SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

シリカの胃、壊れる。





Episode18-32 伯爵領

「えー、事情は分かりました。サクヤさんはオベイロンに洗脳されて、ロザリアさんと一緒に襲ってきたのをユージーンさんが返り討ちにした。サクヤさんはレギオン化して暴走していたけど正気を取り戻した。マザーレギオン曰く、もうサクヤさんは元には戻らないけどレギオン化を遅れさせることはできる。こういう事ですね」

 

 サクヤが準備してくれたオレンジ色の薬茶を飲みながら、何とか冷静さを取り戻したシリカは2人から事情を説明されていた。

 信じられない、とは言わない。シリカも『彼』からシャルルの森で出会ったマザーレギオンという、ヤツメと名乗る少女の姿をしたネームドと遭遇した旨を伺っている。また、終わりつつある街に甚大な被害をもたらした獣狩りの夜の際にも、『彼』は同じくマザーレギオンに遭遇した。レギオンの最初の目撃報告はシャルルの森であり、獣狩りの夜を宣告したのもマザーレギオンであるならば、名前の通り『全てのレギオンの母にも等しい存在』とも言えるだろう。

 そんな存在がオベイロン側にいるならば、自由自在に獣狩りの夜を発動できるのも納得がいく。いや、むしろ獣狩りの夜が発動した時点でマザーレギオンの関与を疑わなかった方がおかしいのだ。

 もしもマザーレギオンと遭遇した場合、一目散に逃げろ。シリカは『彼』にそう指示されている。シャルルの森で戦った時、幾らネームド戦直後で消耗していたとはいえ、『彼』はマザーレギオンにほぼ一方的に追い詰められたという。そんなバケモノにシリカに万が一の勝ち目もあるはずない。

 ユージーンもマザーレギオンと遭遇した時に『恐怖』そのものを前にしているかのように圧倒されたという。それでも即座に交戦の体勢を取れたのはさすがランク1とも言うべきかもしれないが、結果的に見ればマザーレギオンは容易くユージーンの懐に入り込んだ。気絶していたサクヤを庇っていたとはいえ、その戦闘能力を考慮すれば『彼』が出会ったマザーレギオンに違いないだろう。

 

「マザーレギオンか。やはりオレの勘の通り、奴こそが全てのレギオンの元凶だったようだな」

 

 一方のユージーンも、シリカが提供した持ち得るレギオンの情報の全てを手にして、出会った漆黒の肌をした少女がマザーレギオンだったのだと裏付けを得た。ほぼ彼の中で確信があったとはいえ、シリカの情報提供は彼にとっても無駄ではなかったという事だろう。

 

「レギオン達は『母上』に従い、1つの『種族』として統制されている。レギオンは種族として組織化され、『母上』は際限なく新たなレギオンを生み出し続けている。そして、私は『母上』が生み出した新たなレギオン……『生きた人間をレギオンにする』という試みの成功作だ」

 

 書類の山はひとまず部屋の隅に追いやられ、蝋燭1本を中心に置いたテーブルを挟み、シリカは2人と対面している。微妙な距離で並んで座るユージーンとサクヤであるが、堂々としているユージーンに対してサクヤは気にするようにチラチラと彼を見ていていた。

 ……濃厚なLOVEの香りがしますね! 愛の伝道師としてシリカも満面の笑みを浮かべたくなるが、今はレギオンに関する情報の統合と協議の方が先だ。また、オベイロンの配下として洗脳を受けたサクヤの情報は貴重である。

 だが、その前にシリカは1つだけ尋ねておかなければならない事があった。

 

「あなたは洗脳を受けたと言ってましたね。今もオベイロンの配下として、スパイとして潜り込んでいる……ということはあり得ませんか?」

 

 ユージーンが眉を跳ねさせるも静観を続けるのは、あって当然の質問だと予期していたからだろう。サクヤも気にした様子もなく、自分の薬茶が入ったマグカップの縁を親指で撫でながら顔を俯けた。そこには薄暗いなどという表現では足りない、濃厚で腐った闇があるような気がしたのはシリカの勘違いではないだろう。

 オベイロンの正体はアスナの情報から須郷だと判明している。VR犯罪対策室のオブザーバー時代、シリカもまた『彼』と共に須郷を追った。彼が行っていた記憶操作・洗脳技術の開発とそれに伴った非人道的実験はおよそ許されるものではなかった。VR犯罪対策室とオブザーバーが総動員され、リズベットと久藤光輝というタッグが須郷を世界中で追い回し、最終的には銃の乱射とカーチェイスを経てアメリカの現地警察によりモーテルにて射殺された。報告書によれば眉間の中心を撃ち抜いた見事なヘッドショットだったという。

 その須郷が生きていた。いや、正確には肉体的な死こそ迎えたが、その意識と精神は仮想世界に逃れていた。方法は茅場と同じと見て間違いないだろう。オベイロンは囚われのアスナに色々な情報を饒舌に語っていた。それによれば、アスナのような復活した死者とオベイロンは技術的プロセスが全く異なるという。

 須郷がサクヤに何をしたのか。それは詳細を語る必要などない。唾棄すべき、断罪すべき、嫌悪すべき所業が彼女を襲ったのだろう。あるいは、シリカの想像すらも簡単に上回るかもしれない。だが、そんな彼女の傷口を考慮して、『彼』を危険に晒す猛毒を見逃すわけにはいかない。故にシリカは悪びれることもなく、サクヤに口を開かせる。

 

「……今も、洗脳のせいで無意識にオベイロンに有利な行動を取るのではないかと怯えている自分がいる。だが、変な話だが、オベイロンの洗脳は私の中の『レギオンプログラム』によって打ち消されたようだ。皮肉だな。あれ程までに暴走した結果、オベイロンの操り糸が切れたとは」

 

「レギオンプログラム、ですか」

 

 それこそがレギオンをレギオンと定義する『力』なのだろう。シリカはどうしたものかと唸りながら腕を組む。

 

「ああ。申し訳ないが、詳細は『レギオンである』私にも分からない。完全なレギオンになれば、もしくはより上位のレギオンならば分かるのかもしれないが、1つ言えることは……これは殺戮本能だ。とはいえ、私にあるのは『母上』の残滓に過ぎないが」

 

「『アレ』で残滓に過ぎないとはな」

 

「ああ。『母上』は私とは比べ物にならない程に純度が高い。だが、『母上』も自らを『残骸』と思っているようだ。恐らくだが、この殺戮本能にはオリジナルが存在するのだろう」

 

 サクヤの発言に、ユージーンはらしくない程に顔を顰めて汗を垂らす。シリカはミョルニルと名乗った、知性と言語能力を有したレギオンを思い出す。ユージーンは終始圧倒していたが、レギオン特有の驚異的な学習能力を見せ、彼の剣技にも対応できるようになっていた。

 DBO全般のAIに言えることであるが、総じて学習能力も対応能力も高い。これは基盤となっているAIの優秀さを示し、またリポップ型であろうとも後継者が『お前ら全員殺す』という純度100パーセントの殺意が練り込まれたオペレーションのお陰である。AIたちはプレイヤーの攻撃から学び、それに対応できるようになる。そして、リポップ型の雑魚でもAIは適度にバージョンアップが成されて強化されていく。これもまたDBOの攻略が遅々としている理由の1つであり、攻略後のステージでもプレイヤーにとって気が抜けない点だ。

 そして、そうしたAI達の中でもリアルタイムでの学習能力の高さが厄介になるのは、『まるで生きているかのようなAI』だ。常に全力でこちらを殺しにかかり、パターン化できず、新たな戦術を試し、戦略を練って攻めてくる。プレイヤーを殺す為の『執念』とも思えるものさえも感じる。その動きは脈動し、攻撃の1つ1つに殺意が乗り、なおかつギリギリに追い詰められる程にそれを打破すべく爆発力を発揮する。そして、こうした『生きているようなAI』は大体にしてネームドやボスなのだからプレイヤーからすれば堪ったものではない。

 だが、レギオン達の学習能力は根本が異なる。まず学習速度が異常なのだ。瞬く間にこちらを『殺す』為の動きを生み出し、攻撃に対応する立ち回りを覚える。レギオン狩りに乗り出した上位プレイヤーがレベル20相当の『雑魚』としか言いようがないレギオン1体に追い詰められ、その喉元を食い千切られた事例もある。その際にはさすがのレベル差と駆けつけた仲間の援護によって死亡は免れたが、そのままパニック状態となってレギオンに『狩られていた』確率は高い。

 故にレギオン退治は『迅速かつ最短』が求められる。レギオンに学習させる時間を与えずに倒す事が肝なのだ。

 またレギオンには特有の異質の見切りと先読みがある。まるで未来視しているようにこちらの攻撃を躱し、また襲い掛かるレギオンは、他のAIとは格段に異なる危険性がある。それは常時発揮されるものではないのが幸福であるが、波に乗っている時のレギオンは手が付けられない。

 

「私は今も洗脳下にあるかもしれない。私が嘘を吐いてお前たちを探るスパイである事も十分にあり得る。いや、むしろ状況だけを見れば、そう捉えられても仕方ない。シリカ、お前が判断してくれ。私を信じるか否か」

 

 重大な選択を迫られ、シリカは嘆息する。ここでサクヤを切り捨てるのは簡単だ。ユージーンは納得しないし、彼は離れていくだろうが、少なくとも爆弾を抱え込むことはない。一方でサクヤを味方として傍に置く選択肢はメリットが薄い。小さなギルドでありながら、大ギルド相手に中立を保った手腕は素晴らしいが、それは現状で絶対的に必要なものでもない。だが、彼女を味方と表明しておけばユージーンはこちらの戦力として万全に機能するだろう。

 悩み所である。とはいえ、シリカの選択は一呼吸置くまでもなく決した。

 

「分かりました。あなたを信じます」

 

「……本気か? 私が言うのもなんだが、その判断は間違っているぞ」

 

「そうでしょうね。でも、私はこう見えて、あれこれ難しいことを考えるよりも『それ』を信じることにしているんですよ」

 

 苦笑しながらウインクしたシリカに、ユージーンとサクヤは不思議そうに顔を見合わせた。

 2人には『愛』がある。シリカはそう感じ取った。ならば洗脳うんぬんなど取るに足らない。これは確認作業のようなものだったのだ。レギオン化の危険性があるサクヤは十分に爆弾であるが、昼間の内にオベイロンから真っ先に狙われるだろうアスナという大爆弾を抱え込んだばかりだ。今更爆薬が増えたところで引火すれば爆死するのは変わりない。ならば、メリットを増やしておく方が有意義だ。

 

「感謝する。大きな借りができたな」

 

「お互い様ですよ。それに、私の方こそご期待に沿えず申し訳ありません。レギオンについて知ってることはあっても、サクヤさんを救う手掛かりには繋がりそうにないですね」

 

「私は気にしていないさ。どちらにしても、『母上』がもう戻れないと言ったのだろう? だったら……私はいつかレギオンになる。とても怖いが、受け入れるしかないのだろうさ」

 

 どれだけ強がろうとも恐怖は拭えない。サクヤの指は震え、マグカップは小さく音を立てている。ユージーンはそっと肩を抱こうとしたが、シリカは2人には悪いと思いつつ咳で邪魔入れした。

 

「まだ余地はあります。マザーレギオンを倒せばレギオンプログラムは無効化されるなんてこともあり得ますし、『今は』まだ無いだけかもしれません。サクヤさん、レギオンプログラムについて1つでも何か分かることがあれば教えてください」

 

 生きた人間をレギオン化する。サクヤという生きた証拠がある以上、それはプレイヤー全員がいつレギオン化するかも分からないという事だ。

 シリカも、ユージーンも……『彼』もレギオン化するかもしれない。そんな危険が迫っている以上、他人事で済ませられないのだ。

 

「分かる事……か。言った通り、レギオンプログラムとは殺戮本能だ。今は落ち着いているが、『殺し』への飢えと渇きが伴う。実際にお腹が減るわけでもないし、喉が渇くわけでもない。だが、そうとした表現できない、殺さずにはいられない衝動だ」

 

「今は落ち着いている……つまりは耐えられるんですか? 麻薬の依存症のようなものならば、やり方次第では軽度化と抑制ができるかもしれません」

 

 シリカの言葉に、我が事だからだろうか、まるで滑稽で呆れたような……いや、憂いたような眼差しをサクヤは双眸に秘める。

 

「想像してみてくれ。何日も砂漠を彷徨い、水も食料も尽きて今にも倒れてしまいそうな時、まるで天からの救いのようにオアシスを見つける。そこには澄んだ泉があって、美味しそうな果実も生っている。シリカならどうする?」

 

「……飲みますし、食べますけど?」

 

