SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

狩人の里は今日も平和です。





Episode18-54 決戦前夜・前編

 上位プレイヤーとは、最前線に立ち続ける者であり、トラウマを抱えてドロップアウトしてしまう者は一定数存在する。

 仲間を失い、あるいは想像を絶する恐怖を味わい、または自分の限界を知る。多くのプレイヤーが羨望するレベルと装備を獲得していながらも、彼らは自らそれらを捨てるのだ。

 誰にも彼らを責められない。彼らは勇敢に未知に挑んだ戦士であり、生還する事が許されたのだから。今まで築いた全てを投げ捨ててでも最前線に立ちたくないと思える程の絶望と恐怖を味わったのだから。

 思い出しただけで恐怖が滲み出る。巨鉄のデーモン、古獅子、エンデュミオン、そしてスローネ。最前線ルーキーの自分が生き延びられたのは、自信を持っていい程度には備わっていたバトルセンス、精神力、そして何よりも運を持っていたからだとリーファは考える。

 普通ならば死んでいた。あんな少数でダンジョンを、ネームドを、ボスを倒すなど常軌を逸している。いや、そもそも最後のスローネ戦においてリーファは観客に等しかった。

 生き延びた歓喜も時間を経れば萎んで、熟成された恐怖が香しく鼻孔を擽る。戦い続けた興奮状態から冷めて1歩引いた位置に戻れば、自分がどれだけ死の傍にあったのか自覚して体が震え始める。

 もう戦いたくない。そんな気持ちが芽生えるのも仕方がないだろう。リーファは自嘲して、アルヴヘイムの変質した夜空を見上げる。虹色のオーロラで彩られた、星も月明かりも霞んだ空を見つめる。

 

「あたし、ちゃんと生きてるんだ」

 

 黒火山の攻略から6日が経ち、その間を休憩に費やしたリーファが滞在するのは、今や反乱軍……その筆頭である暁の翅の拠点と化している交食都市ベイブルーンである。

 スローネ撃破後に出現した光によって黒火山の外に転移したリーファ達は、黒火山に駐屯していた暁の翅と合流した。転移先は黒鉄都市に侵入する為に使用した渓谷の入口であり、あの場所こそが正しく黒火山というダンジョンの正門だったことが明らかにもなった。

 近隣に駐屯していた暁の翅と合流した頃に、3つ目の『証』が解放されたとの通達があり、このタイミングでどうしてと疲れ切っていた4人にそれぞれ異なる動揺をもたらした。

 

『きっとユージーンさんがやってくれたんですよ! もしかしたら、赤髭さんも協力してくれたのかもしれません!』

 

 レコンがそうはしゃいで強弁し、その場での推論の重ね合いはお流れになったが、UNKNOWNに背負われたシノンは何処か釈然としない様子だった。兄は一言だけ『そうかもしれないな』と零すだけだった。

 オベイロンを倒す為の鍵、央都アルンにして世界樹ユグドラシルへと通じる道を開く3つの『証』。その内の1つであった黒火山は攻略され、UNKNOWNは『証』を入手した。だが、それ以前に解放された『証』が1つ、スローネの撃破に遅れて更にもう1つの『証』も何者かによって確保された。

 2つの『証』を入手したのは同一人物・グループなのか、あるいは異なるのか。それを探る術を今のところリーファ達は持っていなかった。

 占領された黒火山から移動し、レコンが荷袋に包んで持ち帰ったヴァンハイトの埋葬が行われると、リーファ達はすぐに交食都市に赴くことになった。3つの『証』が解放されたお陰か、アルヴヘイム全域において転移機能が解放されたのだ。

 兄曰く、元々はNPCを通して廃坑都市へと転移するシステムが最初から備わっていたらしいのだが、それはNPCのレギオン化によって事実上壊滅していた。だが、新たに解放された転移システムはより簡易的なものであり、各所に出現した光柱を利用すれば廃坑都市を介在せずともあらゆる場所に転移が可能だった。

 それはオベイロンが手を加えたものか、あるいは元からアルヴヘイムに備わっていた機能だったのかは不明である。だが、転移先はアルヴヘイム全土であり、あらゆる場所に迅速に移動することが可能になった。

 広大なアルヴヘイムにおける移動の簡略化。それはアルヴヘイムというステージがいよいよ終局……妖精王オベイロンというステージボスとの最終決戦が近づいていることを否応なくリーファにも感じさせた。

 だが、夜明けを迎えて久しく、リーファ達の睡魔と疲労感もピークに達した頃、青空が虹色のオーロラによって侵蝕され始めた。

 

 

 

『やぁ、親愛なる我が臣民よ』

 

 

 

 今やアルヴヘイムの住民の、【来訪者】にとっての大敵となったオベイロンの『演説』が世界に響き渡った。

 

『私はとても悲しい。玉座を簒奪しようと望む愚か者たちが、反乱軍などという詭弁と偽善を弄する盗賊がいる。とても嘆かわしいことだ。そして、病を治すには患部の切除が必要だ。その為にはこのアルヴヘイムをどれだけ焦土にせねばならないのか、そう考えただけで胸が張り裂けそうだ。そこでだ。反乱軍よ、王として宣誓しよう。決戦の舞台を準備した。この妖精王オベイロンの手足となる軍勢が守護する央都アルンに至る最後の砦【回廊都市アヴァロン】。決戦のルールは「誓約書」に記してある。これは新時代を左右する「正々堂々とした」戦いだ。だが、王に立ち向かう勇気無き愚物に決戦などという礼式は不要。その時は妖精王の名誉にかけて、たとえ愛するアルヴヘイムが灰燼に帰するとしても、反乱軍を1人として残さず鎮圧することを、我が愛する国民と妻ティターニアに誓おうではないか!』

 

 もはや挑発としか思えぬほどに道化を振る舞うオベイロンに、リーファは煮え滾る怒りを通り越して、冷え切った憎悪以外に何も抱けなかった。

 自分を含めたプレイヤーをDBOから拉致し、今もサクヤを幽閉し、アスナと兄を引き離し続ける怨敵。それが今更になって『正々堂々決着を付けよう』などと反吐が出る。

 オベイロンの演説が終了し、虹色のオーロラだけが残された空の下で、遥か遠方で黄金の光が渦巻く中で、リーファを含めた……【来訪者】のみならず、アルヴヘイムの全住人に対して2つのアイテムが配布された。

 アイテムは【決戦の誓約書】・【銀の蝋燭】。決戦の誓約書は豪奢な金箔で彩られた紙束であり、その1ページ目には5つの決戦のルールが記載されていた。

 

 

1.会戦は銀の蝋燭が消えた時であり、それまであらゆる損害を双方は与えることはできない。

2.外征門を潜った者は『反乱軍』と見なされ、決戦に参加する権利を得る。

3.銀の蝋燭が消えるまでに賊王が選抜されない場合、また決戦に参加しない場合、反乱軍の自動敗北となる

4.王の軍勢の制圧値が10万を突破した時、央都とアルンへの道は切り開かれる。反乱軍は賊王が死亡した時、敗北となる。

5.上記のルールは妖精王と反乱軍の決戦の誓いであり、覆すことは許されない。

 

 

 5つのルール。それはまるで盤上の遊戯でも始めるかのような、オベイロンが準備したアルヴヘイムの『ラストゲーム』。まるでオベイロンはわざわざ反乱軍が攻め入ることを待ち望んでいるかのようだった。

 休息を取る暇もなく、UNKNOWNはギーリッシュを筆頭とした暁の翅の首脳陣が結集した宗教都市に転移した。彼はリーファ達に休むように求めたが、1人ではまともに動くことができない身であるシノンも含めて同行を希望した。

 全ての『証』が解放され、オベイロンの居城である世界樹ユグドラシルが待つ央都アルンへの道が開かれる。それは革命を心待ちにしていた反乱軍……暁の翅にとって悲願が叶うまであと1歩まで近づいたことを意味していた。黒火山の攻略に成功したUNKNOWN達は盛大な歓迎を受けたが、彼は簡潔にヴァンハイトの戦死を告げ、表面的な取り繕うだけのもてなしは不要と通達すると、即急に会議への参加を要望した。

 会議場に乱入したUNKNOWNの威風堂々とした立ち振る舞いに、誓約書と睨めっこして対策を練っていた暁の翅の首脳部は大いに唖然とした。トップにして食わせ物であるはずのギーリッシュさえも微かに目を見開いたほどである。

 彼らはUNKNOWNを『使い勝手の良い駒』程度に見ていたのだろう。その武力を使って軍内部の士気を高める為の道具。また、自分達では獲得できない『証』を入手する為の武器。そうして送り出したはずの彼の雰囲気が隔絶したものになっていたのだから当然であった。

 それは【聖剣の英雄】としての姿。勝利の象徴となり、背中に希望を見出させる為の偶像。兄が精一杯に『英雄』を演じるならば、自分はそれに追随するだけだとリーファも、少なからず兄の振る舞いに気圧されながらも、それを表情に示さないように努めた。

 

『これは「戦争ゲーム」だ。アンタ達が得意な「本物の戦争」とは訳が違う。この手の類は「俺たち」の本領でね』

 

 リーファでも全文の理解に至っていない誓約書に記されたルール。それを会議場に到着するまでの移動中の一読で把握しただろう兄の一声に、会議場がざわめくのは仕方がないことだっただろう。

 

『ルールはこの誓約書に書かれている通りだ。オベイロンの軍勢全てには戦力値というポイントが割り振られている。このポイントをゼロにしない限り、ユグドラシルには近寄れない。この戦力値はオベイロンの軍勢の撃破や拠点制圧で獲得できる。だが、俺たちにも同様に戦力値が割り振られている。誓約書の最後のページを見てくれ。所有者の戦力値が記載されているはずだ。俺の場合は「3000」で「個人上限値」と注釈が付いている。この「戦争ゲーム」では死亡者の戦力値分だけ減少する仕組みだ。俺が死亡した場合、制圧値が3000減少することになるな。この仕組みがある以上、無制限に戦力を投入しても損害が大きければ制圧値は10万を突破しない。このゲームのポイントは、いかに損耗を抑えて制圧値を稼ぐかにかかっている』

 

 捕虜とは謳っているが、要は生殺与奪の権利をオベイロンによって握られるという事だ。蹂躙と凌辱の限りを尽くされるだろう結末は必然であり、リーファは敗北した場合の末路を想像して身震いする。およそ生きていることが苦痛と絶望に変じるだろう。

 

『転移先には「外征門」もあった。銀の蝋燭が溶けてなくなるまでの時間……この蝋燭がどの程度の速度で燃焼するかは時間を必要とするが、長くとも3日ほどしか猶予が無い。まずは戦場を確認するんだ。決戦前はオベイロンも手出しができないから警戒する必要はない。そういう「ルール」なんだ。アンタ達には理解できないかもしれないが、オベイロンも「ボス」としてのルールに縛られている。俺たちと決着を付けなければならない「義務」からは逃げられない。この「戦争ゲーム」はオベイロンが必勝できると確信した、奴にとって最も勝率が高い「ゲーム」だ。だけど、俺が知る限り、「この世界」はどれだけ絶望的でも「勝率ゼロ」だけは決してあり得ない。許されない。必ず勝ち目がある』

 

 それは認識の違い。アルヴヘイムの住人は、まさにファンタジー世界で生まれ、育ち、死ぬ……プレイヤーの皮を被ったNPCに近い。彼らは自分たちが仮想世界の住人であり、現実世界の存在を知らず、またこの世界の理屈がDBOというゲームシステムが根本を担っていることに気づけない。何故ならば、認識する為の視点が不足しているからだ。

 オベイロンさえも、これだけ逸脱したアルヴヘイムでも、オベイロンは『アルヴヘイムというステージのボス』としてプレイヤーと戦わねばならない。それはオベイロンにとって唯一無二の急所であり、だからこそ【来訪者】の殲滅に乗り出していた。

 だが、アスナによってオベイロンの化けの皮が剥がされて以降は鳴りを潜めていた。それはオベイロンが【来訪者】に戦力を派遣して始末するのではなく、このラストゲームで完膚なきまでに叩き潰せる根拠と自信があるからだ。

 黒火山で分かるように、補給もろくにできない【来訪者】はダンジョンやネームドによって消耗を余儀なくされる。事実として、シノンは戦力外、レコンは盾を失い、ヴァンハイトが死亡した。強力な回復アイテムの在庫はろくに残っていない。オベイロンが敢えて【来訪者】の『証』回収を見逃したのは、疲弊を狙ってのことだろう。

 このラストゲームに向けて念入りに準備を進めているだろうオベイロン。その牙城を崩すのは限りなく困難だ。だが、兄は勝率ゼロは『あり得ない』と言い切った。絶対に勝てないイベントバトルなどではなく、必ず攻略法が……オベイロンにも敗北という出目が準備されていると確信していた。

 オベイロンが万能であるならば、最初から【来訪者】は『証』を集める暇もなく、絶え間ない戦力の派遣によって磨り潰されていたはずだ。だが、オベイロンにはそれすらも出来ていない。オベイロンが振るえる権限には明確な限界が存在した。廃坑都市壊滅はオベイロンにとっても限りなく悪手であり、避けたい手段の1つだったことは明確だ。そうでなくとも、保身に走るならば、念入りに都市の1つ1つを破壊していけば良い。

 

『オベイロンにもリソース……アンタ達に分かりやすく説明するなら、調達できる戦力には限界がある。無限に何でも自由に創造できる神様なんかじゃない。それはそのまま奴の弱点だ。奴の今回の「決戦」の狙いの1つは、敢えて大規模バトルにしてリソースを確保することにあるはずだ』

 

『【二刀流のスプリガン】、キミの言い分は大よそ分かったよ。時間がないことも重々承知だ。でも、僕らがそのルールに従うか否か。わざわざオベイロンが有利になるようなゲームに参加する必要は――』

 

『そこがアンタたちの思考の限界だ。メタ視点を持てないからこそ、これを「本物の戦争」と捉えてしまう。戦略も戦術も必要だ。だが、オベイロンが準備したのは「戦争ゲーム」であり、これこそがアイツの強みであり弱点なんだ。俺が予想していた最悪よりも随分とマシな方だよ』

 

『キミは……いや、キミ達【来訪者】とは何なのだろうね? 本当に異質な存在だよ。まぁ、今は問う時間もないか。それで? キミの意見を聞こうじゃないか』

 

 他の声を荒げようとする面々を手で制し、会議を取り仕切るギーリッシュに催促され、UNKNOWNは小さく頷くと左手に持った誓約書を叩いた。

 

『ルールの詳細は全てこれに記されている。俺たちの敗北条件は1つ。開戦までに賊王を選出しないこと。そして、賊王が死亡する事だ。まずは1人1人の戦力値を調査してくれ。騎獣とセットだった場合、装備の有無や変更、レベル……ソウルの刻印の数値による違いも纏めてデータにしてくれると助かる。アンタなら1日……いや、半日もあれば出来るだろう?』

 

『無茶を言ってくれる。だけど、無茶をなんとかするのも王器というものさ。暁の翅の盟主として約束しよう。半日でキミが望む資料を準備する』

 

『感謝するよ。レコン! キミは休息を取ったら転移してバトルフィールドの確認に赴いて欲しい』

 

『ええ!? な、何で僕が!?』

 

『キミの戦略眼は俺よりもずっと確かだ。必要になるのは「俺たちが良く知るゲーム」を知っている者の視点と推測だ。この中で最も頼りになるのはキミなんだよ』

 

