と区別してそう呼びます。起源は贄姫の世話係だったとか。私も不勉強ですので、古き頃までは……」

 

 一糸乱れぬ行列を作る白依たちは、腰に刀を差し、懐に扇子を忍ばせている。振袖は1歩の度に舞い、それは歩みそのものが洗練された舞踊のようだ。

 

「うわぁ、贄姫って漢字的に生贄って意味だよね? 怖いんですけど」

 

 頬を引き攣らせる美桜に、慌てた様子で静は翼に弁解するように首を横に振った。

 

「む、昔の話よ! 酷い戦を経て狩人達が減った頃に、ヤツメ様が山から下りられて、久藤の血は絶えかけたの! でも、当時の神子様はヤツメ様を鎮める為に、自身を贄として深殿にヤツメ様と『お戻り』になられる事を決めたの! それだけ! それだけよ! 伝承によれば、自らの喉を刀で裂き、白き衣を血染めにしてヤツメ様と深殿に戻られた事から、白依たちの衣の赤は贄姫の鎮めの血を意味するわけじゃないんだからね!」

 

 この娘、美人+家柄良しに加えてド天然と申しますか。脳内アスナも驚愕の属性連鎖による攻撃に、リズベットはよろめき、翼は頬をボリボリと掻いて明後日の方向を見て、ジョーは目を輝かせてメモ帳に書き込む。

 ハッとした様子の静は恥ずかしそうに顔を赤らめて、ゴホンと咳を挟んだ。

 

「その時の刀は今もヤツメ様の大社に安置されています。現在では贄姫といえば、神子様ではなくこの刀を示します。獣を狩り、人を啜り、仏を断ち、神すらも喰らう妖刀とされ、神子様のみの帯刀が許されています。幾度かの戦で折れたらしいのですが、その度に炉を経て打ち直され、数多の血を含んだその切れ味たるや正宗すらも嵩むと言われ、第二次大戦でも当時の神子様が鬼畜米英500人斬りを成したのですが、あまりにも荒唐無稽との事で公式記録から抹消され――」

 

「おにぃ、ガチの妖刀だよ! この村ヤバいって! 私のシックスセンスが叫んでるんだって!」

 

「お、おおおお、落ち着け、妹よ! こういう妖刀はだな、大抵の場合、凶器として使われて後々に犯人を追い詰める決定的証拠にだな! あ、生徒会長! 事件が起きた時には、その刀って警察に証拠品で提出できますか? できませんよね!? ですよねー!?」

 

「その贄姫と神子様の伝承を詳しく! むしろ神子様ご本人の口から色々と郷土史を含めて教えてもらいたいですねー!」

 

 この娘、もしかして墓穴を掘る天才なのではないだろうか。三者三様の反応に、静は対処の限界を超えたらしく、リズベットは年上らしく手を差し伸べるかと嘆息した。

 

「はいはい、3人とも困らせないの。ここはおねーさんの顔に免じて落ち着いて頂戴。それにジョーさん。運転手さんが言ってたけど、神子様は不在らしいわよ? お話を聞くのは無理ね。はい、論破!」

 

 そ、そんな! 全身でそう表現したジョーは項垂れる。静は感謝するように深く会釈したが、リズベットは気にしないで笑いかけた。

 どれだけ大人びていても高校生だ。対処の限界がある。何処かの真っ黒のように英雄様の称号を背負って先陣切ったり、その相棒として悪名高かった真っ白傭兵のようにサーチ&デストロイのジェノサイダーだったり、警察総出で厄除けの札を準備して応対する死神級の高校生探偵だったりとは違うのだ。

 その後は小学校、畑や水田、地元の男衆の憩いの地である酒場などを案内される。最後には美桜が待望した甘味処に寄り、リズベットはこんな味が埋もれたまま世に輩出されないのは人類への冒涜だと血涙を流しそうになった。

 別腹を膨らませた頃には、外もすっかり暮れた頃になると、行燈を持った人々が道を往来していた。灯篭型の街灯はほんのりと光を灯しているが、それは夜の世界を照らすには余りにも不十分だ。

 

「夜は獣の時間。狩人以外は火を絶やしてはなりません。翼くんも美桜ちゃんも私の傍から離れては駄目よ。ジョーさんはこのまま店でお待ちになってください。旅館には連絡してありますので、すぐに迎えが参ります」

 

「いたれり尽せりで申し訳ないね。このお礼は必ずしよう! ジョーさんの恩返しは3倍返しと好評だ」

 

「要りませんが、もしも叶うならば、お約束をどうかお守りください。秘密はとても甘いもの。故にそれを暴きたいのは人の性。だからこそ、愚かな好奇には恐ろしい死が必要とされます。篠崎様もすぐに迎えが参られるかと。ふふふ、殿方の迎えとは妬けてしまいますね。では館にてまた」

 

 そう言い残した静は坂上兄妹を伴って店を去る。それから数分と待たずしてジョーの迎えも到着し、彼もリズベットにお礼を言って出て行った。店内にはリズベットと従業員だけが残され、寂しさを紛らわす為にもう1品注文しようかという葛藤を抱える。

 

「ごめん、リズベットちゃん。お待たせ!」

 

 財布の紐を緩めかけた時に、ようやく光輝が息を切らして到着し、店主の舌打ちがひっそりと聞こえたような気がした。

 店の人に行燈を渡され、光輝は感謝を述べるとリズベットと共に薄暗い九塚村の屋外に出る。

 

