SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ
メンタルブレイクの嵐、吹き荒れる。


DLCに一言コーナー
あの武器の戦技エンチャントが炎属性と知った時の絶望


Episode18-23 歩みの重み

『バフよりデバフの方が10倍以上多いとか製作者は馬鹿か!?』

 

 それは今もDBOで語り継がれる至高の名言であり、名も知れぬプレイヤーの腹の底から出した理不尽への唾棄だった。

 もはや一般常識のレベルであるが、DBOにおいてはデバフの方が圧倒的に数が多い。

 毒・麻痺・睡眠といった三大デバフから始まり、ダメージを受けて発生する欠損・出血、呪いと絡むことが定番の鈍足・失声・再生不可・肉体脆化・HP上限減少・スタミナ回復阻害・魔力回復阻害等々、属性攻撃によるデバフの代表である熱傷・感電・凍結。他にも食事を取らなければ飢餓、水を飲まなければ脱水、寒い土地にいれば寒冷などなど、もはや数えるのも嫌になる。アルヴヘイム限定ならば流血もある。

 対してバフといえば、攻撃力・防御力強化、オートヒーリング、各種ステータス増加、ドロップ率上昇、スタン耐性上昇……まぁ、考えてみればそこそこラインナップも揃っているのだが、パッとしないものばかりだ。しかもそんな効果に頼ったところでDBOでは死ぬ時は死ぬし。とはいえ、たとえばUNKNOWNの持つユニークスキル≪集気法≫は、自己バフやらスタミナ回復やらが出来る上に攻撃転用も可能とする十得ナイフみたいなものだが、やはり即時にバフをかけられる強みは規格外だ。とはいえ、あのユニークスキルはまだまだ底知れなさがあるので一概にこれが総評とも言えないが。

 ともかく、デバフの方が凶悪揃いなのがDBOである。だからといって、地道なバフによる強化を疎かにすべきでもない。そんなところだろう。

 

「これで2体目」

 

 オレは鈍い刃を引き抜き、呼吸の度に肺まで浸み込む冷気に辟易しながら、吹雪の壁の向こう側から現れる次なるアイスマンを睨む。

 ここは霜海山脈、シャロン村の西の外れにある山脈の入口から少し奥に進んだ場所だ。吹雪はランダム要素なのか、激しく吹雪いたかと思えば落ち着き、また荒れ狂う。突風は体勢を崩し、足下の雪はDEXに大きな下方修正をもたらし、凍える空気は容赦なく寒冷のデバフを蓄積させる。

 オレが装備しているのはシャロン村で仕入れた手斧と獣骨の槍、そして石槌だ。どちらも過多に見積もってもレベル10程度の装備であり、ステータスボーナスも低い。

 対して、吹雪から出現したアイスマン……その外観は氷に覆われた2メートル半の巨人であり、頭部には2つの小さな目玉と青い水晶の大きな目玉の3つ目である。氷の外皮を剥ぎ取れば、本体である白い体毛と隆々とした筋肉が現れる。

 アイスマンは氷を自在に操り、氷の棍棒、氷のランス、氷の特大剣などなどの近接武器を扱うだけではなく、氷の礫を射出したり、冷気のブレスを吐いたり、地表を凍てつかせて氷柱を発生させる範囲攻撃など、なかなかに多彩である。しかも1体1体がタフであり、アイスマンは足下の雪の影響を受けずに素早く動き回る。その強さはレベル80相当かそれ以上の90相当であろうとオレは見積もっている。

 DEX特化プレイヤー殺しだろう雪山のステージは、スピードの過半が殺される。かといって、大盾でガードしてもアイスマンのパワーは並ではなく、また回り込まれて盾のガードが無い背後から押し潰される。故に要求されるのは攻撃の見切りだ。最小限の動きで回避し、大振りの一撃に合わせて連撃を叩き込むかソードスキルの一撃で怯ませる。まぁ、パーティならば効果的な火炎属性を連発できる呪術師がいれば解決なのだろうが。

 アイスマンは氷の外皮を持つ関係上か、物理属性を大幅に減少させる。特に斬撃・刺突属性の減少率はバランス調整を疑うレベルなのだが、これにはカラクリがある。この氷の外皮は打撃属性に弱いのだ。打撃属性を与えれば与える程に砕ける。そして、アイスマンの生身にダメージを与えれるようになるのだ。そうすれば、面白い程に物理属性は通る。ただし、逆に生身の方が打撃属性に強いという後継者もにっこりな弱点変化のトラップもあるが。

 よって、オレの総評は『歯応えのある良モンスター』である。これがデスゲームでなければ、という注釈は必ず付くが、なかなかに面白く、的確な攻略法も弱点もあり、ストレートに強く、また多彩で戦ってて飽きない。普通のVRゲームならばベストデザイン賞とか貰えそうな気がする。

 アイスマンの氷のランスを紙一重で躱し、左手の石槌で殴る。いかに打撃属性に弱い氷の表皮といっても、レベル10程度のプレイヤーが装備する前提の石槌ではほとんど砕けず、またダメージも通らない。オレの素の膝蹴りの方がまだダメージが出るほどだ。仕方なく、肘打で追い打ちをかけ、怯ませたところに回し蹴りで破砕する。ダウンしたアイスマンにすかさず右手の獣骨の槍を突き刺そうとするも、雪を蹴って仲間の援軍に現れた2体のアイスマンに妨害される。

 囲まれたか。3体のアイスマンは、それぞれ氷のランス、氷の特大剣、氷のハンマーを持っている。いずれもリーチも攻撃力もある。低VITかつ決して防御力が高くないオレでは囲まれてボコられれば死ぬか。

 ヤツメ様は相変わらずのストライキ中で、凍てついた氷の木の枝に腰かけてオレの戦いを見下ろしている。故に今のオレに本能の業はない。また、オレは敢えてヤツメ様の導きを引き摺り出して、この窮地を脱しようとも思わない。

 ランスロットの強さ。その圧倒的な剣術、速度、多種多様な攻撃。決して折れぬ信念に裏打ちされた、幾多の死闘の経験に支えられた、絶対的な力。ランスロットと最後は辛うじて渡り合うことが出来たが、狩人の予測と致命的な精神負荷とヤツにとって初見だった死神の槍を合わせて、ようやくHPバー1本目を突破できるところだったのだ。あのまま戦闘続行すれば1本目は削り切れただろうが、2本目を超えられると確証はなく、3本目は考えるまでもない。

 アルトリウス戦を経て成長した本能の業。ヤツメ様の導きはランスロットを捉えていた。ならば、不足していたのはオレの狩人としての力。本能という無意識より得た情報を集積して予測に組み、自己で動く能力が足りなかった。要はオレの狩人としての未熟さが原因だ。

 課題は他にも幾つもある。まずはランスロットの剣技に相対する為には、今の狩人の動きを更に発展した力を身につけねばならない。ヤツの動きは『喰らった』。次は対応できるだろう。だが、それだけでは駄目だ。倒しきる為にはオレ自身が新たな武技を、戦技を、狩りを体得せねばならない。

 力の全てはオレの中にある。思い出せ。たとえ灼けていようとも、喰らった命たちより奪った力だけは決して消えることなく、オレの内側で血肉となっているはずだ。

 Nと蝕まれた竜狩りの槍捌きは見事なものだった。シャルルの圧倒的な武技の多彩さ。アルトリウスの剣技の奥深さ。忌々しいが、レギオンの戦い方すらも参考になる。

 アイスマンの礫の雨を潜り抜ける。導き無しではこんなにも回避が困難とは。だが、だからこそ、オレは楽しくて、愉しくて、嬉しくて、戦いと殺し合いの悦びを覚える。アイスマンの全力の、オレという獲物を倒す『狩り』。これもまた糧になるはずだ。

 この足下の雪も素晴らしい。DEXの大きな下方修正は無駄な動きを捨てさせ、新たな課題を浮き彫りにしてくれる。それはDEXで生み出された運動量……そのエネルギーロスの最小化だ。

 

『クゥリ君は他プレイヤーよりもステータス出力を引き出せるようだけど、そもそもステータス出力と仮想世界で発揮される運動量の関係を正しく理解しているかな?』

 

 偉大なるグリムロック先生の講義は唐突に、グリムロック工房改め黄金林檎工房で始まった。オレは改良された武器たちを受け取りに行っただけなのだが、彼はわざわざ黒板を引っ張り出し、教鞭で書かれた『ステータス出力と運動エネルギーの関係性』という文字を叩いた。

 呆れた様子のグリセルダさんは、出来損ないの生徒のように座らされたオレをチラリと見て、何事も無かったように珈琲を傾けて新聞を読んでいた。ヨルコ? 酔い潰れていたに決まっている。

 グリムロックが黒板に書いたのは、右上がりの曲線である。それをグリムロックは右手で大きな音を立てながら叩いた。

 

『まずは出力だ! 一般的なプレイヤーの出力は3割程度。引き出せても4割が限度。これは人間の脳には常にリミッターがかかっていて、全力を出さないように働いているからこそだ。その知識は既に理解していると思うから省くよ』

 

『ごめん。半分くらいしか理解していないかもしれない』

 

『……ともかく! 一般的なプレイヤー……いや、違う! 普通の人間は3割! これが限界だ! クゥリ君の最大値は今のところ8割! そうでなくとも、通常戦闘時でも安定して6割まで引き出せる! しかも、これをどんな脳をしているのか分からないが、安定して制御できる! これは言うなればF1カーで都心を走り回っているようなものだよ!』

 

『えーと……そんなに凄いのか?』

 

『普通のプレイヤーが6割り出したら吹っ飛ぶ。自分の速度を御しきれずに吹っ飛ぶ。立ち上がろうとしたら脳天から落下確定の大バック転。1歩前に出たつもりが顔面から地面にキスする。そんな状態になる。しかも戦いながらとなれば、まともに制御は出来ない。たぶん、現実世界の目玉が飛び出るぐらいにヤバいんじゃないかな?』

 

 改めて言われると大いに褒められているようで気恥ずかしくなったオレであるが、グリムロックの『本当に戦いに関して「だけ」はぶっ飛んでるね』という一言のお陰で、全く称賛されていない事に気づいた。

 

『さて、次にステータス出力はSTRとDEXの2つだ。それらの出力と生み出されるエネルギーの関係は直線じゃない。このような曲線になっている。しかも、出力が上昇すればするほどに生み出されるエネルギー量も飛躍的に増す。40パーセント台の1パーセント上昇と70パーセント台の1パーセント上昇では、生み出されるエネルギーの差は見ての通り明らかだ。そして、プレイヤーの発揮する物理攻撃力とはSTRエネルギーとDEXエネルギーの計算式に基づき――』

 

『前々から疑問に思ってたけど、オマエのそういう知識は何処から仕入れてるんだ? 運営並みだと思うんだけど、まさか実は管理者側とか言わないよな?』

 

『SAO終了後もVR知識の収集には余念が無かったからね。特にアーガスが開示したSAOのシステム情報は調べ尽くしたよ。まぁ、それ以上にキミという有用なモルモ……じゃなくて、被検た……じゃなくて、その、アレだ……共に武器作りに励むパートナーがいたお陰さ!』

 

 ギラリと輝かせた丸眼鏡を曇らせてグリムロックは慌てて弁解するも、色々と遅かった。

 自分に正直なのは美徳だと思うし、今更になってグリムロックに散々付き合わされた実験の数々に文句をつけようとは思わなかったが、新聞を奇麗に折り畳んで連射ヒートパイルを準備したグリセルダさんによって、この講義の後に彼がどうなったかは言うまでもない。

 

『今後のクゥリ君の目標はズバリ、この生み出されたエネルギーの「効率性」を重視することだ。人間は生まれながらに肉体を操作する術を持っている。でも、武術を学ぶことによって効率的な運動を体得する。武の心得がある者と無い者では動きが別次元だろう? クゥリ君の場合は元からこの「効率性」がかなり備わっているようだけど、それでもエネルギーロスは高出力状態ならばより如実にキミに影響を与える。仮想世界で生み出されたエネルギーの運用は多分キミには「未知」なんだろう。まだまだ改善の余地があるというわけさ』

 

 さすがと言うべきか、オレの戦闘データを常に集積しているグリムロックは独自に真実にたどり着いていた。

 オレの狩人の動きを誰よりも解析していたのはグリムロックだ。黄金工房の鍛冶屋として、オレの武具と防具の一切を担う者として、彼は誰よりもオレの『戦闘』という分野について熟知しなければならない。それはある種狂気的であり、そして鍛冶屋というHENTAI的な好奇心の塊だからこそ出来る探究の道なのだろう。

 額に氷のランスの切っ先が当たり、血に酷似した赤黒いダメージエフェクトがどろりと飛び散る。雪を赤く染め、ランスの先端を滴らせる。

 致命的な精神負荷無しならば、ギリギリで7割までは引き出せるだろう。まずはこの7割を掌握するだけではなく、更なる効率化を目指す。その為にも、必要なのは自身を追い込む戦いだ。こうして弱い武器で戦い、ヤツメ様には観戦を願い、生死の狭間で不利な状況下に置く。

 眼帯をしたままで視界は半分かつ不定期の不鮮明化。四肢には後遺症。聴覚にも異常あり。フォーカスロックに頼るな。常にイメージしろ。相手の位置を、攻撃を、思考を見切れ。久遠の狩人でもなく、ヤツメ様の神子でもない、全てを『オレ』自身が今まで鍛え上げた戦闘能力で、この苦境を打破しろ。

 できなければ死ぬだろう。だが、オレは無様に死ねない。『アイツ』の悲劇を止める為に。これまで喰らって糧にした命を無駄にしない為に。最期の最後まで戦わねばならない。どんな敵の喉元だろうと喰らい付かねばならない。

 ランスの突き。それに合わせて跳躍。雪が弾け、ランスに乗り、そこから更なる跳びで顔面を右足の蹴りで撃ち抜く。援護する氷のハンマー持ちが雪を吹き飛ばしながらの振り上げ。これも読めた。

 だが、横腹を氷の特大剣の突きが削る。3体いるのは分かっていた。だが、特大剣持ちの動きだけは計算に入れられなかった。ヤツメ様の導きがあれば、難なく回避行動はできたはずだ。

 脳髄が爛れるように熱い。呼吸が高熱の湯気のようだ。時間加速の影響は大きい。明確なタイムリミットだ。この熱によって脳がオーバーヒートすれば、オレはランスロットを前にして倒れたように、アイスマンたちに囲まれたまま身動きできずに嬲り殺されるだろう。

 そして、もう1つの寒冷の蓄積というタイムリミットもまた、オレを追い詰める。蓄積し続ける寒冷のデバフはいずれオレに避けがたい眠気をもたらすだろう。それもまたアイスマンたちの餌食となる死の眠りだ。

 熱と冷気の二重の時間的制約。それが血を滾らせる。戦いの渇望を、殺しへの飢餓感を引き摺り出す。

 

 

 

 いつでも私が力を貸してあげるよ? 私はあなた。あなたは私。さぁ、血に酔って。『獣』になってしまえば良い。狩人なんて、いずれは狩りに、殺しに、血に酔うものじゃない。狩人の本当の姿は、血みどろになって狩りの悦楽を貪る殺戮者。そうでしょう?

 

 

 

 雪を踏み鳴らして踊るヤツメ様は笑顔でオレに右手を差し出す。いつでも手を取って良いのだと誘う。だが、その代償として求めるのは、ヤツメ様が左手に持つ黄金の稲穂を焼き尽くすことだ。

 

「おぉおおおおおおおおおおお!」

 

 だが、オレはヤツメ様の脇を駆け抜けて、ようやく倒せる目途が立ったランス持ちのアイスマンに跳び込む。息を呑むヤツメ様を振り切り、ランスの連撃を躱し、背後からの氷の礫を織り込んだステップで回り込み、上空から強襲する特大剣持ちをバックステップで躱した後に再度踏み込んで獣骨の槍でランス持ちの氷の外皮が砕けた横腹を貫く。

 ダメージは微々たるものだ。あと何度繰り返せば良いだろうか? だが、今度は3体の動きを全て捉えた。ヤツメ様の導き無しでここまで動けた!