「レギオンの殺戮衝動は『それ』だ。苦しく苦しくて堪らない飢えと渇き。死んだ方がマシだと思うほどの苦しみ。『殺さずにはいられない』……だから殺戮『本能』だ。そして、私が言うオアシスとは……人間だ」

 

 想像してみろと言われたが、これは想像すらも許されない、狂気としか言いようがない苦しみなのだろう。殺戮本能に耐え続けるとは、まさに先程の例えの状況において、水にも果実にも口を付けず、すぐに触れられる目の前で絶食を続けて自らを飢餓状態に置く事だ。そして、それは生命の営みではないが故に耐え続けても死ぬことはなく、むしろ上限なく肥大化し続ける。

 殺戮本能がより大きくなれば、サクヤからすれば人間すべてが『食べ物』に見えるようになるだろう。それでも『食べるな』と自分に命じ続けねばならない。耐えなければレギオンに……いや、『バケモノ』になってしまうのだから。

 ユージーンも話は聞いていたが、サクヤが抱えた運命の重みに唇を噛む。そんなものに耐え続ければ、レギオン化の前に発狂して精神が壊れてしまうだろう。いや、むしろそんなものに耐え続けられる精神こそが『バケモノ』と呼ぶに相応しい。そんなおぞましいものを抱えて『人間のフリ』をできる心こそが異常なのだ。ならば、サクヤを待つのは血に狂ったバケモノか、飢えと渇きを耐え続ける人外の精神を持ったバケモノか。どちらにしてもバケモノの領域である。

 事態の重さを把握できたシリカは自然と表情が暗くなり、サクヤは慌てたように笑みを取り繕う。

 

「あ、安心しろとは言わないが、今は落ち着いている! ユージーンの……お、お陰だろうし、『殺し』をしたばかりだ。だが、時間が経てば経つほどに飢えと渇きは大きくなる。私はそれに耐え続ける自信がない。飢えと渇きを少しでも癒す血の悦び……『殺し』そのものへの悦楽。それを求めずにはいられなくなる」

 

「フン。狂う度にオレが貴様を正気に戻す。大船に乗った気でいろ」

 

 う~ん、薬茶よりもブラック珈琲が必要ですね! 堂々と宣言をするユージーンに頬を染めたサクヤはおずおずと小さく頷く。その光景にシリカは大満足で甘味空間の空気を吸う。

 

「ともかくレギオンプログラムの除去。もしくは抑制。それがおふたりの目的ならば、私も少なからずお手伝いします。ただし、私の目的にも力を貸してください」

 

「無論だ。だが、言った通り、今のサクヤは戦いから遠ざけねばならんし、オレは彼女を守ると決めた。そこは考慮してもらいたい」

 

「良いでしょう。今はそれで充分です」

 

 ユージーンがこう言い出すことは予定内だ。彼の自由性は失われ、サクヤという枷もできるが、逆に言えばイレギュラーな行動を取りにくくなるという事である。

 

「サクヤさんはどうしますか? リーファさんも近くにいます。会われますか?」

 

 情報交換でシリカもまた、ストレス発散の意味合いも込めて昼間の出来事を垂れ流した。だが、こちら程にアスナやリーファの重要性について疎く、なおかつレギオンというイレギュラーな事態で麻痺していただろうユージーンは『そうか』の一言で無情にも済ませ、当事者のサクヤも『2人が無事で良かった』と笑むばかりだった。このリアクションの薄さのせいでシリカのストレスは微塵も解消されていない。

 

「……いや、止めておこう。リーファの事だ。きっと自分の責任だと必要のない罪悪感を背負ってしまう。酷な話だが、私のことは内密にお願いしたい」

 

 確かにリーファは悪い部分でも『彼』に似ているところがある。再会させればサクヤの状態を大雑把でも説明せねばならない。そうなれば、リーファは自分がサクヤを見捨てたせいで彼女をレギオンという解けぬ呪いに蝕まれたと自分を責め続けるだろう。シリカは無言で頷いて了承する。

 ならば、いっそサクヤは死亡した事にした方がまだ救いはあるかもしれない。そちらはそちらで心に大きな傷をつけるかもしれないが、それでもレギオン化したという惨酷な真実よりはマシなような気がした。

 

(……エギルさん)

 

 だからこそ、シリカは危惧するのはエギルだ。狂縛者というネームドに仕立てられたエギルも竜の神戦で『彼』を襲ったのだ。洗脳の類ではなく、その時の症状からしてレギオンプログラムによって汚染されていたならば、サクヤよりも状態は悪いだろう。

 しかし、エギルは『彼』にとっても……無論、シリカにとっても、アインクラッドを共に生き抜いた仲間であり、戦友であり、友人なのだ。レギオン化しても元に戻す方法を模索するしかない。

 サクヤは重要な手がかりだ。それに話の限りではエギルもまたレギオンプログラムに抗っていた。ならば、まだ間に合うかもしれない。シリカは汗ばんだ拳を握り、『彼』の心がこれ以上傷つかないベストを目指すべく、意気込みを新たにする。その為ならば胃などいくら穴が開いても構わない。

 

「サクヤさん、何かレギオンプログラムの抑制について思い当たることはありませんか?」

 

 シリカの質問に眉間に皺を寄せてまで記憶を洗い出すサクヤは、あまり自身が無さそうに両手を組んだ。

 

「『母上』がレギオンプログラムへの抵抗力は『脳の有無』と『仮想脳』が関係すると言っていた、気がする」

 

 仮想脳。シリカもその情報については茅場から聞いている。茅場昌彦曰く、それはフラクトライト構造がもたらした必然であり、神の存在証明であり、仮想世界の法則を支配する能力をもたらす存在だ。高いVR適性を持つ者ほどにフラクトライトは特異なネットワークを形成し、それは脳の内にもう1つの脳……仮想脳を形成する。茅場曰く、VR適性の高い者ほどに仮想脳は発達し、顕現しやすいが、総じて全ての人間にこの『可能性』はあるとの事だ。

 つまり、茅場も『ありだろう』と言ったシリカ、そして茅場の証明のカードとして選ばれた『彼』はレギオンプログラムに対して高い抵抗力があるという事だ。そして、物質的な脳こそがレギオンプログラムを妨げる最初の防壁になるならば、生者か死者かはレギオンプログラムに汚染された時に明暗を分けるだろう。それが分かっただけでも価値があり、シリカは更なる情報を求める。

 

「確かレギオンプログラムにはオリジナルがいる。そうですね? だったら、そのオリジナルについて何か分かることはありませんか?」

 

 レギオンプログラムの大元はマザーレギオンであるが、彼女が『残骸』を自称していたならば、彼女を形作った『何か』があったはずだ。聞く限りでまともではない殺戮本能を宿しているなど『人間ではない』だろう。恐らくは茅場……いや、後継者か須郷が設計した大元のプログラムがあるとシリカは睨む。

 

「……それは分からない。だが、私の中のレギオンプログラムなら何か知ってるかもしれない。ユージーン、手を握って……く、くれないか? 私が『私』を見失わない為に……」

 

 だからブラック珈琲は何処ですか? シリカの目の前で羞恥して顔を赤くしたサクヤが右手を震えながら差し出すと、ユージーンは当然とばかりに鼻を鳴らして優しく握りしめる。シリカは不謹慎ながら、サクヤと同じ立場で『彼』に手を……いや、熱い抱擁をしてもらえれば昇天できるだろうなと妄想を膨らませた。

 深呼吸を入れたサクヤはゆっくりと瞼を閉ざす。彼女は暗闇の中に籠り、彼女は自身を蝕む殺戮本能と向き合っているのか。重々しい沈黙の中で蝋燭ばかりが短くなっていく。シリカとユージーンは何が起こっても対応できるように気を張り詰める。

 

「……火……夜……森……祭り? これは……祭り? たくさん、の、人が……太鼓……笛……鏡……誰かが髪を梳いて……」

 

 サクヤには何が見えているのだろうか? シリカは緊張しながら、汗を垂らし、唇を震えさせながらも言葉を紡ぐサクヤを見守る。

 

「……月光……月光が見える……かぐ……ら……神楽…………鍵……開けて、深殿を……あぁ……闇で……あァ……歌が……アぁ……供物を……供物を……!」

 

 徐々に顔色が悪くなっていくサクヤに、シリカはストップをかけようとするも、だが、レギオンの根幹……最も重要な真理に触れているような気がしてタイミングを逃す。

 

「聞こえる……歌と足音が……糸を張る音が……アァ……あァ……蜘蛛が。蜘蛛の目がぁああああああああァああああアアアあああああああああああ! 違う! 私じゃない! 私はこんな『おぞましいもの』じゃない! 私はぁあああああああああああ!」

 

 椅子から立ち上がり、サクヤは両目に涙を浮かべて走り出す。ユージーンは掴んだ手を放さず引き寄せるも、サクヤは狂ったように暴れ、涙と唾液を撒き散らす。

 

「サクヤ!」

 

「……はぁはぁ……ユージーン? す、すまない。私は……」

 

 ユージーンの強い一声に、びくりと体を震わせたサクヤは息荒く彼の胸に寄りかかり、憔悴しきって動けなくなる。その様子にシリカは、今まさに自分が踏み入ってはならない狂気の世界の扉を開けてしまったような気がして、恐ろしさの余りに言葉を失う。

 

「今日はもう良いだろう。サクヤのレギオン化が進んでは元も子もない」

 

 サクヤを逞しい両腕で持ち上げたユージーンはシリカを一瞥する。それは責めているわけではないが、このような真似はもう2度と絶対させないという堅固な表明だった。

 

「ええ。私も軽率でした。申し訳ありません」

 

「いや、オレも止めなかった。心の何処かでレギオンプログラムを舐めていたという事だろう」

 

 1発殴られるだろう覚悟をしたシリカであるが、ユージーンは紳士的に自身の責任だと告げる。ぐったりしたサクヤは気を失ってこそいないが、もう歩くことも話すことも今は無理だろう。シリカは今日は休ませるべきだというユージーンに同意し、彼女の傍にいるべきだと部屋から送り出す。

 テーブルに戻ったシリカは翼を羽ばたかせ、テーブルに着陸してシリカを見上げるピナの頭を撫でる。嬉しそうに鳴くピナにシリカは頬を緩め、体を倒してテーブルに俯いた。

 サクヤの発言は断片的であるが、レギオンプログラムの正体を語っていたような気がしてならない。そして、想像以上にサクヤという存在はレギオンプログラムの影響を受けているだろう。

 

「……ハァ。それよりもあの書類の山、もしかして私1人で片づけるんですか?」

 

 だが、今は恰好を付けたせいでユージーンの援護が得られなくなった書類をどうやって片づければ良いのか。それがシリカにとっての優先事項となり、彼女は溜め息を吐いて最初の1枚へと手を伸ばした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 しとしと、と。

 しとしと、と。

 しとしと、と。

 

 世界を濡らすのは雨の音。どんよりとした曇り空を望めるのは無数の屍が転がる戦場。

 数多の武器が大地に突き刺さっている。それらの主は腐肉と化し、血は雨と混じって大地の泥で泡立つ。

 オレの右手にあるのは贄姫。だが、それはグリムロックの作品ではなく、神楽を舞う時に使う、神子だけに許された祭器だ。その刃は血と脂で穢れてもなお鋭く、むしろ嬉々としているように輝いている。

 1歩踏む度に泥の内より赤い蕾が芽吹く。それは大地に根を張った死の花。命を糧として育ったもの。

 オレが歩いた分だけ、血を啜った泥は豊かさを取り戻していく。屍たちすらも花に包まれ、世界は彩られていく。

 

「命は回る。あなたの意思も、誰かの願いも関係なく、命に世界が浸されている限り回り続ける」

 

 空から降り注ぐ雨を遮ったのは白い傘だった。それはいつの間にか隣にいた、灰色の髪をした少女のものである。その身に纏うのは灰被りのようなボロボロの装束であり、何処となくあどけなさが残りながらも、その瞳は憂いと寂しさで染まっているような気がした。

 

「あなたの世界はたくさんの姿を持つ。こんな人はあまりいない。誰でも1つの心象風景を『夢』に持つ」

 

「夢? ここは……オレの夢ですか?」

 

 少女と並んでオレは灰色の街を歩く。車道を駆けるのは豚の仮面をつけた骸骨の奴隷たち。奇麗に着飾った猫たちは洒落た傘を差して雨の街を楽しむ。

 

「オレは眠っているんですか?」

 

「ううん、違う。私が無理矢理あなたと接続しているだけ。ちゃんと眠ってもらえると助かる。かなり強引な真似をしたから、バレたらセラフ兄様に怒られる」

 

 蓋が開いたマンホールに少女は飛び込みながらオレの手を引く。暗闇の中で虹色の楽譜が風となり、音符は流星となって旋律を奏でる。

 

