SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

VSトリスタン、開始。


Episode18-27 呪い

 次々と降り注ぐのは闇術特有の、白い靄に包まれた黒球。それはある程度の追尾性を持つが、1つ1つの弾速は回避が困難なものではない。

 闇属性。それは神族やその眷属に有効な属性であり、彼に対して高いダメージを期待することができる一方で、属性の特殊さや闇術の習得条件に反し、そもそも弱点となるモンスターの出現比率が低い為、実用性に関しては『他の属性の方が便利』と言われる始末である。

 だが、プレイヤーに対しては全く異なる。そもそも闇術には等しくスタミナ減少効果があるからだ。また、通常の魔法や呪術と違ってガードブレイクさせやすく、盾を構えっぱなしの相手……いわゆるガン盾を倒すのに有効だ。また、いずれも癖のある闇術は戦いに組み込めば恐るべき凶器として機能する。

 DBOにおいてスタミナは生命線だ。スタミナ切れになれば動けなくなり、また全ての攻撃がクリティカル扱いになる。そんな状態で頭部や心臓といったクリティカル部位に直撃を受ければ、たとえ重装高防御力かつ高VITのプレイヤーがフルHPでも一撃死もあり得るのだ。 

 故に闇術は対人戦において絶大な能力を発揮する。特に盾を使ってしっかりガードする戦いが身に付いたプレイヤー程に闇術によって狩られてしまう。そして、DBOにおいて闇術を使用するとは殺人行為に手を染めた証拠に他ならず、故にその脅威度は高まる。

 次々と襲い来る12体の黒炎ミイラだが、その攻撃は手ぬるい。長剣を振り回し、斧を乱舞し、槍で突進してくるだけであり、そこには光る技巧などない。耐久も高くなく、死神の剣槍で振るえば簡単にHPは4割以上削れる。ネームドのお供としては余りにも貧弱だ。

 だが、ゾンビは何度倒しても復活する。どれだけ派手に破壊しても、肉片の全ては再結合し、変わらぬ姿で暴れ回る。しかもその再生速度たるや、撃破から僅か10秒だ。どれだけ破壊しても、中心部にある光の塊……ソウルだろう光に肉片は集中し、復活してしまうのだ。

 そして、本体である深淵の信奉者ドラコは徹底した後方支援だ。追尾性を伴った闇の球、オレの足下から発生する黒炎の火柱、連射性の高い闇の飛沫、たまに接近してきたと思えば闇の大剣の連撃でこちらを攻め立て、周囲を薙ぎ払う闇のフォースで広範囲を攻撃する。ゾンビたちが巻き込まれようと関係ない。すぐに再生するので同士討ちも恐れずに闇術を連発してくる。

 ザクロの救援に早く向かわねばならない。焦りを覚えるべきではないが、余裕を持ちながらじっくりと観察する暇もない。早急にドラコへとダメージを与える手順を発見しなくてはならない。

 宙を浮かぶドラコが地に降りたかと思えば祈りの姿勢を取り、黒みを帯びた紫色の波紋が祭壇の広間全体に円となって拡散する。

 

「【沈黙の禁則】ですか。生憎ですが、魔法とは縁が無いものでして」

 

 闇術系奇跡、沈黙の禁則。通称『魔法使い殺し』とされる範囲内の魔法・奇跡・呪術の全てを自他共に封じ込める。ただし、ネームドやボスには通じないことが多い。効果時間も短く、使用する魔力も多量である為、実用性に難がある闇術だ。

 ただし、これはプレイヤーが使用したならば、という注釈が入る。当然ながら、ネームドであるドラコの沈黙の禁則は10秒や15秒で終わるものではないだろう。

 両手に曲剣を持った二刀流の黒炎ゾンビがオレに跳びかかる。それを贄姫で腹から両断するも、痛みどころかダメージフィードバッグも感じないゾンビは、曲剣を捨てて這ってでもオレに襲い掛かろうとし、接近するとその頭部を燃やす黒炎を凝縮させる。 

 炸裂したゾンビは黒炎の大爆発を起こし、仲間も巻き込む自爆を達成する。ギリギリで範囲外に逃れるも、そこには大曲剣を構えた黒炎が独特の腰溜めした構えで待っていた。

 あの構え、間違いない。緑色の輝きを纏ったそれは≪曲剣≫の連撃系ソードスキル【トライデント・バースト】。曲剣でも特に大曲剣と相性が良い上位ソードスキルであり、最初の回転斬りから追加モーションを差し込むことで更なる2連回転斬りか宙に跳んでの側転斬り、そして側転斬りからは前進しながらの3連斬りという、最大で5連撃にまで派生できる、曲剣でも高難度のソードスキルだ。

 派生させればさせる程に火力ブーストは高まり、最後の3連撃ともなれば火力・スタン蓄積・衝撃のいずれも破格になる。だが、追加モーションを差し込むには僅かしかなく、発動後の硬直時間も長いので徹底した熟練が求められる。

 最初の一閃を贄姫で受け流し、そのまま派生させないように右足を切断する。だが、幾ら斬っても死なず、また欠損させても再生に時間がかからない黒炎ゾンビは、その脆さに相反した無限のタフネスを持っている。ソードスキルを垂れ流し続けても問題ない、ソードスキルを『当たるまで使い続ける』が出来る不死身の突撃兵だ。しかも自爆も強力かつ範囲も広いと来ている。

 ソードスキルには単発系・突進系・連撃系・回転系の4つから構成された直接攻撃型、≪カタナ≫のような強化型がある。EXソードスキルは特別なので省くとして、この中の直接攻撃型にはユウキが得意とする≪片手剣≫のスターライトや先程の黒炎ゾンビが使用したトライデント・バーストのように追加攻撃ができるタイプがある。これらはSAOでは無かったタイプであり、恐らくは茅場の後継者がSAOで『アイツ』が発見したスキルコネクトを参考にして、プレイヤーでも簡単に追加派生攻撃ができるように準備したものだろうというのがオレの予想だ。派生タイミングはいずれもシビアであるが、その分だけいずれも強力である。ただし、派生型は敢えて派生タイミングが盛り込まれている為か、スキルコネクトが機能しないらしい……というのは、デュエル模擬戦で≪片手剣≫の3連スキルコネクトでオレを殺しにかかってくださったラジードさん(恋人持ち)からの情報である。

 贄姫から水銀を滴らせて刃を這わす。振るえば水銀の刃が本来の間合い以上の斬撃を生み、飛び散る水銀と冷たい地下の氷の光が混じり合う。水銀居合にはもちろん、刀身本来の刃の威力にも届かないが、疑似的に間合いを伸ばせる水銀の刃は重宝する。

 と、今度は足下から次々と黒い結晶が生え始める。黒炎の火柱と同じで足下から発動する闇術かとも思ったが、結晶は残り続けている。傍によると黒い靄がオレに纏わりつき、レベル1の呪いを蓄積させ始める。効果は最大HP減少か。レベル1ならばHP1割減だが、最大HP減少は重複し、最大で9割まで削るという凶悪なデバフだ。

 PoHのリビングデッドならばレベル1の呪いを解除できる解呪石を持っていたのだが、オレのアイテムストレージには入っていない。解呪石は容量が大きいからだ。だからこそ、呪い耐性は十分に高めてあるが、闇結晶が残り続けるならば緩やかに蓄積していくことになる。

 試しに死神の剣槍で攻撃すれば、闇結晶には亀裂が入った。破壊は可能なようであるが、それを許す暇もなく、ドラコは杖の先端に黒炎を凝縮させたかと思えば、火炎放射器のようにして広範囲を薙ぎ払う。

 壁へと向かい、黒炎が到達するより先に重力に逆らうように駆け上り、そのまま宙を跳んでドラコの頭上を取る。贄姫の水銀居合を放つも、やはり闇によって阻まれてダメージは与えれない。

 着地狩りをしようと待ち構えていた片手剣と盾を持った黒炎ゾンビを、ギミック発動で伸ばしたランスブレードで腹を貫通して押し飛ばし、着地と同時に足下から昇る黒炎の火柱をステップで回避しながらドラコを中心に回り込む。

 どうすればドラコを倒せる? 通例ならばゾンビの全滅だろう。それ以外にギミックは無い。だが、問題はゾンビを全滅させるにしても無限再生という点だ。復活の10秒以内に全滅させる? 均等にダメージを与えれば不可能ではないが、ドラコは容赦なく相討ちの攻撃を仕掛けてくる。1体1体の耐久度が低いだけに、HP全損し易く、簡単に再生のチャンスを与えてしまう。

 たとえば、あるネクロマンサーが操るスケルトンは光属性の攻撃でラストアタックを決めると復活しなくなるらしい。ならば、ドラコ撃破には光属性必須なのだろうか? いや、後継者の性格からして違うだろう。光属性があれば『有利』くらいは味付けしても、光属性が無いと『無理』は絶対にしない。後継者のプライドが許さない。

 どれだけ凶悪で、勝てないと思いたくなるくらいに強大で、圧倒的な存在感でこちらを押し潰そうとして来る敵であろうとも、『絶対に倒す事が出来ない』だけはしない。必ずプレイヤーに今にも切れそうな程に細くて脆くとも勝ち目を与える。それが後継者のやり方なのだから。

 だが、ドラコはこの霜海山脈の嫌らしさを凝縮したような存在だ。闇術によるスタミナ削りを伴った援護、沈黙の禁則による魔法の封じ込め、闇結晶による呪い蓄積、そして冷たい地下は否応なく寒冷を蓄積させ続ける。

 強化手榴弾を使って黒炎ゾンビを一掃するか? いや、無意味な攻撃は控えるべきだ。ドラコへの牽制ならば、威力は既に一線を退いて久しいが、数にまだ余裕がある魔力壺の方が効率的だろう。ドラコは攻撃に対してダメージこそ受けないが、適度な回避行動は取る。闇術を使用するタイミングで放れば発動を封じる事も出来なくもない。だが、それはオペレーションに則った必然の行動ではなく、反射に近しい回避行動に思える。

 ドラコには『命』があるのだろうか。分からない。ヤツメ様の導きが無い今のオレには見抜けない。だが、ドラコの回避にはランダム性があり、そこには規則性があるとも思えない。

 どうすればギミックを解除できる? たった1つだけの洗礼オイルを使えば、光属性の炎で炙ることができるだろう。だが、それでも効果が無いならば……いや、高確率で意味のない行動で終わる。

 ヤツメ様が楽しそうにクスクスと笑っている。謎を解き明かせないオレを嘲っている。だが、この場合は声を大にして言おう。この手のギミックでヤツメ様の力が役立った試しが無いので、ストライキされていても問題は無い。

 

 

 

 

 

『1に観察、2に分析、3にトライ&エラーで、4でクリア。この世に「絶対に解けないパズル」はないさ』

 

 

 

 

 

 

 まるで深海の奥底から浮き上がったように、泡が水面で弾けたように思い出されたのは『アイツ』の言葉だった。

 ああ、そうだな。攻撃を仕掛け続けても意味が無い。まずは観察することだ。相手の猛攻に押し流されず、ザクロの危機に焦らず、たとえ遠回りだとしても、じっくりと目の前の『パズル』を見つめること。それがギミック型の倒し方だ。

 ここにはオレしかいない。『アイツ』も、ディアベルも、PoHもいない。だから、どれだけ難解なパズルだとしても、オレが解き明かすしかない。

 深呼吸を1つ挟み、時間加速下における戦闘で溶けそうなまでに熱を蓄えた脳へとクールダウンを呼びかける。贄姫を鞘に戻し、死神の剣槍を背負い、ドラコと黒炎ゾンビの攻撃を潜り抜けながら、この『パズル』の正体を探す。

 12体の黒炎ゾンビ、いずれの得物も異なる。片手剣と盾、両手剣、特大剣、槍、槍と盾、曲剣二刀流、大曲剣、戦槌、大槌、戦斧と盾、大斧、斧槍。この12体だ。いずれも配置はドラコを中心にして守るように囲んでいる。一見すればアクティブにオレを襲っているようにも思えるが、それは宙を浮かぶドラコが動き回って闇術を使用しているからであり、彼らは自分の陣地のようなものを守り合っている。

 次に空間。祭壇広間はいわゆるドーム型であり、円形の空間である。中心部にあった凍った手の像は油で焼かれて溶解し、それを囲んでいた12の祭壇も黒炎ゾンビとも共に破壊させられた。他にギミックらしいギミックは無い。あるのはせいぜいアイスマンの死体だけだ。

 ……待て。どうしてアイスマンの死体をわざわざ配置している? 特大剣の重量任せに回転斬りをして溜めた遠心力を解放してこちらに飛んできた黒炎ゾンビを躱しながら、アイスマンの死体の数を調べる。

 その数は同じく12体だ。何に襲われたのか? トリスタンか? 彼らが召喚した深淵の魔物を御しきれずに死んだのか? それとも外敵のいないこの場所を誰かに襲われたというのか?

