SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

279 / 356
前回のあらすじ

祈りは失われ、呪いだけが残った。


Episode18-44 嵐の終わり

 雷雲は轟きばかりとなり、嵐を彩っていたはずの豪雨は既に風に揺れない。

 泥に混ざり、木の葉を染め、樹皮に付着するのは血の赤ばかりで、それは苛烈なる2人の戦いのあり様を物語る。

 無数の矢が突き刺さり、銃弾が空けた風穴が各所に散らばる森の戦場。シノンは雨に打たれながら大岩の陰に潜んで身を屈めていた。

 貴重な白亜草を頬張りながら、息荒くシノンは右二の腕を義手で抑え、震える右手で弓を握りしめる。裂かれた二の腕からは夥しい出血があり、流血ダメージによってHPはじわじわと減っていた。アルヴヘイムで一般的に流通している、流血を和らげる軟膏を使いつつ、止血包帯で処置を終える。

 

(今のところはこちらの方に分がある。でも、完全にやられた!)

 

 奥歯を噛み、シノンは戦況こそ自分に勝利が傾いていても、デスガンの目的である時間稼ぎという足止めを食らって動けない現状こそが最たる敗北だった。

 約束の塔の頂上だけは青空となってから随分と時間が経過した。その間もシノンはデスガンとの戦闘を続けていたが、今も彼を仕留めることが出来ずにいた。回復アイテムの消費は最低限で済ませているが、彼女のメインウェポンである弓剣の火力を支えていた竜狩りの矢は既に尽き、アルヴヘイムで仕入れたサブの石鳴の矢を使用している。

 弓剣は曲剣モードによる近接戦と弓モードによる射撃戦の両方に対応できる、マユ謹製にして事実上のシノンに与えられたワンオフウェポンだ。オーダーメイドという事もあり、彼女の要望の全てが詰め込まれている。

 近接戦闘でも十分に切り抜けられるスピード重視の曲剣は鋭利で切断属性も高く、連撃にも優れた軽量性を持つ。変形機構によって弓に変じれば彼女の射撃技術も存分に活かせる。

 だが、射撃武器の最大の弱点とは弾数が明確に限られている点だ。矢や銃弾が尽きてしまえば、それはお荷物以上にならない。シノンにとって、超長期戦のアルヴヘイムにおいて矢が尽きるのは無視できないパワーダウンである。

 また、射撃攻撃は近接攻撃の間合い外から攻められるという特色上対策手段も多い。防御スキルの≪射撃減衰≫があるだけで与えられるダメージは伸びなくなる。≪射撃減衰≫は相手との距離があればあるほどに効果を発揮するため、中距離射撃戦にシフトしたシノンならば前ほどにダメージを稼げなくはないが、それでもこのスキルの有無は大きい。そして、デスガンは当然のように≪射撃減衰≫を取っているのは間違いなかった。

 

(後先を考えるべき時じゃない。今はデスガンをここで仕留める!)

 

 深呼吸1つを挟み、シノンはHPが8割ほど残した状態である事を確認した上で左腕の義手に視線を落とす。まだ切り札は温存したままだ。デスガンを仕留めるならば『コレ』が最適だろう。だが、一方で隙も大きく、バレてしまえば警戒されて次のチャンスを得られるのは難しい。

 その為にもシノンが暴かねばならないのは、デスガンの持つ謎の攻撃能力……あらゆる方向から不自然に襲ってくれる射撃攻撃だ。それはデスガンのモーションに由来しているかと思えば違い、また彼もベストなタイミングで使えているとは思えなかった。だが、その一方で何度もシノンを不意打ちしたり、デスガンの窮地を救ったりと安定していない。

 

(あれこれ考えても仕方ないわね。≪弓矢≫の利点はソードスキルが使えること。≪銃器≫とは違って、矢のランクが下がってもソードスキルのブーストと弓自体の持つ火力とステータスボーナスの上乗せである程度までなら運用できる。それでも雲泥の差だけど、手負いのデスガンを仕留めるなら十分)

 

 次で決着をつける。シノンは義手を軋ませるほどに体を震わせる。ずぶ濡れの体は寒く、人肌の温もりが恋しくて堪らない。気を抜けば歯がガチガチと鳴りそうだった。寒冷のデバフが付いていないのは不自然だと思う程に、仮想世界の肉体に通う血がすっかり凍てついてしまっているかのように、指先の芯まで冷え込んでしまって射撃精度が落ち込んでいる。

 正確無比の狙撃は要らない。必要なのは接近し、≪弓矢≫のソードスキルを叩き込むタイミングだ。≪弓矢≫のソードスキルは総じて他の武器系スキルのソードスキルよりも硬直時間とクールタイムが長い。その中でもシノンが持つ≪弓矢≫の連撃系である【ファイブ・ショーダウン】は、弓矢ショットガンとも揶揄される、密接状態のフルヒットならば大ダメージ確定の強力なソードスキルだ。だが、モーションを起こしてから発動までの時間を含めれば狙えるものではない。

 故にシノンが狙うのはファイブ・ショーダウンのモーションを起こすと見せてデスガンの行動を誘導することだ。そこに曲剣モードに変形し、≪曲剣≫のソードスキルを叩き込むという作戦である。火力はイマイチであるが、出の早さには定評があるソードスキル揃いの≪曲剣≫ならばデスガンにも確実にダメージを与えらえるだろう。

 

(……と、あっちは読むでしょうね。仕方ないわ。切り札は使えないけど、『もう1つの仕込み』を使わせてもらうわよ、マユ)

 

 先に動いたのはどちらだったか。シノンは大岩の陰から飛び出すと同時にデーモン化を発動させ、ケットシーを思わす猫目と耳を獲得し、暗雲と茂る木々のせいで薄暗い森の中でデスガンを索敵する。その類稀なバトルセンスはDBO初期から彼女に立体的に動く技能を芽生えさせていた。

 木々の幹と枝を踏み台にして宙を駆ける。そして、トップアタックを取る形で外套を脱ぎ捨てたデスガンに矢を放つ。寸前で回避したデスガンだが、着地と同時のもう1射は避けきれずに腹を射られる。

 僅かな唸り声と同時にデスガンもまた勝負に出るべく踏み込み、シノンとの間合いを詰める。圧縮されていくような体感時間は極度の緊張と集中力がもたらすものであり、それはシノンを縛り付けていた鎖の錠前を1つ1つ外して、音を立てて落とさせていく。

 シノンの闘争本能が囁く。戦場にこそ魂の居場所はあるのだと伝える。

 もっともっと戦いを。

 

 戦い続ける歓びを!

 

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 甘く見ていた。右肘から先を失ったデスガンは髑髏の仮面の裏側でダメージフィードバックで漏れそうな唸り声と悲鳴を磨り潰すべく、歯を食いしばって耐える。身を隠すのは大きく左に捩じれた古木の陰であり、右腕の断面からは血が零れ落ちていた。

 義手の爪は警戒していた。だが、まさかあれ程までに格闘技術が備わっていたとはデスガンも予見していなかった。

 シノンは高いDEXで攪乱しつつ射撃攻撃を加えながら、変形させた曲剣と義手によって接近戦をこなすというスタイルだ。回避重視であり、本職の近接戦プレイヤーに比べれば装備もステータスもスキル構成も不十分だ。あくまで『中距離射撃戦を主体にしつつ、近接攻撃で火力増強を担う』とデスガンは読んでいた。

 だが、ダブルレーザーブレードという両光刃剣を使うデスガンに対し、シノンは敢えて間合いに踏み入ったかと思えば、流れるような肘打から始まる徒手空拳を仕掛けてきたのだ。STR特化でこそないが、初期値というわけでもないシノンの連打は≪格闘≫が無いことを裏付けるようにダメージこそ低かったが、それでもデスガンの体勢を崩すには十分だった。

 連撃から逃れようとした本能的後退。それを待っていたとばかりにシノンはデスガンの胸倉をつかむとそのまま背負い投げを放ったのだ。受け身も取れずに背中から叩きつけられたデスガンが見たのは、曲剣を抜いてソードスキルの輝きを魅せるシノンの冷徹な眼光だった。

 辛うじて身を転がせこそしたが、地面を抉りなが苛烈に斬り上げの一閃を放つ≪曲剣≫の単発系ソードスキル【スワロー・テイル】からは逃れられなかった。まるで地面を這うように飛行する燕の急上昇の如き一撃は、極近距離において逆手持ちして放つ、単発系ソードスキルに恵まれない≪曲剣≫でも、数少ない高火力ブーストが乗るものだ。本来ならば発動までの遅さとソードスキルモーションの間合いの短さから対人戦においては価値のないソードスキルであるが、相手を背負い投げで回避不能かつ対応困難な状況で地面を抉るような斬り上げのソードスキルを使用するのは、まさに殺意全開の、繰り返されたシミュレーションの賜物としか言いようがないコンビネーションだった。

 

(舐めていた。山猫の戦闘スタイルは『まだ』未完成というだけだ。誰が仕込んだのか知らないが、あんな苛烈な格闘術の使い手はSAOにはいなかったぞ……! だが、何処かで見たことがある動きだ。空手? 柔道? 合気道も合わさっているように思えた。それに何処かで見たことがある。自衛隊か? いや、確かロシアの特殊部隊の動画で……駄目だ! 類似点は多いが、特定できない! だが、『仮想世界向け』に相当なアレンジが加えられた『モンスターとプレイヤーの両方に対応できる』DBO用マルチ実戦体術なのは間違いない!)

 

 SAOでも≪体術≫というカテゴリーでソードスキルは存在したが、それはあくまで戦闘の補佐の役目が大きく、ダメージ源として利用するプレイヤーは稀だった。ましてや、怪物相手に武装して戦う世界において、本格的な格闘技術を仕込む必要性など、それこそ対人戦を視野に入れない限りに必要もなかった。いや、そもそも『仮想世界における身体能力を前提として現実の体術を噛み砕いて教える』などという高度な教練技能を持った『師』と呼べる人物はいなかったのだ。

 恐らくシノンも鍛錬を積んだ時間自体は決して長くない。だが、良き師と才能が合わさった時、それは爆発的な成長を生む。シノンはまさにそのタイプであり、剣技と銃撃戦には心得があっても格闘戦の真髄を叩き込まれておらず、まだ鍛錬も積んでいないデスガンが大きく後れを取るのは仕方がない事だった。

 ……生き延びたならば、まずは格闘戦の習得だな。自分に不足するものを受け入れてこそ成長の余地は得られると冷静に飲み下しつつ、デスガンは右腕ごと失った両光刃剣をシステムウインドウを開いて武器装備画面で回収し、残された左手に持つ黒いハンドガンと換装する。

 デスガン本来の得物は刺剣であり、≪光剣≫は死銃事件を起こしたGGOでも心得こそあったが本領ではない。ダブルレーザーブレードも彼がDBOで自分の実力を高める為に裾を広げたからこそ……ではなく、マザーレギオンから『装備開発も始めてみたから、性能実験に付き合って♪』と可愛らしく袖を引っ張られながらおねだりされ、半強制的に全面協力するしかなかったからだ。

 その代わりではあるが、ロザリアやPoHも巻き込んでいるというマザーレギオンによる新型装備の開発は、いずれではあるが、彼らに強力な新装備をもたらすだろう。既にマザーレギオンはデスガン専用兵装の開発に取り掛かっている。

 

(まだ『アレ』のカラクリには勘付かれていないはず。敢えて俺自身を囮にする。もはや片腕ではシノンに勝ち目無い。ならば……!)

 

 隠密ボーナスが得られる暗色の迷彩マントを脱ぎ棄て、デスガンは木陰から躍り出る。同時に視界の端を横切ったのはシノンであり、デーモン化したのか、その姿はまるでケットシーのようだった。

 頭上からの射撃。それをギリギリで躱すも、着地と同時にシノンは右膝をつきながらデスガンの心臓を狙って射る。GGOでは狙撃特化であったが、DBOでは弓術も磨いたのだろう。再射撃までのインターバルが短く、シノンが矢筒から矢を抜いてから弦を引いて射撃体勢を整える速度はコンマ単位であり、DBOでも3本指に入る高速である。それは輝かしい才覚と積み重ねられた鍛錬の結晶だ。

 逃げきれなかったデスガンは咄嗟に左腕で心臓部を守ろうとするが、シノンは狙い通りとばかりに腹を射抜く。火力は先程までの雷属性が付与された矢に比べれば劣るが、それでも近距離からの矢には≪射撃減衰≫も十分に効果を発揮できない。

 

(これで良い。来い、シノン。お前の狙いは≪弓矢≫のソードスキルと見せかけての曲剣への変け――)

 

 後は『アレ』がベストなタイミングで撃ち込める位置に誘導するだけだ。そう考えながら踏み込んだ時、デスガンの脳裏に疑念が生じる。

 確かにシノンの動きは予想の範疇だ。だが、そもそもシノンは正体こそ看破していなくとも『アレ』を想定に入れずして攻め込んできているだろうか?

 否。断じて否! デスガンはダブルレーザーブレードを展開してシノンとの間合いの詰め合いに牽制の一閃を挟む。そうして空白の数秒を生んで『アレ』にシノンを十分に狙わせる時間を得ようとする。だが、シノンはレーザーブレードの間合いの死地に跳び込んだ。

 まさかガード性能の低い曲剣で? それとも生命線である義手で相殺を? 多くのパターンがデスガンで巡る間にシノンは右手の弓剣を捨てる。そして、義手より『射出』されたのは、薄い……実に薄い『短剣』にてレーザーブレードをいなした。

 それは柄も極薄ならば刃は透き通るのではないかと思う程の薄刃。だが、そのナイフをシノンが握れば、煌々と灼熱の光を刃は宿していた。

 ヒートブレード。そんな単語がデスガンに思い浮かぶより先に、シノンは密接状態でデスガンの喉を高速で裂き、大量出血で彼の思考が乱れた所で背後を取り、義手で首を押さえつけながら心臓を狙ってナイフを振り下ろす。

 ギリギリで残された左腕でシノンの右腕を押し返し、致命となる心臓の一突きを防いだデスガンだが、喉にもらった一撃は重く、HPは流血も合わさって減っていく。また、首を絞められて脱出も不可能な状態となっていた。

 

「クーの真似をしてみるものね。武器を『捨てる』というのはリスクだけど、奇策にはなるわ」

 

 戦闘に没頭する悦楽を貪るような獰猛な顔で、シノンは薄刃の短剣を逆手で握ったまま、彼女の腕を押し返しているデスガンに笑いかける。

 

「なかなかに頭がイカれた鍛冶屋でしょ? ただでさえスペースの無い義手に白兵戦装備を仕込んでくれたお陰で耐久面はカツカツなの。それでも実戦運用可能な範疇に纏め上げるのは腕の良い証拠よね」

 

 時間稼ぎのお礼とばかりに、喉の流血ダメージと首絞めのダブルコンボでHPを削りきるつもりだろうシノンの語りかけに、デスガンは死の予感を覚える。だが、STRが低いはずのシノンの義手をどうしても振り払えない。

 それは義手より光るナイフと同じ煌々とした輝きのせいだろう。それは混沌の呪術である溶岩の輝きそのものだ。それがパワーの源だとばかりに光を強めている。

 

(STRブーストか! 確かにイカれた鍛冶屋のようだな。これだけの機構を備えるなど尋常じゃない)

 

 デスガンの敗因の1つがあるとするならば、ストレートな能力的性能が目立ったSAOとは違い、DBOの≪鍛冶≫はゲーム開発におけるウェポン・クリエイティブ・プログラムを限りなくそのまま、素材による武器ステータス調整・能力付与などの要素を取り込みつつ、ほぼ丸ごとシステムとして導入されている点についての知識不足だった。鍛冶屋のアイディアと情熱次第では、管理者すらも度肝を抜く奇々怪々な武装を可能とする自由性。それはSAOには無かった戦闘を左右させかねない因子である。

 

「ぐ……がっ……!」

 

 苦しみ足掻くデスガンの思考が自爆覚悟で『アレ』でシノンを狙い撃とうと舵を切るより先に、シノンが何かに反応して彼を手放すと距離を取る。同時に空から落ちてきたのは無数の発煙筒であり、それは派手なピンク色の煙幕を張る。

 咳き込むシノンの背後から奇襲をかけたのは全身に真紅の甲冑を纏った赤毛の騎士。それはシノンに強烈な膝蹴りを浴びせて吹き飛ばし、デスガンを守るように立ったかと思えば、腰の双短剣を抜いてピンク色に濁った空間でシノンと剣戟する……でもなく、彼を脇に抱えると一目散に背中を向けて走り出し、背中の翅を震わせて飛行する。

 

「……ロザ、リア、か」

 

「まだ生きてるみたいね。ほら、早くこれを食べなさい。アンタに死なれたら困るのよ」

 

 兜に隠れた顔は『酷い』以外の表現が無い程に崩れているだろうロザリアは、ぜーぜーと息荒くしながら白亜草を差し出す。恐らくは自分を救出するタイミングを待ち続けていたのだろう。彼女の気苦労に軽く感謝しながら髑髏の仮面をズラして血で溢れた口内に押し込んで咀嚼すれば、デスガンのHPは回復していく。

 喉に受けたのは短剣の一撃だ。短剣はジャンルとして攻撃力こそ低いが、暗器に次いで急所部位へのクリティカルボーナスは高い。更に高い切断属性は容易に彼の防具で守られていなかった喉を裂いた。そこに籠っていた熱は間違いなく火炎属性との複合だ。

 物理攻撃力よりも火炎属性攻撃力を優先した、高い切断性能を持った『焼き斬る』為の緊急白兵戦用装備。性質はレーザーブレードに近いだろう。シノンは補充が利かないアルヴヘイムで手札を1枚明かした。それは生き延びたデスガンにとって大きな武器となる。

 

「俺の……負けだ。だが、良いものだ。負けても……生きているというのは。面白い。次は……俺が……勝つ!」

 

 怖かった。自分の命が摘み取ろうとする死神の息吹を感じた。シノンの殺意の眼光が恐ろしかった。だからこそ、生き延びた時、生存本能に由来する甘美な安心感は堪らなく幸福だ。これに勝利という美酒が加わると考えるだけで絶頂しそうだった。

 冷静さと殺しの遊戯。そこに戦闘の情熱を得たデスガンは自分に成長の余地があることに歓喜する。

 

「1度死んだ身で言わせてもらうけど、そういう性根は捨てた方が良いわよ。長生きしないから」

 

 死ぬ気などない。だが、楽しくない人生など価値は無い。修復が緩やかに始まっている喉を撫でながら、デスガンは声なく笑い、ロザリアは呆れたように嘆息を重ねた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「逃げられた……わね」

 

 薄刃の赤熱短剣を義手に収納し、シノンはデーモン化を解除して片膝をつく。

 誰かは知らないが、最悪の横槍だ。切り札こそ明かさなかったが、収納された短剣がバレてしまったのは大きな痛手である。

 武器枠を消耗する義手は高いガード性能を持ち、また爪を展開することで≪短剣≫のボーナスを乗せた斬撃攻撃も可能とする。だが、マユはこれではシノンが持つ≪短剣≫を活かせないと踏んだ。

 そこで百足のデーモンのソウルを組み込む大改修の際に仕込まれたのが、緊急用の短剣だ。それは柄も刃も極薄であり、耐久性能は極めて低い。物理攻撃力も低く、攻撃力は火炎属性依存である。

 使用可能時間は60秒。シノンは赤熱の光を失い、鈍い灰色になった刀身の短剣を見つめて嘆息しつつ、不慣れな手つきで義手に再収納する。60秒経過すれば火炎属性は消失し、貧弱な物理属性の短剣に成り下がる。だが、強化中は耐久度も飛躍的に上昇する為にある程度までならば、先程のデスガンのレーザーブレードを防いだように剣戟も可能だ。

 弓剣を再装備したシノンはこれからどうするべきか一瞬だけ迷い、すぐに約束の塔を目指すべく出発しようとする。

 だが、シノンの道を阻んだのは、いつの間にか取り囲んでいた騎士たちだ。警備を担っていた女王騎士団と大司教領騎士の混成だろう。いずれも殺気立ち、今にも襲い掛からんといった雰囲気を発散している。

 

「動くな、逆賊! アルフ様の命令だ。命までは取らん」

 

 騎士の1人が剣を向けて命じるが、シノンは何処吹く風とばかりに周囲の騎士たちを数える。

 ざっと15人ほどだ。数は多いが、突破できないことはないだろう。どうやら生かして捕縛しようという考えのようであるが、シノンは包囲された程度で諦める程度の執念でここに立っていない。

 

「どきなさい」

 