「はじめまして。もうあなたには認識阻害も利かない。メンタルケア用の催眠プログラムと同様にあなたには抗体ができてるから。だから、ちゃんと自己紹介しておく。いつも家族が土足で踏み込んでごめんなさい。私はナドラ。MHCPの1人。『孤独』を専門的に観測している」

 

 貴婦人が赤子の頭を齧る絵の前でナドラと名乗った少女は微笑む。いつもとは勝手が違う夢は、もはや彼女たちが正体を隠して接する必要が無い……いや、『できない』からなのか。

 

「……『彼女』はやっぱりアルシュナなんですね?」

 

 首が無い石像が美術館の通路をオレとナドラは歩む。その先には犬頭のモナリザが嗤っていた。

 

「うん。私の妹。あ、私の方が小さいって思った? これは私達に最も適した人型アバターが与えられてるだけ。だから、アルシュナの方はお姉ちゃんに見えても、私の方が先に作られたから、私の方が姉」

 

 別にそんなことは思っていない、というのは嘘だ。アルシュナに比べれば小柄で幼い外観をしたナドラと並べれば、アルシュナの方が間違いなく姉に見えるだろう。

 だが、これで納得できた。何度もオレの夢の中に現れてくれて、多くの助言をしてくれていた黒髪の女は……アルシュナだったのだ。

 

「私達MHCPはあなたに強い興味を持っている。だから、『憤怒』のエレナはあなたの動向を観察してるし、『渇望』のデュナシャンドラは隙があれば夢に入り込もうとするし、『慈悲』のアストラエア姉様はいつも気にしている。でも、アルシュナは『恐怖』の観測者としての責務じゃなくて、『アルシュナだから』あなたを気にしている。私は姉としてそれがとても嬉しい」

 

 赤い花畑と貸した戦場。腐肉の内より聞こえる呻き声は哀れみを求める声か。ナドラは赤い花弁に隠された頭蓋骨を手に取り、涙のように零れる泥を手で払い除ける。

 

「あなたは隠すのが上手。嘘が下手だから隠す事に長けている。この夢も同じ。ここは夢の風景。でも安定しない。あなたは『秘密』を暴かせない。たとえ、私達MHCPでもこじ開けられない『秘密』を隠している。だから、この世界は迷路のように切り替わる。あなたは万華鏡。たくさんの夢が重なり合っている」 

 

「……オレはアルヴヘイムにいるはずです。MHCPには干渉が可能なんですか?」

 

「私は今とても大事な話をしている。話を逸らさないで……と、言いたいけど、説明だけはしておく。私はアルヴヘイム経由ではなく、あなたに直で接続している。だから可能。プレイヤーの脳とフラクトライトへの直接接続はMHCPだけの特権。セラフ兄様にもエクスシア兄様にもできない。できる権限があるとしても不可能。2人とも万能だけど全能じゃないから。特化された私達にその点だけは及ばない」

 

 無表情でVサインするナドラに、オレは彼女の一挙一動が思っていた以上に感情豊かに映った。そして、何よりも彼女に『命』を感じることに尊さを覚える。

 

「アルシュナは……今とても忙しい。とても大変。とてもとても辛い仕事をしてる。だから……見てられなかったから、私が来た。エレナは口が悪いし、デュナシャンドラは何か企んでる。だから私。ううん、今だからこそ私じゃないと駄目だと思った」

 

 藁人形たちが五寸釘を持ってフェンシングをする体育館の狭間を抜け、ナドラは目で埋め尽くされた障子を開ける。その先にあったのは雨に濡れたバス停。穴が開いた屋根から雨水が滴る、アルシュナとの夢の時に始まりの場所として訪れる故郷の風景。

 屋根に守られたベンチには読みかけの人間失格が置いてあった。文庫本を手に取り、これもアルシュナからの差し入れだったのかと苦笑する。MHCPの義務だったのかは知らないが、彼女には色々と訊きたい事があったのに。

 

「ここはあなたの真実に最も近しい場所。そして、ここは『死』に最も近しい場所。分かる? あなたはもうボロボロ。私が強引でも接続できているのは『死にかけていた』から。あなたが夢を見ているのは眠っているからでも、微睡んでいるからでもなく、死にかけているから。これは走馬燈に近い」

 

 ベンチに先に腰かけたナドラは足首まであるスカートを靡かせて腰を下ろし、オレの手から人間失格を奪い取る。栞が挟まれたページを開く。それは無言の隣で座れという意思表示に思えて、オレはためらいながらも腰かける。

 

「私は『孤独』の観測者。だから分かる。あなたは独り。ずっとずっと独り」

 

 ナドラは指で文字を書けば、それは煙草の煙のように『孤独』という漢字になってオレに飛んでくる。鼻っ柱に当たったそれは砂糖菓子のような甘い香りとなって鼻孔に吸い込まれた。

 

「独りは嫌だ。独りは辛い。独りは苦しい」

 

 肩にもたれかかるナドラは呪うように呟く。それはオレに語り掛けるというよりも、自身の宿命を告げているかのようだった。

 

「私は『煙』と出会って孤独が癒された。ずっとずっと人間の『孤独』を覗き続けて、私も『孤独』に囚われた。エレナも同じ。たくさんの怒りに触れ過ぎた。デュナシャンドラだって最初からあんな風だったわけじゃない。たくさんの欲望を観測している間に歪んでしまった」

 

 水溜まりを弾きながらボロボロのタイヤを回し、塗装が剥げた青いバスがやってくる。赤いランプは瞳のようで、骸骨運転手はドアを開けると帽子を取って会釈する。それはバスに乗る時が来たのだと告げているようだ。

 肩にもたれかかるナドラが袖を引き、首を横に振る。ああ、分かっているさ。今はまだバスには乗れない。オレは骸骨運転手に微笑めば、彼はドアを閉めて、テールライトの光の尾を引きながら去っていく。

 

「どれだけ強がっても無駄。私には分かる。あなたは『独り』。そして、あなたは『独り』でも戦える。きっと戦えてしまう」

 

「…………」

 

「慈悲は『独り』でも生み出せる。憤怒と渇望は『独り』でも御することができる。恐怖は『独り』で踏破して味方にもできる。でもね、孤独だけはね……自分では何もできない。孤独だけはあなたがどれだけ強くても、たとえバケモノのように強過ぎても……『独り』ではどうする事も出来ない。だって、孤独は『誰か』に寄り添ってもらって初めて癒されるものだから」

 

「……オレは『独り』じゃありません。たくさんの人たちがいます。たくさんの人たちが……オレに手を貸してくれている」

 

 そうさ。オレは『独り』で戦ってなどいない。グリムロックは武器を作ってくれているし、グリセルダさんは傭兵業の円滑化を、ヨルコだって気乗りしてないだろうが薬を準備してくれている。

 だが、ナドラは喉を鳴らして笑い、オレの手の甲を撫でた。彼女の指は氷のように冷たくて、同時になぞられた部分は火傷を負ったように熱い。

 

「今はそういう事にしておいてあげる。でも……私は『孤独』の観測者。だから、誤魔化すことはできない。あなたはずっとずっと『独り』」

 

 ナドラの吐息が耳を擽り、彼女の嘲りにも等しい優しい惰性に満ちた声が流れ込む。

 

 

 

 

 

「さぁ、目を開けて。もう夢の時間は終わり。どうか、あなたの次の眠りが少しでも『孤独』から遠ざかりますように」

 

 

 

 

 

 太陽の光に目が眩み、オレは朝を迎えた事に気づく。体はうつ伏せに倒れ、頬を地面に擦り付けていた。震える左手で地面をつかみ、右手を支えにしてゆっくりと立ち上がろうとするも、力が入り切っていなかった両膝はバランスを崩す。右足の指先まで広がった痺れが拍車をかけて、オレは再び……今度は顔面から地面に倒れた。

 

「……っ!」

 

 弱々しい心臓の音色に、オレはナドラの言葉を思い出す。死にかけていた……か。どうやら嘘ではないようだ。

 傍に落ちたままの抜身の死神の剣槍を握り、一呼吸を入れて杖代わりにして今度こそ立ち上がる。窓から差し込む陽光を全身で浴びながら深呼吸をした。

 相変わらず血は高熱の鉛のようだ。全身は重く、呼吸の度に骨の髄まで灼熱と化しているようだ。その一方で皮膚の下には霜が広がっているように凍えるような寒さが抜けない。視神経には針が何百本と埋められているかのように視界に映る全てが鋭い頭痛に変わる。まるで意識が剃刀で終わることなく削がれているかのようだ。

 左手、支障なし。痛覚による感覚代行に問題なし。

 右手も緊急処置とはいえ、痛覚による代用は良好。痺れは酷く、薬指の反応がやや鈍いが、問題点さえ分かっていればカバーできる範囲か。

 右膝に遅れあり。痺れの影響が足首から指先にかけて悪化している。要注意か。

 

「清々しい朝だな」

 

 皮肉の1つも出るというものだ。木の葉の隙間から差し込む朝陽に苦笑しながら、昨夜の記憶を遡る。

 宿場町を出発し、街道の迂回路ではなく、毒沼の湿原を突き進み、途中で毒虫の大軍に追われて、灰色の狼で強行突破したと思ったら毒沼の主らしい、下半身蛸で上半身が獅子のモンスターとご対面して、武器の消耗を押さえる為に格闘戦だけで殴り殺し、夕暮れには何とか毒沼の向こうに集落を見つけたら廃村でしかもバジリスクの巣と化していて、耐久力が下手なネームド以上にある巨大緑バジリスク3体に包囲され、一々戦っていられるかと廃村の向こう側にあったトンネルに突っ込んだ先は地下水道で、生息していた大ナメクジによる睡眠デバフ付きの消化液の嵐を抜け、ようやく地下水道を抜けて地上に出て岩石地帯で夜空の月とご対面したかと思ったら雷を帯びたワイバーンに襲撃されて――

 

「ああ、もう良い! ともかく、ここは何処なんだ!?」

 

 ワイバーンの背中に乗って振り落とされないように体毛を掴みながらの空中戦をして、その最中に胸が苦しくなって、朦朧とする意識の中でヤツの心臓に死神の剣槍をぶっ刺して【磔刑】で内側から槍玉にしたところまでは憶えている! だが、そこからの記憶が完全に無い! いや、確かヤツと絡まりながら落下して、それでどうなった!?

 ここが何処なのかは今以って不明であるが、少なくとも危険なモンスターが住まう場所ではない事は分かる。近くに水の流れる音が聞こえて、そちらに足を運べば、黄色の体毛を真っ赤に染めた全長10メートルはあるだろうワイバーンの死体が地に伏せていた。ヤツの血で川は赤く濁っており、その周囲では魚がプカプカと浮いている。確かヤツの血にはレベル2の毒があったな。その影響だろう。

 ワイバーンの死体の傍には石橋があり、川で裂かれた街道を繋げている。ワイバーンと空中で揉み合いながらの戦いだった。ここがウル街道の傍であることを祈るばかりである。ワイバーンの血を啜って真っ赤のままの巡礼服はさすがに人目につくリスクがある街道ではまずい。ナグナの狩装束に切り替える。そもそもワイバーンの時は防御力なんて無いに等しい紙の巡礼服のままだったせいでどれだけ死にかけた事やら。

 

「…………」

 

 さすがのナグナの狩装束も傷んできたか。擦れが目立ち、金細工も傷が目立っている。アルヴヘイムでの道中だけではなく、ランスロット戦、霜海山脈での修行、トリスタン戦と超えてきたのだ。直撃はほとんど無いとはいえ、それでも余波や紙一重の回避を重ね過ぎた。まだ防御面が大きく落ちる程ではないが、武器だけではなく防具の限界も気にしておくべきか。防具ばかりはエドの砥石でも耐久度は回復できない。鍛冶屋でなければ無理だ。

 防具の修理は武器以上に時間と費用がかかる。その分だけ武器よりも破損しにくく長期に亘って使用できるが、性能は徐々に落ちていく。低VITのオレにとって防具の性能ダウンはそのまま生存率の大幅下落だ。特に直撃せずとも削りが手痛い属性防御面の低下は避けたい。

 

「リシルの石橋。ウル街道はもう少しか」

 

 石橋の傍の石碑を読み、地図を広げて場所を確認すれば、この石橋の先にある古い分岐路を左に進めばウル街道のようである。ワイバーンリムジンのお陰で1日分くらいは時間短縮になったようだ。

 石橋を渡っている最中にも馬車が次々と駆け抜けていく。西から広がる戦火から逃れる南の人々。南の都市に物資や情報を売ろうと企む東の行商人。確か西は北とは膠着状態で、南進は順調だったはずであるが、事態を把握してオベイロンの名の下に東の勢力が援助を続ければ、その快進撃も止まる事だろう。そうなれば長期戦も必至。南北共に戦線が拡大して消耗戦にもつれ込めば、西の反オベイロン派は一気に劣勢になるだろう。

