SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

全ての証が揃い、アルヴヘイムの戦いは最終局面へ。


※息抜きの現実世界編です。
※平穏無事の現実世界編です。
※血生臭さNGの現実世界編です。


Side Episode16 雨天談話

 空は暗雲で覆われ、途絶えることなく雨音が奏でられる。濡れたように湿った風、それは涼やかに風鈴を鳴らす。

 夏の雨。それは高い湿度が熱気を湛えた空気との乗算によって不快感をもたらすものである。それは現代社会から意図して隔絶されたような秘境とも思える九塚村でも例外ではない。

 久藤家の大屋敷、そこに準備されたリズベットの寝室。それは数多あるという客間の1室であり、調度品は全て純和風で仕立てられている。だが、この館の奇妙にして奇天烈さから逃れられないように、意味不明と思える品々が備えられていた。

 たとえば達磨。まるで必勝祈願のように片目が塗られていない……どころか、そもそも右目が抉り取られたかのように削られた、リズベットよりも3倍は長生きしていそうな古い達磨だ。

 たとえば招き猫。陶器であり、まさしく福を呼び込まんとばかりにポーズを取っているが、まるで本物の猫をそのまま石に変えてしまったのではないかと思うほどにリアリティ重視の外見である。

 たとえば日本甲冑。芸術品ではなく、実際に戦場で使われたかのように傷ついて綻びた姿をしており、それでもなお失われぬ朱色は持ち主の血が染み込んでいるかのようだった。

 

「別の部屋を準備しよう」

 

「良いわよ。なんていうか……もう慣れたし」

 

 額を押さえて嘆息する光輝に、リズベットは敷かれた布団に横になった姿で小さく首を横に振る。

 九塚村滞在4日目、リズベットは3日目に急激に体調を崩し、ほぼ丸1日に寝込むことになった。微熱もあり、急激な環境に精神が変調をきたして体が反応してしまったのだろうと診療してくれた須和は『客人によくある事だよ』と苦笑した。

 リズベット自身も不調は環境によるものだろうと納得できた。およそ現代から切り離された環境にある九塚村は、肉体にも精神にも大きな負担をかけてしまったのだろう。

 

「やっぱりキミを――」

 

「それ以上は言わないお約束。あたしが自分で行きたいって言ったのよ? だから、光輝さんが悩むことでも苦しむことでもない。女の子はね、男が思っているよりもずっと頑丈よ。これくらいで罪悪感を抱かないで」

 

 リズベットを九塚村に……自分の故郷に連れてきてしまった事を後悔している様子の光輝に、そんな過保護は止めて欲しいとリズベットは釘を刺す。普段は強気を崩さぬ男の弱々しい視線に、自分は愛されている事を感じて頬が熱くなり、また同時にこの男にここまでの態度を取らせる九塚村に底知れない何かを感じずにはいられなかった。

 

「雨……止むと良いわね。もうすぐお祭りなのに雨天なんて勿体ないわよ」

 

「雨で中止した前例なんてないさ。雨だろうが、雷だろうが、嵐だろうが、季節外れの雹だろうが、祭りは開かれる。大祭なら尚更だよ」

 

 暗い眼差しをした光輝を見れば分かる。少なからず興奮を隠さない九塚村の人々とは違い、彼は大祭を歓迎していない。

 そもそも大祭とは何なのか。それは例年にない大きな祭儀であり、故に神子の不在が嘆かれ、不安視されている。それはリズベットが収集できた情報からも分析できた。だが、肝心要の大祭の意味、それについては調査できていない。

 だが、祭りの中心には神子がいる。その神子の代理を務めるのが光輝の妹である灯であるが、彼女もまた代理に過ぎない。だが、話によれば神子が不在な時期の方が長いらしく、神子代理で大祭を開いても本来ならば問題ない。今回の場合、神子を担う者がいながら九塚村に不在のまま大祭が開かれる。それが九塚村の人々に少なからずの緊張をもたらしているようにも思えた。

 

「何か食べたいものはあるかい?」

 

「ハーゲン〇ッツ」

 

「コンビニなんて便利で24時間なお店はここにはないよ」

 

「冗談よ。大丈夫。そんなに気を遣わないで。今日もお客さん多いんでしょ? しっかり挨拶してきなさいよ」

 

 リズベットがニシシと嫌味たらしく笑えば、光輝は露骨に眉を顰めた。当主である彼の祖父が帰った今となっては、毎日途絶えることなく門を叩く訪問客に彼が代理で挨拶する必要はない。

 

「買って来るよ。朝食残してただろう? 何か口にした方が良い」

 

「買って来るって、まさか隣町に!? 良いわよ! 要らない要らない!」

 

「遠慮しないで。ハーゲ〇ダッツ、確かイチゴ味が好きだったよね? 山ほど買って来るからさ」

 

 にっこりと笑った光輝を見送ることしかできなかったリズベットは、ピラミッドでも出来そうな程の量を買い込んできた光輝を想像し、あの男ならばスケールダウンするとしても車が満杯になるくらいに買い漁るくらいの真似はしそうだと身震いした。

 普段は女の扱いなんて片手間でできるくらいに慣れてるくせに、リズベットには何処か不器用。腫物扱いではなく、リズベットを大切に思っているからこそ、どんな風に接すれば良いのか、時間が経てば経つほどに光輝は戸惑っているようにも思えた。

 意外と初々しいところもあるじゃん。女性関係は百戦錬磨のくせに、本気の恋愛は経験不足で不器用とか可愛すぎるとリズベットは汗をたっぷり染み込んだタオルケットで口元を隠すもにやけるのを止められなかった。

 1人だけになった寝室で、リズベットは回る扇風機の生温い風を我慢しながら目を閉ざす。

 実を言えば、昨晩もあまり眠れていなかった。光輝の言う通り、今朝の朝食はもちろん、昨日はほとんど何も喉に通らなかった。

 

(夢。あれは夢。夢ゆめユメ……夢! そうに決まってる!)

 

 雪降る夜、血色の桜の花びら、『リズベット』の頭で毬をつく少女。そして、彼女の姿を思い出せば思い出す程に、脳髄を、神経を、精神を、魂を貪うとするような蜘蛛の足音が聞こえるような気がするのだ。頭蓋骨の内側に何百何千何万という蜘蛛が巣を張っているのではないかと怯えてしまうのだ。

 朝倉教授の死より前からヤツメ様について調査していたリズベットは、自分がのめり込み過ぎた結果として脳が勝手にイメージを作り出してしまったのだと、九塚村で得た情報とストレスがあんな悪夢を作り出してしまったのだと自分を納得させようとする。

 その一方で、たとえ科学が発展し、VR・AR技術が世界に変革をもたらしていようとも、それは一切として神や怪物の否定にもならないのだと神秘を妄信しようとする心が生じる。

 喉が渇いた。体を起こしたリズベットは氷が張られた桶に浸された瓶を手に取る。当主である光之助からの見舞いの品であり、光輝が毒見したところ、3本全てが着火するのではないかと思うほどの高アルコールの酒だったというオチがついたものであり、孫と祖父の命を奪い合いかねない殴り合いを隅に置いて、灯が中身を全てミネラルウォーターに入れ替えてくれたものだ。

 

『糞ジジイ! リズベットちゃんを殺す気か!? 死ね! いや、今日こそ殺す!』

 

『おじいちゃまの気遣いが分からんのか! 病に弱った女にお酒がイン! 病気の弱々しさとアルコールによる色気の相乗効果! これ即ち、LOVEの時間! おじいちゃまはさっさと曾孫の顔が見たいんじゃ、屑孫がぁああああ!』

 

 本当に仲が良いのやら悪いのやら。冷たいミネラルウォーターに喉を鳴らし、リズベットはクロスカウンターのオチがついたかと思えば、互いに殴り込まれた瞬間に後ろに跳び退いて完全ノーダメージという、地味に人外過ぎる読みと運動能力を披露した2人を思い出して鼻の頭を掻く。

 

「……曾孫ねぇ」

 

 日本は順調に晩婚と早婚の二極化が進んでいる。リズベットとて、結婚していようと出産していようとも決して奇異の目で見られる年齢ではない。だが、その一方でこれからの華の20代を早々に結婚という形で閉ざして良いものかとも思う心がないわけではない。

 光輝の事は嫌いではない。少しずつ素直にもなれている。脳内アスナも分裂して応援団を組んで全力でスーパー乙女モードに入れとエールを送っている。あとはリズベットが『篠崎里香』に戻れるか否かだけだ。

 だが、だからこそ、彼と早々に結ばれて『久藤里香』になるよりも『篠崎里香』としての恋愛を楽しみたいという、普通の青春を送ることができなかったSAOサバイバーだからこその乙女の感情もあるのだ。

 

(『久藤里香』か。語呂は悪くないわねぇ……って、あたしは何を考えるのよぉおおおおおおおおお!?)

 

 顔を真っ赤にして悶絶して布団の上で転がり回り、動悸で苦しくなった胸元を惜しげもなく開いた浴衣姿でリズベットは大の字になる。

 普通の青春を送れなかった。普通の人生も微妙なものだ。だからこそ、幸福を得たい。未来は多くの苦しみがあるとしても切り抜けられるはずだという思えるパートナーが隣にいてほしい。それは欲張りで、その実は過半の人間が得られないものだ。

 

「あ、あたしは『まだ』同僚に過ぎないわけだしぃ? 同棲しているのもDBO事件解決のためだしぃ? 光輝さんとの関係を進めるにしても、もっと時間を――」

 

 ふとリズベットの目に留まったのは部屋の隅に置かれた彼女の旅行鞄。九塚村の滞在に合わせて衣服なども諸々が詰め込まれている。

 その中にある、脳内アスナが『これしかないわね! リズ、買いよ!』とクレジットカードを切らせた、セクシーどころか、『誘ってやがる……!』としか男が思いようのない勝負下着一式(黒)も奥底に封じ込められているのだ。

 

「あぁああああああああああああああああ!?」

 

 あたしは『そういうつもり』で帰郷に同行したわけじゃないんだから! 買ったのは気の迷い! ただの女としての最低限のマナー! マナー!? 何処がマナー!? 何がマナー!? 全身が溶解するのではないかと思うほどに体を羞恥で火照らせて、リズベットは頭を抱えて丸くなる。

 

「あらあら、リズベットちゃんもすっかり元気いっぱいね」

 

 と、先程まで弱っていた病人とは思えないほどに暴れ回ったリズベットを、様子を見に来たのだろう光莉が楽しそうに微笑みながら、僅かに開いた障子の隙間から覗くという下手なホラー映画よりも恐怖心を煽る姿で見つめていた。

 慌てて浴衣の乱れを直し、リズベットは自然と正座する。恥ずかしい姿を見せてしまったと項垂れる彼女に、むしろ元気になって良かったと光莉は笑みを絶やさなかった。

 30にも届く光輝の母親とは思えないほどに若々しくも儚い外見をした光莉に、リズベットは自分の腰まで伸びたボサボサの髪の毛先を自然と弄ってしまう。

 

「お風呂を沸かしてあるわ。一緒に入りましょう」

 

