SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ
吹き溜まり編……完!





Side Episode18 狩りと遊戯

 九塚村の大祭はいよいよ本祭を前日に控え、前夜祭たる月前祭に入った。

 まるで縁日のように来客も含めて賑わっていた大社もまた、ここからが祭りの本番であるならば厳粛な雰囲気を熟す。

 村中には灯篭が吊るされ、それらには1つ1つに蜘蛛を模した紋様が描かれている。

 夏の日差しが濃いはずなのに、村全体の気温が時間の経過と共に下がっているかのように錯覚するのは、人々が本祭に向けて神経を張り詰めているからだろう。

 

「月前祭とは、ヤツメ様に本祭を執り行う準備のことよ。ヤツメ様は夜を司る存在。ならばこそ、月とヤツメ様はとても深い縁で結ばれているわ。ヤツメ様が狩りを始めれば、月は血のような赤色で濡れる。それはヤツメ様の瞳そのものであるとも言われているわ。赤い月がある限り決して夜は明けない。夜を終わらせられるのは狩人だけ。狩人が狩りを全うすれば、血の月は清められ、ヤツメ様は鎮まる。月前祭とは、月を奉じて礼を尽くし、血の月が昇らぬように封じ込める祭儀なのよ」

 

 昼食作りを手伝うリズベットを隣に、光莉は知識不足の彼女の為に、今宵の月前祭について語り聞かせる。

 時刻は午後3時。昼食を取るにはやや遅過ぎる時間帯である。だが、月前祭がある今夜は個々に夕飯をいただく時間などなく、本日最後の食事となる。月前祭に参加するリズベットも含めてここで十分に食事を取っておかなければ、夜中まで続く月前祭には空腹に襲われる事になるだろう。

 本日の昼食はリズベットの希望により焼きそばであり、彼女が振る舞う事になった。料理本が片手であればプロ級の腕前の光莉はアシスタントに回り、リズベットが手腕を振るう。光輝との同棲生活ですっかりと生活力……もとい、己の女子力の低さに打ちのめされたが、今日の為に密やかな特訓をしてきたのだ。

 篠崎家特製焼きそば。リズベットが子どもの頃から馴染んだ味であり、お手軽でありながら美味だ。なお、作り手は専ら父親だったのは敢えて無視する、懐かしき家庭の味である。

 SAO事件後、リズベットは長きに亘って実家に帰っていない。トラウマもあったが、それ以上に現実世界に残した家族……かつて『篠崎里香』が暮らしていた環境に馴染めなかったからだ。特製焼きそばも朧な記憶を手繰り寄せて、試行錯誤を繰り返して再現に成功したものである。

 だが、九塚村……久藤家の人々とのふれあいの中で、リズベットはようやく『篠崎里香』に戻れつつあると実感した。そして、だからこそ自分の家族にもしっかり現状とこれから歩もうとする未来について伝えねばならないと、帰宅後にまずは電話、次に暇を見て実家に帰宅せねばならないと固く決心している。

 

(……とは言ってもねぇ、いきなり我が子が『結婚します』なんて宣言したら、普通の親なら反対するわよねぇ)

 

 そして、リズベットの両親は至って真面目かつ普通であり、善良なる国民なのである。富めるわけでもなく、貧しきわけでもなく、何か特別なバックボーンがあるわけでもなく、まさしく見本としたいくらいに平凡な家庭なのだ。両親の仲も喧嘩こそすることもあるが、離婚云々まで発展したこともない。むしろ、SAO事件後は眠り続けた彼女が触媒となって夫婦の愛は若き頃の恋人時代の如く燃え上がってしまったくらいだ。

 放任されていた覚えもないが、溺愛されていたとも言い難い。そこそこの自由意思も許され、束縛されることもなかった。両親共にリズベットの恋愛絡みに何か口出しをした事もない。そもそもSAO事件以前の彼女は、恋愛に憧れこそしても、意中の相手もいなかった。