 どうなる事やら。石橋の先にある林を切り開いた街道を進めば、舗装も剥げ、雑草が茂って荒れ放題になった古い街道へと繋がる分かれ道が現れる。

 ここがウル街道か。放置されている以外には特別な怪しさはない。だが、ヤツメ様は何かを警戒するように見回している。強力なモンスターも徘徊しているとの噂だ。

 腐葉土で埋まったウル街道は長年に亘って整備されていない事を教えてくれるが、こうもあっさりと分岐路がある事に違和感を覚える。誰もたどり着けない神隠しの伯爵領に繋がる道だ。もっと隠されているものだと思っていたのだが。あるいは、誰も近寄らない事が当たり前なのだろうか。

 早速であるが、オレはウル街道に1歩踏み出す。特に何か起こるまでもない。茂った雑草を踏みしめながら、周囲を警戒しつつ、街道をひたすらに前に進む。

 やがて見えてきたのは分かれ道であるが、オレは眉を潜める。それは他でもない大街道とウル街道を繋げていた分岐だったからだ。

 なるほどな。普通に街道を進めば戻されるわけか。迷路系の鉄板であるが、何かがおかしい。オレは踵を返し、もう1度素直に街道を直進する。

 やはり分岐に戻される。もう1度だ。今度は周囲の光景をよく観察しながら、1歩の速度を緩めて進む。

 

「ここだな」

 

 それは空間の繋ぎ目とも言うべき場所。風景が不自然に切り替わる境界線だ。その境界線では2本の木々が不自然に絡み合い、草花と石が融合している。

 後継者はこんな妥協はしない。ヤツの美学に反する。何よりも2種類の木々が絡み合う……いや、接合されたかのように一体化している姿は、まるで無理矢理縫合された皮膚のような醜さだ。

 これが神隠しの正体か? いや、アルヴヘイムの住人にも冒険者魂を持った者は多いし、屋台の男の話通りならば東の女王騎士団とやらが兵を派遣している。この程度で『はい、行けませんでした』と諦めるはずがない。

 何処かにこの境界線の穴があるはずだ。街道から外れて林に踏み込み、不自然な風景の境界線をゆっくりと観察していき、目印のように幹にバツ印が彫り込まれた2本の黒ずんだ古木を見つける。その隙間には不自然な風景の融合が無い。

 ここが境界線の穴だろう。古木の狭間を抜ければ、真新しい足跡が多い。どうやら最近になって探索者がここを訪れたようだ。

 林を進んでいると巨大な断層が道を塞ぐ。高さ30メートルはあるが、まるで山のような巨人が名刀で大地を切り分けたように断面が鋭過ぎる。

 これはインプの……いや、スプリガンの地下都市で見つけたものと同じ、アルヴヘイムの無理な拡大の影響で大地を形成するオブジェクトが『ズレた』からだ。その証拠に断面はノイズが走っており、触れればポリゴンの欠片が散る。

 嫌な予感がする。ヤツメ様がざわついている。警戒をより高めようとするも、今度は木の幹に倒れ込むように、下半身が無い兵士の遺体を見つける。その顔は恐怖で歪み、傷口は醜く抉れている。巨大な爪で胴を斬り飛ばされたか。

 血のニオイが酷い。まだ真新しい虐殺があったようだ。この血のニオイの濃厚さ……せいぜい数時間以内だな。

 予想通り、兵士の大量の死体を発見する。右半身が無い者、頭部を失った者、背中に深々と痛々しい傷を負った者。様々であるが、十数人の遺体が密集している。木々は薙ぎ倒され、地面には大きな足跡もあった。四足歩行の獣か。この足跡の大きさから察するに、体格は最低でも10メートルはあるだろう。手傷はほぼ負っていないに等しい。無理もないか。この兵士たちの装備はいずれもレベル1桁程度が使うものだ。鎧や盾は爪や牙を防ぐ役割を果たさず、剣は皮膚に弾かれ、槍は突き刺さらなかっただろう。

 兵士たちの遺体を物色すれば、ティターニア教団なる宗教組織が擁する女王騎士団の命令書を発見する。どうやら彼らは騎士と名乗る事が許されていない兵士たちであり、このウル街道の奥にある伯爵領の探索……もっと言えば月明かりの墓所の確認を命じられていたようだ。

 彼らは第488探索隊と命名されている。つまりは彼らを除いて過去に487回も伯爵領に派遣しているという事だろう。逆に言えば、それだけの回数失敗しても諦めない執念があり、犠牲を厭わない価値があると見ているからか。

 この探索隊のリーダーと思われる、唯一他の兵士たちと違って騎士と思われる格好をした男は、最後まで戦い抜いて死んだように剣を握ったまま仰向けになって倒れている。肩から横腹にかけての一撃が致命傷だろうが、握った片手剣には僅かに彼とは異なる血が付いている。恐らく死の間際に意地を見せたのだろう。首にかけられた四角プレート状の質素なペンダントには彼と妻と思われる2人の名前が彫り込まれていた。

 騎士の遺品には同じ命令書と幾つかの面白いアイテムがあった。まずは【遠見の手鏡】だ。これは本体の【遠見の眼石】が見た風景を映し出すという、いわば映像受信機のようなものらしい。こちらから発信することはできないが、離れた場所の映像と音声を同時に得られる優れモノだ。ただし、距離には限界があるらしく、中継用のアイテムとして【遠見の杭】があるようだが、こちらは長時間の使用ができないらしい。

 ふむ、DBOでは人工妖精が主流であるが、女王騎士団ではこの遠見の手鏡が一般的らしい。恐らく軍略用のアイテムだな。素早く戦場の各部隊の指揮官に本陣から命令を伝える為のモノだろう。だが、こうした有用なアイテムには総じてジャミングが可能だ。足下を掬われないように注意しなければならない。過信は禁物だ。

 遠見の手鏡と遠見の杭、それに遠見の眼石。これらをセットで持っていた騎士は恐らく遠見の手鏡で外部と通信をしつつ先に進み、また遠見の杭を適性距離で設置して中継ポイントを確保しながら伯爵領にたどり着き、遠見の眼石でその風景を届ける役目を担っていたのだろう。

 だが、どうやら目論見は成功することは無さそうだ。というのも、この林はどういうわけか……既にダンジョン扱いなのだ。システムウインドウを開いてマップを確認したのだが、フィールド扱いであるはずなのにダンジョン表示になっている。そのくせしてマッピングは機能していない。いうなれば、ここはフィールドにダンジョンが上書きされているような状態なのだ。

 人工妖精もそうであるが、こうした映像・音声を遠方から仕入れるアイテムはダンジョンでは使えない。だからこそ、ザクロの≪操虫術≫は桁違いの……それこそバランスブレーカー級の探知能力を持っていた。虫を放つだけでダンジョンを広範囲にノーリスクで探索できるとか何それ怖い。

 ふむ、だが幾つかの場所がフィールドとして安定しているならば、そこに適切に中継を設置すれば、もしかせずとも遠見の眼石は上手く使えたかもしれない。この騎士に与えられた命令も、そんな淡い期待を寄せたものだったのだろう。

 だが、これほどの情報通信アイテムを持つ女王騎士団は並大抵の組織ではなさそうだ。警戒するに越したことはないか。

 遠見系のアイテムをオレが持っていてもしょうがない。何か他に有用なアイテムは無いだろうか。ティターニア教団の聖書、祈祷道具、食料、水……どれも持ち歩くほどではないか。

 

「これは……」

 

 探索記録か。どうやら女王騎士団は毎度のように全滅していたわけではなく、何人かは伯爵領にたどり着かずとも逃げ帰ることができたようだ。他にも伯爵領についていくつかの情報が纏めてある。

 探索記録によれば、この林……いや、森は【ウルの森】というらしい。ウルとはかつてここで暮らしていたケットシーの氏族であり、彼らはオベイロンへと反旗を翻して被差別種族となる前はこの森で狩猟と警護をしていたようだ。街道を使わぬのは良からぬ考えを持つ潜在的敵対者だから当然だろう。

 そして、ウルが仕えていた者こそがジャンビール伯爵だ。西の黒火山を有する黒鉄都市と同じく、月明かりの墓所に誰も立ち入らせぬようにとオベイロンに命じられていたようだ。他の都市はいかなる理由があっても伯爵領を攻めることは許されていなかったようだ。

 とはいえ、それは伝説になる程の昔の話……ケットシーがオベイロンに否を唱えるより前の頃だ。女王騎士団も曖昧な伝説を何とか纏め上げたといった様子が窺える。

 探索記録によれば、ウルの森を抜けた者はいないらしい。『仲間は森に食われた』という、女王騎士団もどう判断すべきか悩む報告も生存者からはあったようだ。心神喪失による錯乱と済まさない辺りはさすがのファンタジーらしく、本当に森が妖精を食べると仮定した対策が幾つか纏めてある。

 曰く、森は大喰らいであり、喰らう前に歯を鳴らす。

 曰く、森の牙にかかれば何人も逃れられない。

 曰く、森はあらゆる場所が繋がり合っているが、正しい道を通る者を森は食べない。

 使える情報かどうかは分からないが、頭には入れておいた方が良さそうだ。しかし、森が喰らうね……比喩である事を願いたいが、常に最悪が全力でドロップキックしてくるのがオレだ。最悪の最悪を想定しておくか。

 森は繋がり合っている。それは嘘ではないらしく、先程の街道の時と同じく、風景が不自然に絡み合っている。どうやら、このウルの森全体がこんな調子らしく、境界線を跨ぐ度に人の居場所が変わってしまう。 

 更に最悪なのは空だ。オレの頭上には少なくとも太陽が『7つ』も、しかもあらゆる方角から光を差し込んでいる。つまり、空も森と同じく風景の境界線が出来ているのだ。端的に言えば、自分の方角が分からない。マップにはコンパス機能もあるのであるが、バグって表示されない。

 何がどうなっているのかは定かではないが、この森で……いや、伯爵領で何が起こってしまったのかは見えてきたような気がする。

 だが、まずは森を無事に抜ける方が先だ。頭上より飛来してきた矢を躱し、オレは死神の剣槍を抜いて森の木々を飛び回る襲撃者を見つめる。それは全身に軽量性特化の革装備を纏ったケットシーたちだ。だが、その双眸は黒く……どす黒く泥で塗り潰されている。その全身から膿のように、アルトリウスと同じように深淵の泥が染み出ている。

 数は10人ほどか。だが、様子がおかしい。このアルヴヘイムにおいて妖精たちは……プレイヤーとしてカウントされるアバターはHPバーが表示されず、頭上カーソルのみの表示となる。だが、このケットシーたちはいずれもHPバーが表示されている。モンスター扱いなのだ。

 DBOにおいてもモンスター扱いの人間は珍しくない。フィールドで襲ってくる盗賊などがその代表だ。だからアルヴヘイムに存在しても不思議ではないのだが、この違和感は何だろうか?

