SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

アノールロンド攻略開始。精鋭たちは旅立つ。




Episode18-26 霜海山脈

「矢の追加補充、投げナイフの改良案、雀の涙ほどの回復アイテムの作成、それにデスクワーク。肩が凝りますね」

 

「だが、貴様のお陰で組織として機能するようになった。感謝するぞ」

 

 かつては要塞だったが、今は面影を残すばかりの外壁と壊れたバリスタ、そして破砕された城門跡が痛々しく侵略の軌跡を残す旧メロッド城砦。

 盗賊の根城であったはずの城砦には、今や多くのテントが張られ、拠点の1つとしての賑わいを花開いていた。

 ユージーンが荒くれ者を束ねて早10日。『凄腕がデカい事を始めるらしい』という曖昧な噂を流し、一攫千金を夢見る若者や傭兵が続々と旧メロッド城砦に集結し始めていた。

 もちろん、単純に噂を流したのではない。まずは腕の立つ荒くれ者たちを屈服させたユージーンに、宗教都市コスコンの有力者と接触させたのだ。反オベイロン派狩りが苛烈さを増し、女神ティターニアへの信仰心を示し、より高い地位を獲得するには、とにかく功績が必要なのだ。故にコスコンには仕事を貰おうと多くの傭兵が集まっていたわけである。その中でも実力者を早くも束ねた男ともなれば、雇い主側から契約条件と独占の為に交渉の場がもたれる事くらいはシリカにも読めていた。

 テーブルにつけばユージーンではなくシリカの仕事である。秘書として、マネージャーとして、UNKNOWNを公私で支え続けたのは伊達ではない。努力で培った高い事務能力、幾度となく危うい橋を渡って鍛えた交渉能力、そして相手を油断させる容姿をフルに活かして、シリカは雇い主の1人である大司教【ゴードン】との契約を取りまとめた。

 いかなる組織にも必ず派閥が存在する。人間は歯車に徹することはできず、主義主張と欲望が必ず一致団結の妨げになる。シリカはそれをSAO、VR犯罪対策室、ラストサンクチュアリという3つを経験したことによって絶対なる真理として確信している。

ゴードンはその中でもシリカにとって最も都合の良い存在だった。

 人並みにある権力欲、捨てきれない良心、狂信まではいかない信仰。良くも悪くも平凡な男だった。40歳半ばであり、妻には先立たれており、子も病で亡くし、跡取りは親戚の血筋から養子として引っ張るしかない。そんな男である。

 

「まぁ、ティターニア教団としても都合が良かったのでしょう。人手が足りずに集まるのはいつだってモラルが足りない人たちですから。ユージーンさんのような、豪快かつ道理を弁えている人物は、アルヴヘイムの倫理レベルからするとかなり貴重な類ですよ」

 

「実際に貴様も寝込みを襲われたわけだからな。そのような起伏の少ない体に欲情するとは理解し難い」

 

「その喧嘩……買いましょうか?」

 

「オレが助けに入らねば、貴様は駄犬共の慰み者になっていたわけだが?」

 

「ピナがいましたから大丈夫ですよ。彼らなんてブレスで10秒とかからずに9割殺し出来ます」

 

「なるほど。では、オレが見た半裸で泣きじゃくる貴様は幻だったわけか。そういう事にしておいてやろうではないか」

 

 口元を歪めるに止めるユージーンに、この男にあんな弱々しい姿を見られる羽目になるとは、とシリカは睨む。

 シリカとして女の子なのだ。アルヴヘイムという特殊な環境下でストレスも甚大なものになっている。動き続けるには疲労の限界であり、ようやくユージーンが構想していた組織の概観が整ったこともあり、糸が切れたように寝入ってしまっていた。

 油断していた。そう馬鹿にされてもしょうがない失態だった。麻痺を盛られ、体が動けない状態で両手を縛られたのだ。いかにレベルが高いとはいえ、シリカのSTRは決して高い方ではない。それどころか、必要最低限にしかポイントを振っていないので1桁だ。数人がかりで押さえ込まれれば、簡単に自由を奪われてしまう。

 そこに乗り込んできたのがユージーンであり、シリカが最後の手段としてピナがブレスを吐く手前で事件は解決した。男たちは憲兵に突き出され、今頃は宗教都市の暗い地下室で呪いの焼き印を押され、強制労働の炭鉱へと連行されているだろう。

 

「……そもそも戦闘に関していえば、私はあまり役に立たないんです。ピナの援護無しではDBOで生き残れません」

 

「そのようだな。≪テイマー≫は希少な準ユニークスキルだが、それが実力の証明ではない。どれだけ優れた武器があろうと、有用なスキルが揃っていようと、本人の実力が伴わねば意味が無い」

 

「耳が痛いですね」

 

「貴様を責めているわけではない。それを理解していない馬鹿が多過ぎると常々思っているだけだ」

 

 旧メロッド城砦の、かつての城砦主が執務を行っていただろう、簡素な執務室では蝋燭が静かに火を揺らし、多量の書類の山を挟んで組織運営に必要不可欠な事務処理をしながらユージーンとシリカが無駄話を重ねている。シリカはチラリと書類の狭間からユージーンを窺えば、頬杖をついた彼の憂鬱な眼差しが目に入った。

 最強の傭兵の1人などと言われているが、『強いのはユニークスキルを持っているからだ』や『クラウドアースに依怙贔屓されて希少なアイテムを持っているから』などという陰口もまた絶えない。

 だが、確かにユニークスキルは強力であるが、同時に癖が強過ぎて、プレイヤーのスタイルが限られてくるのも事実だ。たとえば、UNKNOWNは元々がそうだったとはいえ、≪二刀流≫を持つが故にそれを発揮する為の装備構成を余儀なくされる。本来、片手剣のメリットとはトータルバランスに優れている事だ。可もなく不可もなく、あらゆる状況に対応できる器用貧乏とも言い換えても良い。

 片手剣のメリットは≪剛力≫無しでも片手で振るえる上にソードスキルも使える点だ。故に空いた手に盾や魔法触媒を持つことができる。特に聖剣騎士団が推奨するスタンダードスタイル……片手剣と盾は今も揺るがぬ高い生存率を持ち、また盾でガードして隙を窺って攻めれば堅実なダメージを与えられる。また≪盾≫自体も攻撃力を持つので、シールドバッシュなどで咄嗟の打撃属性攻撃としても活用できる。

 故に≪片手剣≫のメリットを潰し、攻撃特化に変化させるのが≪二刀流≫だとシリカは分析している。攻撃力の増幅とソードスキルを含めた桁違いのラッシュ力は魅力的ではあるが、二刀流使いの少なさからも分かるように、そもそも人間が全力を出せるのは1つの武器が限度なのだとシリカは思う。傭兵たちはその業務上攻撃傾倒の盾を持たないスタイルが主流であるが、それでも二刀流使いと呼べる者は少ない。

 

(まぁ、あの人は二刀流とか以前の話ですけど……)

 

 いつも『彼』の隣にいた白い傭兵を思い出し、シリカは溜め息を吐く。DBOでも異質の、多種の武器を同時に使いこなす傭兵は1人だけだ。あれは二刀流とは線引きが違う。武器ジャンルも性質も違う2種の武装を同時運用し、なおかつ他の装備に切り替え、アイテムを並列使用するスタイルは真似したくても真似できない。SAOの頃も大概だったが、より自由度が増したDBOでは歯止めが利かないように戦法が変質している。

 

「でも、困りましたね。まさかクゥリさんがアルヴヘイムに来ていたとは。それ、絶対にアルヴヘイムで山ほど死人が出るって決定したようなものじゃないですか」

 

「今更だな。廃坑都市の犠牲は計り知れん」

 

「そういう意味じゃないですよ。あの人が関わった案件は敵も味方もろくでもない結末を迎えることで定評なんです。あれは死神とかそんな使い古された表現しか思いつかない疫病神っぷりですから」

 

「貴様の【渡り鳥】に対する辛口はアレか? UNKNOWN絡みか? なるほどな。『秘書』にはなれても、奴の隣にいる『相棒』は今も昔も【渡り鳥】だけ。それが憎たらしいわけか」

 

 あっさりとユージーンに図星を突かれ、シリカは面白くなさそうに顔を背けた。

 ユージーンによって明かされた情報はシリカの頭痛の種だった。

 わざわざ『彼』は今回の案件に関わらせないために……アスナを救い出すという目的にクゥリを関与させない事を決心していた。だが、白いカラスは災厄の象徴であるように、白の傭兵はこちらが誘うまでもなくアルヴヘイムを訪れていたのだ。

 ユージーンとは別行動ともなれば、雇ったのはクラウドアースではないだろう。シリカにも読み切れないが、いつも通りならば謀略大好き太陽の狩猟団であり、次に強引な戦力拡張が目立つ聖剣騎士団、大穴で何処とも知れない誰かの依頼だろう。彼が自発的に動いてアルヴヘイムに来ているとはシリカには思えなかった。

 

「ユウキさんも暴走していなければ良いですけど。アルヴヘイムまで追いかけてくる心意気は認めますけど、そもそも独りで動かさないように24時間3歩後ろに待機しているくらいの尾行体制があの戦闘馬鹿には必要なんですよ。ちょっと目を離すと何処かに消えてますからね」

 

「いきなり何の話だ?」

 

「愛はワガママじゃないと駄目なんです。押しつけがましく、相手に疎まれるくらいに、濃く、強く、深くないといけないんです。愛は利己的なものです。愛するのは『愛したいから』以上の理由なんて必要ないじゃないですか。自分が何者かなんて関係ありません。『我、愛す。故に我あり』くらい堂々と胸を張って言えないと」

 

「だから何の話をしている?」

 

「だけど、やっぱり彼女はそこまでの領域にはたどり着けてないと思うんですよねぇ。愛は狂気的で当たり前じゃないですか。愛する人の為に核爆弾のスイッチを押せるくらいじゃないと失格なんですよ。むしろ、愛する為なら家族を笑顔で絞首台に送れるくらいじゃないと。まぁ、さすがに私もしませんよ? だって、そんな真似をしたら『彼』が傷つくじゃないですか。無暗に愛する人を傷つけたいと思いませんし。同じ理屈で、『彼』に群がる女だって表立って処理するような真似はしたことありませんよ?」

 

「だから何の話をしている!?」

 

「愛の話に決まってるじゃないですか! 馬鹿ですか!? 死ぬんですか!?」

 

 机を叩いて蝋燭を揺らしながら立ち上がったシリカに、体格に優れたユージーンは気圧されたように椅子を引いた。その姿を見て、シリカは咳を1回入れて腰を下ろした。

 

「女の子には乙女回路が標準装備されているんです。女の子に面倒臭くない子なんていないんです。男共はそれが分かっていないんです」

 

「ならば、男というのは面倒臭い女の子ほどに可愛く思えるものなのだろうな」

 

「え? 面倒臭い人が可愛いわけないじゃないですか。ユージーンさんは趣味が悪いですねぇ」

 

 釈然としない顔のユージーンを横目に、シリカは大きく嘆息しながら頬杖をついた。

 

「茅場も後継者もオベイロンも死ねば良いのに。女の子は乙女したいだけなのに、何が悲しくてデスゲームなんてさせられているんですか?」

 

 どれだけ愚痴を零しても解決しない。林檎が詰まった籠の中でふかふかの羽毛で覆われた幼竜ピナの寝息を聞きながら、シリカは欠伸を噛み殺す。

 やるべき事は山積みであり、今後のプランの為にはミスが許されないのだ。シリカはユージーンと組み立てた計画を再確認する。

 

「まずは深淵狩りが契約を結んだ魔族たちを戦力として集結させるとして、正直言って私たちだけが動いても仕方ない部分は大きいですよね?」

 

「ああ。下手に反旗の旗を振れば、アルヴヘイムの過半がオレ達を数の暴力で押し潰そうとするだろう。群がる雑魚を振り払って逃げることくらいならばオレも貴様も難しくないだろうが、オベイロンが廃坑都市同様に、強大な戦力の刺客を差し向けてきた場合、こちらは一方的な消耗戦を強いられるだろう事は予想できる」

 

「いっそ、あなたがアルヴヘイム攻略の鍵を握る3大ネームドを撃破したらどうですか? ボス単独攻略は伊達じゃないところを見せてくださいよ」

 

