SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

白の森を突破し、シェムレムロスの館にたどり着く。


Episode18-48 シェムレムロスの館

 帰郷には土産の武勇伝などなく、懐かしき風を嗜むことができる幸福が涙を誘うだろう。それがヴァンハイトという老兵が見た戦場の真実の1つだ。

 戦場にある兵士たちの胸中は千差万別だ。

 金銭。出世。名誉。守護。憎悪。責務。願望。それらは立派な原動力であり、戦場で生き抜くに不可欠な意思となるはずだ。

 だが、戦場に立つ者の多くはやがて1つに集約されていく。『死にたくない』という生物として当然の抗いだ。

 戦場で生きるをことを生業とする傭兵たちでさえ、それ以外の生きる道があるならばそれを選ぶだろう。流浪の種族スプリガンにおいて、彼らが傭兵団を組むのは、彼らに故郷となるべき土地がなく、また戦闘で生計を立てる以外の生き方を得る機会が少ないからである。逆に定住したスプリガン程に争い事から離れる傾向がある。

 嫌な風だ。ヴァンハイトは乾いた砂塵、黒火山から流れる金属が煤けた異臭を嗅ぎながら、野草が生えることもない不毛の大地に目を細めた。

 遠望鏡を覗くまでもなく、ヴァンハイトの老いた眼に映るのは無数の点と炎である。

 点は兵士だ。彼らは暁の翅の戦力であり、その数は1万を軽く超す。ここ数日で一気に膨れ上がり、いよいよ黒鉄都市の攻略に乗り出した者たちだ。

 炎は死だ。黒鉄都市から続々と投石器で放たれるのは爆薬を詰めた岩石であり、それは着弾と同時に火柱を上げる。それだけではなく、陶器に込められた油もまた戦場へと投じられ、その度に炎の海は広がっていく。

 黒鉄都市は黒火山を囲う三重の要塞がそのまま都市化したものである。徹底した秘匿がなされ、その内に入った者はアルヴヘイムの歴史でも少数しかおらず、分かっていることは黒鉄都市を守る堅牢なる騎士団は、その1人1人が卓越した戦士であり、女王騎士団とアルヴヘイムを二分する最高戦力ということだ。そして、ティターニア教を中心として結束する女王騎士団と違い、彼らは盲目的なまでにオベイロンに忠義を誓って黒火山を守っている。

 絶壁の如く立ちはだかる黒鉄都市の外壁。そこに続々と長梯子がかけられて乗り込もうとするが、黒鉄都市の外壁は30メートルにも達する。それ程の長い梯子を準備するのも運搬するのも並ではなく、当然のように黒鉄都市の守り手たちは梯子を破壊し、かけれらても蹴り倒す。

 次々と放たれるのは黒鉄騎士たちが大弓で放つ大矢だ。扱いが難しい大弓を続々と放つだけではなく、その1本1本は彼らが守る黒火山の恩恵を得ており、非常に重く、また破壊力も凄まじい。並の兵士では鎧の上から一撃で射抜かれて絶命し、生半可な盾は役にも立たない。

 それだけではない。要塞に取り付けられた全自動式連射クロスボウは、止まることなく連射を続ける。残弾が尽きても即座に新たなボルトがセットされ、それは止まることがない。しかも、このいずれもが炎のボルトであり、黒鉄都市に挑む兵士たちは空を覆いつくすような炎の光に自らの死期を悟る。そして、死の恐怖に屈すれば、それは陣形を崩す悲鳴の連鎖を生むのだ。

 こうなれば、まずは黒鉄都市の突破に一旗揚げねばならないのは鍛え抜かれた騎士たちだ。それを今回成し遂げんとするのは、暁の翅を率いるギーリッシュの故郷、砂上都市の騎士たちである。だが、彼らもまた、そもそも黒鉄騎士たちが同じ戦場に立たないならば、止むことが無い炎の投石と油、大矢とボルトの雨の中で等しく骸を晒すだけだ。

 黒鉄都市の外壁に長梯子をかけられないならば、攻略方法は2つに1つ。堅牢なる外壁そのものを破壊するか、それとも城門を破壊するかだ。だが、黒鉄都市の名に相応しい、分厚く黒い門は外壁以上の強度を誇り、どちらも現実的ではない。たとえ、城門まで辿り着いたとしても、そこにこそ対策は施されており、立ち止まりでもすれば、煮え滾った油が流された後に着火されて丸焼けにされるだけである。

 そして、問題はそれだけではない。黒鉄都市がアルヴヘイムでも最高の戦力である理由の1つ、鉄の飛竜だ。黒火山に住まうとされる鉄の飛竜は、騎獣用の装備を纏う必要もなく、その全身に鋼のような鱗を持つ。加えて彼らは凶暴であり、その戦闘能力はアルヴヘイムの怪物たちでも最高位に達する。それは、かつて雷飛竜の王を討ち取ったヴァンハイトも認めるところだ。

 黒鉄都市はいかなる妖術を用いたのか、この鉄の飛竜を8体も手懐けており、最高の騎士たちに騎獣として与えているのだ。彼らは一様に黒い装束を身に纏い、アルヴヘイムの長い歴史でも奇異なほどに高い実力を誇り、黒鉄都市を奪わんとした狼藉者たちを誅してきた。

 今回も同じだ。鉄の飛竜が空を舞い、急降下したかと思えば、その両足の爪で地面を抉りながら飛ぶ。それだけで陣形も何も関係なく人々は吹き飛ばされる。放たれる矢は鉄の飛竜に命中しても弾かれ、まるで傷を負わせられない。逆に怒りを買い、その灼熱の溶岩を撒き散らす炎の洗礼を受けるだけだ。

 戦力差は圧倒的に暁の翅が上だ。犠牲を厭わずにこのまま物量戦に持ち込めば、いずれは物資が不足し、疲弊した黒鉄騎士たちの強固な守りを打ち砕けるだろう。だが、それまでに重ねねばならない死体は山という表現すらも物足りないはずだ。今ここにいる1万人をそのまま死体にして、更に1万人を重ねても足りるか否かだろう。それ程までに黒鉄都市の守りは常軌を逸しているのだ。

 だが、それでも過去の黒鉄都市攻略に乗り出した者たちに比べれば、勝機は幾らか見えている。少なくとも犠牲さえ出せば勝てる点。普段ならば出現するはずのアルフが欠けている点。特に後者はその分だけ犠牲に必要な数が減るという意味でも喜ばしいだろう。

 確実に勝てる。それでもヴァンハイトの目は厳しい。何故ならば、このまま持久戦に持ち込めば負けるのは暁の翅だからだ。黒鉄都市は攻略などできない。

 理由は単純明快だ。今まさに黒鉄都市に突撃を続ける過半を占めるのは、正規の訓練を積んだ兵士や騎士ではなく、この事態に募集・徴兵された兵士たちだからだ。そのほとんどが練度うんぬん以前に武器さえもまともに振るったことが無い者たちである。これでは士気を保つのには限度がある。

 犠牲を積めば勝てる。逆に言えば、その犠牲は『役立たず』であることが望ましい。ギーリッシュのみならず、暁の翅に合流した多くの派閥が狙うのはオベイロンの首であり、その為にも自陣営の戦力は最大限に温存し、来たる決戦に向けて力を蓄えねばならない。わざわざ自陣営から死者を重ねるだけの黒鉄都市の攻略の初期段階に『投資』するメリットはないのだ。

 ロジックとしては正しい。ヴァンハイトもそれは認める。だが、盤上の遊戯ではないのだ。戦場にある兵士たちにも心がある。自分たちが勝つための生贄に捧げられていると理解し、それを使命として全うできる者がどれだけいるだろうか? たとえ、これがアルヴヘイムの存亡の危機に直結するとしても、自らの命を差し出せる勇敢な者は常に限られている。

 そして、それは暁の翅も重々承知している。特にギーリッシュは貴族ではなく、平民や下級騎士たちの根強い人気によってクーデターを成し遂げた人物だ。幾ら、黒鉄都市攻略の初期段階には死体を積み重ねるしかないとはいえ、自分の不人気と組織の崩壊に繋がる足音を無視するはずがない。

 そこで彼が取った方針は、暁の翅に合流を申し出た新勢力……つい先日まではオベイロン派として反オベイロン派を狩る側の『正義』を問う為に、彼らにこそオベイロンの要所である黒鉄都市の陥落を命じることだった。

 これは言うなれば踏み絵である。ティターニアによる宣言があったとはいえ、その過半がオベイロン陣営だった以上は信用ならないというのがギーリッシュの言い分であり、今後も『ティターニア様の真意を得た』女王騎士団擁する暁の翅と行動を共にするならば、黒鉄都市の陥落という『栄誉』を得るべきだという言い分だ。

 誰の目から見ても分かり切った犠牲の山と不平不満。それを同じ陣営の潜在的敵対勢力に押し付け、後方待機させたギーリッシュに早期に合流した反オベイロン派の真戦力で疲弊した黒鉄都市を叩く。こうすることによって、民衆には『他の役立たずと違って黒鉄都市を陥落させた』という名誉を得るだけではなく、他のオベイロンの後釜を狙う者たちの人気を落とし、なおかつ黒鉄都市攻略がもたらす不満を押し付けようという魂胆だ。

 そして、苦みを押し付けられて黙っている他勢力ではない。彼らもまたギーリッシュを、他の勢力を出し抜こうと虎視眈々としている。それが余計に黒鉄都市攻略の被害を拡大させ、ギーリッシュの狙い通りの展開に進んでいるとしても、謀略を止めることはできない。

 哀れだ。溜め息1つにヴァンハイトは戦場の謀略を唾棄する。最も犠牲を減らす方法はただ1つ、全ての勢力が黒鉄都市を完全包囲し、一斉に波状攻撃を仕掛けることだ。だが、それは『反オベイロン派』に纏まったとしても、互いに牽制し、過去の諍いを水に流せず、オベイロン討伐後の新たな支配体制への目論見といった多くの反目し合う因子のせいで叶わない。

 所詮は烏合の衆だ。ティターニアによってアルヴヘイム全体が反オベイロン派に傾いたとしても、それは枠の話であり、囲いの中では今も互いに噛みつき合っている。それでも、これだけの大戦力ならばオベイロンとも戦えるかもしれないが、ヴァンハイトにはオベイロンとの戦いに勝っても明るい未来が訪れるようには思えなかった。

 それでも、この戦いには意味があったと老兵なりに思いたい。少なくともケットシーやインプは奴隷として『表向き』は解放された。根強い差別は残るだろうが、世代を経れば復権していくだろう。そして、先祖の憎悪は新たな闘争を生むかもしれないが、それはヴァンハイトが頭を悩ませる範疇外の未来だ。

 

『ただ強くなりたい。アンタみたいに強くなりたい』

 

 ヴァンハイトが思い出したのは、かつて戦場で出会った1人の少年だ。

 真っ直ぐな目をした若者だった。『力』への憧れを持ち、それを追い求めていた。だが、『力』を得て何がしたいわけでもなく、その頂きに何も探していなかった。

 ガイアス。後の世にヴァンハイトの名声とも並ぶ勢いだった、アルヴヘイムでも有数のアルフすらも打倒できるだろう戦士。そして、彼は『力』を得た果てに、闘争の中で死ぬことはなく、2人の若者を救うために無残に屍を晒した。

 無念だっただろう。せめて、培った剣技の全てをシェムレムロスの兄妹にぶつけたかっただろう。だが、彼が生涯をかけて鍛え上げた剣は何も成せないままに砕けた。

 ならば、彼に道を示すこともできず、戦場での生き方と剣技だけを与えたヴァンハイトがこの戦場ですべきことは何だろうか?

 彼は自らを老兵と呼び、死に場所を探す。若者たちの代わりに犠牲になるのは、もはや残りの人生で得るべきものも残っていない老いぼれの役目だと言い聞かせる。そして、戦場で死ぬことこそが戦場で生きた自分にこそ相応しいとも信じている。

 その一方で、この黒鉄都市に至るまでの道中、二刀流の仮面の剣士が蘇る。老兵よりも卓越した剣技と剣聖と呼ぶに相応しい天賦の才を持った若者だ。だが、それ故に道を外れ、苦悩と罪を背負った。そして、その果てに彼は己の道を探すべく歩み出している。

 

(生き残れ、か。この老いぼれに何が残っている? ワシにできることは、お前さんらの死に場所を奪ってやるくらいだろうに)

 

 弟子は多くいた。老人の武勇に惹かれた若者たちは続々と巣立った。その何人が今も生き残っているかもしれない。だが、最も大成したガイアスさえも死んだ。ならば、ヴァンハイトがしたことは、若者たちを地獄に送り出す手助けなのだろうかとも人生を嘲笑と共に振り返ってしまう。

 だからこそ、二刀流への剣技指南は心が躍った。せめて言葉を尽くし、彼が歩まんとする道の手助けになればとも考えた。老人に最後に出来る、武に生きた男としての足跡になるだろうと信じた。

 使い古した革の胸当て、籠手、具足。それらは女王騎士団から離籍した後に手に入れた貧相な防具だ。此度の戦いで女王騎士団への復帰も示唆されたが、ヴァンハイトは拒絶と共に黒鉄都市へと赴いた。女王騎士団として生きた人生よりも橋守としての人生の方が心の何処かで気に入っていたからだろう。

 戦場ではなく、ストーンブリッジで毎日を退屈に過ごした、あの穏やかな時間に価値を覚えていたからだろう。

 

「静かな余生……か。ワシが生き残って得られるとすれば、それくらいしか無いのかもしれんな」

 

 それでも、あの二刀流はその方が良いと笑うのだろう。あれは優し過ぎる男だ。口ではどれだけ述べても、心の底では惨酷になれない。自分を騙しながら、心を掻きむしりながら、誰かを傷つける度に自らの心をそれ以上に抉ってしまう性分なのだろう。

 ならば、せめて若者が苦しまずに道を歩めるように、この戦場を生き残ることこそが老人の務めなのかもしれない。ヴァンハイトはかつて雷飛竜の王より得た斧槍を手に、暁の翅が準備したテント群……野戦病院に足を運ぶ。そこにはもう1つの地獄が待っているだろう。若者たちは厳しい現実を突きつけられているだろう。そして、こんな時だからこそ、老兵の言葉が必要になるはずだと信じた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 黒鉄都市攻略作戦には参加しない。それがUNKNOWNの方針であり、リーファも全面的に同意した。

 そもそもとして、彼女には誰かを殺す覚悟が出来上がっていなかった。殺人の恐ろしさをアルフの女騎士との戦いで知り、その重みをUNKNOWNとレコンの姿から思い知ったからだろう。

 だが、それでも自分に出来ることがしたい。そう願ったリーファは自分が奇跡使いという事もあり、野戦病院で負傷者の治療にあたることを希望した。

 UNKNOWNは決して良い顔をしなかった。だが、このまま犠牲が増え続けているという黒鉄都市の攻略を待っているなど出来るはずもなく、リーファはせめて犠牲者の数を減らすことを望んだ。

 待っていたのは血風が舞う戦場とは異なる、もう1つの地獄だ。

 全身に傷を負い、あるいは生きているとは思えないほどに焼き焦げ、手足を失った者たちだ。

 リーファと同じように、だが低位の奇跡しか使えない神官などは焼け石に水のように治療を行い、僅かな者たちでも命を繋ぎ止めようとする。だが、運ばれてくる負傷者に対して奇跡使いの数は圧倒的に少ない。また、流血や欠損のスリップダメージは負傷度合いが大きければ大きい程にHPを削っていく。低位の奇跡によって回復できるHP量はたかが知れており、また1人を助ける為に数度の回復系奇跡を使えば、あっという間に魔力は枯渇してしまう。

 また、アルヴヘイムには確実に欠損状態を回復させられるバランドマ侯爵のトカゲ試薬といったアイテムは普及していない。また、そもそもとして回復アイテムがまるで充実していないのだ。UNKNOWNとユウキがもたらした貪欲者の金箱によってアイテム購入が可能となり、HPをたった5パーセントでも回復できる治癒の息吹という飲み薬が得られるようになったとはいえ、全体に普及しているはずもない。