 まさかの抜擢に困惑するレコンだったが、UNKNOWNの力強い視点に合点承知と頷いた。彼もまた、アルヴヘイムでの戦い、そして黒火山の死闘を経て成長した戦士なのだと、あの頃の泣き虫レコンがここまで、とリーファは感慨深かった。

 

『私はどうすれば良いかしら?』

 

 レコンに肩を貸してもらいながら、今すぐにでも医務室に連行すべき状態であるはずのシノンが不敵に問いかける。一瞬だが、UNKNOWNは彼女にとにかく休めと言いたそうな眼差しをしたが、シノンの目を見て堪えるように瞼を閉ざす。

 

『シノンは治療が終わり次第、レコンに同行を頼む。彼を補佐して欲しい』

 

『あら? それだけで良いの?』

 

『それが重要なんだ。彼の意見だけでは偏りが出るかもしれない。だけど、シノンがいれば狙撃手としての見解、GGO経験者としての推測、何よりも女の直感が役立つだろう?』

 

 最後だけは口元を歪めて伝えただろうUNKNOWNに、何それとシノンは呆れたように肩を竦めて了承した。

 

『あ、あたしは!?』

 

『リーファは俺と一緒。戦力資料が届き次第、ラストゲームに参加する戦力の分別作業を手伝ってもらう』

 

 要はデスクワークだ、とリーファが最も苦手とする部類を容赦なく突きつけた兄を恨めしく思いながらも、これはゲームであっても遊びではないのだから、苦手だからと逃げることはできないと腹を括る。

 

『俺たちだけでは全作業を担えない。特に戦力選抜は「視点」を貸すからコツを把握してくれ。頭の良いアンタ達だ。実際の指揮、戦力分配、戦略作成は俺よりもずっと上手くできるはずだ。確かに「本物の戦争」ではないが、決してアンタたちが今まで培った軍略や陣形が役に立たないわけじゃない。特に参加する戦力は極力厳選しないとまずい。数は頼りになるが、このゲームでは数に頼り過ぎれば壊滅値が一気に引き上げられる。戦力として不十分と判断したら足切りすべきだ』

 

『それが1番の難題か。なにせ、今回の通達は暁の翅のみならず、アルヴヘイムの住民全てに広がっている。他の反乱軍の将もオベイロンの首を狙っているはずだ。鍬しか持ったことがない農夫を徴兵して剣を握らせている連中もいると聞いてるし、そういう連中を説得して回るのも僕の役目かな?』

 

『むしろ、アンタの1番の大仕事はそこだろう? 頼むよ、アルヴヘイムの次期王様』

 

 腰に手を置いて自信満々にギーリッシュの手腕を期待するUNKNOWNに、暁の翅のリーダーは困ったような表情を作りながら手を振って了承した。

 

『あと、最後にして最大の重要事項。賊王とその権限についても誓約書に記されている通りだが、俺なりに噛み砕いて説明させてもらう。賊王とはその名の通り、反乱軍の頭だ。戦力値の計算には「役職」の項目もある。まだ予想の域を出ないが、賊王はそれだけで高い戦力値が与えられるはずだ』

 

『頭が死ねば軍は成り立たない。遊戯だろうと戦争の理屈は変わらず……というわけだね』

 

 つまりは、1番死に難い者が賊王を担うことこそベストという事だ。リーファはこの中で1番生存率が高いのは、最大の実力者である兄であると判断する。だが、そんな意見を見越しているかのように、UNKNOWNは先手を打つように背負う壮麗なる銀の刀身を持つ聖剣を抜いた。

 

『先に宣言しておく。俺は賊王にならない。死ぬ気はないし、負ける気もない。だが、万が一もある。俺に戦力値が集中することは避けたい。それに……俺に王様は似合わないさ』

 

 UNKNOWNが聖剣を振るえば暗闇が集まり、銀の刀身を核として漆黒の大刃が形成される。それは輪郭だけを月明かりたる青碧の光で濡れた、見る者に一目で聖剣であると判断させるに足る威圧感を秘めていた。

 圧巻。会議室に動揺が伝播する。UNKNOWNはそれを数十秒かけて受け止めた後、まるで誓うように聖剣を掲げた。

 

『望んはずだ! 求めたはずだ! アルヴヘイムに真なる自由を! 新たな王を! 幸福なる未来を! 俺とアンタ達では欲しいものが違う。だけど、オベイロンを倒すという意思だけは同じはずだ! 聖剣に誓おう。俺は勝利をつかみ取る! 共に戦おう!』

 

 聖剣の神々しさとUNKNOWNの鼓舞に奮い立ったのだろう。ギーリッシュがまるで導火線に火をつけるように手を叩けば、誰もが会議場を飛び出した。それぞれに出来ることを、成すべき事を果たすべく動き出した。

 その後、いよいよ疲労がピークに達したリーファは泥沼に沈んだように眠り、目覚めた時にはまさかの1日丸ごと消耗しているという大失態を犯していた。レコンも同様だったらしいが、足が治癒したシノンに叩き起こされて無理矢理ベッドから引き摺り出され、彼女よりも半日先に自らの業務に取り掛かっていた。

 さすがのUNKNOWNもシノンも休息は必要としたが、それもそこそこにして動き始めたのは、さすがは傭兵といったところだろう。リーファは兄に同行し、準備された戦力資料から助言を繰り返したが、そもそもALOを除けばゲームにあまり触れたことがないリーファでは限界があった。ALOでも領地戦は多かったが、あまり馴染めずに参加を拒んでいたことが裏目に出ることになった。

 また手助けになるはずだろうシリカは既に宗教都市を離れていた。出発したのはリーファ達が黒火山を目指して出発した時期と重なっており、彼女はオベイロンを倒す手がかりを見つけたと言い残し、フード付きマントで素性を隠した男女2人、そして捕虜だったマルチネスと共に旅立った。

 銀の蝋燭が燃焼する速度から開戦まで7日、正確に言えば8日目の始まり、午前零時と推定された。そこからは目まぐるしく戦力の再編が行われた。また、3つの『証』が解放されたことによって貪欲者の金箱の販売アイテムもラインナップが増え、それもまた戦力増強の助けとなった。

 重点的に配備されているのは黒火山の『証』によって追加された【炸裂ボルト】などの攻撃系アイテムである。炸裂ボルトは炎のボルトの上位互換であり、命中すれば火炎壺と同程度の爆発と衝撃ダメージを与えることができる。上位の【爆裂ボルト】ならば黒火炎壺にも匹敵するダメージ源である。アルヴヘイム級のネームド相手ならば期待できないが、どちらも小アメンドーズを始めとした雑魚ならば十分にダメージを稼げる。

 廃坑都市壊滅から免れた鍛冶屋によって、旧暁の翅が配備を進めていた連射クロスボウの増産も良好であり、不眠不休の急ピッチで増産が行われ、開戦までには前線兵士全てに配備される予定である。最大で3連射、同時装填数30本という良好な性能であり、物理ダメージではなく爆発に攻撃力の比重を置いた炸裂ボルトや爆裂ボルトとの相性も良い。

 レコンによってもたらされた銃器も配備されている。強力な銃弾の作成は難しかったが、衝撃とスタン蓄積を稼ぐ為にショットガンに重点的な増産が行われ、また設置兵装として移動式大型ガトリングガンも配備されている。対アルフ用のネットショットと打ち出し用の大砲も準備済みだ。

 弓矢を用いた射撃は大弓による狙撃部隊と毒・麻痺に重点を置いたデバフ用の矢を用いる機動班に分けられている。特に曲射における圧倒的制圧力からの麻痺状態にしての斬り込みは近接を担う前線兵にとって大きなプラスになるだろう。

 特に有力視されているアイテムとして、各種松脂もある。ランスロットの『証』によって解放された目玉の1つであり、特に純粋に物理攻撃力を高める上にエンチャント時間も長い【黒錆の松脂】は近接戦において重宝されるだろう。デメリットとして武器のエンチャント中の重量増加が上げられるのだが、元より粗製の武器しか製造できなかったアルヴヘイムの住人にとって、そのエンチャント分攻撃力は何よりも『重たい』のだ。

 シェムレムロスの兄妹の『証』によって解放されただろうアイテムはいずれも癖が強いものばかりであるが、微弱なオートヒーリングを長時間付与する【萎びた黒根】、同じく微弱ではあるが魔力回復速度を引き上げる【萎びた白根】は共にギリギリにおいて生死を繋ぐに値する。また【結界の護符】によって一時的に防御力を引き上げることも可能だ。だが、兄妹の『証』によってもたらされたアイテムで最大の有効性を持つのは、【来訪者】達の在庫でも枯渇が危険視されていた止血包帯だろう。

 武装追加の黒火山、補助優先のシェムレムロスの兄妹、攻撃力増強のランスロット。そして、霜海山脈クリア報酬のリストによって、解呪石などの尖ってはいるがあれば嬉しいアイテムも揃っている。

 歴史の長さの分だけコルが溜め込まれたアルヴヘイムだ。反乱軍はオベイロンによる圧政の精算だとばかりに、天文学的数字のコルを消費してこれらアイテムの配備を進めている。

 だが、決定的に不足している回復アイテムだけはどうしようもないのが現実だ。依然として販売されているのはHP5パーセントを30秒かけて回復させる治癒の息吹だけである。それでも回復アイテムが決定的に足りないアルヴヘイムでは、これさえもが命を繋ぐか否かの重要な戦略物資として配備されているのが現状だ。

 歴史の節目の戦い。アルヴヘイムの住人は反乱軍を見守り、激動の時代に立たされて震えている。

 ある者は自分に火の粉が降り注がないようにと守ってくれもしない神に祈りを捧げる。

 ある者はオベイロンを賛美して命だけは助かろうと足掻く。

 ある者は反乱軍で戦果を挙げて故郷へ錦を飾らんと意気込む。

 ある者は仕事だからと冷戦沈着に決戦に向けて準備を進める。

 そうして、いよいよ明日と控えた前夜。各所で大規模な宴が開かれた。リーファが滞在する交食都市もその1つであり、功績に対する労いも兼ねて招かれたのである。市街は煌びやかに飾られ、明日の出征を控えた兵士や騎士は無銭であらゆる飲食が許されている。

 キャンプファイアーを思わす巨大な火が焚かれ、人々は酒を煽り、肉を食み、陽気に笑って歌って踊る。明日の恐怖を忘れる為に。まるで最後の晩餐を済ませるかのように。

 ルールに縛られているのはオベイロンも同様と証明するかのように、何ら妨害工作もなく、たった6日で再編を行えたのは奇跡などではない。反乱軍と呼ばれるまでに纏まっていたからこそである。

 総数4万の大軍勢。DBOのプレイヤー数よりも遥かに多い数が明日の戦場には並ぶ。

 

(一般兵の平均戦力値は1~3。女王騎士団のようなレベル30級で装備もアルヴヘイム基準で整った人たちで10。あたしは『537』。あたしは537人分の価値がある? 何それ、ふざけてるの? 馬鹿にするのも大概にしてよ)

 

 命に値札を付けるつもりなのか。リーファは膝を抱えて顔を埋める。陽気な太鼓の音色も、ギターが刻む旋律も、人々の笑い声さえも、今はただ耳障りだった。

 勢力争いを行う戦争ゲームにおいて、『ネームドキャラ』を倒した場合、大きく自陣の勢力は減少する。指揮官などが筆頭だろう。アルヴヘイムのラストゲームはそれになぞらえたものであり、【来訪者】というだけで高戦力値が付与され、レベルや武装、更には実績などで上限3000まで戦力値が上昇する。

 UNKNOWNは3000。兄のレベル、武装、実績を考えれば最大値も仕方ないだろう。ちなみにレコンは299であり、シノンは57だった。彼女の場合、装備の全てを損壊していることが大きく響いているだろう。

 

「随分と暗い顔しているわね」

 

「そうだよ! リーファちゃんもしっかり楽しまないと!」

 

 と、沈んでいたリーファを見ていられなかったのか、両手にジョッキを持ったレコンと再生した右手で鶏肉の串焼きを握ったシノンが声をかける。

 すっかり出来上がっているレコンはアルコールで顔を真っ赤にして上機嫌だ。重々しい甲冑も脱いでいる。シノンは半ばから食い千切られた義手を包帯で巻いて隠しているが、右腕と両足は共に健在だ。

 

「だって、いよいよ明日なんですよ? あたしだって能天気には――」

 

「別に良いじゃない。今から落ち込んでも明日がどうなるかなんて神様にだって分からないわよ」

 

 隣に腰かけたシノンに串焼きを差し出され、リーファは釈然としない顔で受け取る。

 

「私を見なさいよ。明日は参戦すると言っても実質戦力外。スナイパークロスボウを担いでチマチマと狙撃よ。片腕の人間を働かせるなんて、貴方のお兄様ってDV疑惑あるんじゃないかしら?」

 

「でも、竜の神戦では片腕で戦ったんですよね? いやぁ! やっぱりシノンさんは凄いなぁ! よっ! さすがは【魔弾の山猫】! サインズ女傭兵で最も女性からファンレターを貰う――」

 

 スキル≪太鼓持ち≫でも獲得したかのような弁を披露するレコンの額に、シノンが無言で投擲した串が突き刺さる。悲鳴を上げて転げ回るレコンを尻目に、シノンは忌々しそうに嘆息した。

 

「無様よね。彼の隣で戦う相棒でありたかったのに、最後の最後の重要な戦いでは蚊帳の外なんて」

 

 武器も義手も失ったシノンの苦悩はリーファが察せられる域を超えた重々しさを持つ。まだ戦う事が許されたリーファは、腰に差す漆黒の少女から渡された片手剣を意識した。今も自分が戦えているのは、ユグドラシルで自分を解放してくれた彼女のお陰だ。

 どうして自分を助けてくれたのか? 彼女なりのロジックはあったのだろうが、リーファに解せるものではなかった。分かっていることはただ1つ、彼女は自分に小さくない親愛の情を抱いてくれていたことだけだ。

 この戦いに参加する。それも漆黒の少女の狙い通りなのだろうか。リーファは復活したレコンが新たな酒を取りに行く姿を見て、それが何ら違和感がない事に自分もまた螺子が外れつつある1人だと気づく。

 

「そういえば、あたしもレコンも、多分シノンさんもまだ――」

 

「それ以上は言わないお約束。それにアルヴヘイム……いいえ、DBOのお酒は法の適応外よ。つまり、酒税も無ければ健康被害もない。酔いたいだけ飲めば良いじゃない。私たち、それくらい許される経験をしていると思うわよ?」

 

 虹色のオーロラで星も月も隠されてしまった夜空を見上げるシノンの憂鬱を理解し、リーファも苦笑して同意する。

 酒でも飲んでいないとやっていられない。そんな大人になりたくないと思っていた。だが、今は何もかも忘れるほどに飲まねばならない時もあるのだろうと受け入れる。

 

「よーし! あたしも今日は飲んじゃうぞー! お兄ちゃんと飲み比べしてやるんですから!」

 

「明日に影響でないしないように程々にしておきなさいよ。そういえば、あなたのお兄様は何処に行ったのかしらね? こうしたお祭りでは1番に羽目を外しそうなんだけど」

 

 兄妹関係をカミングアウトしたと伝えた時のシノンは『そもそも時間の問題だったしね』の一言で済ませたが、良質なカードの喪失を些か不満を持っているようだった。

 兄にとって妹の自分がアルヴヘイムに……DBOにいるのはやはり負担になるだろうとリーファは客観的に分析する。何でも背負い込む悪癖が兄にはあり、それが暴走を引き起こすこともある。今はその悪癖を正そうと奮闘しているようだが、生来持った気質である限り、死ぬまで付き合っていくしかないのだろう。

 自分は重荷だ。だが、決して守られるだけの存在ではなく、心配されるだけの足枷でもなく、確かな助力が成せる存在になりたい。それがリーファの目標だ。いずれは『あの兄にしてこの妹あり』と呼ばれるくらいまでに成長しなければならない。

 

「あたし、探してきます! どうせお兄ちゃんのことだから、明日に向けて秘密の特訓とかしてるんだろうし」

 

「へぇ、案外努力家なのね」

 

「違いますって。こういう時……体でも動かしてないと頭の中身が悪い想像でいっぱいになっちゃうだけですよ。お兄ちゃんは昔からそうだったから」

 

「態度は大きいくせに繊細なのね。面倒臭い男。リーファはレコンと騒いでなさい。私が引き摺ってでも連れて来るから。お祭りに英雄様がいないと場は盛り上がらないものよ」

 

 ……任せて大丈夫だろうか。リーファの眼光が『妹』として研ぎ澄まされる。

 シノンは自覚こそ薄いようだが、兄に対して好意を持っている。それは強さへの憧れ、相棒となりたい願望、そして異性としての意識も混ぜ込まれている複雑なものだ。

 ここで兄の捜索を任せるのは『妹』として最適な判断だろうか? 確かにシノンは頼りになる。アルヴヘイムで兄を支えてくれた実績もある。だからと言って、ここで甘えてしまうのは必要不可欠な警戒を解除する愚行なことではないか?

