SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

妖精王はやっぱり妖☆精☆王だった




Episode18-38 滴り

 雷鳴と稲光。そして、窓を叩くのはまるで蒸し暑い夏に降るような生温い雨だった。

 宗教都市の拠点である館の談話室は、冬ならば煌々と輝く暖炉に惹かれるだろう。だが、今は暖炉を囲む形で配置された5脚のソファ、その3つにシリカ、リーファ、ユウキが腰かけていた。彼らとは同席せずに壁にもたれて腕を組んだユージーンは小さく嘆息する。

 まだ豪雨と呼ぶほどではなく、だが、それは容易には止まないと示すかのように強かだ。長雨の予感を覚えさせるその音色に耳を傾けながら、ユージーンはまるで深海のように重圧が籠った空気を破るべく口を開いた。

 

「つまり、こういう訳だな? オレも貴様らも、まんまと【閃光】に謀られた、と」

 

「まだ……まだそうと決まったわけじゃないです! アスナさんにはきっと何か理由が――」

 

「理由が何であれ、私達に相談もなく、独自の計画を実行したのは間違いないです。まずは事実を事実として消化しましょう」

 

 ユージーンに反射的に反論して轟雷の到来とも勘違いする程の大声を上げながら立ち上がったリーファに、薬茶を淡々と飲みながらシリカは指摘の杭を突き刺す。

 忌々しそうにシリカを睨むリーファであるが、まずは事実確認が重要だと判断できる冷静さは残っていたのだろう。明らかに落ち込んでいるユウキを心配するように一目だけ見ると、ゆっくりと腰を下ろす。 

 今にも空中分解して各々が勝手に動き出しそうな雰囲気に、こういう時にリーダー役が出来るサクヤさえいれば、とユージーンは内心で舌打ちした。ユージーンもALO時代に人を率いる『将軍』という身であったが、それは彼自身の剣の腕で得たものだ。典型的な武人であるユージーンは、その武勇で人を束ねることは得意としても、相手の心情を解し、舌戦で屈服させ、人心を掌握して纏め上げる事は本分としていない。出来ないと言えば嘘になるが、それでも敢えて適正ランクを付けるならばC程度だろうと認めている。

 シリカは頭の回転も舌戦も心理戦も策謀も全てが可能なオールラウンダーだ。だが、特筆してずば抜けているものと言えば事務処理能力くらいだ。補助に徹する事で真価を発揮するものであり、生来の素質なのか、人を率いる才覚はない。また、本来はチームに必要不可欠なムードメーカーとしての素質があり、普段は苛立っているか仏頂面のどちらかしかない表情をもう少し外見相応の笑顔で飾れば、それだけでチームは和やかになるだろう。

 リーファはユージーンと同じ武人肌だが、彼女は組織人になれないタイプだ。そもそも人を率いたり、指示を出したりする事を嫌う傾向がある。個人の称賛よりも『仲間』と分かち合う喜びを優先するタイプだ。それ故に彼女にとって『仲間』という枠組み以上の関係を好まず、故にあれこれ口出しして方針を決定づけるのが苦手なのだろう。だからこそ、自分以外の誰かにリーダーをしてもらいたいたがる傾向がある。彼女のようなタイプはリーダーをするにしても神輿になるか、その性質を利用して副リーダーとして人間関係の調整役を担うのが最適である。

 そして、ユウキ。彼女はユージーンが旅していた頃とは大きく雰囲気が変わっている。あの頃は危険な情熱に溢れていたのだが、今はすっかりと消沈しており、覇気も無い。だが、どちらにしても彼女は3人で最も性質が悪い。彼女は自分の信条を優先するタイプだ。信条に合致する間は指示にも従うが、譲歩できない一定ラインを超えると離反どころか牙を剥いてくるだろう。また、本質的には謀略を好まない気質なのだろう事も随所で窺える。何にしてもリーダーにしてはいけない典型だ。

 

『と、これが私なりのお前たち4人の分析だ。お前は抜くとして、リーファの事は良く知っているつもりだから外れは無いだろうし、シリカは何度か会話したから概ね違いはないだろう。ユウキはユージーンとシリカの口からしか聞けなかったが、彼女のようなタイプはまず人の上に立とうという意識自体が無い。つまり、私が表に出られない以上は、お前がリーダーをするしかない。だが、あの手の3人は武勇を示して有無を言わさず従わす事が無理なタイプばかりだ』

 

 樹人との契約が難航する中で、これでもかと語ったサクヤを思い出し、ユージーンは眉間に皺を寄せる。

 当たっているのが実に気に喰わず、またこの緊急事態だからこそ、レギオン問題でリーファと接触できないとはいえ、何らかの入れ知恵が欲しいとユージーンは前頭葉から発するような鈍い頭痛に唸りたくなる。

 この緊急事態を早馬の文でもらったユージーンは、サクヤを要塞跡に残し、急行して館での会議に出席している。彼女と離れ離れになるのは些か不安であるが、ティターニア降臨による混乱は要塞跡に集結させた戦力にも波紋を生んでいる。これを抑えられるのは『ユージーンの愛人』なる噂が立っているサクヤだけだ。普段はフード付きローブで顔を隠しているのでリーファにはバレていないのだが、それでも彼女の若干以上に軽蔑が入った眼差しは痛いものがユージーンにもあった。なお、この噂はわざわざユージーン自らがシリカの手助けを借りて広めたものであり、サクヤを守る為の名誉の自傷である。

 

「まずは『結果』だけを述べます。『アスナさんは私達に断り無しに意図して素性を明かし、なおかつ現在はバーンドット大司教の保護下で、オベイロンの元への帰還を望んでいる』。これに異議がある方はいますか?」

 

 真っ直ぐに天井を突き破る勢いで右手を伸ばしたのはリーファだ。溜め息を吐きながら、シリカはリーファに発言を促すように頷く。

 

「ユウキちゃん、本当にアスナさんは自分から正体を明かしたの? だってインプの子が殺されそうだったんだよね? アスナさんはずっとずっと『ティターニア』の名前で処刑されたり、罰せられている人たちがいる事を思い悩んでたもん。きっと、その時も耐え切れずに衝動的になって明かしたのかもしれない。そうに違いないはず!」

 

 なるほど、筋は通っている。ユージーンも組んだ逞しい腕を叩く指のペースを速める。アスナは【閃光】とまで名を馳せたアインクラッドの名剣士だとしても、その心は少女のはずだ。常人ならば、たとえティターニアという望まぬ別名だとしても、『自分』を利用して不条理に処刑されていく人々を見て思い悩まないはずがない。むしろ、抱く必要が無い罪悪感に押し潰されるはずだ。

 事実としてアスナがリーファと初期に動いていた頃は、理不尽な処刑を止めるという意味も含んでいたはずだ。それは成功して噂の蔓延と共に鳴りを潜めたが、戦争の不安が治安維持の為のスケープゴートとして今度はインプやケットシーといった差別階級への風当たりを強めた。これにいよいよ耐え切れなくなったアスナの衝動的行動は納得できるものがあるとユージーンも認める。

 だが、シリカの淹れた薬茶で満たされたティーカップを膝に、縁を親指で撫でていたユウキは沈んだ表情で俯きながら首を横に振る。

 

「アスナは計画してたと思う。暴露するタイミングはもっと狙った場面があっただろうし、アスナとしてもインプの子を助けたかったからフライングだったとも思う。でも、アスナは間違いなく計画してたよ。ボクたちに内緒で……『自分がティターニアだ』って明かすつもりだったんだ。今にして思えば、女王騎士団の保有するソウルの話をしたのも、計画の為に緊急でレベルアップの必要性があったからなのかもしれない」

 

 その場に居合わせたユウキの発言に、リーファは額を押さえながら項垂れる。ユグドラシル城からの脱走以来、アスナを護衛し、また彼女の計画に全面的に協力してきたのは他でもないリーファだ。彼女からすれば最大の裏切り行為であり、同時に自分は相談相手にもなれない程に不甲斐なかったのかと苦しんでいるのだろう。

 

「この『結果』からアスナさんの意図は何か。想定されるパターンは3つ。その1『アスナさんは本気でオベイロンに屈した』。その2『オベイロンを誘き寄せて反撃の一手を企てている』。その3『そもそも何も考えていない。ただの自棄』。ある意味で最悪なのはその3ですが、この現状です。想定パターンに加えるべきでしょう」

 

 明らかに感情剥き出しにして睨んだリーファとユウキに、シリカは『だから感情的になるな』と一喝するように睨み返す。それをやや離れた場所から鑑賞していたユージーンは、何であれ女の戦い程に恐ろしいものはないな、と再認識する。

 

「その1も無いものと見て良いだろう。ここまで計画を進めておきながら怖気づいたとも考えられるが、オレが知る限りでもあれは根性がある女だ。オベイロンの所業を知ってもなお、自分可愛さに媚びを売る程にプライドが無い女とも思えん。ならば、その3はまだあり得るとしても、その1はあり得ないと見て良い」

 

 どうせオレのフォローは予想済みなのだろう? ならば仕事をしてやろう。ユージーンの厳かな指摘に、シリカは満足したように頷いた。この場での『ランク1』としての仕事は、何にも動じない議題の円滑剤となる事だ。リーファは既に感情のボルテージが振り切れそうであり、シリカもよくよく見れば拳を固く握っている。ユウキは沈んでこそいるが、アスナを見送るしかなかった自分を責めているからこそ、どんな爆発的行動を起こすか分からない。

 故に最も事態を客観視できるのはユージーンだけだ。自分は何が起ころうとも冷静さを失って行動を起こしてはならないと戒める。

 

「その1とその3は考慮してもどうにもならん。そもそも、その1ならば既に我々はオベイロンの軍勢に包囲されている。ならば、我々は【閃光】に『裏切られた』のではなく、『守られた』と見て今後の行動を決定すべきだ」

 

「私も同意見です。アスナさんは私達を『守る』為に、単身で大きなリスクを背負った。それが最もしっくり来る『シナリオ』なんです」

 

 どういう事? そう言いたげなリーファとユウキが同タイミングで疑問符が頭上に貼りついたような表情をしたのを見て、シリカは自分に冷静さを注入させるようにティーカップに口をつけた。

 1秒1分の度に雨が強まっている。そんな気がするほどに沈黙が重い。ユージーンは耐え忍び、シリカの次なる発言を待つ。

 

「アスナさんからの要求について、我らの頼りにならないパトロンのゴードンさんが得た情報ですが、彼女の要求は1つ。『ケットシーとインプの差別階級撤廃』です。これさえ飲めば、彼女は約束の塔にてオベイロンの迎えに身を委ねるそうです。でも、そもそもオベイロンを倒せば、ケットシーとインプは解放できます。1度根付いた差別意識を取り除くのは難しいはずですが、『ティターニア』としての権威を使えば、少なくとも種族復興は可能なはずです。ならば、アスナさんのこの要求は『オベイロンを誘い出す為』という目的があると見るのが妥当です」

 

「ちょっと待って。その前提だと、アスナは約束の塔に『オベイロン自らが来る』って想定しているって事だよね?」

 

 ユウキの指摘は尤もだ。そもそもオベイロンはアルヴヘイムでも数える程度にしか君臨した事が無い、半ば伝説上の王として扱われている存在だ。ユグドラシル城という安全な場所から抜け出してくるだろうか? あり得ないとユージーンは断言する。わざわざ『愛妻家』としてアピールするにしてもオベイロンには利益が無い。聞いた話の限りでは、そしてサクヤが受けたおぞましい屈辱を知ったからこそ、オベイロンにそんな人情はないとユージーンは判断できる。

 

「私はそう思っています。オベイロンに関してはアスナさんが1番ご存知でしょうし、自分の要求についてどんなアクションを取るのかも想像できるでしょうから。そして、私の推測はこうです。『アスナさんにはオベイロンを倒す秘策がある。だけど、それはリスクが大きく、またアスナさん単独じゃないと実行できない。もしも失敗した時に備えて、また私たちの反対を予測して、独断行動に走った』。それを裏付ける要素として、アスナさんが暴露した昨日、ユウキさんと女王騎士団の秘密を探りに共同墓地に行く前に、麻痺薬の作成を頼まれました。『万が一の備え』という事だったので、レベル2の麻痺薬を作成しましたが、それも計画の1部だったならば……」

 

「そういえば、アスナは≪暗器≫に強い興味を持ってたんだ。もしかしたら、それもオベイロンを倒す為に必要だったのかもしれない」

 

「あり得ますね。それに今回の作戦でバーンドット大司教領の約束の塔を選んだ事についてですが、共同墓地の責任者はバーンドット大司教だそうです。女王騎士団の秘密、死体を食べさせてモンスターからソウルを作っていたなんてスキャンダル、バレたら女王騎士団の名誉は地に堕ち、なおかつバーンドット大司教は反逆罪の汚名を政敵にここぞとばかりに被せられて良くて失脚、順当にいけば処刑でしょう。この動き、アスナさんは入念な根回しがあったようですね。恐らく、私たちが接触した後に得た貴族間のパイプを使ったものと思います」

 

「つまり、【閃光】は既に1部の貴族には『ティターニアがいる』と自らの存在を明かしていて、計画がスムーズにいく土台を作っていたというわけか。フン、控えめに言っても恐ろしい女だな。根回しが過ぎるぞ。だが、それならば納得もいく点も多い」

 

 大ギルド相手に中立を保ち続けたサクヤにも匹敵する知略だけではなく、武勇も間違いなく自分にも届き得る。亡き後もアインクラッド攻略組として最前線を支え続けたと名が残り続ける【閃光】の異名を持つ刺剣使いだ。そして、当時最有力ギルドだった血盟騎士団の副団長という肩書きからも彼女の類稀な美貌も含めた人心掌握に長けた天性のカリスマも窺える。トータルスペックの高さが桁違いだ。

 そんな彼女の死と血盟騎士団トップが茅場昌彦だったという暴露で総崩れとなった75層以降の攻略。ユージーンも書物と風聞でしか知らないが、急激に上昇した難易度も後押しして、もはや地獄のあり様だった事は間違いない。それを思えばこそ、大ギルドはいかなる形であれ、完全攻略に必要不可欠だったものを揃えており、DBOがどれだけ絶望的な難易度だとしてもここまで順調に攻略できたと言えるだろうと再認識する。

 

「樹人の契約を取りに行っている最中だが、方々でティターニアへの噂が不自然な程に蔓延していた。行商人からの情報も考慮すれば、そのペースは凄まじく、恐らくだが、既にアルヴヘイムの有力貴族間では常識であり、そうでなくとも市井にとっては実しやかに語られている噂のはずだ。だが、ティターニア教団が意図して流したならば納得もいく。【閃光】はオベイロンに自分が宗教都市にいると敢えてアピールするだけではなく、アルヴヘイム中の注目を集める必要があった。それもオベイロンへの誘導の1つとするならば……」

 

「だとするならば、アスナさんの焦りとも思える行動は、自分が想像した以上のペースでの噂の蔓延にあるかもしれません。彼女が望んだのはアルヴヘイムで『噂』程度で語られる……要はここぞという時に注目を集めるゴシップ扱いだったはず。ですが、アルヴヘイムの情勢不安は『慈悲なるティターニア』を望み、『噂』を『限りなく真実に近い噂』として広めてしまう程になってしまった。だからこそ、アスナさんは早急に行動を取らねばならなかったはずです。そして、その後押しとなったのは……」

 

 幾ら【閃光】でも読み切れなかった、アルヴヘイム全土に広まるティターニア待望論。それは反オベイロン派の決起、深淵の蔓延、獣狩りの夜によるレギオンの跋扈といった不安要素の連鎖が起こしたものだろう。逆に言えば、ユージーンたち『部外者』が感じている以上に、アルヴヘイムで生まれ育った生粋の『住人』たちの内に潜む恐怖心は神にも等しい妖精の女王を望む程に育ってしまっているのかもしれなかった。

 この場にいないアスナとアルヴヘイムの現状に意識を傾ける。それはこの場面で痛恨のミスだとユージーンが悟ったのは、言い淀んでいたシリカが唇を噛み、その上で言葉を発しようとした時だった。

 

「アスナさんの行動が性急だったのは……ユウキさんが原因かもしれません」

 

 シリカは冷静に『情報』を並べているだけだ。だが、そこには推論や仮説も過分に含んでおり、彼女自身もそれを念頭に入れて、無情と思えるほどに淡々と語ってきたはずだ。だが、この場でシリカは僅かに感情を滲ませながらの発言の矛先、それがリーファではなくユウキである事に、ユージーンは奥歯を噛む。

 

「待て、シリカ! その言い方は――」

 

「……ボク? ねぇ、『ボクのせい』って……どういうこと?」

 

 責める気はないのだろうが、不味いぞ! 遅れた諫めをユージーンが焦りを散らしながら述べるもユウキの小声ながらもどろりと濁った感情の発言が塗り潰す。

 シリカもハッとしたように口を手で押さえる。彼女には悪気など無かったのだろう。ただ、アスナの行動が何を意味しているのか解明し、この場を上手く纏め上げ、アスナの意向に沿いながらも何とか空中分解しかねないこのチームを繋ぎ止めようとしていたのだろう。

 だが、その所作も失敗である。自らの失言を……『言い方』を戒める為に口を咄嗟に手で押さえたのだろう。だが、見方を変えれば『うっかり本音が出てしまった』というアクションにも取りかねない。

 そして、ユージーンが危惧した通りに、顔を青くしたユウキはゆらりとソファから立ち上がり、シリカに詰め寄る。

 

「ねぇ、『ボクのせい』ってどういう事!? どういうことなの!?」

 

「そ、それは……その、ユウキさんがあまりにボロボロで……アルヴヘイムは強敵揃いだから……その……」

 

 それは『素顔』なのか、今にも泣きだしそうな幼い顔でシリカは言葉を迷わせる。必死に取り繕っていた自分が剥げ始めていく。

 

「し、仕方ないじゃないですか! だって……だって、『あの人』を倒すほどの……シノンさんの援護込みで倒せないくらいのバケモノがいるんですよ!? ランスロットって何なんですか!? そんなバケモノに私たちが力を合わせた『程度』で勝てると本気で思ってるんですか!? それにユウキさんも『あの人』もシェムレムロスの兄妹にボロボロにさせられて、皆……みんなみんな傷ついて……アスナさんが『自分だけ安全な場所にいる』って感じるのは仕方ないじゃないですか! 仕方ないじゃないですか!? せめて『あの人』と会う前に計画を実行しないとって……そう、焦るのも……仕方ないじゃないですかぁ!」

 

 決壊した涙を子どものように手の甲で拭いながら、シリカは嗚咽を漏らす。シリカの肩を掴んでユウキは茫然としてフラフラと後退り、暖炉の傍の壁にもたれかかるとへたり込んだ。

 

「アスナさん、言ってました。『まるで妹が出来たみたいだ』って。ユウキちゃんのこと、かなり気にかけてたと思います。あたし、馬鹿な事言っちゃった。『あたしもアスナさんの妹になりたいな』って。あたし、甘えてたんです。アスナさんは凄く奇麗で、頭も良くて、いつも自信満々で……凄く温かい人だったから」

 

 慰めるように飛んできたピナが羽毛のふわふわの翼でシリカの涙を拭う。その様をぼんやりと見ていたリーファはソファで膝を抱えて顔を隠しながら呟いた。

 

「……アスナさん、きっと追い詰められてたんですね。あたし達に相談できないくらいに……きっと、ギリギリで踏ん張ってたんですね。だから、あたしたちが『傷つかないように』って……自分だけで背負い込もうとして」

 

 連鎖反応を起こしたリーファの暗い言葉が談話室の空気を更に重々しくする。リーファの涙を堪える吐息とシリカの鳴き声が不協和音となり、茫然としていたユウキが狂ったように唇を歪める。 

 

「ボクが……ボクが『弱い』……から? あは、アハハハ……あハははハハハ!」

 

 終わったな。ユージーンは一呼吸と共にこのチームの崩壊を理解する。何にしてもアスナの計画を邪魔するという選択肢はない。彼女の計画の全容は不明だが、少なくともオベイロンに一矢報いるのは間違いない。その結果が彼女の死であれ、再度の幽閉であれ、およそ悲劇で終わる確率は高いだろう。だが、それでも、分の悪い賭けだとしても、アスナは出るに足る根拠があり、そして失敗した時に備えたプランも準備してあると見るべきだろう。

 ならば、ユージーンがすべきことはアスナが『秘匿』してくれた自分と率いる戦力を温存することだ。ここで敢えて目立ち、オベイロンに悟られる真似だけはすべきではない。

 だからこそ、ユージーンは破裂するように動いたリーファの左腕を掴み、そのまま床に押し付ける事に成功した。

 

「放して! アスナさんを助けに行かないと! あたしが行かないと! 約束したんだもん! アスナさんはあたしが守るって……必ずお兄ちゃんに会わせるって……約束したんだもん!」

 

 涙を溜めた眼で自分を床に押し付けて拘束するユージーンを鬼の如く睨むリーファであるが、その程度で怯むほどに温い傭兵生活を送っていたわけでないユージーンだ。だが、同じくらいにリーファの気持ちが分からない程に冷たい心を持つわけではない。

 むしろ共感している。仮にこれがアスナではなくサクヤだったならば、形振り構わずにユージーンは助けに行くだろう。彼女の意図を無視してでも、救いだそうと駆けるだろう。だが、残酷にもアスナはアスナであり、サクヤではない。故にユージーンは冷静さを失わない。

 