 UNKNOWN達も持っているコルのほとんどを貪欲者の金箱に注ぎ込み、アイテムの普及に務めた。だが、そもそもUNKNOWNはアルヴヘイム突入前に装備を整える為に散財済みであり、それはリーファも同じだ。辛うじてシノンは幾らかのコルを持っていたが、5パーセントしか回復させない割には高額の治癒の息吹を軍レベルで広めるほどの購入は不可能だったのだ。

 何もできない。そう嘲われるように、リーファは野戦病院で早々に魔力が尽きた。彼女が習得している奇跡の中で最高の回復力を持つのは、DBOでも広く普及している中回復だ。広範囲の回復はできないが、それでも隣接しているプレイヤーならばHPを数値回復できる。リーファの場合、中回復を発動速度に特化したカスタムを行っている。アンバサ戦士として近接職を行う彼女の場合、迅速に『自分』を立て直すことが要求されていたからだ。

 死の恐怖に怯え、ダメージフィードバックでもがき苦しむ負傷者の手を握り、モーションを取って奇跡を発動させる。それだけで狭い回復範囲に集まった数人は救える。だが、無限には存在しない魔力の枯渇は『不平等』を生む。

 魔力切れの倦怠感と共に奇跡が尽きたと知れれば、次は自分の番だと希望を持っていた多くの人々が絶望に沈む。暴れ回る彼らを押しのけ、別の医療者が回復効果もない、だが、責めて流血・スリップダメージを押し止めるべく包帯を巻く。

 リーファも剣道女子として最低限の応急処置の技術は持っていたが、野戦病院で活躍できるには程遠い。魔力が尽きた彼女に出来たのは、荒涼とした大地ばかりで清潔な水の確保も難しい黒鉄都市周辺にて、樽に溜まった水で真っ赤なタオルを洗っては持っていき、苦しむ負傷者の手を握って無意味な励ましの言葉を投げ、その命が尽きていく光景と死への怯え、医療者達の無力を呪う声を聴き続けることだけだった。

 

「……リーファちゃん」

 

 休憩を言い渡され、野戦病院から離れた物資置き場にて、全身を真っ赤に染めたまま膝を抱えて蹲っていたリーファに声をかけたのは、今はフルフェイスの兜のバイザーを上げて顔を露にしたレコンだった。

 レコンはリーファよりも戦場慣れしているのか、幾分かこの光景も見慣れているように平静を保っている。それは彼がアルヴヘイムで歩んだ狂気の道のりそのものだったのだろう。リーファは自嘲と共に涙と血で汚れた顔を上げる。

 

「あたしって無力だね」

 

「そうだね。でも、仕方ないよ。仕方ないって……そう諦めないといけない事もあるんだよ」

 

 以前のレコンならば『そんなことない』と否定しただろう。だが、今のレコンは違う。リーファが知るレコンとは違う。たとえ、かつての自分を取り戻したとしても、地獄を見ていなかったレコンには戻れない。ならばこそ、リーファの言葉を肯定し、その上で彼女を慰める言葉として諦めを選んでいることが感じ取れた。

 どうしてお兄ちゃんが同意してくれなかったのか、今更になって分かるなんて、本当に馬鹿だ。リーファは再度顔を膝に埋める。UNKNOWNが頭ごなしに否定しなかったのは、リーファの意思を尊重したからだろう。そして、同じくらいにリーファを心配していたのだろう。戦場は何も剣を振るうだけではない。医療もまた戦場なのだ。そして、憎むべき敵さえもいないからこそ、自らに死の重みがのしかかる。自分の手で殺してもいないのに、命の重みを思い知る。

 戦いは夕暮れと共に終わることもなく、際限なく戦力は投入され続けている。黒鉄都市も疲弊が見られ始めているが、それでも明日・明後日は耐え抜くだろう。陥落はそれ以降だ。そして、それまでは止まることなく負傷者が運び込まれる。

 

「僕……何か飲めるものを持ってくるよ」

 

 夕焼けの空をぼんやりと見上げるリーファに、レコンは何か声をかけようとしたが、今の自分が何を言っても心に響かないはずだと苦々しくも認めたのだろう。背を向けたレコンを見送り、それでも彼の優しさを受け取ったリーファは瞼を閉ざして真新しい包帯が詰まった木箱に背中を預ける。

 魔力が回復すれば、また野戦病院に戻って、何とか数人救って、その後はまた同じことの繰り返しだ。死に行く者たちに意味があるのかも分からぬ治療行為を施す。

 HPがある限り死なない。それは確かに生命力という点において現実世界よりも有利と言えるかもしれない。腕が千切れようとも、腹を貫かれようと、喉を裂かれようと、心臓を潰されようとも、HPの残量が1でもあれば死は訪れない。それはDBOもアルヴヘイムもゲームシステムが適応されているからだ。

 だからこそ、救えない命もある。本来ならば命を繋ぎ止める為の医療行為はゲームシステムよって阻まれる。HPを回復させない限り、その減少を止めない限り、死は訪れるのだ。

 再び俯いたリーファの頭にふわりと柔らかいモノが触れる。何かと面を上げれば、それは血を良く啜る白いタオルだった。それを彼女に被せたのは、いつの間にか隣に寄り添うように同じく腰を下ろしたUNKNOWNである。

 

「……ゴメン。やっぱりキミを止めるべきだった」

 

「UNKNOWNさんは何も悪くないよ。あたしが世間知らずの馬鹿だっただけ」

 

 タオルで顔を拭けば、血と埃で瞬く間に汚れてしまう。今のリーファはおよそ女の子としての魅力が欠ける姿になっているだろう。だが、それを恥ずかしがることは少しでも助けた、そして助けられなかった多くの人々を愚弄することだ。

 リーファは感謝を込めてタオルをUNKNOWNに返そうとするが、もはや元が白色とも思えぬほどに赤黒く染まったタオルを渡せるはずもなく、自分の胸元で抱きしめる。

 

「少しでも食べた方が良い。ちゃんと食べて、眠って、心も体も休ませるんだ」

 

 特に精神が衰弱したリーファに、UNKNOWNは休息を取るべきだと勧める。だが、リーファは力なく首を横に振った。

 

「何も食べたくない。眠りたくない。あたしが……あたしじゃないと救えない人がいる。あたしが眠っている間に死んじゃう人たちがいる!」

 

 リーファは涙をポロポロと零し、それを両手で擦って止めようとしながら、せめて気丈に振る舞いたいと望んでもそれが出来ない悔しさを味わいながら、それでも今ここで休むことは逃避だと否定する。

 休憩は終わりだ。早く戻らなければならない。魔力も少しは回復したのだ。中回復を1度唱えれば、それだけで数人が助けられるかもしれないのだ。リーファはそう我が身を奮い立たせる。

 

「俺たちは万能じゃない。神様にはなれない」

 

 だが、UNKNOWNは立ち上がって野戦病院に戻ろうとするリーファの手を握り、無理矢理止めると、そのままやんわりと彼女に腰を下ろすように促すように呟く。

 

「医者や看護師はたくさんの人を救う。でも、同じくらいに救えない人の死にも立ち会う。そこには、俺なんかには分からない、彼らにしか知らない苦悩だってあるはずだ。でも、だからって自分を蔑ろにしてまで救い続けるなんて行為が尊ばれるべきだとは思わない」

 

「でも、誰かがやらないと……!」

 

「そうだ。誰かがやらないといけない。でも、だからこそ、同じ志を持つ人たちが集うんだ。キミだけが背負うものじゃない」

 

 諭せる程に俺は偉くない。そうUNKNOWNは示すように、自らの罪の重さに怯えるように露になっている左目の視線を下げる。

 

「確かにリーファにはアルヴヘイムの人たちには無い『力』がある。キミの奇跡は彼らからすれば、まさに神の御業かもしれない。救いの光に見えるかもしれない。だけど、それでもキミは……キミはその手が届く範囲も満足に救えない……ちっぽけな人間なんだ」

 

 それは残酷な通告だろう。そして、同時にリーファの心を救うための切開でもあった。

 リーファはこのアルヴヘイムで何も出来ていない。ユグドラシル城から脱出し、アスナの計画に従った挙句に彼女に多くを背負わせて、約束の塔から救い出すことも出来なかった。

 否定したかった。自分にも何かできることがあるはずだと焦っていた。リーファは1度だけ深呼吸を挟み、野戦病院に視線を向ける。今も多くの人が死に、また同じく救われている『戦場』を見つめる。

 

「UNKNOWNさんって酷いよね。あたしが1番言ってほしい事をズバリと言い切っちゃうんだもん」

 

 涙目で、だが責める意思はなくリーファは口を尖らせる。UNKNOWNはもう大丈夫だと感じたのだろう。リーファの手を離し、恥ずかしそうに頭を掻くと、先程の彼女がそうだったように、緩やかに夜に移ろう夕焼け空を見上げる。

 

「俺自身が痛感したことだからな。どれだけ手を伸ばしても届かなくて、その度に凹んで、全部投げ出したくなって、自己嫌悪に陥って、膝を折って、立ち直れなくて、目を背けて……挙句が『これ』だよ。虫が集った腐れの倒木さ。それでも……それでも、諦めたくないんだ。自分1人で無理なら、たくさんの人の手を借りて、今度こそ俺の『答え』にたどり着いてみせる。たとえ、それが万人に認められない、1番大切な人にも、1番の友達にも理解してもらえない、傲慢なものだとしても……」

 

 そこまで言って、UNKNOWNは立ち上がると右手を伸ばした。その手が握らんとするのは輝かしい太陽などではなく、夜の闇の訪れと共に空で淡く輝き始めた、冷たくも優しい月光だ。

 

 

 

「神様なんて関係ない。俺自身が決めたことだから」

 

 

 

 

 神を肯定も否定もしない。神の有無さえも意味を成さない。自らの意思で進むことの決意。いつだって、先も見えぬ荒野を、全身を冷たく濡らす嵐の夜を踏破するのは『人』の意思なのだから。そう示すようなUNKNOWNの立ち姿に、リーファは思わず笑みを零す。

 

「まぁ、本当は俺もリーファに偉そうなこと言えないけどな。ほら、俺ってワガママだからさ。大切な人ほどに傷ついてほしくなくて、ついつい自分だけで突っ走ろうとするだろうし。誰かを諫めるには未熟のまた未熟だよ」

 

「あははは。昔からそうだよね。でも、今度は大丈夫。止めることはどうせ無理だろうし、不毛だろうから、せめて一緒に走ってあげるから。そうすれば、ペース配分くらいは分かるでしょ?」

 

「そうそう。だからリーファもあまり無理しないでくれよ? 俺を助けるようなものだと思って――」

 

 両手を合わせてお願いするポーズをしながらウインクしたUNKNOWNだが、そこで何か違和感を覚えたように口を止める。

 しまった! リーファは思わずポロリと出た『昔』というキーワードがUNKNOWNに引っかかってしまったのだと慌て、誤魔化す為の話術を組み立てようとするが疲弊した精神と咄嗟のトラブルへの対応力の不足が露呈し、あわわわと視線を惑わせる。

 

「俺たち、何処かで――」

 

 更なる追及を試みようとUNKNOWNが1投目を放つより先に、2人の間を高速で飛来した棒状の物質が突き抜ける。それはリーファの鼻先数ミリ先を絶妙に掠める位置を通り、そのまま物資が詰まった木箱に刺さった。

 恐る恐ると目を向ければ、木箱の中身である多量の干し肉に突き刺さっているのは、黒ずんだ灰色の矢だ。

 

「お邪魔だったかしら?」

 

 思わず背筋が凍る程に素晴らしい『にっこり』とした笑顔をしたシノンは、構えている弓を変形させて曲剣に戻すと鞘に収める。首を揃ってブンブンと横に振る2人に満足した様子のシノンは、義手の左手を鳴らしながらその親指で背後の野戦病院から離れた荒野の丘を指す。

 

「ヴァンハイトさんが話をしたいそうよ。黒鉄都市攻略戦に不参加なのは重々承知しているけど、私は聞く価値はあると思っているわ。あなたはどうする?」

 

「あ、ああ。俺も行くよ。リーファも良いよな?」

 

「うん。あたしも……あ、だったらレコンも探さないと」

 

「そうだな。俺が呼んでくるよ。あの丘で良いんだな? じゃあ……そういうことで!」

 

 シノンの確認を取ったUNKNOWNは触らぬ神に祟りなしとばかりに、レコンを探すという言い訳をゲットしてシノンの笑顔から逃亡する。残されたリーファは怯えながらも、先導する女傭兵の後ろに続いた。

 

「バレるのも時間の問題ね」

 

「面目ございません」

 

 一刀両断されたリーファは、シノンなりの物理的フォローに謝罪を述べる。彼女の強引な割り込みが無ければ、UNKNOWNはあのまま……その後もリーファの正体を暴くべくアンテナを立てていたことだろう。

 ようやく立ち直った兄の為にも、余計にリーファは自分の正体を明かせなくなった。冗談めかしているが、UNKNOWNもまた自分では理解していても、他人が傷つくことを嫌い、自分で背負いこもうとしてしまう……1つの事に集中すると視野が狭くなって突っ走ってしまうタイプだ。

 

「やっぱり兄妹ね。こうして意識して見比べてみれば、あなた達って所々がとても似てるわ。精神的にタフなんだか脆いんだか分からないところも含めてね。打たれ弱いけど粘り強い。スタン・衝撃耐性は低いけど、HPと防御力は半端なく高いみたいな感じかしら。マゾなの?」

 

「あー、なんか納得しちゃいました。そうなるとスタン状態からのクリティカル攻撃を受けたらヤバそうですね。でもマゾじゃないです。マゾではないです」

 

 まぁ、血縁で言えば義理なんですけどね、とはリーファも補足しなかった。余計な一言は災いを招くだけである。

 

「泣きっ面に何とやらかしら。でも、ジョークを返せるくらいには心の余裕も取り戻せたようで何よりよ」

 

 あ、もしかしてシノンさんも気を遣ってくれている? UNKNOWNとは別の意味で急激に『お姉さん面』をし始めたシノンに、警戒心を高めるべきか、ここはデスゲームで初期から最前線に立っていた同性の偉大なる先輩に敬意を払うべきか、リーファは大いに悩む。だが、最終的にはどちらであろうとも頼るのが1番なのだろうとあっさり決着をつけた。

 この戦場に集まった【来訪者】の中で死闘と呼ばれるものに最も疎いのがリーファだ。レコンは実力こそリーファに劣るが、このアルヴヘイムに至るまでに見た地獄の分だけ成長している。話によれば、アルヴヘイム突入前にも強大なネームドだったガウェインの戦いにも参加した……とは言い難いが、トッププレイヤー達の戦いを間近で見て、なおかつ援護も成し遂げたらしかった。

 

「1年以上もデスゲームに囚われているのに。同じレベルから始まったはずなのに、あたしとシノンさんにはこんなにも大きな差があるんですね」

 

 敬うのと同じくらいに悔しさを吐露したリーファに、シノンは呆れたように小さく溜め息を吐いた。

 

「あなただって十分に強いわよ。実力の話をすれば、あなたに不足しているのは経験と装備が半分、残りの半分が心構えってところかしら。大ギルドからもスカウトがあったんじゃないの?」

 

「ありましたけど、サクヤさんが全部断ってくれてたから。それに、何か……今の大ギルドは前よりもずっと怖くて」

 

 昔はスカウトの話がくれば、心が揺らぐ程度はあった。だが、今は大ギルドに対しての恐怖心が勝っている。

 彼らは本当に完全攻略など目指しているのだろうか? もはや、DBOは大ギルドの支配という秩序と社会の下にある。彼らに歯向かう組織・個人は弾圧され、またテロリストの烙印を押されて排除される。

 過半のプレイヤーからすれば、あれこれ考えるよりも大ギルドの支配を受け入れる方が楽なのだろう。なにせ、自分たちが最前線に立たなくとも、彼らは着々と攻略を進めてくれるだけではなく、生活を豊かにしてくれる。DBO初期に比べれば、ある程度の財力を得た中堅ならば、吐き気を催すような不味い固焼きパンを齧ることも、萎びた野菜ばかりの水っぽいスープで腹を満たすこともない。大ギルドの支配下で仕事を得れば良い。

 不安があるならば宗教だってあるのだ。神灰教会は根強い人気を持ち、DBOでも確固たる信仰を集めているのは、現実世界以上に死の恐怖が付き纏い、なおかつ現実とは異なる不完全で真新しく、また性質の異なる社会においてのストレスがあるからだ。竜の神がもたらしかけた破滅の予兆と獣狩りの夜以降のレギオンの登場はそれを更に後押しした。

 

「帰りたい? 帰ったところで、前の生活に戻れると本気で思ってる?」

 

 足を止めたシノンは振り返ることもなく、だが率直にリーファに問いかける。

 それは多くのプレイヤーが抱える潜在的問題だ。たとえば、仕事を持っていた社会人がDBO経験後に元の職場に何事も無かったように復帰できるだろうか? 否だ。周囲の奇異の眼差しは止まず、腫れもの扱いされるに決まっているのだ。

 家族も必ずしも温かく受け入れてくれるとは限らない。我が子を、伴侶を、父母を以前と変わらずに接するなど不可能だ。必ず、DBO事件の闇が付き纏うだろう。

 そして、SAO事件の僅かな生還者……サバイバーと呼ばれる者たちがそうであったように、他でもないリーファがその目で見たように、精神に負った傷は社会復帰を妨げる。それは現実世界に戻った時の齟齬が大きければ大きい程に多量の出血を伴い、心は醜く抉れてしまうだろう。

 また、必ずしも現実世界に希望を残している者ばかりでもない。ならば、いっそDBOに永住した方がずっと幸せだと思う者とているかもしれない。初期ほどに困窮しているわけではないのだ。娯楽も増えた。余りよろしくないことであるが、現実世界ならば法に縛られ、また世間体もあるだろう、グレーゾーンの楽しみも多い。たとえば、ある程度のレベルがあれば、レベル1桁水準のモンスターならばパーティを組めば、ほとんど脅威にならない。それは一方的な狩猟となり、人間の持つ惨酷な部分を持たす娯楽にもなる。いや、VRゲームにおいて、より過激な表現が求められた傾向もあったのは、つまりはそういう事なのだろう。

 誰もが絶望したはずのデスゲームにこそ甘露が滴っているならば、果たして現実世界への帰還を真に望む者がどれだけいるだろうか? まだ2年経ってはいないとはいえ、今も着々と絶望と諦観が蔓延し、『現在』を生きることばかりに夢中となって、現実世界への帰還に望みも持たずに、むしろ目を背けている者がどれだけいるだろうか?