 

 

 そうだ。戦え。戦い続けろ。お前に祈りも呪いも無い、安らかな眠りなど無い。先祖より継いだ血に誓うべきは狩りの全う。そして、喰らった命たちへの敬意を忘れることなく、彼らより得た力を己の血肉として我が身の武器とすること。継承せよ。彼らの誇りも信念も踏み躙って貪ったならば、糧とした遺志たる力の全てを狩りに費やせ。

 

 

 涙目になってプルプルと震えているヤツメ様の頭に肘をのせ、ゆったりと観戦する狩人が吐き捨てる言葉に、オレは笑みが零れそうになる。

 そうだ。オレは殺してきた。奪ってきた。喰らってきた。たくさんの命から力を得て、ここに立っている。ならば、その全てを狩りに捧げろ。オレの存在価値などそれ以外に無いのだから。

 

「……戦え。戦え戦え。戦え戦え戦え! それだけ……それだけ『しか』オレには……っ!」

 

 噛み合う。負荷で赤熱して爛れていた歯車が……噛み合う。オレは獣骨の槍を背負い、代わりに手斧を握ると、ゆらりと腕を横にして地に水平にして構える。

 DEX出力上昇。加速。それは曲線を描いた高速軌道。大きく弧を描き、3体のアイスマンを纏めて斬り払う。アイスマンからすれば、いきなりオレが真横に消えたかと思えば、突如として視界を横切って手斧の斬撃を浴びせたように映っただろう。

 ステップとフォーカスロックを欺く動きの応用。1度のステップから生み出した速度で弧を描いて斬りつける、速度に特化した狩人の戦技。生み出せた。だが、まだだ。初速が……トップスピードが足りない。DEXが足りない。ランスロットに、トッププレイヤーに、『アイツ』に通じるには、まだ速度が要る。

 ならばシステムより加速を得て速度を増幅させる。ミラージュ・ラン発動。黄金の燐光を散らし、フォーカスロックを外す隠密ボーナスと加速を得る。惑うアイスマンたちを再び斬りつけるも、今度は2体しか同時に軌道に捉えられなかった。

 いっそOSS化して火力を増幅させるか? 硬直時間にもよるが、あっても困らないだろう。だが、そうなると汎用性が失われる。困りものだな。

 HP残量7割。一撃死の危険性があるか。義眼のオートヒーリングに期待するには、少し時間がかかり過ぎる。

 

「デーモンスキル≪ソウル・ドレイン≫専用EXソードスキル……【リゲイン】発動」

 

 ジャンルは≪格闘≫であり、発動する事によって自己強化を行う。全物理攻撃力を微弱だが強化し、攻撃をヒットさせれば……正確には相手に攻撃を当てダメージエフェクトを浴びることによって、HPと魔力を微量回復させる。代償として攻撃を含んだ全行動のスタミナの消耗が増すが、解除しない限り続く永続効果は悪くない。ただし、回復量はあまり多くないのが難点であるが、≪ソウル・ドレイン≫自体が敵を撃破した時にHPと魔力を回復させる。また、ダメージ・消費直後から5秒以内ならば回復量は増幅する。まさに『戦い続ける』為のデーモンスキルだ。

 まぁ、リゲインで回復するのは本当に微量だし、撃破時の回復量も普通に邪眼の指輪とか付けた方が多いので、やたら悪役っぽいスキルの割に実用性には首を捻るものもあるんだけどな。特に有効活用すると血塗れになるし。他にも≪格闘≫でEXソードスキルが追加されているのだが、どちらもやっぱり悪役全開なのであまり気に入っていない。しかも、そちらは使い辛さが酷い。

 結論、このデーモンスキルは間違いなく外れである。もっとストレートに強いデーモンスキルが欲しかった。ミラージュ・ランは使いやすいし、硬直時間も無いに等しいから加速手段では優秀だけどさ。

 さて、アイスマンとの戦いにも慣れてきた。そろそろ新型OSSを試すか。ランス持ちがいよいよ胸部の氷の外皮が剥げている。これならば行けるだろう。

 

「ここからは狩りの時間だ」

 

 それから、どれだけの時間が経ったのか分からない。

 スタミナが危険域のアイコンに到達し、寒冷状態で眠気が強くなる中で、オレは3体のアイスマンが作った血溜まりの中で両膝をつき、ようやく吹雪が治まって見上げることが出来た大きな銀月に白い吐息を漏らす。

 獣骨の槍は砕け、手斧は破損し、最後に投擲した石槌がアイスマンの頭部を潰している。

 

「たお……せ、た」

 

 さすがに疲れた。今すぐ下山しなければ死ぬだろう。戦って死ぬのは怖くないが、犬死など論外だ。

 体が上手く動かない。後遺症の拡大は……さすがに調べられる状態ではない。だが、加速時間での負荷が大き過ぎた。視界が明滅している。

 バランス感覚を半ば失った右足で立ち上がり、雪を踏み鳴らして村を目指す。≪薬品調合≫で作った【火薬団子】を口に押し込む。寒冷の蓄積を下げる効果はあるが、既に発動してしまっている。必要なのは早急に暖を取って寒冷状態を解除することだ。ならば、この団子は眠気を押し戻す以外の使い道はない。なお、村人が試しに食べてみたが、なかなかに過激な辛さらしい。オレには辛さも感じないけどな。こんな所で味覚が失っている事がプラスに働くとは思わなかった。

 ああ、そういえば、寒冷といえば……ユイと出会った時も、このデバフに随分と苦しめられたな。彼女に助けられていなければ、オレは今日ここにいなかっただろう。

 ディアベルに預けて以来、彼女とは会っていない。会うべきではない。そう自分に言い聞かせている。ユイの純粋な目を思い出す度に、彼女ならばプレイヤーを、ディアベルを、より良い世界に繋ぎ止められると信じている自分がいるからだ。オレがいたら、彼女の目が曇ってしまいそうで……怖いのかもしれない。

 戦いの中で希望も絶望も持てない。ランスロットはそれを『未来を見ていない』と評した。だが、そもそも『未来』とは何だ? 戦って、殺して、戦って、殺して、そうして夜明けを迎えて、暁を見ること……それが『未来』ではないのか? 違う。それが『現在』の繰り返しだ。単純に明日を迎えただけだ。

 

「オレは……オレは……」

 

 イリス、オマエなら何か分かるのだろうか? きっと、オマエはザクロの『未来』の為に我が身を犠牲にした。ほんの数秒だったけど、確かな時間稼ぎは、彼女に大きな時間を与える為の決死だった。

 どれだけグロテスクな外観をしていても、彼女には善なる『人』の心があった。生きるべきだった。あそこで死ぬべきではなかった。

 

 

 

 

 

 だって、そうじゃないとオレがオマエを殺せないではないか。

 

 

 

 

 

 喉が痙攣する。呼吸が出来なくなる。

 骨針の黒帯で包まれた左手を見つめ、ゆっくりと顔をなぞれば、痛みが代理を成す左手の感覚がオレの口元の歪みの形を知る。

 立ち止まったオレの足下で屈んだヤツメ様が、うっとりとした様子で見上げている。今すぐ帰ってザクロを殺そうと誘っている。

 

「『オレの獲物を誰にも殺させない。オレ自身で殺す』……か」

 

 オレを『人』に繋ぎ止める歪んだよすが。それは殺意の飢餓を利用した血塗れの光の糸。

 オレが愛する人たちを殺させない。オレの手で殺す為に。そして……オレが『獣』にならなければ、彼らを殺すこともない。だって、それは『人』から最も程遠い事なのだから。理由なく、オレの獲物だから殺して貪るなど、『獣』の所業なのだから。

 

「オレは傭兵だ。傭兵とは依頼主のオーダーに最大限のパフォーマンスで応え、戦果を挙げる。戦うのも殺すのも依頼達成の過程でしかない。必要なのは依頼を達成すること。それだけだ」

 

 並び立てろ。建前なのは分かっている。それでも必要なのだから。そうしないといけないくらいに、オレの首に抱き着いていて、血に溺れてしまえと誘うヤツメ様は魅力的なのだから。

 大丈夫さ。もう知ってしまったのだから。今更になって衝撃を受けるものでもない。自己嫌悪が少しばかり膨れ上がるだけだ。動揺なんてない。アルトリウスとの戦いでこの獣の性は受け入れた。後はどう付き合っていくかだ。溜め息を吐きながら、オレはイリスへの殺意を胸に大切に保管する。これは彼女に友愛の情を持っていた証拠なのだから。

 思考を切り替えろ。アイスマンとの戦いで得られた新たな狩りの力。効率化の道筋も見えた。そうだ! 名前がいるな。大きく弧を描いて相手の横に薙ぎ払う。なんかカッコイイ名前をつけたい!

 とはいえ、モツ抜きをOSS名にしようとしたらシステムに駄目出しされたオレだ。ネーミングセンスは壊滅的である。どうしたものだろうか。

 別に今すぐ悩むことではないな。それよりもアイスマンに試した新しいOSSだが、やはりパラサイト・イヴと相性は良かった。パラサイト・イヴは、恐らく開発者のグリムロックが考えている以上の応用性を持つ。特に我ながら能力の性質の穴を突いていた。これならば切り札として十分だろう。

 そして、ウーラシールのレガリアだが、解放された第2の能力を活かす準備を進めなければならない。だが、ナグナの赤ブローチもそうだが、オレよりも『アイツ』の方が合っている気がする。もう別次元だしな。まだ第1の能力の武器創造の方が使い勝手は良い。今登録しているのは≪槍≫と≪戦斧≫の複合で鎌を作れたのでそれを登録しているが、やはり鎌の動きは難しいな。まだまだ慣れが必要だ。

 相変わらず色々な意味で使えないデーモン化も、デメリットばかりに目を向けずにメリットを探そう。特にザリアを使うならば、オレのデーモン化とは相性が良いし、ミラージュ・ランの併用も考えれば継戦能力にも……あ、駄目だ。そもそも、わざわざ有効活用の道を探している時点で駄目だ。

 だからさ、オレはもっとストレートに強い『力こそパワー!』みたいなデーモン化が欲しかったんだ。『スピードこそ最強!』みたいな、とにかく攻守速のどれでも良いから大幅に強化できるタイプを熱望していた。というよりも、聞く限りでは過半のデーモン化はそうみたいですよ、奥様。

 でもね、それでもね、わざわざ相性の良い選択肢を探さないと使えないデーモン化ってどうなのかと思います。絶対に後継者の嫌がらせだろ。他にも、確かに強力だけど使い辛さが色々とおかしいし。ただでさえ武器の難易度が高いのに、デーモン化くらいお手軽強化にしてもらいたい。ユージーンとか見ろよ。角生えてムキムキパワーかつ防御力アップとかまさにザ・パワーじゃん! オレとかビジュアルの時点で色々と駄目じゃん! もういっそシノにゃんみたいに猫耳&尻尾でも文句言わなかったよ!

 もう良い。それよりも新スキルだな。いよいよレベル80まで間近だ。この調子ならば【氷の魔物】の前に到達できるだろう。アイスマンの経験値がなかなか美味しいお陰だ。そうなると、習得すべきスキルはやはりあの2つだな。1つはザリアの真価の為に必須だし、もう1つはわざわざ前準備も整えていたし。だが、他にも捨てがたいスキルも多い。

 

『クゥリ君! 次のスキルは絶対に≪光剣≫を取ってくれ! 新しい装備に是非とも取り入れたいものがあるんだ! どうせ補助スキルもフレーバースキルも取らないなら、武器の選択肢を増やそう! ね!?』

 

 思い出したのは半発狂済みのグリムロックからの熱い要望だった。オレだって補助スキルくらいとるさ。余裕があれば近接必須スキルの≪射撃減衰≫とか≪魔法防護≫とか是非とも欲しいし。ただ、武器系スキルの方をついつい取ってしまうのがオレの悪い癖だからな。

 そういえば、グリムロック曰く武器系スキルの総数に応じて攻撃力に補正がかかっているとか何とか……まぁ、正確な検証はまだのようだが、どうせ武器系スキルを取るしかないオレがまた有用な情報源……もといモルモットになれば良いだけのことか。

 あれこれ考えているとヤツメ様が呆れ切った顔でそっぽを向く。飢えと渇きも少しだけ弱くなった気がする。あくまで気のせいだろうが、それでも持ち直した。

 シャロン村に滞在してから1週間になるが、ようやく戦える程度には加速時間にも慣れてきた。それでも負荷は尋常ではなく、こうして非戦闘時でも高熱でうなされているかのようだ。小さい頃に1度だけ40度近くまで熱を出したことがあるが、それを思い出す。

 この程度の逆境は慣れている。現状だってナグナに比べれば天国だし、クリスマス程に追い詰められた状況でもない。コンディションを除けばイージーモードだ。

 真夜中という事もあり、近くになってきたシャロン村に灯りはない。村民によれば、廃坑都市が壊滅した夜、彼らもまた赤い月を見ていた。だが、レギオンは村から生まれず、壊滅は免れた。武器を見れば分かる通り、この村の戦力は乏しい。辛うじてノームの鍛冶屋がいるので村の運営も何とかなっている状態だ。

 スキルが獲得できる祭壇であるが、大きく分けて2種類あるらしい。何でも聖杯と同じく自前で準備できる祭壇もあるらしいが、天変地異で閉塞される前にシャロン村には最低限の祭壇が持ち込まれている。

 そろそろ着替えるべきだろう。オレは装備を変更し、ナグナの狩装束から提供された【鈴音の巡礼服】に着替える。

 この村で祭事を取り仕切るオババによれば、シャロン村の祖はアルヴヘイムを歩いて旅をする巡礼者であり、この白地に青の文様が描かれ、銀の鈴が取り付けられた姿は、由緒正しき巡礼の服らしい。

 オババによれば、青い文様は炎を示し、魔力の炎……青炎を示す。青炎とはシェムレムロスの兄妹の力であり、彼らはイザリスの罪の1つである穢れの火に永遠を求め、アルヴヘイムを訪れた。鈴の音色は魔除けであり、深淵を遠ざける力があると信じられた。

 寝静まったシャロン村で、オレはザクロが眠る借り家の窓を覗き込む。布団は膨らんだまま動く様子はない。さすがにベッドは1つであるし、オレは男としてザクロに使用させている。オレは椅子さえあれば脳を休めることができる。尤も、加速時間の影響によって睡眠時間も5分の1だ。VR適性が高い方々ならば十分かもしれないが、オレの場合は休息と言えるかどうか怪しい。

 その証拠のように鈍い頭痛は脳髄の奥底で、まるで弾ける日を待っているように脈動し、どんどん大きくなっている。戦えば戦う程に追い詰められている感覚が分かる。

 だが、それでも力が必要だ。ランスロットに届くには、更なる力を得なくてはならない。今のままではランスロットを殺しきれない。

 

「あとはこの羅針盤か」

 

 ザクロの就寝を確認したオレは、イリスとの月見を思い出すように、音を鳴らさないように気を付けながら屋根に跳び乗り、腰を下ろす。積雪対策の傾斜のある屋根であるが、今は雪も落ち着いているらしく、村とその周辺にはそれなりの緑が見て取れる。それでも夜の空気はまるで真冬のように冷え込んでいるが、巡礼服の寒冷耐性はそこそこ高いので、適度に温かいものを飲んでいれば夜を越すのは難しくない。

 フードを被り、冷気から頭を守りながら、オレはアイテムストレージから羅針盤を取り出す。スプリガンの地下遺跡で入手した、アルヴヘイムに最初からあっただろうキーアイテムだ。

 方位と無数の線引き。星見盤の役目もあるのだろうか? だが、気になるのは羅針盤に取り付けられた小さな水晶玉だ。それは円の溝で動き、常にある方向を示し続けている。アイテム説明欄に何かヒントがあるかもしれない。

 

 

<探索者の羅針盤:名も残らぬ探索者が用いた羅針盤の片割れ。それは執着の証である。竜は不変、蝶は輪廻の象徴である。不変こそが永遠なのか、それとも有限の繰り返しこそが永遠なのか。月明かりの蝶を追い、竜血の忌み子の居城を目指すならば、この羅針盤は白の森の永遠を暴くだろう。その滑稽なる真実を嘲笑する者こそ永遠の意味を知るのだ>

 

 

 ごめんなさい。まるで意味が分かりません。泣きたくなって顔を両手で覆うも、こういう時に頭脳労働でナイスパフォーマンスが期待できるPoHはいないのだ。こんな事になるならば、後回しにせず、さっさと彼に羅針盤の謎を解き明かす手伝いをしてもらえば良かったのだが、そんな暇もなくあんなカミングアウトをしたPoHが悪い。

 いや、諦めるな! ザクロのポンコツっぷりは筋金入りだ。オレよりは頭が回るかもしれないが、イリス亡き今は修正役がいない! どうせポンコツトラップに嵌まるならば、自分自身の足で地雷を踏みたい!

 思い出せ。この羅針盤があった地下墓所には壁画が施されていた。それは白枝と蝶が描かれていた。このアイテム欄の説明の通りならば、あの壁画が意味するところは、この羅針盤が指し示す場所だろう。

 そして、繰り返されている永遠というキーワード。これは永遠の探索者であるシェムレムロスの兄妹と同じだ。つまりは、月明かりの蝶を追えば、シェムレムロスの兄妹の居場所にたどり着く。そして、この羅針盤は彼らの居城を前に立ちふさがるダンジョン……白の森の突破に有用なアイテムなのではないだろうか?