「あのお婆ちゃん大丈夫だった?」

 

「軽い脳梗塞だってさ。右手に後遺症は残るだろうけど、命に別状はないよ」

 

「それって軽くないわよね?」

 

「あははは。それもそうだね。でも、命は繋がった。それが大事だよ」

 

 やっぱり光輝さんは不思議な人だ。リズベットは行燈の優しく仄かな光に頬の紅潮を隠す。

 確かに光輝は怖い部分がある。褒められたことではないが、それは特に殺人を余儀なくされる場面で強く表れる。

 まるで命をなんとも思っていないような、この九塚村にたどり着くまでに幾度か味わった、背筋を凍らせる死の気配。いや、それは正しくないのだろう。命をなんとも思っていないのではない。『人間』を特別な命として見ていない、ある種の残酷な平等さを秘めた眼差しだ。

 それは目の前の命を糧として見る捕食者の目だ。運転手の話を思い出し、それこそが狩人と呼ばれるものなのだろうかとリズベットは考える。だが、決してそれだけではない事も承知している。

 

「案外平気そうね。ゲロってるんじゃないかなって心配したのよ?」

 

「リズベットちゃんが待っていると思ったら、帰郷もご褒美になっただけさ」

 

「それはそうと、この赤糸! どういう意味よ!? 婚約を意味するなんて聞いてないわよ!?」

 

「……月が奇麗ですね!」

 

「そんな使い古された手法で誤魔化すな! 少女漫画じゃないんだから効果ゼロよ、ゼロ! むしろマイナス!」

 

 ああ、こんなやり取りが楽しくて仕方ない。リズベットは自然と歩みが軽くなる。静の言葉を思い出し、これも風習だからと、行燈の光に近づく為に光輝に寄り添う。

 

「でも、今回は大祭だ。よりにもよってタイミングが悪いんだよね」

 

「そうそう。その大祭って何よ? 静さんから聞くタイミング逃しちゃったじゃない」

 

「静って……ああ、分家の。よりによって最高にメンドクサイ女も帰ってきてるのか。まぁ、錫彦も嫁を連れて帰ってきたし、静も年頃だからそろそろとは思ってたけどさ。大祭っていうのはね、文字通りの大きなお祭りだよ。例年とは規模が違う。血縁者のほぼ全員が戻って来るし、そうでない外部の招待客も多い。そして、火に群がる蛾の数もね。しかも、大祭なのに神子が不在だ。あの糞いもう――じゃなくて、妹が代役を務めるらしいけど、深殿には立ち入れないし、現在進行形で大揉めしているらしいよ。糞ジジイも急な『仕事』でいないらしいし、大混乱万歳だね」

 

「とりあえず、色々と文句を並べ立てて、あたしに踏み入られせたくない事だけは理解したわ」

 

「さすがはお嫁さん」

 

「現相棒よ」

 

 なぁにをしている!? 今のはサラリと肯定して乙女力アピールするところでしょうが! 脳内アスナが獣になりそうな勢いで咆えまくっているが、これがリズベットの選んだ距離の縮め方だとお墓にお帰り願う。

 

「その妹も厄ネタでね。仕事が少々以上に目立つものだから、余計な連中を引き込んじゃったみたいなんだ。マスコミってのは限度を知らないからね」

 

「そういえば、バスにも大学生とか自称ミステリーハンターとか危険なニオイがプンプンする女とか、色々と乗ってたわよ」

 

「……それはいつもの事だよ。そう、いつもの事さ」

 

 何処か辛そうに月を見上げるのは気のせいではないのだろう。

 リズベットには、この九塚村がどうして光輝にとって忌み嫌う故郷なのか、実感できなかった。確かに色々と特殊な風習や宗教もあるようであるが、それは珍しさこそあれども、忌むべきものではない。

 吊り贄などの悪趣味な歓迎は心臓に悪く、運転手も駅員も不気味であるが、それは例外だ。甘味処の人々もリズベットには優しく接してくれたし、道行く人々も礼儀正しい。女性たちは気品を第一に心得ており、男たちは紳士だ。

 

「……狩人は礼節を重んじるべし。『命』と『人』への敬意を忘れることなかれ。我らの血に獣血あり。祖はヤツメ様。それは我らを『獣』に誘う血。我らは狩人。狩り、奪い、喰らう者。烏の狩人の血を継ぐ、千の年月を経ても曇らぬ神殺しの狩人の末裔なり」

 

 ふぅと一息を吐いた光輝が述べたのは、リズベットの心情を見抜いたかのような『警告』だった。

 

「僕は狩人が嫌いだった。ヤツメ様も好きになれなかった。どちらにも敬意は持っていたけど……ずっと逃げたいって思ってたんだ」

 

「だから思春期に暗黒時代の不良に? だからプレイボーイに?」

 

「いや、それは全くの別……と言いたいけど、半分以上当たりかな? 僕はさ、狩人なんて時代遅れの必要とされていない存在だって馬鹿にしていたし、ヤツメ様が何だっていうんだって目を背けてたんだ。それが間違いだって分かっていながら……ずっとね。僕がもっと久藤の……久遠の狩人として『お兄ちゃん』をやれていれば、弟を苦しませないで済んだかもしれない」

 

 DBO事件に巻き込まれた弟に思いを馳せる光輝の言葉に滲むのは後悔だ。

 

