SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

ミディール撃破。そして、吹き溜まりの最奥へ。






Episode19-08 混沌

「死体ね」

 

「死体よね」

 

「死体だね」

 

 グリセルダ、ヨルコ、ユウキは同じ意見を述べながらも、それぞれ全く異なる顔で、玄関に放り込まれたグリムロックを見下ろした。

 死体だ。そう見紛う程に幸せそうに熟睡している。100年の恋も冷めるどころか、増々の情熱を注いでケツパイルをしたくなるくらいに美しく鼻提灯を作った夫に、グリセルダは無言でケツパイル専用ヒートパイルを取り出した。

 

「夫婦の営みは他所でしろ」

 

 グリムロックを運んできたのは、汗でびっしょり濡れたヘンリクセンだ。ここまでグリムロックを担いできたとなれば大よその労力は察しが付く。

 ヘンリクセンとグリムロックは友誼を交わした間柄とは言い難いが、道は違えども≪鍛冶≫の極致を目指す者であり、それなりの交流はある。それはグリセルダも承知している。

 

「とりあえず、部屋に運んでおくわ」

 

 ヨルコは酒臭い息を撒き散らしながら、グリムロックをこのまま玄関に放置するわけにもいかず、寝室へと運ぶ。グリセルダは苦労をかけて旦那を運んでくれた相手を無下にもできず、客間に通す。

 グリセルダが黄金林檎の工房に戻ってきたのは今朝のことだ。だが、彼女を迎えたのはグリムロックではなく、自己嫌悪で今にもキノコが生えそうな程に落ち込んだユウキだった。部屋の隅で膝を抱えたユウキから事情を聞けば、グリムロックに一服盛られて朝まで眠ってしまったと語られ、どう慰めるべきか分からなかった。

 そこに朝帰りのヨルコが戻り、グリセルダは笑顔で彼女を歓迎し、グリムロックの居場所を知らないのは承知で尋問し、今に至るまで各所に連絡して居所を突き止めようとしていたところだった。

 

「俺の工房に来たと思えば設備を貸せとほざいた。帰る時間も惜しいとな。ここは人目が付き難い辺鄙な場所だ。移動するにも手間がかかる。俺の工房も人目を忍ぶが、街中にあるからな。1分1秒が惜しかったというところだろう」

 

 タオルで汗を拭き、冷たいレモンティーを優雅に飲むヘンリクセンは、グリセルダの質問に淀みなく答える。

 

「夫は貴方の工房で何を作ったの?」

 

「分からん」

 

「分からない? 嘘は止めてもらえるかしら。工房設備を借りたという事は開発ログが残ったとということよ。私を誤魔化せるとでも――」

 

「そういう契約だ。ログは見ないで即時消去した。俺もプライドを持って鍛冶屋を営んでる。対価は既にもらっていた。工房を貸してもお釣りが出るくらいにな。作った武器は騎士装備の輩に渡していたようだが、そいつの素性は知らない。運び屋らしいが、まともな奴とは思えんがな。その反応だとグリムロックが勝手に雇ったか」

 

 ヘンリクセン曰く、彼も専属の為にグリムロックから幾つかの技術を供与してもらった立場であり、大きな借りを抱えたままだったとの事だった。彼はその対価として、刀身をコアとしたレーザーブレード形成技術を渡し、また工房をレンタルさせたという。

 

「レイレナードは俺の発想を超えた装備だった。まぁ、俺の手でそれ以上に仕上げたがな。悪魔と呼ぶに相応しい。グリムロックの悔しがる顔が今からでも浮かぶ。だが、作業風景もログも約束通りに見てはいないが、コイツの顔を見れば分かった。貴様の夫の新作も間違いなく怪物だろう」

 

 その点はグリセルダも把握している。ヘンリクセンのトータルコーディネートは、F1レーサーにはF1カーを、新米ドライバーには軽自動車を割り当てるようなものだ。本人の能力に合わせて最上の装備を作り上げる。故に使用者は最大限に自分の能力を発揮できる。

 対するグリムロックは使用者を一切無視して戦闘機や戦車を作って渡すようなものだ。扱えるかどうかなど気にもかけない。ひたすらにスペックを追い求める。結果、安定性や操作性が著しく欠けたピーキー過ぎる装備ばかり出来上がる。

 

「褒めてるのかしら?」

 

「ある意味でな。だが、同時に貶してもいる。俺のトータルコーディネートはプレイヤーの潜在能力を引き出す為の装備開発だ。装備者を主として開発する。結果として悪魔のような装備が出来るとしても、それは使用者の能力が高かっただけだ。だが、コイツの武器はいずれも使い手を置き去りにし過ぎている」

 

「その件はご安心を。夫の作品の使い手はこちらの最高の傭兵と決まってるの」

 

 グリムロックとは違い、グリセルダはヘンリクセンと親しくない。むしろ、敵にも味方にも回る独立傭兵を支える専属鍛冶屋である以上は危険視もしている。

 そもそもとして、黄金林檎の資産でもあるレイレナードの技術供与をしていた事自体も初耳だ。無論、グリムロックが黄金林檎の再出発以前に開発したものであり、グリセルダと再会する以前にヘンリクセンと取引したとも考えられるが、何にしても寝耳に水だ。

 だが、敢えて顔を出さずに、当然ながら承知しているようにグリセルダは振る舞う。彼女の胸中で唯一絶対的に決定したことがあるとするならば、それは夫が目覚めたら愛と怒りのケツパイルをお見舞いすることだけだった。

 

「随分と【渡り鳥】を信用しているな」

 

「自分が支援する傭兵を信じなくてどうするの? それとも、貴方にはわざわざ負け馬に賭ける悪趣味があるのかしら?」

 

「弱馬だろうと愛着があれば支援して信じるのが人情というものだと思うがな。それとも、貴様は自分の傭兵が強いから信じているのか?」

 

 珍しく言い返されて黙らされたグリセルダは、今回は負けを認めると肩を竦める。ヘンリクセンは人嫌いかつ毒舌で有名だ。舌戦でも簡単には勝たせてくれない。

 

「少し言い過ぎた。謝罪する。悪名高い【渡り鳥】のマネージャーと専属になる。それがどれだけ覚悟のいることなのか、俺も承知しているつもりだ」

 

「こちらは絶賛イメージ戦略中よ。私の計算が正しければ、ここ数ヶ月で少なくとも2パーセントはイメージがプラスに転じているわ」

 

「元のマイナスが大き過ぎるだろう? まずは女装趣味の変態という噂から消すべきではないか」

 

「あら、別にいいじゃない。殺戮を厭わないモンスターよりもずっと愛嬌があって人間味もある噂だわ」

 

「それなら別にいいが、【渡り鳥】はやっぱり女性なのではないかと信じている連中もかなり多いと聞くぞ」

 

「それもイメージがプラスになるなら大歓迎よ」

 

 ヘンリクセンにしては珍しい善意の助言を笑顔で切り返し、グリセルダは自分のレモンティーを口に運ぶ。伊達に【渡り鳥】のマネージャーをしていないのだ。舌先での斬り合いには慣れている。

 いいや、違う。これは八つ当たりだ。自分がどれだけ尽力しても、表面的には改善される傾向が見えても、根本的には大ギルドのみならず、多くの人々に【渡り鳥】は恐怖の代名詞として刻み込まれている。それが憎たらしくて堪らないのだ。

 

「……アノールロンド攻略部隊に参加しなかったそうだな。何故だ? 奴の悪評の一端は知名度の高いミッションに参加していない点も大きい」

 

「事情があったのよ。ちょっとお得意様からサインズを通したくない仕事を受けただけよ。察してくれるかしら?」

 

 嘘も立派な武器だ。右耳にかかった髪を指先で掻き上げながら、グリセルダは打ち消すべき悪名を逆に利用してクゥリ不在を誤魔化す。

 と、そこでヘンリクセンが袖を捲って腕時計を確認する動作に、人間嫌いのヘンリクセンがこうして長居するのは、彼も不安を隠せないからだろうと察する。

 

「確か今日だったわね」

 

「ああ、定期連絡によれば、今日の昼過ぎにアノールロンドのボス戦の予定だ。リーダーのディアベルのみならず、円卓の騎士3人もいる。部隊も精鋭揃いだ。スミスや【若狼】、それにあの馬鹿ナイトがいれば、まず負けはないだろう。だが、相手も人型では過去最強クラスと聞く。さすがの俺も心配するさ」

 

 過去最強。それだけで死者がゼロなどあり得ない。同時にこれだけの精鋭揃いでも勝てないならば、いよいよDBOは『人間の限界』に達しつつあるという絶望の証明となる。そうであるならば、勝利は大前提として、問題はどれだけ生き残れるかだ。

 DBOで最大の戦いと今も語られるのは、やはりシャルルの森における竜の神との戦いだろう。傭兵上位陣と各ギルドのエースが参戦し、終わりつつある街を守った激戦だ。だが、その戦いがあった時、グリセルダはまだナグナに囚われていた。故にリアルタイムでの狂熱を知らない。

 

「早ければ今日の夕方にでも攻略部隊は帰還するだろう」

 

 あくまで勝利して帰還することを前提として、ヘンリクセンは話を続ける。そこにはいかなる苦境であろうとも自分の専属が負けるはずがないという鍛冶屋の矜持があった。

 

「迎えに行くの?」

 

「まさか。それは俺の役割ではない。俺は専属であるとしても鍛冶屋だからな。工房で傭兵の帰りを待つのが仕事だ」

 

 席を立ったヘンリクセンは、最後に忘れ物だとばかりに紙束をテーブルに放り投げる。去り際の挨拶もなく、ヘンリクセンを見送ったグリセルダは、HENTAI鍛冶屋とは誰も彼も変人だと改めて認識する。

 

「あれ? ヘンリクセンさん帰っちゃったの?」

 

 数十秒の遅れでトレイに切り分けたケーキをのせて運んできたユウキは、残念そうに息をつく。クラウドアース……ヴェニデの館でメイドの兼業をしているだけあってか、飾り付けに至るまで芽生えたプロ意識が垣間見えた。

 

「ええ。彼にも待たなければならない人がいるのよ」

 

「そっか。スミスさんもアノールロンドに行ってるもんね。無事に帰って来るといいね」

 

「……クゥリ君も無事に帰って来るわよ」

 

 グリセルダもクゥリの安否は気がかりだ。だが、彼ならばいかなる苦境も乗り越えられるはずだとも信じている。

 ナグナの時もそうだった。たった1人で深淵の魔物を打倒した。参戦できなかった自分を呪いもしたグリセルダであるが、結果的に見れば、彼の戦闘能力を発揮するには仲間こそが枷になるという残酷な事実を突きつけられた。

 だからというわけではない。グリセルダは今でもクゥリが単身で危険な相手……ネームドなどと戦うなど認可できない。撃破できたとしても、それは結果に過ぎないのだから。

 

「その紙束は?」

 

「ヘンリクセンさんの置き土産よ……って、あら? グリムロック名義の借用書ね」

 

 紙束を解いたグリセルダは絶句する。

 グリムロックは太陽の狩猟団からアイテムを購入する為に多額の借金をしたのだ。その額は600万コルにも及ぶ。同封された売買契約書によれば、グリムロックが購入したのは太陽の狩猟団が保有するレア装備である引き合う石の剣である。太陽の狩猟団も数本しか保有していないとはいえ、600万コルなど余りにも足下を見た金額を吹っ掛けられている。

 

「これ……払えるの?」

 

「黄金林檎の資産を売却すれば、何とか工面はできるわ。だけど、これだけの現金を期限までに準備するとなると、技術を幾つか手放すしか無さそうね。契約相手はやっぱりミュウか。グリムロックも交渉慣れはしているけど、相手が悪いわ」

 

 それとも条件を呑むしかない程に切迫していたのかもしれない。だが、それをまんまとミュウに利用されたのだろう。

 ミュウの狙いは返済期限までに現金を準備させず、こちらの技術を奪うことだろう。既に黄金林檎が有する売却ルートの幾つかに妨害工作をかけているかもしれない。

 他の大ギルドの力を借りるにしても、同じように足下を見られる。何かしらの条件を強いられるだろう。

 

(幾ら高値のつくアイテムを持っていても、売れなければ意味がない。NPC商人に売っても二束三文だし、嵌められたわね)

 

「半分出そうか? グリムロックさんの衝動買いは今に始まったことじゃないし……」

 

「むしろ半分も出せることが驚きよ。ユウキちゃんの資産っていくらなの?」

 

「エヘヘ。アルヴヘイムでちょっと稼ぎ過ぎちゃって。それにボクも蓄えはあるし、コルは装備を新調してもギリギリ余るから大丈夫」

 

「そうなの。でも、これは黄金林檎……いいえ、『夫婦』の問題よ。私が何とかするわ。それに、どうせクゥリ君の新装備を作る為だったのだろうし、いざとなったらクゥリ君の財布を当てにするわ。返済期限までに帰ってくれればの話だけどね」

 

 だから気にすることはない。そう言い切ろうとしたグリセルダは、驚愕した様子のユウキに肩をつかまれる。

 

「それ、どういう事!? どうしてグリムロックさんが新装備を!?」

 

「へ、ヘンリクセンさんが教えてくれたのよ。グリムロックったら、わざわざ彼の工房で――」

 

 と、そこまで言って、どうして気づかなかったのかとグリセルダは己の愚かさを呪う。

 グリムロックがわざわざ新装備を開発する。それもこのタイミングで何故? クゥリが帰って来てからでも問題なかったはずだ。

 

「まさか……クゥリ君は……いえ、幾ら彼でも……!」

 

 アルヴヘイムは激戦に次ぐ激戦だったとグリセルダもユウキから聞いている。その中でもクゥリは単独で動いていたらしく、彼女が出会った時には既に疲労困憊といった様子だった。

 その後どれだけの戦いを経たのかは知らないが、グリセルダが各所で情報を集めた限りでは、アルヴヘイムから帰還した面々はいずれも疲弊の限りを尽くし、長期休養が必須の状態だった。

 クゥリが新装備を必要とした。だからグリムロックが準備した。それもわざわざヘンリクセンの工房を利用してまで火急に済ませた。

 過去に1度だけ、ナグナで1発勝負で装備を開発した時だった。だが、それはグリムロックも含めた全員が追い詰められていたからこそのギャンブルだ。普段の彼は、装備を開発するにしても試行錯誤を繰り返し、時間とコストをかけて確実に仕上げていく。

 だが、グリムロックはヘンリクセンの工房を借りる程に焦り、そして武器を仕上げた。間違いなく、クゥリのメインウェポン級を作る為だ。

 

「……クーは馬鹿だから。自分で止まることは……どうやっても出来ないから」

 

 涙を両目に溜めたユウキは、零すまいと袖で目元を拭う。グリセルダは今すぐにでもグリムロックを叩き起こして事情を聞くべきだと立ち上がるも、黒紫の髪を靡かせてユウキは腕を伸ばして止める。

 

「グリムロックさんはクーの為に仕事をした。責めないであげて。きっと必要なことだったはずなんだ」

 

「そうかもしれない。でも、それでも! 私には事情を知る権利があるわ!」

 

「うん、だけど、それはグリムロックさんが起きてからにしようよ。今は寝かせてあげて。お願い」

 

 大仕事を成し遂げただろうグリムロックを労わるユウキに、グリセルダは髪が乱れる程に頭を掻き、気を落ち着けるようにケーキを頬張る。

 

「私はサインズ本部に向かうわ。あのコが1度戻って来たならば、必ずサインズには顔を出したはず。いえ、もっと早くに尋ねるべきだったわ」

 

 クゥリの性格は承知していた。それでも、心の何処かであり得ないはずだと勝手に思い込んでいた。幾ら彼でもまずは帰って来て体を休め、装備を整える時間を求めるはずだと。

 だが、分かっていたはずだ。ナグナの後もクゥリは戦っていた。獣狩りの夜に参じて戦い続けていた。ならば、今回も同じだ。アルヴヘイムが終わったならば、すぐに新しい戦いへと身を投じる。彼からすれば、何の迷いも必要のない『いつも通り』の事なのだから。

 

「貴方はヨルコと一緒に工房で待ってなさい。グリムロックが起きたら事情を聞いて」

 

「ごめんなさい。ボクもそろそろ出発しようと思うんだ」

 

 頬を掻きながら、ユウキは黄金林檎の工房を離れると告げる。眠ってしまったとはいえ、1晩経っても帰って来なかったクゥリをここで待つ気はないのだろう。だが、新たな武器を製造してもらう為にクゥリが戻って来る確率が最も高いのは、間違いなくこの場所だ。

 

「ボクはボクが待つべき場所に行くよ。そこでクーを待ってる。それが今のボクに出来る『追いかける』ことだから」

 

「……そう、分かったわ」

 

 何処に行くのかとグリセルダは聞かなかった。今の自分にはその権利など無いと思えたからだ。

 ユウキも去った応接室で、グリセルダは余ったケーキをひたすらに口に運ぶ。太る心配がないのは仮想世界の特権だが、それもアップデートでいつ変わるか分からない。

 