 月明かりの蝶……もしかして【月光蝶】だろうか? 白竜シースの被造物の1つであり、ランダムポップするモンスターだ。高い魔法属性防御力を持ち、飛行しながら魔法攻撃を仕掛けてくる姿は、蝶というよりも戦術爆撃機であり、スピードこそないが、常にバリアによって守られて射撃攻撃はほとんど通じず、もちろん近接攻撃は届かない。しかも、たまに着陸して休憩したかと思えば、魔法爆発で周囲を薙ぎ払うので囲んで叩くチャンスも罠だ。

 ステージ難易度に比例した強さに調整され、得られる経験値も常にステージ平均よりも大きく高い。有用なレアアイテムもドロップする上に攻撃的ではなく、また逃げても追跡してくることは稀で、『とりあえず戦ってみよう』というプレイヤーが続出した。しかし、死者も相応に積み重なったために、月光蝶の目撃例が出たら大ギルドがこぞって倒しに派兵するか、傭兵に依頼が飛ぶかのどちらかが通例である。

 アルヴヘイムでも月光蝶の目撃例があるのだろうか? シャロン村を脱出してからは月光蝶の目撃情報を探せば、シェムレムロスの兄妹の居場所が突き止められるかもしれない。

 あとはランスロットの情報も欲しいところだ。そうなると深淵狩りたちから情報を得たいのだが、肝心の転移を発動した深淵狩りは死亡した。さすがに身ぐるみを剥ぐのはどうかと思って装備は剥いでないが、有用なアイテムが無いか探ったところ、【狼の円盤】なるペンダントを見つけた。

 銀色の円盤のペンダントには狼が彫り込まれ、裏には彼ら深淵狩り……欠月の剣盟の歴史と心得が書かれていた。それ以外は特にない装飾品である。ハッキリ言えば、彼らの誇り以上のものはないのだろう。

 深淵狩りの剣士たちに接触すれば、もしかしたらランスロットの情報が分かるかもしれない。何よりも、ランスロットはあの赤い転移……深淵に濡れた彼らの地に転移されることから逃れようとしていた。無論、戦いの最中に飛ばされることを拒んでの事だろうが、あのランスロットが脇腹にボルトを受けたのは、それ以上の動揺があったからではないだろうかと考えられる。

 深淵の騎士が、どうして深淵に濡れた地を恐れたのか。もしかしたら、そこに何かヒントがあるのかもしれない。

 

「ねぇ、お前はアレなの? 夜は寝たくないって駄々をこねちゃうガキなの? 戦ってないと死んじゃうバトル中毒症なの?」

 

 そして、いつから背後にいたのか、殺意増幅中の声が聞こえて振り返る。そこには水色の寝間着姿にガーデンを肩に羽織ったザクロが拳を握って立っていた。

 起こすような下手は打たなかったつもりなのだが。驚いているオレに、ザクロは拳を緩めて嘆息すると隣に腰かける。

 

「また雪山に行ってたの?」

 

「……ああ」

 

「加速時間はお前に悪影響しか及ぼしていない。慣らし運転は必要かもしれないけど、急いでも仕方ない。そう思わない?」

 

 夜明けは程遠い、星と月が煌く空を見上げるザクロの問いに、オレは時間がどれだけ残されているのか、と声にせずに口の中で呟いた。

 オベイロンがどうして後継者に反逆を示したのか。それは勝ち目があるからだ。そして、レギオンとオベイロンは手を組んでいる。この時点で最悪の展開しか思いつかない。

 何よりも、今こうして村に滞在している間も、『アイツ』はアスナを探しているはずだ。ならば、早急に活動しなくてはならないのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 止めることは出来ない。ザクロはそれが分かっていた。

 ザクロが村に馴染んでいる間に、【渡り鳥】は昼間こそ淡々と仕事をしているが、夜になると霜海山脈に足を運んでいる。目的はダンジョンの偵察及びレベリングだろう。武器の損耗を抑える為に、シャロン村の弱武器で挑むのは、もはや自殺願望に等しい。

 だが、お陰で1番危険なアイスマンの情報はほぼ纏め終わっている。他の危険なモンスター……毒と睡眠を同時にレベル3で蓄積できる毒針を備えた【雪蜂】、水属性と闇属性の攻撃を得意とする【凍死の亡霊】、そして雪が集合したような巨大モンスター【雪崩の巨人】など、村の情報では足りないモンスターの攻撃パターンや弱点も分析して来てくれる。

 そのモチベーションは何処から来るのか、ザクロには不思議でならず、また恐ろしく感じる。廃坑都市であれだけ打ちのめされ、ランスロットの強さを見せつけられたのに、即座に次なる戦いに向けて動ける【渡り鳥】の精神は異常だ。

 ザクロの目から見ても、【渡り鳥】とイリスの関係は悪くなかったはずだ。廃坑都市壊滅前の月見が良い例だ。だが、【渡り鳥】からすれば、イリスの死など、常に彼の周囲で積み重ねられた屍の1つに過ぎないのだろうか。

 そうだとは思いたくない。【渡り鳥】が薄情者だと感じるのではなく、イリスが哀れに思うだけだ。

 落ち着いた様子の横顔は夜空のように澄んでいて、眼帯に覆われていない右目の、不可思議な赤が滲んだ黒色の瞳は魅入られてしまいそうだ。

 

「ねぇ、戦い続けてどうするの? こう言っちゃ悪いかもしれないけど、PoHは行方不明。私は戦力半減。お前もズタボロ。この状態であと3体のネームドを倒して、オベイロンも殺すなんて無茶でしょう?」

 

「武器はまだ温存してある。切り詰めれば戦いきれないこともない」

 

 事も無く言うが、まともな修復が出来ないアルヴヘイムにおいて、1度の破損が延々と尾を引くのだ。ザクロにしても【渡り鳥】にしても武器のレアリティが高過ぎて、鍛冶屋に修理させる事すらできない。何せ修理素材が不足しているのだ。耐久度回復だけならば、山のような粗鉄を集めれば可能かもしれないが、それも現実的ではなく、叶っても回復できる量も微々たるものだ。耐久度を回復させる修理の光粉にしてもエドの砥石にしても数は限られている。

 ザクロは鎖鎌を失い、メインウェポンの短刀もランスロット戦で刃毀れやヒビが酷い。雪山ではザクロの呪術が大いに役立つかもしれないが、それ以降の戦いを考えれば、もはやリタイアに等しい。まだ切り札は残されているが、戦いきれるものでもなく、また万全の状態でもランスロットに勝てるイメージが湧かない。

 

「私たちの他にも【来訪者】はいるわ。廃坑都市は壊滅したけど、【来訪者】は全滅していないはず。だったら、あとは彼らに任せてしまえば良いじゃない」

 

 そう言いながらも、ザクロは喉で言葉を押し止める。

 廃坑都市には、彼とも親しいストーカー女……ユウキがいたのだ。ならば、廃坑都市と命運を共にした確率は高い。UNKNOWNがいたのも確実だ。彼らもまた深淵狩りの剣士に助けられたとも考えられるが、必ずしもそうとは限らない。

 少しはショックを受けるのだろうか? そんな邪な考えが思い浮かび、ザクロは首を横に振る。もうザクロが目指す復讐はそんなものではないのだから。

 

「後継者からの依頼はオベイロンの抹殺だ。オレは傭兵として依頼を達成する義務がある。後継者は今のところ裏切っていない。だったら、オレがオベイロンを殺すことに手抜きしてどうする?」

 

 それは傭兵という観点から言えば至極当然だ。だが、現状が現状なのだ。オベイロンを倒す意気込みは買うにしても、ザクロは自分の提案が間違っているとは思わない。

 

「そういえば、オマエはどうしてオベイロン殺しに加わったんだ? 後継者なら何か報酬を約束しているはずだろう? お互いこんな身だ。そろそろ話しても良いと思うが……」

 

 逆に【渡り鳥】に話の流れを握られ、ザクロは今更隠す事も出ないかと嘆息して屋根に寝転がり、星見と月見に興じる。

 銀色の月。DBOにおいて、月は陰の太陽である『女神』グウィンドリンの象徴らしい。グウィンドリンは弓の名手であり、魔法の力を暗月の騎士に授ける。

 暗月の制約を結んだ者たちは俗に『暗月警察』と呼ばれ、闇霊……侵入者を感知した際に召喚できる。また、青教のプレイヤーは闇霊に襲われた際に自分から青霊たる暗月誓約のプレイヤーを召喚できるらしい。

 多くのプレイヤーを殺してきたザクロが言うのもなんだが、PK関連の誓約を結んでいるプレイヤーは頭のネジが外れている。彼らは経験値を稼ぐ為ではなく、コルの為でもなく、殺し自体を楽しんでいる節がある。

 殺しを楽しむ。それは【渡り鳥】とも似ているが、彼とは決定的に違うような気がする。ザクロには上手く言い表せないが、殺戮狂とされる【渡り鳥】と彼らPKプレイヤーの決定的な違いとは、その殺しの本質にあるのではないかと感じる。

 

(殺しは何処まで行っても殺しでしかない。その本質が何であろうと行為に変わりはない、か。当たり前よね)

 

 だから何だ? ザクロは冷笑して、一呼吸と共に自分が後継者と交わした契約……その中身を語る。

 

「……イリスの『保全』よ。私が死んでも、仮にどんな形でDBOが終わったとしても、彼女を『残す』こと」

 

 だが、イリスは死んでしまった。ならば、ザクロがオベイロン殺しで得る報酬に価値はない。案外律儀な後継者は別の報酬を認可するかもしれないが、興味はない。

 ああ、この際だから全部暴露してやる。ザクロはどうせ後継者ならば、自分の口から語られる事も想定済みだろうと高を括る。

 

「あとは【黒の剣士】の妨害と抹殺? なるべく苦しめるように動けとも命じられてるわ。これはPoHも同じじゃないかしらねぇ。正直、私程度じゃ【黒の剣士】には勝てないだろうし、やる気もあまりなかったけど。PoHはかなり乗り気だったみたいよ?」

 

「……後継者らしいな。それで、ザクロとしてはもう依頼を下りる。その気持ちの方が強いんだな?」

 

 溜め息を吐いた【渡り鳥】は意外な事にザクロを睨むことなく、その眼差しは霜海山脈の入口に向けられたまま動かない。【黒の剣士】の相棒として、彼を抹殺や邪魔を企んでいるならば凶刃を向けるくらいは考えていたのだが、意外な程に声音に変化はない。

 どうでも良いかもしれない。ザクロはぼんやりと月にイリスの姿を重ねる。そういえば、イリスに何度か月見を誘われて、ザクロはそんな風流に興味など無いと断ってばかりだった。今ではそれが悔やまれる。彼女と月の下でどんな語らいが出来たのだろうかと無念でならない。

 これが後悔というものなのだろう。ザクロは瞼を閉ざし、潤む両目を袖で拭った。

 

「だったら、オマエはこの村に残れ」

 

 そして、ザクロは我が耳を疑い、体を跳ね起こす。

 この男は何を言っている? ザクロは強弁で言い返そうとするよりも先に、【渡り鳥】はまるで羽毛でザクロを包み込むように微笑んだ。

 

「オマエに戦う理由はない」

 

「あるわ! イリスの仇を――」

 

「本気じゃないだろう? オマエはランスロットを怖がっている。勝てるはずが無いって思ってしまってる。最初から負けを認めている者に勝機は無い」

 

 図星であり、反論の余地もなく、ザクロの心を淡々と抉る【渡り鳥】の言葉に歯を食いしばる。ランスロットに刻み付けられた、強者と弱者の絶対に変わらぬ力関係を、有無を言わさぬ力量差を、【渡り鳥】と漆黒の騎士の次元が違う戦いを思い出し、両目を再度濡らして膝を抱える。

 そうだ。イリスの仇を取りたいという気持ちは無いわけではない。だが、イリスはきっとザクロが感情のままに仇討ちをするような真似を望んでいない。そして、それは真実であると同時に、自分の醜い言い訳だとも心で反芻させてしまう。

 

「オマエの戦いはきっと……イリスに生かされた時に終わったんだ」

 

「……お前、何なのよぉ! どうして、そんなにズバズバと人の1番大事な部分に切り込んでくるのよぉ!? ちょっとは遠慮しなさいよ! 馬鹿! 馬鹿馬鹿! ばーか!」

 

 戦いは終わった。その通りだ。ザクロの中で戦い続ける為に張られた糸は千切れてしまったのだ。

 優しくなりたい。母のような優しい人になりたい。それがザクロの望みだ。それを叶える為には、きっとアルヴヘイムの戦いを全て丸投げして、この安全な村に引き籠もっているのが最も近道だ。

 でも、それは余りにも情けないではないか。無様ではないか。イリスの死に不誠実ではないか。彼女を家族として愛していたならば、それを奪ったランスロットに挑むことこそが、親愛の証明なのではないか。

 

「イリスはオマエに生きて欲しかった。死ぬにしても、自分の仇を討つ為ではなく、自身の願いの為に死んでほしいはずだ。それを叶える為に、命を全うしてもらいたいはずだ。彼女は……それが願える善なる『人』の心を持っていたんだから」

 

 ああ、敵わないなぁ。ザクロは背中から屋根に倒れ、冷気で凍てつく涙を拭う事も出来ずに泣きじゃくる。

 その通りだ。まさに言われた通りだ。イリスならば、きっとそんな風にザクロに望むはずだ。ランスロットに無謀にも挑むような真似をすれば、あの顎で頭に噛みついて徹夜のお説教が待っているだろうと泣きながら苦笑する。

 

「……これから、どんな風に生きて行けば良いのかな? 大ギルドからはお尋ね者。きっと後継者からも使えないポンコツ扱いされるわ。なんか、もう人殺しとか、簡単に出来る気しないし。詰んでるんじゃない?」

 

「そうでもないさ。DBOは……世界は広いんだ。生きていくだけなら幾らでも道はある。たとえば、≪操虫術≫で情報屋を営むのはどうだ? オレとしても、心強い情報屋は欲しいところだ。何をするにしても元手は必要だろう? オレならボッタクリできる鴨葱だと思うぞ」

 

 夜風を食むように微笑んだ【渡り鳥】に、ザクロは思わず見惚れてしまい、それを隠すように大笑いして頷く。

 

「アハハハ! それ良いわね! お前って【ハイエナ】以外に情報屋いないもんね! でも、私は情報屋なんかやらない。夢は可愛くお嫁さんなのよ! こうなったら大ギルド相手に一面広告で寿宣言してやるわ!」

 

「相手はいるのか?」

 

「いないけど、これから探すわ。そうね、やっぱりムキムキマッチョマンよね。男らしい筋肉達磨こそ理想よ。サンライスとか結構好みよ? 馬鹿っぽいけど、奥さんをガンガン引っ張ってくれるタイプじゃない」

 

「タルカスは?」

 

「YARCAはノーサンキュー。筋肉があれば良いってもんじゃないのよ。筋肉は大前提なの」

 

 いつしかザクロの涙は笑いの間に消え去り、心の楔は1本ずつ抜け落ちていた。

 この世界は狂っている。だとしても、どのように生きるのかは自分次第だ。

 時代はやっぱり筋肉か、と呟く【渡り鳥】に、そろそろ明日に備えて休もうとザクロは立ち上がる。

 私はやっぱり甘えたままだ。【渡り鳥】に温もりの火を見出し、恐怖と同時に安らぎを感じ取ってしまう自分の歪みを受け入れる。

 だから宣言しよう。ザクロは深呼吸を入れて、月明かりに勇気をもらい、【渡り鳥】に向き直る。

 

「私は優しい人になりたかった。ずっとずっと、昔の自分の願いを見失っていた。『居場所』ばかりを求めていた。もうキャッティを出汁にして復讐者なんて『居場所』は要らない。お前にだって『居場所』を見つけない。私はワガママに生きていく。誰にも邪魔させない。オベイロンにも、後継者にも、大ギルドにも……お前にもね」

 

「……そうか」

 

 ザクロの宣言に、【渡り鳥】は呆れることもなく、淡々と、だが少しだけ嬉しそうに、真顔で頷いた。

 

「もっと笑いなさいよ。『コイツ、急に何言ってんの!?』くらいの反応しなさいよ」

 

「立派じゃないか。何処も笑うところなんてない。それがオマエの『答え』なら、何1つとして恥じるべきじゃないだろう?」

 

 コイツのこういうところ嫌い! ザクロは茶化されながら馬鹿にされて奇麗に夜露に消し去ってもらうつもりだったのに、真正面から受け止められて気恥ずかしさしか残らない。

 そろそろ休もう。明日も芋の収穫から団子作り、それに村で唯一の浴場の掃除など、やる事はたくさん残っているのだ。ザクロは屋根から跳び下りて華麗に着地すると、きっと今夜もまともに眠ることなどないだろう【渡り鳥】を見上げる。

 いつか暗闇から抜け出して、光に満ちた向こう側にたどり着いた時、彼に感じていた温もりは恐怖で塗り潰されてしまうのだろうか。

 それは嫌だなぁ、とザクロは欠伸を噛み殺しながらベッドに戻るべく戸を開けた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 場所は交食都市と砂上都市の領土境界線。中立条約が結ばれ、交易が盛んに行われる地は、砂漠に覆われた砂上都市の領土を嘲うように潤沢な水が使用され、各所に華やかな噴水が水の芸術を作り出している。

 何処となくアラビアンな雰囲気を感じさせる建物は砂上都市に通じるものらしく、物珍しそうに見回すレコンは、遊びに来たわけではないのだと頬を叩いて喝を入れる。

 ロズウィックは有言実行で、新生暁の翅のリーダーに据える候補者として選ばれたギーリッシュとの面談のチャンスを作ってくれた。場所はレコンとしては気恥ずかしい、空気だけで酔ってしまいそうな酒のニオイと焚かれた甘ったるいお香が混ざり合った高級料理店……もとい、女の子とアレやコレやが出来るお店である。

 

「シノンさんも本当について行くんですか?」

 

「ば、馬鹿にしないでくれる? 私だって、仕事上、こ、こここ、こんな店の1度や2度くらい……!」

 

 もはや水着同然の……いや、ベールを羽織ってる分だけエロさ増した、露出面積が激しいウンディーネの踊り子たちの華麗な舞。彼女たちの酌を受けて、客の男たちの鼻の下はすっかり伸びている。吹き抜け天井より陽光が注ぐ、水路に挟まれた橋を渡り、観葉植物の壁を迂回すれば、この店のVIPルームである。

 シノンは念には念を入れて顔をスッポリと覆うフード付きのマントを羽織っている。義手もあまり目立たないように手袋をつけた。対して、赤髭とレコンはいつも通りの格好であり、指名手配こそされていないが、暁の翅の幹部だったロズウィックだけ広い鍔付き帽子を被っている。