「狩人は必要とされない時代。それが現実さ。でも、僕の血は『そうじゃない』って嗤ってるんだ。もうすぐ狩人が必要とされる時代が来る。闘争の時代が来るってね。きっと、それの呼び水になるのは仮想世界だ。僕は逃げたい一心で狩人からもヤツメ様からも縁遠い世界に入り込んだのに、皮肉にもそここそに狩人が求められる時代が待っていたんだ」

 

「……あたしが知識不足って分かっていて言ってるでしょ?」

 

「もちろんだよ。リズベットちゃんの呆れ顔、最高に可愛いんだもん!」

 

 大事な話で茶化しやがって。リズベットは舌打ちを堪えて、でも光輝の本音を吐露させる程度には関係も変わったのだと満足する。以前の彼ならば、全てを隠したまま、何も語らずにヘラヘラ笑顔で誤魔化していただろう。こうして帰郷に伴うこともなかっただろう。

 

「でも、僕も逃げられない。大祭がある以上、糞ジジイは正式に僕を次期当主としてお披露目するだろうさ。母さんなんて張り切っちゃって、自前で僕の狩装束を準備しちゃってるらしいんだよ。真っ黒な装束で僕の好みじゃないんだけどね」

 

 真っ黒……『アイツ』みたいだなぁ。リズベットは振り払わないといけないと分かっていながらも、SAOで出会った【黒の剣士】を思い出す。

 そうして光輝が止めたのは、村の中央からやや外れた場所にある民家だ。静が館と言っていたので、どれ程の居に踏み入れるのかと覚悟していたリズベットは拍子抜けする。

 それを見抜いたらしい光輝は、申し訳なさそうに前髪をぐしゃりと掴んだ。

 

「母さんがね、その、リズベットちゃんの歓迎会をしたいって、珍しく駄々をこねてさ。糞いもう――妹もノリノリだから、どうしようもなくて。須和先生も説得してくれたんだけど」

 

「それで? 続けて?」

 

「ここは普段使いの家だよ。久藤の館は仰々し過ぎるからね。母さんはこっちの方が気に入っているんだ」

 

 行燈の火を消し、玄関の戸を開けた光輝は覚悟を促すようにリズベットを招いた。

 

 

「お帰りなさい、光輝。それに、あなたがリズベットちゃんね? まさか、こんな形で再会するなんて、これもヤツメ様の導きなのかしら?」

 

 

 玄関で待っていたのは、多く見積もっても20代後半にしか見えない、優しさと母性に溢れた柔和な笑みが印象的な美女だった。お淑やかなロングスカートと簡素なエプロン姿は、世の男性が渇望する若奥様の模範のようである。

 こ、これが光輝さんの妹! 確かに似てるわね! 光輝との幾つか顔のパーツが似ているのだが、彼はどちらかと言えば父親譲りの部分が多いのだろうとリズベットは判断する。だが、それ以上に衝撃的だったのは、リズベットに光輝と積極的に関わる決心をさせた機械音痴の女性が、他でもない光輝の妹だったことだ。

 

「あー、リズベットちゃん。誤解しているだろうから今の内に訂正しておくけど――」

 

「ふふふ。光輝の『母』の光莉です」

 

 頬に手をやって照れた様子の光莉に、リズベットは顎が外れそうになりながら、お土産の東○バナナはトランクに入れたままだったとダブルパンチで思考が吹っ飛ぶ。

 

「お母様ぁああああああああああああ!?」

 

「あらあら。気が早いわね。でも、『良い目』をしているわ。さすがは光輝ね。お母さん、絶対に光輝なら自力でお嫁さんを探してくるって信じてたわ」

 

「嘘つけ、外見年齢詐欺ババァ。はい、お土産。○京バナナ」

 

「もう、相変わらずの口の悪さね。狩人たる者、礼節を重んじるべし! まったく、あなたの悪い影響を受けて篝まで不良になっちゃったじゃない。お母さん、あの時ばかりは枯れるまで涙が止まらなかったわ。それと東京○ナナは止めなさいって言ったでしょう? ほら、リズベットちゃんも上がって。お料理はもう少し待ってね。お母さん奮発して大判振る舞いしちゃって、もう少しかかりそうなの」

 

 落ち着け、リズベット。落ち着け、篠崎里香! ちょっと外見が異常なくらいに若いだけじゃない! 光輝さんってもうすぐ三十路だから、最低でも50歳手前のはずだとか、そんな不条理を考えちゃ駄目よ! 必死に冷静を促す言葉を口内で反響させながら、リズベットは家屋に踏み入れる。古き良き日本住宅の風貌は、純和風の佇まいに、程よく洋の要素を取り入れてある。まさしく日本の神髄、和洋折衷。文化の吸収と昇華である。

 光莉に案内され、リビングに相当する食卓を囲む座敷に通される。だが、そこでリズベットを待っていたのは、月が落下してきたのではないかと思うほどの爆発的衝撃だった。

 

「おお、ヘタレ兄貴のお帰りねー! ようやく決心着いたの? かーくん! あなたのお兄ちゃんがついに狩人になるって覚悟を決めたわよー!」

 

「止めろ、糞妹。俺は狩人にならねーよ、糞ったれが。それと今のはどう聞いても篝が死んでるっぽさが滲んでただろーが! ざけんなよ! 訂正しとけ」

 