「貴様1人で行って何になる? 相手はバーンドット大司教派閥の女王騎士団、大司教領の兵士、それにティターニア信徒も警備として集まるだろう。情報ではすでに約束の塔周辺には数十のアルフが集まっていると聞く。元より最近の宗教都市周辺ではアルフの目撃例が多かったからな。奴らが一斉に集結したということだろう。それだけの軍勢相手に貴様は戦えるのか? 飛行というアドバンテージも打ち消される状況で、戦えるのか?」

 

「それでも、それでも……あたしは……あたしはお兄ちゃんの『妹』だから! ここで戦わなかったら、もうお兄ちゃんに顔向けできない! アスナさんを死なせてしまったら、あたし――」

 

 仕方あるまい。すっかり『素顔』が出てしまったらしいシリカは涙を拭いながら、ビクリとリーファの鬼気迫る叫びに怯えている。本来は臆病な性格なのだろうに、彼女もまたずっと無理をしていた人物なのだろう。

 この話題の中心には間違いなく【黒の剣士】がいる。リーファが『お兄ちゃん』と呼ぶのも話の流れからして【黒の剣士】に違いないだろう。ならば、まさに本人だろうと目されている二刀流の黒衣の剣士を思い出し、ユージーンは舌打ちをいよいよ堪えきれなかった。

 貴様の問題ならば貴様で解決しろ! STRでは圧倒的に格上であるが、このまま延々と押さえつけることは出来ない。ユージーンはリーファの気持ちが痛いほど分かるからこそ、部外者である自分こそが冷静な行動を取らねばならないと我が身に言い聞かせる。

 

「シリカ! 縄を出せ! この際、鎖でも構わん! リーファを拘束する!」

 

「え? えぇ!? で、でも……」

 

 駄目だ。使い物にならんか! すっかり『少女』の顔になっているシリカと壊れて自嘲するユウキ。どちらも期待できないと知り、ユージーンは何とか片腕だけでリーファを拘束し続けようとするが、リーファの抗いはどんどん大きくなる。

 STRは圧倒的に上のはずなのに、引き剥がされる。その不可解な現象に、火事場の馬鹿力の如く最初はSTR出力の上昇かと思ったが、パワーの出し方に明確な違いを感じる。それはSTR上昇のバフがついた時のような、底値が上がったようなパワーだ。

 

『ユージーン君、キミは茅場の後継者が言う「人の持つ意思の力」とは何なのか、考えたことがあるかね?』

 

 それは会食の席でセサルがワイングラスに入った血よりも血に似たルージュの液体を揺らしながら、豪快にステーキを切り分けるユージーンの手を止めた一言だった。

 率直にユージーンは『知らない』と答えた。ようやくステータス出力の上昇という技術を体得したユージーンは新たな『力』の伝授なのだろうと興味を示したが、セサルはその態度そのものが面白いと言うようにワイングラス越しでユージーンを見つめた。

 

『私は多くの「知識」を集められる立場だったものでね。最先端テクノロジーであるVR・AR技術関連も得ていた。その中には荒唐無稽な論文も多かったが、1つに奇妙な説があったのだよ。「人の自意識が仮想世界の法則を支配する」というものだ。漠然とした、何ら裏付けとなる研究もない、世捨て人が直感のままに出した論文だ。いわゆるオカルトだな。だが、私はそれに奇妙なまでに惹かれた』

 

 時々であるが、セサルは人を試すように未知の情報を口にする。その反応を見て楽しむのだ。またお遊びだろうと思っていたユージーンは端的に興味がないと冷めて切り捨てた。

 

『仮にそのオカルトが真実だとしよう。果たして、ゲームの運営は望むかな? システムバランスを崩壊させる因子を放置するだろうか? 私は「否」と答えよう。それは「バグ」だ。ならば修正せねばならないだろう。それが「管理者」というものだ』

 

 どうして、こんな時にセサルの与太話が頭の隅を突く!? だが、後継者は紛れもなくデスゲーム開始の宣言の時、明らかな敵意を持ちながら『人の持つ意思の力』を否定した。あの頃は決意や覚悟がもたらすパフォーマンスの向上によって普段では突破できない困難をクリアするなどの精神的な意味だと思っていた。

 だが、セサルが『オカルト』と述べた『力』が存在するとしよう。その時それは『オカルト』ではなく『人間に備わっている能力』となる。そして、仮想世界の法則……『情報』に干渉できるならば、レギオンプログラムというある意味で『情報』に侵蝕されているサクヤにも有効かもしれない。

 サクヤを助けられるかもしれない。そんな期待が過ぎり、ユージーンは何を馬鹿な事を考えているのだと頭を振り、今にも自分の手を解きそうなリーファに、ユージーンは覚悟を決める。拘束する手を動かして彼女の腕を捩じった。

 嫌な音がしてリーファの左腕が肘よりあらぬ方向に曲がる。その音色にシリカはビクリと震え、ユウキは笑いを止めた。

 

「あぁあああああああああああああああああ!」

 

 たとえ痛みはなくともダメージフィードバックは相当なものだ。最前線に立つ上位プレイヤーでも、腕が折れたり切り落とされたりすれば、そのダメージフィードバックと欠損した事実にパニック症状を引き起こし、正常な判断力を失って退却すれば助かる場面でも動けなくなって死亡する事が多々ある。

 暴れ回るリーファの目はダメージフィードバックに支配され、正常が輝きが無い。どうやら腕を折られる経験はあまり無かったか、それとも初めてだったのかもしれない。逆に言えば、それ程の危機に陥った事が無い程に優秀なプレイヤーだったとも言えるだろう。ユージーンは後でサクヤにみっちりと説教を受けようと諦めながら、呻くリーファにアイテムストレージから取り出した縄を巻き付ける。

 

「確か地下に倉庫があったな。そこに閉じ込めておく」

 

 リーファよりも落ち着いているだろうシリカとユウキは心配いらないだろう。ユージーンは損な役回りだと諦めながら、リーファを肩に担いで談話室を出る。控えていたらしいインプの召使いに、しばらくの間の彼女の世話をするように頼み、本来はワイン樽や燻製肉を保存する地下倉庫に押し込める。後で寝具などを持ち込むとして、今は1人にさせておくのがベストだろう。痛みとは違う、まるで神経をミキサーにかけたような独特のダメージフィードバックは経験者でなければ語れないものがある。

 

(それでも本物の痛みに比べればマシだろう。だが、それでも善良な女子の腕を折るなど、気持ちの良いものではないがな)

 

 敵ならばいざ知らず、仲間の腕を……それも女の子の腕を折るなど気分が悪いだけだ。ユージーンは実行して自分の手を見つめながら、せめて冷静さを取り戻したリーファに盛大に罵倒され、またサクヤに罵られれば、この気分も晴れるだろうと意識を切り替える。

 現在、アスナはバーンドット大司教領にある屋敷にて『保護』されている。ユージーンたちが宿泊していた巡礼の宿泊村と目と鼻の先であり、約束の塔にも近い。

 約束の塔周辺の森はバーンドット大司教によって巡礼の為に整備されており、それ以外の場所はモンスターこそいないが人の足では簡単に踏破できない。たとえプレイヤーでも、人間の足である限りには仮想世界で得た身体能力を使ってもスピードは出ないだろう。樹人との契約の際に歩き回ったユージーンだからこそ言えることだ。シャルルの森ほどではないが、歩くだけでも相当な苦労が強いられる。

 また、渓流を超える為の橋もあり、それを通らなければ約束の塔には近寄れない。よって、それらの橋と道を封鎖してしまえば、バーンドット大司教側の防備は『空』を除いて完璧だ。その空もアルフ達が制空権を握るのであるならば、リーファにはどう足掻いても勝ち目はない。まだ約束の塔に向かっていない今ならば大司教の館から連れ出すことも出来るかもしれないが、当然ながら警備が厳重であり、アスナを狙った【来訪者】が仕掛けるのを待っていると言わんばかりにアルフも警備しているだろう。

 

(オレの判断に間違いはなかった。そうだろう、UNKNOWN?)

 

 仮面で素顔を隠す【黒の剣士】だと噂される傭兵に、ユージーンは拳の1発くらいならば甘んじて受けてやろうと増々の溜め息を重ねる。

 談話室に戻ると残っていたのはシリカだけだった。てっきり全員いなくなったものだと思っていたユージーンは若干驚きながら、シリカの空になっているティーカップに新しい薬茶を注ぐ。濃厚な薬草の香りに顔を顰めながら、こんなものを飲む風習がある貴族たちの美と健康意識に敬服しながら、自分の分も注ごうとしてもうほとんど残っていない事に顔を顰めた。

 

「ハーブティのようなものだと聞いていたが、この香りは好かんな。まさに薬といったニオイだ」

 

「味はそんなに悪くなくて、私は嫌いじゃないです」

 

 涙の跡は残っているが、何とか冷静さを取り戻したらしいシリカは肩にのるピナに頬を舐められながら答える。だが、まだ『素顔』のままであり、ユージーンは元のように壁にもたれかかって腕を組み、彼女が薬茶で温まる姿を眺めた。

 

「貴様も何を肩肘張ってそんな『仮面』を付けている? もう少し気楽に生きたらどうだ」

 

「……『あの頃』を知らないくせに、勝手な事を言わないでください」

 

 再び『仮面』を被り直したシリカに睨まれると、ユージーンは聞きにも勝る地獄だったようだと口元を引き締める。

 

「貴様らがどんな戦いを生き延びてきたのかは本と噂でしか知らん。同情に値するし、デスゲームに囚われた者として敬意も表する。だが、オレも貴様とは同じ立場のつもりだ。DBOは貴様らリターナーにとって『ヌルゲー』と……『児戯』と言わせる程度の難易度しかなかったか?」

 

「DBOの方が悪質です。茅場昌彦のような『配慮』もありませんし、単純な難易度はSAOを大きく上回っていると言えるでしょう。ですが、それでもあの『地獄』は何処までも地獄でした。私にはアスナさんの気持ちが分かります。みんな……みんな、私のせいで死にました。私が『みんなで力を合わせて攻略しよう』って言ったせいで、たくさんの最前線で戦えるはずがなかった人たちが死にました」

 

 それは【竜の聖女】などと書物で記されていた、SAO末期に現れた戦乙女との実態なのだろう。彼女の呼びかけに応じて多くのプレイヤーが最前線に戦える努力を重ねて、日に日に状況が悪化する最前線を支え続けた。文字通り、山のように『犠牲』を増やしながら。ボス戦の度に多くの死傷者を出しながら。

 現在でもDBOのボス戦で死者が出ることは珍しくない。だが、総崩れになって大量死者が出るのは稀だ。それは大ギルドが念入りに情報収集し、綿密な作戦を立て、随所で投入される傭兵が劇的な活躍をして流れを作り出すからだ。事実としてユージーンのような専属傭兵の仕事は常時張り付いてヘイトを稼ぐだけではなく、節目……HPバーが切り替わった時の能力強化という最も死傷者を出しやすい場面を限りなく単独でしのぎ切り、分析を終えたボス討伐部隊の指揮官が新たな命令を出すまでの時間稼ぎの面も大きい。尤も、ユージーンの場合は時間稼ぎなどに甘んじず、そのまま倒す勢いで戦い続けるが。

 

「すまん。オレの軽口だったな」

 

「いいえ、私こそ、今回はありがとうございます。私が失言したばかりに、ようやく……ようやく纏まった皆をバラバラにしちゃいました」

 

 まだ『仮面』を被り切れていないシリカは今にもまた泣き出しそうだった。ユージーンは彼女の細い肩を叩く。

 

「貴様も少し休め。戦ってこそいないが、貴様は裏方でずっと動き回っていた。精神も限界だろう。それとも、貴様が1日サボったくらいで怒鳴り散らす程にUNKNOWNは器量が狭い男なのか?」

 

「……その言い方は卑怯ですよ。でも、確かに私も少し休んだ方が良さそうです。アスナさんの計画がどんな形になるにしても、その結果を受けて行動を改めなければなりませんから。ちょっと寝ますね。ユージーンさんの気遣いを無駄にするのも心苦しいですし」

 

「フン。【閃光】が生きて帰ってきたら頬に1発くれてやれ。ビンタではないぞ。拳をぶち込め」

 

 笑いかけたユージーンに、シリカは同意するように微笑みながら頷いた。

 

「ユージーンさんって、サクヤさんと帰って来てから、何かカッコよくなりましたね」

 

「『ランク1』は常に誰よりも男前でなければならんのだ。貴様がオレの魅力に気づくのが遅かっただけだ」

 

「……ジョークとして受け取っておきます」

 

 本気のつもりだが? 腕を組んで胸を張るユージーンに、シリカはツインテールを作るリボンを解きながら談話室を後にする。

 さて、どうしたものだろうか。無人となった談話室で後片付けを終えたユージーンは、アスナが起こした行動の真意を考える。アスナもまさか自分の独断……決意の計画実行が、ここまで仲間内で波乱を起こすとは想像していなかったはずだ。彼女ならば、自身の真意を供述した手紙の1つくらい残していそうなものだというのがユージーンの分析である。

 ならば、やはりインプの子を助けるための衝動的な行動も1つの理由だったのだろう。だが、それでもせめてシリカにだけでも説明していれば、このような混乱は避けられたはずだ。

 アスナが自分の奪還の為に動くだろう仲間を想定していなかった? それも考え辛い。そうなると手紙くらい残ってしかるべきだろう。ユージーンは談話室を出て、既に調査が済まされたアスナに割り当てられていた部屋を見回す。

 私物らしい私物はなく、アルヴヘイムと妖精王に関する書籍が山積みされている様は、まるで誤って書庫の扉を開いてしまったかのようだ。勤勉な性分だろうと思っていたこれも、彼女が精神的に追い詰められていた産物であるならば、不思議と納得がいく光景だった。病的なまでにアルヴヘイムと宗教都市について学び尽くしたのは、彼女が必死に『ティターニア』という名前の重荷……望まぬ呪いに抗おうとしていた証明だったのだろう。

 

「哀れな女だ」

 

 ユージーンは理解してしまう。アスナがこの部屋で、どんな気持ちで計画を立て、進めていたのかをぼんやりとだが分かってしまう。

 アスナが敢えて計画を教えなかった理由。それは内容を明かせば必ず止められてしまうと自覚していたからだろう。それはここまで計画を立てた彼女にあった迷い……仲間を……友人たちを想う気持ちそのものだったのだろう。自分を必ず止めるだろう者たちに、せめて自分の覚悟を示し、なおかつ貫き通す唯一無二の意思表示だったのだろう。

 あるいは、彼女も何処かで気づいてほしかったのかもしれない。計画を実行に移す前に、『そんなのは駄目だ』と言ってほしかったのかもしれない。だが過去は変えられず、全てはIFであり、ユージーンは瞼を閉ざす。せめて、アスナの計画が彼女の望む結果のままに終わるように祈る。

 もしもアスナではなくサクヤだったならば、こんなにも冷静にはいられない。たとえ、彼女の真意が分かったとしても、全力で止めに行くだろう。助けに行くだろう。それが人間というものだとユージーンは信じたかった。

 だが、計画を実行した以上は全てを語るのが筋だろう! もう1度探し直そうと、本の海を漁ろうとしたユージーンは、倒れてきた六法辞書にも匹敵する分厚い本に後頭部を打たれ、思わず顔を歪めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 もそもそ、と。『それ』はユージーンたちが拠点とする館の『煙突』から這い出した。

 それは炭で真っ黒に染まったロザリアだ。白のアルフの衣装ではなく、乞食に扮装するようなボロボロの布切れを纏い、髪は今にも蛆が湧きそうな程にグシャグシャかつ泥と炭で汚れている。 

 雨のシャワーが気持ち良い。≪気配遮断≫を用いて慎重に館から出たロザリアは、そのままティターニアの話で持ち切りの宗教都市の裏路地に移動する。

 そして、彼女が入り込んだのはティターニア教団が乱立させた神殿の1つである。まるで太陽を抱くような抱擁のポーズをしたティターニア像が目立つが、参拝者はなく、ただ無人に……お世辞ばかりの掃除だけがされている神殿だ。

 参拝用の長椅子が並ぶ中で、1番先頭の右側の席で腰かける人影があった。それはロザリアも嫉妬するような、鋭利な刃物を想像させる知性的な顔立ちの美女だ。ショートカットの漆黒の髪と血のような緋色の瞳を持ち、身に纏うのはアルヴヘイムではまず見かけない『スーツ』だ。スカートではなくズボンであるが、その女性らしいラインは妖艶に映え、膨らんだ胸と脚線美は同性でもスーツの下を覗きたくなる好奇心をそそられる。

 まさしく男装の麗人。そんな彼女が手元で捲るのは宮沢賢治の代表作の1つ、銀河鉄道の夜の文庫本である。

 

「ロザリア、貴様は本が好きか?」

 

「いいえ、あまり。文字が多いと眠気がしますので……」

 

「そうか。私も読書は『不慣れ』だ。だが、これはこれで良いものだと感じている。人間の文化、学ぶべき部分は学ぶべきかもしれんな。同朋への良い教育プログラムになりそうだ」

 

 銀河鉄道の夜に『栞』を大事そうに挟んだ男装の麗人は自分の隣に腰かけろと言わんばかりに、その艶美な双眸を向ける。ごくりと生唾を飲んだロザリアは、魅惑的に足を組んだ彼女の隣に腰を下ろした。

 

「報告しろ」

 

「ティターニア……いえ、【閃光】の意図は不明確に伝わっているものかと。煙突に潜み、彼らの会議も盗聴してあります。スキルの下手な使用は存在露呈になりますので、≪聞き耳≫も使っていません」

 

「煙突に? 何故そんな真似を」

 

「お、お母上からのアイディアです」

 

「……母上には後で私から申しておく。あまり恥を重ねるな。見ていられない。お前は我らレギオンに与する者とはいえ、人間のはず。『人』としての誇りを守れ。そうすれば、母上もそれなりに真剣に取り合ってくれるようになる。結果として死ぬことになるとしても、『人』の誇りを貫き通すならば本望だろう?」

 

 プライド? そんなモノで死ぬなんて御免よ! 泣き叫びたいロザリアであるが、男装の麗人に下手に反論しては殺されると怯えて何も言えず、今は報告するマシーンになるべきだと自分に命じる。

 

「ユージーンは【閃光】の部屋を物色中。シリカは精神的に疲弊して休眠に。リーファは錯乱しましたが、片腕を折られて幽閉されています。ユウキもかなり追い詰められているらしく、自失して部屋に閉じこもっています」

 

「そうか。手紙も『ここ』にある。これで【閃光】の計画は我らレギオンだけが知るところとなる。これで当日のプランが決まった。我らは『静観』だ」

 

 銀河鉄道に挟まれた『栞』を撫で、男装の麗人はロザリアに微笑みかける。

 

「よくやった、ロザリア。私から貴様の働きは母上に報告しておこう。だから、そこまで怯えるな。母上はあのような性格だから理不尽も多いだろうが、私は『雑魚』を一々殺したいとは思わん。私が求めるのは強敵との血沸き肉躍る死闘。圧倒的過ぎる蹂躙は私が求める血の悦びではない。強敵の血こそが私の飢えと渇きを満たす」

 

 ストレートに取るに足らない存在と言われながらも、ホッと胸を撫で下ろしたロザリアは吐息を零す。

 今回の『作戦』にはロザリアに大仕事が与えられている。だが、リーファが幽閉されているならば『アレ』を使うことにはならないだろう。万が一に備えたお目付け役として、毎度のように出張れないマザーレギオンに代わって『彼女』が派遣されているのだが、これがまた接し辛かった。

 

「しかし、『人間の体』とは実に面白い。グングニルのように最初から『人間の体』で設計されたのとは違うせいだろう。色々と窮屈ではあるが、他のレギオンでは味わえない良い刺激だ。私たちレギオンのアバターと能力の自己発達変異機能にはデーモンシステムが利用されている関係上、どうしても形態を『人間』にする事は母上とグングニルを除けば不可能に等しい。そもそも下位レギオンだと殺戮本能に振り回され過ぎて人間の形を取らせてもメリットが薄い。だが、私は他のレギオンと違って殺戮本能をある程度まで御せる強固な自意識があるそうだ。これも『王』の因子のお陰だろう。そこで母上謹製の擬態プログラムを使わせてもらったのだが……どうやら、私は分類上『メス』として扱われたようだ。このアバターは人間の美意識の観点からすれば、かなりの上玉らしいのだが、私にはまるで理解できないな。レギオンとは戦闘能力が全て。グングニルは設計上分からんでもないが、私に擬態プログラムを搭載した母上の真意は何処にあると思う?」

 

「……はぁ?」

 

 悩み相談……なのだろうか? 反応に困るロザリアに、聞き流せと言うように男装の麗人は立ち上がり、指を鳴らす。すると彼女の周囲に2本の結晶のカタナが生み出された。両手に握り、二刀流の構えを取った男装の麗人は剣舞でも踊るように振るう。

 

「しっくり来る。この姿で是非ともあの男ともう1度戦いたいものだ。やはり、人間の武器は人間の手で振るってこそ集められる情報がある。『本当の姿』の方でも双腕は改良したが、やはりこうした戦闘情報は自分でも蓄積しなければ意味がない。なるほど。これが母上の真意かもしれんな」

 

 絶対にただの『遊び』だわ! ある程度はマザーレギオンの性格を理解し始めたロザリアは声を大にして男装の麗人に訴えたいが、それは多くの間違いを生んで最終的に自分に火の粉が降りかかりそうな気がして、彼女は口を噤む。

 結晶のカタナを消失させ、男装の麗人は満足したような振る舞いを見せるが、彼女の周囲に無数のシステムウインドウが一瞬だけ現れて回転すると、途端に顔色を曇らせる。

 

「何かご報告が入りましたか?」

 

