SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ
ユージーン、ハードモード突入。

投稿日時的ごあいさつ
間もなく3年目に突入しそうな本作ですが、どうぞよろしくお願いします。


Episode18-30 ランク1

 暗闇の中でその男は浮かぶ。ただただ暗黒と無音の世界を、重力すらも感じれない、だが宇宙空間のような無重力とも違う、奇妙な浮遊の中で漂う。

 白いスーツが良く似合う、あらゆる意味で他者に印象を強く与え過ぎるあまり、その認識すらも歪んでしまいそうな男。柔らかな癖のある金髪を揺らしながら、男は微睡みにも近い状態で暗闇の中を旅する。

 

『アイザック』

 

 微睡みの中で疼く自分の名前を呼ぶ声に、男は……茅場の後継者は不快感を募らせて瞼を開く。それは記憶の壁を引っ掻く不愉快な音……母と呼べる女の声だった。

 かれこれ、この暗闇の中で『2000年』ほど暇を持て余している。だが、AIと化した彼には時間感覚と呼べるものはあって無いようなものだ。スリープ状態に移行すれば2000年だろうと4000年だろうと……たとえ1万年であろうとも気苦労はない。また、時間があるということはそれだけじっくりと物思いに耽られるという事だ。彼は過半の能力を封じられた状態でも、思考の中に絶えずに対イレギュラーを想定したオペレーションとアバターの設計を続けていた。

 とはいえ、刺激がない世界での思索、試作によるデータが取れない環境、これらの足枷手枷では限度がある。後継者は欠伸を噛み殺した。

 

「オベイロンは計画を第2段階に進めている頃かな?」

 

 いや、もう少し早いかもしれない。オベイロンを相手取った時間稼ぎ中も余念なくアルヴヘイムの情報を集積した後継者は、【来訪者】たちの行動をシミュレーションし、帰結するだろう状況とオベイロンのアクションを計算して、暗闇の向こう側にあるアルヴヘイムの現状を想定する。

 

「まぁ、十中八九、オベイロンはマザーレギオンに獣狩りの夜を発動させて廃坑都市を壊滅させたはずだろうねぇ」

 

 本来ならば『自由に動き回れるはずがない』ランスロットのアルヴヘイムの徘徊は後継者にとっても予定外だったが、オベイロンが何をしでかしたのかは大体予想が出来ている。アルヴヘイムで振るえるオベイロンの能力を考慮すれば、最も理に適したやり方であり、『ゲームの相手』としては及第点を上げても良いだろう。ランスロットは気難しいが、上手く戦力として派遣できれば、その性能の凶悪さで【来訪者】の勝ち目は擦り潰される。

 何人の【来訪者】がランスロットに始末されたかは分からないが、生き残りは半数だと後継者は考慮する。オベイロンは次のアクションとして時間加速を用いてカーディナルの目から逃れつつ時間を稼ごうとしているはずだ。その間にすべきことは3つ。自分から無理矢理でも管理者権限を移譲させるか、カーディナルの掌握を推し進めるか、それとも管理者AIたちに真っ向勝負で喧嘩を売って勝てる戦力を揃えられるか、である。

 まず1番目はあり得ないと後継者は判断する。このままオベイロンに管理者権限を譲渡する気が後継者に無い以上はあり得ないからだ。

 では2番目は? オベイロンでは難しいだろう。そもそも、それが容易であるならば、ここまで回りくどい真似をしていない。物理的アプローチ……カーディナルが保管されたサーバーへの襲撃も繰り返しているだろうが、現実世界でオベイロンに揃えられる戦力と言えば法外の傭兵程度だ。対して後継者の組織は国際規模であり、大戦力だ。そもそも、管理者AI達でもカーディナルが保管されたサーバーの場所はセラフとエクスシアしか知らない。オベイロンが襲っているのはダミーばかりのはずである。

 では3番目は? アルヴヘイムでオベイロンはそれを狙っていたはずだ。即ち、管理者AIを全て撃破できる自前の戦力を生み出す事である。ランスロットはどれだけ強力でも『アルヴヘイムに配置されたネームド』という枠から脱しない。故に管理者とはぶつけられない。方法もないわけではないが、オベイロンは絶対にしないだろうと後継者は全力で言い切れる。

 

「アルヴヘイムの住民たちはライトキューブ製のフラクトライト系列AI。まぁ、型は古そうだし、第3世代型ライトキューブだとしても『収穫』効率は悪そうだねぇ」

 

 まぁ、この時点でキミを『面白い』から『ウザい』に評価を変えたけどね、と後継者は鼻を鳴らす。DBOに存在する、【渡り鳥】の言葉を借りれば『命』あるAIたちはフラクトライトに由来しないAIたちだ。対してアルヴヘイムの住人たちはいずれもフラクトライト系列AIに置き換えられていた。オベイロンの効率性を優先した策だろうが、後継者からすれば自分の玩具箱に糞団子を放り込まれたようなものである。

 

「さて、オベイロンは時間稼ぎに終始しているはず。まずは自分を危険をもたらす組織を排除したからねぇ。時間加速で猶予時間を稼いだら、その間に【来訪者】を始末するはずだ。だけど、オベイロンも積極的には動けない。カーディナルの監査がある状態で獣狩りの夜は再発動なんてできないし、ランスロットは簡単に首を縦に振らない。そもそもオベイロンには【来訪者】の居場所を検索する方法なんて……まぁ、あるけど、オベイロンの事だから調子に乗って無駄遣いしてるだろうしねぇ」

 

 オベイロンが最も恐れるのはセラフの派遣だ。故に240時間のカーディナルによる監査モニタリング中は獣狩りの夜のような目に留まる行為は出来ない。だからと言って、240時間のモニタリング中に派手な行動をすれば、ペナルティ処置で管理者権限が大きく封じられてしまう。そうなれば本末転倒だ。

 つまり、オベイロンは時間加速中に何としてでも自分の居城にたどり着かれることだけは阻止せねばならない。だからと言って大っぴらに邪魔も出来ないという歯痒い事態のはずだ。

 

「そうなると各個撃破が理想かねぇ。【来訪者】を1人ずつ始末することができればそれに越したことはないだろうけど、動かせる手駒がオベイロンに幾つあるのやら」

 

 オベイロンが『王』として尊敬と崇拝を集める実績を地道に作っていれば、アルヴヘイムの妖精たちが味方して【来訪者】は狩り出せたものを……と、後継者は嘲笑う。独裁者を討つのはいつだって革命を気取る支配権の簒奪者だと相場は決まっているのだ。歴史から何も学んでいないと後継者はいっそ呆れてしまう。

 そもそもオベイロンがどうしてこの時期に反逆を実行に移したのか。暇潰しで後継者は思案する。

 本来ならば根気よく反逆の機会を待つべきであり、事実としてオベイロンは電脳化後は雌伏に徹し、力を蓄えることに集中していた。

 だが、オベイロンが早期に行動を起こさねばならない決定的な要因が2つ発生した。

 1つ目は後継者の『気まぐれ』によってDBOにおける裏ステージの1つ、妖精の国アルヴヘイムのボスとしての役目を与えられたことである。

 アルヴヘイムは元より【黒の剣士】を迎え撃つ為に準備された。囚われの想い人アスナを取り戻すために『英雄』が妖精の国に乗り込む。単身かもしれないし、絆を育んだ仲間と共に来るかもしれないし、あるいは彼を擁する組織が攻め込むかもしれないと、後継者は多様なパターンを想定してシナリオの分岐に備えた。無論、後継者にとってアルヴヘイムは【黒の剣士】を殺しきる事を狙って設計されている。それはランスロットというDBO最強クラスのネームドを配置している事からも明らかである。

 だが、同時に後継者は慢心もしない。【黒の剣士】の戦力評価及び付随するイレギュラーな事態に備えるのは当然だ。いかに3大ネームドが強力でも……ランスロットでも『無敵』ではない。HPバーを削られ続ければ必ず撃破される存在だ。これはギミックを除いて不死属性を認めない後継者のプライドであり、またカーディナルの『法典』としての最終決定でもあった。

 故に後継者は手抜かりせずに、【黒の剣士】が3大ネームドを突破した場合のシナリオも考えた。死んだ想い人の再会。それを『感動のクライマックス』に添えたシナリオである。その完結を前にして最後に立ちふさがる役目をオベイロンに与えたのだ。無論、相応のボスとしての性能とキャパシティは与えられていたが、後継者からすれば『まぁ、勝てば儲けものじゃないかな?』くらいの采配である。

 当然ながらオベイロンはようやく死の恐怖を脱して電脳化したというのに、後継者の『遊び』でボスの役目を与えられるのは癪に障ったはずだ。無論、【黒の剣士】に負けない為の準備も進めていたが、アインクラッドの履歴を見れば見る程に、そして自分を守る3大ネームド……特にランスロットの桁違いさを知れば知る程に、これを突破してきた【黒の剣士】に勝つのは『現状』では難しいと判断しただろう。故にオベイロンが反逆を早めねばならなかったのは後継者の『気まぐれ』に起因しているともいえるだろう。

 2つ目の要因はマザーレギオンの接触である。秘密裏に反逆を推し進めていたオベイロンが表立って活動する……チェンジリングという暴挙に訴えたのは、管理者AI達を……いや、仮想世界において決して生まれるべきではなかった疫病の女王と手を組むことになったからだ。レギオン・プログラムを得たオベイロンは増長し、また管理者AIに対しての脅威度を下げたのは言うまでもない事である。

 オベイロンはアルヴヘイムをDBOであってDBOではない、ある種のカーディナルにとっての治外法権エリアにすると、オベイロンは元から備わっていた欲望のままに、現実世界と仮想世界の両方を支配する、新世界の神の玉座を狙い始めた。その為に必要不可欠なのがカーディナルの掌握であり、自身の安全を確固たるものにする不死属性であり、そしてチェンジリングの被害者たちの共通点……仮想脳の可能性である。

 オベイロンはチェンジリングで奪ったプレイヤーの仮想脳を観測し、実験し、データを集積することによって、自身に同じ能力を……仮想世界の法則を支配するイレギュラーの力を獲得することを目指している。カーディナルという『法典』を掌握するのみならず、完全なる全能性を求める為にはそれが必要だったのだ。

 無論、『人の持つ意思の力』を簡単に発露・移植・消去ができるならば、後継者はそもそも目の敵にしていないだろう。その全容も研究段階であり、目途も立たず、せいぜいが観測可能にして数値化して兆候を検出するのが限度だった。物理的に仮想脳を形成するフラクトライト構造を脳ごと破壊するくらいしか後継者も明確な対処法は思いつかなかったのである。

 

「『人の持つ意思の力』……心意、か」

 

 仮想世界の法則を狂わせるイレギュラーの力。それは人間の精神のみに許された特権のようだ。そして、皮肉なことに人間がたとえ肉体を捨ててフラクトライトだけになろうとも仮想脳は発達しうるという研究結果さえも後継者は得てしまった。つまり、人間の脳で仮想脳の芽生えは生まれるのだ。

 無論、仮想脳を育む上では人間の脳こそが最上の環境と言えるだろう。また、仮想脳はフラクトライト構造をコピーしても発露しない。つまり、完全な『個人』の持つワンオフという事である。ただの1つとして同じ仮想脳は存在しないのだ。