 昨日は1日寝込んでいたリズベットは自分の汗臭さに気づき、小さく頷いた。

 SAOのダンジョンのように巨大ではないが、十分に迷路と呼べる構造と敷地をした大屋敷。部屋は数えることも億劫になるほどであり、また所々に隠されたような通路や階段が目に入る。特に地下へと続く薄暗い階段は、この大屋敷は地上のみならず、地の底まで無限に続いているのではないかという不安を煽る。

 能面が無数と飾られた狭い通路。赤と白の花瓶に挟まれた扉。壁のように廊下で先に進むことを阻む屏風。今にも動き出しそうな木彫りの蛇。そして、この館にも例外なく蜘蛛の巣が張られている。

 

「あの、失礼は承知で質問するんですけど、どうして蜘蛛の巣をこんなに? ヤツメ様は蜘蛛の神様って聞きましたけど、ちょっと異常なんじゃ……」

 

 景観を損ねるし、幾ら益虫とはいえ、これだけの蜘蛛の巣を放置するのは衛生上よろしいとは思えなかったリズベットの質問に、光莉は特に怒る様子もなく、また何かを隠そうとする素振りも無く、当然の疑問だと認めるように頷いた。

 

「実はね、本当の事はあまり分かって無いのよ。そうねぇ……昔とても酷い流行り病があって、それは小さな虫がもたらすものだった。それを駆逐する為に蜘蛛を増やして、巣を取り除くことを掟で禁じた。それが現代まで脈々と続いている。どうかしら? リズベットちゃんには納得できる説?」

 

「えーと、半分くらい?」

 

「ふふふ、正直ね。だったら定番の、ヤツメ様は蜘蛛の神様で、蜘蛛は等しくヤツメ様の目と耳だから殺してはいけないという掟があるから、なら信じてもらえる?」

 

「……は、半分くらい?」

 

「だったら、半分と半分を合わせてリズベットちゃんは納得したわけね」

 

 楽しそうに両手を合わせる姿は、とても夫どころか3人の子どもを持つ母には思えないほどに可憐だ。同性であるリズベットさえも抱きしめたくなる可愛さと美しさを秘めている。

 

「時として大事なのは、あれこれ詮索して納得できない真実を探すよりも、自分が納得できる理由を見つけてあげることよ。私たちは『これで良い』と思っている。景観を損なう。不衛生。不気味。とても正直な意見だと思うわ。でも、だからと言って他人の意見に左右されて、今まで残した大事な何かを手放すのは勿体ない。そう思わないかしら?」

 

「……そう、ですね。あたし、『納得』しました」

 

 どうして蜘蛛の巣を排除しないのか。どうして蜘蛛を崇めるのか。それはヤツメ様が蜘蛛の神様だから。それ以上の理由はいらない。光莉たちはヤツメ様を大事に祀っている。だからこそ、今の風習と慣習がある。

 情緒と風流を嗜み、たとえ古臭いと知っていながらも伝統を重んじる。その一方で、九塚村の随所で見られるように、決して古きを良きとするのではなく、新しいモノや技術ならば積極的に取り入れていく。

 合理と非合理。それが矛盾することなく融合した光莉の姿は、九塚村の人々……特に狩人やそれに連なる血縁者たちを体現しているかのようだった。

 

「あ、でもね、私達も蜘蛛を殺しちゃう時があるのよ。うっかり踏んづけちゃった事も何回かあるわ。巣だって大掃除の時に誤って壊しちゃったりとか」

 

「うぇええ!?」

 

「でも、ヤツメ様は怒らないわ。だって、そんな理不尽を一々怒ってたらヤツメ様の方が疲れちゃうもの。そういうモノなのよ。それに村の外は別。蜘蛛の巣だらけの家なんてお隣さんに失礼でしょう? 住宅街での生活の基本は挨拶と清潔よ」

 

 クスクスと笑う光莉に、部外者である自分の方が掟を重く受け止め過ぎているのだろうかとリズベットは頬を引き攣らせる。あるいは、掟と共に生きるモノだからこそ、その境界線をちゃんと弁えているのかもしれないとも思えた。

 浴場までの道のりとは思いの外に遠い。これが冬ならば湯冷めしてしまうだろう。無駄に広く複雑なのも大屋敷を普段使いしない理由だろうとリズベットは納得する。

 と、そこでリズベットは3本に分かれた廊下、その内の1本が中庭を通り、まるで島のように池の中心に設けられた、他とは違う建物へ繋がっているのを目にする。

 和洋折衷。だが、あくまでベースは日本の情緒を詰めた和であり、そこにエッセンス程度に西洋の薫りがする外観。両開きの扉は漆が塗られた黒く重圧な杉であり、また燻されたような銀で大きな蜘蛛が描かれている。館まで続く通路は全て緋色の灯篭で余すことなく囲んでいる。

 いや、それだけではない。通路自体が幾重の鳥居を潜る構造となっており、館全体を囲う池は蓮が咲き誇ってこそいるが、水は異様なほどに上澄みが美しく透明で、深みは底が見えない程に濁っている。

 自然と足を止めてしまったリズベットの脇に光莉が立つ。ジロジロと見てはいけない、興味を惹かれてはいけない対象だったのかと危惧するも、光莉の目にあるのは切なさと寂しさばかりだった。

 

「篝……私の子。私の篝」

 

「…………」

 

「ごめんなさいね。あれは末の子に与えられたもの。この大屋敷で最初にあった館」

 

 リズベットを手招いた光莉は、女の手では開きそうにない程に重々しい外観をした扉を片手で開く。不用心なのか、あるいは招かれざる訪問者を『誘い込む』為なのか、施錠されていなかった。

 普通だ。小さな庭園を囲うような内部の構造が目に入り、池の水の源泉なのか、割れた白岩より湧き水が溢れている。軋む廊下は非常に薄い板張りであり、1枚剥げば水面と顔合わせとなるだろう。

 全部で2階建てなのだろう。階段はカラクリであり、縄を引っ張れば動いて上に隠される仕組みになっている。そのせいで2階がどうなっているかは一目では分からないが、この館もまた複雑な構造である事には違いなかった。

 館における玄関と呼ぶべき場所。リズベットはそこに飾られた写真を目にする。撮影されているのは2人。1人は今よりも更に若い、大学生どころか高校生と間違えられても仕方ないだろう光莉だ。彼女が愛おしそうに抱きしめているのは、まだ5~6歳の『女の子』だ。

 可愛くて奇麗。それは年齢を抜いても光莉に覚える印象だ。灯は彼女の奇麗の部分だけ強調されたような美しさ。光輝は彼女の血を継ぎながらもより男らしさを備えた逞しさも備えている。

 だが、この写真に写っている『少女』は、まさに可憐にして美麗にして妖艶にして清純。天使と悪魔の混血児と説明されても何の迷いもなく納得できる愛くるしい容貌だ。特に惹き込まれそうになるのは、光莉や灯と同じ……いや、それ以上に血の赤がより濃く滲じんだかのような黒の不可思議な色合いをした瞳だ。

 写真の末っ子は幼いはずなのにこれ程までに魅入られるともなれば、育った今はどれ程のものなのか、考えただけでリズベットは身震いした。

 

「篝よ。ちなみに男の子ね」

 

「へぇ……へぇええええええええええ!?」

 

 これが『男』!? 写真を食い入るように見つめたリズベットは、確かに幼さで隠されてはいるが、その容姿は中性的……いや、むしろ中性美の結晶であることを認める。だが、だからと言って男子と認めるには些か以上に心が拒んだ。

 

「じゃあ、これが光輝さんの弟!?」

 

 いや、そう言えば普通に『末の子』と光莉さんに教えられてはいたけど、とリズベットは眩暈を起こす。これを何の衝撃もなく受容しろという方が無理難題だった。

 どんな遺伝子と血統ならば、こんな子が生まれてくるのだろうか。リズベットは開いた口が塞がらない。どんな凄腕だろうと、ブラック〇ャック先生の整形でも生み出すことはできないだろう。たとえ、仮想世界で何百時間とメイキングに時間をかけたとしても迫ることさえ許されない。それは生の脈動のみが作り出しえるものだからだ。故に彼女は再度食い入るように写真を眺める。

 写真を見ただけで分かる仲の良さそうな親子。飾られた写真は成長の記録なのだろう。育てば育つほどにその美貌は磨きがかかり、小学校高学年、中学校の頃には、多くの健全なる男子がKENZENの道を歩みをそうな容姿になってしまっている。

 だが、写真は中学校の入学式で終わっている。まだ小学生としか思えないほどに小柄であり、学ランよりもセーラー服の方が似合いそうな末の子は、母親と兄と姉に囲まれて穏やかに微笑んでいる。発育不足なのか、中学生にしては小柄であり、また体も出来上がっていないせいか、あるいは生来なのか、やはり女子と間違えられても仕方ないだろう。

 

「篝はね、SAO事件の被害者なの。これ以降の写真は無いわ」

 

「うーん……こんな奇麗な子がいたら噂の1つや2つ聞いてると思うんですけど、まるで覚えがないです」

 

 リズベットが知る限り、SAOでも最高ランクの美少女として名を馳せていたのはアスナだ。アスナは同性でも惚けるほどに奇麗であり、またプレイヤーとしての実力とネームバリューもあった。彼女はまさに女性プレイヤーにとって羨望と嫉妬の対象だったのだ。そして、それを射止めた【黒の剣士】がどれだけ密やかに、だが苛烈にヘイトを集めたのかは言うまでもない事だろう。

 現在のDBOは男女比が7:3であるが、SAOでは9:1、あるいはそれ以下の女性プレイヤーしかいなかったのだ。幾ら肉体性別:男性とはいえ、こんな可愛くて奇麗な子の噂を耳にしないはずがないとリズベットは言い切れる。

 また、DBO事件の被害者として『生存』していることから、末っ子はSAOを見事に生き抜いたことになる。ならばこそ、同じく末期を生き抜いたリズベットには末っ子について無知なのが不思議でならなかった。

 

「表情や振る舞いで印象や外見は大きく変わるものよ。篝は……その……子供だったから特に……ね? 戻ってきた時にはすっかり汚い言葉遣いの不良になっちゃって。あんなに大泣きしたのは生まれて初めてだったわ」

 

 顎を撫でて悩むリズベットに何故か光莉は曖昧な笑みを作って意味深な発言を挟む。

 館の奥へと招かれ、リズベットは光莉の後に続く。自然と末っ子に与えられたという館を案内してもらっているが、光莉にどんな意図があるのか、リズベットにはまだ見抜けていなかった。

 我が子の思い出話に付き合ってほしいだけなのかもしれない。リズベットは先程の光莉の寂しげな眼差しを思い出し、今は黙って後ろをついて行こうと足を進める。

 朱塗りの戸は密閉性が高く、内なる音を漏らさぬ為か。微かな擦り音だけを響かせて横にスライドして通されたのは、圧巻するほどに多くの品が詰め込まれた、雑多とした空間である。敢えて表現するならば『玩具箱』が相応しいだろう。

 積み重ねられた古書。散らばる楽譜。真っ先に目を奪われるのは埃を被ったグランドピアノであるが、それ以外にもフルートやヴァイオリンといった洋楽器、また和太鼓や琴、篠笛などの和楽器もある。他にも扇子、茶器などの『芸術』に関わるものが詰め込まれていた。