 それが今はどうだろうか? SAOから生還したと思えば、夜な夜なトラウマで暴れ回って自殺未遂。長きに亘るカウンセリングで社会復帰したかと思えば実家から離れて1人暮らし。ろくに連絡も取らず、大学生活とVR犯罪対策室オブザーバーの二重生活を過ごし、気づけば通帳に刻まれたゼロの数は両親がコツコツと溜めた貯金を軽く上回ってしまった。

 そして挙句の果てに、ようやく顔を出したかと思えば、結婚を前提にお付き合いする御方を紹介したいと宣う。いや、もはや先方には挨拶を済ませ、蜘蛛の巣に絡め捕られるかの如く逃げ道無しでがっちりとホールドされているので、ほぼ嫁入り確定状態という事まで伝えねばならないのだ。

 そこまでならば……いや、この時点で並の家庭ならば、状況を呑み込めずに放心するか、我が子を心配して泣き始めるか、いい加減にしろとビンタの1発でも飛んでくるだろう。だが、悲しきことに、リズベットの両親には更に久藤家について多少は知ってもらわねばならないという難関が残っている。

 無論、久藤家の諸々を全て明かすことはできない。だが、最低でもリズベットを迎えるだろう、久藤家の方々とは挨拶を交わす事になるだろう。光莉や光輝はまだしも、今や日本出身の世界的女優となったAKARIこと灯がいるともなれば、いよいよ発狂しかねない。

 

(まぁ、まだ気が早いけどねぇ。気持ちは通じ合ってるけど、ケジメはつけないと。このまま表面上は今まで通りなんて嫌だし)

 

 九塚村の日々はリズベットの価値観を大きく変え、また精神を成長させた。

 SAO事件のトラウマはまだ抜けきっていない。今でもあの日々を思い出せば震えるだろう。発作的に起こる自傷行為もあり得る。

 だが、そうした負の部分も含めて自分を愛してくれている人がいる。そして、同じくらいにたくさんのモノを背負っている彼を愛したいと望んだ自分もいる。そして、こんな自分を迎え入れてくれる人々がいる。それだけでリズベットは自分が世界でも稀有な幸せ者だと断言できる。

 

(だけど、やっぱりあたしは『外嫁』だなぁって思うわ)

 

 外部から嫁いだ者。それが外嫁だ。彼女たちは血脈に加わるとしても、決してその身には『血』を宿していない。それを実感する光景が目の前では繰り広げられている。

 

「母さ~ん、キャベツの千切り終わったよ」

 

 居間から暖簾越しに飛んできたのは包丁だ。それを光莉は見もせずに指で器用に挟み込んでキャッチし、洗い場に置く。下手をせずとも背後から首を刺し貫きかねなかった速度の投擲である。灯は暖簾を傷つけないようにそよ風で揺らいだ僅かな隙に包丁を投げ、光莉は声をかけられるより前に飛んできたそれを皮膚1枚と傷つけることなく指で挟み取ったのだ。

 僅かな時間であるが、リズベットが諦観したことの1つに、彼らの感覚のズレである。先程のように、達人と呼ばれる者たちが更なる研鑽をして行うだろう絶技の域に達したやり取りをまるで呼吸するように、まるで意識することなく実行できる。

 

「灯、行儀が悪いわよ。何でも投げて寄越さないの。リズベットちゃんは『まだ』お客様なのよ? 久藤の女たる者――」

 

「はいはい、聞き飽きた」

 

「もう! ごめんなさいね。灯ったら、昔からああなのよ。お外に出たら、どうしてあんなにも慎ましやかになれるのかしら?」

 

「あ、あははは。役者の才能……じゃないでしょうか?」

 

 下手をせずとも死んでいたかもしれない包丁投げよりも、その行為が下品であると叱る辺りに光莉の感覚は大いにズレている。もはや何もかも諦めた眼で乾いた笑い声をあげるリズベットは、この家族と付き合う限りにはツッコミを入れるハードルを高めに設定しなければ精神がもたないと既に察していた。