 親しき仲にも礼儀あり。最低限の戸締りはマナー違反ではない。むしろ、家内に『泥棒猫』が入らないようにしっかりと施錠することこそが人間関係の維持に繋がるのではないだろうか。

 この逡巡、僅か1秒。リーファは顔色1つ変えずに笑顔を作ることに成功する。

 

「あたしが探してきます。シノンさんこそ、楽しまれたらいかがですか?」

 

「……別にあなたのお兄様を取って食べようなんて考えてないわ。意識過剰よ」

 

 だが、リーファの『兄妹愛』を十分に理解していると言わんばかりに、シノンは過大な呆れが入った様子で溜め息を吐いた。

 

「言ったでしょう?【来訪者】で明日の主力になれるのは彼とあなただけ。私は隻腕。レコンは盾無し。それぞれ戦力ダウンなりに働かせてもらうけど、敵と真正面から斬り合うのはあなたの仕事なのよ」

 

 だからこそ、最後の夜で心残りなく……という考えもあるのであるが、リーファはさすがに今の兄にそこまで背負わせるのは酷だと諦める。ただでさえ妹登場でメンタルに金槌が振り下ろされている状態なのだ。妹と『進展』などあった日には、それを意識し過ぎて明日に支障が出るかもしれない。

 

「リーファちゃぁあああん。お酒持って来たよぉおおおお!」

 

「ほら、レコンもベロベロじゃない。大切なお友達なんでしょう? 酔い潰れるまで飲ませてあげるのも友情だけど、潰れる前に止めてあげるのも友人の務めよ」

 

「……ハァ。分かりました。シノンさん! お兄ちゃんをよろしくお願いします! なんだかんだ言って、お兄ちゃんが自分の背中を今は任せられると思っているのは……シノンさんだけのはずだから」

 

「はいはい。『今は』ね」

 

「付け加えると、他意はありませんから」

 

「そういう事にしておくわ」

 

 ひらひらと手を振って兄を捜しに去っていくシノンを見送り、両手に握った大ジョッキを振り回すレコンの元へとリーファは歩み寄る。

 明日は何人死ぬのだろうか。そう思うだけで怖くて堪らない。もしかしたら、自分もまた命を落とすかもしれない。

 だからこそ、たとえ目を背けることになるとしても、今は飲んで食べて踊って騒いで忘れてしまう。そういう事も必要なのかもしれない。

 生きたい。生き抜きたい。兄と共に未来を。リーファは押し潰されそうな不安を抱えた心に喝を入れる。

 

(諦めない心。それがあたしの取り柄! 負けるか。負けるもんか! 絶対に生き抜いてやるんだから!)

 

 いつだって篝さんは諦めぬ心を褒めてくれた。リーファはレコンから大ジョッキを受け取ると喉を鳴らして飲む。アルコールの刺激が思考に開放感をもたらしていく。

 

「ぷは!」

 

「良いよ良いよ! 凄い飲みっぷりだよぉ! さぁ、リーファちゃん! もう1杯!」

 

 酔いが回って陽気になっているレコンに乗せられ、リーファはレコンに手を引っ張られて大樽から無制限に振る舞われるビールを受け取りに行く。

 明日の戦いはアルヴヘイム全土の人間に通達されているはずだ。転移先で外征門を選べば、自動的に反乱軍に登録され、明日の戦いに参じることになる。どれだけの【来訪者】が集結するかは分からないが、オベイロンの首を逃す道理はない。

 あの夜、兄の心を救ったのは鉄の城への抗えぬ郷愁、親愛なる友との思い出だったのか。それとも、アルヴヘイムの何処かにいる白の傭兵だったのか。

 ユウキはクゥリを追ってアルヴヘイムに来たが、結局は再会できておらず、誰もその姿を見た者はいない。霜海山脈の攻略者、そしてランスロットとシェムレムロスの兄妹の『証』を入手したのは誰なのかも分かっていない。

 聖剣が見せた夢だったのかもしれない。都合よく、兄が最も苦しい時にかつての相棒が現れるなんて、あまりにも出来過ぎている。ならば、兄の心を救うべく、顕現を控えた聖剣が幻を見せたと言われた方がまだ納得もいく。

 結局は本人と顔合わせして問いかければ分かることだ。クゥリは嘘が大の苦手なのだから。

 

「今度は【渡り鳥】のこと考えてるんだろ」

 

「え!? 何で分かったの!?」

 

 妙に口を尖らせたレコンの物言いに、リーファはビクリと肩を跳ねさせる。気づけばレコンの目は据わっており、いよいよ酔いは危険な領域にまで到達しているようだった。

 

「ずっと見てたから……分かるよ」

 

「……そっか」

 

「そうさ。リーファちゃんにとって特別な2人。あの2人の話の時だけは、いつもと違う表情をするから」

 

 そ、そうかなぁ? リーファは照れ隠しでジョッキに口をつければ、酔ってこそいるが、その目に真摯な光を宿したレコンが背筋を伸ばして、緊張した面持ちで唇真一文字で起立していた。

 人々は大火の周りで踊り狂い、酒を煽って恐怖を忘れ、男女は夜の帳に消えていく。炎で光と陰の境界線が描かれる中で、レコンは拳を震わせて、何度も言葉を舌に乗せようとしては躊躇いながらも、覚悟が決まったように頭を下げてリーファに右手を差し出した。

 

「リーファちゃん、僕と踊っていただけませんか? 僕と付き合ってもらえませんか? 僕は……キミのことが好きです。大好きです」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ラストゲーム。そう称されたオベイロンとの決戦。それはルールを読めば読むほどに戦争ゲームに近しい要素を多く持っていた。

 転移の光柱に追加された外征門。そこに移動すれば、四方八方を険しい山脈で覆われた、まるで意図して作られた箱庭のような環境が広がっていた

 次々と舞い込む情報によれば、

 そして、外征門と呼ばれる場所は巨大な白の門であり、そこから一直線に伸びるのは同じく白色の、断崖絶壁にかかる大橋。その先にあったのは、宗教都市が児戯と想える程の荘厳な都市だった。構造は縦長であり、回廊都市の名に相応しい。そして、外征門からも分かりやすく、いや、目が留まらない方がおかしい程に、都市を越えた反対側には空を貫くような大樹が聳え立っていた。

 レコンの仕事は回廊都市について調べ上げる事だった。橋を渡って都市内部に入れば、円形の噴水広場、2体の天使……いや、アルフ像が並ぶ広大な神殿、50階は超えるだろう、存在そのものが世界遺産に登録されそうな程にレリーフが彫り込まれた高層建造物。枯れることなく湧き出す泉によって建造された用水路。入り組んだ路地と地下通路。建物の1つ1つに調度品が準備され、まるで誰かが生活していたかのような雰囲気さえもある。

 だが、回廊都市は完全な無人だった。まるで人間の全てが突如として霧となって消えてしまったかのような不自然な感覚に陥る程の、まさに戦場の為だけに準備された都市だった。

 目視できた限りの構造は、回廊都市は断崖絶壁に囲われた縦長の都市という事であり、都市構造は立体的という事だ。建造物デザインはファンタジー調で宗教色も濃いが、もはや高層ビル群と呼んでも差し控えないだろう。それらを繋ぐ渡り廊下が無数と存在しているのも特徴的である。

 外征門から見て都市の反対側には何もなく、ただ断崖絶壁だけが待っていた。だが、まるで森が突如として途切れたような印象を受け、何もない空虚な虹色に歪んだ広大な空間。よくよく見れば、世界樹ユグドラシルの輪郭がぼんやりと見て取れた。そして、歪んだ空間からは虹が吹き出し、それこそが夜空を覆うオーロラの元凶だった。秘匿の結界、それが破られかけている証拠なのだ。

 そして秘匿の最後の結界。これを打ち破るには、オベイロンが仕掛けるラストゲームに勝つ以外に道は無い。

 

『この回廊都市には各所にエリア拠点があって、これに外征門で購入できる「逆賊の旗」を設置することで制圧値を上昇できるようです。拠点制圧中は制圧エリア内で得られる制圧値と失う戦力値が減少するだけではなく、反乱軍にバフのボーナスが付くみたいですね。いかにしてエリア拠点を制圧するかがポイントみたいです』

 

『決戦前は自由に見て回れるけど、開戦1時間前には強制退去。外征門から続く白の大橋を通って最初に得られる初期拠点から私達は戦闘開始。システムもそうだけど、本来はギルド連合を組んだ大規模バトルを想定したシステムなのかしらね』

 

『かもしれませんね。オベイロンがどの程度までアルヴヘイムで自由に能力を振るえるかは分かりませんけど、UNKNOWNさんの言う通り、そこには明確な限界があります。僕の読みですけど、オベイロンはDBOに元来備わっていた大規模バトルイベントを流用して今回の決戦の準備を急遽したのかもしれません。だってそうでしょう? 本来のアルヴヘイムは、「証」を守るネームドを撃破しない限りは補給も難しい。しかも順次ダンジョンを攻略していくタイプです。なのに最後はギルド連合でもない限りに足りない程の大規模。このラストゲームだけ変則的なんですよ』

 

 だからこそ、UNKNOWNが指摘したリソースが絡む。オベイロンは反乱軍と【来訪者】の勝ち目がゼロになるような最大限の仕掛けを準備しているはずだ。

 また1度戦闘が始まれば突き進むしかない。DBOのネームドやボスとのバトルは基本逃亡不可である。アルヴヘイムは地形変動の影響もダンジョンも受けていた様子であり、巨鉄のデーモンが地下から這い出てしまったのはイレギュラーだったようだが、原型が残っていた黒火山本体では古獅子が倒されるまで退路は断たれていた。

 これらの事から、決戦が始まれば転移機能は制限されるだろう。完全に機能不全となるのか、回廊都市側に転移するだけの一方通行になるのかは不明であるが、勝利以外に生存の道は無い、攻勢でありながら背水の陣でオベイロンの軍勢と戦わねばならない。

 

『狙撃ポイントは多そうね。だけど、都市構造は立体的で隠れる場所も多い。拠点を順次制圧するのが最優先ね。だけど、アルフには飛行能力がある。あの都市でまた全方位から同時攻撃を受けたら廃坑都市の二の舞だけど、周囲が断崖絶壁の分だけ包囲殲滅は無さそうね。問題はオベイロンの軍勢が出現する場所かしら?』

 

『順当に考えたら外征門からの対極ですよね。そこから逐次戦力が現れるのか、それとも戦力が追加補充される敵拠点があって、それの制圧も含めてポイントになるのか』

 

 制圧値を効率的に稼ぐ方法は2つ。エリア拠点を制圧し、エリア内の制圧値獲得上昇ボーナスを得ること。もう1つは制圧値を大幅に上昇させる強敵を撃破する事だ。

 だが、10の制圧値を稼ぐ為にこちらの1の戦力値を持つ兵士10人が死ねば意味がない。UNKNOWNの言う通り、いかにして犠牲を抑制するか、効率的に制圧値を稼ぐかにかかっている。

 そうなれば必然的に取れる手段は見えてくる。突破力に優れた人員による拠点制圧。そこから陣形を敷いてポイントを稼ぎ、制圧値の大増加が見込める大物を仕留める。

 

『で、どうなの?』

 

『そりゃ勝ち目はかなり薄いですよ。こちらは準備期間が短い。地理に慣れる暇もない。相手の戦力は未知数。オベイロンが反則級を出してくるのは確定。UNKNOWNさんはああ言ってましたけど、こちらは主戦力がレベル20~30ですからね。オベイロン側がレベル80~100クラスなら、雑魚でもヤバいですよ。小アメンドーズ程度なら何とかなりそうですけどね。やっぱり拠点制圧によるバフがどの程度機能するかが鍵ですね。あと、撃破して順次経験値が稼げるタイプなら、一気にレベルアップも期待できますから、こちらの主兵装がクロスボウならレベルアップ次第VITに極振りしてもらって生存率をガンガン上げるのも手ですよ。あと、レベルが低い分だけこっちの戦力値は低いでしょうし、失った分だけ稼げるサイクルさえあれば何とかなりそうですね。敵が武器をドロップする系なら、片っ端から奪って装備すればブーストにもなりますし』

 

『……まともになったと思ったけど、相変わらず「軍略」視点だと畜生なのね』

 

『それが僕に求められてる視点でしょう? 期待された分くらいには考えますよ。自分でも嫌だけど、天才には劣るとしても、凡才より少し上程度には備わっているみたいなんで』

 

 シノンの辛辣な物言いに、レコンは溜め息を堪えながら、自分の才覚と領分を吐露した。

 レコンは『盾』だ。だが、黒火山でその要であった大盾が破損した以上、自分に出来ることを最大限する努力するしかなかった。

 外征門で得られる、たった1つのアイテム。【賊王の印】を持ったプレイヤーが反乱軍の要となる。賊王が死亡すれば無条件で反乱軍は敗北だ。レコンとしてはUNKNOWNに所有させたかったが、彼はオベイロンに集中砲火されると確信しているからこそ、リスクマネジメントで他の誰かに託すことを決めた。

 自分の命を別の誰かに預ける。それは勇気のいる選択肢だ。そして、オベイロン側へのスパイが何処に紛れているかも分からない以上、賊王は最大限に隠匿せねばならなかった。

 他にも賊王には特別な能力が与えられている。それが『将軍』・『近衛騎士』・『軍師』の選出権だ。

 将軍は自軍を保有し、部隊に指揮命令という特殊コマンドを駆使することでバフをもたらすことができる。また、将軍から一定の範囲内は制圧値にボーナスがつく。

 近衛騎士はステータス全強化の恩恵が得られ、妖精の翅を獲得することができる。アルフに対抗できる数少ない貴重な戦力になり、また撃破時の制圧値にもボーナスがあるのでアタッカーの役割だ。

 最後に軍師。これは特殊な役割であり、軍師だけが敵の戦力値を確認することができる。また、通信・遠声の能力を持ち、反乱軍の好きな人物に連絡ができ、好きな場所に声を届けることができる。また、軍師だけが都市内部でマップ機能を解放できる。直接的な恩恵は少ないが、大規模な指揮系統を担うのに不可欠だ。