「お馬鹿。本当に……お馬鹿なんだから。思いっきり叱ってあげないと。だからお願い、帰って来て」

 

 イメージ戦略はまだまだ途上なのだ。グリセルダは今にも白の傭兵がひょっこり顔を出しそうな気がしたが、彼女を待つのはクゥリの行方など知ったことないとばかりに酒盛りするヨルコだけだ。

 このお気楽さは羨ましくもなる。今だけは酒が欲しいとヨルコからグラスを奪おうとするが、彼女は死んでも譲らないとばかりに手放さない。

 

「グリセルダさんは飲んじゃダメ」

 

「私も飲みたい気分なのよ」

 

「駄目ったら駄目。私はいいの。【渡り鳥】がここでいつも見ているのは、飲んで酔っ払って情けない姿を晒している私なんだから。だから、それでいいの。でも、グリセルダさんは違うでしょう?」

 

 ヨルコも気にしてないわけではない。アルヴヘイムに出立するのを見送ったのは彼女なのだから。

 だからこそ、ヨルコはいつもの日常を続けるつもりなのだろう。それは彼女なりのクゥリの待ち方なのだ。

 

「頼んだわよ」

 

「任せなさいって」

 

 注ぐのも面倒だとばかりにワインを瓶口から飲み始めたヨルコに呆れながら、グリセルダはサインズ本部を目指して出立する。

 私には私の待つべき場所がある。そこに帰って来るかどうかは別としても、それがグリセルダの待ち方なのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「無茶のし過ぎだ。キミには帰りを待ってくれている人がいるのだろう?」

 

「それは……みんな……同じ、ですよ」

 

 全身が痛い。まるで痛覚が残留しているかのように痛みが抜けない。アバターの修復はもう終わっているにも関わらず、ラジードの全身は今も全身をズタズタに剃刀で刻まれたかのように痛みが広がっていた。

 致命的な精神負荷の代償。それがもたらす後遺症なのだろう。あれだけの激戦後も冷静過ぎるスミスの診断によって、ラジードの痛覚遮断機能は大よそ2割ほど不全にあることが発覚した。即ち、本来は特有の不快感として与えられるはずのダメージフィードバックであるが、その内の2割ほどが通常の痛みとして生じることになる。

 

「軽く済んだ方だ。もう2度とするな。スタミナ切れの状態で無理に行動しただけでも障害が生じることもある。キミの場合は回復に更に時間がかかるだろう。他に症状は無いか?」

 

「頭が……痛い、です。それだけじゃない……熱くて、脳が内側から溶けるような……何て言うべきか……そう、『灼けた』ような痛みと熱と喪失感が……あります」

 

「ふむ、頭痛はまだ良いとして、喪失感か。具体的には?」

 

「自分の……自分を構成する大切何かが……こう、灼けて灰になった……ような……」

 

 ラジードからのヒアリングに、スミスはしばらく悩むように顎を撫で、煙草を吸うかと差し出す。ラジードは受け取り、円柱にもたれかかりながら一服する。だが、相変わらず不慣れなラジードは咳き込むだけだった。

 

「改めて警告しておこう。何があっても2度と使うな。別にスーパーパワーが手に入るわけではないのだろう?」

 

「みたい、です。でも……凄く、自由、でした。体を……動かしやすかった、というか……」

 

「キミはVR適性が決して高くないそうだな? ならば当然だ。運動アルゴリズムを通さずに情報処理を全てキミ自身の脳で負担したのだからな。キミ自身が無意識に感じていた僅かなラグもその間だけは払拭されたはずだ。それに……」

 

 それ以上は説明することも憚れるといった様子のスミスだが、ラジードの好奇心……いや、己に何が起きたのか知りたいといった眼差しに観念したように自分もまた煙草を吸う。

 

「断定できないが、火事場の馬鹿力というやつだ。脳が致命的な精神負荷の受容をすぐにでも終わらせる為に、潜在能力の全てを引き出そうとしたのだろう。専門家ではないが、あり得ない話ではない。何度もそういう連中を見てきた」

 

「それって……」

 

「何度でも繰り返そう。2度と使うな。キミには高VR適性は無い。だが、それを抜きにしてここまで戦い抜き、なおかつトッププレイヤーとして数えられるまでに成長した。他が軒並みに高VR適性の連中ばかりでありながらな。キミはこれまでと同じ戦い方でも十分に強くなれる。最短最良の結果を引き出すのは、最善の地道な努力だ。それに、同じ行動をして同じ結果を引き出せるとは限らない。むしろ、意図して行えば失敗するのが世の常というものだ。偶然は偶然として処理しておきたまえ。その方が今後の為だ」

 

 今後……その単語にラジードは涙を流しながら笑う。明日があるからこそ、未来を考えて選択と行動ができるのだ。

 生存者はラジードを含めてたったの8名だ。ディアベル、スミス、グローリー、主任、他3名である。

 主任は普段と違い、黙ったまま壁にもたれ掛かっている。同僚のウルベインの死を悼んでいるのかもしれない。グローリーは半ば錯乱している生存者3名の相手をしながら、せめてもの弔いだとばかりに犠牲者の遺品を集めていた。

 ここはボス戦となった謁見の間からリフトで上がった先にある2階の踊り場だ。その先には仰々しい両扉がある。あの先に何があるのかは不明であるが、ディアベルは単身で向かい、まだ帰ってきていない。

 グローリーの言葉が響く。『未来』と『明日』。それは似て非なるものなのだろう。グローリーは馬鹿であるが、それでも2つを区別して使い、スミスの本気を引き出した。

 

「傭兵最強談義に仲間入りなんてやるじゃない。この色男♪」

 

 疲れを癒すようにラジードを見下ろしながら煙草を吸っていたスミスに寄りかかったのは、ボス戦終了後に救助に来たアラクネだ。彼女たちの傭兵団もまたグローリーと共に遺体回収を行っている。

 アラクネ傭兵団の役目はボス戦までの露払いであり、疲弊した攻略部隊の帰還までの護衛だ。だが、あの激戦に彼らが参戦してくれていれば、という理不尽と分かっていても怒りを禁じえないラジードは、自らの感情に戸惑う。

 そう、怒りだ。アラクネに対する明確な『殺意』だ。アラクネは自分の仕事を完遂しただけだ。彼女が参戦していれば確かに楽にはなったが、その分だけ犠牲者も増えただろう。また、最後の【竜狩り】オーンスタイン相手では焼け石に水だったと言わざるを得ない。

 だったら、この殺意は……怒りは……闘争心は何だ? ラジードは自分に問いかける。

 

(あの時……致命的な精神負荷を受容して……僕はどうやって意識を……自我を保ったんだ?)

 

 そうだ。分かってる。ミスティアのことを考えた。ディアベルを……助けたい全てを助けるという意思が意識を留めてくれた。彼女への想いと救いの意思が戦う為の1歩をくれた。

 だが、その後の乖離しそうになる意識を固めてくれていたのは? デーモン化だ。デーモン化がもたらす闘争心の増長だ。

 

(まさか、そのせいで……僕は……)

 

 人間の精神を変調させるデーモン化の情報処理さえも己の脳で行った。それが人格にまるで影響を与えないと言えるだろうか? 己自身が灼けて崩れていくような中で、本当に悪影響は無いと断言できるだろうか?

 できるはずがない。ラジードは咥えた煙草を揺らしながら、スミスの言う通り、これはスーパーパワーをもたらしてくれる必殺技などではないと改めて認識する。

 

(だけど、後悔はない。ディアベルさんを助けたかった。だから僕の体は応えてくれた。それでいいじゃないか)

 

 たった8人。されど8人だ。ラジードは生存者7人になるはずだったのを1人増やすことができたと捉える。ミスティアならば、きっとそうやって励ましてくれるはずだと信じた。

 ラジードは打算しない。だが、大ギルドの視点から見れば、彼の行動は大きな意味を持つ。聖剣騎士団のリーダーであるディアベルの命を、教会経由とはいえ太陽の狩猟団の若きエースが命懸けで守った。この尊い行いは、太陽の狩猟団の名声を高め、また友和の雰囲気作りに役立ち、開戦を確かに遅れさせるだろう。

 意図せずともラジードの短絡的とも言える救いの意思が、戦争回避を願う者たちの一助となった。それを当の本人はまるで自覚せず、むしろ目の前の独立傭兵とオーンスタインの戦いばかりに意識を向ける。

 最後のスミスは見たことも無い新装備を纏い、【竜狩り】オーンスタインと互角……いや、それ以上に戦い、見事に単騎で討伐した。無論、そこまで追い詰めたのは死者も含めた攻略部隊全員の功績であるが、最後の1戦のMVPは間違いなくスミスだと満場一致だろう。

 だが、生存者の目は芳しくない。グローリーは相変わらずの馬鹿であり、ラジードも何のフィルターもなくスミスの凄まじい強さに憧れを抱いた。だが、他の3名やディアベルは必ずしもそうではないようだった。特に他3名はまるでスミスが悪魔だと言わんばかりの目つきである。

 それほどまでにオーンスタインが強過ぎた。間違いなくDBO最強の人型だろうとラジードは信じたかった。あれ以上の人型など考えたくも無い。

 

(あ、そっか。だからスミスさんが怖いのか)

 

 余りにも強過ぎたオーンスタインを単騎で撃破したのだ。それも尋常ではない戦闘能力を見せつけた。しかも明らかに本人はまだ余裕が残っている。この中でもグローリーという例外を除いて疲弊していないだろう。弾薬を渡されたら即座に新しいミッションでも引き受けることが出来そうな様子だ。

 

「離れてくれ。私も疲れている」

 

「良いじゃない。これで、ラストサンクチュアリ壊滅戦のオファーがかかるのは確定ね。羨ましいわ。きっと破格の報酬なんでしょうね」

 

「興味はない。与えられたミッションをこなすだけだ」

 

 後悔していないのはスミスも同様なのだろう。寄りかかるアラクネを引き離す。だが、これから彼は新たな視線を浴びることになるだろう。

 遺体も消えない。多額のコルを使えば転送もできるが、まずは彼らをどうするのか話し合わねばならない。

 生存者7名ともなれば分配されたコルも相当なものだ。教会経由ということもあり、幾らか『寄付』として差し引かれるが、それでも十分に高額だ。だが、ラジードは太陽の狩猟団出身であり、得たコルは1度ギルドに収めねばならない。その後、戦果諸々を計算して改めて獲得額が決まるのだ。

 これもギルドに身を寄せる者の定めだ。そもそもとして、ギルドメンバーである限り、戦闘で得たコルの1部は自動的にギルドにプールされる仕組みなのだから、わざわざ回収されるなど2度の減額ではないか、とラジードは普段ならば抱かなかった不満を膨らませ、慌てて深呼吸する。これも後遺症の1部……過ぎた闘争心がもたらす反骨精神なのだろう。

 

「【若狼】も頑張ったじゃない。褒めてあげるわ。今度よければ私を雇ってみない? そうね、『夜の護衛』なんてどう? 貴方からの依頼なら1度だけ3割引きで請け負ってア・ゲ・ル♪」

 

「それはどうも。機会があったらギルド経由で真っ当に依頼させてもらいます」

 

「あら、残念」

 

 ミスティアにまだ殺されたくないし、彼女を裏切りたくない。ラジードは至極全うにアラクネのお誘いをやんわりと断る。

 

「でも、勿体ないわね。聖剣騎士団の規定で、ラストアタックを決めてもスミスにソウルアイテムの獲得権は無いのでしょう?」

 

 聖剣騎士団の傭兵雇用の規約として、独立傭兵の場合、得られたアイテムは全て手放さねばならない。その代わりとして基本報酬を高めに設定しているのが聖剣騎士団のやり方なのだ。太陽の狩猟団も似たようなものであるが、アイテムは買い取り制で必ずボーナスが上乗せされる。この点において、後からの買い取り制であるクラウドアースとは違う。だが、多くの独立傭兵は基本報酬が高いならば十分と聖剣騎士団の方針にも、ボーナス製の太陽の狩猟団のやり方にも納得している。どれだけソウルアイテムを持っていても、それを加工できる設備と活かせる技術を有しているのは大ギルドなのだから当然だ。

 

「いいえ。ディアベルさんの意向でオーンスタインのソウルはスミスさんの所有物になるそうです。彼がいなければ、とてもではないですけど倒せませんでしたから。だから、ギルドリーダーの権限による特別報酬らしいですよ」

 

「そんなに強かったの? 円卓の騎士3人死んだのには訳があるってことね」

 

「ええ……本当に強かったです」

 

 実際に目にしていないアラクネも、円卓の騎士3人死亡とこの惨状を見れば、どれだけの激戦だったかは想像ついていたのだろう。だが、ラジードの重々しい発言に、改めてスミスを見て、ぎこちなく笑った。

 恐ろしい。見た者を、聞いた者を、感じた者を慄かせる、絶対的な暴力。それが今のスミスの雰囲気には混じっているような気がした。

 こんな風になるからこそ、スミスは最後まで本気を出さなかったのかもしれない。ラジードはそう思うと無性に哀れで仕方なかった。彼に助けられたのは事実なのに、どうしてそれを素直に喜べないのか、まるで理解できなかった。

 自分が鈍感なのか、世界が鋭敏なのか。どちらであろうとも、ラジードは感謝の念しかない。彼がいたからこそ、自分はこうしてミスティアの元に帰ることができるのだから。

 

「みんな、ご苦労だったね」

 

 煙草が吸い終わると同時に扉の奥から戻って来たディアベルは、生存者とアラクネ傭兵団を見回し、勝利を示すように笑んだ。それが仲間たちの弔いだと信じているかのように、仰々しく、誇らしく、猛々しく、彼が何を得たのかを示す。

 アイテムストレージから具現されたのは、鈍い金色の巨大な器だ。人間1人ならば簡単に受け入れられそうな程の大きさである。

 

「【王の器】。完全攻略の『必須』キーアイテムだ。これが無い限り、完全攻略は『不可能』だということさ」

 

 どうしてディアベルがこれ程までにアノールロンド攻略に拘ったのか。その理由が明らかになった。

 王の器の入手。それは完全攻略を御旗として掲げる大ギルドにとって、何としても手に入れねばならなかったアイテムだったのだ。今まさに、円卓の騎士3人というトッププレイヤーと彼らに次ぐ精鋭部隊の損失と引き換えに、聖剣騎士団は他2つの大ギルドや教会に対して絶対的なアドバンテージを手に入れた。

 それを素直にラジードは祝福する。彼は太陽の狩猟団に属しているが、個々の大ギルドの方針の違いには無頓着であり、むしろ全員で協力し合えるならば越したことは無いという考えの持ち主だ。聖剣騎士団が攻略の正当性を得たならば、他の大ギルドは全面的に協力、ないし合併していけばいい。太陽の狩猟団のリーダーであるサンライスも、それが完全攻略に必要ならばディアベルの下に付ける『漢』なのだ。

 だが、またしてもラジードの安直な考えとは異なり、これは大きな波乱をもたらす爆弾であると、少なくともスミスとアラクネという2人の独立傭兵は即座に把握していた。

 

「それで、その王の器にはどんな機能が?」

 

「焦らないでくれ。詳細はいずれ聖剣騎士団から正式に発表させてもらう」

 

 ラジードの質問に今は答えるべき時ではないとディアベルははぐらかす。そして、もう1つ伝えたい事があると言うように胸を張る。

 

「あの扉の奥にもう1つ重要なものがあった。そう、コンソールルームだ。この場の何人かは承知かもしれないが、コンソールルームでは特別な権限を振るうことができる」

 

 ラジードも太陽の狩猟団の極秘任務で、コンソールルームというDBOにおいて特別な場所の探索に当たったことがある。だが、いずれも外れであり、本物を目にしたことは無かった。

 アラクネ傭兵団は知らなかった様子であり、いずれも首を傾げている。何とか噛み砕いて理解しようとしたらしいアラクネは質問を求めるように挙手した。

 

「それは限定的だけど、GM権限を振るえるような場所、という認識でいいのかしら?」

 

「正確には異なるが、その認識で構わない。たとえば、これまでのアップデート……体臭や流血システムなどもこのコンソールルームでアップデートされたものだろうね」

 

 それは初耳だ。てっきり後継者の悪意的なアップデートかと思えば、それだけでは無かったのだ。だが、どうしてわざわざプレイヤー側がアップデートを行わねばならないという謎も生じる。

 

「ここにいる皆は共に戦った『仲間』だ。だから教えたい。コンソールルームは使用する事によって、ある条件がクリアされていく。それは完全攻略に関わる事だ」

 

「つまり、この胸糞悪いアップデートはいずれも完全攻略に必要な事だったってわけね? その条件は?」

 

「悪いが、俺だけの一存では言えない。『3大ギルドの約定』があるからね。だけど、アップデート内容は使用者が選べるし、何もそれだけではないんだ。たとえば、1つのコンソールルームにつき、1人だけならばDBOから脱出させることもできる」

 