 

 

 

 

 

 ……もしかしたら、オレは『物語』を根本的に誤解していたのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 オババの話によれば、アイスマンが召喚した【氷の魔物】によって霜海山脈より終わらぬ冬が訪れた。その話は『何処から仕入れられた』ものだろうか?

 オババ達は恐らく霜海山脈というダンジョンの目前、呪い解除の祭壇がある休憩地点に設けられた安全地帯に村を築いた『移住者』だ。NPCではない。故に、オババたち……いや、シャロン村の住民の全ての語りは彼らの『推測』でしかないのではないだろうか?

 霜海山脈はアルヴヘイムの地理が変化する以前から存在した原初の姿だ。それは後継者が設計しただろうダンジョンという時点で間違いない。

 アイスマンのオペレーションを思い出せ。仲間のピンチに駆けつけて庇う、仲間思いな姿だ。なのに、この地下でのアイスマンは闇術師スケルトンと共に現れ、闇術で強化……いや、狂化させられて、仲間すらも無差別に攻撃する。

 闇術師スケルトンは霜海山脈にとって……アイスマンにとって『侵略者』なのではないだろうか? 彼らとの闘争に敗れ、奴隷とさせられている姿が地下で登場した狂化アイスマンなのではないだろうか?

 12体のアイスマンと12体の黒炎ゾンビ。撃破後に肉片が集中するソウル。10秒という猶予時間。後継者の『目の前にヒントがあるのに気づかない』という、こちらの盲点をつくトラップ。そして、霜海山脈の『物語』。

 どうしてこの祭壇広間にトリスタン関連のアイテムが配置されていた? それは単純にボス戦開始の合図の為だけではない。あのように隠されていたのは、隠さねばならない理由があったからだ。それを暴こうとしてアイスマンたちは返り討ちにされた。そして、彼らの遺体が残っている理由は何だ?

 黒炎ゾンビの配置はドラコを囲むものだ。つまり、彼の周囲を12に分割してその範囲を守護している。だが、一方でアイスマンの遺体が横たわるのは壁際であり、その配置もまた祭壇広間を12に分割するかのようだ。

 

『クー、ゲームのギミックには限度があるんだ。たとえば、高度なリアル科学知識を求められるようなギミックは成立しないさ。ゲームのギミックなんて極論を言えば3つ。「特定の敵を倒す」か「アイテムを使う」か「スイッチを押す」だよ』

 

 トライ&エラー。試して失敗したなら次の手を考えれば良い。正解にたどり着くまで試し続ければ良い。そうだよな? 思わず口元が笑ってしまいそうになりながら、オレは闇結晶から逃れながら大斧持ちの陣地に入り込み、その一撃を右手で抜いたランスブレードで捌き、そのまま頭部を貫く。ドラコの闇の飛沫に対して盾に使い、破壊させると零れ落ちたソウルを目にした。

 普通ならば試さないこと。戦闘中であるからこそ、勝手にオレは『肉片が集中して復活する目印』と思い込んでいた。だが、これの本来の持ち主が別にあるならば!

 左手でソウルを『つかみ』、ドラコの攻撃を避けながら、纏わりついていくゾンビの肉片から逃げながら、アイスマンに駆ける。そして、ソウルをその遺体に押し付ける。

 

『アァアアァァ……』

 

 それは安息の吐息。途端にアイスマンの遺体はボロボロに崩れていく。

 

「……生贄ですか」

 

 ドラコは何も答えない。答える義理もないだろう。だが、少しだけ攻撃のテンポが過激になる。焦りだろうか?

 ギミック型は謎を解くまでは無敵であるが、謎が暴かれれば、あらゆるネームドやボスの中で最も倒しやすい。彼らの強さは秘密そのものだから当然だ。

 残り11体。ドラコの攻撃は激しいが、元より全て回避できている。あとはこの作業を11回繰り返すだけだ。

 待っていろ、ザクロ。もうすぐだ。もうすぐだから、耐え抜いてくれ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 背中から響き続けるダメージフィードバックは痛みとは異なる、独特の不快感となって脳髄を掻き回す。

 その不快感は痛覚とも異なり、神経を掻き乱すような、意識を濁らせる汚泥のような、血管の中で芋虫が這っているような、言い知れない感覚をもたらす。それは慣れないプレイヤーならば悲鳴を上げてのたうち回るほどであり、事実としてDBO初期は大ダメージを受けた際に比例したこのダメージフィードバックが多くの人命を奪うことになった。今でもダメージ慣れしていない後方支援型プレイヤーほどに、ダメージフィードバックへの耐性が無い為に大きな隙を晒すことが多い。

 だが、ザクロは思う。見えぬ襲撃者から逃れながら、血痕を凍った地面に作りながら、痛覚とはどのようなものだったかと振り返る。

 

『ふふ、大丈夫よ。痕も残らないくらいに、すぐに奇麗に治るわ』

 

 あれは小学校の頃、庭の手入れを母と一緒にしていた時だろう。母が用事で出かけ、1人で続きをやっていたザクロは転んで花壇の煉瓦で膝を大きく傷つけてしまった。溢れる血は這い上がった部屋を赤く染め、両親のお気に入りの絨毯を醜く染めた。

 だが、帰ってきた母はまずザクロの安否を確かめて無事であることにホッとし、涙塗れの彼女の傷を水で洗い、アルコールで消毒した。その後に念の為に病院へと連れて行こうとする母に、絨毯を汚して怒っていないのかと尋ねると、母は首を横に振った。

 

『絨毯は洗えば良いだけよ。だから何も心配しなくて良いわ』

 

 ザクロは嘘だと泣きじゃくりながら母を否定した。絨毯を汚したことを母は悲しんでいるに違いないと思ったからだ。

 だが、胸の内を吐露したザクロの涙を丁寧にハンカチで拭き取り、母はタクシーを呼びながら困ったように笑った。

 

『×××ちゃん、世界は優しくないから、他人の言葉を疑うのは正しい事よ。でもね、疑い続けたら、きっと疲れきって何も出来なくなっちゃうわ。だから、まずは信じないと駄目。嘘だとしても、傷つけられるとしても、信じてみて、それから考えてみましょう?』

 

 母を愚かな人と呼ぶか、それとも素直な人と呼ぶかはそれぞれだろう。

 だが、膝に蘇る過去の痛みに、ザクロは母が本当に『優しい人』だったのだろうと、それだけを確かに感じ取る。

 

「私は……優しい人に、なりたい」

 

 氷柱に背中を預け、止血包帯を取り出す。酷い欠損状態であるが、止血包帯を使えばスリップダメージは止められる。だが、それは欠損がもたらすダメージであり、アルヴヘイム特有の流血ダメージまでは止められない。止血軟膏で流血ダメージを緩やかには出来ても、止めることはできない。

 だが、爪のダメージは思いの外に小さかったのも事実だ。背後から攻撃だったのにHPは決して高くないザクロなのに、5割ほどしか削られていない。だが、軽量性とはいえ、鎧装備のザクロが一撃で欠損状態になったのだ。高い斬撃属性を持つだけではなく、出血・欠損させやすい補正がかかっているのだろう。つまり、あの2対の前肢自体の攻撃力は高くないが、回避を怠れば容易く欠損させられ、またアルヴヘイム特有の流血によるスリップダメージでHPを結果的にじわじわと削られていくことになる。

 見た目の凶暴かつグロテスクさに対して、透明化能力も含めて、搦め手を使ってくる嫌らしいタイプだ。しかもHPバーは3本もあるならば、次々と能力を解放していくに違いない。

 燐光紅草を頬張り、しっかり奥歯で擦り潰す。10秒は長い。戦闘中で10秒あれば何度殺されるか分かったものではない。

 

(取って置きの女神の祝福もある。でも、呪いが蓄積したら……今は考えるべきじゃないわね。【渡り鳥】が到着するまで耐えること。幸いにもあのボス……トリスタンは積極的に攻撃してくるタイプじゃないみたいだし)

 

 今も深淵の氷獣トリスタンは姿を消している。足音も無く忍び寄る5メートル以上の巨大な魔物は脅威であるが、ボス部屋となる氷柱が並ぶ空間は広い。また、イベントボスであるならば、ボス部屋と外部を切り離すステージボス特有の霧も無いはずだ。ならば、今はボス部屋の外を目指すのが最大の安全策だろう。

 既に1度発見された状態なので≪気配遮断≫は有効ではない。だが、≪消音≫ともう1つの手を使えば逃げ切れないこともないとザクロは計算する。

 ザクロは≪操虫術≫で召喚するのは透幻蝶だ。本来は群れで1匹を成すモンスターであり、掌ほどのサイズの蝶の鱗粉は隠密ボーナスを極度に高める効果がある。トリスタンのような完全透明化ではないが、隠密ボーナスによる疑似透明化を可能とする。

 とはいえ、この疑似透明化による奇襲はシャルルの森で【渡り鳥】にあっさりと破られた。レギオンを相手取っている時に背後を狙って『挨拶』してやろうと企んだのであるが、まるでザクロの存在をシステムに支配された五感とは別の何か……敢えて言うならば『野生の勘』のようなもので察知して、襲撃を防がれた。あの時ばかりは、内心で心底肝を冷やし、また恐れを膨らませることになったものである。

 

(やっぱり、この環境では無理よね)

 

 召喚した透幻蝶は極寒の世界に耐えられないように落ちていく。ザクロにとって最大の手札である≪操虫術≫はこの霜海山脈では十分に活用できない。そもそも、≪操虫術≫自体が戦闘向けではないのだ。トリスタンと単体で渡り合えるものではない。

 ストックには限りがある。契約している虫系モンスターを無限に召喚できるわけではないのだ。ザクロは一呼吸を入れ、燐光草を食べてHPを完全に回復させると、≪消音≫を発動させて足音を殺しながら、ボス部屋の外を目指す。

 氷柱のサイズは様々であり、細いものは直径50センチ程度、太いものならば2メートルにも達する。その間もバラバラで、上手く利用すれば、トリスタンに発見された際にも逃げるのに使えるだろうとザクロは目星をつけた。

 慎重に周囲を警戒しながら、ザクロは高鳴る心臓を落ち着かせるように1歩を踏みしめていく。暗闇のはずの地下空間であるが、氷と雪が薄く発光している為か、視界は十分に確保されている。だが、確かに存在する闇は何処となくどろりとしていて、ザクロの胸をざわつかせた。

 

(こちらの姿を見失っている? 何で攻撃を仕掛けて来ないの? 逆に不気味だわ)

 

 幾ら隠密ボーナス上昇+≪消音≫でも、ボス戦中ならばトリスタンはこちらに際限なく攻撃してくるはずだ。そもそも逃げるザクロの追跡もそこそこに姿を消したのも不安を膨らませる。

 トリスタンは攻撃を当てれば一時的に透明化を解除できるタイプだろう。つまりは攻撃を当て続けることが最良の攻略法だ。大火球のダメージも悪くなく、火炎属性に対して脆弱なのは間違いないだろう。

 もうすぐ出口だ。ザクロは期待を押し殺し、氷柱の陰から覗き見て、出口を氷が塞いでいることに溜め息を漏らして苦笑する。簡単に逃げられるとは思っていなかったが、これでボス部屋でトリスタンとかくれんぼ兼鬼ごっこを継続せねばならない事は間違いない。

 

(爪には水属性も高い。氷結状態になったら……)

 

 属性3大デバフ。火炎属性の熱傷、雷属性の感電、そして水属性の氷結。これらはプレイヤーにのみ発動するデバフであり、モンスターに効果を発揮した例は今のところ報告されていない。これらはそれぞれの属性攻撃を受けると蓄積して発動するが、中にはこの属性デバフのみを蓄積させる攻撃手段を持つモンスターもいる。

 レベル1でオートヒーリング制限、レベル2で追加であらゆるHP回復効果半減、レベル3で更にHP上限減少をもたらす熱傷。

 スタン耐性の大幅減少をもたらす感電はデバフレベルが高い程に発動時間が長引く。

 デバフレベルが高ければ高い程にDEXに下方修正が入り、スタミナ回復停止と被クリティカル率が高まる氷結。

 トリスタンの爪はレベル3の氷結が蓄積した。盾を持たないザクロがレベル3の氷結状態になれば、大幅なDEX低下によって回避も困難な状態になる。氷結耐性を高めるには水防御力の上昇しかない。

 ザクロは深呼吸を入れる。【渡り鳥】の相手はギミック型である。戦いの長期化は有り得るだろうが、敗北は無いだろう。

 

(……はは、ははは。何それ? 私はどうして『絶対に負けるはずがない』なんて言いきれるの?)