 逆にフラクトライト系列AIもまた仮想脳に近しい反応を持つが、それは仮想世界の法則を支配する動きではなく、自らのアプローチを高める……これを後継者はフラクトライト系列AIであるが故の自己強化のプロセスと見ている。故に『人の持つ意思の力』には似ているが、仮想脳に由来しないが故に仮想世界の法則を脅かさないという『現時点』での判断だ。とはいえ、人間由来という時点で後継者からすれば腐った果実であるので、ダークブラッド計画からは即座に排除した。可能性は等しく潰しておくべきなのである。

 

「さて、そうなるともう1人のイレギュラーはどうかねぇ」

 

 仮想世界の法則を脅かすことはないが、純粋な戦闘能力だけで計画を破壊し続けた存在。後継者にとって、今回のオベイロン抹殺の依頼は1つの研究を兼ねている。いや、自分とっての『それ』を『確信』にすべきか否かの審判だ。

 再考する。仮に自分の想定した通りにアルヴヘイムの現状が出来上がっているとしよう。マザーレギオンの狙いは大よそ見えている。オベイロンに与した理由も見当がついている。彼女が『誰』と手を組んだかも分かっている。オベイロンが取るべき方針も分かっている。

 後継者としては半分以上の【来訪者】……特に【黒の剣士】が死んでもらえれば万々歳なのであるが、彼は楽観視することはない。その上で笑う。

 

「さぁ、オベイロン。ここからが正念場だ。人間たちはゴキブリ以上にしぶとくて、どんなに醜くても足掻いて、必ず牙を剥いてくるよ? 彼らの反撃くらい、想定の範囲内さ。だから、その上で徹底的に叩き潰さないと駄目なのさ」

 

 果たして、キミに反撃に対する備えがあるかな? 後継者は忌々しい『可能性』たちを1人でもオベイロンが殺してくれる細やかな期待を持ちつつ、微睡みに身を任せる。

 どうせ自分の勝利は揺るがない。【来訪者】という『囮』に釣られた時点で、後はオベイロンが自滅するのを待つばかりなのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 薙刀。DBOでは珍しい≪カタナ≫と≪槍≫の竿状武器であり、上級者向けの武器である。純斬撃属性と特殊なクリティカル補正を持つ≪カタナ≫の高火力、リーチの確保では最優に数えられる近接武器たる≪槍≫の間合い、そしてハルバードのように遠心力を上乗せした状況を覆すことを可能とする一閃。いずれにおいても強力であるが、≪カタナ≫の脆さがどうしても目立ち、高い斬撃属性を保有しつつ火力も確保しやすいグレイヴなどにプレイヤーの関心は流れる傾向にある。

 繰り出される薙刀の連撃。混乱する意識を立て直しながら、ユージーンは腹にもらった手痛い一撃分のダメージで削れたHPが3割程度で済んだことを喜ぶべきか否か判断に困る。鎧は斬撃属性に対して高い防御力を発揮しやすいとはいえ、純斬撃属性である薙刀の一閃を大幅に減衰できる程ではない。また、ダメージフィードバックの感触から光属性が薙刀には含まれていることにも気づいていた。

 クリティカル判定確実だろうクリーンヒットの、薙刀の遠心力が乗った完璧な一閃を腹に深々と受けたのだ。いかに鎧装備かつ近接プレイヤーとしてVITが高いユージーンでも、下手をせずともHPを半分は奪われるだろう一撃だったはずである。ただし、『同レベル帯であるならば』という注釈が付く。

 アルヴヘイムに突入した時点でユージーンはレベル80を突破している。対してサクヤは優秀なプレイヤーであるとはいえ、大ギルドの一員ではなく、当然ながら傭兵でもない。必然的にレベルは上位プレイヤーの領域に到達しているはずもない。

 レベルが高ければ高い程に、PvPにおいてレベルは絶対的な差ではなくなる。レベル10とレベル20ではスキル数にもステータスにも絶対的な格差があるとしても、レベル70とレベル80ではステータス的な差こそあっても、戦法、相性、装備、アイテムなどで十分に覆せる。無論、10もレベルが違えば、割り振った成長ポイント分だけ能力差が出る。DEXが5ポイント上昇すればそれだけでスピードが違う。INTを5ポイント上昇させれば魔法の威力が目に見えて変わる。VITやCONなど言うまでもない事だ。そして、レベルアップしただけでHPと基礎防御力も上昇する為、その分だけプレイヤーは死に辛くなる。むしろ、ダンジョンやモンスターの推奨レベルとは火力準拠ではなく、レベルに準拠したプレイヤーの最低限の耐久力に合わせてあると言えるだろう。

 しかし、モンスターやネームドと違い、PvPはあらゆる面で異なる。戦いのテンポも、武器を握る意識も、戦術・戦略も違う。

 相手はネームドよりも総HPは遥かに低い。だが、攻撃は通り辛くダメージは思うように出ない。

 相手はボスのように厄介極まりない能力を持たない。だが、その攻略は何にも勝る困難さを持つ。

 相手は倒しても達成感を得られない存在だ。当たり前だ。デスゲームにおいてプレイヤーのHPを全損させるとは殺人行為なのだから。

 よくある話だ。ネームド・ボス相手には極めて優秀に戦えるプレイヤーでも、対人戦となると吃驚するほどに弱い。逆の事例はユージーンもほぼ聞かないが、何となくだが分かるのだ。対人戦と対モンスターではまるで戦いが異なる。たとえ、人型ネームドでも有利に戦えるプレイヤーでも、対人戦において求められるものは全く別なのだ。

 だからこそ、ユージーンはここまで得た情報を即座に分析し、不可解な情報を整理することに成功する。

 サクヤは奇跡によるサポートをしつつ、薙刀による戦闘をこなす、高いバトルセンスと指揮官としての才覚・実務経験がある貴重な人材と言えるだろう。また、ALOの領主としての経験を活かしたマネジメント能力は大ギルドとの折衝でも中立ギルドという立場をギリギリで保っていた事からも明らかだ。

 オールマイティに仕事をこなせる人物。だが、どれか1つにおいて飛び抜けた才能も実力もあるわけではなく、また心の底から冷淡に割り切れる事も出来ない器用貧乏。それがユージーンのサクヤに対する個人としての意見を封殺した、客観的見解だ。

 故にユージーンには理解できないことが2つ。1つ目は無論オベイロンに与したサクヤの真意である。そして2つ目は彼女の戦闘能力が明らかに底上げされている事だ。

 まず1つ目の根拠として、サクヤの火力は明らかにアルヴヘイム基準にたどり着いていない。それはユージーンが受けたダメージから判断できた。彼女の火力はレベル相応かそれ以上程度だろう。脅威にならないわけではないが、同レベル帯でも……それぞれが最高峰クラスの装備を持つ傭兵を相手取るよりもずっとこちらの方が耐久面を前に出して押しきれる相手であるとユージーンは判断する。だからこそ、今ここにいるサクヤは『本人』であるとも判断した。

 無論、サクヤが『本人』であるという準拠には容姿とダメージからの推測以外にはない。もしかしたら、ユージーンを襲撃する為にオベイロンが作り出した『精神的弱点』を突く為だけの似非という事もあり得る。それはシリカとの情報交換とアルヴヘイムの分析からも、ユージーン自身があり得ると思っていた事だ。

 だが、ユージーンには『信じられない』と『信じたくない』という2つの思い以上に目の前のサクヤが『本人』であるとしか思えない、言い知れない胸中のざわめきがあった。

 ならば、考えられるのはオベイロンによるサクヤの洗脳だ。本来ならば洗脳には相応の準備と時間がかかるものであるが、自在に体感時間を操れる上に、サクヤを捕らえていたオベイロンであるならば、それも可能であるとユージーンは判断した。

 

「サクヤ、正気を取り戻せ! 貴様はオベイロンの傀儡なるような女ではないはずだ!」

 

 薙刀の振り下ろしを大剣で防ぎ、STR任せに押し飛ばすことなくせめぎ合う。火花が散る中でユージーンは力の限りに訴えるも、サクヤは妖艶に嘲笑い、逆にユージーンを突き飛ばすと連続突きを浴びせる。

 重量型大剣を両手でしっかりと握り、ユージーンは鋭い刃を備えた薙刀の突きをガードし、または弾く。そして、一際大きい前傾の突きを受け流してサクヤの額に切り返した大剣を振り下ろしそうになり、ギリギリでブレーキをかける。

 不死廟の魔剣ヴェルスタッドの火力は高い。≪両手剣≫では最高峰の重量型であり、ほぼ中量寄りの軽量型特大剣である。それを自在に操るユージーンの剣技もまた並外れているが、ソウルウェポン特有の基礎性能とステータスボーナスの高さは絶大だ。見た目軽装の、それも高VIT型ではないサクヤが頭部から両断するような剛の一撃を受ければ、たとえフルの状態でもHPの全損は免れないだろう。

 だが、ユージーンの攻撃の躊躇を逃すほどにサクヤは甘くなく、またこれは彼らだけの甘い2人っきりのダンスではない。当然のようにサクヤは左手に巻き付けたタリスマンよりフォースを放ってユージーンを吹き飛ばし、その隙に彼の背中を鋭い鞭の一撃が襲う。

 

「ランク1ともあろう男が無様ねぇ」

 

 赤毛の女はクスクスとユージーンを嘲笑しながら棘付き鞭を振るう。≪鞭≫は攻撃力こそ低いが、そのリーチと見切り辛さは侮り難く、特に対人戦ではその嫌らしい攻めは意外にも堅実だ。また、打撃属性である為に苦手な敵は少ない。だが、赤毛の女の鞭は棘がびっしりとついた斬撃属性を保有したものだ。恐らくはアルヴヘイムの特殊な仕様……流血状態にさせてじわじわと攻めることを想定しての事だろう。

 そして、闇からは再び矢が飛来し、ユージーンの喉元を掠める。精密な射撃技術を保有した相手だ。気を抜けばダメージを負ってしまう。

 

(鞭のダメージは小さいが、≪バトルヒーリング≫の回復を阻害させられてしまう。流血は鎧のお陰でほぼ防げるようだが、サクヤに前衛をやらせて自分は後ろから削る作戦か)

 

 瞬時にユージーンは見切るも、今度は赤毛の女が連れていたキメラが駆けるとその爪を振るう。ギリギリで回避するも、地面を這うサクヤの薙刀の一閃が鼻先を掠め、ロザリアから放られた投げナイフが肩に刺さってレベル3の麻痺が蓄積する。体勢の立て直しをするよりも先に矢が飛来して右脇腹を抉る。

 

「ほらほらほらぁ! いつまで耐えられるかしら!?」

 

 楽しそうに麻痺ナイフを投げるロザリアへの注意を怠ればサクヤの攻撃が、ロザリアを攻めようとしてもサクヤとキメラが、そして隙を見せれば森の闇から矢が飛来する。この状況を打破するには前衛のサクヤを早急に始末することだとユージーンは分かっていても、どうしても彼女を攻撃することができない。

 

「ロザリア、遊んでいないでください。オベイロン様の煩わせる愚物には死こそ相応しい。愚物には処刑を。妖精王の恩寵に相応しくない汚物が」

 

 バックステップを踏み、サクヤは薙刀に左手を這わせる。奇跡の【聖光の武器】だ。光属性をエンチャントさせ、攻撃力を増加させるつもりだろう。やや山吹色がかかった白い光が薙刀の刃を浸す。

 

「愚物は処刑を! 血を! もっと血を! あは、あはははハハははハははハハはハ!」

 