 滝のように壁を伝う水流の音。部屋に気流を生み出すのは踊り子と同じように露出が多い女性たちの大きな内輪。黄金のテーブルで銀食器に盛られているのは、色彩豊かなフルーツと新鮮な生肉の切り身。宝石が飾られた杯に浸されたのは葡萄酒である。

 赤い革張りの巨大なソファに寝そべり、美女の膝枕でマスカットに似た果実を大口に放り込むのは、20代半ば程の男だ。褐色の肌と黒髪をした、左目の泣き黒子がセクシーな色男である。

 あれがギーリッシュ。こちらが勢揃いしているにも関わらず、まるで無反応で美女たちと戯れている姿は、とてもではないが人心を集めるカリスマには思えない。

 もしかして人選を誤ったのだろうか。アルヴヘイムの人間について詳しくないレコンは不安が増すも、既に賽は投げられたのだ。自分たちに付き添ったノームの鍛冶師たちはライフルが詰まった木箱を置き、数歩後ろで生唾を飲んで、新生暁の翅の命運をかけた面談を見守っている。

 先手必勝だ。ロズウィックと赤髭が互いに頷き合った時、ギーリッシュは美女の胸をつかみながら体を起こす。

 

「やぁやぁ、これは暁の翅の生き残り……いや、新レジスタンスの皆さまじゃないか! ご足労いただき結構! 大変結構! さぁ、まずは乾杯しましょう! 美女とアルヴヘイム、そして我らの有意義な時間に!」

 

 出鼻を挫く絶好のタイミングで、まるで悪びれることなく、子犬のような人懐っこさを前面に押し出した笑顔で、ギーリッシュは両腕を大きく広げて歓迎する。

 ギーリッシュの両脇には、口元を黒いマスクで覆った2人の女性が控えている。どちらも腰に曲剣を備えたスプリガンだ。彼の護衛なのだろう。対してこちらは非武装だ。赤髭ならば素手で、シノンの義手は武器扱いなので、あのスプリガン2人とも十分に渡り合えるだろうが、無聊衝突した時点で新生暁の翅は終わりである。

 ベールと共に舞い続ける踊り子たちに目移りしながらも、ギーリッシュと相対するように並べられた4つの席にそれぞれが腰かける。中央2席には赤髭とロズウィック、左右の端にはレコンとシノンが座る。お尻が埋もれそうな程にふかふかのクッション付きの椅子は落ち着かないが、エメラルドを思わす宝石で装飾された金の盃はそれ以上にレコンの心を掻き毟る。

 

「改めてまして、偉大なるバムートの若き――」

 

「ああ、そういう堅苦しい挨拶は無しでいこう! 私の流儀でね。主従関係はハッキリすべきでも、友人関係はフランクでいきたいんだ。私はこの通り、今は女の子たちと遊ぶのを楽しんでいるオフなわけだよ。私は君達を『友人』として招き入れたんだ。そして、『友人』は裏切らない。そうだろう?」

 

 ああ、コイツは大ギルドと同じで、絶対に敵に回してはいけないタイプだ。レコンは苦悩の連続だったサクヤの交渉の日々を思い出し、即座にギーリッシュに警戒心を強めると同時に、この男ならば可能性も開けるかもしれないと期待する。

 誰も葡萄酒に口を付けない中で、赤髭だけは大胆に葡萄酒を煽る。それを褒めるようにギーリッシュは拍手を送った。

 

「美味ぇ。もう1杯もらえるか、砂の大将?」

 

「それでこそ『友人』だ。私の事はギーリッシュと呼び捨てで構わない。それで、君の事を何と呼べば良いかな?」

 

「髭のナイスガイで構わねぇぜ?」

 

「それは最高だね! ではナイスガイ、飲み比べも良いが、他の『友人』たちは肩が強張ってしまっているようだ。先に面倒な話を済ませて、私はのんびりと休暇を楽しみたい」

 

 笑みを崩さないギーリッシュに、ロズウィックをは咳を1回挟む。そして、アイテムストレージから紙束を取り出した。

 渡された紙束に目を通すギーリッシュは、少しだけ目元を厳しくさせる。内容はライフルの性能表だ。嘘偽りのない、レコンとノームの鍛冶屋衆で纏めたものである。

 こうして面談できている時点で、ロズウィックは既にある程度の話はつけている。即ち、≪銃器≫の手配と新生暁の翅の頭領になってもらいたい旨は打診済みなのだ。こうして面談できている時点で、賭けの第1段階はクリアしている。

 

「ギーリッシュ様、暁の翅は先のオベイロンの侵攻により壊滅するのみならず、深淵に与したという許しがたい冤罪まで被りました。これは王として許されざる所業。既にオベイロンはアルヴヘイムを纏め上げた名君ではなく、我らを玩具と弄ぶ酷薄な独裁者です。私は暁の翅の亡きリーダーのレイチェル様の遺志を継ぎ、またアルヴヘイムの未来の為に、新たな王に相応しき御方……貴方様に我らを導いていただきたく、こうして参上致しました」

 

 帽子を脱ぎ、モノクルを光らせたロズウィックの口上に、ギーリッシュは大いに満足したように、だが小馬鹿にしたように笑みを崩さずに頷いた。

 

「なるほどなるほど。それで貢物とやらが銃なる新兵器というわけか。確かに、これならば我らの領土拡大を阻む近隣都市を平らげるに足る。それだけではない。訓練不足の兵たちすらも一夜で役立つ戦士に早変わりできるかもしれないな。だが、足りない。バムートの繁栄こそ私の至上の命題だ。君達反オベイロン派の頭領になるとは、つまりバムートの民すらも纏めてオベイロンの敵とすることに他ならない。この意味が分からない愚物ではないだろう?」

 

 予定調和の切り返しだ。ギーリッシュとしては、銃の情報だけを奪い、ロズウィックたちをアルフに突き出す事こそが『現時点』で最も利益がある選択肢なのである。だが、彼が期待しているのは新生暁の翅がどんなカードを切って交渉してくるかだ。つまりは、彼自身にはオベイロンに反旗を翻すだけの気骨は備わっている。

 まずはプラン通りに進める。レコンが右腕を挙げると、控えていたノーム鍛冶屋たちが木箱を開ける。それはアルヴヘイムに相応しくない、フルメタルのライフルだ。ノームは了承を取って台座に果実を並べると、トリガーを引いて次々と弾丸を吐き出して、果実を生ゴミに変えてしまう。

 これにはギーリッシュも驚いた様子で嬉々と拍手を大きく送る。文字よりも実践のインパクト。これこそが交渉よりスムーズに進めるカードだ。

 

「素晴らしい! なるほどね。この資料に嘘偽りなし。どうだろう? オベイロンへの反逆は奇麗さっぱり忘れて、バムートに仕官する気はないかな? 君達が想像する倍の待遇で迎えよう!」

 

「そいつは無理な相談だ。ギーリッシュさんよぉ、俺はそれなりに修羅場を潜り抜けているが、アンタはかなり大概な部類だ。目が笑ってねぇぜ」

 

 ざわめくノームたちの狼狽を一刀両断するのは、早くも3杯目の葡萄酒に口を付けていた赤髭である。

 

「まどろっこしい駆け引きも良いが本音を出し合おうぜ? オメェはバムートのトップになって満足する男か? 生涯かけてもアルヴヘイム全土を手中に収めるなど出来ない。いや、オメェは勘付いているはずだ。バムートが今以上の拡大を示せば、オベイロンが潰しにかかるってな」

 

「ほうほう。つまり、私には最初からオベイロンに反逆する意思があると? そういうわけかい? いやいや、買い被り過ぎだよ。妖精王にどうして私が牙を剥かないといけないんだ?」

 

「……オベイロン『様』だろうが。それが証拠じゃ不満か?」

 

 赤髭の淡々とした一撃に、ギーリッシュの笑みは固まったかと思えば、その質が変化する。それは獰猛な肉食獣の舌なめずりだ。

 

「合格だ。私は父や木偶の坊の兄上を排除し、バムートの頂点に君臨する。それが私の夢だった。知っての通り、私は父の妾の子だ。それもインプの子だ。バムートは酷いものさ。インプもケットシーもゴミのように扱われる。母は見目麗しさから父に『飼われ』、私はたまたまイフリートとして生まれた。だから生かされた。母は病になると『処分』されたよ。いやぁ、ショックだったなぁ。母の亡骸が墓所ではなくゴミ捨て場に打ち捨てられた時には生まれて初めて涙が零れたよ」

 

 ポケットから金貨を取り出し、ギーリッシュは弄ぶ。金貨には自己主張が激しいオベイロンの横顔が彫り込まれている。それを握り締めたギーリッシュは乾いた唇を癒すように唾液で湿った舌を出す。

 この男、野心家だけではなく、とんでもなく狂った復讐者でもあるようだ。背筋を凍らせるレコンは飲まれるなと我が身に言い聞かせる。赤髭とロズウィックが交渉メイン、レコンはいざという時のサポート、そしてシノンは最悪の場合の脱出の際の戦闘員だ。

 

「だけど、ある日ね、気づいたんだ。バムートの王になったところで、母を殺した世界は変わらない。このアルヴヘイムの王にならない限り、私は汚らしい妾の子のままだ。まぁ、だからオベイロンを断頭台に送るのは大いに賛成だ。それにアルヴヘイムの新王はなかなか魅力的だしね。だけど、私は勝ち目のない勝負に挑むのは負け犬の性だと断じる主義だ。誇りやら信念やら理想で飾っても、結果が敗北では泥に埋もれて腐るだけだ。だから、知りたいのはオベイロンを殺す方法。そして、それに勝機があるという光明だ」

 

「オベイロンは不死身でも万能でもありません。彼が無敵ならば、我ら反オベイロン派など恐れるに足らぬはず。ですが、オベイロンは深淵の魔物のみならず、ランスロットまで派遣して我々を全力で潰しにかかった。これはある種の必死さの証明。その理由は2つ。1つは暁の翅の戦力がオベイロンにとって看過できない程に脅威になった。そして、もう1つは彼らの存在。アルフを通じてオベイロンが賞金を懸けた【来訪者】たちです」

 

 ロズウィックのこのカミングアウトも予定通りだ。ギーリッシュの説得には【来訪者】というオベイロン殺しの刃を開示するのは必要不可欠である。逆に言えば、ギーリッシュの復讐心を除けば、ここまでは大きな逸脱も無く、順調に交渉は進んでいる。

 視線で促され、シノンは渋々といった様子でマントのフードを外す。するとギーリッシュは口笛を吹いた。

 

「これは可愛らしいお嬢さんだ。それで、【来訪者】とは彼女以外に……髭のナイスガイと、そちらの君もそうなのかな? 本当にオベイロン殺しできるのか、信じられないなぁ」

 

「あら、そうなの。私はシノン。【来訪者】の1人。この場にいるあなたの部下を皆殺しに出来るくらいには強いわよ。この通りにね」

 

 途端にシノンはDEX特化に相応しい速度で、今まで機械のように踊り続けていた踊り子の背後に一瞬で回り込むと、義手の爪を起動させて喉元に触れる。

 どうしてそんな横暴を!? レコンがそう叫びそうになるも、いつの間にか踊り子の手には短剣が握られている事に驚く。だが、シノンの方が先んじて手首を捻り上げ、短剣を落とさせて無力化させる。

 

「全員ストップ。彼女は実力を示しただけだ」

 

 爽やかにギーリッシュが待ったをかければ、給仕の美女たちも、踊り子たちも、ギーリッシュの護衛だろうスプリガンも、全員が殺気立って得物を抜いている。

 考えてみれば当然の事だ。アルヴヘイムの王であるオベイロンを殺す算段の話をしているのだ。当然ながら、参加するのはいずれも話に理解がある者に他ならない。

 つまりはこの場の全てがギーリッシュの演出だったのだ。豪華な料理も、酒も、美女たちも、全てはレコンたちが気づくかどうかのテストである。そして、当然のように赤髭もロズウィックもシノンも、そのテストに合格していた。レコンだけが見抜けていなかったのだ。

 

「確かに、【来訪者】はアルフすらも屠る強力な戦士であると納得したよ。だけど、オベイロン殺しにはパンチが足りないんじゃないかな? 風の噂によれば、オベイロンの居城ユグドラシルは不可視の守りで隠されているとか」

 

「ええ。穢れの火、シェムレムロスの兄妹、そしてランスロット。彼らの持つ『証』こそが不可視の霧の守りを破る。逆に言えば、『証』さえあればオベイロンの居城に攻め入ることができます。ギーリッシュ様にお願いしたいのは、反オベイロン派の頭領として声明を出し、一刻も早い戦力の集結、そして『証』の収集に尽力していただきたいのです」

 

「その『証』の手がかりはどうなんだい?」

 

「シェムレムロスの兄妹は我らに味方しています。穢れの火を差し出せば、彼らは『証』と共に我らと参列するでしょう」

 

「それは難題だね。穢れの火といえば、偉大なる太陽と光の王グウィンの命により【竜砕き】のスローネがアルヴヘイムに持ち込んで封じたイザリスの罪の1つらしいじゃないか。確か黒火山の地下神殿に封じられているとか。あそこは厄介だよ? なにせ、ガチガチのオベイロン狂信者の領地だからね。ハハーン! だからか。穢れの火を倒すにしても、まずは黒火山を有する黒鉄都市ガストニアを平らげないとね」

 

 得心がいったようにギーリッシュは満足そうに数度頷いた。ようやく交渉の最終段階に近づいている証拠である。

 ギーリッシュには新生暁の翅の首領になる意欲がある。理由もある。そして、オベイロン殺しの方法も開示したのだ。あと少しである。レコンは汗で湿る拳を握る。

 

「あそこは神託の地……オベイロンが不可侵を掲げる領土だ。今まで野心に駆られた者が何度となく派兵したけど、いずれも失敗して一族郎党皆殺しだ。ガストニアの重鉄騎士団は強いし、アルフも参戦してくるし、魔族を奴隷兵として使役している。それに黒火山自体が魔窟だ。穢れの火の影響から生まれた生きた鋼の戦士たち。数多の鉄竜が空を舞い、鉄獅子が群れを成して大地を支配する。どんな屈強な騎士団でも、あの魔窟の深部にたどり着くには途方もない犠牲を出すだろうね。いや、山のように屍を積み重ねても踏破できるかどうか」

 

「黒火山の攻略は俺達に任せな。必要なのは黒鉄都市の陥落だ。聞いた限りじゃ、黒火山を何重にも覆う要塞。それ自体が黒鉄都市らしいな」

 

 レコンも聞いた限りでは、黒鉄都市はアルヴヘイムでも最強クラスの都市だ。黒火山を中心にした荒野の都は、多重の要塞城壁で黒火山の地を守る構造をしている。レベル20が『熟練』とされるアルヴヘイムにおいて、レベル30を水準としている。これに対抗できるのは、ティターニアを崇める宗教都市コスコンの女王騎士団だけらしいが、質で勝る女王騎士団は数が足りず、黒鉄都市の圧倒的兵力に抗うのは難しいというのが一般的な認識だ。

 

「都市を陥落させない限り、黒火山自体に乗り込めねぇからな。忍び込むにしても限度がある」

 

「そうかい。じゃあ、シェムレムロスの兄妹が『裏切らない』という前提ならば、残るはランスロットだけか。アルヴヘイム最強たる裏切りの騎士。その『証』は何処にあるんだい?」

 

 これにはロズウィックも赤髭も回答を持っていない。というのも、暁の翅の総力を結集してもランスロットの情報どころか、その『証』についても何ら手掛かりを得られていなかったからだ。ランスロットに最も詳しいだろう欠月の剣盟とは過去の諍いがあるせいで、情報を得られなかったのである。

 そうなると欠月の剣盟の生き残りに期待したいところであるが、メノウは行方不明であり、大多数の欠月の剣盟は廃坑都市で落命しただろう。

 

「それも含めて、ギーリッシュ様のお力をお借りしたいんです」

 

 思わず口を出したレコンは、何処までアドリブできたものだろうかと脂汗を滲ませる。だが、勝負はこのタイミングだ。

 

「実を言えば、暁の翅は深淵狩りとようやく同盟を結んだところでした。彼らはランスロットに詳しい。僕たちは彼らの情報を当てにして、ランスロットの『証』を探索するつもりだったんです」

 

 真っ赤な嘘だ。確かに深淵狩りの剣士たちはレコンたちに協力してくれていたが、それはオベイロン撃破の過程にあるランスロット討伐であり、その『証』については何も語っていなかった。

 だが、ランスロットの情報を持つ深淵狩りの剣士たちと接触すれば、何か情報が得られるかもしれない。ならば、生き残りの深淵狩りの剣士たちを探し出すことこそが急務だ。

 

「なるほど。今の反オベイロン派では欠月の剣盟を探し出すことはできない。だから、私の力を借りたい。そういうわけだね? 正直でよろしい。それが『本当』ならば、ランスロットの『証』を手に入れる段取りもつくだろう。そうなれば、あとは央都アルンに攻め入り、ユグドラシル城でオベイロンを捕らえるだけだ。私としては公開処刑で斬首よりも絞首が望ましいのだが、どうだろうね?」

 

「それはギーリッシュ様の望むままに」

 

「それもそうだね。さて、そうなると残るは『大義』だ。私が今ここで反オベイロン派を纏め上げる首領として名乗りを上げても、付き従う民衆はいても、アルヴヘイム全土でどれだけの人が呼応してくれるだろうね? なにせ、今や反オベイロン派といえば、深淵にちょっかいを出したせいで赤い月を呼び、アルヴヘイムに災いを招いた大罪人だ」