「かーくんが死ぬ? あははは! 無い無いって! それはヘタレ兄貴が1番分かってるじゃん。かーくんはヘタレ兄貴なんて及びもつかない、物心ついた時から爺様と私で英才教育を施した狩人よ? ヘタレとは出来が違うのよ、出来が! そ・れ・と、素が出てるぞ☆ 三つ子の魂百まで。私のフルコースで矯正しても、ちょっと突けばこの通り。メッキは簡単に剥がれ落ちちゃうんだから」

 

「だから大嫌いなんだよ、糞妹が! はい、紹介します、リズベットちゃん! こちらが僕の糞妹の灯! 説明は糞妹。以上!」

 

 食卓で寝転がっているのは、日本人で知らぬ者はいない……いや、世界でも認知度を高めている、先日にはつにグルジア出身の俳優との婚約を正式に発表した女優が寝転がって、ケタケタと笑いながら漫画を読んでいた。その恰好は猫がプリントされたサイズの合っていないTシャツと短パンという、普段の清楚と大和撫子かつオシャレガールという印象の銀幕世界とは真逆だ。だが、そんな恰好さえも華やかに見えてしまうのは、彼女の美貌、そして隠し通せない気品と優雅さが一挙一動、呼吸に至るまで滲み出ているからだろう。

 

「AKARIぃいいいいいいいいい!? どういう事よ!? なんで光輝さんの妹があの伝説女優なの!? どういう事なのよぉおおおおお!? というか、あたしとか、この人に失礼な真似を色々やらかしちゃってるんですけどぉおおおおお!?」

 

 光輝の襟首をつかんでガクガクと揺らすも、光輝は説明するのも面倒そうな目で一切視線を合わさない。そんな彼の様子に、呆れたように灯は食卓で頬杖をついた。

 

「リズちゃんは悪くないわよ? 屑兄は屑だからこそ屑兄なのよ」

 

「お前にだけは言われてくねーよ。大体、糞親父が珍しく困惑してたぞ! いきなり国際結婚ってどういうわけだ!?」

 

「爺様の了承は取ってあるもんねーだ。私のダーリンは爺様も笑顔で認める『合格』なのよ。そ・れ・よ・り・も! リズちゃんだったわよね? 前にも言ったけど、その芸名は事務所が勝手につけたものだから気に入ってないのよ。ほら、無駄に英語っぽい発音とかなんかウザくない? だから、私のことは『灯おねーちゃん』でOKよ」

 

 自分の隣に腰かけるにと、敷いた座布団を叩いて促した灯に、言葉を失ったままのリズベットは光輝に了承を求めるように視線を飛ばすも、彼は妹と2人でリズベットを挟むつもりなのだろう。自分の座布団を持ってくると腰を下ろした。

 歓迎はされているのだろうが、頭が状況を噛み砕けていない。病院で出会った外見年齢に著しく乖離がある女性が光輝の母親で、AKARIが妹!? 知らず知らずの間に親族2人に接触していたなど、巧妙に外堀を埋められていたかのような恐怖だ。

 桶に張られた氷水に浸してあるビール瓶を取り、栓抜きで開けた光輝は自分のグラスに注ごうとして、リズベットは慌てて奪い取る。普段ならば本人任せであるが、ここは女子力……もといアピールポイントだ。リズベットは『出来る嫁』とばかりに注ごうとするも、光輝のグラスは真っ白の泡だらけである。

 顔を青くするリズベットに、氷水からチューハイ2缶を取った灯は、お茶目の域を超えて、日本老若男性を皆殺しにする勢いのチャーミングなウインクを飛ばす。女のリズベットすらも心臓が高鳴ってしまう魔性だ。

 

「ぷぷぷ! 無理しちゃ駄目よ。自然体が1番。ここは自分の家だと思って寛いでね。はい、カンパーイ!」

 

「か、かんぱーい。ほら、光輝さんも、乾杯」

 

「……乾杯」

 

 灯に主導権を奪われ、やや膨れた様子の光輝に、リズベットは普段の余裕たっぷりの彼に見慣れているだけに、新鮮さと驚きで思わず頬が綻んでしまう。特にであるが、普段の紳士的な物言いとは違い、粗暴で荒っぽい口調が素なのだと改めて認識して吹き出しそうになる。

 空きっ腹にアルコールは危険と分かっていても、酒を欲しがる口と喉に負けてしまい、リズベットは喉を鳴らして半分ほど一気に飲んでしまう。その飲みっぷりに灯は拍手してはしゃいだ。

 

「そういえば、糞親父は? さすがに大祭なら帰ってるだろう?」

 

「知らない。仕事じゃない? どうなの、お母さん?」

 

 父親の話題が浮上した途端に、灯は笑顔を消す。光輝の声も冷え込んでいる。聞き及んではいたが、本当に息子娘に嫌われている父親のようである。家族観・夫婦間の諍いこそあっても、父親は不倫などの家族を裏切る真似はしたこともなく、またそこまで特別際立っていなかった父親を持つリズベットには、この兄妹の反応の裏に潜むものが何も見えなかった。

 

「ごめんなさいね。あの人は仕事が忙しいし、今年は大祭でしょう? 外部の訪問客も多いし、村の外で最終調整しているわ」

 

 食卓に鯉の活け造りと色鮮やかな刺身の盛り合わせ、胃袋に全力稼働を要求する香しいスキヤキ、そして銀色に輝く白米。御馳走が並べば、リズベットは涎で口内をべっとりと濡らしてしまう。

 

「さぁ、いただきましょう。糧となった『命』に感謝して。そして、リズベットちゃんを歓迎して」

 