 ファンも卒倒するだろう、だらしなく胡坐を掻いた姿で灯は特製焼きそばを美味しそうに頬張る。対して光莉は、まるで焼きそばが三ツ星レストランのメニューなのではないかと思うほどに気品を持って食す。ここまで対極でありながら、芯とも呼ぶべき部分……使われた食材に礼を尽くすような雰囲気は、やはり彼女たちが何処までも血縁なのだと感じられ、リズベットは心地良い疎外感を覚える。

 こうして1つ1つ自分と違うことを感じ取り、その分だけ近付ける。それが途方も無く嬉しいのだ。リズベットは皿に盛られたまま、サランラップをかけられた光輝の分を見て、早く帰って来ないだろうかと期待する。

 

「屑兄遅いわねぇ。大屋敷から呼び出しって聞いたけど、母さんは何も知らないの? 月前祭は屑兄が狩装束の最終調整だとしても遅くない?」

 

「お母さんも何も知らないわ。でも、男衆も当主から呼び出しを受けたそうよ。もしかしたら、『狩り』の号令がかかったのかもしれないわね」

 

「……呑気だねぇ。本当ならリズちゃんにも伝えておいた方がいいんじゃない? ただでさえ今日の月前祭は刺激的だろうに、『狩り』まで生で見たら発狂しちゃうよ? そんな精神状態で本祭まで参加させたら――」

 

「『狩り』は狩人の本分です。私達が口出しすることではありません。それに、もしも本当に号令がかかったなら、貴女にも責任があるわ。あんなにも記者さん達を引き寄せてどういうつもりかしら? 記者は己の好奇心というものを御する事を知らず、また秘密を暴くことを是とする輩よ。外忌そのものじゃない」

 

「……んー、まぁ、可愛い妹分への援護射撃かなぁ?」

 

 咎めるような物言いの光莉に対して、灯は不気味さを思わす程に声も無く笑う。

 

「リズちゃ~ん、今宵の月前祭はね、屑兄と白依が主役なの。屑兄も狩装束を披露するわ。特等席で見ようねぇ」

 

「ちょ、灯さん!? もしかしてお酒飲んでます!? 息が凄い酒臭いんですけど!?」

 

「仕方ないじゃん。私は明日かーくんの代わりを務めるんだよ? 飲んでないとやってられないわよ。幾ら私以外には無理だからって、大祭で神子の代役なんてさ。どうせ私では深殿に入れないから、祭儀としても不成立だし。神楽だけ舞ってもねぇ」

 

 神子は大社の裏から山道に入り、深殿なるヤツメ様信仰の心臓部に至る。随伴して供物を運ぶ白依と彼女たちを警護する狩人達も深殿に立ち入ることは許されない。深殿に入ることが出来るのは神子と当主たる烏の狩人だけである。その内の烏の狩人も深殿の門番を務めるのみで立ち入らず、大よそ1晩を神子は深殿で過ごす。それがリズベットの知る全てだ。

 だが、代役である灯すらも入れない深殿とはどのような場所なのだろうか? 思わず好奇心が芽生えそうになり、リズベットは慌てて深呼吸を繰り返す。

 

「でも、灯さんの神子衣装姿ってきっと奇麗だろうし、あたしは見たいなー」

 

「褒めてもサインくらいしか出ないぞぉ。うりうり♪」

 

「ちょ、止めてくださいよぉ! 灯さ~ん!」

 

 ご機嫌そうにリズベットに抱き着いて頬擦りする灯に、まるで本物の姉を得たようだとリズベットも満更ではない気持ちでお世辞ばかりに抵抗する。その様子は微笑ましそうに見えていた光莉だが、コホンと小さく、だが台所にして食を預かる母としての威厳を示すように咳をした。

 

「食事中よ」

 

「「はーい」」

 

 結局は光輝が戻って来ることはなく、焼きそばは予定調和に灯の胃袋に消えた。あの細い体にどうやれば大盛焼きそば2人前が入るのだろうかと、女子として日々のカロリー計算を欠かさないリズベットは羨ましく思う。この数日を見る限り、幾ら女優業がハードとはいえ、自堕落な私生活が目に浮かぶ灯では、どう足掻いてもプロポーションを維持できないだろうと思えた。

