SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

299 / 356
前回のあらすじ

人間性を捧げよ


※長らくお待たせしました。復活です。どうぞよろしくお願いします。



Episode18-62 意思

 崩落するヨツンヘイムの底。深淵の残滓が溜まった泥水が深さを増す中で火花が散る。

 充満するのは殺意と殺意。互いを否定する決意と揺るがぬ心。それが闇の底で苛烈にぶつかり合う。

 片方は男。鈍くも分厚い、獲物の肉と骨を叩き潰して擦り切る為の武具を右手で振り回していた。それは巨大な包丁に似て、しかし、料理の為ではなく、大型の生物……人間などを生きたまま解体する刃だった。

 片方は少女。細身の片手剣は式典などで用いることを前提とした儀礼剣であり、だが、武具としても必要最低限の性能を秘めているだろう。しかし、それは彼女の手に馴染んでいないことは明らかだった。

 

「いい加減にくたばりやがれ」

 

 男は……PoHは怨嗟に満ちた声を自重せずに吐き散らす。深淵の泥水が堪り続けるヨツンヘイムの底。崩落し続ける地下世界の瓦礫が作った島は面積を狭め続けている。

 対する少女は……ユウキは虫の息で細身の儀礼剣を振るい、黒紫の結晶剣を展開し、滞空した闇属性の剣8本が殺意の剣先を向ける。

 飛来する黒紫の結晶剣に、PoHは肉断ち包丁で応戦する。破壊されて飛び散る闇の結晶の中で、次なる結晶剣は炸裂型と目をつけた彼は身を翻して回避を選択すれば、そこに疾走したユウキの剣が迫る。

 だが、対処できる。PoHは蹴りを放って少女の腹を打ち、地面を転がせて泥水の水面に叩きつける。

 

「知ってるぜ? お前の現実のカラダはガラクタ状態。『表』の医療技術では延命すら不可能。見捨てられた『命』だ。だが、お前は生き延びた。悪魔と握手して延命と治療を選んだお前は、社会秩序を裏切った糞袋だ。DBOにログインした1万人以上の人間がデスゲームに巻き込まれることを容認した、電脳テロの共犯者なんだよ」

 

 後継者陣営からマザーレギオン陣営、そして都合上オベイロン陣営にも在籍する経歴を持つPoHは多くの情報を握っている。無論、後継者もマザーレギオンも全てをオープンしているわけではないが、それでも複数の陣営を渡り歩けば情報は統合されていく。

 

「さぞや心地良かっただろうな。アイツは何でも受け入れる。善人も悪人も、強者も弱者も、『命』を等しく愛してくれる。憎悪も、憤怒も、孤独さえも無条件で受け入れてくれる」

 

 マヌスとの戦いが思いの外に響いた。闇術特有のスタミナ削りがマヌスの攻撃のほぼすべてに付与されていた。スタミナ回復に時間を回す暇もなくヨツンヘイムが崩落し始めたせいで、PoHのスタミナ残量はソードスキル1、2回分しか無いだろう。

 油断できる程に余裕はない。だが、勝率が低いわけではない。故に全力を尽くして殺す。PoHは言葉を重ねて精神を突き崩して隙を作ろうとするが、ユウキは睨み返しもせず、右逆手で装飾過多の儀式剣を構える。

 

「否定は……しない、よ。クーの傍は、心地良かった、から。自分の全てが……許される……気がした」

 

 絶え絶えの声は、まるで針の穴に糸を通すようだった。だが、それは気が済まないのか、ユウキは奥歯を噛み、強い光を眼に灯す。

 

「だけど、許してくれる気がしたから……受け入れてくれるから……好きになったんじゃない!」

 

 そこには本来の流麗なる剣閃はない。だが、並々ならぬ気迫にPoHは油断すれば首を落とされるのは自分だと警戒する。

 刃と刃の衝突が火花を散らし、闇の底を微かに照らす。STRが勝るのはPoHであり、DEXに勝るのはユウキだ。だが、彼女はそのスピードを活かしきれるコンディションではなく、火力を引き上げる魔法を使うには潤沢な魔力も残っていない。

 ユニークスキル由来の黒紫の結晶剣も限られているだろう。魔力由来であるならば、無駄撃ちをさせ続ければPoHの勝機は高まる。

 

「クーはさ、言葉足らずで話すのも下手で、二言三言には面倒だって口にしながらも世話焼きで、ぶっきら棒に突き放すようで本当は吃驚するくらいに親身になって心配してくれて、周りに振り回されて疲れた顔をしている時に限って少しだけ嬉しそうで……」

 

 力任せにPoHに弾き飛ばされて転がり、口から泥水を吐きながらユウキは顔を上げる。その目にはまるで屈伏の2文字は無い。

 ユウキの目を見れば見る程に苛立つ。腹立つ。腸が爛れているのではないかと思うほどに、PoHを怒りが満たす。

 俺の方が上だ。俺の方が『天敵』をより深く理解している。そのはずなのに、この目を見れば見る程に言い知れない屈辱が湧き上がる。

 

「嘘は下手なくせに隠すのは得意で、直感で動いているように見えて案外あれこれ深く考えていて、だけど最後はやっぱり直感の一言で済ますことしかしないから滅茶苦茶で、契約とか約束とかには律儀で、どんなに……どんなに疲れていても……傷だらけでも……ボロボロでも! 自分よりも他人を優先して! 自分なんか『要らない』って……『生まれるべきじゃなかった』って思ってるみたいに……自分に無頓着で!」

 

 それは理解してしまっているからだ。

 その目から零れる涙は、他の誰でもなく『天敵』の為に流されているのだと、PoH自身が否定と拒絶の言葉を並べたくても認めてしまっているからだ。

 

「自由になって欲しいって思った。クーが好きなように生きて欲しいって願った! だけど、今なら分かる! それがクーにとって1番の『苦痛』なんだ! お前は……お前はクーの本質とか本性とか言ってるけど、クーの『心』は何も分かってない。お前が何を求めているのか知らない! 知りたくない! だけど、それはクーにとって『苦痛』でしかないんだ!」

 

「ハッ! 耳糞にも劣るゴミみたいな主張で聞くに堪えないぜ! 己の本能に忠実となり、本性を曝け出し、何にも縛られずに生きる! それこそが苦痛からの……アイツを縛る『首輪』からの解放だ! アイツの本性は、誰よりもおぞましく! 誰よりも美しく! 誰よりも純粋で混沌に満ちていた! だからこそ、俺が解き放ってやる! 卵から孵し、餌を食わせ、飛翔を迎えた時、アイツは自由になる! そして、この世界は焼き尽くされる!」

 

 今でも忘れない。忘れるはずがない! たとえ1度は死を迎えようとも、この意思が電子の海に漂う『命』の残骸だとしても、PoHは忘れることがないだろう。

 鉄の城で『天敵』の兆しを見た。思想家としての『答え』に出会った。骨肉のみならず、魂にまで染み込む程の恐怖心を覚えた。幼さが濃く残る小柄な体躯からは想像もつかぬ、世界を喰らってもなお満たされぬと涎を垂らす暴虐の獣を見た。そして、殺戮を振り撒くケダモノではなく、そこには世界を優しく抱擁するかのような愛が……アガペーがあった。

 全ての『命』を愛しているのだろう。社会秩序と倫理を学ぶよりも前に、物心がつくよりも先に、人間も動物も虫も植物も、空や海や大地も、太陽も月も星々も、いずれは電子の海で育まれる新たな姿をした『命』さえも、等しく愛するのだろうと悟った。

 

「糞の掃き溜めで俺は生まれて育った! 師に出会わなければ、俺はクズのまま生き、クズのまま死んだだろう!」

 

 肉断ち包丁の一突き。踏み込みから体重を乗せた力任せで技巧も無い、PoHらしからぬ感情に振り回された一撃。だが、それ故に何よりも重く、ユウキは受け流しきれずに右肩が浅くだが裂けて血が零れる。

 

「刹那の快楽にだけ溺れ、何も成せぬまま、何も残せぬままに死ぬはずだった俺に『答え』を探す旅路を示してくれた、我が師サーダナ! そして、ようやく見つけた、唯一無二の生きる意味であり、死ぬ価値がアイツだった! 分かるか!? 神を呪い! 世界を呪い! 人の世を呪い! 全てが色褪せた俺の眼に、アイツが……アイツの存在こそが俺に『俺らしく生き、そして死ぬ』という意思を灯してくれた!」

 

 そのまま間合いを詰めての膝蹴り。瞬時に体を浮かせたユウキには浅くも腹に入れば、彼女の体は大きく跳ねる。泥水の深みに向かって転がる彼女に≪死霊術≫の霊魂弾を放つ。怨霊の如く、禍々しいオーラに包まれた頭蓋はスピードこそないが、追う者には及ばずとも高い追尾性を誇る。

 黒紫の結晶剣での迎撃は予想の範囲内。これでまた1つ消耗させたとPoHは、暴れ狂う感情に呑まれるなと、冷静さを失った者から死ぬのが戦場なのだと、恩師サーダナの教えを頭の内で反芻させるが、心の堰を決壊した怒りは唇を開かせる。

 人前ではめったに外すことが無いポンチョのフードの脱ぎ、PoHは崩落するヨツンヘイムの塵を雨の如く浴びながら天を仰ぐ。

 

 

 

 

「俺にとってアイツの殺意こそが……『天敵』のアガペーこそが……生まれた意味を授けてくれた洗礼だった」

 

 

 

 

 肉断ち包丁の柄を握り直し、PoHは感情をコントロールしろと我が身に言い聞かせるべく深呼吸を挟む。対するユウキは顔を伏せ、長い髪で表情を隠していた。

 

「誰にも邪魔をさせない。お前にも! 【黒の剣士】にも! 後継者にも! 絶対に! 俺は全てを捧げてきた! この命だって使い、アイツの『獣』を育てた! いずれはアイツのアガペーが世界を焼く焔火になる!」

 

 姿勢を低くし、肉立ち包丁の先端を泥水に沈めて駆ける。陸地は失われていく中、望まれるべきは早期決着。ユウキは軽装・低VITだ。重い一撃を与えれば簡単に勝敗は決するはずだ。

 ならばこそ、片腕のPoHがすべきなのは捨て身の一撃。どんなソードスキルだろうと、未知なるユニークスキルによる攻撃だろうと怯むことなく最短ルートをブラフ無く駆け抜け、肉立ち包丁の渾身の振り下ろしをその脳天に刻み込めるという殺意の凝縮だ。

 

 

 

 

 

 

「そこまで分かっているなら……どうして気づいてあげられなかったんだよ!」

 

 

 

 

 

 だが、間合いに入った瞬間にユウキもまた無防備と呼べる程に身を乗り出し、PoHの顔面に頭突きを浴びせる。衝突した額が鼻を潰し、よろけた彼の鳩尾に容赦ない蹴りが穿たれ、そのまま宙を舞った彼女の蹴りが喉に押し込まれる。

 倒れたPoHは右袖で口から垂れた血を拭いながら、怒りで爛れそうな思考にクールダウンを訴える。

 

「きっと、お前からすれば、クーはこの世界でようやく出会えた本物の神様だったんだろうね。ボクには……お前がどんな人生を歩んだのか知らない。どんな苦しい経験をしたのかも、どれだけ素晴らしい先生に出会ったのかも、クーを見つけた時の感動も……分からない。だけど、どうして……どうして、そこまで分かってあげているなら……どうして!?」

 

 ユウキの目に映るのは悔しさだ。PoHへの嫉妬にも近しい。自分の愛する人の本質を、自分以上に理解し、その為に動いた男に宿っているのは、もはや憎悪ではない。

 

「どうして……クーが『本当の自分をさらけ出すことを1番望んでいない』って気づいてあげられなかったんだよ!?」

 

 動きに鋭さが増す。いや、『取り戻された』のだ。生半可ではないだろう、リミッター解除の反動。それを強引に捻じ伏せるのは、『人の持つ意思の力』ではなく、マヌスが認めた『意思の力』だ。

 

「お前はクーの本質ばかりに目を向けて、『心』にはまるで無理解だ! 知ろうとすらしていない! クーの『心』は神様なんかじゃない! バケモノでもない!」

 

 力と力のぶつかり合い。剣戟の中でPoHはSTRに勝る自分が押し込まれていく理由に、目の前の少女に気圧されているからだと彼の並々ならぬ戦闘勘から導き出された『正答』を拒絶する。

 勝つのは俺だ! 俺の……『俺の意思』であり、『答え』だ! そうであらねばならないのだ! 奥歯を噛み、踏み込みと同時に体重を乗せた薙ぎ払いがユウキを弾き飛ばす。だが、その間際に展開された黒紫の結晶剣が彼の左肩に突き刺さり、そのまま炸裂する。

 炸裂型は攻撃力こそ低いが、スタミナ削り効果が大きい。思ったほどに肉は抉れていないが、温存しなければならないスタミナを奪われ、PoHはHPバーの下で激しく点滅するスタミナ危険域アイコンに歯ぎしりする。

 

 

 

 

 そして、まるで世界を喰らうような底知れない『恐怖』がPoHを呑み込んだ。

 

 

 

 

 今まさにヨツンヘイムの底にいるのはPoHとユウキの2人だけだ。マヌスも去って久しいだろう。ならばこそ、この場を満たす殺意があるとするならば、両者が発するものでなければならない。

 だが、2人の殺意のぶつけ合いなど児戯であるかのように、魂から蹂躙するかの如くPoHは恐怖心のままに片膝をつく。

 体の震えが止まらない。心底恐ろしく堪らない。何が? 自分は『何』を恐れて、このような体たらくを宿敵にして怨敵を前にして晒しているのだ?

 

「はは……ははは!」

 

 だが、すぐに理解する。この恐怖に歓喜する自分がいる。それこそが証明なのだ。この恐怖は『命』ある限り逃れることができない呪縛。捕食者に対して餌が覚える正常なる反応なのだ。

 ついに本性をさらけ出した。今まで押し込められた『天敵』の牙が剥かれたのだ。そして、それがまるで広がる波紋のように伝播してきたのだ。

 何故? どうして? 理屈などそこには無い。あるとするならば、感じ取れる側に『命』があり、『天敵』の殺意に恐怖を覚える以上のことはない。

 

「これが『答え』だ! アイツは選んだ! くだらない人間の皮を脱ぎ捨て『天敵』に――」

 

 全身を浸す恐怖心に喚起するPoHは天啓を得たと奮い立つも、その光景に目を見開く。

 呆然とするユウキは涙を零す。もはやPoHなど見ておらず、この場にいない白の傭兵に涙を流す。

 その双眸に恐怖などなく、殺意にただ愛おしさだけを覚えて、しかし、それ以外の何かを感じ取っているように、ユウキは泣いていた。

 やはりこの女は『壊れている』。PoHは改めて憎しみを……そして、自分がどうしてこれ程までに怒り狂っているのか理解する。

 嫉妬だ。PoHもまた、この殺意にこそ『天敵』の証明であると胸を張って宣言できる。だが、彼は逃れられない。そこに必ず『恐怖』があるからだ。だからこそ『天敵』を見出すことができた。

 だが、彼女は恐れていない。理解できない程に愛している『だけ』なのだ。殺意も、本性も、心も、何もかも……『クゥリという存在』全てを受け入れている『だけ』なのだ。

 恐怖を捻じ伏せる意思や感情ならば存在するだろう。恐怖を凌駕する信仰もあり得るだろう。だが、根底として恐怖心を抱かぬなど『壊れている』という表現以外は相応しくない。

 

 

 

 

「邪魔だよ」

 

 

 

 

 途端にPoHの体が裂ける。それはユウキの左手から伸びる銀糸。彼女の暗器の輝きだ。リミッター解除の反動で精密制御ができないはずのアバターでは操作困難であったはずだ。だが、今まさに意思を宿しているかのように……いや、明らかに指の動きを超えた変則的な軌道でPoHを刻む。

 血が噴き出したPoHは倒れることを拒むが、束ねられた銀糸の一閃を肉断ち包丁で受け止めて吹き飛ばされる。今までとは逆に泥水の中を転がったPoHは、咄嗟のガードで手から放り出された武器が水没し、自分が無手になった失態に舌打ちする。

 今まさにあの銀糸が『作り変えられた』のだ。『人の持つ意思の力』で強引に思考操作機能を付与させたのだ。仮想脳が応え、横暴を押し通すほどの意思の源泉は、PoHが嫉妬を覚える程の愛情だ。

 

「知らないだろうから教えてあげる。クーが……クーが仮に本性を曝け出すとしたら、お前の言う『天敵』になるとしたら、それは世界を喰らうとか、滅ぼすとか、そんな大層なことの為なんかじゃない。『誰かの為に』って『理由』があるからだよ。だって、クーはお前の言う通り……皆が大好きだから。だから、『自分』が傷つくことに無頓着なんだ」

 

 どうして?

 どうして、そこまで愛せる?

 クゥリのように本能がもたらす底知れないアガペーであるならば、まだPoHにも理解できるだろう。だが、彼女のそれは何処にでもいる人間がごく普通に宿す、だからこそ『異常』としか言いようがない愛情なのだ。

 

「『天敵』になってクーが楽になるなら、もう苦しむことが無いなら、それで良いよ。本音を言うとね、世界中の人間を皆殺しにしてクーの気が晴れるなら、全員死んじゃえば良い。クーに殺されてしまえば良い」

 

 今ここにはいないクゥリが愛おしくて堪らないように、自分を満たす殺意を引き寄せるように、ユウキは優しく微笑んで両腕を伸ばす。それは抱擁にも似て、だからこそ、彼女の狂気を帯びた微笑みに異常性を知る。

 PoHが自分の命を『天敵』の糧にしたように、何もかも全てを捧げる覚悟があるように、彼女にも同じ意思があるのだ。

 

「だけどね、クーは自分が楽になる選択肢を『望まない』んだ。絶対に。だって……クーは『馬鹿』だから。それで楽になれるはずなのに、もう苦しむことはないはずなのに、本当に……馬鹿を何個つけても足りないくらいにお人好しだから。自分の笑顔よりも他人の笑顔を選ぶ人だから。クーが本性を曝け出すなら……そこまでしないと殺しきれない程に『追い詰められてる』ってことだから。『1番望まない方法でも殺しきる』って決めたからなんだ」

 

 ユウキは妥協でもなく、本意そのものであると示すように真っ直ぐにPoHへと手を伸ばす。それは和解を求める握手だ。

 

「ボクの手を取って一緒に助けに行こう。まだ間に合うかもしれない。『クーが大切』なら一緒に……」

 

 差し出されたのは手を前に、PoHは唾棄する。もはや武器は無く、左腕も切断されたままだが、戦う術が無くなったわけではない。

 確かにまだ時間がかかるとは思っていた。だからこそ、PoHは作戦を立て、順序とお膳を立てて確実に孵す方法を選択した。ならばこそ、PoHの予定も上回る『天敵』の目覚めは、彼が不測の事態すらも生温い窮地にあるという立証にも頷ける。 

 だが、PoHに言わせれば『だからどうした?』だ。その窮地こそが『天敵』を孵したのだから。更なる『力』をもたらし、恐怖は炎となって数多の人心に燃え広がるのだ。

 無言による拒絶を受け取ったユウキは差し出していた手を拳に変え、目を伏せる。

 

「そっか。お前は『クーが「天敵」になる』ことを望んでるんじゃない。『「天敵」なら誰でもいい』んだね」

 

 ユウキは残念そうに左拳を胸に運んで拳を握り、改めてPoHを睨む。

 

「信じてたんだ。クーの為ならば何でもするっていうお前の意思を。だけど、『クー』の為じゃない。『天敵』の為にお前は動いてるだけなんだ」

 

 ユウキは最後の力を振り絞るように拳を握った左手を振るい、自身の周囲に円陣を組ませるように黒紫の結晶剣を展開する。その双眸にあるのは失望。僅かでもあった期待に裏切られたことへの無念だ。

 これは互いの意見を擦り合わせるディベートではない。故に平行線を辿り、妥協点を見出すことなど出来ない。

 この場での唯一無二の『結果』があるとするならば、この場を浸す殺意のみ。故に彼らは決着を付けねばならない。

 覚悟はできている。PoHは取り出した注射器を首に突き刺し、全身に纏わりつく禍々しいオーラを纏う。それは彼のアバターを変じさせていく。彼にとって最後の切り札……デーモン化だ。それは他でもない、ユウキを完全否定し、また彼女を殺すという意思表示だ。

 デーモン化発動をしたPoHの全身は骨にも似た硬質な濃緑の外殻に覆われる。足は逆間接となり、顔には獣にも似た外殻が兜のように形成する。

 PoHのデーモン化は≪死霊術≫の影響もあってか、まるで全身に鎧を纏ったかのような外殻を得た姿となる。機動力を損なうどころかむしろ増加したまま防御力を獲得することが強みであり、また逆関節によって≪歩法≫のソードスキルにも匹敵するジャンプ力も得られる。

 相手の頭上を取ってトップアタックを仕掛け、3次元機動で相手を翻弄する。面で攻撃できるショットガンとの相性も良い。だが、現在は左腕を切断し、重ショットガンを使えない以上、攻撃力の増加が求められる。

 故に先の注射器……レギオン・プログラムの投与だ。

 レギオン・ウィスパード。レギオン・パラサイトから発展し、レギオン・アーマーを基にして設計された新型レギオンであり、それは細菌のようにアバター内に潜り込む。

 レギオン・プログラムを投与すれば汚染は免れない。強靭な精神があろうとも模され劣化した殺戮本能による狂気からは逃れられない。これはオベイロンとマザーレギオンの実験から分かった明確な問題点だ。

 マザーレギオンは現実の肉体……脳を有し、また仮想脳がレギオン・プログラムに抗体を持つことがレギオン化に高い抵抗力を有する因子とした。故に現実に肉体を持つ人間のレギオン化には時間を要し、また長期の丹念な調整が必要が『現時点では必要である』と結論を出した。逆に言えば、AIならばフラクトライトの有無を問わずにレギオン・プログラムの影響を受けやすく、レギオン化し易い。

 これらの問題を解決し、即物的に強化をもたらすレギオン・プログラムの開発。その結果として生み出されたのが補助を目的としたレギオン・アーマーであり、また異なるアプローチであるレギオン・ウィスパードは『プレイヤーと同調して独立した強化作用を発露させる』という有益性を持つ。

 幾らかのモンスターが持つ寄生攻撃。有名なのは腐敗コボルド王戦のように、プレイヤーのアバター制御を奪い取るタイプだろう。レギオン・ウィスパードはデーモン化をトリガーとして表面化する。装備するのではなく、『寄生モンスターとしてプレイヤーを補助する』ことを目的としたレギオンだ。

 PoHの肩甲骨に2つのブヨブヨとした腫瘍が形成される。それはレギオン・ウィスパードがPoHのデーモン化を『学習』して発露された姿だ。腫瘍は大きく膨張し、破裂したかと思えば≪死霊術≫のような禍々しいオーラを纏った頭蓋骨を飛ばす。それは追尾ミサイルのようにユウキへと襲い掛かる。

 一見すればメリットが大きいレギオン・ウィスパードであるが、当然ながら最悪のデメリット……レギオン化への汚染という作用がある。確実に使用者を蝕み、最後には苗床にして新たなレギオンが生まれる。言うなれば使用者は寄生虫の宿主となり、自身を栄養として与えている間だけレギオンの『力』を借りることができる。

 だが、このレギオン・ウィスパードには致命的な弱点があり、それは一般的に流通している寄生解除アイテムであっさりと駆除可能である点とデーモン化を発動しない限りは無害極まりないという点だ。故にマザーレギオンは、レギオン・アーマーと同じく、オベイロンの軍事転用計画に便乗して開発したに過ぎず、レギオン・プログロムとしては欠点を持ち過ぎていると評している。

 ならば、レギオン・ウィスパードとは『覚悟』を示すことによって使用できる武器だ。レギオンの養分として吸い尽くされる前に寄生解除アイテムを使わねば自我ごと破壊し尽くされる。だが、使用中はレギオン・ウィスパードとデーモンシステムによる二重の影響によって判断力が鈍り易くなる。

 繋ぎ止めるのは強靭なる意思。『天敵』を世に羽ばたかせるという決意にして『答え』。それがPoHにもたらされる『力』に酔わせぬ精神を固めさせる。

 

「レギオンに与してまで、お前は……!」

 

「ハッ! 利用し合ってるだけだ! レギオン共が欲する王は『天敵』に最も近しい! アイツらの本当の目的とはズレているらしいが、せいぜい連中の計画を利用してやるさ!」

 

 レギオン・ウィスパードは適確にPoHの思考を『先読み』して怨霊弾を放って援護し、ユウキの動きを封じていく。また、徐々に水嵩が増し、もはや水没していない陸地もなど残っていないヨツンヘイムの底において、デーモン化で獲得したジャンプ力はアドバンテージだ。どうしてもスピードが泥水で大きく下がる彼女に対して、PoHはジャンプで空中から怨霊弾を撒き散らしながら、右手に有する肉断ち包丁で攻撃を仕掛けていく。

 

「『天敵』なら誰でも良かっただと? 誰だってそうだろうが! 『優しくしてくれるなら誰でも良い』!『傍にいてくれるなら誰でも良い』! 人間ってのはソイツを形作る因子や役割を好むだけだ! どれだけ言葉を並べようとも自分にとって都合の良い存在を欲してるってのが本音だろうが!」

 