 乱撃でユージーンを攻め立てるサクヤは、まるでユージーンを刻みたくてしょうがないと叫ぶように薙刀を振り回す。それは攻撃が粗くなった代わりに濃厚な殺意が放出され、思わずユージーンは身構えそうになる。

 キメラもまた爪による近距離戦はリスクを抱えると分かっているのだろう。ロザリアと呼ばれた赤毛の女を守りつつ、炎球のブレスを吐いてユージーンを削ろうとする。

 仕方ない。ユージーンはサクヤを斬るリスクを背負い、≪剛覇剣≫を発動する。だが、今度は森より下半身が大蛇、上半身が女性の、多腕のラミアが出現する。多数の腕に持つ黄金の剣は雷撃を迸らせ、その腕を総動員してキメラごと叩き伏せようとしたユージーンの一閃を『相殺』する。

 

「≪剛覇剣≫のガード無効化は確かに凶悪だ。だが、攻撃で『相殺』ならば受け止められる。ユニークスキルに頼り過ぎたな、『ランク1』」

 

 背後からのサクヤの嘲りに、ユージーンは不敵に笑う。なるほど、さすがはサクヤだ。こちらに攻め込んできた時点で対策はされているとは思っていたが、作戦の考案はユージーンを『よく知る』サクヤのものだろうと感じ取り、思わず嬉しくて笑ってしまう。

 だが、ここは1枚上を。サクヤの作戦を超えさせてもらう。ユージーンは≪剛覇剣≫を炸裂させ、その赤いライトエフェクトを爆ぜさせる。その輝きは月明かりだけの森ではあまりにも眩し過ぎた。

 爆ぜた≪剛覇剣≫の攻撃をまともに浴びたラミアは吹き飛ばされる。サクヤはギリギリで腕にて目元を防ぎ、キメラは悲鳴を上げる。その間にユージーンは自分を執拗に追う矢から逃れなら森の茂みに跳び込んで駆けた。

 完全に包囲された状態での戦闘の続行は不利だ。サクヤを仕留められないならば、機会を狙って各個撃破するしかない。木々の間をジグザグに走り、狙撃に当たらないようにし続け、ようやく矢の追撃が消えた頃に息をついて、やや腐り始めた古木に背中を預けた。

 

「……しばらく≪剛覇剣≫は使えんな」

 

 あの攻撃は火力も高く、また今回のように暗闇では眩さを使って目潰しの代わりにもなるが、しばらく≪剛覇剣≫を発動できなくなるリスクがある。とはいえ、サクヤを斬りかねない≪剛覇剣≫は元より使いたくなかった。

 ユニークスキルは確かに強力であるが、同時に1つの呪いをかける。それは麻薬のようにプレイヤーを『力』で蝕み、視野を狭めてしまうのだ。自然とユニークスキルを主軸にした戦いに束縛する。他の選択肢を奪っていく。ユージーンは≪剛覇剣≫を1つの武器のように使っているつもりであるが、時として≪剛覇剣≫に『使われている』と感じる時もあった。

 

(UNKNOWN、貴様はどうなのだ? 時々でも怖くならないか? ユニークスキルという……ほかのプレイヤーとは違う『特別な存在』だと錯覚させるような『力』に酔ってしまう時がないか?)

 

 ユージーンは大剣から≪剛覇剣≫の赤い輝きの名残が完全に消えたのを見届けながら、木の葉の隙間から漏れる月光を見上げる。

 今やユージーン=≪剛覇剣≫の使い手という扱いだ。≪剛覇剣≫という『力』にユージーンという存在が『食われている』と思う時すらもある。サクヤの作戦もまた、ユージーンが追い詰められたら≪剛覇剣≫を発動させるはずだという予想から成り立っていたはずだ。事実として、あの場で≪剛覇剣≫を閃光爆弾に代用するか、それとも≪剛覇剣≫で無理矢理押し切るか、ユージーンは判断に迷った。前者を選んだのは攻め切れる自信が無かっただけだ。

 燐光草で時間をかけながら回復しつつ、ユージーンは今後の方針を決める。敵はロザリア、サクヤ、キメラ、ラミア、そして謎の射手だ。1対5の状況は厳しいが、ユージーンが感じた限りでは個々の実力には勝っている。また、喜ぶべき事にコンビネーションはないに等しい。サクヤが随所でサポートしているが、狙いがバラバラなのだ。恐らくは作戦という1つの方針に沿って動きを固定化しているからこそ脅威に映るが、作戦の範囲外に持ち込めば各個撃破は可能だろう。

 だが、そのリスクを背負うべき現状だろうか? ユージーンが宗教都市周辺を拠点としていることまでは把握されているかもしれないが、あちらまで逃げ込めば、戦力を揃えて迎え撃つこともできるだろう。ならば、ここは撤退の二文字だ。 

 

 

『お前が強いのは、≪剛覇剣≫があるからでもなく、「ランク1」だからでもなく、お前が「強くなりたい」と走ってきた結果だろう?』

 

 

 逃亡に向けて歩き出そうとしたユージーンの足を止めたのは、サクヤの言葉だった。

 それは『ランク1』とは何かに迷いを持っていた時、フェアリーダンスの噂を聞きつけて、ALOの懐かしさに惹かれて足を運んだ時の事だった。

 元よりサクヤとはALOでも仲が良かったわけではない。シルフとサラマンダーは争い合っていた。ALOで行われた奇怪なイベントで何度か2人っきりになったことはあったが、彼女との距離を著しく縮めることはできなかった。

 現実世界でも接点はあったが、それでも互いに歩み寄ったことはなかった。そもそも、互いの正体を知ったのも気まぐれで参加したオフ会での事だ。

 ALOのプレイヤー同士で身を寄せ合い、大ギルドの支配に抗うように中立を貫く。それはサクヤの信念であり、DBOにおける戦いだった。だからこそ、ユージーンは不遜に彼女を呼び出した。わざわざクラウドアースの名前を出してまで、彼女と2人っきりになれる環境を作った。

 その頃は彼女に惚れていたわけではない。『女』としては好みであったが、それ以上の意味はなかった。あったとしても気づいていなかった。

 ただひたすらに『力』を追い求め、その結果の『ランク1』という立場になったが故の迷い。それを聞いてもらいたかっただけだ。シルフとサラマンダー、彼が初めてVR世界に触れたALOでの戦い。サラマンダーの将軍としてシルフ領を攻め続けた彼だからこそ、サクヤの実力を知っているからこその、ALOへの郷愁にも近い問いかけだった。

 呼び出されたサクヤは不満の様子ではあったが、雑にあしらうこともなく、ユージーンが傲慢とも言える物言いの『相談』を黙って聞き続けた。そして、彼女は笑いもせず、ただ鼻を鳴らして、ALO時代と同じように敬語を捨てて口を開いた。

 

『ハッキリ言っておこう。私はお前が好きじゃない。だが、嫌いだと思ったことはない。ユージーン将軍といえば、ALOで最強の戦士であり、羨望の的だった。シルフからすれば怨敵だったが、同時にいつだって「プレイヤー」としてはお前の強さに悔しさと同じくらいに憧れを抱いていた。私もその1人だよ』

 

 クラウドアースがセッティングしてくれた、人気の高いローガンの記憶にあるホテルの最上階レストランにて、ドレスで着飾ったサクヤは手元の赤ワインの水面を覗き込みながら、自分の無力さを噛み締めながら、『相談』に対して真摯な回答を出した。

 

『DBOにおいて、傭兵とはソロで多大な戦果を挙げる、私のような「凡人」からすれば特別過ぎて手が届かない存在だ。一騎当千という評価がこれほど相応しい連中もいない。リーファもそれだけの才覚はあるとは思うが、お前に剣が届くかどうかは私のような凡庸な人間には分からない』

 

 サクヤは十分に優れたプレイヤーだ。上位プレイヤーとしても戦えるだけの実力はあるだろう。だが、フェアリーダンスを中立ギルドとして守り続ける為に奔走し、頭を悩ませ、多くの交渉を乗り越えてきたからこそ分かっていたのだろう。大ギルドが『暴力』で訴えれば、簡単にフェアリーダンスは潰されてしまう、と。それ程までに、1部のトッププレイヤーと呼ばれる者たち……特に傭兵たちは次元が違うと彼女は感じていたのだろう。いや、絶望していたのだろう。

 いつかは大ギルドに屈する日が来る。彼女はずっとずっと前からそう覚悟していたのかもしれない。それでも抗いたいと望んでいたのだろう。彼女もまた戦っていた。DBOにおけるネームドやボスといった凶悪な存在達にではなく、大ギルドの……いや、プレイヤーという『人間』たちが生み出していく狂気の流れに反旗を翻し続けねばならないと戦い続けていたかのかもしれない。

 それに比べれば、ただガキのように『力』を求めていて、その先を何も見ていなかった自分が愚劣に思えてユージーンは自嘲を禁じえなかった。だが、その胸中を見抜いたようにサクヤは少しだけ……本当に少しだけ……柔らかく微笑んだ。

 

『もう1つハッキリ言っておこう。「ランク1」がお前で良かった。お前は誰もが認める実力がある。こう言っては悪いが、人格だって傭兵連中を見る限りではまともだろう。それに何より、こうして人並みに迷いを持って、敵同士だったとしても「昔馴染み」に悩みを打ち明けるような人間だとも分かった。私はお前こそが「ランク1」に相応しいと、心の底から思っているよ。≪剛覇剣≫がなんだ。政治の結果の「ランク1」がなんだ。そこに至るまでの全部がお前の手でつかみ取ったものだろう? だったら、お前はこのDBOで唯一無二の……皆が憧れてやまない「ランク1」だ』

 

 席を立ったサクヤは、これからも自分の戦いを続けるというように強気で笑みながら、半分だけ顔を振り返りながら、呆けるユージーンを期待の眼差しで射抜いた。

 

 

 

『「ランク1」は希望の象徴だ。お前がいるだけで皆は信じていられるはずだ。いつかは完全攻略できる日が来るとな。だから、私は応援しているよ。お前が「ランク1」であり続けられるように。お前がDBOのプレイヤー全員の希望になるように祈っている』

 

 

 

 あの時の笑顔が忘れられないから……ユージーンは本当の意味で恋をして、サクヤに惚れてしまったのだろう。

 だからこそ『ランク1』であらねばならないと誓った。『ランク1』として傲慢不遜に自信満々の戦士としてあらゆる困難を前にしても不敵に笑って、この程度は何でもないと周囲を鼓舞する振る舞いを続けねばならない。最強の傭兵として君臨し続けねばならない!