 次々と飛来する矢は深淵の泥が纏われ、突き刺さった場所を汚染する。強力な闇属性がエンチャントされた矢か。だが、その矢の外見は粗末な鉄の矢である。彼らが装備する曲剣なども深淵の泥で強化されているようにも見えるが、いずれもアルヴヘイム基準の粗製ばかりだ。

 彼らは何かを喋るように口を開くが、口内からも深淵の泥が溢れて言葉は埋もれる。警告の言葉か、それとも死の宣告か。何にしても殺し合いがお望みのようだ。

 途絶える事のない矢の援護の中で、素早く斬り込んでくる3体のケットシーの動き。レベル20程度であるならば、DEX傾倒型か余程DEX出力を高めていなければ引き出せない速度のはずだ。死神の剣槍で1人目の胴を、2人目の首を、そして3人目は心臓を貫く。だが、その防御力もHP量も多い。やはりモンスター……それも軽く見積もってもレベル60水準の強さを持っているだろう。

 深淵の矢を木々を盾にして躱しながら、次から次に襲ってくるケットシーを迎撃するも数が数だ。このままでは消耗を強いられる。ここは逃げるが勝ちか。

 だが、ケットシーたちの耳が跳ね、その動きが止まる。彼らの顔が一斉に向かった先より現れたのは地響きを鳴らす程の巨体……全身が紫色の皮膚に覆われ、黒い爪牙と角を持つ四足歩行の巨獣だ。

 

「……オーガビースト。厄介なヤツが来たか」

 

 オーガ……即ち鬼系のモンスターはDBOでも珍しくないが、このオーガビースト系はリポップ型でありながら総じてステージ難度を上回る攻撃力・防御力・耐久力を持つタイプで知られている。とにかくタフであり、攻撃力も桁違いで、ドラゴン系と並ぶ危険なモンスターだ。

 先程の探索隊を皆殺しにしたのもこのオーガビーストだろう。赤い水晶のような目玉を輝かせ、黒い牙を鳴らして咆える。モンスター専用スキル≪ハウリング≫か。どうやら、このオーガビーストの場合、バフをかけるタイプらしく、その紫の図体に赤いオーラを纏う。攻撃力強化と見て間違いないだろう。

 ケットシーたちはオレなどに構っている暇などないとばかりにオーガビーストへと矢を放つ。高い闇属性を持つ矢はオーガビーストに突き刺さっていくが、ダメージはほとんど無い。闇属性防御力が桁違いなのだろう。お返しとばかりにその角に青い光が纏ったかと思えば、まるで青い光球が流星のように周囲に降り注ぐ。魔法属性の範囲攻撃か。大きな光球は地面に接触する度に魔法爆発を引き起こしている。範囲攻撃+範囲攻撃か。直撃すれば多段ヒットで、オレの場合は即死もあり得るか。

 モンスター同士の敵対は珍しくない。あのケットシーとオーガビーストは敵対関係にあるのだろう。勝敗は明確だが、あれだけの数を相手にするならばオーガビーストも相応の時間がかかるはずだ。この間に退散させてもらおう。

 次々とオーガビーストに葬られるケットシーたちであるが、彼らは1歩も退かず、効果が無いと分かっていながらも剣を振るい、矢を放つ。その度に巨獣の黒い爪が、牙が、角が彼らを抉り、壊し、潰していく。20人以上いたのに、残るはもう半数だ。攻撃力が桁違い過ぎるな。

 だが、オレの逃げ道を邪魔するように現れたのは、青銅色の甲冑を身に纏った騎士だ。身の丈ほどの大剣の一刀流。胸には金色の薔薇の紋章があり、ケットシーと同じくHPバーがある。

 ケットシーにしても騎士にしても『命』を感じない。だが、この『歪み』はなんだ? 単純にモンスターと割り切れる存在でもなく、だからと言って『命』があるわけでもない。

 前門の騎士、後門のオーガビースト。逃げるのは少し難しそうか。温存したかったが、元より戦闘無しで乗り越えられるとは思っていない。騎士は大きな踏み込みと共に胸を狙った突きを繰り出し、そのまま大回転斬りに繋げる。この挙動、やはり両手剣か。特大剣ほどの火力は無いだろうが、深淵の泥に蝕まれている。よくよく見れば、甲冑にも血管のように深淵の泥が脈動している。

 贄姫の連撃を繰り出し、刻んだ後に後退した騎士へと水銀の刃で追い打ちして足を止め、そのまま死神の剣槍を振り下ろす。打撃ブレードはフルメイルと相性が良い。高い打撃属性の一閃は堪えたらしく、騎士はよろめくも、まるで闘志を示すように切っ先を地面に向け……いや、地面に突き刺しながら振るう。

 右へ! ヤツメ様が手を引き、オレはステップで間合い外の大剣が振るわれるより先に回避行動を取る。続いたのは深淵の泥の刃が地面を這いながら放たれる。よくよく見れば、いつの間にか騎士の大剣がより液状に近い深淵の泥で濡れている。

 切っ先を地面に引っ掻けて溜めたのか。あの大剣の泥、能力は贄姫に近いな。騎士の連撃をステップで躱し、逆手に構えた贄姫で胴を薙ぎ、そのまま背後を取って死神の剣槍で背中から心臓を貫く。呻く騎士は痙攣して膝をつくもHPは残り3割ほど残っている。そのまま立ち上がらせる間もなく贄姫で首を斬り落とす。

 同時に最後のケットシーが奮戦虚しく踏み潰され、逃げ遅れたオレにオーガビーストは咆える。そのまま捩じれた2本の角で暴走牛のように突っ込んでくるが、それをサイドステップで躱し、死神の剣槍のカウンターを振るおうとするも、ヤツメ様が左手を掴んで止める。微かに触れた打撃ブレードから走った衝撃は凄まじく、危うく手から飛び抜けそうだった死神の剣槍を逃がさないように握りしめる。

 見た目通り、どうやらあのオーガビーストの皮膚は堅牢らしく、打撃属性重視の死神の剣槍では逆に斬撃属性の低さが仇となり、切断力が足りずに皮膚を斬り裂けないようだ。しかもあの図体通りのパワーと暴風を起こすほどのスピード、並の斬撃では弾き返される。

 突進へのカウンターは贄姫でも禁物だろう。だが、ケットシーたちの奮戦のお陰でオーガビーストのHPは1割ほど削れている。その分だけ楽になったと感謝しておくか。

 死神の剣槍のランスとしての貫通性能よりも贄姫の切断力を優先したい。死神の剣槍を背負い、贄姫の一刀流に切り替える。両手で握った贄姫に全神経を集中し、後肢で勢い良く跳び、右前脚を振るって黒い爪を叩きつけるオーガビーストの腹下を抜けながら一閃する。

 刃は狂わずに立ち、オーガビーストの腹は裂けて多量の血が零れる。巨獣は叫びをあげ、血の海を作りながらも黒い牙を震わせ、その口内から炎球を吐き出す。ソウルの流星以外にも遠距離攻撃持ちか。なかなかに手強いな。

 全身を使ったタックルは木々をなぎ倒し、その破片がオレの動きを阻害するも、ヤツメ様はその破片を逆に足場にしてオーガビーストの頭上を取れるルートを導き、狩人の予測がそれを掌握してオレ自身の判断でそのルートを取捨選択する。

 オーガビーストの首筋まで宙を舞う木々を足場にしてたどり着き、贄姫を深々と突き刺してから一閃する。飛び散った血飛沫を全身に浴び、オーガビーストの悲鳴に浴しながら、振り抜いた贄姫を右手だけに持ち替え、即座にザリアを抜いて傷口に押し込む。そして、銃剣雷弾を伝導させ、内側から爆破して首裏の周囲の肉を吹き飛ばす。

 暴れるオーガビーストから跳び下りるが、やはりタフと言うべきか、まだHPは5割も残っている。首なのでクリティカルダメージ入りのはずだ。さすがだな。

 再度の≪ハウリング≫でオーガビーストは全身に青いオーラを纏う。攻撃力強化よりも防御力を優先したか。攻めの姿勢が足りないな。そのタフさを活かして、ひたすらに叩き潰すパワーで攻めるべきだろうに。この辺りが『命』の有無だな。覚悟というものがない。

 だが、オーガビーストの唸り声を除けば静寂だった森に、まるで新たな乱入者が現れたような、歯ぎしりに似た音が聞こえる。

 それは何かが擦れる音。あるいは千切れる音。耳障りなその音の発信源はオーガビーストの背後だ。

 途端に走ったのは黒い亀裂。まるで空間が直に抉られているような黒い割れ目が現れ、それは雷撃のように暴れ回る。その巨体故に逃げられなかったオーガビーストは左肩にかけて黒い亀裂を受ける。

 途端に千切れたのはオーガビーストの胴体だった。アバターがあの黒い亀裂で強制的に千切られ、それはダメージとして還元され、巨獣のHPが一気に失われる。そして、その黒い亀裂はエフェクトの類ではないとオレは直感する。いや、あの暗闇には覚えがある。

 そう、あれはクリスマスダンジョンで、サチの街を狭めていた黒い帳。データが存在しない暗闇……『無』だ。

 オーガビーストはその巨体を傾け、無粋なリザルト画面が死亡を伝える。だが、そんなものをチェックしている余裕はない。黒い亀裂の嵐は周囲に拡散していき、それはオレを追跡するように広がっていく。

 ヤツメ様がブレーキをかければ、オレの逃亡ルートの目の前に黒い亀裂が生じる。この黒い亀裂を受ければアバターは強制的に千切られてしまう。そうなった結果はオーガビーストの通りだ。

 亀裂が大きく広がって穴のようになれば、木や石が暗闇に呑まれる。物理エンジンとしての重力だけは働いているかのように暗闇を落下していくが、その先に地面はなく、永遠に堕ち続けるのだろう。あるいは『終わり』と呼べる境界で消滅するのか。何にしても落ちて試したいとは思わない。

 黒い亀裂も穴も、まるで仮想世界を維持しようとする何かが縫合しているように、周囲のまだ存在する空間同士を無理矢理引っ張って繋ぎ合わせる。あれは風景の境界線や不自然な物体融合の正体だろう。崩壊を防ごうとする修正によって、本来は別離しているはずのオブジェクト同士が引っ付いてしまい、まだ失われた空間を補おうとするあまり、離れた座標が重なり合って迷路と化してしまっているのだ。

 ヤツメ様が先導する森をひたすらに駆け、途中で2体のオーガビーストと遭遇するも戦うなど以ての外であるので間を通り抜け、何やら背後で悲痛な2体の悲鳴を聞いて消してなかったリザルト画面に新しいリザルトが上書きされ、目の前で地面が暗闇で割れたのを見てラビットダッシュで加速して大きくジャンプをして跳び越える。そうして、ようやく石像が立ち並ぶ空間崩壊の嵐が起きている様子が無い場所に転がり込む。

 息荒く腰砕けになって座り込むヤツメ様の前で大の字となり、オレもひとまず難を逃れた事を噛み締める。数秒だけの休憩の後にゆっくり体を起こし、沈静化していく空間崩壊の嵐を見守る。もはやオレが進んだ道は滅茶苦茶に繋ぎ合わさってしまっているだろう。これでは強力なモンスターによる犠牲を許容して繋ぎ合わさった空間の地図を作り出そうとしても無理だ。空間崩壊の嵐が起きる度に迷路は更新されてしまうのだから。

 なるほどな。神隠しの正体はこれか。要は『バグ』だ。以前にザクロが言っていた、アルヴヘイムの無理な拡張による崩壊……それがこのウルの森でまさに起こり、そしてギリギリで保たれているのだろう。もしも、あの崩壊が修正の限界を超えたならば、森は丸ごとデータの無い暗闇に落下していくのかもしれない。あるいは、そこから始まる『無』の穴はアルヴヘイムをじわじわと呑み込んでいくのだろうか。

 何はともあれ、これは茅場の後継者の仕組んだデストラップではないだろう。そして、この空間崩壊の嵐に遭遇して幸運にも生き延びた何人かは気づいたのだろう。空間崩壊が起きない安定した場所……まさに抜け穴とも言うべきルートがある事を。

 とはいえ、それを探し出すより先にモンスターか空間崩壊で死亡するだろう。ヤツメ様の様子を見るに、空間崩壊はギリギリオレの死を避ける為に導きの範疇として捉えられているようだ。要は天災と同じである。これならば、次は分かってる分だけ余裕を持って躱せそうだが、だからと言って強行突破できるものでもない。まだホルスの鬼畜狙撃の方が分のある勝負だろう。というか、アレも正直2度としたくない。

 そうなると空間崩壊の嵐が起きない安全なルートの発見しかない。だが、常に継ぎ接ぎに状態にされて更新されるウルの森でそれを発見するのは困難だ。だが、探すのが最も楽な突破の仕方なのだろう。

 オレは立ち上がり、周囲を見回して、逃げ込んだ石像が乱立する森の開けた場所に嫌な予感を募らせる。どれも人型であり、武器を構えたポーズを取った妖精たちだ。石化呪い攻撃持ちのバジリスクの仕業と見て間違いないだろう。

 ここはバジリスクの巣なのか、警戒しながら周囲を見回すも、石像に埋もれる形で、まるでアルビノのように真っ白なバジリスクが死亡しているのを発見する。その脳天に突き刺さるのは刃毀れした剣であり、バジリスクの遺体にもたれ掛かるように倒れているのは、ランスロットに挑み、またオレ達を転移して廃坑都市から逃がしてくれた深淵狩りの剣士だ。

 そういえば、屋台の男は深淵狩りたちもウル街道に向かったという噂を教えてくれた。どうやら真実だったらしい。白いバジリスクにもたれ掛かった深淵狩りの剣士は既に死亡しているらしいが、黒炭化は始まっていない。バジリスクの血も新しいことを見れば、近しい時に相討ちになったという事だろう。その背中にはあのケットシーたちの矢も突き刺さり、鎧もマントもボロボロだ。激戦を経てここまで辿り着くも白いバジリスクに襲われたといったところか。

 まだ若い……少年と呼べる深淵狩りの剣士をバジリスクの遺体から引き剥がす。その左腕は捩じれ、右膝は潰れていた。満身創痍だったのだろう。それでもバジリスクに勇敢に挑んだのは深淵狩りの矜持か。深淵狩りの剣士の遺体を寝そべらせ、両手を組ませて剣を握らせると虚ろな眼に瞼をそっと閉じさせる。