 義手の爪を光らせ、曲剣を構えたシノンが騎士たちと斬り合わんとした時、先程の再演とばかりに騎士たちの足下に転がってきたのは土色をした発煙筒だ。それは緑色の煙を上げる。

 再び潰れた視界の中で誰かがシノンの手を引っ張り、慌てふためく騎士たちの包囲網に見事な剣技で風穴を空ける。走るだけ走り、怒号を撒き散らす騎士たちが遠ざかった場所でシノンが改めて見た救出者は、その身に少なからずの血を浴びた老騎士……ヴァンハイトだ。

 ヴァンハイトもまたこの騒乱に満ちた森を生き延びたのだろう。少なからずの疲弊をしているが、目だった手傷は無かった。

 

「ヴァンハイトさんも無事だったのね」

 

「アルフを3人ほど討ったが、この通り五体満足じゃよ。やはり彼らはかつての武技を忘れている。空を飛べる優位に慢心した彼らの寝首を掻くことがこれほどまでに容易いとはな」

 

「そう、良かったわ。だけど合流できたなら百人力ね。このまま約束の塔まで――」

 

「その件だが、残念ながら撤退一択じゃ。今からでは約束の塔に向かっても間に合わん。ロズウィックらの安否は気にはなるし。それに誤った形で発煙筒も使ってしまったが、彼らも無理と無意味の分別もつくじゃろうて。ワシらはこのまま森の外まで脱出するぞ。なーに、心配するな。この森はワシにとって庭同然じゃ。警備を撒くのは子犬の相手よりも楽じゃろうて」

 

 雷光を帯びたグレイヴを背負い、ショートソードと小盾に切り替えたヴァンハイトは、シノンに当然の如く時間切れを……デスガンに『負けた』のだと突きつける。

 今から行っても間に合わない。それはシノンも気づいている。これから駆けつけてもアスナを助けることは到底無理だ。約束の塔まで直線距離で進んでも、塔の周囲は水没した遺跡と木々の迷路であり、それを突破しても高々と空に向かって伸びる塔を上らなければならない。

 どう足掻いても時間が足らない。シノンが拳を握って震えていると、ヴァンハイトは哀れむでもなく、同情するでもなく、ただ淡々と肩を叩いた。

 

「意味ある犠牲と無意味な犬死を違えるな、シノンちゃん」

 

「『ちゃん』付けは止めてちょうだい」

 

 ヴァンハイトの手を払い除けたシノンは深呼吸を入れる。冷静さを失うな。それは戦場で死をもたらす。UNKNOWNが先に駆けつけたならば、彼ならば既にアスナを奪還しているかもしれない。ならば、シノンがすべきことは無事に撤退し、彼を迎え入れることだ。

 それは重々承知している。だが、仮にUNKNOWNがアスナの奪還に成功しているならば、今まさに騎士やアルフの包囲網にいるかもしれない。孤立奮闘して脱出を目指しているかもしれない。ここでシノンが撤退すれば、『彼』の生存もアスナの奪還も無くなるかもしれない。

 

「悩むならば尚更止めておけ。命のやり取りで迷いは致死の猛毒じゃ」

 

 シノンの逡巡を見抜いたようにヴァンハイトは腰を叩きながら森の外へと誘導するように親指で道を指し示す。

 

「悩んで迷うのは若者の特権じゃ。じゃがな、戦場はそんな青い果実も丸呑みする魔物なんじゃよ」

 

 私が……迷っている? シノンは徐々にではあるが、嵐の終わりを示すように優しくなっていく雨で冷えた体を抱きしめるように、義手ではなく生身の腕で自分の胸に触れた。

 一緒にアスナを助ける。その為に旅を共にしたはずなのに、ようやく合流できたはずなのに、UNKNOWNは彼女を置いて1人で飛び出した。

 冷静さを失っていたから? 時間が惜しかったから? 危険だから? 何1つとして納得できる予想が無いのだ。どれだけ知った気になっていても、どれだけ距離を縮められたと思い込んでも、シノンには翻る黒衣の奥底に隠れた本音が見えないのだ。

 力になりたくてアルヴヘイムまで同行したのだ。スミスに背中を押してもらって、危険を承知で飛び出して、今ここに立っているのだ。今日までの歩みが無駄だと嘲われたくないのだ。

 もはや自分の両手は血みどろだ。スミスが言う後悔の時もいつか訪れるのだろう。シノンも自覚がある。今は精神が現状に没頭して感覚が鈍くなっているだけだ。ふとした瞬間に、まるで津波のように命を奪った罪悪感が押し寄せるかもしれない。

 だからこそ、『今』は後悔したくないのだ。それが間違いだというのか? シノンは冷たい義手で拳を握って俯く。そんな姿を見て、ヴァンハイトは彼女の頭を数度撫でた。

 

「まずは生き延びる。それも戦場の流儀じゃよ。この場は老いぼれに責任を全部押し付けて逃げるんじゃ。シノンちゃんが無駄死にすれば、それこそ二刀流は背負いきれぬ罪と後悔を得るじゃろう?」

 

「……ヴァンハイトさん」

 

 デスガンを仕留め損ねた。UNKNOWNの手助けも出来なかった。成果は1つとしてなく、迷いで軋む心は本音と虚言の境界線は見えない。

 森の中心にそびえたつ約束の塔を見れば、嵐を切り裂いた青空は少しずつ萎んでいた。彼女の想いなど関係なく、今から赴いても全ては手遅れなのだと突きつける。

 

「脱出するわ。案内して頂戴」

 

 UNKNOWNは強い。アルヴヘイムの騎士たちを蹴散らしてアスナを助け出すのも不可能ではない。彼女をヒーローのように攫って今頃は森の外を目指しているかもしれない。シノンは我が身の無力さを改めて自嘲して、心の何処かでそんな都合の良いハッピーエンドを望んでいない自分に嫌悪する。

 結局のところ、シノンはアスナを助けたかったのではない。『UNKNOWNと一緒にアスナを助ける』事がしたかったのだ。そうして、彼の隣に立つ相棒のように振る舞いたかったのだ。とても楽しそうに、『彼』がいつもそうであるように、「嬉しそうに、幸せそうに白の傭兵の話す口から『シノン』を語って欲しかったのだ。

 

「ところで、随分と都合が良いじゃない。どうやって私の居場所をつかんだの?」

 

 自己嫌悪とは裏腹の冷めぬ闘争心は戦場を求める。シノンは氷と炎に挟まれたような心を誤魔化すようにヴァンハイトに尋ねた。

 

「あの桃色の煙幕を見れば嫌でも誘われるもんじゃ。目立ってしょうがなかったわい」

 

 あの女騎士アルフの煙幕のせいか。そう思ったシノンは、幾らデスガンと派手に戦っていたとはいえ、あのタイミングで騎士に包囲されたのは不自然だと考える。

 あの派手なピンク色の煙幕の真意。それが増援として集めた騎士たちに『何処』を包囲すれば良いのか指示を送るのが真の狙いだったならば、シノンはその意図を見抜けなかった。今回はヴァンハイトの助太刀を呼ぶ結果にもなったが、思えば騎士たちは『アルフの命令』と言っていたのだ。つまり、あの騎士たちは最初からシノン狙いだったはずである。

 デスガンの救出とシノンの捕縛。その両方を同時に成し遂げた女騎士アルフ、侮りがたし。シノンはいつか手合わせするかもしれない相手に危機感を募らせた。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 大小2対の竜翼を利用した空中姿勢制御と低距離滑空、そして加速。それを利用して動き回るUNKNOWNに対し、DBO犯罪ギルドを取り仕切るチェーングレイヴのリーダー、その正体は大ギルドも掴んでいないとされる男、クラインは鈍い黒色を成すカタナで迎撃を続ける。

 戦況はUNKNOWNの優勢だった。いかにユニークスキル保有者同士の戦いとはいえ、UNKNOWNは既にデーモン化でパワーアップしている。対してクラインの持つ空間斬撃は制圧能力こそ高いが、近接戦闘においては恩恵が少ない。

 間合いを詰めれば≪二刀流≫の苛烈な連撃の独壇場だ。クラインは応戦してカタナを振るうが防御に徹しており、カウンターを入れることもできていなかった。

 

「格の違いを見せつけてくれるんじゃなかったのか?」

 

「まだまだ準備運動だってのに粋がってんじゃねぇぞ。俺の≪無限居合≫もギアを上げていくから遅れるなよ?」

 

 バツ印を描くようなクロス斬りでクラインを弾き飛ばしたUNKNOWNは、そのままメイデンハーツを握ったまま右手の人差し指と中指を合わせてかつての戦友を指す。指先に白光が集中し、凝縮され、光属性の閃光が解放される。それはドラゴンのブレスを思わす光属性のレーザーであり、拡大しながらクラインを呑み込まんとする。

 だが、クラインは居合の構えを取ると青い光の刃を自身の前面に展開し、それは防壁となって白光を防ぐ。だが、完全に防げるものではなく、クラインの全身にまるで浄化されるような煙が上がる。

 UNKNOWNは再度放とうとするが、スタミナが危険域のアイコンに苛立って舌打ちした。この攻撃は魔力ではなくスタミナ消費型なのは勘付いていたが、燃費はまだ計算出来ていなかったのである。

 UNKNOWNは≪二刀流≫を活かす為に十分なスタミナを確保すべくCONを高めている。また指輪もソードスキルの燃費を軽くする為のものだ。だが、ユウキと戦闘の影響……特に闇術と解放されたユニークスキルによるスタミナ削りは大きな痛手となっていた。

 いや、そうでなくとも彼の戦いはデーモン化以降、余りにもスタミナ消費がハイペース過ぎた。デーモン化によってスタミナ回復速度も上昇しているとはいえ、消費量を大きく賄えるほどではない。

 また、UNKNOWNの体には未だ癒えぬユウキのマザーズロザリオで負った傷もあった。それは流血ダメージを伴っている。それはオートヒーリングで帳消しできるほどではない。また、クラインの初手……未知だった≪無限居合≫の先制攻撃もまた癒えておらず、流血ダメージを加速させている。

 

「余裕が無いのはそっちの方みたいじゃねぇか」

 

 クラインは歴戦の剣士であることを証明するように、また共にアインクラッドを生き抜いたと証明するように、反撃こそできないが……いや、敢えて反撃『しない』防御の構えでUNKNOWNの二刀流剣技に相対している。

 ユウキとの決定的な差は交流した時間そのものだ。クラインは『彼』の剣技を、癖を、思考を熟知している。それはUNKNOWNの攻撃を捌く確かな礎だった。

 だが、逆に言えばそれだけである。UNKNOWNの剣に何とか食らいついて防ぐことは出来ても、反撃の糸口は無く、一方的に攻められるのみ。いずれは押し潰されるのは明白だろう。

 ただし、それは2人に……正確に言えばUNKNOWNに『時間』があればの話である。

 アスナの奪還までのタイムリミットのみならず、スタミナ残量、そしてデーモン化制御時間の3つの枷がUNKNOWNを縛っている。

 だが、それ以上にUNKNOWNにとって攻めづらいのは、クラインの喧嘩殺法とも言うべきアウトロー戦術である。

 ユウキは魔法を組み合わせてはいたが、何処までも『剣士』として刃を振るっていた。だが、クラインは最初からUNKNOWNに『剣技』で劣っていると自覚し、それを穴埋めするようなアウトロー的戦術を組み込んでいる。

 その真骨頂とも言うべきものが、クラインの左手に装着された金属製の籠手だ。プレイヤーの格闘攻撃はSTR・DEX・TECの3つのステータスが強く影響すると言われており、また四肢より繰り出される攻撃はそれぞれに装着された防具に≪格闘≫によるステータス補正が入る。このステータス補正を飛躍的に伸ばすのが装備枠を消費する格闘装具であるが、防具でもある程度までならば補正を獲得することは可能だ。

 クラインが装着している左手の籠手は複数の緩やかな傾斜の金属板が組み合わされた、悪く言えば安い金メッキのような光沢を湛えたものだ。だが、それは重く、ガードに優れ、何よりも剣を受け流すことでUNKNOWNに臆することなくインファントを仕掛ける。彼の右手のメイデンハーツの苛烈な突きを籠手で守られた左拳で横殴りしてこじ開け、続く左のドラゴンクラウンの薙ぎ払いが命中するより先に懐に飛び込んでタックルを浴びせる。

 だが、UNKNOWNとてスミスに格闘術は仕込まれている。即座に足技で対応しようとするが、クラインはその蹴りを難なく顎を引いて躱し、蹴りの勢いを利用した左右の剣の同時袈裟斬りが掠りもせぬ懐に入り込むと掌底を彼の胸に打ち込んだ。

 焦燥がUNKNOWNを炙る。既に約束の塔の頂上に青空が生まれてから短くない時間が経過している。約束の塔を上る時間と塔内部の警備を考慮すれば、アスナを奪還できるかどうかの瀬戸際だった。ユウキとの戦闘が思いの外に長引いてしまったのだ。

 

「アスナを助ける。それが間違っているというのか!?」

 

 だからこそ、UNKNOWNはユウキとは別種の怒りをクラインに覚える。

 共にアインクラッドを生き抜いたクラインは、アスナのことも決して知らない仲ではない。彼らの関係を近しい距離で見守り、また理解していた。だからこそ、アスナを失った後の彼にも何かと気にかけてくれた。だからこそ、アスナを奪い返さんとここまで来た自分を邪魔するクラインが許せなかった。

 メイデンハーツが火花を散らしてクラインのカタナと激突する。カタナでありながら純打撃属性と高い耐久性能を誇るだろうそれは剣戟にも適している。互いに力任せに鎬を削るも、デーモン化している事もあり、UNKNOWNがパワーで勝ってクラインを押し返した。

 足元で水飛沫を上げながら後ろに滑って衝撃を殺し、左手で地面を掴んで制動をかけると同時にクラインはカタナを鞘に戻す。≪無限居合≫は任意の空間に斬撃の檻を発生させる。発動前に空間が歪むという前兆こそあるが、並のプレイヤーであるならば兆候を確認した時点で回避行動に移るのは困難だ。

 だが、UNKNOWNは難なく回避する。彼の反応速度は兆候をつかんだ時点で回避行動を取ることを可能とする。積み重ねられた死闘の経験は生存本能と絡み合って危機察知能力を高め、鉄の城で開花した剣士の才覚はそれを十全に活かす土台となる。

 次々と生まれる空間斬撃を躱したUNKNOWNであるが、今までとはクラインが異なる居合の構えをしている事を察知する。

 

「≪無限居合≫専用ソードスキル【秋雨】」

 

 これまでの空間斬撃が設置であるならば、それは追尾。UNKNOWNを歪んだ空間が追い、次々と空間斬撃が発生する。その回数は5回に及び、回避に徹するしかなかったところに回り込んだクラインの左の鉄拳が竜頭の兜に覆われた頭部に打ち下ろされた。そして、そのまま即座に蹴り上げが顎に飛来して無理矢理体を持ち上げられると、まるでバッティングでもするように、およそ剣を扱うとは思えないスイングで羅刹丸で彼の胸部を破砕する。

 マザーズロザリオの直撃は余りにも重く、脆くなっていた彼の肉体を覆う竜殻と竜鱗は剥がれ落ちていく。デーモン化制御時間の限界を示すアイコンが激しく点滅する。

 確かにクラインは強い。UNKNOWNは口でこそ感情的になって貶したが、彼の実力の高さを認めている。

 仲間と共に成長し、ギルド風林火山のメンバー1人として『99層までは』欠けることなく生き抜いたのは、クラインの独特のカリスマ性と指揮能力だけではなく、彼が窮地で仲間を救うに足る実力を発揮できたからだ。

 だが、逆に言えばクラインは『彼』ともクゥリとも違う、『ソロでの戦い』に慣れていないはずだ。常に仲間との連携を重視した戦法こそが彼の在り方だったはずだ。

 故にUNKNOWNは困惑する。クラインの剣技と格闘を組み込んだ独自の喧嘩殺法。それにユニークスキルを融合させたのは分かるが、余りにも彼の知る風林火山のリーダーからかけ離れていた。

 

「惚れた女に全力を尽くす。『男として』言わせてもらうなら、オメェは正しいさ。だから、ユウキを斬ったことはとやかく言わねぇよ。言っただろ? オメェとユウキをぶつけるように企んでいたのは俺だ。だけどよ、どうしてユウキはオメェの前に立ちはだかった? 本当にオメェを倒す為だけに……修羅として剣を向けたのかよ!?」

 

 竜翼を利用した加速を上乗せしてクラインの懐に飛び込み、二刀流で斬りかかる。上段からの同時振り下ろしに対し、クラインは両手で構えたカタナでガードするも力負けして片膝をつく。刃と刃が軋み合い、じわじわとUNKNOWNの剣がクラインのカタナを押し戻して彼を斬りつけんと迫る。

 

「オメェを止めようとしたんじゃねぇのか!? どの面をぶら下げてアスナを助けるってほざいてやがる! 俺がオメェに挑むのに正しいも間違ってるもねぇんだよ! ダチとして今のオメェが気にくわねぇだけだ!」

 

 UNKNOWNのフラッシュバックしたのは、自分に斬られたにも関わらず、まるで救いたいというように優しく語りかけてくれたユウキだった。

 あの瞬間、スタン硬直状態のUNKNOWNよりも先にソードスキルの硬直から復帰したのはユウキは、まるで迷うように剣を鈍らせた。本当ならば、死んでいたのはUNKNOWNの方だ。それは確かにあった死への恐怖が物語っている。

 そして、刹那の間にクラインは手首を利かせて体重をかけていたUNKNOWNの剣を刀身で滑らせて捌き、そのまま切り返す。ギリギリで回避に移るも、浅くだが右肩を打ち抜かれてUNKNOWNは呻いた。

 そのままクラインがカタナを両手で構え、全身の捩じりを加えて突きを放たんとした時、UNKNOWNを守るように淡く金色に輝く鱗が剥離するように周囲を舞い、光の繭を形成する。それは鋭い突きの速度を僅かに減速させ、UNKNOWNに退避の時間を稼がせた。

 防御能力の覚醒。UNKNOWNは霧散する光鱗の繭に酔いしれる。まだまだ『力』が得られる! もっと『力』がいる! 頭痛が意識を食らいつくさんとする中で、UNKNOWNは2対の竜翼を大きく広げた。

 もう時間はかけられない。ここで勝負をかける。確かにクラインは強い。その喧嘩殺法とも言うべき独特の戦闘技術はトッププレイヤーと呼ぶに相応しい。だが、ユウキに比べれば素の実力が足りない。彼女を下した自分ならば勝てる! UNKNOWNは残り少ないスタミナで≪集気法≫の【剛力剄】を発動させる。回復特化の治癒剄とは違い、攻撃力強化とスタン耐性の上昇のバフをかける。

 

「気にくわないだと? そんなくだらない理由で俺の願いを阻むな」

 

 ゼロモーションシフト。プレイヤーの枠を超えた『力』を見せつけるようにUNKNOWNはシステムアシストで不自然な程にモーションなく加速して移動し、クラインに詰め寄る。これは読み切れなかったクラインは虚を突かれ、その腹をドラゴンクラウンで横薙ぎにされ、大量の血が溢れた。

 血風を雨の中で散らしながら、UNKNOWNはそのまま怒涛の連続斬りでクラインのガードを崩さんとする。かつてはヒースクリフの大盾すらも崩したほどの≪二刀流≫の連撃をクラインがカタナ1本で耐えきれるはずもなく、左右上下から止まることなく襲い掛かる連撃の防ぎきれない刃が続々と彼の体を裂いていった。

 トドメの十字斬りだけは何とか防いだクラインだったが、腕、肩、太腿といった場所に浅からぬ傷を負い、そのカーソルは黄色に変色し、そのまま赤色になって点滅する。それは運の良さではなく、ダメージが大きい胴や頭部といった場所だけは決死で守り抜いた、『彼』の剣技を深く知るクラインだからこそ可能にした生存だった。

 

 右太腿に傷が特に深い。もはやクラインも立つことは叶わないだろう。瞼を閉ざし、一呼吸入れたUNKNOWNはトドメを刺す時間も惜しいと膝をついたまま動けないでいるクラインに背を向ける。

 

「まだ……終わってない……ぜ、黒雑魚」

 

 だが、UNKNOWNの予想に反してクラインはカタナを杖代わりにして立ち上がる。

 死に体のくせに粘る。UNKNOWNは無視しようとするが、クラインの≪無限居合≫ならば間合い外から幾らでも自分を邪魔するだろうと思い返し、やはり殺すべきだと身を翻して彼の血で刀身が濁ったメイデンハーツを構える。

 

「やっぱり、今のオメェは……『弱い』わ」

 