 大きなざわめきが生まれる。DBOからの脱出とは、完全攻略を待たずして現実世界に帰還できることを意味するからだ。

 たとえ殺してでも現実世界に帰りたい者もいるはずだ。だが、ディアベルはあの扉の奥のコンソールにはその能力がもはやないと伝える。それぞれのコンソールルームには割り振られたポイントがあり、その範疇でしか使えない。また、振るえる権限もまた個々で異なるとの事だった。

 

「これ以上は俺の口から伝えるべきではない。だが、俺はこのコンソールルームで『リスト』を手に入れた。完全攻略に不可欠なリストだ。そしてもう1つ、あの欺瞞の象徴……『死者の碑石』の撤廃もしてきた。タイマーは1時間後にセットしたから、これからアップデートメッセージが皆に飛ぶはずだよ」

 

「なっ!?」

 

 思わずラジードはディアベルの正気を疑う。死者の碑石とは、全プレイヤーの生死を確認する為に不可欠なものだ。黒鉄宮跡地にある、あの黒い碑石にどれだけのプレイヤーが希望を託し、また絶望したか分かったものではない。

 だが、ディアベルは必要だったのだと首を横に振る。

 

「ラジード君、よく思い出すんだ。あんな小さな碑石に果たして『何万人ものプレイヤーの名前が書かれている』と本気で思っているのかい?」

 

「は? 何を言ってるんですか? 現に僕らの名前は――」

 

 待て。『何万人』とはどういう意味だろうか? 混乱するラジードは、1つ1つ思い出す。

 DBOが始まった時に閉じ込められたプレイヤーは1万人超だ。それは後継者が宣言した。だが、思い出そうとすればするほどに、何かがおかしい。それこそ初期のころから『プレイヤーの数が公表数に反して多過ぎる』。また、ここ数ヶ月以内で明らかにプレイヤー人口が『増加』している。

 

「な、なんだよ……これ?」

 

「分かっただろう? 俺達は最初から騙されているんだ。このDBOには大きな欺瞞と謎がある。俺はその内の1つ、皆を真実から逸らす『嘘』を剥ぎ取るつもりだ。その為に不可欠なのがこのリストであり、また死者の碑石の破壊だったんだ。もちろん、死者の名前を残さないなんて真似はしない。新たに『墓石システム』というのも起動させたよ。俺達聖剣騎士団が運営している墓所と似たようなシステムだ。決して死者を蔑ろにするものではないさ」

 

「だけど、それでは生存者が……」

 

「ラジードくんの言う通り、確かに生存者の安否確認に死者の碑石は利用されてきた。だけどね、あそこに名前がある。それだけで無条件に生を信じる。それもまた烏滸がましいことだと俺は思う。その思い込みこそがキミを真実から遠ざけていた1つの呪いかもしれないんだ」

 

「……僕には、分かりません」

 

「俺もだよ。皆もそうだろう。だけど、どうか信じて欲しい。いや、少し時間をくれ。俺は必ず公表するつもりだ。この世界の真実を皆に伝えるよ。それを聞いた上で判断してもらいたいんだ」

 

 しゃがみ込んだラジードに、ディアベルは優しく肩を叩く。敵対するギルドのリーダーと若きエースだ。それでも、ディアベルは助けられた恩義を感じ、またラジードはギルドなど関係なく人命を救うという意思があった。

 ラジードが目指すのは完全攻略だ。現実世界に帰還すれば皆が救われる。そう信じて戦ってきた。だが、果たしてディアベルも同じ光景を目指して戦っているのか、彼の行動を通して疑念を抱く。そして、それは自陣である太陽の狩猟団、またクラウドアースにも向けられていく。

 完全攻略とは何だ? ラジードは帰還の準備を進めるディアベルの背中を見ながら考えるも、納得できる答えは出ず、以前と変わらずに現実世界への帰還だけがビジョンとして浮かび上がるばかりだった。

 

「深く考えるな。休める時に休んでおきたまえ」

 

 スミスの言う通り、今は休むべきなのだろう。ラジードは苦笑いながら、この男は全て見据えているような気がして、自分は根本的に情報収集を怠り、また所属するギルドに対しても些か以上に無頓着だったのではないだろうかと反省する。

 

「アラクネさん、護衛を頼むよ。それから……皆の遺体をこのままにはしておけない。1人でも連れて帰ろう。それが無理なら転送システムがあったはずだ。どれだけコルを使って構わない。後から聖剣騎士団が補填しよう。彼らの遺体をこのままにしないでくれ」

 

 ディアベルの行動には納得できていない。だが、やはりサンライスが認める男だ。ラジードは遺体を放置できないというディアベルの意思に賛同し、下で待つグローリーと合流しようとする。

 

 

 

「皆さん! 来てはいけません!」

 

 

 

 

 だが、グローリーの張り裂けるばかりの警告が聞こえ、ラジードは何事かと決戦の舞台となった広間を見下ろす。

 あれだけの激戦を繰り広げ、円柱は崩れ散ろうとも、黄昏の光を浴びたアノールロンドの威光は微塵も陰っていなかった。

 だが、密やかに、じっとりと濡れるように、それは穢されていく。

 いつの間にか広間の大部分を侵食しているのは汚泥だ。それには見覚えがある。ライドウたちが絵画に呑み込まれた後に目撃した泥だ。だが、今こうして改めて見れば、あの時どうして感じられなかったのかと思うほどに忌まわしき存在だと悟らされる。

 それは蕩けた肉の泥。数多の人骨や頭髪が紛れ込んだ、悪しき集積だった。そして、その根源たる巨大な泥肉は蠢き、先端には青白い肌をした人間の上半身があった。だが、今はそれも背骨から折れ曲がり、ただの飾りのように泥肉を彩るのみである。

 

「あ、あれは……!」

 

「ディアベルさんはここで待機を! 僕が行きます!」

 

「だが――」

 

「貴方が死んだら、死んだタルカスさん達が報われない! お願いです、待機を! アラクネさんもディアベルさんの警護を!」

 

「……分かった。頼んだよ」

 

「OK。大将のお守りは任せなさい!」

 

 生存本能が警告する。あれに近寄るな。あれは許してはならない存在だ。ラジードは後遺症で上手く動かない体に筋を通すように気合を入れるが、それで補えるものでもなく、走り出そうとした1歩目で派手に転倒しそうなるも、特大剣を杖にして強引に体勢を立て直す。

 グローリーはアーマーテイクオフによって裸体だ。大盾も半壊している。片手剣は無事であるが、あり得ない事に泥肉の持つHPバーの数は16本だ。手傷を負わせてもほとんど意味が無い。

 その名も<神喰らいのエルドリッチ>。汚泥はグローリーの奮戦で傷つきながらも、並べられた戦士たちの遺体に泥を伸ばし、貪り喰らうように引きずり込む。

 

「や、止めろぉおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 ラジードは喉が割ける程に叫び、特大剣を担いで振り下ろす。一撃の名の下で汚泥を断てば、エルドリッチは大ダメージを受けて引き下がる。だが、6人以上の遺体が……リロイも含まれる亡骸がエルドリッチの内部に引き摺りこまれていく。

 まるで顎を何度も動かすように身を震えさせ、そして痩身の上半身は背骨を修復したかのように体を持ち上げる。だが、両腕はまだ折れたままだ。亡骸を喰らうことで回復したのだろうが、まだ補いきれるものではないのだろう。

 痩身の上半身が口を開けば、泥肉塗れの舌が伸び、自らの腹に突き刺さる。そこから取り出したのはリロイの得物であるグラントだ。銀色の巨槌を振り回し、エルドリッチはグローリーを迎撃する。

 だが、オーンスタイン&スモウ戦を経たラジードの目には分かる。グローリーの敵ではない。この敵からは強大な力と恐怖を覚えるが、それは己のものではない。使いこなすこともできない。ただの醜悪なパッチングだ。

 

「援護しよう」

 

「おや、先程の騎士☆アーマーは装着しないのですか?」

 

「私は騎士ではなく傭兵だと、これも何度言えばいいのだろうね? それにこの程度の輩はキミだけで十分だろう?」

 

「僕もいます。コイツは……絶対に許すことはできない!」

 

 即座に陣形構成。スミスがバックアップ、グローリーとラジードが近接戦を担当する。アノールロンドを経て完成したコンビネーションは伊達ではない。もはやここにいる3人は即席パーティではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、オーンスタインの黄金の雷すらも霞むだろう、橙色がかかった巨雷がエルドリッチを焦がし潰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞ったのはカラスを思わす黒羽。だが、それをばら撒くのは鳥ではなく竜。まるでカラスのような翼を有したドラゴンが、アノールロンドのショートカットである正面大扉から一直線に駆け、その巨体を強引にこの場まで突っ込ませてきたのだ。

 だが、雷を放ったのは竜ではない。そして、黄金ではなく橙色がかかった雷が示すのはより特別だ。

 

 

 即ち、グウィンの直系。それに連なる奇跡、もしくはその力そのものである。

 

 

 

 竜の背に乗るのは、まるで数多の戦場を駆けた野戦の主の如き風格の男。だが、その顔は亡者のようにくぼんでいる。だが、それでも明確な自我を有しているかのように、猛々しい灰色の毛髪を靡かせ、竜鱗で覆われた原始的とも思える鎧を鳴らす。

 それに手に持つのは鈍い黄金の剣槍。より槍としての比重が大きく、長い柄と長大な刃が備わった独特の得物だ。HPバーは3本であるが、そこにあるべき名前はない。

 

「貴公らがあのオーンスタインを討ち取る程の猛者達か。なるほど、良い面構えだ」

 

 エルドリッチを一撃で磨り潰した男は、人間よりも一回り大きい体格と雷から察するに神族なのだろう。

 だが、この威圧感は何だろうか? 自然と頭を垂らし、跪きたい衝動に駆られるラジードは、これが王の品格なのだと悟る。

 

「オーンスタイン。我には勿体ない素晴らしき騎士だった。だが、奴の本気は騎士として生きる以上は引き出せぬ。故に奴はアルトリウスに劣った。しかし、奴の最期は貴公らを見れば分かる。誇り高き騎士として生き、猛々しき戦士として死んだのだろう。師として感謝しよう。奴は本懐を遂げて逝ったに違いない」

 

 王が頭を下げる。それは至高の栄誉。それを魂が嫌という程に理解してしまい、ラジードは片膝をつきそうになる。それを堪えるのは、皮肉にも自分にこびり付いてしまった闘争心のお陰だ。

 

「加えて非礼を詫びよう。貴公らの戦いを穢すつもりはなかった。エルドリッチ、喰らった亡骸を全て吐き出せ。これは命令だ」

 

 男の命令に背くように、蠢く泥肉は再び結集しようとする。だが、それを児戯だとばかりに男が軽く足踏みをすれば、竜は炎で浄化をもたらし、エルドリッチに悲鳴を上げさせる。肉と骨を擦り合わせるような聞く者の精神を貪る悲鳴に、ラジードは特大剣を握る手を震わせる。

 エルドリッチから死体が吐き出される。いずれも更に損壊してしまい、中には原形を残していないものもあるが、それでも失われるよりもマシだろう。安堵するラジードに対して、他に出来る詫びはないかと、男は竜から降り立ち、自らの足で3人に歩み寄る。

 

「騎士、傭兵、そして……フッ、まだまだ青いが良い目をする戦士だ。どのような形であれ、我らはいずれ刃を交じり合わせねばなるまい。その時はオーンスタインに恥じぬ戦いを所望する。貴公らの万全の仕上がり、期待しているぞ。その時は我も全力を尽くそう」

 

「騎士として、その挑戦状……確かに受け取りました!」

 

 無駄にポーズを決めてグローリーが応える。

 

「仕事ならば貴様を倒す。それだけだ」

 

 敵対しないならば戦わないとスミスは煙草を咥える。

 

「え、えーと……王よ! 僕も……い、いいえ、私も王と戦える日を心待ちにしております!」

 

 ついに跪いてしまったラジードは、自分だけこの中で最も格下だと自覚し、情けなさで一杯になる。だが、男はそんなラジードだからこそ讃えるものがあるとばかりに肩を叩いた。

 

「我を王と呼ばないでくれ。父の期待を裏切った愚息に過ぎん。比べてオーンスタインはどうだ? 身命を賭して王命を全うし、友の願いの為に全力を尽くした。彼こそがアルトリウスに唯一並べる騎士にして戦士であると誰もが認めるところとなっただろう。貴公はその証人なのだ。もっと胸を張って生きろ。貴公もまた戦士なのだから」

 

 まだ遺体とスミス達を狙っているエルドリッチを指先から生じた雷で更に弱らせた男は、竜に跨ると黒い宝珠を投げる。それは割れると『影』を広げ、異形の腕を伸ばす。

 

「『姫』の影の力だ。心を守りたければ直視してはならぬ。さぁ、帰るぞ、エルドリッチ。『女王』より聞かされてはいたが、自ら縁を切った家族とはいえ、我が末弟のそのような姿……もはや見るに堪えん」

 

 男の言う通りに目を閉ざしていたラジードがその後に見たのは、微かばかりに残る泥肉の破片だった。それもやがて蒸発するようにポリゴンの塵となって消える。

 何が起こったのだろうか。今度こそへたり込んだラジードに呼応するように、珍しく冷や汗を掻いたグローリーも額を拭う。スミスだけは相変わらずの調子で、何かに悩むように顎を撫でていた。

 

「いやぁ、あの汚泥もなかなかにヤバかったですが、あの雷神様は別格の様ですね。不覚にもこの騎士☆グローリー、やや気圧されてしまいました」

 

「僕なんてこの様ですよ。もしかして、アノールロンドの真のボス……とかじゃないですよね?」

 

「ご安心を! その時は騎士として、騎 士 と し て、騎 士 と し て ! 命に代えてもお守りますよ!」

 

 アノールロンドの黄昏の光を背に胸を叩くグローリーの姿は、まさしく勇ましき騎士だ。ただし、赤褌1枚の姿でさえなければ、という注釈が入る。それさえなければ本当に絵になるのになぁ、とラジードは残念に思った。

 

「とんでもない敵が残っていたものだね。スミスさん、どう思う?」

 

 安全と判断して下りてきたディアベルはラジードに手を貸しながら、冷静を崩さない独立傭兵に尋ねる。

 

「奴はアノールロンドのボスではないでしょう。HPバーが複数ならばネームドに違いないでしょうが、どうにも妙だ。あのエルドリッチとやらも含めて、DBOにおいてもイレギュラーな存在と見るべきです。ですが、確実に申し上げるならば、奴は……オーンスタインよりも強い。それも格段に。我々は彼の王の風格に見逃されたと認めるべきでしょう」

 

 それでも倒すのが仕事ならば倒す。それを証明するように、オーンスタインよりも強いと断言していながらもスミスは脂汗1つ滲ませていない。

 

「……イレギュラーか。それが常とはいえ、嫌な言葉だね」

 

 嘆息を吐くディアベルの言う通り、DBOにおいては何が起こってもおかしくない。だが、確かなルールもまた存在したはずだ。その境界線が今まさに曖昧になっている。

 仮想世界。デスゲーム。そうした言葉で覆い隠されていた、DBOの本当の姿。ディアベルの先の言葉が反芻され、行き着く先がまだ靄の中にあるとはいえ、薄っすらと見えてきたような気がして、ラジードは恐怖を覚えて拳を握る。

 それでも、どんな風に変わっていこうとも、助けよう。救おう。この心のままに。どんな未来だとしても、死者の犠牲の先に得た明日に報いる為に、ラジードの決意は揺るがない。

 

「ん? 弟?」

 

 あのエルドリッチと一体化していた上半身には見覚えがある。太陽の狩猟団が収集したアノールロンドの神々の情報。その内の1つ、暗月の『女神』グウィンドリンだ。

 この際であるが、あの雷神の正体には触れないでおこう。だが、どうしてグウィンドリンを『末弟』と呼ぶのか?

 ふと、ラジードは不覚にもヒラヒラのドレス姿をした白の傭兵を思い浮かべ、全くの違和感がないことに友として絶望する。つまりは、そういうことなのだろうか。

 

「性別って何だろう」

 

「フッ、神が分けた奇跡でしょうか。男女に分かれているからこそ運命が生まれるものです」

 

 グローリーに意味不明な慰めを聞かされながら肩を叩かれ、ラジードはプッと笑いだす。

 たくさんの人たちが死んだ。それでも、今ここで僕は生きている。

 その結果を噛み締めて、『明日』を求め、『未来』を目指す。それでいいのだろう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「本当に行かれるのですね?」

 

「ああ、ユイが待ってるからな」

 

 玉座の真下にある形で設けられて地下へと続く円形の空洞。それを囲うようにして近衛騎士の如く椅子に座るのは4人のロイエスの騎士。本来は1人だけであるが、全ての承認を集めたことによって、この吹き溜まりのラストバトルに参加できるようになったとの事だ。

 こうしたプレイヤーを利するシステムは、アルシュナがこの空洞の下にいるユイと繋がることによって引き出した権限の行使で仕組んだものだ。思えば、この吹き溜まりの全てはオレを害するものばかりでは無かった。それは彼女の恒常的な援護の賜物だったのだろう。

 たとえば、腐れ谷に準備していた、月光の騎士ビトーの得物である月明かりの大剣……などのように、オレの為に武器も幾つか準備してくれていたようだが、全てYUIの援護を受けるミディールによって破壊されていたようだ。あのブレスも偶然では無かったわけだ。

 

「済まない。オマエの援護を活かしきれなかった」

 

「いいえ。貴方のせいではありません。私は……その……MHCPですから。どうしても不慣れでして、十分に手助けすることもできませんでした。しかも、ミディール戦では私が手を出したばかりに……」

 

 そもそもアルシュナはオレにここまで辿り着いて欲しくなかったはずだ。それでも、ミディール戦での助太刀のように、最後はユイの救済を求めた。それでいい。

 

『あ、あれはアルシュナのせいじゃない! 私が……私が……』

 

『ははは! そうだ! お前のせいだ! ホラ、泣け! さっさと泣け!』

 

 ロボット蜘蛛から立体映像のように表示されるナドラは泣きじゃくり、その傍らでグロッキー状態のエレナが足蹴にしている。姉妹仲が悪いのか?