 

「灯さんって秘密のダイエット法とか知ってるんですか?」

 

「んー、別に。久藤の女だしね。かーくんに比べたら全然だけど、『血』も濃い方だし、食べても太らないよ。だけど、体重計は嫌いかなぁ。久藤の女はそこまで『狩人の体』は発露しないはずなんだけど、私の場合は筋肉がねぇ……」

 

「筋肉が?」

 

「私達って筋肉がとにかく重いのよ。普通の人よりもずっとね。よく分からないけど、須和先生曰く、常人よりもずっとパワーが出るらしいわ。そんな風に『進化』してるんだって」

 

 まるで苦い思い出を振り返るように、皿洗いをする母親の背中をチラリと見ながら、灯は腕をリズベットの目の前に差し出す。

 触ってみろ。そう言うかのような振る舞いに、これが世界を魅了する女優の柔肌だと感動しながらリズベットは撫でる。

 まるで絹を思わす細やかな肌にして指先だけでも分かる至高の感触。絶妙な柔らかさを備え、なおかつ色白美人の称号を欲しいままにするだろう艶もある。まさしくワールドクラスだ。

 

「どう?」

 

「どうって……女として負けた気がします」

 

「見た目は普通だけど、中身の筋肉はゴリゴリマッチョマンも吃驚するくらいのビックパワーよ。母さんが羨ましいよぉ。見た目通りの可憐なか弱さとか、父さんには勿体ないよぉ。母さーん! 何でその巨乳を私にくれなかったのよぉ!」

 

 すっかりお酒が回ってる。まだ酔っているとまでは言わないが、幾らか枷が外れたらしい雰囲気の灯に、光莉は『笑顔』を向ける。

 

「灯、少しお散歩したらどうかしら? 月前祭で神子の代理がお酒臭いなんて大恥だし、ちょっと汗を掻いてきなさい。きっとお酒も奇麗に抜けるわ」

 

「……了解っす!」

 

 ここは真冬のシベリア、あるいは暗闇に張られた蜘蛛の巣か。光莉の笑顔を見て、1秒と待たずして灯は立ち上がるとそのまま弾丸の如く飛び出していった。見送ったリズベットは、これが母親というものかと感銘を受ける。

 

「ごめんね。嫁入り前だし、色々あって灯も少し不安定なの。あの子、ああ見えて繊細だから」

 

「分かります。空元気とは少し違いますけど、なんか……少し無理して明るく振る舞ってる気がします」

 

「昔からよ。灯はね、いつも明るい笑顔で自分を騙すの。体重の話をしていたでしょ? 久藤の女は本来そこまで『狩人の体』は発露しないわ。私なんて『血』のままに動こうとすれば、すぐに筋肉が千切れて内出血しちゃうもの。体が弱いせいか、特に脆くてね。逆に灯には女狩人の資格があった。優れた『狩人の体』を持って生まれてしまった。灯はそれを特に気にしているわ。ああ見えてプロポーションの維持にはかなり気を遣ってるのよ。油断するとすぐに筋肉が付いちゃうから」

 

 お仕事のプロフィールにも体重は載せていないのよ、と光莉は補足する。女優業である彼女にとって、体重計とは世間を欺く上で最も強大な敵であるような気がした。そして、ああしてだらけているのも、筋肉をつけず世間が清純派女優『AKARI』に見る幻想を維持する為なのだろう。ダイエットに血眼になる世の女子全てを敵に回しているようであり、だが彼女にとっては何よりも死活問題なのだ。

 思わずリズベットは自分の頬を摩り、九塚村での生活でちょっと丸くなってしまったのではないかと危惧する。思えば、久塚村に来てから彼らと同じ食生活だったのだ。ハイカロリーかつ美味で食べ過ぎたともなれば危惧するのも当然である。

 

「そういう意味では、灯は篝を特に羨んでいたのかもしれないわね。篝の体はとても華奢で、やわらかくて、だけど『狩人の体』としては秀でていた。骨格からして『男性』と呼べるものではなかったそうよ。同じくらいに『女性』でもなかったそうだけど」