 家族も、友人も、恋人も、全ては代用できる存在だ。

 恋人と別れて泣いても新たな相手を見つける。伴侶と選んだ人物と離婚して新たなパートナーを探す。誰もが自らの主観こそ全てとし、そこに唯一無二など存在しない。

 怨霊弾が着弾する度に泥水が爆ぜ、水飛沫がユウキの視界を阻害していく。また、連戦の疲れのせいか、銀糸の精度も徐々に鈍り、特に跳躍を駆使して動き回るPoHを捉えきれずに空を斬るばかりだ。

 だが、PoHは油断しない。ユウキの目には焦りの2文字はない。何かを狙っている。ならばこそ、決定的な一撃を入れられるタイミングを待つ。

 

「自分の主観以外を信じることは難しいよね。誰かを好きになるのも、その人に惹かれる部分があるからこそだと思う。だけど、それは引力みたいなものなんだ。惹かれる切っ掛けに過ぎない」

 

 焦るな。感情的になるな。デーモンシステムとレギオン・ウィスパードがもたらす衝動のままに行動するな。PoHはユウキへの憎悪と憤怒……何よりも形容しがたい嫉妬心に突き動かされることを耐える。

 そうだ。嫉妬なのだ。否定したいはずのユウキに、どうしようもなく嫉妬を抱いている。

 これは【黒の剣士】に抱く感情にも似た、そして、より粘質なものだ。

 

「『誰でも良い』んじゃない。『その人が良い』ってなるのが……好きになるってことなんだよ。失って、新しい出発を迎えたとしても、『その人』以外は見つからない。友人とか、恋人とか、伴侶とか、立場や役割は『誰か』が代替できても、『その人』は代替できないんだ。お前が求めてるのは『天敵という役割』なんだ」

 

 奇麗事を口にするな。そう叫ぶより先に着地を狙ったユウキの突進突きが迫る。反応が遅れたPoHの顎先を刃が掠める。

 感情に振り回されるな。誘いに乗るな。舌戦は得意分野だ。言葉で相手を翻弄するのはPoHの得意分野だ。強みの土俵で胡坐を掻いて致死の刃を喉元に食い込ませるなど言語道断だ。

 言葉を操り、並べ、感情的になると見せかけ、確実に殺せ。PoHは言葉の揺さぶり合いにおいて、感情と戦闘を完全に切り離すことに成功する。

 

「俺は『天敵』こそがアイツの正体だと知っている」

 

「ボクは『天敵』なんてクーの本性に過ぎないって知っている」

 

 それは永遠に解決しないすれ違いなのだろう。互いに形容し難い殺意の深奥に触れたからこそ、決して相容れないのだろう。

 決着の時は訪れる。

 ユウキが片膝をつき、腰まで水没する中で息絶え絶えに喘ぐ。スタミナ切れだ。継戦能力の低いユウキが先にスタミナの底に至ったのだ。

 本来ならば猛攻をかけるべきタイミングだ。安易に接近して必殺を狙うだろう。だが、PoHは警戒を怠らない。このまま怨霊弾で確実に削り切ることを選択する。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、着地の瞬間に彼の周囲から銀糸が渦巻いた。

 

 

 

 

 

 

 これが狙いか! PoHは彼女が銀糸の制御を徐々に失っていった過程の全てが演技であったのだと悟り、背筋を凍らせる。あの状況下で冷静さを失っていなかったのはユウキも同様だった。冷徹に必殺を狙うべく策を準備していたのだ。

 泥水に隠した銀糸による奇襲。狙うのは脚部だろう。足を失えば、最悪でも相討ちに持ち込むことができる。

 切り抜ける方法は2つ。自身の耐久力を信じて肉断ち包丁を使って最大限にガードを固める堅実な策。もう1つは回避を重点にして突破を目論む強硬策。

 PoHが選択するのは前者。普段の自分ならば絶対に選ばないだろう防御重視。これはユウキがこちらの癖を分析しているだろうという『信用』から成り立っている。

 憎悪し、嫉妬し、それでも認めねばならない。この女は怨敵にして宿敵だと。故にPoHはガードを固めて受け止める。全身に食い込んでいく銀糸が刻み、レギオン・ウィスパードが発露した腫瘍が斬り落とされる中で、愚劣と思えるまでに不動を貫く。

 

「アァアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 ユウキの口から漏れる叫びはスタミナ切れの状態で無理に行動している反動。本来ならば身動き1つ取れなくなる状態だ。それでも銀糸を制御し続ける彼女には驚嘆に値するとしつつも、PoHのガードは揺るがない。体を丸め、肉断ち包丁で急所をカバーし、自らを守る骨の外殻を信じて耐え続ける。

 HPが削られ続ける。今の自分は蟻地獄に落ちたようなものだ。完全に罠に嵌まったとPoHは認めねばならなかった。仮に強引に突破を狙っていたならば、ユウキを目前にして関節を重点的に狙わてバラバラに斬り落とされていただろう。

 銀糸が右手の指を斬り落とす。この距離でも、スタミナ切れの状態でも精密に動かし続け、指を重点的に狙われていたのだ。ガードの要を失ったPoHは戦慄するも、冷静さを失わない。それはレギオン・ウィスパードが切除されたお陰か。

 どちらが耐え抜くか。それは血風が舞う中で、銀糸の嵐が消え去った時に示される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に立っていたのはPoHの方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝敗を分かった要因は、デーモン化ではなく、回復アイテムの有無。肉断ち包丁を失った瞬間にPoHは、常時強力なオートヒーリングをもたらすエリザベスの秘薬を使用し、HP回復量で強引に攻撃を耐えきったのだ。だが、代償は大きく、全身に大小様々な傷が刻まれ、流血ダメージが発生している。だが、それもエリザベスの秘薬による回復の範疇でまかなえる範囲だった。

 PoHもまたスタミナは危険域だ。魔力も尽きている。傷ついた体を引き摺るように歩み、彼は欠けた右手でユウキの首をつかんで彼女の小柄な体を宙に吊るす。

 

「お前の言う通りだ。『意思の力』ってのは存在するみたいだな。俺も感じたぜ。『必ずお前を否定する』って俺の意思を」

 

「……うが……ぐ……」

 

「『天敵』は目覚めた。俺はこの火を絶やさない。必ず世界を燃やす業火に育て上げる。だが、お前を『天敵』の餌にはしない」

 

「あぐぅ……ぎ……!」

 

 喘ぐユウキの喉を締め上げていく中で、PoHは感傷的に自分の嫉妬心の正体を理解する。

 悔しかったのだ。【黒の剣士】やユウキは、『天敵』からアガペーだけではない、特別な殺意を……寵愛を受けている。

 世界を焼き尽くす『天敵』のアガペー。だが、その中でも一際強い殺意。寵愛を得た彼らが許せなかったのだ。

 

(欲ってのは度し難いな。良い勉強になったぜ)

 

 我が師よ、俺もまた精進すべき若輩者であったようだ。PoHは自らに解決すべき欠点を教えてくれた事だけを宿敵にして怨敵に感謝を示す。そして、この問題点を乗り越えてこそ悲願は果たせるだろうと確信する。

 全ては『天敵』の為に。PoHはこのままユウキを絞め殺すべく指が欠けた右手に力を込めていく。

 

 だが、何かがおかしい。

 

 何か違和感がある。

 

 それはPoHという人間……多くの死線を経た歴戦の猛者だからこそ感じられた悪寒。

 

 首を絞められ、もはや身動き1つ取れないはずのユウキの苦しむ顔に、微かに、だが確かに刻まれた笑み。

 

 

 

 

 

 次の瞬間、PoHの両膝は黒紫の結晶剣に貫かれ、続く炸裂によって醜く潰された。

 

 

 

 

 

 倒れる中でPoHは手を放すものかと、このまま喉を砕き潰すと力を籠めようとするが、彼もまた黒紫の結晶剣によってスタミナが尽き、その一瞬に対応しきれずに指から怨敵が零れ落ちる。

 先程の銀糸の罠は囮。PoHがガードを選択して耐え抜くだろうという、ユウキを確実に分析しているだろうという『信頼』から成り立ったブラフ。本命は泥水に沈めて隠した黒紫の結晶剣による奇襲。銀糸で脆くなった膝の爆破にあった。

 同じスタミナ切れであり、それでも動き戦おうとする意思が体を僅かでも動かすならば、ここで2人の明暗を分かつのはシンプルな答え。動くべき四肢の有無。

 ユウキはリミッター解除の反動がありながら強引に戦い続けた消耗によって今にも意識を失う寸前のようだが、それでも耐え抜き、またスタミナ切れの状態でも剣を杖にして何とか倒れることを耐え凌いでいる。

 対するPoHはエリザベスの秘薬によって回復は持続しているが、膝を潰されたことによって歩行も敵わず、増水し続ける泥水の中で上半身を反らして水面から顔を出し、水没することを拒むことを除いては何もできない。

 

「暗器の……極意は……意識の死角を突く……だよね……クー?」

 

 今も自分を包み込むような殺意に愛おしさを覚えるように、ユウキは穏やかな声音でここにはいない『天敵』に勝敗を真に分けた……彼女が最後に選んだ策の由縁を口にする。

 

「クク……くはは……! だが……お前も……ここから……どう、する……つもりだ? どうせ……お前も……生き埋め……だ!」

 

 もはや溺死を免れないだろうPoHに対し、ユウキもまたスタミナ切れの状態で剣を杖にしなければ立つことも困難であり、歩行など不可能だろう。そうしている間にも崩落と増水は進み、彼女もまたヨツンヘイムの底に沈む。

 だが、ユウキは無言で剣を杖にして身を傾けながら、PoHに背を向けて脱出の為に歩き出す。何度も倒れて泥水に溺れては起き上がり、激しく咳き込みながら地上を目指す。

 

「今更……行っても……間に合わないぜ。『天敵』は……生まれた!」

 

 世界を焼き尽くす人類種の天敵を見届けられないのは残念であるが、思想家としての『答え』は成就されるだろう。ならば、この戦いの敗者は自分だとしても、『天敵』を巡る戦いにおいて自分は勝者だとPoHは主張する。

 

「本当に……お前はクーの『心』を……何も分かってないんだね」

 

 スタミナ切れで発声も苦しいだろうユウキは、確かな哀れみを込めて足を止めて呟いた。

 

「クーは自分を『天敵』だと認めても、その『力』を使ったとしても……どんな代償を払うとしても……最後の最後まで……『誰かの為』に……優しくあろうとするんだ」

 

 もう間に合わないかもしれない。

 無駄足になるかもしれない。

 だから行動しないのか? 否。常に誰もが闇夜で『答え』を探す為に道を切り開く。時に月明かりが、星の光が、篝火が闇を照らすとしても、『答え』を見つけ出すのは各々の旅路の果てなのだ。

 

「ボクは……『優しい誰か』よりも……『優しくあろうとするクー』が……大好きだから」

 

 どんな本性だとしても、どんな本意を潜ませているとしても、そんなものは関係ないと伝えるように、振り返ったユウキは微笑んでいた。

 ユウキの姿にPoHは殺意を覚える。ここで殺して否定せねばならないと足掻く。

 

「ここで……死ね! お前は……俺と……!」

 

 武器を探せ! 殺す手段を探せ! この女をこの場から逃がすな! PoHは増す水嵩で顎先まで浸されながら、ユウキの背中に死の刃を突き刺すべく模索する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前さんはここで朽ちて死ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、PoHを否定するべく、そしてユウキの今にも倒れそうな体を抱き上げたのは、ヨツンヘイムの骸骨鍛冶屋だった。

 この崩落の中、ヨツンヘイムの底にいるのは、死に場所として主君マーリンの最期の地を目指してか、あるいは別の因果か。ユウキを両腕で抱いた骸骨鍛冶屋は、老骨が軋むとばかりに体を揺らす。

 

「おじい……ちゃん」

 

「必ず地上に送ってやる。それがマーリン様を救っていただいたせめてもの礼だ」

 

 老骨が! PoHは肉無き骨の身に右手を伸ばそうとするが、泥水が重くて水面から伸びない。

 どうしてだ? どうして、俺の『答え』が否定される!? 何をどう取り繕おうとも『天敵』こそが真実だったはずだ。

 

「死ね……死ね……死ね! 俺と……共に……! 誰にも……否定……させ……ない! 俺の……俺の『答え』!」

 

 体を跳ねさせ、水面に顔を飛び出しては呪詛を撒き散らす。ヨツンヘイムの底に溜まる深淵の泥水よりもどす黒い感情が湧き出す。

 そんなPoHに対して、骸骨鍛冶屋に抱えられたユウキは静かに眼差しを向ける。そこには憎悪などなく、だが淡白で無感情でもなく、同情さえもない。

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

 ただ一言、感謝の言葉だけがあった。

 泥水に沈むPoHは、もはや抗う術がないと知りながらも足掻き続ける。

 

 誰かに共感されたかったのではない。

 

 ただ1つの……自分が見つけ出した『答え』を貫き通したかった。

 

 あの出会いが……鉄の城で出会った無垢なる殺意の瞳が……この魂を救ってくれたのだ。

 

 それの何が悪い? 何1つとして間違っていないはずだ。

 

 もはや遠き水面に光は揺れず、深淵の泥水は重く、PoHは水底に沈む。

 

 死がやって来る。『天敵』の糧にもならず、『答え』を見届ける礎にもならず、敗北の末に訪れる無残な死が訪れる。

 

 だが、彼は目にする。泥水の底で孤独に、無念に、屈辱と嫉妬に塗れた死を踏み躙るように、今もこの身を浸す『天敵』の殺意が歓喜にも似た恐怖心を抱かせる。

 

 幻視したのは、暗闇の水底で彼を死に誘うように手を差し出す、白髪を靡かせる『天敵』の姿。

 

 道半ばで悔いは残るが、これもまた自分らしいのかもしれない。

 

 PoHは足掻くことを止め、『天敵』の殺意に身を委ねる。

 

 成し遂げられなかった。見届けられなかった。だが、それでも己の『答え』は間違っていなかったのだ。確かにそう信じて笑うことができた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 蛇に睨まれた蛙の気分はこんな感じなのだろうか。リーファは冗談が湧き出す程度には自分の精神には余裕があるのか、それともまともな思考など残っていないからなのか、区別はつかなかった。

 突如として感じた、血が凍りついたような言い知れない悪寒。DBOにおいて、幾度となく経験した死の予感を何百倍も濃縮したような殺気。それが一瞬にしてリーファから自由を奪いとった。

 相手の気迫に負ければ身動きが取れなくなる。それはスポーツでも戦闘でも1度は経験するだろう、実力だけではなく、精神力もまた勝負を決する要素なのだという体験。リーファは気合を入れて身を浸す言葉にすることも冒涜的とも思える恐怖心に抗おうとする。

 だが、押し返せない。手足には力が入らず、気を抜けば小さく丸まって震えてしまう。

 それはリーファだけに限ったことではない。彼女以外にもまともに動ける反乱軍のメンバーは皆無だった。ただ1人、ナギだけが能天気に動けなくなっている反乱軍の様子を見て回り、何処かがっかりした様子で溜め息を吐いている。

 金縛りにあったように動けなくなった者。壊れたように笑い続ける者。武器を投げ捨てて逃げ出す者。理解など必要ない、湧き出す恐怖心に狂わされる。

 オベイロンさえもが挙動を止め、戦場は静止する。唯一の例外があるとするならば、オベイロンの召喚兵だけだ。意思も心も持たない、単純なオペレーションに従う自動人形であるが故に、恐怖に狂わされることなく、淡々と刻まれた命令を実行し続けている。

 レコンが立てた、反乱軍の最後にして全滅覚悟の作戦は失敗した。理解し難い、だが生命の根幹に訴えかける恐怖1つで崩壊した。リーファは悔しさで拳を握り、嗚咽を漏らす。

 巨大レギオンの根下、地下深くでは今もユージーンが踏ん張っているはずだ。サクヤの遺志を胸に、『ランク1』として剣を握ることを貫き通した彼には尊敬以外の念を抱かない。

 対して、今の自分はどうだろうか? 片腕を失い、戦局を左右するには『力』も足りず、あまつさえ我武者羅に行動することさえも出来ない。

 それが悔して堪らず、両目に涙は浮かび、視界は滲んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 だからだろうか。体を小刻みに震えさせながらも立ち上がるシリカの姿が眩しく映った。

 

 

 

 

 

 

 

 左腕に止まったピナが大きく翼を広げて顎を開き、シリカは光属性のブレスを銃撃の如く撃ち放つ。それは反乱軍の攻撃が止まり、再び竜の神へと群がっていたオベイロンの黄金兵たちに飛んで爆発を起こす。

 

「……奪わせません」

 

 連射できる攻撃ではないのだろう。あるいは、ピナも恐怖心に支配されているのか、彼女の腕から剥がれ落ちる。だが、シリカは止まることなく、今度は力の限りに火炎壺を投擲する。その攻撃は数百を超える黄金兵を打ち倒すには余りにも乏しく、またSTRが不足しているだろう彼女の投擲では飛距離もなく、直近の黄金兵以外に撃破することはできない。

 それでも、シリカは止まらない。

 

「やっと……やっと『終わり』が見えたんです! この旅に『終わり』に……アスナさんが待っているんです!」

 

 涙を流しながら、息を切らしながら、それでもシリカは攻撃し続ける。それらは少数ながらも黄金兵を引き寄せる。だが、それは全体からすれば微々たるものだ。

 

「奪わせません! 奪わないで! どんな結末だとしても……『あの人』はたどり着かないといけないんです! だから……だから! 役立たずだとしても! 何も出来ないとしても! 私は……ここで諦めるわけにはいかないんです!」

 

 叫び、咆え、涙し、それでもシリカは立ち向かう。オベイロンにでもなく、黄金兵でもなく、自らを縛り付ける恐怖に抗う。

 アスナを求めた兄の旅路。その最後がどのような物語を綴るのかは定かではない。少なくとも、アスナは兄の記憶を失っている。ならば、そこに完全無欠のハッピーエンドなど期待できないだろう。

 それでも、そうだとしても、兄は止まらないだろう。そして、そんな兄を愛するシリカはどんな気持ちだったのか、リーファには全てと言わずとも感じることができる。

 自分に振り向いて欲しいという想いがあったはずだ。自分だけを見て欲しいという願いもあったはずだ。

 もっともっと頼ってもらいたい。もっともっと助けたい。もっともっと傍にいたい。そんな気持ちを捻じ伏せて、兄の幸福を願って今も恐怖に抗う姿に、リーファは目が焼き付く程の光を見る。

 

「ああ……もう、負けて、いられないじゃん」

 

 ここで蹲っているのは簡単だ。この身を押し潰すような恐怖に屈伏してしまえば良い。

 だが、それを良しとすることがリーファだろうか? いつだって、自分を認めてくれた2人は……兄と篝は自分の負けん気を褒めてくれたのではなかったのか。

 深呼吸を1つ挟み、膝に力を入れ、片腕のせいでアンバランスになった体を起き上がらせる。シリカの隣に立ち、彼女に迫る黄金兵をその剣で薙ぎ払う。

 

「……リーファさん!」

 

「カッコイイじゃない。あたしも混ぜなさいよ!」

 

 シリカの行動は一見すれば無意味にも映るだろう。彼女1人の攻撃では召喚され続ける黄金兵を減らすことはできない。

 だが、1人1人が意思を宿して行動しなければ坂を転げ落ちるだけだ。求める結果は得られない。

 

「全軍……全軍、攻撃を再開しろ! ここが分水嶺だ!」

 

 そして、また1人……レコンもまた再起する。彼の命令は反乱軍全体に伝播するも、それに呼応する者は少ない。だが、それでも確かな砲火が再び空を彩る。

 止んでいた砲撃の音色が耳を擽る。リーファは後先も考えずに、攻撃に釣られて迫る黄金兵を薙ぎ払い続ける。シリカは手持ちの火炎壺が無くなれば、死んだ兵士からクロスボウを拝借し、炸裂ボルトを射出する。レコンもまた手当たり次第に、それこそ石ころまで投げて黄金兵を誘き寄せようとする。

 当初の1割にも満たない攻撃。それでも、再起した仲間に奮い立つように、1人、1人、また1人と恐怖に抗っていく。

 確かに誘導できる黄金兵であるが、今度はその数によってリーファ達が押し込まれる。迎撃する為の攻撃密度が足りず、1体1体脆弱であっても数で攻める黄金兵によって押し込まれていく。

 

「エクスキャリバーの痛覚解放と増幅は『あの人』以外に効果を発揮していません! 怯まず攻撃を!」

 

 ダメージは少なくとも貫通する攻撃は肉体の深部まで届き、ダメージフィードバックをじわじわと広げていく。それは体内出血しているかのようだ。

 痛覚を増幅された兄は、まさに全身から体内の奥深くまで針で刺し貫かれていた痛みと戦っていたはずだ。ならば、この程度で怯む道理はないとリーファは奥歯を噛み、一心不乱に剣を振るい続ける。

 

「起きてください! オベイロンを倒してください! アスナさんは貴方を待っているんです!」

 

 喉が裂ける勢いで叫び続けるシリカであるが、竜の神は動かない。辛うじて消滅することなく保っている状態だ。痛みと戦う為の極度の集中状態が逆に意識を閉ざしてしまっているのだろう。

 このままでは、いずれ動き出すオベイロンに負けてしまう。リーファは剣を捨て、シリカに手を差し出す。

 自分の翅はこの時の為にあったのだ。たとえ、片腕を失おうとも、剣を捨てれば誰かの手を握ることができるのならば、この手に意味はある。

 

「シリカ、あなたの声をお兄ちゃんに届けて! 今のお兄ちゃんにはあなたの声が必要なはず! お願い!」

 

 誰よりも先に立ち上がったシリカが、リーファを、レコンを、みんなを恐怖に立ち向かわせた。ならばこそ、彼女の声ならば兄に必ず届くはずだとリーファは信じる。

 

「役立たずなんかじゃない。いつもお兄ちゃんを支えてくれたのはシリカだもん! 今日までお兄ちゃんが歩き続けられたのは、シリカのお陰なんだよ!? シリカがずっと傍にいてあげたから、お兄ちゃんはきっと……!」

 

 その立場が自分ならば良かった。そう考えない自分がいないわけではない。

 だが、シリカでなければ意味は無かったのだろう。同じ鉄の城に囚われ、同じ苦難と絶望と恐怖を味わったからこそ、彼女が隣にいることは兄にとって大きな救いになったはずだ。現実世界で待ち続けたリーファでは決して立てない居場所で、シリカは兄にとって唯一無二の存在となったはずだ。

 リーファは手を差し出し、シリカは一瞬だけ迷いを示すも、彼女の微笑みに背中を押されたように手を握る。

 

「レコン」

 

「分かってる。火力を集中させて2人の道を作るよ」

 

 瞬時にリーファの意図を察したレコンの指揮は迅速だ。復帰した革命軍はようやく元の2割に到達するか否か。完全に不足した火力を1点に集中させ、黄金兵の群れに穴を開けてリーファ達を竜の神の傍まで送り届ける算段を立てる。

 本当に頼もしい。かつての、いつも気後れし、パニックを引き起こしてばかりだったレコンの姿は何処にもなく、安心して背中を任せられるどころか、自分の命を預けるに足る凛々しさを覚えたリーファは、本当に良い友人で、最高の仲間だと改めて彼を尊ぶ。

 

「だったらナギちゃんの出番だね! 今こそ出しましょう、近代兵器! ジャジャジャジャーン! ガトリンガーン♪」

 

 リーファ達の奮起に対して、能天気に喜びを表現するナギが装備したのは、この局面でどうして温存していたのかと殺意を覚えるほどの高い面制圧性能を誇るガトリングガンだ。耐久力が紙に等しい黄金兵に対して、広範囲にばら撒けるガトリングガンは喉から手が出る程に欲しい得物だった。

 この娘は本当に……! 怒りに震えるリーファであるが、ナギに構っている暇もなく、シリカの手を固く握って空に舞い上がる。

 

「落とさないでくださいね」

 

「シリカこそ、絶対に手を離さないで」

 

 あれ程に嫌悪し合っていた関係であったはずなのに、今は互いに信じ合い、また尊重し合うことができる。リーファはこの戦いが終われば、彼女ともう少し踏み込んだ交流が出来るのではないだろうかと思う。

 自分が追いかけた、SAO事件以後の兄の現実世界での軌跡。それを語ってもらいたい。自分が見ていない兄の姿を、今度はシリカの口から聞きたい。リーファは絶対にこの手を放さないと誓い、砲火が散る空を駆けた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「感じましたか? ついに……ついに我らの悲願が! レギオンの王がお目覚めになられました!」

 

 異形のレギオンは歓喜を全身で表現し、触手をうねらせ、恍惚とした表情でレギオンの王を賛美する。

 直接対峙せずとも感じずにはいられなかった、まるで内側から染め上げられるかのような恐怖心。それは生命である限り逃れられない呪縛だった。

 

「素晴らしい! 実に素晴らしい! 我らの王! レギオンの王! ああ、混濁するぅうううう! レギオンの時代を見届けられぬ無念! この身をレギオンの礎とする歓喜! それが矛盾することなく私の中で溶け合っていくぅうううう! ああ、せめて陛下に祝砲を! タイラントの炎を今1度!」

 

 絶頂と絶叫の狭間で異形のレギオンはワイヤーの如く細く鋭い触手をしならせる。それは高い切断力を誇る連撃となり、ユージーンに襲い掛かる。

 だが、ユージーンは冷静に対処する。防御力が落ちた自分では耐えられぬ攻撃を、十分に置いた間合いで軌道を見極め、最小限の動きで回避する。

 防具の損失。火力の低下。スタミナ残量。巨大レギオンのブレスまでの残り時間。全てにおいて追い詰められたユージーンは、だからこそ窮地において、自らの能力を最大限に引き出し、また成長させるべく、極限状態の集中力を維持していた。