 

 拭いきれないレッテルは首を絞める毒蛇だ。どれだけレコンたちがオベイロンを倒す意義を唱えても、大多数の安寧の生活を送る人々からすれば、むしろ闇に手を染めた……自分たちの翅を奪った深淵の力を使おうとした反オベイロン派の方が悪だ。つまり、オベイロンは堂々と勧善懲悪を掲げて反オベイロン派を圧殺すれば良い。

 どうやって乗り切る? どうやってギーリッシュを説得する? レコンは垂れる汗を舐め取りそうになるほどに、次なる手が浮かばない。

 

「……ぷぷぷ! 冗談だよ、ジョーダン!」

 

 だが、ギーリッシュは白い歯を光らせて腹を押さえて笑い、零れた涙を指で拭う。

 

「ごめんごめん。私の悪い癖でね。気骨がある奴はどんどん試したくなってしまうんだ」

 

「えーと……」

 

「少し考えれば分かるだろう? そもそも、この数百年……いや、数千年、誰もオベイロンを倒す手掛かりをまともにつかめていなかったんだ。なのに、1から10までお膳立てしてもらわないと頭領を名乗れないなんて、新王の器ではない。違うかな?」

 

 話が読めないレコンに、ギーリッシュは生娘に手解きするような優しい口調で説く。

 

「良いかい? 大義とは要するに『都合の良い理由』なんだ。民衆の過半は正義も悪も気にしない。大義とは戦いに、殺しに、『後ろめたさ』を与えない道具なんだ。だから、私たちは大義を最初から掲げる必要はない。最初はいつも通りの領土拡大戦を続ければいい。そして、私たちに下った方が利益があると相手に思わせる。打算を働かせて裏切りを誘い、密約で篭絡させて内紛を起こさせる。やる事は普段と何も変わらない。むしろ、オベイロンは常にユグドラシル城に籠っているお陰で戦いやすい相手さ」

 

 混乱するレコンと違い、赤髭もロズウィックも既に決着がついていたことは読めていたのだろう。ギーリッシュの変貌に対してアクションを示すことはない。シノンも踊り子を解放し、肩を回して席に戻る。

 ここからは本当の宴だと言うようにギーリッシュは拍手を鳴らして踊り子たちを増やす。料理も次々と新しく並びだし、豊かな音楽が耳を慰める。

 

「銃を使えば、すぐにオベイロンは私たちと反オベイロン派……いや、【来訪者】が組んだと察するだろう。勝負はスピードだ。最初の3日間で近隣都市全てを落とす。そして、僕は十分に領土を拡大した後、声高にオベイロンに宣戦布告する。銃の増産はバムートの工房で行おう。だが、その前にやるべきは父と兄上を含めた後継者候補の速やかな排除……暗殺だ。手伝ってくれるね?」

 

 葡萄酒を嗜みながら、事も無く血の繋がった父と異母兄弟を抹殺を目論むギーリッシュに、レコンは生唾を飲む。

 暗殺。その単語の重みをレコンはまだ知らない。だが、既に人殺しに手を染めたことがあるレコンは、命あるものを奪う禁忌を知っている。

 レコンはどれだけ自分は弱いと言い張っても、アルヴヘイムでは規格外の高レベルを誇る。ギーリッシュの父や兄、彼らを守る騎士を葬ることは、奇襲であれば難しくないだろう。ましてや、手引きするのはギーリッシュなのだ。

 

「ですが、将軍たちは暗殺でバムートの当主の座を奪っても認めないのでは?」

 

 ロズウィックは懸念するように指摘するも、ギーリッシュは不敵な笑みを崩さない。

 

「君達がいなくても、いずれは実行するつもりだった。将軍たちへの根回しは万全だし、私に反感を持つ大臣もそれなりにいるが、父上と一緒に消えてもらおう。愚鈍な当主と愚物の嫡子、そして財を貪るばかりだった貴族。いずれも死んでもバムートは回る。虚しいねぇ」

 

 家族を殺すのに躊躇わないのは、彼にとって『家族』とは父や兄ではなく、母だけだったからなのだろうか。ギーリッシュの少しだけ憂いを帯びた物言いに、レコンは暗殺という新たな試練から目を背けるように葡萄酒を一気飲みする。

 リーファちゃんの為ならば何だってできる。レコンは酒を何度も何度も喉に流し込み、自分にそう言い聞かせる。

 

「飲み過ぎだぜ、レコン」

 

「飲まないとやってられないですよ。僕は……どうして、こんな事をしているか、分からなくなくて」

 

 腕をつかんだ赤髭に、レコンは酔ったせいで涙脆くなったのだろう。頬を濡らして嗚咽と共に胸中を吐き出す。

 本当ならば、ようやく反オベイロン派のリーダーの座についてくれたギーリッシュの前で弱音を吐くべきじゃない。だが、レコンは零さずにはいられなかった。

 

「君が何を悩んでいるか知らないけど、酒に酔って弱音が吐ける内は大丈夫さ」

 

 意外な事に、涙するレコンに声をかけたのギーリッシュだった。彼は空になった杯をテーブルに放ると、吹き抜けの天井を見上げ、太陽の輝きに目を細める。それは懐かしい、取り戻せない過去への哀愁だろうか。

 

「えーと、レコンだっけ? 君はストレス発散が下手くそなんだろうね。男たる者、遊ぶべき時にパーッと遊んで気晴らししないと駄目さ。髭のナイスガイ、彼みたいなタイプを遊ばせるのは兄貴分の役目なんじゃないかい?」

 

「俺もそれを言おうと思ってたところだ。ギーリッシュさん、是非ともレコン君に『大人の遊び』って奴を教えたいんだが、ちょいと力を貸してくれるか?」

 

 あれ? なんか不穏な会話が聞こえる? 涙を袖で拭っていたレコンは、邪悪な笑みを交わし合う赤髭とギーリッシュを見比べ、助けを求めるようにロズウィックに視線を向けるも、彼は先に席を立ったシノンを見送って玄関に向かっている。

 

「この店には『個室』も準備されている。もちろん、アレやコレをしても外部に声は漏れない防音もバッチリ。すぐにレコン君の好きそうな巨乳娘を呼ぼう。なーに、初めてでも心配いらないさ」

 

 退却路を塞ぐように踊り子たちが移動し、羽目を外し時だとばかりに赤髭が景気よくボトルをつかんで葡萄酒をラッパ飲みする。

 この時、レコンには葛藤があった。それは男の欲望と理性のせめぎ合いである。

 まず弁解しなければならない。レコンは恋人でもない、仲間や友人といった分類のリーファの為に、命を懸けて、実力が圧倒的に不足しているアルヴヘイムに乗り込める気概を持った人物である。その一心でクラウドアースを動かし、廃坑都市の壊滅にも負けず、ほぼ再起不能状態だった反オベイロン派に新たな希望の芽を生み出す為に奮闘した。その精神と行動力は一切の不純なく称賛に値する。

 次に今のレコンはたとえ気張っていても、消耗し、傷心し、追い詰められた状態である事だ。頼れる兄貴はいても、思いっきり甘えられる母性を求めるのはしょうがないというものである。

 そして、レコンは純情を貫くつもりでも、赤髭の『これも男の嗜みよん』とばかりの卑猥で恭順を求める猛毒トーク&オーラ、そしてギーリッシュという機嫌を損なわせるべきではない『上司』からの接待ともなれば、決心も緩む免罪符である。

 最後に、レコンもまたおっぱい星人だった。ギーリッシュが呼んだ女の子たちは皆たゆんたゆんであり、彼のブレーキを視覚から完全に破壊するには十分だったのである。

 

 

▽    ▽     ▽

 

 

「彼らも『接待』が終われば、酔っぱらって足下もおぼつかないでしょう。私が責任を持って帰しますので」

 

「ロズウィックさんも大変よね」

 

「いえいえ。私には『遊び』などしている暇はありませんから。ようやく新生暁の翅の再起が見えたといっても、やるべき事は山積みです」

 

 今頃はお店で男2人はギーリッシュ相手に『これも接待』とばかりに存分に欲望を解放している事だろう。思わずアレやコレやを想像してしまいそうになり、シノンは耳まで真っ赤になるのを必死になって防ぐ。

 今回のシノンがやるべき仕事は実力のアプローチと万が一に備えた戦闘要員だった。1つ目の仕事は無事に終わった時点で彼女は用無しである。男たちの酒池肉林に乙女を付き合わせないロズウィックのファインプレーに救われた形のシノンは、今夜の宿の確認をして彼と別れ、また昼時を過ぎたばかりの境界線の町を歩く。

 砂上都市と交食都市の領土境界線という事もあり、人の往来は激しく、また特に商人たちは半ば喧嘩腰だ。シノンは砂色の旅人のマントを羽織り、目深くフードを被りながら市場を見回していく。

 乾燥地帯であり、領土の過半が砂漠の砂上都市は食料生産に不向きな土地だ。逆に鉱物資源には恵まれており、特に貴重な【狐火の石】の産地だ。これはほんのり温かく発光する石であり、夜間の光源としては弱々し過ぎるが、様々な加工を施す事により、都市を彩り、また貴婦人たちの装飾品、騎士たちの武具にも採用されている。

 他にも、全体的に武具・防具が発展していないアルヴヘイムにおいて、素材の質は兵力に多大な影響を与える。砂上都市のイフリート騎士団たちの恐ろしさは、【重鉄】を素材とすることによって他の武器・防具とは一線を画す性能を獲得しているからだ。他の重鉄の産地は黒鉄都市だけであり、さすがの砂上都市も産出量・質共に黒鉄都市には及ばない。

 

(重鉄のSTR補正の高さ。生まれついてSTRが高いイフリート向けってわけね)

 

 シノンが期待しているのは、新たな矢として候補が上がっている【重鉄の矢】だ。砂上都市でも近衛騎士団だけが使うことが許される矢である。本来、重鉄はその性質からも大弓にこそ適しているので生産されるのは【重鉄の大矢】ばかりだ。だが、砂上都市の近衛騎士だけは取り回しが良い重鉄の矢を用いているらしい。

 そして、レコンには≪鍛冶≫がある。ノームの鍛冶屋衆との連携があれば、シノン専用の矢の開発も可能かもしれない。アルヴヘイムでの武装開発の停滞は、オベイロンが意図的に武力の引き上げを封じ込めていたからだ。だが、深淵狩りの剣士たちのように、オベイロンの目を逃れて戦い続けた者たちは、アルヴヘイムの豊富な素材アイテムの活用法を見つけ出し、また装備開発にも余念は無かった。

 

『僕が思うに、アルヴヘイムの下地……開発ポテンシャルは相当なものです。ノームたちとも話しましたけど、彼らのアイディアは斬新ですし、DBOよりも色々と「緩い」アルヴヘイムなら可能なものも多いと思います』

 

 レコンは凄い。シノンは素直に彼を認める。互いの身の上話はそれなりにしたが、レコンの目的は同じギルドの仲間……もっと言えば、好きな女の子を助け出す為だ。チェンジリングなる事件がDBOで発生していたのはシノンにも驚きだったが、真相に1人でたどり着き、なおかつクラウドアースを動かした彼の行動力は驚嘆に値する。

 廃坑都市で頼りにしていた反オベイロン派が壊滅しても、1日と待たずして、どうやったらオベイロンを倒せるのか、どうすれば反オベイロン派を再起させられるのか、ロズウィックや赤髭と熱心に協議を重ねていた。その結果がギーリッシュとの会談であり、次なるステップへの到達である。

 今後の方針では、ロズウィックは確率こそ低いが廃坑都市より生き延びた鍛冶屋衆と接触し、開発していた兵器の数々の再生産を計画している。深淵狩りの剣士たちがどれだけの人材を逃したのか、また焼かれた廃坑都市から少しでも脱出できたならば、十分に目がある。

 ギーリッシュによる砂上都市の支配。それが終われば、彼は速やかに周辺都市に攻め入り、なるべく無傷で交食都市を屈服させるだろう。

 砂上都市がこれまで思い切った領土拡大ができなかったのは食の生命線が細かったからだ。そして、それは足下を見られている事に他ならない。現に今まさに砂上都市の商人が奥歯を噛んで、安値で鉱石を買い叩かれている。対して水・食料はいずれも高額だ。

 この交食都市というアルヴヘイムでも最大級の穀倉地帯にして交易拠点を掌握すれば、周辺都市の繋がりは途切れる。本来ならば、それを拒むべく砂上都市を包囲するのだろうが、ギーリッシュは銃というアルヴヘイムの住民にとっての新兵器を運用することによって、敵に最大の損害を与え、また和平交渉という形で周辺都市を傘下に収めるつもりなのだろう。彼にとって、反オベイロン派……新生暁の翅の首領という席は丁度良い『大義』なのだ。

 

『ギーリッシュは必ず我々の提案を飲みます。彼の野心は想像以上だ。すでにオベイロンの首も狙っているはず。ならば、周辺都市を併呑する上で反オベイロンという「大義」は彼にとっても都合が良い。周辺都市が「折れる」理由になります。彼は声高にこう言うでしょう。「私が反オベイロン派のトップとして首領になる。これは故郷を失う『敗北』ではなく、新たな秩序への「再編」なのだと。この『大義』の為に諸君らの集いを期待する」とね』

 

 つまり、ギーリッシュにとっての『大義』と新生暁の翅が求める『大義』……戦う正当性は似ているようで違うのだ。だからこそ、ギーリッシュは反オベイロン派の『大義』を軽視している。保身に長け、また欲望を持て余す支配層の掌握自体が全体の支配に繋がると理解しているのだ。簡単に言えば民意など不要と考えているのである。これには苦々しくもロズウィックも赤髭も同意した。

 

『明日のおまんまが保証されるなら貧乏人は尻尾を振るさ。1週間後の銭が約束されるなら中流だって不満を言わねぇ。1年後も富が守られるどころか倍になるかもしれないなら貴族は諸手を挙げて歓迎する。それが現実ってもんさ。アルヴヘイムで騎士道や忠義がどれだけ根付いてるのか知らねぇが、あまり期待しない方が良いぜ。なにせ、オベイロンは『神様』としても『王様』としても二流どころか三流だ。自分の神殿作って、硬貨に似顔絵掘って、やる事といえば自分に歯向かう奴の処刑やアレもするなコレもするなの口出しばかり。オマケに民を守る為に軍すら動かさねぇ。アルヴヘイムを統一した王様だとか深淵から皆を守ったとか、そんな数千年前の功績が「今を生きてる連中」に響くわけねぇだろ』

 

『全面的に同意ですね。確かにオベイロンはその力でアルヴヘイムに多くの創造物を作っていますが、その利益の過半は1部の自分に媚び売る都市を恵むものばかり。大半はクラーケンなどの怪物からも分かるように、自分が制定した法に背く者への罰則ばかりです。かつてアルヴヘイムを襲った災い……赤雷の黒獣が現れ、都市の多くが犠牲になった時も、オベイロンは何もしなかった。多くの民は今も赤雷の黒獣の恐怖、そして何もしてくれなかったオベイロンへの反感を抱いています』

 

 そもそも反オベイロン派の原点の1つには、アルヴヘイムに今も語り継がれる恐怖……赤雷の黒獣という災厄がある、とロズウィックは語った。

 黒獣とは廃坑都市を囲んでいた骨に黒毛を生やしたような4足歩行の巨大な怪物だ。青い雷を纏い、その攻撃は嵐の稲妻のようであり、1度暴れれば都市1つの戦力を集結しても撃退できるかどうからしい。黒獣を倒せるのは深淵狩りだけらしいが、1体を倒すだけでも彼ら程の猛者を以ってしても多大な被害を出した。

 そんなアルヴヘイムに赤雷の黒獣……その名の通り、赤い雷を纏う黒獣が現れた。その強さは並の黒獣を凌ぎ、体格も更に大きく、一撃で都市を守る城壁は吹き飛び、騎士たちは雷に成す術なく焦がされ、民は蹂躙された。赤雷の黒獣を前に貴族たちは逃げ出し、勇敢な騎士を除けば、ほとんどは背を向けて遁走し、そして殺された。

 赤雷の黒獣に滅ぼされた都市は数知れなかった。唯一、深淵狩りだけが幾度となく打ちのめされようとも執拗に赤雷の黒獣を追い、僅かばかりの民を守る事に成功したが、その我が身を鑑みずに仲間の骸すらも利用して戦う姿は逆に恐怖の対象となった。

 赤雷の黒獣はやがて深淵狩り達の契約に基づいた魔族たちの集結によって滅ぼされた。当時、赤雷の黒獣を倒した時に生き残っていた深淵狩りは片手の指の数で足りる程であり、駆けつけた魔族たちの大半も死骸と化した。そして、その積み重なられた魔族とはいえ戦士たちの屍は弔われることもなく、人々によって素材……ドロップアイテムだけ奪われて捨て置かれた。これに絶望した深淵狩りの生き残りは、以来民を守る為に剣を振るうことを止め、本来そうであるように深淵を狩ることだけに執着するようになったという。

 赤雷の黒獣も100年単位の昔の物語であるが、オベイロンのアルヴヘイム統一に比べれば、まだ人々に語り継がれている。シノンにも分かるが、オベイロンのアルヴヘイム統一は言うなれば『建国神話』のようなものであり、赤雷の黒獣は歴史で学ぶ『過去』なのだろう。

 そして、ロズウィックが危惧していることの1つが、赤雷の黒獣と同格とみなされる黒獣の存在だ。それこそがランスロットの騎獣にして、黒獣そのものが恐怖の代名詞であるにも関わらず、その異質の強さから名が与えられた、黒獣パールである。

 ランスロット1人でもあの強さ。それにアルヴヘイムに歴史的被害をもたらした赤雷の黒獣と同格のバケモノが組めば、もはや勝ち目など無い。ロズウィックが暁の翅時代に密やかに画策していた事の1つは、欠月の剣盟にかつてのように黒獣パールの討伐を成し遂げてもらう事だった。UNKNOWNとシノンも加わった迎賓館での晩餐会では、この黒獣パールも議題に上げ、2人にも討伐の参加を求めるつもりだったともロズウィックは明かした。

 仮にこのまま順調に反オベイロン派が拡張し、戦力を蓄えたとしても、ランスロットと黒獣パールを相手にすれば大打撃は免れない。何として、限りなく小規模の……願わくば『個と個』の戦いに持ち込むのがベストだ。そもそもランスロットにしても黒獣パールにしても、数の力が何処まで有効なのか分かったものではないのだから。

 

(私が何の役に立つというの? ランスロットに手も足も出なかった私に……何が出来るの?)