 

 まるで天使のようだ。天使とは両性具有であり、性別は無いとされている。話を聞けば聞く程に、末っ子の篝とは、まさに奇跡の産物、あるいは『血』と呼ばれるものがたどり着いた奇跡を愚弄する必然の結果にも思えた。

 だが、光莉はあくまで『母親』として語ること以上のことを望まない。ならば、リズベットもまた余計な詮索をしない。あるがままに『受け入れる』のだ。

 

「篝くんに会ってみたいなぁ。いずれはあたしが『お義姉ちゃん』になるわけですし」

 

「今度、一緒にお見舞いに行きましょう」

 

「……いいえ、止めておきます。あたしが会うのはDBO事件が解決してからにします。それがオブザーバーとしてのケジメですから」

 

「そう、期待しているわ」

 

 DBO事件の裏は少しずつ暴けているが、何にしても味方が少なく、また何処に敵が潜んでいるかも分からず、もしかしなくても世界中に張り巡らされたネットワークそのものが自分たちの動向を監視しているかもしれないのだ。

 そういう意味では、やはり久塚村のように、敢えてテクノロジーから切り離された社会とは安全なのかもしれない、ともリズベットは思うが、さすがにネットどころか電話すらも通じないのは不便だった。

 

「月前祭は白依が主役。あとは光輝の狩人装束のお披露目かしら。それと来賓はお面を付けないといけないわね。リズベットちゃんはもう認められているかもしれないけど、祝言を挙げて正式に血族に加わるまでは客人として扱った方が『安全』でしょうしね」

 

 いよいよ夕暮れとなり、間もなく月前祭という時間帯になれば、光莉が持ってきたのは木彫りの仮面だ。

 一言で述べるならば、奇怪な面である。狐のようにも、犬のようにも、蛇のようにも見て取れる。だが、敢えて言い表すならば『獣』こそが相応しいという仮面だ。漆が塗られているかのような漆黒でありながら、まるで血を浴びたかのように朱が塗りたくられている。

 不気味とも言い難く、だが神聖とは大よそ異なる。被れば自分が『獣』になってしまうのではないかと不安になる仮面だった。

 

「ヤツメ様の目を誤魔化す為の仮面よ。ヤツメ様は礼祭で招かれ、既に大社にいるわ。月前祭を執り行うならば、そこには血族以外にいてはならない。ならばこそ、来賓は獣に扮してヤツメ様の目から逃れる」

 

「こんな仮面で見分けがつかなくなっちゃうなんて、ヤツメ様って可愛い神様ですね」

 

「仮面とは祭具なのよ。彫り込まれた存在に『化ける』為のもの。あるいは己を『書き換える』とも言うべきかしら。だから気を付けなさい。リズベットちゃんが思っている以上に『別の何か』に化けるのは、とても危険なことよ」

 

「な、なるほど」

 

 想像よりも息苦しい。仮面を取り付ければ視界が制限されるので、これまた歩きづらいのだ。

 

「服装はいつも通りで構わないんですか?」

 

「ええ、大丈夫よ。だけど、祭儀の最中はお喋り厳禁。仮面も外しては駄目よ」

 

 まるで仮面に塗り込まれた血が染み込むように汗が垂れる。

 電灯の明かりもない屋外に出れば、まるで蛍火のように蝋燭の光が踊っている。村中の人間が大社を目指しているのだろう。

 仮面をつけていない光莉が行灯を持ち、リズベットの手を引いて大社へと誘導する。

 

「光莉さん」

 

「あら、須和君じゃない」

 

 大社に向かう道中ですれ違ったのは須和だ。夏の蒸された空気で汗塗れになっているが、顔には仮面をつけていない。彼の左右には、些か以上に異質の風貌の男が2人ほど警護するように立っている。

 全身に纏うのは黒色のコートであり、胴体には複数のベルト。頭部に付けているのは、まるで獣の頭を思わす三角帽子であり、口元から喉元まで覆うマスクを付けている。腰には帯刀しており、肩には小型のマントを取り付けている。その姿は余りにも現代社会の日本からかけ離れており、まるでVRゲームから飛び出してきたかのようだ。