「どうやらストーカー殿が屋敷を抜け出したようだ。【閃光】の所に行く気だろう。危うかったな。母上が知ればどんな『気まぐれ』を起こすか分かったものではなかった。今、宗教都市のレギオンの数は『減っている』。この情報を掴めただけでも良しとしよう」

 

 ストーカー……ユウキの事だろう。かなり精神に異常を来たしていたが故に、あのまま再起不能になるかと思えば、なかなかにバイタリティ溢れる……もとい、かなりしぶとい性根の持ち主のようだ。ロザリアはまた理不尽な命令が来るだろうと泣きたくなる表情で跪く。ユウキが単独行動を取ったこの時こそがチャンスだ。マザーレギオンは醜悪な罠を張り巡らし、彼女を絶望に叩き込んで殺すだろう。

 だが、男装の麗人は放っておけと言わんばかりに嘆息する。

 

「グングニルとの約束がある。あの子はあの子でストーカー殿を気にかけているからな。母上の命令ならば強襲するが、私は自発的にストーカー殿を殺す気はない。それに私が求めるのは母上の計画の完遂とレギオンという種族の発展。母上の好悪でそれを蔑ろにするのは私が『王』より受け継いだ因子に反する。それは母上の望むところではない」

 

 だから『レギオンの王』って誰なのよ!? またしても叫びたいロザリアであるが、グッと堪える。マザーレギオンよりも更に上位のレギオンだとは分かるが、彼女すらも『王』を大望しているのだ。どんなバケモノが出てくるのが想像できず、また自分は生き残れるのかばかりが心配だった。

 だが、1つだけ言えることがあるとするならば、バケモノ集団のレギオンの全ての始まり……オリジナルとも言うべき存在がレギオンの王であるという事だ。マザーレギオンですらも恐怖の塊に感じるロザリアは、果たして目前にした時に精神が保てるのかどうかが不安になる。

 

「事態は不明瞭だ。あらゆるイレギュラーが起こり得る。ロザリア、約束の塔周辺で待機して『アレ』の準備をしておけ。私もいざという時は援護するが、あくまで貴様の仕事だ。手出しする気はない。励めよ」 

 

「は、はい、レヴァーティン様!」

 

 跪いたままロザリアは『アレ』を思い出して身震いする。果たして、本当に自分は『まとも』なまま生き残れるのだろうか、と。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 これで108体目か。やはり都市は数が多い。だが、この雨が血を洗い流してくれる。

 パラサイト・イヴの武装侵蝕で強化した手斧を引き抜き、頭蓋が割れ、腹部を大きく断たれた遺体を引き摺り、下水溝に放り投げる。

 昨日の夜に宗教都市に到着し、案の定だがマウロの通行証発行に手間取る中で、オレは宗教都市の情報を集めながらレギオン狩りに勤しんでいた。

 一晩中狩り続けて100体以上のレギオンを仕留めたが、いずれもシャロン村と同じで寄生タイプだ。外見は人間であり、正体を現すか、臓物を引き摺り出すまでレギオンとはバレないだろう。遺体の『内側』をしっかり検分してもらえればレギオンと分かるのだろうが、それでも発達不十分な個体も多く、触手が小さい者も多い。特に子どもなどは分かり辛い。何よりも明確な他殺体をわざわざ解剖するなどアルヴヘイムには無いだろう。

 結論、とにかく殺しまくる。これで解決だ。宗教都市に来た時は心底驚いた。レギオンの気配だらけだったからな。しかも全て寄生型だ。つまりは駆除一択だ。

 

「助けてくれ! お願いだ! お願い――」

 

 命乞いをするが『命』はない。それは寄生した対象の人格をAI化しただけの、決められたオペレーション通りの行動・発言・表情を生み出すだけの人形だ。本質はレギオン。ならば殺す。

 なるべく人間の姿をしたまま殺さねばならないので、これがまた大変だ。下手にレギオン形態になったらパニックが起こってしまう。ただでさえ『ティターニアが現れた』で興奮の渦中にある宗教都市だ。レギオンによるテロ紛いの大パニックなど起きた日には都市1つが潰れる暴動に発展しかねない。

 あくまで『人』として振る舞う乞食に化けたレギオンの喉を手斧で一閃し、そのまま胸に鈍い刃を突き立てる。斧の切っ先で引っ掻け、そのまま内側まで臓物を斬り裂く。これで本体を確実に狩れる。

 

「これで109体目」

 

 シャロン村で弱点が分かっていて助かった。これならば変異させる時間も与えずに殺せる。感染母体も昨夜の内に始末済みだ。これで宗教都市で寄生レギオンが増えることはないだろう。少なくとも外部から新たに入り込まない限りは、という注釈が付くが。

 時刻は間もなく昼にも差し掛かる。レギオンは日中に動くことが稀だ。このままレギオン狩りに専念するわけにもいかない。タイムリミットだろう。

 血塗れのナグナの狩装束から永遠の巡礼服に着替え、オレは傘を差して暗い路地裏から大通りに出る。

 ティターニアが現れた。それは噂ではなく真実となり、市場でインプの子どもを助けた。彼女は虹色の翅を持ち、ティターニア教団の迎えを受け入れた。その後、レギオン狩りの過程で得た情報であるが、どうやらティターニア=アスナは確定であり、オベイロンの元から逃げたのに今度は自ら戻ろうとしている。その条件が『インプとケットシーの解放』だ。

 だが、これはブラフだろう。アスナの狙いは約束の塔にオベイロンを呼び寄せて、何かを狙うつもりだ。オベイロンの首か? それとも別の何かか?

 興味はない。だが、オベイロンが約束の塔に誘き寄せられるならば、それは襲撃をかける絶好のチャンスだ。

 問題はオベイロンが約束の塔に現れるとしても、何の策も無しに現れるのか否かという点だ。

 パターン1:コピー。本体ではなく、あくまでコピーを登場させる。最も高確率だろう。この場合は完全に無駄足になる。

 パターン2:ボス故の撃破不能。オベイロンがボス扱いならば、徘徊ボスなどでもない限りはボス部屋のみでの戦闘が許可されているはず。ある程度自由に動けるにしても、ボス部屋以外では撃破不能&攻撃不能というのもあり得る。つまり、プレイヤーからもオベイロンからも攻撃が届かない拮抗状態だ。

 パターン3:不死属性。後継者曰く、現在捕らえられている後継者という『群体』における形式上の本体……GM権限を持つ後継者がギブアップしてオベイロンにGM権限を譲渡していた場合、オベイロンはボスを超越して管理者となり、GMとしての権能を振るうことになる。だが、これは最もあり得ない。後継者を屈服させられないという意味もあるが、もしもGM権限を持っているならば彼は悠長にオレ達を放置することは無いだろうからだ。あるいは、もはや取るに足らない存在と侮って放置しているとも考えられるか?

 パターン4:慢心。1番ありがたいが、さすがに無いだろう。オベイロンは用心深い。保身に長けている。ならば、約束の塔に登場する時も自分の安全を最大限に守る準備をしているはずだ。だが、誰もが油断をする。ならば、このパターンも排除は出来ない。

 大体でこの4つか。大穴はパターン4だが、パターン1か2が妥当だろうな。コピーもあり得る以上はこちらの情報を渡すのは止めたい。

 

「あ、巡礼さーん! こんな雨の中で何処をほっつき歩いていたんですか! 昨日の夜中に宿を抜け出して以来、ずーっと帰ってないじゃないですか!」

 

 大通りにある安宿にて、酒狂い……とは昼間からさすがにいかず、グリーンピースに似た豆を齧っていたマウロと合流する。

 

「巡礼として宗教都市には興奮を覚えたものでして、少しばかり『観光』を」

 

 嘘は言っていない。レギオン狩りをしながら宗教都市の名所巡りをしたつもりだ。ティターニア、もといアスナの石像やら絵画ばかりで色々とトラウマが掘り起こされたけどな!

 

「ところで、肝心の通行証はいかがでしたか?」

 

「もうバッチリ……と言いたいところなんですけど、巡礼さんに申し訳ないっていうか、どうやら街道は本格的に封鎖されそうですね。ほら、ティターニア様騒動で、しばらくは通行禁止なんですよ! せいぜい行けて、大司教領までですね。そこで大サソリの肝を集めながら、ティターニア様騒動が終わるのを待ちましょう」

 

 マウロ、アナタは素晴らしい。これで無理をせずにバーンドット大司教領に潜入できる。

 

「いやー、ティターニア様万歳! 特需ですよ、と・く・じゅ! 何処の貴族様もティターニア様降臨の報を受けて、パーティ状態ですよ! ティターニア様を祝い、そして貢物を送る! つまり、砂糖の特需! あの高級砂糖が関税抜きにしても爆上げです! フッ、私の商人としての豪才……怖くなりません? 惚れて良いんですよ! アハハハハハハ! 砂糖を売らざる者、商人であらず! このタイミングで砂糖を運んでない行商人に未来なんてありませんよー!」

 

 調子に乗りまくって笑うマウロに、他の行商人たちは殺気の眼差しを向ける。うん、呼吸をするようにヘイトを集める奴だな。いつか刺されて死ぬな。

 そして、じゅるりと涎を拭うヤツメ様、はしたないから落ち着きましょう? ほら、甘いモノって言ってもね? オレ、今は食べても味が分からないから。ね?

 

「この騒動、そんなに長続きしませんよ。せいぜいティターニア様もオベイロン様の元に帰られるまで3日……いえ、もっと短いかもしれません。砂糖の売却は急ぐべきでしょうね。早めにバーンドット大司教領の市場に卸すべきでは?」

 

「そこ! そこ何ですよぉ! でも護衛が全然見つからないんです! 2時間くらい前なんですけど、メチャメチャ可愛い女の子の傭兵が護衛をするって宣伝してたんですけど、巡礼さんがいないから雇い損ねちゃったじゃないですかー!」

 

 そうか。護衛が見つからないのか。だからこの安宿も行商人で溢れているのか。まぁ、黒獣はかなり恐れられている深淵の魔物であり、ランスロットの騎獣である黒獣パールは伝説の赤雷の黒獣にも匹敵するとされている。怖がるのも当然か。ましてや、今は深淵狩りもいないのだから。

 というか、それ以前にコイツは2時間以上もこの寂れた酒場兼宿屋で豆を齧っていたのか? 折角の大都市なのだから、商人としての人脈作りや見聞を広めたりとかには興味が無いのだろうか?

 ここはオレが名乗り出るべきか? だが、そうなるとマウロに不信感を持たれる。それは彼を『足』として利用したい身として避けたい。そうなると、適当な傭兵を見繕い、もしもの時にはオレが戦う。これがベストだろう。そうなると、金の為ならば命も捨てられる類の人物を探さねばならない。

 

 

 

「よう、そこの2人。美味い話があるんだってなぁ!」

 

 

 

 と、そこで声をかけてきたのは、頭に鈍い灰色の鉄兜を被った男だ。だが、服装は和のテイストが入った革装備である。腰の得物もカタナか。アルヴヘイムではかなり珍しい部類だな。

 だが、それ以上に……何だ? この既視感は。何処かで見覚えがあるというか……ヤツメ様も笑顔で殺そうとワガママをいきなり言う程度には初対面の割に好感が高いというか……なんだ、これは?

 声が鉄兜の反響のせいで分かり辛い。だが、この雰囲気は誰かに似ている。何よりも、このいきなりの接触には何か裏がありそうな気がする。

 訝しむオレを放置し、マウロの隣に腰かけた鉄兜の男は馴れ馴れしく彼の首に腕を回す。

 

「俺は安いぜ。お宅らは傭兵に困ってるんだろ? だったら、俺を雇いな! 相場の3倍で引き受けてやるよ」

 

「さ、3倍ぃいいい?」

 

「おいおい、安い方だぜ? 黒獣騒ぎに加えてこのティターニア様騒ぎだ。傭兵は値上がりしちまってる」

 

 鉄兜の男の言う通りだろう。このチャンスで依頼を引き受けるならば、余程に料金を釣り上げねば割が合わない。

 迷うマウロは、どうせ払うのはオレだからと彼は視線で丸投げする。おい、駆け出し商人。こういう取引に対して適性マイナスのオレに任すとかやっぱり商才無いぞ!?

 

「……何処かでお会いしていますよね?」

 

「知らねーなぁ。会っていたらすまねぇな。俺は物覚えが悪いもんでよ」

 

 これははぐらかされているのか、それとも本当に知らないのか。駄目だな。こういう時にヤツメ様は役に立たないのが相場と決まっている。だから、そのホームズパイプと帽子を捨てなさい、ヤツメ様。どうせ的中しないから。

 だが、大声で相場の3倍が『安い』と言いふらした。つまり、次から周囲の傭兵を雇おうものならば、『3倍』が真実であれ何であれ基準になってしまう。まずいな。いきなり交渉の手綱を握られてしまった。

 そうなると『3倍』でも『高い』と言ってくれる傭兵だが、自分の命をかける依頼を安くして嬉しがるのは、余程に仕事が無い連中だけだ。そんな奴らほどに金に困っていても自分の命は惜しい。つまり、黒獣が徘徊するこのタイミングでは出てこない。

 ……あれ? これって初っ端から勝負決まってなくないか? 助けて、グリセルダさん! こういう時にどうやって逆転すれば良いんだ!?

 

「オメェはよぉ、頭の回転は良いんだが……本当に残念なヤツだよな。ちっとは戦い以外にメモリを割り振れ」

 

「やっぱり何処かで会ってますよね!?」

 

 もはや隠すのも馬鹿らしいといった様子の鉄兜に、オレは必死になって見当をつけようと頭を捻る。

 そ、そうか! YARCA! YARCAの誰かだな!? 頭だけ不自然に兜を被るそのスタイル……間違いなくYARCAだ!

 

「他に誰もいません。急ぐならばこそ、ここで彼を雇うのも1つの選択肢でしょう」

 

 事実上のOKサインを出し、マウロは交渉成立だと鉄兜と握手する。なお、その時に宿屋の主が後ろを通った時に『確かに高騰しちゃいるが、せいぜい2倍が限度だな。カモられちまったなぁ』と嘯いたのは地味にクリティカルダメージだったので黙っておくとしよう。

 敗因、レギオン狩りにかまけて宗教都市で傭兵の依頼料の現在価格を調査していなかった。つまり、典型的な情報不足による敗北。情けない。

 

「俺の事はミスター鉄兜、もしくは髭のナイスガイって呼びな」

 

「髭、見えないじゃないですか」

 

「オメェのそういう冷静なツッコミは相変わらずだなぁ。本当に懐かしいぜ」

 

 だから本当に何処で会った? 落ち着け。カタナ使いはDBOでも数えるほどしかない。思い出そうとすれば……あ、そうだった。オレって順調に記憶が灼けてたんだった。思い出そうにも思い出せないではないか! HAHAHA!

 

 

 それ、笑い事じゃないからね?

 

 

 ヤツメ様に肩をつかまれながら耳元でドスの利いた声で囁かれ、オレはヤツメ様にごめんと笑いかける。するとヤツメ様は頬を小さく膨らませ、くるりと背中を向けて消えた。どうやらストライキする程に怒らせてしまったわけではないらしい。

 そう、笑い事ではない。必死にジョークで片づけようとしても、もう現実での、アインクラッドでの、DBOでの記憶に穴ができ始めている。思い出すのも苦労する程に薄れてしまっている事柄も多い。

 こちらも……あまり時間はない。元より致命的な精神負荷の受容は禁じ手だ。軽々しく使えるものではない。だが、オレのコンディションが順当に悪化し、なおかつ強敵が跋扈する中で、致命的な精神負荷の受容無しでは切り抜けられない場面は着実に増えている。

 後継者はオレのVR適性が悪化していると述べたが、それは真実だろう。味覚の消失を始めとした五感異常、腕の感覚消失など、後遺症は着実に蝕んでいる。加えてVR適性の悪化は反応速度の低下を招くだろう。今は本能による先読みと狩人の予測で補っているが、今のオレの反応速度は下手すればログイン時を下回っているかもしれない。そのせいで残り火を使ってでも致命的精神負荷の受容をせねばならなくなる。負のスパイラルだ。

 だからこそ、ヤツメ様は狩人の予測をより鍛える為にボイコットをしたのだろう、と今も必死に弁解しているヤツメ様を見ながら納得しておこう。

 

「それよりもマウロ、幾つか仕入れたいものがあります。運ぶ際に馬車の荷台を借りたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「良いですけど? 欲しいものって何ですか?」

 

「……そうですね。武器屋、工具店、それから本屋で約束の塔についての書物を。それと……葬儀屋に用があります」

 

「葬儀屋ぁ!? 巡礼さんってもしかして自殺予定でもあるんですか!?」

 

 ある意味で自殺の道を順当に歩んでいるとも言えなくもないが、まだまだ死ぬ気はない。全て灼ける前にラスボスを倒して後継者の鼻っ面に1発ぶち込んでやる。

 アイテムストレージに全てを詰め込むには余裕はないかもしれないが、マウロの荷台にアレやコレやを預ければ作戦は決行できるだろう。今回の約束の塔でオベイロンを殺せるならば良し。作戦が失敗しても情報が入手できれば、次の戦いが優位に進められる。こちらの情報は最大限に与えない。これでプランは決まりだ。

 

「そういう部分は絶対に直せって口酸っぱく言ったと思うんだがなぁ。本当にその頭の回転を日常と交渉に回せねぇのかよ」

 

「だから、本当に誰なんですか?」

 

 鉄兜の向こう側からの呆れた声に片耳に、オレはマウロを率いながら買い物を済ませていく。

 武器屋では安物のクレイモアを2本、ウォーピックを1本、それからメイスを1本買い取る。伯爵領で得た感覚麻痺の霧を1つ、マウロたちが見ていない隙に『裏』も取り扱っている雰囲気の店主に……多分かなり買い叩かれた形で売却して資金を得て、残りの必要な物資を買い込む。

 オレの買ったラインナップを見て、鉄兜は何かを悟ったらしい。マウロは相変わらず疑問符だらけの表情だが、それは彼が幸福な程に普通な人生を歩んだ証拠だろう。

 

「えーと、ここから大司教領までそんなに遠くないですけど、1度は白鉄の町を経由しないといけませんから、明日の朝一に出発すれば、雨で車輪が取られない限り、明日の夕方には十分に大司教領の町に着きますよ」

 

「そこから約束の塔までの距離はどれくらいですか?」

 

「目と鼻の先ですね。私もあんまり知らないんで大声では言えませんけど、約束の塔がある森は古い都の遺構があって、その上に森があるって感じなんです。その周辺を村や町が囲ってるって感じですね。まぁ、森自体が結構な大きさですし、巡礼の道を入り組んでいるんで、目と鼻の先って言っても実際にはかなり遠く感じるでしょうけど」

 

 なるほどな。だが、オレの足ならば森を駆けても大してスピードを落とさないで済む。シャルルの森ほどではないだろうし、いざとなれば灰色の狼を召喚して突破も可能だろう。狩人の足を舐めるな。伊達にじーちゃんに教えを受けていない。

 月も隠れる豪雨の夜、マウロは『明日、黒獣に殺されませんように!』とガタガタ震えながらベッドに潜り込んだかと思えばおやすみ10秒だった。大した胆力で、これを商取引に回せれば大物になるかもしれないと、我が身を棚に置いてマウロを評しておく。

 安宿は静まり返ってこそいたが、疎らに客もいる。このティターニア騒動で眠れぬ興奮が宗教都市を座席し、そして大量の『行方不明』事件で女王騎士団も大慌てのようだ。これにはバーンドット大司教領に派遣されてティターニア護衛を担うはずだった女王騎士団が大きく割かれる事となり、事実上のバーンドット大司教の私兵と最近になって集めた予備隊が主な護衛になるだろう。大幅な戦力ダウンと防衛網の手薄か。フッ、オレの狙い通りだな!