「あれは腕試しのようなものだ。確実にネームドを倒さねばならない以上は、オレが単身で挑むよりもUNKNOWNや【魔弾の山猫】を集めた方が勝率は高い。それに、現状で最悪の展開は各個撃破される事だ。だからこそ、オレ達は来たるべき時に向けて戦力を集めねばならない。それに、噂に過ぎないが、西の方ではきな臭い動きがあると聞く。急いだ方が良いだろう」

 

 堅実な手段を訴えるユージーンに、シリカは呆れたように目を細める。腕試しでボスに単身で挑むなど命知らずにも程があるからだ。

 

「ボス単独撃破が腕試しねぇ。男って馬鹿なんですか?」

 

「馬鹿でなければ男は務まらん」

 

 あっさりと切り返され、シリカは今日の分の業務が終わったと羽ペンを投げ捨てて椅子にもたれ掛かる。

 組織とは言っても、戦い慣れた傭兵たちを束ねることが目的だ。そうして事態が動いた時に使える戦力を整えておく

 

「……仮にですよ? これから戦争が始まったとして、あなたはどうするんですか? オベイロンが廃坑都市のように表立って戦力を派遣する事は無いでしょう。せいぜいが助太刀にアルフを送り込むが関の山。そうなれば、あちらの主戦力は『何も知らない』アルヴヘイムの住人たちです。オベイロンの命令のままに、アルヴヘイムで長年に亘って続いた妖精王の治世の下で『反乱』を鎮圧させる『正義の軍隊』です。あなたは殺せるんですか?」

 

「さぁな。オレも好き好んで殺しはしない。殺さないで済むならそれに越したことはない」

 

 ユージーンの曖昧な回答は致し方ないものだろう。シリカはこれ以上の追及に意味はないと苦みと渋みが眠気を覚ますハーブティを口にする。

 

「そういえば、あの噂を聞きましたか? 宗教都市で『ティターニア様を見た』という噂が広まっているそうですよ。高位の奇跡を使い、貧民に治癒の施しを与えているそうです」

 

「コスコンは都市クラスでティターニアを狂信している。そのような噂が立つのは年中行事のようなものだろう」

 

「そうなんですけど、どうにも噂の広まり方に違和感があるんです。こう、人為的なニオイと言いますか、効率的に噂を広めているロジックを感じるというか」

 

 敢えて目撃者を限定させ、同時多発的にコスコンで目撃例を生み出し、なおかつ孤児院などの『情報が集積し易い』場所の付近に集中させている。そして、噂が広まるにしても速度がある。意図的に情報収集するならば小さな噂でも集めるのは苦でもないが、草の根で人々の噂話として大々的に拡散するには相応の時間が要する。SNSのような高速情報通信ツールが存在しないアルヴヘイムは尚更だ。

 古今東西、最も噂話を拡散させるうえで有力とされる人材は何か? 商人だろうか。貴族だろうか。軍人だろうか。宗教家だろうか。断じて否である。

 

「噂を広める主役は宗教都市の『奥様』たちです。井戸端会議を狙い撃ちしているんです」

 

「……確かに怪しいな」

 

「でしょう? 少し調べてみる価値があると思いませんか?」

 

「良いだろう。時間は余っているとは言い難いが、西の動向が気になる。ゴードンもオレ達をカードにして他の大司教たちとの交渉にも使いたがっているようだしな。だが、オレはキノコ王に謁見せねばならん。貴様に任せても良いな?」

 

 ユージーンの顔色が曇っているのは、どうやらキノコ王がいる森にて、ここ100年以上無かった不穏な事態が発生したからだ。

 大きな古い森はキノコ人の領域だ。キノコ人は近寄れば攻撃してくるが、目視しても余程に接近しない限りは襲ってこないらしい。だが、唯一の例外として、逃げるばかりで無害な幼体キノコ人たちが攻撃された際には、一族が一致団結して森の侵入者は排除しようとする。

 だからこそ、東の住人はキノコ人の森では決して彼らを傷つけない。だが、森で狩猟する狩人の話によれば、大量虐殺された幼体キノコ人の死骸を発見したらしく、キノコ人たちは異様な昂りを見せているとの事だ。このような環境下でキノコ王に、深淵狩りでもないユージーンが謁見を求めるのは自殺行為である。

 

「まぁ、私の方は何とかなるでしょう。各地でレギオン化が多発している事件も気になりますし、それも含めて情報収取してきます。それに……噂は真で案外本物のティターニアかもしれませんよ?」

 

「フン。寝言はベッドの中で言え。詳しい事情は探らない約束だが、貴様とUNKNOWNの目的はティターニア。彼女だけには手出し無用。そういう条件でオレは組んで情報を明かした。その代わり、貴様も忘れるなよ。サクヤを助け出す為に尽力しろ」

 

「はいはい。しかし、チェンジリングですか。どうやら予想以上にオベイロンは、私たちの想像以上にDBO自体に混乱を巻き起こしているみたいですね。本当に死ねばいいのに」

 

 細やかな『ジョーク』で互いの距離を測り合いながら、シリカは今度こそ堪えきれずに顎が外れそうな程に大口で欠伸を掻いた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 朝目覚めれば、既に【渡り鳥】の姿はなく、『行ってくる』という書置き1枚がテーブルの上に放って置かれ、ザクロは思わず溜め息を吐いた。

 昨夜の宴で自分が何をしでかしたのかは鮮明に憶えている。酔ったという言い訳も出来ない程に【渡り鳥】を弄り倒したのは快感だった……というのは嘘偽りのない本音であるが、霜海山脈に挑む前夜にあれこれプレッシャーをかけ過ぎたのではないかとも自省している。

 

「……朝ごはんくらい作ってあげたのに」

 

 シャロン村から借りている家の台所には、せめて霜海山脈に挑む前に食べさせようと思っていた朝食の食材が籠に詰められている。ザクロが所有している残り少ない食材を使えば、シャロン村の台所事情など関係なく、思う存分に腕を振るってあげられたのだ。その中にはあと1食分はあるだろう激甘ソース(オムライス用)もある。

 仕方なく自分のお弁当のオムライスを作り、残りのソースをすべて使用したザクロは、手早く朝食を済ませると、朝陽が昇ったばかりのシャロン村の冷たい空気に肩を震わせる。

 

「【渡り鳥】は今頃霜海山脈かぁ」

 

 出立が夜明け前ならば、既に1時間以上前に単身で、誰にも見送られることなく、1人で霜海山脈に旅立ったのだろう。

 シャロン村の為に。ザクロはそう願って【渡り鳥】を送り出したかった。笑いながら背中を叩いて見送りたかった。

 思い出したのは、昨夜の【渡り鳥】の言葉だった。

 ザクロは井戸の水を汲み上げ、刃のような冷たさに浸された水面を見つめながら、星夜と月光の中で微笑んでいた【渡り鳥】を思い出す。

 DBOで仲間の死は日常的だ。僅かな油断が死を招き、油断せずとも死は流れ込む。弱き者は容赦なく膝を折り、強き者は更に強き者によって叩き潰される。

 きっと【渡り鳥】は強過ぎたのだろう。あらゆる理不尽な死が襲い掛かろうとも、返り討ちに出来る程に強かったのだろう。それは単純に『力』という意味ではなく、彼はどんな状況でも心折れずに立ち続けられるからだろう。 

 恐ろしい。純粋に、ザクロはその姿が恐ろしいと感じる。ランスロットを相手にしても、まだ立ち向かえる意思を保てる【渡り鳥】は、まさに戦いと殺しの申し子だ。彼の心はどうすれば折れるのか、復讐者であったザクロでも思いつかない。

 シャルルの森でも、ナグナでも、廃坑都市でも、彼は立ち上がった。そして、立ち塞がる敵の全てを倒した。ならば、霜海山脈に潜む【氷の魔物】もきっと倒せるだろうとザクロは漠然と『諦め』に近い感情を覚える。

 そう……『倒せてしまう』のだろう。誰の力を借りずとも、彼の爪は敵の血肉を削り、彼の牙はその喉元を食い千切る。

 

(私は馬鹿!? これじゃあ、【渡り鳥】が負けることを願ってるみたいじゃない! 彼が勝てなかったら、私もシャロン村の人もずっと霜海山脈に囚われることになるのよ!?)

 

 桶に張られた冷たい井戸水に顔面を浸し、ザクロは悲鳴を堪えて気泡を生みながら自罰に堪える。

 ネガティブな思考の理由は単純明快だ。酔った勢いであれこれ言った挙句に、心地良い温かなベッドで丸まっている間に【渡り鳥】は何も言わずに出発してしまったからだ。そもそも、彼自身はほとんど家に帰った試しが無かったので出立に気づけという方が不可能であるが、それならば酔い潰れるまで酒も飲まずに自重し、今朝に備えるべきだった。

 つまるところ、要は『怒り』なのだ。あれだけお膳立てしてあげたのに、【渡り鳥】は村人とザクロに見送られるチャンスも不意にして、『独り』で出発した。それが許せないのだ。

 

「たまにはさ、『英雄』を気取っても良いんじゃない?」

 

 井戸の縁に腰かけて霜海山脈を見つめながら、ザクロは濡れた顔をタオルで拭き、小さく嘆息する。

 彼ほどに『英雄』から程遠い人物もいないのだろう。どれだけ苛烈に戦っても、多大な戦果を挙げても、決して謳われることなく、讃えられることもなく、ひたすらに恐怖ばかりを生んでしまう。

 だからこそ、ザクロは『英雄』としての気分を味わってもらいたいと思った。たまには良いではないか。自分が戦った後に、大きな称賛と喜びの喝采を得ても良いではないか。そうすれば、彼は少しでも報われるのではないだろうか。ザクロなりの優しさだったが、彼には伝わらなかったらしいと後悔する。

 

「まぁ、そっちがその気なら、こっちにも考えがあるけどね」

 

 ムフフ、とザクロは加虐心たっぷりの笑みを描く。こうなれば、霜海山脈から帰ってきた【渡り鳥】を垂れ幕とファンファーレでお迎えしてあげよう。そうすれば、あの澄まし顔も瞬間凍結し、胴上げすれば顔を真っ赤にして止めろと叫ぶに違いない。

 これこそ復讐プランで良いのではないだろうか? あの【渡り鳥】が慌てふためきながら胴上げされる姿を肴にしてオババと乾杯する。今からでも心躍る計画であるとザクロは拳を握る。

 思いっきり驚かせてやる。ザクロは楽し気に笑うと、同じく水汲みに来たらしい樵が前を通りかかり、何気なく見た霜海山脈に眉を顰めた。

 

 

 

 

 

「うわぁ、こりゃ吹雪が来るな。今日は村の外に出ない方が良いな」

 

 

 

 

 

 吹雪? ザクロは目を白黒させ、樵の言葉の意味を理解するのに時間をかける。

 

「ねぇ、ちょっと。吹雪って……どういうこと?」

 

「あ、ザクロちゃん。おはよう。どういう事も何も、見ての通りさ。霜海山脈に雲がかかってる。あの動きは間違いなく吹雪が来るよ。そうなれば村も真っ白さ。薪を全部の家に配って吹雪に備えないと凍死して全滅しちまう」

 

「そんなに酷いの?」

 

「うーん、どうだろうなぁ。この時期に吹雪は珍しくないけど、あんな雲の動きは見たことが無い。ここ10年で1番の吹雪になるだろうね。1晩越すだけで済むかどうか……」

 

 樵の自信無さげな発言に、ザクロは唇を震えさせる。

 今日を【渡り鳥】が出発の日に選んだのは、羊飼いなどの話から、霜海山脈の晴天が予想されていたからだ。だが、樵の話の通りならば、霜海山脈は視界すらも真っ白に塗り潰す極寒の世界に変貌する。寒冷対策をしているとはいえ、装備まで専門的に整えることはできず、せいぜいが蓄積を減らす丸薬を準備できた程度だ。加えて吹雪ともなれば、視界には大幅な制限がかかり、DEXも下方修正が入り、寒冷の蓄積速度も飛躍的に上昇する。そんな状態では攻略など不可能だ。専門的な対策装備無しでは死に至る。

 

(わ、【渡り鳥】なら大丈夫。放っておいても何とかするに決まってる。だって、お前は……お前はいつだって『独り』で何でも出来ちゃうんだから)

 