 

「当主が『狩り』を命じられました。私は『後片付け』の為に外で待機を。リズベットちゃんをよろしく頼みます」

 

「……そう、『狩り』が始まるのね。愚かな好奇を止められない人間とは、本当に嘆かわしいわ」

 

 不穏な単語が行き交い、リズベットはごくりと生唾を飲む。ピンク色に染色した髪のお陰で彼女と分かったのだろう、須和は力なく微笑みかけながら駆け足で去っていく。

 

「あ、あの――」

 

「ああ、あの恰好? あれは狩装束よ。洋装で少し驚いたかしら? 明治以降はあの狩装束を扱っているのよ。ほら、やっぱり時代的に和装だと色々と困ることも多いし、機能性を重視しないとね。現代にも合わせて新しい狩装束を仕立てる予定もあるのだけど、取り仕切る理輝さんが――」

 

「そうじゃなくて! えと……『狩り』って……何が始まるんですか?」

 

 リズベットの歯切れの悪い質問に、光莉は足を止める。

 日暮れを過ぎて夜の暗闇で湿った世界では、ぼんやりと周囲を照らす行灯だけが頼りだ。その弱々しい輝きだけでは、光莉の美しい容貌の全てを真昼のように明らかにすることは出来ない。

 だが、それでよかったのだろう。リズベットが見たのは、まるで滴る血を舐め取って悦ぶかのような狂貌の微笑み。僅かに見える、赤が滲んだ黒の瞳は、蜘蛛を思わす無機質な殺意で占められたあの眼光を宿している。

 まるで飴でも舐めるように唇を舌でゆっくりとなぞり、光莉は『普段』と同じように穏やかな微笑を描く。

 

「狩人の仕事は1つ。『狩り』よ。私は狩人ではないし、リズベットちゃんだって同じ。久藤の女として家で狩りの成就を待つのが役目」

 

「……そ、それって、まさか、人をこ――」

 

「リズベットちゃん。狩人は無暗に『狩る』ような真似はしないわ。狩りにのめり込めば、やがて血に酔う。血の悦びを求めるままに『狩り』を始める。血に酔った狩人は『獣』と同じなのよ」

 

 今まさに『獣』の仮面を被るリズベットの震えが伝わって来たのか、彼女の右手を握る光莉の手が安心を促すように力を増す。だが、それは蜘蛛が巣に捕らえた獲物を逃がさない為に糸を絡めさせるかのようでもあった。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 真夏とも思えぬ涼風は、いつしか背筋の汗を舐めるかのような冷風に変じたかのように、身震いを止めない。そして、風音に紛れ込むのは、暗闇の中で茂みに潜んで這って動くモノたちの足音だ。

 それは幻聴か? リズベットには区別がつかない。だが、足音はいつの間にか耳の中、頭蓋骨の内側、脳髄の芯にまで響いているかのようだ。

 

「『掟』とは何のためにあると思う?」

 

「守る……為です」

 

「そう、守る為よ。『掟を守る』とは『何かを守る』ことを意味するわ。それは国であり、社会であり、民族であり、安全であり、財産であり、権利であり、生命でもあるわ。『掟』を守るとは、それだけで守ろうとした者たちに加護を成すように作られている」

 

 必ずしもそうではないということも往々にしてあるけどね、と唾棄するような冷たい声音で光莉は続ける。

 

「人間は文明を発展させ、法の秩序を敷き、道徳による調和を手に入れたわ。そして、その過程で己の枠組みから逸脱した『掟』を軽んじるようになった。好奇心のままに『掟』を蔑ろにし、自分が属してもいないコミュニティに己の主張を糞尿の如く垂れ流して冒す」

 

「ひ、光莉さん」

 