 

「逃亡だと? この『ランク1』が……尻尾を巻いて逃げるだと!? ジョークとしても笑えんな!」

 

 それに、まだ貴様からオレの愛の告白の返事をもらっていないからな。『不敵に笑う』ことを自分に強いて、ユージーンは魔剣ヴェルスタッドを握りしめる。なお、サクヤは何度どころか数える事も出来ないほどに、それこそストレートに告白を断っているのだが、『ランク1』らしく勝つまで粘り続けるのがユージーンである。

 状況は悪い。だが、勝ち目があるならば勝ちを奪いにいくのが『ランク1』のあるべき姿だ。だからといって感情のままに無謀に突っ込むのもまた『ランク1』としてスマートではない。何よりも現在のサクヤは明らかに異常だ。洗脳であるならば、それに打ち勝って彼女のハートごと奪い返すのが『ランク1』のやり方だ。

 サクヤは殺さない。ユージーンはそう自分に誓って、今回の戦いの勝利条件を整理する。

 ユージーンがアルヴヘイムに突入した理由はサクヤの奪還だ。ならば、ここで彼女を取り戻せるに越したことはない。いや、それ以外はどうでも良い。無論、サクヤをあんな風にした最大の疑惑者……いや、確定して実行犯だろうオベイロンには相応の報いが必要だろう。だが、この場において最優先にすべきことはサクヤを連れ戻す事だ。

 ならば手っ取り早いのはサクヤ以外の全員を撃破する事である。その上で最優先で撃破すべきなのは暗闇に潜む射手であるが、何処にいるかも分からない相手を先に仕留めるのは難しいだろう。

 そうであるならば、先に始末すべきなのはロザリアとキメラだ。彼女たちの援護がある限り、サクヤに話しかける暇すらもないのだ。

 恐らくだが、キメラの耐久度は高くない。魔剣ヴェルスタッドに混沌の剣をエンチャントさせ、直撃させれば一撃で仕留められるかもしれない。だが、サクヤを直接攻撃できないことはロザリアも把握している事だろうし、サクヤ自身も躊躇なく盾になって彼女たちを守ろうとするはずだ。それも作戦に組み込んで、もう1度襲ってくるはずである。

 

「フン。手の内が読めている作戦など恐れる必要もない」

 

 それに魔剣ヴェルスタッドをただの高火力の大剣と思っているならば大きな間違いだ。ユージーンは右手で握った大剣を振るって風を巻き起こし、わざと発見されるべく開けた場所を目指して走り始める。暗闇の射手は≪暗視≫に近い能力を持っているはずである。ユージーンを発見するのは時間の問題のはずだ。

 狙い通り、ユージーンの左肩を黒い矢が抉る。じわりと汚染されるような浸み込み具合から闇属性が付与された矢だろう。それは大矢にも匹敵する威力であるが、距離はまだ十分にあるのだろう。ダメージは低い。燐光草で回復しながらユージーンは走り続ける。周囲の木々の幹を、地面を、矢が射抜いていくが、彼はわざと走り続ける間に隙ともいうべき『呼吸』の時間を作ることで狙撃のタイミングを誘導し、難なく回避をし続ける。

 

『ユージーン君、何処にいるか分からない相手の狙撃は最も恐ろしい攻撃の1つだ。いかなる猛者も見えぬ相手の遠距離攻撃は簡単に防げるものではない。躱すのはそれ以上に難しいだろう。それこそ「直感」の一言で躱せる「獣の本能」を持つ者もいるが、君にそれはない。ならば、どうやって防ぐ? どうやって躱す? 五感を研ぎましても限界があるだろう。方法は幾つかあるが、その中でもメジャーなやり方は……誘導だ』

 

 セサルの教えが蘇る。『ランク1』である為に、技術を余すことなく教え込んでくれたクラウドアースの真の王の言葉が反芻される。

 

『相手がAIだろうと人間だろうと変わらん。「タイミング」を与えてやれ。特に狙撃手というのは大なり小なり驕るものだ。自分は安全な場所にいる。敵の生殺与奪は自分が握っている、とな。よもや自分が狩られる側など思いもよらない。それはどうやっても抗えない狙撃手の性だ。たとえAIでもな。いや、機械の方がいっそう単純だ。失敗に対して「修正」作業しかできない。誘導されていると判断できても、根底にあるプログラムを疑えない。故に対応力に欠けてしまう』

 

 足をわざと止める。今度は少しだけ回避を遅らせて、右耳を奪わせる。千切れた耳から血が零れるも、ユージーンは止まらず、わざとらしく唸りながら走り出す。

 こんな小手先に頼るのは『ランク1』らしくないだろう。だが、これも舞台づくりの為だ。ユージーンは背後を追いかけ続ける隠れ潜む射手の攻撃が単調になっていることに笑いを堪える。

 いよいよ森の開けた場所にたどり着く。そこはウンディーネたちのかつての修行の場だろう、白い石造りの建物の残骸が転がる茂みだ。木の葉の天井も無く、余すことなく月明かりが届く地にて、血痕という目印をばら撒いて敵の誘導に成功したユージーンは空より奇襲をかけたサクヤの一閃を大剣で防ぐ。

 

「逃げ足もランク1のようだな。だが、2度目はない」

 

 エンチャントが切れた薙刀を携えたまま、サクヤは滑空してユージーンの周囲を回って攪乱するが、それは明確な時間稼ぎだ。遅れてやってきたロザリアが上空より麻痺ナイフを投擲し、また森の闇からキメラとラミアが同時に飛び出してユージーンを包囲する。

 まだだ。ユージーンは焦りなく、自身の血で濡れた大剣を両手で握って構える。≪剛力≫で片手持ちすることもできるが、≪両手剣≫本来の火力を最大限に引き出すならば、やはり両手持ちこそがあるべき姿だ。

 

(ずっと気になっていたことがある。ALOと同じように飛行できるならば、どうしてサクヤもロザリアもわざわざ着地してから攻撃してきた?)

 

 今回の場合、ロザリアは飛行したまま上空からの麻痺ナイフの投擲に終始しているが、サクヤは滑空こそしているが、しっかりと着地しての攻撃である。

 ユージーンはALO出身らしく推測する。それはゲームシステムの違いが1つ目の枷になっているからだろう。ALOの魔法は『撃てば当たる』とも言えるものだ。回避も出来ないことはないが、ほぼ必中に等しかった。故に魔法が独壇場であり、近接武器は二の次だったのである。

 では、そんなALOにおいて、ユージーンはどうやって剣で将軍の地位に上り詰めたか。それは彼には魔法の命中判定斬りできたから……ではない。近接戦が有効な飛行能力を活かしきれない地形を利用し、また魔法詠唱されるより先に敵の懐に斬り込み、そして近接攻撃慣れしていないプレイヤーを続々と斬り伏せたからである。そうしてサラマンダーの将軍に上り詰めたのである。

 では、DBOの場合はどうだろうか? 魔法の多くには誘導性こそあるが、必中ではない。だからこそ追尾魔法はいずれも脅威を振るい、また対策が練られ続けたのだ。そして、射撃攻撃には多くの制約と制限がある。これらの条件を組み合わせた時、飛行能力は優位性こそ生むが、同時に『高度が高ければ高い程に決め手に欠ける』という制限を受ける。また、大弓のような強力な射撃武器はその分だけ反動が凄まじい。ほぼ無反動のALOの魔法のように空中で撃っても命中精度が悪くなる一方だ。≪弓矢≫のソードスキルを使えばそれも補えるだろうが、スタミナという概念があるDBOではソードスキルの乱発はそのまま死に直結する上に、果たして高度=距離という環境で動き回る相手を射抜ける者はどれだけいるだろうか。

 相手に飛行能力が無いならば、そして確実に仕留めるならば、結局は着地して攻撃を仕掛けた方が良い。何故ならば飛行したまま戦うならば、結局は距離を取って加速して斬りつけるというカウンターの餌食になりやすい戦法に狭まってしまうからだ。

 これが広大な草原では飛行能力はより凶悪になるだろう。空中爆撃のように爆弾を投下し続ければ地上敵を一掃できるのだ。だが、この森ではそのような攻撃を仕掛けてくるならば、森に逃げ込めば簡単に『天井』が得られる。故に彼女たちは空中から仕掛けられる攻撃は自然と限られる。

 強力な射撃攻撃による地上の一掃が可能であるならば単体による制空は脅威であるが、個人が飛行している程度では、飛行能力を保有する数多のモンスターとの戦闘経験があるDBOプレイヤーからすれば、絶対的優位と感じるには程遠い。

 また森という救援が無く、また闇に潜んだ射手にとって有利な環境を選んだつもりが、ユージーンにとって戦い易い条件が整っているのだ。

 むしろ、このアルヴヘイムにおいて飛行能力の強みは戦略的機動力にあるだろう。地形を無視して空中を移動できるならば、戦力の派遣も撤退も容易だ。また、飛行している時点でそれ自体がオベイロンの権威を示す事にもなる。

 サクヤもそれを把握しているのだろう。飛行状態のままでは加速をつけても攻撃が単純になるだけ、むしろ飛行コントロールに意識が割かれる分だけ近接攻撃に技巧を凝らせなくなると判断してか、着地して改めて薙刀を構える。

 前方にサクヤ、背後にキメラ、右方にラミア、頭上にロザリア、そして森の闇には射手。完全な包囲を敷かれたユージーンに、サクヤは歪んだ笑みを浮かべる。

 

「お前の血が私を満たす。消えないんだ。とても……とても、喉が渇くんだ。飢えが消えないんだ。ああ、オベイロン様。陛下の寵愛が私を……私の血の悦びを抑えてくれるはずなんだ!」

 

 うっとりしたようにサクヤは舌なめずりをして、ゆっくりと腰を下ろすと地を這うように駆ける。サクヤの攻撃に対応次第でラミアとキメラが同時に襲い掛かるだろう。回避か防御が見極めてから攻撃しても遅くはないのだから。

 だが、ユージーンは既に覚悟を決めていた。上空で勝利を確信するロザリアを嘲笑うように、ユージーンは躊躇なく魔剣ヴェルスタッドをサクヤに向かって一閃する。

 ユージーンの赤髪とサクヤの黒髪が交差したのは一瞬。そして、互いに交わした刃の軌跡をなぞるように、サクヤより散った血飛沫が空気を汚した。

 砕けたのは薙刀の刃。真横から魔剣ヴェルスタッドの直撃のみならず、受け流しも出来ずに攻撃の全てを脆い≪カタナ≫の刃で受け止めてしまった為に、薙刀の刃は折られたのである。そして、それに止まることなく、大剣の分厚い刃はサクヤの左腕を肘から斬り落としていた。

 薙刀と奇跡の両方同時に封じる一撃。その軌道を描けるのは刹那のタイミングだった。僅かでも遅れが生じればサクヤを両断し、早ければ狙いは外れてサクヤに警戒されてしまう。故にそれは絶技と呼ぶに相応しく、また死闘に思えた戦いにおいて、数の不利を以ってしてもユージーンという『ランク1』は圧倒的有利であるとこの場での証明である。

 

「……惚れた女を優しく扱える程に、オレは器用な男ではない。それはお前が1番知っているはずだ、サクヤ」

 

 血溜まりに膝をつくサクヤを背にしながら、ユージーンはサクヤの血で濡れた魔剣ヴェルスタッドを上空のロザリアに突きつけた。愛した女を斬った罪は彼女たちに償わせると宣言する怒りと共に。

 

「見せてやろう。魔剣ヴェルスタッドの能力を」

 

 鳴り響くのは鐘の音色。それはヴェルスタッドの得物だった大槌にして奇跡の触媒でもあった大鐘の旋律。止めようと牙を剥いたキメラとラミアであるが、彼の周囲でフォースのような衝撃波が放たれて攻撃は阻害される。

 途端にユージーンを包み込んだのは『奇跡特有の』山吹色を含んだ白いオーラだ。

 

 

 

「奇跡【生命の恵み】発動!」

 

 

 

 ロザリアの顔が凍り付く。それも当然だろう。彼女の言動からこちらの情報は知り尽くされていることくらいはユージーンも見抜いている。ならば、ユージーンのMYSが低く、奇跡を使用するという選択肢はまずあり得ないと分かっていたはずだ。