 どんなに凍り付いた心でも溶かしてしまうような、母性に溢れた微笑み。それはこの2人に彼女の血が濃く受け継がれていると一目で分かる程に、リズベットの心にも浸み込んでいく。

 だからこそ、リズベットは『怖い』と感じた。

 きっと彼らはリズベットを『家族』として迎え入れてくれている。なのに、彼女にはその覚悟が出来上がっていない。他でもない『リズベット』と名乗り続けることこそが、彼らの親愛の情への裏切りだ。

 

「良いのよ。何も気にしなくて。光輝が選んだ。あなたも選んだ。後は時間の問題」

 

 だが、リズベットの箸が止まっているのを見て、いや、もっと別の『何か』を読み取ったかのように、光莉は茶碗にご飯を盛って渡す。

 

「あなたは受け入れる。たとえ、呪われていようとも、穢れていると罵られようとも、古き時代よりそうであったように、外嫁は誇り高く我らの血族に列することを選ぶ。私には『分かる』わ」

 

「母さん。リズベットちゃんにそういう話はまだ――」

 

「光輝は黙っていなさい。これは『久藤の女』の領域。あなたが口を挟むべき事柄ではありません。久藤の女とは血の揺り籠。それは外嫁とて例外ではありません。たとえ、もはや狩人は不要とされた時代だとしても……否、だからこそ我ら久藤の女には押し通さねばならない誇りがあります」

 

 やはり家族と言うべきか、春の日差しのように温かった光莉は、光輝とは比べ物にならない程に人間味が無い殺気を宿した蜘蛛の眼で睨む。これには息子の性か、口を閉ざした光輝は不満そうに睨み返すだけだ。

 

「ま、まぁ、お母さん! 折角のリズちゃんの歓迎会なんだし、楽しくいこう! ね? ほら、その為に堅苦しい館じゃなくて、こっちでお出迎えしたんだし!」

 

「それもそうね。ごめんね、リズベットちゃん」

 

 灯のフォローに、光莉は反省するように眉を垂らした。だが、一連の瞬間的な殺伐にこそ、リズベットは今まさに家族の団欒に迎え入れられている事自体が、彼らにとって大きな意味を持つのだと逆に思い知らされる。

 しかし、このまま引き摺っていたならば彼らに対して不誠実だ。リズベットは3人が止める暇もなく残りのチューハイを一気飲みする。アルコールたっぷりの息を漏らした、リズベットは刺身を盛り皿に取ると、擦り立てと香りで分かる山葵を醤油に混ざて口にする。

 

「くぅううう! 四方八方山で囲まれた陸の孤島で新鮮な海の幸! こんな贅沢、他にはありませんよね! それに、この牛肉の霜っぷりと厚さ! 光輝さん、これって絶対に100グラムであたしたちの給料が数割飛ぶわよ! それを7度半混ぜた新鮮な生卵でそっと冷やし……食べる! これぞ贅沢! これぞ満足!」

 

 脳内アスナがあわわわわと言葉を失う程の、女を捨てた喰いっぷりを披露するリズベットに、久藤の3人はポカンと口を開けたまま、それぞれ違った反応をやがて見せた。

 

「ふふふ、今日は無礼講ね。でも、『次』からは叱るからね?」

 

 物騒な物言いながらも、新しい牛肉をスキヤキ鍋に追加投入する光莉は穏やかだった。

 

「そういえばさ、全員揃ってないけど、こんな風に『家族』で食べるのって久しぶりだよね」

 

 しんみりしながら、戸が開けられた縁側から吹き込む夜風に目を細める灯は寂しげだった。

 

「……『血』なんて糞喰らえだ」

 

 まるで呪詛を吐き捨てるように、そんな自分が心底憎たらしいように、光輝はビールで口を閉ざして辛そうに目を閉ざした。

 だが、そんなのは一瞬の事だ。3人はリズベットに引っ張られるように、それぞれに笑みを作って食事を楽しみだす。

 リズベットは灯に芸能界の華やかさとそれ以上のドロドロっぷりを聞かされて耳を塞ぎたくなり、お酒が入って口が軽くなり始めた光莉は夫との惚気話を誰に訊かれるまでもなく語り出す。憮然としていた光輝も仕事の愚痴からリズベットへの口説きまで、いつもの通りに垂れ流す。

 

「ふふふ、それでは今日のデザートの登場ね。スイカとお母さんお手製創作シャーベットとどっちが――」

 

「「スイカで!」」

 

 この時ばかりは兄妹が以心伝心とばかりに共同戦線でリズベットを守るように先制し、光莉は無言の恐ろしい笑みで厨房に戻っていった。

 

「1つ長年の『被害者』として忠告するね。我が家で母さんに料理本以外の料理を作らせては駄目よ」

 

「そうそう。母さんはマニュアル通りに料理すればプロ級なんだけど、それ以外だとメシマズに変貌するから。あんなの文句を言わずに食べられるのは弟くらいだよ」

 

 そうして1玉を贅沢に4等分されたスイカを、せめて残された女子力でスプーンで掬いながら食したリズベットは、流れるように後片付けを始める光莉を手伝うべく席を立った。

 

「あたしも手伝います! 皿洗いは得意……というか、皿洗いくらいしか最近は上達していないですし」

 

 同棲してから料理をほぼ光輝に丸投げしてしまっているリズベットは、後悔と白状の下で光莉の横に並ぶ。古ぼけてはいるが、よくよく見れば台所の明かりは全てLEDに切り替えられているなど、細やかな所は惜しみなく技術の進歩を窺わせる。まるで古い様式を敢えて好み、その上で利便性を否定していない、心地よい温かみがある。