 だから、私には何もできる事なんて無い。動いても迷惑をかけるだけ。ザクロは自分に何度も言い聞かせる。

 それに、攻略不可能と判断すれば、【渡り鳥】も撤退するくらいの判断はするはずだ。ならば、自分がここで起こすべきアクションは何1つない。

 彼は『独り』で戦える。戦えるならば、私が何かをしても足手纏いになるだけなのだから。

 

「私はベストな判断をした。お前に迷惑をかけない、最良の選択をした。そうよね?」

 

 なのに、私は何をしているのだろう? 家に戻ったザクロは着慣れた村娘の服を解除し、全身に密着性の高い忍者を思わす鎧を装備する。

 破損した短刀は切れ味も落ち、霜海山脈のモンスターには通じないだろう。だが、弱点となる火炎属性の強力な呪術が使える。加えて『取って置き』もある。これならば、一々交戦せずに突破だけを考えれば【渡り鳥】に追いつくこともできるだろう。それに万が一の場合には、時間こそかかるが『最後の切り札』もある。

 ベッドに腰を下ろし、気合を入れるように深呼吸する。イリス抜きでダンジョンに単身で挑むのは久方ぶりである。本当の意味でのソロだ。誰も声をかけてくれない。誰も助けてくれない。自分以外に頼るものなどいない孤独な世界だ。

 怖い。ザクロは指先が小刻みに震えている事実に苦笑する。傭兵たちにとって、未知のダンジョンに単身で挑むのはあまりにも当たり前の日常だ。だからこそ、彼らには莫大な報酬が約束され、それに伴う戦果と成果が要求される。

 だが、ザクロにはイリスが常に傍にいてくれた。彼女がサポートしてくれた。励ましてくれた。恐怖で押し潰されそうになる度に、彼女が会話で気分を紛らわしてくれた。だが、今はイリスもいない。

 それでも、ザクロはいつものように頭の上であれこれ小言を呟くイリスの重みを感じ取ったように小さく笑った。

 

「幾ら【渡り鳥】でも吹雪が本格化してからでは撤退しきれないかもしれない。だから、私がすべきことは彼に追いついて吹雪の旨を伝える事。スピード勝負ね。楽勝よ。そうでしょう、イリス?」

 

 いえいえ、楽観は死を招きますよ? そんな聞き慣れた溜め息が聞こえたような気がして、ザクロは苦笑しながらベッドから腰を浮かした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 夜明け前に出立し、霜海山脈に踏み込んだオレは周囲を舞う4体の雪蜂に思わず感嘆の声を上げそうになった。

 ザクロの≪操虫術≫で手駒にした雪蜂たちは周囲の索敵や囮になり、それだけで霜海山脈を進むのは格段に楽になる。なにせ、霜海山脈は等しく雪に埋もれ、常にDEXには下方修正が入り、モンスターから逃げるのにも一苦労するからだ。

 アイスマンの索敵は主に視覚で行われるので、隠密ボーナスが格段に下がる複数人で構成されたパーティならばともかく、単独ならば≪気配遮断≫を用いれば遭遇のリスクは大きく下げられる。だが、アイスマンの最も恐れるべき探知方法……もといエンカウントはプレイヤー間で通称『警鐘』と呼ばれる周辺モンスターを集まるタイプのトラップだ。これが雪の下に無数と埋もれており、踏み抜くと爆竹のような連鎖音を響かせてアイスマンを呼び寄せる。

 当然ながら≪罠感知≫が無いオレではトラップを事前に察知することは出来ない。普段ならば本能……ヤツメ様が導いてくれるのだが、今は相変わらずのストライキ中だ。だからこそ、霜海山脈の癖をつかむ必要があった。

 アイスマンを呼び寄せる警鐘トラップは、彼らが戦いやすい障害物が無い広い場所に設置されている。そして、アイスマンは近隣で同族が戦闘していると増援として駆けつけるオペレーションが組み込まれている。しかも個体数はそれなりに多い挙句、リポップスピードが尋常ではない為、瞬く間に増援に次ぐ増援で形勢は不利になる。だが、6体以上同時に戦闘に参加することはない。

 確かに強力なモンスターであるが、『命』があるわけでもない、ごく普通のオペレーション通りに動くAIだ。これはモンスターでも『命』がある傾向のアルヴヘイムでは異質である。つまり、この霜海山脈はアルヴヘイムで元々設置されていたダンジョンに他ならないという証拠だ。

 そして、同時にアルヴヘイムにおいてモンスターにまで『命』が多いのは……生態系を育んでいるのは、オベイロンが何らかの手を加えた結果だろうとも分かる。

 オベイロンの狙いは恐らくDBOの再現だったのだろう。だが、奴は『成果』しか見ていなかった。『命』あるAIは確かに強い。オペレーションに支配されないが故に、常に思考し続けるが故に明確な攻略パターンが無くなり、またプレイヤーを全力で倒そうと創意工夫し、戦いの中で成長すらも遂げてくる。

 だが、アルトリウスが、シャルルが、シャドウイーターが強かったのは『命』があったからだけではない。彼らには戦いを貫く意思があったからだ。

 アルトリウスには騎士を求めるが故の決闘の意思があった。

 シャルルには武人としての誇り高さがあった。

 シャドウイーターには命懸けで守らねばならない者がいた。

 そして、それらは彼らが『命』はなくとも経験の中で見出した確かな『理由』であり、それこそが『命』を発露させる礎になった。

 歴史シミュレーションの中でオベイロンはそうした『戦力』となり得るAIを欲していた。彼の下にアルトリウス級が何人も揃っていたならば、想像を絶する戦力として機能しただろう。だが、実際のところでは、廃坑都市で襲ってきたのはアルヴヘイムに最初から存在しただろうネームドであるランスロットだ。仮にオベイロンの下に強大な戦力が集っているならば、キーネームドであるランスロットを派遣するはずがない。

 考えてみれば当たり前だ。DBOの『物語』は過酷だ。平穏な時代はあるが、乱世に……火が陰る度に世界の命運を握る戦いが繰り広げられたのだ。対してアルヴヘイムは確かに環境自体は過酷であるが……DBOの『物語』に比べれば、奇麗に整えられた箱庭なのだ。それどころか、オベイロン自身がかけた多くの制限によって成長の余地が潰されてしまっていた。『英雄』が生まれる下地が奪われていた。

 だが、幾つかの成功例もあるだろう。たとえば、オババの話によれば、黒獣なる深淵の怪物は強大な力を持っているという。話の通りならば、廃坑都市を包囲していた青い雷撃を纏った怪物たちだろう。

 しかし、それでもオベイロンの望む水準に到達しなかった。彼が求めていたのは、アルトリウスのような、ダークライダーのような、AIにおける『規格外』と呼べる存在だったに違いない。

 

「そうなると、どうしてオベイロンは妖精たちをプレイヤーと同じにしたんだ?」

 

 恐らくだが、アルヴヘイムの原形では妖精たちもNPCだったはずだ。だが、今ではレベルやスキルを持つプレイヤーと同じシステムが適用されている。

 モンスターとの戦いの中で成長させるには、能力が固定されているNPCでは不適切だった? ならば、DBOと同じようにシミュレーションさせれば良かったのでは?

 いや、それが出来なかったのか。アルヴヘイムは既にステージとして確立されてしまっている。恐らくだが、DBOにも歴史シミュレーションが行われたはずであるが、その時はゲームシステムは何ら適応されていなかった。言うなれば、本物のファンタジー世界の理屈がまかり通っていたのだろう。レベルもステータスもスキルも無い、個々人の才覚と努力と経験、そしてソウルが強さの証だった世界があったのだろう。

 そして、アルヴヘイムの歴史の中で妖精たちから『収穫』されたのがアルフなのだろう。自分が求める水準には到達していなくとも、十分に手駒としては使えると『妥協』した兵士たちだ。

 分からない。何が分からないかと言えば、茅場の後継者だ。これはオレの勝手なる推測に過ぎないが、オベイロンは後継者が嫌うタイプの人物ではないだろうか?

 いかなる理由であれ、後継者の仮想世界に対する情熱、DBO作成への熱意は本物であると認めるしかない。DBOの本来の目的はどうであれ、戦闘システム・スキル・フレーバー要素・イベント数、いずれもあらゆるタイトルの追随を許さない充実っぷりだ。

 後継者にとってDBOは玩具箱のようなものなのだろう。選び抜いた玩具が揃い、自分が遊ぶ最高の空間を仕上げ、オレ達プレイヤーを迎え撃って痛めつける事に愉悦を感じている。ならば、彼はどうして敢えてオベイロンという異物を許容したのだろうか。

 まぁ、そもそも後継者の思考をトーレスするには限度がある。オベイロンを殺せば何かしらの回答が得られるだろうくらいに胸に疑問を留めておけば良い。

 背負う死神の槍を抜き、遭遇した両手に剣を持った二刀流のアイスマンへと振るう。ランスブレードの刃は打撃属性が高く、斬撃属性はお粗末だ。だが、アイスマンの表面の氷を砕く為には打撃属性が不可欠であり、相性は抜群である。

 アイスマンは両手の剣を振るって連撃で仕掛けるも、その動きは狩人の予測を使うまでも無く見切れる。薙ぎ払い、突き、左右でテンポが異なる斬り払い、突きと斬撃の組み合わせ、いずれも問題なく対応できる。足下の雪でDEX下方修正が入ってこそいるが、最小限の動きで回避するだけならば支障はない。

 まずは喉を潰して増援効果を持つ≪ハウリング≫を潰す。乱舞斬りを繰り出すアイスマンの喉元をランブレードの剣先で薙ぎ払い、砕けたところに体を捩じって溜めた力を解放するように素早く突きを繰り出す。ランスとしての強烈な刺突攻撃はアイスマンの喉を貫いた。

 

「【瀉血】」

 

 そして、まだ終わらない。今の突きのモーションは死神の槍が持つ1つの能力を解放するものだ。貫かれたアイスマンの全身から赤黒い光の槍が突き出し、その表面の氷を剥ぎながら内部より槍達磨にする。

 だが、アイスマンのHPは赤く点滅して残存している。本当にタフなモンスターだ。だが、スタンしたところに躊躇なく頭部を叩き潰すようにランスブレードを振り下ろそうとするも、早くも救援に駆けつけた2体目のアイスマンの氷の礫が邪魔に入り、仕方なく回避行動を取る。

 2体か。狩人の予測を使えば……いや、早計か。この程度は切り抜けられる。仲間のアイスマンの背後に瀕死の1体は回り込み、固定砲台となるように次々と氷柱を撃ち出す。その間に氷の大盾と槍を持ったアイスマンが前衛を務め、更なる増援が到着するまで粘るフォーメーションを完成する。

 雪蜂を囮にして逃げても良いのだが、下手に追跡されても面倒だ。ランスブレードの柄に仕込まれたトリガーを押し、ギミックを解放する。

 蛇槍モード、解放。ランスブレードの刀身は複数に分かれ、分厚いワイヤーに繋がって蛇の如く暴れ狂う。そして、分裂した刀身の断面とワイヤーから滴るのは黒い泥……アルフェリアの苦痛の象徴だ。

 滴り落ちればムンクの叫びのように、まるで世界を呪うように苦悶の表情が泡立つ。どう見ても呪われた武器であるが、グリムロックでもこのエフェクトは排除しきれなかった。それはアルフェリアのソウルの『記録』として、彼女が絶望して狂った苦痛が刻み込まれていたからなのか。

 良いだろう。どうせ出し惜しみは無しだ。蛇槍モードで大盾潜り抜け、足を薙ぎ払い、膝を突かせた1体目に向かってランスブレードの分裂する刀身間の繋ぎ目より泥を染み出させながら振り下ろす。

 それは黒い泥を滴らせる重い一撃。ランスブレード本体と泥による多段攻撃だ。ランスブレードで表面の氷を破砕され、続く泥で連続ダメージを負ったアイスマンは槍を地面に突き立て、霜柱の連撃を生み出すも、追尾性を供えたそれをオレはランブレードで薙ぎ払って砕いて止める。

 アルフェリアのソウルを使用した事により、死神の槍バージョン3は大きな変化を伴った。

 まず、死神の槍は物理属性と希少性の高い闇属性攻撃力を持っていた。だが、一方で闇属性とは闇の眷属……つまり深淵系に対して効果が薄い。それは深淵狩りであるオレにとっては非常に都合が悪い。しかし、アルフェリアのソウルを使用した事により、物理属性と魔法属性に変化した。魔法属性はポピュラーだけに対策もされ易いのだが、そもそもランブレードの主なダメージソースは物理属性であり、魔法属性は期待半分程度で良い。