「異なるコミュニティ同士が接触する場合、互いの領分を侵さない為のルールが定められるわ。異なる民族、異なる文化、異なる信仰。相容れるはずがない。歴史が証明しているし、今も続いている真実。寛容性なんて必要ないのよ。定められたルールに則れば、少なくとも衝突することはない。郷に入っては郷に従え。異物であるならば、尚更ルールに従わねばならず、また同化を望むならばルールを解さねばならない」

 

「光莉さん。痛い。痛いです!」

 

「『掟』を軽んじた挙句に破る。好きにすればいいわ。お前たちを守る『掟』だったというのに、それを蔑ろにしたならば、我々にはもう止められない」

 

「ひ、光莉さん!」

 

 指が折れるのではないかと思うほどに握力が強くなり、リズベットは両手を使って解こうとする。

 

「放しては駄目!」

 

 だが、鬼気迫る光莉の一言と共に、微かに外れた指の狭間を通り抜けた、まるで息吹のような生温い風。

 

「絶対に放しては駄目。後ろを振り向いてはいけないわ」

 

 誰かがリズベットの袖を引いている。早く光莉の手を放せと誘っている。

 

「大社に急ぎましょう。篝火が焚いてあるわ。そこまでいけば、ひとまずは大丈夫よ。夜は獣の時間。だけど、篝火は闇を払うのだから」

 

 肩を、首筋を、耳裏を、じっとりと堪能するように這う温かな感触は指などではない。まるで早く肌を破って血で濡れた肉に喰らい付きたいと語るような舌だ。

 殺される? いや、それすらも生温い。

 

 

 じわりじわりと喰われ、啜られ、貪れるだろう。恐怖と絶望で味付けされた血肉ほど美味いものはないと教えるように。

 

 

 涙を流し、唇と歯を震わせ、早足になって大社を目指す。やがて灯篭の数も増え、電灯ほどではないが、闇を追い払う輝きが増す。人通りも増え、リズベットと同じように『獣』の仮面をつけた者たちと幾人かとすれ違う。

 自然と悪寒は遠ざかり、リズベットは過呼吸寸前となる。瞳は震えて焦点は定まらず、喉は今にも気道を押し潰すのではないかと思う程に痙攣していた。

 

「母さん! それにリズちゃんも大丈夫だった!?」

 

 待っていたのだろう灯が駆け寄り、灯篭の明るさに安堵を覚えて両膝を折って動けなくなったリズベットに触れる。

 

「ええ。だけど、リズベットちゃんが少し参ってしまったみたいね。大社に入ったら仮面は外せないわ。少し休ませましょう」

 

 大社に続く石階段の前では、リズベットと同じように項垂れている来賓が数多くいた。先日の礼祭の宴に参列したリズベットは、彼らが有力な実業家や政治家の名代であることを知っている。彼らを介抱する白依や狩人は、参加は無理……いや、『危険』と判断した者を別所に案内しているようだった。

 

「何あれ? 何あれ? 何あれ? マジ理解できないんですけど」

 

 リズベットよりも先に到着したらしい、高校生探偵の妹の美桜は、彼女らしくない、涙と鼻水で汚れた顔で嗚咽していた。

 

「美桜ちゃん」

 

「あ、お姉さん。どうも」

 

 ハンカチを差し出したリズベットに、美桜は感謝するように頭を下げて顔を拭く。

 

「お姉さんも見ました?」

 

「見ては無いけど、なんか……こう……連れて行かれそうになったというか……」

 

「へぇ、私よりマシですね。私……私、見ちゃったんです。おにぃはいないし、なんか男の人たちは変な格好してるし、明るい内なら大丈夫って思って外に出たら……な、なんか、いつの間にか日も暮れちゃってるし」

 

 ここまで1人で来たのか。仮面が傍らにあることから察するに、説明は受けたが、真に受けていなかったのだろう。下手に多くの事件に関わってしまった高校生探偵の妹であるが故に、九塚村のイレギュラー性を甘く見てしまった。

 

「暗くて、道に迷って、そしたら……凄いき、奇麗で可愛い……真っ白な髪をした……女の子が……こっちだよって……手招きしてくれて……き、気づいたら……知らない場所にいて……御屋敷の前にいた……ボロボロで……入っちゃいけないって思ったけど……」