 ユージーン本来の戦闘スタイルは、高VIT・高防御力を活かすべく揃えたスキルを十全に利用し、相手に重い一撃を入れつつ、ガードを主体にして立ち回るものだ。回避技術は身に着けてこそいるが重点を置いておらず、機動戦は重装備ということもあって主眼としていない。

 だが、この局面において求められるのは、ほぼ一撃も受けられない状況下において、どのようにかして異形のレギオンを仕留めるという無理難題をこなす為の高い回避技術だ。

 幸いにもレギオン戦の経験があるユージーンは、触手の攻撃に対して慣れがあった。初見ならば、複数の触手が描く軌道に翻弄されて回避もガードもままならずに攻撃を受けてしまうだろう。レギオン戦における負傷・死亡の要因の1つは、触手攻撃への対応力の欠如にある。

 スピードも切断力もあるが、軌道自体は素直であり、間合いを取って冷静に対処すれば回避自体は高難度ではあるが不可能ではない。だが、遠距離攻撃手段が乏しいユージーンが決定打を入れるには、最も回避が困難となる至近距離にまで達せねばならない。

 故に開花する。ユージーンは丁寧な足捌きで小刻みに体を動かし、ボクシングに挑むかのような拳を握ったファイティングポーズのまま、異形のレギオンの触手攻撃を最低限の動きで回避し続ける。それは尽きかけたスタミナの管理であり、ここぞの一瞬……最後のチャンスをつかむためのスタミナを温存させるのみならず、スタミナがじわじわとだが回復している感覚を体内に燻ぶらせる。

 DBOの基礎にして奥義であるスタミナ管理。極限状態は超人的な集中力を発揮させ、ユージーンから無駄な動きを削ぎ落していく。今までの自分の動きにどれだけの贅肉がついていたのかが羞恥するほどに感じられる。そして、それは彼の弛まぬ鍛錬と繰り返された死闘の経験があったからこそ、不退転の覚悟と合致して覚醒したものだった。

 

「……理解し難い。どうしてですか? どうして、貴方はレギオンの王の殺意に屈伏しないのですか!?」

 

 感嘆と動揺。異形レギオンが操る流暢な人語に対して、ユージーンは不遜に鼻を鳴らす。

 あの一瞬、そして今も全身を浸す言い知れない恐怖心。それは確かに以前のユージーンであるならば、恐怖心に挫かれて膝を折り、体は動かなくなっていただろう。恥じることなく断言できる程度には、もはや理解の範疇外にある……まるで捕食者に睨まれたかのような絶望的な死の予感が襲い掛かった。

 だからこそ、敢えてユージーンは笑うのだ。

 

「この程度で怯むと思ったか? このオレは『ランク1』だ。いかなる敵が相手であろうとも戦い抜き、勝利を得るは必然! レギオンの王がいかなる怪物かは知らんが、眼前に現れるのであるならば、むしろその首を掲げ、オレの凱旋の華として飾ってやろう!」

 

「清々しいほどまでに傲慢不遜。なるほど。これが……これが『人』の『強さ』ですか! 感服いたしました! ですが、些か傲慢にも過ぎるようですね! 私にも勝てぬ者がレギオンの王を討つなど笑い話にもなりません!」

 

 全身に亀裂が入る異形のレギオンに比例し、巨大レギオンの死骸は崩落しながらも動き始め、ブレスの予備動作に入っている。地上が現状においていかなる戦局にあるのかは不明であるが、巨大レギオンの一撃は勝敗を引っ繰り返すに足るだろう。

 勝敗を握るのは己の拳。それが武人としての闘争心を高める。レギオンへの憎悪は人類種の正義を胸に燃え上がらせる。

 雌雄を決するのは一瞬。異形レギオンにはあらゆる打撃攻撃は通じず、大剣を落とした今となっては決定打も失われた。ユージーンの弱体化は異形レギオンの揺るぎない勝利を確定させたようにも思えた。

 だが、不屈にユージーンは笑う。それこそが大きな間違いだ。レギオンは失念している。自分を……ランク1という最高峰の傭兵の称号を舐めているのだ。

 

「もはや人間に暁は来ない! このまま没しなさい! 私は貴方の首でレギオンの夜明けを祝しましょう!」

 

 それは決して大きな挙動ではなく、むしろ堅実に、ユージーンを近寄らせまいとする触手の攻撃。だが、微かにあった攻めの姿勢に、ユージーンは刮目する。

 ここだ! その言動とは裏腹に、巨大レギオンのブレスを優先し、堅実な戦法を取り続けた異形レギオンであるが、ユージーンの挑発に乗り、僅かにであるが攻めに傾倒した。

 恐怖は既に踏破した。ならば前に出るのみ。ユージーンは密集した触手の連撃に対して左腕で前面ガードの姿勢を取って大きく前に踏み込む。≪格闘≫の特殊系ソードスキル【鉄塊山】である。俗称ガードスキルに相当し、発動中は高い防御力を獲得するものだ。その用途は相手の強力な単発攻撃を受けきり、そのまま攻めに転じるというものである。その性質上多段ヒット系やブレスなどの判定持続系とは相性が悪いのであるが、触手の1本……その鋭利な一閃に限定すれば、十分以上の効果を発揮する。

 無論、鎧を失ったユージーンの総防御力は低下している。特に上半身はインナー防具だけの為に、いかに鉄塊山でも無傷とはいかない。腕の肉は裂けるが、骨までは到達しない。また、切断力を重視して衝撃が乏しい為に鉄塊山で上昇したスタン耐性と衝撃耐性を抜ける程でもない。

 

「自ら勝機を捨てるとは……潔さは時と場合によって美徳となりませんよ?」

 

 嘲う異形レギオンの言う通り、これは温存し続けた最後のスタミナを使い切るものだ。それを攻撃ではなく防御で消費するなど万人の目から見ても短絡的な判断から来る愚行に映るだろう。

 だが、だからこそユージーンは己の選択に迷いはなく、また絶対的な正しさを確信する。

 

『意外かもしれないが、私は勝敗を決する大きな要因の1つに精神力を重視しているのだよ』

 

 自分の成長性を見込み、様々な技術を惜しまずに与えてくれたセサルの言葉が脳裏を過ぎる。

 

『どれだけ高い実力があろうとも、それに伴う精神が無ければ十全に活かすことはできない。窮地において活路を切り開くのは、事前準備の有無、冷静な思考と判断力、そして行動を実現させる精神力だ。極限において不可能と断じることの半分は諦観より来たる死への堕落に他ならない。そこに勝機があるならば、何も迷う必要は無いのだよ』

 

 愚行の砂漠にこそ1粒の勝機の原石が隠れているならば、それを拾い上げ、己の武技と精神で磨き上げて勝利という宝石に変じさせる。それが可能である者だけが勝者となれる。

 スタミナ切れ。絶対的とされる致死の領域。DBOにおいて、ソロにおけるスタミナ切れは死亡を意味する。だからこそ、異形レギオンは嘲笑する。

 それこそが油断。ユージーンはスタミナ切れの症状……バランス感覚の喪失や息苦しさを奥歯で噛み殺す。まるで何十キロも全力疾走したかのような、倒れ伏すことを強要するスタミナ切れの感覚は、これまで幾度となく経験してきた。

 ならばこそ、ユージーンは己を信じて体幹を取り戻し、次なる1歩を踏み出す。

 もう1歩。あと1歩。更に1歩。全身全霊をかけた疾走で一気に異形レギオンとの距離を詰める。

 

「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 もはや雄叫び以外を許容しない声帯。全集中力を脚部と左手に集中させる。握られた拳に対し、異形レギオンは頭部を埋める数多の眼を見開く。

 

「……お見事!」

 

 異形レギオンの称賛が意味するのは不発。ユージーンの渾身の一撃……≪格闘≫の単発系ソードスキルである閃打を乗せた左ストレートは紙一重で躱され、異形レギオンの首元を掠るだけだった。

 スタミナ切れの状態でもソードスキルの発動は可能だ。これはユージーンが試して把握した事実の1つだ。ソードスキルにはスタミナ消費量が定められているが、不足状態でも使用すればスタミナ切れにこそ移行するが発動する。これらの事から、スタミナ切れの状態でもスタミナが数値上存在するのであるならば、ソードスキルは発動可能であると目星をつけていた。

 だが、そのメリットは乏しい。そもそもとしてスタミナ切れの状態で無理に体を動かすこと自体が困難であり、正常な動作はもちろん、戦闘など論外だ。直線とはいえ、ユージーンが全速力で異形レギオンとの最短距離を倒れることなく詰められたのは、彼の類稀なるセンスと闘争心が成せる業であり、最後の閃打に至っては発動モーションを起こせたこと自体が奇跡にも等しかった。

 

「私に打撃は効かないと分かっていながらも、敗北を認めぬ意気! 認めねばなりません! 貴方は強者だった。我が生涯に……いや! 我らレギオンに貴方の『強さ』は永遠に記憶されることでしょう!」

 

 腕を振り上げ、もはや1歩として動けぬユージーンに対してトドメを刺そうとする異形のレギオンの滑らかな語りに、ユージーンは薄く笑う。

 

 

 

 

 

 

 爆発。それが異形レギオンの首から頭部を分離したのは、まさに一瞬の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 もはや1歩も動けないユージーンだが、まだ手は動いた。それを見越した上で……いや、自分ならば必ず可能であると揺るがぬ自信を抱いて攻撃を仕掛けていた。

 鉄塊山からのスタミナ切れ、そこから間合いを詰めた閃打。レギオンに回避されることまで織り込んだユージーンの真の狙いは呪術。彼が愛用する『近接用』呪術……轟く炎。相手を呪術の火を装備した手でつかみ、そのまま爆発を引き起こして攻撃する、彼の『対人』における最後にして最強の切り札。

 相手を手でホールド状態にしなければ発動しないという点から対象は限定されるが、人間に限りなく近しい体型である異形レギオンが相手ならば発動に問題はなかった。

 爆破されて胴体から千切れた異形レギオンの首が地面を転がる。いよいよ力尽きたユージーンはその場で膝から崩れ落ち、それに数秒遅れで異形レギオンの胴体もまた背中から倒れた。

 

「それは……シャルルの森で……バーサーカーに……私は……知っていた……はずなの……に……どう、して?」

 

 レギオンがあらゆる情報を共有しているのであるならば、この高い知性を有した異形レギオンであるならば、ユージーンの手札も把握していたはずだ。彼が近接戦において切り札とする轟く炎についても知っていたはずだ。

 だが、知識として所有していても利用できるか否かは別の話だ。それは人間でも機械でも変わらない。情報の有用性を認識する為の知性かロジックが求められる。異形レギオンは、轟く炎を把握しながらも注意を怠った。

 

「魔力……残量……な、るほど……あな、たの……慎重さ……真の狙い……は……スタミナ温存ではなく……発動魔力量の……回復……確保……だった、のですか。私の……油断……いいえ、認め……なければ! あなたが……『ランク1』が……私より……強かった」

 

 分かり切ったことだとユージーンは断じる。レギオン程度に後れを取るなどランク1にはあるはずがない。

 いよいよ体を倒れ伏したユージーンは頬を地面に触れさせたまま動けなくなる。スタミナ切れでも無理に体を……アバターを動かした反動は、そのまま運動アルゴリズムとの不調に繋がり、しばらくは身動き1つ取れる様子は無かった。

 異形レギオンの耐久力の低さが無ければ、急所である首を攻撃できなければ、スタミナ切れでも動く精神の爆発力を示さなければ、勝ちは拾えなかっただろう。

 貴様もまた強かったが、オレには及ばなかっただけのことだ。ユージーンは沈黙していく異形レギオンの最期を見つめていれば、崩落する巨大レギオンが今再び大きく震えたことに目を見開く。

 

「貴様……何を……!?」

 

「ククク……私の……負けは……認めましょう! ですが、『学習』しました! 勝利……勝利の執念を……貴方から教わりました! チャージは足りずとも……ブレスを……レギオンの炎を……!」

 

 頭部の亀裂が一層大きくなるのは、異形レギオンに呼応して巨大レギオンがブレスの体勢に入ったからだろう。

 レギオンの即応する変異性。それがユージーンとの死闘によって異形レギオンを更に成長させ、この土壇場で巨大レギオンを変異させているのだと悟る。

 

「貴様ぁあああああああああああああああああああああ!」

 

 動け。動け。動け! スタミナ切れで動かぬはずの体を無理矢理起き上がらせ、HPが減少し続けてもう間もなく尽きる異形レギオンの頭部をユージーンは踏み潰す。

 

「アハハハ……無駄、です! もう止められない……私にも……貴方にも……誰にも!」

 

 だが、砕け散る頭部は断末魔で、もはや滅びの火は止められないとユージーンを嘲った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 背中から翼のように生えるのは8本の触手。脊椎のような印象を与え、関節同士を繋げる靱帯は富んだ伸縮性で大きく間合いを伸ばす。だが、8本の触手のそれぞれには微細な純白の触手が隙間なく生え、夜風に揺れる様は羽毛の如く、触れれば誰であろうとも受け入れるかのような柔らかさを見て取れる。

 だが、微細な白触手は柔軟と硬質の変化を可能とする。硬質化すれば、それはまさしく針の筵であり、高速で伸びる本体触手も合わさり、広範囲を『削り取る』。

 ランスロットが光波を連続で放てども、触手を伸ばす『何か』……最後の深淵狩りが秘めた飢餓の化身の如き白髪の子は、愛の女神フィナさえも霞む程に美しく、太陽の光の王女のグヴィネヴィアすらも夕闇に消えるのではないかと危惧する程に優しく、だがデーモンを生む混沌の火すらも静寂と思える程に狂おしく笑う。

 黒剣を展開から射出。コンマ1秒未満の24本の黒剣の雨に、飢餓の化身は踊るように体を舞わせる。その度に足下に広がる血溜まりに波紋が生まれる。黒剣の全ては触手に受け流されて軌道を歪められ、飢餓の化身を掠めもしない。だが、まだコントロール下にある黒剣を操り、再度の攻撃を仕掛けるも、淡く光る白髪は夜風の形を成すばかりであり、黒剣が巻き起こす暴風すらもその身を撫でることはない。

 足下から伸びる赤黒い光の槍。それは追尾してランスロットを攻撃し続けるも、血溜まりが攻撃範囲内である以上はそこから脱すればランスロットを攻撃しない……と思われたが、槍の全てが血溜まりより飛び出し、黒剣と同様に縦横無尽に空を舞い、上空からランスロットを襲撃する。紫光で大刃を形成した聖剣を振るって槍を弾くも、8本の触手がまるで抱擁を求めるかのように伸びれば、脱出の為に【深淵渡り】を『使わされる』。

 転移先には当然のように飢餓の化身が『待っている』。その両手に触れられれば、内側から爆発する悲鳴が体内に染み込む。竜の鱗、神々の鍛えた鎧、闇の障壁すらも意味を成さない浸透攻撃である。デーモン化し、闇濡れの甲冑と同化したランスロットでも数度と受ければ聖剣の加護は剥ぎ取られ、内側から肉と骨は外に向かって押し潰されるだろう。

 

(なるほど。バケモノだ)

 

 黒剣で円陣を組み周囲に展開したランスロットは、飢餓の化身がその実は黒剣の対処に8本の触手の内の『2本』だけしか使っていない事実に呆れ果てる。他の6本は遊ばせた状態で24本の黒剣に対応し、受け流し、本体を傷つけさせなかったのだ。

 そして、未来予知に等しかった直感は更に鋭敏となり、フェイントもディレイも通じず、【深淵渡り】を使って回り込もうものならば先回りされる始末だ。より慎重に【深淵渡り】を運用しなければ、先程のように体内爆破攻撃の餌食となる。

 

(だが、逆に言えば黒剣をガードすることは出来ない。あの触手の強度は並大抵ではあるまい。だが、黒剣の貫通力が勝るはず。深淵纏いと聖剣の加護を加えた黒剣ならば、対処に要する触手の数は増えるだろう。そこに一撃を加える)

 

 しかし、問題なのは飢餓の化身になる以前、深淵狩りの奥義にして禁忌である深淵纏いを使い、なおかつ纏う深淵すらも『喰らった』かのような状態において、白の深淵狩りは深淵と聖剣の力を加えた黒剣全てに対処しきっていた点だ。今の飢餓の化身が同じことを出来ないとは思えない。

 一方で飢餓の化身は武器と呼べるものは持ち合わせておらず、触手と特異な能力を振るうのが主な攻撃手段だ。驚異的な回避能力が健在であるとしても、張り付くことさえ出来れば触手の脅威度は下がる。

 まずは懐に入り込む。ランスロットは黒炎のメテオを左手から放つ。地面に着弾し、闇の爆風が巻き起これば、同時に土煙が視界を潰す。あの驚異的な直感を前には無意味であることは承知している。だが、あの目……右目の7つの瞳は特に異様だ。こちらの攻撃を直感ではなく、視覚で見切っていた。ランスロットは連続光波で飢餓の化身を動かしながら、慎重に狙いを定めていく。

 飢餓の化身の能力が何であれ、その攻撃の大部分は触手が担い、また足は地に着く。ならば、回避が制限される空中に誘い込み、【深淵渡り】で間合いを詰めて一閃を浴びせる。

 地面に潜らせた黒剣の襲撃。飢餓の化身は軽やかに踊って躱し、ランスロットに3本の触手を向かわせる。受け流すまでもなく躱したランスロットは、足裏で感じ取った微かな振動から即時に後ろに退き、地面から突き出す4本の触手もまた避ける。

 あの一瞬の間に4本の触手を地面に潜らせ、足下から奇襲攻撃を仕掛けてきた。ランスロットは四肢の黒光を爆ぜさせて加速を得れば、触手の連撃と槍衾に挑む。

 地面から続々と伸びる赤黒い光の槍は立ち止まれば全身を串刺しにされ、触手は剛槍の如くその身を刺し貫くだろう。硬質化した羽毛のような触手は触れれば血肉を削り取るだろうが、デーモンとなったランスロットならば数撃程度ならば十分に耐えられる。

 至近距離での黒雷の槌。絶大な破壊力を秘めた黒雷を直接握って叩きつける。黒雷自体はもちろんであるが、地面に触れて爆ぜる黒雷もまた高い殺傷能力を持つ。その身に鎧を纏わず、戦など知らぬ乙女のような白い柔肌ならば軽々と消し飛ぶに足る威力であるが、飢餓の化身は鬼ごっこでもするかのように楽しそうに笑って大きく跳び、黒雷の槌の攻撃範囲から脱する。

 跳躍が大きい。ランスロットは見逃さず、瞬時に【深淵渡り】で飢餓の化身の上空を取る。触手を使って体を引っ張る時間を与えず、また武器も防具も持たない飢餓の化身では斬撃を受け流すことはできない。

 だが、ランスロットが【深淵渡り】した先の視界に飢餓の化身の姿は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「捕まえた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、まるで鬼ごっこでもしていかのような、遊びに興じる子どものように、【深淵渡り】をしたランスロットの『背後』から飢餓の化身は抱き着く。その細い腕がランスロットの首に巻かれ、引き寄せるような抱擁に変じる。

 ランスロットの体内から悲鳴の爆発が起こる。最後の深淵狩りが使っていた異質の武器と同じ、まるで若い娘の苦痛に満たされたような……紫色のエネルギーを帯びた闇の悲鳴。それが連続でランスロットの体内で爆発し、彼のデーモンとなった体が綻びる。

 黒剣を飛来させて飢餓の化身を狙えば、あっさりとランスロットを解放し、黒剣の全てを軽やかに躱した挙句、最後の1本……その柄を『掴み取る』。射出されたスピードを飼いならすように腕を振り回し、そのままランスロットに投げ返すも、さすがに己の攻撃に当たる間抜けではないと彼の直前で黒剣は闇となって霧散する。

 代償は大きかった。デーモン化した体は再生され、秒単位で修復されているが、傷が塞がるまでの間は多量の血が零れ落ちる。また、今の悲鳴の連撃で聖剣の加護を大きく剥がされてしまった。だが、ランスロットは支払いに足る分の成果は得られたと聖剣を振るって己の傷を良しとする。

 どうして空中で飢餓の化身がランスロットの背後を軽々と奪えたのか。それは舞い散る火の粉が教えてくれる。

 8枚の翼を思わす触手から噴き出すのは赤い血。だが、それらは焔火を宿し、推力となって飢餓の化身の体を浮かせ、また超加速させる。

 

「ナグナとアンタレス。深淵狩りと魔女の末裔。その焔火をここに」

 

 炎を利用した浮遊と加速。前後上下左右関係なく、8本の触手のあらゆる場所から噴き出す血は炎を吐き出し、飢餓の化身の小さく細い体を振り回す。だが、その炎を推力として操る飢餓の化身は嬉々と宙を舞い、闇の翼で滑空するランスロットと並行する。

 右への超加速からの左への超加速。驚異的なフェイントからの回り込み。光波で距離を取らせるも、紫光の刃の連撃は空中でダンスでも踊っているかのように躱されるどころかそのまま接近を許し、ランスロットの頬を飢餓の化身の左手の指が撫でかける。

 だが、それはランスロットの読みの範疇。既に黒雷の槍を空に投じていた。上空より降り注ぐ黒雷の槍の雨に、飢餓の化身は対処を強いられる。

 

 

 

 

「アナタ、雨……好き?」

 

 

 

 

 そして、黒雷の槍の雨は『掻き消された』。

 最後の深淵狩りが黒雷の大槍をカタナで斬り消したのと同様に、無数の黒雷の槍の雨を触手の先端で全て斬り消したのだ。魔法などはある1点……核とも呼ぶべき部位を攻撃すれば霧散させることができることはランスロットも熟知している。だが、1本の黒雷の大槍ならばともかく、飢餓の化身は数多と降る黒雷の槍の雨……それらの核を1本残らずに8本の触手で見もせずに刺し貫いたのだ。

 飢餓の化身は右手の人差し指を躍らせる。途端にランスロットの全身が動かなくなる。いつの間にか彼の四肢は等しく銀色に光る糸によって拘束されていた。

 

「レギオン。聖夜の怪物。その水銀をここに」

 

 触手から伸びていた無数の糸。それは水銀であり、ランスロットの全身を縛り上げる。その四肢と首を引っ張り、千切り取ろうとする。

 だが、パワーが足りない。黒光を爆ぜさせて容易に水銀の糸を破る。飢餓の化身は目を見開き、ステップを踏んで距離を取ろうとするが、ランスロットは配置していた黒剣を射出させ、回避ルートを絞らせ、更に連続光波で逃げ道を奪い、そのまま月光突きの間合いまで引き込ませる。

 紫光の奔流を纏った聖剣の一突き。だが、これを飢餓の化身は身を翻して躱しきる。だが、これもまたランスロットは回避されると確信していた。だからこそ、迷いも焦りも無く、噴き出す奔流を散らしながら、更に大きく踏み込む。

 触手も炎の加速も間に合わない。振り下ろされた聖剣の切っ先が飢餓の化身の鼻先を掠める。更に追撃をかけようとしたランスロットだが、足下から伸びた赤黒い光の槍が攻撃を中断させる。

 惜しかったか。距離を取ったランスロットは聖剣を構えて仕切り直す。こうして離れてみれば、飢餓の化身の周囲に薄い水銀の霧が漂っていたことが分かる。あの霧の範囲内では、自由自在に水銀に形を与えることが出来るのだろう。下手に間合い内に留まり続ければ、先程のように一瞬で拘束される危険性がある。また水銀はじわじわと侵蝕する作用もあるらしく、まるで毒のように体を蝕む。

 一方で、飢餓の化身は能力の併用が出来ないこともランスロットは見切っていた。いや、『まだ』出来ないといった方が適切なのだろう。

 慣れない道具の扱いを1つ1つ成熟させていく最中のようなものだ。時間をかければ……こうして戦う1秒毎に成長し、触手の精度も上昇し、いずれは能力の併用も可能になるだろう。時間をかければかける程に飢餓の化身は手に負えないバケモノに成長していく。

 聖剣を輝かせて踏み込み、そこから回転斬りで円刃となった光波を放つ。自身を中心にして周囲に拡大する光波に、飢餓の化身は軽やかに跳んで躱し、火炎を吹かせて自在に宙を舞ったかと思えば、まるで祝福でも施すかのようにその右手をランスロットに伸ばす。迎撃しようと黒剣を自身の周囲に展開し、更に黒雷の大槍を構えたランスロットに触手が殺到し、投げる機会を逸する。

 黒雷の槍は全て掻き消され、黒炎のメテオは放った先から赤黒い光の槍が盾となり、黒剣は触手で受け流され、間合いを詰めようとすれば水銀の霧が糸や刃となって迎撃する。光波は幾度かその細身に触れそうになるも、いずれも軌道を読み切られ、まるで踊るように避けられる。

 溢れる血と炎が飢餓の化身を浮かばせる。そして、その右手を大きく振り上げれば、水銀の糸が刃となって渦巻く。

 能力の併用。決定打を入れられない内に、恐るべき速度で習熟していく飢餓の化身は祝福でも施すかのように微笑みながらランスロットに右手を伸ばす。水銀の糸はランスロットに襲い掛かるも、彼は闇の翼を広げて舞い上がり、黒剣で迎撃して千切りながら接近を試みる。