 

「私達は物心がつくと真っ先に芸術に触れるの。文化は最も『人』らしいものだから。私たちはこれを通して感情を育てる。歌に、旋律に、作法に、私たちは『人』としての振る舞いを学び、またそうであらんとする意義を知る。血と狩りに酔わぬ縁を見る」

 

 狩人たる者、礼節を重んじるべし。帰ってきた光輝を叱るように告げた光莉の言葉を思い出し、リズベットはその意味がこの空間には高濃度で圧縮されているかのような文化の薫りは、まるで充満したアルコール臭で酔ってしまったような感覚に陥る。

 光輝はやろうと思えばどんな家事でもこなせる器用さがある。だが、それの裏打ちとなっている『知識』は彼もまた末っ子と同じように、ある種の英才教育を施されたからと思えば納得できた。

 だが、それでも学ぶならば1つか2つで済むだろう。この部屋を見回すだけでも、末っ子が学んでいたのは和洋の楽器を10種以上、茶道、華道、日本舞踊など多岐に亘る。端的に言えば、統一性と方向性がまるで見られない。まるで土壌に多種の肥料を混ぜているかのような狂おしくも美しい歪みすら覚えた。

 

「篝は特に琴とピアノが上手だったわ。琴は私が、ピアノは紫藤の奥様が教えたのよ」

 

「へぇ、琴かぁ。あたしは駄目ですね。音楽はからっきしで」

 

 学校でも洋楽器以上に和楽器を扱う機会は無い。それは敷居の高さもあるだろう。リズベットは今まで1度も触れたことがない琴を眺めれば、埃だらけなのは冒涜ではないかと思うほどの年代物であることに気づく。

 

「ああ、それね。『仕事』で戦に参じた時に先祖が賜ったモノよ。確か贈り主は、足か――」

 

「いぃいいいいいいいいやぁああああああああ! 将軍様は止めて! 歴史的にヤバ目の重さがプンプンするワードは聞きたくないですぅうううううう! 話題転換! あ、これ! こっちのヴァイオリンなんて――」

 

「そっちは冷戦中に当主がイギリスから持ち帰られたものよ。あちらで手違いから『ちょっと殴り合った』騎士の家系の方と意気投合して土産で渡されたのですって。えーと、確かヴァイオリンにも名前があって……そうそう! ガルネ――」

 

「時価御幾らですか!? オーンプライスぅううううううううううう!?」

 

 この部屋だけで何億円!? それを無造作に詰め込まれているこの空間の異常性そのものが文化への大罪なのではないだろうか!? リズベットが血眼になれば、光莉は年齢不相応、外見相応にちょっとだけ舌を出して困った表情を作った。

 

「でも、ここにあるのも適当に館の倉庫を漁って運び込まれたモノばかりだし、そんなに――」

 

「鑑定団を呼びましょう。倉庫にあるもの全部引っ繰り返せば、きっと日本史が変わるトンデモが見つかります」

 

 庶民のあたしには息苦しい空間よ! 唾液を飛ばしただけで土下座確定ルームよ! 汗臭い浴衣姿でごめんなさいと今すぐにでも平伏したい感情を抑える。

 ハァハァと息を荒くしたリズベットに対して光莉は変わらずマイペースだった。おっとりとした動作で散らばる楽譜を拾い上げていく。

 

「リズベットちゃんはヤツメ様について知りたいのでしょう?」

 

 口調も声音も変化なく、いきなり核心を射抜いてきた光莉に、リズベットは油断しきった表情筋で露骨に正答だと明かしてしまう。だが、光莉は隠す必要もないというように微笑みを絶やさなかった。

 この館に連れてきたのはリズベットの企みを暴く為? 違う。リズベットは否定する。だが、背中を流れる冷や汗は止まらなかった。

 ピアノの埃を指でなぞり取りながら、光莉は静寂を濡らす雨音に歌詞をつけるように唇を開く。

 

「ヤツメ様は蜘蛛の化身。山に住まい、人の血肉に飢えて乾く狂い神……人の上にある者……上位者。これを討伐に赴いたのが烏の狩人。だけど、烏の狩人はヤツメ様に恋い焦がれ、ヤツメ様もまた烏の狩人を受け入れた。2人は夫婦となった。その末裔が私達とされているわ。何処にでもある伝承ね。素敵だと思う?」

 

 真実ではなく伝承自体に意味がある。そう伝えるように自らの一族のルーツを語る光莉に、リズベットは以前だが光輝に聞かされた子守唄を思い出す。歌詞はおよそ幼子を寝かしつけるものではなかったが、あれには一族の原初の伝承を教える意味があるとなれば自然と『納得』できた。

 

「私たちの血には狩人とヤツメ様の2つの血が宿っている。神殺しの狩人と人喰らいのヤツメ様。どうして2人は夫婦になったのかしらね」

 

「……恋、じゃないですか?」

 

「フフフ、そうね。ロマンチックね。私は『狩人が一目惚れした』派かしら。光輝は逆に『ヤツメ様が一目惚れした』派ね。でも、灯やお義父様は違う。『ヤツメ様は狩人と交わって新しい狩人を生む提案をした』という説を推しているわ」

 

 あのご老人ならば確かに言いそうだとコンマ1秒のラグも無く同意でリズベットは、何の躊躇もなく『血』だと強弁する光之助を思い浮かべた。

 

「烏の狩人にとっても次代の狩人は不可欠だった。多くの神や怪物を倒す為に。そして、ヤツメ様は自分を殺しかける程の烏の狩人の血を欲していた。だから、2人は『より上位の存在を生み出す』為に……私たちの祖先を生んだ。そういう物語ね」

 

「ロマンスの欠片も無くて、あたしは嫌いです」

 

「そう。だったら、リズベットちゃんはどんな物語だったら『納得』できる?」

 

 やはり試されている。リズベットはここで下手に脚色したり、誤魔化そうとするのは間違いだと重々悟っていた。

 自分を家族として受け入れるように接してくれた光莉。リズベットの過去も、今の複雑な感情も、何もかも度外視して、光輝の母親としてリズベットを見つめている。

 これだ。リズベットが先程から気圧されているのは、冷たく無機質な……まるで恐怖の糸で絡め捕るような蜘蛛の殺意の瞳ではなく、母親としての情愛で濡れた真摯にして何よりも逞しい眼差しなのだ。

 胸に宿ったままに。リズベットは大きく深呼吸して告げる。『これ』こそ自分が『納得』できる物語なのだと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『血』と『心』……そのどっちも欲したから。あたしはそれが1番『納得』できます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光莉は口を閉ざしたまま、何も告げない。それがリズベットに自身の発言の否定の文句を並べさせようとするが、これ以外にリズベットが『納得』は出来なかった。

 確かに光之助の理屈には筋が通っているようにも思える。本能的に次世代をより強化するために、より優れた血を取り込む。それは自然界でも平然と成される行為だ。より大きく逞しいオスをメスが繁殖対象として選び、弱いオス……劣る『血』は淘汰されていく。

 そんな理屈が正しい? それだけが真理? そんなのは嫌だ! だから、リズベットは声を大きく否定する。

 

「どっちが先かなんて関係ない。『血』が欲したとしても、そこに恋があって、愛が芽生えていれば……何だろうと関係ない! そもそも一目惚れなんて、大半が外見じゃない! それって強い『血』を欲しがってるのと何が違います!?」

 

 肺から全部の空気を吐き出す勢いで、ここが女の意地の見せどころだとリズベットは踏ん張る。光莉の気迫に負けて堪るかと拳を握る。

 

「あたしは……光輝さんが好きです! 最初は凄いウザいと思ったし、女たらしで有名だったし、ウザいし、ウザいし、ウザいし! でも……あたしを真っ直ぐに見てくれた。好きだって……こんな、あたしを……好きだって……真っ直ぐな目で言ってくれた。あれだけは嘘じゃないって無条件で信じられた。あたしは『愛されてるんだ』って……だから……ちゃんと生きていこうって……」

 

 涙が止まらない。いつの間にかリズベットは嗚咽と涙で顔を汚し、力尽きたように膝を折っていた。

 好きだ。そう何度も言ってくれた。それだけで嬉しかった。生きてて良かったと……アインクラッドを生き抜いて良かったと……幸せになれた。それがリズベットの嘘偽りのない本音だ。たとえ、光輝がリズベットに惹かれたのは、彼女の『血』に何かを見出したとしても、そんなものは関係ない。

 必死に、不器用に、戸惑ってらしくない程に右往左往して、格好つけるのも精一杯な光輝の姿に……彼が本気で自分に恋をしてくれていて、同じくらいに強く愛してくれているのだと感じられたのだから。

 

「意地悪してごめんなさい」

 

 泣きじゃくるリズベットを光莉は抱擁する。それは『篠崎里香』に戻れていない以降、まともに接することができていない両親を思い出させて、リズベットは余計に涙を流し、また鼻水を啜る。

 どれだけ見た目は若々しくても、3人の子持ちの熟達した『母親』なのだと感じる母性の抱擁に、リズベットはいつまでも甘えたい衝動に駆られ、だが理性を振り絞って離れる。

 

「リズベットちゃん……いいえ、『篠崎里香』さん。改めて、光輝をよろしくお願いします。婚姻は遠い日になるかもしれませんが、いずれあなたが『久藤』と名乗り、『久遠の狩人』と名乗れる新たな狩人を産むことを久藤の女として、何よりも母親として心待ちにしています」

 

「あ、えと……は、はい、『お母様』!」

 

 両手を床につき、まるで本物のお姫様のような雅さを感じさせながら頭を垂らす光莉に、リズベットも慌てて正座して頭を下げる。そして、2人同時に顔を上げると、何がおかしかったのかも分からずに笑い合った。

 

「本当にごめんなさいね。リズベットちゃんの様子からしてヤツメ様を見たのだと思ったものだから。外嫁で村の滞在中にヤツメ様を見て、狂って自害なんてことも歴史上多く……フフフ! 決して無かったわけじゃないから、心配してたのよ。だから、こうしてリズベットちゃんの『覚悟』を問わせてもらったわ。失礼な真似をして、本当に申し訳ないと思っているの」

 

 ……久藤家の歴史に安易に触れてはいけない。あたし、学習しました。リズベットはツッコミを入れまいと神妙な顔で頷きながら、同時にリズベットの事情を余さず見透かしていた光莉の眼力に改めて気圧される。

 

「あの……こんな時に尋ねるのも色々とブレイクしちゃうというか、駄目だと思うんですけど……ヤツメ様って本当に何なんですか? まさか、ガチのオカルトなんですか!?」

 

 もう無暗に暴きたいとは思わない。何があろうとも『そういうモノなのだろう』と受け入れる心こそが大事なのだと今まさに身をもって学んだからだ。だからといって、あの仮想世界にも迫る……いや、それ以上のリアリティを持った夢に現れたヤツメ様が何なのか、『納得』するには理由が足りなかった。

 もはや外部から招いた客人としてではなく、血族の1人として見なしているのだろう。光莉は問うに足る資格があると認めるように頷くと立ち上がり、リズベットを手招きして別の部屋に案内した。