 

 氷柱にもたれかかったまま、消えぬ背中の疼きを感じながら、ザクロは自嘲する。

 信用? 信頼? 違う。断じて違う。ザクロは氷の世界で醜い自分の本音と向き合う。

 相手はギミック型だから? そんなのは『あり得ない』ではないか! 相手はギミック型でもネームドなのだ! この世界で、嫌と言う程にプレイヤーに絶望を味わせて来た暴力の権化のような存在なのだ。ギミック型は確かに弱いが、それは比較対象が同じネームドであるからの話であって、断じて単身で挑んで良い存在ではない。

 きっと、誰もが麻痺していくのだ。【渡り鳥】の傍にいればいるほどに、近づけば近づく程に、感じ取ってしまう。

 真っ白な雪のような髪に、あの不可思議な赤みがかかった黒の瞳に、男性とも女性とも思えぬ中性美の微笑みに、理解させられてしまう。

 

「…………っ!」

 

 だが、ザクロの思考を途切れさせるように、肩に冷たい氷の破片が触れ、咄嗟に彼女は前傾姿勢で前に跳び込む。一瞬遅れでザクロがいた場所で何かが揺らぎ、空間が霜で覆われ、巨大な2対の右腕が、人間に近しい5本指に備わった鉤爪が輝く。

 あの時、氷の破片が落ちて来なければ、不可視のトリスタンによって頭上から押し潰され、ザクロは死んでいただろう。運が良かったと言うべきか、それとも不運は続くと言うべきか、白いブレスが緩やかに吐き出され、広範囲を冷たいスモッグで覆う。

 このまま不可視のトリスタンと戦い続けるのは不可能だ。ならば、とザクロは呪術の毒の霧を発動させる。毒々しい紫色の霧は白と混ざり合い、その先にいるトリスタンにまで届いたはずだ。だが、1度や2度の毒の霧ではボス級に効果などないだろう。

 だから、これは次の行動の目暗ましである。ザクロは≪操虫術≫で混沌の寄生虫を召喚する。卵背負いと呼ばれる者たちの内に巣食う寄生虫であり、ブヨブヨとした白い胴体と百足を思わす赤い頭部と顎を供えた80センチほどもある巨大な虫は、次々と正面に跳びかかり、見えない何かに喰らい付く。

 そうして露になった醜い獣は、悲鳴を上げて頭部に喰らい付いた混沌の寄生虫を振り払う。混沌の寄生虫はプレイヤーに寄生攻撃できるだけではなく、その顎は高い出血・欠損効果がある。トリスタンの皮膚を喰い千切り、どす黒い血を垂れ流させ、その姿を露にさせることに成功する。

 ザクロは≪操虫術≫をサポート系のユニークスキルと断じているが、実際には戦闘・補助の両方において高い適性を供えた、場合によっては≪剛覇剣≫や≪二刀流≫以上の攻撃性を確保できる凶悪性能である。理由は単純明快である。≪操虫術≫は文字通り、DBOに存在する『あらゆる虫を支配できる』というユニークスキルだからだ。

 本来ならばプレイヤーが得ることができない、モンスターだけに許された強力な性能の数々を、彼女は自在に召喚して使役することで対象を選ばずに武器として振るうことができる。だが、当然ながらこのスキルは随時の現場判断で召喚対象を選ぶことは戦闘中にはほぼ不可能である。事前にセットした数種の召喚が限界だ。

 だからこそ、サポートAIは……イリスの存在は、≪操虫術≫に高い実用性を与える為に不可欠と言えるだろう。そして、このサポートAIの『再生産』はイリスが死亡した時点でザクロのシステムウインドウには選択肢として与えられていた。

 だが、彼女には出来なかった。イリスが死んだからと言って、すぐに『代用品』を準備することが果たして正しいことなのか迷い、実行することが出来なかった。

 それは当然ながら、戦いの中で……殺し合いの中で代償を求められる事になる。

 頭部に喰らい付かれた混沌の寄生虫を振り下ろし、4本の前肢で踏み潰したトリスタンは咆哮をあげる。モンスター専用スキル≪ハウリング≫であることを察知するより先に、ザクロは咆哮で歪む空間の波動をまともに浴びる。

 ダメージは無いが、代わりにHPバーの下に新しいアイコンが……攻撃力減少のデバフが発動する。

 この時点でザクロは察知する。霜海山脈と同じで、トリスタンはデバフによる搦め手でこちらの消耗を狙ってくるタイプのボスなのだと把握する。攻撃力自体は『現時点では』控えめであるのは救いだろう。

 だが、ザクロは一手間違えた。彼女の目的は【渡り鳥】が到着するまでの『時間稼ぎ』である。トリスタンの戦法が透明化からの奇襲であるならば、たとえ次の奇襲のリスクを背負っても、再びトリスタンに撤退させ、【渡り鳥】到着までの時間稼ぎに終始すべきだった。

 混沌の寄生虫によってダメージを負い、なおかつ深く傷ついて流血によるスリップダメージを受け続けるトリスタンは透明化という能力を発動できなくなった。その状態で再度の撤退をするだろうか? 否である。

 それは世界を震わす叫び。トリスタンは逞しい後肢で上半身を持ち上げ、縦割りの顎を大きく開き、今度は≪ハウリング≫ではない、ザクロも思わず凍える程の、多くの感情が混ざり合って濁った叫び声を上げる。

 それは『獣』のようでありながらも『人』であったかのような、暗い地下の空間に染みわたる冷たい叫び。ザクロが硬直した刹那の間に、トリスタンは後肢で凍った地面を蹴り、ザクロへと襲い掛かった。

 そのスピードは巨体のモンスターでは破格であり、その突進をまともにうければザクロのHPは全損していただろう。彼女を生かしたのは傭兵として培った戦闘経験であり、また彼女自身にも傭兵業をこなせるだけの戦闘適性が備わっていたからだろう。

 横に跳び、ザクロは右手で腰に差さったボロボロの短刀を抜く。そして、発動させる呪術は炎の武器だ。短刀を火炎属性でエンチャントし、少しでも火力を高める。

 

 

 

 

 

 だが、不意に伸びたトリスタンの『指』があっさりと短刀を砕き、ザクロの右肩を抉った。

 

 

 

 

「~~~~~~~ッ!」

 

 言葉にならない叫びを噛み殺し、ザクロは次々と伸びる『指』に対処すべく動き回る。回避には自信はあるが、トリスタンは2対……合計4本の腕それぞれにある指、合計20本の指を伸ばしている。

 まるでゴムのように伸びる指は鞭となり、鉤爪は自由自在にザクロを襲い掛かる。それだけではない。腕も肘や手首といった関節が外れ、これもリーチを伸ばして広範囲をカバーできるようになる。

 ザクロは発煙筒を投げ、真っ白な煙を生んで逃げようとする。だが、トリスタンは巨体に反する俊敏性で回り込み、縦割りの顎で喰らい付こうとする。びっしりと『面』で並んだ牙に捕まれば、生きたまま擦り潰されるだろう。ザクロはギリギリでこれを横に跳んで躱すも、今度は3つに枝分かれした尻尾、その先端に氷が纏わりついたかと思えば、冷気のレーザーを放ってザクロの右太腿を貫く。

 凍った地面を滑りながら転倒したザクロは、スケートリングで派手に転んだ昔を思い出す。そうして現実逃避しながら、攻撃を止めないトリスタンに対し、混沌の寄生虫の群れを召喚と共に投げつける。この環境下では長時間生きられないが、元より使い捨ても消耗品として扱うならば問題ない。再び喰らい付く混沌の寄生虫に対し、青みを帯びた冷気のブレスでトリスタンは応じ、その全てを凍てつき殺す。

 だが、その間にザクロは震える右足で立ち上がり、バランスを崩しながらも、システムウインドウを開くことに成功する。

 まだ取って置きも、最後のジョーカーも残してある! 抗おうとするザクロであるが、口内に潜むもう1つの口……触手の先端に顎が付いたようなそれに体を巻きつけられ、トリスタンの大顎に引き寄せられる。

 このまま顎が閉じれば全身に牙が吸い付くだろう。背筋を凍らせたザクロは動く左手の指で大発火を発動させ、顎が閉じる間際に炎で内側からトリスタンを炙る。これには堪らず拘束を解いたトリスタンに、更に大火球をお見舞いしようとするが、トリスタンは大きく跳び退いてこれを躱す。

 

「距離を……取ったわね!」

 

 これが最後の勝機! 生存への時間稼ぎ! ザクロはシステムウインドウから≪操虫術≫スキル項目を選び、最後の切り札を召喚する。

 それは3メートルにも及ぶ巨大な繭。白い糸に覆われた、まるで卵のように脈動する何か。

 イリスが≪操虫術≫がもたらした『サポート用AI』ならば、こちらは『戦闘用AI』である。ただし、これを発動するのはザクロにとって最後の手段でもある。

 

(発動条件は≪操虫術≫の使用停止! でも、それ以上に……!)

 

 本当ならば、イリスが死んだ時に、ランスロットを倒せる確率を高める為に、発動させるべきだった。

 だが、≪操虫術≫がプレイヤーに与えるのは『サポート用AI』か『戦闘用AI』のどちらかである。仮に戦闘用AIを起動させた場合、サポート用AIは失われる。

 

 

 心の何処かで『奇跡』を望んでいたのかもしれない。

 

 

 もしかしたら、『再生産』をした時に、何事も無かったようにイリスが戻ってきて、『鈍臭い主様のせいで1回死んじゃったじゃないですか』と文句を言われる未来を夢想してしまっていたのかもしれない。だからこそ、サポート用AIを『ゼロ』にしてしまう、この最後の切り札を使いたくなかった。

 分かっている。本当は分かっている。『再生産』の項目を見るたびに、イリスの『代用品』が卵となって目の前に現れるのではないかと思うたびに、恐怖が全身を浸した。

 

「奇跡なんて……起きるはずが、ない!」

 

 いつだって神様は残酷だったのだから。

 いつだって神様は何もしてくれなかったのだから。

 いつだって神様は人間を嘲っているのだから。

 

(ありがとう、イリス。私に手を差し伸ばしてくれたのは神様なんかじゃない! いつだって一緒にいてくれた大切な友達で、相棒で、家族だったあなた! だから、私は戦える! あなたの為に! 私の為に!)