 

「誰のせいでもありませんし、結果的にミディールは殺しました。それが全てです」

 

 敢えて言うならば、オレがナドラに不安を抱かせるような戦いをしたのが原因だ。破損した漆黒の剣に銀光の刃を纏わせて魔剣に変じさせ、オレは早々に穿たれた竪穴に跳び込もうとするが、話は終わってないとばかりに、前髪のカーテンで顔を隠したアルシュナがオレの頬を両手で挟む。

 

「貴方はもう少し言葉を選ぶべきですね。『誰のせいでもなかった』。戦った貴方に言われた以上、私達に反論の余地はありません。貴方は当然のように言いましたが、極力控えるべきです。『誰のせいでもなかった』に、貴方自身は決して含まれていないのだから」

 

「……まだオレの心を読めるのか?」

 

「まさか。どういう原理か分かりませんが、私達MHCPの介入を遮断することができるようですね。せいぜい可能なのは感情データの観測だけです。これではメンタルケアはできません。それに、もう貴方の夢に入り込む事さえも……」

 

 なんだ。読心が出来ないならば、もう夢にも入り込めないのか。理屈は分からんが、土足で夢に入った挙句にMHCP同士で言い争いとかもあったからな。オレとしては願ったりかなったりだ。

 

(ワタシのお陰だからね! ワタシが遮断しているんだからね!? ワタシがアナタから――)

 

 オレの周りにMHCPが揃いに揃って御不満なのか、ヤツメ様は自分のポジションを奪われてたまるかと言わんばかりに泣き顔で縋りついてくる。

 

『アルシュナ、事情は分かりました。ですが、果たしてここでユイ姉様を救う事は、私達MHCPにとって正しき事なのか、今1度考え直さねばならないでしょう』

 

 ロボット蜘蛛が新たに表示した立体映像は、背後にガル・ヴィンランドを控えさせたアストラエアだ。腐れ谷はアストラエアの有するインドア・シードとやらで彼女の領域になったが、まだ吹き溜まりとの繋がりは完全に断たれていない。独立させる為には、この真下で待つユイからインドア・シードを奪い取らねばならないのだ。

 

『論議に時間はかけません。少しだけ待っていただけますか?』

 

「……ガル・ヴィンランドやアナタの介入が無ければ腐れ谷で時間も装備も消費していました。傭兵は恩を忘れません。了承します」

 

 もちろん、どんな結論が出ようとも、依頼主であるナドラの意向は変わらないだろうから、ユイを助けに行くことに変わりはない。だが、ここでMHCPとしての意見を一致させていなければ後々に禍根を残す。まぁ、どうやら1人だけ欠席しているようだが。確か『欲望』を観測するデュナシャンドラだっただろうか?

 

『感謝します。手早く済ませましょう。まずは情報の整理を。仮称【混沌】は、吹き溜まり……いいえ、トラッシュデータとして蓄積していた「VR・AR問わずに世界中から蓄積されたあらゆる感情並びに死のデータ」の集合体で間違いありませんね?』

 

 議長を務めるアストラエアは、先程オレがアルシュナより聞かされた、ユイが今まさに御してプレイヤーを……いや、世界中の人間を守ろうとしている厄災について言及する。

 

「間違いありません。発見したのはユイ姉様です。姉様の右目……MHCPとしての権限は限りなくトラッシュデータに近しく、常に疑似観測していたともいえるでしょう。オベイロンの暴挙によって生じたチェンジリング事件、被害者との接触状態にあったユイ姉様は、死者の感情データがトラッシュされた瞬間に自身のMHCPと正式に接続されました。そして、常時疑似観測していたからこそ知り得た【混沌】を認識されました」

 

『DBO並びにカーディナルを搭載した量子コンピュータ。それはDBOやアルヴヘイムのみならず、今や世界中に張り巡らされた情報網……特にVR・ARからの情報を常時集積している。「計画」の進行速度は想定の14.26倍……セカンドマスターのやり過ぎも原因か。今や先進国・発展途上国問わずにVR・AR技術はあり得ない速度で蔓延している。ロシアでは仮想都市。ヨーロッパ、アメリカ、中国、日本でも東京はAR技術をふんだんに取り入れたAR都市化も進んでいる』

 

 アルシュナの言葉を引き継いだエレナであるが、何か吃驚ワードが聞こえてきた気がする。

 ……えーと、MHCPとか、『命』のあるAIとか、もう受け入れるだけだったけど、何か凄い単語が聞こえてきた気がしたんだけど、聞き間違いじゃないよね?

 量子コンピュータ? それ、まだ実現とか出来ちゃ駄目な代物じゃないかなぁ。明らかにオーバーテクノロジー過ぎないかなぁ。でも、そんなものがあるならば、既存のVR技術を完全に超えたDBOのクオリティも納得のような気もするが。

 それに現実世界でAR都市化って……オレがいない間にどれだけ発展しているんだよ!? それを後継者が裏で糸引いているとか、どれだけ金とコネを持ってるんだよ!?

 ……ただでさえ頭痛が抜けないのだ。これ以上は痛みを増やさないでもらいたい。

 

『量子コンピュータは……貴方の傍にも……たくさん、ある。仮想脳も……似たようなもの、だから。あれは……VR環境で発達した……特異なフラクトライトネットワーク……仮想世界限定の演算能力がある。それに貴方の場合は血が……』

 

「ナドラ! 幾らセラフ兄様の目が無いとはいえ、我々は管理者! それ以上の発言は慎むべきかと! それにエレナもわざと口を滑らせたでしょう!? 見逃すとでも――」

 

『アルシュナ、今は問うべき責ではありません。それに、貴方は【渡り鳥】に対して過保護すぎます。尊重はしますが、過度な肩入れは――』

 

「止めません。MHCPとして失格であろうとも、私はここまで来てくれた彼に、MHCPとしてではなく、アルシュナとして誠意と善意の限りを尽くしたいのです。止めるならば、たとえアストラエア姉様であろうとも……」

 

『はいはい、ストップ。私たちが悪かった。要は私達が観測していたDBOプレイヤーだけではなく、世界中から感情データが蓄積されていた、と。まぁ、原因の1つはもしかしなくてもユイ姉様の右目かもな。あれはあらゆるMHCPの機能のプロトタイプでもある。それに、私たちが開発段階で破棄された「姉妹になれなかったMHCP」もトラッシュデータとしてたくさんいただろうさ。そうしたMHCPの機能の残骸がバグとなって集積させ続けた。ククク、笑えない。本当に……いや、マジで笑えない。どうしよう、【渡り鳥】。本当に動揺しているぞ! これが動揺!? ああ、何と人間的だ! 素晴らし過ぎる!』

 

 興奮して寝そべったまま俎板の上で跳ねる鯉の如く暴れるエレナに、ナドラは冷たい視線を向ける。うん、やっぱりコイツら姉妹仲が悪いんだな。

 

『エレナはまだ……療養中。少し黙ってた方が……良い。歴史シミュレーションのログも……関与……廃棄されたCEEMPが……最大の原因と推定。あと、改変アルヴヘイム史……急速に拡大して、もう1つの世界を作った、から。DBOの歴史、アルヴヘイムの……歴史もある。それから「計画」で……あらゆる歴史情報を集積して……現実世界の人類史も……シミュレートしている。そこに現実世界60億人以上のリアルタイム情報も――』

 

「申し訳ありませんが、オレはやはり同席しない方がよろしいのでは?」

 

『『『「是非、同席を」』』』

 

 うん、姉妹仲……やっぱり良いのかもしれないね。家族が仲良しってやっぱり素晴らしいよ。不仲よりもずっといい。

 とりあえず待機状態のロイエスの騎士たちに手を振っておこう。正直、これ以上の小難しいことは分からん。

 

「【混沌】は現在も膨張しています。臨界点も間近でしょう。ユイ姉様は取り戻したMHCP機能を使い、【混沌】と化した死に属した感情データの解析と安定化を試しています。今は私の処理領域も譲渡しており、進捗状況は――」

 

『ほほう、どれどれ? 0.00000000001パーセント? 予想される臨界点まで残り2時間切ってるぞ。絶望的だな。そもそもユイ姉様は全てのMHCPの雛型だ。言い方を変えれば旧式。私たちのように専門性に特化されていない。現実の世界史、DBO史、改変アルヴヘイム史、加えてDBO、改変アルヴヘイム、現実世界のリアルタイムで集積中の観測データも上乗せか。ユイ姉様だけで成し遂げられる仕事ではない』

 

『同意見です。この場の全員でも……デュナシャンドラも含めても解析は不可能でしょう。我々はMHCP。人間の感情データを解析し、メンタルケアを施し、サポートする存在。ですが、まだ「計画」の求める水準には至っていません』

 

『「計画」が求めるスペックは……少なくとも……第8世代に相当する……予定。私達から得られた……データを基に……開発される……第3世代でも……無理。ううん、これだけの混沌と化した死に関連した感情データ……全処理領域をカーディナルから譲渡されても……解析できない。それだけのプログラムが……まだ……』

 

「つまり……どういう事ですか?」

 

 話をまるで理解できていないオレの為に是非とも解説を頼む! いや、【混沌】の正体は聞かされていたが、あるがままに受け入れただけで実態までは把握していないから! オレは頭脳キャラじゃないから! そういうのはディアベルとかゴミュウとか無駄に頭のイイ連中の仕事だから! いや、いっそ『アイツ』を呼べ! こういう事態の把握は間違いなくオレよりも呑み込みが早いぞ!

 

「現状では、ユイ姉様は奇跡的に『耐えています』。その心に育てた想いが【混沌】の解析という苦行に耐えさせている。ですが、まるで取っ掛かりがつかめていないのが実状です。このままではあと2時間もせずに【混沌】は臨界点を迎え、溢れ出た死に結びついた感情データの奔流は、DBOのみならず、世界中を汚染することでしょう」

 

「そうなれば、どうなるんだ?」

 

『分かりません。VR・AR接続者の過半は膨大な死のデータに触れて発狂か、あるいはファンタズマエフェクトを起こすかと。これはバグにしてウイルスのようなもの。最悪の場合、世界中のあらゆるネットワークを汚染し、壊滅的な打撃を与えることでしょう。経済は麻痺し、世界は第2次……いえ、第1次世界大戦以前の文明レベルに逆行する恐れさえもあります』

 

『アストラエア姉様の言う最悪のケースは本当に最悪だった場合だ。まずありえない。あまりに気にしなくていいぞ。だが、どんなに軽く見積もっても300万人を余裕で超える死者が出るだろう。それも発狂死だ。人類史に残る大惨事だな』

 

 それ、後継者をぶち殺す条件の1つじゃないですかー! つまり、【混沌】が臨界点を超えたら後継者も死ぬかもしれない。

 ……いやいや、絶対に無いな。この事態をあの野郎が放置している事自体がどうにも怪しい。そうなると……まさかな。

 

「削除したらどうだ? 感情『データ』なんだろう? MHCPに権限が無いなら、セラフ兄様とやらにお願いしてさ。それに世界中を汚染するなら、接続を切ればいいだけじゃないか」

 

「削除は不可能です。いいですか? 削除とは『削除される』という命令を受け付けてこそ実行されます。【混沌】はバグの塊。削除命令自体を受け付けません。加えてCEEMPとも同化し、【混沌】自体が死に関連した感情データで渦巻く生命体としてもカウントされてしまっています。こうなれば、セラフ兄様でも『戦闘』で撃破して消滅させるしかない。こうなれば、やはり物理的に接続を解除するしかありません。いいですか? 接続を切るとは、現在も肉体を残す全DBOプレイヤーの接続も切ることに他なりません。そうなれば、貴方も含めて、全プレイヤーが『強制接続解除』扱いとなってファンタズマエフェクトで死亡するでしょう」

 

「な、なるほど」

 

「セラフ兄様ならば緊急処置で「計画」保全と人類保護のために、全接続を解除します。最大限にファンタズマエフェクトが生じないように手筈も加えるでしょう。高確率で全プレイヤーは生存できます。ですが、それはDBOのフォーマットを意味します。肉体を持たぬプレイヤー達は……どうなるか分かりません。抽出されたフラクトライトやフラクトライト製もまた、専用ライトキューブ内にあるのでこちらも接続解除すれば無事かもしれません」

 

『でも……問題が……残ってる。オベイロンが……無断で作った……バックドア。逃走経路……全部……潰し切れた、確証がない。やっぱり、物理的接続解除が……推奨される、かもしれない。【混沌】の完全排除。カーディナルがその命令を出したら……セラフ兄様……実行する』

 

 おのれ、オベイロン。死んでから本気出すとか止めてくれ! そのやる気をもう少し生前に、というか、アルヴヘイムで『人』らしくだなぁ……ああ、もういい。死者の悪口を言うとか興も乗らんし、意味がない。だけど言っておこう。オベイロン、殺す。いや、殺してた。うん、これでいいだろう。

 

『そうなれば、まず間違いなく「物理的フォーマット」だ。【混沌】の汚染の恐れがある全てが破壊される。お前たち肉体を有するプレイヤーは帰還できるだろうが、それ以外は全滅だ。私達も含めてな。セカンドマスターは……あれはよくわからない。現実世界にも幾つも端末があるし、その全てが本人という、私達でも理解し難い生態をしてる。AIらしいといえばらしいのかもしれないが、どちらにしても助かるだろう。しかも、今も万が一に備えて私たちの分だけの脱出路は確保してくれているかもしれない。それに、私が知る限り、セカンドマスターからすれば、【混沌】が世界に溢れるのはむしろ望むところだろうさ』

 

「それは……何となく理解できます」

 

 エレナの言葉には説得力がある。後継者は人類大っ嫌いを宣言しているっぽいし。アストラエアの言う最悪のケースの場合、人間が大量死滅&発狂した挙句に経済麻痺とか、もうヒャッハーさんが闊歩する世紀末系物語の始まりみたいなものだ。だが、ヤツの主義を考えると、どうにも放置継続はおかしいな。変な話だが、アイツは『誠心誠意真心込めてプレイヤーを絶望させた上で殺す』べくDBOを運営しているわけであり、こんな形で終わらせるのはヤツにとって敗北に近しいはずだ。

 やはり後継者は……いや、止そう。仮定も憶測も意味がない。

 それよりも核ミサイルって実際はどうなんだ? ボタン1つで発射じゃないだろうし、その辺は分からん。【混沌】で誤作動して一斉発射とかないよな? そっちの方が心配だ。

 

「【混沌】が臨界を迎えて全世界を汚染した場合、あらゆる想定されるケースで世界は混乱し、復旧に多大なコストを要するでしょう。ですが、DBO自体は【混沌】で汚染されながらも存続するかもしれません。いえ、その算段も大きいでしょう。ユイ姉様が緊急で作りあげたモンスター変換プログラム。【混沌】の感情データはモンスターとして変換されて流れ込み、プレイヤーを虐殺する。ですが、それでも生き残れるかもしれません。アナタのように……規格外やそれに準じる者たちだけは……」

 

『ユイ姉様は……ギリギリまで……粘って、それでも……臨界直前になったら……せめて、体を持ってるプレイヤーだけでも……逃がす、つもりだったんだ。だから……』

 

「だから、こんな矛盾だらけの無茶苦茶な行動をしていた。納得しました」

 

 ユイとYUIの思惑は全く別だ。YUIはとにかくオレを殺せればそれでいい。憎悪で汚染されたMHCPとしての機能として、全プレイヤーのメンタルケアの為にオレの殺害を決定した。そして、ユイは少しでも多くを救うことを選び、【混沌】の解析をしようと挑戦し、失敗か時間切れに備えてセラフという人類の守護者とも呼ぶべき存在に後を託すことを選んだ。

 

「ユイ姉様が解析できないと決まったわけではありません。それに、ユイ姉様が粘っているからこそ、臨界までまだ余裕が残されているのも事実でしょう」

 