 今度は畳が敷かれた純粋な和室。三面鏡や化粧棚が置かれた、およそ男子には不似合いな部屋だ。そして、そこには1着に衣装が……リズベットが夢で出会ったヤツメ様の衣服が飾られていた。

 

「これって神子衣装ですか!?」

 

「ええ、篝の装束よ。白依たちの装束の原型ね」

 

 まるで血が腐って腐って腐り果てて赤色を損ねたような黒の袴、やや大きめの振袖と縫われた金糸と銀糸の上衣。だが、後ろに回れば背中が露出できるようにか、大きな切れ込みがいれてある。紐1本を解けば肩甲骨が一気に露になる構造だ。

 絢爛豪華とは対極にありながら、静謐に独自の美を求める和の情緒を感じさせる。だが、決して純和風とは言い難い独特な『歪み』。それは神道・仏教の影響を余すことなく『学習』して彼らなりにヤツメ様の信仰を洗練させていったからに思えてならなかった。そう考えれば、リズベットが見抜けないだけで、この装束にはあらゆる宗教の意匠が取り込まれているのかもしれないと思えた。

 

「こ、これです! あたしが見たヤツメ様はこの姿で――」

 

「寸分狂わず?」

 

「はい! 見間違えるわけがありません! え!? どうして!? 何で!?」

 

「そう。だったら、色々な説が考えられるわね。リズベットちゃんの好みの説は……やっぱり『これ』かしら?」

 

 クスクスと楽しそうに笑う光莉は、まるで我が子に読み書きでも教えるかのように指を立ててウインクした。外見相応であるが、年齢を考慮した場合はツッコミを入れた方が良いのではないだろうかとリズベットは苦慮する。

 

「篝は神子だから、この屋敷にも幾つも神子姿での絵や写真が飾られているわ。村を探せばもっと見つかるかもしれない。リズベットちゃんは白依の事も知っていたし、この神子装束を見てすぐに『神子』って関連付けたでしょう? それは事前情報があったからかもしれないし、装束の意匠から導き出したのかもしれない。モノには写真や絵を通しても伝わる『格』などもあるから。そして、リズベットちゃんは九塚村の環境に大きなストレスを感じていたはず。私達も自分たちが『普通じゃない』ことくらい自覚はあるわ。それがどれだけ外部の人たちにとって奇異に映り、また負荷になるかも。それがリズベットちゃんを想像以上に疲弊させて、無意識下で情報を統合して尤もらしいヤツメ様の悪夢をもたらした。これなら納得できるかしら?」

 

 辻褄は合う。納得できない事もない。だが、パンチが足りない。リズベットが顔を顰めていると、光莉は困ったように頬に手を当てて首を傾げた。

 

「だったら、ヤツメ様が『あなたを嫁入りさせるなんて認めない』と夢に現れた、という方が好みかしら? それとも『今宵は女子の肝に飢えておる』説が良い?」

 

「刷り込み説万歳。あたしはそれで『納得』することに決めました」

 

 最低限に説明がつく理由を貰ったならば、甘えて『納得』しておくのも精神衛生上の観点から最良だろうとリズベットは諸手を挙げる。

 無論、今もヤツメ様について知りたいという気持ちはある。だが、好奇心だけで暴くべき領域ではなく、またそれは本当の意味で彼らの血族に加われば、否応なく知り、また受け入れねばならない事になるだろうとも『覚悟』が出来ていた。

 結局、ヤツメ様とは何なのかは分からぬままだ。だが、こうした曖昧の中にこそヤツメ様はいるのだろうと笑って済ますことにしようとリズベットは頷く。

 光莉は懐かしむように飾られた神子装束を撫でる。それは我が子の頭を撫でるようであり、今も仮想世界に囚われている末っ子を気遣う母親そのものだった。

 普通に振る舞ってこそいるが、光莉も灯も光輝も家族が死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされているのだ。ならばこそ、彼らの姿には現代人では測れない倫理観と生命観が存在するのだろうと把握できる。だが、そこに決して家族の情が欠片と介在していないわけではないのだ。

 

「篝。私の子。私の篝」

 

「……光莉、さん?」

 

「私はいつもそう繰り返したわ。私が産んだのだと何度も繰り返した。あの子に言い聞かせた。でもね、私は……母親失格なの。あの日……私は篝に……ヤツメ様を見出してしまった。全てがあの子をヤツメ様と呼ぼうとも、母親である私だけは違うと思い続けないといけないはずなのに、私は……我が子に見惚れてしまった。ヤツメ様を見てしまった。だから、あの子には……せめて、狩人として生きて欲しかった。久遠の狩人としてではなく……時代遅れの……もう必要とされない……されてはいけない……ただの狩人として。それが『母親』としての償いだった。そのはずなのに……お義父様……あなた……どうして、篝を神子に!」

 

 それは悲壮。同時に我が子として生むことが許された、抗えない『母体』としての『本能の喜び』。多くが入り混ざった感情を理解できてしまったのは、リズベットもまたこの血族に近づき過ぎたせいなのか、それとも光莉から漏れる情念の凄まじさか。

 振り返った光莉の顔は……普段と何も変わらない穏やかなものだった。涙は奇麗に指で拭き取られ、その名残さえも感じさせない。

 

「ヤツメ様は何なのか。それはリズベットちゃんが自力で探すべき血族の命題よ。私も、光輝も、灯も……お義父様さえも探し続けているわ。でも、篝は探す必要も無かった。あの子は……ヤツメ様と一緒に生まれてきた。だけど、私だけは……それを否定し続けないといけなかった。あの子の『血』は微睡んだまま……時代遅れの名も無き狩人の1人として、世間では普通とは呼べないものだとしても、せめて久藤ではありふれた人生として終わらせたかった」

 

 母親として光輝も灯も等しく愛しているのだろう。だが、光莉がここまで思い入れする末っ子とは何者なのか、リズベットは危うい好奇心を覚える。

 

「悲しいものね。母親では……いいえ、母親だからこそ、私には篝を守れなかった。篝を助けてあげられなかった。篝を救えなかった。私はただ……あの子に気づいて欲しくなかっただけなのに。何も知らないまま……『血』を微睡ませたまま……ただ、私の子として……私の篝として……」

 

 だが、こうして吐露してくれたのは、リズベットが土足で踏み入って盗人の如く荒らし回る為ではない。彼女はリズベットだからこそ……『血』に関わらず、認識も及ばず、それでも恐怖に屈さずに踏み入れようとする彼女だからこそ、こうして本音を告げてくれたのだと心で理解する。

 

「……光輝を救ってくれて、ありがとう。あの子はずっと自分の『血』を恐れていた。受け入れられていなかった。でも、きっとあなたの為になら使っても良いと思えたのね。あなたと一緒なら……受け入れて生きていけると信じられたのね。やっぱり、ここが母親の限界かしらね。悔しいけど、いずれは我が子にとって大切な誰かが現れる。それを見届けるのが母親の最後の仕事なのでしょうね」

 

 そんな大層なことはしてないんだけどなぁ、とリズベットは思い悩む。少しばかり世界各地でダイハードを繰り返しただけだ。

 

(あ、そういえば……)

 

 ふとリズベットは思い出す。最初から好意を隠さなかった光輝であるが、彼が露骨に接するようになったのは『あの時』からだろうか、と。

 もしかして、たった『あれだけ』で光輝は救われたのだろうか。あたしにとって、何の意識もしなかった……たった1つの出来事が……彼が『血』と向き合い、また共に歩みたいと自分を思ってくれたのだろうか。リズベットは、あの男は女履歴と見た目に反して中身は純情過ぎて嫌になる、と頬が熱くなる。

 だが、想い人の母親の前で惚気るのは『もう少し先』で良いだろう。リズベットは、この鬱とした空気を破るべく、空気の読むことに限ればアインクラッド1(自称)として、最大パフォーマンスを発揮してやると意気込む。

 

「ふ……ふへへ! 当たり前ですよ、『お母様』! あたしはいずれ『久藤里香』と名乗る女! 泣く子も黙るハンターガール! 今宵も私の乙女は飢えておる! 光輝さんのハート……狩らせていただきました♪」

 

 先程のお返しだとばかりにウインクしながら指で銃を作ってBNAG!と擬音が響かせるばかりに撃つモーションを描いたリズベットであるが、彼女の渾身の乙女パワーの明後日方向への全力投球に、当然の如く対応しきれずに見送りフォアボールした光莉はぎこちなく微笑むだけだった。

 リズ、やらかしちゃったね。同情の何とも言えない表情で脳内アスナに肩を叩かれ、本当にこの亡霊は実のところ何処かで生きているのではないだろうかとリズベットは羞恥で顔を真っ赤にしてプルプルと震える。

 

(す、滑ったぁあああああああああああ!? これは称号【滑る女】獲得したぁあああああ!? でも、アインクラッドは称号システムがないから大丈夫か……なーんてね!? 自然と称号が付いちゃうのがVRゲームなんですぅううううううううううう! あたしだってアスナやシリカみたいにカッコイイ異名が欲しかったんですぅうううううう! なーにが【腕は良いけど、生産職にしては安定性が欠けているからメインウェポンを任せるのはちょっと……】のリズベットよぉおおお! あたしにだって色々アイディアくらいあったんだから! SAOのシステムじゃ実現できなかっただけなんだから!)

 

 悶絶、回帰、悶絶、回想、そして悶絶。リズベットがいっそ殺してと涙目で真っ赤な顔で唇一文字で震えていれば、光莉は楽しそうに……本当に楽しそうに笑った。

 

「リズベットちゃんが家族になってくれたら、きっと我が家は明るくなるわね。リズベットちゃんさえいれば、夫と子供たちの関係も変わるかもしれないわ。妻として、あそこまで我が子たちに嫌われてる夫が不憫で不憫で……あ、でもそんな夜ほど燃えることも……フフフ♪」

 

「ご、ご期待に添えられるように、≪漫才&道化≫スキルの熟練度を高めておきまーす。それと惚気は生々しいのでご遠慮お願いしまーす」

 

 とりあえず、一件落着かしらね。リズベットは村でやるべきことの半分どころか8割がたった今終わったようだと脱力する。ここまで来た以上、後はあるがままに受け入れるだけだ。受け入れきれずに心壊れるならば……それも構わないとリズベットは何の迷いもなく覚悟できた。

 乙女として生きられる。それだけで自分は世の女に舌を出して勝利宣言できるくらいに満たされる。まともな青春も遅れず、まともな人生も求められず、鬱屈して無気力で淀んでいた人生に涼風が吹き込んで、たとえどれだけ歪んで狂っているように見えたとしても、自分を必要としてくれて、受け入れてくれて、認めてくれて、愛してくれる人と出会えた。迎え入れてくれる家族と呼びたい人々がいた。

 

「いやー、なんか気が抜けちゃったらお腹空きました。台所借りて良いです?」

 

「そう言うと思ったわ。お風呂に入ったらご飯にしましょう。支度は出来てるわ。今日のお昼はメニュー通りの中華三昧よ」

 

「あ、それも『ニオイ』ですね?」

 

「正解。フフフ、リズベットちゃんも染まってきたわねぇ」

 