 もはや勝敗は決したと言いようがない姿でありながら、クラインは強気で笑う。UNKNOWNを哀れむように嗤う。

 

「俺はよぉ、認めてたんだ。『コイツならきっとアインクラッドを完全攻略してくれるはずだ』って、俺よりも『強い』って……認めてたんだよ。ラスボスをぶちのめすのは俺じゃなくてオメェに違いないってよぉ。で、実際にそうだった。死んだ連中は戻らねぇけど、『俺たちプレイヤーはデスゲームに勝ったんだ』って茅場に見せつけてやった。それを成し遂げたダチを持てた俺は最高に幸せ者だってなぁ……! だから、受け入れずとも呑み込んだんだ。あの日、あの99層で、俺の仲間が死んだのは……クゥリに殺されたのは、必要な犠牲だったてっな!」

 

 血反吐を垂らし、双眸を涙で滲ませ、それでもクラインの闘志はまるで衰えない。ここにはいない燻ぶっていた白の傭兵への憎悪を燃やしながらも、復讐の剣を抜かなかった自らの誇りを示すように咆える。

 

「それが何だ?『アスナを取り戻す』だぁ? 寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ! 死人は墓の中で眠ってるのがこの世の筋だ! だけどよぉ……それでもよぉ! オメェが『アスナを取り戻す』って意地を押し通すってんなら文句は無かった! 形振り構わずに突き進む『覚悟』があるってんなら、全力でぶっ潰してやるって……たとえ、オメェを斬ってでも、俺の『答え』に賛同してくれた仲間の為にも1番のダチを斬るって、俺も『覚悟』してたんだよ!」

 

 クラインが左手を掲げ、震える指を握りしめる。それはまるで霞の向こう側に、彼だけが見出した『答え』を握り取ったような力強さに満たされていた。

 

「だから邪魔するぜ。俺は俺の意思でオメェをぶっ潰す! オメェが1番嫌っていたはずの……『理不尽な暴力』って奴に成り下がったオメェをな!」

 

「『力』を欲しがって何が悪いんだ!? 俺たちから大切な人たちを奪ったのは理不尽な暴力だ。俺たちの力不足でたくさんの人たちが死んだ! 守れなかった! アスナも……風林火山のみんなも……俺たちに『力』が無かったから死んだ!」

 

「その通りだ! だからこそ、俺たちは『力』を振るう『覚悟』を持たないといけねぇんだろうが! これはゲームであっても遊びじゃねぇんだよ! 俺たちの『力』は簡単に人を殺しちまう! だからこそ、俺たちは苦しまないといけねぇんだろうが! 足掻かないといけねぇんだろうが!」

 

 カタナの切っ先をUNKNOWNに向け、クラインはそっと左腕を右腕に添える。その構えは死者への弔いに似て、何よりも自らの『力』が何を成すのかを戒めているかのようだった。

 クラインの全身からマグマが滾るような煌々とした輝きが溢れる。それはデーモン化の兆候であり、阻止しなければならないのは一目瞭然だった。

 だが、UNKNOWNは動けなかった。クラインの眼光に気圧され、恐怖し、足が震えて動けなかった。

 変貌したクラインの姿はユージーンと同じ悪魔型。2本の捩じれた角を持ち、翼は無いが全身の筋肉はより膨れ上がる。ストレートな強化タイプだと分かる見た目であり、クラインの場合は翼が無い分だけ回復力に特化されているのか、赤色だったカーソルは黄色に変化し、全身に負った傷も修復されていく。

 クラインが加速する。雨を弾きながら駆け抜け、迎え撃たんとするUNKNOWNと刃を交わらせる。その重みは先程までの比ではない。我に返ったUNKNOWNは両手の剣を振るって今度こそクラインを殺しきるべく縦横無尽の斬撃を繰り出すが、クラインはその全てを……彼本来の反応速度を『上回っている』としか思えない初速を得たカタナで防ぎきる。

 

「切り札を持ってるのはオメェだけじゃねぇんだよ」

 

 クラインが『何』をしているのか。いかなる代償を支払ってDBOに立っているのか、UNKNOWNは知らない。2人の道は既に違えて久しく、故にこの場で交わったのも互いの道を否定する為である。

 ゼロモーションシフトで距離を取り、スタミナの消費を覚悟で白光を放とうとするUNKNOWNに対し、クラインは居合の構えを取る。空間斬撃による防壁は突破できないと知るUNKNOWNは、それでもダメージは稼げると放たんとする。

 

「そいつは隙も作らず、距離も中途半端に撃つもんじゃねぇだろうが」

 

 瞬間にクラインが居合の構えのままUNKNOWNの正面まで高速移動する。それは≪歩法≫のEXソードスキル【風歩】。≪カタナ≫スキルを持つ者が獲得できるEXソードスキルであり、まるで摺り足の如く滑るように前進できる。ただし、EXソードスキルである以上は特殊効果もあり、間合いを詰めた瞬間にフォースの如く小範囲ではあるが、周囲に衝撃波を展開する。

 斬。≪無限居合≫のソードスキルではなく、何の変哲もない、ただの居合。だが、カタナは他の武器とは違い、抜刀攻撃には加速と火力ボーナスがつく。たとえソードスキルではなくとも脅威であり、UNKNOWNはギリギリで反応して退避する。

 だが、何故絶好のタイミングで居合系ソードスキルを使用しなかったのか。それはクラインは最初から『避けられる』と判断していたからである。故に居合という大きく斬り放って隙を晒す動作に相反して、その刃の速度はあまりにも鈍い。全力での抜刀ではなく、『次に繋げる』為の居合。

 

「おらよっと」

 

 優しく左手を添えた柄に手首を利かせ、反った刀身の刃を天に向ければ、無駄に力まぬ理想的な斬り上げに派生する。だが、鈍い黒色の刀身は純打撃属性と証明するようにUNKNOWNを裂くことなく、顎を叩きあげるのみ。

 追撃しないクラインは忘れていたとばかりに懐からバンダナを取り出す。

 

「なーんか足りねぇと思ったら、俺のトレードマークが無いじゃねぇか。良し、これでバッチリだな」

 

 両手で構えたカタナを振るえば、今までの鈍い黒色から鋭い銀色へと変色する。カタナ特有の純斬撃属性に戻り、UNKNOWNの剣戟に応じる姿は無謀にも映るだろう。カタナは耐久面において脆弱であり、激しい剣戟は不得意だ。それどころか、刃を立たせて斬りつける最適斬撃でなければ、まともに運用しても耐久度が足りない武器である。だが、クラインのカタナは耐久面に優れているのか、UNKNOWNとも苛烈に斬り合っても軋む様子すら見せない。その姿はカタナ本来の鋭利さを捨てた重撃の剛刀そのものである。

 間合いを圧殺する二刀流を真正面から相手取るならば耐久性が低いカタナは簡単に折れる。誰もが思い描くその結果を覆される。UNKNOWNの右のメイデンハーツの振り下ろしとディレイをかけた左のドラゴンクラウンの突きは空を裂くばかりであり、クラインは絶妙な間合いの外で一呼吸を置いて止まり、連撃の『繋ぎ目』に向かって一切の淀みなく突きを差し込む。咄嗟に首を傾けて喉を刺し貫く突きを躱すUNKNOWNであるが、クラインは冷静に畳みかけるべく、追い詰めるように踏み込んでくる。

 速度で翻弄する。俺の方が機動力は上だ。2対の竜翼を利用し、クラインの周囲で動き回って攪乱する。1歩の度に驚異的加速を得たUNKNOWNは、何処から攻めてくるのか分からないように、周囲に目配りするクラインの背後を取ると両手の剣を振り下ろす。

 

「甘い」

 

 だが、クラインは当然の如く、UNKNOWNを見ることもなく、カタナを背後に向かって振り抜く。それはドラゴンクラウンの亀裂を正確に狙い斬り、その分厚かったはずの刀身を……遂に、耐久面に限界がきていた竜神の剣を半ばから切断する。

 折れたドラゴンクラウンの刀身が橋に突き刺さるより先に、クラインは剣の振るえぬUNKNOWNの懐に入り込むと左手の掌底を放つ。それはUNKNOWNの胸で炸裂し、強打となって彼を吹き飛ばした。

 着地して踏ん張ったUNKNOWNは茫然と折れたドラゴンクラウンを見つめている。それは彼にとっての『力』の消失そのものだった。

 

「狙いが杜撰なんだよ。そんな動きをされたら『正面から斬りかかりません』って言ってるようなもんじゃねぇか」

 

 対して冷徹にクラインはUNKNOWNが『力』に胡坐を掻いた結果だと伝える。本来スピード戦を土台としないUNKNOWNが速度で攪乱しての攻撃はあり得ないことだ。クラインは『経験』からそれを読み解き、正確に迎撃することを可能とした。

 折れたドラゴンクラウンでも≪二刀流≫は発動するが、攻撃力は減少している。特にリーチを失ったとなれば、これまでのラッシュによる戦法は使えない。UNKNOWNが逡巡するより先に動いたのは、自分の周囲を歪んだ空間が包み込んだからだ。≪無限居合≫による遠隔斬撃は溜めこそ必要であるが、場所を選ばずに使用できる。故にUNKNOWNは距離を詰めて≪無限居合≫を封じ込めようとする。

 だが、居合の構えから無手になったかと思えば、フリーにした両手でUNKNOWNの突進に合わせたクラインは、まだ刀身を残しているメイデンハーツの一閃を躱し、続く半分に折れたドラゴンクラウンを振るう左手を掴んで逸らす。

 拳打が飛ぶより先にUNKNOWNは蹴りでクラインを剥がそうとするが、最初から読まれていた。クラインは足の甲を踏みつけて蹴りの始動を潰し、そのまま喉に一切の淀みなく拳を侵入させる。

 竜殻で保護されているとはいえ、急所部位である喉への剛打はUNKNOWNを揺るがす。

 

「『死者は蘇ってはならない』。俺たちチェーングレイヴのエンブレムが十字架と鎖なのは、世界は『生きてる』奴らで回さないといけねぇって『覚悟』なんだよ。俺たちはたった1つの命を燃やして生きている。死んだら終わりだからこそ、『覚悟』を決めて生きていける」

 

 勝てないはずがない。俺がクラインに負けるはずがない! UNKNOWNは思うように動かない自分の体に……消耗しきった脳より津波の如く繰り返し押し寄せる頭痛に意識を潰されかける。

 だが、クラインの攻撃にUNKNOWNは対応できない。反応速度がどれだけ高くとも、アバターを動かす命令が無ければ意味がない。攻撃に対応する思考が無ければ意味がない。やがて、無理に対応しようとする意識は思考を挟まぬ反射的行動を増やしていき、それは隙を大きく増やしていく悪循環を生む。

 同等の条件なら圧勝だ。ユウキとの連戦で疲弊していなければ苦戦する要素などない。それだけの『力』が俺にはあるんだ! そんな自己弁護が脳裏から這い出して全身を浸す。

 だが、ここに来てデーモン化制御時間が危険域にある事を示すアイコンがHPバーの下で激しく点滅して自己主張する。

 このままデーモン化を継続すれば制御時間切れとなり、強制的に≪獣魔化≫が発動する。プレイヤーではなく、討伐されるべきモンスターになる。そんな恐怖心が芽生えに仮想脳が応えるようにデーモン化は解除される。

 その一瞬の隙を突き、クラインの左拳が唸った。それは≪格闘≫の単発系ソードスキルにして初歩となる閃打。咄嗟にドラゴンクラウンでガードするも耐え切れず、彼の手から折れた竜神の剣が弾け飛んだ。殺しきれなかった衝撃は彼の体を大きく浮かす。

 背中から地面に倒れ、水飛沫を上げたUNKNOWNはドラゴンクラウンを手放して軽くなった左手で拳を握る。機械仕掛けの剣を杖にして震える体を起き上がろうとするが、体はバランス感覚を失って転倒する。頭痛で切り刻まれ続ける意識は明滅し、アバターを……仮想世界の肉体を動かす気力を奪い取る。

 立ち上がれずにいるUNKNOWNを前に、クラインはカタナを肩で担いで鼻を鳴らす。

 

「限界だな。オメェのあの奇妙な動き、『人の持つ意思の力』って奴の片鱗だろうが、そんなホイホイ使える代物なわけねぇだろうが。許容量も考えずに使いまくればツケが回ってくるのは当たり前なんだよ」

 

 意識を手放しそうになる程の頭痛に苦しみながら、UNKNOWNはまだ勝負はついていないと立ち上がろうとしては崩れ、立ち上がろうとしては崩れる。

 

 俺が負ける? こんなに『力』を手に入れたのに、負ける? 

 

 そんなはずはない。そんな事があってはならない! だが、UNKNOWNの想いとは裏腹に、頭痛に加えて止まらぬ嘔吐感によって胸部と喉を圧迫される。

 

 クラインの足音が聞こえる。自分の命を奪わんとするクラインのカタナの輝きが映る。

 

 死にたくない。死ぬわけにはいかない。死にたくない! 死ぬわけにはいかない! 死を拒絶する生存本能とアスナを取り戻したい願望が絡み合う中で、滴る死の恐怖はクラインの背後へと視線を誘った。

 

 それは死と叫びと怨嗟だった。

 

 UNKNOWNが斬り払った多くの騎士や聖職者たち。彼らは血の海で今も沈み、仲間たちの必死の救命活動を受けていた。だが、それも及ばずに次々と落命し、死体は増えていく。

 

 仲間の騎士の遺体に縋りつき、大泣きするのは片腕を失った同僚だろう。言葉にもならぬ、死者の弔いの聖句ではなく、ただ嘆きの叫びを散らすばかりだった。

 

 

 武器を持たず、両腕を広げて道を阻んだ聖職者。それもまた深手を負い、他の聖職者の奇跡の回復による延命も及ばずに息を引き取る。

 

 余りに苛烈過ぎる戦い故に割り込めず、あるいは仲間の救助に駆けていた騎士たちは憎悪の眼を向ける。それは仮面の剣士に殺意となって注がれる。

 

 

 

 殺した。

 

 俺が殺した。

 

 邪魔だから殺した。

 

 たくさんたくさん殺した。

 

 アスナを助ける。その『願望』の為に多くの人を斬った。

 

 ただ助けだした彼女に会いたくて、赦してほしくて、その為に……たくさん殺した。

 

 それは目を背けていた足下。『力』に酔いしれて、感情の爆発に押し流されて殺した数えきれない屍。

 

 足に縋りつくのは自分が殺した人々の憎悪と無念。まるで深みに沈めようとするように絡みつき、振りほどくことは出来ない。

 

 

 

「あぁ……あぁあああああああああああああああああ!」

 

 

 

 気づくな! 気づいてはならない! UNKNOWNは恐怖と罪悪感を跳ね除けるように、最後の力を振り絞って立ち上がる。

 スタミナ残量は無い。ソードスキルの1発でも放てればスタミナ切れとなって動けなくなる。奥の手であるスタミナ回復の≪集気法≫による魔力変換は、ユウキとの戦いの中でHP回復の方に使用してしてしまった。

 それでも、UNKNOWNは……『名無し』は焼き切れそうな意識の中でゼロモーションシフトを発動してクラインの右隣に瞬時に移動して斬りかかる。振り向いたクラインはカタナでガードしようとするが、UNKNOWNは折れたドラゴンクラウンを全力で振るい抜いて揺るがし、そこにメイデンハーツの斬り上げを組み込む。大きくカタナが宙を舞い、武器を失ったクラインに絶対的な隙が生まれる。

 もはやこの勝負の意味など何処を探しても見つからなかった。『名無し』はただクラインを否定したかった。

 自己憎悪と『力』への渇望。死の恐怖から逃れんとする生存本能と押し寄せる罪悪感。その最果ての中で『名無し』は叫ぶ。それは確かに『彼』を突き動かした確かな意思だった。

 

 アスナは死人だ。死者は蘇らないのが世界の理屈だ。

 

 必死に受け入れようとした。彼女の死を呑み込もうとした。自分の過去の無力さを責めながら、アインクラッドを生き抜いた意味を探そうとした。

 

 だが、キミが『生きている』ならば、世界中の人間すべてがキミを『死んでいる』と指差そうとも、俺だけは駆けつけないといけないんだ! 冷たい棺の中ではなく、たとえ電子の海の果てであろうとも、きっとキミは俺が来るのを待っているはずだから!

 

 あの日、キミを助けられなかった『英雄』を渇望しているはずだから!

 

 

 

「俺が止まる訳にはいかないんだ! アスナは……アスナは『今』ここにいるんだぁあああああああああああああああああ!」

 

 

 

 武器の無いクラインにUNKNOWNの凶刃を防ぐ手段は無い。回避は間に合わず、いかにデーモン化しているとしても≪二刀流≫の攻撃をまともに浴びれば致命は必定。

 だが、クラインはまるで魔法でも使うかのように左手をUNKNOWNに突き出す。その動作は洗練され、繰り返された鍛錬の名残を見せる。

 同時に発動したのは1つのギミック。クラインの隠された左袖の奥から飛び出したのは、小さな鉄色の塊。

 仮面の向こう側でUNKNOWNの両目が大きく見開かれる。『それ』の正体を認識した時には全てが手遅れだった。

 クラインの切り札。『それ』は余りにも有名過ぎる事件故に、犯人の名前が今も愛称となって呼ばれ続けている。

 デリンジャー。暗殺に用いられた小型拳銃はDBOにおいて唯一無二の『暗器銃』としてクラインに握られ、UNKNOWNの顔面を正確に捉えていた。

 

 

 

 

 1発の乾いた発砲音は仮面の破片を散らし、冷たい弾丸は剣鬼に堕ちた『英雄』を倒す。

 

 

 

 

 

 銃撃で倒れたUNKNOWNは茫然と嵐の暗雲を……ゆっくりと約束の塔の直上を湛えていた青空の消失を見つめる。それが意味するのは、アスナを取り戻すという願いは叶わなかったという宣告だった。

 

「うぁああああああああああああああああああああああああ!」

 

 銃弾で破壊された左目を押さえ、ダメージフィードバックと破裂した心に耐え切れず、UNKNOWNは痙攣する。その姿はかつて鉄の城で『英雄』となった剣士から程遠く、剣に憑かれた鬼と呼ぶには余りにも弱々しかった。

 

 

▽   ▽    ▽

 

 

「チェーングレイヴは全員が暗器使いだ。俺も例外じゃねぇんだ。オメェの最大の敗因は『俺を舐めていた』以上も以下もねぇんだよ」

 

 クラインは感情的にならないようにと努めながら、だが涙を堪えきれずに零しながら、湿った声で告げる。

 カーソルが赤く点滅するUNKNOWNの仮面は左目の付近だけが砕けていた。デリンジャーは≪暗器≫でありながら≪銃≫であるハンドガンのユニークウェポンである。それは鍛冶屋でも再現不可の構成であり、デリンジャーのみに与えられた性能だった。

 

「どうして……俺は……強く……アスナ……守れ……みんな……」

 

 譫言を繰り返して自失した『名無し』に、クラインは両膝をついて嗚咽を噛み砕く。

 

「オメェ、どうしちまったんだよ? 俺が勝っちまうなんてあり得ねぇだろ。どうして……どうしてそんなにも『弱く』なっちまったんだよ?」

 

 罪を背負いきれないならば、最初からすべきではなかったのだ。『力』を欲するべきではなかったのだ。

 涙を袖で拭い、立ち上がるとデリンジャーのトリガーに触れる、震える人差し指に力を籠める。友を殺す重荷を自分は背負いきれるかとクラインは自問する。

 

(クゥリ、オメェはスゲェよ。どんな相手だろうと殺せるんだからよぉ。どれだけ積み重ねた時間があっても、殺す時には迷いなく殺せちまう。オメェと俺たちの決定的な違いってのは……何なんだろうな?)