 

 青々とした空を見上げ、シノンはいつだって頼りになった黒い後ろ姿を思い出す。どんな窮地も覆してくれた。だが、彼の力でもランスロットは倒せなかった。いや、完全に圧倒されていた。あの場に誰がいれば勝ち目があったのだろうか。

 ふと、胸に痛みが走ったのは小さな嫌悪の棘だ。もしも、もしもあの場にいたのが自分ではなくクーだったならば、仮面の英雄の剣はランスロットにも届いたのではないだろうか。

 

(勝手よね。ここに……アルヴヘイムにいないクーに嫉妬するなんて)

 

 そう、これは嫉妬だ。自分では仮面の剣士の隣に立てなかったという自己嫌悪だ。そして、それは他ならない自分の弱さの証明だ。

 どうすれば強くなれる? そもそも、シノンがDBOで追い求めていた『強さ』とは何だっただろうか。

 あの日……UNKNOWNとの出会いの日、彼はシノンの『強さ』を認めた。人殺しもできない、シノンが『弱さ』と思ったものを尊いものとした。だが、今のシノンには殺しを厭わない覚悟がある。あの日に足りなかった、命を奪うに足る目的意識がある。

 ギーリッシュが砂上都市を掌握する為に、砂上都市の首脳陣を暗殺するのが次の段階だ。将軍などの軍事の要職の過半は既に彼の味方とはいえ、事実上の軍事クーデターだ。後々の反乱の火種になる、反ギーリッシュになり得る者たちを根こそぎ始末せねばならない。その先鋒を務めるのはギーリッシュが最も信頼を寄せている者であり、また今度は『試される』側の新生暁の翅……つまりはシノン達だ。

 特にシノンの≪狙撃≫は暗殺スキルと呼ばれる程だ。レベルが低いプレイヤーならば十分に一撃死の圏内である。特にデーモン化状態ならば索敵能力も上がる為、より≪狙撃≫に適した環境を獲得できる。もちろん、義手では精度は以前にこそ及ばないが、アルヴヘイムの住人ならば狙い撃つなど容易い。

 殺せる。今ならばきっと、迷いなく殺せる。シノンは義手の左手を見つめて拳を握る。

 と、そこで市場の人だかりの向こう側……行商人が往来する十字路で、まるで待ち人がいるように中央で立つ男にシノンは注意を向ける。

 それは『彼』と同じような黒装束であるが、よりどす黒い印象を他者に与えるマントだった。何よりも特徴的なのは『彼』と同じように素顔を仮面で隠している点だろう。

 だが、シノンの心に与えたのは、まったく別の……彼女の胸に埋まった、幾重の瘡蓋で隠された、恐怖の種を蠢かせるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……久しぶりだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして奴がここにいる!? シノンは呼吸が止まるほどに恐怖に呑まれ、膝は震え、麻痺したように舌が動かずに悲鳴も零れない。

 その顔に覆うのは髑髏を模した仮面。だが、それはより金属質である。そして、1部のGGOプレイヤー……ある事件に携わり、その真相の断片を知った者からすれば、まさしく死の象徴である。

 黒衣の死神はまるで亡霊のように、人々の間をすり抜けてシノンの前面に立つ。

 

「……俺は帰ってきた。今度は逃がさない、【魔弾の山猫】よ」

 

 デス・ガン。通称【死銃事件】で多くの人命を奪った、SAOの生き残りにして残虐なる殺人犯。それがGGOでプレイヤーに恐怖を刻み付けたアバターのままシノンの前に立っている。

 死銃事件とは彼の単独で行われた連続殺人ではなく、複数名の共犯者がいた。その内の1人はシノンにとって数少ない、苦痛に満ちた学生生活で彼女に好意的だった1人の少年だった。だが、VR犯罪対策室によって死銃事件は解決し、犯人は1人として残さずに逮捕された。

 事件解決に協力したシノンは犯人のその後も聞き及んでいる。いずれも犯罪者として裁かれ、またVRが携わる事件のケースの1つ……有益な『モルモット』として『特別扱い』で移送されたはずである。その後の事は知らないが、彼女に事情を説明したイケメン刑事の言葉の限りでは、裁判を待つまでも無く、殺人及び殺人教唆として主犯の無期懲役は固く、実行犯を含めた共犯者にも重い刑罰が与えられるという。シノンの友人を含めた幾人かは未成年である事も勘定に入れても、1年や2年で社会復帰はまず不可能だった。

 

「俺が、怖い? そうだ。それで、良い。俺はお前の『死』だ」

 

 右手で銃を模すと、全身から脂汗が滲み出しまま、石化したように動けないシノンの眉間にデス・ガンは触れる。金属の籠手に覆われたデス・ガンの右手は冷たく、そしてシノンへの殺意に満ちている。

 殺される。シノンは喉が震え、瞼を閉ざして涙を堪えながら、同じ黒衣でも心に温もりをくれた剣士を思い浮かべる。だが、祈っても彼は現れない。ヒーローは都合よく登場しない。

 だからだろうか。腹の底の、シノンが幾度となく体験した理不尽……それに耐えかねたような『獣』の嘲笑が聞こえる。

 

 

 

 この程度の殺意で何を揺らぐ必要がある? 私はもっと『恐ろしいもの』を知っている。それに比べれば、コイツの殺気など児戯だ。

 

 

 

 竜の神が本気を出した時の、敵意と神という称号に溢れんばかりの誇りに満ちた殺意は、自身の矮小さを思い知るには十分だった。

 マザーレギオンと対峙した時に、心の底から死にたくないと望んだ、心も体も命も魂も貪られるような殺意は、もはや言葉に表すのも不条理だった。

 そして、シャルルの森で出会ったクーから漏れた殺意は、自分に向けられていないのに、もはや正気を保っているのが愚かしく、恐慌させるほどに狂おしいものだった。

 それに比べれば、デス・ガンから感じる殺意は、あまりにも稚拙。ましてや、ランスロットと対峙したシノンからすれば、何を屈する必要があると嘲えるほどだ。

 だが、それでも彼女の心の傷……最大のトラウマまで根を張った死銃事件は、決して容易く乗り越えられる壁ではない。

 

 だからこそ、シノンは『狂喜』した。

 

 もう体は自由に動く。こんな人が集まる場所でデス・ガンが登場したのは殺し合いを始める為ではない。挨拶以上の意味はない。

 ならばこそ、シノンは余裕を持って笑う。これが本物のデス・ガンか、それともオベイロンが作り出した偽物か。いや、それを問うのは無価値だ。

 シノンの変質にデス・ガンも勘付いたのだろう。右手を離し、静かに彼女を見下ろす。それに睨み返すことなく、むしろシノンは牙を向いて舌なめずりした。

 

「殺し合いがお望み? 良いわ。良いわよ。むしろ『感謝』するわ。あなたが本物だろうと偽物だろうと知った事じゃない」

 

 ああ、神よ。この世界の何処かにいる、不条理ばかりを押し付ける神様。私はあなたに感謝します。シノンは義手の指を鳴らして、疼く殺意を慰める。

 ずっと欲しかった。

 ずっと足りなかった。

 渇望する『強さ』を得る為のピース。過去のトラウマを払拭する為の切っ掛け。

 それはDBOの戦いの中になどなかった。過去にしか存在しなかった。ならばこそ、シノンが踏破すべき『恐怖』はここにある。

 

「私は殺すわ。あなたを殺すわ」

 

「……良い目だ。殺し合いは、相応しき戦場で、巡り合った時だ」

 

 相応しき戦場……つまり、デス・ガンは最初からシノンだけを狙ってきた。ならば、反オベイロン派の画策に気づいたわけではない? 今回の接触は偶然? いや、何でも構わない。既に賽は投げられた。今更どうなろうともシノンの知った事ではない。

 デス・ガンは人の海に溶けると姿を消す。GGOと同じで視覚を欺く光学迷彩を持っているのだろう。オベイロンの関与があるならば、仮に同じプレイヤーアバターだとしても、普通の相手として戦うのは愚の骨頂だ。

 

「ああ、ようやく届く」

 

 きっとデス・ガンを倒せば、私は『強さ』を手に入れられる。もう何にも恐怖する必要が無い心を手に入れられる。

 待っててね。私があなたの隣に立つわ。だってそうでしょう? このアルヴヘイムで、あなたが『戦力』として頼れるのは私だけ。シリカでは力不足。他の【来訪者】は信用ならない。

 アスナを助け出す。その目的だけをあなたは見ていれば良い。私がもっともっと『強さ』を手に入れて、あなたの牙と爪になってあげる。

 

「その為にも、デス・ガンとの舞台を整えないといけないわね」

 

 思わず鼻歌が漏れ出しそうなシノンは、自分の口元を緩みを右手で正す。だが、どうやっても歪みは消えない。

 まずは反オベイロン派を成長させる。デス・ガンがオベイロンの戦士ならば、こちらの動きは察知されたとみて問題はない。あるいは、デス・ガンの口ぶりからすれば、彼は別の者の手の者とも考えられるが、全容が不明である以上はオベイロン陣営という枠組み以上は要らない。

 

「さぁ、忙しくなるわ。早く反オベイロン派を育てないと」

 

 これからは態度を改めて、積極的に新生暁の翅の会合に出席せねばならない。レコンの言う通り、UNKNOWN『を』呼び寄せる為の目立つ旗印が必要なのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ラ・ゾヌの毒の森を出発したユウキは、差し当たってのメンバーであるガイアス、UNKNOWNとの3人による新たな旅がもたらした悲劇に直面していた。

 場所はラ・ゾヌの毒の森から北に出発して2日ほど経ったところにある中規模の町レア・ガースだ。これから赤錆の砂漠にある廃坑都市を目指すのであるが、辛うじて心当たりがあるガイアスを除けば、アルヴヘイムの地理にも詳しくないユウキとUNKNOWNは彼に随伴するしかない。

 ラ・ゾヌ族は朋友たるガイアスと盟友たる深淵狩りの為に、あらん限りの支援をしてくれた。たとえば、3人ではとても準備できなかった額の路銀や各種食糧などであり、僅かに交流がある行商人の紹介である。

 移動の足は何にも勝る時間の節約だ。ラ・ゾヌ族が推したのはヘス・リザードである。騎獣でも戦場に出すには気弱だが、普段使いでは気性が荒い。使いにくいことこの上ないが、あらゆる地形を踏破できる最良の騎獣とのことだった。

 ユウキの場合はアリーヤがいるので、むしろ単身での機動力だけならば3人でもトップクラスである。だが、アリーヤに2人は乗せられないし、乗せても機動力が大きく落ちる。何よりも道案内のガイアスは不可欠だし、ユウキだけが先行しても意味が無い。何よりも速度を尊び過ぎて、それ以外を疎かにすべきではない。街道を全力疾走する黒狼など目立つことこの上ないのだから。

 長旅になる以上は戦闘服よりも周囲に紛れ込む為の偽装が必要だ。ユウキはオベイロン陣営だろうマザーレギオンに顔を見られ、UNKNOWNは【二刀流のスプリガン】として有名になっている。ガイアスはそこまで知名度こそないようだが、反オベイロン派でも最高の戦士ともなればマークされている確率が高い。

 よってガイアスが提案したのは『傭兵父子による乙女護衛』作戦である。

 UNKNOWNは装備を一新し、ラ・ゾヌ族より貰った【バジリスクのレザーメイル】を装備し、更にフード付きコートを装備している。いずれもわざわざ黒色に塗装したのは、彼の決して譲れない拘りなのだろう。幸いにも、流れ者にとって人目を忍ぶ黒色は珍しくないので、ガイアスも何も反論しなかった。目立つ仮面もオミットしたが、代わりに顔を隠すように白い包帯を巻いている。メイデンハーツも深淵狩りの剣も目立つ為、メイデンハーツは擬装用の荒布で覆い、深淵狩りの大剣は持ち運び用の長ケースに入れてある。ケース内にある状態ならば手放してもファンブル状態にならない分、ロックの解除に時間がかかるので咄嗟の対応は難しいが、UNKNOWN自体が片手剣1本でも十分に戦えるので問題はない。

ガイアスは相変わらずの口元まで隠す大きな襟のコート姿であるが、わざわざ追加塗装で黒色に変更した。これはUNKNOWNに合わせての事である。彼は歩み寄りができる『大人』なのだろう。特大剣は分厚い片刃のものであり、彼曰く『長年連れ添った相棒』らしいが、彼の腕に見合わないのはアルヴヘイムの致し方ないところだろう。

 そして、ユウキといえば、瑠璃色のロングスカートのワンピースに、貴族の令嬢が巡礼の旅に身に着けるという銀糸のフード付きマントである。マントの背には太陽と月が描かれており、これはアルヴヘイムでも信徒を集める太陽信仰の加護、そして銀月の君……アルテミスの加護を示す。

 

「えー、アルヴヘイムには幾つもの巡礼がある。最古のものといえば『永遠の巡礼』だな。永遠の探究者シェムレムロスの兄妹だが、一説によれば、大いなる白きモノより手解きを受けたシェムレムロスの妹は卓越した魔法使いだったらしい。そして、月は魔法の力の象徴だ。故に、永遠の巡礼は魔法の探究者であり、人々に慈悲をもたらす歩く聖者として古来より――」

 

「うるさい。少し黙って」

 

「す、すまない」

 

 場所はあちらこちらで乾杯の音色が、気持ちの良いギターの曲が、空いた樽の上で酔った男女の踊りが、女を巡る喧嘩が起こる、宿屋を兼ねた酒場である。レア・ガースは『旅の十字路』とも呼ばれる町で、多くの街道が交差する。だが、交易の拠点としてはではなく宿場町として、また行商人たちが護衛を雇う地として、大いに活用しているのだ。

 交易拠点ではないとはいえ、行商人が集まれば金銭のやり取りが活発化し、様々な物品が集まり、情報も集積する。故に町とは思えない程の繁栄なのだが、どうしても荒くれ者ばかりが揃う為に、傭兵の雇用拠点にしては……いや、だからこそ治安は悪い。

 どうやらガイアスは修業時代によくこの町で護衛の仕事をして稼ぎを得ていたらしく、宿屋【豚の尻】の12代目主とも旧知の仲で、様々な情報と宿の格安利用を取り付けた。

 この旅にガイアスが抜けたならば、ユウキもUNKNOWNも大いに困るだろう。そんな人物に口悪く対応するのは愚かしい真似だ。そもそも、ユウキはそれなりに礼儀を弁えている部類であり、余程の事態でない限り、このような口を利くことはない。

 ならば、理由は単純明快である。それはユウキの身に『余程の事態』が起こり、それは巡礼トークで場の緊張を緩めようとするガイアス、そして素顔を隠す為の包帯が潰れた顔を保護する為の包帯となったUNKNOWNのホームランプレーのお陰である。

 事の起こりは数時間前、ようやくレア・ガースに到着して宿に落ち着いた時である。UNKNOWNたちは購入したヘス・リザードを、それぞれを宿屋の隣にある騎獣小屋に預けることになった。アリーヤのような黒狼はほとんどあり得ないが、飼われている場合もあるらしく、ユウキは宿屋の主人の前でアリーヤに百芸を見せる事で納得させて同伴を許可させた。同じ騎獣小屋に入れては馬などが怯えて大騒ぎになりかねないからである。

 そして、悲劇の留め金はこの時になって外れた。百芸をノリノリで披露したアリーヤは、宿屋の若い娘たちの人気を集め、お腹を掻い掻いさせて尻尾を振りまくるという、『やっぱり若い女の子の掻い掻いはサイコーだぜ!』とヘブン状態になったのだ。これにはユウキも呆れたが、外に放り出されるよりもマシかと諦めた。この判断こそが甘かったと言えばそれまでだ。

 次の悲劇への加速があったとするならば、宿の部屋に1人部屋が空いていなかった事だろう。男の気楽な1人旅など出来る世ではないが、行商人の1人旅は普通だ。故に1人部屋は真っ先に埋まってしまう。ユウキ達が到着した時点で【豚の尻】の1人部屋も余っておらず、次に安い2人部屋しか残っていなかったのだ。