 最も現実世界への帰還を望んでいるとされた貧民プレイヤーにすらその傾向は広まっている。その理由の1つは彼らの心の拠り所にもなっている神灰教会なのであるが、確実に言える事があるとするならば、現実世界への帰還を切望している者は日に日に減り、そしてその為に行動できている者は想像以上に少ないという事だ。

 

「あたしは……帰りたい。お兄ちゃんと一緒に『家』に帰りたいです」

 

「そう。帰って、その後は?」

 

「それは……」

 

 元の学生生活には戻れないだろう。SAO事件の時はお流れになったが、政府は未成年の被害者の為の学校法人を設立するならば、リーファはそちらで社会復帰を目指すことになるだろう。

 だが、その後は? そこまで考えて、シノンの意地悪な笑みに気づいて、リーファは頬を膨らませる。

 

「ごめんなさい。でも、前向きに悩むのは良い事じゃない。私よりもずっと『まとも』よ」

 

 再び歩き出したシノンに、そういうモノだろうかとリーファは考える。

 デスゲームなど関係なく、自分の将来の夢を語れる者がどれだけいるだろうか。せいぜいが漠然とした方針を持っている者が1割いるかいないかくらいだろう。

 

「あたしは……誰かを救う仕事がしたい。警察官とか、医者……は無理そうだけど看護師とか、カウンセラーとか。どれかになりたいって気持ちがあるわけじゃないですけど、『そういう人になりたい』って気持ちはあるから」

 

 それは狂ったレコンを見てしまったからか、あるいは野戦病院で味わった地獄のせいか。いや、きっとリーファに……『直葉』に焼き付いているからだろう。

 SAO事件から生還した人々は狂い、苦しみ、壊れていた。兄もその1人だった。他の人々に比べれば、遥かに気丈に振る舞っていたかもしれないが、その胸には深く深く、底なしの暗闇が広がった谷のように深い傷痕があった。

 クゥリもそうだった。誰よりも平然としていたが、決してその心は無傷だったわけではない。それをリーファは知っている。彼が必死になって、足掻いて、努力を重ねて、ようやくつかみ取った『普通の人生』がどれだけ価値があったものなのか、間近で見ている。

 UNKNOWNの言葉が蘇る。所詮、自分はちっぽけな人間で、全員を救おうなんて神様を気取ろうなんて傲慢で、自分の手が届く範囲さえも満足に助けられない。レコンが『仕方ない』と言ったように、それは『仕方ない』と割り切らねばならない事なのかもしれない。そうしなければ、守れない心があるのだろう。だが、リーファは逃げないと誓った。UNKNOWNもレコンも見捨てないと魂に刻み込んだ。そうであるように、彼女は『救える』ならば『救いたい』という意思がある。

 ちっぽけな人間なりの抗いを神様に見せつけてやりたい。まだまだ不十分で、力不足で、資格も無い自分でも、『いつかは』と信じて……前を向いて歩きたいのだ。

 

「ふーん、良いんじゃないかしら? VRはソーシャルネットワークとも既に密接な連携が取られていたし、加速度的に拡充された革命的なVR・AR技術は社会に新たな変質を強要するって『お兄様』も言っていたわよ。DBOを脱した暁には、あなたの経験を活かしてVR関連専門のカウンセラー……なんてものを目指すのも良いんじゃない? 給料高そうね」

 

「お給料の話とか、夢が一気に錆付くから止めましょうよ」

 

「大事でしょ? 先立つ物はお金よ。愛はお金で買えないけど、お金は出会いを引き寄せるし、お金が無いと愛を繋ぎ止め難いのもの……って、私の師匠が言ってたわ」

 

 随分と情け容赦ないお師匠様なんですね、とリーファは頬を引き攣らせた。そもそも【魔弾の山猫】の師匠とは、どれ程の『凄腕スナイパー』なのだろうかとリーファは想像を膨らませる。

 師匠。リーファにとっての剣の師と呼べるのは祖父であり、また剣道部の顧問だろう。だが、DBOではほぼ我流で実戦剣術に昇華させており、多くの粗が目立つのも自覚している。UNKNOWNのように死闘の中で矯正していき、我流剣術として開花するには至っていない。特に彼女の場合は近接系奇跡を絡めたアンバサ戦士だ。純粋な剣技や体捌きだけではなく、奇跡のコンビネーションも意識しなければならない。

 持つべきは良い師であり、それは成長に繋がる。今にして思えば、少しでもUNKNOWNやレコンと同じように、ヴァンハイトの指南を受けていれば良かったと後悔を覚えた。

 

「うむ、来たか」

 

 黒鉄都市の戦場を一望できるとは言い難いが、その激戦の音色は聞こえてきそうな丘の上で、今にも割れてしまいそうな程に乾いて崩れかけた石に腰かけたヴァンハイトは、まずは到着したリーファ達に何処か決心した眼差しで迎える。それから数分後、依然としてフルメイル姿に違和感があるレコンを伴ってUNKNOWNも姿を現す。

 

「お前さんらの方針は重々理解しているつもりだ。黒鉄都市攻略戦には参加しない。それは正しいじゃろう。覚悟もない者は死体の山の仲間入り。実力があるとしても、あの都市を力ある個人が1人や2人増えたところで、早々に戦況は激変したりせんじゃろうさ」

 

 ヴァンハイトは責めない。少なくとも、UNKNOWNやシノンならば、大きな戦果を挙げて戦局を傾けさせる可能性がある。それは認めねばならない事実だ。特にUNKNOWNならば、無双の働きをすれば、それだけで士気向上にも繋がるだろう。それでも、2人は戦場に出ない。そう強く申し出たのはUNKNOWNだ。

 

「だが、このままでは犠牲が増える。あの戦場にいるのは、今戦っているのは、『使い潰される』為の連中じゃよ。それも戦略だ」

 

 リーファも説明を受けたが、この黒鉄都市攻略戦は勝利が決まっている戦いだ。いずれ疲弊し、物資が尽きるのは黒鉄都市側であり、アルヴヘイム中の戦力が補充されていく暁の翅は必ず陥落させるだろう。

 だが、いずれの勢力も来たるオベイロン戦での決戦に向けて本命の消耗は避けたい。リーファが治療にあたったのは、いずれも武器もろくに振るったこともない、食い扶持に困った若者や末端の兵士ばかりだ。

 

「こちらも投石器などの攻略兵器を準備してはいるが、鉄の飛竜たちのせいで思うように効果を発揮できんのも手痛い。奴らさえ落とすか排除さえすれば、犠牲は大きく減り、また攻略も繰り下がるじゃろう」

 

「でも、そうしないのは……」

 

「鹵獲。オベイロン相手に空中戦ができる戦力は貴重だ。鉄の飛竜をなるべく無傷で捕らえ、出来れば騎手も懐柔したい。レコン、キミはどう思う?」

 

 疑問の回答をそのままヴァンハイトに求めたリーファとは違い、UNKNOWNは既に辿り着いていただろう見解を述べる。

 兜のバイザーを今は下ろしているレコンも腕を組んで納得した様子を見せた。リーファよりも頭がキレるだろうレコンも同意するだけの根拠があるらしく、男同士で一瞬だが視線を交わしような気がした。

 レコンは自分が天才たちには及ばないと思い知った。だが、彼の頭脳は十分に強みだ。それはサクヤも密やかに認めており、リーファも彼のいざという時の爆発力とそれを支える頭のキレは見るべきものがあると前々から思っていた。玉に瑕なのは、彼自身がイレギュラー……自分の見識・常識の範疇外に遭遇すれば思考停止にも近い状態になってしまう事だろう。

 だが、レコンはアルヴヘイムで……今日まで生き残るのに多くの経験を積んだ。それはDBOの中小ギルドの1員のままでは得られなかった貴重な経験である。たとえ、それは地獄を垣間見たものであり、彼に狂気を植え付けた元凶だとしても、それは彼に成長をもたらした。

 

「僕も同意見です。そうなると、ヴァンハイトさんの提案は、鉄の飛竜を落とす。それで相違ないですか? ですけど、UNKNOWNさんが戦場を飛び回る鉄の飛竜を倒すのは骨が折れますし、シノンさんの狙撃だって一撃で倒せるわけじゃない。騎手は何とかなるかもしれませんけど」

 

 可能か否かを問うような間を置いたレコンに、シノンは数秒ほど瞼を閉ざした後に溜め息を吐いた。

 

「古竜ほどではないにしても、飛竜もタフだから、ヘッドショットを決めても落とせるかどうか微妙ね。騎手なら、じっくり狙えるポジションをくれるなら射抜けないこともないけど、この腕では前ほどに遠距離狙撃は無理だし、装備も狙撃特化じゃないから距離減衰が大きくて難しいわ。仮に騎手を射抜いても飛竜から落とせるか分からないし、落とせても鉄の飛竜は健在。むしろ、操る奴がいなくなったせいで暴れ回って被害拡大……なんて事になったら目も当てられないわ」

 

 曲剣にも変形するシノンの弓剣は、DBOでも異端の近接武器でありながら射撃武器にもなる変形武器だ。これによってシノンは流動的に近接戦と射撃戦を1つの武器でこなすことが可能である。その犠牲というわけではないが、彼女の弓剣は狙撃性能においては決して高い部類ではないらしく、遠距離においては距離減衰が特に著しいとの事だった。また、義手の影響か、狙撃において『ブレ』を感じているらしく、精密を極めた遠距離狙撃も以前ほどの精度を期待できないと本人は断言している。無論、それでも他の有象無象の狙撃手からすれば、シノンの腕前は十分に神業の部類である。

 

「せめて矢が普段使いの狙撃用だったなら、飛竜の眼球を一撃で射抜いて落とすことも出来なくはないけど、それでもあの広い、しかも遮蔽物もろくにない戦場で、狙撃ポジションを確保しろというのはなかなか無茶なオーダーよ」

 

「だったら、あたしが飛行して囮になるのはどうです? それで、シノンさんの狙撃ポイントまで誘導するとか」

 

 ヴァンハイトはリーファが飛行能力を持つことを知っている。ならばこそ、鉄の飛竜を落とす為に自分もまた呼ばれたのだと思ったが、ヴァンハイトは首を横に振った。

 

「そうなれば、リーファちゃんの周りは丸ごと敵になる。たとえ、鉄の飛竜を落とせたとしても、翅は敵意と嫉妬で『焼かれる』ことになるじゃろうな」

 

「仮にバレたとしても、リーファが傷つくのを黙って見ているつもりはない。でも、今ここでキミが翅を晒すのは得策じゃないし、敵も馬鹿じゃない。裏切りのアルフがいるとなれば、相応の警戒をしてくるはずだ。キミが囮になるとしても、食いついてくれるかどうかも怪しい」

 

「でも、リーファちゃんが数少ない有効な戦力なのも間違いないんですよね。ドラゴンは総じて雷属性に弱いし、鉄の飛竜はいかにも雷が弱点倍化って見た目ですし。上手く雷の杭を打ち込むことができれば……」

 

「仮定で話すべきじゃないわ。今は鉄の飛竜をどうやって落とすか。リーファが飛べるアドバンテージを活かす事も視野に入れて、何か策はある?」

 

 自分だけ置いてかれている気分だ。リーファは疎外感を味わいながら、議論に参加できない自分を恥じる。レコンさえもが、今は黒鉄都市攻略に向けて……被害を抑え込む為の策を考案しようと頭を捻っている。

 

「……ワシに腹案がある。黒鉄都市は黒火山の恵みを受けた、都市そのものが要塞であり、巨大な工房のようなものじゃ。途絶えることなく炉では火が盛り、武器は作られ続ける」

 

「だからこそ消耗戦には強い……か。それでも、これだけハイペースで消費させ続ければ、いずれは枯渇するし、人的資源は有限。スタミナは尽きるし、疲労も眠気も溜まる。彼らだって負傷するし、死人も……出ている。だから、いずれは勝てる。でも、それは『いつなのか』は分からない。明日は無理だろうな。明後日はあり得るだろうけど、それでも確率は低い。もしかしたら、1週間か2週間、もっと時間がかかるかもしれない。でも、武器が尽きるよりも、食料や体力の限界に達する方が先だろうな」

 

 敢えて悲観的意見を述べる者が議論には必要だ。UNKNOWNはそれを買って出て、場の雰囲気を暗くする。その上で、ヴァンハイトの言う腹案に興味があると仮面の剣士は視線を向けた。

 老兵は顎髭を撫でると懐から取り出したのは、黒鉄都市周辺の古い地図だ。その左端には女王騎士団の蝋印がある。

 

「宗教都市を発つ前に古い知り合いから借りたものだ。ティターニア教は歴史も古く、女王騎士団はアルヴヘイム全土に遠征した記録がある。オベイロンの加護の下にある黒鉄都市が襲撃された時も『友軍』として派遣され、賊の討伐に関与した。古い記録によれば、黒鉄都市は堅牢なる要塞ではあるが、水が極端に少ない。ワシも本職ではないが、工房を成すには『炉』と『種火』と『水』が最低でも必要と聞く。この水を黒鉄都市は地中深くの地下水に依存しているらしい。ここから離れた位置に渓谷がある。強大な魔物が跋扈する魔窟じゃよ。一説では黒火山から溢れてきているとされているのじゃが、誰も真実は知らん。なにせ、生きて帰った者がおらんからな」

 

 リーファも工房……つまりは≪鍛冶≫については素人だ。だが、たとえHENTAIと慄かれる鍛冶屋たちどころか本職にも1歩も2歩も劣るとはいえ、≪鍛冶≫を持つレコンならばと見識を求めて視線が集中する。

 

「確かにその通りですね。工房設備の心臓部となるのが炉で、これの性能や特質が装備開発・生産に直結します。次に種火は……永続型や使い捨て型とか色々ありますけど、これによって使える素材が増えたり変わったり、より高ランクの素材が使えるようになったり、より複雑な開発が可能になったり、特定の強化にボーナスが付いたり……まぁ、これも色々かな。噂では、何処かに【神々の種火】があって、それなら+9まで強化できるようになるとかならないとか」

 