 

「夫はね、最初の結婚記念日に食器洗い機を買ってきたの。私は体が弱いから、あまり長く立ち仕事をさせたくないって」

 

「へぇ、素敵な旦那様ですね」

 

「ふふふ。その場でお隣さんにプレゼントしてやったわ」

 

「ふぁ!?」

 

「だってそうでしょう? 自分の手で作り、自分の手で片づける。その所作に意味がある。利便性は大事だけど、それに捕らわれて大切な物を蔑ろにしたくなかったの」

 

 価値観が違うとはこういう事を言うのだろう。光輝にも倫理観や生命観がリズベット……いや、他の人々と『ズレ』があると感じる場面はある。特に生命の危機が迫った時など、嫌でも感じ取ってしまう。文字通り、精神構造からして異なるのだと理解させられてしまう。

 光莉の場合は更にその深奥に立っているような気がした。天を貫くような峰を登り切っても、そこから先は雲の階段が続いているかのような、リズベットの足ではたどり着けない場所……文字通り生まれた時からの差異があるのだろう。

 だが、こうした小さな事柄ならば、リズベットにも歩み寄れる。理解できる。感じ取れる。それが嬉しくて、リズベットは酒で紅潮した頬を緩めた。

 

「あたしも何となくだけど分かります。『リズベット』って呼んでくれているから、分かっていると思うんですけど、あたしは数年間も仮想世界にいたんです。そこの食べ物は……料理は、現実とほとんど変わらなかったけど、何かが違ったんです。欲しい手間が存在しないっていうか、言葉には出来ないんですけど、違ったんです」

 

「言いたいことは分かるわ。きっと、私の想いも似ている。『人』はそれを敬意と呼ぶわ」

 

「敬意……そうかもしれません。でも、今の仮想世界ってすごいんですよ! 最新タイトルなんか、料理1つでも凝ってて、本物同然の作業が必要なんです! 光輝さんと仕事で1週間くらいログインしてたんですけど、ちょっと目を離したら焦げるし、塩加減もコンマ単位で調整しないといけないし、しかも時間を置いたらちゃんと冷えるし! そこまでリアルにする必要ないじゃないって叫んじゃったんですって!」

 

「あらあら。仮想世界も大変なのね。私は機械音痴で、須和くんに『あみゅすふぃあ』の使い方を教えてもらったんだけど、まるで駄目だったわ」

 

 談笑しながらだと時間も作業もあっという間である。洗い場は奇麗に片付き、タオルで皿を拭いて棚に戻していく。

 家族と別れてから、こんな温かな時間はすっかり忘れていた。喜びを隠さないリズベットに冷や水を浴びせるように視界を横切ったのは、黒く脂ぎった人類の敵だった。

 その名はイニシャルG。たとえ核戦争が起きようとも生存する種の1つとして睨まれている生物界における適応力の王者、ゴキブリである。

 だが、その実は家ゴキブリとは人類との共生生物であり、家に住み着くタイプは人間が生み出す『餌』に依存する。故に不本意な共栄の象徴である。野外種に比べて家ゴキブリは適応力が低いのだ。

 そう、だからこそゴキブリが住み着いているのは繁栄の証。リズベットはそう何度も自分に言い聞かせる。鳥肌が立ち、1枚数十万はするだろう、地味ながらも匠の作と分かる刺身皿を落とさなかったのは、彼女の全精神力の動員がGに勝った証拠である。

 

「ご、ゴキ、ゴゴゴゴゴ、ゴキブリ! アース○ェット! 光輝さん! アースジ○ット早く!」

 

「まぁ、ゴキブリね。本当に珍しいわ」

 

 慌てふためくリズベットとは対照的に、光莉はまるで無視するように棚へと皿を戻していく。リズベットの手からも刺身皿を取り上げると丁寧に片づけて戸を閉めた。そして、トンとまるで錫を鳴らすように踵を鳴らす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ、本当に『珍しい』。わざわざ『狩場』に迷い込むなんて……ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは一瞬という表現しかなかった。

 何処に潜んでいたのかも分からない無数のアシダカグモ。俗に『軍曹』という愛称で親しまれる、生粋のゴキブリハンター。それが1匹や2匹に止まらぬ数が、それこそ絨毯のようにゴキブリに押し寄せ、喰らい付き、千切り、貪り、肉を闇へと引きずり込んでいく。

 初めてリズベットはゴキブリの断末魔を聞いた。ゴキブリは鈴虫と同じように翅を使って鳴く。ならば、それが途切れるのはゴキブリの『解体』が順調に進んでいるという報告に他ならない。

 そして、リズベットは『それ』に気づくべきではなかった。よくよく見れば、それはアシダカグモではない。近しい種なのは違いないだろうが、体毛は黒く、顎はより大きい。毒を流し込むのではなく、顎の力で獲物の外皮を破壊する事に特化している。それらは何処となく笹倉の臓物を食い破って溢れた小蜘蛛と似ていた。

 ゴキブリは奇麗に『消える』。跡形もなく、存在した証拠すらもなく、肉片も体液も何も残さずに『消える』。蜘蛛たちは棚の後ろに、空き缶の影に、花瓶の裏に、これまでリズベットがまるで気づけなかった事を嘲笑うように、潜む。