 

 鉄の城で出会った黒の対極にあった白。いかなる罪を浴びても穢れを知らないようにその白は曇ることなく殺戮を振り撒いた。

 99層の悲劇。無残に殺された自分の仲間たち。決してクゥリとは仲が良いとは呼べなかった。彼らはいつも白の傭兵を恐れていた。それでも、彼が【黒の剣士】のスカウトで攻略組に加わってからは距離を縮めようと努力した。クラインに感化されるように歩み寄りを見せた。

 それでもクゥリは殺した。必要だから殺した。今でも思い返せば決して薄くはない憎悪と憤怒がクラインを焦がす。その一方で突きつけられるのは、あの場面では彼の殺戮行為以外には何の手立てもなかったという、己の力不足を嘲う呪詛だ。

 

「俺にはよぉ、『力』を求めたオメェを罰する資格はねぇんだろうな。俺たちには『力』が無かった。いつだって、それは罪だったんだからよ」

 

 仮面の剣士が『力』を渇望したのも仕方なかったのかもしれない。彼は『英雄』になろうとしたのだから。アスナを助ける『力』を持った『英雄』になるしかなかったのだから。

 殺したくない。それが本音だ。だが、この殺し合いには決着をつけねばならない。

 もはや『名無し』は罪を背負いきれない。受け入れられない。彼は数多の死を飲み下せなかった。得た『力』で築いた屍の山の上で立てる心を持っていなかった。

 

「地獄で待ってろ、『黒馬鹿』。すぐとは言わねぇが、いずれ会いに行く。その時は酒でも奢ってやんよ」

 

 トリガーにかけた指に力を込める。クラインは目を背けることなく自分が友を殺すという罪を直視せんと瞼を閉ざしたい気持ちを抑える。

 

 

 

「殺さないで!」

 

 

 

 だが、クラインの指を止めたのは1人の少女の叫びだった。

 騎士たちの包囲を突っ切り、金髪をポニーテールで結った少女はクラインとUNKNOWNの間に割って入る。その剣を抜き、堕ちた『英雄』を守らんと威嚇する。

 

「……リーファ?」

 

 虚ろな声で少女の名前を呼ぶUNKNOWNは起き上がることはない。その様に驚きながら、リーファという少女は剣を抜いてクラインに突きつける。

 リーファ。聞いたことがある名前だ。クラインは以前にレコンがアルヴヘイムで助け出そうとしているチェンジリング被害者の名前がそうだったと思い出す。どうして彼女がここにいるのかは不明であるが、リーファの後を追いかけて現れたレコンの様子を見るに、運命の悪戯か、あらぬ形で再会したのは間違いないだろう。

 

「リ、リーファちゃん! まずいよ! 勢いで突破してきちゃったけど、完全に包囲されちゃってるよ!」

 

「うるさいわね! それよりも早く奇跡で回復を!」

 

 クラインを警戒して攻めないリーファの命令に、幾分か目に清らかさを取り戻したらしいレコンはUNKNOWNの傍で中回復を発動させる。赤く点滅していたカーソルは黄色、そして緑色に戻り、HPが安全圏内まで回復したことを知らせる。

 残量HPは不明だが、デリンジャーの1発で殺しきれるかは不鮮明だろう。だが、クラインはそれでも銃口を向け続ける。

 

「……罪を定義するのが法律だ。だがな、罪を感じるのは心だ。ソイツはもう駄目だ。選択を間違えた。背負いきれない罪に心が潰れちまった。殺してやった方が本人の為だと思わねぇのか?」

 

 リーファはクラインの問いかけに黙る。UNKNOWNの左目に止血包帯を使用して治療を行っていたレコンは、まるで我が事のようにビクリと体を震わせた。

 

「見ただろ? そこの黒馬鹿はな、惚れた女を助ける為に数えきれない連中を斬ったんだ。それ自体は責めねぇよ。だがな、大事なのはその罪を背負える『覚悟』があったのかどうかだ。ハートの問題だ。ソイツは選択を間違えたんだ。挙句に俺の仲間も斬ったんだ。俺には撃つ権利がある。違うか?」

 

 右手で拳を作って自分の胸を叩いたクラインに、リーファは1度振り返って騎士や聖職者の死体の山が誰によって築かれたのか理解する。

 人の心は潔癖だ。はたして罪の血に塗れた男を擁護することが出来るのかとクラインはリーファを見つめる。それだけの価値が友にはあるのかと賽を投げる。

 ゆっくりと振り返ったリーファの瞳は……クラインの前に立ちはだかった時と微塵と変わることなく揺らいでいなかった。

 

「確かに間違えたのかもしれません。でも、あたしは……あたしは決めたから! 見捨てないって決めたから! だから! どれだけ罪を背負っていようと! 血塗れだろうと! あたしだけは絶対に味方してあげるんです! だから、この人を撃つなら……あたしはあなたと戦います!」

 

 覇気を散らすリーファに思わず気圧されたクラインは呆気に取られて苦笑した。こういう運命なのかもしれないとデリンジャーを袖の裏……籠手と一体化した飛び出しギミックのホルスターに収納し、少しだけ嬉しそうに笑う。

 

「そうかい。レコン、良い女じゃねぇか。大事にしろよ」

 

 もう敵意はないとホールドアップしたクラインに、リーファは数秒だけ信用すべきかどうか悩んだようだが、クラインの真摯な眼にゆっくりと剣を下ろした。

 

「黒馬鹿、そういうわけだ。オメェは殺さない。だが、ユウキ次第では再戦だ。首を洗って待ってろ」

 

 アリーヤはもう助からないだろう。だが、あの黒狼が命懸けで守ろうとしたのだ。ユウキは生存している出目はあるとクラインは踏んだ。だが、この泥水の濁流である。アリーヤの奮闘も虚しくユウキも死亡しているとも十分に考えられた。

 ここはリーファに免じて生かす。だが、ユウキが死んでいたならば、彼女は無駄死などでは無かったと示す為にクラインは『この場は生かす』という選択の重責を背負い、堕ちた『英雄』を改めて討つ。それがチェーングレイヴのリーダーとしての弔いだった。

 リーファの許可を取って羅刹丸を再装備したクラインは顎髭を撫でながら、さてここからどうしたものかと悩む。跳ね橋でのUNKNOWNとの死闘も終わり、デーモン化を解除したクラインであるが、目前には仲間の仇を討たんと復讐に猛る騎士の大軍だ。UNKNOWNと森中で起きた自爆騒ぎで指揮系統も陣形も崩されていたが、せめて仮面の剣士だけでも討たねば仲間の無念を晴らせないとばかりに殺気立っている。

 

 

 

 

 

 

「お転婆も過ぎるぞ、妹様」

 

 

 

 

 

 だが、次の瞬間に騎士たちの首が飛ぶ。

 新たな襲撃者。突如として現れたのは、アルヴヘイムの住人は見かける機会も無いスーツ姿の女だ。ズボンではあるが、女性らしい豊満な曲線を露にする姿は艶めかしく、切りそろえられたショートカットは生真面目さを主張し、両手に持つ2本の結晶の刃はカタナに似た湾曲を成している。

 妖艶と思える血色をした赤の瞳を向けた女にクラインは何処か既視感を覚える。だが、それを『誰』に繋げれば良いのか分からず困惑していると謎の女は嘆息した。

 

「貴様とここで一戦交えるのも一興だが、私も此度は優先事項が別にある。口惜しいが、次の機会を待つとしよう。グングニル!」

 

「はい、姉様」

 

 突如の襲撃者に困惑する騎士たちを差し置いてスーツの女が呼びつけたのは、自らの影より這い出る虹色の髪をした美少女だった。思わずクラインもレコンも頬を朱に染めてしまうほどに可憐であり、ワンピースの裾がふわりと雨の中で翻る姿は春の野に咲く名も無き白い花のようだ。独特の虹色の髪は側頭部のみまるで耳のように跳ねており、それは彼女の感情に呼応するように微かに動いている。

 それは聖女の微笑み。一切の邪念も悪意も敵意もない眼差しと微笑。無条件で心に入り込んでくる少女は、倒れたまま茫然自失して動けずにいる仮面の剣士を悲しそうに撫でる。

 

「……やはり、こうなってしまったのですね。私の力が及ばずに申し訳ありませんでした」

 

「グングニル。あの愚王の目を誤魔化す私の身にもなれ。早く転送を」

 

「畏まりました。皆様、どうか瞼を閉ざして心に鍵を。アメンドーズの光は狂気を誘います」

 

 少女が自らの広がる影に命じれば、どろりとした闇から這い出すように現れたのはかつて廃坑都市を壊滅に追い込んだ怪物、アメンドーズの巨大な腕だ。影より飛び出した4本の手はクライン、レコン、リーファ、そしてUNKNOWNをそれぞれ掴むと虹色の光で包み込む。

 意識が飛んだような空白の後にクラインが立っていたのは約束の塔の森の外、大騒ぎとなっている伯爵領の町の路地裏だった。野良猫が突如として出現した4人とグングニルに驚いたように鼠と並走して逃げていく。

 激しい頭痛と嘔吐感でよろめいたクラインであるが、リーファやレコンに比べれば症状は幾分かマシなのだろう。リーファは口を押えたまま蹲り、レコンは目を見開いたまま半ば失神に近しい状態で横たわっていた。

 

「我が王に代わりまして、剣士様を殺さないでいてくれたことをお礼申し上げます。どうかあなたに祝福があらんことを」

 

 雨水と踊るようにふわりとステップを踏み、グングニルと呼ばれた少女は背伸びをしてクラインの左頬に優しくキスをする。

 

「ユウキさんは約束の塔の森にある大樹の洞にいます。狼が目印となるでしょう。どうか……迎えに行ってあげてください」

 

 そのまま彼の胸をそっと撫でながらグングニルは距離を取ると自らの影に包まれて消えた。

 

「ゲホ……ゴホ……!」

 

「うげぇええええええええ」

 

 咳き込むリーファとその隣で白目を向いて唾液とも思えぬ何かを吐き散らすレコンはどちらも転送のショックで体をまともに動かすのも難しい状態である。だが、2人を安全な場所に送り届けるのはクラインの仕事ではない。

 だが、このまま無言で背中を向けて去ることが出来るほどにクラインは人情を捨てきれていなかった。

 刃毀れ1つない羅刹丸を鞘に収めると、未だに立ち上がれていないリーファに視線を合わせるようにクラインは屈んだ。

 

「嬢ちゃん、ソイツらを頼む。どうしようもない馬鹿で、挙句に最悪な選択をしちまったらしい阿呆共だが、それでも……俺の弟分と1番のダチなんだよ。俺の見立てじゃ、『まだ』最後の選択って奴は遠いらしい。だから……頼む」

 

「……言われないでも分かってます。あたしの大事な友達と……1番大切な人ですから。何があっても見捨てません」

 

 力強く頷いたリーファに、本当に良い女だとクラインは下心半分で笑顔になりながら頷いた。

 町に1歩踏み出せば怒号の嵐。それは約束の塔の混乱だけではなく、アルヴヘイム全土を巻き込んだ新たな戦争の幕開けを知らせる。だが、クラインがすべき事は世界情勢の変動を調べることではなく、再び禍根の渦の中心……約束の塔の森に赴く事だ。

 どうかユウキには生きていてほしい。仲間を失いたくないから。そして、同じくらいに……あの黒馬鹿を殺したくないと思っている自分にも気づいたからこそ、生き延びていてほしい。

 

「……チッ。『覚悟』が足りてなかったのは……お互い様ってわけかよ」

 

 バンダナを引き寄せて目元を隠しながら、クラインは決意を新たにする。チェーングレイヴの敵として立ちはだかるならば、黒だろうと白だろうと……誰だろうと倒す。そう意思を固め直す。

 彼もまた立ち止まれないのだから。『答え』の成就を邪魔するならば……『すべての死者をもう1度眠りにつかせる』というチェーングレイヴ結成の目的にして彼が掲げた大義、それに集った仲間たちの為にも……この歩みを止められないのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 闇に溺れる。

 喉に、耳に、鼻に、全身に闇が浸み込み、内なる穢れが魂を食む。

 助けて。助けて。助けて! 闇に溺れる中で必死に手を伸ばす。だが、誰も彼女の細い指をつかみ取ってくれない。闇から引っ張り上げてくれない。

 そのはずだったのに、冷たい暗闇で光が揺れる。

 それは眩しい太陽の光とは違う、まるで闇と共存するかのように揺らめく焔火。闇を払うような火だからこそ、より濃く闇を形作る。

 

「……ん」

 

 ゆっくりと瞼を開いたユウキが最初に目にしたのは、薄暗さとは程遠い、まるで陽光が差し込んだような空間だった。

 熱を帯びた光を放つのは、まるでランタンのように天井からぶら下がる群生したキノコだ。耳が捉えるのは微かな雨音であり、だがそれは嵐と呼ぶには程遠く、自分が浅からぬ眠りにあったのだと理解するのは十分だった。

 ユウキが横になっていたのは、まるで羽毛のようにふわふわの苔のベッドだった。それは彼女の体温とキノコの光、そして傍で音を立てて薪を焦がす焚火で温められている。

 大樹の洞。ユウキは自分がいる場所は巨大な大樹の根元にある、まるで洞窟のような大きな空洞なのだと理解する。視線を動かせば澄んだ水面が映り込み、天井から落ちた水滴が静寂の波紋を描いた。

 

「起きたか?」

 

 まだぼんやりとした意識の中でユウキに優しく声をかけたのは、水辺の傍に腰を下ろす白の狩人だ。その身に纏うのはナグナの狩装束であるが、コートを羽織っておらず、上半身は黒のノースリーブのインナー装備である。右腕は止血包帯で、左腕は黒帯でそれぞれ覆われ、純白の髪は1本の三つ編みで結われて肩に垂れ下がっていた。

 

「……クー?」

 

 本物? 夢じゃない? 目の前にいるのがずっとずっと会いたかった白の傭兵だと信じられなくて、ユウキは思わず名前を呼んでしまう。

 ユウキに名前を呼ばれたクゥリはいつものように微笑む。胸が締め付けられて、間違いなく本物だと理解したユウキは駆け寄ろうと立ち上がり、バサリと自分の体から落ちた『モノ』に目を向けた。

 バサリ? 何が落ちたのか疑問を抱く前に、ユウキはまず自分の『全身』に開放感を覚える。だが、それは決して人前で……特に異性の前であってはならない感覚だった。

 恐る恐る我が身を見下ろし、ユウキは固まる。

 それは生まれたての姿。一糸として纏わぬ裸体。下着すらない。今まで彼女の裸体を守っていたのは、まるで毛布のようにかけられたナグナの狩装束のコートだった。

 

 

「ぴぎゃああああああああああああああああああああああああ!」

 

 

 アルヴヘイムに来て2度目となる羞恥の悲鳴を上げ、ユウキはナグナの狩装束のコートを掴んで胸元に引き寄せながら蹲り、顔を真っ赤にして空気を求める金魚のように口をパクパクさせる。

 どうして裸なの!? 一体何が起きたの!? いや、むしろボクが寝ている間に『何』があったの!? 混乱するユウキは暴走する心臓を抑え込もうとしながら、クゥリと『そういう事』があったならば喜ぶべきことかもしれないと思い、一方で『初めて』の記憶が全く無いのは嫌だと後悔し、そして初めての『行為』には痛みがつきものだという圧倒的に不足した知識で下半身関係に全く違和感が無いのはやはり仮想世界では痛みが伴わないからなのだろうかと判断がつかなかった。

 喉を引き攣らせてごくりと唾を飲む。ユウキが目覚めたことに安堵する素振りを見せながら、本来は投げナイフである鋸ナイフでキノコを微塵切りにして小鍋に放り込んでいるクゥリはきっとスープの類を作っているのだろうと漠然と把握しつつ、ユウキは視線を上下左右に迷わせる。

 そんなユウキの困惑を悟ったらしいクゥリは鋸ナイフをくるくると手元で遊ばせると苔の上に置き、小鍋を……いや、よくよく見ればただの兜に水を張っただけのものを焚火にかける。

 

「服ならあそこだ。もうすぐ乾く」

 

 鋸ナイフの先端でクゥリが指し示した先には、大樹の洞の内壁に張られた1本のワイヤーがあった。そこにはユウキの防具一式+下着が奇麗に干されている。

 

「あ、うん。そうだね。ボクの服だね。それで……どうして、ボクは裸なの?」

 

 至極当然なユウキの問いかけに、心底呆れたように……こんな簡単な事も理解できないのかと説明するのも億劫そうに、クゥリは鋸ナイフで兜鍋の中身を混ぜながらオレンジ色の固形物を鍋に放り込む。それは湯の中で溶けてキノコや野草と絡み合い、ややスパイシーな香りを醸し出す。

 

「アルヴヘイムには病気もある。食中毒から感染症、それに一般的に風邪と呼ばれるものまで多種多様だ。体は冷えていたけど寒冷状態ではないから生命の危険は無いだろうが、風邪を引く恐れはある。それに胸の傷を処置する必要もあった。流血止めの軟膏と止血包帯も使ったが、より直接的な処置……縫合も必要と判断した。縫合糸はアルヴヘイムで仕入れた安物だが、念には念を入れて熱消毒もしてある」

 

「えーと、そうだね。うん、ありがとう。でも、そういう話をしているんじゃなくて……ほ、ほら……ボク、裸だし……み、見たんだよ……ね?」

 

 ついに乙女の羞恥が勝り、クゥリのニオイがするコートで顔を半分隠しながら、ユウキは限りなく核心を突くべく問いかける。

 だが、クゥリは一切動じない。器代わりに寂れた金属製のマグカップにスープを注ぎ入れる。それはクゥリが長年愛用している一品であり、各種薬品の検知効果があるものだ。

 

「安心しろ。脱がす過程で意図しない接触はあったが、オマエが想像しているような恥知らずな行為はしていない」

 

「そ、想像してないよ!? ボク、そんなムッツリじゃないもん!」

 

「はいはい」

 

 スープを掻き混ぜるクゥリの生返事にユウキは悶絶し、ともかく『行為』どころかクゥリに一切の……それこそ女のプライドが微塵に砕けるくらいに一切の接触は無かったのだと把握して、安心感と失望を覚える。

 いや、それ以前に先程ユウキが立ち上がった時に、クゥリは正面から彼女の起伏が無いとはいえ乙女の裸体を拝んでいるはずだ。だが、顔を赤面させるどころかまともな反応1つない。

 ユウキが知る限りでもクゥリは絶滅危機種クラスで純情だ。幾らユウキが女性らしい実りある体形ではないとしても、裸体を見れば普段ならば赤面して七転八倒の慌てふためく姿を披露するところである。

 

(あ、そっか。スイッチが入ってるんだ)

 

 と、そこで今のクゥリは仕事モードのスイッチが入っているのだとユウキは察知する。色仕掛けに弱い傭兵と思われていたクゥリに女性の魅力を利用して罠を張り巡らした女プレイヤーは複数いるが、仕事モードのクゥリは裸体どころか目の前で『行為』があろうとも完全無視である。むしろ、ターゲットが裸体で交わっているならば、武装解除の上に油断しているとは大チャンスだと言わんばかりに強襲する傭兵である。

 

「ほら、食え。携帯食料を溶かした即席スープだし、≪料理≫が無いから味は補償しないが、食えるくらいには味は整えたつもりだ」

 

 マグカップを押し付けられ、湯気が立ち上るスープを受け取ったユウキはそっと口をつける。確かに言われた通り、およそ飲めない代物ではなかった。

 

「アルヴヘイムで仕入れた固形携帯食料だ。レーションみたいなもので、そのまま食べて良し。溶かしてスープにするも良し……らしいが、どうだ?」

 

「薄いカレースープって感じ。≪料理≫無しでこんなにまともな食事が作れるなんて聞いたことないよ」

 

「携帯食料が優れていただけだ。まともに作ったらゲロものに決まってるだろ」

 

 それでもクゥリは≪料理≫無しではまともに食べられるモノを作れる方だとユウキは思う。彼の作る食事は『産業廃棄物』でない分だけ人類の味覚の基準にあるのだ。

 

「美味しいか?」

 

「うん。クゥリも一緒に――」

 

 と、そこまで言いかけて、ユウキは夢のように温かった時間は『夢』ではなく『現実』なのだと……中途半端に覚醒していた意識に認識が追い付く。

 蘇るのはアルヴヘイムの日々、UNKNOWNとの死闘、アリーヤの死だった。ユウキはマグカップを落とすも、それをクゥリは地面に転がって零れるより先に宙でキャッチする。

 

「あ、ああ……いやぁああああああああああああああああ!」

 

 悲鳴を上げたユウキは錯乱して暴れようとする。だが、それよりも先にクゥリはユウキの右手をつかみ、少しだけ力を込めて彼女の意識を自分に向けさせる。

 

「落ち着け。オレが『ここ』にいる」

 

 震えるユウキの頭を腕で抱き、クゥリは自分の胸に彼女を引き寄せる。

 

「大丈夫。大丈夫だ。深呼吸しろ」

 

 喉から嗚咽が漏れ、ユウキはクゥリの体に腕を回すと決壊した涙を零し続ける。クゥリは何も言わずに、何も聞かずに、ユウキの頭を撫でて抱擁する。

 

「アリーヤ、死んじゃった! ボク……ボクが……『弱い』から……! ま、負けちゃったよ! ボク、勝てなかった! アスナを守るって決めたのに!『彼』を止められなかった!」

 