 

 いつかの奇跡を起こす為に、まずは自分の足で立ち上がれ。

 ザクロは白亜草を頬張り、威嚇するトリスタンに不敵に笑って左手で手招きする。繭が割れるまで時間がかかる。それまで≪操虫術≫無しで守り抜かなければならない。

 無論、ザクロは目前の恐怖を踏破できるほどの『力』はない。だが、彼女は『彼』ならばそうするのだろうと恐怖に呑まれず踏み止まる。

 

「私のね、目標はただ1つ。可愛くて優しいお嫁さんなの。だから……こんな所で死ねないのよ!」

 

 襲い来るトリスタンが最初に放ったのは大きく跳んでからの、右の2対の腕を伸ばし、更に指を伸ばす格闘攻撃。ザクロは最初の賭けに勝利する。これが距離を詰めるのと同時に攻撃を伴う突進だったならば、繭を守る以前の話だっただろう。

 迫りくる指をザクロは『何も持っていない』ような右手を振るって『斬り払う』。これにはトリスタンの頭部表面に無数と開かれた多量の眼が大きく見開かれた。

 だが、正確にはザクロは得物を握っている。半透明で、薄っすらとした、鍔を拵えないカタナの柄。それを握りしめている。

 天井より舞い散るのは、まるで雪のような光。その冷たい灯が見えない刃に触れて、薄っすらとその刀身を一瞬だけ映し出す。

 

 

 

 

 

「暗器【闇朧】」

 

 

 

 

 

 ザクロが所有する、唯一無二のユニークウェポン。それこそが闇朧。本来、≪暗器≫は他の武器の属性を『殺す』作用がある。故に他の装備に≪暗器≫属性を付与することは出来ない。これは安易にクリティカルボーナスを高める武器属性を付与することを禁じる後継者の処置だろう。また、プレイヤーとしてもわざわざ他の武器属性を潰してしまう≪暗器≫は魅力が低い。なぜならば、≪暗器≫は他の武器属性よりもステータスボーナスが低めの傾向があり、また≪暗器≫にはソードスキルが無いからだ。

 だが、闇朧は例外的に≪暗器≫と≪カタナ≫の2つの属性を持つ。故に≪カタナ≫のソードスキルも使用可能とし、なおかつそのステータスボーナスも乗る。また、カタナ特有のクリティカル補正も加われば、クリティカル部位へのダメージは桁違いとなるだろう。そして、当然ながら≪暗器≫である為、薬物セットによってデバフ攻撃を可能とする。

 闇朧は不可視である。これは魔法の見えない武器が永続発動しているようなものであり、ユニークウェポンであるが故に他のサンプルが無く、闇朧の正確な間合いを知る者はザクロ1人だけだ。これもまた強みであり、最大の売りでもある。

 闇朧に炎の武器で強化したい一心を、恐怖がもたらす攻撃力への渇望を押し止める。トリスタンは明らかに間合いが見えぬ闇朧に警戒している。エンチャントを施せば、その炎によって闇朧の刀身が露になる。 

 だが、ユニークウェポンであるとしても闇朧はカタナである。耐久度は通常の比でなくともガードには適さない。そもそも≪カタナ≫というジャンルそのものが攻撃傾倒なので仕方ない事なのだ。

 故にザクロに残された手は『攻める』事だった。トリスタンのブレスはゆっくりと前面に広範囲に拡散し、なおかつ長時間に亘って残留し続ける。

 3つに枝分かれした尻尾、それぞれの先端から冷気のレーザーが放たれようとする。ザクロは発煙筒を投げると身を伏せ、冷気レーザーから逃れる。回避できる自信が無いならば、そもそも狙いを付けさせなければ良いだけだ。

 だが、そこにトリスタンは大きく上半身を後肢で持ち上げ、プレス攻撃を仕掛ける。それを後ろに大きく跳び退いて躱し、ザクロは大火球を投げつけるも、尻尾の先端の氷から傘のように氷の薄い膜が張られる。それはバリアの機能を果たすのだろう。展開速度の凄まじさと範囲の広さに舌を巻く。だが、火炎属性にはやはり脆弱らしく、氷の膜は一瞬で溶かされる。

 出し惜しみせずに黒い火炎壺を次々と投擲し、トリスタンを走らせて回避を強いて時間を稼ぐ。回復アイテムの在庫はまだある。ここで使い切る勢いで、ひたすらにザクロは生存への歩みを続ける。

 繭が割れていく。ザクロはあともう少しだと気張る一方で、トリスタンは新たに氷塊のブレスを使用し始める。それは地面に接触すると爆ぜ、氷をばら撒きながら冷気を拡散させる。トリスタンの攻撃は多彩であるが、いずれも速度はさほどではない。攻撃回数と範囲が広い腕の攻撃、滞留するブレス、そして尻尾の冷気レーザーに注意すれば、逃げに徹することは難しくない。

 無論それはザクロ程のプレイヤーであれば、の話だ。ザクロは元傭兵として多くの依頼を達成し、また後継者の手駒となった後も多種の裏仕事に手を染めていた。それらを切り抜けられたのはイリスの存在が大きいとはいえ、彼女自身に達成するだけの実力が備わっていたからこそである。今日までDBOで生き抜けたのは偶然の賜物ではなく、彼女の決して低くない戦闘の才覚があったからなのだ。

 だからこそ、皮肉なことにイリスというサポートがいないからこそ、ザクロは冷静に、正確に、『トリスタンには勝てない』と判断することができた。

 呪術のダメージは大きい。だが、魔力が足りない。闇朧にしても決定打に欠け、懐に跳び込んで斬り込むには技量が足りない。繭が孵ったとしても、トリスタンのHPバーは3本。1本目を減らせても、より強化される2本目、そして『本番』とさえ言われる3本目を潜り抜けられるとは思えない。

 何よりもトリスタンの攻撃はなかなか治癒せず、僅かな傷さえも出血状態となり、直撃すれば欠損は免れない。流血のスリップダメージは重なり続ければ、決して小さくないダメージがじわじわとHPを削り続けることになる。

 

(温もりの火をセットしておけば良かった。そうすれば回復に魔力を全部回せたのに)

 

 プレイヤーもモンスターも回復させてしまう温もりの火は戦闘中では使いどころを選ぶが、粘り強さを発揮する上では十分に活用できる呪術である。回復量も悪くなく、また獲得も容易である。特に戦闘後の回復では奇跡以上の回復パフォーマンスとして重宝されている。

 いや、そもそも生存率を真の意味で高めるならば奇跡は不可欠だ。豊富な回復手段とバフは戦闘中において絶大な効果を発揮する。わざわざ≪信心≫を獲得しなければ使えない奇跡はコストに見合うだけの価値があるのだ。

 忍者から修道女に鞍替えしようかしら。そんな思考でギリギリの死地にて踏ん張る活力を得るザクロであるが、トリスタンは縦割りの顎を震わせ、白いブレスを吐き出す。水属性の広範囲に拡散して残留するブレスは、ザクロと繭を纏めて呑み込もうとする。

 だが、それよりも先に『翅』の羽ばたきがザクロを攫い、ブレスから遠ざけた。

 

 

『主様、何なりとご命令を』

 

 

 それはイリスとは異なる、野太い男の声だった。

 全身を覆う甲殻は暗緑色であり、シルエットは人間に近しい。だが、頭部は虫のそれであり、まるで蜻蛉のような青緑の複眼である。腕は2対あり、指は蟷螂の鋏を彷彿とさせる。全高は軽く2メートル以上はあり、1本のHPバーは色濃く存在感を主張する。

 これこそがザクロの切り札。≪操虫術≫の最後の砦、【護衛虫】である。使用中はザクロの≪操虫術≫は封じられてしまうが、ザクロのレベルに準じた戦闘能力を持つ即戦力を召喚することができる。

 中身が抜けた繭はポリゴンの欠片となり、白いブレスから遠ざかった場所にザクロを下ろした護衛虫は、トリスタンと同じ2対の腕で拳を握った。

 

『ご命令を』

 

 イリスも最初の頃はそうだったが、まさにAIといった、主の命じるままに動く人形といった反応を示す。護衛虫はその関係上、使用後は消滅させねばならない。ならば、彼と絆を作り、その意識を育む時間は無いだろう。それを残念と思いながらも、同時にだからこそ『捨て駒』として存分に扱えるともザクロは安心する。これが真に自分の為に戦う忠臣の信念を持っていたならば、ぞんざいに扱うことはできなかっただろう。

 新たな戦力の登場にトリスタンは距離を取って窺う。これまでの戦いからも分かったが、トリスタンは警戒心が高く、苛烈な攻撃を仕掛けてこそくるが、攻撃の頻度自体はそこまで高いタイプではない。迎撃能力も優れてはいても、こちらから手出ししないならば、比較的に戦いのテンポは楽になる。

 

「私は逃げるから時間稼ぎをお願い。あまり攻撃し過ぎちゃ駄目よ?」

 

『かしこまりました』

 

 肉壁が出来た以上は長居も無用! オペレーションを弄ることは出来るかもしれないが、戦闘中にできるはずもなく、またザクロが傍で随時指示を出しても攻撃されるリスクが高まるだけである。なおかつ、この環境下では護衛虫の性能は大幅にダウンしているだろう。ならば、素直にザクロは回れ右をして戦闘を丸投げして逃げるだけである。

 仮に護衛虫が撃破された場合、ザクロの≪操虫術≫は24時間使用不可になる。護衛虫単体ではトリスタンの撃破は不可能である事は間違いない以上、ザクロは≪操虫術≫の使用を諦めた事に他ならない。だが、そのリスクを背負ってでも、今は【渡り鳥】到着まで粘る時間稼ぎを優先したのだ。

 その選択に間違いはない。ザクロの取捨選択と状況判断はほぼ満点であり、自らの手札を十二分に把握した最善策と言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 ならば、彼女にとっての不測の事態とは、立ち塞がる護衛虫を無視してでも追跡してきたトリスタンの『執着心』だった。

 

 

 

 

 

 

 

 護衛虫の攻撃は翅から生み出される鱗粉の波動と格闘攻撃が主な手段だ。更なる強化も可能なのかもしれないが、現時点ではそれが限度である。低空の飛行能力も持ち、高軌道ではあるが、特別留意すべき点は無い。

 翅から零れた鱗粉を4本の腕で纏めて球体を作って撃ち出した護衛虫であるが、その攻撃を回避すらもせずに、背中を向けて逃げたザクロを一心不乱に追いかける。

 手負いから仕留めるのは常套手段であるが、トリスタンのそれはセオリーから逸脱した、これまでの攻撃を回避しようと動き回るスタイルとは異なる、決してザクロを逃がさないというような意思を感じる。

 伸びる指を闇朧で受け流しながら、ザクロは目暗ましに3本の発煙筒を投じる。濃い煙幕は視界を分断し、ザクロもまた完全にトリスタンを見失うも、その絶叫は止まることなく、彼女のすぐ右脇を氷塊のブレスが通り抜けた。

 闇雲に冷気レーザーを放ち、そのまま振り回して周囲を攻撃して煙幕を吹き飛ばしたトリスタンは隙だらけだった。護衛虫はチャンスとばかりに顎に強烈な右ストレートをお見舞いし、そのまま膝蹴り、肘打、最後には4本腕に鱗粉を纏わせて高速回転させると掌底を打ち込む。ザクロも初めて見た戦闘用であるが、その攻撃力は凄まじく、フルヒットしたトリスタンのHPは連撃系ソードスキルが命中したかのように大きく削れる。

 こうした巨獣は総じてHPが高く、また攻撃力も防御力もある。トリスタンの場合、デバフ攻撃に割いている分だけ攻撃力は控えめであるが、防御力とHP総量はかなり高い部類なのだろう。そのタフネスを証明するように、まだ1本目のHPバーは5割も残っている。

 攻撃し続ける護衛虫を鬱陶しそうにトリスタンは尻尾を振り回す。太い鞭のようにしなって命中するも、護衛虫は4本腕を交差させてしっかりとガードの姿勢を取り、ダメージを最小限に抑制して踏ん張る。護衛虫のHPはかなり高い部類のようであるが、過信は出来ない。事実としてトリスタンの攻撃でそのHPはガードの上から2割も削られていた。

 いや、2割で済んだ分だけトリスタンの攻撃が『大人しい』というべきだろう。怪物の目標はあくまでザクロであり、2対の腕が持つ鉤爪は凍った地面をつかみ、後肢で蹴って加速すると距離を取ろうとするザクロへと追いつき、その顎を鳴らす。

 危うく頭部を丸かじりされそうになり、首筋を冷たくさせるザクロであるが、追ってきた護衛虫がトリスタンの額に踵落としを決める。そのまま連打の拳を放つと、氷塊のブレスと合わせるように顎に膝蹴りを抉り込んだ。

 

『主様に手出しはさせない』

 

 ダウンしたトリスタンを、今度は蟷螂を思わす指で切り刻む護衛虫の頼もしさに、ザクロは思わず呆気にとられた。

 

(……わ、私よりも強いんじゃないかしら?)