 一方で生み出される泥は純闇属性であり、神族やその眷属を始めとした相手に特効ダメージを与える。また、泥には相手の毒耐性を『弱体化』させるという地味に凶悪な要素を持っている。つまりデバフ攻撃が出来る暗器との相性は最高だ。

 先程のように斬撃のように泥の闇属性で火力を増幅させられるが、コツがいるので上手く扱わないと逆に隙となってしまう。また、ギミック中は常時滴るが、ダメージはほぼ無いに等しいので効果は薄い。また、贄姫の水銀のように遠くまで斬撃を飛ばすような真似も泥だけでは出来ない。

 だが、この泥こそがバージョン3をより凶悪なものにしている。分裂した刀身の間で泥が大量に纏わりつき『凝固』する。

 

 

 

「死神の槍バージョン3……『第3』変形【泥槌】モード」

 

 

 

 STR出力を引き上げ、時間加速の影響のせいで脳が燃え盛るような感覚の中で、オレは両手で特大剣級の長さと分厚さを獲得した『純打撃属性』と化した死神の槍を振り回す。

 保てるのは3秒が限界だ。1歩の踏み込みの次には腕が千切れんばかりの遠心力を生む固まった泥の大剣でアイスマンを粉砕する。この形態では≪両手剣≫と≪戦槌≫のステータスボーナスが増大し、またSTR補正に大きく傾く。ただし、一振りにおけるスタミナ消費量も特大剣級に馬鹿みたいに高まっているので連用は出来ない。

 最後は瀕死のアイスマンだけ。最後の攻撃とばかりに、多量の冷気を纏った氷の礫を雨の如く放出する。回避が間に合わない面攻撃。被弾は確実だ。

 

「叫べ、アルフェリア」

 

 凝固した泥が剥がれ落ち、左手で持つ分裂した刀身が完全に戻ったランスブレードの表面で、苦痛の泥が泡立つ。そして、泥が生む苦悶の表情……その口より悲鳴が溢れた。それはランスブレードを構えたオレの正面に悲鳴の障壁を生み、氷の礫を全て弾き飛ばす。

 奇跡のフォースには矢や銃弾を弾き飛ばす効果がある。【アルフェリアの悲鳴】はそれと同様である。魔力こそ使用するが、オレにとっては貴重な面攻撃に対する緊急防御手段だ。ただし、大矢やソウルの槍などには貫通されるだろう。だが、アルフェリアの叫びは魔法属性と闇属性を大きく減衰させるので、魔法と闇術への脅威度が下がるだろう。

 贄姫がグリムロック傑作の『攻撃特化型』ならば、死神の槍バージョン3は『攻防一体型』に生まれ変わった、オレの最強の手札だ。蛇槍モードでは≪鞭≫にもステータスボーナスが割り振られてしまうので武器スキルを持たないオレでは攻撃力が低減するのは歯痒いが、それを除けば打撃ブレードによる安定した攻撃力、ランス特有の重たい刺突の一撃、ギミックによる搦め手、【磔刑】や泥といった凶悪な能力、優れた耐久性能とガード性能と隙は無い。なお、ステータスボーナスが分散し過ぎてオレ以外ではまず使えない。ギミックと能力の癖も加えれば難易度は贄姫以上であり、使いたいという気持ちも失せるだろう。

 あとは修復素材が決定的に不足していおり、また修理1つでも費用の高額化は免れない点だろう。グリムロック曰く『たとえボスやネームドとフルで3連戦しても壊れない性能を目指してみました!』らしい。なお、使用した素材リストと運用時の修理コストを見たグリセルダさんは無言でグリムロックにケツパイルした。

 なお、ヨルコ曰く『ミックスグリルみたい』らしい。なるほど。言い得て妙だ。

 ミラージュランで加速して瀕死のアイスマンの右脇を駆け抜けながら、腰の贄姫を右手で抜刀し、居合斬りでその胴を両断してトドメを刺す。リザルト画面を確認し、アイスマン特有の遺体を探って【呪氷の結晶】を得るとすぐに廃棄する。売ればコル稼ぎになるし、素材としても有用なのかもしれないが、今はアイテムストレージを圧迫するだけだ。だが、それでも遺体を適度に漁るのは有用な【氷の銀花】が稀に得られるからだ。これを素材にして調合すれば、短時間だが大きく水属性防御力を高める【冷たい蜜薬】が作れる。

 贄姫の水銀の刃の性質を利用した新技も幾つか考案しているが、まだ実戦投入していない。足場が雪では活かしきれないし、耐久度を消耗しても面白くない。ぶっつけ本番は嫌であるので適度に練習する相手を探すとしよう。

 だが、贄姫と死神の槍の左右持ちはなかなかに性に合っている。どちらもギミック武器であり、性質は全く異なるも、互いに邪魔することなく利点を活かし合える。特に攻撃傾倒であり、普通のカタナに比べれば頑丈な部類でも≪カタナ≫の宿命からは脱せれない贄姫の耐久という弱点を補う意味でも死神の槍は有効だ。

 

『ねぇ、それってもう槍じゃないわよね?』

 

 と、そこで思い出したのは呼吸をするように、グリムロックも敢えて無視し、空気が読めない酔いどれヨルコさえも指摘しなかった、この原形を残さないNの遺品に対して、ザクロは見事なツッコミを入れてくれたことだ。

 

「死神の……死神の……死神の、槍剣? いや、剣槍? これだな。死神の剣槍」

 

 帰ったらグリムロックに頼んで名称変更を正式にしてもらうとしよう。ランスブレードとして『剣』の性質を得た以上は剣槍が最も相応しいだろう。

 死神の槍改め、死神の剣槍を背負い、オレは少しだけ上機嫌になって雪を踏み鳴らす。Nの遺志……『力』が宿る武器は、たとえその姿を変えようとも、彼の誇り高い『力』を脈々と受け継いでいる。そして、それはアルフェリアのソウルを得て、彼が到達しえなかった『力』を獲得している。

 死神部隊か。N以後、オレは誰とも遭遇していないが、獣狩りの夜にダークライダーと再会したように、彼らもまた管理者側の戦力としてDBOで暗躍している。

 そもそも後継者の狙いは何なのだろうか? 奴が真のチュートリアルの時に否定する事を望んだ『人の持つ意思の力』とは、恐らくだが、100層目で『アイツ』が見せたモノを言うのだろうが、どうして後継者は排除に拘る?

 考えてもしょうがないと諦めたいが、こうも真っ白な風景ばかりでは気分も滅入るものだ。

 雪は嫌いではない。サチを思い出せるからだ。彼女の尊い『人』の心……あの聖夜に浸み込んだ彼女の願いが白色の中で輝いているような気がするからだ。

 でも、それだけではない。オレの名前。プレイヤーとしてではなく、オレの本当の名前は、こんな冷たい世界で見出されたものだからだ。

 

「そろそろ吹雪も近いか。急ぐかな」

 

 雪は嫌いではない。でも、感傷に浸っている暇もない。雲行きが怪しくなり、青空から灰色の暗雲になり始めた霜海山脈は吹雪に包まれるだろう。今日を狙ったのは晴天だというシャロン村の住人たちの予想に基づいたものであるが、この事態は昨晩の内に予定に組み込まれていた。動揺も焦りも無い。それに霜海山脈の性質は見抜けている。吹雪が来る前に『到達』できれば問題は無い。

 と、そこでオレは風景に違和感を覚える。この道は事前に調べた通りだったが、こんなにも奇麗な『面』の白だったろうか。

 罠……いや、この感じ……過去に経験した覚えもないが、大よそ予想がつく。片膝をつき、雪を掻き分けるように手探りして分かったのは、今まさに自分が進もうとしている、霜海山脈の奥へと進む道は巨大なクレバスであるという事だ。

 クレバスとは簡単に言えば雪版の落とし穴のようなものだ。実際の登山でもクレバスに落ちて死亡した例は多い。雪が積もれば見た目は地面と変わらず、また実際に渡れてしまう事も多いからだ。地理を把握している熟練の登山家でも、吹雪のような悪環境と蓄積した疲労が仇になってクレバスという天然の致死トラップに嵌まることがある。

 オレはクレバスの突破方法を思い浮かべる。先日きた時にはここには無数の崖がありながらも細道のように通れたはずだ。だが、確信を持ってそのルートをなぞることは出来ない。成功率は6割……いや7割といったところだろう。致死の3割リスクは戦闘以外で背負うには少しばかり重過ぎるし、慎重になるに越したことはない。

 この道は奥に進む上での最短になるのは間違いない。これから迂回ルートを探すとなると骨が折れるし、吹雪のタイムリミットに間に合わない確率は高い。そうなれば、専門装備を整えていないオレでは寒冷状態は免れないだろう。

 一気に駆け抜けるか? ミラージュランとラビットダッシュを使えば……いや、止めた方が良いな。このクレバスが何処まで続いているかハッキリしない。

 だが、足場も確実にあるだろう。正確にそこだけを踏み抜けば行けるか? シャロン村で仕入れた粗鉄の投げナイフを抜き、大よその狙いをつけて投擲する。投げナイフの威力と重さならばクレバスが崩壊することもなく、また雪を貫いてその下に地面があれば音で判断できる。

 茅場の後継者なりの配慮なのか、霜海山脈では最大の雪の深さは腰までにもなるが、過半はくるぶしが埋まる程度で済んでいる。それでも十分に深いが、スタミナが続く限りは動けるアバターならば何とかならないこともない。あの男のこういう気配りはプレイヤーへの安全配慮に還元されるべきだと切に思う。

 とはいえ、シャルルの森以降はスタミナ消費に伴う疲労感や発汗も深刻にプレイヤーの精神力を削るのに役立っているので、アバターのスタミナ量=戦闘継続時間とは言い切れない部分もある。精神的疲労を抜きにしても、スタミナを全て絞り尽すまで戦えるプレイヤーは確実に減っただろう。まぁ、そもそもスタミナ切れになるような戦いの時点で死の1歩手前だと自覚すべきなのだろうが。

 それを考えれば、オレの持つ狼の首飾りはスタミナ回復速度を飛躍的に高めるので、スタミナ消費に対して回復が上回れば、とりあえずはスタミナ切れも無い。ソードスキルも燃費が良い≪歩法≫が中心であるし、スタミナ総量以上に長く戦い続けられるだろう。まぁ、キアランとの実質的トレードアイテムだ。これくらいの性能はあるべきだろう。むしろ、普通ならば破格過ぎる首飾りの能力よりも圧倒的に格上だったアルトリウスの聖剣がおかし過ぎただけだ。

 そういえば、アルトリウスの聖剣は彼がかつて出会った月光……それを拒んだ彼が月明かりを映し込んだ水面より見出した、言うなれば月光の水鏡であり、ハッキリと言えば偽剣だ。それでもアルトリウスの聖剣は凄まじい性能だった。まさしく英雄の武器だった。ならば、本物の月光とはどれ程のものなのか。

 強い武器はあるに越したことはない。無論、キアランに聖剣を譲ったことに後悔も口惜しさも無いが、本物の月光がどれ程のものなのかという興味は尽きない。

 まぁ、グリムロックならば『月光が得られない? だったら、私がキミの月光を作ろう! だから素材プリーズ!』くらい言い出しそうだが。まぁ、月光関連の素材は得られなくもなさそうだし、頑張るだけ頑張って集めてみるか。

 

「これで良し、と」

 

 投げナイフで大よその目印をつけた。確率は7割から8割に上昇といったところだろう。判断材料としても音は乏し過ぎる。ヤツメ様がストライキを止めてくれればこんな手間とリスクを背負うこともないのだが。

 目印にした投げナイフのところまで跳び、オレは死神の剣槍を足下に深く突き立て、先端が硬い地面を捉えた感触を左手の痛覚で知る。遠くの距離程に雪を完全に貫く程に投げナイフを投擲はできていない。だが、ナイフを投擲し続ける間も記憶の風景を思い出し続けた。これならば8割どころか9割で渡れるだろう。