「そうか」

 

「ガイアスさんも死なせた! あんなに良い人だったのに! それに……それに……ボク、穢れていて……姉ちゃんや皆を呪って……嫌だ! もうヤダ! 戻りたくない! 誰もいない、あの暗い病室に帰りたくない!」

 

「そうか」

 

 脈絡のないユウキの叫びに、クゥリは淡々と『話は聞いている』と伝えるように返事をして、優しく頭を撫で続ける。決して強くはないが、ユウキに自分が傍にいると伝えるように抱きしめ続ける。

 

「話してみろ。吐き出したいんだろ? 聞いてるから。オマエの涙は……オレが受け止めるから」

 

 まるでトーストに浸み込む蜂蜜のように、クゥリの声はユウキに溶けていく。ユウキは小さく頷き、甘えるようにクゥリの胸に頬を擦り付けると、囁くような……今にも消えそうな声で、途切れ途切れになりながら、自分の物語を口にする。

 それは彼女の始まり。スリーピングナイツの結成……いや、それ以前の彼女を蝕んでいた病魔の吐露でもあった。

 双子の姉と生まれながらに免疫不全症候群であったこと。それが露呈しての差別。生きた証を求めてVRで結成した、病は違えども同じく神の不条理で余命僅かな者たちの集い、スリーピングナイツ。必死に生きた証を求めて活動するも、姉に始まり、次々と自分以外が亡くなっていた末路。独りだけ病室残されたユウキの、姉と仲間たちへの呪い。死の恐怖を乗り越えての神の間違いへの宣誓。茅場による契約の持ちかけ。社会的には死亡した扱いとなり、実際には世間では公表されていない延命と治療を受け、『人の持つ意思の力』を体現する駒としてDBOへの参加。

 アルヴヘイムの旅路。UNKNOWNとの遭遇。ガイアスとの旅と彼の最期。アスナとの出会い。UNKNOWNとの壮絶な殺し合いと敗北。自分の『弱さ』で死なせたアリーヤ。

 どれだけの時間を喋り続けたのか分からない。だが、クゥリは何も言わずにユウキを撫で続けて、相槌を打ち、縋るようにユウキが見上げればちゃんと聞いている……傍にいると告げるように微笑んだ。

 

「ある所に1人の女の子がいました」

 

 涙を指で拭い、僅かに落ち着きを取り戻したユウキはスープを注ぎ直したマグカップをクゥリに手渡しされる。

 

「彼女はきっと何処にでもいる普通の女の子でした。ですが、彼女の心はたくさん傷つけられて、大切な友人を殺した怪物への復讐に命を懸けていたました。その為にありとあらゆる『悪』を成した。復讐しか彼女の心を繋ぎ止める縁は無かったのです」

 

 焚火に新たな薪を投じながら、クゥリはスープが無くなった兜を処分する。あの兜は何処で調達したものかは知らないが、森に転がっていた誰かの遺品だろう。ボロボロの兜を泉の中に投げ入れた彼は数秒だけ黙祷を捧げた。

 

「だけど、女の子の傍にはいつしか新しい友達がいました。口うるさくて、何か喋れば自分を凹ませる正論ばかりを並べる……とても立派で、とても優しく、とても『人』らしい友達です。そんな友達は彼女の拠り所となり、そして復讐だけが生き甲斐となっていた彼女を変えていきました」

 

 それは誰の物語なのだろうか。ユウキは何処の誰とも分からぬ1人の少女の話を紡いでいくクゥリに魅入られ、空になったマグカップを置いて耳を澄ます。

 

「そして、友達はその命を使って女の子を守り抜きました。そうして彼女は気づいたのです。自分は悪党になってまで復讐をしたかったのではなかったのだと。ただ寂しかっただけなのだと。苦しかっただけなのだと。それを言い訳にして、本当の願いから目を背けていたのだと。ただ『優しい人』になりたかった……そうでありたかっただけなのだと」

 

 クゥリはシステムウインドウを開き、アイテムストレージから何かを取り出す。

 それは白い牙。ユウキが良く知る……彼女を命懸けで守ったアリーヤの牙だった。

 

「アリーヤはオマエを守って死んだ。後悔なんてしない。彼は『答え』を貫き通した。だから……悲しんで良い。苦しんで良い。でも、アリーヤが死んだのは自分の『弱さ』のせいだと思わないでくれ。アイツは好きなように生き、好きなように死んだのだから。理不尽に死んだわけじゃないんだから」

 

 ユウキに手渡されたのは、アリーヤの遺品だろう。ユウキはそれを握り締め、先程とは異なる嗚咽が喉にせり上がるのを感じた。

 

「あのまま野ざらしに出来なかったから、オマエの了承も無かったけど、あの場で埋葬した。これはその時のドロップアイテムだ。SAOではテイミングしたモンスターは撃破時に蘇生する為のアイテムを残すらしいが、DBOにそんな復活システムはない。だから、意味はないかもしれない。それでも、彼が生きた証にはなるはずだ」

 

 アリーヤは無駄死にではなかった。自分の為に死んでくれた。自分を守る為に死んだ。それが彼の望みだった。

 傲慢なのかもしれない。結局はユウキがUNKNOWNに敗北しなければ、アリーヤは死ぬことなどなかったのだから。

 だが、アリーヤは自分の最期を哀れんで欲しくなどないのだろう。誇り高い死だったとユウキに憶えていて欲しいはずなのだから。

 

「ユウキ、オレにはオマエの苦しみも孤独も分からない。分かるなんて軽々しく言うべきじゃない。だから、オレは『オレ』が知るオマエの限りを見て言わせてもらう。オマエは……とても『優しい人』だよ。穢れなんて最初から無い。オマエは怖かっただけなんだ。寂しかっただけなんだ」

 

「でも……でも、ボク――!」

 

 それでもユウキは呪ったのだ。自分を孤独にして、死への恐怖を叫んで消えた姉やスリーピングナイツの皆を呪ったのだ! そう叫ぼうとした彼女の唇は、そっと触れたクゥリの右人差し指で閉ざされる。

 

「『でも』じゃない。そもそもな、文句や愚痴の1つも零さずに生きていける人間がいるわけないだろ? オマエのはアレだ。自分より先に死んで、スリーピングナイツとやらの責任と使命を全部押し付けた皆様への『死んでたまるか』宣言だ」

 

「……何それ。語呂悪いよ」

 

 名残惜しそうに自分の唇から離れたクゥリの人差し指を見つめながら、ユウキは反抗心を示すように口を尖らせる。

 

「ネーミングは気にするな。絶望的センスなのはカーディナルもお墨付きだ」

 

 苦笑いしたクゥリに釣られてユウキも思わず笑ってしまう。確かにその通りだったからだ。姉やスリーピングナイツの死が、ユウキに神様の間違いを気づかせて、抗いの意思を抱かせて、それが回り回って茅場との取引に繋がって、こうして終わるはずだった命を長らえさせているのだから。

 そんなユウキに安心したように、同時に心底呆れたようにクゥリはお道化るように仰々しく嘆息した。

 

「もう1つ、オマエもいい加減に気づけよ。オマエがそんなに大好きだったお姉様と皆様なんだ。素晴らしい『人』だったに決まってるだろう? だったら、オマエを残して逝ってしまう事を悔やんだはずだ。独りだけにしてしまった自分たちの不甲斐なさをむしろ呪ったはずだ。オマエの恨み言を聞いたら返す言葉もないってむしろ自責するぞ」

 

 そうなのだろうか。ユウキは自分の胸に問いかける。だが、過去はどれだけ切開しても視点を変える以外の方法はない。死者が蘇らない限り、その胸中を知る術はない。

 だが、大好きだった姉はユウキが呪いを口にした程度で目くじら立てる程に器量が小さいとはどうしても思えなかった。姉ならば彼女の頬を抓って『そんな汚い言葉を使うような妹はお仕置きしないとね♪』と笑顔で怒りを表明して実行手段に移っているだろう。そして、いつものように泣いて謝ったユウキを許してくれるだろう。それがユウキの知る大好きな姉なのだから。 

 スリーピングナイツの皆にしてもそうだ。彼らは『またユウキがその場のノリに任せて変な事言い出したよ』とばかりに聞き流すだろう。

 そんな光景が……確かにユウキの『記憶』の中にある姉や皆がそう振る舞ってくれて、許してくれて、笑ってくれて……彼女の頬から熱が籠った涙は零れる。

 病室の孤独の暗闇は今も心を染め上げるに。ユウキはそこに閉じ込められている。だが、その暗闇の中に穢れなどなかった。

 真実は分からない。本当は姉も皆も最後は死の恐怖に囚われながら、残されたユウキに……今も生きているユウキに憎悪しているのかもしれない。彼女の呪詛を許していないのかもしれない。

 だが、それは意味のない詮索だと告げるようにクゥリはユウキの手を取って立ち上がらせる。

 

「終わらせよう、ユウキ。オマエが大好きだった人たちに弔いの言葉を捧げよう」

 

 それで良いのだろうか。

 

 ああ、良いのだろう。もう、この苦しみに『終わり』を告げて良いのだろう。

 

 ユウキは涙を拭わずに、クゥリの胸に跳び込みながら、闇の中で笑っている姉とスリーピングナイツの皆を思い浮かべて、ずっと言えなかった別れの言葉を紡ぐ。

 

 死者を弔う。それが残された生者の……『人』の役目なのだから。

 

 

 

 

 

「「祈りも呪いも無く、安らかに眠れ」」

 

 

 

 

 

 

 それは死人に安息をもたらす生者の送り火。ユウキはクゥリに続けて告げた弔いの意味を知る。

 手を振りながら、送り火と共に闇の中へと消えていく姉とスリーピングナイツの皆が見えた気がした。

 

「ずっと眠らせてあげられなかったんだね。皆を……ボクが寂しかったから、ずっと、あの暗闇に縛り付けていたんだね」

 

「さぁな。死者は祈らないし呪わない。祈りも呪いも生者の頃の現の残滓。故に死人を蝕む。だからこそ、狩人は祈りも呪いも無い安息の眠りの弔いを成す。それが狩りの掟だから。だけど、これはオレの考えに過ぎない。だから、オマエが思いたいように思えば良い。彼らがようやく眠りに付けたと信じるならば、それでオマエが救われるならば……それで良い」

 

 クゥリの死生観は普通とは違う。本質的に命の捉え方が違う。生死の価値観が違う。だが、それは決してそれ以外への無理解ではない。故にユウキがどう思おうと勝手だと言わんばかりに微笑でいる。

 

「クーは……卑怯だよ」

 

「傭兵に卑怯は褒め言葉だ」

 

「そういうところが本当に卑怯! 鬼畜! 外道!」

 

「いくら褒めても1コルだって支払わんぞ」

 

 だから、そういうところが……本当に大好き! 頬を赤く染めて唸るユウキに、クゥリは背を向けて乾いた彼女の服を手に取ると投げ渡す。着替えるのを見られるのは恥ずかしいとも思ったユウキであるが、思えばシステムウインドウで再装備すれば良いだけかと、すっかり乾いて……まるで青空の下で干されたように温もりに満ちた、だが彼女の暗闇を示すような濃い紫の防具を纏う。

 

「そういえば、それってクラウドアースの特殊部隊の服だろ。かなり改造してるみたいだが、上手くやっていけてるみたいだな」

 

「へぇ、さすがのクーも知ってるんだ。この腕章がカッコイイでしょ! グリムロックさん作成、ヨルコさんのデザイン改良の1品です!」

 

 軍服チックながらも遊びを忘れないデザインはユウキも気に入っている。左右非対称の袖、ロングスカートに入られた機動性を上げるスリット、投げナイフを収める太腿のナイフベルト、彼女の要望で十字架をあしらったブーツ。そして、胸にはクゥリがくれた不死鳥の金紐で作られたチェーングレイヴのエンブレムもあった。

 だが、今はそのチェーングレイヴのエンブレムは余りにも重荷だった。元よりユウキはボスの大義に心酔も共鳴もしていたわけではない。スリーピングナイツの生きた証、彼らの墓標に捧げる餞の為に【黒の剣士】を討たんとして参加した。 

 もう【黒の剣士】を倒したいとは思えない。ユウキの弔いは終わったのだ。UNKNOWNに敗れたことで打ち砕かれたと思ったスリーピングナイツの誇り……それは今もユウキの胸にある。最後の生き残りとして恥じることのなく、この生を自分の望む形で全うする。それがユウキの使命だ。

 

「ハァ。でも、これからどうしよう?【黒の剣士】には負けたし、チェーングレイヴに戻ろうにもボスを裏切ったわけだし。このままクラウドアースに在籍するのもなぁ」

 

「ボスねぇ。オマエの情報提供と不愉快極まりない遭遇情報のお陰で、そのボス様の特定はできたわけだが、アイツはオマエがどうしようと裏切られたと思わないぞ? そんな器の小さい男じゃないしな。そもそも『全ての死者をもう1度眠らせる』って言われてもな」

 

「ボスも直接的に死を与えるって意味じゃなくて、もっと別の……根本的な解決案を企んでるみたい。その為にDBO各所にあるコンソールルームを探してるんだ。アルヴヘイムにも必ずあるはずだよ」

 

「了解。とりあえず、今すぐ事が起きるわけじゃないなら保留だ。クラウドアースも利用するだけ利用しておけ。それで、オマエはこれからどうしたいんだ?」

 

 何がしたいのか、今のユウキにはぼんやりとしか浮かんでこない。だが、それは余りにも曖昧で、形を与える言葉が思いつかなかった。

 脳裏に焼き付くのは太陽と海。茅場との取引で生を繋ぎ、再び自分の足で立った砂浜。青空で輝く太陽に手を伸ばした日。あの時の生の実感を味わいたい。

 

「分からない。色々としたいことはあると思う。でも……」

 

「ゆっくり探せば良いさ。それが『答え』になるはずだ」

 

 だからだろう。ナグナの狩装束のコートをいつまでも抱いているユウキから奮闘の末に引き剥がして纏うクゥリの背中に問いかける。

 

「ねぇ、さっきの女の子の話。彼女は『優しい人』になれたんだよね。それで何を望んでたの?」

 

「……あー、そうだなぁ。まぁ、普通の女の子らしく『お嫁さんになりたい』って言ってたよ。今時だとちょっと珍しいよな。だけど……オレは素敵な願いだったと今でも思うよ。ただ幸せになりたいって気持ちで溢れていて……うん。オレは好きだな」

 

 普通だ。そして、自分にとっては何よりも高望みだろう。

 社会的に死亡した扱いのユウキはたとえ完全攻略の日を迎えても帰るべき場所は無い。茅場ならば準備してくれるかもしれないが、それもあり得るかどうかも不明な話だ。

 

「ボクもそれが良い! つまらないって嗤われるかもしれないけど、ボクも『お嫁さん』を目指す! 色々と寄り道するかもしれないけど、そうなりたい!」

 

 心に晴れやかさが生まれ、ユウキは今までにないくらいに清々しい気分で宣言する。彼女を縛り付けていた鎖は砕け散り、ようやく素直な気持ちになれたと……『スリーピングナイツの生き残り』だけではなく、『ただの女の子』として願うことができたのだと満たされる。

 唖然とした様子のクゥリだったが、少しだけ嬉しそうに微笑んで頷いた。それは記憶を必死に引き寄せて噛み締めているようだった。

 

「嗤わないさ。彼女の夢を継いでくれて、ありがとう」

 

 クゥリにこんな顔をさせるなんて、どんな女性だったのだろう。ユウキは嫉妬心ではなく、感謝の気持ちからクゥリの語る1人の女の子について知りたくなる。だが、そんな彼女の追及を察知したかのように、クゥリはコートを翻し、腰の贄姫の柄を撫でながら大樹の洞の壁にもたれかかった。

 

「現状の最優先目標を確認する。オマエはアスナを助けたい。その意思に変わりないな?」

 

 さすが傭兵。切り替えの速度が違う。タイミングを逸したユウキは小さく頷くと、クゥリは口元を左手で覆って思案し始める。

 

「分かった。オレも最大限に努力してその方向で動く。傭兵は依頼を成し遂げる。狩人は約束を守る。二言は無い」

 

 アスナの作戦がどうなったのかは分からないが、少なくともオベイロンを殺害する計画が失敗したのは間違いないだろう。ならば、まずはアルヴヘイムの世情を確認せねばならないが、作戦通りならば、アルヴヘイムの戦力は反オベイロン派に集約する動きを見せるはずだ。

 だが、ユウキは既に戦力として半減以下している。武器は暗月の銀糸を除いて全損である。完全消滅こそしていないが、折れて刃毀れしたスノウステインと真っ二つに割れた影縫。UNKNOWNとの戦いの中で獲得した≪絶影剣≫というユニークスキルを獲得したと言っても、そもそも使用する為の武器が貧弱ではどうしようもない。

 

「そうだな。コレやるよ。使えるかどうかは分からないが、無いよりマシなはずだ」

 

 お手上げだと項垂れるユウキに少し考える素振りを見せたクゥリが取り出したのは豪奢な片手剣だ。儀式剣という意味合いが強いだろうそれの名は伯爵の剣。どちらかと言えばレイピアに近しい外観であり、ユウキのSTRでも扱える軽量片手剣である。衝撃波を飛ばせる能力を備えており、レアリティとトータル性能の高さは必見だ。

 クーってやっぱりズレてる。市場に出せば高額となるユニークウェポンをあっさりと譲渡するなど正気の沙汰ではない。ユウキは何かお礼できるものはないかと探す。

 

「あの時みたいに貸してあげる。装備はできないだろうけど、お守りになるはずだから」

 

 ユウキは不死鳥の金紐に結ばれたチェーングレイヴのエンブレムのペンダントを外し、クゥリに差し出す。それは彼がくれた大切なプレゼントであり、ユウキにとっても宝物だ。彼の首には既に由来も知れない狼の牙の首飾りを付けている。スタミナ回復速度を大きく引き上げる強力な装飾品であり、あくまでアクセサリーの範疇を抜けきらないペンダントでは効果も見劣りするが、ユウキはせめて彼を加護するお守りとして渡したかった。

 だが、クゥリは静かに首を横に振る。ペンダントを差し出すユウキの指を折って握りしめさせると、そっと押し戻した。

 

「……クー?」

 

 どうして、そんな顔をするの? どうして、そんな寂しそうな……苦しそうな顔をするの? 困惑するユウキを置き去りにして、クゥリは後退る。まるで、必死に誘惑から遠ざかろうと足掻いているかのように。

 

「大丈夫。オレはまだ『1人』で……『独り』で……『1人』で……戦え、る。戦えるから……大丈夫、だ」

 

 後退るクゥリを追いかけようとして、ユウキは片膝をつく。押し寄せてきたのは激しい頭痛だ。それはまだ休息が必要だと言うように、彼女の意識を刈り取ろうとする。

 リミッター解除の負荷と『人の持つ意思の力』を使用した代償。それは決して安いものではなく、もはやアルヴヘイムでユウキに高度な戦闘は不可能になったと言わしめるように、彼女の体に重石となる。

 シャルルの森でリミッター解除した時も決して短くない時間の悪影響が残ったのだ。それがあの時以上の無茶をして何も無いはずがない。

 視界が歪む。意識が黒く塗り潰されていく。クゥリが駆け寄り、両膝をついた彼女の肩に触れる。

 何かが欠けている。ユウキは必死に思い出そうとする。

 何を忘れている? 記憶を探ろうと掘り返していけば、曖昧になっているのは、クゥリとの再会の時だった。

 アリーヤの死。雨の向こう側でクゥリは立っていた。ユウキは彼を迎え入れようと腕を広げる。

 クゥリは眠らない。眠れない。少しでも眠れば『自分』を見失いそうだと怖がっているから。

 だが、それ以上は思い出せない。違う。思い出したくないのだ。

 何か大切なモノを失ってしまった。そんな気がしてならないのだ。

 揺らぐ視界で映ったのはスープが注がれていたマグカップ。それを見て、ユウキは何を馬鹿な真似をしていたのだと奥歯を噛む。

 何のためにここにいる!? 何のためにアルヴヘイムに来た!? 何のために穢れに怯えていた!?