 

 オペレーション1つ弄っていない状態でこれ程なのだ。しっかりと組めば……とも思うザクロであるが、当然ながらザクロに戦闘用オペレーションを組んだ覚えなどあるはずもなく、存外何も手出ししていない初期状態が最も強いのではないかとも諦めた。

 ダウンから復帰したトリスタンは咆哮で空気を震わると指を右腕2本を振るって護衛虫を押し潰そうとするが、その攻撃は単調であり、逃げようとするザクロに集中し過ぎて余りにも杜撰だ。故に護衛虫の攻撃は当たり放題であり、ガリガリとHPは減っていく。

 もしかして、私がちゃんと援護すれば勝てるかもしれない。そう思ったザクロは呪術の火を猛々しく燃やして大火球を放とうとした時、『それ』を目にした。

 トリスタンのグロテスクさを際立たせる縦割りの顎。頭部の側面にびっしりとついた数多の目玉。それらの目に灯っていたのは、一方的に攻撃される『怒り』ではなく、まるで何かを求めるような『哀愁』だったからだ。

 

 

『カエ……シテ……カエシ……テ……!』

 

 

 トリスタンの口から零れた言葉を塗り潰したのは、止めることができなかった大火球の爆炎だった。それは護衛虫の2度目の連撃後の鱗粉掌底と重なり、トリスタンのHPを一気に奪い取る。それはザクロ単身では絶対に無理だった、1本目のHPを削り取った。

 欲を出すべきではなかった。

 余りにも上手く行きすぎる程にHPが削れていく。それがザクロに『可能性』を見せた。『もしかしたら、【渡り鳥】の到着を待たずしてトリスタンを倒せるのではないだろうか』という甘い推測を与えた。

 立ち止まらずに逃げ続けるべきだった。護衛虫により攻撃を控えて回避と防御に徹するように命じるべきだった。

 爆炎の中でトリスタンは青白く輝き、その周囲に氷を炸裂させる。周囲を薙ぎ払う冷気は張り付いていた護衛虫に直撃して大ダメージを与える。すぐに体勢を立て直した護衛虫であるが、トリスタンの全身は氷の鎧に覆われていた。

 全ての目玉は不気味な程に青く光り、トリスタンは氷の鎧から放出される冷気を推力に変換したかのように、その1歩で加速し、護衛虫の背後に回ったかと思えば、右手の1つを振り下ろす。超反応でそれを躱す護衛虫だが、トリスタンの右手が地面に接触して揺るがした途端にそれを起点として霜柱が発生してその全身を貫かれる。辛うじてHPを僅かに残していた護衛虫であるが、霜柱に串刺しにされたまま上半身を食い千切られる。

 ザクロの最後の切り札があっさりと撃破され、彼女は残り少ない発煙筒を投げるも、トリスタンは冷気を周囲で回転させたかと思うと姿を消失させる。トリスタンの姿を見失ったザクロは闇雲に逃げようとするも、横腹を抉られた衝撃を受ける。

 トリスタンの伸びる指の攻撃だと悟った時には、いきなり正面からこれまでとは異なる黒いブレスが襲い掛かった。それはダメージこそ与えないが、ザクロに呪いを蓄積させる。レベル1の呪いであるが、解呪石を持たない彼女には致命的なデバフをもたらすだろう。

 まだ攻撃手段は残っている。伸びる指はともかく、攻撃判定を持つ爪は輝いているので透明化していない。それを目印にして回避を続けて黒い火炎壺を闇雲に投げ続ける。次々と起こる爆風の1つがトリスタンに命中したのだろう。HPは削れていないに等しいが、僅かに透明化が解除され、その輪郭が空間から浮き彫りになる。

 トリスタンは足音1つしない冷たく澄んだ暗闇の地下空間とは裏腹に、激しく動き回り、氷柱の間を抜け、ザクロの周囲で止まることなく攻撃をし続けていた。黒い火炎壺のダメージによる透明状態の弱体化もすぐに解除され、再び見えなくなったトリスタンより白いブレスが襲い掛かる。水属性のブレスが逃げきれなかった左腕に命中し、HPが削れていく。このブレスは滞留型ということもあり、接触時間が延びれば伸びる程にダメージが増加する。すぐに腕をブレス範囲から抜き取り、氷柱の陰に逃げ込むも、今度は槍のように鋭い氷柱が次々と飛来する。それは追尾性能を持っているのか、ザクロを執拗に追いかけたかと思えば、近接すると炸裂して鋭利な氷の花を全方位に咲かせる。

 氷柱版の近接信管ミサイルに傷ついていた背中を更に抉られ、ザクロは悲鳴を噛みながら、減り続けるHPを癒すべくひたすらに燐光紅草を食べる。直撃すれば回復する暇もないが、ザクロの足はギリギリではあるが、追尾の氷柱から逃げ切るだけの速度があった。また、1度見たならば黒い火炎壺で起爆させるだけの、経験に裏打ちされた対策も練られた。

 再び飛来した追尾の氷柱の数は8本。それらはザクロに近接する度に炸裂し、また逃げるザクロを追い詰めるべく、透明化したトリスタンから白いブレスが放たれ、指が伸びる。ザクロは黒い火炎壺を背後に投げ続けて追尾の氷柱を起爆させていくも、残った3つがトリスタンの攻撃で減速した彼女に追いつく。

 咄嗟にザクロが使用したのは大火球だった。それは彼女の生存本能がもたらした最適解だったのだろう。炸裂した追尾の氷柱が生んだ氷の花と混じり合い、攻撃の勢いを鈍らせる。伸びた氷の刃の1つが脇腹を削り取り、また蓄積しきってレベル1の氷結状態となる。

 逃亡者にとって最も恐れるべきであるDEXの低下。そしてスタミナ回復の停止とクリティカル率の上昇。

 繰り返すが、トリスタンは決して攻撃力自体は高くない。だが、その攻撃の全てがプレイヤーを着実に追い詰め続ける。1度のミスが、1度の命中が、1度の危機が、際限なく重なり続けて死へと追い込む。

 また今のザクロにとって手痛かったのは、DEX低下もそうであるが、スタミナ回復の停止だった。スタミナ回復が停止するとは、実質的にスタミナ消費量が大幅に増加する事に他ならない。故に氷結は『低CONプレイヤー』に対するメタとして最も有効なデバフである。

 ザクロはその戦闘スタイルからも長期戦を得意としていない。奇襲戦法こそが彼女の本領なのだ。

 

『カエ、シテ……カエシ、テ……!』

 

「返すって……何を返せば良いのよ?」

 

 トリスタンの囁きが聞こえてくる中で、ザクロは最後の発煙筒を使い、氷柱の陰に隠れる。だが、トリスタンはまるでザクロに誘われるようにあっさりと見つけ出して攻撃を繰り出す。

 10秒。それは戦闘中には長過ぎる10秒だ。燐光紅草がもたらすのはたった2割の回復である。ザクロは深緑霊水を飲み、瞬時にHPを15パーセント回復させるが、それをあっさりと爪で横腹を抉られて回復分を奪われる。加えて、治癒しない傷口から血が零れ続け、流血のダメージは重複し、ザクロのHPは攻撃を受けずとも減り続けていた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 これで12体目。ようやく全ての黒炎ゾンビをアイスマンの死体に戻し、ドラコを守る闇を剥ぐことに成功する。だが、ドラコは当然のように全身を黒いオーラで纏うと、右手に黒ずんだ結晶の片手剣を、左手に元から持っていた杖を構える。

 ギミック解除された時点で、徹頭徹尾の魔法使いスタイルから魔法剣士スタイルに移行する。予想こそしていなかったが、後継者らしい、ギミック解除した程度では終わらせないという、こちらを焦らせようとする意図を感じる。

 

『いずれ火は消えるもの。我らに必要なのは深淵の主、闇の王』

 

 ドラコは左手の杖で闇の大剣を発動させ、右手の片手剣で素早い連撃を繰り出す。それを死神の剣槍で捌いてカウンターを狙うが、ドラコは闇のフォースで周囲を薙ぎ払い、攻撃の隙を与えない。躱して遠ざかれば、杖を掲げて闇の渦を生むと前方に竜巻の如く放つ。

 ギミック解除に時間がかかり過ぎた。トリスタンがどれ程のものかは分からないが、アルトリウスの魔物級ならばザクロが生き抜いている確率はかなり低い。だが、透明化能力からもトリスタンは消極的でこそないが、苛烈に攻撃を仕掛けるのではなく、隙を狙ってくるタイプだろう。ならば生存の目もある。

 だが、ドラコは魔法使いの恰好でありながら、その剣技は一流であるという事を示している。また、攻撃の隙は全て闇術でカバーしている。かなり厄介な相手だ。接近戦で仕留めるのはかなり時間がかかるだろう。

 

「もう時間がありません。悪いですが、悠長に踊っている暇はありません。アナタを1秒でも早く狩ります」

 

 死神の剣槍の蛇槍モードや贄姫の水銀居合だけでは間に合わない。ならば、もうギミックを解除したならば……ドラコを倒すだけならば使用しても無駄にはならない。

 贄姫は鞘に戻し、右手に死神の剣槍を持ち替える。そして、右腰に差さっていた、まるで剣の鞘のように長い『ホルスター』から新たな力を引き摺り出す。

 それは奇怪な銃だ。いや、見た目だけならば銃と呼べるものではないだろう。

 合わさった2本のレールは間隔を広がる姿はまるで怪物が顎を開くようであり、レールに挟まれた奥にある本体の銃口からは青い雷の光が漏れる。銀色のレールには青い雷撃が迸り、本体の鈍い黒色には電子回路のような青い光が灯った。

 

「そんなに深淵の主が御所望ならば存分に」

 

 1分だ。1分以内にドラコを狩る。オレが微笑むと、表情を生むはずがないドラコの骨の顔が怯えたように歪んだ気がした。

 

「出番だ、ザリア」

 

 出入口を塞ぐ氷に今もこびり付くザクロの血を横目に、オレはドラコへとザリアを向けた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 HPを完全回復させる女神の祝福は貴重品であり、飲料型でありながらも中身が少量かつ味も良いので飲みやすいので迅速に回復することができる、プレイヤーにとって実用性のあるお守りのような存在だ。

 俗称『エリクサー病』を発症したプレイヤーは往々にして女神の祝福を抱えたまま死亡するが、ザクロは未だに安定した供給が成されておらず、最重要貴重品の1つとして扱われている女神の祝福を惜しみなく飲み干す。

 残り1割を切っていたHPは瞬時に完全回復する。アイテムストレージの消費容量が大きい女神の祝福であるが、そのコストに見合うだけの効果がある。命を繋いだザクロは最後の黒い火炎壺を放り投げ、僅かに輪郭が浮かび上がっていたトリスタンに命中させ、その全貌を再度暴き出し、毒の霧を吐いて無くなった発煙筒の代用として目暗ましに利用する。

 どういうわけか、トリスタンはザクロの位置を感知しているかのように、どれだけ隠れても、逃げても、正確に追尾してくる。やや離れた位置まで逃げ、2メートル級の直径がある氷の柱の陰に隠れたザクロは、スタミナが危険域のアイコンを点滅させているのを目にしつつ、白く濁った息を荒くした。

 横腹、腹部、背中、右太腿、左脛、右二の腕、左手首……それ以上は数えたくない程に傷を負い、絶えず血が流れだしている。それは震えが止まらない右手で握る闇朧を染め、不可視かされたはずの刀身を赤く染めて露にしていた。

 

「私じゃ……宝の持ち腐れ、だったかなぁ」

 

 NINJAっぽくてカッコイイと思ったんだけど。苦笑いしながら闇朧を鞘に戻し、ザクロはいつの間にか右手の小指が無くなっていた事に気づく。恐らく爪の攻撃で抉り取られていたのだろう。止血包帯を使用し、流血ダメージで減るHPを癒すべく燐光紅草を食べる。もう口の中は草の味しかしなかった。いや、血の味も混じっていて、ザクロは思わず吐き出しそうになってしまう。

 唇が零れる血を袖で拭おうとして、トリスタンの冷たい息吹を氷の柱の裏から感じ取り、ザクロは駆け出す。だが、トリスタンは氷の柱を破壊する勢いで回転して尾を振るい、その残骸を飛ばしてザクロの足を止めようとする。 

 冷気と恐怖がザクロの動きを鈍らせようとする。ただでさえ凍結状態でDEXが下がっているのだ。スタミナ消費量が嵩んでも全力で逃げねば死ぬ。

 死にたくない。まだ生きていたい。ザクロは必死にそればかりを考える。

 こんな冷たくて、寒くて、何もない場所で死ぬのは嫌だ。温かい布団に包まって、何もかも夢だったと目を覚ました時にイリスが笑っていてくれれば、どれだけ幸せだろうか。

 トリスタンが冷気を推力にして高速でザクロの進路に回り込み、縦割りの顎で連続で噛みつき攻撃を仕掛ける。ザクロは身を反転して躱そうとするも、3度目の噛みつきに逃げ遅れ、右腕が齧られ、その面のように並んだ牙によって皮膚が抉り剥がされる。鎧の破片が飛び散り、素肌が冷たい闇の空気に触れ、ダメージフィードバックが舌を震わせる。

 これが本物の痛みならば、泣き叫んでザクロは蹲り、トリスタンに丸呑みされていただろう。回復量が落ちた深緑冷水を取り出して左手だけで蓋をこじ開け、口に運ぶが、敵前で回復しようとするなど愚の骨頂だ。トリスタンは隙を逃さず黒いブレスでザクロを呑み込む。