 水銀の刃は鋭いが一撃は軽く、また触手も十分に聖剣で弾ける。水銀の霧の範囲内に入り込んでも一撃離脱ならば問題ない。その細身を聖剣の一撃で断つ。すれ違い様に胴を薙ぎ払ったランスロットを温かな血飛沫が染める。

 

「……底知れぬ奴だ」

 

 だが、それはランスロットの胸より飛び散った血だ。すれ違いの一瞬、飢餓の化身の両手の指を水銀が覆い、鋭い爪を形成したのだ。それは指の倍ほどの長さもあり、容易くランスロットの胸を抉った。

 まるで固体化しているかのような水銀の爪に滴るランスロットの血を飢餓の化身は口の中に滴らせる。白桃のような魅惑の唇が赤く染まり、赤い舌が勿体なさそうに唇に付着した血を舐め取る。

 

「古狼。深淵狩りに仕えた狼血。その牙をここに」

 

 炎で浮遊しながら飢餓の化身が呼びかければ、血溜まりが泡立ち、現れたのは白い霊体の狼の群れだ。そのいずれも瞳は赤く染まり、飢餓の化身に隷属する。

 次々と喰らい付かんと牙を剥く狼たちを光波で切断し、黒光の蹴りで飛びかかる数体を纏めて粉砕し、黒雷の大槍で最後の1体を刺し貫くどころか消滅させる。だが、どれだけ破壊しても血は泡立って狼は増え続ける。

 首だけになろうとも、胴体が真っ二つになろうとも、肉団子のように潰れようとも、血が修復し、また生み出していく狼たちはランスロットには劣るが、尋常ならざる速度で牙と爪を存分に振るう。だが、数に圧されて後れを取るランスロットではなく、聖剣を振るえば放たれる紫光の刃と黒炎を用いて瞬く間に駆逐していく。

 

「ウーラシールのレガリア。継がれた錬成の秘儀。その武具をここに」

 

 飢餓の化身の周囲に無数の武具が出現し、それはランスロット目がけて射出される。剣、カタナ、槍、斧、戦槌、鎌と無数の武具が飛来し、突き刺さった場所から更に新たな武具が出現していく。

 黄金の光を帯びた槍が空から降り注ぎ、大地に付き立つと同時に新たな槍が伸び、更に枝を伸ばすように刃が次々と伸びる。その鋭き先端を避け抜く為に闇の翼で滑空し、そのまま回転斬りで跳び込む。黒剣を自身の周囲に円陣を組ませ、攻防一体になった突進攻撃。軽やかに躱されるも、瞬時に黒剣を放ち、至近距離から狙い撃つ。だが、飢餓の化身の周囲に水銀の糸が渦巻き、黒剣の軌道を触手と合わせて巧みにズラす。

 水銀は鎌を形作り、その手に握った飢餓の化身は流麗に振るい、ランスロットに肉薄する。それはトリスタンの奥の手である大鎌の武技をベースとした、だが、もはや異形と化したほどに暴虐に変じたものだ。

 数秒の刃の巡り合いを経て、ランスロットの全身から血が噴き出す。裂かれた部位は20以上にも及び、その内の7つは捌き切れないと許容したものだが、残りの13は『見切れなかった』斬撃だ。

 自分の剣技も体術も『喰い尽くされた』とランスロットは直感する。全ては動き出す前に見切られ、誘導され、テンポを狂わされ、出鼻を挫かれ、丁寧に1つ1つ潰されていった。黒剣は召喚した瞬間には触手によって叩き落される。光波だけは躱さねばならないようであるが、紫光の刃は掠ることなく、見切り尽くしていると証明するようにわざとらしく紙一重で避けられるばかりだ。

 ランスロットの血を啜った水銀は再び糸へと変じ、狼を召喚する飢餓の化身はふわりと跳び、蜘蛛の巣のように世界に今も広がり続けている水銀の糸に腰かける。

 召喚された狼たちの動きが変じる。黒剣すら軽やかに躱し、秒単位でランスロットへの対応が洗練されていく。飢餓の化身からランスロットの『殺し方』を学んだかのように、光波も、黒炎も、黒雷も、黒光さえも躱されていく。

 肩に、腹に、腕に、足に狼の牙が食い込む。そのままデーモン化して肉体と同化した甲冑を喰い破ろうとする。だが、ランスロットは全身から黒光を爆ぜさせて狼を消し飛ばす。

 

 

 

 そして、ランスロットを照らすのは『槍』の輝きだった。

 

 

 

 月無き夜空に舞う飢餓の化身が右手に握るのは赤黒い光の槍。それは身に巣食う殺意を凝縮したかのように荒れ狂った光を凝縮させている。ランスロットは即座に黒雷の大槍を放つも、水銀の糸が黒雷の大槍を放った傍から『消す』。もはや黒雷の槍の核は見切られ、撃ち出したその場で消滅させられたのだ。

 放たれた赤黒い光の大槍。躱す為に【深淵渡り】を使おうとするが、いつの間にか周囲に張られた水銀の糸が網となって転移条件であるランスロットの体積が通れる空間を削り尽くしている。

 光波を重ねた聖剣斬り。赤黒い光の槍と衝突し、両断するかに思えるも、触れた途端に赤黒い光の槍は炸裂する。爆発に呑まれたランスロットは地面を転がり、あの槍が貫通を目的としたものではなく、爆弾のように扱われたものだったのだと悟る頃には、彼を背中から無数の両手剣が刺し貫く。召喚される数多の武具が怯んだランスロットに殺到するも、光波の連撃で弾き飛ばし、あるいは切断して切り抜けるも、足下から伸びた赤黒い光の槍が右膝を潰し、体勢が崩れる。

 光波で抜け道を作り、【深淵渡り】で脱するも、出現した途端に槍の如く伸びた触手がランスロットの左肩を削る。胸を刺し貫くはずだった一撃を受け流せたが、潰れた膝の再生が間に合わず、ランスロットは片膝をつく。

 

「これ程とはな……甘く見たか」

 

 飢餓の化身は瓦礫の山の頂上に降り立ち、砂糖菓子よりもなお甘い蕩けるような笑みを浮かべる。

 善悪正邪はそこに存在せず、純然たる愛情と飢餓だけが混沌と溶け合っていた。

 もはや理とも呼ぶべき存在。飢餓の化身に対して、ランスロットは半ば畏敬に近しい念を覚える。だが、己に敗北を許容する弱音などなく、また窮地にあってもランスロットには微塵として揺るがぬ意思があった。

 忠義の騎士であれ。ランスロットは不退転の決意で最後の切り札を呼び覚ます。

 

 

 

「今再び来たれ。我が愛剣よ」

 

 

 

 ランスロットが呼びかけるのは、右手に握る聖剣ではなく、左手に収まるべき相棒。

 深淵狩りであった頃から彼と共にあった剣。それは良く鍛えられた武具に過ぎず、だが名工の業によって激戦の度に鍛え直され、数多の深淵の怪物を討ち果たしたことによって深淵殺しの力を宿し、そして最後は主と共に闇へと堕ちて魔剣と成り果てた深淵狩りの大剣。

 即ち、闇濡れの大剣である。ランスロットが己の影……投影された深淵より引き出した剣は、聖剣以上に彼の手によく馴染む。

 

「黒光よ」

 

 そして、闇濡れの大剣に黒光が収束して刀身を保護し、まるで聖剣が宿す紫光の大刃の如く、黒光の大刃を形成する。

 

 

 

 

 

 それは『二刀流』。紫光の聖剣と黒光の魔剣、2つの刃を手にしたランスロットの極致がついに明かされる。

 

 

 

 

 微かにだが、飢餓の化身の表情に歪な『何か』が映り込む。

 それは愛着、あるいは執着。だが、その揺らぎを見逃すことなく、ランスロットは一息と共に片膝付いた我が身を動かす。

 安易な【深淵渡り】は狩られる定め。ならばこそ、求められるのは持てる武技の全てを駆使し、あらゆる奇策を用いて渾身の一撃を刻み込むことのみ。

 黒剣を展開。その全てを攻撃ではなく、自身の周囲に円陣を組ませ多防御に特化の構成。飛来する刃の全てを迎撃できる飢餓の化身に対して誘導攻撃ではなく、攻防一体となるこの黒剣陣形こそが最適解とランスロットは判断する。

 縦横無尽に空間を支配する8本の触手。それら全ての軌道を見切り、ランスロットは紫光と黒光を煌かせ、刃の渦で立ち向かう。

 聖剣が輝けば紫の光波は放たれ、黒光が深みを帯びれば残滓が黒炎と黒雷に変じる。切断力に優れた光波は飢餓の化身も回避するしかなく、その刹那の縫い目に黒炎と黒雷を割り込ませて道を切り開く。

 それはランスロットが今まで見せたことが無い戦法。それ故に飢餓の化身の学習の範囲外。だが、それも秒単位で学び取られているならば、活路はただ1つ。

 自らもまた飢餓の化身の学習速度に勝るとも劣らぬ速度で強くなれば良い。ランスロットは何の迷いもなく己ならば出来ると信じて剣を振るう。己の忠義が折れることなどなく、故に不退転の先にあるのは勝利以外になく、故に飢餓の化身を討つという1点に集中する。

 水銀の糸が張り巡らされる。だが、ランスロットは白の深淵狩りが先に使った真紅の混沌の火の如く、黒光の大剣より黒炎を靡かせて水銀の糸を焼き払う。また、聖剣が零す紫光の粒子は黒雷を帯び、ランスロットの身を守る繭となる。

 本来ならば数多の攻め手を有するはずのランスロットが、己の剣技に集中する為だけに全能力を結集させる。それは死地と呼ぶべき触手の攻撃範囲内であっても彼を怯ませることなく、むしろ1歩ずつ距離を詰めさせる。

 飢餓の化身がステップを踏み、地面に無秩序に広がる血の海に波紋が生まれる。飢餓の化身は何も足を止めねば触手を十全に扱えない訳ではない。本体が動けば触手もより変則的となり、また間合いを詰めることは困難となる。

 次々と召喚される武具がランスロットへ肉薄する。突き刺さった武具は新たな武具を召喚する。1歩でも足を止めれば血溜まりより伸びる赤黒い光の槍によって串刺しにされる。だが、ランスロットは元より止まる気などなく、飛来する武具の全てを弾き、叩き落とし、逆に光波で牽制をかけたところで黒光の大剣の一突きを穿つ。放たれた黒光は一直線に伸びる槍の如く突きを伸ばし、飢餓の化身を掠める。

 

「…………」

 

 顔を潰すつもりの一撃であったが、成果は頬を僅かに傷つけるのみ。鮮やかな血が傷口から滴り、飢餓の化身は白く細い可憐な指で頬から垂れる血を拭い取れば、これまでになくランスロットに対して殺意を向ける。

 それは傷つけられたことに対する怒りではなく、むしろ歓喜だ。より上質な獲物と巡り合えた捕食者の悦び。

 凄絶なる攻防は両者の刹那にも満たぬ先読みと見切りの応酬。

 未来予知どころか運命操作なのではないかと疑うほどにランスロットの一挙一動はおろか、思考の欠片さえも先んじているように攻撃と回避と防御を完全に同時並列させる飢餓の化身は、触手と水銀の糸による手数、豊富な能力による搦め手、炎で得た推力を用いた3次元機動でランスロットを狩らんとする。

 対するランスロットは名も無き戦士として、深淵狩りとして、裏切者として、そして忠義の騎士として歩んだ数多の戦場、そして強敵と戦友との経験と隔絶した武の才覚によって飢餓の化身の動きを見切る。防御に偏重させた黒剣、聖剣と魔剣の二刀流、そして今まさに彼が纏うのは形を成した深淵……ゲヘナの影だ。

 二人羽織の如くランスロットを背後から守護するゲヘナの影に、彼の忠義に報いたゲヘナの意思はない。だが、深淵とは……闇術の目指す先とは……人間性の定めとは……生命であり、仮初の意思をもたらすのであるならば、今まさにランスロットを守護するゲヘナの影は、忠節を尽くした騎士に報いるべく祝福を施したかの如く、聖魔の二刀流の騎士を加護する。

 ゲヘナの影が無数と手を伸ばし、黒炎を生じさせて放つ。それは1つ1つが薄くなるほどに高速回転し、まるで手裏剣の如く飢餓の化身に襲い掛かる。黒炎の手裏剣は容易く大地を、建物の残骸を、そして水銀の糸を切断する。触手を用いて防ぎにかかるも、飢餓の化身は最初の1本が黒炎の手裏剣に接触した時点で回避に切り替える。

 切断からの着火。ガード不可の黒炎攻撃。黒炎で燃え上がった触手をパージする様に別の触手で切断し、即座に再生させようとするも、ランスロットは圧倒的攻勢から僅かに傾いた防護の兆しを見逃さない。聖剣と魔剣の乱舞は、紫の光波を咲き乱らせ、黒炎を靡かせ、黒雷を迸らせる。それらの中で黒剣全ては四方八方から迫る全ての攻撃に対処し続ける。

 紙一重。あわや魔剣が飢餓の化身の胴を両断する間際に、淡い光を帯びた白髪は夜風に濡れながら揺れ、軽やかに斬撃を躱す。だが、それは今までとは異なる次なる攻撃に繋げる回避ではなく、『回避させられた』緊急行動であったことは明白。ランスロットは瞬時に防御に回していた黒剣全てを攻撃に転換させ、威力を重視せずに連続射出させる。

 真紅の炎が放出され、飢餓の化身が水銀の糸を舞わせながら黒剣の攻撃を宙で避ける。本来ならばランスロットにこれ以上の追撃はできない。だが、仮初の意思を持ったゲヘナの影は、ランスロットの戦略を補完すべく、黒炎の手裏剣で追撃をかける。

 大きく見開かれた飢餓の化身の右目、そこに蠢く7つの瞳は忙しなく動き、獰猛に笑みは描かれる。

 

(触手を『捨てた』か!)

 

 躊躇なく、何の迷いもなく、黒炎の手裏剣を躱しきれないと判断した飢餓の化身は8本の触手を盾にして黒炎の手裏剣を防ぎきる。

 それは攻撃力と機動力の低下を意味する。だが、飢餓の化身は迷いなくランスロットに接近し、水銀で形作った鎌を振るう。

 たとえ二刀流でも捌き切れるか危うい飢餓の化身の大鎌。だが、今のランスロットは自分が1つとして傷を帯びぬという不動の自信が宿る。

 

「ゲヘナ!」

 

 たとえ、仮初であろうとも、これは主の守護であるならば、一切の不信なく身を委ねるは騎士の本懐。ランスロットに応えるように、ゲヘナの影が伸ばす無数の手は黒雷の槍を握り、投擲ではなく刃を重ねる為に振るわれる。

 黒雷が弾け、火花が散り、紫光と黒光が咲き、水銀が夜を彩る。数十にも及ぶ黒雷の槍とランスロットの二刀流。防御不能の光波と神速の黒光攻撃を織り交ぜた激突は、僅か10秒にも満たなかった。

 上回ったのはランスロットだった。10秒の間に、先は超えられなかった飢餓の化身との近接戦を制するまでに成長を遂げる。飢餓の化身が『喰らう』速度を完全に追い越し、ランスロットは再び1つの優位を取り戻す。

 触手を再生させる時間は与えない。封じていた【深淵渡り】で間合いを潰しにかかる。今までならば先読みで潰されていたが、今はゲヘナの影が対処しきれない攻撃から彼を守る。深淵の闇に塗り潰された、女の輪郭を微かに残すばかりの闇に塗り潰されて膨れ上がった影の異形によって、飢餓の化身は攻め切れない。

 だが、飢餓の化身はむしろ楽しくてしょうがないように無邪気に笑う。遊びに全力でのめり込むように、飢餓の化身の攻撃は苛烈さを増して成長していく。ゲヘナの影にも秒単位で対応し始め、数十あるはずのゲヘナの腕の半分はもはや飢餓の化身は脅威と映らぬようにあらゆる攻撃が意味を成さなくなる。

 ならばこそ、ランスロットは先読みを無効化する手段を瞬時に実行する。ゲヘナの影は黒炎を纏い、完璧な攻防一体の鎧となる。これによってランスロットを傷つけるには正面から彼の聖魔の二刀流を超える他にない。そして、そこにはゲヘナの影による援護も加算される。

 射出される無数の武具。突き刺されば新たな武具が召喚される。ならばとランスロットはゲヘナの影に全て掴ませて投げ返す。射出される武具は次々と投げ返された武具によって迎撃され、突き刺さって新たな武具が召喚されてもランスロットには対処可能な範囲で収まる。

 血より湧き上がる狼の群れ。ランスロットの動きに対処出来ていたのは過去の話。黒光の魔剣を突き立て、ランスロットは地より黒炎の嵐を吹き荒らす。無数の黒炎の火柱が狼が生まれた途端に消し炭に変えるのみならず、それは彼の次なる攻めに転じるべく、黒蛇となって大地を走る。

 だが、傷つけること叶わず。黒蛇に囲われ、黒炎手裏剣と光波と黒光の槍で狙われながらも、飢餓の化身はまるで秘密の抜け道を知っているように躱しきる。かつては噴水を飾ったのだったのだろう、水瓶を抱く女神像の頭部に着地し、ランスロットを見据えている。

 

「やはりな」

 

 静かにランスロットは己の勝機を見出す。

 今までになく、飢餓の化身の顔に余裕はなく、息が荒い。苦しんでいるように顔を微かに歪めている。ランスロットの攻撃を避け続けることが至難だからではない。

 

「お腹……お腹……空いた……もうヤダ……食べる……食べるぅううう!」

 

 まるで駄々をこねる子どものように、飢餓の化身は頭を抱えて叫び、黒炎によって焼かれて再生中だった触手が変異する。

 それは怪物の顎。それぞれが独立した飢餓の牙となる。醜悪に分かれた顎からは糧を求めて涎を滴らせ、際限ない再生と崩壊を繰り返している。

 倒す為の鍵は最初から提示されていた。ランスロットは自分の剣が勝機を切り開いたと確信する。

 

(飢餓の化身。終わりなく、そして膨張し続ける殺意の空腹。想像することも出来ぬ地獄の責め苦のはず。そこから来る凶暴性はまさしく飢えた獣であり、獲物を仕留める嗅覚が未来予知にも匹敵する直感となる。だが、それと『絶食』による疲弊は別だ)

 

 ランスロットは十二分に理解し、また敬意を払って、白の深淵狩りは、これ程までの……世界を喰らっても足りぬ飢餓をよくぞ内に抑え込んでいたものだと賞賛する。だからこそ、彼はこの飢餓感を長きに亘って満たそうとしなかったはずだとも見抜けていた。

 腹が減って戦ができる道理無し。それはまた狩りも同様だ。飢えた者は恐ろしく強い。だが、飢えて痩せ細って干乾びた獣が狩りを成すだけの体力を残せているだろうか?

 白の深淵狩りは幾重の戦いを超えて疲弊した状態で、なおかつランスロットとの戦いにおいて満身創痍どころか自らを燃やし尽くす勢いで……いや、1度は完全に崩れたものを立て直して再度挑んできた。それだけの疲弊が消え去ったわけではない。何よりも、飢餓が強まるばかりで何も口にしていなかったその本性は、皮肉にも白の深淵狩りが枷を外したばかりに均衡を失ってしまった。御するだけの意思が失われてしまったのだ。

 幼子に我慢はできない。幼き無邪気を持つ殺意の塊であるが故の弱点。飢餓の化身を追い詰めているのは、ランスロットの戦略眼で誘発させた絶食状態による失速なのだ。膨れ上がる凶暴性と鋭敏になる直感に相反し、その能力を使う為のキャパシティは時間経過と共に低下している。空腹状態で歩いていた所に走るのを強要すれば、必然と損耗が著しいものになる。飢餓感による過ぎた凶暴性を突いたランスロットの策だった。

 ここに飢餓の化身の腹に収まる……その殺意が呑み込む『餌』はいない。ランスロットを倒す他にない。故に飢餓の化身が食事する為にはランスロットを仕留める他にない。そして、ランスロットは飢餓の化身が餌を求めて移動しようとするならば、その隙を確実に突けるだけの実力があった。

 

(加えて飢餓の化身は『まだ』己の能力を掌握しきれていない)

 

 ランスロットの怒涛の攻めによって一時的にでも防戦に回せた成果として、飢餓の化身が力を使いこなすには時間が必要だとも把握した。そして、それはランスロットとの戦いで急速に掌握されつつあるも、『まだ』猶予があった。

 火を育てるには時間を要する。薪を焚べてもすぐには燃え上がらない。じわじわと燃焼し、ようやく大火へと育つのだ。

 ならば火種の内に踏み潰して消してしまえば良い。ランスロットは迷わない。たとえ、相手が始まりの火すらも喰らい尽くす怪物だとしても、彼にとって忠義は不動にして絶対であり、あらゆる世界の理の外にある意思なのだ。

 ゲヘナの影を纏い、聖剣と魔剣を携えたランスロットの姿はまさしく人間性の正当なる後継者である闇の王にして、世界をあまねく照らすに足る薪の王であり、デーモン化した姿はまさしく混沌の火の真なる継承の形だった。

 たとえ唯一無二の真なる聖剣を携えずとも、忠義の証明たる紫光の聖剣がその手にある限り、敵と友をあまねく切り捨てた闇濡れの魔剣が握られる限り、彼はたとえ世界を喰らう飢餓の化身であろうとも恐怖に屈するなどあり得ず、またその心臓に刃を突き立てる他の闘志は無い。

 

(だが、俺でも上回れるのはせいぜい夜明けが来るか否かの頃合いまでだろう)

 

 また、ランスロットの予想外のこととして、飢餓の化身は空腹を満たすべく触手を変異させた点があった。それは分離し、餌を求めて地をはいずり回る。瞬時に放った黒炎を纏った黒剣によって7体の分離触手の滅却に成功するも、1体には逃れられる。

 勝機の糸はか細い。空腹を僅かでも紛らわせる程度の『餌』にありつければ、すぐにでも飢餓の化身は本調子に戻るだけではなく、己の力の掌握速度も飛躍的に上昇するだろう。そうなれば睨んだタイムリミットも大幅に削られる。

 また、ランスロットの聖剣の加護も限界に近しい。あと一撃でも浴びれば聖剣の加護は剥がれ落ち、デーモン化も解除されるだろう。そうなれば、飢餓の化身を追い詰める方法は困難となる。

 ならば元より一撃と浴びずに倒しきれば良いだけのことだ。ランスロットは迷いなく聖魔の二刀流に黒剣の守護陣を組み合わせ、飢餓の化身の討伐に忠義の意思を示す。

 もはや触手を再生させない。生み出すのは水銀の鎌1本。今の飢餓の化身に微笑みなどなく、飢えて狂ったケダモノの凶貌があった。

 

「……っ!」

 

 故に超越する。他の能力を捨て、水銀の鎌だけに特化させた飢餓の化身は、容易くランスロットの生と死を分かつ境界線に踏み入る。ゲヘナの影の防衛が無ければ、鎌の一閃が首に食い込んでいただろう。

 至極単純な対策。能力を扱うだけのキャパシティが低下したのならば、高まる飢餓感で更に強化された先読みを最適最強に扱える近接攻撃にだけ全戦闘能力を結集させる。飢餓の化身は苦痛と愉悦を同居させた笑みを描き、ランスロットの血肉を求めるように鎌を乱雑に、だがその実は1つ1つが誘導・防御・攻撃の3拍子を備えた連撃を繰り出す。

 だが、近接攻撃に偏重したならばランスロットにも戦い方がある。距離を取り、黒剣を放とうとした瞬間、彼は今までの経験からそれこそが誘導であると経験に基づいた判断を下す。そして、それは正答であり、鎌から伸びる水銀の糸が密やかにランスロットの周囲に張り巡らされていた。

 仮に【深淵渡り】を使おうとすれば不発となり、その隙は間違いなく正面からランスロットに一撃を食い込ませていただろう。そして、飢餓の化身の狙いはランスロットの撃破と並行して分離した触手による『餌』の獲得にあるだろう。

 倒れるのはどちらが先か。ランスロットは戦士としての高揚はなく、かつて深淵狩りとしてそうしたように、怪物退治に挑む冷徹にして静謐なる闘志を燃やした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ふざけ……ないで!」

 

 拳で石畳を殴り、シノンは身を浸す殺意に反旗を翻す。

 まるで重力が何十倍にも膨れ上がったように身動きが出来なくなったシノンが動けるようになったのは、今にも閉じそうな眼に1つの光が描かれたからだ。

 それはリーファの翅の輝き。彼女がシリカの手を掴み、舞い上がっている姿だ。

 まるで石化したように、温かい殻に閉じこもって外から迫る死から目も耳も塞ぎたくなる弱気に喝を入れ、シノンは唇を噛んで再起する。

 ようやくここまで来たのだ。ようやく勝利が目前に迫っているのだ。何処の誰が邪魔をしているのか知らないが、ここで屈するわけにはいかない。

 怪我の功名か、外側から食い荒らすような殺意はオベイロンにも恐怖心を植え付けたようであり、巨神は完全に静止している。

 オベイロンはUNKNOWNと賊王であるシノンの排除の両方を狙って攻撃をばら撒いていた。だが、今のオベイロンは完全に沈黙している。そして、シノンがリーファやシリカに鼓舞されたのとは違い、オベイロンには心を奮い立たせる繋がりは無い。