 

「クー……味覚……無くなって、たんだよね? 気づかなくて……ごめんね」

 

 意識が保てない。だが、ここで言わなければ、クゥリは行ってしまう。ようやく会えたのに、ようやく眠らせてあげられるのに、いつものように『1人』で……いいや、もっと冷たく深い闇の底で孤独に戦ってしまう。

 

「ちゃんと、話を……しよう? ボクだけ全部吐き出して救われるなんて……ズルい、よ。今度はボクが……聞いてあげる、から」

 

 祈りは届く。何処にいようとも祈っている。キミの祈りはボクが守る。そう言い張りたいのに、今のユウキには感じられなかった。クゥリの祈りが分からなかった。

 涙で滲む視界でクゥリは少しだけ口を開こうとして、だが『いつものように』微笑むだけだった。

 

「オレは誰も救わない。救えない。オマエは自分で自分を救っただけだ。『救いはそれを求める人の心の中にいつもある』」

 

 いつものように……何処か寂しそうに微笑むだけだった。

 

 

 

 

 

『忘れて良いんだ』

 

 

 

 

 

 

 意識が再び暗闇に呑まれる直前、彼女の脳髄に反響したのは、いつとも知れないクゥリの優しい声だった。

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「よう」

 

「おう」

 

 ユウキを避難させていた大樹の洞への侵入者をオレは迎え入れる。

 周囲は灰色の狼を召喚して警戒態勢を敷いていたのだが、それが仇になっただろうか。どうでも良い。どちらにしても、ユウキをこのまま置いていくのは忍びなかったし、目覚めたら目覚めたで面倒なことになる。

 だから、オレは鉄兜を脱ぎ捨てその素顔を晒したクラインを……チェーングレイヴのリーダーを歓迎する。

 

「ウチの馬鹿娘は死んじゃいなかったみたいだな」

 

 苔のベッドの上で意識を失って寝息を立てるユウキに、クラインは心底安心したように息を吐いた。オレはそんな姿に年離れた妹を気にする兄のような姿を見て、実際にそういう関係に近しいのかもしれないと内心で苦笑する。

 

「アリーヤは死んだ。埋葬はしてある」

 

「そうかよ。あとで墓参りして行かねぇとな。場所を教えてくれ」

 

 特別な目印も無いが、盛り上がった土さえあれば特定できるだろう。この場所を見つけ出してユウキを避難させたルートを思い浮かべ、オレは口頭で大よその場所を告げる。クラインは焚火の傍で胡坐を掻き、頬杖をついて猛る炎を見つめた。

 

「何処まで知ってる?」

 

「色々とな。ユウキと『アイツ』が殺し合ったことくらいは知っている」

 

 正直言って、いつかはこうなる時が来るとは思っていた。ユウキは最初から【黒の剣士】を倒すと豪語していたからな。あとはタイミング次第だった。だが、ユウキの話の限りではもはや意味不明の超バトルだったようである。『人の持つ意思の力』は……まぁ、100層のラスボス戦で見たことあったしな。そこまで驚くことでもないが、2人揃ってシステムを支配して殺し合いとか、相変わらず度肝を抜いてくれる2人だよ。悪い意味で似てる。

 

「俺も殺り合った」

 

「へぇ、それで結果は?」

 

「俺の勝ちだ。水入りが合って殺しはしなかったが、ユウキが死んでたならお礼参り確定だったぜ。黒馬鹿の野郎、命拾いしたな」

 

 珍しく怒りを示すクラインの様子を見るに、どうやら『アイツ』のコンディションはオレの想像を上回る程に最悪なようだ。ユウキも、きっとオレを気遣ってか、それとなくしか『アイツ』の状態について語らなかったが、それでも考え得る中でも最悪だったのは間違いないだろう。

 クラインが勝ったこと自体は大して驚くべきことでもない。確かに素の実力ならば『アイツ』の方が大きく上だろうが、話を整理する限りではユウキとの連戦だ。成す術なくユウキが敗れたとは考え辛いし、相応の消耗があったとみるべきだろう。そして、クラインもまた並々ならぬ実力者であり、チェーングレイヴという猛者揃い武闘派犯罪ギルドのリーダーだ。当然ながら、奥の手の1つや2つは隠し持っているに違いないし、彼は侮りがたい戦士でもあると評価している。

 

「それで今の『アイツ』は?」

 

「知らねぇな。だが、リーファって女の子とレコンっていう馬鹿野郎と一緒のはずだ。レコンは反オベイロン派の暁の翅に属しているし、拠点の何処かに匿うだろうよ。襲撃するなら付き合うぜ。もう数発はぶん殴っても足りないくらいだからな」

 

 レコンか。オレのミスだな。あの時、上辺だけでも依頼を受けてレコンの行動と思考を限定化しておくべきだった。そうすれば、彼がクラウドアースを巻き込んでアルヴヘイムに乗り込んでくるなんて無謀を起こすことは無かっただろう。

 だが、リーファちゃんが無事なのは安心したな。少なくともサクヤと同じように……レギオンプログラムに侵蝕されている様子はなかった。とても残念だ。彼女が壊れていく様を見ながら、その絶望しきった眼に刃を突き立てる。

 

「…………」

 

 耐えろ。落ち着け。リーファちゃんは殺さない。殺してはいけない。殺すべきではない。震える指で拳を握り、殺意を抑え込む。

 飢えと渇きが酷い。クラインの背中を見ていたら、今からでも殺し合いを始めたい衝動が大きくなる。背中から突き刺し、臓物に触れ、脈動を感じ、その口から溢れる血を撫で取りたくなる。

 ユウキの寝顔を見ているだけで、その細い首を絞め、じわじわと、ゆっくりと、その呼吸を独り占めにして、肉を潰し、骨を擦り、見開く眼に死を映し込みたくなる。その可憐な悲鳴に浴しながら、心臓を抉り出して彼女の極上の血の悦びを味わいたいと望んでいる。

 

「どうした?」

 

「……何でもない」

 

 勘の良いヤツだ。オレの不穏を感じ取ったのか、クラインが顔半分だけ振り返る。その右手は腰のカタナの柄に触れていた。さすがは犯罪ギルドのトップ。殺意には敏感というわけか。

 狩人たる者、ニオイと殺意を悟られてるのは愚の骨頂。狩りを始めるその時まで静寂の中にあるものだ。一呼吸を入れて、オレはトリスタンの遺品の耳カフスを指で撫でる。

 呼吸する度に喉に針が流れ込むようだった。喉を裂くそれは肺で膨張して内側から突き刺さる。血管は溶鉄のように熱い。皮膚は凍土のように冷える。視界にノイズが走り、モノクロになっては彩色される。耳鳴りは酷く、環境音には不定期に濁りが混ざる。頭痛は止まず、脳髄に幾つものボルトが今も捻じ込まれているようで、眼球の裏は爛れているように熱い。

 大丈夫。オレはまだ……大丈夫。飢えと渇きにも、後遺症も……耐えられる。戦える。

 

「……オレもオマエの仲間を斬った。だったら殺し合うのが道理じゃないのか?」

 

 クラインは仲間意識が特に強い人物だ。だからこそ、ユウキを斬った『アイツ』に少なからずの怒りを燃やすのも分かる。アスナを取り戻すために暴走した『アイツ』を友人として何とかしたいという気持ちもあったはずだ。チェーングレイヴの目的を考えるならば、そもそも死者を奪還しようとする『アイツ』を否定するという意思もあっただろう。

 だが、クラインの表情は簡単に割り切れるといったものではない。だが、それでも彼には成すと決めたことは成すという『覚悟』があるように思えた。ならば、オレはとやかく言う気はないし、結果的に『アイツ』が生きているならば、それはそれで喜ばしい事なのだろう。

 だって、オレは『アイツ』だって殺したくて殺したくて堪らないのだから。今こうしてクラインの復讐心を焚きつけようとしているのも、抑えきれない本能の顎の囁きなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。

 

「99層を忘れてないさ。オメェは俺の仲間を斬った。1人残らずな。隠さず言えば、今だってオメェに怒りと憎しみを抑えきれない時もある。それでもな、オメェが斬らなかったら皆死んでいたんだ。オメェと『アイツ』以外の全員が死んでいた。俺も含めて誰も生き残っていなかった。だから、99層のことでオメェに復讐するってことは、テメェの命も守れなかったくせに無様に生き延びた俺の否定なんだよ。だから……あの馬鹿の気持ちは分かるんだ。オメェを見ていると情けなくなるんだよ。『力』が足りなかった自分が憎たらしくて堪らなくなる」

 

 それはあの宿で彼が零した通り返答の繰り返しだった。どれだけ油を注ごうとしても、クラインにとってあの99層は……オレの仲間殺しは……己の力不足を呪う以上も以下もないのだろう。

 クラインは左手で拳を作っては開き、拳を作っては開く。それは99層を思い出してか、それとも『アイツ』との殺し合いを振り返ってか。どちらにしても彼はオレに振り向くことなく、このままユウキが目覚めるまで『チェーングレイヴのリーダー』としてではなく『兄貴分』として傍にいると背中で伝えていた。

 本当にカッコイイ野郎だ。惚れ惚れするよ、クライン。殺したいくらいにな。

 

「ユウキを頼む」

 

「おう、任せとけ。オメェの傍にいたら死んじまうからな。この馬鹿娘の手綱、しっかり握っといてやるよ」

 

 クラインは知っている。オレの傍にいる人たちは次々と死んだいったことを……深入りした者たちはオレが振り撒く死に呑まれた事を。

 だから、この距離感で構わない。彼は立ち入らない。オレに近寄らない。そして、ユウキに死んでほしくないから……この場で彼女を預けて1人で出発する最低なオレに文句だって言わない。

 まだ小降りの雨が続く森の外はあれだけの騒動があったのが嘘のように静かだった。

 

「無理すんなよ、クゥリ。帰ってきたオメェがボロボロだと……ユウキが悲しむ」

 

 出発しようとするオレに、やはり振り返ることなく、だが確かに聞こえる声で、クラインは呟いた。

 オマエは本当に……優し過ぎる。そんなオマエだからこそ、『蘇った死者をもう1度眠らせる』という決意がどれだけ重たいものなのか、少しだけ理解できた。

 焚火の光が漏れる大樹の洞から離れ、オレは次なる目的地を目指す前にすべき事を思い浮かべた。まぁ、とりあえずは1発だけでもぶん殴っておくとしよう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 場所は大司教領。大司教の城がそびえる城下町は宗教都市ほどではないが、ティターニア教の色が濃い宗教的町並みを成し、同時に熟成された文化の開花を示すように自由な芸術性に富んでいる。

 普段ならば華やかな夜の灯が踊り、吟遊詩人がティターニアを賛美し、聖職者が祈りを捧げ、旅人たちがお布施で酒を買うだろう。夜も更けきらぬ頃、雨は止んで暗雲は緩やかに割れ始め、星の穏やかな光が見え隠れする下で、通りを闊歩する者はいない。

 ティターニアによるオベイロンの所業の告白。深淵に与するというあってはならない大罪。それはアルヴヘイム全土に激震を与え、この城下町にもまた戒厳令が敷かれ、夜間の市場は閉鎖され、警備の見回りだけが緊張の面持ちで闇に怯える。

 アルヴヘイム各所にある反オベイロン派……正確に言えばギーリッシュ派閥でも日和見だった者たち。それは昨日までならば裏切者であるが、今はいずれの勢力も『我こそ反オベイロン派』と名乗らんと競い合っている

 今までのオベイロン派と反オベイロン派の戦争は生存戦争ではなかった。言うなれば王家と革命勢力の争いである。当然ながら、圧倒的優勢であり、強大な力を持つオベイロン陣営の方がアルヴヘイム1000年以上の安寧が示す通り、平和と富が約束される。だが、それも今回の1件で脆くも崩れた。それは皮肉にも、ここ最近になって活発化した深淵の魔物たち、そして獣狩りの夜によるレギオンの大量発生が深淵の拡大という意識を人々に植え付けていた。

 

「これからどうなるんでしょうね」

 

 城下町にある反オベイロン派の屋敷。商会の富豪の館であり、レコンたちが宗教都市から大司教領までの移動に利用した業者の手配にも携わっていた。本来はロズウィックのパイプなのであるが、彼は『戦死』した扱いになっており、名のある騎士でもあったヴァンハイトが交渉することによってひとまずの宿として扱わせてもらうことになった。

 リーファは応接室の焦げ茶色の革が張られたソファに腰かけ、眠気を誘うハーブティの香りを嗅ぎながら、だが今は飲食する気にもなれなかった。

 

「さぁ? 私は政治には疎いけど、アスナさんも簡単に一致団結するとは思ってなかったはずよ。これから交渉と戦後の利益配分を睨んだ取引の積み重ねじゃないかしら。この期に及んでオベイロン派に属するのも戦略としては有りだとは思うけど、それを表明する命知らずがどれだけいるかしら? せいぜいが中立を気取って反オベイロン派に参加しない程度じゃないかしらね」

 

 雨が止んだ外を眺めることもなく、窓辺の壁にもたれかかって腕を組んでいるのは、太陽の狩猟団の専属傭兵にしてランク3のシノンだ。クールビューティの女傭兵は、特に興味も無さそうに意見を述べる。

 中立を気取る。それは必死に3大ギルドの間でサクヤが交渉と話術を駆使していずれにも旗色を示さなかったフェアリーダンスを揶揄されたような気がして、リーファは紅茶の水面に沈んだ視線を投げ入れる。

 

「……失言だったわね。別にあなた達のことを批判する気は無いわ。でも、本当の中立は力ある者にしか許されない。傭兵業をやっていると嫌でも思い知るのよ。世界は色分けされてできているんだって理解してしまうの」

 

 既にリーファがフェアリーダンスのメンバー知る以上、軽々しい発言だったと自責するようにシノンは視線を下げなら謝罪する。だが、リーファはシノンに無理して笑いかけた。

 

「気にしてません。サクヤさんもいつも中立を保てる限界が近づいてるって苦しんでましたから」

 

 シノン達と合流したのは必然だ。虚ろとなったUNKNOWNを匿うにしても普通の宿に潜り込むわけにもいかず、何とか転送のショックから立ち直ったレコンの案内でこの館の戸を叩けば、レコンと行動を共にしていたという暁の翅に属するシノン達が待ち構えていたからだ。

 既に早馬を走らせ、宗教都市に滞在するシリカに文を運ばせている。アルヴヘイムの全土に放映されたティターニアによるアルヴヘイム史上最大のスキャンダル。シノンも当然のように認知されている事だろう。それは主要都市やそれなりの規模の町に等しく生中継されていた。宗教都市が例外であるはずもない。シリカは此度の事態を……UNKNOWNの状態を知れば、どんな手段を使ってでも駆けつけるだろう。

 

(シリカにどんな顔すれば良いんだろう?)

 

 シリカやユージーンは自分を思って閉じ込めた。だが、リーファは脱走した挙句にアスナを救うことはおろか、UNKNOWNと合流したのに……その心を守ってあげることができなかった。

 あたしは馬鹿だ。お兄ちゃんがどんな人なのか知っていはずなのに。涙をじわりと浮かべたリーファは自らの軽はずみな判断を悔やむ。アルフ達の囮になるのが最善だとあの場では思っていた。だが、兄がたとえリーファを『妹』と認識していなかったとしても、自分の為に犠牲になって飛び出す女の子の背中を平然と見送れるはずがない。

 膝を抱えて丸くなるリーファに、シノンは歩み寄って肩に触れようとして、だが躊躇いと共にその手を引っ込める。彼女もまたUNKNOWNを追いかけ、アスナを助ける為に約束の塔を目指していた。彼女もまた何も出来ないままに撤退し、挙句に心身共に傷ついたUNKNOWNを迎える役目を負ったのだ。その気持ちは推し量れるものではない。

 

「それで、レコンの様子はどうなの?」

 

 話題を変えようにも暗い話題以外に残っていない。そう暗に証明するように、シノンはリーファの向かいのソファに腰かけると自分の紅茶を注ぎながら尋ねる。

 

「今は眠ってます。レコンも……大変だったみたいだから」

 

 現在、ヴァンハイトは勝手に裾を広げてティターニア教団との接触を始めた富豪を諫めに交渉の場に乗り込んでいる。元女王騎士団にして名の知れた老騎士だったヴァンハイトならば知名度も十分であり、またパイプも多い。レコンは同行を申し出ようとしたが、リーファが今は休むようにと命令して部屋に閉じ込めてある。先ほど様子を見に行ったが、彼も精神は限界だったのだろう。今は溺れるように眠りについている。

 眠りにつくまでの間、リーファはレコンからその旅路を聞かされた。彼女に背負わせたくないと口を紡いでいた彼を一睨みして震え上がらせて聞き出した。

 総評すれば、レコンの持ち味である爆発力が歪んだ形で発露してしまった結果と言えるだろう。サクヤも吃驚のクラウドアースを巻き込む交渉からアルヴヘイムへの突入、そして暁の翅に属してからの『レコン』とは思えぬ所業の数々。彼の心は多くの死と殺人の罪で狂って歪み、そしてロズウィックという仲間の殺害にまで及んでしまった。

 仲間殺しは禁忌だ。それはリーファも重々承知している。ロズウィックの件が白日の下に晒されれば、レコンは断罪の罵声を浴びせられるだけではなく、罪人として処断されてしまうだろう。

 これが現実世界であるならば、リーファはレコンに自首を勧めてその罪を償うようにと促したはずだ。だが、ここは仮想世界であり、アルヴヘイムであり、そして……どうしようもないくらいに狂った殺し合いの世界なのだ。

 いや、世界は最初から狂っていたのだろう。茅場昌彦や後継者を生み落とすほどに……狂気に満ち溢れていたのだろう。リーファは……桐ヶ谷直葉はそれに気づかないままに平穏の中で生きていただけなのだ。

 リーファの口からロズウィックという男の末路を告げることは出来ない。それはレコンが成すべきことであり、彼が告白だろうと沈黙だろうとリーファは見捨てないと決めている。

 贖罪の方法は人それぞれだ。だが、ロズウィックの仇を討たんとする者が現れた時、リーファは自分がどんな反応を取るのか予想できなかった。

 

「あなたもそろそろ寝たら? 警備は万全ってわけじゃないけど、オベイロンが今日明日に大軍を差し向けるとは思えない。少なくとも今夜は安全のはずよ」

 

 豪商のスタートダッシュのせいで、夕暮れの頃にはひっきりなしに下級貴族が館に出入りして反オベイロン派への参加を要請してきた。特にティターニア教団の信徒は、オベイロン王の大罪を暴き、平和を愛する姿に心打たれている。こういう時に現代よりも宗教が強い古き時代を写し取ったようなアルヴヘイムは、あくまで現代人のリーファにはその行動理論が読み切れなかった。

 そうした出入りのせいで周囲にはすっかり反オベイロン派の拠点と『噂』されてしまっている。ある種の完全包囲状態である。確かに見方を変えれば万全警備で安全と呼べなくもないかもしれないとリーファは苦笑した。

 

「もうちょっと起きてます。なんか眠れなくて」

 

「……UNKNOWNの事なら、私に任せても良いのよ?」

 

 更ける夜に眠りを拒絶するリーファに、シノンは躊躇いながらも最も触れまいとしていた人物を口にする。

 自失して譫言を繰り返し、虚ろとなったUNKNOWNはリーファの目から見ても廃人だった。シノンは何とか再起させようと話しかけ、食事を運び、寝かしつけようとしていたが、ベッドに腰かけて茫然と宙を見つめたまま、まるで魂が失われた人形のように動くことはなかった。

 このままではいけない。それは分かっている。だが、リーファにもシノンにも彼の魂を呼び戻す方法が無かった。

 

「それでも、あたしは待ってます。必ず立ち上がってくれるはずだから」

 

 あたしの大好きなお兄ちゃんは……あたし以上に諦めが悪いはずだから。リーファは涙を隠すように抱えた膝に顔を押し付けた。そんなリーファに今度こそシノンは優しく手を差し伸べて、冷たい義手ではなく、温かな体温が宿った右手でその頭を撫でた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ここは何処だ?