「あははー。さすがにもう慣れましたー。あたしにはサッパリの感覚なんですけど、もう『そういうものなんだな』って『納得』しましたー」

 

 納得しても、理解できないものはあるけどね☆ 表情の裏で、本当にどういう理屈で見抜いているのだろうかとリズベットは問いたかった。久藤家の人々の直感の異常性は野生動物を遥かに凌駕している。世の中には『銃弾? 勘で避ければ良いんじゃないかな。あとは気合で何とかする』で軽く済ませて弾幕に突っ込んでハリウッドも驚愕のCGアクション級をリアルでやらかした人を、リズベットは真横で目撃しているのだから。

 本当に、あの時は最後に登場した大統領がいなければ危うかったなぁ、とリズベットはしみじみ思う。あの時に比べれば、命の危険を直接感じない分だけ九塚村は良心的にも思えた。

 

「でも、本当にお子さんを大事にしてるんですね。あたしも憧れちゃうなぁ! そんなママに、あたしもなる!」

 

「そんなに良いものじゃないわ。どれだけ大事に思っていても、死んだ時に『そういうものだ』とあっさりと受け入られてしまうもの。私の親の時もそうだったわ。死を理不尽だと責められない。死を憎めない。命の循環。その摂理の下で、夫だろうと、子だろうと、親友だろうと、リズベットちゃんだろうと、きっと死を何の逡巡もなく受け入れてしまう。それは私にとって、とても嫌なの。変よね。そう感じなければ良いだけなのに……」

 

 これもまた、結局は『血』が無いリズベットが安易に意見を述べて良いものではないのだろう。彼らは今も多くの事を隠していて、それを1つ1つリズベットに明かしていく。まるで、臆病な手負いの獣のように、あるいは決して逃がさぬ蜘蛛の巣に誘い込むように。

 だが、そんなものは感じ方次第だ。リズベットは自分の卑しい……彼らを恐怖しようとする心を握り潰す。

 と、そこでリズベットの目が自然と1階の最奥、他とは違う金属製の……古びた鉄で補強された扉に吸い寄せられる。錆付き、幾つもの錠前が取り付けられた、まるで何者も外に出さないためのような、あるいは意図せぬ侵入者が迷い込まない為の僅かな慈悲のような、そんな扉だ。

 

「気になるかしら? リズベットちゃんが望むなら『見せる』こともできるわ」

 

 立ち止まってしまったリズベットの両肩を背後から掴み、光莉は毒を吹き込んで誘うように耳元で囁く。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 脳髄で、精神で、心の奥底で、魂で、這う蜘蛛が糸を巡らし、巣を張るような音が聞こえた気がした。

 好奇心は猫を殺す。だが、この村では命そのものを奪うのかもしれない。

 安易に踏み込んではならない領域がある。聖域とも呼べぬ呪われた禁域がある。それを無暗に暴こうとする好奇心には、相応の覚悟が必要なのだろう。禁忌を目にする為には時として自らの心臓さえも対価として値踏みしなければならないのだから。

 

「……いいえ。あたしは『まだ』早い。そんな気がするからパスで!」

 

 ニッと笑ってリズベットは振り返りながら自分の決断を示す。その返答を待ち望んでいたかのように、光莉は嬉しそうに頷いた。

 

「愚かな好奇を忘れるような恐ろしい死。断りも無く土足で踏み入って秘密を覗き見ようとする。好奇心は免罪符ではないわ」

 

 それでも好奇心が人間を成長させる大きな因子であるならば、秘密を暴こうとする探究の意思こそが人間の活力でもあるのだろう。リズベットは光莉の後ろに続き、後ろ髪を引くような鉄扉の魔力を振り払い、この館を生きて出ることを選ぶ。

 ここは大屋敷の最初の館。即ち、この館こそが大屋敷の核にして中心部なのだ。

 小間使いの女性の言葉が思い出される。ウィンチェスターの館とは逆。『何か』を外に出さないための意図された迷宮の如き屋敷。それはこの館にこそ、とリズベットはそこまで考えて、やはり自分も好奇心を持った人間であり、甘い秘密に誘われる愚かな1人なのだろうかと自嘲する。

 光莉の後ろ姿を見て、リズベットは素直に思う。どんな本質だろうと、どんな本性だろうと、どんな秘密があろうと、自分を受け入れてくれた彼らを家族と呼びたい。ならば、いずれ秘密の共有者になれる日まで、この好奇心は閉じ込めておくべきだ。リズベットはそう決心して、今度こそ鉄扉の誘惑を断ち切る。

  

 

 

 

 

 

 そう、アナタは『血』を受け入れたのね。ならば、胎で会いましょう。あなたの子の『血』で会いましょう。

 

 

 

 

 

 館を出る直前に、この館の主……末っ子の真の私室があるだろう2階から、白い髪を靡かせた神子装束の『誰か』が見下ろしているような気がした。雨が上がり、陽光で彩る濡れた風を浴びながら、『誰か』が認めてくれたような気がした。

 幻? 現実? そんなの関係ない。あたしは『あたし』だ。見たままに、聞いたままに、感じたままに……生きていければそれで良い。あれこれ理屈をつけたがる学者ではないのだから。

 もう少しだ。もう少しで『篠崎里香』に戻れる。リズベットは自分の中で『リズベット』が少しずつ眠りについてくことを確かに感じ取る。そして、その上で『リズベット』も『篠崎里香』も『自分』なのだと受け入れる。

 もうこの赤紐を外しても大丈夫。リズベットはそんな気がして、だがこれは現代でいう婚約指輪のようなものであるならば愛着が湧いて指を止めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 雨は嫌いだ。殺人事件に遭遇する率が体感で7割増しだからである。

 ちなみに海はもっと嫌いだ。今まで溺死(他殺)に遭遇率90パーセント超(体感)だからだ。

 山はそんなに嫌いではない。死体遭遇率は95パーセント(体感)であるが、自殺者や白骨遺体がメインだからだ。

 高校生探偵。いつからそう呼ばれるようになった。正確に言えば、中学生探偵からグレードアップした。次は大学生探偵ならば、最後はただの探偵になるのだろうか。

 

(俺は善人気取ってないんだよ。餅は餅屋。事件は警察で良いだろう? 殺人事件やら何やらの解決する探偵がいるのはフィクションの中で十分だろ)

 

 最初に事件に遭遇したのは中学1年の夏だった。思春期の始まりを境としたように、彼は多くの難事件や珍事件に巻き込まれることになった。

 解決できるか否か。そんなものは関係なく、全力で捜査する。まるで神様がそんなルールを定めているかのように、彼が努力を怠れば、その分だけ自分以外の誰かの運命が狂っていった。

 両親、妹、友人、そして初恋だった幼馴染。特に最後はトラウマ級である。送られてきたアヘアヘ写真のせいでしばらく女性不信に陥り、冗談抜きでまともに接せられたのは妹だけであり、もうロリコン兼シスコンで良いやと妹のアプローチに乗りかけてしまったほどである。あの時の自分の妹を女性と見なかった兄貴魂は褒めても良いと誇りに思い、そして同時に禁断の兄妹愛に走れなかった自分の臆病者と罵る悪魔もいる。だが、それでも抱いている思いは1つ!

 

(神様神様、Mr.GOD! 俺はNTR趣味は無いっつーの!)

 

 神様がくれた才能だとするならば、本気で欲しがる誰かに顔面パンチも追加で譲渡してやると翼は吐き捨てる。事件を解決すれば恩賞・口止め料・被害者遺族からの感謝・関係者からの賛美などの悪くない気持ちにされる事も多かったが、同じくらいに警察から疎まれ、人間の醜い部分に触れて見れて対峙して、挙句にネットの玩具だ。高校生探偵で得られるリターンに対してデメリットの方が胸糞悪くて堪らないのだ、というのが翼の偽りなき本音だ。

 もう妹が危険なブラコンなのはこの際だが諦めるとして、俺は可愛くて優しくて家庭的で美人な奥様が貰えれば文句がないです。だから、この高校生探偵という呪いをディスペルしてください。翼はどうせ叶える神などいないと思いながらも、場所が場所だからか、自然と手を合わせて願う。

 大社。ヤツメ様を祀る本殿。祭り……本祭も開かれる九塚村の聖地とも言うべき場所という事もあって、なかなかに境内も広い。造形は日本の伝統ある神社に似通っているが、九塚村がそうであるように、独特のエキゾチックなアレンジが施され、また翼が見た限りでも仏教・キリスト教・ヒンズー教・ゾロアスター教などの多くの宗教の影響が見て取れる。あるいは、それら全てに共通する『神性』とも呼ぶべきものが凝縮されていると言うべきかもしれなかった。

 大社自体はヤツメ様の森の正面から続く石階段を上ればすぐにたどり着けた。だが、チェスを対価にして生徒会長の父親……紫藤家の当主から得られた情報によれば、この大社自体は表向きの祭儀を執り行う為のものであり、本髄は大社の裏にある深殿という、当主と神子以外は立ち入ってはならない聖域……いや、禁域にあるという。

 また、ヤツメ様の森は奥深く、その何処かには最古の社が存在している『らしい』との事だった。大社を除けば森に立ち入ることが許されるのは狩人だけであり、その狩人もヤツメ様の森の最奥には滅多に立ち入らないという。

 唯一奥深くまで潜って平然と戻ってこれたのは近年には2人だけ。久藤家当主にして狩長の称号を持つ現・烏の狩人である光之助という老人。そして彼の孫だという篝だ。後者は神子も務めており、中学生の頃の写真だと注釈付きで見せてもらった時、翼が率直に感じた感想は『穢れた現代に舞い降りたA・N・G・E・L』だった。

 

(生徒会長よりも美人で可愛くて、あの狙っては無理の、どんなアイドルだろうと女優だって作れない、天使としか言いようがない微笑み……完璧すぎるだろうが!)

 

 というか、あれは人間と呼ぶべきかどうかも疑わしい程の、どんな整形技術でもCGアーティストでも作り出せない、まさしく本物の美だった。古代の芸術家が神の偶像を作り出そうとした時、幾度となく挫折を味わっただろうが、あの神子を見れば神の美とは何たるかのインスピレーションを得られたはずだろうと思えた。

 

(ま、まぁ、俺が見惚れてたら咳を挟んできた生徒会長が可愛すぎたので……良し!)

 

 嫉妬!? 嫉妬なんですかぁああああああ!? ちょっとムッとした様子の生徒会長の顔に胸が大砲でぶち抜かれたのは必然だ。

 そして、ようやくチェスの時間から解放されたと思えばほっそりとしながらも柔らかく、やや体温が低い手で握られて廊下に引っ張られてドキドキしちゃったかと思えば、彼女はちょっぴり頬を膨らませながら振り返ったのだ。

 

『神子様の美貌は認めますし、心奪われるのは仕方ないことだと思います。だけど、翼君が見惚れて良い「女の子」は私だけですからね?』

 

 ヤキモチ!? ヤキモチなんですかぁあああああああ!? 俺達『まだ』付き合ってもいないのに、そんな反応されたら夜な夜なビーストモードを堪えるのが大変です、こんちくしょーが! 生徒会長が狙ってやったか否かなど関係ない! 可愛いは正義! たとえ、あざとく狙ったアクションだとしても騙されるのが男の甲斐性!