 ……嘘です。だからヤツメ様、そんな目で見ないで。色々と凹むから。あ、優しく頭も撫でないで。落ち込むから。

 

「寝ないのか」

 

 約束の塔の見取り図を広げ、更に集めた情報を本に追記していく作業をしながら、テーブルで粘る為に豆を1皿分注文していたオレの前の席に鉄兜が断りなく座る。

 店主のかつての栄光なのだろう。甲冑が隅で飾られ、また鹿に似たモンスターの首の剥製が飾られている安宿は、ただただ訪問者を迎え入れ、理由なく滞在を許す。ティターニア教によって支配されたこの地において、荒くれ者の為の宿は常に冷ややかな目で見られる事だろう。だが、それでも必要性があったのだ。彼らにも宿は必要だったのだ。

 

「豆、食べたければお好きにどうぞ」

 

「その手には乗らねぇぞ。この兜はここぞって時に外して驚かしてやるって決めてるもんでな」

 

「そうですか」

 

「おう、そうだ」

 

「……ずっと考えてました。アナタの……いや、オマエの正体を」

 

「で、答えは出たか?」

 

「概ね。だが、顔を隠す理由があるなら待つことにする。待つのは慣れてるからな。それが下らないサプライズ目的でも待つさ。それとも無理矢理脱がしてほしいか?」

 

 まったく、『アイツ』もそうであるが、どうしてオレの周囲というのはバレバレなのに顔を隠したがる連中が多いのだろうか? そういえば、ユウキもチェーングレイヴのボスの影響で『カッコイイから!』って理由で仮面付けてたな。でもシャルルの森以降から『もっと顔見てほしいし』とか、初心を忘れた事を述べているのはどういう心境の変化だろうか。まぁ、最近はチェーングレイヴの仕事よりもセサルの屋敷でメイド業に専念らしいし、仮面をつける意味もないのか? だけど時系列的にはなぁ……分からん。

 

「積極的な女の子に脱がされるなら大歓迎だ。ちなみに無理矢理脱がすのは好みじゃねぇな。恥じらう女を合意で脱がすのは燃えるけどよ」

 

「そのエロトーク全開、特定完了だ。敢えて名前は呼ばないでおく」

 

「おいおい! 昔はノリノリで乗ってきただろうがよぉ! 寂しい事を言うなよなぁ!」

 

「誤解するな。エロトークは今も好きだ。でも、今は仕事が優先だ」

 

 このくだらない会話の連鎖、間違いなくヤツだ。オレは意図しない接触にどう対応すべきか悩む。

 本心を述べるならば、ここにコイツがいる事は望まれるべき展開ではない。即ち、DBOというデスゲームに閉じ込められてしまった身に他ならないからだ。だからこそ、再会を素直に喜ぶべきかも分からない。

 それに、オレ達の別れは決して良いものではない。むしろ、積極的にオレを殺しに来ると思っていた。それくらいに恨まれても仕方ないことをオレはしている。

 

「……99層を忘れたのか?」

 

 だからこそ、オレは敢えて問いかける。彼の胸中に過去というナイフを突き立てる。

 だが、意外にも鉄兜は身を強張らせる事も無いように、もう隠す気もないように口元のカバーを上げて相変わらずの髭面に豆を運んで齧る。

 

「忘れてねぇよ。俺にとって99層は永遠に忘れられない地獄の思い出だ」

 

「…………」

 

「でも、オメェを責めるのは筋違いだろうがよ。『俺の仲間を皆殺し』にしたオメェは……勝つ為に全力を尽くして最速最短で解決する手段を実行した。聞いたぜ。腐敗コボルド王でも似たような真似をしたんだってな。オメェなら殺れる。たとえ仲間だろうと斬れる。俺はオメェがそんな奴だって改めて知っただけだ」

 

 ああ、そういう事か。オレは……オレはとっくに、彼にもエギルと同じように見限られているのか。当たり前だよな。

 あの時の判断に後悔はない。『アイツ』は今も苦しんでいるかもしれないが、実行したのはオレだ。『アイツ』は最後まで……最後まで抗おうとした。そんな『アイツ』が見てられなくて、オレは……オレは……いや、これも言い訳だな。あの頃は自覚がなくとも、オレは悦んでいたんだ。『仲間殺し』で血の悦びを得ていたんだ。

 

「それに、あの時の判断は黒馬鹿だ。『アイツ』が見捨てた」

 

「違う。『アイツ』にそんな意図はなかった。ただ……ただ、前に1歩踏み出しただけだ」

 

「同じだろうが。オメェは『アイツ』だけ特別視し過ぎだ。それが『アイツ』の重荷になってるって気づかない程に間抜けか?」

 

「……本気で『アイツ』がオマエの仲間を犠牲にしようと思っていたと信じているのか?」

 

 だとするならば、『アイツ』への侮辱に他ならない。オレは贄姫の柄を撫でる。たとえ、かつての戦友であるとしても斬れる。それはオマエ自身も理解しているはずだ。

 豆をポリポリと齧る鉄兜はオレの殺気を何処吹く風とばかりに受け流す。元よりこの場で殺る気はない相手を斬る気もない。オレも少し熱くなったかと戒めの意味で嘆息する。

 

「すまねぇ。言い過ぎた。あの時は誰も悪くなかった。『アイツ』を責めることこそお門違いだ。『アイツ』は勝たないと皆を救えないから前に踏み込むのを選んで、それでも時間が足りなかったからオメェが稼いだ。そのはずなんだがよぉ、どうも雨だと心まで湿っぽくなっちまって駄目だな。あれこれ後悔しちまう。『あの時こうする事は出来なかったのか?』やら『あの時はこんな判断をするのがベストだったんじゃないか?』ってな。で、結局は自分の力不足に行き着くわけだ」

 

「……そうか」

 

「おう。だからこそ、俺はオメェが気にかかる。アインクラッドでも半端じゃなかったが、この糞ゲーが始まった頃のオメェはあの頃程じゃなかった。かなり腕が鈍ってたみたいだからな。だが、去年の12月を境に劇的に変わった。今じゃボスすらも単独討伐できる程の猛者だ。対人戦こそが本領のオメェがよ。どんな魔法を使った?」

 

 ……まぁ、倒したボスも大半が人型なんですけどね! それにDBOのAI達は『命』がある分だけ対人戦の感覚で戦える。むしろ、オレ的には『命』が無いAIの方が無駄に戦り辛い。それに最近は対人・対獣に限らず、『命』の有無も含めて狩れるようになったのは、オレが神子としてよりヤツメ様に近づき、また狩人の血を真の意味で理解できるようになったからだろう。全てはシャルルとアルトリウスとの戦いを突破できたからこそだ。

 あの日、あのクリスマスの夜。サチを……『サチ』を殺した聖夜で、オレは……自分をバケモノだと受け入れた。ずっとずっと否定したかったヤツメ様を受け入れた。そして、それでも心だけは『人』であり続けようと決めた。

 今もその決心は変わらない。オレはきっと人間的にも社会的にも最悪に歪んで狂った存在だからこそ、変えてはならない。

 本能的に殺戮を求めている。そして、それは愛情と絡み合い、親しい人ほどに、愛する人ほどに、より強く殺したくなる。それは飢えと渇きとなり、それを癒す為に血の悦びを……殺しをせねばならない。それさえも気を抜けば、あっさりと殺戮に思考が一色に染まってしまいそうだ。今こうして話している間にも、鉄兜を殺したくて贄姫を抜きそうになっている自分がいる。

 更に、きっとオレはどうしようもない程に血の悦びに嗜虐嗜好を絡めたがる性質がある。相手を絶望や苦痛で染め上げ、その絶叫に浸りたいと思っている。苦しめて壊して苦しめて壊して苦しめて壊したいと思ってしまう。だからこそ、オレの血の悦びを求めたままの行動はよりサディスティックなものになる。それはDBOやアルヴヘイムでの『お喋り』やセーブを利かせていない殺しの時からも分かる事だろう。

 そして、オレは戦闘狂でもあるだろう。戦いを楽しまずにはいられない。より凄惨な戦いを求め、より壮絶な死闘を欲し、より強大な敵を殺したくなる。

 つまり、オレは本能的に殺戮衝動を持ち、なおかつ嗜好まで残虐極まりなく、なおかつ破滅的な戦闘狂。嗜好だけでシリアルキラーの条件を満たすならば、オレはロイヤルストレートフラッシュを決めてしまった、人間失格どころか人間失格ラインを大きく超過してしまっている。客観視して自分でも嫌になった。

 狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺す者、か。我ながら嫌になる程に適している。

 だから、心から『人』を失いたくない。ユウキに託した祈りは……オレを繋ぎ止めてくれているあの聖夜に見せた『オレ』を憶えていてくれるはずだから。

 なぁ、ユウキ。オレは……こんなに灼けてしまった、こんなにも飢えと渇きに塗れてしまった、多くの歪んだ自分に気づいてしまったオレは……まだクリスマスの夜にキミが憶えてくれていると言ってくれた『オレ』のままだろうか?

 

「おっ、その表情はレア。やっぱりアレかぁ? 12月にカノジョか惚れた女でもできたかぁ?」

 

「そういうオマエはどうなんだ? 女日照りだっていつも嘆いていただろう?」

 

「俺は今、立場上モテモテだ。だがなぁ、最近は虚しいんだよなぁ。一夜の恋人じゃなくて俺の隣にいてくれる運命の人を探してるところだ」

 

 ……ああ、やっぱり時間の流れって残酷だ。すっかりかつての戦友は階段を駆け上がってランクアップしている。そういえば、『アイツ』もアインクラッドでアスナとは……いや、考えるのは止めておこう。それこそ惨酷な事だ。

 

「オメェの女の趣味を言え。俺が見繕ってやる」

 

「それがさっきまでカノジョいるのか好きな女の子いるのかって訊いてたヤツの発言か?」

 

「良いから答えろ、白馬鹿」

 

 はいはい、どうせオレは馬鹿ですよ。それくらい自覚はある。だが、こんな無為に計画の練り直しに割く時間を失いたくないし、さっさと答えるとしよう。

 

「……首が好みな子、とか?」

 

「オメェの性的嗜好は聞いてねぇよ。ちなみに俺は胸! 胸な! で、オメェは巨乳好きだったな」

 

「今はそうでもない」

 

「髪は長い方が好みか?」

 

「特に基準はない」

 

「背は?」

 

「オレのコンプレックスを突くのが大好きだってことだけは分かった」

 

「年上? 年下?」

 

「惚れた女次第だろう?」

 

 さぁ、さっさとギブアップしろ。オレと語り合うのは心底つまらないとオマエも知っているだろう? 自慢じゃないが、戦闘関連以外ではろくな回答を出来ないからな。

 

「ちっとは援護してやろうと思ったが、こりゃ無理だ。もう寝るわ。オメェもさっさと寝ろよ、この鈍感。この史上類を見ない、ハーレム系主人公よりも性質が悪い鈍感」

 

 ハーレム系の漫画やアニメにはあまり馴染みがないのだが、言わんとする事は理解できた。それは今もサインズの傭兵紹介欄に大文字でカノジョ募集中と書いているオレへの侮蔑だろうか?

 

「でも、少しだけ安心したぜ。オメェは仲間だって殺せる馬鹿だ。だがな、不思議と1つだけ信じられる。オメェは『何があろうと必ず敵を殺す』って部分だ。そこだけは無条件で信じてやるぜ」

 

「……そうか」

 

 立ち去る鉄兜の後ろ姿に、オレは思わず語りかけようとして口を閉ざし、馬鹿な事をと思いながらも、自分を罵りながらも、それを呟くことにした。

 

「オレ達は……もうあの頃に戻れない。戻っちゃいけない。それでも、また戦友として肩を並べられると思うか?」

 

「……さぁな。そいつは神様の采配次第だろ。ダイスの目次第では何処かで共闘するかもしれねぇな。だが、これだけはハッキリしておくぜ。『俺はもう2度とオメェと一緒に戦わない』。それが俺の意思だ」

 

 最後の一言は冷たく、鋭く、何よりも温かかった。彼の善性が滲み出ていた。そう『言わねばならない』苦悩があった。

 

「そうか。ホッとしたよ」

 

「オメェのそういう表情は嫌いだ。初めて会った時からずっとな」

 

「気を悪くさせたなら、謝ろうか?」

 

「謝罪はいつかまとめて請求してやるぜ、白馬鹿」

 

 ひらひらと手を振って自分の宿部屋に戻る鉄兜の背中を見送り、いつの間にか半分以上食べられてしまった豆を1粒だけ指でつかむ。

 味はしない。味は分からない。この豆は美味いのだろうか? 周囲の表情を見る限りにあまり美味な部類ではなさそうだ。だが、鉄兜から是非とも感想を聞いておきたかった。

 そうだな。オレは彼の仲間を皆殺しにした。そんなヤツと肩を並べて戦うなど、彼の死んだ仲間たちに顔向けできるものではない。やはり、オレは馬鹿な質問をしてしまったようだ。

 だからこそ、心から安堵した。今も彼はオレを許していない。心の奥底で憎しみが燻ぶっている。それが分かっただけで十分だ。

 

「大丈夫。オレはまだ『独り』で……いや、『1人』で戦える」

 

 だから心配しないで、ヤツメ様。オレはまだ戦えるから。敵は殺し尽くすから。

 地図を指でなぞり、約束の塔と森、そして周辺の地理を頭の中でイメージし、組み立て、作戦をどう詰めていくか考える。

 仕込みは要らない。アスナの狙いは定かではないが、『オベイロンが現れる』というポイントさえ押さえておけばいい。問題はアスナが他の【来訪者】と協力関係にあるか否かであるが、そこを考慮して動けなくなってもつまらないだけだ。オレはあくまでオレの作戦に従って動けば良い。他の連中など知らん。

 だが、問題なのは今回の大き過ぎるアスナの動きは『アイツ』を引き寄せかねないということだろう。最悪のパターンとして、既に『アイツ』とアスナが再会している事もあり得るのであるが、ならばアスナの動きには些か疑問があるし、アルシュナが言っていた悲劇も起きなかったとも捉えられる。その場合は……また色々と考え直しだな。

 

「……嵐か」

 

 窓を打ち付ける雨風にオレは顔を顰めながら豆を口に放り込み、ただただ奥歯で磨り潰して呑み込んだ。味のしない豆は舌を転がす食感ばかりで気持ち悪く、眠りへと誘う脳髄に鞭を打つと行為だと知るからこそ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ティターニアの動きは完全に予定外でした。僕たちもプランの練り直しが求められますね」

 

「計画も何も、アスナさんを助ける。その方針に変わりないわ」

 

「大司教領までの移動日数とティターニアの警護、それに巡回しているアルフもいます。逸った動きは仕損じますよ?」

 

「だったら、指を咥えて沈黙しているつもり? それこそ反オベイロン派として間違っているんじゃないかしら」

 

 場所はロズウィックと旧知にある貴族の邸宅だ。数少ない宗教都市において反オベイロン派と密やかに繋がりがある数少ない勢力であり、戦力的支援こそ望めないが、こうした潜入活動に不可欠な拠点を提供してもらえている。アリーヤはその外見から目立つ以上、都市の外縁にある騎獣小屋の傍で待機させてある。シノンに無理矢理でも引っ付いて来ようとしたが、UNKNOWNが仕方なく嫌がる彼に鎖付きの首輪をつけたのだ。

 本来ならば、この邸宅にて情報収集活動を行っているはずの赤髭と合流するはずだったのであるが、彼は宗教都市に着くなり、鉄兜を1つだけ拝借するとそのまま姿を暗ませた。彼は彼なりのプランに沿って動き出した、反オベイロン派への『裏切り』であるとレコンは判断している。

 だが、それはすぐに些細な問題となった。宗教都市を騒がせていたティターニアの噂、それは先日の市場で彼女が姿を露見させたことによって真実となったのだ。もはや貴族も平民も奴隷も関係なく、等しくお祭り状態である。

 ティターニアは『インプとケットシーの解放』を条件にオベイロンの元に帰ると提示しているらしく、貴族の間では『ティターニア様がオベイロン王に逆らってでも2種族に慈悲をかけられたのだろう』と美談として語られる一方で、もはや奴隷以下の消耗品扱いされていた都合の良い労働力でもある2種族の解放に難色を示す者たちも多い。だが、彼らも反オベイロン派として西より立ち上がった暁の翅が掲げる『インプとケットシーの復興』がティターニアによって成し遂げられれば、暁の翅を支えていた求心力は衰えると見ている。

 暁の翅のこれまでの破竹の勢いの裏には、奴隷兵として扱われていた2種族の反乱と合流も少なからず関与している。この2種族も、長年の恨みはあるだろうが、他でもないオベイロン王の権威によって種族復興が約束されるのであるならば、わざわざ博打かつ『本当に再興させてもらえるのか』という懐疑が残る暁の翅よりも靡きやすい。また、決定的にオベイロンを『悪』と断じる要素が挙げれられない現在、『インプとケットシーの解放』という名目を奪われれば、暁の翅は単なる『平和の破壊者』という逆賊以上にはならないのだ。

 すでに暁の翅として領土拡大戦から対オベイロン王にシフトした現在、ティターニアによる2種族復興の名目を奪われるのは道義的に不味いのだ。

 だからこそ、『現場』にいる自分こそが暁の翅の利益になるように、最大限の貢献をしなければならないと意気込むレコンであるが、戦力的にも頼りになるUNKNOWNとシノンが真っ向から自分の意見に反発している。

 2人の意見は『今すぐ大司教領に赴いてアスナを奪還する』である。現在、応接室にはレコン、シノン、ヴァンハイトの3人しかいない。ロズウィックは旧知の貴族から情報を集め、UNKNOWNは状況を詳しく知りたいと同行した。少なくとも、誰よりもティターニアに固執しているはずのUNKNOWNが冷静に情報収集に徹する事を選んだのはレコンとしてもありがたい部分であるが、シノンに関しては仮面の剣士の代弁をするように頑なに譲らない。

 

「ワシにはティターニア様にそこまでこだわる理由は分からんが、ティターニア様が言葉通りに慈悲で動いているならば、オベイロン王が事実上首を縦に振った以上、お前さんらの戦いは『終わり』じゃ。現在の支配域の身内での分配でも始めるしかあるまい。とはいえ、乾いた砂漠と少しばかりの緑地と鉱山を除けば統治のノウハウもない砂上都市出身者に奪った南方の支配が務まるとも思わんがな」

 

 パイプを咥えて呑気に懐かしそうな眼で窓の外の宗教都市を眺める老騎士に、レコンは余計な事を言わないでくれと背中を睨むも、そんな細やかな抵抗さえも心地良いように、ヴァンハイトは喉を鳴らすばかりだ。

 元は敵陣であり、追放されたとはいえ女王騎士団に身を置いていたヴァンハイトからすれば、宗教都市も約束の塔がある大司教領も庭のようなものだ。彼からすれば、『若者たちのお手並み拝見』くらいしか考えていないのかもしれない、とレコンは後先が無い老人らしい放任主義だと内心で罵る。だが、その一方でヴァンハイトの知恵と人脈を借りなければ、この宗教都市周辺で動くこともままならない現状に奥歯を噛んだ。

 

「仮にティターニアを奪取したとしましょう。仮定しましょう! その場合、僕たちはどんな扱いになるか分かっていますか!? 他でもなく『2種族の解放を邪魔した』存在になるんですよ!」

 

「ワシはそう思わんがな。ティターニア様の本音が何処にあるかにもよるが、少なくとも二刀流とシノンちゃんは『そうではない』と主張している。先にも言った通り、ワシには2人がどうしてティターニア様に拘るのかも、そもそも妖精の女王を『アスナ』という知らぬ名で呼ぶ所以も分からんが、今回の事件は『オベイロンを呼び寄せる為の作戦』と睨んでいるならば、彼女もまた暁の翅と同じくオベイロンの打倒を狙っているのが筋じゃろうさ」

 

 まさにその通りだ。そこが今回の点で頭が痛いところなのだとレコンは頭痛を覚える。

 アスナの事を良く知るだろうUNKNOWNの主張は、今回のティターニアの行動の真意は名目の2種族解放ではなく別の意図があるとの事だ。それはオベイロンを誘き寄せて倒す秘策があるからであり、限りなくリスクが大きい手段のはずだとも予想している。だからこそ、UNKNOWNは一刻も早い救出を求めていた。

 だが、レコンとしてはアスナがどんな人物なのか書物でしか知らない。アインクラッドで名を馳せた女剣士にして、攻略の鬼とまで恐れられたバイタリティ溢れる、当時最強ギルドとまで謳われていた血盟騎士団の副団長。そして、道半ばで帰らぬ人となった。故人がどんな理屈でアルヴヘイムにいるかも分からず、そもそも常識的にあり得ないとも断言したいのであるが、UNKNOWNの覇気とシノンの眼光に気圧されて何も言えなかった。

 

(そもそもアルヴヘイムだって酷いあり様なんだし、オベイロンの所から逃げ出したは良いけど、我慢できなくなって戻りたくなっただけとも考えられるわけだし)

 

 レコンとて現代日本という世界最高クラスの環境が整った国で生まれ育った若者であり、ティターニアことアスナも同様のはずだ。DBOの惨状によって強制的に適応せざるを得ない経験を積まされたが、それでも毎日に不満が募らないこともない。利便性は悪く、食糧事情も芳しくなく、エンターテイメントも少ない。それでもフェアリーダンスは中小ギルドでは比較しても良質な生活を送れている部類であるが、それでも現実世界と比べればどうしても劣悪に感じてしまうのだ。

 だが、何よりも贅沢なのは『安全』だ。アルヴヘイムはDBOとも異なる点が1つある。それはDBOのプレイヤーが根本は現代を生きた人々であり、根付いた倫理観や社会観を持つのに対して、アルヴヘイムの人々はその域に達していない……いわば『未開人』という表現が相応しいのだ。女性の人権などは最も顕著だろう。民主主義も無く、奴隷制は平然と蔓延り、幾ら根底は仮想世界とはいえ衛生の概念も希薄だ。

 

(僕は帰るんだ。リーファちゃんを連れて、必ず現実に帰るんだ)

 

 そうさ。その為にも暁の翅を使ってオベイロンを倒し、リーファを救い出さねばならない。彼女に『助けに来てくれてありがとう』と言われたい。

 最強の剣士でなくても良い。彼女の心を独り占めできるとも思わない。それでも自分は『成せた』という結果が欲しいのだ。『報われたい』のだ。それくらいに『報われる』べき代償を支払ってきたはずだと、自身の正義に溺れるようにレコンは拳を握る。

 途端に吐き気がしたのは、砂上都市で叩き潰した貴族の肉片……そこから漂う血臭を吸ったような感覚のせいだろう。顔色悪く、透明なクリスタル製のテーブルに置かれたティーカップを持ち上げ、中身の黒い液体……アルヴヘイムでは貴重な珈琲を飲む。これは残り少ないメイドさんチョイスの嗜好品であり、レコンを繋ぎ止めてくれる味でもあった。

 

(僕は正しい事をした。アイツらは屑だ。ゴミだ。蛆虫だ! ただただ欲望に溢れていた『悪人』だったんだ!)