 咳き込むザクロが黒い霧から脱するより先にレベル1の呪いが発動する。深緑霊水の空瓶を捨て、ザクロは続く氷塊ブレスを氷の柱を盾にしてやり過ごすも、素早く回り込んできたトリスタンは距離を取りながら指を伸ばし、その爪でザクロを傷つける。

 

「うぎぃい……!」

 

 新たに右足首と左肩を抉られ、ザクロは自分の口から漏れた情けない悲鳴に、涙を零しながら、1歩の度にできる血溜まりを目にしながら、走り続ける。

 いや、走り続けようとした。だが、それはもはや歩くとしか言いようがない動きだった。

 

「私……ここで、死ぬ、の?」

 

 これが最後の毒の霧だ。自分の足下に吐きつけ、力の限りに足を動かして氷の柱の陰を目指す。だが、すぐにトリスタンに気づかれるだろう。

 氷の柱にもたれ掛かったザクロは空を求めて見上げ、暗闇の天井とそこから降り注ぐ光る雪を目にして、ぼんやりと思った。

 

「死にたくない……なぁ」

 

 可愛くて優しいお嫁さん。そんな普通の夢くらい叶えても良いじゃない。たくさん殺した悪党でも乙女なのだから、女の子なら誰もが抱く夢を目指しても良いじゃない。血反吐を拭う気力もなく、ザクロはイリスを求めて手を伸ばす。

 だが、その手は誰も取ってくれない。誰も助けてくれない。

 トリスタンの足音が忍び寄るも、その音は緩やかに消えていく。再び透明化を発動したトリスタンに襲われれば、今度こそ逃げきれない。魔力切れで煙幕代わりの毒の霧も使えない。虎の子の護衛虫もあっさりと倒された。闇朧だけでは切り抜けるなど不可能だ。そして、呪いが決定打となり、ザクロの生きる気力を奪う。

 それでもザクロは走り出す。右足首が今にも千切れそうな程に傷ついているのに、全身傷だらけになって、血塗れになって、それでも何かを求めて走り続ける。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 背中から倒れたドラコの胸に死神の剣槍を深々と突き刺す。HPがゼロとなったドラコが激しく痙攣し、その口から黒い火を吐き出す。

 

『バケモノ……がぁ……!』

 

「心外ですね。アナタのように『人』を捨てたつもりはありません」

 

 たとえ、バケモノであるとしても、『人』であろうとする心がある限り、オレは『オレ』だ。

 撃破したドラコから何かドロップしたようであるが、それを確認している時間は無い。祭壇広間とボス部屋を繋げる出入口を塞いでいた氷が砕け、オレは即座にザクロを探して駆け出す。戦闘音は微かに聞こえているが、後遺症のせいか、正確な方向が上手く掴めない。

 氷の柱が乱立する、天井から灯のような雪が降り注ぐ幻想的な地下空間には、戦闘痕跡のように氷の破片が飛び散っている。トリスタンはあの巨体なので本来ならば目立つが、透明化能力を持っている以上は目印にならない。ならば、戦闘音だけを頼りにしてザクロにたどり着くしかない。

 だが、逆に言えばザクロは今もトリスタンに激しく攻められ、窮地に立たされているという事だ。もはや猶予はない。

 

「ザクロ!」

 

 オレは声の限りに叫ぶ。彼女の名前を呼ぶ。

 オマエは生きるんだ。こんな所で死んではいけない。

 優しい人になりたいのだろう? ムキムキマッチョマンのお嫁さんになって、あの甘ったるい味噌汁を飲ませてやるんだろう?

 

「ザクロォオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 もう1度彼女の名前を呼ぶ。どうか返事をしてほしい。どうか生きていてほしい。

 だが、ヤツメ様は嘲う。何処にも導かず、踊って、手を伸ばして、オレを誘っている。何もかも手遅れなのだと囁くように。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 逃げ切れなかった。ついにスタミナ切れになったザクロは、我ながらよくやったと褒めながら両膝を折って座り込み、だらんと両腕を垂らして、悠然と姿を現したトリスタンを見つめていた。

 

『カ、エシ……テ……カエシ、テ……』

 

 縦割りの顎を鳴らしながら、トリスタンは近づいてくる。

 HPは既に3割を切った。スタミナ切れの状態も加われば、どんな攻撃にも耐えられない。

 チェックメイト。ここが終着駅。逃れらない死。ザクロは死の際になって諦観に等しい冷静さを取り戻し、光の粒となって闇を照らす雪を両手で包み込もうとする。

 結っていた髪は解け、艶やかな黒髪はトリスタンから溢れる冷風によって揺れる。舌は血の味しかせず、全身から余すことなくダメージフィードバックが脈動するように流れ込み、神経をミキサーにかけたような不快感が脳髄を浸す。

 悪党らしくワガママに生きようとしたら、悪党らしく冷たい地下で野垂れ死にとは、なかなかに悪くない人生脚本だ。ザクロは今まで生きた道のりをシナリオのように振り返り、とても滑稽に思えて笑みを零す。

 母のように優しい人になりたくて、父のような才能は無いと理解して、友達を裏切り、キャッティの思いやりを踏み躙った挙句に出汁にして復讐に走り、最期まで自分の味方でいてくれたイリスのお陰でようやく願いを取り戻せて、そして冷たい地下の底でバケモノに殺される。

 

「キャッティ、ごめんね。私……あなたの、仲間に……友達に、なりたかった。寂しかったの。怖かったの。目を背けたかったの」

 

 あの時、あの夜、キャッティの手を取れていれば、何の打算も無く、心の底から彼女と一緒にいたいと思えていれば、この手は繋ぎ止められたかもしれない。キャッティは仲間として隣にいることを受け入れてくれたかもしれない。

 そしたら、もしかしたらザクロは【渡り鳥】と何食わぬ顔で出会って、彼と冒険して……そして、やっぱりキャッティと同じ場所で死んでいたのだろう。

 

「イリス、ありがとう。あなたのお陰で……私は……大切なモノを捨てないで、済んだわ。この心を、願いを、祈りを、守ってくれていたのは……あなた。あなたがいたから、私は……優しい人になりたいって、望めた。たとえ、皆に罵倒されようとも、ワガママに貫いて良いんだって、思えた」

 

 だけどね、あなたがいないのは辛いよ。もう1度会いたいよ。

 いつものに小言で叱って。こんな所で諦めるなと怒って。私は弱いから。あなたがいないと簡単に諦めちゃう、何をしても裏目に出て、鈍臭くて、情けない、ポンコツなんだから。

 

「……【渡り鳥】」

 

 トリスタンの顎が大きく開かれた。最後は喰らい付くつもりか、それとも嬲り殺しの白いブレスか、はたまた爆砕する氷塊のブレスか。

 白の傭兵には色々な感情がある。だが、あまりにも混ざり合い過ぎて、何を言葉にすれば良いのか探し出せない。

 

「私は……やっぱり、お前が嫌いだ」

 

 何を考えているか分からないし、奇麗過ぎて女の自信が木っ端微塵に砕けるし、ぶっきら棒かと思えば世話焼きだし、面倒臭いツンデレだし。ザクロは思わず笑ってしまいながら、【渡り鳥】と過ごしたアルヴヘイムの日々を思い出す。

 ザクロは暗闇の中にいた。ずっとずっと彷徨っていた。

 だが、冷たい闇の中で温かな火に出会った。そして、火が照らし出したイリスが作ってくれた道標を見つけることができた。

 

「ああ、寒いなぁ……」

 

 火は歩んだ分だけ遠ざかり、暗闇の中でザクロは凍えていた。

 頬に零れた涙は少しだけ温もりを持っていて、だがすぐに冷え切った。

 瞼を閉ざせば暗闇しかない。だから、ザクロは灯の雪を見つめ、トリスタンを見つめ、暗闇を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなんだから嫌いだって、言ってるのよ。待ってたわよ……『ヒーロー』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トリスタンの頭上より舞い降りたのは白。

 脳天を突き刺したのは異形なる黒のランスブレード。

 絶叫するトリスタンは振り払おうとするも、深々と突き刺さり続けるのは死神を冠する力。

 

「【磔刑】」

 

 トリスタンの頭部を中心にして全身から赤黒い光の槍が突き出す。傷口からどす黒い血が溢れ出して暴れ回るトリスタンから跳び下り、白の傭兵はザクロの前に立つ。

 

「遅くなった」

 

 簡潔に告げる【渡り鳥】は右手に持つランスブレードを振るい、トリスタンの血を払い除けると、何事も無かったように、ザクロを庇うようにトリスタンと向かい合う。

 目を合わせたのは一瞬だけだった。だが、ザクロは多くのものを感じ取り、再び流れ出した涙が……そこに籠るのは死の諦観ではない事を悟る。

 

「本当に……遅いわよ」

 

 涙を拭うこともせず、ザクロは嗚咽で歪みながらも憎まれ口を叩き、だが純粋に嬉しくて……笑った。

 都合の良いヒーローなんていない。

 世界は悲劇なのだ。

 神様は惨忍で冷酷で薄情で、気まぐれで運命を弄ぶだろう。

 

 

 

 

 だが、今この瞬間は『力』こそが全てだ。神様にだって否定させない。運命に否を唱えるのは、いつだって『力』を持つ者だけなのだから。

 

 

 

 

 白髪で結われた三つ編みを揺らし、【渡り鳥】はトリスタンと正面から向き合う。ランスブレードが持つ特異な能力……突き刺した対象より槍を発生させる攻撃は、トリスタン自身を発動対象とすることにより、内部からの大ダメージを負わせることに成功した。全身穴だらけになったトリスタンは、隈なく覆っていたはずの氷の鎧が剥げながら、白き襲撃者に怒りをぶつけるように咆えた。

 先に動いたのはトリスタンだった。深淵の怪物の狙いはあくまでザクロだ。その執着心は衰えることなく、だが目前の最大の脅威を正しく認識したように、闇雲に襲い掛からず、まずは傷を癒して透明化能力を取り戻そうとしているかのように距離を取る。だが、何も攻撃しないわけではなく、追尾の氷柱を放出する。

 迫る8本の追尾の氷柱に対して、高い追尾性能を即座に感じ取ったのだろう。【渡り鳥】はザクロから離れるべく駆ける。

 

「近接信管型よ! 大よそ2メートル圏内で起爆するわ!」

 

「了解」

 

「それと近接攻撃は全て高い欠損・出血効果持ちよ! 流血ダメージが止まらなくなる!」

 

「攻撃に当たらなければ良いだけだ」

 

 もはや動けず、スタミナ切れの影響で声も絶え絶えであるが、ザクロは少しでも戦闘を有利に進めるべく、持てる情報を渡す。

 追尾の氷柱に対して【渡り鳥】は急カーブをかけた後に右手のランスブレードのギミックを発動させると、その刀身を分裂させ、まるで鞭のようにしならせる。それは氷柱を破壊し、氷の花を先んじて咲かせる。それは他の氷柱を次々と起爆させ、8本纏めて処理することに成功する。

 本来ならば1つが起爆しても互いに干渉しない距離を取っていたはずの追尾の氷柱であるが、その高過ぎる追尾性能が仇になったのだ。【渡り鳥】の急カーブに対応すべく、それぞれが一斉に曲がり、互いに寄ってしまった。そこを狙いすまして【渡り鳥】は起爆させて一掃した。

 ザクロがあれ程に苦慮した追尾の氷柱への対処法を、初見でスマートに成し遂げたのは、似たような攻撃を幾多と体験したからか、それとも絶句する程の戦闘能力の差か。トリスタンの冷気レーザーをまるで踊るようにして潜り抜け、距離を詰めていく【渡り鳥】に今度は不意に伸びた指が数多と襲い掛かる。

 だが、これもまた命中しない。掠りもしない。【渡り鳥】は彼のスタイルの象徴となったステップを多用とする回避で次々と躱し、またランスブレードで弾く。指が収縮する刹那を狙って燐光を纏った、姿が消失したと思える程に隠密ボーナスが高まるソードスキルの加速で近づく。

 待っていたとばかりにトリスタンの口から白いブレスが放出される。滞留するそれは壁となり、【渡り鳥】の接近を拒む。それを寸前でバックステップで方向転換しつつ、氷の柱の隙間を縫うように駆けるトリスタンを、【渡り鳥】は正確に目で追う。