 何が起こったのか、この時点で仮面の傭兵改め包帯剣士と化したUNKNOWNについて熟知している者……特に様々なある種の『トラブル』を解決し続けた白い傭兵は顔を覆って『またかよ』とぼやいて察するだろう。あるいは赤髭の野武士面に至っては無言の男の夢を乗せた、UNKNOWNの前髪をつかんで鳩尾に跳び膝蹴りもあり得たかもしれない。

 悲劇の種を明かしていく。次にガイアスの不手際だった。部屋を2つ頼んだのまでは良かった。だが、彼は『男女別室』と頼まなかった。そして、ガイアスと宿の主が旧知の仲である事も災いした。昔のガイアスは武に明け暮れて荒み、女を堕落の象徴として酷く毛嫌いしていた。故に、事情を知らない宿の主が、ガイアスの連れた見ず知らずの男女を『つがい』と判断してしまうのは無理も無い話である。

 ユウキが先に部屋に入り、アリーヤは女の子たちにヘヴン状態となり、ガイアスの説明不十分が重なり、宿の主が勘違いする下地が出来た。そして、ここに宿の主とガイアスが旧知の仲であるならば、必然として積もる話もある。よって、旅の疲れが溜まったUNKNOWNが先に『部屋で寛ぎたい』と申し出るのは必然だろう。

 この時に宿屋の主が渡す鍵は、はたして『ユウキが入っている2人部屋』か、それともガイアスが男2人で泊まるつもりだった『誰もいない2人部屋』か、それは言うまでもないことであろう。

 部屋に入ったユウキはどう見ても2人部屋のスペースしかない空間に2人分のベッドが並んだ宿に嘆息し、だが彼女が欲してやまなかったものを見つける。

 それはバスルームである。入浴の習慣が無いラ・ゾヌ族はもちろん、廃坑都市の壊滅でボロボロの汚れ塗れになったユウキにとって、体臭も気になる乙女にとって、それは蜜蜂を誘うような濃厚な誘いだった。

 この宿の売りは何といっても『全室浴室完備』である。外壁のパイプラインは全て大金で沸かしたお湯を送り込む為だ。これはレア・ガースでもこの宿だけの特注であり、他の宿とは一線画すというアピールポイントである。その分もお値段は張るが、公衆浴場よりも安全である事から利用客は多い。特に公衆浴場ばかりのアルヴヘイムにおいて、個人でゆっくり浸かれる浴室がどれだけの贅沢品……貴族の気持ちを味わえるかは言うまでもない。そもそも、DBOですら、浴室完備の家屋は少なく、過半のプレイヤーは我慢して公衆浴場を利用しているか、設備ランクの低いこじんまりとしたシャワーを利用しているのだから。

 なお、蛇足であるが、某白い傭兵のアジトは浴室だけは並々ならぬ高性能である。本人曰く『最近、オレがいると風呂で先客も後客も悲鳴が上がるから仕方なく設備強化しただけだ』との事である。ユウキは何もツッコミを入れなかった。入れるべきじゃないんだろうなと察した。そして、ユウキと黄金林檎3人は白傭兵の浴室を家の主以上に頻繁利用しているのもご愛敬である。

 個人浴室。何と甘美な響きだろうか。今でも貧民プレイヤーに『今欲しいもの』アンケートを取れば、『1位:メシ、2位:屋根のある家、3位:風呂』と回答が連発される、堂々のベスト3入りである。

 ユウキは入室15秒で即時反転し、鍵をかけた。窓の施錠もした。カーテンも閉めた。すっかり落ち込んだ気分が微かに晴れやかになった。

 ここでユウキは丁寧にシステム画面から衣服をオミットした。この時、ウキウキ気分が勝っていれば、しっかり者の姉の教育が行き届いていなければ、服をベッドに脱ぎ散らかしていただろう。後の訪問者に『ヒント』を与えることができただろう。

 狭い浴室であるが、風呂桶もあり、お粗末ながらもシャワーもある。安物だが石鹸も置いてある。アルヴヘイムにおいてまずあり得ないサービス精神の塊である。石鹸が無料などどれだけこの宿屋の主には客を想う気持ちがあるのか、もはや計り知れない。ユウキはようやく気が緩み、体をしっかり洗い、今か今かと待ちわびながらお湯を張り、髪を丁寧に薬水で洗ってシャンプーがあればなぁと贅沢な愚痴を漏らした。

 この時! この時もしも! もしも訪問者が早く部屋に入っていたならば! 宿の1階のカウンターで豚肉の串焼きに目移りして貪っていなければ! お湯を張る水音で浴室の『事情』が分かっただろう! だが、悲しくも黒き訪問者は豚肉の串焼きを二刀流持ちして食していた。そのロスタイムが命運を分けた。

 不用心であるが、ユウキが鍵をかけ忘れていれば、訪問者は察しただろう。誰かが内部にいるはずだ。いないならば、唯一無二の別室たる浴室にいるはずだと想像力を膨らませる余地があっただろう。だが、鍵が、しっかりと、かかっていた! それが最後の駄目押しとなった! 加えて言えば、宿屋の主人は浴室にまで鍵を設置していなかった。ちょっとだけコストをケチっていた! それこそが、あるいはこの悲劇の始まりだったのかもしれない。

 少しだけ気分をリフレッシュし、お風呂で膝を抱えてブクブクと息を吐いていたユウキが見たのは、コートを脱ぎながら浴室に乱入してきたUNKNOWNである。

 これだけの関門を見事に突破して素晴らしい評判通りのプレーを見せてくれたUNKNOWNは、まさに拍手喝采ものだろう。ただし、彼にとっていつもと違ったのは、ユウキにとって『彼』の株価は最安値更新中であり、一切の同情の余地などなく、また乙女の裸体を拝んだゴミ以上の意味を持たなかった事である。

 これ以上は双方の名誉に関わるが、UNKNOWNの顔面が潰れた結果がせめてもの救いだろう。ユウキの制裁を甘んじて受けるだけの罪悪感がUNKNOWNにもあり、また彼を殺さないだけの理性のブレーキがユウキにも残っていた証拠である。なお、ユウキが悲鳴を上げた為に乱入してきたガイアスもとばっちりを受けたが、彼に制裁パンチが飛ばなかったのは、ユウキの判断力が辛うじて活きていた証明である。

 バスタオル1枚巻いた姿で真っ黒野郎の顔面を見事に潰す渾身のストレートパンチを放った。だが、ガイアスはここでケアレスミスを起こした。咄嗟の判断でユウキの細腕を後ろからつかみ、必死の説得を試みたのである。混乱したユウキは暴れ、それを押さえつけるガイアスもSTRでは勝っていても女子を力で無理矢理掴みかかるのには気が引けた為に、暴れるままに浴室の外に出てしまったのである。彼には何1つやましい気持ちは無かった。だが、悲鳴を聞きつけたガイアスは部屋のドアを開けっぱなしにしていた。

 悲鳴どころか暴力騒ぎの気配があれば、当然ながら野次馬が集まる。彼らが見たのは、辛うじて今にも解けそうなバスタオル1枚の姿のユウキを背後から押さえつけるガイアス、そして顔面を殴り飛ばされてダウンしているせいで、ユウキをローアングルから窺うような体勢が意図せずして作り出されたUNKNOWNという、傍から見ればいかがわしい方面で説得力満点の奇跡の光景だった。

 ぴぎゃぁあああああああああああああああ! そんな、過去かつてない羞恥の悲鳴がユウキから漏れ、その後は宿屋の主が何とか憲兵沙汰だけは避ける為に尽力してくれた。正確に言えば、憲兵が呼ばれ、2人が連行される1歩手前で禁じ手の『お菓子』で黙らせた。宿の主のガイアスへの信用が無ければ、野郎2人は今頃牢の中だっただろう。

 

「本当に申し訳ありません」

 

 潰れた顔面をテーブルに押し付けて謝るUNKNOWNに、卵で鶏肉を包んだオムレツもどきをナイフで切り分けて食べていたユウキは、ふぅと溜め息を吐く。幸いにも風呂桶にいたお陰で全裸を拝まれたわけでもなく、また膝を抱えていたお陰で目撃された肌面積も重要な部分は守られた。ならば、この制裁はやり過ぎではないかと思う部分もある。

 

「……クーにも見られたことないのに」

 

 だが、ユウキにとってはこれで2つ目の『初めて』を奪われたことになる。1度目はタルカスの不本意パイタッチ。これはクゥリの乱入のお陰で記憶から洗浄された。だが、今回はよりにもよって、絶賛好感度暴落中のUNKNOWNに裸体を拝まれたのだ。しかもバスタオル1枚の姿を不特定多数に目撃されるというオマケ付きである。

 恥ずかしいという感情以上に、ただでさえ穢れているのに、もっともっと……よりにもよってUNKNOWNに汚されてしまった、と彼女の内心を受信できる者がいれば壮絶な勘違いを発展しそうな事を思うユウキは、じわりと両目に涙を浮かばせる。

 泣きたくない。だが、ひっくひっく、とユウキの乙女ハートは軋んで涙を溜める。

 整理すれば簡単な事である。幾らユウキとはいえ、並のプレイヤーが束になっても敵わない凄腕の剣士とはいえ、彼女は女の子である。野郎ばかりの中で女子1人は相応に堪えるものがあるのだ。

 前のクラウドアースチームはまだ良かった。赤髭は信頼に足り、ユージーンはサクヤしか見ておらず、レコンは抹殺対象ながらもリーファLOVEだった。だが、このチームはユウキからすれば、厳つい顔の旧知の間柄でもないガイアス&絶対顔を隠す真っ黒男である。不安を覚えるなという方が無理である。身構えるなという方が無茶である。それでも、ユウキは自身の剣技への自信と持ち前の気丈さ、何よりもクゥリへの一途な想いでそれを表面化させていなかっただけだ。

 だが、ただでさえ精神が弱っているところにこの仕打ちである。ユウキは、絶対に泣くものかと堪えるが、それが余計に周囲の注目を集めている事に気づいていない。男2人にとっては前述の憲兵登場という言い訳無用もあり、まさしく針の筵である。

 

「おい、アレなんだ? 女の子が泣いてるぞ」

 

「あっちの包帯男が不埒な真似をしたんだって。婚前の娘の柔肌を……」

 

「あの恰好、きっと貴族のご令嬢様だろう。お可哀想に。あんな野獣に」

 

「卑劣な奴だ」

 

「なんでも男2人で無理矢理組み伏せて……」

 

「やはり卑劣な奴……いや、卑劣な奴『ら』だ」

 

「しかもあっちの女の子には婚約者がいるっぽいぞ。もしかしたら婚前巡礼かもしれん」

 

「とんでもなく卑劣な奴らだ」

 

 ヒソヒソとした周囲の声に、ガイアスもUNKNOWNも縮こまる。だが、何とかして話題を転換しなければ事態は回復しないとガイアスは何か切っ掛けを探す素振りを見せるも、アリーヤの『ウチのお嬢の柔肌拝んどいて、お咎めなしってのは割が合わんよなぁ?』という殺意全開の唸り声に黙り込む。

 だが、ユウキもいつまでも弱気ではいられないと涙を袖で拭い、零れる寸前で意識を切り替える。

 このまま宿の食堂では落ち着かない。そこで3人は寒空の下で屋台を営むイフリートのオヤジの店に足を運ぶ。おでんのようでおでんではない煮込み料理の数々に安酒。昔から変わらない味だと黒丸サングラスを外して目尻を揉むガイアスは感涙する。

 

「赤錆の砂漠に行くには旧街道を進まねばならん。以前にも話した通り、赤雷の黒獣によって多くの都市が滅んだ。そうして途切れた街道はやがて自然に呑まれ、数々の村や町を取り残している。私も詳細なルートは知らんが、ラ・ゾヌによればかつて廃坑都市の面前に位置したという青蝋都市に行けば目途も立つだろう。だが、廃坑都市の包囲を考慮すれば、赤錆の砂漠はもちろん、道中も深淵に蝕まれてるかもしれん。危険な旅になる」

 

 皿に盛られた煮込み手羽を貪るアリーヤの頭を撫でながら、ユウキは串に刺さった3連ジャガイモに息を吹きかけて冷ましつつ、先程の事態を奇麗にサッパリ忘れようと努めてガイアスの説明に乗ることにした。

 

「だったら、食料も水もたくさん買わないとね。その旧街道はどうやって入るの?」

 

「ここから北に進んだところにある古き城砦門……かつて赤雷の黒獣に破壊された砦の名残がある。そこから伸びるのが旧街道だ。あとは目印になる街道標石を探せば、多少道が外れても青蝋都市にたどり着く。そうすれば赤錆の砂漠だ」

 

「途中で何か注意すべき事はあるのか? 深淵以外の危険を知りたい」

 

 ようやく会話に加わるチャンスを得たUNKNOWNの質問に、ガイアスは腕を組んで唸る。彼曰く、若い頃よりアルヴヘイム全土を旅してあらゆる難関を潜り抜けたらしい。だからこそ、アルヴヘイムの住民でありながらも、DBOプレイヤーに匹敵するレベルを持っているのだろう。それに熟練の技も加われば、装備さえ整えば、正しいシステムの知識さえ得れば、トッププレイヤーにも匹敵するかもしれない人物だ。

 

「言った通り、旧街道はアルヴヘイムにおいて禁忌の1つだ。誰もが赤雷の黒獣ことを忘れたいのだよ。永遠の巡礼者ならば何か分かるかもしれないが、彼らは今や語り継がれることも少ない。閉ざされた雪山に最後の永遠の巡礼者が囚われたと聞くがな。ほら、アレを見ろ」

 

 暖簾を押しのけて、力を籠めれば割れてしまいそうな薄いガラスのコップを持ったまま、ガイアスが指差したのは町の家々の屋根を超えた、暗闇の空の向こう側、月光に照らされた地平線に佇む白色だ。

 それは険しい山脈の類だろうユウキにも分かる。DBOでもなかなかお目にかかれない、ステータスによって強化された運動能力があるプレイヤーでも踏破は難しそうである。

 

「あれが霜海山脈だ。私も若い頃に無謀にも挑戦したが、あまりの険しさに1日と耐えられずに引き返したよ。寒さと吹雪もそうだが、アイスマンと呼ばれる魔物たちが巣食う魔窟だ。奴ら1体が山から降りれば村1つが滅ぶ。尤も山脈から降りたという話は聞いたことが無いがね」

 

「……霜海山脈か。気になるな。寄り道はできないか? 山に入らずとも麓まで行けば、その永遠の巡礼の話を聞けるかもしれないだろう?」

 

「ここからも見えているが、それはその分だけ高く険しい証拠だ。伝説によれば、山脈に囲まれた穏やかな盆地……呪いを解く聖地まで続く地下道が麓から伸びているそうだが、あくまで伝説だ。麓まで行くだけでも3つの村と2つの町と1つの都市を経由せねばならない。アルヴヘイムでも『炎と鉄の黒火山』と並んで『氷と呪いの霜海山脈』と恐れられる難所だ。あの2つを除けば、死地とも称される魔窟はシェムレムロスの兄妹が住まう白い森くらいだろう」

 

 UNKNOWNの要望にガイアスは苦笑して首を横に振る。だが、それを馬鹿にするように屋台のイフリートのオヤジは鼻を鳴らした。

 

「淡き金の薔薇が咲き乱れる、深淵の闇に穢れた終わらぬ黄昏。深淵狩りたちが祀る月明かりの墓所」

 

「オヤジさん、それは……」

 

「ここは出会いと別れがある宿場町。お前らが何処に行こうと勝手だし、何者かも興味はねぇが、魔窟を語るなら月明かりの墓所くらい忘れるんじゃねぇよ」

 

 月明かりの墓所? アルヴヘイムについて無知のユウキ達にはイフリートのオヤジの言わんとする事が分からない。だが、ガイアスには苦々しい思い出があるのだろう。渋い顔をして酒を煽った。

 

「深淵狩り……欠月の剣盟の始まりの地とされているが、私もそれ以上の事は知らないし、実在しているかどうかも分からない。オヤジも場所は知らない与太話だ」

 

「そうかねぇ。噂くらい聞いてるだろ? 各地で狂った深淵狩りたちがバケモノを狩りながら東を目指してるってな。深淵狩りってのは最後には深淵に呑まれちまう、傍迷惑な英雄願望の自殺志願者だ。だが、奴らは深淵に呑まれた月明かりの墓所に、奴らが使命を得たお宝があるって話じゃねぇか。もしかしてたら東の何処かに月明かりの墓所があるのかもしれねぇぜ。東と言えば、あの鬱陶しい女神騎士団の本拠地もあるが、奴らも月明かりの墓所を執拗に探してるって話だしな」

 

 深淵狩りの剣士を貶しながらも、何処か哀れむように、懐かしむように、イフリートのオヤジはグツグツに煮込まれた筋張った蛇の肉をアリーヤに投げる。美味そうに齧る黒狼はユウキに寄り添い、そのふわふわの毛を掌に押し付けた。

 ガイアスの話によれば、黒火山には穢れの火があり、白い森にはシェムレムロスの兄妹がいる。ならば、月明かりの墓所は、もしかしせずともランスロットと関わりがある場所なのかもしれないとユウキは思う。

 きっと、あの廃坑都市でクゥリが戦っていた相手はランスロットだ。銀月で踊る白き傭兵と漆黒の騎士。遠目でもクゥリが『壊れる』音が聞こえた気がした。そこまでして相手をせねばならない相手が並の敵とは思えない。

 UNKNOWNが片腕を失った直接的な要因は、横槍のアメンドーズのレーザーだったらしいが、それを抜きにしてもランスロットは圧倒的だったらしい。UNKNOWNがあれ程までに錯乱していたのも、ランスロットの強さに心が折れてしまっていたからだろう。