 これら役職にある人物は選抜できる数こそ限られているが、強力な恩恵を得られる。その代償として戦力値が増加し、死亡した場合のリスクも上がる仕組みだ。

 そして、これら3役を選べる賊王は、他にはない大幅なVIT強化がもたらされ、生存率が高められる。また『宣誓』という特殊な能力が与えられ、戦場全体にいる反乱軍に対して強力な全ステータス上昇のバフと完全回復を1度だけ使用できる。ただし、これを使用した場合、オベイロンの軍勢に賊王は特定される事となり、集中砲火を浴びる危険性がある。

 

『結構面白いですよ。ルールありきのGvGって感じですし。ただプロト丸出しなんで、ベータテスト100回くらいして、随時アプデしないとファンメールで運営パンクしそうですけど。主にバランス面でゴミですし。賊王が2人とか影武者を立てられるとかならより戦略性が増しそうなんですけどね』

 

『元からバランスも何もないのがDBOでしょ?』

 

『でしたね。だとするなら、オベイロンが使ってくる反則技は幾つになるやら。まぁ、このルールを土台から引っ繰り返すくらいの真似はしそうですよね。あと、かなり危険視しているのは、今回の転移システムです。これにオベイロンが細工しているなら、転移時にマーキングをして決戦中は僕らの居場所を常時掴んでいる……くらいはしてきそうですよ。隠密行動が潰されて、なおかつオベイロンが自陣営に逐次指揮が執れるなら、それだけで僕らは大幅なアドバンテージをつけられることになりますから』

 

『オベイロンならそれくらいの反則するのは普通でしょ? 廃坑都市を忘れたの?』

 

 あっさりとシノンは切り捨てたが、彼女も自覚している通り、この決戦は限りなく分が悪い。そもそも、オベイロンがわざわざご丁寧に招待し、ルールブックを準備している時点で、自分に不動の勝利を確信し、なおかつ反則技でこちらの勝ち目を丁寧に摘み取ると『正々堂々』と宣言しているようなものなのだから。

 自分は死ぬかもしれない。ラストゲームに向けて準備が進めば進むほどに、見えてくる勝ち目と弱点が分かる。やはり反乱軍最大の弱点はレベルであり、これを補強する装備を貪欲者の金箱や廃坑都市で培われた技術で獲得できたとしても、この差は大きい。

 戦力を使い捨てる戦いが求められる。犠牲は最小限に抑えなければならないが、チェスや将棋で駒を割り切って捨てねばならないように、冷徹な判断が要求される。

 

『レコンくんには「軍師」の役目を担ってもらいたい。僕の補佐を頼むよ』

 

 いよいよ賊王が選抜され、同じく『軍師』に抜擢されたギーリッシュにそう告げられたレコンは、胃に氷を詰められたかのように身震いした。

 天才ではないが、天才を補佐する程度には才覚がある。だからこそ、ギーリッシュは自分の傍に置いて『駒を切り捨てる』判断をレコンに求めるつもりだ。彼はあくまで勝利を追い求めており、汚れ仕事を引き受ける人柱が必要なのだ。

 以前のレコンならば喜んで引き受けただろう。だが、今のレコンは違う。人命の重さを思い知り、罪の重さを味わった。数だと割り切って嬉々と使い捨てることなどできない。

 それでも引き受けたのは、自分に出来ることを果たす為だ。たとえ、再び汚れ仕事を押し付けられるとしても、レコンは勝利の為にと言い訳を重ねて血涙を流してでも指揮を伝達しよう。

 黒火山の戦いで、聖剣が現れなければレコンは死んでいた。深淵狩りの剣士たちが……メノウが授けてくれた深淵狩りが追い求めた聖剣の伝説こそが、自分を守ってくれたような気がしてならなかった。あの聖剣に見た、歴代の深淵狩り達だろう幻影に、確かにそんな細やかな奇跡を見たのだ。

 欠月の剣盟の行方は廃坑都市以降不明だ。東方にある神隠しの伯爵領に消えたと噂もあるが、真偽も定かではない。彼らはレギオン化の兆候も見られていた。ならば、アルヴヘイムの何処かで怪物となったか、それより先に自害を選んだのかもしれない。

 彼らが集結して参戦してくれていれば、どれだけの戦力になったかは言うまでもない。彼らの装備はアルヴヘイム基準のモンスターにも通じ、なおかつ鍛錬と死闘で培われた戦闘力は凄まじく、レベルも決して不足はない。だが、アルヴヘイムで忌み嫌われ続けた深淵狩りはこの最終局面でも姿を現さないならば、それは彼らの全滅を意味しているに他ならなかった。

 最初から勝利を求めずに戦場に立てば死ぬだけだ。それは黒火山の攻略で嫌という程にレコンが味わった真実だ。ヴァンハイトは自分の命を使ってでも勝利に貢献した。勝たねば何もかもが無駄になるのだ。

 それを考えれば、レコンはまだ気楽な方だろう。UNKNOWNは率先して反乱軍を鼓舞し、自分が最前線に立ち、誰よりも力強く、誰よりも多く戦わねばならない。彼の背中が勝利を信じる礎となり、彼の聖剣が勝利への導きとなる。そして、彼が倒れるとは象徴の敗北であり、士気は下がり、敗北への秒読みが始まる。

 不安を押し隠すように交食都市で開かれた決戦前の大規模なお祭り同然の宴に参加し、飲んで食べて騒いでも、腹の底に溜まった不安と恐怖は消えない。

 黒火山の時とは違う。自分が背負うのは反乱軍の命だ。彼らに命令して効率的に死なせねばならない。その重みで心は押し潰されそうだった。

 それでも立ち向かわねばならない。黒火山で死線を潜り抜けたからこそ、どんな形でも生きたいと望んだからこそ、今の自分には『盾』としての役割を果たせないからこそ、彼には決意を固める儀式が必要だった。

 

「リーファちゃん、僕と踊っていただけませんか? 僕と付き合ってもらえませんか? 僕は……キミのことが好きです。大好きです」

 

 約束の塔で再会した時、レコンが贖罪の道を歩む切っ掛けとなった時、彼の気持ちを知っていたとリーファは伝えた。その上で友人であり続けることを願った。そして、彼は今の自分では告白するに足らず、だからこそ時間を求めた。

 まだ贖罪の旅は終わらない。罪の意識で魂は押し潰されそうで、目を背けたくて、新しい困難に挫けそうだった。だからこそ、彼は前を向き続けたかった。男として好きになったリーファに……直葉にしっかりと気持ちを伝えたいと、黒火山を乗り越えたからこそ覚悟が決まった。

 レコンの気持ちを知っているだろうリーファは明確に困惑していた。だが、彼の真摯な気持ちに……全力投球に告白に向き合うべく、大きく深呼吸する。

 

「ごめんなさい」

 

 逡巡など無く、レコンの告白に否を突きつけるリーファに、レコンは悔しさよりも清々しさを覚えた。

 最初から分かり切っていた結末だった。約束の塔でリーファは既に彼の気持ちを知り、その上で受け取れないと否定したのだから。

 

「そっか」

 

「うん」

 

 短いやり取りの中にリーファの不安が吐息となって漏れ出す。レコンが『男』として告白した以上は、もはや友人関係は成り立たないと思っているのだろう。苦笑したレコンは、改めて右手を差し出す。

 

「じゃあ、これからも『友達』としてよろしくね」

 

「…………」

 

「僕はリーファちゃんが好きになれてよかった。世界で1番大好きって気持ちを持てて、本当に幸せだった。うん、迷いなく断ってくれたお陰で気持ちに区切りができたよ。ありがとう」

 

「アンタ……格好良すぎ」

 

「へへへ。男は格好つけてこそ価値があるんだよ」

 

 人間は残酷な生き物だ。1番大好きな女の子にフラれて、こんな恋は2度と得られないと思っていても、いつかは新しい恋を見つける。傍にいたいと、守りたいと、一緒にいたいと思える人が現れる。

 だからこそ、レコンは信じたい。決戦を生き抜き、リーファと同じくらいに大好きと想える女性と巡り合える未来が欲しい。

 リーファは涙を拭いながらレコンの手を握る。交わされた握手は変わらぬ友情の誓いだ。

 

(僕はキミを守る『盾』でありたい。リーファちゃんは僕の初恋で、友達で、仲間だから。これが僕の『答え』だから)

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 義手は古獅子に食い千切られ、弓剣は折れて使い物にならなくなった。

 片腕は弓も使えない以上、シノンに出来るのは反乱軍が準備したスナイパークロスボウを利用した狙撃程度だった。

 リーファどころか、レコンにも劣る戦力外。当初、シノンはラストゲームに参加しない方針だった。今の自分では足手纏い以外の何物でもないからである。

 だが、それを伝えに行った時のUNKNOWNの返答は予想外の極みだった。

 

『悪いけど、シノンには命を懸けてもらう。賊王はキミだ』

 

『ふぇ!?』

 

『転移時のスキャンに備えて、賊王の印は別の人物に持たせて、現地でキミが受け取る方針で行く』

 

『ちょっと待って! 何で私なのよ!? あなたがすれば良いじゃない!』

 

 資料を読み返し、頭の中でシミュレーションを重ねているだろうUNKNOWNは、仮面の割れた左側に指を入れると呑気に目の下を掻いた。

 

『言っただろう? 俺は万が一に備えないといけない。オベイロンは確実に俺を潰そうと狙ってくるはずだ。死ぬ気はないけど、同じくらいに死んだ場合に備えてリスクは抑えたい。そもそも王将が最前線に立つわけにもいかないだろ? それに俺はポジションが近衛騎士だしな。ポイントゲッターとして制圧値を稼ぐのが仕事だ』

 

『そりゃそうでしょうけど……』

 

『賊王の印で得られるVITの大幅アップボーナス。シノンは高DEX型だから逃げ足は速いし、そこに耐久力が備われば簡単には落ちない。それにデーモン化は低燃費型でDEXと知覚強化がメイン。生存力は高く、号令を使えるタイミングを現場判断で見極められる。しかも、オベイロンもまさかシノンが賊王を担うなんて想像もしていないはずだ』

 

 オベイロンの裏を掻く。妖精王がどの程度までシノンを認知しているかは不明であるが、真っ先に潰そうとするのは最高戦力であるUNKNOWN、そして反乱軍の筆頭を務める暁の翅の首脳部だ。

 狙撃手として攪乱するのは偽装。シノンに与えられた本当の役目はとにかく生存する事だ。逃げて逃げて逃げ回って生き延びる。それは戦えないシノンだからこそ、そして反乱軍や他の【来訪者】の誰にも任せられない仕事になるだろう。

 

『これはキミにしか任せられない。言ったよな? 俺の背中を守るってさ。だから、俺が勝つために、生き残るために、何があろうとも生き延びてくれ。本気で逃げ回ってくれ』

 

 仲間を失いたくない。それはUNKNOWNの本音だろう。だが、共に戦う以上は信じなければならない。そして、彼はシノンこそ最も生存するに足ると信じて大役を任せるのだ。

 逃げ足を買われた、というわけではないのだろうが、逃げ回るしかないのは不本意だ。仲間を信じて、必ず勝利の暁が昇ると信じて、どれだけ無様だろうと、泥だらけになろうと、勝利の為に逃げ続けねばならいのだから。

 だが、それは裏を返せば、UNKNOWNは自分の命をシノンに預けるという事だ。それだけではなく、反乱軍全員の命運を彼女に握らせるに足る実力があると評価したからだ。

 

『俺はシノンを信じる。勝つぞ、「相棒」』

 

 仮面の剣士に拳を突き出され、それは男同士でするものでしょう、と言いたかったシノンであるが、渋々……だが隠しきれない喜びが微笑みで漏れて、残された右拳とぶつけ合った。

 信じる。信じて貰えている。たとえ、片腕になろうとも。シノンはまだ自分に出来ることが残されいてる事に誇らしさを覚える。アルヴヘイム最後にして最大の戦いになるだろうラストゲーム。それはオベイロンとの事実上の決戦になるはずだ。

 

『俺の読みだけど、ここまで大規模なバトルを差し込んでくる以上、これはオベイロンの「ボス」としての出陣と見た方が良い。ルールにもある通り、制圧値10万を突破すればユグドラシルへの道が開けて、なおかつオベイロンへの「決闘」の挑戦権が得られる。俺の予想だけど、このラストゲームが事実上のラスボス戦。最後のオベイロンはボスとしての性能は無いはずだ。せいぜいが高レベルNPCと同格。そこでオベイロンとデュエルをして下せば勝利。こんな流れだろうな』

 

『それって当たるの?』

 

『ゲーム勘だけはクーに勝ってるつもりだ。命中率7割強ってところだな。だからこそ、外れて欲しいとも願っている。これがラスボス戦なら、大規模バトルに加えて、オベイロンはラスボスとしてのリソースも投入してくるはずだ。本来以上の大幅強化されたボスとして登場する事は確定。どんな能力を持って登場するか分からないが、「性能」だけならアルヴヘイムでもトップクラスで現れるはずだ』

 

 確かに外れて欲しい読みだ。素直に同意したシノンは、ラストゲームに向けて準備を進めるUNKNOWNに問いたかった言葉を呑み込んだ。

 彼がアルヴヘイムにいるのはアスナを救い出す為だ。それは何1つとして揺らいでいないはずだ。

 オベイロンに一矢報いたアスナは攫われ、安否も不明だ。リーファの話の限りでは、オベイロンはユグドラシル城で非道の限りを尽くしている。彼女が無事である保証は何処にもない。もしかしなくとも、既に亡き者にされているのかもしれない。

 アスナの安否と生死を最も気にしているのはUNKNOWNであるはずだ。だが、彼は不安を口にしない。アスナを救い出すと言葉にはしても、その不安を言葉にすることは無かった。

 もしかして、押し潰されそうになっているのではないだろうか? シノンは祭りに顔を出さないUNKNOWNを探すべく歩き回る。

 剣を密やかに振るうならば郊外にある林が相応しいだろう。シノンは祭りの賑わいから離れ、林に赴けば、想像通りに涼やかに、だが苛烈に空を斬る刃の音色が奏でられていた。

 黒コートを翻し、左手にメイデンハーツ、右手に聖剣を握った彼の熟練した二刀流スタイル。ソードスキルの光は無くとも、その一閃の度に夜空を彩る虹色のオーロラの輝きを吸い込んでいるかのような眩しさを覚える。

 ヴァンハイトの犠牲、レコンの決死、シノンの覚悟で繋いでようやく倒せた古獅子。対してUNKNOWNが相手取ったのは、本当の『証』の守り手である人型ネームドである【竜砕き】のスローネ。二転三転した戦いは聖剣の顕現、そしてUNKNOWNとスローネ双方の絶技を尽くした剣戟の締めに相応しい彼のOSSによって幕を閉ざした。

 人型ネームドに少人数で挑むのは自殺同然だ。控えめとはいえネームド級の火力を持ち、小回りも効き、なおかつ『生きているかのようなAI』……いや、アルヴヘイムという異常を知ればこそ、あれらは『生きている』のだとシノンは認識できる。

 さらに強くなった。彼の剣技はスローネ戦を経て更に磨きがかかったように研ぎ澄まされている。

 そして、何よりも神々しいのは右手に持つ銀の聖剣だ。片手剣にしては長めの部類であり、リーチも火力も十分のようだ。だが、その真価は別にある。彼が聖剣に力を籠めるように振るえば、その刀身に暗闇が集まり、青碧の光で縁取られた漆黒の大刃が銀の刀身を核にして形成される。言うなれば、聖剣自体が変形武器のようなものであり、まるでオニキスのような宝石の如き漆黒の大刃を生み出すのだ。よくよく見れば、漆黒の大刃自体にも銀の本体とは異なるも似たレリーフが施され、より物質として強調されており、それが神秘をより深く誇張しているかのようだった。