 慢心は無い。そう証明するように、【渡り鳥】は左目を覆う眼帯を外す。双眸で視界を確保し、トリスタンの速度と攻撃をより見極める為なのだろうが、それは諸刃だ。彼の低過ぎるVR適性……時間加速の影響の負荷は未だに甚大のはずである。本来ならば戦闘行為という情報量が過大化する行為自体を禁じなければならない状態のはずだ。そうであるにも関わらず、より視覚情報を増やす……単純に倍化させるとは、どれ程の代償を支払うか分からない。

 だが、苦悶の顔1つせずに、【渡り鳥】はランスブレードのギミックを解除すると、左手に持つ異形の武器を構える。それはレールガン。ナグナにて、【渡り鳥】が深淵の魔物……アルトリウスを葬る為に使用した強力な一撃を叩き込む為の銃器だ。だが、その外観はよりスマートな印象を与えるものに微改良され、伸びる2本のレールもまた銃剣性能を得たのか、先端が鋭く尖っている。レールの間では青い雷撃が火花を散らし、本体の黒いメタリックカラーには青光の電子回路が静かな主張をする。

 レールガンはDBOにも数種存在するが、いずれも高火力と引き換えに実用性のないマイナス点を抱えている。たとえば、持ち込める弾薬の制限が厳し過ぎて連続運用は絶望的である事。たとえば、チャージに時間がかかり過ぎて攻撃する為に手を塞ぐにはあまりにもリスキーである事。たとえば、射撃サークルが無い為に狙い撃つこと自体が困難である事。

 そもそも敵も味方も動き回るDBOにおいて、≪銃器≫の活用には≪自動追尾≫のようなスキルでより強化を行う必要がある。フォーカスロックと連動し、対象を追尾するシステムの補佐が無ければ、プレイヤーが動き回る個体を撃ち続けるのは困難だ。

 そうなればガトリングガンのようなばら撒くタイプが有利に思えるが、≪銃器≫には連続着弾判定が存在する。これはマシンガンなどの連射系に顕著であり、連続ヒットすることによって攻撃力が増幅していくというものだ。単発火力は雀の涙ほどであるが、連続着弾が狙える近距離であればある程に絶大な効果を発揮する。

 本来は距離を取って戦えることが利点であるはずの≪銃器≫は現実のように、他の武器を軒並みに鉄屑に変えた装備としてDBOには君臨していない。むしろ、遠距離面では弓矢・大弓に実用性を譲り、近距離戦では数多の近接武器に後れを取る、相手からの攻撃を回避し続けながら適性距離を確保し続ける機動銃撃戦でこそ真価を発揮する中距離武器にこそ活路があると考えるものもいる。

 では、レールガンをこの場で出すのは、フルチャージの一撃をトリスタンに叩き込む為だろうか? ザクロがそう早合点するのも無理な話ではない。むしろ、【渡り鳥】の人外級の回避能力を知るならば、フルチャージまで回避に徹して適性距離でレールガンを撃ち込むという未来図を想像するのは至極真っ当である。

 だが、ザクロの予想を裏切るように、並ぶ2本の銀色のレールは、まるで竜がその顎を開いて息吹を吐き散らす前兆のように青い雷を迸らせた。

 

 

 

 

 

 そして、レールを駆けた雷撃が『放出』され、トリスタンの体に命中して爆ぜた。

 

 

 

 

 

 トリスタンが唸り、そして叫ぶ。次々とレールガンから……いや、レールガンと呼ぶべきかどうかも定かではない銃器より、青い雷撃の弾丸……雷弾が高速で放たれ続ける。雷特有の空気で裂けながらも飛来するそれは、攻撃系奇跡でも初歩となる雷の槍を上回る弾速を持ち、その速度はレーザーライフルを思わす。しかし、着弾と同時に青い雷撃が爆ぜる姿はレーザーというよりもプラズマガンに近しいのだろう。

 戦況は瞬時に激変する。トリスタンにとって最も有利であり、最も安全だったはずの距離は、レールガンより放たれる雷弾の登場によって優劣が逆転する。雷弾を冷気の推力で加速しながら避け続けるトリスタンであるが、【渡り鳥】は数発の外しからトリスタンの動きを把握したように偏差射撃を繰り出し、またわざと足下を狙って青雷の爆風を浴びせることによってじわじわとダメージを浴びせる。

 中距離は駄目だと判断したのだろう。トリスタンは爪で凍った地面を抉りながらブレーキをかけ、縦割りの顎を鳴らしながら【渡り鳥】に突進する。普通のプレイヤーならば急激な近接攻撃に反応が遅れるだろう。ザクロのように戦い慣れたプレイヤーも回避に徹するべく距離を取ろうとするだろう。だが、【渡り鳥】が選んだのは、自らを喰らい千切る顎に対して自ら歩を進めることだった。

 交差したのは1秒未満。逆に言えば、トリスタンの必殺の噛みつきは難なく躱され、【渡り鳥】はカウンターで頭部側面をランスブレードで殴るように斬り払う。打撃ブレードと本人が語っていた通り、高い打撃属性を持ったランスブレードは氷の鎧を砕き散らす。

 トリスタンが反転するより先にレールで青い雷撃が太く束ねられていく。そして、今までとは異なる太い雷撃がトリスタンを狙う。それは正確にランスブレードで砕いた氷の鎧の穴、トリスタンの生身の表皮を狙い撃ち、より大きく苛烈な雷撃の爆発が追加ダメージを与える。

 ザクロはあの雷弾がプラズマライフルと同じ性質であると見抜く。プラズマライフルは連射モードとチャージモードがある。レールガンという≪銃器≫……実弾兵装に、プラズマガン……≪光銃≫を組み合わせるという、前代未聞のキメラウェポンを生み出したのだ。

 ザクロも情報収集で認知しているが、【渡り鳥】の専属である伝説の鍛冶屋GRの手が加わえられたものであるが、あまりにもHENTAIっぷりに2つの意味で恐怖を覚える。このようなぶっ飛んだ兵装を考え付き、なおかつ開発し、実際に実用化させてしまうGRも十分に恐怖の対象であるが、そのような異常性の塊を『実用』する事自体が異常なのだ。あれは間違いなく近寄り中距離……『攻撃を回避しながら撃つ』という絶技を想定した性能である。

 トリスタンから放たれる追尾する氷柱や冷気のレーザーを巧みに躱す、まるで全ての攻撃がすり抜けているような回避の連続。そして、回避しながらも攻撃を放ち続けることで常にダメージを与えた戦いのプライオリティを握る。

 それを『ボス』相手に実行し続ける。ザクロは自分がどのような相手に牙を剥いていたのか、ようやく今になって理解する。こんなものは『人間』と呼べない。それは『バケモノ』と呼ぶしかない暴力の権化だった。

 トリスタンが白い靄に包まれて消失する。ダメージを負った状態でも一時的ならば透明化も可能なのだろう。音もなく次に現れたのは【渡り鳥】の左横であり、上半身を捩じらせながら跳びかかり、2対の右腕を振るう。ランスブレードの対応が遅れ、近接攻撃が仕掛けられない左側を狙うのは筋が通っている。

 

「弱い。同じ魔物でも、アルトリウスの方が遥かに強かったですよ?」

 

 だが、体を大きく傾かせながらもその両足はしっかりと地面を捉え、見切りの証明のような紙一重で体を泣き別れさせるはずだった爪の連撃を避け、そのままレールガンの2本のレールをぴったりと合わせる。それはまるで短い槍……あるいはランスのようであり、鋭い先端は銃剣として機能し、トリスタンの鎧が剥げた顎に突き刺す。

 放出された青い雷撃は言うなれば近距離からの連続雷弾だろう。トリスタンが痙攣し、のたうち回る。【渡り鳥】はランスブレードを構えながら体を捩じり、必殺の突きの構えを取る。

 

「【瀉血】」

 

 複数の目玉を潰しながらランスブレードは割れた氷の鎧の狭間を刺し貫き、そこから派生するように、頭部を内側から槍玉に変えるべく、黒い血肉を抉り取りながら、トリスタンの内側より無数の赤黒い光の槍が突き出した。

 トリスタンの目がザクロを射抜き、何かを迷う素振りを見せながらも、体を瞬間的に透明化させて遠退く。それを追うように雷弾を放つ【渡り鳥】だが、完全に射程距離外であると判断したのだろう。熱せられたレールガンより昇る湯気を見ながら、ザクロへと振り返る。

 

「とりあえずは追い払えたな」

 

 大したことではないように微笑む【渡り鳥】にザクロは恐怖した。

 ボスを相手に『大したことがない』と軽く言い切ってしまう。彼にとってそれは日常茶飯事なのだろう。いや、ザクロは知っている。シャルルの森で、ナグナで、彼が何を成し遂げたのか知っている。

 だからこそ、ザクロは嬉しく思う。神様を殺せるのはバケモノだけだ。ならば、ザクロが『この時間』を得られたのは、他でもない、【渡り鳥】が持つバケモノの『力』のお陰だ。神様に中指を立てて、ザクロは『ざまぁみろ』と高笑いしたくなる。

 あとは『この時間』をどんな風に使うかだ。座り込んだままのザクロに歩み寄る【渡り鳥】に、ザクロは小さく微笑む。

 

「……本当に『ヒーロー』が似合わない奴ね。ううん、だからこそ、お前らしいのかな?」

 

「自覚はある。こういうのはオレじゃなくて『アイツ』の仕事だ」

 

 嘆息する【渡り鳥】が少しだけホッとしたような顔に、ザクロは罪悪感を募らせる。

 ああ、そうだったのか。ザクロは大きな思い違いをしていた事に気づく。

 どんな事があっても心は折れない。まるでバケモノのような『力』と精神を持っていても、彼は……彼は……心をちゃんと持っているのだ。

 だから、これから告げなけれならない事に、ザクロは少しだけ躊躇して、だが……沈黙を貫き通す逃亡は絶対にしたくないと、苦しげに言葉を紡ぐ。

 

「あのね、もう……時間が無いみたい。ほら、HPが、もう少しで、1割……切っちゃうし」

 

「回復アイテムが尽きたのか?」

 

 苦笑しながらも【渡り鳥】は以前使用してくれた、針がない加圧型の注射器を取り出し、ザクロの首筋に押し付ける。

 だが、アイテムの使用を拒むように、紫色のエフェクトが弾ける。そして、【渡り鳥】の眼前に1つのメッセージウインドウが表示された。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ナグナの血清を使用ししようとしたオレは、凄まじい衝撃で弾かれ、茫然としながら目の前のシステムメッセージを注視する。

 

<このプレイヤーにアイテムの使用はできません>

 

 なんだ……これは? 思考に空白地帯が出来て、文面の意味が上手く理解できない。

 もう1度ナグナの血清をザクロの首に押し付け、だが弾かれ、押し付け、弾かれ、押し付け、弾かれ、押し付け、弾かれ、弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ弾かれ……否定される。

 重なり合って色が濃くなった紫色のシステムメッセージのウインドウに並ぶ文字は変化しない。

 アイテムの使用不可。ザクロのHPが今この瞬間もじわじわと削れているのに、彼女の命を繋ぎ止める回復アイテムが使用できない。

 

「レベル1の呪い……回復アイテム使用不可……なんだ。解呪石……持ってきておけば、良かったわね。あー、違うか。こんな事なら奇跡を使えるようにしておくんだった。そうでなくとも温もりの火があれば……無いものねだりよね。あはは。そうよねー。ボス戦でヒーラーは、不可欠……だもんね。そう考えれば、トリスタンも、そこまで凶悪じゃない、か。だって、そもそも少人数で――」

 

 言葉を重ねるザクロの瞳にあるのは恐怖だ。死への恐れだ。だが、それに打ち勝とうとする『人』の光を見て、オレは彼女の口を封じるように首を横に振った。

 ああ、分かっているさ。分かっているさ。分かっていたさ!