 ふと、思い出したのは運転手が教えてくれた狩人の香だ。獲物を狩るならば、まずは悟られない事である。

 

 

 仮に。

 

 仮にあれだけの数の狂暴な蜘蛛に闇から人間が襲われたならば。 

 

 あの顎が皮膚に食い込んだならば。

 

 もしも猛毒を持っているならば。

 

 ゴキブリと同じように断末魔を喉から漏らす間に、その全身は蜘蛛に貪られ、生きたまま晩餐になることだろう。

 

 

 

「リズベットちゃんは『もちろん』ご存知よね? 蜘蛛は古来より益虫なの」

 

 何事も無かったように微笑む光莉は、まるで雷に怯える子どもをあやすように、リズベットの両肩をつかんだ。

 

「だから、絶対にこの村で蜘蛛を殺しちゃ駄目よ?」

 

 頷くリズベットが見たのは、光莉の黒髪に隠れた首筋に這う先程の黒い大蜘蛛。それは最初から彼女の衣服に潜んでいたかのように襟の奥へと消える。

 違う。見間違いに決まっている。リズベットは鼻歌を歌う光莉の後ろ姿を見つめる。あんな大蜘蛛が潜んでいるならば服が不自然に蠢くはずだ。だが、妻の見本のようなロングスカート姿の光莉の姿には何ら不自然さはない。

 

「お風呂の準備が出来ているわ。大きめのお風呂だし、2人入っても大丈夫だけど、混浴しちゃ駄目よ?」

 

「しません!」

 

「僕はいつでもOKだよ! むしろ、僕が風呂で待ってて――」

 

「1人で入る! 入らせて! お願い!」

 

 心と脳髄を齧る蜘蛛の足音をかき消すように、光莉は本気の表情と声音で告げ、酔って上擦っている声で光輝が応じる。リズベットは顔を真っ赤にして、灯に案内されてお風呂にたどり着く。確かに聞いていたとおり、風呂桶は広く、足も十分に伸ばせる。

 滞在は7日間だ。光輝曰く、大祭は祭りの開始を告げる『礼祭』、前夜祭に当たる『月前祭』、そして最も重要な『本祭』の3日間だ。本祭の翌日に帰る予定で日程を組んでくれていたらしく、リズベットは祭りが始まるまで十分に余裕がある。その間に、運転手お勧めの温泉に入りに行くのも悪くないだろう。

 

「ふひー。本当は飲んだ後にお風呂なんて駄目なんだけど、やっぱり気持ちいいわ~」

 

 電車とバス、そして村を歩き回った疲れを癒すのに、とんでもなく気が抜けた声が出て、リズベットは反省する。

 ぶくぶくと水面を息で泡立たせ、リズベットは先程の蜘蛛を忘れようとする。きっと、この村には蜘蛛の生息数が多過ぎるだけなのだ。風習で蜘蛛を殺さない。それだけだ。そう自分を言い聞かせる。

 風呂場から脱衣所に戻ると、灯か光莉が準備してくれたのか、質の良い浴衣が準備されていた。青地に赤の金魚が描かれたそれを着るのに時間がかかるも、何とか形を整えたリズベットは、一升瓶を抱えたまま眠る灯と仰向けのまま寝息を立てる光輝に薄毛布をかける光莉を見る。

 

「いつまで経っても、子どもは子どもよね」

 

「……親の前だから、何歳になっても子どもになれるんだと思います」

 

 リズベットの指摘に、少しだけ光莉は嬉しそうに吐息を漏らす。そして、家の電気を消すと縁側に腰かけるとリズベットを手招きした。

 冷夏とはいえ、夏真っ盛りの盆地のはずなのに、地球温暖化など微塵も影響を受けていないかのように九塚村は涼しい。いや、これが本来の夏の夜なのだろう。

 

「キサラギ・サイダーはいかが? この夏の新商品らしいけど、在庫が余り過ぎて理輝さんが持って帰ってきたの」

 

 そりゃキサラギ製のサイダーなんて誰も買いませんよ、とはリズベットも言えなかった。食料生産プラントを大々的に九州に作ったり、自社ブランド商品をいよいよ大手スーパーマーケットに卸したりと積極的なキサラギであるが、賢い日本国民がキサラギのロゴが入った飲食物を、たとえ保存食でも買うはずがない。医薬品がギリギリの妥協ラインだとする者もいるが、真なるキサラギ・ウォッチャーは警鐘を鳴らしている。

 

「あまりにも売れ行きが悪いから、今後は結城経由でレクトに飲食部門を作って売り出すらしいわ。私には商売事が分からないけど、これで売れるようになってくれれば良いんだけど。このサイダーもそうだけど、理輝さんったら重工部門に移っても、あっちにフラフラ、こっちにフラフラで好き勝手しているそうで、お義父さんをお喜びさせているらしいわ」

 

 逃げて! 日本国民全員逃げて! リズベットは夏の熱気とは質が異なる別の熱によって風呂上がりの体を汗で湿らせる。この恐ろしい真実が、どうか自分の口から暴露される前に、賢明なるキサラギ・ウォッチャーによって公表される事を祈る。

 しゅわしゅわのサイダーを恐る恐る飲みながら、リズベットは風鈴の音色と共に熱と酔いを冷ましていく。あれだけ飲んで食べて、これだけの満足感を得て、なおかつ夜風に浸れて月光浴とは、本当に贅沢である。

 

「大祭の頃は丁度満月ね。きっと素晴らしいお祭りになるわ。リズベットちゃんも期待していてね」

 