 

「落ち着け、マイビースト。若き興奮に任せてがっつくのは紳士力を下げる。じっくり行こうぜ」

 

 深呼吸を3回ほど挟み、翼は静から貸してもらった朱と黒の蛇の目傘の柄をくるくると上機嫌に回す。最初こそ、時代が違うと開いた口が塞がらなかったのだが、そもそもが異次元ワールド……下手な仮想世界よりもよっぽど現実感から乖離するような九塚村のせいで、翼の感覚も順調に麻痺していた。

 大社の境内は無人……というわけではない。祭りが近しい事もあり、設営に関わる男衆が何人かいる。他にも普通の神社における巫女……白依と呼ばれる女性たちもまた忙しそうに廊下を右往左往して荷物を移動させていた。

 

(お守りは売ってないし、賽銭箱も無い。参拝客には優しくない神社だな。おっと、そもそも神社って表現が間違いか。まぁ、神道の影響はかなり濃いみたいだし、それが信仰形式の2つのベースになってることは間違いないだろうけど、土着信仰だとユニーク性が高いからなぁ。早合点すると『詰む』のは確定。だからと言ってじっくり情報収集してたらゲームオーバーかよ。今回の難易度ムリゲー級じゃね?)

 

 あくまで『全力を尽くす』こと。それさえ怠らなければペナルティはない。だが、クリアしなければ最悪の事態が起こり得るのであしからず。この高校生探偵という名の呪いは、そんな糞ゲーだと翼は認識している。

 これまでユニーク宗教を相手取ったことは両手の指の数でも足りない。カニバリズムから性的遊戯まで一通りのレパートリーは体験している。それら全ての事件において全力を尽くした。中でも日本の某教団が密やかに行っていた『神』を召喚するやら何やらの儀式の為に生贄となる少女たちを攫っていた、『邪教団連続誘拐殺人事件』は翼の中でも胸糞ランキングのベスト3に入る。

 

(おっと、勘違いするなよ。俺の今回のミッションは贄姫の捜索、場合によっては奪還。そうなると殴り合いも覚悟か? 荒事は苦手なんだけどなぁ。こんな時にベリさんがいてくれたらなぁ)

 

 元インタポールというナイスおじ様であり、自分なんて比較にならないくらいの腕っぷし、推理力、コネを持ち、欧州関連の事件の度に『またキミか』と呆れられながらも協力してくれる頼れるサポーターだ。

 バスケを部活動で嗜んでいる事もあり、翼の身体能力は男子高校生基準で言えば上位に位置する。だが、だからと言って格闘技を専門的に学んでいるわけではない。事件に携わる関係で、否応なく喧嘩慣れしてしまっただけである。これまでの経験から、相手に1人でもプロがいれば一方的に叩きのめされる程度だと自覚できている。

 

「ここが御神刀を収める蔵か」

 

 大社の本殿の脇に設けられた蔵。木造であり、まるで封じるように、あるいは蜘蛛の巣のように赤い紐が周囲に張り巡らされている。それら1本1本に護符が吊るされており、雨で和紙はしっとりと濡れていた。また、赤紐には鈴が取り付けられており、これ自体が古臭くはあるが、警備システムなのだろうと見て取れた。

 

(護符に書かれてるのは梵字っぽいな。マジで色々な宗教が混じり合ってやがる。嫌だなぁ。これ、何かを『隠してる』タイプじゃん。色々なモノを張り付けて『本物』を巧妙に隠してやがる。つーか、五芒星付き? 陰陽道? アレンジし過ぎだろ。どんな宗教なんだよ。統一性持てよ)

 

 周囲を見回し、男衆たちが仮設テントでくつろいで談話しているのを確認して、傘と鞄を本殿の軒下に置くと、赤紐に引っかからないように慎重に潜り抜ける。

 数度ほど肩や足が赤紐に触れるも、雨のお陰か、鈴の音は男衆の耳まで届いている様子はない。あるいは、よくある観光客の行動として無視されているのか。

 

(つーか、そもそも俺は泥棒じゃないんだし、普通に許可を貰えば良かったんじゃね?)

 

 しまった。スニーキングで証拠収集の癖が。びしょ濡れになった翼は、両脇を不気味な2体の仏像が固める蔵の扉の前に立つ。仏像は右側が観音菩薩のような、左側は不動明王のようなデザインだ。『ような』とはあくまで似通っており、もしかすれば仏像と分類すること自体が間違いなのかもしれないと、今にも動き出しそうな程にリアリティを持った推定仏像に、翼は気圧されて生唾を飲む。

 これまで難事件で命の危険を感じたことは幾度かあったが、今回は異質ながらも平穏な村のはずなのに、日に日に生存本能が危険を訴えている警鐘が大きくなっていた。

 

(やっぱり寝不足のせいか? 睡眠薬持ってきておけば良かった)

 

 翼も目を縁取るような隈。それは典型的な寝不足の産物だ。

 夜な夜なになって廊下を走り回る足音。障子の隙間から覗く赤い瞳。ようやく眠れたかと思えば、屋敷の中を彷徨い続け、挙句に白髪の『誰か』の影を見る。五感は徐々に血生臭く染まっていき、耳から、鼻から、口から、まるで蜘蛛が侵入して内側で這い回っているようなおぞましさを覚える。

 これまでの経験から、あり得ない幻覚を見せる……1種のトリップ状態へと持ち込むお香を使っていた新興宗教団体が起こしていた婦女暴行事件を解決した覚えもある翼であるが、徐々に広まりつつあるVR、そしてAR技術のお陰でお手軽に『あり得ない』体験をさせられるようになって、この手の手法は少しずつ過去のものと化している。

 

『世界的に薬物中毒者は減少傾向にある。そう、これからは電子ドラッグの時代だ。若者よ、私のオリジナルブレンドがある。脱法だが、使ってみるかね』

 

 だ・か・ら、あの自称インド系ロシア人は何者なんだよー!? お隣に引っ越してきたロシア人親子を時々訪問するのだが、毎度のように動きが珍妙であり、何故か翼を見ると『面白い素材だ』とハァハァと息を荒くするので、彼は大いに苦手だった。なお、渡された電子ドラッグのメモリーチップは丁重にハンマーで粉砕して燃えるゴミの日に出したのは言うまでもない。

 そこで翼は推理する。たとえば、自分が睡眠中にVR機器を取り付けられ、密やかにVRログインをさせられているのではないだろうか、と。そうなれば、犯人は必然的に大屋敷の誰か、あるいは全員が結託した共犯もあり得る。だが、そもそも睡眠中にVR機器を接続しても一般的に言う所の寝落ち状態であり、脳が覚醒状態ではないので正常にVRを体験できないのが通例だ。

 稀にであるが、夢とVR空間が混ざり合った奇妙な体験をする実例もあるが、これはVR専門誌でも明かされているように、そもそもVRとは限りなくリアリティを持って意識的に体験できる夢のようなものであり、故に未だ解明されていない脳が作り出す幻想……夢との親和性が高いから『ではないか』とされている。まだまだ研究途上であり、あるいは開発者である茅場昌彦にはすでに解明の目途が立っていたのではないかと噂されていた。

 最近はVRやAR絡みの事件も増えた。それは他称・高校生探偵にはお財布的に厳しいものがある。とにかく、VRもARも金をかけようと思えば天井知らずなのだ。月額払えば遊び放題のVRMMOとはわけが違う。今やVRシティ、VRバケーション、VRコンサートなど、何でもVRなのだ。その上に現実を仮想世界で上書きするようなARの発達である。

 順調に仮想世界融合都市計画が進む東京の最近のカオスっぷりを考えれば、独特ながらも日本人DNAに訴える古き郷愁に満ちた久塚村は、考え方を変えれば、人間のスペックを逼迫する技術超過で疲れた現代人を癒す秘境にも思えた。

 

(……って、結局は結論出てないじゃん。さすがにオカルト相手に事件解決はムリゲーを通り越して無☆理だぞ)

 

 今は贄姫の捜索が最優先だ。意識を切り替えた翼は、蔵の周囲を見て回る。窓の類は無く、出入可能なのは正面の扉のみ。上下2本の閂と大きな錠前で封じられている。

 閂には内部に鉄……いや、重さからして鉛が埋め込まれているのだろう。筋力にはそれなりに自身のある翼でも容易には持ち上げられない。大人の男が2人がかかりでやっと、といったところだろう。

 錠前は真新しく傷1つない。生徒会長の話によれば、発見当時、閂は取り付けられていたが、鍵は壊されていたという。現在取り付けられているのは同型のものであり、その重さからして鉄製であることは間違いなかった。

 

(この大社は森の正面から石階段を上ったところにあるから人里からは少し遠い。だからと言って境内は無人であるわけじゃない。犯行時刻が深夜と仮定すれば、駐在する巫女さんとか神主さんを起こさないように鍵を壊すのは結構難しいんじゃないか?)

 

 話によれば、取り付けられていた錠前は錆付いてこそいたが、実用範囲内であり、容易に破壊できる類ではなかったという事だ。確かに手に取ってみても、分厚く重い……シンプルであるが故に堅牢であると把握できる。

 

(そもそも鍵を壊すってのが非合理的だよな。そんなリスクを背負うよりもピッキングの方が確実じゃないか? 鍵が壊れていれば犯行がその分だけ早めに露呈することになる)

 

 翼も事件に遭遇する関係上、ピッキングの腕は否応なく上昇してしまった口であるが、道具さえあれば10分もあれば開錠できる自信があった。玄人とは言わずとも心得がある翼で10分ならば、プロの泥棒ならば1分と必要としないだろう。

 日本の文化財窃盗被害は今に始まったことではない。その最大の要因は警戒心の薄さだ。翼が経験した事件で一体どれだけの仏像や御神体の盗難があったか数えられたものではなかった。

 それを考えれば、ヤツメ様信仰の重要な格である御神刀を盗まれたのは、九塚村のセキュリティ意識の低さが招いた……とも言い換えられる。だが、何故か翼にはこの鍵のシンプルさが逆に罠に思えてならなかった。

 

(文化財の窃盗の理由は大きく分けて2つ。1つは売買目的。特に海外の収集家に日本の文化財は高く売れるってベリさんも言ってたしな。つーか、実際にオークションにも侵入したこともあるし。マフィアのお嬢様のラブロマンス……あったのかなぁ。まさか犯人だったなんてなぁ。ベリさん曰く、事件背景から情状酌量がつくはずだって言ったけど、元気にしてるかなぁ)

 

 そして、もう1つは宗教抗争だ。内部の派閥、または別宗教絡みも十分に考えられる。

 内部犯か外部犯か。それも大きなポイントなのだ。今回の贄姫の管理は分家の紫藤が任され、もう1つの分家の草部とは良好ではない関係にあると聞いていた。草部が紫藤に恥を掻かせる為に今回の盗難事件を仕組み、紫藤が大恥を晒したところで贄姫を取り戻したと大々的に宣言する。十分にあり得るだろうと翼は推理する。