 胸に抱いたのは哀れみだった。オベイロンには味方がいない。その心を恐怖から解き放ってくれる者は誰もいないのだ。

 

「狙撃ポイントに……移動しないと……私が……私じゃないと……出来ないこと!」

 

 デスガンが確保して準備してくれているだろう狙撃ポイントに移動せねばならない。だが、抜けきっていない恐怖心が足を解れさせる。

 まるで蜘蛛の巣に捕らわれているかのように体の自由が失われた感覚だ。指先から踵まで恐怖心が根を張っている。それはリーファ達に奮い立たせてもらった心でも振り払いきれない、どうしようもない死への恐怖心だ。

 いや、違う。これは単純な死への恐れではない。自分が絶対的な捕食者にとって餌に過ぎないという、心の芯を腐らせて折ろうとする諦観を帯びた恐怖なのだ。

 

「負けない。負けたくない!」

 

 いつも負けてばかりだ。母を守る為に銃を手にした時からシノンの心は敗北に囚われている。

 能動的殺意。殺してでも守る。この手を血で汚しても、守りたい人がいる。今も微動して過ぎた痛覚に浸されて意識を手放す寸前の竜の神……それを操るUNKNOWNの背中を守りたいと望む。

 だが、その為ならば何処まで犠牲に出来る? シノンは震える右手に、目的を成す為ならば、何処まで切り捨てられるか、誰まで撃てるのかと己に問う。

 

『……驚いた。動ける、ようだな』

 

「そっちこそ無事みたいね」

 

 連絡用のインカムに、同じく理解の範疇を超えた殺意に支配されていただろうデスガンの声が届き、シノンは我に返り、歩みを再開する。

 

『「あの御方」に助けて、いただいた。多少は体も動く。狙撃ポイントは確保した。援護に向かう。オベイロンが動けない今こそチャンスだ』

 

 デスガンが立ち直れたのは別の救援のお陰らしく、それは彼にとって敬うべき対象のようだった。シノンはこの戦いの裏で暗躍する存在に奥歯を噛み締める。

 自分たちの戦いは何を意味するのか。そんなことは勝利を得た後に考えれば良い。だが、自分たちは何者かによって観察され、利用され、誘導されているというという事実が鼻を突く。そして、その思惑こそが自分の目指す勝利への道なのだから始末に負えないのだ。

 

「あとはリーファ達に期待するしかないわ。彼が動き出せば、今のオベイロンのバリアを破るのは難しくないはずよ」

 

 反乱軍はもちろん、オベイロンも含めて、もはや策を残す者たちはいない。もはや精神力の戦いなのだ。

 1歩を諦めて倒れるのは簡単だ。だからこそ、1歩、また1歩、もう1歩と自分の心に鋼の釘を打つ。

 デスガンが確保してくれた、巨大レギオンや神と神の激突で続々と崩落した回廊都市において、まだ辛うじて崩落していない円柱状の塔にたどり着く。表面は今も剥離しているが、この頂上ならば確かにオベイロンに一矢報いるには絶好の狙撃ポイントになるだろうとシノンも納得する。

 竜の神の影響で強化されたジャンプ力。そして、シノンの身体能力を活かせば、内部の階段をわざわざ使わずとも外壁から頂上にたどり着けるだろう。彼女が膝を曲げて今まさに跳躍しようとした時、彼女の背後の瓦礫が土煙を上げて雪崩のように転がる。

 

「本当に……何なのよ!?」

 

 途端に背筋に喰らい付いたのは、全身を蝕んでいた殺意をより濃縮した存在感。振り向かずにはいられなかったシノンが目にしたのは、およそ尋常ではない怪物だ。

 顎の怪物。食虫植物を思わす割れた大顎そのものが蛇のように、あるいは芋虫、もしくは無形の軟体の如く、血を撒き散らしながら這っていた。顎の内側には牙が並び、だが口内の奥底は粘質な血によって満たされ、それが止め処なく涎のように体外へと零れ落ちている。そして、顎の中には1つの……まるで獣狩りの夜に空を支配する赤い月を思わす瞳が目玉なく浮かんでいた。

 瞳はシノンを見つめ、やがて歓喜を示すように殺意で濡れる。

 シノンは直感する。この怪物の瞳と『本体』は繋がっている。そして、今ここで逃げなければ喰らい殺される。だが、まさかの遭遇に反応が遅れ、顎の怪物……いいや、大顎のレギオンと呼ぶべき存在は彼女に跳びかかる。

 

「ボケっとするな」

 

 彼女を間一髪で救ったのは、右腕からワイヤーを伸ばしながら降下したデスガンだ。彼は振り子のように地上に接触するか否かの宙を舞い、その勢いのままにシノンの細い腰を左腕でつかんで攫う。

 だが、大顎のレギオンは変異を開始する。その形が崩れ、無数の肉の触手となり、それは森を形成するように地面を侵食していき、発芽し、瞬く間に自由自在に蠢く不定形の肉塊となる。それらは一定の体積を保ったまま薄く、だが超スピードで拡大し、あっという間にデスガンの右腕と繋がったワイヤーにたどり着く。

 咄嗟にシノンはハンドガンを撃ち、デスガンと繋がったワイヤーを撃ち抜いて千切る。彼女の判断がコンマ1秒でも遅れていれば、デスガンの右腕まで肉膜がたどり着き、彼の腕はバクテリアに溶解されるが如く破壊されていただろう。

 代償として振り子の勢いそのままに地上へと激突して転がった2人であるが、並外れた猛者である彼らは体勢を即座に取り戻す……という本来の動きは成らなかった。

 絶対的な恐怖心と極度の疲労によって2人は無様に大地に伏せ、微動しながら身を起こす。そうしている間に大顎のレギオンは形状を更に変質させる。

 それは獣狩りの月の瞳を抱く触手の塊。まるでミミズの群れをみたような生理的嫌悪感と同時に言い知れぬ神秘がそこには潜み、故にシノンは直視を続ければ己の正気が失われるような危機感を覚える。

 

「あの瞳を狙え。あれが本体だ」

 

「言われなくても!」

 

 もはや2人の武装は残り少ない。デスガンはサブマシンガンを、シノンはハンドガンを乱射するも、触手を足代わりにして自在に動き回る瞳の怪物には弾丸1発として掠められない。ハンドガンはともかく、デスガンのサブマシンガンの乱射は相応の弾幕を張っているはずなのに、触手の塊は全ての弾道を先読みしているかのように軽やかに躱すどころか、2人のオートリロードのタイミングを見計らって槍のように触手を伸ばす。

 

「ぐごぉ!?」

 

 回避できたシノンとは違い、サブマシンガンの反動の分だけ身動きが鈍っていたデスガンの腹が触手で貫かれる。彼は咄嗟にレーザーブレードで触手の切断するも、突き刺さったままの触手が内側より彼を貪り喰らおうとする。

 デスガンから言い知れない恐怖心が漏れ出す。触手は溶けて形を失って変幻自在の肉塊となり、肉膜となってデスガンを傷口から『喰っている』のだ。

 言葉にもならない絶叫。正気の外へと引き摺り出される様に、触手の内に潜む瞳は心地良さそうに悦楽で揺れる。

 この触手の怪物は、一思いにデスガンを殺さずに嬲り、その絶望、苦痛、恐怖をスパイスにして、その上で丹念に極上の死に様を作るべく『調理』しているのだ。

 

「こんのぉおおおお!」

 

 これでハンドガンも撃ち止めだ。オートリロードを終えたハンドガンを乱射するが、触手の塊は1発として当たらないと言わんばかりに踊るように避ける。あっさりと弾切れしたハンドガンを捨てたシノンだが、その目的は時間稼ぎだ。

 再び乱射されるサブマシンガン。デスガンは未だ隠す不可視の攻撃によって自らの腹をレーザーで撃ち抜き、傷口ごと吹き飛ばすことで肉塊を排除したのだ。その代償は大きく、腹回りの肉が大きく吹き飛んでいるが、彼は雫石を取り出してHPの回復を図る。

 だが、サブマシンガンもあっさりと弾薬が尽きる。最後の抵抗を楽しんだように触手の塊は再び溶けて肉塊となり、大顎となる。あれに捕まれば最後、抵抗も許されずに嬲られ、その絶叫も恐怖も何もかもしゃぶり尽くされ、そして精神が崩壊する間際でようやく殺されるのだろう。

 あともう少しなのに、こんな所で……! シノンは両目に涙が滲み、視界が歪んでいく事実を否定しようとする。

 どうしようもなく恐ろしい。大顎のレギオンを前に、逃れられない死を直感し、彼女の右腕は力なく垂れる。

 自分が死ねば反乱軍の負けだ。だからこそ、彼女は絶対に死ぬわけにはいかない。負けられない。だが、この怪物を前にすれば、あらやる抵抗が無意味だと悟ってしまう。

 

(ごめんなさい。私……やっぱり、あなたの役に立てなかった。いつも、いつも肝心な時に私は……っ!)

 

 震える体を我慢できず、シノンは涙で濡れた瞼を強く閉じる。

 

 だが、瞼を閉じた暗闇に1つの炎を見る。

 

 それは懐かしく、今も郷愁の如く惹かれる思い出。

 

 終わりつつある街の周囲に広がる荒野にも似た平原。夜の寂しさを紛らわす焚火の明かりを囲う中で、鼻孔を擽るのは決して美味ではないと分かるスープの香り。

 

 生真面目に明日のレベリングの内容を提案するディアベルと≪料理≫も無く夕食作りに励むクゥリ。

 

 互いに何も知らないが故に、互いに踏み込まず、故に心地良かった日々。ただ闇雲に、我武者羅に、死と隣り合わせの世界を必死に生きようとしていた時間。

 

 もう戻れない。取り戻すことはできない。だが、だからこそシノンは振り返れば、多くの人々の温もりを感じる。

 

 今ここにシノンは『独り』で立っているのではない。彼女が背負うべきは反乱軍の命全てであり、仲間たちの期待であり、そしてUNKNOWNの信頼なのだ。ならばこそ、彼女は大顎を正面から睨む。

 

「私は……負けない!」

 

 右拳を握り、シノンは無謀だと嘲う自分を踏みつぶして大顎のレギオンに挑む。それは恐怖の踏破であり、もはや彼女を縛る恐怖心は無い。

 大顎の一撃を躱したシノンは、再び触手の塊に変じる一瞬を狙う。だが、拳のリーチが足りない。触手に潜む瞳は軽々と彼女の鉄拳を見切る。

 喰われる! 攻撃が届かなかったシノンは、それでも恐怖に屈せず、迫る触手を見据える。必ず打破する手段があると考える。

 

「山猫!」

 

 デスガンが放り投げた手榴弾にシノンは笑う。宙で繰り出した彼女の蹴りは手榴弾を捉え、そのまま触手の内部へと……その瞳へと押し込まれる。

 大きな炎が解放され、シノンの右足を巻き込みながら触手の塊を内側から爆裂する。粉々になった触手は再び結集して肉塊となろうとするが、核を成していただろう瞳はダメージを受けて崩壊する。

 もがき苦しむ瞳であるが、その最期は不思議な程に静謐を讃えて消滅する。それに合わせて触手も完全に形を失い、大地にこびり付く血となったまま、もう新たな肉を形成することはなかった。

 

「無茶をする女だ」

 

 爆破された右足は形こそ残しているが、もはや立っていられる程ではない。ダメージフィードバックも大きいが、それよりも大顎のレギオンを相手にして生き残れた安堵の方が大きかった。差し出されたデスガンの右手を掴み、シノンは今度こそ塔の頂上を目指す。

 デスガンに肩を貸されたシノンは、最後にもう1度だけ瞳が消え去った血溜まりを見つめる。

 手榴弾を押し込む間際、触手の瞳は……まるでシノンを応援するような……懐かしき日々で囲んだ火のような温もりを宿していたような気がした。それが触手の動きを鈍らせ、最後の攻撃チャンスを作ったようにも思えた。

 きっと勘違いなのだろう。シノンは雑念を振り払うべく、だが今ここで追及せねば何か大切なものを失ってしまうような気がして血だまりに近づく。

 

「急げ。オベイロンはいつ動き出すか分からない」

 

「え、ええ……そうね」

 

 だが、デスガンに急かされ、シノンは共に大ジャンプをして塔の屋上へと舞い上がる。今はあの瞳のことを忘れろと己に言い聞かせる。

 

「最後に1発、デカいの撃ち込んでやるわよ」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 拮抗が崩れたのは突然だった。ランスロットの攻撃を躱し続けていた飢餓の化身は、その身が傷つくことも厭わずに大きく跳び退く。

 やはり予想通り、心臓以外に攻撃を当てても倒すことはできない。だが、その身を大きく斬られた飢餓の化身は、自らが傷を負わねばならない理由を示すように、水銀の鎌を崩し、両手で頭を押さえる。

 

「食べる……食べる……シノンを……食べる……食べる? ち、違う……違う違う違う! 食べ……ない……『食べたくない』!」

 

 それは聞くに堪えない『嘘』と分かる否定にして拒絶。淡く光る白髪を乱らせる程に頭を振り、飢餓の化身は暴れ回る。

 ランスロットが与えた傷から血が零れ、飢餓の化身は牙を剥いて7つの瞳が収まる右目を大きく見開き、その右手を突き出す。

 

「アガドゥラン。不死廟の守護者。その闇をここに」

 

 新たな『力』を引き出そうとする飢餓の化身だが、その呼びかけに反して何も起きない。身構えたランスロットであるが、他でもない飢餓の化身が何も発動しないことに不思議そうに己の右手を見つめている。

 

「アガドゥラン……闇朧……ザクロ……ザクロ……どう、して?」

 

 キャパシティの限界? いいや、違う。ランスロットは攻撃を仕掛けようとするが、それより先に飢餓の化身はランスロットではなく、遥か向こう側……今は不動となった触手の巨獣へと視線を向ける。

 それは誘導ではない。ランスロットが視線を向ければ、そこには死したはずの巨獣が今まさに崩壊しながら最後の炎のブレスを解き放とうとしていた。

 ああ、そういう事か。射線上、あの攻撃がこちらに当たる事は無いだろう。だが、ブレスが解き放たれれば、巨竜とその周囲の反乱軍はただでは済まない。

 

「夜明け……『アイツ』に未来を……ユウキ……キミに……幸せになって……欲しくて……だから……だから!」

 

 変わる。幼き容貌にあった冷たき夜のような神秘に、まるで闇を払う篝火のような、言い表すことさえ冒涜と呼ぶべき温もりが宿る。それに応じて新たに生えるのは触手。半透明の実体と幻の間にあるかのような、小さく枝分かれした硬質と軟質の狭間にある不可思議な赤色の触手。それは4対8本として左右に広がっていく。もはや、それは翼と呼ぶべきものだ。

 

「黄金の稲穂……夜明けをもたらす……契約……だから!」

 

 それは呪い。飢餓の化身に成り果てようとも蝕む、最後の深淵狩りが己に施した、自らの根源にして本質にすら溶け込んだ意思の呪いだった。

 だからこそ、飢餓の化身は……いや、最後の深淵狩りは微笑む。幼き容貌の中に、確かに白き深淵狩りとしての表情が浮かび上がる。

 

「ステラ。祈りを忘れぬ乙女。その星明かりをここに」

 

 8つの赤き半透明の翼の触手を広げ、飢餓の深淵狩りは右手を伸ばす。まるで『何か』を求めた証のように、だがもはや捨て去ったと示すように右手を伸ばす。

 ランスロットとの戦いの最中で飢餓の深淵狩りが何を選択したのか、ランスロットには重々把握していた。だが、それを見逃すほどに彼は甘くない。むしろ、これを好機として踏み込んでいく。 

 同情も感傷もこの戦いにおいて不要。故にランスロットは迷いなく聖剣を振り下ろした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 その兆候は突然だった。

 リーファとシリカをUNKNOWNの元に向かわせるべく、最後の一斉攻撃中に、突如として巨大レギオンが再起動する。

 時間をかけて崩壊していたはずの巨大レギオンは、今再びその大口を開き、ブレスを放つべく炎を圧縮させている。

 

(まずい! アレを解き放たれたら僕たち全員……UNKNOWNさんだって……でも、手がもう……どうすれば!?)

 

 もはや反乱軍の戦力はこの場に結集しているだけではなく、巨大レギオンの攻撃を止めるには距離もあって手段は何1つとして残っていない。何よりも既にブレスまで秒読みの状態だ。作戦を考案して行動を取るにしても絶対的に時間が足りない。

 ああ、ここで自分は死ぬ。淡白にレコンは状況を理解し、せめてリーファとシリカを生存させ、UNKNOWNを再起させる一助にせねばならないと、自分と反乱軍の死を受け入れて作戦変更をすべく思考を開始した時だった。

 巨大レギオンの上空に波紋が生まれる。それはまるで夜空という水面を揺らすかのように、夜空に全く別の夜を……いや、瞬く星々の世界を拡大させていく。

 無数の星明かり。それで埋め尽くされた新たな夜空が上書きされ、巨大レギオンを照らすように星々は煌いていた。そして、それは星雲となって渦巻いていく。

 何が起こっているのか分からない。だが、レコンは自然とその新たな夜空に1つの真理を見出したかのように口を開いた。

 

 

 

 

「宇宙は空にある」

 

 

 

 

 まるで誰かが遥か天空の先……彼方にある星々に呼びかけたかのように、上書きされた夜空で束ねられた星雲より光が降り注ぐ。それは真下の巨大レギオンの残骸に直撃していき、ブレス間際の巨体を砕く。その巨大な体積全てを消し飛ばすには足りずとも、重点的に狙われた大顎の崩落と共に、圧縮された炎はブレスとして解き放たれることなく、大爆発となって巨大レギオンを呑み込んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 巨大レギオンの遺骸がブレス直前に大爆発を引き起こし、その突風はシリカの小柄な体躯を吹き飛ばそうとする。だが、リーファは決して手を放さず、またシリカもより強く彼女の手を握りしめる。

 地上の反乱軍と突風によってオベイロンの召喚兵の陣形が崩れ、リーファはそれを見逃さずに突進する。竜の神のバリアとして働く炎の加護はリーファとシリカを素通りさせ、シリカはようやく巨竜の肩に着地する。

 炎の加護を突破できたのは、シリカ達に対して竜の神が……UNKNOWNが敵意を抱いていないからだろう。むしろ、黄金兵たちの攻撃から彼女たちを遮断して守ろうとする素振りすらも見せる。

 だが、近接したシリカ達に対して竜の神自体は何のアクションも起こさない。シリカはもしや既に痛みでUNKNOWNの精神は崩壊してしまったのかと危惧する。

 

「……お兄ちゃん」

 

 同じくリーファも狼狽えるが、心の弱気に喝を入れるように首を振り、シリカに笑いかけた。

 

「呼んであげて。きっと、シリカの声をお兄ちゃんは待ってるはずだから」

 

 本当にそうだろうか。シリカは胸に小さな痛みを覚えながら、竜の神の金属のように硬質な鱗に触れ、一呼吸を挟む。

 

「痛いですよね。苦しいですよね。私も少しくらいなら分かります」

 

 スタミナ切れの状態で無理に行動を重ねた過去があるシリカは、幾らか回復こそしているが、右腕の感覚の幾らかを痛覚代用で補っている。現在は痛覚解除3割……本来の痛覚の3割ほどで済ませられているが、それは決して顔色1つ変えずに耐えられるものではない。

 だが、シリカは隠し続けた。『彼』を心配させたくないという一心で、責任を負わせたくなくて、我慢と隠匿を続けた。

 もしかしたらバレているのではないだろうか。何度もシリカは危機感を覚えた。実際に『彼』はシリカが何かを隠していることには察していたようだったが、深く踏み入ろうとはしなかった。

 何も変わらない。SAO末期から変わらぬ2人の関係。傷の舐め合いから始まり、互いが正気を保つ楔になっていながらも、決して心に引かれた境界線を踏み越えようとはしなかった。それがこの関係を壊してしまう気がして、誰よりも近距離にいるはずなのに、決して心の距離は縮まらなかった。

 もしも……もしも傷の舐め合いだけに終わらず、もっと傷を負うことを承知でも相手の心の懐に飛び込むことが出来たならば、お互いの物語はもっと別の形になっていたのではないだろうかとシリカは後悔する。

 望むままに。求めた通りに。欲するままに。『彼』を正気も狂気も等しく肯定した。それが自分の愛なのだと信じた。拒絶と否定が『彼』の傷だらけで継ぎ接ぎだらけの心をバラバラに分解してしまうかもしれないと怖くて、自分の立場に甘んじた。

 1歩踏み出して関係を進める勇気さえあれば、彼の手を握って立ち止まるように涙を流して懇願する『強さ』があれば、アスナではなく自分を真っ直ぐ見て欲しいと力の限りに叫び続けることが出来たならば、悲劇は訪れなかったのかもしれない。

 

「私……ずっと役立たずでした。貴方の役に立ちたくて、癒したくて、認めてもらいたくて……あなたの『1番』になりたくて! だけど、素直になれなくて、やり方をいつも間違って、貴方の好意がいつか私に向けばって期待する自分が浅ましくて、だから隠そうとして、貴方を愛することで満足して……!」

 

 今も気持ちは変わらない。『彼』がアスナを取り戻そうとした願いを拒絶することなど出来ない。むしろ叶ってほしいと、最愛の女性を救い出して欲しいと願っている。

 

「本当は悔しかったんです! いつも私は貴方が1番苦しんでる時に何の手助けも出来ない! そんな自分が……大嫌いだったんです!」

 

 たくさんの人々を死に追いやった。自分の扇動で犠牲が積み重なる悪夢にシリカは怯えた。

 互いの心の傷を自覚し、寄り添うことで正気を失うことを拒み、互いに肯定し合うことが繋がりとなった。

 

「この旅が終わったら……私達はやり直せるでしょうか? 私はもう1度貴方と向き合いたいんです。今度こそちゃんと私の気持ちを受け取ってもらいたいから! 今度こそ、本当の意味で貴方の傍にいたいから! たとえ、役立たずでも! 意味がなくとも! 嫌われようとも! 私は貴方とやり直したいんです!」

 

 皮肉にもシリカがそう望んでしまうのは、憑き物が落ちたように穏やかになった、かつての『彼』を取り戻した姿を見てしまったからだ。そして、その最愛の姿を取り戻させたのは自分などではなく、憎たらしい程に嫉妬してしまうあの傭兵だ。

 

「私は……貴方の傍にいて良いですか?」

 

 だからシリカは涙を拭うことなく問いかける。竜の神に自分の意思の全てを注ぎ込むように右手で触れて、胸に宿る熱い感情を昂らせる。

 相棒としてでもなく、家族としてでもなく、伴侶でもなく、貴方を愛する1人の女性として……傍にいたいのだ。

 

「大好きです。だから、私の意思は貴方と共に……」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 薄れる意識の中で『名無し』は暗闇の中で漂う。

 かつて体験したことがない痛みを堪え、オベイロンを攻め続けていた彼は、もはや無意識とも呼ぶべき前進の闘争心だけに支えられ、思考と呼べるものは痛覚の中で埋もれていた。

 戦え。戦わねばならない。あともう少しで届くのだ。皆の頑張りを無駄にしない為にもオベイロンを倒しきらねばならない。その意思だけが彼の闘争心を支える。

 だが、『人の持つ意思の力』によって形成する竜の神の維持の負荷、連戦の疲労、そして経験したことがない激痛が意識を闇に押し込める。必死に出口を探すが、何処を見渡しても闇ばかりであり、光無き暗黒に溶けた痛みが彼をこの場に止めようとする。戦う意思を挫こうとする。

 諦めるものか。必ず出口を探すのだ。皆が待っている戦場に戻るのだ。『名無し』は痛覚の暗闇を掻き分ける。

 やがて彼の視界に、まるで火の粉のように、青にして碧の光が舞う。聖剣の導きを掴み、『名無し』は暗闇の出口を探す。

 そうしてたどり着いたのは、暗闇に突き刺さる聖剣。だが、それは温かな火によって包まれた、まるで暗闇を払い、旅人に安らぎを与えるかのような篝火だった。そこに出口は無く、『名無し』は愕然とする。

 だが、まるで『名無し』を歓迎するように、聖剣の篝火を挟んだ反対側から誰かが歩んでくる。

 

「…………」

 

「…………」

 

 それは白髪にして、赤が滲んだ黒の瞳を持つ少年。懐かしきSAOの頃の姿をしたクゥリだった。

 クゥリは目を白黒させ、額を数度指で叩き、聖剣を一瞥し、深呼吸を挟んで距離を取ると助走をつけ、聖剣に向かって強烈なドロップキックを浴びせる。

 

「これ、夢だから。お前の夢だから。オレは夢の産物。幻影。お前の妄想。OK?」

 

「分かったから、それ以上蹴るのは止めろぉおおお!」

 

 思わず『名無し』が止めに入る程に、鉄屑に変えてやると言わんばかりに聖剣をクゥリは足蹴にする。

 

「で、お前はここで何してんねん? チート使い放題した挙句に深淵っぽさ全開の暗闇に引き籠もりとか何やってんねん」

 

「クーはどうしてエセ大阪弁使ってんねん」

 

「ノリ以外にない」

 

「だと思った」

 

 このやり取り、やっぱり懐かしい。クゥリが突然を馬鹿を言って、『名無し』もまた馬鹿をやり返す。そうして気を許し合い、少しずつ距離を縮められたのだ。

 

「出口を探しているんだ。だけど、見つからなくてさ」

 

「出口なんてねーよ。ここはオマエの夢だ。目覚めれば良いだけだ」

 