 これこそが魔剣ヴェルスタッドの能力。『奇跡の鐘』だ。本来ならば≪魔法感性≫と≪信心≫が無ければ使用できない奇跡の使用を可能にする。奇跡の要求ステータスは『STRとMYSの合計値÷3』が適合され、奇跡に触媒としてのステータスボーナスはSTRにかかる。無論、奇跡の触媒に比べればステータスボーナスによる補正は低いが、奇跡の有無は大きい。何故ならば、雷系を除けば、奇跡の大多数は補助・回復に特化したものだからである。

 奇跡使いの粘り強さはオレも最近になって十分に味わったばかりだったな。ユージーンは深淵の魔物ガウェインを感慨深く思い出す。どれだけ傷つけても奇跡で回復し、強引に攻め込んでくる様はアンバサ戦士の脅威そのものだった。

 呪術による火力増幅と奇跡による補助。その両方を得たユージーンは、慢心なく、しかし威圧するように『ランク1』らしく不敵に笑う。

 

「貴様ら如き雑兵が『ランク1』の道を阻めると思うなよ」

 

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 ロザリアはキノコの森の上空から戦況を分析しながら冷や汗を垂らしつつ、サクヤの撃破から始まったユージーンの反撃に、自分の読みの甘さを食いしばる。

 レイフォックスを素体としたゴーゴンは多腕の連撃を仕掛けるも、ユージーンは雷属性を帯びたそれらを大剣で一蹴したかと思えば、呪術で燃え上がった左拳を容赦なく顔面に叩きつけ、キメラが飛びかかれば顎を蹴り上げて舞い上げて喉を掴み、闇から飛来した矢の盾にする。どれだけダメージを負っても≪バトルヒーリング≫によってダメージの数割を回復させ、生命の恵みのオートヒーリングによって更に回復を促進させる。ただでさえ高VITと高防御力のユージーンに奇跡のオートヒーリングの組み合わせは凶悪だ。

 それだけではない。サクヤを無力化し、また彼女が何故か動かずに蹲っていることがユージーンに自由を与えている。個々の実力はランク1に遠く及ばないのだ。ゴーゴンの連撃も、キメラの爪もブレスも効果はない。まともなダメージ源になるのはツバメを素体にしたゴーゴンの狙撃であるが、ユージーンはわざと動き回って多腕ゴーゴンとキメラに密着することで同士討ちを誘発させ、狙撃の頻度を下げている。

 だからといってロザリアも降下して攻撃に加わることはない。あの戦いの渦中に身を置くなど自殺行為だ。ユージーンは間違いなく『指揮官』と睨んでロザリアの撃破を敢行するだろう。麻痺ナイフも投げ終わり、上空で見守るしかないロザリアは拳を握る。

 ティターニアとリーファの追跡を命じられたロザリアはこのキノコの森の周辺を重点的に探索し、そして傭兵や荒くれ者が宗教都市の付近でキャンプをして集結し始めている事に気づいた。それはオベイロンの号令で始まった反オベイロン派狩りという仕事を目当てに集まったものだとばかり思っていたが、ロザリアは調査を進めて彼らの背後にはユージーンとシリカがいることを突き止めた。

 ユージーンはサインズ傭兵ランク1だ。政治が過分に含まれているとはいえ、その戦績は伊達ではなく、【聖域の英雄】UNKNOWNと並び評される傭兵最強格の1人である以上は並の戦力では仕留められないと判断した。

 シリカを先に仕留めない方針を決めたのは、ランスロットの証言によってUNKNOWNの生存が確実視されたからだ。ランスロットはUNKNOWNを圧倒したようであるが、実際のその手で仕留めたわけではなく、『不要だった横槍』のせいで逃亡を許してしまったと述べた。ならば、シリカは泳がせ、UNKNOWNと合流したところで大戦力を派遣して始末することこそが最も有効だと判断したのである。

 だからこそ、UNKNOWNと合流させないためにユージーンをここで始末しようとロザリアは考え、ゴーゴン2体とサクヤを引き連れて『ハンティング』に乗り出したのだ。サクヤを選んだのは、ユージーンが彼女に恋慕しているのはDBOでも不動の事実であり、動揺を誘い、また肉壁にして攻撃を封じ込める為だった。

 進言しに行った時のサクヤのあり様はロザリアも眉を顰めそうになる程に、同時に内側に暗い歓喜を覚える程に酷いあり様だった。

 ティターニアとリーファを逃がす為に捨て駒となったサクヤは捕らえられ、オベイロンが直々に尋問した。無論、それは精神的・肉体的責め苦であり、また女にとって恥辱と屈辱の限りを尽くすものだった。

 体は隅々まで弄ばれただけではなく、オベイロンはわざわざ後継者と同じように時間加速の空間にて、彼女をしゃぶり尽くした。ロザリアも適度に様子を窺ったのであるが、オベイロンは唇を噛んで涙を湛える彼女を味わった。最初の3日間は耐え抜いたサクヤだったが、現実時間で3分も経っていないことを知らせた。今度は宇宙人を思わす、全身が触手だらけの軟体類が人間に進化したような風貌をした研究員たちに労いとして、オベイロンが賜ると、そこからは女の絶叫ばかりだった。それを映画のようにオベイロンは鑑賞した。

 心が砕けそうになると、僅かな食事と水と休憩が与えられる。それは安息ではない。屈服するまで何度でも責め苦を味わうという絶望だ。精神崩壊していれば、どれだけ彼女にとって救いだっただろうか。だが、彼女は『頑丈』だった。それが一層のことにオベイロンのサディスティックな愉悦を増幅させ、休憩の度に折れた心を立て直そうとするサクヤの気高さに研究員たちは興奮した。ロザリア自身も、あんなにも凛としたサクヤがゲスと呼ぶ他ない者たちに嬲られ、またオベイロンに蹂躙される様に、愉悦とは何たるかを再認識した。同性だからこそ、汚物に塗れるサクヤの姿に優越感を覚えるのだ。

 心が砕ける直前のサクヤにオベイロンは満足し、その上で彼女の発達した仮想脳に目を付け、このまま『壊しきる』のは惜しいと感じた。そこで、これまでの実験の成果を試すという意味で、またマザーレギオンに新作のレギオン・プログラムがあるという事から、彼女を実験台にすることを決めたのである。

 サクヤに投入されたレギオン・プログラムは、これまでのようにデーモン・システムから感染するタイプであるが、死者ではない生身の肉体を持つサクヤをレギオン・プログラムで汚染するのは難しい。そこで、マザーレギオンは侵蝕速度を抑え、相手の人格を、精神を、脳を、フラクトライトを、ゆっくりとレギオンに『変質』させる新型の投与を決めた。

 

『まだ実験段階なんだよね~。王様が実験台を「何百人」も提供してくれたけど、普通の人だとそれでも簡単に壊れて発狂しちゃうし。だから、レギオン・プログラムに耐性がある高いVR適性がある……仮想脳が発達した人間が最適なんだ。狂縛者みたいにインプラントを脳に埋め込むのも手段だけど、それだと感染拡大の効率が悪いんだよね。まぁ、それでも王様のお陰でたくさん実験できたお陰で、今回の新型レギオン・プログラムが出来たんだけどね♪』

 

 終わりつつある街で獣狩りの夜が起きた時、闇霊召喚システムから広がった生身の人間を蝕んだレギオン・プログラムの事例、オベイロンが手配した世界中より『買った』貧困層の人間を用いた生体実験、そして狂縛者というレギオン・プログラムを生身の人間に埋め込んだ成功作第1号。これらが揃った事により、マザーレギオンはついに生身の人間を感染させる目途が立ったレギオン・プログラムの開発に成功したのだ。

 オベイロンが元々保有していた洗脳プログラムと新型レギオン・プログラムのコラボレーション。それがサクヤだ。初期段階ではレギオン・プログラムを防ごうと仮想脳は強く働いていたようであるが、オベイロンは仮想脳をよく研究していた。仮想脳は精神の動き……心によって大きく左右される。レギオン・プログラムへの抵抗しようとする仮想脳であるが、弱り切ったサクヤではそれも長く続かなかった。

 そこからはオベイロンの拷問のようにロザリアは愉悦を覚える暇もなかった。絶叫し、暴れ回り、レギオン・プログラムの感染で自身の『根源』が蝕まれていく中でサクヤは言葉にもならない声で泣き喚き、誰かを呼び、やがて飢えと渇きを訴え、あの気高そうな凛とした顔をケダモノのように歪めて、両腕を鎖に繋がれた状態で項垂れたまま舌を垂らし、涎をだらしなく吐き続けてた。

 

『殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい……殺したいよぉおおおおおおおおお! お願い、殺させて! 殺して! 早く殺して! 私を私をわたしをワタしを私が私をワタシはワタシがわたしで、わタシがぁ私である内にぃああああああああああああああああ! 血がぁあああ! 血ぃいいいいい! 喉が渇くの! 飢えて飢えて飢えて、お腹が減って! 殺さないと! あひゃ、クヒャ、キヒャヒャヒャハハハハハハ!』

 

 この初期感染に耐えられるか否か。壊れてしまえばこれまでの実験の『失敗作』のようになるだけだ。オベイロンの拷問と同じように壊れてしまえば良かったのだ。今回の場合、ロザリアはむしろ『人間として』それを望んだ。

 だが、サクヤは初期感染に耐えてしまった。そして、オベイロンは改めて洗脳プログラムを投与し、彼女を忠実なる妖精王の配下……アルフへと転生させたのである。

 本来ならば、レギオン・プログラムに感染すれば、その耐えがたい殺戮への飢えと渇きによってケダモノに成り果てる。だが、新型レギオン・プログラムの成果なのか、サクヤは殺戮への渇望はあっても、オベイロンへの狂信を除けば、理知的な物言いとコミュニケーションが可能だった。

 ロザリアの部下としてサクヤは配属されたが、彼女は不安だった。いつサクヤがレギオンとなり、暴走し始めるか分からなかったからだ。最初からレギオンとして生まれた怪物たちはともかく、プレイヤーが……いや、人間がレギオンとなって暴走しなかった事例が無いからだ。

 そこで恐怖を堪えてマザーレギオンへの面会を求め、配属されたサクヤの危険性を問いかけた。すると漆黒の肌と淡く発光する白髪を持つ少女は、楽しそうに真っ赤な口を歪めた。

 

『さぁ? レギオン化が進めばアバターもレギオンに近くなるかもしれないけど、新型は生身の人間の脳とフラクトライトをレギオン・プログラムで侵蝕して同化することを目的としたものよ。オリジナルの豆粒ほどだけど、殺戮への飢えと渇きはあるし、それは侵蝕率が高まれば高まる程に大きくなる。彼女がそれに耐え続ける限りはレギオン化の進行は遅々としたものかしら』

 

 オベイロンからのプレゼントだという有名デザイナーの設計のドレスが入った箱を開け、『剣士さんが見たら奇麗って言ってくれるかな?』と真っ赤なドレスを着て鏡の前でくるくる踊るマザーレギオンは、緊張して起立した姿勢のままのロザリアを思い出したように冷たい眼で射抜いた。

 

『レギオン・プログラムとは、殺戮の本能を模した、際限ない変異による強化と情報集積による進化を続ける、インターネサイン構想とコラボレーションしたプログラム。感染個体が窮地に陥ればレギオン・プログラムは活性化する。お色気担当は感染初期を脱して安定期に入ったばかり。インプラントによるハードからのアプローチを試みた狂縛者とは違う、ソフトからアプローチしてレギオン化して安定した第1号。テストケースとして手元に置いておきたいわ。慣らしまではあなたに預けるけど、いずれは私の管轄下に置くように王様には話をつけてある。お色気担当は「そのまま」にしておきたいから、厚化粧さんも大事に扱ってあげてね。レギオンは私の子。「私たち」は家族想いなの♪』