 

 

 もう……ザクロは死ぬ。このHPが尽きるまでの僅かな時間が彼女に許された『生きる』時間なのだ。

 

 

 この世界は……どれだけ残酷で、狂っていて、『命』と『命』が死闘を繰り広げていても、その根底にはいつもゲームのシステムがあって、それが覆しようのない生死を区分している。この数字の塊に過ぎないHPこそがオレ達の生命を象徴する。

 赤く点滅するザクロのHPバーから目を背けてはいけない。オレはランスブレードの先端をゆっくりと地面に下ろし、ザクロを見下ろす。彼女の全身に刻み付けられた傷から血は流れ続け、赤黒い血溜まりを作っている。そこに雪が舞い落ちる度に冷たい波紋が生まれ、血はゆっくりと凍って固まっていく。

 

「黒いブレスに気を付けて。凄い勢いで呪いが蓄積するから。あと、トリスタンの攻撃は言った通り出血・欠損になりやすい。たぶん、重装のフルメイルでも防げないと思う。近接攻撃は噛みつき以外ダメージは大人しめだから、トリスタンは欠損と流血ダメージで追い詰めるタイプよ。でも、回避主体のお前とは相性も良い」

 

「ザクロ」

 

「あと氷結状態には気を付けて。トリスタンは動きも速いし、きっと最終段階はより攻撃が苛烈になる。スタミナ回復停止は手痛い」

 

「ザクロ」

 

「私もなかなか悪くない仕事をしたでしょう? もうポンコツなんて、言わせない、わ。私のお陰で、HPバー1本……削れたから、『いつも』よりは楽でしょう?」

 

「ザクロ」

 

「それから――」

 

「ザクロ!」

 

 声を張り上げるとザクロは押し黙り、唇を震わせて俯いた。

 何を伝えれば良い? 彼女になんて言ってやれば良い?

 もう戦士ではない彼女にとって戦い抜いた誉れなどなく、あるのは冷たい死だけならば、何と声をかけてあげれば良い?

 ザクロは救いようがない悪党だったかもしれない。だが、それならばオレだって同類だ。多くの人を殺してきた。

 

「違う。私とお前は……違う。お前は『悪人』じゃない」

 

 だが、ザクロはオレの胸中を見抜いたように、涙と血で汚れた顔で、優しく、美しく、穏やかに、微笑んだ。

 

「確かに私たちは救いようのない人殺しかもしれない。それでも、お前は『悪』じゃない。きっと『善』でもない。私では理解できない何か」

 

 一息入れて、天井から終わりなく降り注ぐ光る雪を虚ろな眼で見つめたザクロは、震える指でシステムウインドウを開く。

 実体化したのは1つの赤い木製の弁当箱だった。それをザクロは右手で持ってオレに差し出す。

 

「……長い旅になるわ。ザクロちゃん特製弁当でも食べて、しっかり元気をつけて」

 

「期待できなさそうだな」

 

「言うじゃない。あまりの美味しさにゲロ吐いても知らないから」

 

 クスクスと血を唇から垂らしながら楽しそうに笑ったザクロは、次に1本の漆塗りの鞘に収められたカタナを握りしめて、少しだけ瞼を閉ざすと、そっとオレに渡す。

 

「闇朧よ。ユニークウェポンで……不可視の刃を持つわ。≪暗器≫と≪カタナ≫の複合で、お前なら私よりも有効な使い道ができるはず。私は……やっぱり、お前みたいに強くないから。うん、強く……なれなかった」

 

 まるで重さが無いように軽い闇朧にオレは彼女の『力』を感じ取り、アイテムストレージに入れる。

 渡せるものは全て渡すつもりなのだろう。残ったエドの砥石も全て譲渡される。そして、最後にザクロはオミットした、霜だらけの指輪を差し出した。

 

「これ……トリスタンに、返して、あげて。彼は、ずっと、ずっとずっと、私を追いかけて『返して』って叫んでいた。きっと、彼は……これを取り戻したいだけ。私も、なんとなくだけど、分かるわ。温かい過去は……イリスとの思い出は、何にも勝る宝物だから……たとえ捨てたとしても、後悔して、取り戻したくて……あはは、ごめん。上手く、言葉に出来ない」

 

「構わない。この指輪をトリスタンに返せば良いんだな?」

 

「お願いできる?」

 

「ああ。報酬は貰った。その依頼……確かに引き受けた。傭兵は依頼主を絶対に裏切らない」

 

「ただし、『騙して悪いが』された時は除く……でしょ?」

 

 悪戯っぽく付け加えたザクロと笑い合い、オレは指輪を収納し、いよいよ終わりを知る。

 もうすぐザクロのHPは完全に尽きる。トリスタンも透明化して迫っているかもしれない。これ以上は……こんな所で立ち止まっているわけにはいかない。

 

「私ね……優しい人になりたかった。お母さんみたいな……イリスみたいな、優しい人に」

 

「そうか」

 

「でも、なれなかった。私は……中途半端で……やっぱりポンコツで……迷惑をかけてばかりで……今も、お前に多くを背負わせて、死んじゃう、情けない女」

 

 自嘲するザクロに、オレは踵を返すのを止め、片膝をついて目線を合わせる。

 1人の女の子として泣き続けるザクロは、もう『悪人』でも『戦士』でもない。彼女は誇り高い『人』の意思を持つ……オレが最も憧れ、敬い、尊ぶ『人』なのだ。

 

「優しい人になりたかった。それがオマエの願いだったんだろう? 祈りだったんだろう? 辿りついた『答え』だったんだろう?」

 

「……そうだと良いなぁ」

 

「だったら……オマエは、もう『優しい人』になれたさ。『答え』を得た時、オマエはもう……『優しい人』だったんだ」

 

「世辞が上手ね」

 

「そんなことないさ。トリスタンに指輪を返してあげたい。こんなにも血だらけになって、死の間際になって、それを願える『人』が優しくないはずがない」

 

「ただの自己満足よ」

 

「それで良いじゃないか。好きなように生き、好きなように死ぬ。誰の為でもなく。それが……オレ達傭兵の流儀だろう? たとえ元傭兵でも、それだけは変わらないはずだ」

 

 オレの言葉に誰かを救う力などない。いつだって、オレの言葉は何も変えられなかった。

 だから、ザクロは勝手に救われるだけだ。自分の中にある、『答え』に導いてくれたイリスの残滓が彼女を救うはずだ。

 

「もう行って。ちょっとだけ、眠い、わ……。ああ、もう何よ。寒冷まで、発動してる、じゃない。眠い……わけ、だわ」

 

「ゆっくり休んでいろ。帰ったら、春を祝って村の皆と飲んで食っての大騒ぎだ。今の内に寝溜めしておいた方が良い」

 

「楽しみ……ね。シャロン村の皆も、やっと、自由に……なれる。彼らの、願いは……叶え、られる」

 

 ああ、やっぱりオレはバケモノだ。

 これだけ『仲間』だと思っているザクロに背を向けても、この歩みは淀まず、トリスタンとの死闘を求めて血は滾る。それどころか、ザクロを殺したいと疼く牙を抑え込むことしかできないのだから。

 ただの1粒だって……涙は零れないのだから。

 

「傭兵は必ず依頼を成し遂げる」

 

 そこに二言は無い。トリスタンは必ず倒すが、その前にこの指輪を彼に返そう。ザクロの『優しい人』としての願いを果たそう。

 せめて、ザクロの物語が終わる眠りまで、その微睡みのひと時が……どうか家族やイリスとの温かな思い出の中で浸されるように。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ずっとずっと暗闇の中にいた。

 だが、ザクロはイリスの光る翅を追い、眩い光の海にたどり着く。

 振り返れば、暗闇の中で、すっかり小さくなるほどに遠ざかった火の揺らぎが見えた。

 このままで本当に良いのだろうか? 光と暗闇の境界線に立ち、ザクロはイリスの翅を拾い上げる。

 彼は暗闇にある者が惹かれずにはいられない温もり。そして、全てを焼き尽くす暴力でもある。

 でも、火もいつか陰るものならば……ザクロは1つだけで良い、彼が認めてくれた『優しい人』として火に1つ捧げよう。

 抗えない眠気と滲む視界、その中で白の傭兵は遠ざかる。もう振り返ることなく、彼女の依頼を達成すべく、トリスタンと殺し合うだろう。

 

「……クゥ……リ……」

 

 初めて白の傭兵の名前を呼び、ザクロは許される限り、喉から声を搾り出す。

 

「――。――け―。―――そ―――な――だ――、―――で――――ろ」

 

 分かっている。これは呪いだ。

 

「――た―――く――れ。―――け――――な―――、―――――ま――も、――だ――――れ――、――――ろ」

 

 蔑まれるべき、クゥリが認めてくれた『優しい人』から程遠い、彼を苦しめる呪いだ。

 

「そ――、――で―――い。――と――の――で……――か―――――。――が……―も―――るこ――く、――に――――を」

 

 それでも、いつかは呪いも……!

 

「……――――れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰かが呼ぶ声が聞こえた。ザクロは境界線を跨ぎ、光の内側から暗闇の中で燃える火へと笑いかける。

 

 頭の上にすっかり懐かしくなったイリスの重みを感じた気がして、ザクロは瞼を閉ざす。

 

 そこには暗闇などなく、故に彼女はもう目覚めることは無かった。

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 透明化したトリスタンは何処かに潜んでいるだろう。

 歩んだ距離の分だけ時間が過ぎる。それはザクロとの距離であり、そして経過した時間は彼女の『終わり』を教える。

 最後の最期にザクロは何かを言っていたような気がした。不鮮明にする靄がかかっている。取り除こうと手を振っても払い除けられない。いいや、思い出したくないのか?

 

「『痛い』」

 

 それは後遺症でも、時間加速の影響でもない、この『痛み』がいつだって『オレ』を苛める。

 傷口が広がり、腐り、膿んでいく。その音が腐臭と共に聞こえてくる。

 マシロを殺した時から始まった『痛み』。アインクラッドでも、DBOでも、何処にいようとも増え続けた膿んだ傷が訴える『痛み』。

 

「痛い」

 

 これは痛み。脳髄の叫び。眼帯を外した視野の確保と有効視界距離を向上させた状態での戦闘は脳に過負荷をかけ、時間加速によって増幅されている。肺に針が押し込まれているように呼吸の度に鋭い痛みが胸で疼き、喉は爛れ、舌は焦げ付く。血は溶鉄であるかのように全身を焦がし、だが皮膚下に氷の根が張っているかのように寒い。それは霜海山脈の環境によるものではなく、オレが少しずつ少しずつ壊れている証拠だ。

 

「痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』痛い『痛い』」

 

 痛みと『痛み』が消えないんだ。

 飢えと渇きが大きくなる。『痛み』を消したくて、もっともっと熱く、濃く、香しい血を求めている。

 大丈夫さ。オレは『獣』にはならない。たとえバケモノであろうとも、この心から『人』を捨てるものか。

 祈りは彼女と共にある。祈りがある限り、オレは『オレ』であり続けられる。

 オレは赤紫の月光を求めて空を見上げようとして、冷たい光の雪が降る天井に自嘲する。この地下の闇に月光は届かない。ここにあるのは死と冷たい暗闇だけだ。

 トリスタンを殺そう。指輪を返す為に、彼と戦おう。ザクロの依頼を果たす。まずはそれが最優先だ。

 

 

 

 

 殺すべきだった。あなたの飢えと渇きを満たせる獲物だったのに、どうして『痛み』ばかりを増やすの?

 

 

 

 

 オレの道を塞ぐようにヤツメ様が拳を震わせている。

 そうだろうね。殺すべきだったのだろうね。ザクロを殺せば、きっとこの飢えと渇きは多少の癒しを得ただろう。

 だが、それは『獣』の所業だ。必要もなくザクロを殺すことに何の意味がある?

 

 

 

 

 

 どうしてなの!? 癒えない『痛み』は『獣』になればきっと消える! お願い、もうこれ以上『あなた』を壊さないで! 私だけが傍にいれば良いでしょう!? 何も要らない! いつだって『私たち』だけが生き残ってきた! 今回もそれだけだったはずなのに!

 

 

 

 

 

 

 

 そうかもしれない。ヤツメ様の言う通り、『痛み』が消えないんだ。

 ずっとずっと『痛み』は瘡蓋のように重なり続けている。

 いつかユウキは言ってくれた。『痛い』時は……『痛い』と言って良いのだと。

 だけど、この『痛み』は……きっと、消えない。消してはいけない。

 ねぇ、ヤツメ様。確かにオレはザクロを殺したかった。『仲間』を殺したかった。それは嘘じゃない。それが本質で……どうしようもないバケモノとしての正体で……それでも、それでもオレは……『人』の尊さを信じたいんだ。

 歯を食いしばりながら睨むヤツメ様の横を通り過ぎ、オレは舞い散る雪の光の中でトリスタンを探す。

 

 狩りの全うとは何なのか。まだ何も見えない。そこに『答え』はあるのだろうか?

 




少女は優しくなりたかった。
だから、いつか陰る火に呪いを捧ぐ。


ザクロ、死亡。お疲れさまでした。
彼女のコンセプトは『壊れてしまった普通の女の子』でした。

それでは、263話でまた会いましょう。

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