 ただ暗闇の中で滴りが聞こえる。

 それは真っ赤な血の滴り。数多の屍から零れる死血。

 走っても走っても見える風景は地獄絵図。憎悪と怨嗟に塗れた骸たち。彼らに墓標の如く突き刺さるのは2本の剣。怒り狂った竜神の剣と泣き叫ぶ機械仕掛けの剣。

 逃げるように駆ける足はもつれて転べば血溜まりで転び、呻く屍たちに体を掴まれる。それは四肢を、頭部を、胴を、臓物を裂かんとするように這い回り、『彼』の悲鳴を塗り潰す。

 

 殺した。

 

 俺が殺した。

 

 殺した。

 

 邪魔だから殺した。

 

 殺した。

 

 この願いの為に殺した。

 

 後悔しない。どれだけの犠牲を払っても構わない。たとえ悪になってもキミを助け出す。そう誓ったはずなのに、それは上辺だけの虚飾に過ぎなくて、本当は罪を背負う『覚悟』なんて出来ていなかった。

 もっと早くに気づくべきだった。最初から悪を成してもキミを救うと『覚悟』していたならば、クラインと同じようになりふり構わなかったはずだ。彼は犯罪ギルドのまとめ役という立場になってでも、成し遂げんする『答え』があったのだから。

 だが、それに比べて俺はどうだ? 請われて【聖域の英雄】となり、貧民のヒーローとなって欺瞞の善意を満たした。

 仮面は嘘と偽りの象徴。ならば『彼』は何を必死に隠そうとしていたのか。もはや仮面は血肉と同化して、何が嘘で何か本当だったのか分からない。この仮面を剥いだとしても、そこには『名無し』しかいない。もう彼は『彼』が分からない。

 

「……入るわよ」

 

 誰かが鍵を開けて入室する。『彼』は顔を動かすこともなく、濁った感情で塗り潰された眼でシノンを捉える。

 

「左目は……まだ再生してないみたいね。欠損状態だけどトカゲ試薬は打ったし、呪いじゃない。朝までには修復も終わるわ」

 

 外された仮面は部屋の隅に置かれ、『彼』の顔を覆うのはレコンが行った止血包帯だ。それは左目を中心にして巻かれていた。

 

「雨……止んだみたいね」

 

 シノンは窓を開けて夜風を吹き込ませようとするが、カーテンは揺れることなく、割れていく薄雲の隙間より届く星の光だけが差し込んだ。

 反応を返さない『名無し』にシノンはごくりと生唾を飲み、盆にのせていた皿をベッドの脇のテーブルに置く。皿に盛られているのはオムレツであり、出来立てを示すように湯気が上っていた。

 

「リーファからよ。気が向いたら食べて」

 

 他に何か喋ろうと口を開くシノンだったが、どう声をかけたら良いのか探し出せなかったように、それが心底悔しいように、右手で義手を掴んで軋ませる。

 

「私も、リーファも、きっとシリカも……見捨てないから。あなたなら、また立ち上がってくれるって……信じてるから」

 

 涙を滲ませながら、虚ろとなった『名無し』に涙を見せたくないようにシノンは足早に退室する。薄い暗雲からは月光こそ届かずとも暗闇ではなく、窓から差し込む薄明かりに照らされるオムレツに、何故か惹き付けられるように『名無し』は顔を向けた。

 それは思い出。嗅覚を刺激するのは、仮想世界でありながら、何よりも大切な家族との記憶。

 

 

『お兄ちゃん、ハッピーバースデー!』

 

 

 それは仲が良かった頃の、わだかまりが無かった頃の妹との時間。初めての手料理を披露してくれて、幼いながらに料理の天才だと絶賛して妹の頭を撫でた。兄馬鹿だったのだろう。だが、可愛くてしょうがなくて、自分の為に頑張って料理を作ってくれたことが嬉しくて、どんなプレゼントよりも価値があるように思えた。

 香りに誘われて立ち上がった『名無し』は盆に添えられた銀のスプーンを手に取って、オムレツに切れ込みをいれると口に運ぶ。ふわふわの卵と絡み合うのは胡椒が利いた微塵切りにされた鶏肉の類だろうか。ホウレンソウのような食感に近しいが、これはキノコだろう。粒々として舌を刺激するのは果実だろうか。だが、料理してくれたリーファの必死さが滲んでいた。

 

「……美味しい」

 

 もう一口。もう一口だけ。過去への郷愁……家族への恋しさが疼くように、『名無し』はオムレツを頬張って震える。

 会いたい。妹に会いたい。そんな気持ちが抱けるのも『生きている』からこそなのだろう。

 だからこそ、自分の罪を知る。殺した人々の『命』の重みに潰れそうになる。

 アインクラッドでも殺人に手を染めた。だが、それは犯罪ギルドのメンバーを倒す為だった。誰かを守る為の戦いだった。その責任にも押し潰されそうだったが、それでも、自分が剣を振るって斬った分だけ守れた人がいるならば、自分を赦しても良いのかもしれないと飲み下そうとした。無論、それが簡単に出来ていたわけではない。あの鉄の城が終わった後も、繰り返し夢を見る程に……殺した人たちの死に顔が網膜にこびりついているように、忘れるなと呪っているように……消えなかった。

 だが、今回は決定的に違う。あの日の力不足……75層でヒースクリフの正体を茅場昌彦と看過し、デスゲーム終了をかけた戦いに敗れた時……アスナに庇われて生き延びた無力な自分……それを覆そうと『力』を欲した末路だ。アスナを救おうとする自分の邪魔をする『悪役』を斬り払う痛快感もあった。流される血の重みから目を背け、『力』に酔った。

 ユウキには分かっていたのだろう。彼女は戦う前に、もしも自分が来たならば通してしまうかもしれなかったと告白していた。『名無し』がたとえ欺瞞であろうとも『英雄』であり続けようとするならば、アスナを助けるヒーローであるならば、自分の想いを呑み込んで通してくれたのかもしれない。

 だが、『名無し』は最後まで彼女の言葉に耳を貸さずに斬った。親友でありたいと望んだクゥリを……彼のことをきっと大好きなはずの女の子を……殺そうとした。いや、怒りと憎しみに任せて……まるで罪を赦すような彼女の慈悲が恐ろしくて、殺すつもりで斬った。アリーヤも殺した。逃げる黒狼を……戦う意図がないのに、何度も斬りつけた。

 ガイアスとの旅。3人と1匹の冒険。決して楽なものではなかった。ユウキとも犬猿の仲のような最悪な空気で始まり、だが、互いに確かに歩み寄り、理解しようとして、最後にはユウキは敬意と友好を示した。たとえ戦うとしても、それは尋常ならざる殺し合いなどではなく、剣士の決闘を望んでいた。

 

 

 

『人殺し』

 

 

 

 脳裏に映り込んだのは軽蔑の眼差しを向けるアスナの拒絶。血塗れの手で、英雄の騎士が姫を迎えるように手を差し伸ばしても振り払われる。死血で染め上げられた剣鬼は愛した男ではないと否定する。

 

「あぁ……うぁああ……あぁあああああああああ!」

 

 スプーンを落とし、両手で顔を覆い、『名無し』は手負いの野獣のように呻き、暴れ、そして無様にベッドに足を取られて倒れた。

 後頭部に触れたのは床の絨毯が敷かれた固い床ではなく、まるで包み込むような布団の柔らかさ。それが忌々しくて、『名無し』はぼんやりといかなる意味があるかも分からぬ、薔薇と十字架の文様が描かれた天井を見つめる。

 どうして、茅場昌彦はあの時、あの戦いで、自分にトドメを刺さなかったのだろうか。アスナの横槍で興が削がれたから? 戦意を失った自分に価値が無いと判断したから? 分からない。分かるとするならば、『名無し』はあの日の無力を自己憎悪として再び剣を握り、復讐の為に鉄の城を駆け抜けた事だけだ。

 

「……どうして、殺してくれなかったんだ?」

 

 こんな重荷、耐えきれるはずがない。『彼』は自分に銃口を向けた……涙を零しながら、どれだけ間違えようとも自分を友人だと呼んでくれた、それでも撃たんとする『覚悟』を示そうとしたクラインを思い返す。

 ああ、最低だ。クラインに罪の結末を押し付けることを望んでしまった自分が恥ずかしくて、愚かしくて、憎たらしかった。この期に及んでまで自分の『弱さ』が招いた罪の決着を他人に……アインクラッドを生き抜いた戦友に押し付けようとしている自分を殺したい程に憎悪した。

 死のう。せめて……せめて、シリカやリーファを……俺の愚かな願いに巻き込んだ人たちをアルヴヘイムから解放して……死のう。そう願っても、今の自分にそれを成すことができるはずもないと無力が嘲う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お望みならば、殺してやろうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから……それは幻聴なのだと思った。

 開かれた窓から吹き込んだのは、嵐の終わりを告げるような清涼なる夜風。

 窓縁に腰かけるのは揺れる青の炎のような文様が施されながらも白を基調とした巡礼服。

 夜の静寂を映し込んだような純白の髪は1本の三つ編みで結われ、眼帯に覆われていない右目は……初めて会った時に魅入られたのと同じ、血のような赤色が滲んだ黒の瞳だった。

 

「こんばんは。今は何て呼べば良い? オレ的にはまだオマエの仮面をぶち割ってないわけでして、仮面オフの姿を見せられても困る訳で、この際だから顔面半分は包帯に覆われてるからセーフと判断するとして……何て呼べば良い?」

 

 いつものように……許されないと思いながらも懐かしさを覚えていたアインクラッドの戦いの日々は今も続いていたかのように、白の傭兵は話しかける。

 

「まぁ、どうでも良いか。それよりも元気じゃなさそうで安心した。あ、これって食べかけみたいだけど、もうご馳走様か? だったら貰うぞ。腹減って死にそうなんだ」

 

 窓縁から跳んで着地したクゥリは落ちたスプーンを拾い上げる。茫然とする『名無し』の前でスプーンを軽く指で擦ると、半分まで減っていたオムレツに突き刺して口に運んだ。

 

「うむ、美味い。オマエの食生活のエンゲル指数を心配するくらいに美味い。これは女の子の手料理と見た! オレの名推理、回答はいかに!?」

 

「……えーと、うん、当たり……かな?」

 

 リーファが作ったものらしいから。『名無し』が肯定すると、クゥリは無言の両腕ガッツポーズを示す。

 椅子を引き寄せて、まるで『名無し』を無視して食に没頭するようにスプーンでオムレツを掬っては口に運び続けるクゥリは頬を膨らませ、ソースで口元を汚す。

 

「先に言っておくけど、これは夢だから」

 

「は?」

 

「夢。オマエの脳内イメージ。ここはドリームワールド。オレがアルヴヘイムにいるわけないじゃん。その設定でよろしく」

 

 リスのように頬を膨らませ、水差しからコップに注ぐことなく冷水を喉に流し込んだクゥリに指差され、半ば反射的に『名無し』は頷いてしまう。

 食事を終えたクゥリは改めて『名無し』に向き直る。まるで烏の羽が風で宙を舞ったかのようにふわりと椅子から立ち上がり、ベッドで上半身を起こしてはいるが、立つことも動くことも出来ずにいる『名無し』に歩み寄る。

 先程までのやり取りが嘘のように、クゥリの右目は冷たく無機質な……蜘蛛のような殺意に浸されている。『名無し』が『力』を見出した殺意を宿している。

 殺されるのか。キミに殺されるならば……それも悪くないかもしれない。諦観と共に死の刃を受け入れようとする『名無し』に、クゥリはそれこそ呆れかえったように溜め息をついた。

 

「……ハァ。もう良いや。そのイケメンフェイスが整形不可避なくらいの渾身右ストレートをぶち込んでやろうかと思ったけど、どうでも良くなった。思えば喧嘩を吹っ掛けたのはユウキの方だし。アイツの自業自得だし。殺し合いしたならどっちが死んでもおかしくなかったわけだし」

 

 背中を向けて尻尾のように三つ編みを振りながら、クゥリは窓辺に立つ。まだ晴れぬ夜空、薄くなった黒雲を眺める。

 

「良し。ちょっと食後の運動するから付き合え」

 

 クゥリは親指で外を示し、『名無し』を誘う。

 この感じ……懐かしい。思わず『名無し』の口元は綻ばせる。アインクラッドでもそうだった。共に食事を取っては必要も無いのに駆け出した。何かを求めるでもなく走り出した。それは決まって『名無し』が思い悩み、苦しみ、俯いている時だった。

 

「これは夢だ。懐かしい思い出に付き合えよ」

 

 クゥリは笑いかけて駆け寄ると、立ち上がれずにいる『名無し』の腕をつかんで引っ張った。

 だが、そこで『名無し』は思い出す。自分の部屋が館の何処に位置するのか、ぼんやりと把握し、慌てて首を横に振る。

 

「待ってくれ! ここ! 確か! 2階のはず――」

 

「仮想世界ならNo problem! 夢なら無問題! 現実でも跳び降りても死なないって!」

 

 そういう問題じゃない! 気構えの問題だ!『名無し』を引き摺りながら窓から大ジャンプを決めたクゥリと共に、彼はたっぷり10秒以上の滞空時間の末に館の庭に着地する。

 

「なんだよ。ちゃんと着地できるじゃないか。オレの華麗なるプランとしてはだな、地面と顔面キスしたオマエの後頭部に足をのっけてサムスアップを撮影予定だったのに」

 

「相変わらず酷いな! キミって俺だけには容赦なさ過ぎなんだよ!」

 

「安心しろ。オレは誰だろうと容赦しない。オマエの場合はちょっぴり殺意を上乗せしているだけだ」

 

 全然安心できない! むしろ怖い! アインクラッドの時とは違う、男性とも女性とも思えない天使のような中性美の容貌で、右手の親指を立ててグッドサインを出したかと思えば、それをそのまま下に向けてゴートゥヘルに変化させたクゥリに、対抗心を燃やして『名無し』は起き上がる。

 良いだろう! そっちがその気ならば、こっちも本気を出すまでだ。『名無し』は指をワキワキと動かして音を鳴らし、DEX全開だとばかりに太腿に命令を出す。

 突風となって整備された庭の芝生抉るスタートダッシュを決める。そのまま館を囲む柵を1ジャンプで跳び越えた。

 ポカーンという擬音が似合う顔をしているクゥリに、『名無し』は同じくドヤッ!という擬音が全身から放出されるが如きポーズを決める。

 

「『いつもと同じ』だ。負けた方が奢りで」

 

「ク、ククク……クヒャヒャヒャ! 良かろう! 貴様に! 見せてくれようぞ! 我らが狩人の歴史1000年以上に及ぶ体術の真髄というものを!」

 

 猛追すべく加速したかと思えば柵に突進し、そこから全身を回転させながらアクロバティックに……本当に無駄に何十回転も決めて『名無し』の数メートル先に着地する。そしてムーンウォークで挑発しながら、今度は逆に呆気に取られていた『名無し』を置いておく。

 負けるものか! 両腕を振って全力疾走して追いかければ、クゥリは本当に無意味に今は固く門を閉ざした酒屋の壁を使って三角跳びを決めて屋根に着地する。ならばとばかりに『名無し』はウォールランを併用しながら店の壁から壁へと駆け上がり、クゥリよりも数歩前に躍り出る。

 

「オマ――!? ソードスキルは無し! ソードスキルは無しってルールだろ!?」

 

「そんなルールを取り決めた記憶はございません。それよりも、どうしたんだ? 俺ってDEX特化じゃないのに距離が離れてるぞぉ?」

 

 挑発するようにプププと嗤う『名無し』に、こめかみに筋を立たせたクゥリの足の動きが変わる。途端にステップを利用した高速機動に切り替わり、UNKNOWNのフォーカスロックを振り払うどころか、全力で駆ける彼を置き去りにする。

 卑怯臭い! ソードスキルでもなく、単なるステータスの高出力化でもない。『名無し』は無意識に分析する。恐らくは根本的に人体を駆動させる体技、生み出した運動エネルギーの制御が違うのだ。人間離れし過ぎている。

 だが、キミの隣にいた俺からすれば、この程度は驚くに値せず! 容赦なく『名無し』は≪歩法≫のソードスキル【ブラインド・ボア】を発動させる。その名の通り、他を見失って直進するような猪の如き加速。スタミナの消費は激しいが、長時間の推力維持と直線以外に体をまともに動かせないという制約はある種の快感的に加速を与える。

 

「だからソードスキル禁止!」

 

「偉い人は言いました。『勝利の美酒でキミの瞳に乾杯』」

 

「意味分からん」

 

「ごめん。今のは俺もノリで言った」

 

 並走し、疾走し、暴走し、屋根から屋根へと跳び移り、互いに体をぶつけ合う。

 視界に映ったのは、この城下町にある花畑。それは貴族の庭園でもなく、野に咲いた奇跡でもなく、誰と知れない芸術家が町の美の為に築いたものだろう。それは雨水に浸され、まるで湖のようなりながらも、色彩豊かな花は今も水面から顔を出して夜風で揺れていた。

 

「「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」

 

 星をつかみ取る勢いで最後の大ジャンプを決め、どちらが華麗に着地を決めるのか争うように、だが互いの邪魔をするように殴って蹴って縺れ合い、同時にスピンして派手な水飛沫を上げながら水浸しの花畑で転がる。

 痛いようで痛くない。これは仮想世界だから? それとも夢だから? どちらでも構わない。大の字になって仰向けになり、割れた雲から覗ける夜空……星々を見上げる『名無し』は大きく息を吸った。

 

「そういえばさ、毎度思うけどこの勝負ってゴール決めてないから……勝ち負けとか無いよな」

 

「今更だろ?」

 

 ああ、本当に……今更だ。少しだけ笑みを零しながら、全身ずぶ濡れになった『名無し』は起き上がる。せいぜい足首までしかない水深なのは、この水面の花畑は嵐の産物に過ぎないからだろう。

 立ち上がった『名無し』は同じく派手に転倒したはずのクゥリに振り向く。だが、いつもならば負けるものかと先に立ち上がっているはずの彼は背中を向けて、やや蹲り、その右手で胸をつかんでいた。

 

「ハッ……ハッ……ぐっ……がぁあ……!」

 

「クゥリ……?」

 

 今まで聞いたことがないクゥリの苦しそうな吐息に『名無し』は歩み寄ろうとするが、白の傭兵は途端に弾けるように立ち上がってアッパーカットを決める。宙を舞い、脳天から落下した『名無し』は悶絶して蹲った。

 

「ふ、フハハハハ! 騙されたな、馬鹿め! 勝敗が無い? 間違っているぞ! 最後まで立っている者こそが勝者なのだ! すなわち、このオレが今回の勝者! よってオマエの奢り決定!」

 

「……卑怯者」

 

「傭兵にとって卑怯は褒め言葉だと何度言えば分かるんだ?」

 

 やっぱり痛くない。だが、ダメージフィードバックのような不快感はする。やはり夢じゃない? それともリアル過ぎる夢?