 こういう時こそ七色石のような目印になるアイテムを使いたいが、そんな便利アイテムを詰める程にアイテムストレージには余裕があるはずもない。やはりザリア関連がアイテムストレージを喰っているか。携帯食料も備蓄は少ないし、そろそろアルヴヘイムでの本格補給も視野に入れなければ。それに耐久度回復アイテムのエドの砥石も残り少ない。死神の剣槍はともかく、贄姫は丁寧なケアが求められる。

 

「少し急ぐか」

 

 クレバスでモンスターに襲われては困る。ザクロが付けてくれた雪蜂も残り1体だ。デコイにするにしてもクレバスではオレが逃げられないので効果は薄い。せいぜいが肉壁くらいだろう。

 舞い散る吹雪も強風に乗り始め、喉まで凍てつく空気は寒冷を蓄積させ続ける。特に痛覚遮断が機能していないオレの場合、寒さがダイレクトに痛み同然に指先まで凍てつかせていく。いくら冷えても凍傷にならないのはありがたいが、これでは疑似麻痺のようなものだ。まぁ、寒さで剣を手放すような真似はしない。その心構えの為にもわざわざ霜海山脈の夜、最も冷える時間帯にレベリングを続けたのだから。

 と、そこでオレは背後から声が聞こえたような気がして立ち止まる。時間加速と後遺症の影響で聴覚にも支障はあるのだが、本能無しでも嫌な予感がして足を止める。

 振り返るな。このまま突っ走れ。もう頭の中の風景と投げナイフの目印で突破できるはずだ。だが、オレの体は抗えない魔力に誘われるように背後を向いてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「【渡り鳥】ぃいいいいいいいいいい!」

 

 

 

 

 

 

 

 それは普段装備の密着性の高い鎧を装備した、首にマフラーを付けて最低限の寒冷対策を施したザクロ様でした。

 ああ、今のオレは最高に頬が痙攣しているな。かつての彼女の外付け善意……もとい、外付け頭脳だったイリスがどれ程の苦労を毎日重ねていたのかを、今まさにオレは思い知る。

 一般的な金属鎧は雷属性、次に水属性の防御力が低い。前者はイメージ通りかもしれないが、後者は金属程よく冷えるという意味だろう。そして、それはそのまま寒冷耐性にも反映される。

 だが、さすがは元傭兵! 自称NINJAのザクロ様! あの鎧について教えてもらったが、裏地にはわざわざ【雪兎の毛皮】という肌触り重視を使っているそうだ! 防御性能は少しばかり雷属性を強化する程度らしい! HAHAHA! でも、その副産物で結構な寒冷防御力も上がっているそうだぞ。HAHAHA!

 現実逃避は止めよう。オレはこっちに白い息を散らしながら駆けてくるザクロがどうしてここにいるとか、そんな問いは全て投げ捨てる。

 

「来るな! こっちに来るな!」

 

「分かってる! お前は1人で【氷の魔物】を倒しに行くつもりなんでしょ!? 私は一緒に戦うとか、そんな事を言いに来たんじゃない!」

 

「そうじゃない! お願いだからこっちに来ないでくれ!」

 

「村の人たちが言ってたのよ! もうすぐ類稀なくらいの大吹雪になる! それも数時間じゃなくて一夜……もしかしたら、数日単位になるかもしれない吹雪よ!」

 

「分かってる! 規模までは予想していなかったけど、吹雪は来るのは分かってるから! だから来るな!」

 

「だから、今はとにかく村に戻るべき――って……え? 知ってる?」

 

 ああ、遅かった。ザクロは踏み込む。絶対に踏み込んではならない……投げナイフの目印が無い、真っ白な雪を全力で踏み抜く。

 後継者の『よっしゃぁああああああああああ!』というガッツポーズが見えた気がした。途端にクレバスは全て崩落し、半歩分だけ本来の地面からはみ出していたオレはバランスを崩し、完全に地面から隔離された宙でザクロはぐらりと体を傾ける。

 今ならば『オレだけ』ならば足場に復帰できる。それは難しくないだろう。だが、その為にはザクロを見捨てねばならない。

 ……本当に面倒な女だ! イリスの顔が脳裏を過ぎり、崖際を蹴って加速をつけるとザクロを追ってオレは崖の暗闇へと身を投じる。

 狩人の予測をフルに使い、白い闇の風景の中で、崖の表面を、崩れていく雪の塊を、そして悲鳴も凍らせたザクロを捉える。

 死神の剣槍、ギミック発動。伸ばした先端をザクロへとまっすぐ伸ばし、彼女を射抜くギリギリの脇を通らせ、崖の表面に突き刺してアンカーにするとギミック解除して自分ごと高速で彼女に引き寄せる。

 右腕でザクロの腹をラリアット気味に捉える。彼女の口から『ぐえっ!』というカエルが踏み潰されたような声が漏れた気にしない。気にする暇はない。幾ら死神の剣槍のギミック発動で初速を得た突き刺しでも、2人分の重量と加速が乗れば支えきれない。当然ながら抜け落ちる。

 

「いやぁああああああああああああああ!?」

 

「そういう女子らしい悲鳴は要らないから黙ってろ! 予測が鈍る!」

 

「予測!? 何の予測!?」

 

「とにかく黙れ!」

 

 思い出したのは、かつてレイフォックスとツバメちゃんの罠に嵌まり、想起の神殿の外縁から放り出された時だった。あの時はネームレスソードを突き立てて落下死を免れた。今回も崖に死神の剣槍を突き立てればいけるか?

 駄目だ! 両手剣では桁外れの耐久度を持ったネームレスソードでも大破損したのだ。幾ら死神の剣槍でも耐えられない! 破損は間違いない!

 仕方ない。オレは『奥の手』の1つを使い、左手を崖に突き出し、指と爪で崖の表面を、その凸凹を掴み、擦り、抉れていく感触を味わいながら、ブレーキをかける!

 脳髄を貫く痛みは増幅され、喉から悲鳴が漏れそうになるのが奥歯を噛んで堪え、大きくなるザクロの悲鳴で聴覚を塗り潰される。

 

 

 

 

 

 手を伸ばして! 私の手を取って!

 

 

 

 

 

 明滅する痛みの中でヤツメ様が上下逆さまでオレに平行しながら落下しながらオレに手を伸ばす。それは血を求める『獣』の誘いではない。オレは躊躇なく手を握り、再起動した本能がもたらすヤツメ様の導きから狩人の予測を完全発動させる。

 俯瞰化される世界。本能からもたされる無意識化で処理されるはずだった、オレだけが知る曖昧で不確定で……何よりも信頼に足る情報を、意識下で掌握し、全てを予測に組み込む。そして、不足分はヤツメ様の導きのままに体を動かして補う!

 抉れる左手から血を舞わせ、崖の表面を蹴って反対側に向かい、そこから三角跳びをして落下の勢いを僅かに殺して宙を漂う中で、崖にぽっかりと開いた洞窟のような穴を見つけ出す。それは奈落に至る前の最後のチャンスだろう。

 

「ザクロ! 首につかまれ!」

 

 死神の剣槍を先に洞窟に投擲し、ザクロが慌てて首を絞める勢いで抱き着いた所で腰の贄姫の水銀居合を放つ! その推力を利用して洞窟に進み、更に宙で正確にミラージュランを発動させ、空中も僅かに駆けられるという性質を利用し、洞窟までより直線的な移動を果たす!

 まだ足りない! だが、『足場』は残っている! ご丁寧にも未だにオレを追う雪蜂の踏みつけて『足場』にすると≪歩法≫のムーンジャンプを発動する! 滞空時間が長いこれならば距離を稼げる上に、ソードスキルの運動は仮想世界の物理世界よりも上位にあるので落下速度は大幅に減速する!

 だが、僅かに足りない! ならば、と虎の子の強化手榴のピンを抜き、起爆を待てないので胸部に無理矢理押し付けて爆破する! 激しい痛みと熱に押しつぶされながら、爆風で体を浮かし、重力から少しだけ逃れて、崖に手を伸ばす距離を得る!

 減少するHPなど知ったことか! 右手を伸ばし、洞窟に続く際を掴み、同時にここまでの落下エネルギーを持つ2人分の重量が右手にかかり、STR出力を引き出せる限りまで引き出して衝撃に耐え、貫く痛みに全身を硬直させる暇もなく肘を曲げてザクロごと体を洞窟内まで放り込む。

 派手に冷たい地面を転がり、壁に激突したザクロが咳き込むのを見ながら、オレは無言で立ち上がって左手で死神の剣槍を握ろうとして……だが、指は全て捩じれ曲がり、皮は剥げて赤黒いアバター内部の肉が深部まで見えているのを見て止血包帯を使用する。出血状態ならば自動回復するのだが、最悪なことに欠損状態だ。自動回復はしないので、仕方なくアルヴヘイムでは回復アイテム以上に『貴重過ぎる』バランドマ侯爵のトカゲ試薬を打ち込む。

 折れた指を強引に戻し、手の開閉で最低限の武器は握れる状態に戻すも、薬指と中指は完全に動かない状態を勘定に入れた戦い方を組み直しながら、ヤツメ様に礼を言う。するとハッと気づいた様子のヤツメ様はストライキ中の看板を振り回して背を向けた。

 まだまだ機嫌は直してくれないらしい。溜め息を吐きながら、オレは死神の剣槍を背負うと、ぜーぜー言っているザクロの前に立つ。暗闇に思えた洞窟は雪や氷が光を含んで光源となり、薄闇程度に和らげている。幻想的な風景は観光ならば素晴らしいが、冷たい空気に潜むのは逃れられない死闘の気配だ。

 洞窟の入口……いや、ここは霜海山脈の深部、山の内部に張り巡らされたダンジョンの『本番』とも言うべき深部、その行き止まりの1つだろう。転がる干からびた死体はプレイヤー間で宝箱扱いされている死体オブジェだ。特に意味も無く置かれているという悪趣味っぷりである。獲得したアイテムは魔法書【ソウルの霜柱】だ。水属性の冷気を纏わせたソウルの剣を数多と周囲から伸ばす、【磔刑】に近しい水属性魔法だ。かつてアルヴヘイムに迷い込んだヴィンハイムの魔法剣士が編み出したものらしい。恐らくはかなりレアな魔法なのだろうが、そもそも≪魔法感性≫が無いオレには無用の代物であるし、【磔刑】があるので魅力も感じない。

 クラウドアースに高く売りつけてやるか。さすがに魔法書は素材にもならないのでグリムロックも活かしようがない。売ってコルにするのが最良だ。

 

 

『何を言ってるんだい!? 次こそは≪魔法感性≫を取るんだ! ああ、魔法触媒として機能する武器は新たな鍛冶の道を開くだろう! 魔法を拝領するんだ!』

 

 

 黙れ、グリムロックの妄執よ! オレの脳内までHENTAI鍛冶屋魂の電波を送り込むな!

 まぁ、実際のところを言えば、余裕があれば≪魔法感性≫を取ろうとも思っているが、『アレ』すると無用の長物になるし、しかも……いや、今は考えるべき事ではないな。それよりも眼下で涙を流してぜーぜー言っていらっしゃるザクロ様だな。

 

「…………」

 

「……えーと、【渡り鳥】」

 

「…………」

 

「怒ってる?」

 

「…………」

 

「ほ、ほら、やっぱりお前って凄いなぁっていうか……普通じゃないわよね! あの動きと判断力、人間の域を超えてたわ! 特に最後の自爆で飛ぶとか発想しても、迷わず即実行まで早過ぎ! さすがは【渡り鳥】! 2つ名通り、空も飛べちゃうのねー……なーんて」

 

 必死に誤魔化そうとするザクロに色々と言いたいことはある。だが、真っ先に伝えるべきは、亡きイリスならば躊躇なく告げただろう言葉だ。

 

「……ポンコツ」

 

「うぐっ!」

 

「ポンコツ」

 

「うぐぐ!」

 

「ポンコツ」

 

「うぎぃ……や、止めなさいよ! 地味に傷つくからやめてよぉ!」

 

「ポンコツポンコツポンコツ。ポンコツ忍者のザクロさん。もうオマエの2つ名は【ポンコツ】で決まりだ」

 

 オレの目の前で土下座体勢でむせび泣くザクロに、オレは前髪をぐしゃりと掴む。

 正直に言おう。別に怒ってなどいない。そもそも、ザクロは善意でオレに吹雪の旨を伝えて退避を呼びかけるべく追いかけてきてくれたのだ。しかも、あの場所にクレバスがある事はオレ自身も1度は引っ掛かりそうになった程なのでザクロを責めるいわれなど無い。

 だが、ここぞという場面で、こう、うっかりというか、駄目な子というか、ポンコツと言うか……うん、ポンコツとしか言いようがないアクションをしてしまうのは、やはりザクロという人物の宿命なのではないだろうか?