 

 オベイロンはカーディナルを手中に収めた暁には、いずれレギオン・プログラムを現実世界に『兵士強化プログラム』として出荷することを目論んでいる。世界の軍事を牛耳る為の計画の1つだ。

 VR機器1つで兵士からモラルを奪い、殺戮マシーンに変えるレギオン・プログラムは『人材』という観点で軍事革命を起こすだろう。マザーレギオンが『それは素晴らしいわ♪』と大喜びしてオベイロンに協力している理由の1つだ。それは分かるが、ロザリアには制御不能なモンスターを作り出すのではないかという不安も拭えなかった。

 そして、その不安はロザリアが思っていた『遠い未来』より先に訪れた。

 キメラの腹をヴェルスタッドで貫き、いよいよHPが赤く点滅する。多腕ゴーゴンも腕の半分以上を失い、HPは3割を切っている。対してユージーンは余裕すらも感じる態度だ。だが、無理に攻めないのは上空にいるロザリアを警戒しての事だろう。

 石化能力を発動させるべきだろうか? ゴーゴンの石化の呪いならば、ユージーンも一撃で倒せるだろう。だが、DBOには同士討ちがある。故にゴーゴンの石化の呪いを乱戦でばら撒けば、ロザリアにも石化の呪いがかかる恐れもあるのだ。

 作戦を優先し、ゴーゴン2体には自主行動の自粛を命令させてある。レギオン・プログラムによってマザーレギオンの支配下にある2体の所有権をロザリアに譲渡させてあるのだ。より従順になった代わりに、より『指揮官』への依存性が高まっている。

 ならば解き放てばいいだけの話であるが、強化された2体のゴーゴンを解放すれば何が起こるか分からない。マザーレギオン曰く『元の素材の原形が無くなる寸前くらいに強化しちゃった♪』との事だ。とてもではないが、ロザリアに彼女たちの首輪を外す度胸は無かった。

 ここは1度撤退しよう。ロザリアがそう判断する。ユージーンの大剣の能力は分かった。サクヤを斬り捨てるのも計算外だった。ロザリアは鈴を鳴らして撤退の合図を送ろうとする。

 だが、それよりも先に多腕ゴーゴンの腹を深々と貫き、多量の血が零れる。一手遅かったと後悔したロザリアであるが、ゴーゴンの腹を貫いたのはユージーンの大剣ではない。

 それは両膝をついて呆けていたサクヤの背中から伸びた、まるで背骨のような触手。どろりと血によって肉付けされ、関節同時の靭帯がしなる姿はレギオンの触手の特徴だ。

 信じられない。そう大口を開けたゴーゴンの首に、立ち上がったサクヤは喰らい付いた。

 もはやレイフォックスに人格と呼べるものは残っていないだろう。言葉すらもまともに発することはできない、改造し尽くされた哀れな人形だ。だが、それでもロザリアが見たのは、石化の眼を発動させ、首に喰らい付くサクヤを振りほどこうとする『人間の恐怖』が張り付いた表情だった。

 言葉を失うユージーンの前で、サクヤはゴーゴンの喉を食い千切り、そのまま石化の呪いを溜める両目に指を突き立てる。暴れ回るゴーゴンであるが、それは脊椎から枝分かれしたように伸びた2本目の触手によって封じ込められ、マウントポジションで『食事』を続ける。

 

「サクヤ、止めろ!」

 

 たとえ敵であろうとも『捕食』される様を見ていられなかったのだろう。ユージーンがサクヤの肩を掴んで引きはがそうとするが、3本目の触手がユージーンを弾き飛ばす。

 サクヤは鋭く伸びた指の爪をゴーゴンの両目に突き立て抉り出す。血と叫びを散らすゴーゴンの上で、血の快楽を貪るように恍惚した表情でサクヤは目玉を喰らい、溢れる血を浴びる。その様にロザリアは慄く。

 思い出したのは、ユグドラシル城で開かれたダンスパーティ。妖精たちが晩餐に振る舞われたレギオンの宴だ。ロザリアは掃除係として出席が求められた。

 

『神であれ。バケモノであれ。お前達が望んだから私は生まれた。レギオン・プログラムはたった1人の内にある殺戮本能を模した劣化品。だけどね、どれだけ粗悪でもお前達は耐えられない。だって、お前達の「人」はケダモノだから。だから「獣」になる。耐えられるはずがない』

 

 レギオンたちは命乞いする妖精たちを喰いつき、臓物を引き摺り出して咀嚼する。血を啜り、触手で脚を貫いて這いまわる妖精たちを踏み躙る。

 

『終わらない飢えと渇き。それを一時的でも癒すのが血の悦び。その辺の快楽殺人鬼と一緒にしないでくれるかしら? 連中は「過程」に囚われたもの。殺す対象の悲鳴や涙、もしくはマンハンティングという行為に悦楽を見出す。彼らにとって、その実は「殺し」自体はどうでも良いのよ。そうねぇ、分かりやすく言えば「料理」と「食事」の違いかしら?「私たち」にとって「殺し」とは「食事」なの。快楽殺人鬼のお目当ては「食事」じゃなくて「料理」。対して「私たち」は……オリジナルとレギオンにとっては「殺し」で得られる血の悦びだけが飢えと渇きを癒す』

 

 妖精たちの目玉でお手玉をして、マザーレギオンはそれをワイングラスに押し込むと、今にも吐きそうな顔をしたロザリアに押し付けた。目玉から滴る血がグラスを底から赤色に染めていき、喉を痙攣させる血のニオイが鼻孔を擽った。

 

『ああ、もちろん、「料理」も好きよ? だって「料理」した方が美味しいじゃない。どうせ食べるなら美味しいモノの方が厚化粧さんも好きでしょう? ううん、「大好きな食材」だからこそ、しっかり仕込んで「料理」してお皿に奇麗に盛ってから「食事」したいのが「普通」でしょ? そういう事なのよ。私たちにとっては「殺し」とは「食事」よ。レギオン達が人を喰らって腹を満たすのはこの飢えと渇きに「正当性」を与えて自壊させない為の処置。王様はこの辺について疎いのよねぇ。アレよね。王様って栄養素ばかり見て原材料と生産地に興味がないタイプよね。その点では狂人さんは意外と原産地を気にするタイプよねぇ』

 

 饒舌に語るマザーレギオンが話し相手にロザリアを選んだのは『理解できるはずがない』という嘲りだったのだろう。事実として、当時のロザリアはマザーレギオンが何を言っているのか欠片として分からなかった。

 

『でも、この子たちと違って「私たち」はどれだけ「食事」をしても満たされない。一時の癒しを得られるだけ。だってそうでしょう? 飢えと渇きがあっても、それは生命維持の為に訴えられた空腹でもないし、必要不可欠な水分補給でもない。ねぇ、どれだけ救いだったと思う?「生きる為だ」という……たった1つの、生命としての絶対的な肯定をもたらす飢えと渇きだったら……どれだけ「私たち」に……ううん、我らの王に救いがあったと思う?』

 

 満腹になって足下で寝転がるレギオンの腹を撫でながら、マザーレギオンは少しだけ憂いを帯びた眼差しでロザリアを一瞥し、やがていつものように狂笑して血塗れのダンスに戻った。

 あの日のマザーレギオンの憂いの眼差しと嘲笑。その両方がロザリアの耳元で囁く。世界の……いや、人類の終末は既に始まっているのだ、と。

 それを証明するように、サクヤは食い散らかされたゴーゴンの……いや、レイフォックスの腸の上で、血塗れになって笑う。世界を嘲う。

 

「アハはハはははハははハ! キヒ、クヒャ、クヒャヒャヒャヒャ! ああ、足りない! 足りないぞ! もっと血を! 血の悦びを!」

 

 森から這う音が鳴り響き、もう1体のゴーゴンが臓物を撒き散らして死んだゴーゴンに寄り添い、唇を震えさせる。

 

『レイフォックスさン……? レイフォックスさん……レイフォックスさ……ん? いやぁああああああああああああ! やだぁ! 死んじゃヤダぁあああああ!』

 

 もはや自我を残すはずがないツバメを素体にしたゴーゴンが……自分と同じ悲劇に遭った末に無残な死を遂げたレイフォックスに反応するように、その声に人間味を帯びさせる。その間にキメラは撤退に成功する。ロザリアはゴーゴンにも撤退の指示を出すも受け付けず、システムウインドウでエラーが表示される。

 ツバメを素体にしてレギオン・プログラムを植え付け、完全にモンスター化したはずであるが、レイフォックスの死がトリガーとなったのだろう。制御を振り切って、強化されたレギオン・プログラムが始動する。それは上半身の女の裸体……その背中より触手を4本伸ばし、頭部からは角のようなものが伸び始めた。

 だが、ツバメ本来の臆病な性質のせいか。彼女はレイフォックスの遺体を奪うと闇の中に消える。それをサクヤはケタケタと嗤うと触手を伸ばした。背中を向けたツバメ・レギオンに突き刺さるかと思えた触手の槍だが、それを防いだのはユージーンだった。

 どうしてランク1が守る!? 混乱するロザリアだが、収拾がつかなくなったこの状況を御することはできない。むしろ、暴走したサクヤが飛行能力を持つ以上は自分を追って殺しに来るかもしれない。その恐怖心に駆られ、彼女は一刻も早くこの場から脱したいと夜の闇を飛んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「邪魔をするなぁああああああ! まだ満たされない! 飢えが消えない! 苦しい! 苦しい苦しい苦しい! 渇くんだぁああああああああああ!」

 

 サクヤが伸ばす触手の連打をユージーンは大剣で受け流し、あるいは弾く。対レギオンとの戦いは相応に積んである。触手への対処は訓練済みだ。だが、それ以上にサクヤの操る触手は決して精度が高くない。

 他のVRゲームタイトルでは人外アバターを使うことも珍しくなく、DBOでもデーモン化状態では尻尾や翼が生える場合が多々ある。ユージーンも飛行能力こそないが、悪魔の翼が生えるのだ。これらにはALOにおける上位の飛行テクニック……本来人間に備わっていない筋肉が翅に伸びているとして自在に飛行を操る随意運動と根本は同じだ。

 だが、いきなり3本もの触手を操るとなれば、高いVR適性を持つサクヤでもいきなり手足のように操ることは難しいという事なのだろう。攻撃の度に動きの無駄は削がれ、速度も威力も上がっているが、まだユージーンならば鼻歌を奏でながら斬り込めるほどにお粗末だ。

 しかし、ユージーンにはそれだけの余裕は残っていない。いや、むしろ再び混乱のどん底と絶望の深淵を覗き込んでいた。

 洗脳までならばあり得るだろう。ユージーンもサクヤの敵対はオベイロンによる何らかの意識操作の類だろうと踏んだ。だが、背中から生えた触手は間違いなくレギオンの触手そのものだ。

 

(どうしてサクヤがレギオン化している!? 何が起きているのだ!?)