 

 だから、暁の翅の『為に』頑張らないといけない。手を赤く染めたのは……無抵抗な彼らを叩き潰し、正義だと自称しながら血潮を浴びたのは、暁の翅を再起させ、オベイロンを打倒し、リーファを助け出す為なのだから。レコンは珈琲の味が内側に浸み込む度に冷静な自分を取り戻せた気になる。

 

(そうさ。アルヴヘイムの連中は未開の蛮族じゃないか! 同じ人間扱いする必要なんてない。そもそも彼らは『NPC』と同じだ。ただのAIだ。ただの情報だ。システムを弄れば何度だってリポップさせることができる――)

 

 そうじゃない。彼らも『生きている』。そして僕は彼らを『殺した』んだ。黒に染まって薄くなった自分がそう語りかけてきたような気がして、必死に喉に流し込んでいた珈琲が泥水になったような気がして、堪えきれない嘔吐感にレコンは何度も咳をして誤魔化す。

 

「顔色悪いわね、『軍師』さん?」

 

 面白がるようにシノンは自分の珈琲を口にする。ショートパンツのせいので露になっている魅惑の美脚を組み直す様に、レコンは目を背けながら今度こそ珈琲を飲み直す。ヴァンハイトはシノンに『女子があまり露出するものではないぞ』とアルヴヘイムらしい価値観で諫めた道中を思い出しながら、レコンは冷たくなった思考回路を動かす。

 

「ともかく方針を決定しましょう。ギーリッシュさんからの指示も得られない以上、僕たちは最善を尽くして暁の翅の『為に』動かないといけません。取れる方針は2つに1つ。『待機』か『奪取』か」

 

 組織の命運を決めかねない作戦を決行する。それは甘美であり、同時に責任は重い。故にここはティターニアの意図が何であれ、静観して本隊の動向を待つ。それこそが『待機』だ。

 対して『奪取』はUNKNOWN達の目的を敢行する事になる。ティターニア確保後はどうなるか定かではないが、限りなくアドリブが求められる展開になるだろう。場合によってはレコンたちが暁の翅によって纏めて『単独犯』として切り捨てられる展開もあり得る。

 

「その件ですが、1つ裏が取れました」

 

 と、そこに入室してきたのは、モノクルを曇らせた、雨で肩が濡れたロズウィックだった。彼は旧知の貴族の繋がりを使ってUNKNOWNと情報収集していたはずである。彼の帰還が意味するのは有益な情報を持ち帰れたという事だ。

 

「バーンドット大司教と懇意の方々によれば、どうやらティターニア様は女王騎士団の『秘密』について言及されたらしく、途端にバーンドット大司教はティターニア様に全面的に従い、彼女を大司教領へとご案内したそうです。私にも分かりませんが、女王騎士団の『秘密』は1部の大司教の共有知識らしく、その責任者がバーンドット大司教だったようですね」

 

「つまり、アスナさんは『作戦』で動いている事が明らかになったわけね。妥協でもなければ屈服でもない、2種族の解放もオベイロンを騙す為の口車なのが有力ね」

 

 我が意を得たとばかりにシノンは唇を釣り上げる。それが面白くなく、レコンはテーブルの下で膝を指で叩いて落ち着こうとするも、クリスタル製の透明なテーブルのせいでその動作も露見している事に気づき、ヴァンハイトの苦笑に馬鹿にされたとばかりに頭に血が昇る。

 

「僕だって必死なんですよ! だったら、あなた達なら最良の解決案が浮かぶっていうんですか!?」

 

 怒鳴ったレコンは失態だったと我に返り、珈琲を飲んで落ち着きたくてもカップの中身は底が尽いている事に苛立つ。哀れむようにシノンは目を細めたのに対し自分を否応なく卑下してしまい、彼は項垂れる。

 

「策という程ではありませんが、ティターニア様奪取自体は悪手ではありません」

 

 そこで発言したのは髪から垂れた水滴をハンカチで丁寧に拭う、アルヴヘイムでもかつては優れた魔法使いだったロズウィックである。暁の翅の参謀でもあり、前線を離れ、かつアルヴヘイムの低級の魔法しか使えずともランスロットと2度も交戦して生き延びた彼の声は落ち着きを持ち、なおかつ人に話を『聞かせる』リズムを心得ていた。

 

「確かにティターニア様は『インプとケットシーの解放』を名目にしていますが、それは貴族間だけの情報。まだ市井には伝わっていません。インプの子を助けた美談も『ティターニア様の慈悲』として語られている程度です」

 

「それがどうしたって言うんですか?」

 

「簡単なカラクリですよ。そもそもインプやケットシーを最も奴隷以下の扱いで『消耗』していたのは貴族たちです。彼らがどれだけ声高に『ティターニア様はケットシーとインプの解放を訴えていた』と口にしても、誰もそんな事は信じません。オベイロン王がティターニア様を迎えてアルヴヘイム中に声明を出すまでは『貴族間だけの真実』に過ぎません。ならば、ティターニア様を『お救い』して我々の陣営に迎え入れても、大勢は変わりませんよ」

 

 これくらいは『常識』だとばかりに、特に嫌味も無くロズウィックは指摘する。シノンは考えるように口元を手で覆い、やがて納得したように頷いた。

 

「そうよね。私たちは『自分たちが得た情報』を『誰もが知ってる情報』と勘違いしていたけど、これはケットシーやインプ達からすれば『最も信用ならない貴族たちの情報』だもの。それこそ1000年単位で虐げられていた彼らが『噂』程度で靡くはずもないわ。オベイロンとアスナさんが共同声明でも出さない限りには『デマ』の域を出ない」

 

「ええ。ですので、ティターニア様を奪取する事自体は決して悪手とはなりません。むしろバーンドット大司教は『オベイロンにティターニア様を帰そう』と噂を鵜呑みにして動いていた勢力でもあったはず。ならば、『ティターニア様の真意を捻じ曲げた挙句、オベイロン王に女王陛下を「献上」しようとしたバーンドット大司教の魔の手よりお救いする』行動とも我々は『後から』主張できます。どれだけバーンドット大司教が声高に『ティターニア様はインプとケットシーを解放するつもりだった』と述べても、それはティターニア様の『慈悲』を『利用』した助命懇願と見られて見向きもされないでしょう。問題点があるとするならば、そもそも奪取の可不可。敵は少なくとも大司教領の女王騎士団、予備隊、兵士、それに信徒も『奪取』までは我々の敵となりますから」

 

 僕だってそれくらい気づいていた。レコンは冷静に『奪取』の方向に動かしたロズウィックの横顔を睨み、そして表面を取り繕うように同意の態度を示す。

 今回のロズウィックの動向は旧知の貴族が現地にいるから『だけ』ではない。

 既に過去の遺物。旧暁の翅の幹部として、赤髭とは別の意味で旧暁の翅の象徴ともなっている彼を『排除』する為でもあるのだ。

 暁の翅を2分にする新旧の対立。勢力が合流すればするほどにその溝は深まっていった。初期こそ旧勢力の合流と援助は暁の翅を勢いづかせたが、南方まで戦線を広げた時点で旧勢力は消化されて組み込まれるべき『歯車』になったのだ。

 旧暁の翅の最後の幹部。最高の戦士だったガイアスも死亡した以上、無様に廃坑都市を生き延びた汚名を得ても、旧暁の翅の悲願だったオベイロン王への反旗の角笛を鳴らした『泥塗れの英雄』は、その最期を『敵地』で迎える。暗殺ではなく戦死した事にすれば、その悲しみを利用して組織の一体化を図れるだけではなく、旧暁の翅派閥の完全な解体も可能になる。そして、もう1つの癌だった、旧暁の翅をそのカリスマ性で引っ張っていた赤髭も『反逆者』扱いできる土壌が整った。

 

(これは『最良』かもなぁ。ロズウィックさんはティターニア奪取作戦で『名誉の戦死』を遂げる。うん、ドラマチックじゃないか)

 

 オベイロンを倒した後はDBOに……どれだけ絶望に満ちていても自分たち中小ギルドのプレイヤーには『関係ない』大ギルドが引っ張るDBOに戻れるのだ。アルヴヘイムがどうなろうと知ったことではない。ならば、今は暁の翅がオベイロンと戦えるだけの最上の状態に整えるのが1番なのだから。

 

「何はともあれ、ワシらにこのまま宗教都市で『待機』は無しという事か。しかし、都合が良いとは言わんが、『同時多発失踪事件』のせいで宗教都市に在中する女王騎士団本隊は動けん。本来ならば本隊が丸ごとティターニア様の警備についていたはず。その分だけ動くにしても楽になったということか」

 

 宗教都市で発生した同時多発失踪事件とは、文字通りたった一晩で100人近い人間が……貴族も平民も奴隷も関係なく『消失』した事件である。現場と思われる屋内には血痕が残されていた場所もあったらしく、『同時多発他殺事件』とも見て女王騎士団がティターニア様降臨のこの大事な時期に宗教都市を血で汚した不埒者の検挙に全力を注いでいる。

 

「既に大司教領に赴く手段は準備しています。我々は貢物を送る大使に偽装します。シノンさんは顔が割れていますので、物資に隠れていただきます。酒樽の内ならば検分も甘いでしょう」

 

「了解したわ。言っておくけど、私は現地でも静観するつもりはないわ。UNKNOWNと『一緒』にアスナさんを奪還するつもりよ。それはそうと、UNKNOWNは何処にいるの? 大事な会議なんだから、彼も参加してもらわないと」

 

 確かにティターニア奪取ともなれば『主役』となるのはUNKNOWNだろう。だが、肝心のUNKNOWNの姿が無い。彼は確かロズウィックと共に情報収集に赴いたはずだと首を捻ったレコンであるが、モノクルの向こう側で鋭く尖らせた目を見て、嫌な予感を募らせる。

 

「申し訳ありません。私のミスですね。彼は『先に館に戻っている』と言い残して私より先に帰りました」

 

 だが、そのUNKNOWNは邸宅に戻った様子はない。自室にいるとも考えられるが、ティターニアが『いる』と分かった現状で部屋で律儀に休んでいるとは考え辛いだろう。

 弾けるように立ち上がったシノンを見つめながら、レコンはUNKNOWNの暴走は予見できたはずだったと頭を掻いた。 

 誰よりもティターニアに……アスナに固執していた彼が『冷静』に情報収集に徹するなどない。彼女がどんな形であれ、危険な賭けに出ているのを指を咥えて見ているなど出来るはずがないのだから。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 寝過ぎた。夜明けを迎えて暗雲を抱えた空が白み始めながらも雨の演奏を止めぬ早朝、シリカは自分を温めるように隣で猫のように丸まって眠るピナの額を優しく指で撫でながら意識を覚醒させる。

 ユージーンの指摘通り、疲れが溜まっていたのだろう。泥酔したかのようにベッドにもぐりこんだ瞬間から意識を手放していたシリカは、ぐっと背筋を伸ばしながら起き上がる。

 

「……『仮面』ですか。分かってます。分かってますよ。それくらい……自分のことくらい……分かってますよ」

 

 それでも自分がしっかりしなければ、『彼』の傍にい続けるためには、少しでも『有能』な自分を演じ続けるしかないのだ。『ただの女の子』がいつまでも『彼』の傍にい続けられる程に世界は甘くなかった。優しくなかった。

 ただの傷の舐め合いから始まった関係だ。アスナを死なせた失意によって自責の念と自罰の呪いを何とかヒースクリフへの……茅場昌彦への憎悪に作り上げて走り続けていた『彼』は際限なく傷つき続けていた。だからこそ、少しでも寄り添える温もりが必要だった。それがシリカだっただけ。いや、シリカが『そうであろう』とした。そして、『彼』はシリカが望んだ通りに甘えてくれた。そうしてシリカは自分の必要性を得られた。

 現実世界に帰ってからもそうだ。復讐を果たしても晴れなかった『彼』の心は、自分がアインクラッドで体験した出来事に意味を求めて仮想世界に関わり続けた。そうして、自責の念と自己憎悪を少しでも消化しようとした。だが、『彼』の努力を嘲うように送り付けられたアスナ『生存』の情報と復讐の果てに殺したはずの茅場昌彦の接触。アインクラッド末期での覚悟を……たった1つの目的だった復讐すらも完遂出来ていなかった『彼』の絶望、そして得られた希望がどれ程のものだったかはシリカにもぼんやりと感じ取れる。

 ピナを泣かせたまま自室を出たシリカは、今後はどうすべきか悩む。アスナの方針は分かった以上、今は静観して次なるアクションを控えるべきだ。だが、このまま待機し続けるわけにはいかない。何かしらの準備を整えておくべきだ。

 

「それにリーファさんも何とかしないと」

 

 自分の発言のせいで傷ついたユウキも心配であるが、暴走したリーファにどう対応すべきかもシリカの腹痛を呼ぶ。『彼』の妹であり、現実世界ではこれでもかと自分の秘書ライフを邪魔しようと接触を試みてきた彼女は危険だった。

 頑なに『彼』はリーファとの……直葉との接触を拒んでいた。それは仮想世界に関わり続ける『彼』にとって、完全攻略後もアインクラッドは終わっておらず、故に鉄の城に縛られ続ける『彼』は現実世界で生きる家族から離れた。無論、シリカがリーファを離れさせたかったのはそれ以外の『理由』もあるのであるが、それは言及すべき事ではない。

 正直に言えば、リーファの事は嫌いではない。『彼』の妹である以上はシリカとしても良好な関係を築きたい。だが、彼女の兄妹関係に対する意識は世間一般におけるモノとは大きくズレが存在する。それがシリカとしても容易に歩み寄れない要因になっていた。むしろ排除一択にした因子そのものである。

 

「まだ寝てていいぞ」

 

「私もそうしたいのは山々ですが、寝過ぎて現状から目を背けるわけにもいきませんから」

 

 それでも十分に睡眠を貪りました。そう主張するように強気で微笑み、応接室で山のような本を並べて読み耽っているユージーンに、シリカは新しい薬茶を準備する。彼はありがたそうにそれを受け取るも、やはりニオイが気にくわないのか、一瞬だけ顔を顰めた後に口を付けた。

 

「【閃光】の意図を読もうと彼女の自室から本を運び出したが、まるで分からんな」

 

「手紙の1枚でも残してたらとは思いますけど、アスナさんも人間ですから。やっぱり突発的に動いてしまって計画が前倒しされてしまった……という事でしょうか?」

 

「だろうな。だが、少なくとも貴様は【閃光】の裏工作に勘付いている節もあった。だからこそ、あまり責任を感じるな。全力を尽くしてもなお足りぬからこそ、人は互いの手を取り合うものだ」

 

「それ、ボスを単独撃破した御方が言っても説得力無いですよ?」

 

「フン。前にも言ったはずだ。あれは力試しであり、オレ自身の器を調べる為ものだ。協力し合えるならばそれに越したことは無いだろう?」

 

 だが、ランスロットは果たして協力し合った『程度』で勝てる相手だろうかと、嵐のせいか、気温が下がった応接室でシリカは体を震わせる。使われていない暖炉に火を点したい衝動を抑えながら、熱い薬茶を喉に流し込み、ユウキを追い詰める結果となった失言を振り返る。

 シェムレムロスの兄妹……正確には妹に無力のままガイアスが殺されたのは、状況が最悪で抵抗できなかったせいだろう。召喚された側であり、彼女たちでは『戦闘』に持ち込む余地さえも残されていなかった。ならば、シェムレムロスの兄妹が住まうという館……アルヴヘイム北方にある白の森から侵入しない限り、あるいはシェムレムロス側から攻撃でも仕掛けて来ない限り、『戦闘』という舞台には持ち込めなかった。

 だが、ランスロットは違う。シリカが知る限り、UNKNOWNとシノンは揺るがないトッププレイヤーだ。だが、それでも圧倒された。ほぼ一方的だった。ユウキの言葉が何処まで真実なのかは分からないが、もはやランスロットはネームドでありながらボス級……いや、それすらも上回る『イレギュラー』とも呼ぶべき戦闘能力を誇っていると考えるべきだろう。

 それもHPバーは3本ある内の1本目だ。一般的にHPバーが複数あるネームドやボス戦は最終HPバーこそが『本番』と呼ばれる程に別格の強さとなる。事実として、最もボス戦やネームド戦で死者が出やすいのは、戦いの流れが劇的に変化する最終HPバーへと移行した場面だ。逆に言えば、最初のHPバーすらも削れないならば、著しくレベルや装備が基準に到達していないくらいしかあり得ない。

 だが、レベルも装備も決して届いていないわけではないだろう。ならば、ランスロットが純粋に『強過ぎた』だけの話だ。

 

「……率直に聞きます。あなたと『あの人』が組んだとして、ランスロットに勝てると思いますか?」

 

「さぁな。だが、オレはサクヤを守ると誓った。オベイロンも倒すと決めた。ならば、ランスロットが邪魔するならば全力で相手取るまでだ。オレはランク1だ。勝敗を戦う前から気にしてどうする?」

 

「…………」

 

 不覚にも、またしてもカッコイイと思ってしまった。男を変えるのはいつだって友と女だ。シリカは半ば呆れながらも、そもそも最初から気合負けしていては勝ち目以前に勝負にもならないかと納得する。

 

「ランスロットの件は先送りで良いだろう? 情報の限りでは、ランスロットの『証』は入手済みだ。ならば、交戦を最大限に避けてオベイロンを倒すという方法も残されている。消極的ではあるが、犠牲を容認しないならば、これも1つの策だ。それよりも今は逼迫した事態への対処が先決だろう。まずはリーファをどうする?」

 

 分厚い本を閉じ、勉強疲れを起こしたように椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げたユージーンに、それこそ目下最大の悩みの種だとシリカも黙る。

 まだ意気消沈したまま部屋に閉じこもっているらしいユウキは、言い方こそ悪いが、そこまで暴走の危険性は無いだろう。だが、リーファは拘束を解いた瞬間に襲い掛かってきそうな程に狂犬状態だ。事態が落ち着くまで放置こそが最善とはいえ、何らかのケアを準備しておく必要がある。

 

「オレよりも貴様が適任だろう。腕を折った張本人と愉快に会話などできるはずもない」

 

 その通りだ。シリカは深い溜め息を吐いて厨房に赴くと、朝食の準備をしていた料理人の隣で、DBOでせっせと熟練度を高めた≪料理≫を発揮すべく腕を振るう。

 さすがに時間経過によって折られた腕は回復しているだろう。だが、拘束を解けない以上はシリカが食べさせるしかない。野菜多めのスープを作って盆にのせると、本来は食料等の保管庫として扱われている地下室に向かう。

 どんな罵倒が待っているだろうか? 諦めながらもシリカは重い鉄製の扉を壁にかけられていた鍵で開き、冷たい階段を下りる。灯りとなるランプはつけられているとはいえ、地下室は肌寒い。この冷たさが逆に冷静さを与える切っ掛けになっていれば良いのだがとシリカは期待する。

 

 

 

 だが、苦慮するシリカを待っていたのは解けた縄だけだった。

 

 

 

 盆を落としてスープをその場に撒き散らし、シリカは慌てて解けた縄をつかみ、どうやって拘束を抜け出したのかを考える。両腕ごと背中で縄で縛っていたはずだ。剣を抜くこともできないし、奇跡の発動も困難だろう。

 そこまで考えてシリカは歯を食いしばる。ついに耐久度がなくなってポリゴンの欠片となった縄を見送る。

 

「さすがは『あの人』の妹ですね。執念だけは認めます」

 

 縄の1部が『擦り削れて』いた。リーファは腕の回復もままならない状態で、冷たい岩肌のような床に縄を押し付けて体を動かして『擦り』続けたのだ。音を最小限に抑え、縄を千切る為だけに、一晩かけてじっくりと時間をかけて縄の拘束を破ったのだ。

 鎖にすべきだった。縄ではなく鎖ならば千切るのにはもっと時間がかかったはずだ。だが、それはユージーンの失敗ではない。リーファの執念が勝っただけだ。

 ならば脱出路は? いくら見張りを立てていなかったとはいえ、扉は鍵がかかったままの状態のはずだ。そこまで考えて、シリカは≪ピッキング≫があるではないかと唸る。鍵がかかているから逃げられないで済むのは現実世界のはずだ。

 

(下手にリアルファンタジー寄りのアルヴヘイムに毒されてますね)

 

 リーファのスキル構成について、もっと情報の開示を求めているべきだった。後悔するシリカであるが、ステータスやスキル構成はプレイヤーにとって最大の秘匿対象だ。それは弱点を露呈させるものであり、実名を尋ねるのと同格のマナー違反なのである。サインズですら、傭兵のステータスやスキルの開示を求めない程だ。

 

「やられました。リーファさんが見事に脱走してます」

 

「こちらも悪い報告だ。ユウキも脱走している。自室の部屋には鍵をかけたまま、窓から逃げたようだな。この様子だと昨日の内には……。恐らくは【閃光】を追ったのだろう。街道の検問は厳しいだろうが、方法はないわけではないだろうからな」

 

 アスナの真意をより明確化する為に、その別れに立ち会ったユウキにも知恵を借りようとしたのだろう。戻ったシリカを待っていたのは、眉間に皺を寄せたユージーンの嘆息だった。

 雷鳴が轟き、それは爆音の如く世界を揺らす。シリカは壁にもたれ掛かり、ずるずるとその場でしゃがみ込んだ。

 

「……羨ましいです」

 

 率直な本音を思わずシリカは漏らす。

 リーファもユウキも自分の心のままに動いて、冷静さを置き去りにして動ける。だが、シリカは『彼』の為とも思ってアルヴヘイムで行動していながらも、その悲願であるアスナがその身を犠牲にするかもしれない危機に静観を訴えた。

 

「貴様がUNKNOWNを愛しているのは知っている。だから、そんなに自虐するな。少なくとも、誰よりも【閃光】の意思を尊重したのは貴様だ」

 

「そういう理屈じゃないんです! 私は『あの人』にアスナさんと会わせるって誓ったんです! なのに、私は……動けなかった」

 