 腕を組んだクゥリは『名無し』が探し続けた出口など何処にもないと説く。そして、その上でこの暗闇を退ける方法は意識を再び回廊都市の戦場へ……オベイロンとの最終決戦に引き戻せば良いと暗に教える。

 元よりそのつもりだ。だが、どうやっても目覚める兆候はない。『名無し』はあれだけ粋がっておきながら、痛みにも抗うことができなかったのかと唇を噛む。

 

「……お前は『強い』。オレよりもずっとずっと『強い』。勘違いするな。お前は痛みに負けてここに押し込まれたんじゃない。痛みと戦う為にここに来たんだ。これは刹那の夢。朦朧とする意識がたどり着いた正念場だ。もっとハッキリ言えば、この糞聖剣がオマエの意識を拉致ってる」

 

「つまり、俺は聖剣のせいでこの暗闇に閉じ込められていて、ここでの時間の流れは外と隔絶しているってことだな。聖剣に認められれば、この夢から覚める……と」

 

「オマエのそういう物分かり良過ぎる点に毎度驚かされるぞ。1を知って10を理解すると教える甲斐がないザマスわよ!」

 

 鬱憤をぶつけるように聖剣を再び蹴り始めたクゥリは、周囲の闇を見回すとやがて何かを決心したように聖剣の柄を殴りつけるように叩いた。

 

「コイツも少しはオマエを認めてくれているはずだ。糞性格悪い聖剣様は、オマエを試したくてしょうがないらしいな。ほら、ちょっと握ってみろ」

 

 半信半疑ではあるが、確かにその通りかもしれないと『名無し』は聖剣の柄を右手で握る。闇に突き刺さった聖剣が纏う炎は熱く、だが肌も肉も焦がさず、言い表すことができない温もりを覚える。それは何処か懐かしく、だが、惹かれることに禁忌すらも感じてしまう。

 

「集中しろ。オマエの呼びかけに聖剣は必ず応える。たとえ、聖剣の資格者ではなくとも、今はオマエこそが聖剣の主だ。これは聖剣がもたらす試練だ。オマエなら必ず乗り越えられる」

 

 瞼を閉ざした『名無し』は意識を集中する。

 何も聞こえない。何も見えない。だが、火の温もりを……いや、もっと別の場所から温かな光を感じる。

 それは声だ。とても聞き覚えのある、もがき苦しみ、醜く狂う自分の傍にいつもいてくれた、1人の少女の声だ。

 痛みを乗り越えて未来に行こう。その声は涙で濡れながらも、悲観ではなく明るい希望を謳う。それが清風のように『名無し』の心に染み込んでいく。

 

「……見つけたみたいだな」

 

 再び目を開けば、『名無し』の背後に1匹の竜の影があった。それは白く輝く影であり、故に痛みの暗闇を引き裂いていく。

 痛みの暗闇が崩れていく。『名無し』は再びオベイロンとの決戦に引き戻されるのだと理解する。聖剣の試練に打ち勝ち、それは痛みを超えて戦うことを成し遂げる礎となる。

 

「さっさと勝負を決めてこい、【聖剣の英雄】様。そろそろファンファーレの時間だ。いい加減にオベイロンの糞野郎をぶちのめせ」

 

「……キミとは一緒に戦えないのか?」

 

 これは夢だ。それでもクゥリと共に戦いたい。たとえ、もはや相棒ではないとしても、友として、仲間として、一緒に戦ってもらいたいと『名無し』は望む。

 だが、クゥリは静かに、寂しそうに、首を横に振る。崩れる痛みの暗闇に彼は取り残され、『名無し』は竜の白影が作り出す光へと引っ張られる。

 

「オレは一夜の夢みたいなものだ。さっさと夜明けを迎えて忘れちまえ。朝が来れば夢なんて奇麗さっぱり忘れた方が良いに決まってる。それが悪夢なら尚更な」

 

「悪夢なんかじゃない! キミは俺にとって――」

 

 だが、全てを言い切るより先にクゥリは沈黙を成せと言わんばかりに己の唇に人差し指を立てる。

 

「だからさ、オマエのそういう所が『強さ』なんだってオレは思うわけさ。本当に……馬鹿が幾つ付けても足りないくらいにスゲーんだよ。だから、オマエは夜明けの向こう側に行け。生きてたどり着け」

 

 光によって戦場に引き戻される中で『名無し』は木霊するクゥリの声を、自分に降り注ぐ温かな篝火の炎に瞼を閉ざす。

 

 

 

「我が最愛の友よ、汝に黄金の稲穂の加護があらんことを」

 

 

 

 そして、『名無し』は全身を刺し貫く激痛の鎧を纏い、竜の神の咆哮を上げる。

 それは刹那の夢。『名無し』を誑かそうとした聖剣がもたらす試練。だが、その悪趣味な夢の中でこそ『名無し』は己の『強さ』を知った。

 いつの間にか自分を守るように囲い、オベイロンが生み出す黄金兵に挑む反乱軍の皆々。彼らは『名無し』を援護すべく決死の戦いを挑んだのだ。

 世界に残留するのは身も凍るような殺意。これこそが聖剣を刺激し、『名無し』を夢に引きずり込んだのだろう。あるいは彼をこの殺意から守るために夢の中に匿ったのかもしれない。だが、それは聖剣に問いかけても得られぬ真実だ。

 事実ではなく、真実を決めるのは己なのだ。ならばこそ、『名無し』は眼前のオベイロンに炎剣を向ける。

 痛みは最高潮に達し、今も意識を完全に削ぎ落とそうとしている。だが、乗り越えられる。

 

「行こう、シリカ。痛みを超えて未来に」

 

 今日よりも最悪な未来だとしても、1歩進めば何かが変わるはずだ。暗闇を抜け出せる日へと近づくはずだ。『名無し』は竜の神の肩に乗るシリカの呼びかけに応じ、彼女の涙をぬぐいたくて、だが今の自分の両手がすべきなのはオベイロンを倒すことだと彼女の『強さ』を借りて己を昂らせる。

 これが最後だ。『名無し』は炎剣に月光の奔流を纏わせ、オベイロンを倒すべく巨竜の1歩を踏み出す。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 行ったか。ちゃんと痛みを乗り越えて戦う意思をより強く燃え上がらせることが出来たようだ。『アイツ』を見送ったオレは、この暗闇の夢の崩壊と共に消え去ろうとする青にして碧の粒子を散らす聖剣を睨む。

 何を血迷ったのか、聖剣はオレを呼びつけた。気づけば暗闇であり、聖剣を挟んで『アイツ』とご挨拶である。しかも、この夢の中でオレはSAO時代の姿だ。即ち、最悪な事に身長が伸びる前なのだ。この時点で聖剣は万死に値する。

 もう1発蹴ってやるかと考えるも、緩やかに消えていく炎の中で、同じく薄らいでいく聖剣を見送ることにした。

 オレは溜め息を吐いて炎と月光が失われていく暗闇の中で、『獣』に呑まれた己を振り返る。

 初めて『人』の皮を脱ぎ捨て『獣』となって飢餓のままに戦うことが出来た、言い表すことが出来ない開放感。昂らせた獣性のままに存分に『力』を振るうことができた幼稚な満足感が確かに身に浸っている。

 代償として捧げたのは人間性。分かってるさ。獣性を解放するとは、『人』であることを止めることだ。それがどんな影響をもたらすのかなど、オレ自身にも分からない。

 

「それでも、オレはシノンを殺さなかった。『殺したくなかった』」

 

 そうさ。これも嘘だ。本当はシノンをあのまま喰らい殺したかった。だが、たとえ『獣』になろうとも血に宿った意思が彼女を喰らうことを否定した。『嘘』に縛り付けられた。

 ヤツメ様の言う通り、『獣』になれば灼けることはない。だが、代償として人間性を失う。そして、血に溶けたオレの『鬼』の意思は『獣』から引き戻す確かな糸となるだろう。それは人間性を完全に失えば、もう見出すことができないのか。それは分からない。

 聖剣が瞬く。今この瞬間でも自分を抜けば、あらん限りの『力』になると誘う。だが、オレは嘲笑って誘いを蹴る。

 

「本当に試したかったのは……オレの方なんだろう?」

 

 導きの月光よ。オマエは本当に聖剣を捨てたことを悔いていないか、未練はないのかと、最後にもう1度だけ呼びかける為に『アイツ』の前にオレを連れてきたのだろう? 

 あの場で『アイツ』を聖剣で斬れば、資格者であるオレの元へと月光の聖剣は現れるだろう。だが、そこにあるのは『獣』による終わらぬ夜の始まりだ。

 

「そうか。オマエも寂しいんだな。月光は……暗闇の中じゃないとその明るさを感じられないしな」

 

 いつか『アイツ』が夜明けを迎えて朝に目覚める時、そこに聖剣の居場所はあるのだろうか。暗闇の中で導くことこそが聖剣の本懐であるならば、夜明けの果てに聖剣の価値は失われるのだろうか。

 違うのだろう。オレは聖剣に笑いかける。導きの月光よ、それは大きな勘違いだ。

 

「聖剣よ、どうか『アイツ』の暗闇を月明かりで照らして導いてやってくれ。そして、いつか夜明けの朝にたどり着いた時、友として『アイツ』を見守ってやってくれ」

 

 月はたとえ目立たずとも確かに昼の空にも浮かぶものだ。太陽が輝く青空にもひっそりと地上を見守るものだ。いつか訪れるだろう夕暮れと新たな夜から加護する為に。

 聖剣が消え去っていく。夢が崩れていく。オレの中から今度こそ、聖剣の資格が完全に失われていく感覚がある。もう聖剣は、たとえ『獣』となったオレが呼びかけても、2度と応えることは無いだろう。資格は永遠に失われ、ただ主を定める聖剣の意思だけが残った。

 

「……ステラ」

 

 崩壊する暗闇の中で1人の少女がオレを見つめていた。悲しそうに、だが優しく笑っている。

 灼けていく。彼女の姿が失われていく。きっと、これを最後にもう思い出せる日は来ないのだろう。

 だが、その最期の瞬間にステラは確かにオレへと手を伸ばす。自分の為ではなく、まるでオレの手を取りたいと望んでいるかのように。

 オマエが最後に導いてくれた。オマエの『力』が……オレを引き戻してくれた。ありがとう。

 

 

 

 そして、灰が舞う。『誰か』だった灰が……言い知れない喪失感をもたらす。

 

 

 

 オレは『誰か』を忘れてしまったのだろう。灰になるまで『誰か』が灼けてしまったのだろう。

 崩れた暗闇の果てにオレは血の海に落ちる。溺れることもなく、浮かぶこともなく、血の海はオレを抱擁して受け止める。

 死肉が木々の如く青ざめた血の夜に伸び、獣狩りの赤い月を賛美する。終わらぬ狩りの夜を欲してやまないオレの本質と血を形作る。

 

(『獣』になればアナタはもう灼けることなど無い。そのはずだったのに、傭兵としての、狩人としての、神子としての、そして『久藤篝』としての意思が……アナタを『鬼』に変えてしまった。『獣』から引き戻す呪いとなってしまった)

 

 血の海で仰向けになって倒れるオレに馬乗りになったヤツメ様が静かに見下ろしている。右目に7つ、左目に1つの瞳を宿すヤツメ様の姿は、オレのデーモン化した……獣魔化した姿そのものだ。

 不思議だ。今までになく、ハッキリと、ヤツメ様の声が聞こえる。

 だが、ヤツメ様はもう泣いていない。静かに、穏やかに、優しく微笑んでいる。オレの額に己の額を合わせ、あらん限りの導きの糸を張り巡らせる。

 

(それで良いのかもしれない。言ったでしょう? 私はアナタの意思を尊重する。さぁ、行きなさい。獣性を解き放ったままに、だけど狩人として、傭兵として、神子として、何よりも……嘘に塗れようとも『人という名の獣』として、狩りを全うしなさい。夜明けをもたらす狩人よ)

 

 鋭い痛み。それは自らの胸を裂くランスロットの聖剣がもたらす痛み。

 あと1歩。いや、半歩深く踏み込まれていたならば、心臓にまで到達していたはずの聖剣の刃。だが、ヤツメ様が手を引いてオレの体を半歩後ろに動かし、死をもたらす一閃を抜け出す。

 

「かつて、狩人はヤツメ様と結ばれ、鬼が生まれた」

 

 まったく何なのだ、この姿は? オレの身長を返せ。久しく纏っていない神子装束は悪くないのだが、無意識で何処まで退行していたのやら。

 

「獣性と狩人の業。故に獣血の狩人」

 

 制御しろ。人間性を喪失する獣性解放のままに、狩人の業を引き出せ。

 獣性解放がもたらす破滅的なまでに高まる飢餓と高まる直感。そこに狩人の予測を組み合わせる。狩人の予測とは理知の業であり、故に獣血と相反していながらも、1つの血に溶け合うことで相互に補完する陰陽と化す。

 神子衣装は元のボロボロのナグナの狩装束に戻る。スタミナ切れ状態の息苦しさが既に喉元までせり上がっている。獣魔化進行を強引に引き戻せば、足りぬスタミナが表面化したわけか。嗤える。

 だが、これで良い。これが良いんだ。オレはどうして闇朧が呼びかけに応じなかったのか、ちゃんと分かっている。たとえ『獣』になろうとも、オレは……オレは『ランスロットを殺す』ためにちゃんと戦い続けることが出来ていた。

 

「戻ってきたか。あのまま戦えば、幾らか光明は残っただろうに」

 

 ランスロットの指摘は当然だろう。あのまま『獣』の姿……ヤツメ様の姿のままならば、ランスロットとも張り合うことが出来た。殺意の絶食の状態でも、増幅する飢餓感によって高められた直感のままに、意のままに能力を駆使することが出来た。

 それに比べて今はどうだ? 人間性は削れる上に灼けていく。オマケに先程のようにソウルに由来する能力も使えない。まさしく弱体化のようにランスロットには映るだろう。

 

「オレは『弱い』んですよ。『人』にもなれず、『獣』にもなれず、ただ失っていくだけしか出来ない『弱さ』こそが『オレ』なんです」

 

 だが、そんな中途半端な状態だからこそ、獣性の力も、狩人の力も、1つにして扱うことができる。2つの力を最大限に使うことができる!

 ナグナの焔火、第3の能力……【ナグナの纏い火】発動。左手を覆うパラサイト・イヴが形成する獣爪の籠手を、真紅の炎を纏って燃え上がらせる。

 ナグナの纏い火はその名の通り、ナグナの焔火を対象にエンチャントさせて純粋に火力をブーストさせるものだ。単純故に魔力の消耗は大きく、これでオレの魔力は完全にガス欠だ。しかもこのエンチャント時間はかなり短い。20秒と保てない。その代わり、エンチャントによる攻撃力強化は純粋にトップクラスだ。

 獣性解放によってステータス出力は9割状態を維持できている。高まる飢餓によってヤツメ様の導きは今までになく鋭敏化した直感をもたらす。そして、狩りを全うするという嘘に塗れた意思こそが狩人の予測を取り戻させた。

 感じる。今のオレの両目はヤツメ様の時と同じく、右目に7つの瞳のようになっているのだろう。しかし、左目は変わらず義眼のままだ。受肉していない。

 右目の肉眼は7つの瞳……それは獣の証明。真実そのもの。

 左目の義眼は偽りの瞳……それは人の虚言。嘘そのもの。

 それでも、聖剣に真偽など存在しないように、これが『オレ』なのだ。灼けようとも、人間性を失おうとも、灰となる日までこれこそが『オレ』なのだ。

 真なる獣血の狩人とはこの姿なのだ。獣性を解放し、同時に狩人としての意思を保ち、2つの力を束ねる。どちらかに特化するのではない。2つを束ねた不完全であり、故にヤツメ様も先祖の狩人も目指した、久遠の狩人が禁忌としながらも真なる到達点として目指した姿なのだ。

 ゲヘナの影を纏った聖剣と魔剣の二刀流のランスロットは、何処か嬉しそうに剣を構える。

 

「だが、心躍る。飢餓の化身ではなく、深淵狩りの貴様を討つことこそ、俺の忠義の道に相応しい!」

 

 動く。ランスロットは瞬間移動で間合いを詰め、オレを仕留めにかかる。ゲヘナの影が生み出す無数の手は黒炎の手裏剣を放つ。

 全ての軌道を感じ取る。獣性解放が今までになく体を精密に動かすことを可能とする。人間性を代償にして引き出した『力』を示すように、血が沸騰しているように滾って熱い。だが、『獣』に堕ちぬが故に灼けていく。2つの力を使うならば、2つの代償を支払わねばならないのは当然なのだろう。

 黒炎の手裏剣を突破し、続く黒雷の槍とランスロットの二刀流の斬撃。だが、予測と直感がランスロットの全攻撃を躱す道筋を示す。

 背後からの黒剣。躱せば上空より黒雷の槍。黒炎を纏った黒剣が大地に突き刺せば闇の爆炎が舞い上がる。その中でゲヘナの影を纏ったランスロットの勝負をかける瞬間移動の連発。同時にばら撒かれる黒雷の槍。1発の火力は黒雷の大槍に届かずとも必殺の威力。

 煌く黒光。土煙より突き出された魔剣。だが、これはブラフ。彼の真なる愛剣である闇濡れの大剣……それを『投擲』に使うブラフ。狙いは聖剣による落下斬撃。だが、そう思わせることこそが本当のブラフ。聖剣によるヘルムブレーカーもどきも『投擲』。光波を推力にした巧妙なトリック。本当の狙いは投擲した闇濡れの大剣を回収した背後よりの斬撃。そう、投げた武器をそのまま次なる攻撃へと繋げて必殺を叩き込むトリスタンの剣技。

 深淵の病が再び蝕む。それがもたらす走馬燈を見切りに使い込む。即時反転からのランスロットの魔剣によるかち上げ斬りを回避する。

 だが、ランスロットはゲヘナの影を崩して推力に変え、巨大な闇の翼を広げるかの如く間合いを詰める。見切れたはずの斬撃が伸びる。

 頬を撫でた切っ先は左目の義眼に侵入して縦に割る。破損によるオートヒーリングの停止……『予測通り』。直感を超えてきたランスロットの土壇場での成長を、狩人の予測で見切り尽くし、左目を誘いに使ってランスロットの懐に入り込む。

 ゲヘナの影を防御ではなく攻撃に転用した。それがランスロットの防御を手薄にする。その胸へと最大加速が乗った左の突き手を繰り出す。

 

 

 

 

 

「見切ったのは俺も同様だ」

 

 

 

 

 

 だが、ランスロットは瞬間移動で消える。捨てた聖剣を拾ったランスロットが背後で再び聖剣と魔剣の二刀流となり、オレを挟むように左右から斬撃を放つ。それは光波と黒光を解き放った致死の連撃。

 トリスタンの剣技……魔剣の回収からの攻撃に続く聖剣もまた回収しての攻撃。トリスタンの剣技を発展させた2段構え。

 

 

 

 

 

 

(そっちは私がちゃんと『読んでる』わ)

 

 

 

 

 

 

 

 狩人の予測で見切れていなかったトリスタンの剣技による2段構え、それをヤツメ様の導きが捌き切る。即時に反転し、連撃が始まるより先にランスロットの正面を取り、消えかけたナグナの纏い火を散らしながら、左手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左手はランスロットの腹に侵入し、その赤い血を啜り、ナグナの焔火は内側より焼いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爪痕撃……繋げられない。ランスロットが聖剣を振り回してオレを遠ざけ、腹から血を零しながら片膝をつく。デーモン化した姿は解け、元の甲冑姿となる。聖剣の加護は完全に剥がされた。もはやランスロットのHPは残り3割を切っている。

 まったく、何がHPバー1本だ。あの1本に3本分はHP値が濃縮されているぞ。とんでもない耐久力しやがって。オマケにデーモン化と聖剣の加護とかふざけてるのか。

 

「強いな。貴様は俺の想像を上回り続けた。聖剣を取り戻してもなお俺の剣は届かないとは」

 

 聖剣の加護の名残か、ランスロットの腹の傷口が塞がる。そして、彼は黒光の魔剣を闇へと変じさせて崩し、聖剣と1つに溶け合わせる。

 漆黒の刀身を纏う紫光の大刃を有する聖剣。闇濡れの大剣と1つになった聖剣は更に増幅されたかのように、闇を照らす紫光にして、光を塗り潰す黒光もまた解き放つ。

 

「だが、何度でも言おう。我が忠義に終わりはなく、故に敗北は許されない。先の飢餓の化身はともかく、虚言に塗れた今の貴様に負けなど無い」

 

 ランスロットは迷わない。己の本質を曝け出すことに禁忌など無い。たとえ、それこそが愛しき友を、深淵狩りとしての誇りを失わせ、終わりの見えぬ苦行をもたらしたとしても、それでも彼は己に正直に生き、今ここで死力の限りを尽くす。

 八相の構えの如く聖剣を握ったランスロットの周囲に散る黒光の粒子が舞う。そして、聖剣は巨大な紫光を放ち、それは巨刃となる。

 言うなれば聖剣を核とした巨大なレーザーブレード。紫光を放出し続け、巨刃を生み出したランスロットの間合いは余裕で10メートルを超すだろう。それだけではない。黒光の粒子はオレを逃がすまいと、ランスロットの聖剣の間合いへとこの身を引き寄せる。

 闇。ランスロットに凝縮されていく黒光が内包した闇が仮初の意思を持って拡散した空間内の人間性を持つ者……即ちプレイヤーを問答無用でランスロットの聖剣の間合いへと引き寄せるのだ。

 これがランスロットの最後の切り札。最終奥義。巨大なレーザーブレードの如く変じた聖剣の間合いに、有無を言わさずにあらゆる敵対者を引き寄せる。レーザーブレードと同類であるならば、その斬撃は止めることが許されず、ガード越しでも斬り裂き続け、その大威力は容易に死をもたらすダメージを叩き出す。

 本当に……底知れない奴だ。ランスロット、まさしく最強の敵。これ以上の相手がDBOにいるとは思いたくないな。そんな奴を相手にするとか疲れて眠りたくなる。

 

「無手の貴様で俺は止められん。どれだけ躱そうとも貴様を必ず斬る」

 

 ランスロットの言う通り、今のオレには武器が無い。せいぜいが獣爪の籠手くらいだが、これでランスロットの奥義を止めることはできないだろう。彼は死ぬまで剣を振るい続け、必ずオレを仕留めようとするはずだ。対して、こちらは逃げられぬ間合いの中でランスロットの乱舞を躱し続けねばならない。

 対するオレは……酷いものだ。我ながらどうして戦えるんだか。もうスタミナも魔力も無い。致命的な精神負荷の受容がもたらす苦痛と灼ける感覚、スタミナ切れの影響、そして深淵の病。もう健全な部分など残っていないではないか。

 

「ランスロット、ここが何処なのか分かりますか?」

 

 ランスロットの間合いに引き寄せられる中で、オレは彼に笑いかける。

 周囲の残骸はオマエにとって大差ないものに映るか? いいや、違う。ステンドグラスの破片、教会や神殿に相応しい長椅子、そして……わずかに残る花弁。ここは聖剣を手にする以前に雌雄を決しようとした神殿の跡地。宙に浮いていた大地は崩落し、今ここに転がっているのだ。

 

「借りるぞ……トリスタン」

 

 トリスタンの剣技……投擲などで手放した武器を回収することによる奇襲攻撃。オレは瓦礫に埋まっていた、刀身が透明であるが故にランスロットの目を欺いていた闇朧を蹴り上げる。

 自分の『力』だ。何処に埋まっているかなどすぐにわかる。何の裏付けのない直感だとしても、オレはこの本能を信じる。それだけの話だ。

 ヤツメ様となった時、どうして闇朧が呼びかけに応じなかったのか。理由は単純明快。『武器のまま放置されていた』からだ。それがオレの策だったからだ。ランスロットを討つには不意打ちであらねばならない。彼の動揺を誘わねばならない。その隙が無ければ意味がない!

 舞い上がった闇朧を右手で掴み、武装侵蝕を施す。透明だった刀身がパラサイト・イヴによって暴かれる。

 

「我は神子。故に神楽を奉じ、アナタを討つ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 OSS【八ツ目神楽】……発動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇の引力も利用し、敢えてランスロットの間合いに踏み込む。そこから始まるのは、真紅のライトエフェクトを纏ったOSS。対象を斬撃の檻に閉じ込める、スキルコネクトを前提としたオレの切り札である【八ツ目神楽】。

 この時を待っていたぞ。ランスロット、オマエの瞬間移動が使用できない『限界』に達する瞬間を!

 先の攻防において、ランスロットはオレの突き手を躱せなかった。だが、彼に瞬間移動が残っていたならば、ギリギリ躱しきれただろう。だが、出来なかった。

 ランスロット戦において、廃坑都市の頃より立てた仮説。彼の瞬間移動は無限に使える能力などではなく、明確な限界点を持っているはずだ。それは本来ならば1度の戦闘で使い切れるようなものではない。だが、長期戦と化し、彼の瞬間移動は限界に達した。そうでもなければ、この最終奥義……『ランスロットが不動のまま巨刃となった聖剣を乱舞する』は彼のスピード特化のスタイルに反する。

 斬撃の檻に閉じ込める【八ツ目神楽】であるが、それはあくまで対象の体感に過ぎず、実際に斬撃で囲んでいるわけではない。即ち、瞬間で切り取れば、ランスロットの瞬間移動の時点……彼の体積分の空間は余裕で存在する。故に、ランスロット相手に【八ツ目神楽】を使うには、彼の瞬間移動能力を限界に達せさせる必要性があった。

 巨大なレーザーブレードを振り回すようなランスロットの不動の乱舞。その中でオレは神楽を舞い、ランスロットにパラサイト・イヴで侵蝕した闇朧を斬り込ませていく。

 だが、ランスロットは迎撃する。紫光の巨刃を放出する核を成す聖剣本体で闇朧の斬撃を捌く。更には黒剣が水中を泳ぐ魚の如く無数とランスロットの間合いの中で動き回る!