 巻き起こす風で分かるが、解放状態の聖剣はより重量が増しているのだろう。解放状態の聖剣は彼が好んで扱う重量型片手剣の中でも特に重い部類のようだった。

 聖剣一閃。振り下ろしと同時に放出されたのは漆黒の……だが、確かに青碧の月明かりで縁取られた光波。それは闇術のようなより物質的な重みを持つのか、林の木々はまるで特大剣で薙ぎ払われたかのように豪快に倒木していく。だが、それは鋭利な切断面とは呼べない、まるで鈍器が強引に押し進んだような破壊の痕跡だ。

 1発、2発、3発。連続で光波を放てば、その漆黒の刀身は色合いが薄くなり、透明度を増していく。光波を止めれば徐々に色合いは回復していき、再び放てるようになる。

 そして、突きと同時に漆黒の奔流が解放され、それは強大な破壊力を示すように突きの射程に収まっていない木々を振動させる。ばら撒かれた衝撃だけでコレだ。直撃すれば並の大盾では一撃でガードブレイクも免れないだろう。

 

「おぉおお……おおおおおおおおおおおおおお!」

 

 雄叫びを挙げ、漆黒の奔流を纏わせた聖剣をオーロラで隠された空を切り裂くばかりの勢いで振るう。刀身のみならず、纏った奔流も使った巨大な光波は空へと一直線に飛び、だがオベイロンによって汚された空は突き破れないと嘲われるように霧散した。

 息荒く、汗で浸された体を動かすUNKNOWNは鬼気迫るものだったが、このまま見守るのは本来の目的を逸する行為であり、シノンはわざとらしく咳を鳴らす。

 

「随分と張り切ってるわね。そんなんじゃ、明日の本番前にバテるわよ?」

 

「落ち着かないんだ。体を動かしていたい気分なんだよ。それに、聖剣の扱いはまだ未熟だからな。少しでも引き出しを多くしておきたいんだ」

 

 リーファの予想が半分……いや、8割的中だろう。聖剣の熟達もあるだろうが、それ以上に彼の精神が素直に決戦前夜を楽しむことを拒んでいるのだ。

 聖剣。深淵狩りの伝説に登場する聖剣。シノンはその実在を知らなかったが、レコンに熱く語られて幾らかの知識を得ている。深淵狩りの始祖、グウィン王の四騎士でも無双の剣士とまで謳われた【深淵歩き】のアルトリウス。彼が聖剣を見出した時より、深淵狩りの聖剣を巡る伝説は始まったとされている。

 普通のユニークウェポンではない。スローネ戦での危機に登場し、UNKNOWNの手に収まった事から、これまで散々プレイヤーを弄んできたDBOでも特に逸脱した存在であることは言うまでもない。

 リーファ曰く、現れた当初は美しく神秘的な青碧の月光で形作られたクリスタルのような大刃を纏ったようだが、今は僅かに輪郭ばかりに名残を示すだけであり、彼のトレードカラーである黒色を模したかのような漆黒の刀身となっている。

 見れば見る程に、シノンにも邪な考えが疼く。あの聖剣を我が物にしたいという欲求が湧き出す。まるで聖剣は彼女を誘うように、共鳴するかのような涼やかな高音を響かせる。

 

「それにしても、相変わらずの規格外ね。ダブルユニークスキルの時も驚いたけど、今度はピンチに聖剣を召喚するなんて」

 

 聖剣の誘惑から目を背けるように、シノンは話題を切り替える。聖剣を振るって漆黒の大刃を消したUNKNOWNは両手の剣を背負い、汗で湿った髪を掻き上げる。その仕草が思いの外にシノンの心を擽り、今度は別の意味で彼から視線を逸らした。

 

「……シノンには伝えておきたい。俺は聖剣に選ばれたとは思っていない。俺は……誰かに託されたような気がするんだ」

 

「託された? また突拍子も無いわね。過ぎた謙遜は侮辱と同じよ」

 

 何が起こるか分からないDBOであるが、これまでプレイヤーを危機から救うような奇跡は無いに等しかった。シノンが知る限り、そんな奇跡にも等しい逆転劇が起こったのは1度だけ……腐敗コボルド王戦にて、ディアベルがオーバード・ソードスキルをプレイヤーで初めて使用し、ボスを倒した時だけだ。だが、あれも結局は、蓄積された熟練度が都合よくボス戦中に基準に到達して隠し性能が解放されただけのことだ。

 今回の聖剣の出現とは決定的に違う。聖剣はレコンの死を防ぎ、リーファの決死を経てUNKNOWNの手に亘り、彼はスローネを見事下したのだ。

 聖剣に選ばれた。客観的に判断した限りでは、シノンはこの結論以外に何も出ない。だが、少なくともUNKNOWNは納得していないようだった。

 

「俺にも根拠はないさ。だけど、ご覧の通り、聖剣は月明かりを隠して本当の力を見せてくれない。まぁ、俺はこの月蝕の聖剣も嫌いじゃないけどな。ボーナスはSTR重視だし、攻撃力は物理と月光属性っていうよくわからない特殊属性なんだけど、物理攻撃に比重が高いから重宝するよ。光波も物理特化で月光属性控えめで、オマケに打撃属性が高いしな」

 

 単純にガード崩しだけなら月光の聖剣よりも上かも、とUNKNOWNが零せば、彼が背負う聖剣は銀の刀身を僅かに煌かせたような気がした。

 

「聖剣は俺を導こうとしている。俺の願いを叶えようとする。だけど、聖剣に頼って甘えて依存して『英雄』になっても、そこには破滅しかないんだ。いや、それどころかここぞという場面で聖剣は裏切るかもしれない。いや、絶対に裏切る」

 

 何かを確信するように、まるで稀代の性悪女を相手取っているかのような口調のUNKNOWNに、シノンは彼がそこまで言う聖剣とはどのようなものなのか、先程とは異なる好奇心で是非とも握ってみたい衝動に駆られた。

 

「聖剣はあくまで導くだけなんだ。『答え』をくれるわけじゃない。それは戦いの中でも同じなんだ。言うなれば、勝率を引き上げてくれるようなものさ。勝率1パーセントを10パーセントに。後は自分の実力でつかめるかどうか。聖剣に甘えて、もっともっと欲しいと願えば、叶えてはくれるとしても、待っているのは最悪にも等しい結末なんだろうな」

 

「だから修行って安直過ぎね」

 

「これが1番の近道なんだよ。この聖剣はモーションより思考操作に依存する部分が大きいから、扱いにも癖があって大変なんだ。オベイロンとの戦いに向けて、少しでも手慣れておかないとな」

 

 思考操作……それはVR真骨頂であり、本来あるべき姿とされている。プレイヤーはシステムウインドウを出すにしても指の動きに依存するが、ここに存在するのは現実の肉体ではなくアバターであり、ならばモーションなど不要であり、頭の中の思考1つで開けて操作できるべきなのだ。

 だが、仮想世界ではそれさえも難しい。これは未だにVR技術が発展途上であり、高度なスキルを用いる思考操作は高いVR適性を求められるともされている。

 シノンがデーモン化の状態で発露する猫耳や尻尾も随意運動で動く産物であり、これはALOで標準装備されている妖精の翅のように現実の肉体には無い仮想の筋肉を動かす特殊技能が求められる。随意運動に関して言えば、簡単なものならばVR適性があれば問題ないが、リーファのようにまるで翅を生まれ持っているかのように飛行するには、高VR適性とずば抜けたセンスが要求される。

 シノンの義手は微細なモーション認識で動かすタイプであり、思考操作とは異なる。だが、より強力な兵装を搭載しやすくなる思考操作を用いた武装は何処のギルドも目玉としており、投入を検討されているものも複数あるとシノンも聞いていた。

 

「へぇ、だったら光波を出すって念じないと放てないの?」

 

「念じるというよりも、聖剣を自分の1部だと認識して、光波を出す機能を動かす……みたいな感じかな? 思考操作も随意運動の上位版だからコツはあまり変わらないかもしれないな。だけど、聖剣は普通とは違う。望んだ形で力を示してくれる無限の拡張性がある。まぁ、基本は光波、奔流を乗せた突き、あとは放出状態で火力増強ってところかな?『武器として』もかなり攻撃力・能力・耐久性能の全部が破格だよ」

 

 あと、光波を出せても弾速はモーション依存っぽいから結局振らないと飛ばせないんだけどな、と付け加えてUNKNOWNは苦笑した。

 本来ならば、いつ敵対してもおかしくない太陽の狩猟団の専属傭兵であるシノンに聖剣の能力を明かす。それはアルヴヘイムにおける呉越同舟の事情を抜きにしても、彼が彼女を信頼している証なのだろう。それがこそばゆくて、シノンは頬が緩みそうになる。

 

「所持しているだけで防御力アップと最大HP上昇、解放状態だとスタミナ・魔力回復速度もアップだし、オートヒーリングも付く。月光の聖剣の時に比べれば見劣りするけど、それでも破格過ぎてプレイヤーの妬みだけで殺されそうだよ」

 

「さすがは聖剣と名を冠するだけはあるわね。絶対に『聖剣』騎士団にトレードしろって追い回されるわよ」

 

「ははは。コイツを譲る気はないよ。それだけは……絶対に出来ない。裏切る訳にはいかないからな」

 

 裏切る? 誰を? シノンが疑問を覚えた様子に、決意の灯を宿す左目を和らげたUNKNOWNは、夜風を嗜むように樹木の幹に寄りかかる。

 

「俺も『誰』を裏切りたくないのか分からない。でも、俺自身が望んだから。俺がなりたいと求めたのだから。だから、どれだけ嘘を重ねるとしても、『英雄』を演じるとしても、自分の本音を自分で偽るような真似はしたくないんだ。アルヴヘイムにいるのも、シノンと一緒に戦うのも、アスナを救いたいのも、【聖剣の英雄】であろうとするのも、武の頂を目指すのも、俺が『俺』である為に必要なことなんだ。失いたくない。死にたくない。負けたくない。守りたい。助けたい。救いたい。このワガママで欲張りな叫びが『俺』なんだ。捨てられない、引き剥がすこともできない、どんなに格好悪くても否定できない、俺の傲慢でどうしようもない本質なんだ」

 

 まるで彗星を指差すような、曇りのない夢を語るような真っ直ぐな眼に、彼は嘘偽りなくシノンの為に語ってくれたのだろうと理解する。

 

「それ、私が聞いてよかった話? もっと大切な人だけに教えておいたらどう? たとえば、助け出したアスナさんとか」

 

「もちろんアスナは大切だ。だけど、だからってシノンも大切な『相棒』だろ? 俺にとって秘密は信じられる人と共有できる宝物なんだ。そうでありたいんだ。だから、明日は俺が安心してポイント稼げるように、よろしくな」

 

 ……だから、その笑顔は反則よ。目元だけでも魅力的と分かる笑みに、仮面で隠れていなければ自分の頬はどうなっていたか分からないと、シノンは今度こそ背を向けた。

 

「鍛錬も良いけど、程々にしておきなさいよ。あなたにも休息が必要よ。明日の決戦でバテても知らないんだから」

 

「ああ、分かってる。心配かけて悪かった。すぐに俺も行くよ」

 

「期待しないでおくわ」

 

 目的だったUNKNOWNの連行に失敗し、宴に戻ったシノンは、すっかり飲み比べ合戦になっているリーファとレコンに呆れつつ、彼の言葉を思い出す。

 その言葉の1つ1つに芯が通っていた。スローネ戦を経て、更に跳ね上がった実力と聖剣という強力な武器を得ただけではなく、精神もまた一皮剥けたのだろう。

 アルヴヘイム突入の頃にあった、今にも暴発しそうだった不安定な印象は完全に打ち消されている。それどころか、『男』としての魅力を増したかのような逞しさを感じてしまう程だった。

 

「何考えてるんだか。明日は決戦なのに、私も気が抜けてるのかしらね」

 

 あのゲーム脳を? 剣術馬鹿を? ド腐れチーターを? 無いわ。絶対に無いわ。あり得るわけがないわ。シノンは顔が熱くなるのを覚えながら、これもアルコールが足りていないせいだとより強い酒を求める。

 彼は変わった。たった1晩で立ち直り、たった1戦で大きく成長した。

 私はどうなのだろう? シノンは食い千切られた義手を撫でる。レベルや成長ポイント、獲得した強力なソウルアイテム。いずれも確かな実績だ。だが、DBOが始まった頃より求めていた『強さ』には届いているだろうか。

 負けたくない。誰にも、何にも、自分自身にも。瞼を閉ざせば2人の後ろ姿が思い浮かぶ。白と黒の対極とも呼ぶべき存在がシノンを苛める。彼らの姿に道標を求めて『答え』を探す限り、自分は何処にもたどり着けないのだろうかとヴァンハイトの死に様が脳裏に浮かぶ。

 

「……ねぇ、クー。あなたはこのアルヴヘイムに本当にいるの? 明日はあなたも戦ってくれるの?」

 

 UNKNOWNが立ち直った夜、彼はクゥリの夢を見たと語った。詳細は教えてくれなかったが、誰にも立ちなおせることができなかった、多大な時間が必要だった彼の再起。再び立ち上がらせたのは、全てを焼き尽くす暴力とさえも恐れられる白の傭兵。その思い出の幻影か、あるいはアルヴヘイムに実在する恐怖の権化か。

 仮にクゥリがいるならば、幾つかの点で納得もできる。シリカやリーファによれば、ユウキもまたアルヴヘイムを訪れている。表向きはクラウドアースの仕事によるチェンジリング事件の解決……という事らしいが、彼女がクゥリに特別な感情を抱いていることはシノンも承知済みだ。

 次に今も謎に残る霜海山脈の攻略、シェムレムロスの兄妹とランスロットの『証』の回収。それを誰が成したのかも定かではない。

 10人いる【来訪者】。シノンが知る限りでは、自分を含めた7人の素性は判明している。不明の3人は誰なのか、それは明かされていない。あるいは知っている者はいても口を閉ざして隠している。

 

(クーは確かに強い。でも、単独で何体ものアルヴヘイム級のネームドを倒せるほどなの?)