 ああ、どちらでも構わないか。仮想世界自体が限りなく現実の……いや、現実以上の質感を持つ夢の世界なのだから。『名無し』が体を起こせば、そこにはフラフラと体を揺らしながら、だが何かを求めるように凛として、空を見上げるクゥリの横姿があった。

 奇麗だ。性別関係なく、夜風で波紋が生まれる水の花畑で白髪を靡かせて、巡礼服を翻すクゥリは……ただただ幻想的で、美しかった。

 出会いは『力』を求めたからだった。復讐を成す為に、アインクラッドで最も恐れられる……対人戦最強と怖がられた【渡り鳥】の『力』を得る為だった。

 いかなる依頼も受けるクゥリは拒まず、隣に立てばその実力を披露した。だが、モンスター相手は『名無し』の方が圧倒的に経験値も立ち回りも上であり、相棒時代はモンスター・ボス戦において、一貫して彼の方が前面に出ていた。

 それでも、ここぞという場面で、誰もが心を折った時、『名無し』さえもが絶望に呑まれた時、最後の最後まで平然と、自他の死に無頓着なほどに戦い続けて逆転の一瞬をつかみ取ってくれたのは……白の傭兵だった。

 だが、友達になりたいと望んだのはクゥリに『力』があったからではない。彼は噂通りの殺戮狂ではないと知ったから。面倒臭いと言いながらも人並み以上に世話焼きで、仕事以外ではやる気を出さないくせにその実はお人好しで、限度が過ぎるくらいに優しくて……その微笑みを見ていたら気を許してしまう。

 

「……オマエも男だからさ、おんにゃのこの前じゃカッコイイ所見せようって頑張っちゃうだろ? で、どうだ? 少しは気分も晴れたか?」

 

 見惚れていた『名無し』に振り向いたクゥリは水面を蹴り、『名無し』の顔面を濡らす。やり返そうとも思ったが、心地良い脱力感があり、彼は再び大の字になって倒れた。

 

「不本意ながらね」

 

 隣に腰かけたクゥリは何も言わずに『名無し』と共に夜風を嗜む。それは『いつも通り』の事だ。

 何も言わない。

 何も問いかけない。

 何も尋ねない。

 だからこそ、『彼』は胸の奥底に閉じ込めようとしていた言葉を紡ぎたくて堪らなくなる。

 

「……俺はキミに『力』を見ていたんだ。理不尽な暴力。悪い言い方なのはわかってる。でも……キミのどんな絶望も、どんな窮地も、どんな苦境も覆して、破壊して、踏破してしまう『力』に……憧れてたんだ」

 

「そうか」

 

「でも……俺はキミにはなれなかった。当たり前だよな。キミと俺は違う。俺は……俺は……こんなにも『弱い』んだから」

 

「そうか」

 

 認めたくなかった。自分の『弱さ』を知りたくなかった。

 だが、どうしようもなく怖いのだ。背負いきれない罪の重さ。自らの願望のままに浴びた血に恐怖し、もはや立ち上がることはできずに潰される。

 

「知ってたよ。オレに『力』を見ているオマエに……ずっと前から気づいていた。それで良かった。オマエは優しいヤツだから。オレを利用しようとしても結局は深入りして、あれこれ悩んで、それでも……オレの『相棒』でいてくれたから」

 

 立ち上がったクゥリは踊るように水面で跳ねる。七色の花が咲き乱れる花畑で、まるで見えぬ妖精たちと舞っているようだった。

 

「オマエはたくさんの人を殺した。それは何でだ?」

 

 背中を向けたまま踊るクゥリの問いかけに、『名無し』は喉を凍らせる。

 何も喋りたくない。胸に押し込めて、丸め込んで、握り潰したい。言葉にしてしまえば、きっと罪の重荷はより大きく膨れ上がるから。

 

「邪魔、だった……からだ」

 

 だが、逃げたくなかった。最高の『相棒』から……いや、『親友』から逃げたくなかった。

 

「どうして邪魔だったんだ?」

 

「願いを……叶える為だ」

 

「その願いは?」

 

「アスナを……アスナを……」

 

 問いかけ続けるクゥリを前に、『名無し』は喉を引き攣らせる。

 言い訳にしたくなかった。あれ程の屍を築いた意味をアスナに与えたくなかった。彼女にまで罪を背負わせてしまいそうで、その身を死血で汚してしまいそうで……『彼』は言葉を呑み込むことを選んだ。

 

「俺は……俺はただ『アスナの英雄』で良かったんだ。1000人の貧者の【聖域の英雄】でもなければ、皆がもてはやす【アインクラッドの英雄】でもない、守り切れなかった……1番大切な人の『英雄』に。でも俺は……欲張りで……たくさん拾い上げようとして……それでも零れて行って……本当に大切な宝物はとっくに失っていることを認められないで……受け入られないで……だから……だから!」

 

 だから、結局はそういう事なのだろう。項垂れて、涙を滴らせて、襲い掛かる罪に押しつぶされて嗚咽が漏れる。

 それは戦いの中で何度も何度も叫んでしまった、露呈していた、『英雄』とは程遠い真実。

 

 

 

「たくさんの人を守れなかった。赦して欲しかったんだ。みんなに……アスナに……赦して欲しかったんだ!『英雄』になり切れなかった『俺』を赦して欲しかったんだ! それが『俺』の本当の願いなんだよ!」

 

「良し。とりあえずオマエがオレ以上の馬鹿だという事は分かった」

 

 

 

 

 魂の叫びにノータイムで切り返され、子供のように涙を溢れさせた『名無し』が顔を上げれば、そこには今世紀最大の馬鹿を見るような呆れや諦観を通り越し、いっそ感動を覚えた表情をして拍手しているクゥリがいた。

 

「あのなぁ、オマエが『アスナの英雄』になる為に今ここにいるならば、その英雄的行動は何を意味する? 馬鹿でも分かるぞ。『アスナを救う』ことだろ? 邪悪な暴君オベイロンから愛するティターニアを奪還する! うんうん! これ以上に無い王道シチュエーションだな! オレはこのシナリオを準備した後継者を評価するぞ」

 

 拳を握って力説したクゥリは、涙を止めて唖然とする『名無し』に笑いかけた。

 

「それに、オマエは結局のところさ、英雄願望以上に『助ける』とか『守る』って自分の本心がちゃんとあるじゃないか。『英雄』なんてその結果の称号だろ? だったら、オマエは今まで通り、自分勝手に、思うままに……英雄を気取れば良いさ。だって、オマエは……『助けたい』っていう魂の叫びのままに戦っているんだから」

 

 何処か嬉しそうに、同じくらいに羨ましそうに……クゥリは微笑んだ。

 

「ある男の話をしてあげる。その男は弱虫だった。大好きな女の子がいたけど、守れ切れなくて『力』を求めていた。間違いを繰り返した」

 

 再び踊るように水面に波紋を作るクゥリは、子どもの頃に1度だけ聞いた大事な物語でも聞かせるように、その薄い桃色の唇で紡いでいく。

 

「その大好きな女の子は病に蝕まれていた。男も同じ病にあった。救う方法はただ1つ。病の源、その深奥に潜む怪物を倒して薬を持ち帰ること。でも、男には『力』が無かった。それでも立ち上がった。愛する彼女を助ける為に。たとえ、助けたとしても……その心は『英雄』になれた自分ではなく、別の誰かに……戦う事ではなく傍にいる事を選んだ男のモノになると何処かで気づいていながら……死地に旅立った」

 

「それで……その男はどうなったんだ?」

 

「……薬を持ち帰った。でも、男もまた病に呑まれた。それでも、男は自分の為ではなく、自分を愛してくれない彼女の為に薬を使うことを選んだ。そして、最期まで彼女を想いながら……死んだ」

 

 およそ哀れとしか言いようがない末路。そのはずなのに、クゥリは誇り高そうに男の物語を告げた。

 

「なぁ、元『英雄』さん。仮にアスナを助けたとしてもその心は得られず、それどころか赦しさえも無いとしよう。それでも……オマエは助けるか? 彼女を救うために剣を握れるか?」

 

 アスナを取り戻す。それを成し遂げたとしても、かつての関係に戻る訳でもなく、彼女の心は別の誰かを愛することを選ぶ。

 そんな結末があるとして、俺は……アスナの為に戦えただろうか。ここまで来れただろうか。

 胸に問いかける。心の奥底に……魂に尋ねる。多くの虚飾を剥ぎ取って、アインクラッドに残した彼女の笑顔と涙を掬い取り、『名無し』はそれこそ馬鹿な事を言うなと拳を握る。

 

「助けるに……決まっている! 誓ったんだ! アスナが『今』ここにいる限り! 俺は! 彼女を助けるって……決めたんだ!」

 

 どれだけ弱々しくとも、どれだけ情けなくとも、どれだけ恥知らずであろうとも、それだけは偽れない魂の慟哭。

 

「もしも、この旅路の果てにアスナを取り戻せなかったらどうする? 全てはまやかしに過ぎず、オマエの旅は不毛で終わり、ただ屍を積み重ねただけとするならば、どうする?」

 

「それでも助けに行くさ! 仮定で止まれるものか! たとえ嘘だとしても、何も成せないとしても、俺は……俺は彼女の為に剣を握ったんだ!」

 

 息荒く、涙目になりながら、腰を折って座り込んだままの情けない姿で、それでも『名無し』は宣誓する。そんな友の姿にクゥリは静かに瞼を閉ざした。

 

「……そうか」

 

 悪戯っぽく笑いかけたクゥリは、やり返してみろとばかりに水面を蹴った。派手に飛び散った飛沫が口に入り、咳き込む『名無し』が再び面を上げた時だった。

 

「ある女の子はオマエを『大樹』に譬えた」

 

 轟雷と豪雨で世界を荒ませた嵐の名残……最後の暗雲は夜風と共に去り、星々の海の中で大きな白銀の月は光を満たす。

 

「オマエがたくさんの人を殺して、その罪を背負いきれないで潰れて……絶望して……その誇りも信念も倒れてしまっていたとしても、倒れて腐った大樹から新芽は伸びる」

 

 それは贖罪すらも赦されない苦行なのだろう。

 

「1人ずつで良いじゃないか。1人ずつ、1人ずつ、1人ずつ……殺した罪と見つめ合えば良い。今ここで纏めて背負うんじゃなくて、時間をかけて、ゆっくりと苦しみながら受け入れていけば良い。だってオマエは罪を感じられるんだから。だから、オマエを支えてくれる、たくさんの人たちと一緒に……オマエの『答え』を見つければ良いんだ。どれだけ傲慢でも構わない。彼らの死と罪を受け入れ背負える大樹の如き『答え』をオマエは見つければ良い」

 

 それは途方もない、先も見えない暗闇を歩む旅路なのだろう。

 

「『救われるべき者は手を伸ばさねば救われない』。だからこそ、月光をオマエに。暗闇を旅するオマエにこそ『導き』は必要なはずだから」

 

 だからこそ、闇を払う月光の祝福と共に、クゥリは微笑みながら手を差し出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

「絶望の大地に希望の種を蒔こう? オマエが『オマエ』である為に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな夜風は水面に波を起こし、七色の花弁は吹雪の如く舞い上がる。

 月明かりの下の焔火のように、クゥリは手を差し出し続ける。

 その手を掴もうと伸ばして、躊躇して、それでも今度こそ『覚悟』を決めて『名無し』はかつて相棒だった白の傭兵の手を握る。 

 

「オレは『いつも通り』引っ張り上げるだけだ。後は勝手にしろよ?」

 

 体が引っ張り上げられて、立ち上がって、でも情けないくらいに泣き疲れていて、それでも涙は零れ続けて、『名無し』はクゥリごと前のめりに倒れた。

 背中から水面に叩きつけられたクゥリは、呻き声もあげず、泣きじゃくる『名無し』を抱きしめる。

 

「……今はそれで良い。オマエは『強い』から。たとえ心折れようとも、新たに芽吹いてより強く立ち上がる。そして、多くの人を支えて、支えられて、生きていけば良い。全てを燃やし尽くす『火』は……オレの役目だから」

 

 不毛の大地に種を撒くならば、涙を零そう。泣いた分だけ大地は潤うのだから。泣ける者だけが種を撒く資格があるのだから。

 

 

 

 

 

 

「これは夢だ。全部……全部、夢なんだ。だから、今は眠れ。悪夢無き眠りで……ゆっくり休め」

 

 

 

 

 

 そして、『名無し』は目を覚ます。

 泣き疲れて眠ってしまった。そんな気怠さを照らし出すのは窓から差し込む温かな陽光だった。

 やはり夢だったのだろうか? 再生された左目の調子を試すように顔を覆う止血包帯を外し、その双眸に世界を映し込む。

 罪への恐怖は消えていない。今も背負いきれなく、破裂しそう、小さく丸くなって逃げ出したくてしょうがない。

 だが、それでも剣を握り続けなければならないのだろう。アスナは『今』もこのアルヴヘイムにいるのだから。たとえ、それが惨酷な夢に過ぎなくて、触れようとすれば溶けて消えてしまう幻想だとしても、彼女は『今』そこにいるのだから。

 だから、傲慢にして欺瞞の『英雄』にもう1度なろう。称号を背負うのは『ビーター』の頃から慣れているのだ。ならば、今回も駆け抜けるだけだから。

 

「……夢、だよな?」

 

 ベッドから起き上がった『名無し』はテーブルに置かれた……一口分だけ残されたオムレツを見て、小さく笑った。

 今は夢という事にしておこう。真実も嘘も関係ない。確かに胸に残る『導き』と共に歩み出そう。

 

「美味しい」

 

 スプーンで一掬いして食べたオムレツは……やはり家族の懐かしさに満ちていた。

 そして、彼の視線は部屋の隅に置かれた、クラインによって左目の部分だけ砕かれた仮面に向けられる。

 

「まだ……これを外すわけにはいかない。キミとの約束だからな」

 

 この仮面を砕くのはキミなんだろう、クゥリ? だったら、その時までつけ続けておくさ。

 

 だって、その方がカッコよくて……俺たちらしく馬鹿っぽいだろ?

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 黒獣騒動のお陰で壊滅状態の街道を早馬で強行突破し、手紙に記載された館にたどり着いたシリカは、リーファやシノンへの挨拶も疎かにUNKNOWNの寝室を目指して駆ける。

 心砕けて虚ろとなったUNKNOWNの状態に、シリカは押し潰されそうな心臓を胸に階段を上る。

 知っていたはずなのに。彼がたくさんの歪みを抱えたまま、苦しんだまま、この戦いに挑んでいると知っていたはずなのに。

 止めなかった。止めない事を選んだ。それでも傍にいて支え続ける事さえできればと望んだ。

 だが、彼には手を届かず、その心を守ることは出来なかった。

 

(駄目。泣いちゃ駄目! 私だけはしっかりしないと。余裕を持って! 冷静に! あの人の隣にいないと!)

 

 涙を拭い、笑顔を作るように両頬をこね回し、シリカはUNKNOWNの寝室の鍵を開ける。

 

「た、ただいま参上しました! あなたの秘書のシリカです!」

 

 あ、これ完全にアホな挨拶だ。だが、これくらいに弾けている方が『彼』も笑ってくれるかもしれない。そんな後悔を飲み下しながら、限りなく元気溢れる姿でドアを開けたシリカが見たのは、朝風に黒のコートを靡かせ、左目の部分だけ割れた仮面を装着する愛しき人の姿だった。

 右手に持つのは機械仕掛けの剣、メイデンハーツ。

 左手に持つのは欠月の剣盟たちが用いた重剣、深淵狩りの剣。

 その両方を背負い、シリカの登場に気づいたらしい二刀流の剣士は仮面の向こう側で優しく笑いかけるように、その左目に温もりを灯していた。

 

「……心配かけたな、シリカ」

 

 その穏やかな瞳は……シリカが最初に出会った頃と同じ、彼女がもっと大好きだった人の……もっとも大好きだった頃の瞳。もう永遠に取り戻せないと思っていた輝き。

 

「でも、もう大丈夫だから。いや、違うな。まだ全部背負いきれてないし、受け入れられてないし、へこたれそうだけど、それでも……歩き出せるから」

 

 自然と頬を伝う涙に、シリカは驚きを隠せずに触れて、困ったような仮面の剣士は、やがてそうすべきだと言うようにシリカを引き寄せた。

 

「今まで無理させてゴメン。これからも無理させるかもしれないから……ゴメン」

 

 抱きしめられたシリカは理解する。

 ああ、もう自分は『仮面』を捨てて良いのだ。自分が『仮面』を被り続けていたことこそ、彼を苦しめていたのだ。

 溢れる涙のままに抱擁する仮面の剣士に、シリカもまだ腕を回して強く抱き寄せた。

 

「……ひぐ……ひぐぅ! 本当ですよ! め、迷惑ばっかりかけて! しかも、勝手に突っ走って! 私の立つ瀬がないじゃないですか!」

 

「ゴメン」

 

「だけど、それが……そんな人が……私の大好きな人ですから! だから……謝らないでください!」

 

「うん、ゴメン」

 

 何も分かってない。涙を噛み締めながら、抱擁から解放されたシリカは名残おしそうに両手を見つめ、今はこれくらいで良いかと頷いた。

 まだまだ旅は続くのだから。この想いも一緒に、彼は歩き出しているはずなのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「どうしようかなぁ。やっぱり逃げようかなぁ。逃げるべきだよなぁ! こんなヤバい世の中で商売なんかよりも炭鉱労働の方が安全だよなぁ!」

 

「商人が取引を蔑ろにしたら終わりですよ、マウロ?」

 

 この野郎、本気で逃げる10秒前だったな。馬車を走り出させようとするマウロの荷台に乗り込んだオレに、マウロは自己振動で崩壊するのではないかと思う程に驚く。

 まぁ、確かに約束の塔の森に行って帰ってきたのだから、世間一般からすれば亡霊の帰還のようなものかもしれないが、そこまで驚かないでもらいたい。

 

「い、いやね、巡礼さん。い、今のは商人ジョーク! 商人ジョークですから!」

 

「そうですね。『信じてます』よ、マウロ?」

 

 巡礼服のフードを深く被り直し、オレはマウロの隣に腰かけると彼に逃げるなと命じるように贄姫の柄を撫でた。黒獣やら約束の塔の森やらでオレの実力は十分に把握しただろうマウロは、すっかり怯えた調子でガクガクと首を縦に振る。

 ユウキはクラインに任せたし、『アイツ』も立ち上がることには慣れてるから後は勝手に何とかするだろ。ユウキに関しては差し込む余地はなかったが、『アイツ』に関しては最低限の偽装工作は済ませてきた。服は……ギリギリ湿ってるかどうかってところか? オムレツは失敗だな。勘付かれていないと良いが。そもそも我ながら話を切り出すタイミングが無かったからって杜撰過ぎるだろ、オレ。

 まぁ、そもそもぶん殴りに行ったのが本題だったしな。クラインの情報を頼りに何とか暁の翅のアジトを見つけて、忍び込んだら窓を開けるシノンが見えたから、とりあえず挨拶して『アイツ』の部屋を聞き出して、ドアを開けたところに顔面パンチの予定が、まさかの『アイツ』の寝室だという吃驚仰天だよ。アドリブ全開だよ、まったく。オレは傭兵で作戦・戦闘のアドリブを差し込むのは慣れているが、あんな風にコミュでアドリブするのは不慣れなのだ。そもそもコミュはアドリブの塊なので苦手だ。結論、やっぱり1人は気楽だ。

 それに『アイツ』にとってオレがアルヴヘイムにいる事はなるべく知らない方が良いことだ。必要ないことまで背負い込む奴だからな。オレはオレの事情で動いているのだから、自分のせいだ何だと思われないのか、これが1番手っ取り早いのだ。まぁ、バレた時はバレた時だ。仮面をぶち割る時に何とか話をつけよう。そうしよう。

 

「そ、それで、目的地はどちらで?」

 

「おや、お忘れですか? アルヴヘイムの北方……できれば白の森の近くまでお願いします」

 

「白の森ねぇ。ああ、シェムレムロスの兄妹の館があるって伝説の? あそこは迷いの森。誰1人として奥地に辿り着いた事が無い魔境ですよ」

 

「ええ、そのシェムレムロスの兄妹に少しばかり用があるんですよ」

 

 商人としてあるまじきことに、空の荷台のまま出発したマウロに同情を少しだけしつつ、オレは次の目的地であるシェムレムロスの館、それを隠す白の森を想像する。

 

「用とは……いかに?」

 

「野暮用ですよ。ちょっとシェムレムロスの兄妹の首をもらいに行くだけです」

 

 何やらマウロが黒板を引っ掻いたみたいな奇怪な悲鳴を上げているが、無視しておくとしよう。

 心臓が鎖に縛られたように痛み、呼吸が止まりそうなる。意識が途切れそうになるのを、心臓に動き出せと命じて繋ぎ止める。

 瞼を閉ざしても赤紫の月光は見えない。だが、黄金の燐光の先に確かに見える。

 故郷の風。母さんと共に歩いた道。揺れているのは黄金の稲穂。

 

 狩りの全う。それは何なのか、きっとこの思い出の向こう側にあるのだろう。

 

 だから、それまでは灼けないでくれ。黄金の稲穂の意味を知るまで、灼けないでくれ。オレの『答え』がそこにあるような気がするんだ。

 

 

 もはや祈りは無く、ただ呪いだけになろうとも……オレは狩人として、狩り、奪い、喰らい、戦い、そして殺すのだから。




絶望の大地に希望の種を蒔こう。

芽吹くのは新しい絶望かもしれない。

それでも希望を咲かせるかもしれない。

だから、絶望の大地に希望の種を蒔こう。

そうすれば、何かを咲かせるはずだから。


<リザルト>

▽ 主人公(黒)
・メンタルダメージ大
・メンタルブレイクを発生
・主人公(白)の≪聖女≫スキルでメンタル回復ボーナス大を獲得しました
・称号『堕ちた英雄』を獲得しました
・称号『再生』を獲得しました

▽シノン
・メンタルダメージ中
・スキル≪傭兵の心得≫を獲得しました
・称号『女傭兵』を獲得しました

▽リーファ
・メンタルダメージ中
・称号『見捨てぬ乙女』を獲得しました

▽シリカ
・メンタルダメージ小

▽ユージーン
・メンタルダメージ大
・スキル≪豪傑≫を獲得しました

▽レコン
・メンタルダメージ大
・メンタルブレイクが発生しました
・リーファのメンタルケアによるメンタル回復ボーナス中を獲得しました
・称号『凡夫の殺人者』を獲得しました
・称号『贖罪者』を獲得しました

▽ユウキ
・メンタルダメージ大
・メンタルブレイクが発生しました
・主人公(白)の≪聖女≫スキルでメンタル回復ボーナス大を獲得しました
・称号『禊』を獲得しました
・称号『闇を知る乙女』を獲得しました

▽クライン
・メンタルダメージ小
・称号『兄貴』を獲得しました

▽主人公(白)
・チタン合金メンタル
・スキル≪聖女≫が限界域です。このスキルポイントがゼロになった時、本スキルは≪ヤツメ様≫に変化します。
・称号『遺志の継承者』を獲得しました
・称号『レギオンスレイヤー』を獲得しました
・称号『死天使』を獲得しました


これにてアルヴヘイム中編は終了です。次回は現実世界編……狩人の里となります。

それでは、280話でまた会いましょう!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。