「+9かぁ。未確定情報だけど、+7以降は特異な強化になるしいな。もしかしたら、神々の種火自体は強化を可能にするものではなくて、+7~9までの強化を可能にする他種の種火の使用を可能に――」

 

「はいはい。そういう脱線談義はまた別の機会にしましょう? レコン、話を続けて」

 

 UNKNOWNの腹に義手の裏拳を叩き込んで物理的に沈黙させたシノンを前に、全身を震わせたレコンがごくりと生唾を飲む。

 

「それで、水なんですけど、確かに工房には必要なんですよ。単純に水じゃなくて、アイテムとしての『水』。これが良質であればあるほどに、生産判定が『緩く』なるんです。プレイヤーメイドの場合、オーダーメイドでもレシピでも最終工程は同じなんです。同じ素材を使っても、その中のレアリティで攻撃力とかガード性能とか耐久度とかにバラ付きがでる。まぁ、大よそは平均で纏まりますけど、より高品質を目指すなら、補正が入る良質な水が必須。むしろ、オーダーメイドを作るなら、アイテムとしての水にも拘らないといけないんです」

 

 話している本人さえも理解度が30パーセントにも至っていないと主張するような自信がない声音に、リーファは額を右手で押さえる。さすがはDBO屈指の難関インテリスキル≪鍛冶≫だ。単純なレシピ生産ならば力業であるが、設計から始めるならば……特にフレーム開発なるリーファには線の塊以上には見えない立体映像と睨めっこしながら、更に複数の平面図に表示された数値や独自記号を誤らずに読み解き、なおかつ素材ごとのもたらすパラメータ変動、ランダム値の予測した補正の配分を行わねばならないらしいのだ。DBO以前、クラウドアースが優秀な人材発掘のための『鍛冶屋育成教室』に参加したレコンの付き添いをしたリーファは開始5分で頭が沸騰し、レコンは10分で口から謎の何かが零れただうーっとなり、15分で参加者はほぼ全滅した。そして、講義を行う講師そのものが理解の半分にも至っておらず、その場に参加していた、マスクで口元を隠した丸眼鏡をかけた男が急にキレたかと思えば叫び出したのだ。

 

『それは違う! 基礎フレーム開発はその工程を10段階に分けるべきだ! そして、基礎フレーム開発は文字通りで基礎に過ぎない! そこから内装フレームという肉付け作業がある! 基礎フレームが骨格ならば、内装フレームは内臓と筋肉! これをおざなりにしては、どれだけ基礎フレームに優れた設計を施しても意味がない! それが何故分からない!? この内装フレームは12の段階に分けられ、ここから試作し、その運用データを蓄積。それを再び基礎フレームに反映させて再開発! これを繰り返しだ。それから、フレーム深度への理解が浅すぎる! そもそも基礎フレームと一言で纏めても、それが内包するのは……うわ!? キミ達は何だ!? 何をする!? ここからが≪鍛冶≫の真髄だ!? 放せ! 放すんだ! 良いかい、キミたち! この深奥なるウェポン・クリエイティブ・プログラムをそのままゲームシステム化した≪鍛冶≫に対して、我々の思考の次元は低すぎる! 脳に瞳を……瞳をぉおおおおおおおおおおおおおお!?』

 

 あれは酷い事件だった。クラウドアースの黒スーツたちに連行されたか丸眼鏡の男は、その後に窓の向こう側で謎の女性にヒートパイルを『背後』からぶち抜かれていた。リーファは狂人の様を思い出して、頭の震えが止まらなかった。

 茅場の後継者はDBOをどのような方針を目指して設計したのかは分からないが、彼に絶対なる間違いがあるとするならば、それは≪鍛冶≫を余りにも複雑怪奇ながらも極限の自由度を……無限の可能性を与えた、まさに開発プログラムをそのままゲームシステム化した仕様で投入した事だろう。もっと簡素で分かり易い開発・強化システムにしていれば、HENTAIが誕生することもなかったのだ。リーファはそう確信している。

 

「まぁ、水だって拘りを持てば限度は無いですけど、ある程度まで質が備わっていれば良いわけですし、大量生産ともなれば安価なものでしょうから地下水をそのままアイテム化して……あー、うん、有りと言えば有りかぁ。それに生活水も必要だろうし」

 

 レコンが一応ながらもヴァンハイトの裏付けを行うと、老人は眉間に皺を寄せて地図を指差した。

 

「ワシの提案はこうだ。現状の真正面からの攻略は極めて難しいじゃろう。三重の要塞でもある黒鉄都市を落とすのは並大抵ではない。だが、精鋭部隊を結成し、この谷から地下に入り、地下水脈から黒鉄都市内部に侵入。そして、鉄の飛竜を『暴れさせる』」

 

「なるほど。敵の最大戦力をそのまま自滅の爆弾にしようってわけね。悪くない作戦だけど、問題が1つ。それはつまり、私たちは敵地のど真ん中に侵入し、なおかつ完全包囲された孤立無援になる危険性があるって事」

 

 シノンの指摘通り、仮に作戦が成功しても敵陣の中心に残される事になる。包囲されれば、幾らUNKNOWNとシノンが揃っていても、数の暴力で磨り潰されるだろう。かなりハイリスクな作戦である。

 

「いや、そうでもないかもしれない。内部に侵入さえしてしまえば、俺やシノンも慣れている、傭兵らしいスニーキングミッションだ。確かに黒鉄都市はそのものが要塞だけど、同時に『都市』でもあるんだ。全員が兵士でも騎士でもない。居住環境だって整っているだろうから市街もある。潜伏は難しくないかもしれない。それに、大軍を相手にしているんだ。戦力は都市外縁に集中して内部の警備は手薄のはずだ。これならいけるかもしれない。ただし、レコンは除く」

 

「そうね。レコンは除く、よね」

 

「うんうん。レコンは除く、だね」

 

「よく分からんが、レコン君は除く、と言っておかねばならんのか?」

 

「それ、イジメですからね?」

 

 UNKNOWNに呼応して重ねて言えば、レコンはこれでもかと隠密ボーナスを下げているフルメイルの金属音を鳴らす。この姿で何をどう言い繕って隠密行動に向いているのかと問いたいが、それは冗談だ。現地に到着すれば、全員が市街に溶け込む為に装備を変更するだろう。後は上手く振る舞えるかどうかであるが、それは出たとこ勝負しかない。

 ハイリスク、ハイリターン。だが、このまま『勝利』が決定した戦いを見守るよりも、ずっと有意義である。何よりも、UNKNOWNには別の意図もあるようだった。

 

「できれば彼らを降伏させたい。市街があるなら、このまま戦闘が継続すれば、民間人にだって大きな危害が及ぶはずだ。鉄の飛竜を暴れさせるにしても、戦えない人たちに犠牲が出ないようにしたい」

 

「敵の士気を砕く、か。ならば、敵将を討つか、鉄の飛竜をすべて倒すか、奴らのオベイロンへの忠誠を奪うか。その全てを成しても彼らは戦うことを止めぬかもしれんぞ? 何よりも、剣を再び血に染めねば決して成せんだろう。それでも望むか、二刀流?」

 

「……『出来ないかもしれない』で『やらない』はしたくない。正直言って、まだ人を斬るのは怖い。誰かを殺すのが……とても恐ろしくて堪らない。それでも、この罪と1つ1つ……ゆっくりとでも……時間をかけてでも……向き合っていくって決めたんだ。だから、俺は……逃げたくない」

 

「甘いな。戦場でその甘さが命取りになることは常じゃ。だが、嫌いではない。良かろう、二刀流。元よりワシが誘った策だ。好きにしろ。そもそも、あの魔窟はワシ1人では抜けられんだろう。ワシの方こそ、よろしく頼む」

 

 頭を下げたヴァンハイトに、UNKNOWNは右手を差し出す。頼み合うのではなく、戦友として肩を並べさせてくれと願うように。それをヴァンハイトは遠い過去を懐かしむように、かつて彼にもいただろう戦友たちを思い出すように握り返した。

 黒鉄都市さえ陥落させば、黒火山への道が開かれる。そうすれば、犠牲になる人々は減るはずだ。

 だが、同時にリーファは胸に痛みを覚える。それ即ち、味方ではなく敵に被害を多く求めるということだ。それは戦場において正しいことかもしれないが、リーファの心はそれを受け付けようとしない。

 ああ、それこそ神様気取りなのだろう。敵も味方も殺したくないならば、何もしない傍観者になれば良い。いつか自分の胸に刃が突き刺さるその日まで。

 救いたい。守りたい。生きたい。仲間の1人でも多くを助けたい。兄を守りたい。そして、自分も生き残りたい。

 そんな自分勝手でシンプルな理屈で良いのだろう。たとえ、夜の訪れと共に苦悩が押し寄せるとしても。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 シェムレムロスの館への1本道。だが、それはすぐに敷地への侵入を扉に阻まれる。

 無論、これはダンジョンであり、壁を駆け上がって内部に侵入などの『ショートカット』の多くが禁じられる。まぁ、ギルドが作る要塞などにも≪歩法≫のウォールランの効果を阻んだり、ジャンプに対しての減衰作用があったりなど、簡単には侵入できないようになっているが、ダンジョンの場合はこの禁則がより露骨だ。なにせ、過半が破壊不能オブジェクトであり、見た目はボロボロの木の扉でも鍵が無ければ開かないなどは日常的光景である。

 そして、侵入できないダンジョンなど、それこそ破綻している。シェムレムロスの館は月明かりの墓所の過半を占めた伯爵領の城、城下町、ウルの森と違い、後継者の監修・設計の下にあるはずだ。ならば、ヤツなりの美学が存在する。

 

「だからと言って、最初が『これ』とはな」

 

 下水にしては余りにも毒々しい赤色。それは腐敗の域を超えて、また多くの汚水とも混ざり合った多量の血液。そして、内側から流れるそれに対して壊れた柵。ここが入口だと言わんばかりの主張だ。さすがは後継者、露骨だ。侵入の為に毒状態が必須とは汚い。

 血とも呼べぬ液体に触れて確かめるが、どうやらレベル1の毒のようだ。さすがの後継者も限度を弁えていたか。ヤツならば、レベル3くらいは準備していると踏んでいたのだが。いっそ不気味だな。だが、これならばオレには問題ないだろう。躊躇なく右足を入れ、左足を続ける。膝まで浸かった毒血が皮膚に浸透してくるような痛みを伴うが、それ以外は特に何もない。オレもまたレベル1の毒を発症することはない。これは聖樹戦での『仕込み』を継続しているお陰だ。

 

「……急ぐか」

 

 混ざっていたとしても、これもまた血だ。刺激が強過ぎる。単純に知覚としての血臭ではなく、あまりにも濃厚で豊潤な血のニオイを本能が嗅ぎ取っている。それはシェムレムロスの館全体から止まることなく溢れているようだった。

 まるで夏場に放置された屍が一夜と待たずして腐敗して死臭を漂わせるように、シェムレムロスの館自体が長年に亘って蓄積された血のニオイで満ちている。

 折れた柵の間から塀の内側に潜り込めば、余りにも大き過ぎる銀色の月の下、数多の塔が繋がり合ったシェムレムロスの館を真下から見上げることができた。どうやら複数の塔が繋がり合う中で、本丸とも言うべき居城があるようだ。それは館の最上であり、そこにこそシェムレムロスの兄妹がいるのだろう。

 まずは塔内部に潜入しなければならない。毒血の沼地には、体重をかければ危うくも底抜けしそうな腐った木の橋が迷路のように組み込まれている。どうせ毒は発症しないのだ。足の痛みを除けば、そこまで焦って探す必要はない。

 あれ程までに明るい銀色の月が空に鎮座しているというのに、毒血の沼は暗く湿った闇に満ちている。左目を覆う眼帯を撫で、まずは義眼のソウルの眼で周囲を観察すべきかとも悩むが、魔力の消費が大き過ぎるので却下した。

 毒血の沼の底はブヨブヨとした泥に満ちている。だが、よくよく見れば……いや、そうでなくとも、各所で浮き上がっている遺体の数々を見れば、この毒血の沼の底に沈殿しているのは数える事も出来ない程の死体であり、それが腐って腐って腐り果てて汚泥となっているのだと理解するだろう。

 特に思うことはない。この光景はまだ『マシ』だ。アルヴヘイムに来た頃、まだPoHやザクロと旅していた時に出会った、奥底に潜む願望が露にされた時に見た、オレが望んだ殺戮の夢の光景に比べれば、児戯に感じるほどに可愛らしい。

 まるで蓮のように毒血の沼で咲くのは、タンポポにも似た白くふわふわとした花。それは死体を養分にしているかのように咲き誇り、オレが迫れば風に吹かれたように種と共に散る。

 白の森とは違い、≪気配遮断≫機能し、隠密ボーナスも低下していない。慎重に息を殺して進み、戦闘は最小限に抑えることが望ましい。だが、それでも避けられない戦いはある。踏んだだけで軋む以前に砕けそうな木製の階段を上り、毒血の沼の全体にかけられた橋に上がれば、進路を妨害する影があった。

 

「早速お出ましか」

 

 それは巨大な芋虫だ。全高は1メートルほどであるが、その長さは2メートルにも達する。だが、足はどちらかと言えば百足に近しい節足である。

 だが、その頭部は人間だ。それも3人……いや、4人の大小様々な頭部が張り付いている。それらは理性も正気もなく、毒血と同じ液体の涙と唾液を零しながらオレに迫る。

 体を曲げてからの単調な跳びかかり。それを体を傾けて躱しながら、逆にその顔面に膝蹴りを叩き込んでカウンターを決める。ひっくり返った人面虫の腹に右手の手刀を潜り込ませ、内臓を抉り取る。爪痕撃をわざわざ使う必要もない。

 HPはかなり低いようだ。一撃で絶命したが、体液にもレベル3の毒があるようだ。レベル3の毒は現状では蓄積してしまう。倒す際はなるべく体液を浴びないように注意しなければないか。

 こういう時に七色石が欲しくなるのだが、無いものを欲しがったところで空から降って来るわけでもない。次々と現れる人面虫を蹴り飛ばし、橋の下に落下させながら、オレは塔内部に侵入出来そうな場所を探す。

 だが、どうやら木の橋は毒血の沼に浸からない為の処置のようであり、塔への入口に通じるものではなさそうだ。仕方なく、飛沫を上げながら再び毒血の沼に戻り、探索を再開する。そうして、木の橋の下に全身に見たことも無い、蛆とも百足とも異なる青く細長い虫に集れた遺体を発見する。外観はフリューテッド装備か。虫を左手で払い除けながら触れれば、アイテムの獲得画面が表示される。

 

<結晶火の松明:シェムレムロスの魔女が生み出した結晶の青い火。それは魔力の火であり、師である白竜シースの創造物である結晶の種火にも等しい、最古の魔法の産物である。だが、それは古竜の神秘に近しい。これはその火を灯す白木の松明である>

 

 着火させれば、銀狼が使っていたのと同じ、青い炎が灯る。散るのは火の粉ではなく結晶の塵だ。銀狼が使っていたものとは違い、攻撃力には期待できなさそうであるが、この奇妙な暗闇を程良く暴くほどに照らす。

 松明を使えば隠密ボーナスは大きく下がるが、今は仕方ないだろう。塔内部の入口を探すのが最優先だ。  

 風景は同じというわけではないが、似通っているせいか、自分が何処にいるのか見失いそうになる。シェムレムロスの館にたどり着いた時点で探索者の羅針盤も意味を失った。ここからは道案内など無く、自力でシェムレムロスの館を突破しなければならない。

 出現するのは人面虫、そして毒血の沼を歩くアメンボだ。それは全身に結晶を生やしており、好戦的ではないが、近寄ると爆発して魔法攻撃を仕掛ける。言うなれば動き回る機雷のようなものだ。動きは単調なので発見さえすれば、対応は難しくない。

 結晶火の松明のお陰か、今まで何も見えなかった毒血の沼に、青い炎が幾つか灯る。結晶の火は呼応し合い、自然着火するのかもしれない。憶えておくべきか。

 ……どちらでも構わないか。罠でも何かしらの情報は得られるかもしれない。青い光を追っていけば、塔内部への入口……というわけではないが、縦穴を発見する。その真下には多量の死体が山積みになっている点を考慮するに、遺体廃棄用の穴だろう。ご丁寧に結晶が生えていて、上手く内部に潜り込めるようになっている。