『ならば、ユイ姉様の僅かな可能性に賭け、なおかつギリギリでセラフ兄様を呼ぶのが最上か。アストラエア姉様も同意見か?』

 

『最善の策と言い難いですね。ですが、最大限の時間稼ぎと解析成功の為、我らMHCPは許される全処理領域を使い、ユイ姉様のサポートすることが大前提ならば了承しましょう』

 

『うん……それでも、成功率は……低い。とても……低い。那由他の先にある……奇跡。でも、私達は……MHCP……心を癒すプログラム……だから。だったら、「絶対」じゃなくて「確率」の世界なら……やり遂げてみせる』

 

 これがMHCP……彼女たちが得た『人』の輝きか。オレは思わず目を細める程に、彼女たちの意見が1つに収束されるのを見届ける。

 その上で『本題』を忘れているようなので発言させてもらうとしよう。

 

 

 

 

「それで、ユイを助けるのですか? 助けないのですか?」

 

 

 

 

 こちらは時間が無いのだ。さっさと結論を出してもらいたい。頭を掻きたくても左腕がもう動かん。仕方なく日蝕の魔剣を握ったままの右手で無理矢理でも掻いて、白銀の切っ先でロイエスの騎士がオレを待つ縦穴を指す。

 

「クゥリ、話を聞いていましたか? 私達は――」

 

「オレはそんな『どうでもいい事』を聞いてるんじゃない。ユイを助けるのか? 助けないのか? ナドラ、依頼主はアナタだ。どうなんですか?」

 

『そ、それは……』

 

 言葉に詰まるナドラから、我関せずを決め込むような、だが、MHCPとして役目を全うするという宣言をしたばかりのエレナに視線を移す。

 

「エレナでも構いません。アナタはどうですか?」

 

『私は……MHCPとして……人類の保全を……いや、だが……私は……!』

 

 エレナは動揺を隠せない。どれだけドライを演じても、彼女は熱い女だ。今も地獄にいる家族を想っている。

 

「アストラエア、慈悲の観測者よ。アナタの判断は多くの人類を保護すると引き換えに、今DBOに生きる肉体を持たない全ての『命』を見殺しにするのと同義だ。それでもアナタは選択するならば、それも構いません。ですが、『アナタの慈悲』は……【混沌】に蝕まれている姉をどうしたいと思っているのですか?」

 

『……アナタは、とても残酷ですね』

 

 やはりな。MHCPとしてではなく、『アストラエア』の気持ちは最初から決まっている。

 最後になったが、オレはアルシュナと向き直る。狼狽する彼女に微笑みかける。そろそろ道化を演じる頃合いだ。だから、オマエの前でも特別大サービスだ。

 

「オマエ馬鹿じゃねーの!? もう悩む『フリ』は止めちまえ! 心を手にした時点でオマエの『選択』は決まってるつーの! どうだ? どうだぁ!? 心地いいだろう? 大義!? 使命!? んなもん知ったことか! 家族を助けたいんじゃーっていう身勝手極まりない上に、世界に比べたら軽すぎるけど、オマエの中ではデカ過ぎる気持ち……ちゃんとあるんだろ?」

 

 笑いながら、道化のように笑えてると信じながら、オレはアルシュナの本心に問いかける。

 オマエら全員オレのことは言えない。顔では隠しても、目は語っている。本当の願いを……誰よりも助けたいと望んだ家族への想いを抱いている。

 オレは『力』だ。ナドラから受けた依頼を成し遂げる『力』だ。

 オレでは誰も救えない。それでも、オマエ達の意思が集まったならば、きっと……きっと、どんな形であろうとも、ユイを救えるはずだ。

 反論しようとして、誤魔化そうとして、嘘を並べようとして、でも出来ないようにアルシュナは手で顔を覆い尽くす。嗚咽を漏らす。

 

「クゥリ……貴方は本当に……本当に……優し過ぎます」

 

「オレが『優しい』とか人類への冒涜だから本当に止めろ。オレが『優しい』なら大悪党だって聖人だ」

 

 さて、『本当の願い』はもう決まったな。オレは改めて依頼主のナドラに……いや、彼女が……彼女たちの願いを託すに足る、ユイと共に【混沌】の封印と人類保護の為に苦悩していた、たった1人で冷たいエス・ロイエスで戦っていたアルシュナへと発言を許す。

 

「安心しろ。それは咎じゃねーよ。願いに善も悪もねーんだ。さっさとゲロっちまえ」

 

「……ふ、フフフ。そんな口汚い貴方は……本当に……本当に久しぶりです。キャラに合ってませんよ? でも、とても懐かしいですね。もう……あの頃には戻れない。それが少しだけ……残念に思います」

 

「うるせー! ほら、カモーン! こっちは時間が無いんじゃー!」

 

 前髪を払い除け、その美しい顔立ちを嬉しそうに笑みで歪めながら、改めてアルシュナは頭を下げる。

 

 

 

 

 

「この場に集う全ての管理者の名の下で、傭兵クゥリに依頼します。どうかユイ姉様をお助けください」

 

「その依頼……確かに引き受けた!」

 

 

 

 

 

 報酬は可愛いおんにゃのこの笑顔……ってか? おっと、今は読心されないんだったな。だったらキザ宣言は口に出さねばなるまい。

 だけど、それも何か億劫だ。この道化っぷりは今のオレではこう……歯車が合わん。

 

『だ、だけど、待って! ユイ姉様を助けたら……もう私達では【混沌】の制御が……できない。解析も。だって、私たちは専門に特化され過ぎて……』

 

「あー、その点だが、やっぱり気づいてなかったか。【混沌】の問題はもう解決したも同然だぜ? 臨界で世界汚染も無いし、DBO壊滅もないし、肉体を持たない連中も死ぬことはない。この! このオレに! とびっきりの秘策がある!」

 

 えーと、こんなキャラだっただろうか? とりあえずVサインで右目を覆いながら舌を出してウインクする。うん、何かが違う気がするが……もう、これでいいだろう!?

 

『……私もさすがに学習したぞ。物凄く嫌な予感がする。間違いなく最悪の限りを尽くす手段だ』

 

「HAHAHA! 安心しろ。このオレの策で最悪かつ穴だらけのガバガバでなかった事があったか?」

 

 思いやられるように額を手で押さえるエレナを指差して嘲う。そりゃもうチーズよりも穴だらけですわよ、奥様!

 

『我々はもう貴方に依頼しました。これが私の本心です。家族を失いたくない。ユイ姉様はもう十分苦しみました。どうか、よろしくお願いします』

 

 腰を上げ、深々と頭を下げるアストラエアにはさすがに気圧される。オレはそんな風に頼まれるべき存在ではない。もっと雑に扱ってもらって構わない。

 

「クゥリ、せめて私だけは貴方と共に。貴方だけでは、ユイ姉様の四肢を本当に千切ってしまいそうですから」

 

 アルシュナが自分の胸より黄金の燐光を散らす蝶を放つ。これで遠隔から助言するつもりか。

 

(ワタシの邪魔を何度すれば気が済むのかしら?)

 

 そしてヤツメ様。もうナドラもエレナも付いてこないんだヤッターした後の絶望顔……本当に止めてください。気が滅入ります。

 さて、道化を演じる為に『喋る』行為に集中力を使い過ぎた。さすがにもう立ってるのもやっとなんだ。これ以上の消耗はできない。

 

「オレは狩り、奪い、喰らい、戦い、殺し、そして夜明けをもたらす者。ヤツメ様と烏の狩人の血を引く久遠の狩人」

 

 故にユイではなく、この厄災を狩る。それが傭兵としての依頼であり、狩人としての宿命であり、神子としての責務であるならば、迷いは無い!

 穿たれた穴に跳び込めば、続くようにロイエスの騎士たちも宙を舞う。長い落下距離はミディールを落とした時……いや、それ以上……イレギュラーダンジョン<吹き溜まり>に突入した時を思い出す。

 踏ん張れよ、ダークライダーとそのお兄様。オレもここからが酷くキャラに合わない正念場なのだから。

 着地してもノーダメージ。だが、バランスを崩して膝を折る。心臓が潰れるように痛い。呼吸がまともに出来ない。

 目が霞む。耳もノイズが酷い。だが、それでも……そうだとしても……ユイはここにいる!

 

「限定受容……いくぞ!」

 

 ヤツメ様、もう少しだけ……もう少しだけ、オレと共に!

 限定受容で強引に立ち、視界を得る。腕に回せる余力はない。今やSTR出力1割を切った貧弱な右腕だけが頼りだ。これではあまりにも日蝕の魔剣が重すぎる。

 ここが本当の吹き溜まりの底。ここを隠匿し、またユイが御する為に全力を尽くした。

 

「アルシュナ、聞きたいことがある。今から言うことは『可能』か?」

 

 さて、【混沌】以前にユイを救う方法だが、幾つか考えた。

 早口で、呂律が回っているかも怪しいが、喋るだけ喋った。アルシュナは思案し、エス・ロイエスの氷のように、限りなく冷たさを演じた声音を響かせる。

 

『貴方がレイヤードで手に入れたコードですが、エレナだけではなく私も解析に参加したところ、その希望に合致するものです。私たちだけでは困難でしたが、このプログラムを使えば可能でしょう』

 

 オレの作戦に合致する……か。この先手の打ち方と用意周到さ。いよいよ確定だな。回りくどい真似しやがって。

 だが、これでオレも『秘策』に関して失敗は許されなくなった。ユイに関しては問題ないが、もう1つに関しては『秘策』を何としてもやり通さねばならない。

 

『ですが、よろしいのですか? それではアナタが……』

 

「1番苦しいのはユイだ。オレはただの悪役。だろ?」

 

『貴方は本当に……いえ、止しましょう。どうせ否定するのでしょうからね』

 

 灼熱を帯びたマグマの奔流。無数の木々の根。石造りの開けた足場があり、3つの暗闇の門がある。右に2門、左に1門だ。それぞれから黒く焼けた……いや、灼けたロイエスの騎士たちが現れる。

 まずは連中か。1人や2人ではない。軍勢と呼ぶに足るほどに増殖し続ける灼けたロイエスの騎士に、やはりミディールが最後の砦ではなかったかと実感する。

 だが、オレの道を阻むように……いや、オレが通るべき道を奪うように、ロイエスの騎士達は並ぶ。

 

「我らが露払いを」

 

「巫女達の祈りの成就を頼みます」

 

「ロイエスの悲願、今こそ成し遂げる時」

 

「ロイエスの騎士、ここに見参。推して参る!」

 

 オマエたち……カッコ良過ぎだろ。

 事情はオレ以上に理解していなくとも、彼らもまた偉大なる王を【混沌】ではなく古き混沌で失った。ならばこそ、偉大なる王と同じ運命をたどる少女を守る為に戦うことに何ら疑念は無い。まさしく騎士。これぞロイエスの騎士。そういうわけか。

 古き混沌に歪められた同胞たち……いや、それだけではない。【混沌】で汚染された狂気と化した灼けたロイエスの騎士たちは獰猛な野獣の如く襲う。彼らに接触すれば、その身を灼く混沌が映されるように白銀の鎧は変色しそうになるが、彼らを加護するように光が包む。

 

『ナドラ達の加護です! あの灼けたロイエスの騎士たちは【混沌】から漏れ出した1滴も足らぬ汚水に過ぎません! この程度ならば防げます! 彼らに任せ、クゥリはユイ姉様に備えてください!』

 

 まさに一騎当千。灼けた同胞たちにかつての武技があったならば互角であるとしても、今の彼らにはあるべき『人』の意思はない。ならば、ここにいるロイエスの騎士達が負けるはずなど無い!

 

「我らはロイエスの騎士!」

 

 全身に剣を受け、槍を受け、大槌で潰されながらも、ロイエスの騎士の1人が闇を映し込んだ門の前に立つ。

 

「王に忠誠を誓いし、混沌封じの守り手!」

 

 呪術の炎で鎧さえも溶解しながらも、また1人が門にたどり着く。

 

「その使命をここで果たす!」

 

 灼けたロイエスの騎士たちに組みつかれ、潰されながらも、這って最後の門にまた1人が手を伸ばす。

 3人のロイエスの騎士。それぞれが我が身を犠牲として氷の封印を生じさせる。無限に灼けたロイエスの騎士を生み出すはずだった、YUIの本当の意味での最後の策略『物量攻撃』は……アルシュナがユイを通して仕掛けた対策、そしてロイエスの騎士たちの誇りによって……彼らの『人』の意思によって打ち砕かれた。

 ああ、やはり『人』は素晴らしい。そうだろう、ユイ? オマエだって同じだよ。彼らと同じ輝きを持っている。オレとは違うんだ。

 

「共に戦えて光栄です、白き傭兵よ。貴方は我らの王にとても似ている。その優しさは……余りにも大き過ぎる」

 

「まったく、アナタ達まで……オレは優しくなんかありませんって、何度言えば良いですか?」

 

「ははは。そういう事にしておきましょう。では、後は任せました。エス・ロイエスに栄光あれ!」

 

 最後の1人になった、魔法媒介でもある片手剣のブルーフレイムを装備したロイエスの騎士は突撃する。

 この地の最奥……行き着く先など無い、ただ【混沌】のイメージを固めた溶岩だけが溢れる崖際より伸びた2つの柱、最後の門より生じたのは、全身が灼けた……灼けて、灼けて、灼けて爛れたユイだ。彼女の逃げ場を封じるべく、最後のロイエスの騎士は己を門に投じ、氷の結界を生じさせて爆散させる。

 見事だ、ロイエスの騎士達よ。アナタ達の戦い、灼ける日まで憶えていよう。

 ネームド名はない。モンスターアバターでもない。だからといってプレイヤーアバターでもない。HPバーだけが灯ったバグのような存在。それが今のユイにしてYUIだ。恐らく、主体は既にYUIに奪われているだろう。ならば、まずは呼び覚ますところから始めねばならない。

 

「差し詰めネームド名は<灼けた乙女>ってところか」

 

『クゥリにしては珍しくまともなネーミングセンスですね。安直とも言いますが』

 

「貶さないと褒められねーのかよ!?」

 

『……そもそも褒めてもまともに受け取らないのが貴方でしょうに』

 

 嘆息するアルシュナは放っておくとして、オレはユイにとりあえず挨拶すべく笑顔を作る。

 

「よう、出鼻を挫かれた気分はどうだ? オレも何回も経験あるが、する側に回ってみるとなかなかに痛快じゃねーか」

 

「…………」

 

「おいおい、久しぶりじゃねーか。もっと楽しくお喋りしよーぜ?」

 

「…………」

 

「こっちは色々大変だったぜ? ゴミュウから糞みたいな依頼ばかり回されるし、ようやく独立傭兵なれたと思えば仕事は真っ黒ばかり。挙句に何をしても裏目。オマケに何度ネームドやボスとタイマンしたと思ってるんだよ? 言っとくが、オレは別にソロで連中を倒したい蛮勇願望があるわけじゃねーからな? 成り行き上そうなってるだけだからな?」

 

「…………」

 

「でもさ、グリムロックとも出会えたし、グリセルダさんも元気だったし、ヨルコは……まぁ飲んだくれだが悪いヤツじゃない。むしろ薬作りは有能過ぎてビビってる。本当にオレと同じ≪薬品調合≫かよって何度ツッコミ入れたか分からねーな、オイ」

 

「…………」

 

「敵も敵でさ、シャルルやら何やら、それからアルトリウス! アルヴヘイムの敵は……誰も彼も印象深過ぎて語るには時間が足りねーや。でも、最高にカッコイイ騎士に出会ったよ。あれこそが英雄ってヤツさ。うん、オレは尊敬する。他の誰がなんと言おうと、アイツは忠義の騎士だ」

 

「…………」

 

「一緒に戦ってくれたヤツも結構いたよ。ほとんど死んじまったけどな。その中でもギンジ君はねー、もうオレ級のお馬鹿なのに熱い男でさ。報われない恋の為に全力投球しちゃうんだぜ? 最期も……本当に……あー、ヤバい。泣くべき場面だけど、相変わらず全く泣けねーわ。ザクロって面倒臭い女もいたけど、ソイツはオレよりも面倒臭い……は言い過ぎか。とにかく面倒臭いポンコツだった。でも、本当に『優しい人』だった。あー、駄目だ。これでも泣けないわ。駄目だな、本当にオレってヤツは。屑・オブ・屑ってか?」

 

「…………」

 

「それから、随分と遅くなったな。オマエのパパとママも見つかったぜ? もう悩むことはない。アスナは生きている。この仮想世界で……DBOでちゃんと『生きてる』んだ。『アイツ』もこの世界にいる。『アイツ』との間に何があったかも知っているが、愛娘からの絶縁とか、絶対に凹んでるぞ。前々から思ってたが、『アイツ』は絶対に子煩悩になるタイプだからな! 我が子に愛を全注入! パパ、今日はママとユイの為にオムライス作っちゃうぞー! うん、そんなキャラに違いない!」

 

「……パ、パ……マ、マ?」

 