「えと、確か祭りの主役の神子様が不在なんですよね。大丈夫なんですか?」

 

「……神子とは、元々は久藤本家の当主筋の『資格』がある未婚の娘が担う習わしなの。灯は婚約しているとはいえ、神子の代役は十分よ」

 

 少しだけ切なそうに、辛そうに、光莉は僅かに欠けた月を見上げながら、まるで自身を責めるように呟く。

 

「神子とはヤツメ様を魂に『下ろす』者。久藤の歴史でも神子の過半は代行だった。神子とはヤツメ様の血が『濃すぎる』久藤の女が選ばれる。でも、当代は違う。私は……私は……『あの子』を神子にしたくなかった。久遠の狩人にもしたくなかった。ただ幸せになって欲しかった。狩人が必要とされない時代で、狩人として誇りを抱いたまま、ヤツメ様を微睡ませたまま、久藤の歴史に埋もれる狩人の1人として死んでほしかった」

 

 そっとリズベットの右手の甲に蜘蛛の足が這う。ビクリと震えるも、それが光莉の白く長い指だと気づき、次に月光を浸らせる夜の闇の中でも不思議な程に映える赤みがかかった黒の瞳に見つめられ、リズベットは生唾を飲む。

 

「リズベットちゃん、光輝の事を愛しているわね?」

 

「……はい」

 

「だったらお願い。何があっても見捨てないで。光輝の傍にいてあげて」

 

「ど、努力します。でも、あたしが相応しいかどうか……」

 

「ふふふ、大丈夫よ。私はね、篝ほどじゃないけど、鼻が利くの。リズベットちゃんは必ず私たちの家族になる。約束してあげる」

 

 約束するのに値するだろうか。リズベットはサイダーの炭酸に意識を溶かしながら、この九塚村で過ごすだろう日々を見つめる。

 きっと人生を変える7日間なのだろう。

 リズベットが『答え』を出さなければならない7日間なのだろう。

 だが、今はただ夜風に涼みたかった。『家族』の心地良さに浸りたかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「我ら血によって人となり、人を超え、人を失う。知らぬ者よ、かねて血を恐れたまえ」

 

「恐れなさい、篠崎さん。あなたが貴種の血に連なる外嫁ならば、恐れなければならない」

 

 夜の闇を2つの人影が闊歩する。

 1人は駅員の制服を着た男。まるで夜更けに庭掃除でも始めるように、鋭利に尖った鎌を手に山道を歩く。

 1人はバスの運転手の制服を着た男。まるで月下で狩猟でも始めるように、ショットガンの猟銃を手に山道を歩く。

 虫が這う足音と夜風で木の葉が擦れる演奏の中で、滴る水温は草木を濡らし、獣たちの慟哭は狩りの合図となる。

 それは古木に吊るされた2人の男女。まるで血の契約を結んだ番のように、互いの腸で首を絞めて吊り、目玉が無い双眸からは肉汁を含んだ血を零し、裸体で交わり合ったまま、その皮膚という皮膚は剥げ落ち、血溜まりを作っている。

 

「獣ですな」

 

「獣ですね」

 

「ヤツメ様の森で性交渉など破廉恥な」

 

「これが都会の獣というものでしょうな」

 

「いかにも」

 

「いかにも」

 

 頷き合った男たちは、夜の闇に蠢く『何か』に笑い合う。嗤い合う。笑い合う。

 

「この地には古来より死が集まる。自らの死に場所を求めて。あるいは人の世を呪うが故に」

 

「そうした死肉を喰らった獣は『人の味』を知る。甘美な血の味を覚える」

 

「故に吊り贄」

 

「故の吊り贄」

 

「人の味を知った獣を集め、効率的に狩る為に」

 

「人の味を知った獣を集め、確実に狩る為に」

 

 運転手は猟銃を杖のように振り回して踊り、駅員は鎌を1本、2本、3本と腰から抜いてジャグリングする。

 そうしている間にも獣たちの呻き声は大きくなる。血に誘われて集まっていく。

 

「いかがなさいます?」

 

「いかがなさいましょう?」

 

「私は狩人ではなく神子様の下僕」

 

「私も狩人ではなく神子様の下僕」

 

「獣を狩るのは」

 

「狩人の役目ならば」

 

「さぁ、貪りなさい」

 

「さぁ、喰らいなさい」

 

「血の味を知りなさい」

 

「血の味を覚えなさい」

 

「次なる『狩り』の為に」

 

「新たな『狩り』の為に」

 

 口笛を奏でて2人分の吊られた死体から男たちが離れれば、茂みから獣たちが溢れだし、その肉と臓物と骨に群がる。

 

「ところで、あなたがあの吊り贄を?」

 

「やはり、あなたがあの吊り贄を?」

 

「おやおや、では一体誰が?」

 

「ふむふむ、では一体誰が?」

 

「……招かれざる者のいつものこと。ヤツメ様のお導きですな」

 

「……招かれざる者のいつものこと。ヤツメ様のお導きですね」

 

 そうして、獣たちの歓喜の晩餐に指揮を執りながら、2人の男は闇に消える。

 三日月よりも鮮やかに歪んだ、腐肉よりも濁った、嘲笑と共に。




リズさん、SANチェック1回目成功。
なお、高校生探偵のいるところに事件は起きる。必ず起きる。


次回は再び仮想世界編です。
チームシャッフル後からスタートです。

それでは、257話でまた会いましょう。

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