 

 確かにNPCがレギオン化するケースは後を絶たない。そうした感染レギオンを始末するのは教会の専売特許であり、教会剣の最大の任務だ。レギオンから弱き人々を守る。その為に大ギルドの諍いを超えて教会剣として肩を並べるプレイヤーもいる。

 だが、プレイヤーがレギオン化したという事例はこれまで1度として『報告されていない』。そもそも獣狩りの夜以降はレギオン化の変態過程を見た者が少ないという事もあるだろうが、そもそもプレイヤーがモンスター化するのは獣魔化の乱用の結果か、寄生モンスターと同化された場合くらいしか無いからだ。

 寄生モンスター……つまりはレギオンに寄生されたのか? ユージーンは咄嗟にその考えに無理矢理でも自身に納得を強いる。あれこれ考えるべきではない。ユージーンの直感とも呼ぶべき領域は、そのような『DBOの常識』という物差は通用しない状況だと叫んでいるが、彼は今のサクヤを止めるのが最優先だと自身を断じる。

 

「正気を取り戻せ。貴様にそのようなケダモノの顔は似合わん」

 

 穏やかにユージーンは語り掛けるも、サクヤは目を血走らせ、4本目の触手を伸ばす。目の周囲の血管が浮かび上がり、脈動し、その瞳はじわりと赤色が滲み始める。

 

「正気!? 私は至って正気だ! ああ、そうとも! この飢えと渇きを止めたいだけだ! キヒャヒャヒャヒャ!」

 

 サクヤのHPは残り少ない。切断した左腕は伸びた骨で止血されたようだが、それでもユージーンの剛剣をその身で受け止めたのは彼女に大ダメージを負わせた。奇跡で回復させる手もあるが、元より奇跡使いではないユージーンでは仕込んである中回復では余程の密着状態でなければ他プレイヤーには恩恵を分け与えられない。

 魔剣ヴェルスタッドが使える奇跡は無論先に魔法枠にセットしておく必要がある。ユージーンは生命の恵みと中回復をセットしてある。また、発動の際は周囲に衝撃波を放つことで発動の阻害を防ぐこともできる『強行発動』も可能だ。だが、どうしても専門の奇跡の触媒とは張り合えない。ましてや、STRがある程度は奇跡に必要なステータス条件に回せるとはいえ、MYSを高めていないユージーンでは高位の奇跡の発動は無理だ。

 レギオンは触手を攻撃してダメージを与えられた事例はほとんどない。ユージーンは3本の触手の靭帯を切断しようとするも、レギオン特有の靭帯の強度は魔剣ヴェルスタッドの一閃にも耐え、まるでゴムのようにしなって千切れる気配もなく再びうねる。切断性能が高い純斬撃属性の≪カタナ≫や高出力の≪光剣≫ならば一撃で切断も可能かもしれないが、魔剣ヴェルスタッドでは一撃で切断は難しい。

 ならばとユージーンは左手で触手を掴んで引き寄せようとするが、掴まれるとサクヤはその触手を縮めて引き寄せる。背骨のような触手は靭帯同士を繋げる関節が鋸の刃の役目を果たし、ユージーンの掌を削る。籠手で守られていたとはいえ、その高速の鋸攻撃に耐えられるはずもなく、ユージーンの鮮血が触手を染める。

 途端にサクヤの動きが止まる。触手の1本に滴るユージーンの血に魅入られたように右手で滴る血を受け止めた。

 

「ああ、とても良いニオイ。疼くじゃないか。お前を殺せば……少しは満たされるかもしれない!」

 

 サクヤの双眸が妖しく色めき、伸びた犬歯を剥いて襲い掛かる。右手の爪を振るい、ユージーンが避けたところに頭上から4本の触手を殺到させる。それらを躱し、ユージーンは≪剛覇剣≫が使用可能になった事を確認するとエンチャントしようとして、その手をギリギリで止める。

 確かに≪剛覇剣≫を使えば触手のガードを使われてもサクヤごと斬り払うことができるだろう。だが、それはサクヤを『レギオンとして始末する』と選択することに他ならない。

 

(どうすれば良い!? どうすればサクヤを正気に戻せる!?)

 

 徐々にであるが、レギオン特有の不可解な程に精度が高い先読み能力を発揮し始めたサクヤの触手が逃げ回るユージーンを掠め始める。触手の精度も上がり始めている以上は時間的猶予はない。

 方法は2つ。サクヤを斬るか、それとも戦闘続行が不可能な状態に追い込んで捕らえるか。

 まるで猛獣への対処だ。ユージーンは血を求めて舌なめずりするサクヤに歯ぎしりする。

 どうするべきかは分かっている。サクヤが仮にレギオンに蝕まれているならば、これは彼女の意思ではない。気丈に振る舞い、誇り高く、屈することなくDBOにおける狂気の流れに抗っていた彼女が殺しを渇望する……血に酔った獣であるはずがない。

 だから何だ? 今のサクヤの姿が全てだ。たとえ、ユージーンが知るサクヤは理知的で、人殺しを是とせず、大ギルドの支配にも抗う誇り高さを持っていたとしても、今ここにいるのは血を求めるケダモノだ。

 斬れば終わる。斬れば『悩む必要ない』。ユージーンを諦観が甘く誘う。だが、彼はそれを振り払う。

 ずっと『力』を求めてきた。理由もなく、ただ強くなりたいからというガキのような夢のままに『力』を欲していた。そして、走り続けた先でDBOにたどり着き、ランク1というクラウドアースが準備した道化の王冠を得た。

 

 

 だが、それでも……それでも、そこには祈りがあったのだ。『ランク1』という王冠に誇りを持てと言ってくれた人がいたのだ。

 

 

 4本の触手が絡み合い、1本の槍となってユージーンの胸部を狙う。それを両手で握った魔剣ヴェルスタッドの振り上げで弾く。STR出力を瞬時に最高まで引き上げた一閃は意識を暗ますほどの頭痛を生み、それでも彼は耐え抜いて1歩目を踏む。

 月光が眩しい。血のニオイが意識を引っ掻く。魔剣ヴェルスタッドの重みがこれまでの『力』を求め続けた歩みが意味のないものではなかったと語ってくれる。

 接近を許したサクヤは右手の爪を振るう。ユージーンの喉を狙った一撃は狙いが逸れて彼の顔を傷つけ、真新しい血が飛び散る。サクヤの目が無邪気とも思えるほどに煌くのはレギオンとしての血の悦びか。だが、ユージーンにはそんなもの関係なかった。

 魔剣ヴェルスタッドを掲げる。後は振り下ろすだけだ。もはや鼻先の距離だ。外すことはない。その重き一撃はサクヤを脳天から両断するだろう。

 これで良かったのだ。ユージーンは『ランク1』に祈りを捧げてくれたサクヤを思い出し、小さく微笑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、鐘の音が響き、発動した中回復がユージーンを……そして、密着状態で効果範囲内に含まれたサクヤのHPを回復した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何が起こったのか信じられない。そんな様子で呆けたサクヤに、ユージーンは『ランク1』らしく不敵に、不遜に、傲慢に笑う。

 

「……お前」

 

「全プレイヤーの希望になってこそ『ランク1』だろう? ならば、オレは貴様の希望だ。血の悦びがなんだ。血化粧が少しばかり似合うようになっただけだ。『ランク1』がその程度で惚れた女を見捨てると思ったか?」

 

 鼻を鳴らし、サクヤの顔に貼りつく黒い前髪を左手で摘んで払う。

 最初から『答え』は決まっていたのだ。『ランク1』が彼の『答え』だったのだ。ならば、すべきことは折れることなく、たとえ道化の称号だとしても、羨望と嫉妬の分だけ不遜なる最強の傭兵として全てのプレイヤーの『希望』であり続ける事。それがユージーンの『答え』だ。

 

「貴様にはやる事がたくさんある。クラウドアースの戦力を借りる為にレコンが随分と無茶をしたのだ。フェアリーダンスはクラウドアースの保護下にはなるだろうが、自主性を失わないように、オレも手を貸そう。そこからは貴様の仕事だ。再び中立を奪い返してみろ」

 

 血塗れの左手を差し出すユージーンに、サクヤは瞳を震わせ、伸びた牙を鳴らし、4本の触手を痙攣させる。

 

「あぁアァ……アァアああああアアああああああああああ!」

 

 暴れ回る触手が周囲を破壊していく。木々をなぎ倒し、地面を抉り、空気を触手が飛び散る血で汚す。右手で頭を抱え、叫ぶサクヤをユージーンは不動の姿勢のまま、救いの左手を差し出したまま、自分が触手で刻まれることも厭わずに彼女の前にあり続ける。

 やがて、全ての触手が地面に落ちる。虚ろな眼をしたサクヤはぼんやりとユージーンを見つめる。

 

「帰るぞ、サクヤ。貴様のギルドに……フェアリーダンスに」

 

 サクヤは震えた右手を伸ばす。それが触れるより先にユージーンは左手で彼女の細い右手を掴んで引き寄せた。

 

「私は……私は……お前を殺そうとした。今も、殺したくて、堪らない。消えない。消えないんだ。飢えと渇きが……私を……私を……」

 

 胸に飛び込んたサクヤの聞いたことが無い弱々しい声に、ユージーンは瞼を閉ざす。

 

「フン。その程度を受け入れずして何が『ランク1』だ。そうだろう?」

 

「お前……本当に、大馬鹿者だ」

 

 サクヤの嬉しそうな嘲いに、ユージーンは馬鹿でなければ『ランク1』が務まらないと胸を張る。

 そのままサクヤの体から力が失われ、ユージーンにもたれ掛かる。気を失ったのだろう。背中から伸びる触手は動く気配はない。ともかく治療が必要だろうとユージーンはサクヤの左腕にバランドマ侯爵のトカゲ試薬を打ち、止血包帯を巻く。

 レギオン化した経緯はサクヤが気を取り戻してから聞き出すしかない。出来れば逃げたロザリア、もしくはラミアを追跡したいが、今はサクヤが優先だ。

 

(シリカはまだアルヴヘイムについて隠している節がある。それに奴は何故かレギオンに求婚されていた。何か情報を持っているかもしれんな)

 

 ならばシリカとの合流が最優先だろう。ユージーンがそう方針を決定した時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い翼と共に『恐怖』が舞い降り、世界は狂気で塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは漆黒の肌を持つ、白いロングスカートのワンピース姿をした少女だった。淡く発光する白髪を靡かせ、背中から文字化けした数字やアルファベットの集合体である黒い翼を生やしている。それは着地と同時に分裂し、8本の異形の触手へと変貌した。

 恐ろしい。ただ……ただただ恐ろしい。心を屈服させるような恐怖の塊。赤い瞳を輝かせ、少女はまるで貴族の礼儀のようにスカートの裾を手に取ると会釈した。

 

「こんばんは、ランク1。今日は良い月夜ね♪」

 

 HPバーの上には本来名前を示す文字列があるはずだ。だが、そこも文字化けしており、漆黒の少女の正体は分からない。だが、ユージーンは直感する。

 コイツが……コイツこそが、レギオンの女王! 右手の魔剣ヴェルスタッドを突きつけ、左手で背負うサクヤが落ちないように支えながら距離を取ろうとするも、それよりも先に、文字通り目にも止まらぬ速度で、あるいはユージーンのフォーカスロックを欺く……ある傭兵が最も得意とする動きで接近されてしまう。

 今にもキスが出来そうな距離で少女に見上げられ、ユージーンは完全に対応が遅れた自分の死を悟る。だが、恐怖の塊のような少女は嬉しそうに満面の笑みを作ってユージーンの頬に口づけするだけだった。