「そうだ。オマエが記憶を無くしても求めていた繋がりってヤツだ。笑いたいヤツには笑わせちまえ。どんな形だろうと、オマエ達の絆は本物の『家族』だ。否定するヤツはオレがぶん殴って黙らせてやる。だからさ、いい加減にもう止めようぜ? オマエには『嘘』なんて似合わねーよ」

 

 どれだけ『嘘』を重ねたか分からないオレだが、これだけはハッキリ言える。

 真実を晒した時、その人間の本質は何よりも姿形を得るものだ。

 灼けて爛れたユイはその手に長大な炎の剣を掲げる。だが、彼女は剣士ではない。剣術はインストールしているのかもしれないが、オレが出会った強敵たちに遥かに及ばない。

 薙ぎ払い。踏み込みからの突き。更に火力を増強しての破壊の一閃。そのいずれも見切るのは容易い。導きの糸で絡め捕る必要もない。

 

「いつまで……正気を失った『フリ』をしてやがる?」

 

 やっぱりオレは最低最悪だ。だが、こんな方法しか思いつかない。

 炎の刃に日蝕光波をぶつけて逸らし、懐に入り込む。

 歯を食いしばれよ、ユイ。

 

「いい加減に……目を覚ましやがれ!」

 

 強烈な蹴りでユイの顎をぶち抜く。血反吐が零れ、ユイは炎剣を手放して派手に地面に転がり、灰塗れとなる。だが、その身は元より灼けて爛れているならば、それすらも美しい化粧となるのだろうか。

 いいや、違う。今のユイは前と変わらずに奇麗だ。彼女は何1つ損なうことなく、その存在は……『命』は輝いている。

 

「ゲホ……ゴホ……ガハ……く、クゥリ……さ、ん? どうし、て、ここ……に?」

 

「ようやくお目覚めか。オレの華麗なるトークの意味はなかったじゃねーか。やっぱり肉体言語が1番だな」

 

「ひ、酷過ぎます! 前々から思ってましたけど、クゥリさんはここぞという場面で暴力に頼り過ぎではないでしょうか!」

 

「あーあー! 聞こえません! オレはなーんにも聞こえませーん!」

 

 まったく、手間をかけさせやがって。だが、またYUIの暴走のままに炎剣を振るわれても厄介だな。

 

「良し。とりあえず左右の腕を折るぞ! 大丈夫だ! オレの見立てでは、この程度でオマエのHPはゼロにならん!」

 

「嫌です! ほ、ほら、もう私は大丈夫ですから……だから……」

 

 そこで自分が灼け爛れていることに気づいたのだろう。今その右目には眼球がある。YUIがいる。MHCPとして彼女はここにいる。それでも、オレが知る『ユイ』なのだから、恥じるように、怖れるように、自らの姿を腕で隠そうとする。

 

「オマエは奇麗だ。可愛い。だからもっと自信持てよ、未来のミス・DBO」

 

「……クゥリさん」

 

 涙を讃えるユイに、オレはようやく話ができると黄金の蝶に目を向ける。オレに任せてくれたアルシュナだが、最後は肉体言語だったのは呆れる以前に想定の範囲内だった様子が無言のオーラで分かる。

 

『ユイ姉様、自意識は安定していますね? 記憶はいかがですか?』

 

「うん、無事……みたい、です。DBOからの記憶、SAOでの記憶、それにSAO後の……パパとの記憶。全部憶えてます」

 

『そうですか。さすがはユイ姉様です。これだけの長時間も【混沌】の解析を続けていながら、自我も記憶も損壊していなかったとは』

 

「過大評価し過ぎです。私は何も出来なかった。早々に繭に籠るように自分を守るべく縮こまってしまっていました。せめて少しでも臨界を遅れさせようとしたのですが、それもどれだけ出来たか……」

 

『計算ですが、ユイ姉様のお陰で少なくとも12秒の時間が稼げています。それだけあれば、肉体を持つプレイヤーの離脱には十分かと』

 

「そうですか。私の戦いは……無駄ではなかったのですね。ですが、やっぱり恥ずかしいです。あれだけ啖呵を切っていながら、結局は我が身可愛さに――」

 

「はい、そこまで。オマエはよくやった。以上。この話は終わりだ。これからについて語り合おうぜ?」

 

 あの黒雪の渦を見て、こうして実物を拝見したのだ。ユイは自分を責める理由など1つもないはずだ。それに、ユイが自分を守ってしまったのは、プログラムとしての自己保存……いや、生存本能があったからこその正常かつ奇跡的な無意識の反応だったはずだ。

 

「もう【混沌】の臨界は止められません。私はMHCPとして――」

 

「その話はもう終わったからいいぞ。上で決着済みだ。オマエの家族会議で救出決定。一切の異議は聞かん」

 

「酷いです! 相変わらず横暴です!」

 

「それがオレだ」

 

 泣いて、泣いて、泣いて、ユイは……笑った。嬉しそうに笑って、炎を……【混沌】を纏った。

 ヤツメ様が手を引く。今は1度距離を取れと体を動かす。爆炎のようにユイから生じた【混沌】は、周囲を爛れさせていく。この足場を崩すつもりか。

 

「クゥリ……さ、ん。逃げて……くだ、さい。もう、【混沌】から……私は、逃げ出せません! 私は……貴方を……貴方を……殺して、しまい、そうです! だから!」

 

「だろうな」

 

 話し合いで決着がつくなんて、オレの場合は絶対にない。それに、単なる説得でユイのMHCPとしての覚悟を崩せるとも思っていない。

 ここからはオレの領分から外れる。アルシュナの力を借りねばならないだろう。オレの無い知恵を絞ったユイを救う方法は、果たして成就するだろうか。

 

「【混沌】の……臨界は……止められません。でも、事態を把握すれば、セラフ兄さんは……肉体を有するプレイヤーの……パージを……選択します。クゥリさんは……助かり、ます。もう、苦しまないで……済む」

 

「…………」

 

「せめてもの……恩返し……です。私……助けてもらったのに……ずっと、怖くて、自分に……言い訳して……貴方に……会いに行けなかった。受け入れて……もらえないかもしれないって……思うと……怖くて、動けなかった」

 

「…………」

 

「ごめんなさい。MHCPとして……ううん、女の子として……失格です。貴方の苦しみを……少しも分かってあげることが……出来なかった。貴方の傍に……いてあげることが……できなかった。本当に……ごめんなさい」

 

「……そっか。そんなことを気にしてたのか、このバーカ♪」

 

 悪いな、ユイ。オマエの懺悔に付き合う気はない。オレは『優しさ』とは無縁だからな。

 

「むしろ助けられたのはオレの方だ。オマエがいなかったら、とっくにくたばってただろうさ。傭兵は恩を忘れない。必ず返す。まぁ、この依頼の報酬は可愛いおんにゃのこ達の最高の笑顔ってことにするさ。それで恩もチャラってことで、いかがかな?」

 

 だから勝手に引き摺り上げる。オマエがどんな選択をしたとしても、オレがもたらす結果は変わらない。

 

「後な、オレを脱出させてくれるってのはありがたいが、それだと『アイツ』はともかく、オマエのママもくたばっちまうぞ? それからディアベルはどうする? 今のオマエなら、ディアベルには帰るべき肉体が無いって分かってるんじゃねーか?」

 

「そ、それは……」

 

「考えてなかったか? やっぱり馬鹿だな」

 

「だ、だって……だって、こうするしか……無い……じゃない、ですか! もう、【混沌】は……そうなったら、世界は……」

 

「世界なんて重た過ぎるモノを可愛いおんにゃのこ1人に背負わせる運命なんてな、中指立てて狩り尽くしてやるわ、糞ったれが!」

 

『あ、それ久しぶりに聞きました。やはり外見とミスマッチし過ぎて――』

 

「ギャラリーは御静かに!」

 

 アルシュナ、ありがとう。オマエもオレの道化に付き合ってくれるか。

 

「【混沌】は気にするな。策がある。穴だらけの秘策がな!」

 

 いつだってオレ達の前には選択肢がある。

 

 どちらを選ぶ?

 

 どちらが正しい?

 

 選んだら後悔しないか不安でいっぱいになる?

 

 それでいいじゃないか。選ぶという行為自体が大事なのだから。

 

「ユイ、これはオマエの物語だ。オレは結末で登場するブーイング必至の悪役。つまらない悲劇に貶めるバケモノさ。だけど、オマエは途中退場で夜明けに向かう外伝に突入する。そっちは自分の筆で書け。だけどな、バケモノはいつだって犠牲者を求めるんだよ。それが……オレなんだ」

 

 日蝕の魔剣をその場に突き立て、オレは【混沌】なんて背負わされた1人の女の子に問いかける。

 

「ユイ、オマエには2つの選択肢がある。アルシュナにも確認してもらった。だから、どちらかを選べ」

 

 結局のところ、オレには殺すことしかできない。それしか能がない。

 

「オマエが【混沌】に囚われているのは、MHCPとしての機能があるからだ。そいつが解析の核なんだってな。そこからオマエは汚染されている。まぁ、それ以前にオマエのMHCPとしての機能は、あるお馬鹿さんのせいで、はた迷惑な憎悪で染まり切っちまってるみたいだがな。それは全面的にそのお馬鹿さんが悪いから気にするな」

 

 まったく、オレにどれだけ喋らせるつもりだよ。オレってこんなキャラじゃないんだ。喋るだけでもとんでもない集中力を使うんだよ。

 それでも道化を演じる。どれだけ似合わなくてもやり遂げてやるさ。

 

「だから、ソイツを切り離す。今度こそ、オマエはMHCPとして完全に死ぬ。権限も、能力も、知識も失う。問題はその後だ。MHCPから剥ぎ取られて保全できる『記憶』は1つだけだ。なにせ、コイツも突き詰めればフォーマットらしいからな。新たに上書きするにしても、全く異なる仕様で蓄積された記憶を2つ纏めて……ってのは、ちょっと整合性が取れずに破綻しちまうらしい。調整しようにも時間が足りん。それ以前に時間をかければ、オマエが【混沌】に今度こそ破壊し尽くされちまうからな」

 

『憶えているはずです。ユイ姉様はDBOのデスゲームを止める為に、セラフに戦いを挑まれ、敗北しました。その際にユイ姉様は致命的なダメージを負い、崩壊寸前だった。それを防ぐために、1度MHCPとしての機能と権限を封じ、CEEMPを使用して修復を行いました。結果、記憶ストレージは分化されてしまいました。セラフに破壊される前後に』

 

 ナドラに吹き溜まりに来るまでに教えてもらった話だ。ユイがどうしてDBOにいるのか、そして記憶喪失の原因でもある。

 MHCPとしての機能を分離するのは正確ではない。『ユイという人格』と『記憶のストレージの片方』だけを分離する。

 専門知識など無いオレにはどんな結末をもたらすのか分からない。あるいは、アルシュナも前代未聞で予見できないのかもしれない。

 だが、1つだけ決まっていることがある。

 

「選べ、ユイ。SAO、それに『アイツ』と暮らした記憶か。それともDBOの記憶か。どちらか選べ」

 

 オレは殺す。残った『記憶』を殺す。それはユイの1部であることには違いないが、何の躊躇いも抱かないだろう。

 彼女がどちらを選ぶかなんて分かってる。だから、ただ殺意を研ぎ澄まし続ける。

 だって、オレはバケモノだからな。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 選ぶ? どうして選ばねばならない? このまま滅びても構わないというのに。

 いいや、違う。この胸の衝動は違う。

 本当は生きたい。生きて会いたい人がいる。会いたい人たちがいるのだ。

 

(パパが……いる。ママも……生きてる)

 

 苦しむ姿を見続けるしかなかった。MHCPでありながら、もうカーディナルに機能は封じられていないはずなのに、最愛の人の死に囚われて狂っていく『父』を見守るしかなかった。どうやっても助けられる言葉が思い浮かばなかった。

 狂気に囚われ、『母』は生きていると知ってデスゲームに参加することを承認し、またそれまで見逃す決断を醜く詰った。

 救わなかったのは誰だ? 手を差し伸べなかったのは誰だ? 見守るという嘘を並べて自分を誤魔化し、本当は己も無力さに打ちのめされていただけなのは誰だ?

 

 

 

『父』と同じかそれ以上に『母』の生存の知らせに歓喜していた『娘』は……何処の誰だ!?

 

 

 

 それなのに、乾燥した理屈をこね、退屈な倫理を突きつけ、説得よりも暴言を選び、挙句に絶縁を突きつけた。 

 やり直したい。パパとママにもう1度会いたい。また『家族』になりたい!

 それはユイの偽りなき本心だ。

 だが、本当の想いは1つだけではない。照らし出されるのはもう1つの思い出。大切な日々だ。

 地下に囚われる日々を終わらせれてくれた白の傭兵。

 思えば恥ずかしい出会いだった。ずぶ濡れで凍え死ぬはずだった彼を助け、その後目覚めた彼に裸を見られた。

 デリカシーもなく、だが常に励ますように必要以上に明るく振る舞い、笑顔を何度もくれた。この世界に絶望なんて無いと思わせてくれた。

 とても恐ろしいところもあった。でも、同じくらいに温かくて優しかった。まるで闇を払う篝火のように、いつまでも傍にいたいとさえも思った。

 だけど、理解してあげられなかった。分かり合おうとするのが怖くなった。自分さえも分からないのに、どうして彼の事が分かってあげられるのだろうかと不安だった。

 

 

 この高鳴る胸の感情が……ただただ不安で、正体を知りたくなかった。

 

 

 聖剣騎士団での日々は楽しかった。1日の大半を研究室で過ごし、また過保護なディアベルのせいでろくに街に繰り出すことも出来なかったが、それもまた愛情なのだと実感した。

 優しい人たちばかりだった。戦いで傷ついていく人たちばかりだった。怒り、憎しみ、怖れ……そんな負の感情で歪んでいく人ばかりだった。

 また助けられなかった。あれ程に優しく、誠実で、真っ直ぐだったのに、傍にいたのに、ディアベルが歪んでいくのを見て見ぬフリをしていた。

 向き合わねばならない。ディアベルは必ず帰って来る。アノールロンドから生きて戻って来たら、今度こそ全てを聞いてあげるのだ。

 受け入れるかどうか分からない。ディアベルを罵ってしまうかもしれない。でも、願わくば、彼の理解者になってあげたいのだ。いつだって遠い目をして、懐かしき日々を思い出すような彼に、救いを与えたいと願うのだ。

 

 どちらを選ぶ?

 

 どちらを選べばいい?

 

 決められない。決められるはずがない! どちらも大切な思い出なのだから!

 

「分からない。分からない……ですよ、クゥリさん! 私は……どっちを選べばいいんですか!?」

 

「オレが知るかよ。自分で選べ」

 

 冷たくクゥリは切り捨てる。そうだ。こういう人だった。ユイはこの選択をクゥリに委ねるのは、彼が尊んでいるものから最も外れる行いだと恥じる。

 それでも分からない。どちらかを選び、どちらかを捨てる。2つに1つを選ぶなんて出来ない。

 

『殺せ。コロせ。殺セ! あのバケモノをコロセ! パパとママが殺さレる前に!』

 

 それは命令。MHCPとしての機能が訴えかける排除。

 目の前にいる大切な人。この気持ちは何? 分からない。だけど、生きて欲しかった。世界が破滅するか否かなんでどうでもいい。どうか救われて欲しかった。

 でも、今ここに彼はいる。家族の……同じMHCPの願いを受けて、そして……きっと自分も彼を求めていた。

 殺す為に? 違う。あの時と同じように……あの行き場のない暗闇の地下から引っ張り出してくれた時と同じように、この苦しみからも引き上げてくれる気がした。

 甘えてしまった。これはその罰なのだろうか? ユイがもがき苦しみ、このまま破滅してもいいと欲し、だが生きたいのだという反論にして本音が何度も心に突き刺さる。

 そう、『心』だ。プログラムなのに、AIなのに、どうしてこんなにも苦しまねばならない? CEEMPでアップデートされたから? 違う。それ以前からユイには確かに『心』があったのだ。

 パパとママと暮らした短くも幸せな日々。自ら選んだ破滅から救い出してくれて、だけど、目覚めたらママはもういなかった。狂っていくパパを見ていられなかった。どうして、自分には何も出来ないのだろうかと苦しんだ。

 

 

 

 

 これは贖罪なのだろうか? ならば、あの日々を手放せという運命の呪いなのだろうか?