 何も変わらない。ランスロットの攻撃が1発でも入ればオレは死ぬ。ランスロットが死ぬまで斬ればオレが勝つ。ただそれだけだ。

 聖剣がもたらす紫光の乱撃の中で神楽を舞い、加速を蓄えていく。少しずつであるが、切っ先がランスロットを捉え始める。逆にランスロットもまたオレの動きを予測して剣を振るい、また容赦なく紫光の大刃を重ねていく。

 少しずつ削れていくランスロットのHPと失われていくオレの意識。スタミナ切れの中で使い続ける【八ツ目神楽】だが、もはや長くは続かない。最高加速に到達した時こそが勝負の分かれ目となる。

 ランスロットの甲冑が刻まれて割れていく。血飛沫が散る中でランスロットは止まらない。むしろ、その剣速は最高潮に到達し、更にその上へと引き上げられていく。狩人の予測とヤツメ様の導き、獣性解放を重ねた【八ツ目神楽】に追いつこうとしている。

 させるものか。神楽の加速は更に増して、DEX出力9割維持は緩めない。1度としてミスを許されないスキルコネクトだが、失敗するビジョンは無い。

 

 

 

 

 

『篝。私の子。私の篝』

 

 

 

 

 

 

 神楽の中で、誰かがオレに微笑んでいた。だが、それは灼けていく。

 いつだって、オレの名前を呼んでくれた……それはきっと母親なのだろうが……もう思い出せない!

 それでも……それでもかまわない! まだだ! まだ舞い続けろ!

 黒剣を破壊していく。奥義の最中に黒剣の追加はできないらしく、ランスロットの攻め手が少しずつ減っていく。

 舞う為に1歩踏み出すオレの『誰か』が背中を押してくれる。振り返ることは許されない。たとえ、灼けて灰となる最後を見送れないとしても、もう思い出せないとしても、それでも止まることは許されない!

 サチ! サチ! サチ! もう顔も思い出せない! 声だって分からない! どんな話をしただろう!? オマエはどんな人だったのだろう? 何も思い出せない! それでも、まだオマエがいた事は憶えている! 確かに引き受けた1つの願い……『アイツ』の悲劇を止めるという依頼だけはこの胸に宿っている。

 黒剣の全ての破壊に成功。もはやランスロットの攻撃手段は聖剣のみ。その紫光の巨刃を舞い躱し、刃の檻で削るように傷を負わせていく。

 

「ぐがぁあああ!?」

 

 ランスロットの胴を完全に両断する勢いで闇朧が斬り込む。ランスロットの反応と予測を完全に打ち破る。だが、それでも彼の剣は止まらず、むしろ鋭さを増していく。だが、相反して体はよろめき、奥義は崩れ、闇の引力は失われる。

 いいや……違う! それは踏み込み。よろめいたと見せかけ、奥義による威力の増幅をそのままに、神楽に合わせて驚異的な踏み込みからの斬り上げに繋げてくる!

 

「ガウェイン!」

 

 彼が呼ぶのは友の名。それは愛すべき深淵狩りが使った剣技なのだろう。『耐える』ことに特化した防御の剣にしてカウンター狙い。神楽で最大加速に到達したと同時に狙ったのは、決して偶然ではない。ランスロットは斬られる中でこちらに一撃を叩き込む最後のチャンスを探し続けていた。

 勝利への……いや、忠義への執念がオレを捉えたのだ。

 

「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

「あぁああああああああああああああああああああ!」

 

 互いの咆哮が重なり合う。ランスロットの心臓を狙った、神楽の最大加速を乗せた振り下ろし。対するランスロットの、聖剣の最大威力の斬り上げ。それが衝突し、ソードスキルの真紅のライトエフェクトと聖剣の紫光がオレ達の狭間で濁流の如く空間を埋める。

 せめぎ合う刃と刃。闇朧を侵食するパラサイト・イヴが剥げていく。だが、闇朧もまた聖剣の紫光の大刃へと食い込み、本体の漆黒の刀身に接触して押し込んでいく。

 ランスロットが片膝をつく。両手を添えた闇朧に渾身の力を籠める。STR出力9割……まだだ……まだいけるはずだ!

 拮抗を超え、神楽の刃がランスロットの左肩に侵入していき、その心臓を守る左胸へと斬り込んでいく。

 

「ゲヘナァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 だが、ランスロットよりゲヘナの影が溢れ出す。それが聖剣を支える。

 忠義の騎士ランスロット。たとえソウルとなり、意思はなくとも、ゲヘナは彼を加護する。ただ1人、自分の為に尽くしてくれた騎士に報いる為に!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、聖剣は振り抜かれ、闇朧は半ばより砕け折れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝敗を分かったのは単純明快。シャルルの時と同じ……武器の限界。

 ユニークウェポンだとしても、闇朧はカタナであり、明確な耐久度としての限界があった。武器に高負荷をかける【八ツ目神楽】では、パラサイト・イヴを纏っても耐えきれるものではなかったのだ。ましてや、最後の聖剣との激突を耐え抜けるはずもなかった。

 最後にゲヘナの影さえなければ、闇朧は聖剣を押し破り、ランスロットの心臓を両断していただろう。だが、それは仮定の話に過ぎない。

 全身から力が抜ける中で宙を舞い、オレは大地に転がり伏せる。手から離れた闇朧の柄は遥かに遠くに落ちた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 体が動かない。どうしてだ? どうしてだ? どうしてなんだ!? オベイロンは巨神の内で、突如として全身を襲った殺気によって意識を飛ばしかけて硬直し、何も出来ないままに歯を鳴らしていた。

 そんな彼に一切の慈悲なく迫る炎剣。皮肉にもそれが彼に自由を取り戻させる。先に動くことを成した竜の神の攻撃が巨神のバリアを削り、オベイロンに肉薄する。

 

「馬鹿な……なんで動ける!? どうして動けるんだぁああああああ!?」

 

 身の毛もよだつ程の激痛のはずだ。エクスキャリバーがもたらす痛覚解放と増幅によって『彼』の精神は崩壊寸前まで追い込んでいたはずだ。だが、今はそんなもの何も感じないとばかりに炎剣を振るうだけではなく、その口から至近距離ブレスを吐いてバリアを剥がしていく。

 負けるはずがない。この僕に敗北などありえない! 新世界の王となるオベイロンが英雄を気取る糞ガキ1人に……! オベイロンは歯を食いしばり、エクスキャリバーを振るうも、今までになく竜の神は巨体に見合う重量など感じさせない軽やかな体捌きで斬撃を躱すどころか、逆に2本の炎剣を1つに束ねてバリアごとオベイロンを斬り上げる。

 

『シリカ!』

 

 それだけではない。『彼』が咆えれば、竜の神の肩に乗る少女が頷く。1本の炎剣が猛り、まるで少女と共にある幼竜を写し取ったかのように、巨大な炎の飛竜を生み出し、オベイロンを真正面から焼き払う。

 これが『人の持つ意思の力』……心意の真骨頂だというのか!? オベイロンはバリアを今度こそ焼かれて無防備となる。あの瞬間、2人の心意がシンクロし、聖剣を介してあの攻撃をしたのだと悟り、恐怖心で逃げ腰となる。

 そうだ。今は体勢を立て直すべきだ。召喚兵で痛みを与えれば怯むはずだ! 翅を大きく広げて更に黄金の兵士を増産しようとしたオベイロンであるが、突如として背中に走った衝撃によって召喚は中断される。

 

「この……鬱陶しいだろうがぁあああああ!」

 

 それは赤髭のバンダナ剣士。居合より繰り出した、空間を大きく支配する青い光の斬撃が召喚の起点となる巨神の背中の宝玉にダメージを与えたのだ。召喚不発の所に、一刀流のまま炎の飛竜と共に斬り込む竜の神の斬撃が巨神の胸に吸い込まれる。

 大きく肉を抉られた巨神の内部に熱が伝播し、オベイロンは飛行して逃げようとする。だが、それを逃すまいとするように、翅を重点的に狙った地上の反乱軍の攻撃が飛翔に遅延をもたらす。

 蟻の分際で! オベイロンが聖剣の一撃で地上を薙ぎ払おうとした時、光にも見紛う弾丸がエクスキャリバーの柄の宝玉に直撃する。

 それは戦場からやや離れた位置にある、辛うじて形を残す塔の屋上からの狙撃。ようやく姿を現した賊王の少女の攻撃だ。

 無駄な足掻きを。焦ったが、この程度の攻撃でエクスキャリバーは壊れない。そもそもボスの武器だ。破壊など不可能に等しいのだとオベイロンは鼻を鳴らす。

 だが、彼の前にエラーメッセージが並ぶ。それはエクスキャリバーと接続した、チェンジリングで拉致したプレイヤー達の並列させた心意が乱れている証拠だ。いかなる理由かは不明であるが、並列に利用したレギオンプログラムが暴走し、精神と脳が耐え切れなくなったのだ。

 エクスキャリバーがもたらす心意が消滅する。オベイロンはただの武器と化したエクスキャリバーを武器ではなく盾として竜の神の怒涛の連撃を防ぐが、呆気なく弾き飛ばされる。

 

『痛みを知れ、オベイロン!』

 

 宙を舞ったエクスキャリバーを我が物の如く左手で掴み、炎の剣との二刀流となって竜の神が連撃を放つ。

 オベイロンを襲ったのは、まるで本物の剣に斬られ、また焼かれるかのような痛みだった。

 

「ぐぎゃぁあああああああああああああ!?」

 

 醜く泣き叫んだオベイロンに連動し、巨神は尻餅をついて倒れる。

 僕の心意を真似しているのか!? オベイロンの研究の成果をいとも簡単に生み出すのは聖剣を有するか、それとも彼の仮想脳がもたらす可能性か。あるいは、オベイロンを倒すという意思による奇跡か。

 違う。レギオンプログラムが破壊される中で、犠牲者となったプレイヤー達の心意とも『彼』は繋がっているのだ。それがエクスキャリバーの所有を可能とし、その心意を今まさにオベイロンへと向けることを叶えたのだ。

 言うなれば、この痛みは犠牲者たちの怒りと憎しみそのものであり、故に何よりもオベイロンを蝕む。

 

「止めろ。僕の負けだ! もう止めてくれぇえええええええ!」

 

 HPが削れる中でオベイロンは痛みに負けて懇願する。だが、竜の神の攻撃とは止まらない。

 このままでは痛みで狂い死ぬ! 目玉が飛び出しそうになり、涎と涙を垂らして痙攣するオベイロンは、巨神との接続を切ろうとする。だが、そうしている間にも、オベイロンが潜む巨神の深部へと2つの剣は入り込もうとしている。

 だが、竜の神の動きが鈍る。その体は霞のように溶け始めていく。

 

「は……ははは……フハハハハハ!」

 

 痛みで人相が変わるほどに歪んだ顔で、オベイロンは涎で汚れた顔を醜悪に勝利の快感で歪める。

 あれだけの心意を大判振る舞いしたのだ。既に限界ギリギリだった『彼』の仮想脳は、ついに聖剣との連携を持ってしても竜の神を維持できなくなったのだ。

 意思だけは立派だが、実力が伴わなければゴミ屑と同じだ! 少女と共に宙から落ちる黒衣の剣士にオベイロンは嘲笑う。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ランスロット。これ程とは規格外にもほどがある。死闘を制したランスロットは、もはや人間が対峙できる限界を遥かに超越しているとマヌスは確信する。

 深度9の獣魔化状態。本能を解放し、セカンドマスターの言葉通りならば、血中のフラクトライト通信を開くことによって全身で情報処理を行っていた。これによって、自らの肉体を言うなれば運動アルゴリズムの代用品にすることによって、精神負荷を軽減した。それだけではなく、獣魔化状態で駆使する能力の数々の負荷もまた存分に使いこなしていった。

 だが、ランスロットは戦士の経験から、【渡り鳥】が本能解放によって、その殺意を満たしていなかったが故のストレスによる変調からのパフォーマンスの低下……『絶食状態』を見抜き、崩しにかかる策を実行し、なおかつ己の能力を最大限に駆使して成長し続けた。

 あのまま戦えばどうなっていたかは定かではない。ヤツメ様となった【渡り鳥】が勝っていたのか、ランスロットが先に仕留めていたのか。それはマヌスにも予見できない結果だった。

 だが、【渡り鳥】は敢えて獣魔化を深度5まで落とした。人間と怪物の狭間。獣魔化としての多彩な能力を使うことはできずとも、その右目や髪の知覚能力は完全なモノとして残りながらプレイヤーとして武器を駆使する姿とスキルを駆使する形態。獣性の解放によってステータス出力9割と本能の直感を極限まで高め、なおかつ意識的予測を駆使した、まさしく人と獣の中間……醜くも美しい狭間の存在となった。

 頭髪による感知能力はもちろん、右目の7つの瞳がもたらす視覚情報量の増加による見切り……即ち予測能力の強化。

 獣性解放によるステータス出力9割到達と血中フラクトライト通信による情報処理による思考操作の本能レベル化。

 聖剣の加護を破り、ランスロットの最終奥義を崩した【渡り鳥】は見事だった。

 ならばこそ、恐るべきはランスロット。最後に奥義をガウェインの剣技に繋げる土台として威力を高め、なおかつ温存したゲヘナの影を最後に引き出すことによって【渡り鳥】の切り札を破った。

 

「セカンドマスターのご期待通り、ランスロットの勝ちですか」

 

 些か残念であるが、ランスロットが強過ぎただけだ。マヌスはあの少女には辛い結果になったものだと思いながら、御満悦だろうセカンドマスターの横顔を見る。

 だが、そこにあったのは、マヌスが今までに見たことが無い程に、おぞましい悪意の子どもの嬉々とした表情を露としたセカンドマスターの姿だった。

 

「なるほど。なるほどねぇ。いやはや……本当に……キミは……バケモノだねぇ!」

 

 その理由は単純明快。

 ランスロットがトドメに刺そうにも動けぬ姿にこそが回答。

 

「まさか……!」

 

 マヌスは絶句する。今まさにランスロットは麻痺状態となっているのだ。

 デバフの麻痺は、プレイヤーだろうとモンスターだろうと問答無用で行動不能の硬直状態にするデバフだ。だが、毒と違って効果が強力である為か、睡眠と並んで効果を発揮するのが難しいデバフである。特にネームド・ボス戦では、弱点として設定でもされていない限り、狙って麻痺状態にするのは難しい。

 特にランスロットは全てのデバフ耐性が高いレベルで纏まっている。レベル3以下はほぼ無効化に等しい。そんな彼にデバフを蓄積するなど土台不可能に等しい。

 ならば、どうしてランスロットは麻痺状態なのか。『人の持つ意思の力』が覚醒したのか? 違う。もっとシンプルで、これ以外にあり得ないという回答だ。

 

 

 

 ランスロットの麻痺耐性が突破される程にデバフ蓄積がされたからだ。

 

 

 

 

「全てはただ1つの為の仕掛け。陛下は最初から『仕込み』を怠らなかっただけのこと」

 

 レヴァーティンはこの結果を当然とばかりに腕を組み、ランスロットの麻痺を必然と呼ぶ。

 参照。ランスロットと【渡り鳥】の戦闘データ。マヌスはこの戦いのダイジェストを確認し、ようやく【渡り鳥】の『仕込み』に気づく。

 パラサイト・イヴ。それは暗器であり、それはクリティカル部位に高いダメージボーナスがつくだけではなく、『薬品をセットすることでデバフ効果を付けられる』という強みがある。

 当初より【渡り鳥】は投げナイフに武装侵蝕を施していた。何故か? 貫通力を高める為だけではなく、地道にデバフを蓄積させる為だ。

 わざわざ闇朧に武装侵蝕したのは? 既に刃渡りを見切られたので攻撃力と耐久度を上げる為? 違う。デバフ蓄積を稼ぐ為だ。

 どうしてウーラシールのレガリアに武装侵蝕を施した? ダメージを底上げする為? 違う。本命はデバフ蓄積を更に増加して『万が一』に備える為だ。

 聖剣を得たランスロット戦で、【渡り鳥】は積極的に折れたカタナに武装侵蝕を施した。理由は同じだ。地道にランスロットにデバフを蓄積させていった。

 ヤツメ様となった深度9でも感染源のソウルだけは使う素振りが無かった。違う。『使っていた』。足下に広がり続けた血こそが感染源のソウルの能力。接触し続けたランスロットは毒沼ならぬ麻痺沼に浸かり続けていたようなものだ。

 ランスロットの聖剣の加護を破ったのも武装侵蝕で作った左手の籠手だった。最後のOSSも闇朧という暗器にパラサイト・イヴを重ねることで蓄積性能をブーストさせた。

 

 全てがただ1つの為の仕掛け。

 

 ランスロットの瞬間移動対策も、闇朧も、デーモン化も、本能の解放も、最後のOSSさえも……全てが『囮』!

 

 最強無比のランスロットを麻痺状態にして確実に仕留める為の『仕込み』!

 

「数多くの『仕込み』を連携させて、最大の『仕込み』に繋げる、か。【渡り鳥】くんの得意技だねぇ」

 

 ランスロットの麻痺時間はトータル30秒。そのHPを削り切るには余りある。

 だが、【渡り鳥】は動かない。残り10秒を切っても動く素振りを見せない。

 

 限界。ようやく『仕込み』が花開いた時、既に【渡り鳥】はもはや立つことさえも出来る状態ではなかった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ヨルコ……オマエからの贈り物……役立ったぞ。

 グリムロックのソルディオス作成素材から作り上げた、彼女からもらった取って置き。

 現状どころかDBOにおいて最強クラス……『レベル5』の麻痺薬。ユニークアイテム使わないと作成できないとかふざけてんのか。

 だが、いかにランスロットでも……あれだけの蓄積を重ねれば、それもレベル5ならば、さすがに麻痺してくれたようだ。≪暗器≫スキルがあれば蓄積性能も上がったのだが、無いものねだりはしょうがない。その分は手数でカバーした。

 最後の駄目押しの為の【八ツ目神楽】。元よりあれで倒しきれるとは思っていなかった。武装侵蝕した闇朧で蓄積の駄目押しをするのが狙いであり、最後の胸まで入った斬撃がトドメとなって弾き飛ばされる間際にランスロットの麻痺は蓄積しきった。

 あとは動けないランスロットに最大級の攻撃を畳み込むだけだ。

 そのはずなのに、体が……動かない。

 デーモン化は解除されてしまった。致命的な精神負荷の受容……辛うじて維持できてる。だが、ステータス出力は……もう……無理……か?

 まだだ。まだ動けるはずだ。9割は無理でも、8割まで引き上げれば、ランスロットを倒すには十分過ぎるダメージを引き出せる。それにいざとなれば……!

 だが、体が動かない。ランスロットの麻痺時間はせいぜい30秒。いや、もっと短いかもしれない。そのはずなのに……体が動かない。

 限界など知ったことか。この戦いで何度も何度も何度も味わった。その度に突き破ってきた。今回だってそうだ。

 動け。オレはまだ戦える。戦える。戦えるはずだ!

 

「ぐがぁ……あがぁ……!」

 

 手足が痺れる。致命的な精神負荷の受容が停止しかけている。今途切れれば、後遺症によってどうなるか分からない。麻痺から復帰したランスロットは、容赦なくオレを殺しにかかるはずだ。

 ようやく実った『仕込み』を無駄にするわけにはいかない。そのはずなのに……体が動かない!

 

 

 

 

 

 

 

 

『クゥリ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『それ』は視界の中で確かにあった。

 ランスロットの血を啜り、その赤色でオレに存在を示す。

 同時に脳裏に反響するのは、冷たい地下に染み込んだ彼女の最期の言葉。

 

「ザ……クロ……!」

 

 最期の最後に……彼女はオレの名前を呼んだ。呼んでくれた。本当は……本当はちゃんと聞こえていたはずなのに!

 

「オレは……オレはオマエを……!」

 

 立ち上がる。震える足で立ち上がる。拳を握り、前のめりに倒れように走る。

 麻痺で動けないランスロットに拳が届く距離にたどり着く。大きく踏み込み、深淵の病で闇に侵された血反吐を撒き散らしながら、右拳を振るう。

 穿鬼! 轟音と派手なライトエフェクトが爆ぜ、ランスロットが吹き飛ぶ。

 いいや、違う。ランスロットは後ろに跳んだのだ。だが、無傷ではない。ガードした左腕は捻じ曲がり、かつてのアルトリウスのように垂れ下げる他なくなる。

 麻痺の復帰……29.8秒。0.2秒くらいオマケしてくれよ。それだけあれば、穿鬼でHPを完全に削り取れたものを。

 

「俺は……負けられない! 斬った多くの友の死を無駄にはしない! 殺した深淵狩り達を犬死とは呼ばせん! グヴィネヴィア様に誓った忠義を! 何よりも……ゲヘナの……ゲヘナの想いを裏切らぬ為にも……俺は負けられない! 俺は勝つ! 勝ち残り、この世の終わりが来ようとも……この忠義をぉおおおおおおおおおお!」

 

 闇で止血し、ランスロットが駆ける。あれ程の武技を駆使したはずの男が、武骨に、意思だけを頼りに、気力の全てを注ぎ込んだ突進をして来る。その姿にオレは最大の敬意を込める。

 互いに満身創痍。既にランスロットの聖剣は紫光が失せ、本体の漆黒の刀身のみとなっている。それでも彼の剣技に微塵の衰えなどあるはずもない。黒剣も、黒雷も、黒炎も、黒光さえも使えずとも、ランスロットの手にはゲヘナより賜った忠義の証、聖剣が変わらず握られ、それは彼が愛用し続けた闇濡れの大剣と1つになったことを示すように深淵狩りの意匠が色濃く表れている。

 オレは瞼を閉ざし、血に呼びかける。彼女を喰らえと本能の顎を開く。

 

 

 

 

 

「ザクロ……オレは……オマエを……『食べる』」

 

 

 

 

 

 

 オマエを食べた。その死を無駄にすることなく糧として『力』を得たと思っていた。

 でも、違ったんだ。オレはオマエを殺せないことを悔んだ。この世界で狂い果てた、『優しい人』になりたかったオマエを……オマエの『力』を……この血に溶かしたくなかった。

 

『戦え。戦い続けろ。お前にはそれしかないのだから、死ぬまで戦い続けろ』

 

 彼女の今際の言葉が……呪いが響く。

 望んだのはオレの闘争。死する時まで殺し続ける定め。

 

『殺した分だけ強くなれ。どれだけ血塗れになっても、どれだけ憎まれても、どれだけ怖がられても、殺し続けろ』

 

 喰らえ。彼女の『命』を……『力』を……呪いを喰らえ。

 ザクロが望んだのは、オレの果て無き闘争。『優しい人』になったはずの、彼女の優しい呪い。オレを戦い続けさせる為の呪い。

 

 なぁ、ザクロ。

 

 聞こえないよ。

 

 その先は何て言ってくれたんだ?

 

 聞こえないんだ。何も……何も……聞こえないんだ!