 それが悔しいのだ。心の何処かで『自分が助けに行っても足手纏いになるだけだ』と諦めていた本当の自分がいるからこそ、羨ましいのだ。

 

「……『自分を想い、帰りを待ってくれている人がいる』というだけで、男は安らぐものだ。貴様はUNKNOWNの秘書なのだろう? オペレーターなのだろう? 貴様の仕事はサポートだ。そして、疲れて帰ってきた……その日を生き抜いた奴を1番に迎えてやることだ。だからこそ生き残れ。それを優先する事に何の迷いがある?」

 

 同じく壁にもたれて隣で腕を組みながら、朝焼けの空を隠す暗雲より滴る雨の音色を聞き続けるユージーンを思わずシリカは見上げた。

 あくまでユージーンはシリカに視線も顔も向けず、廊下に設けられた四角縁の窓、ガラスの向こう側の風景ばかりを眺めている。

 

「そういうものですか?」

 

「そういうものだ」

 

「……男心も一筋縄ではいきませんね」

 

「今更気づいたのか? フン、貴様の『愛』とやらもまだまだ道半ばのようだな」

 

 そのようです。シリカは自分もまだまだ……いや、当たり前のように未熟なのだと思い知る。

 愛している。それは揺るがない。だが、アスナがいる限りは『1番愛している女性』にはなれない。だからこそ、常にサポートし続ける身でありたいと望んだ。そう覚悟を決めてDBOにログインした。傷の舐め合いだとしても、確かにアインクラッドで『彼』は自分を必要として、また自分もまた『彼』に必要とされていた事に愛を覚えたのだから。

 

「悔しい。ユージーンさんに諭された」

 

「ランク1を舐めた貴様の負けだ」

 

 笑ったユージーンに、シリカは重い腰を上げる。確かにその通りだ。

 

「それでも、私はいつだって『あの人』の隣にいたい。戦ってる時も、苦しんでる時も、笑っている時も、傍にいてあげたいです。だから、私はこれからも可能な限り、『あの人』を支え続けます。たとえ嫌われても良い。憎まれても良い。それが私の選んだ道ですから」

 

「フッ、そうか。ならばオレも何も言わん」

 

「だけど、ユージーンさんの教えてくれたこと……大事に胸に仕舞っておきますね。ありがとうございました」

 

 素直に『仮面』無しの笑顔で感謝を述べたシリカに、ユージーンもまた穏やかに口元を歪めた。

 今までは協力関係としての『仲間』だったが、本当の意味で手を携え合える『仲間』になれた確信がシリカに得られたのは、決して気のせいではないだろう。

 ラストサンクチュアリとクラウドアース。犬猿の関係と表現する事も出来ない、一方的に潰される強弱の関係。揺るがぬ決戦の日、必ずUNKNOWNとユージーンはぶつかるだろう。そして、シリカは何ら迷いなくUNKNOWNを応援するだろう。

 だが、それでも今だけは確かに『仲間』なのだとシリカは受け入れることができた。

 

「UNKNOWNは幸せ者で大馬鹿者だな。貴様のような良い女に慕われていながら、別の女の尻を追っかけ続けているとは」

 

「そういう一途な所が大好きなんですよ。だからこそ、私好みに染め上げたんですけどね。フフフ、たとえ私の呪縛から逃れた気になっても、彼の深層心理とフェチズムまで蝕んだ私のテクは――」

 

「そういうジョークは止せ。幾らランク1でも耳を塞ぎたくなる」

 

 冗談ではないんですけどね。シリカは残念そうに眉を曲げた時、廊下を走る人影があった。

 それは嵐の中を駆けてきたのは、全身ずぶ濡れの男だった。水溜まりを廊下に作りながら、走ってきた男は助けを求めるようにユージーンに縋りつく。

 恐らくは要塞に駐屯している戦力、彼が纏め上げた傭兵や荒くれ者たちの1人だろう。だが、その表情は恐怖で歪み切っている。

 

「ユージーンさん! 黒獣が……黒獣が現れた!」

 

「何だと!? まさか要塞が襲われたのか!? 言え! 何があった!?」

 

 ユージーンの前でへたり込んだ男は泣きわめきながら叫び、ユージーンは顔を硬直させて彼の胸倉をつかんで正確な報告を求める。その気迫に我を取り戻したのだろう。歯をガチガチと鳴らしながら、男は生唾を飲んで深呼吸を置く。

 

「……ち、近くの街道に黒獣が出たって噂が届いて、要塞で暴動が起きかけたんです。どうやら、村が幾つか襲われたらしくて。ほら、俺たちってこの辺の出身も多いし、幾ら食い扶持が無いから追い出されたって言っても故郷は故郷だ。見捨てられねぇって奴も多い。だ、だから……」

 

「だから何だ!? 貴様らには『絶対待機』と命じていたはずだ! ティターニア騒動にも便乗せず、一心不乱に剣を研ぐべき時! それが貴様らの仕事のはずだ!」

 

「分かってるさ! それでも、ユージーンさんは『知らない』んだ。黒獣の……黒獣の強さと恐ろしさを! 俺の町は奴が『通った』だけで地図から消えた。アルヴヘイムのガキで親から教えてもらわない奴はいない。『深淵には気を付けろ。深淵狩りがやってくる。夜と嵐を恐れろ。黒獣がやって来る』ってな!」

 

「だから、『何があったのか』をハッキリさせてください。黒獣の強さと恐ろしさは十分に分かりました。それで、要塞は話の流れから察するに、襲われたわけではありませんね? だったら何があったんですか?」

 

 ユージーンに代わり、シリカは男から事態を聞き出すべく、先程までは心を冷やすばかりだった雨の音色に混じった狂える雷鳴に背筋を撫でられているような気がしながら、感情を殺して問いかける。

 覇気溢れるユージーンの形相とシリカの冷淡な物言いに挟まれ、男は目線を『安心感』から逸らす。

 

「あ、姐さんが……姐さんが……志願者を率いて黒獣が出没している地域に救援へ向かった。女王騎士団も見て見ぬフリさ。黒獣の相手なんて深淵狩り以外はしない狂気の沙汰だ。それに連中からすれば、地図にも載ってないような小さな村よりも街道の警備の方が何倍も大切だからな。へっ、良いよなぁ! なんでも『ティターニア様の為に』で許されるんだからよ!」

 

 恐怖と安堵が決壊したのだろう。ゲラゲラと笑って嗤う男を手放したユージーンは、システムウインドウを開いて赤い鎧を纏い、大剣を背負うと無言で歩き出す。

 

「……行く気ですか? 黒獣は情報も少ない未知の相手です」

 

「ああ、そうだな。だが、だから何だ? サクヤは2つの危険を承知で『助ける』道を選んだ。ならば、オレが救援に向かわない道理はない」

 

 黒獣に対して、優れたプレイヤーとはいえ、最前線にも立った経験がないだろうサクヤに勝機があるとは思えない。救助活動中に黒獣と遭遇すれば、彼女はHPを呆気なくゼロまで散らすだろう。それが1つ目の危機だ。

 そして、もう1つはレギオン化だ。黒獣と仮に戦闘する事になれば、サクヤは防衛本能から沈静化しているレギオンプログラムを再び活性化させるかもしれない。そうなれば、彼女のレギオン化は一気に進む事になる。

 2つの危険を呑み込んでサクヤが動いたのは、限りなく『人』らしい善意からだろう。それは組織の暴動を抑える為の皮肉の策だったのかもしれず、また彼女の善心がここで見て見ぬフリをする事を良しとしなかったのかもしれない。

 

「貴様はここにいろ。今更動くとは思わんが、絶対に【閃光】の元には行くな。貴様まで動けば、我々は本当の意味で瓦解だ」

 

「分かってます。ですけど、ユージーンさんも行くべきでは無いのかもしれませんよ? 彼女は危険を理解した上で、あなたの了承も無く、救助活動に向かった。それはアスナさんと同じで、あなたに来て欲しくない……助けに来て欲しくないという真意があるからではないのですか?」

 

 自分の大切な人の番になったら冷静さを失って猪突猛進するのかとシリカは鋭い口調でユージーンの背中に問う。

 だが、彼は不敵な『ランク1』の顔で振り返り、シリカの目を見開かせる。

 

「残念だが、サクヤも謀略・知略はオレなど及ばん程に優れているが、【閃光】とは決定的に違う部分がある。それは『オレに惚れた女は、自分の窮地にオレが来ないはずがないと信じている』という部分だ。フン! 覚悟を決めた女は美しいが、同じくらいに惚れた男を一途に信じて頼ってくれる女もまた可愛いものだ。オレは『ランク1』として、惚れた女の手を振り払うような愚かな真似はせん。絶対にな」

 

 振り返った時間を無駄にしないとばかりに、狂って嗤うばかりの男の首根っこをユージーンはつかむ。

 

「だが、少しばかり冷静さを失っていたのも確かだ。貴様、確か伝令組の者だな? ならば≪騎乗≫持ちのはず。オレを乗せて道案内しろ」

 

「ヒッ! い、嫌だ! 嫌だぁああああああああ! 黒獣にみんな殺されちまう! 俺も、アンタも、どれだけ強くても黒獣には敵わない!」

 

「フン、たかだか獣1体にランク1が後れを取るものか。安心しろ。道案内を済ませたら貴様はそのまま逃げ帰れ」

 

 危険地帯まで連れ込んで用無しになったら放り出す。それって安心とは程遠いのでは? 連行される男に哀れみを覚えながらも、シリカは両手を組む。

 今は祈るしかできない。アスナの、リーファの、ユウキの、サクヤの、ユージーンの、そして何処かにいるだろう『彼』の無事を祈るしかできない。

 だが、今はそれこそが必要なのだろう。そして、それが出来るのは……安全地帯にいるシリカだけなのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「おい、お前!」

 

「ひゃ、ひゃい!」

 

「新入りか? ムフフ、なかなかに可愛いではないか。どうだ? 私の部屋に――」

 

「申し訳ありませんが、仕事がありますので!」

 

 これで3回目だよ! HENTAIじゃなくて変態エロオヤジばっかり! 顔を真っ赤にして涙目で足早に逃げながら、『彼女』は紺色の絨毯が敷かれた、ある意味で聖職者らしい館の廊下を歩む。

 人生、何が助けになるか分かったものではない。メイド服姿のまま、ユウキはすれ違ったバーンドット大司教派閥の貴族に腕を掴まれるより先に逃げ切る。

 ユージーンやシリカには悪いが、ユウキはあのまま茫然自失で部屋に閉じこもる程に心折れてはいなかった。確かに『自分のせい』でアスナが決意を固めたならば、それは紛れもなく自分の『弱さ』が招いたことだ。事実として、ユウキはアスナに姉の面影を見て甘えてしまった。そうした態度がアスナを余計に苦しめたのかもしれない。

 故にユウキは動いた。動くしかなかった。アスナの真意を直接問い正す為に。

 バーンドット大司教領までは必ず白鉄の町を経由し、大街道を進む他にない。だが、検問は厳しく、通行証無しでは通る事も出来ない。故に街道を通らずに向かうのが唯一の手段となるのだが、整備されていない土地を突っ切る為の騎獣を駆る≪騎乗≫も無く、また協力者を得られる人脈も無いユウキに取れる手段は無かった。

 そこで選んだのは大司教領への出発予定がある行商人を見つけて護衛を名乗り出る事だった。幸いにも黒獣の噂で傭兵市場は需要過多だった。酒場でそれらしい人物を見つけて、やや高めの金額を提示すれば、あっさりと信じ込んでくれた。どうせ相手からしてもいざという時の『餌』程度にしか見ていなかったのだろう。とはいえ、彼女の剣速を披露すれば、その実力は本物だと認めたようだったが。そして、何よりも下心が大いにあったことは間違いなく、馬車の荷台で太腿を触られて闇術を掠めさせて脅しをかけたまでがセットだった。

 雨に打たれながら、また黒獣が出没すると噂になっている街道で性欲を捨てない行商人はある意味で『オス』としては立派かもしれないが、ユウキとしては不快なだけである。そうしてバーンドット大司教領に到着したユウキは、町の噂とアルフの異様な警戒態勢からアスナが滞在しているだろう、バーンドット大司教の館を突き止めるも、今度は潜入の方法を悩まされた。

 幾ら雨も強い夜間であり、なおかつ≪気配遮断≫を持つとはいえ、アルフの巡回と女王騎士団の警備体制を突破するのは難しい。1人で単独で突撃するにしても、アスナを連れ出すならば、敵に完全包囲された懐から逃げ出さねばならなくなる。ならば、必然的に潜入以外に道は無かった。

 ならばとユウキが目をつけたのは、嫌々ながらに館に赴いているらしい、メイド服の娘だった。町で大量の林檎を購入した籠を抱えた姿に、不足した食材を購入したのだろうと見当をつけたユウキは彼女を暗月の銀糸で絡め取って暗闇に引きずり込むと眠らせると失礼ながらにメイド服を拝借した。無論、下着姿で放置したわけではなく、ガイアス達との旅の時に使用した巡礼服を着させて宿の部屋に放り込んだのである。

 無論、普段ならば見知らぬメイドなどを通しなどしないだろう。だが、ティターニアの警備によって普段の衛兵ではなく精鋭の女王騎士団に門番は入れ替えられ、メイドたちの顔を憶えている者は少なかった。それでも警備の際に幾つかの質問をされ怪しまれこそしたが、ティターニアを一目見ようとする狂信者が現れてそちらに注意が流れたお陰で潜入は成功した。

 だが、城のように財を尽くして広大な館において、ティターニアの部屋に接近するには、やはり警備は厳重であり、何よりも同僚であるはずのメイドたちの目が危険だった。だが、ティターニアの到来によって華やかなパーティが開かれた館では、接待を受けるアルフ達や酔った貴族たちの世話でメイドたちも大忙しであり、せいぜい『新人か』くらいの目で配膳を押し付けられて右往左往するユウキへの舌打ち程度しかなかった。

 それでも疑惑の目が厳しくならなかったのは、セサルの屋敷でのメイド業のお陰だろう。場の雰囲気に慣れれば、後は賓客のもてなしと料理やお酒の運搬に専念すれば良い。お尻を触れるのも我慢である。後で殺してやると奥歯を噛んで堪えながら、耳を澄ましてティターニアの情報を集めた。

 結果、ティターニアは……アスナはパーティに参加せず、最も厳重な警備がされている館の西塔にいる事が分かった。雨で池のようになった中庭とその向こう側にある西塔を渡り廊下から見つめながら、ユウキは4回目のインターセプトとなった酔っ払い変態貴族オヤジの手から逃げつつ、策を練っていた。

 

(ボクのDEXとウォールランを使えば、アスナがいる最上の部屋の窓まで行けない事も無いけど、この館全体がギルド作成の『要塞』に近いんだよね。ウォールランは制限されているし、DEXも下方修正を受けるはず。それにこの雨だから力任せで登ることも難しいし)

 

 あ、そもそもボクのSTRだと無理だよね。ロッククライミングの経験もないユウキでは、出っ張りも無いに等しい石造りの西塔の壁を素手で登るのは、それも豪雨を浴びながらなど不可能だ。ユウキはメイド服のスカートを翻しながら、警備厳重の西塔への潜入に頭を捻らせる。

 ここまで怒涛の勢いで潜入できたが、断じてアルフ達と女王騎士団の警備は甘くない。潜入がバレるのも時間の問題だろう。

 

(陽動作戦はどうかな? 何処かで騒ぎを起こして……ううん、駄目だよね。女王騎士団もアルフもそれこそアスナの部屋の警備を固めちゃう)

 

 と、悩んでいるユウキの視界の端を、先程逃れたばかりの酔った貴族が通る。目敏くユウキを発見した彼は、にへらと笑いながら、フラフラとこちらに歩み寄って来る。

 

「んん~? この私の手を振り払っておきながら、サボっているとは悪いメイドだ。仕置きが必要なようだな」

 

「別にサボってるわけじゃ――」

 

「口答えをするな! 貴様、この私が誰だか分かっているのか!? この地の領主! バーンドット大司教! その甥の【アーカス】司教であるぞ!」

 

 それって身分的にはどれくらいに位置するの? 素直にユウキは力関係が分からずに首を捻る。その動作が苛立ったのか、アーカスは丸々と太った指の手を伸ばす。

 簡単に捕まるユウキではない。ひらりと身軽に躱すと、ムキになったアーカスは両腕を広げて跳びかかる。それも軽々とジャンプで彼の頭ごと跳び越えると、ふわりとメイド服のスカートの裾を押さえながら一瞥する。

 その反抗的な視線に怒りを募らせたのか、アーカスは歯ぎしりして腰の青銅のベルを鳴らす。するとやれやれと言った様子で3人の女王騎士団の騎士たちが甲冑を鳴らして現れた。

 まずい! ユウキは咄嗟にメイド服に隠した影縫を抜こうとする手を堪えながら、騎士3人に囲まれたままアーカスを睨む。

 

「アーカス様、何用ですか?」

 

「このメイドはどうやら新人のようで『教育』が必要なようだ。私の部屋まで連行しろ」

 

「失礼ながら、今がどのような時がお分かりになっていますか? ティターニア様の御前であり、あまり『いつも』のような真似は――」

 

「その娘の目が気に食わんのだ! それに、貴様らもこの娘がティターニア様に失礼を働けば、それこそオベイロン陛下の怒りを買うと思わんのか? 私は普段から留守の叔父上に代わり、この館の気品を守る義務があるのだ!」

 

「……ハァ。畏まりました」

 

 こんな奴に仕える為に女王陛下に騎士の忠義を立てたわけではないのに。そう酔ったアーカスに聞こえるか聞こえないかの小声で呟きながら、騎士たちはユウキの肩をつかむ。

 

「ううむ、白くて細い指だ。その反抗的な眼差し、久しく忘れていた昂りを覚えるぞぉ!」

 

「ボクは気持ち悪いだけだよ」

 

 良し、決めた。部屋に連れ込まれた瞬間に影縫で喉を斬り裂いてやろう。嫌悪感を惜しみなく眼差しに乗せながら、右手を無理矢理つかんで舐める勢いのアーカスにユウキは軽蔑の笑みを浮かべる。

 だが、途端に騎士たちの手がユウキの肩から離れる。同時に雷鳴が轟いて空を裂く稲光が輝けば、ユウキとアーカスを暗く染める巨大な影が炙り出された。

 

 

「貴様らぁあああああ! なぁあああああにをやっておる!?」

 

 

 ユウキは『筋肉の塊』以外の表現をまず思い浮かばなかった。

 それはタルカスにも匹敵するほどの巨体。隆々と盛り上がる胸襟と上腕筋は衣服を破らんばかりに盛り上がっている。それはアルフの白服であるとユウキは筋肉の圧迫感に後退りながらようやく理解する。

 

「何だと!? この私を誰だと――」

 

「知らん! ましてや、我が主ですらない貴様の乙女への邪悪なる毒牙! 陛下の! 何よりもティターニア様の騎士として! 見過ごすわけにはいかんのだぁあああああ!」

 

 豪風。そう表現するしかない、巨体に相応しい背負っていた大盾によるシールドバッシュ。それは指を突きつけて喚いていたアーカスの顔面を叩き潰し、そのまま壁に激突させる。カーソルは瞬く間に赤くなって点滅するも、一命を取り留めたのか、それ以下になる事は無かった。

 

「フッ、峰打ちだ。ティターニア様は慈悲深い御方。常に贖罪と再起のチャンスをお与えになる。何よりもティターニア様の御前を血で汚すわけにはいかないのだ!」

 

 シールドバッシュに峰打ちも何も無いと思うのは気のせいじゃないよね? 呆然とするユウキの前で大盾を背負ったアルフは、胸筋を振動させながら女王騎士団たちへと体ごと顔を向ける。

 

「あ、貴方様は180年前にアルフに召し上げられたという女王騎士団【女神の盾】の【マルチネス】様!?」

 

「いかにもタコにもクラーケンにも! 貴公ら後輩の情けなさに、このマルチネス! 涙を禁じ得ん! それが名誉ある女王騎士団の今の姿だと言うのか!?」

 

 巨体もそうであるが、モヒカンにも似た髪型でありながらもその一房を華麗なるカールを決めてオシャレポイントだとばかりに決めているマルチネスは、ユウキをそっちのけにして、今にも赤い血の染みになりそうな痙攣したアーカスも完全無視し、背筋を伸ばして大先輩の登場に直立不動の女王騎士団3名に滝のような涙を流しながら拳を握る。

 

「我らは誓いを立てたはず! 女王陛下の名誉を守る為! 女王陛下の慈悲を体現する為! 女王陛下の慈愛に報いる為! 全身全霊を以ってアルヴヘイムの民を守ると! なのに、このあり様とは……何たる事か!」

 

「も、申し訳ありません! ですが、アーカス司教に逆らうなど、とても――」

 

「女王陛下への忠誠は全てに勝る我らの宝! オベイロン陛下への忠誠、それ即ち女王陛下への最大の奉仕! 故に我が肉体余さずティターニア様への忠義! 貴公らにはどうやら覚悟が足りぬようだな! 良かろう。このマルチネス、貴公らに魂を……我が猛るソウルの輝きを与えようぞ! 歯を食いしばれ!」

 

 轟雷。それと疑うばかりの鉄拳が唸り、女王騎士団の1人1人の顔面を潰し、壁に叩きつけていく。絶対にSTR特化だと分かる一撃に、ユウキは何故か喜びながら泣きじゃくる顔面変形した騎士たちと彼らの肩を抱くマルチネスから距離を取る。

 

「うむ。うむうむ。うむうむうむ! そう泣くな! その涙はティターニア様を守る為に取っておくのだ。良いな?」

 