 

 傭兵の仕事は幾らかオープンになる傾向こそ増えたが、その実力は未知数。復帰後は太陽の狩猟団の依頼でネームドを単独で撃破したことくらいだ。この事から傭兵に相応しい上位プレイヤーでも上澄み、トッププレイヤー級であることは疑う余地もない。

 だが、普通ならばステージボス級だろうネームドが中ボス格で立ちはだかるアルヴヘイムだ。古獅子は黒火山の『証』の守護者ではなかったというのに、今まで戦ったボスでもランスロットや竜の神を除けばトップクラスの強敵だった。それさえも上回るスローネが立ちふさがったのだ。他のダンジョンがいかなるものなのか、UNKNOWNの情報によれば残虐非道のシェムレムロスの兄妹などおよそ尋常とは呼べぬ相手だろう。

 武器やアイテムの消耗は? 補給もなく戦い続けられるものなのか? 傭兵として多くの仕事をこなしてきたシノンでさえ全武装を失った。UNKNOWNも今でこそ聖剣はあるが、メインウェポンのドラゴンクラウンが破損して使い物にならなくなっている。スローネ戦では、性能が不足があったとはいえ、深淵狩りの剣も砕かれた。

 冷静に考えれば、3人の所在不明の【来訪者】の暗躍と考えるべきだろう。霜海山脈を攻略し、何処かにあったランスロットの『証』を入手した。さすがにランスロットが倒されたとは思いたくないが、この3人がトッププレイヤー級の実力とコンビネーションも揃ったチームだったならば、ランスロットも倒せたのかもしれない、と甘い想像をする。

 シェムレムロスの兄妹も、行方を暗ましたというユージーンが成し遂げたのかもしれない。ボスの単独撃破の実績がある彼ならば、UNKNOWNの情報通りに竜属性だろうシェムレムロスの妹に効果的なドラゴン特効を持つ≪剛覇剣≫を有する彼ならば、シェムレムロスの兄妹の『証』を入手していてもおかしくない。

 

(UNKNOWNが見たのは、聖剣が見せた夢? 奇跡のように立ち直った後にピンチで顕現するなんて出来過ぎているわ。あの頃から聖剣は彼に目を付けていた。辻褄も合う)

 

 あの聖剣がゲームシステムの枠を超えた存在であることくらいは、スローネ戦で突如として出現したという、全プレイヤーが度肝を抜くような奇跡のお陰で裏打ちされている。ならば、幻影の1つや2つでも見せる程度は訳もないだろう。

 違う。シノンはそう信じたいのだ。このアルヴヘイムの何処かに白の傭兵がいるなどと思いたくないのだ。

 奪われたくない。『相棒』として認められた自分の立ち位置を攫ってほしくない。シノンはそれが醜い嫉妬心だと自覚する。

 その一方で、クゥリに感じてしまう1つの期待。彼はたとえ全員が死に絶えようとも、敵の喉元を食い千切るまで戦いを止めず、必ず勝ってくれると思える。その背中に恐ろしさと同じくらいに敵という敵を喰らい尽くす『力』を見る。

 どうしようもない矛盾を引き起こすのは、明日への不安なのだろう。UNKNOWNが告げた以上に勝率が低い戦いを強いられる。いや、元よりDBOは毎度のように未知の敵と初見の戦いを挑まねばならないのだから戦いの中の日常と呼べるかもしれないが、今回のシノンには抗う術がない。仲間の勝利を信じて、仲間の勝利の為に、ひたすらに逃げて逃げて逃げて生き延びねばならない。

 

(私は『弱い』。どうして強くなれないの? どうすれば『強さ』を得られるの?)

 

 湧き出す恐怖心に連鎖反応が起きるように、殺人で汚れた手に粘つく返り血を錯覚する。

 殺した。このアルヴヘイムでたくさんの人間を殺した。こうして戦えなくなって分かる滲み出た恐怖心がある。ようやくアルヴヘイムの終わりが見えたからこそ、殺人の重みを改めて思い知る。あるいはヴァンハイトの死に様に、彼の喪失に死の重量を思い出したからか。

 死にたくない。それが敵も味方も同じだ。ならば、シノンは死にたくないという切なる願いを抱いた人々を殺した。傭兵になってから1度も汚れたことがなかったはずの手を真っ赤に染めた。

 スミスの忠告が蘇る。殺した時は何ともなくも、後になって反動が押し寄せる。眠れず震える夜がやって来る。罪悪感に苛まれる時が来る。その時は耐える必要などない。布団の中で丸まって泣くのも構わない。誰かに慰めてもらうのも良いだろう。そうして受け止めて、消化して、前に進めるか否かが大事なのだ。

 

「スミスさんの助言に学んで、肌を寄り添う相手でも探そうかしら……なんてね」

 

 そもそも『初めて』だってまだなのに、何を大人びた発言しているのだか。シノンは自嘲する。上位プレイヤー程……特に傭兵程に一夜の付き合い、あるいは私生活のパートナーを求める傾向があるのは周知の事実だ。

 ランク1のユージーンの女関係の派手さはもちろん、ルシアという美人カノジョがいるスミス、古巣の聖剣騎士団のメンバーを誘って堂々と娼館通いをする馬鹿の代名詞のグローリー、キス1つで女の子を陥落させる魔性の舌を持つと噂される戦闘狂のライドウ、竜虎コンビの片割れのレックスなど、男性傭兵は過半がこんな状態だ。

 女傭兵ならば同じ太陽の狩猟団専属のジュピターは、シャルルの森以降は肉食系女子にジョブチェンジして戦闘スタイルのみならず仕事後はボーイハントをすることで有名であり、彼女に『喰われた』太陽の狩猟団のプレイヤーは数えきれない。傭兵団を率いるアラクネは、美少年&美少女を何人か月額契約で『ペットにしている』という恐ろしい噂すらある。

 

『私の女関係が酷い? おいおい、シノンくん。私とて人間なんだ。良いかね? 戦闘前後とは、生物としての本能が種を残そう強くなる傾向がある。即ち、人間の三大欲求の1つ、性欲が著しく肥大化する。そして、欲求の未消化はそのままストレスとなってパフォーマンスを下げる大きな因子になる。また、性欲を持て余した兵士が戦場で狼藉するという嘆かわしい事態の遠因にもなる。つまり、本能がもたらす性欲を満たしてあげる事は、そのままパフォーマンスの上昇に繋がり、それは生存率と勝率に直結するわけだ』

 

 シノンの指摘によって修行中に突如として中断して座学を開始した、いつものように煙草を咥えていながらも、かつてない程に熱弁したスミスを思い出す。

 スミスの言い分を理解できるとは言わないが、生死を分かつ決戦を控えるからこそ、誰かと触れ合いたいという気持ちは強くなる。

 言葉を交わす事も、唇に触れる事も、体を重ねる事も要らない。ただ隣にいて欲しい。そこまで考えて、シノンは自分も相当に酔っているのだなと、次のビールで最後にしようと決心する。

 

(リーファとか抱き心地良さそうよね。彼女も明日が不安だろうし、ここは女の子同士、お喋りでもしながら眠りにつくのも悪くないわね)

 

 リーファの事だ。兄についてここぞと語れる相手が欲しくてウズウズしているだろう。シノンは丁度良い相手かもしれない、とリーファを誘うべく動き出す。だが、その一方で、先程のUNKNOWNの成長した頼り甲斐のある逞しさと母性を擽られる支えたくなる脆さを備えた雰囲気に、シノンはリーファではなく彼の姿を想像してしまう。

 私は本当に何を考えている!? 本格的に酔いが回っているようだとシノンが歩を進めた時、宝石とドレスで彩った女性がシノンに近寄った。

 

「失礼、その姿、仮面の英雄様のお仲間でしょう?」

 

「……そうだけど、何か?」

 

「彼は何処にいるのかしら。アルヴヘイムの革命前夜、運命を変える一戦。その前に是非とも武勇伝をお聞きしたいのですが」

 

 ああ、そういう事か。妙に熱っぽい令嬢の視線に、シノンは舌打ちを鳴らしかける。

 黒火山の『証』入手の立役者。伝説に残る【竜砕き】のスローネを倒した剣士。聖剣を携えた英雄。彼はそれらの肩書をフルに利用して、反乱軍の士気向上に努めている。これもまた以前の彼ならば見られなかった兆候だ。敢えてギーリッシュの策に乗るどころか、自ら利用することを選んだ。

 

『俺がどう思われようと、肩書の1つや2つで勝率が上がるなら安い買い物さ。それにビーターよりもずっとマシだしな』

 

 彼の戦略通り、想像以上に反乱軍にとってオベイロンに立ち向かう希望として【聖剣の英雄】という偶像は役立っている。だが、その一方でこうした邪な弊害もあることまでは彼も想定しないようだった。そして、明らかに外聞を気にする様子が割れた左目の泳ぐ視線でバレバレである辺りは、彼の相変わらずな部分だと安心できた。

 彼の『子』を仕込めば、戦後は大きな地位を得られると目論む者は多い。シノンは嘆息し、令嬢が持つシャンパングラスを丁寧に零さないように、だが戦いなど経験したこともない社交界の花が反応できるはずもないスピードで掠め取る。

 

「彼ならもうとっくに寝たわ。強い戦士の秘訣は早寝早起きだそうよ?」

 

 シノンは『にっこり』と笑って告げれば、その威圧感に令嬢の頬は引き攣って後退る。彼女がどのような感情をシノンに抱いたかは定かではないが、それは決してプラスのベクトルを持ったものではない事は間違いなかった。

 今更因縁を作ったとしても、アルヴヘイムにいるのはせいぜい2、3日だ。明日の決戦で全てが決まると言っても過言ではない。勝ち残り、オベイロンを倒せば、ようやく『まとも』なDBOに戻れるのだ。

 あれ程までに狂気と闘争に満ちたDBOが懐かしくなるとは、それだけアルヴヘイムの異常性を味わったという事だろう。今のシノンの胸にあるのは、早くテツヤンのデラックスチョコレートストロベリーパフェΩエディションを頬張りたいという食欲だ。

 

(そう。断じて性欲なんかじゃないわ。私はお堅い傭兵で結構! 今晩はリーファを抱き枕にして安眠してやるんだから!)

 

 これでお酒もおしまい! シノンは令嬢から奪ったシャンパングラスを傾ける。

 

 口内に広がるのは、どろりとした蜂蜜を何倍にも甘ったるくしたような液体の味。仄かな酒の風味では誤魔化せない、強く主張し過ぎる甘味。

 

 底を浸す残りを見れば、それは黒蜜を彷彿とさせる粘り気があり、香りもまた豊潤で鼻孔に入っただけで脳内で砂糖が溢れるようだ。

 

「これ、何処かで……」

 

 この香りと色、何処かで覚えがあった。

 そうだ。確か、太陽の狩猟団の依頼で、麻薬アイテム寸前の、あるいはそれ以上の危険性を持つかもしれないという薬物の取引現場を押さえる仕事の時に得た知覚情報だ。

 だが、それはどんな薬物だっただろうか? 思い出せない。ならば、大したことではないのだろうと、シノンは思いっきり背伸びした。

 

「それにしても、なんか少し体が熱くなってきたような……まさか風邪かしら?」

 

 仮想世界で風邪は引かない。だが、アルヴヘイムには伝染病もあれば肺炎もあるのだ。油断はできない。最終決戦前に体調不良など笑い話にもならないだろう。

 リーファを抱き枕にする計画は捨て、今日はピナでも数えて早めに寝よう。早寝早起きが強さの秘訣かどうかはともかく、健康は何よりも重視すべきコンディションなのだから。シノンはそんな楽観した気持ちで、今晩の宿へと足を進めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 月蝕の聖剣。月光の聖剣に比べればトータルスペックは落ちているが、それでも『名無し』が握ったいかなる剣よりも高性能かつ暴れ馬であることは間違いなかった。

 

『マユの分析だと、UNKNOWNさんは変形武器への適性がそんなに高くないんだよね。能力を付けても剣としての本質を変えない程度が良いんだと思う。牽制用と割り切った変形なら有効かもしれないけど。メイデンハーツの変形機構はまさに能力発動の為だし』

 

 変形武器の利点は、シノンの弓剣のように2つの武器を1つの武器枠で運用可能にする点だ。1つの武器枠で複数の装備を運用できる恩恵は大きい。

 だが、変形武器には幾つかの超えねばならないハードルがある。根本的な武器の変形機構の設計、運用可能な耐久度の実現、変形機構を活かすスキル、そしてプレイヤーの技量と適性だ。

 前の2つは鍛冶屋側の問題であり、変形武器の第1人者であるマユが専属である以上はクリアしたも同然である。ならば、問題となるのは使用者側……即ち『名無し』側である。

 まず『名無し』が持つ武器スキルは≪片手剣≫だけである。これは特別珍しいことではない。1つの武器スキルを獲得し、それを重点的に成長させて熟練度を高めれば、その分だけ装備に付くステータスボーナスは上昇するからだ。ただし、片手剣だけの運用は初期から武器枠2つが与えられている点から勿体ないので、多くは≪盾≫や≪魔法感性≫で剣を持たぬ側の手を埋める。

 そもそもとして『名無し』の場合はユニークスキル≪二刀流≫があった為に元から2本の片手剣の運用だった。この事から彼には他の武器スキルを取る必然性が無かったのである。

 剣士としての誇りもある。これまで培った戦術理論もある。何よりも≪二刀流≫の存在も大きかった。

 だが、こうして手にした聖剣はむしろ変形武器としての性質を帯びている。元の状態は銀の刀身を持つリーチが長めの片手剣。月蝕を纏わせて銀の刀身を核にして大刃を形成すれば、片手剣の範疇ではあるが、十分に大剣と呼ぶに値する程に分厚く幅広い。

 解放状態が基本の運用になり、素の状態では携帯する以上の価値はないように思えるが、実はそうでもないのが月蝕の聖剣の面白いところだった。

 月蝕光波が高い打撃属性であるように、月光の聖剣とは違って物質的な重さが増量した月蝕の聖剣の解放状態は打撃属性が高まっているのだ。より特大剣のような叩き斬るといった性質が強くなったと言えるだろう。これは逆に言えば、打撃属性に強い相手には解放状態では芳しいダメージは与えられないという事だ。無論、月光属性という特殊な攻撃属性が備わっているならば問題ないかもしれないが、データ不足で月光属性とは何なのかが不明である以上、『名無し』は聖剣から読み取れる情報から運用を模索するしかなかった。

 素の状態の聖剣は理想的な片手剣であり、斬・打の両方に優れている。解放の有無を問わずに刺突属性は変わらないが、月光突きならぬ月蝕突きによるブーストが高いので、刺突攻撃に優れているのは解放状態だろう。トータルで言えば軍配は解放状態に上がるが、素の状態でも優れた性能は捨てがたいものがある。

 軽い分だけスピードもあり、バランスに優れている。これを活かさない手はないと『名無し』は睨んでいた。何よりも彼が気に入っているのは、解放攻撃だ。素の聖剣に月蝕を纏わせながらの攻撃であり、素早い攻撃の中で振り上げたところで月蝕を纏わせてリーチと重量と攻撃力を増幅させての一閃。更に、その一撃は解放時の波動を生み、ダメージは増幅する。

 だが、この運用が思いの外に難しく、また月蝕光波から月蝕突き、月蝕の奔流に至るまで、ほぼすべてが思考操作というハードな代物だ。あるいは、彼の高いVR適性を判断してより有用性を高めた結果として思考操作を基本とすべくスペックが『変更された』としても、この意思を持った聖剣ならば十分にあり得た。

 

(あくまで光波の速度は聖剣を振るうモーション値に依存する! よりスピードを! より力強さを!)

 

 放出量を調整。それは握力調整のように微細に行わねばならない。光波を使えば使う程に大刃は薄くなって脆くなるのだ。また光波を含めた月蝕には専用のエネルギーを使用する。これは自然回復もするのだが、戦闘中のように早期回復を必要とする場合、魔力かスタミナによる補填が可能だ。POWが決して高くない『名無し』の場合、考え無しに連射して魔力補填し続けた場合、魔力枯渇もあり得るが、大事なスタミナも消耗は避けたい。

 また、月光の聖剣の真正の光波に比べれば、月蝕光波はスピードに劣るようだった。また、真正光波には直撃時に月光爆発の追撃もあったが、月蝕光波にはそれがない。また、より物質に近くなった分だけ障害物の影響を受けて軌道が変じやすくなった。これは逆に言えば、一直線に飛ぶ傾向があった真正光波とは違った攻撃法も可能という事である。

 

(出し惜しみするな。他にどんな技がある? 全部学び取ってやる!)