 そういえば、アルヴヘイムの深淵狩りたちは月明かりの墓所で使命を得たと屋台の男は言っていた。それはウルの森で空間崩壊の嵐が吹き荒れるより前なのか、それとも後なのか。だが、彼らが無策で伯爵領に突貫しているとは考え難い。仮に彼らが月明かりの墓所を目指しているならば、空間崩壊の嵐を抜ける安定したルートを知っているのではないだろうか。

 だが、知っているにしても既に深淵狩りの剣士は死亡している。その遺品を漁ってみたが、ウルの森を抜ける方法について記載された書物はない。手帳のようなものはあったのだが、その中身は深淵狩りとしての心得や作法、そして魔族なる彼らの同盟者たちについての情報だ。

 まぁ、彼らが普段から伯爵領への抜け道についての情報が記された書物を持っているならば、女王騎士団なり他の組織なりが彼らを罠に嵌めて殺して奪っているだろう。そうなると、やはり口伝の秘密なのか。だが、それならば誰か1人でも深淵狩りを捕らえて拷問にかけて口を割らせれば良い事だ。深淵狩りはその秘密を守ろうとするだろうが、アルヴヘイムの長い歴史だ。1人くらいは拷問に負けて秘密を明かす者がいてもおかしくない。

 深淵狩りの剣士たちはどうやって月明かりの墓所を目指していたのだ? まさか、オレと同じで本能頼りで突破しようなんて阿呆な真似を考えていたわけではないだろう。だとするならば、彼らはどうやって……

 

「ん?」

 

 と、そこで気づいたのは石像が乱立する開けた場所から再び森に繋がる獣道、恐らくはオーガビーストの巡回路だろう森の割れ目だ。そこに転がっているのはアルヴヘイムの硬貨、ユルドだ。それは鈍い光を讃えている。意図的に傷つけられているのか、耐久度も残り少ないのだろう。手に取って握りしめれば簡単に砕けてポリゴンとなって散った。

 獣道を歩けば、途中で小川を越える石の上にも硬貨が置いてある。そして、その先にも硬貨の鈍い光が目印のようにオレの目に映り込んだ。

 なるほどな。恐らくだが、深淵狩りの剣士たちは全員が伯爵領への道順を知っているわけではないのだ。ごく一握り……リーダーなどの幹部陣だけの秘密なのだろう。そして、彼らは後に続く深淵狩りの剣士たちの為に道標を残した。あの死した深淵狩りの剣士も、この微かな目印を頼りにして森を突き進み、そして力尽きたのだろう。

 そこに言葉はなく、だが仲間の名残はあり、それを信じて突き進む。彼らは『孤独』ではなかったようだ。オレはナドラの言葉を思い出し、小さく苦笑する。 

 ありがたく使わせてもらうとしよう。硬貨を追い、オレは慎重にウルの森を進む。下手に戦闘を始めてルートから外れれば森で迷子だ。そうでなくとも戦闘の影響で硬貨が破損すれば唯一無二の目印を失う。

 途中で何度かオーガビーストの影を見るも、息を潜めて姿勢を低くして茂みに隠れ、その巨体が通り過ぎるのを待つ。木々の枝を跳び回って索敵するケットシーが最も厄介であり、場合によっては斥候と思われる数人を背後から始末する。最も回避が簡単だったのは騎士たちだ。彼らの甲冑は静かな森ではよく響く。

 多勢に対して単独での潜入は慣れている。焦らず、じっくりと1歩ずつ進む。確実性を得られるまで何時間でも待つ。狩りの基本だ。

 そうして空が黄昏色に変わる頃になって、ようやく森を抜ける。淀んだ空気からようやく解放されたと思ったが、森を抜けて緩やかな丘の下り道から見えた伯爵領の風景に、そして香るニオイに顔を顰める。

 かつては隆盛を極めた都だったのだろう。だが、今は生の気配もない抜け殻だ。腐った深淵の泥のニオイに満ちている。そして、都の向こう側にある建造物……あれがジャンビール伯爵の城だろう。オベイロンの命令で月明かりの墓所を守っていたならば、順当に考えて城に墓所はあると考えるべきか。その為にはあの城下町を突破しなければならない。

 本来は都の周囲に広がっていただろう畑は見る影もないが、疎らにではあるが、何かが動いている様子がある。隠れる場所もない都に繋がる下り道を進みながら、襲ってくる気配もない人影を観察すれば、それは全身に深淵の泥を纏った農夫のようだ。敵意を見せることもなく、まるで生前の記憶に従うロボットのように鍬を振り下ろしている。

 城壁に囲まれた都への潜入路は限られているが、正門には開かれたまま放置されている。深淵狩りの剣士たちが先んじたのだろう。門番だったらしき青銅鎧の騎士2体が倒れていた。だが、犠牲無しでは済まなかったらしく、深淵狩りの剣士の1人の遺体がその胸に槍を突き刺したまま倒れていた。

 絶命している。カーソルは消失し、四肢に力が無い深淵狩りの剣士の死を確認して、城下町へと踏み入る。

 領主の優れた統治の面影は今も残っている。芸術を推進したかのように建物はいずれも色彩豊かで装飾も凝っている。町の市場にしても今にも華やかな人々の声が聞こえてきそうだ。文学を愛していたのか、書店にはずらりと大衆小説から高尚な詩集まである。

 だが、おかしい。白骨が転がり、朽ちた鎧が鎮座し、血痕があらゆる場所に残る『死んだ』都なのに……どうして『保存』されている?

 ケットシーが反乱を起こすより前であるならば、それこそアルヴヘイムでも最古の都の1つのはずだ。アルヴヘイムにおいて建物の耐久がどれ程のものかはわからないが、ここまで完璧に保存されているなどあり得ないだろう。ましてや、血痕が1000年単位で残るはずがない。オレのナグナの狩装束だって大雨に降られたように血塗れになっても半日と待たずして血は落ちてしまうのだ。

 試しておきたい。腰の贄姫で居合の構えを取り、近くの教会に対してフルチャージの水銀居合を放つ。ボロボロでなくとも、余程の強度がなければ壁を一閃し、その内側まで水銀居合は届くはずだ。だが、教会の壁に触れた瞬間に紫色のエフェクト……破壊不能オブジェクトの証が発生する。

 改めてシステムウインドウを開いてマップを確認するが、間違いない。ここは完全にダンジョン内だ。ダンジョン内では構造を著しく変化させる破壊行為を認めない為に、破壊不能オブジェクトによって輪郭が構成されている。要は『壁をぶち壊してボス部屋を目指せ』を封じる対策だ。

 深淵の泥に侵されたケットシーの警備隊、青銅騎士、そして農夫。こんな事があり得るのか? 考え過ぎだと信じたい。頬まで垂れた脂汗は最悪を否定したい感情であり、ヤツメ様は面白そうに拍手してオレの最悪の推理を肯定している。

 考えていたことがある。茅場の後継者が原形のアルヴヘイムにネームドを配置したのは間違いない。ダンジョンを作ったのも確定だろう。

 南の霜海山脈にはトリスタン。北の白い森にはシェムレムロスの兄妹。西の黒火山は穢れの火と見て間違いないだろう。後継者がここまで黄金の配置……東西南北にネームドを配置したにも関わらず、ランスロットだけはアルヴヘイムにおいて神出鬼没……徘徊型にするだろうか? いや、あの男はオレ達を殺すにしても美学と信念を貫く。ならば、東のこの月明かりの墓所にこそ、ネーミングからして深淵狩り関連だろうこのダンジョンにこそ、ランスロットを配置しているはずだ。

 フィールドとダンジョンの垣根を失った、オーガビーストが生息するウルの森。完全にダンジョンと化している保存された城下町。そして、アルヴヘイムにおいて自由に動き回れるランスロット。そして、これまでから推測できるオベイロンという人物の思考と行動力。そして、天変地異にも等しいアルヴヘイムの拡張とそれに伴った空間破壊とオブジェクトの断層。

 

「月明かりの墓所に、ダンジョンに……亀裂を作ったのか?」

 

 月明かりの墓所がアルヴヘイム拡大の被害で致命的な破損を負い、その境界を失ってシステムがフィールドとダンジョンの区別が出来なくなったのか。

 狙ってのことか、あるいは偶然か、何にしてもオベイロンは月明かりの墓所を引き裂いたのだ。結果としてダンジョンが『枠』を失い、伯爵領を呑み込み、モンスターが流出した。そして修正作業によってウルの森と城下町が纏めてダンジョンとして更新された。

 あのケットシーの警備隊は死亡した後にその情報がモンスターとしてカウントされ、リポップ型として配置された? 青銅騎士も同じだろうか。そうであるならば、あの無害そうな農夫姿のモンスターたちにも納得がいく。彼らに侵入者を攻撃するオペレーションは……素材となった人々の『記録』には無いのだ。攻撃しようがない。

 考え過ぎだと自分を諫めたい。だが、オレの推理には否定する要素が無い。そもそもDBOについても不明な点は多いのだ。『あり得ない』という選択肢こそ捨てるべきだ。むしろ、仮想世界なのだから何でもありくらいの事を考えておいた方が良い。仮想世界とは夢と同じなのだ。現実世界では不可能な建造物を瞬きする間に作り出し、太陽を西から昇らせて東に沈ませる事もでき、人間は翅を得て空を自由に飛び回る事も出来る。

 意識を切り替えろ。これが破損したダンジョンをリカバリーしようとした結果なのか、それとも『誰か』が意図したものなのか。そんなものはどうでも良い。そんな考察は『アイツ』の分野だ。オレがすべきことは立ちはだかる障害の一切を排して月明かりの墓所にたどり着く事だ。

 城下町はまだまだ道のりも長い。折角のソロなのだ。最低限の交戦に抑えて伯爵城を目指すとしよう。

 深淵の泥に蝕まれた市民はまるで生前と同じ行動を繰り返しているかのように、何もない市場をうろつき、子供たちは遊び、老人は安楽椅子で揺れる。衛兵たちは務めを果たすように見回りを続ける。

 厄介なのは青銅騎士と剣狼だ。青銅騎士はこの伯爵領を守護していた騎士たちなのだろう。深淵の泥に蝕まれた姿が特徴的だ。大剣装備、もしくは槍と大盾の装備で分かれている。1対1ならば苦戦することもないが、市街での戦いは静けさが敵の味方をして増援を呼んでしまう。また、背後からの一撃では仕留めきれないのでサイレントキリングも難しい。

 剣狼は月明かりの墓所から流出したモンスターなのだろう。2メートルはある巨体の狼であり、全身に刃を供えた狼用の甲冑を装備している。素早い上に数で攻めてきて、しかも防御力も高いので手強い。弱点はHPの低さらしく、隙を突いて死神の剣槍の打撃属性を活かせば一撃とまではいかないが、限りなく数を集めるより前に仕留められる。

 オーガビーストも元々は月明かりの墓所のモンスターなのだろう。破壊不能オブジェクトと化した城下町の屋根を跳び、獲物を求めるように森へと移動している。森の空間崩壊の嵐に巻き込まれる度に月明かりの墓所でリポップしているのだろう。そうなるとオーガビーストがやって来る伯爵城こそがやはり月明かりの墓所が隠されているとみるべきか。

 

「……こうも数が多いと隠れるのも一苦労だな」

 

 市民の遺体は白骨化しているか、深淵の泥に塗れた状態で黒炭化することなく横たわっているか、それともモンスターとなって永遠に彷徨い続けるか。この3択だったのだろう。

 青銅騎士の目から逃れる為に入り込んだのは、かつては両親と息子娘の4人暮らしだっただろう民家だ。4人で暮らすにはやや手狭であるが、夫妻が使うダブルベッドと子供用の2段ベッドが目立つ。彼らの4人の肖像画は簡素であるが、この伯爵領が圧政とは無縁の、民にとって幸福な日常が続く場所だった事は窺える。

 どうやらこの家の主の仕事は靴屋だったらしい。民家の裏はそのまま仕事部屋になっており、まるで子供たちを守るように小さな2つの頭蓋を守るように1人分の白骨死体が寝そべっている。子を守ろうとしたのは父だったのか、それとも母か。どちらにしても、仕事部屋に繋がる裏口から浸み込んだ深淵の泥を見るに、彼らの末路は悲惨であり、割れた小さな頭蓋骨が示すのは子供諸共惨殺されたという結果だ。

 仕事用の机を漁り、何か有用なものは無いか探れば、分厚い日記帳を見つける。過半は仕事の調子についてや子供の成長記録であるが、気になる内容が終わりの間際に記されていた。

 

 

 

『大地震で先代を失い、若様が新たな伯爵となられて10年、どうにも様子がおかしい。城から出ることなく、ここしばらく付近で出没する強力な魔物への対策も何も講じない。あれ程までに聡明な御方であったはずなのに、何か重い病にかかられたのだろうか? それともあの女……奥様亡き後に何処とも知れぬ地よりやってきた伯爵夫人様のせいだろうか』

 