 感涙しながら、顔面が修復するまでとても見れた顔ではなくなった3人を腕を振りながら見送ったマルチネスは、逃げるにはあまりに歩みが遅かったユウキへと急速反転して向き直ると、紳士の笑みを浮かべた。

 

「助けが遅れて申し訳なかった。改めて名乗ろう。吾輩の名はマルチネス。180年前に女王陛下への忠義と我が肉体が認められ、アルフに召し上げられた騎士! うむ。うむうむ。うむうむうむ! そう怯えなくても良い」

 

 別に怯えてないよ。怖いだけだよ。実力差ではなく存在感に気圧されて、ユウキはガタガタと震える。この雰囲気を知っている。タルカスやエドガーと同類。妄執にも等しい狂信の持ち主だ。

 アスナの話によれば、アルフ達は等しくオベイロンによって洗脳を受けて忠誠心を植え付けられているようであるが、マルチネスは余りにもティターニアへの忠誠心が元より肥大し過ぎているのか、ティターニアへの忠義=オベイロン王への忠義となっているようだ。巨体と筋肉のせいで台無しであるが、紳士然かつ何処か愛嬌のある顔立ちであり、振る舞いにも騎士とは何たるかを語るような気品と気迫もあった。

 

「えと、ありがとうございます」

 

「素直な娘だ。まだ翅無き妖精だった頃、村にいた初恋の娘を思い出す! 吾輩の初恋は無残に散った! あの娘は村で1番のイケメン剣士の妻となったのだ! 吾輩は膝を折り、涙を流し、野を駆けた! サラマンダーとして生まれ持った筋肉が疎ましかった! あのイケメン剣士のウンディーネのようなシャープな体格こそが当時のイケメンの絶対条件だったのだ! だが、吾輩は女王陛下の慈悲を知った! 吾輩の肉体は女王陛下に捧げる為にあったのだと悟った! 故に、我が肉体に嘘偽り無し!」

 

「……う、うん。凄いですねー」

 

「だが、吾輩はアルフになった後に苦難に直面した! ティターニア様にお会いできると意気揚々とユグドラシル城を駆けたのだが、オベイロン陛下は吾輩が気に食わなかったらしく、城の地下での400年の土木作業を命じられたのだ! 吾輩、この180年間ひたすらにユグドラシル城の地下拡大業務に携わっていたが、もう悔しくて悔しくて……ようやく吾輩にも出陣の機会を与えられたティターニア様のお迎えの任! 吾輩こそがティターニア様の騎士! アンバサァアアアアア!」

 

 1つだけ分かったことがある。狂信はどれだけ洗脳しても狂信のままなんだ。ユウキは何処かホッとしたような、そして複雑な気持ちになる。

 

「ところでメイドよ。ティターニア様は何処にいるかご存知ないか? 実はこのような性格であるが故に、同僚のアルフとも折り合いが悪くて尋ねられんのだ。オベイロン陛下と仲違いしてでも、ケットシーとインプの為に慈悲を請う、伝説に恥じない女神に、我が忠誠を改めて誓いたいのだ!」

 

「西塔にいるらしいよ。でも、警備が厳重で――」

 

「ほう、西塔とな? 手を煩わせて申し訳ないが、案内を頼む。吾輩、自慢ではないが方向音痴なのだ。翅無き妖精の頃も、アルフになってからも、迷子にならずにはいられんのだ」

 

 ……利用できる、のかな? ユウキはあまりにも存在感を放つマルチネスを背後に、女王騎士団とアルフが警備する西塔の門前に向かう。

 

「諸君、警備御苦労! 吾輩はティターニア様に忠義を尽くす者。このメイドは案内人だ。通せ」

 

 アルフ達も厄介者が来たとばかりに、女王騎士団たちに命じて扉を開けさせる。塔の内部は中心に巨大な石柱がある螺旋階段であり、松明の輝きが夜と嵐の暗闇を払う。

 

「やはり自らの足で地を踏み、自らの足で駆けるに限る! 他のアルフ達は翅に頼っていかんな。そう思わんか?」

 

「そうですねー」

 

 余計なことは言わない方が良い。ユウキは螺旋階段を上り切って、4人のアルフと8人の女王騎士団が完全警護する客室の扉を、合言葉でも言うようにマルチネスの筋肉を震わせて遠ざけさせる。どうやらアルフでも風変わり……もとい関わり合いになりたくない人物としても定評があるらしいのは間違いないようだ。

 侵入者どころかマルチネスの被害者のような哀れみの視線を投げられながら、ユウキは暖色の調度品で纏められた、自動演奏する大きな金のハープが特徴的な客室に踏み込む。そこには妖精の女王の風格に相応しい、白いドレスに身を包んだアスナが金縁の椅子に腰かけて暗い表情で顔を俯けていた。

 

「アス――」

 

「ティターニア様! 貴女様の騎士、マルチネスが馳せ参じました! もはや心配ご無用ですぞ!」

 

 思わず零れたユウキの掛け声を消し去る程の大声で、マルチネスは背後で扉が閉ざされると同時にアスナへと突進し、だが紳士である事には変わりないような絶妙な距離を保ちつつ、片膝をついた。

 突然の乱入者に目を白黒させたアスナは、まずはユウキを見て、続いて自分に涙を流しながら延々と忠義の文句を垂れ流すマルチネスに困惑する。

 

「えーと、騎士マルチネス……さん?」

 

「ハッ! 女王陛下! 吾輩に不足があれば何なりと!」

 

「あなたの忠義はよく分かりました。ですので、その……何か飲み物を持ってきてくれませんか? 喉が渇いてしまって」

 

「何と! お任せあれ。このマルチネス、女王陛下にご満足いただける事間違い無しの、女王騎士団秘伝の茶に心得があります。しばしお待ちを」

 

 嬉しそうに一礼してから退室したマルチネスに、これぞ嵐の到来とばかりに沈黙を保っていたユウキであるが、アスナと改めて顔を合わせると我慢できずに笑いが零れた。

 

「凄い人だね! アルフはみんな敵だと思ったけど、あのマルチネスさんみたいなアスナを1番に気にかけてくれている人もいるんだ」

 

「アルフは基本的に良い人ばかりよ? 元騎士が多いし、私にも『オベイロンの妻』として敬意を払っているわ。でも、あんな風に心から接する人はいなかった。みんな、偽りの忠誠を須郷に植え付けられて……」

 

 マルチネスのお陰で少しだけ晴れやかだったアスナだが、すぐに顔色は外と同じように曇る。蝋燭の火が照らす客室で、ユウキは座したままのアスナの前に立ち、助けに来た騎士のように手を差し出した。

 

「アスナ、逃げよう。ボクにはアスナの考えは分からない。でも、皆で一緒に考えて、アスナが自分を犠牲にしてオベイロンを倒そうとしているのは分かった。でも、それはアスナだけが背負う事じゃない」

 

「うん、分かってるわ。ユウキちゃんの言う通り、オベイロンを倒すのは皆の悲願。だからこそ、私はやらないといけない事があるの」

 

 だが、ユウキが差し出した手をアスナは握らず、揺るがぬ決意の眼で首を横に振る。

 

「須郷を倒す策はあるわ。でも、成功率は低い。だから、二重の策を準備しているの。むしろ、そっちが本命ね。手紙に書いた通りよ」

 

「手紙? そんなもの無かったよ」

 

「……え? そんなことは無いわ。探せばすぐに見つかるように、デスクの2番目の引き出しに入れておいたはずよ。興味を引くように鍵もかけておいたし」

 

 鍵などいずれの引き出しにも『かかっていなかった』はずだ。焦るアスナにユウキは首を横に振ると、彼女は納得しない様子ながらも語り始める。

 

「須郷は声明で『ケットシーとインプの解放』をアルヴヘイム全土に通達するわ。あの男は支配欲と虚栄心の塊。そうするように私が仕向ける。たとえ、屈辱の言葉を吐いたとしても、あの男にそうさせるわ」

 

 それがアスナにとってどれほどに心を掻き毟る行いなのかは言うまでもない事だろう。だが、そうしてでもオベイロンの欲望を擽ってまでして、アスナが何を狙っているのかがユウキには見えない。

 アスナがシステムウインドウを開いて、凝った意匠の円卓に広げたのは約束の塔周辺の精密な地図だ。約束の塔があった場所はかつて都があり、それは沈没してその上に森がある。だが、約束の塔の周りだけは今も都の名残があり、建造物同士を繋ぐ橋が架かり、そして森の水源として絶え間なく水流が複雑に絡んでいる。それはこの嵐で激流となっているだろう。木々と古い都と水流で守られた約束の塔は、その地形そのものが要塞と言っても過言ではない。

 だが、アスナが指差したのは約束の塔そのものだった。

 

「私はずっと考えてたわ。どうやったらオベイロンを倒せるのか。行き着いたのは1つ。『落下死』よ。リーファちゃんやシリカちゃんから聞いた限りでは、DBOではモンスターの同士討ちはもちろんだけど、プレイヤーと同じように落下ダメージも入るって教えてもらったわ。そして、どれだけスキルや装備を整えても耐えられる限界高度がある事も」

 

 落下ダメージ。それはDBOでも決して少なくない死因を作り出している落下死を生む要因だ。プレイヤーだろうとモンスターだろうと……それこそネームドであろうとも、余程の事が無い限りには落下ダメージの原則からは逃げられず、一定高度以上からの落下は有無を言わさずに即死となる。事実として、落下死前提のHPが全く減らないと表現するしかない程にタフネスだったギミックボスもいた。

 だが、一方でALOでは落下ダメージは緩い。飛行能力がある手前、落下は付き物であり、即死高度は高めに設定されているのだ。ユウキもALOにログインしていた経験があるので知っているが、存外落下からの生存もできるのがALOなのだ。

 

「須郷はヒースクリフ団長みたいに不死属性を持っていないわ。だから、私を連れ帰りに現れる約束の塔の頂上、そこから突き落とすことができれば……!」

 

「無理だよ! だってオベイロンにも翅があるはずだよ! たとえ突き落としても飛行されたら――」

 

「だからこその麻痺よ。出来れば≪暗器≫を習得したかったんだけど、スキル獲得用の祭壇で≪暗器≫は秘匿されていたわ。それだけが心残りね。西の隠密たちは暗器を使っているらしいから、そちらの情報さえ得られていればとも思うわ。でも、暗器は準備できた。もう決行した以上はこれで進めるしかないわ」

 

 アイテムストレージから実体化させたのは鋭い短剣と薬瓶だ。赤と青と緑……ルビー、サファイア、エメラルドがついたような短剣と毒々しい黄色の液体が詰まった麻痺薬。短剣はアスナが準備し、麻痺薬はシリカが作成したものだろう。レベル2の麻痺薬であり、効果も高いだろうが、それでも現状のDBOでボスやネームド相手には明らかに蓄積性能が足りない。

 

「どちらにしても無理に決まってるよ! あのね、ボスやネームドはとってもデバフ耐性が高いんだ! 弱点設定されていない限り、≪暗器≫持ちで強力な薬品をセットしても簡単にはデバフ状態に出来ない!」

 

「でしょうね。私もそこまで簡単に事が運ぶとも思っていないわ。でも、一瞬の虚を突いて須郷の胸に突き立てて、そのまま約束の塔から突き落とせれば、後は『私が翅で地上まで加速して』あの男を地面に叩きつける。そうすれば!」

 

「……駄目だよ。そんな事したら、アスナも死んじゃうよ。オベイロンと心中する気なの!?」

 

 確かにオベイロンもいきなり胸に短剣を突き立てられれば混乱するだろう。もしかしたら、ダメージフィードバックで錯乱するかもしれない。その間にアスナが翅の最大加速でオベイロンの翅に抗いながらも地面に押し付けるように叩き落せれば、逃れられない落下ダメージでHPバーの数に関わらずに即死させられるだろう。

 だが、アスナも地面に衝突する寸前に制動をかけなければ、同じく即死ダメージを受けることになる。いや、むしろアスナは最初から制動などかけずにオベイロンを自分の命と引き換えに倒すつもりなのかもしれないとユウキは危惧した。

 

「嘘だったの? アスナは……アスナは『生きる』って決めたのは、嘘だったの!?」

 

「……嘘じゃないわ」

 

 ユウキの叫びに、僅かに苦しそうに唇を噛みながらアスナは顔を俯けて髪のカーテンで顔を隠す。

 

「最初はね、須郷と一緒に死ぬつもりだった。私が生き返ったのは、生きている皆には出来ない、この命を使い捨ててでも須郷を倒す為なんだって思っていたの。でも、ユウキちゃんが私を導いてくれた。私に『生きたい』って……あの月光の中で私の意思を蘇らせてくれたの」

 

 椅子から立ち上がったアスナは緩慢とも思える動作で窓の向こう側、月光を隠す暗雲の中で轟く雷光を見つめる。それは見えない月を探しているようで、自然とユウキは横に並び立った。

 

「だから私は『生きる』。須郷と一緒にもう1度死ぬなんて、こっちからお断りよ。でも、須郷を約束の塔で倒すのも譲れないわ。ここで須郷さえ倒してしまえば、少なくとも皆の戦いは終わるかもしれない。『オベイロン』はアルヴヘイムのボスだもの。どうなるかは分からないけど、ボスさえ倒せばアルヴヘイムから脱出できるかもしれない。私は……私のできることを、私にしかできないことをしないといけない。妥協1つなく、やり遂げないといけない。そうじゃないと、須郷を倒す為に戦ってる皆に……思い出せない『あの人』に顔向けできないわ」

 

「……アスナには出来ることが他にもたくさんあるよ」

 

「そうかもしれない。でも、私は『ティターニアとして皆に命令する』のも嫌。私への……何の意味もないティターニアへの信仰で死んでほしくない。私は『ティターニアの為に』と死ぬ人たちに報いるだけの『大義』を残さないといけない。それが私のもう1つの策。二重の策よ」

 

 アスナは息を吹きかけて白く曇った窓ガラスに指で触れる。何を描くでもなく、ひたすらに丸を作る。

 

「私も最初は女王騎士団を先導してオベイロンを倒す急先鋒にするつもりだった。そうすれば、ティターニア教そのものが味方になって大きな戦力になるはずだって。でも、西で反乱軍が決起したわ。そんな状況下で、ティターニア教団はオベイロン派の中心。幾ら私が先導したとしても、真っ向から互いを敵と認識して殺し合っていた人たちが手を取り合えると思う?」

 

 あり得ないだろう。表面的には手を結べても、必ずそれは綻びを生み、軋轢となって瓦解へと繋がる。それくらいは政治のいろはも分からないユウキにもすぐに思いつく。

 

「ティターニア教と女王騎士団を丸ごと西の反乱軍に合流させる方法。その方法はただ1つ、『オベイロンは絶対悪』だとアルヴヘイム全土に知れ渡らせる事よ。たとえ須郷を倒し損ねても、プライドの高い彼は激昂するはず。私はなるべく『酷く痛めつけられる』ように努力するわ。出来れば、アルヴヘイムを蝕む深淵とかも口を滑らせたいところね。そうでなくとも私は『ティターニア』よ。深淵を封じた『オベイロン』の前で、『深淵の力を使ってアルヴヘイムの支配していた悪魔など、私の夫ではない』なんて啖呵を切ればどうなるかしら? それをアルヴヘイム全土に生中継。良い策だと思わない?」

 

 それはティターニアを生贄にしてオベイロンを『アルヴヘイムの住民にとって共通の敵』に仕立てる為の策だ。深淵への恐怖、それは人々の口から漏れる恐怖からも明らかだ。黒獣もまた深淵の怪物であり、アルヴヘイムの住民たちが翅を奪われたのも深淵の影響という『設定』なのだ。

 そして、それは長年に亘ってオベイロン王の奇跡とされていたアルフへの『翅』を与えることができる能力が、実は深淵を操っていたのは他でもないオベイロンだと『認識』させる。そうなれば主義主張による派閥争いなどではなく、『生存競争』にアルヴヘイムを団結させる。

 禍根はあるだろう。醜い言い争いもあるだろう。肩を並べるなど不可能な程に溝もあるだろう。だが、少なくともオベイロンに与する者は『悪』だと断じられる時代が来る。そして、それは反乱軍を『絶対正義』にする。それはティターニア教団も例外ではない。むしろ、女王騎士団の狂信からすれば『悪なるオベイロンよりティターニアを救い出す』為に、たとえ跪いてでも反乱軍に協力するだろう。それはティターニアへの心酔であるが故に。

 無論、全てがうまくいく試しはない。綻びは必ず生まれる。だが、それでも『大義』の下でアルヴヘイムの戦力全てを集結させる唯一無二の手段は、オベイロンを『絶対悪』にして生存戦争へとシフトさせるしかない。それがアスナの作戦だった。

 

「私は死ぬつもりもないわ。確信があるの。あの男は私を安易に殺さない。私が魂から屈服して、絶望に身も心も焼かれて跪くまで、決して殺さない。だから、私は『生きる』わ。たとえ、どんな辱めが待っているとしても、どんな苦痛が待っているとしても、耐え抜いて信じてるから。ユウキちゃんが……リーファちゃんが……思い出せない『あの人』が……必ず須郷を倒して助けに来てくれるはずだって。信じてるから」

 

 皮肉にも、アスナが『覚悟』を決める発露となったのは、オベイロンを倒す為に立ち上がった反乱軍……暁の翅の存在だった。ユウキは笑い声も漏れず、アスナの……まさにティターニアは慈悲の女神だと呼ばれたに相応しい優しい横顔に涙を湛える。

 

「卑怯だよ。ボク……ボク……もう、何も言い返せないよ!」

 

「当たり前じゃない。ディベートの基本は相手の論調の先回りと感情を排した理詰めよ? ユウキちゃんは頭こそ良いけど、論議の経験が無いのね。でも、本当のディベートは相手の逃げ道を封じちゃ駄目。相手と『分かり合う』為に、私たちは言葉を交わすの。そういう意味では……もう須郷は言葉を交わす価値もないケダモノよ。私は躊躇わない。この手を……この手を汚すことになっても、須郷を止めるわ」

 

 きっとアスナは殺しをしたことがないはずだ。その証拠のように、覚悟を決めても彼女の手は震えている。自らの死の危険ではなく、もう1度囚われて待っているだろう屈辱でもなく、『1人の命を奪う』という最大の禁忌に震えている。

 アスナは何処までも善人であり、善良なる魂を持ち、そして善意の尊厳を持っているのだろう。ユウキは自分の血塗れの手と暗闇の穢れを感じ取り、アスナを遠くて、決して手が届かない、温かくて優しい太陽だと改めて思う。

 

「だからユウキちゃんは早くここから逃げ――」

 

「分かった。アスナの覚悟……ボクが守る」

 

 今度はボクの番だ。アスナの言葉をかき消すように、ユウキは穢れている自分だからこそ出来る事を理解する。

 UNKNOWNを倒せば穢れは消えると思いたかった。彼を倒して仮想世界最強の称号を奪い取って、スリーピングナイツに捧げれば、罪は許され、また彼らと自分が生きた証になるはずだと信じたかった。

 だが、そうではない。ユウキは騎士の真似事のようにアスナの手を取り、恭しく芝居かかった振る舞いで跪く。

 

「偉大なる妖精の女王ティターニア様、ボクをあなたの騎士に列することをお許しください。あなたの覚悟を……ボクに守らせてください」

 

 クゥリに向き合いたい。もう1度ちゃんと話がしたい。この気持ちを伝えたい。

 だから、ボクは穢れに立ち向かう。あの日の呪詛を清める為に、太陽の剣となり、暗闇に打ち勝つ。アスナの『強さ』に近づく為に。

 

「……分かりました、騎士ユウキ。私の剣となり、あなたの『強さ』を示しなさい。ですが……絶対に……絶対に死んじゃ駄目よ!? 私は『生きたい』! みんなと一緒に『生きたい』! その『みんな』にはユウキちゃんも含まれてるの! だから、死なないで! 私の為に死ぬなんて……絶対に駄目だからね!?」

 

 最後までティターニアの演技を貫き通せず、跪くユウキを抱きしめたアスナの叫びに、黒紫の少女は瞼を閉ざして震える彼女の背中を撫でる。

 

「ボクはこのひと時だけはアスナの剣。でも、ボクの心はいつだって……たった1人の為だけにある。だから死なないよ。ボクが死ぬのは彼の為だけだから」

 

 ボクを見て。

 ボク『だけ』を見て。

 暗闇の中で優しく揺れる、全てを焼き尽くす熱を秘めた篝火よ。

 ボクは暗闇に潜む穢れを清め祓い、キミの祈りを守りたい。

 

 ボクは忘れない。ボクだけは忘れない。冷たく凍える雪の聖夜に、暗闇の中で出会ったキミを忘れない。

 

 そして、どうか言わせてほしい。受け入れられないのは分かってる。それでも構わない。

 愛してます。その一言に、ボクは殉じたい。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 雷雨の中で、リーファは雨具の外套を羽織りながら低空飛行を繰り返す。

 飛行時間の回復にはALOと同じで日光浴が必要となる。故に暗雲立ち込める現在は回復効率が恐ろしく悪い。節約しつつ、最短距離で大司教領を目指すには、低空飛行からの着地、そしてまた低空飛行からの着地と、大ジャンプを繰り返すように飛び続けねばならなかった。

 ユージーンやシリカの言い分は理解できた。だが、リーファにも譲れない想いがある。

 何の為にサクヤを犠牲にしてユグドラシル城から逃げ出したのだ? 何のためにアスナを守る護衛であろうと誓ったのだ? 