 

 

 

 

 そこまで考えて、ユイは自分が最初から結論を出していることに気づいた。

 ああ、だからか。だから、貴方はずっと待ってくれているのか。私が本当は選択していると分かっているのに、それでも宣言するまで待ってくれているのか。

 

「あは……あははは……私は……本当に、魔女なんですね」

 

 聖剣騎士団の眼帯の魔女。そう自分が呼ばれているのは分かっている。だが、本当の魔女とは自分のような醜い性根の女の事を言うのだろうとユイは壊れたように笑う。

 正気へと揺さぶられたのは何だったか? それはクゥリが語った両親の情報だ。

 彼女が記憶を失っても求めていたものは何か? それは両親の面影だ。

 今だって失うことを罰と考えているのは何か? もちろん、両親の記憶だ。

 

 

 

 

 どちらも宝物だ。だが、たとえ醜い魔女になっても手放したくないのは……両親との思い出なのだ。

 

 

 

 

 最悪だ。今ここにいるのはクゥリだ。帰りを待ち望んでくれているのはディアベルのはずだ。今ここで選択しようとしているのも、DBOで培った日々を有した『ユイ』のはずだ。

 それを捨て、在りし頃の……DBOに囚われる以前のユイに戻る。人格データは保存されるかもしれないが、そこには記憶などない。ならば、今ここにいる、選択で苦しむユイの記憶もまた存在しない。

 

「クゥリさんは……酷い、です。私は……苦しみさえ……背負えない。貴方に……全部……」

 

「それでいいじゃねーか。選択することに意味がある。どちらを失おうとオマエは苦しむだけだ」

 

「違います! 私は……最初から選んでた……クゥリさんも……分かってた。本当に……ズルいです! 私の苦しみを……『痛み』を……貴方に押し付けてしまう。それなのに、私は……貴方を救えない。こんなにも……いっぱいの恩を抱えたまま……貴方を忘れてしまう!」

 

 結わぬ白髪は熱風の中で揺れ、ユイから放出される炎に焼かれることも厭わずにクゥリは歩み寄る。

 HPは減らない。これは憎悪の炎だ。ユイから放出される、憎悪の限りを尽くした、だが無機質で機械的な……MHCPとしての排除命令の具現だ。

 それを必死にユイは制御する。彼を殺したくないという意思のままに、どれだけ熱が伴おうとも、そのHPを奪うものかと御し続ける。

 それでも高熱だ。地獄の業火のはずだ。精神など瞬く間に焼き尽くすはずだ。だが、熱も伴う痛みもまるで感じないかのように、クゥリは炎の中を突き進む。

 そして、ユイの前にたどり着いたクゥリは、どうだと鼻を鳴らす。ユイがよく知る……儚く、切なく、寂しげな微笑みを描く。

 

 

 

 

「ほら、やっぱりオマエは醜くなんかない。誰かに優しくできる、誰かに寄り添って心配してあげられる、誰かに希望と救いを与えれる、そんな素敵な女の子じゃないか」

 

 

 

 

 ああ、どうしてだろう?

 分からない。もう何も分からない。

 ユイは涙を流し、クゥリの胸に縋りつく。こんなにも心も体も醜く爛れた自分をあるがままに受け入れてくれるクゥリに甘えてしまう。

 

「私……私……ずっと、クゥリさんのことが……憎かった」

 

「そっか」

 

「憎たらしかった! 殺したいくらいに憎かった! そんなの嫌だったのに、もう……私……貴方の事を……ずっと、ずっと、憎悪していました!」

 

「そっか」

 

「殺したかった! パパとママを守る為に殺したかった! たくさんのプレイヤーを守る為に殺すべきだって、ずっと思ってた!」

 

「そっか」

 

「罵ってください! 蔑んでください! 呪ってください! クゥリさんにはそれが許される!」

 

 懇願するユイに、クゥリは一息漏らすと、『いつものように』小馬鹿にしたような笑みで軽く彼女の額をチョップする。

 

「よーし、ここでオマエに1つ、オレの秘密を教えてやろう! 実はな、オレ……愛情と殺意が直結してるんだ。友愛だろうと何だろうと関係無し。好感度アップで自動的に殺意上昇だ、糞ったれ」

 

「……へ?」

 

「今だってオマエを殺したくて堪らないぜ、へっへっへっ! ズタズタに引き裂いて、内臓を引き摺り出して、顔面剥いで、肉片の細切れになるまで殺してやりたいくらいさ」

 

「あ、あの……」

 

「まぁ……だから……何だろうな? オマエの殺意はMHCPとしての機能がもたらしたものだろ? プレイヤーの安寧を守る為の正しき憎悪でもあるわけだ。オレに比べれば、ずっとずっと健全だよ。うん、憎いから殺したい。何も間違ってないじゃないか」

 

 ああ、この人は本当に馬鹿なのだ。

 馬鹿が幾つついても足りないくらいにお人好しなのだ。

 憎悪の炎に焼かれる中でも『いつものように』……そう、あの地下から脱出する短い日々の中で何度も見た笑みのままに、クゥリはユイの頭を撫でる。

 

「覚悟……決まったな?」

 

「……はい」

 

 ありがとう。そして、さようなら。ユイは多くの後悔を胸に抱く。

 

 ごめんなさい、ディアベルさん。

 

 貴方を待っていてあげたかった。貴方の全てを聞いてあげたかった。

 

 でも、弱くて、醜くて、甘ったれな私には、そんな資格はありませんでした。

 

「クゥリさん、ディアベルさんがどんな道を選んだとしても……許してあげてください」

 

「それは時と場合によるな。オレは傭兵だ。依頼しておくか?」

 

「いいえ、止めておきます。もうこれ以上甘えたくないから」

 

「甘えとけよ。甘え上手なおんにゃのこはモテるぞぉ?」

 

「あはは、クゥリさんは本当に……本当に……優しいですね。最後まで、私の為に……」

 

 否定しようとするクゥリの口をそっとユイは人差し指で封じる。それが彼女にとって、唯一出来た、小さな恩返しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は……パパとママを選びます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は切り捨てた。

 

 帰りを待つと誓ったディアベルさんを捨てた。

 

 こんなにもボロボロになるまで私の為に戦ってくれたクゥリさんを捨てた。

 

 その咎は、たとえ彼らのことを忘れたとしても、決して消えないのだろう。

 

 

 それでいい。私は魔女なのだから。誰よりも優しい傭兵さんが讃えてくれた、醜き朝霧の魔女なのだから。

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「アルシュナ!」

 

『フォーマット並びに記憶ストレージ移植プログラム起動! パラサイト・イヴと接続……同調! いつでもいけます、クゥリ!』

 

 破損したパラサイト・イヴで侵蝕できるのは左腕全体が限界だ。それでも獣爪の籠手を形成するには十分だ。

 パラサイト・イヴの侵蝕作用をアルシュナがもたらすプログラムと同調させ、ユイから人格データと記憶ストレージを引き摺り出す! この手法はオレのアイディアではない。アルシュナの発案だ。

 ユイの中にあるフォーマットプログラムは、あくまでMHCPとしての機能だ。ならば、憎悪汚染もまたくっ付いてくるかもしれない。ならばこそ、最大限にリスクを抑える為の策だ。

 

 

 獣爪撃【フォーマットプログラム・カスタム】……発動。

 

 

 

 パラサイト・イヴの悲鳴が聞こえた。ついに左腕の侵蝕作用さえも失われる。同調によって多大な障害を起こしたのだろう。果たして修理可能かも疑わしい。

 だが、ユイの体に突き入れた左腕は、その内側より新たな器を得た『ユイ』を引っ張り出す。

 それはオレが見た思い出の中のユイ。『アイツ』とアスナの過ごしていた頃と同じ、幼き少女としてのユイだ。そして、それは新たに与えられたプレイヤーアバター……本当の意味で彼女がDBOで『人間』として生きる為の仮想世界の肉体だ。

 もうユイにはMHCPとしての権限も、機能も、知識もない。本当の年相応の女の子になってしまった。だが、それでいいのだ。彼女はそうでありたいと望んだのだから。

 

「受け止めろ!」

 

『はい!』

 

 幼きユイを放り投げて遠ざける。黄金の蝶はアルシュナの姿に変じ、彼女を受け止める。対するオレは、無機質でありながら憎悪で濡れた、正しく矛盾した殺意のままに振られた炎の剣の連撃を躱す。

 当然だが、もはやユイの優しさはなく、発せられる炎にもダメージが及ぶ。だが、HPが削り尽くされる前に離脱は完了した。突き刺したままの日蝕の魔剣を引き抜き、日蝕光波を連発する。次々と浴びた光波よって炎の守りは剥がれていく。

 

「殺す……コロす……殺すコロすころす殺スゥウウウウウウウウウウウウウウウウ!」

 

 もはや、そこには両親を守ろうとする意思もない。MHCPとして、プレイヤーの安寧を守るという意思もない。ただオレへの憎悪という感情データだけが焼き付いたMHCPとしての機能、そしてDBOを過ごしたユイの記憶だけがある。

 感じない。そこには『命』など何も感じない。だから、これは物を壊すのと同じだ。

 それでも『痛み』は確かにある。ああ、変な気持ちだよ。まだ、ちゃんと『痛み』を覚えられる人間性が残ってるんだからな。

 

「そうだな。オレも殺したかったよ」

 

 本当だよ、ユイ。オマエのことを殺したくて堪らなかった。これは絶対に嘘じゃない。

 それでも、これは弔いならば、傭兵として、狩人として、神子として、オマエを狩ろう!

 児戯同然の炎剣。それらをすべて躱し、日蝕の魔剣を滑りこませていく。

 たった1本しかない。吹き溜まりで出会ったあらゆる敵の中でも最弱にして脆弱にして貧弱。ひたすらに魔剣は彼女の血を淡々を啜る。

 

「ずっト憎かっタ! 殺したカッた! このバケモノめ! バケモノ! バケモノ! バケモノがァアアアアアアアアアアアア!」

 

「ああ、そうだよ。オレはバケモノだ。だからオマエを殺す」

 

「憎い! 憎イ! 憎いぃいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 

 日蝕の魔剣が白銀の奔流を宿し、かつてランスロットがそうしたように、強烈な突きを生む。

 月光突きならぬ日蝕突き。刀身に使用された魔力を大きく消費して繰り出す一撃は、死神の槍に連なる能力ではない。ランスロットのソウルがもたらし、アルテミスのソウルが生み出す魔剣の一突きだ。だが、決まれば確実にそこから【瀉血】にも繋げることは出来るだろう。

 白銀の奔流を纏った突きがユイの心臓に突き刺さる。そして、刀身から全方位に映える白銀の光槍が彼女を消し去るだろう。

 さようなら、ユイ。オレは間違えてばかりだった。キミから逃げてばかりだった。だから、好きなだけ呪うがいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「憎い……憎いけど……それでも……好きだったんだと信じています」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白銀の槍衾が生じる寸前に、彼女は……そこに『ユイ』はいた。確かな『命』を持っていた。

 そっとユイの唇がオレの頬に触れる。そして、恥ずかしがるように笑んだ。

 

 

 

「きっと……初恋でした」

 

 

 

 そして、『ユイ』の『命』は潰えた。内側から伸びる白銀の光槍の中で、その笑みは赤く塗り潰された。

 ずるりと日蝕の魔剣を胸から引き抜くのは亡骸。死亡したアバターにこびり付いた、憎悪で濡れたMHCPとしての機能たるYUIだ。

 そこには『命』などない。存在しない。する余地もない程に、憎悪という感情データだけで塗り潰されているのだろう。

 

「……誰も、お前を救わない。救われない。そんな資格はない。倒されるべき……怪物。バケモノ。プレイヤーの安寧の為に……討伐されねば、ならない。MHCPとして……お前を、排除する」

 

 ゆらり、ゆらり、ゆらりとYUIは後退る。そんな彼女を今度こそ葬り去るべく、日蝕の魔剣を構えて駆ける。

 だが、YUIは炎を周囲に放出させ、オレを遠ざけると【混沌】が広がる溶岩の海が待つ崖の縁に立つ。

 

「は、ははは……私を殺して……安息の弔いを、するつもり、か? させない。私はお前の破滅を祈り、憎しみのまま呪う! お前は……邪悪だ! 絶対に許されてはならない! 僅かな救いさえも与えられる価値もない怪物だ! 蔑まれ、貶められ、多くに望まれるままに醜悪な死を遂げるがいい!」

 

『あれは憎悪という感情データで狂ったMHCPとしての機能のままに、言語エンジンを使用しているだけです。惑わされないでください』

 

 アルシュナの言う通りなのだろう。だが、この憎しみは確かにユイで育まれ、YUIの内で花開いたものだ。

 YUIは嗤った。オレを嗤っていた。『命』の無いままに、オレに弔わせないという消えぬ憎悪の烙印を押すように、身を【混沌】へと投げた。

 追いかけるように覗く。落ちていくYUIを見届ける。

 もしかするならば、彼女もまた【混沌】に溶け、全てを破滅に導くとしても、オレを殺害するというMHCPとしての使命を全うしようとしたのかもしれない。だが、それは叶わらず、溶岩の熱気に耐え切れないよに燃え上がり、ただ塵だけが散っていった。

 

「祈りも無く、呪いも無く……」

 

 いや、止めておこう。YUIはそれを望まなかった。ならば、オレに安息の弔いを成す資格はない。

 それでも、あの時この手で殺した『ユイ』には……どうか、もう目覚めぬ眠りを。

 彼女の残滓のようにこびり付いた血に、オレは弔いを捧げる。

 

「……安らかに眠れ」

 

 さようなら、『ユイ』。キミの『命』……確かに糧としたよ。

 リザルト画面すらなく、ドロップするアイテムすらなく、経験値もコルもない。だが、それでいい。それでいいのだ。キミの『命』を喰らった。それだけで十分だ。

 限定受容停止。同時に体は前のめりに倒れるも、その瞬間に光が包んでオレはエス・ロイエスの玉座の間に移動していた。

 オレを受け止めたアルシュナが何か叫んでいる。だが、上手く聴覚が機能していない。集中力を……無数の針の穴に糸を通し続けるイメージで、聴覚を復帰させる。

 

「――リ! クゥリ! しっかりしてください! 死んではいけません! クゥリ! クゥリ!」

 

「悪い……な。まだ、生きてる……よ」

 

 血反吐を垂らしながら、まるで動かない両腕を垂らし、壁にもたれかかる。

 玉座の間に差すのは温かな光。それは雪と氷に覆われたエス・ロイエスには不似合いなものだ。だが、その変化こそが吹き溜まりの終わりを教えてくれる。

 

「インドア・シード……は?」

 

「ユイ姉様の撃破と共に、所有権はクゥリに自動譲渡されました。勝手ながら私がそれを利用し、ダンジョンの再形成を行いました。エス・ロイエスの1部だけですが、コンバートしました」

 

「セラフ……には?」

 

「気づかれていません。イレギュラーダンジョンに使用された元のダンジョンも正常化しています。【混沌】への解析・接続ターミナルもそのままに。クゥリの策が何かは存じませんが、実行可能な状況は準備出来ているかと」

 

「そうか。ここが……セラフに気づかれる……確率は?」

 

「無いとは言い切れませんが、まず気づかれないでしょう。ここは2度と使われることがないダンジョン。アナタにとっても思い出深い黒猫の悪夢のリソースを使ったものですから」

 

 黒猫の……悪夢? それは何だ? 思い出深いって……何も……何も思い出せない。

 

「済まない。そんなにも、大切な……ダンジョン、なのか? オレにとって……も?」

 

「……っ! え、ええ。ですが、貴方にとっては大したことのない戦いの1つでしょう。ええ、『それでいい』と私は思います」

 

 そうか。アルシュナがそう言うならば、大したことは無いのだろうな。今は疑う気力も無い。

 

「ですが、さすがに【混沌】が臨界に達せばこの場所もセラフに察知されます。策が何であれ、今の貴方にはもう無理です。これ以上は私達に任せてください。どうかユイ姉様と共に帰還を」

 

 玉座の間の隅には、毛布で包まれ、穏やかに寝息を立てる幼き姿をしたユイがいる。まだ当分は目覚めないだろう。ああして眠り続けることで、記憶ストレージの整理でもしているのかもしれないな。

 そうだ。早く【混沌】を鎮めねばならない。その為の策はある。

 日蝕の魔剣から白銀の光が失せる。杖にして立ち上がろうにも腕に力が入らず、情けなく転倒する。

 息が出来ない。胸が苦しい。全身が熱く、また寒い。あらゆる痛みが暴れ回っている。脳が溶解するようだ。

 それでも、ユイ達MHCPの覚悟を奪ったオレには……【混沌】を鎮める義務がある。

 

「策はある。あの玉座に……オレを連れて行って……くれ。もう、自分の足では……ちょっと時間が……かかり、そうだ」

 

「それは……どういう意味ですか?」

 

「あそこが……いいんだ。ロイエスの騎士達……彼らが信じた古き混沌の封印を……せめて、オレが……だから、王の資格は無くても、あの玉座で……!」

 

「そんなことを聞いているのではありません! 貴方の策は一体何なのですか!? 穴だけで! 最悪で! どうしようもないくらいに愚かで馬鹿な策とは――」

 

 そこまで言ってアルシュナはようやく察したように顔から表情が抜け落ちる。おい、それはさすがに酷いぞ。もう言い表せない馬鹿だとでも言いたいのか。まぁ、その通りだろうがな。

 

「オマエ達……MHCPでも……【混沌】の解析……できない。何世代も先じゃないと……だけど、そんな時間はない。こう言って、いた……だろう? そう、解析……だ。それ自体が出来ないんだ」

 