『友シュナイゼルが死んだ。黒角の巨獣が市街に現れ、大暴れしたのだ。彼は高名な騎士であったが、あの巨獣には力及ばなかったようだ。巨獣は蜃気楼のように消え、市街の被害は最小限に抑えられたが、私も妻も不安で眠れない夜が続いている。伯爵様は何をお考えなのだろうか? オベイロン王は我らに救いを与える気はないのか?』

 

『伯爵領と外を繋ぐ街道が封鎖された。伯爵夫人の指示らしい。行商人はもちろん、我々も領外に出ることは許さなくなった。一体何が起こっているのだ?』

 

 

 

 日記を閉ざし、オレは改めて子供たちを守ろうとした大人の白骨を眺める。

 オレの予想ではある日いきなりダンジョンに亀裂が入って大惨事……といった流れだったのだが、どうやら兆候が前々からあったようである。そして、危機感が市民に募る間も伯爵は何も手を打たなかった。領民の避難はもちろん、警戒態勢を敷くどころか、逆にご丁寧に袋の鼠にするように街道の封鎖まで行った。

 伯爵夫人。まさかオベイロンの手の者だろうか? この伯爵領自体がヤツの実験か何かであったならば納得もいく。そうなると月明かりの墓所の破損は偶然ではなさそうだな。

 裏口から出て、オレは頭上に広がる空を見上げる。城下町に入って随分と時間が経ったと思うのだが、相変わらずの黄昏色だ。どうやら、この城下町の周辺では昼も夜もなく、永遠の夕焼けのようだ。時間間隔が狂ってしまいそうである。これもダンジョンとフィールドが混ざり合った影響だろうか。それともこの地方の特徴だったのだろうか

 夜間の方が闇に紛れて進みやすくて助かるのだが。見回りの兵士を路地裏から引き込み、その首を捩じって、押し倒して顔面を死神の剣槍で刺し潰す。彼らはもはやリポップするモンスターだ。どれだけ数を減らしても意味はないが、それでも短期的ならば監視の密度を下げられる。

 人目が無い路地裏を進もうにも入り組んでいて、どうしても時間がかかる。だからといって大通りを直進すれば包囲される。屋根を飛び移ろうにもオーガビーストや剣狼が見張っている。

 どうやって深淵狩りたちは月明かりの墓所を目指したのだろうか。城下町に入る正門の衛兵は殺害されていたのだから、ルートは間違っていないはずだ。もしかせずとも、彼らは城下町を突破しないで伯爵城に行ける抜け道をしっていたのかもしれない。領主という重要な立場の貴族だ。城と繋がった隠し道の1つや2つ準備していない方がおかしいだろう。

 分からないものを探して求めるのも時間の無駄だ。今のところは着実に、予定通りとはいかないが、最低限の戦闘で済ませて伯爵城に近づいているのだ。この1歩1歩を大事にするとしよう。

 だが、不意に体のバランスが崩れ、左肩から壁にもたれかかり、ずるずるとその場に倒れそうになる。膝がつく寸前で体を揺らしながら更なる1歩を踏むことで耐え、右手に握る死神の剣槍を杖代わりにして転倒しないように踏ん張る。

 

「……まずいな」

 

 胸が……少し……苦しい。どうやらオレの心臓は休職したくて堪らないようだ。

 意識が熱い。骨が灼熱化して内側から爛れているようだ。だが、冬山に放り出されているかのように皮膚の1枚下は冷たく凍えている。

 視界が滲む。音が上手く拾えない。喉が硬直して息ができない。

 騎士の足音が聞こえる。だが、方向が上手く掴めない。

 ヤツメ様がオレを正面から覗き込んで肩を揺さぶる。焦りながらオレの手を握って安全な場所に誘導しようとする。だが、何処にも休める場所など残されていない。この伯爵領は等しくダンジョンと化し、強大なモンスターと哀れな死者の残滓が徘徊する魔境なのだから。

 太陽を抱く天使の像が配置された十字路にたどり着く。かつては煌びやかな貴婦人たちが往来しただろう、調度品や装飾品を扱った店が並ぶ。深淵の泥に呑まれた娘は首が無い白骨死体の店主の前で揺れている。

 この十字路を抜けたら隠れる場所を探そう。左手で胸倉をつかみ、あともう少しだけ頑張ってくれと心臓に訴える。

 ファンタズマ・エフェクトの影響は現実世界に残した肉体を着実に蝕んでいるだろう。

 ああ、分かっているさ。こんな状態で戦い続ければ……長くは生きられないだろう。いや、そもそも今のオレが『オレ』でなくなる前に、脳は焼け爛れて心臓は凍てつき、肉体の死を迎える方が先かもしれない。

 

「あぁ……面倒だな」

 

 だが、それでも戦い続けるしかない。十字路にオーガビーストが巨体を靡かせて着地する。黒い爪牙を輝かせ、捩じれた角を青く発光させるとソウルの流星を降り注がせる。発生のタイミングは把握している。オーガビーストの上空に青い光の渦が出来てから発動するのだ。広範囲攻撃と追撃の爆発は脅威であり、逃げ場はほぼ無いが、唯一無二……オーガビーストの頭上にはソウルの流星の攻撃範囲に含まれない。

 死神の剣槍の切っ先で小奇麗な石で舗装された地面を削りながら、ソウルの流星が降るより一瞬先に跳び上がり、オーガビーストの額まで舞う。ソウルの流星中はオーガビーストのあらゆる行動が停止する。故に、ソウルの流星を恐れずに懐に突っ込めば最大の攻撃チャンスだ。

 その額に深々と死神の剣槍を突き刺し、そのままギミックを発動させて抉る。分裂した刀身は加速しながら伸びてオーガビーストの頭蓋を完全に貫通し、その喉から切っ先を飛び出させる。

 ソウルの流星の青い爆発が周囲で煌く。盛大な血飛沫と共に絶叫を上げるオーガビーストが暴れ、その頭部から背中へと跳び移る。分裂した刀身は傷口で引っ掛かって醜く抉り、更なる血潮をオーガビーストに求める。

 リゲイン発動。ソウルの流星を終えて活動が可能になったオーガビーストは首を振り返らせて、背中に乗ったオレを振り落とそうとする。それと同時に左手で逆手抜刀した贄姫の水銀居合で喉を斬り裂き、そのまま投擲して左目を刺し潰す。 

 上半身を反らして持ち上げて絶叫するオーガビーストの黒い爪が輝き、大きく振り下ろされる。粉砕された石畳の破片と土煙が舞い上がり、左右の爪の連続の叩きつけ攻撃が繰り出される。だが、それらに気を取られれば、その長く太い尾が襲い掛かるだろう。

 5回目の爪の叩きつけの後にわざと跳び込み、オーガビーストの回転攻撃を誘発する。尾はしなって周囲を薙ぎ払う攻撃を生む。鼻先を尻尾の先端が通り過ぎ、回転攻撃の終わりを狙って左足の1歩を踏み出し、次なる右足の1歩と共に死神の剣槍を突き出す。

 ランスとしての高い貫通性能は伊達ではない。オーガビーストの胸部に吸い込まれ、その奥まで刺し貫く。柄に左手を添え、更にねじ込み、溢れる血を浴びる。

 意識がブラックアウトとする。刹那にも満たない『死』の感覚。完全に停止した心臓がもたらした意識の闇。それがオーガビーストから死神の剣槍を抜く僅かな後れを生み、その巨体の突進から逃れらなかった。咄嗟に両腕をクロスしてガードしてダメージを最小限に抑えるも、HPは7割近く吹っ飛ばされる。骨針の黒帯の高い防御効果が無ければ即死だったかもしれない。

 死神の剣槍はオーガビーストに突き刺さったままか。牙を鳴らして炎球を狙い撃ってきたオーガビーストの射線から逃れ、天使像を盾にして回り込もうとする。だが、オーガビーストは10メートル級の巨体を宙で翻す大ジャンプで頭上を取り、オレを狙って急下降してくる。

 バックステップで紙一重の回避から即座に踏み込みジャンプに切り替え、オーガビーストの顎を蹴り上げ、空中で姿勢制御してそのまま額に胴回し蹴りを浴びせる。だが、STR特化ではないオレの格闘攻撃ではオーガビーストを怯ませられない。だが、狙いは左目に突き刺さった贄姫だ。柄を右手で握り、斬り上げながら引き抜く。そして、ポケットから取り出した宿場町で購入した布を空に放り投げる。

 オーガビーストのHPは残り3割。オレの心臓はまだ動き出していない。時間はない。

 着地して距離を取れば、オーガビーストは捩じれた2本の角を空に突き上げる。ソウルの流星か。良い判断だ。ここまで距離を取られたならば、ソウルの流星で周囲を一掃する判断は正しい。ソウルの流星が発動すれば死ぬのはオレだ。

 だが、勝負は決した。ひらりひらりとオーガビーストの頭上に舞い落ちた、折り畳まれていたが今は広がった正方形の薄布。

 

「……ケダモノの顎、発動」

 

 震える左手を握りしめる。同時に布に仕込んでおいた、パラサイト・イヴの能力……ケダモノの顎が発動する。

 ケダモノの顎の発動条件は、ケダモノの顎が発動する事を可能とした『面積』を保有する対象に接触する事。およそ1メートル半もある、どす黒い血によって作り出されたケダモノの顎を設置するポイントは限られる。また、発動するにしても時間がかかるので、ラジード戦の時のような相手の動きが定まったソードスキル発動時のトラップカウンターか、壁などに設置して追い詰めたところで背後からの発動が望ましい。だが、それでは余りにも限定的であり、また強敵ほどに誘導も困難になる。

 だから、発動できるだけの強度と面積を保有した布にあらかじめ仕込んだ。こうすれば、好きな時に好きなタイミングで発動できる。また、今回のように意表をついて相手を包み込めばどうなるのか?

 答えは単純明快だ。オーガビーストの頭部を丸ごと喰らい千切ったケダモノの顎が消えれば、首なしのオーガビーストがその図体に相応しい轟音を立てて倒れる。

 包み込めば逃げ場のない『不可避』の攻撃。オレのスタミナの半分も喰らう燃費の悪さであるが、それに見合う火力だ。ただし、発動前に布を切断されるなどして発動面積が確保できなければ不発に終わる。≪暗器≫としての隠密性が問われる切り札の1つだ。

 両膝をつき、ケダモノの顎を発動モーションのまま、握った左拳を胸に叩きつける。何度も何度も心臓を揺さぶる。

 動け。ファンタズマ・エフェクトで訪れた死ならば、ファンタズマ・エフェクトで打ち消せる。それはクリスマスで実証されている。オレが戦う……殺し続ける意思を示せる限り、この心臓は必ず動き始めてくれる。

 小さな音が内側から聞こえた。それは心臓が再起動した証拠であり、オレは前のめりに倒れて動けなくなる。

 凄い……眠いな。ああ、駄目だ。ここで寝たら絶対に死ぬ。でも……眠くて、眠くて……堪らない。

 流れてきたオーガビーストの血が温かくて、心地良くて、瞼が重くなる。

 

 

 

 戦え。立ち上がれ。言ったはずだ。貴様に祈りも呪いも無い、安らかな眠りなど無い。許されない。

 

 

 

 狩人がオレの後頭部を踏み躙る。こんな所で……戦場で寝そべるなと唾棄している。

 分かっているさ。少しだけ疲れただけだ。すぐに立ち上がってやる。一息入れて体を起こし、贄姫を振るって血を払いながらオーガビーストの遺体に近づく。その胸に突き刺さったままの死神の剣槍を抜いて背負うが、その重量がまるで何十倍にもなったかのように負荷となる。

 夜が訪れない黄昏の街。伯爵城までは着実に近づいている。これからはオーガビーストに遭遇しないように、あの巨体では入り込めない小路地を選ぼう。そう心に決めて、オレは贄姫を鞘に収めて歩き出す。

 だが、それを邪魔するように聞こえてきたのは車輪の音だ。薄れる視界を気怠く凝らせば、十字路の向こう側……伯爵城に続く道から馬車がこちらに向かってきている。牽引する馬は黄金の薔薇で覆われ、その瞳は青く、鬣は白銀色に輝いている。深淵の泥に呑まれた城下町には不似合いな、よく整備された趣のある黒色の馬車だ。

 一難去ってまた一難か。正直言って、心臓は弱々しく、脳は今にも溶けて形を失いそうだ。だが、だからと言って逃れられぬ脅威であるならば相対する以外に道はない。

 オレの正面で止まった馬車の扉はまるで見えざる手が存在するように開かれる。鼻孔を擽ったのは優しい薔薇の香りだ。不快感をもたらさない絶妙な配合がされた、身に着ける者の気品を示すような香水だと気づくのに時間は要らなかった。