 直接対峙していないユウキには、ランスロットがどれ程の猛者だったのか分からない。分からないが、ガウェインがあれ程までに憎みながらも、憧憬も友情も捨てきれなかった存在だ。

 序盤とはいえ、ガウェインと戦ったユウキは、古い深淵狩りの底知れなさを十分に味わっている。むしろ、後半の深淵の魔物……怪物になり果てた時の方が遥かに弱いと感じた程だ。ならばランスロットがどれ程のものかは考えるまでも無い。

 

「なぁ、深淵狩りって何なんだろうな? 俺達をどうして助けてくれたんだろう? どうして、見ず知らずの俺達の命を助ける為に……」

 

 UNKNOWNは静かに拳を握り、月光に照らされた遥か遠い霜海山脈を見つめる。素顔を隠しているとはいえ、包帯巻きになったせいでその双眸は露になっている。だからこそ、ユウキには彼の感情を眼より、濁らぬ声音より、少しだけ感じ取ることができた。

 きっと、彼はあの時、ユウキに殺されても良いと思ったのだ。ユウキが自身の穢れから……病室の暗闇から逃げ出そうとしたように、その為にUNKNOWNの喉を刃で貫こうとしたように、彼は死に逃げようとしていたのかもしれない。

 だが、UNKNOWNもユウキも生かされた。名も知れない、毒の腐った森で屍をナメクジと百足に貪られるという末路を迎えた深淵狩りの剣士によって、こうして考える時間を、悩む苦しみを、そして次なる目的地を目指す歩みを許された。

 穢れと暗闇。ユウキは怖いのだ。独り残された病室の暗闇が怖いのだ。穢れた自分のせいで、たった1つの託された祈りまで醜く汚れてしまうのではないかと恐ろしいのだ。

 

「託したかったからだろう」

 

 若者2人の暗い眼とは違い、ガイアスは苦笑しながら星々が彩る夜空を見上げる。

 

「彼らはそういう連中なんだ。口を開けば『深淵殺す』しか言わないし、舌戦で負けると見れば『だったら剣で語ろう』と実力行使に移る類稀な負けず嫌いだ。だから、役割を全うしたのだろう。連中らしいな。奴らは自己犠牲とすら思っていない。それが『当然』だと信じている。狂ってると罵っても文句を言わんだろうさ」

 

「俺に託されるようなものがあったのかな?」

 

「それは今から探せば良い。言っただろう? 連中は雑草のように何度も蘇る深淵を懇切丁寧に根絶する狂人たちだ。奴らと通じ合えるのは、同じ深淵狩りだけだろうさ。彼らの遺志を受け継げるのも……きっとな」

 

 ガイアスの口ぶりに、ユウキは小さな違和感を覚える。

 アルヴヘイムにおいて深淵狩りは、イフリートのオヤジが言った通りの、深淵を倒す為にひたすら戦い続ける狂人だ。それは反オベイロン派でも変わりなかったはずである。幾らアルヴヘイム全土を旅したとはいえ、ガイアスの理解は一線先を行っている気がした。

 それは立ち入るべきではない彼の過去なのだろう。ユウキはお代を支払うと、アリーヤを連れてレア・ガースの夜の町を散歩する。ガイアスは宿の主に頼んである、明日の支度の確認をすると言って先に宿に戻り、UNKNOWNも何も言わずに姿を消した。

 

「ねぇ、アリーヤ。ボクはどうすれば良いのかな?」

 

 擦り寄るアリーヤの温かさに頬を綻ばせながら、ユウキは冷えた空気で強張る両手に息を吹きかける。ここまで霜海山脈の冷気が夜風に乗って届く為、レア・ガースの夜は大きく冷え込む。

 DBOにログインした時、ユウキはデスゲームを承知していた。多くの人々が狂乱のままに死が交差する世界に囚われることを見逃した。茅場の駒となった日、世界に命を繋ぎ止めた時から、きっとユウキの穢れは濃く深く……決して拭えないものになっていたのかもしれない。

 茅場がどんな計画を立てているのか興味はなかった。ひたすらに、スリーピングナイツが生きた証を……仮想世界に彼らの墓標たる『【黒の剣士】を倒した』という結果だけが死への献花となり、また自分が暗闇から抜け出して姉が待つ、スリーピングナイツが待っていてくれる場所にたどり着けるのだと思っていた。

 神様は間違っている。世界を変えるのはいつだって人の意思だ。ユウキは今もそう信じて疑わない。神様の間違いを見つけて、世界と神と死の恐怖を呪いながら死んでいった皆がいたからこそ、ユウキは『生きる』理由を見つけたのだ。

 

「結局、ボクは……穢れた自分が許された『終わり』を求めていただけなんだね」

 

 膝を折り、アリーヤの首を抱きしめながら顎を撫でるユウキは、ようやく向き合えた自分の本当の姿に落ち込む。

 死は怖くない。今もそうだ。死は隣人であり、常に傍にいる存在だ。それを認めたからこそ、ユウキは強さを手に入れた。神様を否定したからこそ、茅場に駒と認められる程の逸材として生を繋ぎ止めた。

 思い出したのは、弱った体でようやく立ち上がった白い砂浜と太陽に手を伸ばした時に零れた涙だ。

 どうして涙が零れたのか、あの時の感情は思い出せない。だが、そこには暗闇などなく、太陽の輝きだけがあった。

 それはきっと……『未来』なのだろう。ユウキが欲した、暗闇も呪いも消え去った、白紙の『未来』だったのだろう。

 誰もが幸せになりたい。そう望むことの何が間違っているだろうか? ましてや、ユウキはまだ10代の少女であり、病室に何年も閉ざされたまま、仮想世界という新世界で自由を得たはずなのに、唯一の肉親と家族同然の仲間たちの死に囚われた。そして、病室の暗闇に穢れを見出した彼女が、漠然とした光の世界に胸を締め付けられるのは仕方ないだろう。

 汚水が流れる石橋に差し掛かり、ユウキは縁に両腕をついて、遥か地平線の先で聳える霜海山脈を見つめる。

 だが、穢れに満ちた暗闇の中でこそ、ユウキは愛おしい火を見つけ出した。

 まるで全てを焼き尽くす暴力のような業火であり、同時に闇の冷たさに蝕まれた者を受け入れる温かな篝火。

 たった1つの出会いがユウキを変えてしまった。世界を変えるのはいつだって人の意思だと持論するユウキの言葉通り、彼女の世界を変えた。暗闇に焔の温もりと光をもたらした。

 ユウキが最初に惹かれたのは、触れた全てを焼き焦がす暴力の姿だ。それさえあれば……この力を超えれば、【黒の剣士】を倒せると悟った。

 なのに、聖夜の歌声に導かれた先で見たのは、傷だらけで、ボロボロで、膿で溢れた、今にも壊れそうな心を、その過ぎた強さのせいで無理矢理『補えてしまう』姿だった。

 だからこそ、ユウキは火を守りたいと望んだ。その為に祈りを得た。たとえ、火がいつか獣の如く狂える存在になったとしても、その望んだ形を忘れずに憶えていてあげる事こそが彼の救いになると信じた。

 だが、暴力もまた火の側面であるとユウキは知っている。ならば『忘れない』という祈りの本質とは何だろうか。彼が怖れる『彼』で無くなる時とは何だろうか。

 いつしか固執し、汚れきった両手で誰にも渡さないと握りしめた祈り。それを暗闇を食む穢れがゆっくりと腐らせているような気がして、ユウキは怖くて堪らない。

 ユウキは自分の両手が穢れでどす黒く汚れている姿を幻視し、石橋の縁に擦りつける。それはまるで、ガムを踏んだ子供が必死になって汚物を剥ぎ取ろうとしているような、稚拙で、どうしようもない衝動。

 

「汚い」

 

 落ちない。どれだけ擦っても、両手の穢れが消えない。これでは祈りを守れない。

 

「汚いよ。落ちてよ。汚い汚い汚い汚い」

 

 だが、穢れはどんどん溢れていく。両手を染めていく。ユウキはより一層強く擦るも、アリーヤが袖を噛んで止めようとする。だが、構わずにユウキは擦り続ける。

 

 

 

「汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い」

 

 

 

 ぴちゃり。そんな温かな『何か』が頬に触れ、ユウキは自分の右手首を掴む力強さに我を取り戻す。

 それは包帯で顔面を覆ったUNKNOWNだった。彼は動揺しながらも、まるで問い正すように真っ直ぐ見つめている。

 そこでようやくユウキは気づく。自分の両手の皮膚は無残に剥げ、赤黒く滴るダメージエフェクトは大気を漂って血臭を生み、また大部分はどろりとして手首を伝い、また橋に小さな血溜まりを作っている。

 

「治療しよう。この程度なら欠損にならないけど、流血のダメージが……」

 

 流血を緩和する軟膏を取り出したUNKNOWNに、ユウキは隙を見て手首を振り払う。彼の手から逃れたユウキは後ずさり、心配するアリーヤに右手を舐められながら、赤紫の瞳を冷たく滾らせる。

 

「要らない。ボクに触れないで」

 

「……俺が嫌いなのは知っている。俺だってキミの事は好きになれない。でも、だからって仲間を放っておくなんて――」

 

「そういう言い訳が大嫌いなんだよ!」

 

 ユウキの鋭い一言に、UNKNOWNは言葉を飲んで押し黙る。

 嫌だ。このまま言葉をぶつけ合えば、また自分の醜さを知るだけだ。UNKNOWNは何も悪くない。赤錆の砂漠にたどり着くまで……廃坑都市に到着するまでは『仲間』であることを約束したのだ。ならば、彼が怪我をした自分を気遣うのは何ら不思議ではない。

 

「……そうだな。言い訳、だよ、な」

 

 ユウキの血で濡れた右手を見つめたUNKNOWNは微かに自嘲して軟膏を投げ渡す。ダメージフィードバッグで顔を顰めながらも、ユウキは受け取って両手に塗ると、夜風を嗜みながら雪が積もって真っ白な霜海山脈を望むUNKNOWNの隣に移動する。ただし、その間には前足を石橋の縁に乗せたアリーヤが挟まれた。

 

「やっぱり、俺はキミの事が好きになれない」

 

「それ、何度目の再確認だっけ?」

 

「森を出発してからだけなら5回目くらいかな?」

 

「今更だよね。ボクもキミのこと嫌いだし。まぁ、今日のお風呂は……殴ったのはさすがに悪かったと思うけど」

 

 いや、自分に落ち度は1つも無かったし、乙女の羞恥を乗せた1発くらいは不可抗力なのでは? だが、UNKNOWNに非があったとも言い辛い。ユウキは秤にかけた末に審判員と裁判官の全員一致の有罪として内々に処理することを決めた。

 月光で濡れた霜海山脈に、ユウキは少しだけ胸を締め付けられる。それは聖夜を思い出すからだろうか。雪と月光の中で出会った、聖女の如き歌声の主の『痛み』を知ってしまったからだろうか。

 

「キミも茅場の駒なんだろう?」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「キミは明らかに俺の殺害に固執している。でも、後継者に与するような人物にも思えない。だから、DBOにログインした明確な『目的』があると思ったんだ」

 

「……そうだよ。死んだら目覚めないゲームオーバーは同じでも、ボクは皆と違って、キミと同じで、デスゲームと承知でDBOにログインした。1万人以上を見殺しにした重罪人だね。殺人幇助になるんじゃないかな?」

 

 とはいえ、現実ではすでに死人扱いになるように茅場が偽装したユウキにとって、もはや現実の法など興味はなかった。彼女の戸籍という……紺野木綿季が生きた証は墓の下に埋まってしまった。

 

「だったら、最初は『同じ』か?」

 

「多分そうじゃないかな」

 

 DBOがデスゲームと承知のユウキと他のプレイヤーでは心構えが違う。またDBOに関する予備知識がないとはいえ、アドバンテージはベータテスター以上だ。そこで茅場が後継者と取り決めたルールとして、ユウキの参加はDBOが軌道に乗ると予想される3ヶ月後に限るとした。その際にユウキはプレイヤー上位100人の平均値のレベルが与えられた。UNKNOWNも似たり寄ったりの条件だろう。茅場には【黒の剣士】が参加している事を除けば、他に事前に準備した駒がいることは聞かされていない。

 ユウキは終わりつつある街でプレイヤーに辻デュエルをしながら流離いの中でボスに拾われ、UNKNOWNは傭兵として舞台に上がった。【聖域の英雄】と【絶剣】……どちらも茅場の準備した駒でありながら、片方は貧民プレイヤーの守護者、片方は犯罪ギルドの元締めである。茅場も少し位は頭を悩ませたのではないだろうか。

 

「キミは後悔してないのか? たくさんのプレイヤーを見殺しにした事を悔やまないのか?」

 

「……何も感じてなかったよ。でも、今は、そんな自分が大嫌いになったところ……かな?」

 

 それ以上は何も言わなかった。きっと傷の舐め合いになるだろうと互いに察知したからだろう。

 

「ねぇ……どうしてクーと組まなかったの? クーなら、きっとキミにどんな理由があろうと、昔みたいに『相棒』になってくれたと思うよ」

 

「それはシリカに……いや、これも言い訳だよな。俺は……彼に『力』を見出したから。キミからすれば憎たらしいだろうけど、今だって彼の『力』は俺の理想なんだ。それさえあれば、アスナを助けられたかもしれない。死なせずに済んだ。SAOであんな悲劇を生まないで済んだ。そう驕ってしまうんだ」

 

 驕り。その言葉にUNKNOWN自身の自己理解の断片を感じ取れて、ユウキは何も言わなかった。彼は気づいているのだろう。理想は所詮何処まで行っても理想に過ぎないのだと。自分があの『力』を手に入れることは出来ず、望めば望むほどに底なし沼に溺れるように、自分を見失うだけなのだと。

 それでも渇望せずにいられないのが『力』だ。彼を『力』を求める呪縛に絡め捕っているのは、もしかしたら、他でもない、アルヴヘイムにいる目的なのかもしれないとユウキは思う。

 

「アスナさんってそんなに素敵な人だったの? ボク、あまりSAOについて詳しくないんだ。知ってる人は多く語りたがらないし、クーは……その、過半が、ほとんどが、というかほぼ全部、キミの話ばかりだったし」

 

 口を開けば【黒の剣士】の話ばかり! ボクはクーの話が聞きたいのに、SAOについて教えてとねだれば、『あの時の「アイツ」は本当に凄くて――』やら『「アイツ」がホイホイした女がこれまた面倒で――』やら『「アイツ」と泊まってた宿にあの女が……ああ、窓に! 窓に!』やら、そんな話ばかりだ。

 あれ? 更にその半分以上が【黒の剣士】絡みの女性問題処理についての奮闘記だったような気が? ユウキはそんな事ばかり考えていると、UNKNOWNは嬉しそうに微笑んだ。

 

「一言じゃ説明できない。でも、彼女は……とても眩しかったんだ。俺にとっての太陽だった。優しくて、強がりで、意地っ張りで……理解し合えない時もあったけど、歩み寄る大切さを教えてくれて、彼女のお陰で……俺の心は救われたんだ」

 

「……そっか。大好きだったんだね」

 

 幸せそうに語るUNKNOWNの横顔を見て、ユウキは少しだけ評価を改める。

 彼は本当に心の底から必死だっただけなのだろう。『仮想世界最強』なんて周囲が勝手に押し付けた幻影にすぎないのだろう。それは確かに、彼自身が演じ、また到達してしまった『英雄』という称号に由来するのかもしれないが、彼自身は我武者羅に走り続けただけだったのだろう。そんな後ろ姿に多くの人が惹きつけられたのだろう。

 

『「アイツ」が1番カッコイイのは後ろ姿なんだ。追いたくなる。追いつきたくなる。そんな背中が最高にカッコイイんだ。オレの憧れかな?』

 

 それはユウキに語ってくれた、クゥリの理想だった。クゥリにとって【黒の剣士】とは『力』ではなく『強さ』の象徴だった。

 最近のクゥリは【黒の剣士】に理想を語らない。ナグナ以来、彼は何処か悲しい顔をして【黒の剣士】の『強さ』を呟く程度だ。

 

「ボクさ、キミについて、実はよく知らないんだ。周りの風聞だけ。クーの話だけ。ボスはあまり語りたがらないし。だから、教えてよ。SAOで何があったのか。キミの物語を。クーの物語を。アスナさんの物語を……ボクに教えて」

 

「俺の話はともかく、クーとアスナの話なら大歓迎だ。言っておくけど、俺は結構長話しちゃうタイプだけど、覚悟はOK?」

 

 悪戯っぽく笑うUNKNOWNに望むところだとユウキは頷く。

 いつかキミを倒す。それしか穢れを清める方法はない。それしか思いつかない。

 だが、ユウキは知りたかった。あれ程までに倒すことに固執していた彼の本当の姿を。何よりも、クーが理想として、親友でありたいと望み、また2人の間にある絶対に割り込めない絆の物語を知りたかった。

 白と黒の物語。それは全く違う道を歩んでいた2つの色が交わった物語。まずは黒の物語を紐解こう。そうすれば、白の物語の何かが見えてるかもしれないのだから。

 

「それじゃあ、まずは俺とアスナの新婚生活について――」

 

「あ、惚気話はカットでお願いね」

 




近くて遠い、そんな日々のアルヴヘイム。

それでは、259話でまた会いましょう!

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