 

 シノンを帰した後はすぐに剣を抜き、聖剣を少しでも使いこなすべく『名無し』は刃を振るう。

 聖剣から共鳴するような高音を鳴らし、『名無し』にイメージが流れ込む。彼は聖剣を逆手で構え、月蝕の聖剣の輪郭を描く青碧の月明かりを増幅させたかと思えばその場に突き刺した。すると彼の周囲に月蝕の円陣が描かれ、そこから月蝕が吹き出す。時間は擁するが、強力な範囲攻撃のようだった。上手く利用すれば防御にも活用できるだろう。また、発動スピードが遅かったのは『名無し』が使いこなせていないの一言で済む。

 

「ハァ……ハァ……これくらいに、しておくか」

 

 スタミナ切れになるまで剣を激しく振るい続け、『名無し』はぐったりと樹木に背中を預けてズルズルと倒れ込む。

 聖剣は凄まじい。武器としての性能は桁外れだ。だが、この聖剣には彼にとってもう1つの強力な機能が備わっている。それは『人の持つ意思の力』を高め、また負荷を受け持ってくれる点だ。これによって仮想脳にも高負荷で疲弊が大きかったゼロ・モーションシフトがより使いやすくなった。それでも月光の聖剣状態に比べれば劣るのは仕方ないだろう。

 出来ればOSSのソウル・ドライヴの修正も入れたかったが、この6日間を聖剣の熟達に時間を注いだ価値はあった。『名無し』はスタミナ切れから回復すると、今は夜空の月を覆い隠す虹色のオーロラを睨む。

 オベイロンへの憎悪。それに呑まれてはならない。だが、この義憤は間違いではないと確信する。アルヴヘイムを侮辱し、仮想世界を辱め、あまつさえアスナを妻と呼んで幽閉している。

 憎め憎め憎め、憎悪を膨らませろ。復讐を果たす『力』を望め。聖剣が誘うように輝き、そんな手に乗るかと『名無し』は苦笑する。

 確かにオベイロンは憎い。だが、憎悪に任せて聖剣により強大な『力』と復讐の成就を欲すれば、それは最悪以外の何物ももたらさないだろう。

 復讐するのも、アスナを救うのも、俺の意思と心だ。聖剣に甘えて依存して全てを任すなど愚の骨頂だ。

 

「スグのお陰だな」

 

 本音を言えば、妹がDBOにいるのは喜ばしいことではなく、むしろ最悪に近しいケースだ。何が悲しくてデスゲームに兄妹揃って挑まねばならないのだろうか。自分は自業自得だとしても、今度は妹まで囚われたのだ。心労を増やすなと言う方が無茶である。

 守る。守ってみせる。死なせるものか。この世でたった1人の妹なのだから。大事な家族なのだから。『名無し』はそう思う一方で、リーファが……直葉が起こしたとある『事件』を思い出して身震いする。

 あれは何かの間違いなのだ。もしかしたら、ただの悪夢だったのかもしれない。いや、そうに違いない。

 必死になって『名無し』は、SAOから帰還後、夜な夜なになって何処から忍び込んだのか、眠る自分に直葉が覆い被さってジッとこちらを熟した果実のような目で見つめている姿を思い出す。いつの間にか真横で寝ていて耳に生温い吐息を吹きかけていたことを、熱が籠った手を彼の手に絡ませていたこと。

 他にも色々とあった気がするのだが、それを思い出そうとするとシリカによるアレやコレの日々がフラッシュバックして塗り潰される。

 

「……こんな未来は想像してなかったな」

 

 もしも……もしも、あの75層でヒースクリフを、茅場昌彦を倒せていたならば、どんな未来が待っていたのだろうか?

 アスナは生きていて、シリカは心に傷を負って病むこともなく、リズベットは狂って心を閉ざすこともなく、エギルは家庭崩壊することもなく、クラインとは袂を分かつこともなく、今とは違う明るい未来が……『まとも』と呼べる日々があったのだろうか。直葉との兄妹関係はどんな風になっていたのだろうか。何処かでレコンやシノンと出会っていたのだろうか。

 

 

 

 俺は……クーと友人になれていたのだろうか。

 

 

 

 あの絶望の中だからこそ、【渡り鳥】に惹かれてしまった。どれだけ言葉を飾ろうとも、クゥリとの関係の始まりは、彼の『力』を求めたことだった。ならば、彼とは分かり合えたのか。友好を育むことができたのか。彼との繋がり、その始まりが無い以上は、彼と握手を交わすことなど無いのだろうか。

 望むならば『IF』を見せてやる。夢で味合わせてやる。そう告げるような聖剣の光に、『名無し』は興味をそそられながらも首を横に振った。どんな仮定を描いても、今ここに、DBOというデスゲームに自ら望んで立っているという事実は変わらない。

『名無し』は吐き気を催し、錯乱しそうになるほどの罪の意識に耐える。

 アスナを取り戻すという目的の為にデスゲーム開始を黙認した罪は変わらない。約束の塔で何十人も見向きもせずに、殺す重さから目を背けて『力』に酔ったまま殺した事も変わらない。必要なのは少しでも幸福な仮定を思い浮かべることではなく、現実の延長戦として未来を見据えることだ。

 大罪を犯した自分の本心が、魂の慟哭が、大切な人々を守りたい、助けたい、救いたいという守護の意思なのだ。なんと滑稽だろうか。

 

「それでも……これが『俺』なんだ」

 

 矛盾しているとしても、もう己の魂を裏切りたくない。逃げないと誓ったのだ。どんな罪を犯しているとしても、俺は貫き通して見せる。あの夜、たとえ幻想だとしても、クゥリの手を掴んで立ち上がったのだから。

 鈍い頭痛が頭の中心から広がり、『名無し』は体を傾かせる。

 スローネ戦での死闘の負荷のみならず、『人の持つ意思の力』の連用は大きな疲労となっている。たとえ、体感時間ではスローネ戦から6日経っているとしても、このアルヴヘイムは時間加速によって体感時間と現実時間に大きな乖離がある。たとえ、体感で6日休んだとしても実際に脳を休めているのは1日程度だ。回復としては大いに不足がある。

 スローネ戦での聖剣が現れる以前に起きた、仮想脳の疲労による『人の持つ意思の力』のガス欠はまさにその1点に尽きる。今は聖剣のフォローで何とか使用できているが、明日の決戦ではスローネ戦よりも慎重に運用しなければならないだろう。

 

「なぁ、1つ教えてくれないか。あの夜、クーは本当にいたのか? それとも、お前が見せた夢なのか?」

 

 都合よく自分の前に現れたクゥリは、現でも夢でも構わない。だが、振り返れば振り返る程に、あの夜は余りにも幻想的過ぎて、仮想世界で言うのもおかしなほどに現実味がなくて、故に没頭してしまった。

 聖剣は沈黙を守ったままだ。語る気はないのだろう。『名無し』は心の何処かでホッとした。あの出会いは現と幻の狭間に秘めておきたいという気持ちが少なからずあったからだ。

 霜海山脈を攻略したのは誰なのか? ランスロットの『証』は? シェムレムロスの兄妹を倒したのは? 謎は残ったままだ。

 だが、このアルヴヘイムにクゥリがいるならば、明日の決戦には必ず参加するだろう。そして、クゥリがいないとしても『名無し』の心は何も変わらない。彼がいようともいまいともオベイロンを倒す為に、明日は反乱軍の1人として、暁の翅が有する【二刀流のスプリガン】にして【聖剣の英雄】として決戦に挑む。そして、勝って生き残る。

 

「つ、疲れたぁ」

 

 だが、今は睡眠が最優先だ。交食都市でも上流階級御用達、貴族専用の宿に到着し、フロントマンから鍵を受け取るとそのまま予約された最上階に向かう。大浴場で汗を流すべきかとも考えたが、今は睡眠欲を満たす方が先決だった。

 

『何やってるんだ?』

 

『目を閉じて脳を休ませてる。睡眠時間を削ってその分だけレベリングしないといけねーんだよ。お前の「相棒」に相応しいレベルにならないといけねーからな』

 

『普通に寝なよ』

 

『だからレベル上げないといけねーんだよ! オレは攻略組成り立てなの! その中でもトップのお前とはかなりの差があるの! 分かったらお前はさっさと寝ろ! 絶対に付いて来るなよ!? またレベル差が広がったら意味ねーんだからな!?』

 

 思えば、クーは出会った頃から変なところで規格外だったなぁ、と『名無し』は自分にそんな器用な真似はできないと欠伸する。あの時は、当時のレベリングに活用されていた狩場に先回りしてクゥリを出迎えれば、彼の無表情からの容赦ない跳び膝蹴りを喰らったんだっけ……と懐かしくて苦笑する。

 貴族御用達という事もあり、赤い絨毯が敷かれ、豪奢な調度品が目を楽しませるが、そんなものはどうでも良いと無視してブーツを半ばキックで脱ぎ飛ばし、コートを椅子に放り投げてかけると、背負う2本の剣をオミットし、そのまま天蓋付きベッドに身を投げて数度転がると仰向けになった。

 

「勝つ。勝ってみせる」

 

 勝率は低い。だが、最初から敗北を認めている者に勝機は無い。『名無し』はスローネとの激闘を思い出す。彼女の誇り高い武を下した以上、オベイロンなどという外道に敗れるなどあってはならない。

 

「守る。リーファを……レコンを……シノンを……死なせる、ものか。今度こそ……俺は――」

 

 そして、『名無し』は夢も無い、疲労を削ぎ落す暗闇の眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、それは突如として腹に圧し掛かった『重み』によって打ち破られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うごぉ!?」

 

 完全に無警戒だった『名無し』が最初に思い出したのはスミスに鳩尾に捩じれを利かせた拳を撃ち込まれた時だった。

 

『常にとは言わないが、拳を打ち込む時は余裕があるならば回転を加えたまえ。仮想世界でも有効だ。ダメージも跳ね上がるが、フィードバックが特に大きくて隙を作り易い。何もシステム的なノックバックやスタンだけが隙を作る手段ではない。まぁ、そこまで有効打を入れられるタイミングならば、キミの場合は素直に最適のソードスキルを使った方が効率は良さそうだがね。場面に応じて最適のソードスキルを最速で選択して引き出す。ソードスキル頼りではDBOでは死ぬだけだが、キミのその能力は間違いなくDBOで堂々の1位だろう』

 

 今はそういう講義も珍しい褒め言葉も回想だろうと要らないです! もはやオベイロンは刺客を寄越さず、明日の決戦で雌雄を決するつもりだろうという油断が自分にあったと恥じ、『名無し』は寝ぼけている意識を叩き起こす。

 少しで構わない! このピンチを切り抜ける為に手助けしろ、聖剣! 自分に馬乗りになる相手の正体を見極めるより先に『名無し』が聖剣に胸中で呼びかければ、システムウインドウが勝手に開き、本来ではあり得ない速度で装備されて彼の手元に現れる。

 こういう時だけは素直だ! 聖剣に感謝しながら『名無し』はともかく攻撃しようと刃を振るうが、月蝕を纏う際に輝く微かな青碧の月明かりが襲撃者の顔を照らす。

 

「な、なんだ……シノンか。脅かさないでくれ」

 

「なんだとはご挨拶ね」

 

 危うく仲間を両断するところだった。『名無し』はホッとして聖剣を下ろす。どうしてシノンが自分に馬乗りになっているかは不明であるが、少なくとも敵意を持った襲撃者ではなかった事に安堵する。

 

「さっさと下りてくれ。明日は決戦が深夜とはいえ、朝から準備をしておきたいんだ」

 

 深夜零時の戦いという事もあり、午後過ぎには1度仮眠を取り、万全を期す予定だ。『名無し』はシノンの顔がほんのり赤いことから、どうせ飲み過ぎて絡みに来たのだろうと見当をつけて、なるべく口調を荒げずにお願いする。

 だが、シノンは馬乗りのまま『名無し』を観察するようにジッと見つめていた。

 

「仮面、寝る時くらい外しなさいよね」

 

「マユの設計のお陰で息苦しくないしな。まぁ、今回は睡魔が勝っただけで、普段は外してるさ」

 

「ふーん、そうなの」

 

 やはり酔っているせいか、シノンは何処か煽情的な熱が籠った手つきで『名無し』の仮面に触れ、まるで頬を、鼻を、唇を撫でるように指を動かす。

 

「あなたってモテるでしょ? いつも顔を隠しているけど造形は良いし、男としてのスタイルも魅力的。この結構鍛えてますって主張する体、自前でしょう?」

 

 STRによってアバターの筋肉量を増やすこともできるが、『名無し』の場合はモーションキャプチャー時のデータ……現実世界と同じものである。シリカと共に肉体改造に励み、ようやく手に入れた念願の細マッチョである。

 

「コンプレックスだったんだ。今はそうでもないけど、昔は顔が可愛いとか女の子みたいとか弄られてさ。クラインにも初対面の頃に言われたよ。今にして思えば、周囲に外見を弄られたのも仮想世界にのめり込んだ理由の1つだったのかもな。望んだ容姿のアバターを使えば、本当の姿は何であれ、自分の理想と願望が叶えられた。あと、そんなにモテた覚えは無いよ。コンプレックスの克服に努力を重ねただけ」

 

 現在でもどちらかと言えば中性の部類であるが、それでも男性としての凛々しさは増した。不屈の努力で肉体改造に励んだ成果かは不明である。

 俺も20歳か。SAO事件に巻き込まれてから7年以上も経ってしまった、と『名無し』は感慨深く溜め息を吐く。7年も経てば、コンプレックスを抱えていた少年時代から容姿にも変化は見られるものである。むしろ、7年経っても、DBOのプレイ時間に応じた、恐らくは現実世界に残した肉体のモニタリングデータを反映した成長補正を加えても、15歳前後にしか見えないどころか、中性美に磨きがかかったクゥリの現在の姿が異常なのだ。また永遠の13歳とばかりのSAO時代から変わらぬシリカや同じく、せいぜい13、4歳にしか見えないユウキなども何かがおかしい部類だろう。

 確か茅場が精神の発育は肉体の成長に影響を与えるとか言ってたな、と茅場がシリカの容姿に幾らかの興味を示していたことを思い出し、自分達の肉体を現実世界で管理しているだろう彼に良からぬ実験をされていないだろうかと微かな不安を覚える。

 

「そう。私は……『強さ』を求めて仮想世界に踏み込んだ。GGOでは見つけられなかった。だから、DBOで……今度こそはって……そう望んで……」

 

「分かってる。被害者であるキミには俺を責める権利がある。俺はデスゲームが始まると知りながら、止めることもせずに参加した。加害者同然だ」

 

「………」

 

「殺したいなら、それも構わない。でも、俺はまだ死ねない。死にたくない。生きないといけない。だから、全力で抵抗する。その上で、キミに謝らせてくれ」

 

「別に怒ってないわ。これだけのデスゲームを始める黒幕を、あなた1人でどうこう出来るはずないもの。私は情けないだけ。この世界で、自分1人ではどうしようもなく抗えない現実が嫌なだけ」

 

「……ヴァンハイトさんの死は仕方なかった。シノンに責任は無い。責任があるとするなら、俺の見通しの甘さだ。いいや、それ以前に俺の焦りと愚かさがこの状況を作った。アルヴヘイムに突入する前に、もっとたくさんの人を頼るべきだった。協力を募るべきだった。アスナが生きてるなんて気が狂ってるとしか思えない妄想だと嗤われるとしても、言葉と交渉を尽くして戦力を準備すべきだった。大ギルドの連中に頭を下げて、アルヴヘイムの利権をチラつかせて交渉する方法もあった。そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」

 

 この場に考え得るだけの最高戦力が揃っていれば、あの竜の神との戦いのように、呉越同舟であらゆる勢力の強者が勢揃いしていれば、そんな最高の仮定が過ぎる。だが、それは後悔が生み出す都合の良い妄想に過ぎない。