 

「えへ……えへへ……ポンコツかぁ。懐かしいなぁ。イリスにもよく言われたっけ。うん、ポンコツ。私の2つ名は【ポンコツ】。えへへのへぇ……」

 

 涙を浮かべて膝を抱えたまま壊れたように笑うザクロに、オレは溜め息をもう1度だけ吐く。

 ここは霜海山脈の深部。後継者も吃驚のショートカットをしてしまったのだろう。結果だけを見れば、大幅な時間短縮になった。吹雪まで山の内部に続く入口を発見できるかどうかは不安要素だっただけに、怪我の功名として捉えても構わない。

 

「別に怒ってない」

 

「嘘。さっきの沈黙は絶対に怒ってた」

 

「言葉を探してただけだ。オマエに非はない。ポンコツも言い過ぎかもしれないと思っているつもりだ」

 

「……優し過ぎ。甘過ぎ。オマエ、絶対に人生損してるわ」

 

 正当な判断をしているつもりだ。オレはいじけたザクロの隣で壁にもたれ掛かり、義眼のオートヒーリングで自爆分の減ったHPの回復を待つ。胸部で至近距離爆破させて欠損しなかったのは助かったが、流血状態が割と酷い。軟膏を塗ってスリップダメージを緩和させておこう。

 

「ごめんなさい。勝手に動いて、ごめんなさい」

 

「別にオレは一言も『自分の判断で動くな』とは言ってない。オマエの判断は正しい。吹雪になれば、確かに霜海山脈の攻略は不可能だった。それに、オレが予想していた以上の吹雪だった場合、最悪のケースもあり得た。感謝こそしても、恨むのは筋違いだ」

 

「でも、お前は最初から吹雪を計算に入れて動いていた。でしょ? だったら――」

 

「それに関しても、何も伝えなかったオレに非がある。オマエの判断は合理的で、『人』の善意に満ちて、正しい。計画の詳細を伝えなかったオレの方に非がある」

 

 全て本音だ。オレの癖が出てしまった。いつものように『1人』で戦うことに集中して、ザクロにとってオレは今も『仲間』としてカウントされている事実から目を背けていた。彼女を遠ざけようとするあまり、オレは大きな過ちを犯した。

 ここから崖を登って地上に戻るのは不可能だ。こうなれば、未知なる霜海山脈の深部を共に進むしかないだろう。

 泣き止んだザクロに手を差し出して微笑む。もうこうなれば仕方ない。ボスを後回しにして地上を目指すか、ボス部屋を発見したらザクロの両腕両足をへし折って動けない状態にした後に口を縫い付けて黙らせたら【氷の魔物】を『1人』で倒せば良いだけだ。

 

「なにか怖い事考えてない?」

 

「いいや、特に? 普通に『必要な事』を考えてただけだ」

 

 オレの手を取って立ち上がったザクロは、本来ならば落ちるはずだった崖の暗闇を見下ろす。

 

「下はどうなってるのかしら?」

 

「水がある。雪が水面に叩きつけられる音が反響していた」

 

「……この状況で冷静過ぎじゃない?」

 

「それよりも移動しよう。ここでも寒冷が蓄積する。丸薬も限りがある以上、早めに動くべきだ」

 

 携帯ランプを灯して腰に付けて光源を確保すると、オレは傷ついた左手を見つめて、仕方なく右手で死神の剣槍を抜く。

 深部にどのようなモンスターがいるかは未知数だ。アイスマンは登場するかもしれないが、それ以外も当然ながら出現するだろう。だが、炎属性が弱点ならば、ザクロの呪術が役立つ。彼女の存在は大きな武器になるだろう。

 氷の柱が天井と地面を繋ぎ、まるで宮殿の柱のように乱立し、クリスタルのように伸びた氷は冷たく光っている。また、極寒の世界ではあるが、凍らない水が各所を浸し、その中では水晶のような鱗を持つ魚が泳ぎ、天井では氷の雫散らす蛍に似た虫が星のように煌いていた。

 一見すれば美しい氷の世界だが、出現するのはアイスマンに続いて、黒と金の衣装の身に着けたスケルトンだ。闇術を使用し、アイスマンたちに闇を纏わせて強化する。闇で強化されたアイスマンはバーサーカー状態になり、仲間も関係なく暴れ回る。

 だが、ザクロの参加により戦いは楽になった。呪術の炎は容易にアイスマンの表面の氷を溶かし、更に大ダメージを与えて怯ませる。明確な弱点として機能しているのだ。闇術師スケルトンも死神の剣槍の打撃ブレードならばダメージも大きい。やはりスケルトンには打撃が有効なのだ。

 

「そういえば、どうやってオレに追いついたんだ? 1本道じゃなかったはずだ」

 

「モンスターの遺体とお前が捨てて行ったアイテムを目印にしたわ。ある程度追い付けば足跡が残ってるし、≪追跡≫も持ってるから、たとえお前の隠密ボーナスが高くても追いつける」

 

「ヘンゼルとグレーテルか」

 

「兄妹は帰り道の為に目印を残したけど、私たちの帰りにはマップデータがあるわよ。ダンジョンで良かったわね。しっかりマッピングできるわ」

 

 ザクロの言う通り、霜海山脈は正式にダンジョン扱いらしく、マッピングが機能しないアルヴヘイムと違い、しっかりとマップデータが蓄積されるのだ。確かに、これならば帰りは格段に楽になるだろう。クレバスの場所まで辿り着けたらの話だがな!

 無駄話をしてモンスターを引き寄せてもつまらない。≪気配遮断≫も2人ならば効果も減少するのでモンスターとの遭遇率も高まる。慎重さと大胆さを兼ね備えて前に進まねばならない。

 オレが先頭に立ち、ザクロは数歩後ろに控える。オレが前衛であり、彼女が呪術でサポートする陣形である。だからだろう。ザクロの緊張が背中まで伝わってきて、口を開くべきではないと思いつつも、仕方なく視線を向ける。

 

「オートヒーリングって便利よね。私も【太陽の温もりの指輪】を持ってくればよかったわ」

 

 誓約【王女の守り】の誓約レベルが上昇した時に得られる指輪であり、オートヒーリングが得られる指輪だ。

 グウィンの娘であるグヴィネヴィアは太陽の温もりを象徴とし、また彼女に由来する奇跡はいずれも強力な回復系ばかりだ。太陽の光の癒しや太陽の光の恵みに代表される。王女の守りはグヴィネヴィアを信仰し、特別な奇跡を使用可能にするだけではなく、自他の奇跡の回復量を高めるというヒーラーにとってありがたい誓約だ。ただし、誓約レベルを上げる方法はなかなかに骨が折れ、とにかく他プレイヤーを回復させまくらねばならない。

 ザクロは≪信心≫を持っていないだろうから奇跡は使えないだろう。ならば王女の守りを誓約で結んでいるとは考え辛い。特に太陽の温もりの指輪は馬鹿にならない回復量だ。オートヒーリングは重複し易いので、装備の有無で回復量は格段に異なる。

 一言でオートヒーリングと言ってもタイプは複数ある。たとえば、オレの義眼の場合、1度の回復量こそ大したものではないがインターバルが短く、ほぼ止まることなく回復し続けるので、1分間で計測した場合の総回復量はなかなかのものだ。逆に太陽の温もりの指輪は1度の回復量こそ大きいが間隔は長い。

 たとえばスリップダメージを受ける場面の時、回復量がダメージを打ち消すならば間隔が短い方が有利だ。逆に1度の回復量が大きくとも間隔が長い場合、スリップダメージを帳消しにしてプラスが出るとしても、回復するまではダメージ分のマイナスがあるので、そのせいで死亡する場合もある。

 またオートヒーリングにはさらに分類として『割合回復型』と『数値回復型』がある。割合回復型はパーセント回復であり、数値回復は文字通り規定された数値のHPが回復する。高VITのHP総量が多いプレイヤーならば総じて発生間隔は長くとも比率分で多めに回復できる割合回復型が、逆にオレのような低VIT型の場合は回復間隔が短い傾向がある数値回復型が有利だ。ちなみに義眼は数値回復型である。

 回復アイテムは総じて割合回復であるが、回復系奇跡は数値回復だ。MYSを高めて装備を整えたヒーラーほど低位の奇跡でも十分に運用できる。逆に、どれだけ数を揃えても低レベルプレイヤーの回復系奇跡など雀の涙だ。

 まぁ、10秒かけて1割回復する燐光草は安値で買い放題だし、2割回復の燐光紅草までならばある程度稼ぎがあるプレイヤーならば惜しみなく使える現状だ。しかし、現状の最前線難易度を考えれば、やはり10秒の回復時間と咀嚼型はどうしてもリスクが高い。というのも、回復アイテムには何かしらのデメリットが必ずあるからだ。

 たとえば、最近の大ギルドの研究によれば、燐光草などの草系回復アイテムの使用中はスタミナ回復速度が減少し、スタン・衝撃耐性も下がっているらしい。特に顕著なのがガードブレイク率の上昇であり、これは俗に言う『草モシャ』と呼ばれる草系回復アイテムを食べ続けてガードを固めるプレイヤーへのアンチだろう。茅場の後継者のこういう所への気配りは本当に要らないと思う。

 攻略本が無く、死ねば終わりのDBOは未だにシステムの全容解明には至っていない。日夜、情熱溢れたプレイヤーが己の命をベットしてでも研究を続けているのだ。

 しかし、オートヒーリングを考えるならば、やはり≪バトルヒーリング≫という近接プレイヤーにとって最高級の価値があるスキルは欠かせない話になるだろう。

 近接プレイヤーならば是非とも欲しい≪バトルヒーリング≫とオートヒーリングを併用すれば、その粘り強さはなかなかのものであり、より死亡リスクを抑えられる。とはいえ、オートヒーリングの限度など知れているのであっさりと押し切られる事など普通であり、過信は出来ないが、あると無いでは気分が違うだろう。

 だが、≪バトルヒーリング≫は習得条件を満たすことが難しいEXスキルだ。HPがレッドゾーンの状態……1割未満の状態で一定数の『同レベル帯』のモンスターを『近接攻撃で倒す』ことによって得られるようになる。わざわざデスゲームでそんなリスクを背負いたがるプレイヤーはほとんどいない。故に近接プレイヤーにとって重宝する≪バトルヒーリング≫であるが、所有者はそれほど多くないのだ。

 残念ながら、当たれば死ぬのオレの場合、わざわざ≪バトルヒーリング≫を獲得しても恩恵は少ない。SAOの場合はオートヒーリングだったが、DBOではダメージに対しての割合回復だからだ。熟練度が上昇する程に割合は増えていって結果的にダメージを打ち消せるが、言うまでもなく熟練度の上昇方法もダメージを受ける系なので御遠慮したい。≪バトルヒーリング≫を持つくらいならば、ダメージを軽減できる≪射撃減衰≫や≪魔法防護≫を取った方が実用的だ。

 ……いや、いい加減に取るべきなのだろう。せめて≪射撃減衰≫くらいは取るべきだ。あれの有無で射撃攻撃の脅威度は格段に変化する。距離が遠ければ遠いほどに射撃攻撃のダメージを減らすので≪狙撃≫対策にもなるし。

 考えてもしょうがない。どうせオレは≪射撃減衰≫取らないだろう。アルフェリアの叫びがある分だけ防御手段を獲得したと満足して、攻撃特化のスキル構成を進めるとしよう。その中で異様に輝く≪薬品調合≫はやはり素晴らしい。現地調達万歳。

 しかし、オートヒーリングの強化は今後も目指すべきだろう。回復作業はやはり致命的な隙になり得る。実際に戦い慣れたプレイヤーが回復しようと距離を取ったところを狙われて死亡した例も多い。むしろ、回復潰しのオペレーションはDBOのAIに等しく組み込まれている。ここぞとばかりに潰しにかかる。もう未来予知していたのではないかと思うタイミングで攻撃してくる。