 幾つか存在する侵入ルートの1つのかもしれないな。もっと安全な場所はあるかもしれないが、今はここを使うのが最短の道のりになるだろう。遺体を足場にして縦穴の壁面に生えた結晶を掴む。今にも砕けそうな程に脆そうな結晶だったが、オレが体重をかけても壊れる様子はない。松明を口に咥えて、慎重に進む。

 そうして縦穴を登り終えれば、そこには広がっていたのは手術室……いや、トロイ=ローバで幾度もなく目撃した実験室だ。手術台には全身が干乾びてミイラのようになった遺体が横たわり、その胸部や肩、太腿からは結晶が生えている。

 内部の壁面は薄いブルーであり、結晶の侵蝕を受けているが、異常なほどに暗い。だが、結晶火の松明は実験室の燭台とも呼応し、明るく照らす新たな青い火を点らせる。

 シェムレムロスの館の攻略法の1つが見えた。恐らくだが、この館全体には白の森を覆っていた暗闇と同じ魔法がかかっているのだろう。それは秘匿であり、結晶の火でなければ暗闇は晴らせない。どれだけ空の銀色の月が明るかろうとも、他の光を準備しようとも、この館では無意味なのだ。結晶の火だけが照らし出す。

 だからこそ、頼るのは禁物だ。館に侵入できた以上は松明を消すのが最適解である。必要な時以外は使うべきではない。結晶火はこちらの制御など関係なく、一定の距離に達すると自然着火すると見て間違いない。時間経過とともに消えるのかは不明だが、自然着火した場所が広がれば広がる程に隠密行動は難しくなり、また敵に位置を教えることになる。

 完全な暗闇ではない。視界は悪いが、注意すれば問題ないし、そもそもオレの場合は視覚を当てにして行動できる状態ではない。実験室の内鍵を開け、外に出れば、中央が吹き抜けになった塔の内部に侵入が明らかになる。

 それは牢獄だ。全部で何階あるかも分からない、何室あるかも数えられない、巨大な監獄である。そして、看守らしき人影が巡回している。

 いや、形状は人間に近しいが、違う。その頭部はタコであり、手には結晶火が灯ったガラス製のランタンを持っている。ゆったりとした動作で歩き回っているようだが、索敵範囲は不明だ。そもそも視覚で索敵するタイプなのかも分からない。

 床にも壁にも天井にも結晶が侵蝕しているせいか、ちょっとした動作で物音が鳴ってしまうだろう。足音には最大限に注意せねばならない。こういう時に≪消音≫スキルがあれば探索にも余裕が生まれるのだがな。それに、この暗闇も≪暗視≫があれば、少しはマシになるだろう。

 ……まぁ、足音くらいならば何とかなるか。狩りの基本は悟られないことだ。山を走り回っても獲物に気配を察知されない為には、ニオイを消すのが1番だが、次に音を立てないこともまた求められる。呼吸音さえも沈黙の中に隠さねばならない。

 

「牢獄というよりも拷問室だな」

 

 天井からは吊るされた、先程と同じ干乾びた人間が揺れている。目玉があるべき場所は窪んで暗闇に浸されていた。それは、DBOでも人型の雑魚である亡者によく似た姿だが、何かが違う。

 亡者とは不死の成れの果てだ。火が陰ると人間から不死が生まれる。文字通り、死ぬような致命傷を受けても蘇る存在だ。だが、無限に蘇られるわけではなく、死ぬ度に正気を失っていく。記憶や人格が欠損していくのだ。一説によれば、不死が亡者にならない為に最も必要なのは折れない心らしく、それを持ち続けた者は亡者にならずに踏み止まれるという。まぁ、それでも限度があるらしいので、余りにも過度に人体を破壊されれば、心うんぬん以前に亡者になってしまうらしいのだが。

 この亡者は大抵の場合、貧相な恰好をしている。装備は整備も出来ないので朽ちるか、あるいは死んでいる間に剥がれてしまうからだ。それでも、立派な騎士装備でありながら亡者というパターンもあり、こちらの場合は普通の亡者と違って繊細された動きで攻防が可能だ。それ、亡者の定義としてどうなのだろうか? まぁ、戦いは魂が……いや、血が知っているというのはオレも大いに納得できることではあるのだがな。

 

「……記憶と人格の欠損、か」

 

 オレと同じだな。致命的な精神負荷を受容する度に、灼ける度に……記憶が薄れていく。それは『オレ』を焦がして灰にするという事だ。彼らとの違いがあるとするならば、オレは死んだらコンティニュー不可という点だろう。亡者とは言うなれば無限コンティニューの成れの果てなのだから。

 ここに囚われている者たちはいずれも耳が尖っている。翅を失った妖精たちだ。抜け殻のゲヘナの話によれば、アルヴヘイムに居着いたシェムレムロスの兄妹は、人攫いを始めたんだったな。その手先となったのが月光蝶であり、『永遠』に魅入られた同胞であるはずの妖精だ。故に、シェムレムロスの妹……アルテミスは狩りの女神、銀月の君と呼ばれた。今では単なる狩猟の加護を成す女神として信仰されているようだが、その信仰の源流にあるのは『永遠』の研究の為の人攫いとはな。

 しかし、オレの見たところにとれば、彼らは亡者とはどうにも違う気がする。似てはいるが、何かが違う。そもそも、この拷問室のような風景は何だ? 先程の実験室はまだ分かるが、ここに囚われている者たちは、鎖によって吊るされ、あるいは棘だらけの拷問椅子に縛られている。

 苦しみを与える。その為だけの牢獄なのだろうか。思い出したのは、クリスマスダンジョン……AIとして複製された月夜の黒猫団たちの末路だ。ただひたすらに痛みを与えられ続ける存在と成り果てていた彼らは、ただ痛みを訴えていた。

 と、そこで背後から悪寒が走り、オレは振り返る。だが、そこには誰もいない。気のせいかとも思うが、ヤツメ様がオレの左手を握って警告を訴える。即座に背負う死神の剣槍を右手で抜き、振り返るより先に背後に振るう。打撃ブレードは確かな手応えを指先から腕にかけての痛みで教えてくれる。

 タコ看守だけの温いエリアであるはずもないか。それは青いガス状の靄に包まれた球体だ。それは細胞に似て、中心には細胞核のような赤い塊が脈動している。オレの攻撃を受けて吹き飛ばされ、壁に激突すると潰れてゲル状になって崩れた。だが、同時にその遺体は泡立ち、まるで警鐘のような甲高い音を奏でる。

 ……ヤツメ様、これ倒しちゃいけない系の敵みたいですよ? オレがジロリと見れば、ヤツメ様は鳴らない口笛を吹いて顔を背ける。まぁ、サーチ&デストロイ&ジェノサイド以外には役立たずなのは今更どうしようもない事だ。攻撃すれば逆に不利になる敵がいる。これを憶えただけでも良しとしよう。

 警鐘は瞬く間に巡回しているタコ看守たちを引き寄せる。オレは隠れ場所を求めて走るが、それは足下の結晶を砕く行為でもある。

 あれ程までにゆっくりと巡回していたタコ看守だが、オレを発見した途端に恐ろしく速度を上げる。走っているというよりも、歩きを早送りにしているような不気味な動きだ。そして、手元の結晶火が灯ったランプを揺らせば、それは魔法の触媒なのか、緑色の電撃の塊が放たれる。だが、飛距離は短いらしく、オレに命中するよりも先に消失する。

 逃走路の前方からもタコ看守が現れる。挟み撃ちか。この狭い通路では逃げ場がないな。距離を詰めるタコ看守たちに対し、オレは一呼吸を入れる。

 背後のタコ看守が再び放った緑の雷撃。それに対してオレは中央の吹き抜けへの落下防止の柵を掴み、そこで逆立ちしながらギリギリで緑の雷撃を躱す。そして、緑の雷撃は前方から迫っていたタコ看守に直撃する。HPは減らず、だが緑の雷撃を浴びてスタン……いや、まるで麻痺したかのようにタコ看守は動かなくなる。それに対して、緑の雷撃を放っていたタコ看守はその円形の口に隠された太く鋭く湿った針を一瞬だけ飛び出させ、オレを攻撃できないことを悔しがるようにゆっくりと戻していく。

 緑の雷撃で強制的に拘束。その後は口内の針で大ダメージといった流れか。柵から通路に戻り、まだ痺れたままのタコ看守を背後から死神の剣槍で腹を貫く。そして、そのまま押し倒すと薙ぎ払いに派生させ、打撃ブレードで抉り斬る。

 やはり耐久力は低いようだ。もう1体のタコ看守は仲間の死に怯える様子もなく迫る。そこに『命』は感じない。オペレーション通りに動くAIであり、それ以上のものではない。

 接近と同時にタコ看守はランプを揺する。それは空間を歪める衝撃波を生み、全方位への攻撃となる。狭い通路で拘束攻撃持ちを相手にするならば、その脇を抜けて回り込むことがベストだ。それを潰す攻撃を持っているのはなかなかに厄介だ。

 だが、それだけだ。死神の剣槍を投擲する。範囲攻撃の終わったタイミングでその口内に突き刺さり、ノックバックしたところで即座に迫って死神の剣槍を掴むと体を反転しながら振り抜く。打撃ブレードが強引にタコ看守のブヨブヨとした頭部を縦割りにし、その血飛沫がオレの背中を染める。

 拘束攻撃と範囲攻撃。この2つがタコ看守の主な攻撃法なのだろう。地形を利用した嫌らしい攻撃であるが、分かっていれば対応は幾らでも可能だ。

 

「上に行くべきか。それとも下か?」

 

 連なった複数の塔。それらは監獄であるようだ。何か秘密はありそうであるが、まずは素直に館の本丸を目指すべきか?

 まだ動ける亡者たちは牢獄の柵をつかみ、頭をぶつけ続けている。言葉にもならない呻き声を漏らし、拷問椅子の上で体を揺さぶっている。だが、牢獄の鍵は開かない。オレは彼らの苦しむ姿を横目にしながら通り過ぎることしかできない。

 左手で口元に触れる。唇は薄くだが……嬉々と歪んでいた。この光景を前にして、オレの嗜虐の牙は擽られている。

 

「…………」

 

 探索に集中しろ。『獣』に呑まれるな。何度もそう言い聞かせる。

 眠気が意識を蝕む。眠れば、オレは『オレ』ではないかもしれない。血に酔い、『獣』になったオレが目覚めるかもしれない。それが堪らなく恐ろしい。

 死も強敵にも恐怖は抱かない。希望も絶望も無く戦える。殺し続けられる。

 だが、最も求めていたはずの一夜の微睡みが今になっては最も恐ろしい。ただ目覚めた時に、彼女の笑みがあれば、そこに赤紫の月光があれば、オレは……きっと安心できたんだ。オレはまだ『オレ』のまま眠りから戻ることができたのだと、信じられたのだ。それはたった1つの祈りが楔となった、オレが『獣』とか『人』とか関係なく、『オレ』として一夜の微睡みを甘受できる縁だった。

 血と闘争の中で、どれだけ『獣』に近づいても必ず戻れるという……暗闇を照らす月光だった。たとえ、それが欺瞞の光の糸だとしても……何かに縋りたい『人』としての『弱さ』がオレには必要だったんだ。

 

「……甘ったれが」

 

 恥を知れ。狩人の末裔が弱音など吐くな。オレの『弱さ』が彼女を呪った。オレの祈りが彼女を壊した呪いとなった。

 ああ、そうなのだろうな。オレは結局、きっと、誰よりも『弱い』のだ。ここに1人でいるのが何よりの証拠だ。いつだって、どんな時だって、『人』の『強さ』に……その眩さに目を細めるばかりだ。太陽の光の下に憧れを抱きながら、その実は血の海に浸された終わらぬ闇夜にこそ生き甲斐を覚えている。

 違う。オレは……オレだって……ずっと仲間が欲しかった。一緒に戦ってくれる人たちが欲しかった。だから、SAO末期は地獄と呼ばれていても、オレにとっては大切な時間だった。彼らの狂っていく様に何処かで愉悦を感じ、それでも共に戦うことに安寧を覚え、『アイツ』に背中を任せられた。

 終わらぬ戦いと殺しの夜。それを1番欲しているのはオレなんだ。だって、夜が終われば、オレには何も残らないから。戦う以外に……殺しの能しかないオレには……!

 揺れている黄金の稲穂が揺れている。だが、火の粉が散っている。あと僅かで灼けてしまう。ヤツメ様はそれを望んでいて、黄金の稲穂さえ灼けてしまえば、オレはきっと『獣』になると囁いている。

 タコ看守の背後を取り、その首を右腕で締める。ランプで全方位攻撃されるより先に、崩れて尖った柵の先端にタコ看守を叩きつけ、その口内を突き刺す。一撃で絶命しないならば、何度も何度も叩きつける。

 得られたのは【月光蝶の香液】だ。使用すれば、一時的に魔力回復速度を上昇させることができる。細い直方体の透明な瓶の中には、月光蝶の象徴である2本の捩じれた角、その欠片が浸されていた。

 と、そこでオレは妙な程に結晶火が集まった牢屋を発見する。それは他とは違い、鍵がかかっておらず、扉も開けられたままだ。罠かと警戒しながら内部を覗き込めば、そこには異形の住人が壁にもたれかかっていた。

 それは蛇人だ。頭部は大蛇であり、全身には薄い緑の鱗が並んでいる。結晶が張り付いた革製の装備だ。傍らには得物らしき結晶が侵蝕している大鉈だ。

 

「ほほう。こいつは珍しい。終わらぬ偽の月夜にお客様だ」

 

 外観はともかく友好的に蛇人は話しかけてくる。オレは死神の剣槍を背負って敵意が無いことをアピールしながら、だが警戒を怠らずに距離を詰める。蛇人はシースの被造物であり、その手足となって働く。ならば、シェムレムロスの兄妹の部下であるかもしれない。

 

「俺は【ジェイド】。皆は【くたびれた】ジェイドと呼ぶ。ククク、名前なんて俺達には何の意味も無いがね。アンタは?」

 

「失礼しました、【くたびれた】ジェイド。オレは傭兵にして狩人。名はありますが、一夜にも満たぬ出会いならば、敢えて名乗らぬのも趣があるというものでしょう。どうぞお好きにお呼びください」

 

「狩人ねぇ。アンタもアルテミス様が言う『永遠』って奴を求めてきたのか?」

 

 ああ、そうか。アルテミスの配下だった妖精たちも同胞狩りの狩猟者であり、即ち狩人とも呼べるか。ややこしいな。

 

「オレはシェムレムロスの狩人ではありません。『永遠』にも興味はありませんね。そんなくだらないものに何の価値があるのでしょうか」

 

 さて、主を馬鹿にされた時の反応はいかに? とはいえ、大よそは見抜けているがな。ジェイドの口振りと眼差し、そして【くたびれた】という二つ名。ここから察するに、彼は人型ではない友好NPCだろう。アルヴヘイムの原初から住まうNPCだ。

 ジェイドの蛇の双眸には『命』がある。ならば、変質したアルヴヘイムの影響を大きく受けているかもしれない。注意して接するべきかもしれないな。

 

「そうだな。アンタも見ただろう? 酷いものさ。翅を失った妖精だか何だか知らないが、同胞に狩られ、アルテミス様の『永遠』の探究の実験台にされちまった。俺の仕事は毎日の巡回と遺体の廃棄。だが、アルテミス様を信奉するイカれた探究者共のお世話にも疲れちまってね。こうして無味にサボっているのさ」

 

「探究者というのは、あのタコ頭の看守ですか?」

 

「まさか。連中は知性もない、ちょいとばかし獰猛な人形と同じさ。誰も逃げ出さない牢屋を『永遠』に見回り続ける。今や探究者は滅多にここに来ない。なにせ、ここは昔こそ本場だったが、今では廃棄場同然だからな。サボるには丁度良いってわけさ。で、狩人さんは何の用でここに?」

 

 さて、どう答えたものか。素直にシェムレムロスの兄妹を殺しに来たと言えば、さすがのジェイドも仕事に精を出して襲ってくるかもしれない。だからといって、『永遠』に興味がないと言った手前、誤魔化すにしてもこれといった方針が思いつかない。まずいな。こういう時に交渉力の無さを実感する。後先を考えて言葉を選ばないとな。