 

「俺もシノンも、このDBOを……いや、生き続ける限り、何度も後悔しないといけないんだと思う。後悔が無い人生なんてあるはずがない。だけど、それだけで十分じゃないか。事実に苦しめられるだけでウンザリするじゃないか。だから、何処かで区切らないといけない」

 

 シノンの心は繊細で、傷つきやすくて、とても脆い。自分が思っているよりも、彼女が自己分析しているよりも、ずっとずっと壊れやすい。

 決戦前でネガティブになり、酒の影響もあって感情が爆発してしまったのかもしれない。『名無し』は丁寧に言葉を重ねて彼女の心の瘡蓋を剥がないように、細心の注意を払うことを心がける。

 

「もっと強ければ救えた。もっと力があれば守れた。もっともっともっと……そんな風に終わりなく過去に仮定を突きつけて自分を傷つけちゃ駄目なんだ。後悔を次に活かせば良い。次で守りきれば良い。何度も何度も『次こそは』って繰り返す。そうして、1人でも多く守って生き抜く。それがきっとヴァンハイトさんに報いることになるさ」

 

「あなたは……卑怯ね。そんな言葉を平然と言えてしまうなんて」

 

「平然なんかじゃないさ。いつも自分の事だけで精いっぱいだよ。それでも……たとえ、欲張り過ぎて手から零れ落ちるとしても……自分ごと落ちるとしても、最後まで握りしめていたいんだ。後悔する結末を迎えるとしても、最初から絶望して諦めたくない」

 

「強欲」

 

「何とでも」

 

 何1つとして嘘は言っていない。男として格好つけた部分はあるが、それも含めて自分だ。『名無し』はいい加減に重いから下りるように伝えるべく体を揺らす。こうして夜に2人で語らうのも悪くはないが、明日は決戦を控えているのだ。

 だが、シノンは『名無し』の意図を察しないのか、残された右手で彼の仮面に、喉に、胸に指を這わせる。思わず背筋がぞくりとした『名無し』は、頬を紅潮させて彼女を本格的に、多少強引にでも振り落とそうとする。

 

「だ~め♪」

 

 抵抗はあっさりと失敗する。STR特化ではないはずのシノンは、彼の胸を強引に押さえつけ、唇を舐める。彼女らしくない甘ったるい声音に、『名無し』は理解不能な危機感を膨らませる。

 

「悪ふざけはいい加減に――」

 

「ねぇ、最初の話に戻るけど、あなたって結構モテるでしょ?」

 

「あ、あのなぁ……! そろそろ怒るぞ!」

 

 本気になればシノンを振り落とすなどSTRが高い『名無し』ならば容易であるはずだ。だが、シノンの蕩けたような妖しい熱で浸された目を見て、何故か体はまるで動かなくなる。

 そう、まるで山猫に追い詰められた鼠は隅で震えるしかないような、死を理解して全身を硬直させてしまったかのような、言い知れない恐怖がもたらす金縛りだ。

 

 単刀直入に言えば、精神が屈伏する程にビビっているのだ。

 

 この感覚……知っている! どちらかと言えば涼しい気候の交食都市で、窓も開けた5階建ての宿の最上階。風通しも良いはずなのに、『名無し』は全身に冷や汗と脂汗を同時に滴らせる。

 シリカから定期的に味合される感覚と同じだ。ステータス差を覆す……まるで『人の持つ意思の力』のような……だが、実際はそんな大層なものではなくシンプルな、原始的で根源的な『気』としか言いようがないモノ。闘気や殺気といったオーラと呼ぶべきものに近しいモノ。

 

「シ、シノンさ~ん? ほら、俺さ、疲れちゃってるんだけどなぁ。明日早いんだけどなぁ」

 

「奇遇ね。私も早寝早起きは美徳だと思うわ」

 

「だよな! そうだよな! 良し! お喋りはこれくらいにしよう! あ、それとも眠れないのか!? し、仕方ないなぁ! こうなったら、俺も夜明けまで飲むのに付き合ってやるさ。どうせ決戦は明日の深夜だし、昼間は丸ごと睡眠に当てれば――」

 

「奇遇ね。私もちょっと寝るには早いと思っていたところなの」

 

 話が通じているようでコミュニケーションが成立していない! この状況を打破すべく、『名無し』は聖剣に援助を求めるが、金縛りによって握力が抜けた右手から聖剣は零れ落ちている。どれだけ呼びかけても手元に出現する様子はない。

 もっと早くに気づくべきだった。彼女の異常を察し、早急に手を打つべきだった。この状況を生み出したのは、鍛錬による疲労や『人の持つ意思の力』の反動がもたらす睡魔、明日への不安がもたらす集中力の欠如だった。彼本来の持ち味である観察眼が十二分に発揮できない状況だったのは、襲撃による緊張から仲間であるシノンの発覚までの流れによる警戒心の欠如からも仕方ない事だろう。

 

「ねぇ、スミスさんの座学を覚えてる?」

 

 彼女の呼吸の熱で染まった荒い息に気づくべきだった。

 

「生物としての本能の話」

 

 彼女がジャケットをオミットし、インナー装備だけとなっていることに気づくべきだった。

 

「生命の危機を感じる程の死闘の前後。生物は子孫を残す為に性欲を昂らせる」

 

 その情欲を溢れさせた肉食獣のような表情と眼に気づくべきだった。

 

「そして、本能的欲求を放置した状態では大きなストレス源となってパフォーマンスが下がる。それは勝率と生存率の低下に直結する」

 

「そ、そうだな! 前後! つまり『後』でも何ら問題ないよな!」

 

「重要なのは感じた瞬間じゃないかしら? 欲求不満の状態で明日の決戦に挑む。酷く非合理的だと思わない?」

 

 虹色のオーロラが窓から差し込む。幻想的な雰囲気の中で、デーモン化を発動していたシノンは、猫耳と尻尾を震わせる。何故わざわざデーモン化しているのか、『名無し』は是非とも100文字以内に説明を求めた。

 デーモン化の制御時間の回復には相応の時間を要とする。シノンの場合、長時間使用に適した低燃費型であり、大きな恩恵も少ないが、時間回復も速い。『名無し』はそんな情報を羅列させ、俺の場合は回復も遅いから連用できないのも難点だよな、と現実逃避する。

 

「誤解しないで。『誰でも構わない』なんて思っている程に破廉恥じゃないわ。あなただから悪くないかもって……むしろ、あなただから……!」

 

 シノンの指は艶やかに動き、『名無し』の上着を捲ると割れた腹筋をなぞる。モーションキャプチャーの際に念入りにデータを取った、彼にとって肉体改造の象徴的な部位だ。シリカが考案したトレーニングメニューと食事で鍛え上げた勲章である。

 待て。シリカ? 俺は何を見落としている!? ここで『名無し』の思考に電流が走り、シノンの異常への考察が開始される。

 決して短くない付き合いとなったシノンについて、『名無し』は彼女の性質についてそれなりに把握しているつもりだ。

 仮に……仮に! 彼女が性欲を昂らせてしまったとしよう! 男女の性差など関係なく、性欲を持つのは仕方がないことだ。それが本能というものだ。スミスの座学にも否定する要素はない。

 だが、果たしてシノンはだからと言って『名無し』に『夜襲』をかけるような真似をするだろうか!? 否! 平時の彼女を見れば分かるように、クールガールであり、イレギュラーには弱いが、少なくとも自制心を忘れるような人物ではない。

 ならば、何らかの形で彼女の性欲がブーストされていると考えるのが妥当だ。シノンの顔は熱っぽく、目も酔っているかのように……いや、瀬戸内海も吃驚な程に混沌として渦巻いている。まるで高熱でうなされているようで全身は火照っているようで、煽情的かつ言い表しがたいほどに魅力的に映えるのは、『名無し』が男性である限り仕方のない事だろう。

 この症状……それもこれだけ強力なパターン……ま、間違いない! ついに『名無し』はシノンに異常をもたらしているアイテムに心当たりを見つける。

 

『寝付けないんですか? だったら「運動」しましょう! とびっきりに効果がある「栄養剤」を手に入れたんです!』

 

 フラッシュバックするのは、夜に私室に忍び込んできた、ドリンクボトルを持った寝間着姿のシリカ。

 

『大丈夫。すぐに気持ちよくなりますよ。はーい♪「お注射」の時間でーす♪』

 

 何故かナース姿をしたシリカによって図太い針を備えた注射器を突き刺された封印したい記憶。

 

『……こんな写真集を欲しがるなんて、欲求不満だったんですね。もう、早く言ってくださいよ♪ じゃあ、今日は特別に口移しで――』

 

 それは忌まわしき思い出。ようやく取り戻した『自分』を早々に塗り潰された夜。

 

「シノン! 今のキミは正気じゃない! 何かの手違いで黒傘大針茸のび、びびび、媚薬を飲んでしまったんだ!」

 

 シノンならば、今の自分の状態に違和感を覚えているはず! ならば、その正体さえ分かってしまえば!

 これは賭けだ。『名無し』も幾度となく盛られたことがあるのだが、およそ理性のブレーキが利かない状態になってしまう。だが、シノンに隙さえできれば、この金縛りは解けるはずだ! そうなれば、STR任せに彼女を捕縛し、薬の効果が抜けるまで閉じ込めれば良い。

 

「……そう」

 

「そうって、ちゃんと分かってるのか!?」

 

「別に良いじゃない。酔っているのと変わらない。これだって自分の意思。自分に正直になれただけ。あなたと同じよ。もう自分を偽るのは止めたの。正直に行動させてもらうわ」

 

 むしろ、理由が把握できた分だけ燃えてきた、とばかりにシノンは舌なめずりする。それは獲物を四肢で押さえつけてマウントを取り、今まさに喉元に喰らい付かんとしている肉食獣そのものだ。

 

「俺たちは『相棒』だ! 今後気まずくなるぞ! それでも良いのか!?」

 

「…………」

 

「わ、分かってくれたか?」

 

「ねぇ、アメドラって見る? 時々あるわよね。男女のバディもので、酒に酔った勢いで……って展開。その気まずさをストーリーにした回って割と好きなのよ」

 

「俺はあまり見ないから分からないなぁ。分からないから、理解できないなぁ」

 

「そう。簡単に言えば、『おくすりのせいだから、全部忘れましょう!』でオチをつけられるってことよ!」

 

 出来るかぁあああああああああ! 金縛りを破ろうと『名無し』は全精神力を集注させる。これは『人の持つ意思の力』ではない。純粋にシノンの『気』に押しつぶされているだけだ。ならば、それを超える精神力があれば解放されるのは道理!

 打ち破れる! 俺なら必ず! スローネ戦で学んだではないか! 恐怖は踏破するものだと!

 指が動く。上半身が脈動を取り戻す。これならばシノンを引き離せると『名無し』は開眼する。

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、そんなに私は『女』として魅力が足りない?」

 

 

 

 

 

 

 普段のクールビューティを知るからこその破壊力。熱と涙を溜めた眼で縋りつかれ、『名無し』は完全なる虚を突かれて動きを止める。

 改めるまでもなく、シノンは実力・容姿・人気の3つが揃った傭兵だ。彼女に迫られて、ノータイムで断る男性の方が圧倒的に少ないだろう。

 可愛い。『名無し』が不意にも思考をそう染めた瞬間に、待っていたとばかりにシノンが獰猛に笑む。

 

「経験者なんでしょ? リードしなさいよね。私は『初めて』だから」

 

「だったら尚更大事にしてくれ!」

 

「ここは仮想世界だから『体』はノーカウントになるのね。だけど、心の『初めて』をあなたに上げるわ。男として喜びなさいよ」

 

 まずい! シノンは本気だ! インナー装備を脱ぎ始めたシノンに、『名無し』は男としての興奮を覚えつつも、心の奥底に勿体ないという自分でも情けなくなる気持ちを抱きつつも、最後の力を振り絞る。

 

「聖剣! 俺に応えろぉおおおおおおおおおおお!」

 

 彼の叫びが通じたように、聖剣はシノンの頭上に突如として現れると重力落下に従って彼女の後頭部に直撃する。ダメージフィードバックを受けて体勢が崩れた隙に、『名無し』は気合を入れて金縛りを解き、シノンを右腕を掴み、馬乗りから逆転して覆い被さるようにして押さえつける。

 まさかの体勢逆転にシノンはきょとんとしたようだが、恥ずかしがるように目を泳がせ、だが満更でもないように艶を滲ませながら笑んだ。

 

「へぇ、意外と強引なのね。まぁ、『初めて』がそういうのも……アリ、かしら?」

 

「止めてくれ。本当に止めてくれ。俺も理性が割と限界ギリギリなんだ」

 

 とにかく縄! 鎖でも構わない! 薬効が抜けるまでシノンを拘束する! ナイス援護の聖剣に感謝を捧げ、『名無し』がシステムウインドウを開いてロープを取り出そうとした時だった。

 

 

「お兄ちゃん、夜遅くに大声出して迷惑だよ。今何時だと思ってるの?」

 

「ふぁぁああああ。元気なのは良いですけど、睡眠妨害は止めてくださいよぉ」

 

 

 ドアが開き、乱入してきたのは1つ下の階に部屋を取っているはずのリーファとレコンだ。『名無し』の部屋は窓が開けっぱなしであり、そうでなくとも大声で騒げば、下層にいる彼らの安眠を破るというものである。

 ここで、第3者の視点ではどのように『名無し』とシノンが映るのか、解説しよう。

 まずUNKNOWNは汗だくで上半身は開けている。シノンに至っては上半身裸体。彼は猫耳モードの隻腕のシノンを『力任せ』にベッドに押さえつけて覆い被さっている状態である。なお、シノンは満更ではない表情(媚薬補正)がかかっている。

 世界が凍てついて止まる。いよいよ『人の持つ意思の力』がタイムストップを可能にしたのかと『名無し』は喉を引き攣らせる。

 

「ふぇ、ふぇええ!? や、やっぱり、2人はそういう関け――」

 

「レコン、見るな」

 

「ぐぼぉおおおおおお!?」

 

 リーファの裏拳が命中し、レコンは顔面が潰れて廊下の壁に叩きつけられ、そのままズルズルと倒れて動かなくなる。

 

「リーファ、こ、これは……これは違うんだ! 大きな誤解なんだ!」

 

「…………」

 

「シノンはどうやら誤って良からぬ薬を飲んでしまったみたいで、俺は抵抗しようと必死で……!」

 

「…………」

 

「リーファ? えーと、ス、スグ……? 直葉さーん? お兄ちゃんの声、聞こえてますかぁ?」

 

 無言を貫き、俯いているリーファに、元から底値に到達しているではないかと心配していたお兄ちゃん尊敬ゲージがいよいよマイナスに突入したのではないかと、果たして明日の朝陽を生きたまま拝めるだろうかと『名無し』は死を覚悟する。

 

「もう、せっかく良いところだったのに。邪魔しないでもらえるかしら?」

 

 シーツで上半身を隠して起き上がったシノンの言葉に、これで俺が強引に迫ったわけではないと立証できたという安堵半面、余計に事態を悪化させているという直感の警鐘によって『名無し』は悶絶する。

 沈黙を保ち続けていたリーファは、やがて面を上げると、それは見事な……神灰教会の神父エドガーも拍手喝采するだろう満点の『にっこり』を描いた。

 

 

 

 

「この泥棒猫」

 

 

 

  

 決戦前夜がどのような結末を迎えたのか、それはここで綴られるべき物語ではない。




生きているからこそ、笑うこともできれば、怒ることもできるはず。



それでは、292話……もとい、後編でまた会いましょう!

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