 また、回復アイテム1つを取っても複数種類ある。燐光草のような咀嚼タイプ、深緑霊水のような飲むタイプ、雫石のような砕くタイプ、ナグナの血清のような打ち込むタイプ、珍しいので言えば目薬タイプもあるらしい。最後だけは戦闘中に使う勇者を是非とも見てみたい。

 DBOで一般的なのは咀嚼タイプと飲料タイプの経口摂取だ。だが、草系はしっかり歯で擦り潰さねば効果はなく、回復にも時間がかかり、また味も悪い。飲料タイプは即効性もあるが、連続使用すると制限がかかり、また全てを飲み干さねば効果が無いものばかりだ。また、燐光草を除いて全てのアイテムにはアイテムストレージ内に収められる最大数が実は決まっている。

 草系はほぼ無制限……というよりも所持数上限持つよりもアイテムストレージの限界が先に来るが、飲料系や雫石は顕著だ。即効性があるだけに、連続使用すれば効果は薄れ、また持ち込めるのに限りがあるのは後継者らしい調整だろう。

 それを考慮すれば、ナグナの血清の壊れっぷりはなかなかだ。打ち込めば終わりだ。全ての内用液を体内に入れねばならないが、1秒とかからない。それでHPを3割回復させるのである。レベル1の麻痺・毒・睡眠の蓄積も減らす。しかも最大可能所持数は20個だ。ただし、コストが高く、感覚を鈍らせるので、連続使用すると戦闘なんてとても続行できる状態ではなくなるのだが。

 そもそもナグナの血清のような打ち込むタイプのHP回復アイテムは現状で他に存在しない。打ち込むタイプはバフ系やデバフ治療系が中心だからだ。バランドマ侯爵のトカゲ試薬が良い例である。

 最近は黄金林檎工房の裏庭にもヨルコ専用の栽培小屋が作られた。ヨルコがどのような素材でナグナの血清を作っているのかは知らないが、『レシピは知らない方が良い』という忠告には素直に従っている。大ギルドからお縄になる事は無いが、かなりギリギリのラインを歩いているのは間違いないだろう。そもそも何かしらの血も使っているようだし、素材アイテムの回収は敢えてレディの秘密として隠しておくべきかもしれない。

 色々と考えたが、何にしてもオレにとって回復アイテムとはある分には助かるが、それを当てにするほどに詰め込むものでもない。そもそも直撃すれば死ぬのだ。たぶんだが、オレはクリティカル部位……頭部や心臓にクリーンヒットを受けた瞬間に死ぬ。ソードスキルを浴びても死ぬ。ドラゴンのブレスが直撃した日には遺言を残す暇もないだろう。義眼のオートヒーリングとナグナの血清が数本あれば十分だ。何度も回復しなければ生き残れない状態ならば、そもそも押し切られて死ぬだろうしな。

 それを考えると、やはり近接プレイヤーの高VITには憧れないこともない。高い物理防御力! 減らないHP! 攻撃を受けながら強引にカウンター! うん、実に男らしい! それを考慮すれば、やはりユージーンのような『ダメージを受けてもそれ以上の大ダメージで勝ちを取る』や『アイツ』の『攻撃を受けてもラッシュで無理矢理押し切る』はカッコイイと思う。オレの戦いは『躱し続けて攻撃する』しかないからな。ここぞという場面でダメージを真正面から受け止めて必殺を叩き込む姿は、やっぱり男の理想像の1つなのではないだろうか?

 それを考えるとラジードは面白い。レザーメイル系で纏めてるから防御力と機動力を無理なく確保しているし、双剣型の片手剣で手数を、両手剣と特大剣で大ダメージを狙える。しかもレザー系なので、相手の攻撃が軽いと見れば、特大剣によるスタンと衝撃補整でブーストをかけて攻撃に対して怯まずに斬り返せる。

 

「楽しそうね」

 

 と、そこであれこれ考えていたせいか、口元が少しだけ緩んだのだろう。ザクロの言葉に、オレは小さく苦笑する。

 

「考え事は尽きないだけだ。たとえば、DBOがデスゲームじゃなかったら、どんな風にプレイヤーは楽しみながら盛り上がっていたんだろうなぁ、とか」

 

「お前もそんな事考えるんだ」

 

「生き残るにはDBOのシステムを理解するのは必須だ。だから、自然とあれこれ考えるさ。デスゲームじゃなかったら、本当に死なないなら、きっとDBOのプレイスタイルの主流は大きく違っていたはずだ」

 

 そして、絶対にHENTAI鍛冶屋も生まれなかった! それだけは断言できる! グリムロックだって……グリムロックだって、オレと出会う前は、色々とおかしい部分は既にあったけど、それでも『まとも』な部類の鍛冶屋だったのだ! 何がどう捩じれて彼はあんな風になってしまったんだ!? ドキドキ☆ソルディオス計画って何なんだよ!?

 

「うーん、そうかしら? まぁ、確かに生存重視する必要も無いから、1つのステータスを極端に特化したプレイヤーも日の目を見ていたわよね。結局どんどん死んで淘汰されたけど、そういうプレイヤーが活躍したかもね」

 

 確かにその通りだ。『相討ち上等』とばかりにSTR極限特化の大型武器装備がソードスキルを撃ち込む特攻隊とかがボス戦での花形になったかもしれない。

 アルトリウスはスタン・衝撃無効だったが、それがどうしたとばかりに特大剣を担いで突進していくプレイヤー集団か。うん、死なないならば面白おかしい光景だ。さすがのアルトリウスも困惑しながら光波を撃ち込むに違いない。

 でも、オレはそんな世界に物足りなさを感じる。そこには命のやり取りがないからだろう。真剣勝負はあっても『殺し』には至らない。相手のHPを減らしても死なない。

 先程の回復の話ではないが、全てはオレ達の生死を分かつHPという要素が命運を握っている。オレたちプレイヤーもAIたちもそこだけは変わらないだろう。このDBOのシステムに則り続ける限り、HPの有無こそが生死の境界線なのだ。

 数字の塊にオレ達は命の残量を必死に見出そうとする。無情なる数列を減らそうと策を練る。この世界の本当の姿は生死をかけた全力の殺し合いなのに、同時に何処までもゲームシステムとしての土台が足下にあり続ける。

 

「それにしても、このダンジョンはただの洞窟じゃなさそうね。アイスマンたちが築いた地下神殿って感じかしら?」

 

 話題を転換したザクロの言う通り、この地下空間は人工物の気配も漂っている。氷の柱は人為的なカットが施された形跡があり、時には凍った地面は角ばった階段を成し、また氷を削った彫刻もいくつか発見できる。

 出現するモンスターも、アイスマン以外にも闇術師スケルトンや黒い靄に蝕まれたゾンビなど、闇属性が急激に増え始めた。

 霜海山脈のボスである【氷の魔物】。それはアイスマンたちが召喚した怪物だ。だが、その正体が何なのかは不明だ。だが、ここに来て増え始めた闇系列のモンスターは気になる点が多い。

 闇術師スケルトンはいわゆる祈祷師の恰好に近い。アイスマンたちが召喚したのか、あるいは与しているのか、何にしても【氷の魔物】と関連付けるべきだ。

 だが、上手く頭が働かなくなってきた。大事な何かに気づけそうなのだが、手繰り寄せることができない。

 後遺症と時間加速の影響下で負荷がかかる戦闘の連続。コンディションは最悪だ。凍えるような寒さが抜けず、一方で脳髄は溶けだす程に熱い。呼吸の度に喉が焦げ付くようであり、同時に腹から氷の浸食が始まっているような冷たさも感じる。

 ランスロットとの戦いで、残り火を使って致命的な精神負荷を受容した事が今も尾を引いている。心臓が不定期に締め付けられる程に痛み、休みたがっているように止まりそうになる。

 視界が滲む。まずいな。意識し始めたら、急に、後遺症と結びついて、きた。

 オレは何重にもブレている視界を戻そうと眼球に力を入れる。息が熱ブレスのようだ。呼吸の度に息で擦れる舌が爛れるように熱い。

 大丈夫。まだオレは『オレ』だ。瞼を閉ざせば赤紫の月光が、黄金の燐光が、確かに見える。見失ってなどいない。

 背後にいるザクロに気づかれた様子はない。左手で胸を握りながら、オレは深呼吸を挟む。ゆっくりとだが視界が安定してきた。

 場所は氷の柱が乱立する広々とした空間だ。凍らぬ水が張られ、足下を気を付けねば全身ずぶ濡れになってしまいそうである。

 地上は今頃猛吹雪だろうか? なかなか地表に続く道を発見できず、ダンジョンの構造が淡々とマッピングされていく。

 と、そこでようやく開けた場所に到着し、オレは一息を吐く。そこはザクロの指摘通り、神殿のような広間だ。天井からは氷の鎖で吊るされた大釜が揺れている。中心部では巨大な手を模したような氷像があり、それを囲むような氷の祭壇には人間の頭蓋骨が安置されていた。だが、これ以上の道はない行き止まりである。

 

「ふーん。人間の頭を割って中身を引き摺り出したのかしら」

 

 頭蓋骨の1つを観察するザクロの言う通り、いずれも斧か鎌の類で額を叩き割られている。そして、オレは1つ大きな勘違いをしていた。頭蓋骨が安置されているのではない。首から下を氷漬けにされているのだ。氷の祭壇には証拠のように白骨化していない胴体がある。それに気づいたザクロは眉間に皺を寄せた。

 だが、奇妙なことにこの部屋には多くのアイスマンの死体がある。それは撃破されたのではなく、オブジェクトとして配置されたものだ。

 いずれも酷い怪我を負っている。その傷は刃物といった武器ではなく、巨大な爪で抉られたかのようだ。

 

「何か出そうな雰囲気ね」

 

「油断するな」

 

「そっちこそ。私はサポートに徹するからよろしく」

 

 ボス戦ではなさそうだが、そろそろザクロを捕縛する準備も進めておこう。無防備に背中をオレに向けるザクロの背後を取るのは難しくない。まずは左腕を折って呪術を封じ、そのまま左膝を砕く。体勢が崩れたら右腕を掴んで肩から右腕を捩じって潰す。最後に右膝で潰して、ロープを噛ませて全身をぐるぐる巻きだ。

 祭壇は全部で12台。頭蓋骨はいずれも広間の中心部を見つめ、そこには一際大きな手を模した氷像があり、その上には吊るされた大釜だ。

 意味深な氷像。これ見よがしな大釜。そして行き止まりか。後継者が好きそうな回りくどいギミックだ。

 膝を曲げて大きく跳躍し、大釜の縁に跳び乗ったオレは中身を確認する。すっかり凍り付いているが、中身は粘性の高そうな液体だ。

 

「中身は何?」

 

「油だろうな。だけどこの様子だと簡単に引火しそうにないな」

 

「呪術を使っても良いわよ」

 

「魔力の浪費だ。少し待ってくれ」

 

 強化手榴弾はさすがに使いたくない。携帯ランプを放り込んでも良いが、貴重な光源を失うことになるし、確実ではない。呪術ならば着火も確実だろうが、ザクロの魔力は温存させておきたい。

 こういう時の為に松明でも準備しておけば良かったと後悔する。オレが悩んでいるとザクロが黒い火炎壺を右手に持っている。

 

「そういう便利なものがあるなら先に言ってくれ」

 

「あら、ごめんなさい」

 

 大釜から跳び下りたオレが頷くとザクロは黒い火炎壺を放り投げる。火炎壺の強化版である黒い火炎壺は大きな爆発を起こし、無事に油を着火させる。冷たい世界に炎が揺らぎ、僅かな温もりを覚えた。

 やがて大釜の炎は氷の鎖を溶かし、重量を支え切れなくなって落下する。宙でひっくり返り、中身のどろりとした黒い油が手を模した氷像を染め、引火した炎が炙り、鉄のように硬質な氷をじわじわと溶解させていく。

 そうして露になったのは……意外にも小さなアクセサリーと凍った指輪だ。てっきり隠し道の1つでも出るのではないかと期待していたオレは拍子抜けする。

 

 

 

 

<エレーミアスの氷銀具:かつて1人の騎士が半竜より旅立ちの日に授かったカフス。絵画世界で生まれ育った彼は半竜より氷の魔法を学び、あらゆる得物に冷たい魔力を宿した。その鎧は常に冬の夜のように冷え、刃は浴びた敵の血すらも凍てつかせたという。だが騎士は太陽の温もりと出会い、闇を狩る使命を見出し、氷の力をただ1人の友を除いて誰にも明かすことはなかった>