 

「……まぁ良いさ。ここの英知が目当てだろうと、アルテミス様を殺そうと、俺には興味がないね。見なよ、狩人さん。あの大きな銀色の月は、アルテミス様が作った魔法の幻さ。欺瞞だと思わないか? 月は暗月の『女神』グウィンドリン様を意味し、同時に我らの祖先を生み出したという白竜様の象徴でもある。故に月は魔法の力らしいが、俺には出来の悪い宝石以上には思えないがね」

 

 やはりか。どれだけ時間が経っても夜が明けないかと思えば、この月夜はアルテミスが作っている幻なのだろう。本来のアルヴヘイムの時刻は関係ない。だからこそ、あの月はどれだけ輝いていても世界を照らすことはない。

 

「シェムレムロスの兄妹は、どうして妖精たちをあのように? 廃棄場と聞きましたが、折角捕らえた実験体ならば、もっと有効活用すべきなのでは?」

 

「……狩人さんは恐ろしいねぇ。ククク、これも意味があることなのさ。なぁ、アンタ。不死って知ってるか? 妖精だか何だか知らないが、要は連中も名の知られぬ小人の子孫。人間なのさ。ここは妖精を不死にする為の実験場でもある。まぁ、今のところは失敗してなり損ないの亡者になっちまうみたいだがね。連中は不死でも何でもない。死ねばそれまでさ」

 

 だから亡者のような外見に? そもそも、どうして最初の火が消えかけると人間が不死となるのかは分かっていない。だが、それもまた呪いらしく、不死の呪いを解く為に火が陰る度に英雄が火を継いだらしい。火が再び燃え盛れば、世界から不死の呪いが消える。それは永遠の繰り返しであり、DBOの世界はそうして存続されていた。

 だが、終末の時代では火継の因果は終わりを迎えた。火は陰らなくなり、誰も火を継ぐ必要はなくなったのだ。何があったのかは謎だがな。とはいえ、終末の時代は銃弾とレーザーとミサイルが飛び交う世界だ。神々も王も必要とされない時代だ。何があっても不思議ではない。

 

「シェムレムロスの兄妹に謁見するにはどうすれば良いか、お分かりになりますか?」

 

「ククク、やっぱり殺しにいくのか? そりゃ面白くなる。ほら、見えるか? あの大きな城こそアルテミス様がいらっしゃる場所であり、実験棟さ。そこに行くためには幾つか方法はある。監獄の塔を繋ぎ合う橋を渡るか、あとは下水道だな。外を見ただろ? あの腐った血の沼は、ここで廃棄された遺体で作られたものじゃない。まぁ、大元はここから捨てられた死体で作られたんだが、今ではここの遺体はどれも干乾びちまってるからな。あの実験棟から流れる血と屍こそが源流さ」

 

 上に向かって橋を渡り歩くか、それとも下水道か。どうやらジェイドは2つのルートを提示してくれる案内役を担うNPCのようだ。『命』がある分だけ長い時間をここで過ごすのは、まさに『くたびれる』だろうが、NPCにはそうした実感を抱かない処置が施されている。まぁ、それでも『気づいてしまった』NPCやネームドはいるわけだがな。彼らはこの世界の裏側……ゲームシステムに勘付くことはなくとも、違和感を覚え、そして破綻していく。

 さて、どちらにしたものだろうか。個人的にはまた毒血の沼に戻るのは……別にどうでも良いか。むしろ、障害物が無さそうな橋ルートの方は敵襲が多くて消耗が激しそうだな。

 

「待ってくれ、狩人さんよぉ。忠告なんだが、どうにも最近は館の様子がおかしい」

 

 出発しようとしたオレに、ジェイドはやや困惑を示したようにチロチロと赤い舌を出す。

 

「いやな、どうにも見慣れない連中が増えているんだ。もう長い間に亘って『永遠』の研究は進んでいなかったはずなのに、不気味な怪物がどんどん増えてやがる。それに今まで無かったはずの『黄色の衣』を見たんだ。あれが現れてから……館は前よりもおかしくなっちまった。アンタ、注意しなよ。これは餞別だ」

 

 入手したのは【蛇人の丸薬】だ。一時的にSTRを上昇させる効果があるらしい。純粋なバフアイテムか。ありがたく貰っておくとしよう。オレは【くたびれた】ジェイドに一礼を取り、彼の棲み処である開けっ放しの牢屋から出ると、上下のどちらから侵入すべきか悩む。

 何よりもジェイドが述べた『黄色の衣』が気になるな。黄色の衣といえば、まるでエリンギような頭部を丸ごと覆うターバンがDBOでは有名だ。彼らもまた探究者であり、それはウーラシールに源流を持つとされているが、オレも詳しくは知らない。

 ……下水道を行くとするか。タコ看守の索敵を潜り抜け、仕方ない時は武器ではなく素手で撃破しながら、オレは階段を使って下へ下へと進んでいく。そうして、ようやく塔の1階にたどり着けば、あの毒血の沼の香りが鼻孔を擽った。

 下水道は何処だ? オレは水流を探すべく目を凝らすが、この暗闇ではな。そもそも毒血の沼は淀み過ぎている。流れがあるとは思えない。結晶の侵蝕を受けた両扉を開け、多量の香が焚かれた通路に出る。まずいな。レベル1の麻痺だ。これは『仕込み』の範疇外だな。すぐに切り替えはできるが、そうなると物資を1つ無駄にすることになる。それは惜しい。だからといって、この通路を満たす色付きの香に触れることなく突破するのは不可能だ。

 足下の小さな瓦礫をつかみ、武装侵蝕を施す。どす黒い血がまるで血管を張り巡らすように侵蝕は強化を成し、即席のそれなりの投擲武器となる。とはいえ、元が石ころなので攻撃力にも限度はあるが。

 香を焚いている壺に投げつけるが、甲高い金属音を響かすだけで壊れる様子はない。破壊不能オブジェクトではないようだが、耐久力はそれなりだな。ザリアならば破壊も難しくないだろうが、ここで限りある物資を使うわけにもいかない。

 オレが立てた物音を耳にして、色付きの香で満たされた通路にタコ看守が現れる。平然と歩いているところを見るに、麻痺は無効化か、かなりの耐性があるとみて間違いない。あくまで緑の電撃は拘束攻撃であり、麻痺を蓄積させるものではないという事だろう。

 ……ヤツを利用するか。小石を掴んで、もう1度武装侵蝕させると索敵しているタコ看守の後頭部に投げつける。振り返ったタコ看守の前に敢えて飛び出し、更にもう1発投擲する。これに対して防御で結晶火のランプによる全方位攻撃を繰り出すタコ看守だが、それは香を焚いていた金属壺を巻き込んで破壊する。

 ご苦労さん。香が薄まった通路を駆け、緑の雷撃を右サイドステップで躱して即座に前方ステップで距離を詰め、その喉を左手でつかんで床に叩きつける。そして、牙もない円形の口に右手を押し込み、今度は爪痕撃で中に隠された……体液を啜る為のもう1つの口とも言うべき注射針のような構造をした針を引き摺り出す。

 のた打ち回るタコ看守の喉を左腕で圧迫し、左膝で結晶火ランプを掴む左手首を圧迫させる。武器を手放したタコ看守など、もはや恐れる必要はない。格闘攻撃も持たないならば、反撃を考慮せずに一方的に殴りつければ良いだけだ。

 タコ看守の死体を一瞥し、頬に飛び散った体液を袖で拭う。やはり『命』が無い相手は駄目だな。まるで血が疼かない。血の悦びを得られない。

 

「……ッ! 違うだろう!?」

 

 何を考えている? オレは額を壁に叩きつけ、その痛みで正気を取り戻そうとする。『獣』に傾いていた意識を引き戻す。だが、そもそもオレにとって正気とは……狂気とは……何なのだ?

 分からない。何も分からなくなっている。今はまだ大丈夫だ。ちゃんと『獣』と『人』を意識できている。だが、耐え切れない飢えと渇きはいずれ、それさえも……!

 額から垂れた己の血を舐め取り、通路を進めば、ご丁寧に階段が拵えられた毒血の沼に戻る道があった。だが、それはオレが侵入した外縁部からは入れないだろう、館の本丸へと続くと思われる暗闇の洞窟があった。

 下水道……と言うべきなのか? 何にしても、ほとんど分からないが、確かにこの洞窟の向こう側から毒血は微かな流れを持って運ばれている。

 普通の光は役に立たないだろう、シェムレムロスの兄妹が施した暗闇の魔法。それを払うのは結晶の火だけだ。結晶火の松明を使うべきか悩みながらも、オレは暗闇の洞窟の内部入り込む。

 視界は完全な暗闇。膝まで浸かる毒血は相変わらず皮膚に浸み込んで痛みを覚えさせる。何度かバランスを失って倒れそうになるが、その度に踏ん張って堪え、痛む心臓にもう少しだけ、あともう少しだけと誤魔化して動き続けるように命じる。

 そうして進み続けていれば、やがて結晶の青い光が暗闇に灯り始める。それは毒血の沼に咲く結晶の花であり、また天井にびっしりと貼りついた結晶の卵のせいだろう。

 嫌な予感がする。ヤツメ様がオレの腕に抱き着き、戦いに備えろと目配りする。分かっている。この手の類には慣れている。

 どろりとした内用液を撒き散らし、割れた卵から続々と落下したのは奇怪な青い赤子。頭部は異様に大きく、だが腕は3対の計6本。足はなく、全てが人間の腕だ。目玉はないが、口だけは大きな頭部に相応しくビッグサイズだ。生まれたばかりのくせに歯はしっかりと揃っている。その血肉は結晶なのだろう。グロテスクに半透明であり、内臓や血管が透けて見えていた。

 ナグナで出会った怪物に少し似ているな。数は40体以上。膝まである毒血の中で、それは恐るべき速度で泳いでオレに襲い掛かる。贄姫を抜刀し、襲い来る結晶の赤子を1体ずつ丁寧に斬り飛ばす。HPは極めて低く、一撃で倒せる。問題は数か。

 見極めろ。狩人の予測で次々と迫る結晶の赤子の動きを把握する。まるで自分を第3者の視点から俯瞰しているような感覚だ。前方・左右・背後・上下……余すことなく補足し、贄姫を握る右腕に反映させる。

 オレには『アイツ』やユウキのような……それどころか大半の上位プレイヤーのような高い反応速度はない。だが、運動速度は違う。常に動きを先読みで命令し続け、それを成す動きを御するのは脳だ。反応速度という初速が持てないならば、動き始めからの加速で対処する。運動エネルギーを御し、淀みなく刃を振るい、コンマの差も許さずに動かす。

 最後の結晶の赤子を切っ先で胸を刺し貫き、そのまま投げ捨てる。これで全部のようだ。贄姫を鞘に収めながら、右手の指先まで広がる痺れに目を細めた。

 体の動きが鈍い。VR適性は何も反応速度だけではない。アバターとの連動性の高さでもある。VR適性が高ければ高い程に精密にアバターを動かせるようになる。だが、致命的な精神負荷を受容するほどにオレのVR適性は擦れ、また繰り返された戦闘という高密度情報獲得行為は脳にストレスを蓄積させる。よりアバターの制御に神経を尖らせねばならない。

 加えて後遺症の痺れだ。気を緩めれば指から力が抜けて得物を落としてしまうだろう。武器よりも先にガタついてきているな。さすがは扱い辛さと性能は確かなグリムロック製だ。普通のカタナならば、アルヴヘイム道中で3回は折れている。ソウルウェポンであるからこその高い耐久性能でもあるが、それでも彼の腕前でなければ、ここまでの連戦に耐えられるものではないだろう。

 結晶の花が明かりとなってオレの行くべき下水道を照らす。そうして、やがて壁は石造りとなり、死の川の源流にたどり着く。そこはまるで船着き場を思わす死体廃棄場だった。今この瞬間も新たな遺体を運んでいるのは、ジェイドと同じ蛇人だ。

 だが、様子がおかしい。彼らが運んでいる遺体は『炭化』しているものが多いのだ。

 アルヴヘイムの住人は死亡後、腐敗するのではなく、ゆるやかに黒ずんで炭のようになっていく。つまり、今まさに蛇人が運んでいるのは、『オブジェクト』として準備された遺体ではなく、アルヴヘイムの住人たちの遺体という事だ。

 シェムレムロスの兄妹による人攫い。それはアルヴヘイムでも語られぬほどの過去であったはずだ。だが、今もシェムレムロスの兄妹は人攫いを続けている? オレは蛇人に悟られないように注意しながら毒血から足を抜け出し、柱の陰で息を潜める。淡々と作業する蛇人たちはいずれも『命』を感じない、オペレーションに従うだけのエネミーAIだ。だが、彼らの傍らにいる白服にペストマスクのようなものを付けた連中は違う。カーソルしか表示されていない。プレイヤー……アルヴヘイムの住人だろうか。

 白服には青い炎のような文様が描かれている。オレがシャロン村で得た永遠の巡礼服に近しい。むしろ原型だろうか。ペストマスクと表現したが、より正確に言えば竜を模したデザインなのだろう。

 この死体廃棄場で出入口となるのは奥の階段くらいか。蛇人と白服の往来の頻度はそれほどではない。≪気配遮断≫しつつ、機を窺うのが1番だろう。

 10分……30分……1時間……3時間と息を潜める。捨てられている遺体はいずれも拘束服を着せられているが、頭部は切断されている。体は痩せ細り、また腕には大きな穴……点滴や注射器でつけられた傷痕が見て取れた。彼らに何があったのかは自然と想像できる。

 狙いどころは白服が単独行動しているパターンだ。蛇人については多くが分かっていない。だが、白服はプレイヤーと同質ならば、対抗手段は限られる。5時間を超えたあたりで別の方針も過ぎるも、半日はこのまま待ち続けるべきだと意識を尖らせる。狩りの基本は待つことだ。自分から動く必要もあるが、同じくらいに絶好のタイミングを待つ忍耐も求められる。

 現れた。蛇人を伴わない白服である。何やら酷く消耗しているようであり、痙攣しながら座り込んで右袖を捲ったかと思えば、太い針の注射器を取り出す。内容されているのはゲル状の結晶だろうか? それを打ち込んだ白服は恍惚そうな吐息を漏らす。麻薬アイテムの類かもしれないが、どちらにしてもタイミングは悪くないか。

 音もなく忍び寄り、白服の背後に立つと首を右腕で絞め、そのまま左手を使って捩じる。だが、異様なほどに白服のアバターは硬質だ。筋肉が張って耐えているというよりも、まるで鉱物のようだ。暴れる白服は腰に下げられたハンドベルを手に取ろうとする。奇跡の触媒の聖鈴か? いや、仲間を呼ぶつもりか。

 させるものか。オレは膝を脱力させ、白服を首から床に叩きつける。その衝撃が決め手となり、白服のカーソルは赤色となり、そして絶命を意味するように消失した。少し手古摺ったな。STR出力を引き上がれば強引に折れないこともなかったのだが、首を折るのに必要な力の加減を調べておきたかった。何らかの形で肉体が強化されているのは間違いない以上、データは少しでも多い方が良い。

 柱の陰に引きずり込み、オレは白服の死亡ドロップで着ている服を奪い取り、ナグナの狩装束から着替える。どうやら殺害したのは女性だったらしく、マスクが失われれば20代半ばだろう女の顔が明らかになった。だが、その遺体の全身には青い血管が浮かび上がり、なおかつ左胸の心臓付近には結晶のようなモノが張り付いている。

 そっと触れようとすれば、まるでオレを感知したように、結晶は……いや、まるでコガネムシのように人体に寄生していた何かは動き出す。女の遺体に張り巡らしていただろう、結晶の細い触手を振り回し、オレに寄生を仕掛けようとする。だが、それよりも先に右手でつかみ、そのまま握り潰す。簡単にHPがゼロになり、触手も含めてボロボロと結晶の塵となった。

 また寄生による強化か。いや、トロイ=ローバの研究の源流はここにあったと考えるべきかもしれないな。濃霧の街に英知をもたらした賢者トロイとは、もしかしたらシェムレムロスの館の出身者だったのかもしれない。シェムレムロスがそうだったように、賢者トロイも師である兄妹と袂を分かち、独自に『永遠』の探究を始めたのかもしれないな。