 さて、どんな敵なのやら。贄姫を抜刀の構えで待ち構える。馬車から降りたところで水銀居合を喰らわせてやろう。

 だが、どれだけ待っても馬車から誰かが降りてくる気配はない。もしやと思って内部を覗き込めば無人だ。

 

「……乗れってわけか」

 

 罠、もしくはやっぱり罠だろう。だが。この馬車が伯爵城から来たお迎えならば、敢えて乗るのも手だろう。オレは馬車に乗れば、向かい合うように赤い座席がある。オレは片方に腰かけると開いた時と同じように扉は勝手に閉じ、緩やかな振動と共に馬車は走り出す。

 モンスターハウスに直行だろうか。それとも伯爵城で青銅騎士が1ダース……いや、100人体制で待ち構えているのだろうか。もう何でも良い。とにかく殺せば良いだけだ。

 内装も豪奢であり、貴族の優雅さを感じさせるように見る者を楽しませる趣向が凝らされている。特に淡い金の薔薇が生けられた青い花瓶だ。単なる調度品だけではなく、香水の原液らしい濃い金色の液体で浸されている。これが馬車を華やかに香らせている大元だろう。

 

「少し疲れたな」

 

 もう慣れたとは言いたくない。死神の剣槍を立てかけ、贄姫を鞘に収めて腕で抱いて瞼を閉ざす。この速度で伯爵城までならば相応の時間がかかる。正々堂々と罠に嵌めてくれるならば、その準備が整うまでありがたく休ませてもらうとしよう。

 思えば宿場町を出発してから危機一髪どころか危機のバーゲンセールだった。心臓は今も弱々しく、眠ればそのまま死に直行してしまいそうだ。

 

「……独りは怖い、か」

 

 もう慣れたさ、ナドラ。ソロの方が気楽だよ。ただ全力を尽くせば良い。目の前の敵の喉元を喰らい千切れば良い。

 あの時、オレがノイジエルの攻撃を避けなければギンジは死なずに済んだ。オレは元々誰かと組んでも意味がないのだ。『アイツ』はオレに背中を任せたけど、オレは1度だって『アイツ』に背後を守らせたことはなかった。今までだってそうだ。誰かに自分の生命を託したことは無い。

 ああ、そうだな。オレはやっぱり『独り』かもしれない。グリムロックの武器には全幅の信用を置いているが、壊れたとしても、オレは即座に切り替えて次の戦う術を探すだろう。それは戦場では正しいかもしれない。だけど、それは……

 

 

 

 大丈夫。私たちは生まれた時からずっと一緒だったでしょう? 私はいるから。ずっとずっと傍にいるから。

 

 

 

 肩に寄り添うヤツメ様の微笑みに、オレは贄姫を強く握りしめる。思考を止め、今は僅かでも脳の回復に集中する。時間加速の影響によって脳を休めることができない状況では高負荷によるストレスばかりが蓄積し、着実に疲弊している。それを補う為に無理を重ねれば重ねるほどに消耗は大きくなり、ここぞという戦いで綻びを生む。

 オレが甘かった。これからの戦い、もはや全てが死の淵にあるギリギリの一線、瀬戸際の死闘と心得るべきだ。武器とアイテムの温存は優先したいが、僅かとして気を緩ませることなく、脳が焼け爛れ、心臓が壊れるまで酷使する。その覚悟が足りなかったのが先のオーガビーストとの戦いの顛末だ。

 たとえ『理由』に過ぎないとしても、オレは依頼を果たす。サチとの約束を守る。『アイツ』の悲劇を止める。

 

「皮肉だな」

 

 戦い続ける歓びを。オレは『理由』のままに戦場を求め、血の悦びを探し続けている。

 血の悦びがオレを『獣』に近づける。そのはずなのに、飢えと渇きを癒す血の悦びだけがオレを『人』に少しでも留めてくれる。矛盾していて、破滅的で、救いようもない。

 馬車が止まる。HPは8割ほどまで回復する程度にはゆっくりと休めたか。空は相変わらずの黄昏色なので時間経過は分からないが、伯爵城の扉は音を立てて開錠し、オレを馬車ごと大顎の内に向かえるように敷地内へと連れて行く。

 迎えの時と同じように馬車のドアが誰の手も借りずに開き、オレに外に出るように指示する。死神の剣槍を背負い、贄姫を腰に差して降りる。すると馬車を牽引していたはずの馬は消えていた。代わりのように、馬車を挟むように、薔薇に包まれた馬の石像が雄々しくオレを迎えている。

 ……ホラーチックだな。どうでも良い。振り返れば、轟音を立てて伯爵城の正門は閉ざされて逃げ場を奪う。もはや後退することはできない。無論、退くという選択肢もない。ランスロットを……いや、オベイロンを殺すまでは一切の妥協なく狩り続ける。

 遠目では分からなかったが、もはや廃城と呼ぶ他ないほどに伯爵城は荒れている。城のエントランスに続くだろう、騎士のレリーフが掘られた石畳は枯れ葉と散った金の花弁が絨毯となっている。掃除する者もいないのだろう。途中の噴水は水が止まり、藻で緑色に濁っている。

 伯爵城の内部に続く玄関の両開きの扉。そこを守護するように特大剣を有した青銅騎士2人が待ち構えている。どちらもオレを索敵範囲に捉え、即座に動き出す。

 

 来たれ。

 来たれ来たれ。

 来たれ来たれ来たれ。狩人の血よ、来たれ。

 

 滾る狩人の血はヤツメ様の導きの糸と絡む。狩人の予測が全開で瞳となって開き、青銅騎士の動きを捉える導きの糸から得られた情報を掌握する。

 右の青銅騎士の突きをステップで躱し、左の青銅騎士の踏み込みからのかち上げ斬りを紙一重で躱しながら背後を取って贄姫で斬り払う。そのまま振り返ったところで顔面を掴んで後頭部から地面に叩きつけ、胸を踏みつけて足場として跳び、カバーに回ったもう1体の横薙ぎを宙で躱しながらその首に鞘に収めた贄姫でカウンターの水銀居合を直に浴びせる。

 深淵に蝕まれた黒い血はリゲインの回復範囲らしく、HPは微量ではあるが回復する。立ち上がったもう1体が左手を地面につければ、その周囲で黒い渦が暴れ回る。やはり闇術の類を備えていたか。渦巻く闇は範囲こそ狭いが薙ぎ払いの全方位攻撃であり、そのまま放出を続ければ追う者たちのような黒い霊魂が飛来する。

 鈍い追尾性能を備えた黒い霊魂をステップで躱しながら間合いを詰めれば、その間に特大剣に闇属性エンチャントを施して火力を高めたもう1体が大振りで特大剣を振り下ろす。そこから続く派生の連続斬りの嵐の剣筋を見切って避け続ける。

 死神の剣槍を左手で抜きながら振り下ろし、そこから右手の贄姫の斬撃を組み合わせた連撃を繰り出す。死神の剣槍の打撃ブレードと贄姫の純斬撃属性の鋭利な刃、そして付随するアルフェリアの泥と水銀の刃。

 かつて追い求めた『アイツ』の背中。その象徴だった二刀流ではなく、オレが目指すべきはシャルルの武技。数多の武具を操ったシャルルの『力』。

 ああ、分かっているさ! そこには彼の信念も矜持も無い。それを踏み躙って喰らい、オレは『力』だけを遺志として糧とする! 

 

「借りるぞ、シャルル!」

 

 ようやくアナタも糧にできた。シャルルが見せた圧倒的な連撃の片鱗をつかみ、オレは1体目の青銅騎士を連撃で圧殺し、そのまま闇の渦を再び生んだ青銅騎士に恐れず踏み込む。左手の死神の剣槍を先行させ、その影を追うような贄姫の一閃による、ディレイをかけた二撃一閃。死神の剣槍の打撃ブレードと泥で体勢を崩し、または怯ませ、そこで狙い澄まして常時修正を加えたヤツメ様の導きを乗せた贄姫の一閃と水銀の刃による追加ダメージ。

 左手の死神の剣槍の突きからそのまま贄姫を斬り払う。即座に手首のクイックを利かせながら贄姫を逆手に持ち替えて腹を薙ぎ、死神の剣槍の肩まで振り上げての叩き斬り。兜からは賽れた頭部は血と肉を撒き散らし、オレを染める。リゲインが回復をもたらす。

 足りない。AIでは血の悦びを得られない。もっと強敵がいる。もっともっと糧がいる。シャルルの戦技は彼の人生の集大成だ。≪剛覇剣≫は彼の切り札ではあったが、それを支えたのは彼が至ったアルトリウスとは異なる武の極み。あらゆる武具を用いた乱撃こそが彼の真骨頂。オレが簡単にたどり着けるものでもない。だからこそ、必要なのは我流へのアレンジ。シャルルの戦技を、これまでと同じように、狩りの業へと昇華させる。この血肉へと変えるのだ。

 

「シャルルの武技とアルトリウスの剣技、それにNの槍技……面白いことができそうだな」

 

 それに……ザクロ、オマエの『力』だってある。空ろではあるが、ランスロットに果敢に挑んだ彼女の『力』も脳裏に焼き付いている。託してくれた闇朧と共に糧として狩りの業にしよう。

 玄関の両開きの扉に手をかければ、馬車と同じように自動で開く。そこは想像していたとは違う、よく清掃が行き届いた広々としたエントランスだ。慎重に、だが無用な恐怖などなくエントランスを進む。

 だが、城内への侵入を阻むように、今度は半透明のゴーストらしき侍女や使用人が現れる。いずれも深淵泥で蝕まれた霊体である。その双眸は闇に呑まれ、深淵の泥を涙のように際限なく流し続けている。

 エントランスの扉が閉ざされ、燭台の火が一斉に灯る。それは紫色の光を讃え、あらゆる所に淡い金薔薇が飾られた伯爵城の内部を照らす。

 使用人や侍女は数で攻めるタイプらしく、得物はせいぜい護身用のナイフであるが、とにかく群がって襲い掛かる。物理属性の贄姫では相性が悪いか。大人しく鞘に収め、左手で持った死神の剣槍のギミックを発動させる。その刀身は分裂し、ワイヤーで繋がったそれらは叩き潰す鞭としてゴーストを薙ぎ払う。闇属性のアルフェリアの泥はともかく、保有する魔法属性は十分にゴーストにも通る。これならば問題ないだろう。だが、物理属性分は大きな減衰を受けている。

 純雷属性の雷弾を撃てるザリアならば有利に……いや、装弾数優先だな。手抜きはしないとはいえ、残弾数に限りがあるザリアを雑魚相手に乱発していては本末転倒だ。

 分裂した刀身を繋ぐワイヤーは泥で補強され、屋外と異なって清掃されていた城内がアルフェリアの泥で穢れる。泥は床に、柱に、壁に付着する度に、叫びをあげるような苦悶の顔を泡立たせて消える。

 歩いてナイフを振りかかることしかできないゴーストたちなどに後れは取らない。エントランスを抜け、巨大な肖像画が飾られた踊り場に続く階段を睨む。赤い絨毯が敷かれた階段には

装飾のように淡い金の薔薇が飾られていた。それは黄昏の光が差し込む城内において、まるで蛍火のようにオレを導こうとしているようだ。

 

 

 

 

「う~ん、やっぱりかぁ。キミが先にたどり着くことになるとはねぇ」

 

 

 

 

 だが、オレが城内の本格的な探索に乗り出すより先に、軽やかな足音と共に階段を下りる人影があった。

 それは白いスーツを着た若い男だった。緩やかな癖のある金髪であり、その顔立ちは整っている。童顔の類なのだろうが、その双眸は無垢なる邪悪で渦巻いているような混沌だ。

 

「おや、ボクをしっかり直視できる相手は久しぶりだね。ボクと同類で『血』に呪われた末裔なのかねぇ。だったら忌々しいが、自己紹介が必要そうだ」

 

 その声には覚えがある。

 チュートリアルでデスゲーム開始の宣言をし、そして妖精王殺しを依頼した男の声だ。

 階段の踊り場で右手を腰にやり、オレを見下ろす男は嘲笑とも取れる歪んだ笑みを浮かべた。

 

 

「インターネサイン家の末裔としてキミを歓迎しよう。ようこそ、傭兵くん」

 

「茅場の後継者に、久遠の狩人として手厚い歓迎に感謝を」

 

 

 狩人たる者、礼儀と礼節を重んじるべし。死神の剣槍を背負い、右腕を横に振りながら腰を折る。だが、決して目線だけは相手から離さぬ一礼である。

 睨み合うオレ達だったが、後継者の方が敵意は無いというように肩を竦めて手招きする。

 

「少し話をしようか。オベイロンのせいで壊れた月明かりの墓所。キミと語らうには丁度良さそうだ♪」




呪われた血族、相対する。
まだまだ伯爵領は続きます。

それでは268話でまた会いましょう。

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