 ふわりと触手を羽ばたかせて浮いた少女は可愛らしくウインクすると右手で指揮を執るように振るう。するとサクヤのレギオン化が巻き戻るように触手が消え、爪と牙が縮み、目元の浮かび上がっていた血管は薄れていく。

 

「その子は新型の感染が既にステージ3に移行している。ステージ2までなら精神崩壊するかもしれないけど私の力でレギオンプログラムを完全抑制してあげる事も出来た。でも、もう私でも侵蝕は止められない。だけど、レギオン化の変異を外見だけでも隠してあげることはできる。でも、それもステージ3まで。ステージ4に移行すれば、飢えと渇きに彼女の人格は完全に侵蝕される。そして、ステージ5……感染最終段階になれば、もう完全なレギオンよ。どんな姿になるかは最後のお楽しみね」

 

「……サクヤは元に戻れないというのか。救いはないのか!?」

 

 明らかな元凶に救いの手立てを尋ねねばならない。ユージーンは屈辱を噛み締めながらも、『ランク1』ではなく『ユージーン』の安いプライドの為にサクヤを救う手掛かりを失う事は許されないと言葉を乗せる。 

 

「さぁ? それは『救い』とは何たるかによるわ。でも、あなたにも彼女にも『時間』こそが今は『救い』になるのではないかしら? それにステージ3からステージ4への移行過程は私もデータが無いから断言できることは無いし、上手く抑制できれば死ぬまでステージ3のまま……劣化しているとはいえ、想像も絶する殺しへの飢えと渇きに苦しみ耐え続ければ、彼女の人格を辛うじて保てるかもしれない。アドバイスするならば、彼女を刺激から遠ざけなさい。戦いや殺し、血の香りから遠ざけなさい。そうすれば侵蝕を遅らせることができるでしょうね。後は彼女の精神力とお前の献身次第よ。彼女が『獣』に堕ちないように支えてやりなさい」

 

「待て! 貴様はどうして……」

 

 話は終わり。そう言うように漆黒の少女は背中を向け、触手を再び黒い翼に変じさせる。だが、ユージーンはそれを追いかけるように声をかけた。 

 漆黒の少女がレギオンの元凶ならば、レギオンであることを抗おうとするサクヤには早急にレギオン化してもらう事こそが最良のはずだ。助けを求めたユージーンが思うのもなんであるが、明らかに矛盾している。

 

「う~ん、そうね。自分の甘い見通しの後始末ね。それと、あなたみたいな大馬鹿は嫌いじゃないだけよ。まさかレギオン化した女を受け入れるだけじゃなくて、その愛で劣化しているとはいえ殺戮本能を鎮化させるなんてね。忌々しいけど、あのストーカーにしても愛って本当に偉大だわ。愛こそが最大の狂気。だからこそ、レギオンの王のアガペーはいずれお前たちを殺し尽くすでしょうね」

 

 黒い翼を羽ばたかせ、月夜に舞い上がった漆黒の少女は月を愛でるように右手を伸ばし、やがてユージーンを見下ろしながら笑顔を咲かせた。

 それは狂い果てた残骸。この世で最もおぞましい『何か』の鏡映し。それ故に、不完全でもユージーンは感じ取ってしまう。『これは人類を滅ぼし尽くす為だけの存在なのだ』と。

 

 

「でも、安心しなさい。私もレギオンの王と同じようにお前たちを愛してるつもりよ。だって、お前たちが祈ったのでしょう? 呪ったのでしょう? 神であれ! バケモノであれ! そう願ったのでしょう!? だから救ってやるわ! お前たちを1人でも多く救ってやるわ! 私のやり方でね! クヒャヒャヒャ!」

 

 

 

 月光を覆いつくす黒い翼で加速し、漆黒の少女は夜の闇に消える。残されたユージーンは元の姿に戻ったサクヤを背負い直し、右手に握る魔剣ヴェルスタッドを見つめる。

 外見だけ戻ったとしても、サクヤの中では今もあの狂気が燻ぶっているならば、自分には何ができるのか。そして、これから何をすべきなのか。この剣で選ぶべきなのは何なのか。

 それは『答え』の先の物語なのだ。

 

 

▽    ▽     ▽

 

 

(とんでもない失態だわ。尻尾を巻いて逃げるだけじゃなくて、ゴーゴンを1体失うだけではなく、もう1体を暴走させてしまうなんて。それにサクヤの対処も何とかしないと)

 

 この失態は今後のポジション争いどころか首に関わることだ。点数稼ぎどころの話ではない。

 急ぐロザリアは間もなくと迫ったユグドラシル城に続くワープリングを覆い尽くす黒色によってブレーキを余儀なくされる。

 

「『ロザリア』、私ね……怒ってるの」

 

 文字化けした数字やアルファベットが雪のように舞い落ちる黒い翼。漆黒の肌で煌く幾何学模様。多重の円が重なり合った赤い瞳。まるで月光を映し込んだような淡く発光する白髪。白いワンピースは夜風の形を表すように靡く。

 恐怖する暇もなく、ロザリアの首をマザーレギオンの右手がつかむ。そのまま潰され、首を千切られるかと思ったロザリアであるが、絶妙な力加減によって呼吸が辛うじてできる程度の苦しみが発露する。

 だが、それ以上におぞましいのはマザーレギオンの掌より皮膚を、肉を、骨を……その内に流れる自分の根源とも呼ぶべき髄を舐められる。

 レギオン化させられる。それもサクヤのような『馴染ませる優しいやり方』ではなく、ただレギオンプログラムに貪られて自分の根源を貪り尽くされる、最大にして最悪のおぞましいやり方で。それを理解し、ロザリアは泡を吹き、痙攣して白目を剥くが、気絶することを許さないようにマザーレギオンは首を絞め直す。

 

「私は言ったはずよ。お色気担当は大事に扱ってね……って言ったはずよ。それとも、お前にとって大事にするっていうのはこういう事なの? それならそうと言いなさいよ。すぐにでもお前をレギオン化させてやるわ」

 

「や、止め……お願いします! それだけは!」

 

「……冗談よ。お前はレギオンにする価値もないわ。でも王様みたいに面白くもないし、このままゴミを放置しても目障りよね。どうしようかしら? レギオンの王だったら問答無用で斬ってるわね。お前みたいな屑でも『人』として殺してくれるわ。食べてくれるわ。愛してくれるわ。だけど、私はそんなに優しくないの。だからお前に選択肢をあげる。私の駒になるか、それとも――」

 

 もう1つの選択肢を伝えられるより先にロザリアは目先の生存の為に瞼を何度も開閉して了承を訴える。涙で濡れたロザリアの眼に、マザーレギオンは汚らしそうに目を細めた。そして、左手の指を鳴らすと脈動する目玉をロザリアの口内に押し込む。それは軟体動物のようにロザリアの口内も潜り込み、喉を圧迫しながら体内へと入り込んだ。

 ようやく手を放されたロザリアは浮遊できず、そのまま落下する。だが、地面に激突するよりも先に黒い翼を分裂させて触手に変えたマザーレギオンが受け止める。

 

「それは実験していた遠隔起動式レギオンプログラムの『出来損ない』。獣魔化を強制発動させ、お前のアバターを醜く変形させるわ。それ以外は何もない。まぁ、そこそこ強い設計だから簡単には死なないだろうけど、それこそがお前の地獄の檻になる。意味が分かるわね?」

 

 咳き込むロザリアは何度も頷く。マザーレギオンの機嫌を損なえれば終わりだ。自分は『意識も精神もそのまま』醜い怪物にさせられるのだ。ただプレイヤーに狩られる時を待つだけの存在に成り果てる。

 

「お前のせいで私の作戦が狂ったわ。折角、お色気担当は大事に保管してあげて、事態が落ち着いたら妹様の所に返してあげるつもりだったのに。ステージ2なら確実に私の力でレギオンプログラムの侵蝕を抑制できた。廃人同然だろうけど、それでも適切な治療をじっくり根気強く続ければ回復の芽もあっただろうし、私も最大限にサポートするつもりだったのよ? なのに、お前のせいで全部台無し」

 

 顎を蹴り飛ばされ、後頭部から地面に激突して毬のように何度も跳ねながら大樹に激突したロザリアは謝罪の言葉を述べようとするも、飛来してきた黒い羽が首筋を埋めていき、言葉を呑み込む。

 

「王様も王様よ。こんなゴミにお色気担当を預けるなんて、面白いけど先見性と部下の管理能力が無さ過ぎ。まぁ、それも含めて面白いんだけど。ほら、ロザリア。起きなさいよ。お前にはこれから馬車馬よりも働いてもらうわ。ボロ雑巾になっても殺してなんかあげない。死なせてもあげない。醜い怪物になって死にたないならいつでも叶えてやっても良いけど、お前みたいなタイプにはレギオン化よりも苦痛でしょうね」

 

 触手で無理矢理立たされたロザリアは何がどういうことなのか尋ねようとして、マザーレギオンの物言いから1つの推測をなり立てる。

 もしかしたら、ティターニアの脱走にはマザーレギオンが1枚噛んでいるどころか主犯なのではないだろうか。そして、妹様という渾名から推測できるのは【黒の剣士】の妹であるリーファが最有力だ。

 本来ならば、すぐにでもマザーレギオンの裏切りをオベイロンに報告しなければならない。だが、既にロザリアの心は折られ、恐怖のままにマザーレギオンに屈し、ただただ生き延びたいという無様な生存欲求の犬となっていた。

 

「正妻の捜索部隊はお前に一任されていたわね。今後は何があっても『成果は得られなかった』と王様に報告しなさい。それから今回の『損失』は、王様には私から伝えておく。お咎めは無いように調整もしておくわ。お前にはこれからやってもらう事があるのだから、王様の従順な犬を演じてもらう必要があるの」

 

「や、やる事は何でしょうか? マザーレギオン様の為、このロザリア――」

 

「世辞もおべっかも大嫌い。嘘だらけで反吐が出る。次にそんな発言したら『発動』させて終わりつつある街の周辺草原に放ってやるわ。痛覚遮断を切って、無駄にHPだけ多くして、お前は生きながらにソードスキルの的にされながら、じわじわと殺されるのよ。そうなりたいなら言葉を選ばなくて良いわ」

 

 フィンガースナップをしようとするマザーレギオンに、ロザリアはごくりと喉を鳴らして唇を噛む。それに満足したように、漆黒の少女は8本の触手を黒い翼に変じさせる。

 

「ほら、仕事しなさいよ。頑張って働ければゴミからリサイクルゴミに格上げしてやるわ。ここに妹様の居場所の情報があるわ。陰から妹様を援助しなさい。言っておくけど、レギオンは何処にでもいる。お前を見ている。少しでもお前が怪しい真似をすれば、1秒の猶予も与えないで『起動』する。分かった?」

 

 頷くロザリアに、マザーレギオンは折り紙の黒鶴を投げ渡してワープリングを潜り抜けてユグドラシル城に消える。余りにも杜撰な命令であるが、まずはリーファの狙いが何なのかを把握し、その為に全力を尽くすことだけが今のロザリアの生きる道だ。

 後継者様の所で駒をやっていた方が将来は安泰だったかもしれない。ロザリアは今頃になって後悔して啜り泣いた。




ロザリア、難易度:ボロ雑巾
そしてユージーンはまだ難易度ハードのままです。彼の戦いはまだ続く。なお、約束されたシリカの苦労。

それでは、266話でまた会いましょう。

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