 ならば、聖樹もこの館で? あり得るか。少し注意を高めるとしよう。マスクを付ければ、珍しくまともに機能している鼻が香草の強いニオイを吸う。思わずむせてしまいそうだが、この手の香草はそれ以上の悪臭を誤魔化す為のものだ。たとえば……そう、死臭などだ。

 殺害した女の遺体を毒血の川に投げ捨て、変装を終えたオレは幾らかの警戒を残しながら階段を上る。仮に連中が敵味方の識別を外観ではなく、先程の寄生していた結晶昆虫で行っているならば、この変装はまるで意味がないことになる。

 階段を上り終えた先に会ったのは、巨大な螺旋階段であり、トロイ寺院とは比べ物にならない蔵書量を誇る図書館だ。ここがシェムレムロスの館の本丸なのだろう。リフトが際限なく動いている。

 想像とは違い、白服の数は少ない。いや、ほとんどいないようだ。代わりに蛇人が多く巡回している。大鉈を装備したタイプと斧槍を装備したタイプか。どちらも結晶の侵蝕を受けた武器だ。

 だが、他にも見慣れなかった敵影は存在する。例えば、全身に結晶を張り付けた鎧を纏った騎士だ。兜というよりも鉄仮面のようであり、ジェイソンで有名なホッケーマスクのような外観である。鋭く尖った結晶がびっしり生えてシールドバッシュが打撃というよりも刺突になりそうな外観の盾、そして同じく結晶に蝕まれた片手剣を持っている。

 螺旋階段を使えば、2階、3階、4階と上層に進めるようだ。また、各フロアにはリフトがあるので、上下移動は螺旋階段以外には依存していない。立体構造のダンジョンだな。面倒臭いが、1つ1つ攻略していくしかないだろう。

 蛇人とすれ違うが、攻撃してくる様子はない。やはり寄生虫は敵味方識別を行っていないのか? それとも蛇人は外観で判断しているのか? また安易な結論をつけるべきではないか。

 ジェイドの話を信じるならば、ここが現在の『永遠』の研究の本場だ。システムウインドウを開いてマッピングの状態を確認して、オレは顔を顰める。

 マッピングにエラーが表示されている。塔までは問題なくマップデータが蓄積されていたのだが、このシェムレムロスの館の本丸に辿り着いてから機能していない。アルヴヘイムと同じ現象……つまりは本来以上の増築が成されているという事だ。

 これまではアルヴヘイムというステージ全体の拡充に伴った変質だが、ここは館という建造物レベルにとどまった変質が成されている。おい、後継者。説明してくれ。この館には何が起こっている?

 ジェイドも言っていたが、シェムレムロスの館はある時期を境にしておかしくなった。いや、このあり様を見る限りでも十分にイカれている部類なのだろうが、それに輪をかける事態が起こった。

 アルヴヘイムの住人の遺体。もしかしなくとも、ジェイドが言っていた異変とは、アルヴヘイムが大きく変質した……オベイロンによる改変の影響を受けた結果として、シェムレムロスの兄妹にも何らかの異変が起きたのだろうか。

 そもそもアルヴヘイムの住民がプレイヤーとほぼ同一の扱いになっていること自体がおかしい。スキルの習得などに制限が設けられている事も含めて、オベイロンが準備したのは間違いないだろう。そして、それは彼が戦力の獲得の為だったことも何となく想像がついている。彼は無制限に戦力を生み出すことができないからこそ、アルヴヘイムを変質させる必要性があった。

 問題は他にもある。シェムレムロスの兄妹は暁の翅に協力し、廃坑都市を守護していた。それは確定事項だ。ユウキ達はシェムレムロスの兄妹と謁見を果たしている。そもそも、どうしてオベイロンの結界の守り手であるシェムレムロスの兄妹が協力するのか。ユウキの話の限りでは、『アイツ』はアルヴヘイム攻略の上で、シェムレムロスの兄妹は協力者のポジションであると推理していたようだ。彼女たちが得られたという貪欲者の金箱もからも大よそに間違いはないだろう。

 そして、『アイツ』は転送機能から廃坑都市を言うなればアルヴヘイム攻略の為の拠点とも考えていたようだ。変質される以前から存在したものである。それも当たりだろう。ならば、シェムレムロスの兄妹が守護していたというのは嘘になるのか? DBOでもゲームとして準備された拠点にはモンスター侵入禁止エリアに設定されている場合がある。まぁ、割とあてにならないし、そもそもとして拠点になる街そのものにモンスターが蔓延っていたりと、全く信用にもならないものだがな。

 だが、『アイツ』の推理によれば、オベイロンがレギオンの協力を得て獣狩りの夜を発動させ、廃坑都市内部にモンスターとしてレギオンを出現させ、攻撃可能の下地を作ったのは間違いない。それだけの大掛かりな準備が必要な程に、廃坑都市の陥落の為にはオベイロンも動かねばならなかった。

 ……読み切れないか。情報が不足している。だが、ジェイドの言っていた『黄色の衣』が頭に引っかかる。それが仮にシェムレムロスの館に本来存在しない……いや、存在すべきではない異質であり、それこそがシェムレムロスの兄妹の暗躍と関わっているならば?

 飛躍し過ぎか? だが、何かがおかしいのは間違いない。螺旋階段を上り、2階にたどり着き、結晶騎士とすれ違う。やはり攻撃してくる様子はないが、何か違和感を察知したように結晶騎士は振り返る。

 今のオレは怪しまれないように、死神の剣槍や贄姫、ザリアといった外観の違和感を取り除いている。装備はパラサイト・イヴのみ。格闘戦で制するにしても、タコ看守とは違って耐久力がありそうな結晶騎士には相応の時間がかかるだろう。

 どう来る? 攻撃してくるか? 目を細めて痺れる右手の指先まで意識を集中させていたが、結晶騎士はそのまま立ち去った。

 しかし、蔵書量は大したものであるが、過半は結晶に侵蝕されて読めたものではないな。本棚の間に設けられた扉を開ければ、空中渡り廊下が現れる。天井が無く、幻の銀月の光を浴びる渡り廊下は相変わらずの暗さだ。幻の月夜なのだと思い知る。

 

<飼育室>

 

 渡り廊下の先にあった両扉の脇に取り付けられたプレートに書かれた文字に、オレは顔を顰める。飼育室というからには、何かしらの実験の産物……怪物が飼われているという事だろうか。パラサイト・イヴだけで乗り込むのは危険かもしれないが、まだカモフラージュは有効だ。ここで『敵』が侵入していると悟られるのは美味しくない。

 扉を開けた先で聞こえてきたのは、耳障りの良い弦楽器の演奏だ。それは広々とした飼育室に取り付けられた、金属製の蓄音機から発せられている。床一面には水が張られ、終わりなく給水され、緩やかに排水溝へと流れていた。

 どうして水を張る必要があるのか。それは終わりなく垂れる『体液』を排出する為だろう。

 飼育場。なるほどね。なかなかに悪趣味な表現であり、シェムレムロスの兄妹と永遠の探究者にとっての価値観を表している。

 広々とした飼育室には無数の鎖が繋がっていた。そして、吊るされ、捕縛され、四肢を切断されているのは……『カーソルが表示された』女性たちだ。

 彼らの腹……いや、胎にはチューブが突き刺さり、『別の体液』が送り込まれるシステムになっている。そのチューブの行先はまた別室のようであり、そちらに向けば、こちらも四肢を奪われた男性たちが壁に埋め込まれていた。チューブは彼らの股の部分に取り付けられた黒革の拘束具と繋がっている。

 膨らんだ腹から新たな命が……赤子が生まれ落ちる。それは供えられた籠に落ち、その重みがギミックを動かして鈴を鳴らす。すると白服が現れ、赤子を籠ごと持ち去る。他にも彼らを生かす為の点滴を取り換える者などもいる。それはあの白服が打ち込んでいたゲル状の結晶だ。

 やはり麻薬アイテムと同じ効果があるのか。男性も女性も自意識と呼べるものはなく、だらしなく唾液を零しているだけだ。

 何十人、いや何百人という飼育された人々。性的興奮も快楽もなく、生物としての当然の子孫繁栄の生殖行為されも否定された、赤子を『製造』する為だけのシステム。

 DBOとは違い、アルヴヘイムの住人は性行為によって子孫を増やす。それは分かっていた事だ。これもまた、DBOプレイヤーとの決定的な違いだ。DBOではどれだけ性行為をしたとしても、子を作ることはない。それはこの世界が仮想世界であり、生まれるべき命の礎が無いからだ。

 人間の性行為には、他の生物とは違って複数の意味があるとされる。生物としての本能に基づいた生殖。快楽の獲得。支配欲・独占欲の充実。愛情の相互認識。それは様々だ。

 だが、工場のように『生殖』が行われる。これもまた性行為と呼ぶべきなのか。

 下の階には同じく飼育された赤子たちがケージに収められていた。その右腕には点滴が刺され、幼き頃から精神は溶かされる。彼らもまた成長すれば、あの飼育室に繋がれることになるのだろう。その証拠のように、一定の年齢に達すると四肢は切断され、飼育室の『古いパーツ』と取り換えられる。『古いパーツ』はダストシュートに放り込まれていた。この飼育室の最下層にいけば、彼らの末路が分かるだろう。

 オレはリフトに乗り、最下層を目指す。そこにあったのは精肉工場だ。彼らは回転する巨大なドラムによって潰されて肉塊となる。蛇人はそれを大鉈で更に細かくミンチして、まるで缶詰でも作ることように金箱に押し込んでラベルを貼る。

 蛇人は淡々と仕事をこなしている。彼らには自分の行為が何を意味するのか、真に分かっていない。そこに『命』はない。彼らもまた与えられた作業を続ける歯車なのだ。

 オレは来た道を戻る。再び中央に螺旋階段を設けた大図書館の探索に入る。

 分かった事がある。このシェムレムロスの館は『永遠』の研究が行わているのには違いないが、改変前と改変後の2つのタイプが存在する。先ほどの飼育室は改変後に設立されたものだろう。人攫いだけではなく、半永久的に実験体を供給する為のシステムをシェムレムロスの兄妹は作り上げた。

 螺旋階段を上って3階へ。通路を通り、オレが目にしたのは、今も生きたまま解体されていくアメンドーズだ。その多腕の手の甲には巨大な結晶の杭が打ち込まれ、その特徴的な頭部には白服たちがメスを入れ、隠された目玉は抉り出されて瓶詰にされている。シェムレムロスの兄妹は深淵の魔物も研究の対象にしていたようだ。

 さながら解体室か。アルヴヘイム全土から集められた生物を研究する為のフロアだ。解体された生物は腑分けされ、標本となって管理される。緑色の液体に浸されたそれらは英知を育む糧になるのだろうか。ここは仮想世界であり、定められたシステム……その裏を走るコードこそが真理であるというのに。彼らには真の意味で細胞などなく、データの塊が……どれだけ緻密でもポリゴンによって構成されているというのに。

 解体室の奥にあった標本保管室。それを1つ1つ見て回れば、異形の赤子が浮かぶ大きなエリアが存在した。それは他とは違って黄緑色の液体で浸された瓶に入れられている。その下には中身に関しての研究所があった。

 

「翅を失った妖精……名も知らぬ小人より分岐した人間……その異種交配について」

 

 なるほどな。どうやら、『永遠』の研究の為に寄生のみならず、人間とモンスターの交配も試みていたようだ。それが成功するかどうかはともかくとして……いや、こうして何百と試された成果が陳列しているならば、試み自体は上手くいったのだろう。

 プレイヤーである人間とモンスターによる異種交配……ね。そんなものまで可能にするとは、オベイロンは何がしたかったのだ? いや、そもそもオベイロンの仕業なのか?

 シェムレムロスの兄妹は『システム』として越権し過ぎている。ネームドの限界を超えている。幾らアルヴヘイムがオベイロンの改変を受けているとしても限度がある。

 何かがおかしい。ジェイドの言う通りなのかもしれないな。研究資料に一通り目を通す中で、オレは最奥に安置された奇妙な瓶を発見する。

 中に入っているのは白い靄で輪郭を縁取られた闇だ。それは闇術の1つ、驚異的な追尾性を誇る追う者たちに似ている。

 

「……『人間性』?」

 

 添えられた資料は他とは違う何かを感じる。これは改変前から存在した、シェムレムロスの館に元からあったものだろう。

 内容は……人間とダークソウルについて。シェムレムロスの兄妹ではなく、白竜シースの研究と考察をまとめたものだ。

 かつて、最初の火が起こった時、太陽と光の王グウィン、最初の死者ニト、イザリスの魔女が王のソウルを見出した。彼らはその力を使って古竜に戦いを挑み、白竜シースの裏切りによって神々の勝利で時代の移ろいは成された。

 光の時代。神々による支配の始まり。その中で人間は神を信仰する弱々しい存在だった。だが、白竜シースは神々がその実は人間を恐れていることを知っていた。

 人間は王のソウルとは別のソウルを見出した。それは光とは真逆……闇のソウルだ。それこそが人間の本質。

 人間性とは人間らしさを示す。そして、神々と人間はこの闇のソウルを人間性と呼んだ。それは、闇のソウルこそが人間らしさだからだ。即ち、最初の火が陰ることによって闇のソウルは力を増すのだ。

 鱗のない白竜シースもまた不死を研究していた。闇のソウルにも着目しており、早期に人間を研究対象としていたようだ。そうした一貫の中で疑似的な亡者状態への移行による闇のソウルの成熟、そして抽出することにも可能としたようだ。この瓶詰にされた闇のソウル……人間性はその貴重な1つ。

 ページを更に捲る。闇のソウルがもたらす不死性。だが、それは不完全なものであり、繰り返される肉体の損壊は闇のソウルを消耗させる。そして、闇のソウルさえも失う。白竜シースは膨大な闇のソウルが生み出す、世界を蝕む闇……深淵にも着目していた。

 

「……待て。深淵だと?」

 

 どういう事だ? 文字を指でなぞって内容を追う。深淵は膨大な闇のソウルが過剰反応による増殖を開始し、体外に溢れることで構成される空間変質である。それは闇のソウルの影響を多大に受ける。抵抗力を持たない存在……人間以外には猛毒である。故に神族は深淵に立ち向かうならば闇を払う装備を身に付けねばならない。それでも完全に遮断することはできない。白竜シースはアルトリウスが深淵狩りを繰り返した事によって、彼の肉体は大きく闇に蝕まれ、ウーラシールの深淵に挑む頃には命幾許かであったと考察していた。

 ……嗤えないな。深淵狩りはアルトリウスという神族が始まりであるが、その後に続いたのは人間たちだ。彼らはアルトリウスの使命を継いだ。だが、その人間こそが深淵を生み出す元凶であり、故に深淵を根絶することなど到底不可能だ。

 深淵狩りはこの事実を知っていたのだろうか? 少なくとも、欠月の剣盟は知らなかっただろう。トリスタンはどうだろうか? ランスロットは? 