 何よりも内部犯ならば、鍵を破壊する理由も頷ける。わざと衆目が集まり、事件が露呈するように仕組むこと自体に意義があるからだ。加えて錠前にもスペアがあるならば、事前に古い錠前と新しい錠前を取り換え、古い鍵を別所で壊し、犯行当時に新しい錠前を回収する……なんて遠回りな工作も出来る。仮に新しい錠前と入れ替わっていることがバレたとしても、その時点で贄姫は窃盗されていない。『セキュリティ上の観点から分家として新しい錠前に取り換えておいた』という言い訳も立つ。なにせ、盗むこと自体ではなく紫藤に恥を掻かせることが目的ならば、何も今回の贄姫窃盗計画を無理に実行する必要は無いのだから。

 辻褄は割と合う。だが、これを推理と呼ぶには物証が足りない。基本は証拠と証言を集め、ブラフを利かせて犯人を追い詰めるのが翼のスタイルだ。漫画の主人公のような超人的推理力がない彼に出来るのは、得られた情報を1つ1つ吟味し、思いつく限りの、無数の仮説から最も適当と思われる1つを選び出すことだ。間違っていたならば、まだ初心に立ち戻って別の筋を探すだけである。

 

(最有力候補は草部の人間か。美桜が世話になったみたいだしなぁ。あんまり疑いたくないけど、保留1って事で。窃盗犯の筋も捨てられないしな)

 

 だが、そもそも贄姫の文化財としての価値はどれ程のものなのだろうか? マイナー・オブ・マイナー宗教の御神刀にどれだけの値札が貼り付けられるのか、翼には勘定ができない。文化財の金銭的価値とは、その背景に由来する。日本刀自体が芸術品として好評であり、高値で取引されるとなれば、贄姫の価値も相応に跳ね上がるだろう。だが、それは探し出すこと自体が困難である九塚村にわざわざ盗みを行うほどの手間暇をかける程のものだろうか。

 赤紐を再び潜り抜け、夏で良かったと濡れた体を震わせる。まずは草部について調べるべきかと翼が傘を差して大社を後にしようとした時だ。

 一般的であるはずなのに著しく場違いに思える黒のポリエステル製の傘を差した人物が本殿前に立っていた。

 イケメンだ。それが翼の第1印象である。職業が俳優でも何の違和感もなく受け入れられる外見であり、長身かつ体は引き締まって見栄えが良い程度に筋肉が備わっている。だが、それはボディビルダーのような筋肉達磨ではないだけで、限りなく実戦的な……むしろその為だけに鍛え上げられたような印象を見る者に与える。

 男は憂いを帯びた眼差しで本殿を見つめていた。大社の廊下を忙しく歩き回る白依たちは、男を見ると頬を赤く染めて、まるで主に敬意を示すように頭を垂らす。これらから、彼が九塚村のヒエラルキーにおいて上位にあることは間違いなかった。

 触らぬ神に祟りなし、か? それとも、ここは敢えて接触すべきか? 迷う翼に気づいたように、男は顔を向けて薄く笑う。

 

「やぁ、傘を差している割に随分とずぶ濡れだね」

 

 低くはあるが、相手の警戒心の解き方を熟知した温和な声音の出し方を意識している。翼は経験上からかなり厄介な相手だと判断する。だが、彼の警戒心を見抜いたように、チャーミングという表現以外当てはまらないように、男は自分の唇に人差し指を当てながらウインクした。

 

「警戒しなくて良いよ、高校生探偵くん。九塚村にようこそ。僕は久藤光輝。久藤本家当主筋の人間でね。不本意ながら次期当主……村長の息子みたいなものだと思ってくれて構わない」

 

 不本意なメディア露出も多かった以上、正体を看破されるのは慣れている。嘘は不要だと翼は丁寧に背筋を張って頭を下げた。

 

「坂上翼です。あと高校生探偵は他称なので」

 

「なるほどね。噂通りの不憫そうな目をした子だ。静に目を付けられるなんてご愁傷様だね」

 

 苦笑する姿も絵になるイケメンだな。男としての敗北感を味わいながら、翼は隠せば隠す程にドツボに嵌まる状況だと判断し、自分からカミングアウトを決める。

 

「ちょっとあの蔵が気になって。傘を差したままじゃ近寄れないんで」

 

「蔵……ああ、贄姫の保管庫か」

 

「ええ。でも、鍵がかかってまして。いやー、御神刀らしいんで、当たり前って言えば当たり前ですけど」

 

 尤もらしい嘘を重ねる。たとえ嘘がバレたとしても、生徒会長の……紫藤家の名誉を守る為だったという言い訳も立つ。相手は自ら久藤本家と名乗った。ならば、隠す背景も道理がある。

 光輝は観察するように……まるで蜘蛛が冷たく無機質に獲物を吟味するような眼で、翼を見つめる。対して翼は何処にでもいる観光客の1人のような顔で無言に挑む。

 

「……そういう事にしておこう。でも、残念だったね。今年の祭りでは贄姫は見れそうにない。あれは神子だけが帯刀を許される品だ。神子代理では偽刀しか扱えない」

 

「へぇ、それは知りませんでした」

 

「だろうね。この偽刀を拵えるのは分家の草部の仕事なんだよ。草部は元々鍛冶師の家系だからね。贄姫が折れる度に鍛え直すのも草部の仕事というわけさ」

 

 そういえば、贄姫は何度も折れては打ち直されたって生徒会長が言ってたな、と翼は思い出す。

 

「ちなみに、卑しい話なんですが……贄姫ってかなりの価値があるんですか?」

 

「何にでも値札を付けるのは無粋だね」

 

「性根が庶民で俗なもんで」

 

「ははは、キミは面白いなぁ。美術品としての価値はどうだろうね。何度も打ち直されているから古刀とは言い難い。最新の記録によれば、第2次世界大戦中に1度折れているようだし、古美術としての価値は低いんじゃないかな」

 

「ああ、何百人も斬ったっていう逸話があるって聞きました。色々思いましたけど、ヤベェ以外に感想が出ないヤベェ妖刀っぽいですよね」

 

 フレンドリーで、他人との距離感をすぐに詰めて来る。物腰の柔らかさと外見の良さ、立ち方1つで滲み出る気品。間違いなくモテる男であり、その自覚があって振る舞っているタイプだと翼は分析する。

 

「だけど、見るべき者が見れば、数億はくだらないんじゃないかな。なにせ、キミの言う通りの本物の妖刀だからね」

 

 何処か妖しく、酷薄な笑み。それはこの男の隠された本質が僅かに滲み出たようで、翼は思わず生唾を飲みそうになる。それを待ち望んでいるかのように、光輝の双眸は細められていた。

 この男は自分を値踏みしている。ならば、上手く立ち回れば頼もしい味方にもなるはずだ。ここが正念場だと翼は意気込む。

 

「なにか伝説とかあるんですか?」

 

「歴史が古いからね。色々とある。贄姫は折れる度に何度も何度も炉に放られて打ち直された。数多の血と肉を啜り、それらも一緒に刀身に打ち込まれるわけさ。すると不思議なことに、打ち直される度に切れ味が増し、より折れ辛くなっていったそうだよ。先代神子が大戦で使った時なんかは人間は豆腐同然。鋼さえも抵抗なく断ち切ったとか。僕は誇張された武勇伝だと思っているけどね」

 

「それ聞きました。やっぱり妖刀って実在するんですねぇ」

 

「浪漫があるよね。でも、妖刀なんて呼ばれているくらいだ。当然ながらおぞましい負の一面もある。神も仏も獣も人も斬り、その血肉さえも溶かして練り込まれた刀身は、人心を魅了し、獣性を呼び覚ます刃紋を備えた。神子以外が抜けば贄姫に振り回されて見境なく斬り殺してしまう。そして、贄姫とはヤツメ様との約束であり、故に神子以外が振るえば祟りが起きる。ヤツメ様が殺しに来るというわけさ」

 

 怪談としてはパワー不足だったかな? 最後にそう付け加えた光輝は笑っていたが、その目だけは相変わらず微塵と感情で揺らいでいない。あくまで翼の反応の読み取ろうとする冷徹さに浸されている。

 まるで散歩に誘うように歩き出した光輝に釣られ、翼もまた境内を歩む。雄々しく茂る御神木は注連縄で幾重にも縛られ、また広がる木々の枝からは赤い紐が吊るされていた。それは吊り贄の為の紐であり、祭りの夜にはここに多くの『人形』が吊るされるのだと光輝は教えた。

 

「祭りは楽しみかい?」

 

「あー、どうでしょう? 俺が想像している祭りとは違いそうですし」

 

「出店で賑わうようなお祭りじゃないからね。正しく祭儀だ。でも、お菓子は多く振る舞われるから、甘いモノが好きなら楽しめるよ」

 

 傘を閉ざして御神木にもたれ掛かる光輝は、祭りに期待をもたせるような口調とは相反して、その目は何処か憂いを帯びて唇を軽く噛む。

 

「煙草、吸いますか?」

 

 肩から下げた鞄から煙草の紙ケースを取り出し、翼は慣れた手つきで1本差し出す。すると光輝は初めて驚いたように目を見開いた。

 

「いきなりどうしたんだい?」

 

「誤解だったらすいません。運命柄、ストレスが多い職場の人と付き合いも多くて。割とその仕草を見るんですよ。唇を噛んで煙草が吸いたいのを我慢するんです。ヤニ臭くないし、歯も黄ばんでない。ケアと身だしなみに気を遣っているっぽいし、無理して禁煙しているタイプかなって」

 

「へぇ、さすがは高校生探偵だ。よく見ているね。でも、キミは未成年じゃないのかい?」

 

「大人とも無理にでもコミュらないといけなかったものでして。自分では吸わないけど持ち歩いてるんですよ。大人の余裕でお目こぼしてくれたら俺たちハッピーになれると思いません?」

 

 ライターもありますよ。100円ライターを見せる翼に、感謝するように煙草を咥える。翼は慣れた手つきで火を点し、ゆっくりと漏れた紫煙を眺めた。

 

「好きになった女の子が煙草嫌いでね。禁煙していたんだ。それに煙草代も結構な出費になるからね。特に今は喫煙者に厳しい時代だろう? 健康嗜好で煙草は格好悪いって風潮だし、肩身も狭かったからタイミングも良かったかなって。でも、禁煙は正しいって言えば正しいんだけど、人間ってのは煙草や酒に少しくらい依存してしまうのが丁度良いと思うのが僕の持論なんだ」

 

 特に僕たちは酒に酔い過ぎたら『危険』だからね。そう付け加えて苦笑した光輝が喫煙する姿は、昭和の映画に登場するダンディズム、あるいはハードボイルドを体現した男のようだった。

 

「最近はまた煙ブーム来てるらしいですよ。VRでの喫煙は合法だって友達も言ってました」

 

「合法じゃなくて法整備されていないだけどね。VR上でのアルコールや喫煙、売春等はまだ十分に法整備されていないからね。ようやく目途は立ったけど、抜け穴が多過ぎるし、健康被害が出るわけでもない。難しい問題だよ」

 