 ユグドラシル城から逃げ出した日、アスナに抱きしめられていなければ、ちゃんと泣くことができていなければ、リーファは歪み、そして壊れていただろう。その恩返しをちゃんとしたかった。

 

「……ッ!」

 

 飛行時間が切れ、鋭い石が散乱する野で派手に転がり、リーファは口に入った泥水をむせながら吐き出す。飛行には専用時間とスタミナを同時消耗するのは確認済みだ。スタミナは剣士としてCONを高めているのでまだ余裕はあるようであるが、飛行時間の回復は遅々として進まないだろう。ここからは徒歩になるが、低空飛行で何とか振り切っていた、この周辺に住まう【スモッグ・アイ】と呼ばれるゴースト系のモンスターがリーファを取り囲む。

 それは黒ずんだスモッグの中に潜む血走った巨大な目玉であり、鈍足のレベル1の呪いを蓄積してくる強敵だ。物理攻撃も効果が薄く、そのスモッグに触れれば容赦なく闇属性ダメージが発生する。

 深淵系列だろうこのモンスターの弱点は日光と光属性であり、光属性を含んだ奇跡などは特に有効だ。雷系の奇跡もまた光属性を複合する為に効果的なダメージを与えられる。だが、リーファの魔力は度重なる戦闘で既に尽きていた。特に彼女の場合は奇跡を剣術の補助として扱う為に、エンチャントを除けば攻撃系の奇跡をあまり保有していない。それもまた仇になっていた。

 数は軽く30体を超えている。リーファは近くに廃村があるのを見つけ、まずはそちらに逃げ込むべく駆けるが、スタミナが危険域のアイコンに死の危機を覚える。スタミナ切れの状態では全てがクリティカル扱いになる。大ダメージは免れず、またスタミナ切れの状態ではまともに動くことはおろか、立つことさえ困難だ。そうなればスモッグ・アイに囲まれて嬲り殺されるだろう。

 どうして街道が整備されるのか? どうして直線距離の最短で結ばないのか? その理由は単純明快だ。『モンスターの生息域と重ならない安全な通り道』をアルヴヘイムの住人が、文字通り無数の犠牲を出しながら経験で割り出したからである。わざと回り道をするように街道が通るのは、決して排除しきれないモンスターが住まうからだ。

 スモッグ・アイはリーファが戦った中でも強い部類ではない。単体ならばレベル50程度が目安になるモンスターだろう。だが、それでも数が多ければ想定レベルは跳ね上がる。それが群れで出現するモンスターの特徴だ。

 剣を突きつけ、スモッグ・アイのHPをじわじわと減らしながら、リーファは鈍足のレベル1の呪いになりながら、足がもつれながらも廃村に入り込む。だからと言って何かが変わるわけではない。スモッグ・アイによって全滅させられたのか、それとも別の要因か。遥か昔に廃棄されただろう村には人気もなく、スモッグ・アイもリーファを追って流れ込む。

 ユウキが所有していた貪欲者の金箱のお陰で解呪石を得られたのが幸運だった。リーファは隠れるように、かつては倉庫だっただろう建物に潜り込む。スモッグ・アイは透過能力こそ持っていないらしく、リーファを殺すべく建物を攻撃するが、一撃の破壊力を持たない以上は防壁として役立つ。

 だが、追い詰められた。この嵐が簡単に晴れるはずもない。夜通しで移動し続けたせいか、精神力も限界に近かった。モンスターと遭遇する度に戦うか逃げるしかなく、直線距離よりも街道を通った方が安全で遥かに効率が良い……まさに先人が残した『急がば回れ』は真実だと思い知るばかりだった。

 諦めたのか。スモッグ・アイは倉庫の周囲から遠ざかっていく。リーファは安堵しながら、スタミナの回復を待ちながら、僅かばかりだけアイテムストレージに入れていたパンを齧る。仕入れもなく飛び出した為に、彼女の食料はこれだけであり、水は瓶1本だ。雨水を幾らでも蓄えられるとはいえ、旅人が知れば自殺願望なのかと卒倒するだろう。

 翅を消し、少しでも飛行時間回復効率を高めて、リーファは震える両手の指を絡める。

 

「あたしは大丈夫。あたしは大丈夫。あたしは大丈夫。3回言えれば本物。だから、あたしは大丈夫」

 

 恐怖心を必死に振り払う。大司教領まであとどれくらいの距離なのか。あと何回死にかければたどり着けるのか。そして、本当にたどり着けてもアスナを助け出せるのか。生温い水を飲んで最後のパンの欠片を流し込み、リーファは不安を膨らませる。

 

(ユージーンさんは正しい。アスナさんはどんな覚悟で作戦を決行したのか、分からないはずがない。だって、あたしがアルヴヘイムで1番一緒に長くいたんだもん)

 

 シリカだってちゃんと分かっている。アスナの気持ちを理解している。そして、それを尊重して、アルヴヘイムの何処かにいる兄の為に、今ある戦力の有益な運用を心がけている。

 暴走しているのはあたしだ。あたしの方だ。それが回り回って兄を害しているだけなのかもしれない。それでも、兄ならば、たとえアスナの覚悟を不意にするとしても、彼女が犠牲になるような作戦を許すはずがないと心から言える。どんな事があろうとも助ける為に駆けるはずだと胸を張って言える。

 雨は上がらない。早く移動しよう。リーファがそう決心した時、地震が起きたように倉庫が揺れる。

 コンマの差で、最愛の兄のような危機察知と高い反応速度で倉庫から飛び出したリーファは、雨で湿った地面を滑りながら、その巨大モンスターに言葉を失う。

 それはスモッグ・アイが集まり、目玉の集合体となった巨大モンスターだった。スモッグの量も桁違いに増え、動く範囲攻撃となっている。これでは接近戦を仕掛ける度にダメージは免れない。

 

『スグー、キングスライムって知ってるか? 往年の名作ゲームで登場するモンスターなんだけど、こんな間抜け面して集まると合体して強くなって王様になるんだ』

 

 まだわだかまり無く接することができた兄妹の記憶が蘇り、これは走馬燈ではないとリーファは頭を振る。

 ユージーンに腕を折られた時、リーファはかつてないダメージフィードバックにまともな思考が保てなかった。それはリーファ自身が卓越した剣士であり、またレコンがビビりながらもサポートしたりアドバイスをくれたりしたからであり、フェアリーダンス結成以降はサクヤという司令塔がいたからだ。サクヤはギルドのリーダーとして情報収集を欠かさず、レベリングにしてもアイテム集めにしても、トラップからモンスターの種類・攻撃パターン・最近のAIの傾向、フィールドやダンジョンの環境情報に至るまで網羅していた。そして、レコンも臆病であるが故にリーファの援護を欠かさなかった。

 

『無理だよ、リーファちゃん! 早く逃げよう!』

 

 そんな幻聴が聞こえてきて、リーファは自嘲する。

 臆病者。そう言いながらも、仕方なくリーファは従う素振りを見せて、何度も彼に助けられた。蛮勇を振りかざさずに自らの臆病さのままに逃げ惑い、それでもここぞという時には爆発力を見せて仲間や自分を助ける為に努力する彼は……リーファにとって最高の友人と誇れる1人だった。

 スモッグによる範囲攻撃で攻撃ヒットの為にはダメージ確定。なおかつ物理属性は大幅減。回復アイテムは無し。回復の奇跡を使う為の魔力も尽きている。

 それでもリーファは逃げきれないならば戦うしかないと、倉庫を押し潰した目玉の集合体に剣を向ける。

 

(お兄ちゃんなら……篝さんなら……諦めない!)

 

 兄ならば、たとえ絶望を感じたとしても、心折れそうになっても、生き残るために剣を振るい抜くだろう。

 篝ならば、どれだけ強大な敵を前にしたとしても、倒しきる為に全力を尽くすだろう。

 

「負けられない。あたしは負けちゃいけない! あたしは――」

 

 逃げられない鈍足の呪い。リーファは蓄積しきって再び発動する前に倒しきると駆ける。

 

 

 

 

 

 

 だが、雷鳴を切り裂くようなサウンドエフェクトと雷光も眩ませるライトエフェクトが巨大モンスターを払い除ける。

 

 

 

 

 

 それはリーファとは違い、雨具の外套ではなく、夜の闇を映し込んだような黒いコートを翻す二刀流の剣士だった。

 黒髪は雨を滴らせ、左手に持つ無骨な大剣は片手剣と思わぬほどに長く、また切れ味こそ悪そうであるが、敵を叩き潰すのに適しているのは刃からも分かる。対して右手に持つのは機械仕掛けの剣であり、光の奔流を刀身に走る回路に迸らせていた。

 

「やっぱり深淵系か。光属性が欲しいけど、深淵狩りの剣の特効効果も十分有効みたいだな。それにスモッグも接触時間と接触範囲によるトータル計測か。腕だけならコンマ3秒はノーダメでいける」

 

 剣士は自分の為の再確認のように言葉を並べ、雨を振り払うように左手の長剣で次々と飛来するスモッグの塊を『斬って消滅させる』。それが魔法弾などに対する攻撃的防御……DBOでも絶技の1つとして扱われる命中判定斬りだとリーファが気づいたのは、巨大な目玉をモンスターの背後を黒狼が取った時だった。

 

「アリーヤ!≪威嚇≫だ!」

 

 剣士の指示に、『仕方ないから従ってやってるんだぜ?』といった様子で黒狼は咆える。それに怯えたように、巨大モンスターとなっていたスモッグ・アイは散り散りとなり、個々では弱い単体の群れとなる。

 こうなってしまえば、剣士の独壇場だった。まずは右手の機械仕掛けの剣で牽制をかけ、次に左手の長剣でダメージを稼ぐ。再び集合しようとすれば、容赦なくソードスキルのタイミングを重ねる。そして、再び黒狼が咆えて分裂させ、各個撃破していく。

 

「やっぱり、こうやってモンスターだって風貌だと戦い易いな」

 

 そうして30を超えていたスモッグ・アイを軽々と、僅かなHPしか消耗することなく撃破した二刀流の剣士はリザルト画面を消す動作をする。

 

「……時化てる。コルもアイテムもしょっぱい。でも経験値はまぁまぁか」

 

 思わず出た本音を諫めるように、黒狼は『雑魚狩りで利益なんかある分だけマシだろ』という表情で、わざとらしく二刀流の剣士の傍で体を震わせて水飛沫を浴びせる。

 

「首輪をつけたのは俺が悪かったよ! でも、解放したのも俺だぞ!? 俺たちは共同体だ。アスナは凄い美人だ。お前を見たらきっと顎を掻い掻い……いや、お腹ナデナデもしてくれるはずだ。だから俺を乗せて大司教領まで連れて行く。それが契約だろう?」

 

 煩悩溢れた提案をする剣士に、アリーヤと呼ばれた黒狼は『本当だろうなぁ?』といった懐疑の眼差しを向け、それよりも目先の利益が先だとばかりに背中に乗ろうとした剣士から逃れてリーファに擦り寄る。

 目を純粋な子どものようにキラキラと輝かせ、『あなたを助けたヒーローです!』と主張するように、行儀よくお座りして尻尾を振るアリーヤに、リーファはお礼を込めて頭を撫でた。

 

「……すまない。アリーヤは、その……キミみたいに可愛い女の子に目が無いんだ」

 

「みたいですね」

 

 これも運命だろうか。リーファは今まさに自分の愛が……兄妹の愛がこの再会を呼び寄せてくれたのだと身震いする。

 

「この辺は危険だ。キミもどんな理由で街道から外れたこの場所にいるのか知らないけど、早く離れた方が良い。これを使ってくれ。【溶鉄の鳴子】だ。使用回数は限られているけど、キミのレベル……じゃなくてソウルの刻印は高そうだし、自分より弱いモンスターを遠ざけるこのアイテムは効果があるはずだ。スモッグ・アイは普段なら群れで活動しないで、獲物を見つけた個体が仲間を誘き寄せるから、これを使えば危険がグッと下がる」

 

 レアドロップの消耗アイテムを惜しみなく握らせようとする二刀流の剣士に、リーファは貰えないと首横に振る。

 

「俺はいいんだ。アリーヤには≪威嚇≫能力があるから、弱いモンスターは近寄らない。まぁ、元々アリーヤ自体が臆病だから、効果はあまり信用ならないけど、余程に強力なモンスターじゃない限りは大丈夫だ」

 

「貰えません。あたしも、ちょっとビビってたけど、あれくらいのモンスターなら……」

 

「キミには無理だ。単独で戦った経験が少ないだろう? 動きを見れば分かるよ。キミはソロ慣れしていない。パーティで役割分担をしていた動きだ」

 

 図星だ。相変わらず鋭い。こういう所だけは鋭い。リーファは頬を膨らませ、だが、今は口論している場合ではないと改める。

 幸いにも今のリーファは翅を隠している。展開していたらアルフと疑われて会話の余地も無かっただろう。だが、今ならば『アルヴヘイムにいる翅無き妖精』として接することが可能なはずだ。

 

「だったら、キミがあたしを連れてって。あたしはリーファ。ティターニア様を救いに大司教領を目指している、女王騎士団の1人よ。まだ見習いだけどね」

 

 嘘も方便。リーファは臆面もなく嘘を並べると、騙されたのか、あるいはそういう事にしておくと判断したのか、仮面の剣士は一考するように悩む。

 

「……俺も情報通だけど、彼女はケットシーとインプの解放を目指している。キミはそれが気に食わないからティターニア、様を止めるのか?」

 

「だったら『救う』なんて表現しない。あたしは今回の行いがティターニア様の本心からの行動とは思ってないだけ。だから、ティターニア様を助けて『一緒に何とかしよう』って言いたいの。きっとティターニア様は苦しんで、悩んで、どうしようもなくて、『何か』をする為に行動していると思うんだ。身勝手でも良い。あたしはティターニア様を守る騎士だから。そう誓ったから」

 

「そうか。だとしても、俺はキミを連れて行かない。気を悪くしないでくれ。俺も急いでるんだ」

 

「そう。でも、アリーヤ君はあたしと離れたくないみたいだけど?」

 

 全身の毛を逆立たせて『レディを置いて行くなど、ジェントルマンの風上にも置けぬ野郎だ』とリーファを全面擁護するアリーヤの唸り声に、仮面の剣士は観念したように嘆息した。

 

「分かった。大司教領までだ。そこまで行けばひとまず安全だろうし。俺は名無しのスプリガン。傭兵になりきれなかった……傭兵だよ」

 

「そう。じゃあ、長いしネームレスくんで良いかな? その方がカッコイイでしょ」

 

「好きにしてくれ。でも、アリーヤは俺とキミを乗せるには限度がある。まさか、俺は歩けとか言わないよな?」

 

「うーん、それなら……」

 

 確かにその通りだ。名無しのスプリガンことネームレスの指摘に、リーファは提案する。

 まずは重量型片手剣だろうネームレスが背負う2本の剣をオミットする。これにはかなり渋ったネームレスであるが、重量を抑える為、そしてリーファの狙いの為には必要不可欠だった。

 アリーヤは任せなさいとばかりに四肢で踏ん張る。まずはネームレスがアリーヤの背に乗り、続いてリーファが後ろから剣士を抱き着くように腰に腕を回す。

 ずっとずっとこうしたかった。いつもバイクを駆る兄の後ろを独占していたシリカを思い出し、温かな背中に頬擦りしたい気持ちを抑えながら、今はアスナの救出が最優先だと煩悩を振り払う。

 

「本当に大丈夫か?」

 

 心配そうなネームレスの指摘に、プルプルと震えながらも、システム的にはギリギリ許容範囲なのか、アリーヤは牙を剥いて『オスにはやらないといけない時がある』とニヒルに決めて廃村から走り出す。

 雨を裂くように疾走するアリーヤは、何かを心配するように、森の向こう側に落ちた『青い雷』から逃げるように速度を上げる。

 

(待ってて、アスナさん。助けに行くから。あたしとお兄ちゃんの2人で……!)

 

 嵐の先にある約束の塔。リーファは軍勢が待つ大司教領でどうやって立ち回れば良いのか分からない。だが、ここで何もしないのは嫌だと歯を食いしばった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

『ランスロット卿、この妖精王の護衛……その名誉を蹴るつもりかな?』

 

「貴様を主にした覚えはない。俺を顎で使いたければ、最低でもグウィン王に匹敵する王の格を備えて来い」

 

 通話する『窓』に剣を振るって払い除け、ランスロットは小さな丘に立つ1本杉の頂点より、強まる嵐の雨をその闇濡れの甲冑に浴びせながら、決して小さくない杉すらも上回る体格をした怪物に目を向ける。

 それは人間に似ていながら『獣』の輪郭を持つ頭蓋の頭部を持つ、骨だけとなりながらも青い雷光を帯びた黒毛に覆われた巨大な4足歩行の怪物。

 アルヴヘイムにおける深淵の怪物たち。その中でも最高の凶暴性と恥じぬ強さを持つ存在、それが黒獣である。そして、長年に亘って彼が『足』代わりにしていた、この黒獣パールは黒獣の王であり、1体でも都市を壊滅させるに足る黒獣を率いれる唯一の存在だ。

 たとえ深淵の知恵の実と呼ばれるアメンドーズと小アメンドーズを配下に置くオベイロンでも黒獣だけは自在に操れない。ランスロットは前回の廃坑都市の襲撃の際には、騎士として結んだ契約故に黒獣パールも伴ったが、今回のオベイロンの『見栄』にまで付き合う気はなかった。そもそも彼は深淵の騎士。遠巻きでもオベイロンの命令1つで来れる場所にいれば、それはオベイロンが『深淵に与している』と宣言するようなものだ。

 保身だけは一人前か。それも目先だけのな。ランスロットは呆れながらも、オベイロンの滑稽さに溜め息を吐く。廃坑都市の陥落で天狗になっているのか、最近は傲慢さと愚劣さに磨きがかかっている。傲慢は時として王の資格と風格となり、愚劣さも真摯に学ぶ気概があれば王となるに足る賢心を生む。だが、両方を有する者は救いようがないというのがランスロットの持論だ。

 

「我が忠義に終わり無し。終わりなどあってはならない」

 

 闇濡れの大剣を背負い、ランスロットは黒獣パールが放つ青い雷光に照らされながら、この地で暴れ回る黒獣『達』について考える。

 

「フッ、感じたようだな、パール。だからこそ昂っているのか? かつて貴様を唯一傷つけた深淵狩り達……その終わりを感じたからこそ。俺もだ。彼らは見事な深淵狩りだった。故に俺は討たねばならない。彼らの遺志は継いだはずの、アルヴヘイム最後の深淵狩りを。裏切りの騎士としてな。だが、まずは貴様のお手並み拝見といこう。俺の騎獣扱いなど、貴様の誇りを随分と傷つけたようだからな」

 

 彼らはパールの命に従い、最後の深淵狩りを探しているのだ。その1人を滅ぼしてこそ、深淵の怪物たちは恐怖から解き放たれる。自分たちを滅ぼす天敵の絶滅を知る。

 そして、黒獣の王パールは極めて誇り高い……深淵の闇のままに狂う怪物とは思えないほどに、理性的かつ知性的な戦いを示す、ランスロットが知る中でも最強の黒獣だ。彼は断言する。黒獣パールの本気はアルヴヘイムで伝説的な災厄として刻み込まれた赤雷の黒獣を『上回る』と。

 

「……妖精たちより翅を奪った闇。フン、それさえ無ければ、俺がオベイロンを守る理由など無いのだがな」

 

 生まれながらの深淵の主ゲヘナの闇。その全てを受け入れたつもりだったランスロットであるが、アルヴヘイムに来た時に僅かに零れてしまった。それはこの地に根を張り、仮初の深淵を生み出した。それがアルヴヘイムを呪い、彼らより翅を奪った。やがて、その闇はアメンドーズや黒獣を生む苗床となったのだ。いかにゲヘナの深淵が並々ならぬ力を持っていたかが分かる事案だ。

 深淵の苗床。その場所はランスロットも知らない。だが、オベイロンは知り、なおかつ制御している。故にランスロットはオベイロンを守らねばならない。仮初でも彼女の深淵だ。それが暴走すれば、自分に封じた闇も呼応し、永遠の眠りについた彼女の亡骸はウーラシールの悲劇と同じように深淵の主として復活するかもしれないと危惧しているからだ。

 彼女を深淵の主として討たせるものか。無限の時が経ようともこの身にゲヘナの深淵を封印し続ける。そうでなければ、何のために愛する友を斬り、深淵狩りの名誉を捨て裏切り者となったのか。

 黒獣パールが咆え、その巨体を揺さぶりながら動き出す。強者の気配を察知したのだ。それが白き深淵狩りか否か。

 

「あの二刀流も捨てがたいな。あれは化ける素質がある。他にも【来訪者】には猛者もいるだろう」

 

 誰であれ、黒獣の王パールは一筋縄ではいかないがな。空と地上の雷鳴が重なり合う様に、ランスロットは死闘の予感を覚え、かつて深淵狩りとして名を馳せた黄金時代を思い出し、静かに瞼を閉ざした。




アルヴヘイム中編ラストミッション【テンペスト】を開始します。

各勝利条件

シリカ→ミッション終了まで生存
赤髭→ミッション終了まで生存
ユージーン→サクヤの保護
リーファ→アスナの奪還
シノン→アスナの奪還
レコン→ロズウィックの暗殺及びアスナの奪還
アスナ→オベイロン撃破or大義作成
ユウキ→アスナの防衛
主人公(黒)→アスナの奪還
主人公(白)→黒とアスナの再会阻止、オベイロン撃破or情報入手

今回はサバイバルミッションとなっています。共闘・敵対を取捨選択し、生存優先をお勧めします。

各プレイヤーの健闘を期待します。


それでは274話でまた会いましょう。

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