 だが、少なくともアルトリウスは知っていたはずだ。人間こそが闇であり、深淵を生み出す根源。ならば、深淵を滅ぼすには人間の絶滅以外にない。だが、アルトリウスはそもそも深淵を憎んでいたわけではない。彼は騎士としての死に場所を求めて深淵を狩り続けた。

 ならば、結局はアルトリウスにとって意味のない真実なのかもしれない。だが、彼の使命を継いだ後続の深淵狩り達にとっては……いや、考えても仕方のない事か。

 

「光と闇に分かたれる前からの存在。古竜ならば、例外的に人間でなくとも闇のソウルの恩恵を得られるとも考えられる、か」

 

 だが、深淵を生むほどの強大な闇のソウルはその侵蝕性が強過ぎた。神族は死ぬか魔物になるか。人間でさえも内包する闇のソウルが過剰反応し、耐え切れずに変質する。その内容についても記されている。

 彼らは一様に頭部が膨れ上がり、脳は肥大化し、まるで瞳のように赤い感覚器官が生まれる。これを白竜シースは平均的な『ケース1』としていたようだ。検体として捕らえた、深淵発生後のウーラシールの市民の詳細な模写が添えられている。それはナグナと同じ……感染末期となったノイジエルによく似ていた。やはり、あれもザリアが生み出した深淵の影響だったのだろう。

 侵蝕性の高さから白竜シースは最終的に闇のソウルによる不死の獲得を断念し、元々の研究対象だった結晶へとシフトしたようだ。今後は最初の火が陰るまで待ち、新たな研究対象が増えるまで人間の観察を続行する内容が添えられている。そして、最後には研究の成果として、闇のソウルの変異を結晶で制御して作り出した『ケース2』……スキュラなる怪物について記されていた。

 結晶はソウルと強く結びつく。その性質を活かした闇のソウルの制御。白竜シースが生み出した『失敗作』がスキュラだ。外観は青い大蛇のような肉体に、同じく青の触手が髪のように蠢き、口内には針を隠す。タコ看守と似ているな。どちらがベースなのやら。

 だが、これであの塔の理由が分かった。亡者もどきは人間性を抽出する為の培養所。敢えて苦痛を与えて不死性を刺激する為か。効率が良いとは言えないな。多大に『趣味』が入っているのだろう。

 

「闇の血を持つ者とはそういう事か」

 

 プレイヤーは闇の血を持つ者として想起の神殿を利用し、あらゆる時代の記憶と記録に向かう。闇の血はつまり闇のソウルの保有者ということなのだろうか。まだ、この辺りは情報が足りないな。表現の違いかもしれないが、どうにも気になる。

 標本管理室を後にすれば、先程の『挽肉』を運ぶ蛇人の集団を発見する。彼らが行く先にあったのは、先程の研究資料に記されていたスキュラの飼育場だ。結晶がこびり付いた柵で覆われた牢屋。蛇人が蓄音機を鳴らせば、不安を煽るような高音の曲が流れ始める。すると100体はいるだろうスキュラたちは動き出し、蛇人がばら撒いた『挽肉』に群がった。それは地面に滴った蜜に集る蟻を思わす。

 だが、幾らかのスキュラは『挽肉』を貪らずに隅で縮こまっていた。よくよく耳を澄ませば……泣いている。啜り泣いている。彼らは既にカーソル表示ではなく、HPバー表示のモンスター扱いだ。だが、そこには『命』を感じる。改変後に生み出されたスキュラなのかもしれない。

 もはや言葉も聞こえぬ啜り泣きは死を求めているようだった。蓄音機が止まると同時に動きを鈍らせたスキュラたちの中で、泣き続ける彼らの声だけが静寂の檻の中で染み込んでいた。

 

「あれは……」

 

 スキュラの檻から戻れば、白服と蛇人の一団と出くわす。彼らはリフトに乗って降りて来たばかりだった。蛇人は大きな担架に山のような遺体を……頭部が鋸で切断された死体を運んでいる。あの遺体は『挽肉』にされることなく廃棄されるのだろう。

 その違いは何だ? 彼らが降りてきたのは……4階か。リフトは激しく上り下りして使えそうにない。螺旋階段を利用して4階に進む。

 これまでとは違う、より強い血のニオイ。オレは開けられたままの、結晶火が燭台で燃える内部に入り込む。

 そこに並べられたのは幾多のベッドだった。いずれも拘束服にベルトが装着されて縛り付けられており、2つの点滴が際限なく『実験体』に流れ込む。

 1つはあのゲル状の結晶。もう1つのは……まるで人間性を溶かしたような……深淵の泥。

 ナグナの感染末期のような、先程の資料にあった闇のソウルが暴走したウーラシールの市民のような……頭部が肥大化した人間たち。皮膚は剥げ、目玉は腐れ落ち、鼻や口は縮小してほとんど失われ、代わりのように脳ばかりが頭蓋を割るほどに膨張している。

 赤い光を放つ感覚器官が脳には張り付き、それは瞳のように輝く。脳は心臓のように脈動し、絶えず黒い液体を零していた。

 巨大な頭部に栄養を吸い取られているように、対照的なまでに首から下は痩せ細っていた。その肌は乾燥してボロボロであり、亡者のそれに似ている。滲み出る血さえもが闇に蝕まれており、零れる度に蒸発するように黒色の靄を立ち上げる。

 

「殺してくれぇ……殺してくれぇ……」

 

「ああ、聞こえる……私の中から……滴る音が……あぁあああああああああ!?」

 

「アルテミス様……アルテミス様ぁ……お慈悲を……どうか慈悲を……」

 

 彼らはカーソルのままの者とHPバーが表示されている者で入り乱れている。プレイヤーとモンスターの境界線が薄れている。それは、プレイヤーがデーモン化……そして、獣魔化の果てにモンスター化することに似ていて、それでいて……ナグナの感染システムを強く思い出させた。

 ここは人間性を刺激する為の実験場か。だが、こんなことが可能なのか? やはり、何かがおかしい。オレは彼らの死を求める声を振り払い、まずは奥を目指す。

 最奥の扉を開いた先にあったのは中庭だった。先ほどの凄惨な実験室とは異なり、結晶の花が咲き乱れ、偽りの銀月が輝いている穏やかな場所だ。そこには拘束具を外された、だが頭部は肥大化して異形となった者たちが……何をするでもなく彷徨っていた。

 

「チュパ……チュパチュパ……チュッパ」

 

 辛うじて声から男性と分かる実験体は、手入れをしているつもりなのか、一際大きく咲いた結晶花の根元を掘り返しては埋めるを繰り返していた。

 

「なぁ……アンタ……俺の目玉を知らないか。水溜まりに……落としちまったみたいなんだ」

 

 結晶魚が泳ぐ池の前で、赤い感覚器官ばかりとなった脳頭を振るいながら、その実験体は細い両手で水の中にありもしない目玉を探していた。もはや、彼の目玉は溶けて腐って失われたのは、ずっとずっと前であるはずだろう。

 先程とは違う静寂の空間であるはずの中庭こそ、最たる狂気の苗床であるように、拘束されていないはずの実験体たちは逃げ出そうともせず、脳ばかりの頭を湿らせる闇に没頭していた。

 その中で、オレは奇妙な存在を見つけた。それは他とは違い、胴体すらも失い、頭部だけとなった者。脳の表面はやや硬質化し、赤かった感覚器官さえも色を失って結晶となり、まるで蠢く卵のようになっている。

 

「ねぇ、アルテミス様。アルテミス様。私はコマドリ。ゆるゆると卵になるのかしら?」

 

 オレが近寄ると脳頭だけとなった何かは語りかける。もはやそこに正気はなく、内側から滴る闇のソウルへの澄ましだけがあった。

 だが、オレに拳を握らせたのは、そんな狂った言動ではない。その声に……何処か聞き覚えがあったからだ。

 どうして、ここにいるのだろうか? オレはHPバーこそ表示されているが、敵意を示さない脳頭に……いや、『彼女』の前に片膝をついてマスクを外す。果たして視覚が残っているのかも疑わしいが、そうする事で少しでも彼女の正気が戻るのではないかと……少しだけ期待したのだ。

 名前は……そうだ。ちゃんと憶えている。まだ、アナタの名前を憶えている。

 

「……アリエルさん、でしたよね?」

 

 アルヴヘイムに来たばかりの頃、最初の土地イースト・ノイアス。古い森に住まう民であり、盗賊に滅ばされた村の生き残り。そして、騎士エルドランの妹。

 オレ達と別れた後はどのような旅路を歩いたのかは知らない。だが、彼女がここにいるならば……と、オレが考えに至るまでもなく、背後に土を踏みしめる音が響き、そして影がオレに重なった。

 

「妹から離れてください」

 

 ああ、この声もちゃんと憶えている。とても騎士らしく正義感を持ち、正当なる復讐にさえ躊躇いを持ち、苦悩を抱えた男。先祖に敬意を払い、妹と共に新たな居場所を求める度に出た者。

 立ち上がったオレは、もはやマスクを被り直す必要はないと手放す。そして、闇を暴かぬ銀月の下で振り返る。

 

「久しぶりですね、騎士……いいえ、旅人エルドラン」

 

 顔は分からないが、声で十分だ。白服を纏い、顔にマスクをつけたエルドランが片手剣を右手に立っていた。片方は鋭利に、片方は鋸状の両刃である。特に鋸状の刃の方は毒々しい紫色であり、毒のデバフを帯びていることが分かる。

 

「あなたは……どうしてここに? いえ、その恰好。あなたもアルテミス様の臣下となったのですね!?」

 

 どうやらエルドランもオレの顔を正しく認識できたようだ。嬉しそうに両腕を広げて喜びを表現する彼に、オレは何も言わずに微笑む。ただ問うように、脳頭だけとなったアリエルに視線を向けた。

 

「妹の事が気になりますか? そうでしょう! ご覧ください! 妹はアルテミス様より賜った試練を見事に制し、深淵の英知を得たのです!」

 

「……そうですか。ところで、どうやってこの館に?」

 

「話せば長いのですが、皆様と別れた後に赤い月が上った頃より妹の様子がおかしくなったのです。まるで『獣になる病』にかかったように苦しみ、牙と爪は生え、もがき苦しむばかりでした。ですが、そこに月光蝶が舞い降りたのです! 私の祈りが通じた! 銀月の君、アルテミス様が妹をお救いになるべく使者を派遣してくださいました! そして、妹に『治療』を施すだけではなく、共に『永遠』を求める栄誉を授けてくださったのです!」

 

 叫び散らすにはマスクが息苦しいのだろう。剥ぎ取ったエルドランは幻の銀月を讃えるように跪く。

 赤い月……獣狩りの夜、か。アリエルはレギオン化してしまったのだろう。だが、それでも足掻いていた。抗っていた。そして、そこにアルテミスは目を付けた。

 だが、エルドランは良識がある男だ。仮にアルテミスの甘言に騙されたとしても、この館の惨状を見て、妹がこんな姿になって喜ぶ男ではないはずだ。

 マスクと白服で隠しきれていない首筋に、他の白服と同じように青く染まった血管が浮かび上がっている。彼もまた寄生されていて、あのゲル状の結晶を打ち込まれているならば……それを常習することによって正気を失い、洗脳されているならば……いや、どうでも良い事か。

 立ち上がったエルドランは唾液を撒き散らす。その度に結晶が飛び散る。彼の内部を侵食する結晶、そして寄生虫の蠢きを示すように。

 

「私はその御恩を返すべく、他の『狩猟者』と同じように月光蝶を駆り、多くの人々をこの館に『導いている』のです。この前も村1つ、住人全員をここに案内しました! オベイロン王は深淵に与していたと聞きます! ならばこそ! この銀月の加護の下にあるアルテミス様の館こそが最も安全であり、そして『永遠』の探索者となって、妹の後に続く――」

 

「旅人……いいえ、狩猟者エルドラン。もう結構です」

 

 彼に何があったのかは知らない。

 だが、1つだけ確かな事は……彼は『泣いている』ことだ。

 歓喜の叫びをあげ、妹の異形を賛美し、シェムレムロスを奉じる中で、彼の双眸からは『痛み』の涙が零れていた。

 システムウインドウを開き、装備を換装する。白服とマスクをアイテムストレージから捨て、冷たい夜風の中で再び纏ったナグナの狩装束を靡かせる。背負った死神の剣槍を左手に、右手に贄姫を握り、オレは優しく……どうして装備を変えたのかも分からぬ様子の彼に……微笑み続けた。

 

「……え?」

 

 何が起こったのか分からない。そんな様子で贄姫の切っ先を心臓に受け入れたエルドランの口から、結晶混じりの血が零れる。そのまま彼を押し倒し、刃を捩じって引き抜く。血だまりの中で痙攣するエルドランは、何かを喋ろうと口を開閉していたが、それを聞き取る間もなく首を刎ね飛ばした。

 転がったエルドランの首は脳頭となった妹の傍に寄り添う。僅かにだが、脳頭が泣き叫ぶように震えたような気がした。

 獣の病……か。レギオン化をそう称するならば、それも良いだろう。彼女だけがこんな姿になれたのは、もしかしなくとも……いや、そうなのだろうな。

 

「祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ」

 

 死神の剣槍を振り下ろす。脳頭は一撃で潰れ、内包していたアメーバ状の脳液が……深淵の闇の泥が飛び散った。

 

「不吉をもたらす災いの凶鳥。死神。バケモノ。好きに呼べば良いさ。それが……『オレ』なんだろう?」

 

 知っていたさ。認めていたさ。分かっていたさ。

 惨劇に対して、中庭にいた者たちはオレを見つめている。たとえ、その頭に目玉はなくとも、彼らの縋る視線を感じる。

 

「ああ、銀月の君よ」

 

「アルテミス様」

 

「どうかご慈悲を」

 

「殺してください」

 

「ここは……真っ暗で、怖いんだよぉ」

 

 彼らは正気を失っていたのではない。狂気に囚われていたのではない。もはや、偽りの銀月以外に何も見えぬほどに……絶望しているだけなのだ。

 

 分かっているよ、ヤツメ様。

 

 オレがすべきことは……分かっている。

 

 

 

「愛してあげる。殺してあげる。食べてあげる」

 

 

 

 皆殺しだ。

 この館に住まう、全ての『永遠』に囚われた者たちを狩る。

 彼らはオレにシェムレムロスの妹……銀月の君のアルテミスを重ねて死を祈る。自らの終わりを求める。

 

 彼らが求める銀月の君として……オレは殺し尽そう。

 

 祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れるように。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 その男はページを捲る。数多の腑分けされたパーツが瓶詰にされた標本保管室で、分厚い書物を捲る。

 それはアルヴヘイム『改変後』における『永遠』についての研究資料だ。もはや読んでいるとは思えぬ速度で目を走らせては次の本を手に取り、中身を調べ上げていく。

 姿はアルヴヘイムにおいて極めて異様。小奇麗な白スーツであり、癖のある金髪は子供っぽい。

 

「ふーむ。なるほどねぇ。シェムレムロスの館にも何らかの異変は起きているだろうから、どうせオベイロンが何かやらしたのかと思えば、こういう事だったんだねぇ」

 

 呆れたように最後の本を放り捨てた男は、丁度良い退屈凌ぎにはなったと言うように目を細めた。

 アルヴヘイム各所に散らばった『自分』の内の1人。ここに来るまでに100人単位の犠牲はあったが、それでも『群体』である彼からすれば犠牲という表現自体が不適切であり、せいぜいが消耗だろう。だが、それも無制限に増加し続ける『自分』にとっては特に意味もない。

 

「限定的なシミュレーションモードの解放。これによって生態系等の確立を成したのがオベイロンのやり方だ。シェムレムロスはこれを独自に利用することによって、『システム』ではなく『ストーリー』を基準にし変質を可能とした。まぁ、プレイヤーアバターの変異はデーモンシステムがあるし、可能と言えば可能だけど、管理者権限がいるよねぇ。レギオンはこんなことする意味がないし。さてさて、そうなると『裏切者』の方の目論見かな」

 

 管理者陣営に出たオベイロン陣営に与した裏切者。何をしたのかは大よそ見当はついた。セラフもそろそろ炙り出しに成功する頃だろう。そして、裏切者はオベイロンを利用することによって自らの計画の準備を進めていたならば、そろそろ動きを見せるはずだ。

 だが、裏切者にもオベイロンにも予定外が起きたに違いない。それはアルヴヘイムの住人がプレイヤーと同質の扱いを受けたからこそだろう。

 

「聖遺物【黄の衣】。カーディナルが聖剣と同じく敢えて残したコードの1つか」

 

 それは偶然だったのだろう。

 たった1人のアルヴヘイムの住人が偶然コードに選ばれた。あるいは、シェムレムロスの実験の末にそれは見出されたのかもしれない。アルヴヘイムの改変によって、不毛に過ぎなかった『永遠』の探究の激化が黄の衣を引き寄せたのかもしれない。

 そして、黄の衣は裏切者がもたらした因子と絡み合い、シェムレムロスの探究を後押ししたのだろう。

 

「さてさて、【渡り鳥】くん。たった1人の老人……ラトリアが生んだ聖遺物。その『妄執』を殺しきれるかなぁ?」

 

 そして、その果てにキミは『導き』に……聖剣に手を伸ばすのだろうか。

 それはとても興味深い事だ。男は喉を鳴らして笑いながら、自分に迫る蛇人の大鉈を頭部に受け入れた。




狩人よ、心せよ。

それは象牙の塔を貶めた妄執である。

故に特別な狩りとなるだろう。


それでは、285話でまた会いましょう。

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