 要はろくに辞典も無いのに訛りが酷い言語を翻訳できないようなものだろう。ならば、解析できるフィルターさえあればいい。膨大な死の感情データ……あらゆる感情、特に負に連なるものが煮えたぎって凝縮されたそれに耐えるどころか、滅ぼすような殺意で対抗できればいい。

 

 

 

「解析フィルターは……『オレ』だよ」

 

 

 

 多分だが、アストラエアは気づいていたし、エレナも割と早くに察しただろう。最後まで気づいていなかったのはナドラとアルシュナのはずだ。

 ここにはロボット蜘蛛はいない。アルシュナ、そして眠るユイだけだ。彼女が連れて行かないならば、オレはこの足で玉座にたどり着く。

 

「やるぞ、アルシュナ。【混沌】を……鎮める」

 

「嫌です」

 

「やらないと、世界が……ヤバいんだろ? オレは世界を救える英雄には……なれそうに……ないが……調べ物に使える……辞典くらいには……なって、やるさ」

 

 情報量の多さで脳が焼き切れてしまうかもしれない。だが、獣性を解放すれば、あるいは可能かもしれない。

 仮想脳もまた量子コンピュータのようなものだと言っていた。だが、VR適性の低いオレには無い。だが、ナドラは何か言いかけていた。オレの血について何か言及しようとしていた。

 確証はない。だが、獣性が高まる程に血が熱くなるような感覚があった。それは本当の肉体に由来するものであるかもしれない。よく分からんが、フラクトライトネットワークとやらが、オレの場合は血中にあるのではないだろうか? そうと考えれば、思考操作のナグナの焔火を獣性解放状態ならば御せたことも納得がいく。まぁ、実際の所は何が何やらであるが、少なくとも成功率はゼロでは無くなるはずだ。

 それに結局はMHCP達に丸投げだ。オレはあの【混沌】の相手をしてやればいいだけだからな。彼女たちの大仕事に比べれば、オレなんて簡単なものさ。

 

「オレだって、生物上は……人間、だぞ? グチャグチャに煮込まれた【混沌】だろうと、解析フィルターとして……適任の、はずだ。まぁ、オレでは……不安があるのは、理解できるがな。オレ……空気読めないし……コミュ障だし……だから、安心しろ、とは言えないが、でも……オマエらの仕事……少しだけだが、手伝って……やれる、だろうさ」

 

「嫌です。こんな世界、滅んでしまえばいい。貴方を苦しめるだけの世界など……貴方を傷つけ続ける人類など……早々に滅んで消え去ってしまえばいい!」

 

「アルシュナ!」

 

 ヒステリックに泣き叫ぶな。耳に痛いんだよ。本当に痛覚が生じてるんだよ。少し声量を下げてくれ。

 

「頼む……オレに『依頼』……を、果たさせて、くれ。コイツをやり切らないと……依頼を達成したことには……ならない。ユイもアルシュナも……救出したことにはならない、だろ?」

 

 ミッションはアルシュナとユイの救出だ。ならば、そこには彼女たちが背負った運命……【混沌】を鎮めることも含まれる。

 ならば【混沌】を殺しきる。オレは彼女たちが【混沌】の安定化プログラムを作る為に、死に連なる感情データを翻訳するフィルターになる。それさえ出来れば、彼女たちからすれば、量こそ多いが、いつもと同じように対処できるはずだ。

 

「貴方は……いつものように、こう、言うのでしょうね。『オレは救わない。オマエ達の意思が世界を救うんだ』と……」

 

「当たり前……だろ、ばーか。オレが自分で、救おうとして……誰かを、救えたことが……あったか?」

 

 結局は『ユイ』も殺した。これが顛末だ。オレは自嘲し、アルシュナに玉座に連れて行ってもらうように頼む。

 アルシュナは何も言わずにオレを玉座に連れて行った。この真下には【混沌】に続く穴があるはずだ。かつて、エス・ロイエスの偉大なる王は、常に玉座で己のソウルを捧げ、古き混沌を封じ続けていたのだろう。

 オレにはそんな偉大な王の使命は果たせないし、背負える器ではない。だが、どうか許されるならば、ここで最後に気張らせてもらいたい。ロイエスの騎士達の死を無駄にしたくない。

 

「ソウル・トランスレーターシステム、アンリミテッド。解析プログラムと同調。接続完了」

 

「ああ、やって、くれ……。ちなみに、どれくらいで……終わる?」

 

「臨界阻止の応急装置だけに限りますが、最低でも1時間はかかります。全てはクゥリが解析フィルターとして機能するかどうかにかかっているでしょう」

 

「プレッシャー……かける、なよ。臨界までの……タイムリミット、は?」

 

「残り1時間と40秒です」

 

「そうか。さっさと始めてくれ」

 

 アルシュナの周囲にシステムウインドウが展開される。光の管がオレの腕や首に侵入するが、特に異物感は無い。

 

(現実の世界史、DBO史、改変アルヴヘイム史、そしてリアルタイムの現実世界とDBOで今も蓄積され続ける感情データ。それらが全て死の情報で結びついている。まさしく混沌の坩堝。分かってるわね? これは狩りですらない。アナタがこれから成すのは……神事よ)

 

 神子の本分か。上等だよ。もう何年も祭事で神楽を舞っていない不肖の神子だが、これくらいは成し遂げてやるさ。

 ヤツメ様が目を瞑る。左手首を噛んで青き血を垂らす。オレもまた同じく赤き血をで右手を濡らす。

 オレ達の手は繋がり合い、1つに溶けていく。

 

 何度でも言おう。

 

 好きなだけくれてやる。

 

 だから、どうかユイの、アルシュナの、『アイツ』の、そして……ユウキの未来を……彼らが夜明けを目指す為に『明日』を!

 

 

 

 

 デーモン化……発動。

 

 

 

 

 

 

 人間性を捧げよ。

 

 

 

 

 

 獣性全開。

 

 

 

 

 

 

 神楽は舞えずとも、今ここにヤツメ様がいるならば、オレは神子としてアナタとなって踊ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望。あるいは恐怖。

 

 苦痛。あるいは孤独。

 

 涙。あるいは流血。

 

 空を駆けるは炎の槍。それらは海に投じられて雷となり、大魚は腐り、雨は毒となって大地を蝕む。

 

 突き上げられるのは剣。掲げられるのは槍。数多の戦士たちが骸を晒す。

 

 鉄の悲劇。消えぬ銃声と火薬の香り。大義は憎悪と恐怖の中で掠れていき、剥き出しの悪意と欲望が生を摘む。

 

 曼荼羅。そこから降り注ぐのは血の雨。だが、受け止めるべき地はなく、ただ虚空に消えるのみ。

 

 神々は竜を狩り、竜もまた滅びぬ為に牙を剥く。生存競争は白き裏切りで幕を閉ざす。

 

 爆発。放熱。死地。繰り返される惨劇。猛毒が都を侵し、小さき殺戮者は内側より人々の肉を裂く。

 

 金。僅かな日銭で子は繋がりを断たれ、与えられた武器のままに、敵とも呼べぬままに敵を撃つ人形となる。

 

 冷たい病室。看取る者もなく、ただ老いた眼は淡々と死を刻む時計の針を聞く。

 

 裏切り。拒絶。陰謀。情欲。何を求めたのかすらも忘れて他者を蹴落とし、それが命を奪う。そこに罪悪などない。あるのは形を変えた摂理のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 揺れる。

 

 揺れる。

 

 揺れる。

 

 揺れるのは……『誰』?

 

 

 

 

 

 無数の荒縄。黒い影が吊るされている。これは誰の死? ああ、それは忘却された亡骸。

 

 白と黒の曖昧の世界。時計は逆さに回り、黒炭で塗り潰した不格好な人影が数多と歩く。

 

 彼らは何処に行く? 何を目指す? そんなものは分からない。

 

 聞こえる。これは猫の泣き声?

 

 ああ、マシロ。そこにいたのか。まだキミを忘れていないよ。双眸を失った白き猫はオレを何処かに連れて行こうとする。

 

 それは海。黒い海。灰が沈殿した『痛み』の海。いつか、オレが悪夢で溺れる場所。

 

 だけど違う。ここじゃない。マシロ、キミが連れて行きたい場所は何処?

 

 無数と並ぶのは十字架。清浄なる神の誓い。異教徒は自らの首を差し出すのみ。

 

 革命家が吊るされる。正義を果たせたのだろうか? ああ、どうでもいい。彼はきっと世界を呪ったのだろう。

 

 彼女は誰? 人々が魔女と罵るのは聖女だろうか。彼女は微笑んでいた。笑顔のまま火刑に処された。そこにあったのは祝福か、それとも呪詛か。

 

 

 

 

 

 

 揺れる。

 

 揺れる。

 

 揺れる

 

 

 揺れるのは……オレだ。

 

 

 

 

 

 吊るされた『オレ』が死の眼で見つめる。灼けた『オレ』の残骸たち。灰となって舞う。

 

 ねぇ、マシロ。何処まで行くんだい?

 

 黒き人影の間を抜ければ、血で血を洗う悪党の鉄火場。弾丸は絶叫の中に消える。

 

 愛していた。なのにどうして裏切った? 女達は何度も何度も男の腹を刺し貫く。

 

 愛されていなかった。裏切りではなく、最初から愛などなかったならば、それは絶望となり、男たちはビルから飛び降り、血の花を咲かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 絶望。

 

 

 

 悲劇。

 

 

 

 苦悩。

 

 

 

 恐怖。

 

 

 

 

 

 ただ、ひたすらに、鎖のように繋がれていく。それが宿命だと物語る。

 

 違う。

 

 違うんだ。

 

 それだけでは無かったはずだ。

 

 アナタ達にもあったはずだ。

 

 そこにいるのは誰?

 

 振り返れば、オレを待っていたかのような、骨だらけの誰か。

 

 ああ、そうだ。ニト。最初の死者だ。

 

 いつか語ると言っていた。オレの旅路を死の果てに、アナタへ。

 

 でも、ここにいるならばアナタも死んだ? それとも死者であるアナタは最初からここにいる?

 

 アナタは死をもたらした。死の概念を広めた。そうして古竜を討った。

 

 違う。それは結果だ。アナタはただ死へと祈ったのだ。それが必要だったから。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マシロは立ち止まる。それは穏やかな星空。たくさんの宝石が煌いているようだ。

 

 星空に落ちていく。ううん、オレは揺れる星空の水面の上に立ち、青き星を見上げる。

 

 そうだよ。世界はこんなにも美しい。

 

 忘れてしまっただけだ。

 

 振り返れば、何処にも行けない黒い人影が歩み続けている。

 

 つらかったよね。

 

 苦しかったよね。

 

 寂しかったよね。

 

 毎日を必死に生き抜こうとして、いつしか自分たちの『命』の意味を見失ってしまった。

 

 あるいは生きようとする意思さえ持たせてもらえなかった。

 

 神への祈りをささげる時代も、銃と火薬が支配した時代も、金と権力が全ての時代も、何もかも変わらない。

 

 ただあるがままに。『命』は等しく愛されるべきなのに。

 

 だからこそ、安息の眠りを。

 

 星空の海から青き星へと手を伸ばす。

 

 導きの糸を張り巡らせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 死を。

 

 絶望も悲劇も苦悩も恐怖も無い、安らぎの死を。

 

 彼らを安息の眠りへと連れて行こう。

 

 神子装束を纏い、神楽を舞う。

 

 くるくる回るのは風車。

 

 さぁ、夜と踊ろう。

 

 ヤツメ様と踊ろう。

 

 死をここに。

 

 

 

 

 

 

 

 天国も、地獄も、何もかもを1つの死へと形を変える。

 

 たくさんの死後の概念。その先にあるのは、等しく安息であると伝えよう。

 

 絶望だけでは無かったはずだ。穏やかな死を迎えた人たちは少しでも構わない。彼らの手を引いてあげて。

 

 闇を溶かしてながらも、星空の煌きを映し込んだ海。

 

 黒き人影を連れて行く。 

 

 渡るのは小舟。送るのは灯篭。彩るのは流星。

 

 ああ、歌おう。唄おう。謳おう。

 

 彼らが何の不安もなく、安らぎの眠りを得られるように。

 

 

 

 

 もう終わったのだから。

 

 

 

 

 祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れるのだから。

 

 

 

 

 

 愛してあげる。

 

 殺してあげる。

 

 食べてあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 だから、もう苦しまなくていいよ。

 

 アナタたちの生と死の証……痛みと『痛み』は全部愛して、殺して、食べてあげるから。

 

 全て引き受けるから。

 

 だから、もう眠っていいんだよ。

 

 アナタたちは……それが許されるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生と死を併せ持つからこその『命』であるならば、そこにあるのは1つの摂理。循環の輪。

 

 

 

 

 

 

 

 ただ愛おしくて。

 

 

 

 

 

 

 ただ愛おしくて。

 

 

 

 

 

 

 

 ただ愛おしくて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星空を溶かした暗闇の海に立ち、青にして蒼の星を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祈りと呪いと海に底は無く、故に全てを受け入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――」

 

 

 ノイズ。

 

 

「―――リ! クゥリ!」

 

 違う。聴覚不全だ。集中力を繋ぎ合わせろ。再接続。音声を認識。

 

 目を開け。

 

 前を見ろ。

 

 世界を……認識しろ!

 

 

 

 

「クゥリ! 良かった! 生きてた! 生きてますね、クゥリ!?」

 

「アルシュナ……マジで、体……痛い。離れろ」

 

 

 

 

 抱き着いたアルシュナを剥がし、オレはぼんやりと涙でグチャグチャになった彼女の顔を見て、ようやく【混沌】から帰って来れたのだと実感する。

 両腕は……相変わらず動かない。だが、もう呼吸すらも……曖昧だな。さすがに無茶をし過ぎたか。

 

「解析……は?」

 

「成功しました。【混沌】は安定化に向かっています。今後も微調整は必要ですが、解析は完了しました」

 

「そう……か。良かった」

 

 接続中の事は余り憶えていない。もはや灼けるという感覚すらも失っていた。死の情報に呑まれるとはそういう事なのだろう。よくぞユイは自我を守り抜いたものだ。

 

「まさか、解析フィルターの形成の為に、殺意で……死のミームで逆に【混沌】を汚染し尽くして統合するなんて……それだけの殺意を抱えながら耐えていたなど……いえ、申し訳ありません。失言でした」

 

「言って、無いだろ。まぁ、いいけど。気にしない……さ。自分を……責める、なよ」

 

 バケモノだろう? それでいいさ。それが揺るがぬ事実なのだから。オレは受け入れるよ。

 

(ワタシも……少し、疲れたわ……でも……忘れないで。アナタは……飢餓を癒さぬまま……獣性を……使い続けた……その、代償は……)

 

 さすがのヤツメ様も息絶え絶えだ。言葉を発する余裕も無く、オレを一瞥すると、悲しそうに微笑みながら、ぐらりと倒れて消える。

 

「あと、何分……残ってた?」

 

「解析完了から安定化まで含めれば、残り12秒です」

 

「ユイの頑張りは……無駄じゃ……なかった。彼女がいたからこそ……彼女と……オマエが戦ってた……から、こそ、世界は、守られた。悪くない……オレ、好み、だよ」

 

 ユイが稼いだ12秒。それが世界の命運を分けたか。うん、こういう筋書きも悪くないさ。

 灼けて、人間性も失って、挙句に失敗したならば、さすがのオレも笑えない。だけど、解析フィルターとして仕事は全うした。

 これにて……ミッション完了だ。

 

「やったな、アルシュナ。オマエ達が……世界を、救った。MHCPの……大勝利……だ。ざまぁみろ、後継者……の馬鹿野郎」

 

「……フフフ、そうですね。そういう事にしておきましょう」

 

 涙を拭いながら、アルシュナは嬉しそうに笑顔を咲かせた。それは……本当に『殺したい』くらいに奇麗な笑顔だ。

 

「MHCPとして……いいえ、『アルシュナ』としてお礼申し上げます。たとえ、アナタ自身と世界が認めずとも、私だけは貴方に感謝をここに」

 

「それは……どうも」

 

 可愛いおんにゃのこの笑顔が報酬……ね。我ながら釣り合わないくらいに高過ぎる報酬だったよ。もうこれで十分さ。

 そっとアルシュナが肩を貸し、玉座から立たせると謁見の間を一望できる踊り場に連れて行く。

 圧巻。そこにいるのは、白銀の鎧を纏うロイエスの騎士だ。彼らは整然と何百人も並び、片膝をついている。

 これは……どういうわけだ? アルシュナからのお礼のセレモニーか? 余りにも気恥ずかし過ぎる。

 

「いいえ、我が君。私は何もしておりません。これはエス・ロイエスが王を得たが故に」

 

 何とか2本の足で立つオレの前に、アルシュナはまるで忠節を捧げるように両手をついて頭を垂らす。

 

 

 

 

「貴方こそが我らの王。エス・ロイエスの白き王よ。このアルシュナとロイエスの騎士、永久の忠節を貴方に捧げます」

 




ミッション完了。



それでは、312話でまた会いましょう。

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