 仮想世界の無秩序な拡大を最も体験しているのは、流行に敏感な若年層であり、彼らは若さゆえにグレーゾーン……そして、更に危険な領域へと踏み込んでいく。

 あの写真もVRでの合成なのか? いや、鑑定の結果リアルの産物だと決着がついたはずだ。初恋の幼馴染の痴態の写真を思い出し、翼は憂鬱になる。だからこそ、今回の事件を解決し、何としても生徒会長との距離を詰めたかった。

 

「もしかして、本気で静に惚れてる?」

 

「……でへへ、分かります? だって、惚れない要素ないでしょう!? 美人! 頭良い! 家柄! しかも、確実に俺に気がある! このビックウェーブに乗るしかない!……ってなるのが男じゃありません?」

 

「そうだね。静が『普通の女』だったらお勧めするよ。まぁ、キミはメンタル強そうだし、案外何とかなるんじゃないかな」

 

 遠い目をした光輝に、何を言いたいのか分からない翼は、この調子ならば色々と聞き出せるのではないだろうかと画策する。

 

「それで、聞きたいことはなんだい?」

 

「あー、やっぱりバレちゃってます?」

 

「煙草の時点でね」

 

「煙草の時点で。やっぱり露骨でした?」

 

「流れは自然だったと思うよ。ただ、持ち歩ているのはコミュニケーションの為と明かしたのは悪手だったね。未成年であるキミが持ち歩くリスクを背負ってでも、円滑に会話して得なければならないリターンがある。キミの高校生探偵という因果を考慮した場合、僕からの情報収集が目的なのかなって」

 

 全てを察した上で乗ってくれたのか。この男、かなり厄介だ。翼は観念して光輝と同じように御神木にもたれかかり、彼が吸い終わった煙草を携帯灰皿に収納する。

 

「……贄姫が盗まれました」

 

 本来ならば生徒会長への裏切りであるが、今こそが爆弾級のカードを切るタイミングだと判断して、翼は単刀直入に告げる。

 意外なことに光輝は冷静に沈黙を保っていた。それは話を続けろというサインなのだろう。翼は周囲に人影がないことを十分に確認したうえで、雨音で隠れる範囲の2人にしか聞こえない小声で話し始める。

 

「盗まれたのは3日前。犯行時刻は不明ですが、鍵が破壊されていたことから人気が無い深夜ではないかと推測されます」

 

「調査は静からお願いされたのかい?」

 

「もちろん」

 

「本当にご愁傷様だね。でも、気にすることは無いよ。しばらくは盗まれたこと自体に誰も気づかないものさ」

 

 本家の人間として紫藤を叱責する、という最悪な展開はこの男ならばあり得ないと分のある賭けに出たつもりの翼だったが、そもそもとして光輝は全く危険視していなかった。

 と、そこで翼は思い出す。贄姫を振るえるのは神子だけだ。だが、此度の大祭において神子は不在。神子代理が務めるのであるが、そもそも代理が振るうのは偽刀だ。蔵に収められた贄姫ではないのである。

 

(待て。それを生徒会長が知らないはずがない。いや、早合点するな。祭儀で使わないだけかもしれない。蔵から出して――)

 

「贄姫自体、ここ数年は蔵から持ち出し自体されていないよ。確かに今年の管理は紫藤のお役目だけど、それは蔵の錠前を外す鍵が譲渡されるだけだ」

 

「マジかよ。だったら生徒会長はなんで……」

 

 光輝がわざわざ嘘を吐く必要性は無い。後で幾らでも裏取りできるからだ。

 そうなると贄姫が盗まれた事自体が狂言? スタート地点からあやふやになり、翼は額を押さえて唸る。

 

「これは静の兄貴分でもあった僕なりの助言だけど、アイツは嘘を言っていないだろうね。だけど、キミを頼ったのは単純に贄姫を探し出してほしいからでもない。そもそも、贄姫が盗まれたこと自体はまるで心配していない」

 

「つまり、俺が贄姫を探すこと自体が生徒会長の狙い?」

 

 贄姫の捜索。それを取っ掛かりにして、生徒会長は俺に何かを期待しているのか? まるで迷宮の中に迷宮があったかのような、終わりのない合わせ鏡に閉じ込められたような、出口がまるで見えない感覚に陥る翼に、光輝は小さく嘆息した。

 

「……その隈、寝不足かい?」

 

「え? ああ、はい。ちょっと眠れなくて」

 

「あとで須和先生を頼ると良い。大屋敷の小間使いを捕まえてアポを頼めば1日と待たずして会えるよ。そうすれば、ぐっすり眠れる睡眠薬とキミが見ているヤツメ様の悪夢について、最新科学の視点から解説してくれるんじゃないかな? 僕はあの人の説、それなりに好きだよ」

 

 小雨になってきた空に、長話もし過ぎたと2本目の煙草の吸殻を差し出してきた光輝に、翼は訝しむような目を向ける。

 

「俺、1度も『ヤツメ様の悪夢』なんて言ってませんよ?」

 

「……そうだっけ?」

 

「わざと口を滑らせたんですね? アンタ、どういう意図があって……いや、そもそもヤツメ様って何なんですか?」

 

「一言で伝えるのは難しいね。蜘蛛の化身。人間喰らいの狂い神。狩人の守護者。そして、豊穣の実りをもたらす女神でもある」

 

 多くの要素が絡み合い、その本質がまるで見えない。人を襲う怪物でありながら、狩人を守護し、なおかつ人間を慈しむような豊穣神としての顔も持つ。神はその性質上、時代を経るごとによって他の神話の影響を受け、複数の性質を帯びることになる。ギリシャの神々など典型例だろう。だが、それを考慮してもヤツメ様は歪んでいるように思えた。

 

「それって生贄を捧げれば恵みを約束するとか、そういう神様ってわけですか?」

 

「さぁね。ヤツメ様からすれば、生贄を差し出されてもご飯を持ってきてくれた程度にしか感じないんじゃないかな? お腹が空いたから人間を食べる。狩人は子孫だから見守る。人間が頑張って田を耕すから祝福する。気まぐれなんだろうね」

 

 気まぐれ。それ以外の表現など不似合いだろう、自由奔放な神様。およそ信仰したいとは翼には思えなかった。

 

「坂上君、キミが望むなら幾らかの便宜を取り図るよ。そうすれば、捜査は格段に楽になるはずだ」

 

 差した傘で顔を隠した光輝は振り返る。どんな表情をしているのかは分からないが、翼は言い知れない程の悪寒を覚える。まるで脊椎に冷水を流されたかのように震える。

 

「だけど、どれだけ真実が近しくとも夜に出歩いてはいけない。夜は獣の時間。ヤツメ様は人の血肉に飢えて乾く『獣』の姿こそが本性だ。故にヤツメ様は狩りの夜をもたらす」

 

 大屋敷まで送ろうかと提案した光輝に甘え、翼は共に大社を後にする。

 夜は獣の時間。それは九塚村を訪れてから何度も耳にした警告だ。夜は危ないから出歩くな、程度の言い回しかとも思っていたが、光輝の口振りでは、よりヤツメ様信仰に関わる……いや、それに付随した狩人という存在と密接に関わっているような気がした。

 

(えーと、蜘蛛の神様で、狩人の守り神で、豊穣をもたらして、オマケに夜を司る? 最後の2つとか性質的に思いっきり矛盾してるじゃん! 太陽神が月神を名乗るくらいに相反してるじゃん! あ、でも月光は太陽光の反射だから……って何言ってんじゃい!?)

 

 そもそもヤツメ様を調べてからと言って贄姫の捜索が進むわけでもない。ならば、完全に無駄骨の会話になったのかもしれないとも翼は諦める。

 

「……で、何ですか、これ?」

 

「見て分からないかい? 冷凍車。ちょっとハーゲンダッ〇を山ほど買ってきた帰りでね。キミも顔色悪いし、あまり食べてないなら分けてあげるよ?」

 

「遠慮しておきまーす」

 

 トラックの荷台丸ごとがハー〇ンダッツ? 頭おかしいんじゃないの? トラックの助手席に手招きされ、翼はこの男が何を考えているのか、増々分からなくなる。

 

(俺はただ青春ラブストーリーしたいだけなのになぁ。美人のお嫁さんもらって温かい家庭を築きたいだけなのになぁ。神様とか興味ないです。ハァ……どうしてこうなった?)

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 急所を外して刺し傷は17ヶ所。いずれも重要な血管を避けており、苦痛を与え、じわじわと出血させて恐怖を味わせ、男根を切断し、最後は首を刎ねた。

 舌や歯に目立った損傷はない。口内に詰め物をして、悲鳴と舌を噛み切ることを防いだといったところだろう。

 手口からして熟練の技を感じる。人体に精通し、なおかつ実践を積んでいる。いかにすれば、人間を長く苦しめて殺すことができるのか、それを熟知しているのだ。だが、その一方で凶器の扱いには熟達を感じさせない。

 

「どうです、須和先生?」

 

「……断定できないが、首の断面からして鋭利な刃物、日本刀の類だろうね」

 

 黄色のレインコートを羽織った須和は嘆息する。彼と同行している青のレインコートを着た、色黒の肌をしたスポーツマンの印象を与える青年の草部錫彦も顔を思わず顰めた。

 

「遺体は草部で回収を。工房で検死解剖の準備をしておきますので、後ほど」

 

「分かった。よろしく頼むよ。だけど、搬送には人目につかないように十分に注意してくれ。大祭前で招かれざる客も多い。当主は『客人』である限りは手出し無用と仰っているが、裏を返せば号令1つで『獲物』と見なすという事だ。医者として、あまり血が流れるのを見たくない」

 

 錫彦曰く、被害者はどうやらバスでやってきたと報告されているグループの1人のようだ。だが、彼らは村の宿泊施設を利用した形跡はない。内の2名は初日の夜に吊り贄となって発見され、今日は3人目の遺体がこうして用水路から浮かび上がった。

 ずぶ濡れの財布の中身を確認した須和は入っていた免許証を発見する。前回の吊り贄の被害者は遺留品を残していなかったが、今回は違った。恐らくは尻ポケットに入れたままだった財布を抜き取り忘れたのだろう。あるいは、わざと残したのか。

 

「例の『狩人気取り』の犯行でしょうか?」

 

「さぁ、どうだろう? 正体が何者であれ、狩人とヤツメ様について相応の知識があるのは間違いない。それに殺しは手慣れているが、凶器の扱いは未熟。日本刀を扱ったのは初めてなのではないかな?」

 

 遺留品から身元を調べれば、何かヒントを得られるかもしれない。須和は錫彦に引き続きの調査を任せ、遺体が回収される様子を見届ける。

 

「……善人であれ、悪人であれ、死人は増やしたくないのだがね」

 

 雨は間もなく止み、雲の合間から太陽の光が漏れるだろう。間もなくと迫った大祭は予定通りならば満月である。

 つつがなく大祭が終わるのは諦めるしかなさそうだ。須和は気苦労が増えて溜め息を募らせた。




信じたいモノを信じれば良い。
信じられない真実は虚言と同じなのだから。




平和な現実世界からアルヴヘイム最終決戦の仮想世界へ。
いよいよ我らが妖☆精☆王の本気を示す時が来ます。

それでは、291話でまた会いましょう。

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