 

<凍てついた指輪:1人の騎士が絶望の果てに捨てた指輪。かつて騎士は誇り高い友を得て、同じ道を歩み、大きな裏切りを経て火を呪った。だが、愚か者ほど過去の温もりを忘れらないものだ。それが自ら捨てたものならば尚更のことである>

 

 

 

 

 

 エレーミアスの氷銀具は寒冷耐性と水属性防御力の強化、それに魔力消費量の減少だ。こうしたアクセサリーは指輪ほどに劇的な効果は期待できないが、地味に重ねていくと馬鹿にならない。

 細やかな意匠が施されたカフスに描かれているのは、小さくて分かり辛いが、竜と鎌だろうか? エレーミアスという騎士の故郷の象徴なのだろう。

 

「これ、太陽の温もりの指輪じゃない?」

 

 と、ザクロが渡すように要求したので指輪を投げると、彼女はじっくりと表面を検分し、やがて納得したように頷いた。

 

「かなり擦れてるし、霜が凄いけど、間違いなく太陽の温もりの指輪よ。効果はオートヒーリングじゃなくて魔力回復速度上昇に変わってるけど」

 

「つまり、この指輪の持ち主はグヴィネヴィアを信仰していたわけか」

 

「別に珍しくないんじゃない? グウィンの長女で高名な神よ。それに……胸が凄いらしいわ! 誓約レベルを上げると召喚されて謁見できるらしいけど、撮影不可だから、彼女を見たいだけの理由で誓約レベルを上げようと必死な男も多いらしいわよ」

 

「…………」

 

 どうでも良い情報だ。巨乳好きの為に誓約破棄して、わざわざヒーラーじゃないと誓約レベルを上げるのも大変な王女の守りに転身するとは、その情熱では評価に値するが、それ以上の感情は持ち合わせようがない。

 

「ちなみに女性プレイヤー限定で誓約レベルを上げると豊胸アイテムが得られるイベントに挑戦できると噂されているから、密やかに1部の女性プレイヤーも続々と誓約を結んでるらしいわ」

 

「…………」

 

 心底どうでも良い情報だ。重要なのは、このカフスと指輪がどうしてこんな大層なギミックで隠されていたのかという点である。

 これはボスのヒントと考えるべきだろう。わざわざ2つのアイテムで強調された氷というキーワード……そして、闇を狩るという単語……まさか深淵狩りだろうか?

 

「反応薄いわね」

 

「ここはダンジョンだ。あまり無駄口を叩くな」

 

「はいはい。本当にスイッチが入ってると別人ね。この指輪はもらうわ。呪術を使う私の方が有用でしょう?」

 

 軽く睨むとザクロは肩を竦めて指輪を変更し、凍てついた指輪を輝かせる。オレには魔力回復速度を引き上げる白竜の涙の指輪がある。もう1つはウーラシールのレガリアである以上は彼女が持っていた方が価値はあるだろう。

 オレもカフスを左耳に付ける。金属の冷たさはあるが、それは何処か心地よく、体を蝕むものではない。

 しかし、火を呪ったとはどういう事だ? この騎士が深淵狩りならば、裏切りとはランスロットの裏切りを自然と連想させる。だが、ランスロットの裏切りのせいで火を呪うというのは決定的に食い違う。むしろ、闇をより憎むのが筋ではないだろうか。

 

「……く、悔しい。お前の方が様になってる。時代は片耳カフスだというの!? これが上級テクなの!?」

 

 上機嫌に指に嵌まった指輪を見ていたザクロであるが、何故かオレの方を見ると憎たらしそうに目を逸らす。コイツは本格的に何を言っているのだろうか。

 これ以上この広間に居座っても何も無さそうだ。ダンジョンの通例……レアアイテムの隠し場所だったのだろう。わざわざギミックで隠すほどかは分からないが、カフスは十分に優れた効果を発揮している。水属性は対策が難しいので特に有効だ。それにこのダンジョンで寒冷耐性が上がるのはありがたい。

 

「単なる宝部屋だったということかしら」

 

「考え辛いが、他にギミックも何も無さそうだな。奇跡の【助言求め】が必要かもしれない」

 

 助言求めとは適切な場所で使用すれば攻略する上で有用なヒントが得られるという運営側の救済処置に見えて、その実は中身が嘘八百だったり、そもそも使える場面が限定過ぎて過半のプレイヤーは忘れていたり、そのくせして幻影の壁などをこっそりと教えてくれたりする、ありがたみが実感できない奇跡だ。使用条件のMYSが緩い初歩的な奇跡であり、とりあえず使ってみようというプレイヤーは多いが、結局のところ効果を得られずに魔法枠からすぐに排除される奇跡の筆頭である。

 ザクロも無い無いと手を振ってオレの言葉を否定して広間から出ていく。何か引っかかるものを覚えながらオレもそれに続き、他のルートを探そうとする。

 だが、どうにも気になる。幾ら隠してあったとはいえ、後継者が有用なアイテムをあっさりと渡すとはどうしても思えない。

 

「ザクロ、少し待ってくれ。やっぱりこの部屋が気になる」

 

「でも、もう何も無いわよ? 何かギミックがあるにしても、別の場所で発動させないと駄目なタイプかも」

 

 広間の入口で振り返ったザクロの言う通り、これ以上この部屋で足止めされても時間の無駄だろう。事実として次の手が思いつかないのだから。こういう時に『アイツ』ならば、すぐに別の解釈や視点を引っ張り出してくれるのだが、オレでは導き出せない。

 オレはザクロに反論の言葉を持ち合わせていなかった。流されるままに、ザクロが部屋の外に出ていく背中を見つめていた。

 だから、『それ』は当然の結果だったのかもしれない。

 ザクロが部屋の外に出た瞬間に、広間の入口が急速に氷で覆われ、オレとザクロを分断する。全ての頭蓋骨より黒い靄が漏れ、広間に黒い鬼火が次々と灯る。そして、黒い火の内から今までとは一風変わった闇術師スケルトンが出現する。

 

 

<深淵の信奉者ドラコ>

 

 黒い樫に金の蛇が巻き付いた独特の意匠を持つ杖を振るい、ネームドは1本のHPバーを見せつける。

 なるほど。アイテムをご丁寧に隠したのはプレイヤーを油断させる為か。誰かが広間から出た瞬間にネームドが出現してパーティを分断する……といったシチュエーションを狙っていたのだろう。

 だが、幸いにもHPバーは1本か。この程度ならば……とも思ったのだが、ドラコが杖を振るえば全ての祭壇が砕け、頭部だけ白骨化した12体のミイラが動き出す。そして、その頭部は黒い炎に包まれ、苦悶の叫びを漏れ出す。

 12体のミイラはドラコを守るように前衛となる。ふわりと浮いて黒いローブを舞わせたドラコが杖を振るえば、その周囲に7つの黒球が出現した。

 ネームド自体は魔法使いとして後方からの魔法攻撃、雑魚は盾になる。そんなところか。

 

「【渡り鳥】!」

 

「この程度なら慣れている。それよりも注意しろ。このトラップ、後継者にしては味付けが――」

 

 薄すぎる。そう言い切るよりも前に、オレは氷で僅かに歪むザクロの背後で、冷気の霜が急速に空間を侵食していることに気づく。

 

 

 

 

 警告する時間など無かった。ザクロの背中は何かに抉られ、その肉片と血がオレ達を分ける氷にべちゃりと音を立ててこびり付き、赤色を咲かせた。

 

 

 

 

 ぐらりと傾くザクロは血飛沫の中で何とか踏ん張って堪え、空間で白い霜と共に自分の血を啜った鋭い爪を睨む。

 見えない『何か』がザクロを背後から襲ったのだ。そして、その爪はザクロを再度抉ろうとするも彼女は何とか回避し、左手の呪術の火から大火球を投げる。それは何かに命中したかのように、不可視の敵を燃え上がらせた。

 それはケダモノ。全身は青白い氷と同化した鱗で覆われ、姿は鰐と犬を足したような印象だ。太く逞しい後ろ足は起立して威嚇しつつ、2対の腕は凍った地面を正確に捉えるスパイクのような鉤爪を備えている。尾は3つに分かれ、いずれも独立した意思を持つようにうねり、その先端はスパイクメイスように膨らんで表面を棘が覆っている。

 だが、何よりも異質なのは頭部だ。そこにあるべき口は縦に開き、内部にはびっしりと鋭くも小さな牙が面として並んでいる。それは喰らい付いた獲物を擦り潰す為だろう。そして目玉は無数とあるが、いずれも黒目の内側に青い光を宿している。

 

<深淵の氷獣トリスタン>

 

 3本のHPバーを頂く深淵の魔物は白い靄と共に不可視となり、ザクロを無理して襲わずに消える。いや、距離を取る。次いで地面に霜柱を作る白いブレスがザクロへと真っ直ぐと伸び、彼女はよろめき、1歩の度に背中から血を零しながら逃げる。

 

「私は……気にするな! 自分の事に集中しなさい! 私だって元傭兵よ。これくらいの危機……慣れてるわ!」

 

 苦しそうに、だがオレを心配させまいとする彼女の気遣いが滲む笑みに、オレは呼吸を挟み、状況を整理する。嫌になる程に思考は冷静さを失っていない。

 相変わらず悪意全開のトラップを仕掛けてくれる。アイテムで釣ったトラップでパーティを分断し、広間に残された方を強制ネームド戦に持ち込ませたと見せかけて、本命は『自分達は罠にかからなかった』という絶対的な油断をした外にいるプレイヤーを、不可視の能力を持つ霜海山脈のボスで強襲するという殺意満点だ。

 気づくべきだった。広間と繋がった無意味な程に広々とした空間はボス部屋だったのだ。その証拠に、こんなにも戦い易そうな空間で、オレ達はモンスターと一戦もせずにこの広間まで辿り着けた。

 ボス戦開始のトリガーはアイテムの獲得だったのだろう。これ見よがしなギミックによるアイテム獲得は演出だ。プレイヤーに罠だと思わせ、実際に罠で嵌め、しかし実際にはボス戦のスタートという多重の悪意。後継者の真骨頂だ。

 逃げるザクロは氷の柱が並ぶボス部屋の闇に消える。一撃死は無かったようだが、傷が治癒し辛いアルヴヘイムでは大きな枷になる。欠損状態にもなっているはずだ。止血包帯はあるだろうが、ボスのトリスタンが猛攻を仕掛ければ回復できる余地はなくなる。

 必要なのは、早急にザクロと合流し、ボスとの戦いをオレが引き継ぐことだ。

 

『我らが求めるのは深淵の主。闇に栄光あれ』

 

 浮遊するドラコの戦闘の前口上に対して、オレは死神の剣槍を振るって応じる。

 

「申し訳ありませんが、アナタの遊戯に付き合っている暇はありません。狩らせてもらいます」

 

 HPバーは1本。後継者なりのバランス調整……配慮のつもりだろうか? ギミックを発動させて蛇槍モードでドラコを攻撃するも、闇の波動に阻まれて弾かれる。

 やはり後継者に優しい配慮なんて無かった。このボスは恐らくギミック型だ。正当な手順を踏まなければ倒せないタイプだろう。恐らく条件の1つは頭部が黒炎に包まれた12体のミイラの撃破だろうか? 何しても秘密を暴かねば倒せないタイプだ。時間が否応なくかかる。

 左手に死神の剣槍を、右手に贄姫を抜き、オレはドラコを睨む。時間が無い。1秒でも早く狩る。それだけだ。

 死ぬな、ザクロ。オマエの願いの為に。祈りの為に。『答え』の為に。こんな冷たい地下の底で死ぬな。

 

 

 

 

 

 どうせ彼女は死ぬわ。アナタは誰も救わない。救えない。だったら殺しましょう? 1秒でも早くこの場の始末をつけて、彼女を殺しましょう? 他の誰にも横取りさせては駄目。

 

 

 

 

 

 

 導きの糸を張らないヤツメ様は優しくオレの頬を撫でる。だが、オレは一呼吸と共に、黒炎ゾンビを贄姫で斬り払った。




絵画世界=不可視からの奇襲は基本技
ザクロの命懸けの鬼ごっことかくれんぼがが始まります。

それでは、262話でまた会いましょう。

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