 

 突進するランスロットに合わせて、オレは地に突き刺さる刃を……折れた闇朧の刀身を握る。

 刃毀れし、もはや切っ先は潰れているのに等しい。だが、それでもシャルルの時とは違う。完全消滅することなく、折れようとも、オレに最後まで戦えと呼びかけるようにランスロットの足下に残っていた。

 穿鬼で倒せたならば良し。本命はランスロットに跳び退かせること! この闇朧の刃を悟らせないこと! 左手で刃を握れば、いかに獣爪の籠手でカバーしているとしても、刃毀れしているとしても、刃が掌に食い込む。

 痛みが溢れる。それでも、オレは逆手で折れた闇朧を構える。かつてザクロが短刀を振るった時と同じように、その構えをザクロの『命』を啜った血より呼び覚ます。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 落ちていく。『名無し』は竜の神を維持できなくなったのは、自分の仮想脳が……心意が限界に達したからだと把握していた。

 そして、それは計画的に行った……オベイロンを確実に仕留める為の策だった。

 

「大丈夫。俺は……俺達は必ず勝つ」

 

 地上へと落下する中で、震えるシリカを抱きしめながら『名無し』は確信を持って告げる。

 

「お兄ちゃん!」

 

 だって、俺は『独り』じゃないからな。『名無し』は待っていたとばかりに落下が止まるのを受け入れる。

 落ちる彼を宙で拾い上げたのはリーファ。彼女はアルフが持つ天光石によって、陽光は無くとも飛行能力を維持できる唯一の反乱軍のメンバーにして、プレイヤーなのだ。

 ただ飛べるだけ。オベイロンはそう侮っているから気にも留めない。だが、宙でキャッチされた『名無し』は、リーファにアイコンタクトを飛ばす。

 即座に意図を理解したリーファは片腕で無理をして『名無し』の首根っこを掴んだまま振り回し、全力でオベイロンへと投擲する。

 夜明けの光が視界に差し込む。『名無し』は目が眩むも、それ以上に温かな光に全身の力を漲らせる。

 

「シリカ、やり直そう。俺たちは前に……未来に進むんだ」

 

「……はい!」

 

 シリカの右腕にピナが止まって一体化する。『名無し』は聖剣が吸収したドラゴン・クラウンの能力……竜神の拳を発動させる。

 エクスキャリバーの心意はまだ残っている。聖剣と繋がっている。この竜王の拳がもたらすのは極限の痛みだ。

 月光の粒子で模られた巨大な竜王の拳が『名無し』の挙動に連動して大きく振りかぶられ、巨神の胸の中心にピナのブレスが放たれる。

 光の爆発が巨神の肉を抉る。そして、そこには唖然とした、涙と涎で汚れて唇を震えさせるオベイロンの、王の威厳など欠片も無い、今にも失禁しそうな引き攣った表情があった。

 

「た、たしゅけ――」

 

「断る」

 

「お断りします」

 

 竜の拳が振るい抜かれ、巨神のHPを削り尽くすと同時に内部のオベイロンを拳が押し潰す。そのまま竜神の拳は巨神オベイロンを背中まで突き破る。

 宙へと放り出されたオベイロンの絶叫は聞こえることなく、その磨り潰された肉塊だけが虹色の粒子となり、ユグドラシル城へと漂いながら去っていった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 重なる。

 

 数多の戦士を呼び起こし、それを暴虐で塗り潰した武具の園の絶技。それが今まさに、折れたカタナによって再現される。

 

 重なる。

 

 それは虫使いの黒髪の乙女。想いがどれだけ強くとも『力』が足りぬとして一蹴した少女。

 

 重なる。

 

 それが今まさにランスロットの喉元に喰らい付く『力』を宿して、再び彼の前に立ちはだかる。

 

 片腕の自分で凌ぎきれるか? 否! 成し遂げる! ランスロットは微塵の敗北も受け入れずに、黒髪の乙女を重ねた最後の深淵狩りに勝負を挑む。

 翻弄するような短刀を用いた剣技。そこから繋がる急所を狙った連撃。あの娘が使った剣技そのものであり、だが、それは最後の深淵狩りの『力』によって暴虐の狩りの業と化す。

 そのはずなのに、歪んでいない。これこそあるべき形だと言うべき様に、少女の剣技は狩りの業となることで真なる姿を得たとばかりの美しさを示す。

 

 ランスロットは知らない。

 

 ザクロという少女は『普通の女の子』だった。それが世界の狂気によって捻じ曲げられ、『力』を手に入れた。

 

 ただ『優しい人』でありたい少女だった。

 

 だからこそ、彼女にとって『力』とは元来不要なものであり、異物なのだ。求めたものではなく、彼女にとって呪いそのものだった。

 

 そして、彼女は望んで与えた。せめて、そんな『力』でも助けになるようにと、1つの呪いと共に授けた。

 

 

 

 

 

 ならばこそ、そこにあるべき理想も、信念も、矜持も元より存在せず、ただ託した者への『優しさ』だけがあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 故に暴力として完成する。最後の深淵狩りは途切れることなく黒髪の少女と重なり続け、最後の深淵狩りこそが黒髪の少女となる! ランスロットの剣を翻弄し、その視界と意識から消え失せる。

 

 

 

 

 想いだけでは届かなかった少女の武技に、最後の深淵狩りの『力』が寄り添っているのだ。

 

 

 

 

 背後か! ランスロットは極限の集中力で最後の深淵狩りの動きを予測し、【深淵渡り】を発動させる。

 1度は限界に達したが、既に回復の兆しは出始めていた。1回分ならば……短距離1回分ならば発動が可能だ。ランスロットは深淵に溶けて消え、最後の深淵狩りの背後を取る。

 だが、そこには誰もいない。ランスロットの視界に白髪も、重なる少女の幻影の黒髪も映らない。

 

(まさか……【深淵渡り】を『先読みされていた』とでもいうのか!?)

 

 ならば、最後の深淵狩りがいるのは……! ランスロットは振り返る。それは致命的な反応。優れた戦士であったが故に、最後の深淵狩りの居場所を察知して反転しながら斬りかかるという最速最善の判断を下すことが出来てしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、待ち構えていた最後の深淵狩りは、ランスロットの胸に折れたカタナを突き立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 奥義と奥義の激突で鎧の左胸は裂かれていた。その傷口を寸分狂わずに狙った一撃。それは肉に食い込み、心臓へと押し進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、噴き出すゲヘナの影が最後の深淵狩りを吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折れたカタナでは、あの黒い血で侵蝕させて強化を施していても、鋭さが足りず、ランスロットの肉を貫き破るには時間がかかった。それがランスロットに反撃の機会を与えた。回復しきっておらずとも、放出することはできたゲヘナの影。それが最後の深淵狩りを吹き飛ばす。

 だが、最後の深淵狩りの目は変わらず希望も絶望も宿していない。それどころか、ゲヘナの影の噴出を読んでいたとばかりに宙で身を翻して瓦礫の山に着地する。

 吹き飛ばされたのではない。先読みして自ら背後に跳んだのだ。底知れぬ怪物を相手にしたランスロットは、聖剣に再び紫光を宿し、光波を放とうとする。

 しかし、最後の深淵狩りはまるであらかじめ決めていたかのように、瓦礫の山を蹴り上げる。己とランスロットの間に壁でも作るように土煙が舞う中で、夜は失せて白んだ空を映すように輝くのは金属塊。

 ここは聖剣を手にする以前のランスロットと最後の深淵狩りの勝負の場所。そして、ここにはもう1つの武器が放られていた。

 ランスロットの時代には無かったその金属塊は銃と呼ばれる射撃武器。ランスロットはクロスボウの強化小型版と認識し、弾は尽きているはずだと思い出す。

 だが、最後の深淵狩りは宙に舞う銃を右手でキャッチすると同時に左手を、ワイヤーの縫合で切れかけた傷口に押し込み、2発分の銃弾を引き摺り出す。

 己の右手に隠した最後の銃弾。ランスロットは絶句する。

 銃を捨てたのはブラフ。今までの戦いでランスロットに有効打を与えられていなかった銃を、もはや弾薬が尽きたとランスロットに錯覚させ、ここぞという場面で最上の武器にまで高める為の『仕込み』だったのだ。

 最後の切り札。ここにきて……いや、今までの攻撃全てが……あの黒髪の少女を重ねた絶技さえも……すべてが『囮』。この最後の切り札を活かす為の『仕込み』! 完全に反応が遅れたランスロットに、素早く手動リロードした最後の深淵狩りは、2発の弾丸を撃ち放つ。

 光波を放つ為に踏み込んでいたランスロットに、銃弾を躱せる余裕はすでにない。ならばこそ、すべきは銃弾を斬り払うこと。光波の放出に重ねた一閃で弾丸を消し飛ばす他にない。

 

 

 

「俺は……負けられないのだ!」

 

 

 

 右腕だけを使った縦振りの一撃は、光波を放つと同時に2発の銃弾の内の片方を消し飛ばす。だが、もう1発はランスロットの左肩を掠める。

 危うかったのではなどという偶然の安堵は無い。ランスロットは計算し、2発の内の1発が射線上から自分の心臓を貫くと見抜き、危険である1発だけに集中したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何度でも申し上げましょう。アナタの忠義は今宵で終わる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全なる夜明けの光。それが差し込むと同時に、ランスロットの胸に深々と刃が押し込まれる。

 深淵狩りの白髪と幻影の少女の黒髪が重なって揺れ、自身の血で濡れた掌底が穿たれていた。最後の深淵狩りはランスロットの胸に突き刺さったままのカタナの断面を打ち、刃が心臓まで貫き通される。

 銃撃もまた『囮』。いや、本命だったはずの攻撃を、深淵狩りは急遽として『囮』に変えたのだろう。銃弾の対処に集中し、なおかつ攻撃の光波の輝きに紛れて接近していたのだ。

 

「……夜明け、か」

 

 ランスロットは後退るように倒れ、辛うじて形を残していたグヴィネヴィアの像の半身にもたれ掛かるように倒れる。だが、その右手からは決して聖剣を手放さないように、強く握りしめる。

 負けた。負けてしまった。自分の忠義が潰えてしまった。

 ここに来て己の負けを認めない程にランスロットは恥知らずではない。主君の名誉を穢すことになる。

 朝焼けの空の下、地平線より昇る太陽を背にした最後の深淵狩りは……ただ美しく、穏やかに微笑んでいた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ブレスは……止まった、か」

 

 踏み砕いた異形レギオンの頭部の傍らで、ユージーンは両膝をついたまま、崩落し続ける巨大レギオンを見上げていた。その真下の地下空洞にいる彼は、もはや身動きも出来ぬ身ならば、このまま押し潰されて死ぬだろう。

 誰が止めてくれなかったのか知らないが、感謝しなければならない。ユージーンはレギオンの意思を甘く見ていた。それが危うく敗北を引き寄せかけたのだ。

 

「このオレも……まだまだ……か。武の道は……長く……険しい……な」

 

 体が動かない。スタミナ切れのまま無茶をし過ぎた。酷い頭痛と全身の神経が千切れたかのような感覚が広がる。

 

「貴様も……強かった……認めてやる」

 

 踏み潰したレギオンの頭部に、ユージーンは真一文字の唇を緩めて賛美する。

 互いに求めた勝利の執念。互いにそれを見誤ったのが今回の結果だ。レギオンは悪であるが、その勝利の執念に何の感慨を持たないユージーンではなかった。

 

「サクヤ、オレはここまで……のようだ」

 

 巨大レギオンの残骸が降り注ぐ。リーファが救助を派遣するにしても間に合わないだろう。

 だが、無粋な程に安っぽい勝利のファンファーレBGMが流れ、リザルト画面が表示される。革命軍全員に表示されるだろう、今回のオベイロンの軍勢との決戦における経験値とコルは、ユージーンも目を見張る程だ。連続のレベルアップでログが更新される。

 

 

<貴方の戦果:2位>

 

 

 反乱軍全体で今回の決戦の活躍度がランキング付けされているのだろう。ユージーンは自分が2位ならば、1位はUNKNOWNに他ならないと判断する。

 今回は貴様に華を譲ってやる。ユージーンは自分の真上に落ちる残骸を見つめながら、悔しさを否定せずに向き合う。

  

 

 

 

 だが、ユージーンを潰すはずだった残骸は、実体化した影によって受け止められる。

 

 

 

 

 

 彼の視界を彩ったのは虹色の髪。影はそのままユージーンに絡みついて持ち上げると、影の主である虹色の髪の少女に連れられるように宙を舞う。

 少女は軽やかに、まるで最初から崩落する残骸が何処を通るのか分かっているかのように、壁を蹴り、瓦礫を足場にし、影を突き刺してアンカーにしながら地上を目指す。

 動けないユージーンの目に差し込んだのは朝の光。太陽の温もりが地下の寒々しい空気で冷えていた彼の体に優しく染み込む。思わず目を細めたユージーンは、自分を救ってくれた少女を確認しようと視線を動かす。

 そっと巨大レギオンの傍らの地面に下ろされたユージーンに、影を収めていく少女は笑いかける。

 

「……夜明けですね。ですが、これはアルヴヘイムの朝。今も貴方様や多くの者たちは朝の予感もなく、暗闇の夜に囚われています」

 

 可憐な美少女は、ユージーンを労うように彼の頬を撫た。

 

「貴方にもいつか夜明けが訪れんことを。きっと……陛下も、サクヤ様も、それを望まれているはずです」

 

 そして、少女は闇に溶けて消えた。

 彼女が何者だったのかは分からない。だが、確かにサクヤならば、あのような場所で息絶えるなど望まないだろう。

 

「夜明けか。フン、今は感傷に浸ってやる」

 

 今回の戦いは終わった。ならば、今はこの成し遂げた疲労感を肴にして、次なる戦いへの英気を養うとしよう。ユージーンは遅れて救助に駆けつけた反乱軍の面々を、いつものように傲慢不遜に鼻を鳴らして迎えた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 アルヴヘイムの命運を決する戦いが終わったのだろう。夜明けの空の穏やかさに、もはや感じれない世界を喰らう殺気に、その男は静かに瞼を閉ざす。

 

「どうして助けた?」

 

 両足が潰れ、片腕も失ったPoHはアルヴヘイムの何処かの平原で夜明けを迎えていた。

 彼の傍らで腰を下ろしているのはロザリアだ。彼女は豊かな赤髪を朝焼けの風で靡かせながら、自分だってこんなことはしたくなかったと言わんばかりに溜め息を吐いた。

 

「マザーレギオン様の命令よ。アンタを回収しに行きなさいって。戦場を離れて酒場で1杯しようとしたら、マザーレギオン様の目の前だった時の恐怖、アンタに分かる?」

 

 PoHは溺死する寸前、アメンドーズの転移で入り込んできたロザリアによって助け出され、一命を取り留めていた。

 

「勝手に死ぬのは良いけど、アタシを巻き込まないでくれるかしら? それにね、アンタが死んだらアタシのストレスがヤバいのよ。デスガンとアンタを合わせて、マザーレギオン様の無茶振りを3等分! それがアタシの長生きに深く関わってんのよ」

 

「フン……信念も理想もなく、ただ自己利益の為か。くだらねぇな」

 

「アタシは意外過ぎて目玉を引き抜きそうだったわ。アインクラッドの犯罪王様は、思想の為に殉じられる狂人だったとはね。てっきりアタシ寄りの人間だと思ってたけど」

 

 刹那の快楽に身を委ねるのも悪くない。PoHも師に出会わなければ、クゥリと巡り会わなければ、ロザリアと似たり寄ったりの思考のままだったのだろう。だが、今の彼には生きる意味と死ぬ意味を求めるに足る『答え』がある。

 そのはずだったのに、負けてしまった。

 ユウキとの戦いは意思の競り合いだった。PoHの『天敵』という思想家としての『答え』が、1人の少女の『答え』にも至っていない愛情に負けてしまった。

 そして、2人の戦いが結果を分かったかのように、世界を満たす殺気は消えている。『天敵』は今再び隠れてしまった。

 

「ウソ? 泣いてるの? ホントにメンドクサイ男」

 

 泣いてなどいない! PoHはまだ残る右腕で目元を覆い、せめて嗚咽は漏らすまいと奥歯を噛む。

 

「……ハァ。慰めるわけじゃないけど、生きてるならリトライできるでしょ? アタシ達は蘇った死人。リトライ人生そのものじゃない。泣くのも笑えるのも、やり直せるのも生きてるからこそよ」

 

 何か言い返そうとも思ったPoHであるが、これ以上に無い程に心に染み込む正論であったが故に唇を噛んで締める。

 その通りだ。今回の戦いはPoHの負けだ。だが、ユウキは仕留め損なったのだ。生きている限り戦える。この『答え』を成就することが叶う道は残っている。

 

「ありがとう」

 

「は? 今なんて?」

 

「ありがとうって言ったんだ。助かったぜ、ロザリア。お前のお陰で、俺はまだ戦えそうだ」

 

「えーと、そうじゃなくて、アンタが……感謝? なにこれ? ふざけてるの?」

 

 俺だって礼ぐらい口にする。PoHは目元を拭い、夜明けの空を見上げながら、己の心に問いかける。

  

「やり直しだ。計画を練り直す」

 

 手段を選ばぬ方法では『天敵』が目覚めることなどないと思い知った。

 ただこの世の汚れと悲劇を見せるだけでは駄目なのだ。『天敵』に授けなければならない。この世界に『力』を振るい、何もかもを焼き尽くすという意思を宿さねばならないのだ。

 

「死ぬにはまだまだ早過ぎるってわけだ。ククク……クハハハハハハハ!」

 

 まだ死ねない。『天敵』をこの世に放つまで、俺は死ねない。ロザリアが顔を背ける程に、PoHは生の実感を噛み締めながら大口を開けて笑った。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 間に合わなかった。骸骨鍛冶屋から降ろされたユウキは、太陽が昇った空に悔しさを覚えて拳を握る。

 戦いは既に終わったのだろう。少なくとも、クゥリは自力で己を抑え込んだ。それは静まり返り、もはや名残も感じさせない程に消えた殺気から分かる。

 

「ボク……いつも大事な時に……役立たずだ!」

 

 こんな体で駆けつけても助力にもならなかっただろう。

 それでも意味があったはずだ。クゥリに、どれだけ孤独に戦っていようとも、駆けつけてくれる味方がいると教えてあげることができた。たとえ、もはや剣は振るえないとしても、声の限りに応援してあげる事も出来たはずだ。

 

「お嬢ちゃんが助けたかったのは、そんなにも大切な人か」

 

「……うん。心も力も強過ぎて、だから『弱さ』を曝け出せない人。本当は苦しいはずなのに、いつだって耐え抜いて、『独り』で何とかしちゃうんだ。誰かが寄り添ってあげないと、自分が壊れるまで戦ってしまう」

 

 骸骨鍛冶屋は涙を堪えるユウキの頭を硬い骨の手で撫でる。血が通わぬ骨の手は冷えているはずなのに、心の温かさを感じ、ユウキの涙腺は緩くなる。

 涙が零れる。苦しさを涙にして零せる自分が許せなくて、恥ずかしくて、悔しくて、ユウキは嗚咽を堪える。

 

「怖いんだ。クーは自分を傷つけることを躊躇わない。命が燃え尽きるまで戦っちゃう。そんなことを続ければ、いつか取り返しのつかないことになる!」

 

 負けるはずがない。死んでも勝つ。誰もが無条件で信じられる『力』だとしても、ユウキは違うと叫びたい。『力』が足りない時、まるで火力を上げる燃料を投じるように己を傷つけ、苦しめ、壊して戦う。想像もできない程のリスクを背負い、苦痛に耐え抜いて、相手の喉元を食い千切る。

 シャルルの森の時も、ナグナから帰ってきた時も、いつもクゥリはボロボロだった。普通ならば死んでいる状況を覆すのにどれだけの代償を支払わねばならないのか。

 

 

 

 

「だったらお嬢ちゃんが火防女になってやれ」

 

 

 

 

 骸骨老人は疲れたとばかりに腰を下ろし、胡坐を掻くとユウキに目玉の無い頭蓋骨の空洞の眼を向ける。 

 

「ひもり……め?」

 

「ワシも詳しくは知らんが、その昔から続く伝承だ。火の傍に守り人あり。火を絶やさず、火を見守り、火を看取る者。それが火防女だ」

 

 火防女。ユウキは口の中で反芻させる。それは神秘的な響きであり、また生半可な覚悟では決して歩んではならぬ道に思えた。

 

「火はいつか陰るもの。マーリン様は常々そうおっしゃっていた。それが定めだ。逃げられん。だが、だからこそ傍らに火防女がいるのだと」

 

 未だに『答え』はなく、だが探す為の旅路は見えている。ユウキは地上で待っていたアメンドーズを見上げる。深淵の怪物はユウキに敵意を示すことなく、好んだ場所へと転移してもらえるだろう。

 

「助けてくれてありがとう。ボク、そろそろ行くね」

 

「もう間に合わんだろうに。それでも行くのか?」

 

 愚問だ。ユウキは何の迷いもなく、屈託なく笑顔を咲かせる。

 

「うん。追いつけなくても、間に合わなくても、諦めてしまったら、きっと失っちゃうから」

 

 分かっている。今のユウキでは止められない。言葉も届かない。

 そうだとしても、行動しない理由にはならない。いつか必ず見つけてみせる。クゥリの心に届く『答え』を。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 ようやくHPがゼロになったランスロットは、緩やかに闇の塵となり、朝焼けの空へと散っていく。

 死力を尽くし、ようやく倒したランスロットの最期は、オレ達の死闘とは相反して静かなものだった。

 

「なぁ、最後の深淵狩りよ。俺は間違っていたのか?」

 

「間違えたと思っているんですか?」

 

「フッ、まさか。貴様なら必ずそう訊き返すだろうと思ったまでだ」

 

 我が忠義に一片の迷い無し。それは死に際であろうとも、敗北を喫しようとも変わらない。そう示すランスロットに、オレは敵意を抱けなかった。

 オレ達は殺し合った。互いに殺意と闘志の限りを尽くした。だが、憎み合っていたわけではない。

 イリスを殺されたとしても、彼が多くの者にとって怨敵と呼ぶべき存在だとしても、深淵狩りとして討つべき裏切者だとしても、それでも彼の『強さ』は本物だった。

 

「しかし、己を虚言で塗り固めて嘘に殉じる……か。愚者とはまさに貴様のことだ」

 

「それが狩りの全うならば、迷いはありません」

 

「フン。大馬鹿者が」

 

「元より馬鹿ですから。大馬鹿に昇進しても気にしませんよ」

 

 溜め息を吐くランスロットを前に、オレは夜明けの風で靡く髪を抑えながら、ようやく昇った太陽に目を向ける。

 オレが成し遂げるべき狩りの全う。それがもたらす夜明けは未だ遠く、また道筋も夜の闇に呑まれている。照らす月明かりもない。

 だが、それでもいつか朝は巡ってくるはずだ。

 

「ほら、夜明けも悪くないものでしょう?」

 

「そのようだな」

 

 もはや互いに語らうべき事柄など無い。ランスロットは忠義に殉じ、オレは狩りの全うを望む。

 

「グヴィネヴィア様、申し訳ありません。俺は忠義を果たせませんでした」

 

 忠義の騎士の物語はここで終わりだ。

 

「友よ、すまない。俺は……負けてしまった」

 

 彼が謳われることはなくとも、彼こそが騎士の中の騎士であったことを、オレは灼ける日まで憶えていたい。

 

「ゲヘナ……俺を……忠義の騎士と……呼んでくれて……ありがとう」

 

 闇となって崩れていく中で、ランスロットは聖剣を抱く。

 ああ、それくらい許されるだろう。ただ1つの忠義に尽くした、本人は認めずとも彼は『ゲヘナの英雄』だったのだから。彼がいたからこそ、1人の少女は救われたはずなのだから。聖剣を抱いて死ぬくらい英雄の権利だろうさ。

 

「感謝するぞ、最後の深淵狩りよ。我が忠義は貴様に敗れたが、ようやく知ることができた。夜明けとは……こんなにも尊く……温かいもの……だ、と――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、裏切者と呼ばれた忠義の騎士は聖剣と共に闇となって崩れ去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 残されたのは1つのソウル。深淵の……いや、闇の中で見出された光……黒光のソウルだ。

 

<忠義のソウル:裏切りの騎士ランスロットのソウル。グヴィネヴィアよりゲヘナの守護と秘匿を命じられたランスロットは、神々の謀略であると知りながら、深淵狩りの使命と友を裏切り、忠義の誓いを立てた。それはゲヘナの死後も終わることが無かった>

 

 ランスロットは最初から全て分かっていた。

 その忠義に何1つの名誉もなく、自分はゲヘナの隠匿の為の人柱であり、闇に汚れ過ぎた深淵狩りを恐れる神々の厄介払いなのだと承知した上で忠義に殉じることを選んだ。

 彼の忠義に唯一報いたのはゲヘナだけだった。彼女だけがランスロットの苦しみを理解し、彼が歩む忠義の道に寄り添うことを選んだ。

 止めることでもなく、背中を押すことでもなく、その道を歩むならばソウルとなってでも傍らにいることで、彼の魂を救ったのだ。

 オレはただの悪役だ。忠義の騎士の物語を幕閉じさせるために登場した、1人の少女の為の英雄を喰らうバケモノだ。

 

「祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ」

 

 ランスロットの忠義は潰えた。だが、決してその道のりが無駄だったとは言わせない。彼を糧として、オレは歩き続ける。必ず狩りを全うする。

 致命的な精神負荷の受容、停止。途端に体は傾き、視界は歪み、耳鳴りが脳髄を掻き乱す。破裂するかのような、あるいは圧縮されるような、言葉にもできない頭痛がする。

 呼吸ができないほどの嘔吐感。辛うじて息を吸う度に、針の塊を呑み込んでいるかのように痛みが走る。深淵の病はまるで内臓を溶かしているようであり、目玉の奥は熱くて破裂しそうだ。全身が凍えるほどに寒さを覚えているはずなのに、骨の芯から燃え上がっているかのように熱い。

 心臓が痛い。苦しい。何度も何度も止まりそうになる。胸を押さえて蹲り、己の無様さを嗤いたくなる。

 

「サ……チ……」

 

 サチって……『誰』だ? 分からない。でも、憶えている。サチは『アイツ』の悲劇を止めることを望んでいた。オレに依頼を託した。

 夜明けの光は眩しくて、その光が脳を刻む刃となる。目を開く事さえも苦行であるとしても、それでも前に進む以外に選択肢はない。

 反乱軍は……『アイツ』は体勢を整え次第、すぐにでもオベイロンの元へと向かうはずだ。この決戦で勝負はついたとしても、本当の決着はユグドラシル城で行われる。

 させるものか。悪いが、オマエをアスナを救うヒーローにするわけにはいかないのだ。すぐにでも出発しなければならない。

 立ち上がれ。狩りを全うするために。深淵に侵された血を吐き垂らしながら、震える手で大地を掴み、体を起き上がらせる。

 アルヴヘイムの夜明けの光を一身に受け、オレは小さく微笑んだ。

 ランスロット、夜明けは悪いものではなかっただろう? だから、オレは狩りを全うするんだ。

 たとえ『オレ』がどれだけ灼けようとも、人間性を捧げようとも、必ず成し遂げてみせる。

 

「だい、じょうぶ……オレはまだ……『独り』で……戦え、る」




そして、忠義は終わり、騎士は眠りについた。



それでは、300話でまた会いましょう。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。