 

 ハンカチで拭ったばかりの顔を早くも涙で濡らし、途切れ途切れになりながらも、正気を保つように自分が体験した恐怖を語る美桜の肩を、リズベットは自分がいると伝えるように抱きしめる。

 

「蜘蛛の巣が……たくさん……色々な人の……呻き声……吊るされてた……みんな、首を吊って……揺れて……揺れて……揺れて! 怖くなって、でも、その子……遊び相手が欲しいって……毬はできるかって訊かれて……できると思うって言ったら……笑顔で頷いて……私に毬を……そしたら……それ、毬じゃなくて……私の首で……口から……蜘蛛が……蜘蛛がぁああああ! 嫌ぁあああああああ!」

 

 リズベットの手を振り払って走り出した美桜を、来賓の世話をしていた狩人が捕まえる。暴れる彼女を抱き、その頭を撫でる。

 

「大丈夫だ。キミは招かれた客だ。それに掟は破っていないだろう? 外忌にもなっていない。このヤツメ様の青紐は来客の証。これがある限り、キミは我ら狩人の庇護下にある」

 

「で、でもぉ……!」

 

「ここまではどうやって来たんだい?」

 

「分からない。走って逃げたら……ここに着いてた」

 

「そうか。そりゃ凄い。ここまで逃げられたのは、ヤツメ様の気まぐれとキミの勇気のお陰だ。並の狩人に出来ることじゃない。キミは特別なんだ。ヤツメ様はキミを気に入った。キミの血を認めた。だから逃がした。大丈夫。もうキミは狙われたりしない。安心しなさい」

 

 ようやく泣き止んだ美桜を白依に任せ、見守っていたリズベットに狩人は近寄る。

 

「運が良い子だ。夜に1人で出歩いて、しかもヤツメ様に出会って逃げきることが出来るとはね」

 

 マスクや帽子のせいで分かりづらいが色黒の肌、そしてマスク越しで曇っているが声音から錫彦であると察し、リズベットは丁寧に腰を折って頭を下げる。

 

「美桜ちゃんはどうなるんですか?」

 

「ヤツメ様次第だ。気まぐれが続くことを信じるしかない」

 

 ごくりと生唾を飲んだリズベットは、灯篭の光だけが点在する九塚村の闇に何が潜んでいるのか、改めて考えようとする。

 限りなく満月に近しい月明かりであるにも関わらず、まるで闇が沈殿しているかのように、視界は暗闇ばかりだ。

 そもそも、まだ午後6時も回っていないはずだ。いくら何でも暗くなるには早過ぎる。腕時計を確認したリズベットは、いつの間にか表面は割れ、時計の針は動けず、デジタル表示もバグを起こしている事に頬を引き攣らせる。

 

「コウさんと合流したら絶対に離れるな。俺達狩人は祭事が終わるまでに『狩り』を済ます。だが、それで夜が明けるかどうかは分からない。正直言って、俺も『狩り』は生まれて初めてだ。最後の『狩り』は昭和だったからな。特に神子様が生まれてからはこんな事が起きた試しなど無かった。気を付けろ。ヤツメ様は血と肉に飢えている。神子様もいないともなれば、いつまで『夜』が続くか分からない。それとこれを渡しておく」

 

 投げ渡されたのは掌に収まる程に小さな黒い直方体だ。また何かのお守りかとも思ったが、それはむしろ文明の利器だ。

 

「『無線機』だ。KISARAGIの特別製だよ。短距離通信限定だが、村中に設置されている送受信機を使えば、ヤツメ様の森を除く全域をカバーできる」

 

「え? でも――」

 

「俺達が文明から隔絶された時代遅れだと思った? 俺達は狩人だ。常に最先端の『力』を集める。それに頼って驕らないだけだ。そいつを使えば狩人と連絡が取れるはずだ。だが、過信するなよ。そんな機械よりも自分の感覚を信じろ。特にこの村ではな」

 

 別の来賓の到着を確認すると錫彦は駆け寄り、また視線でリズベットに早く大社に向かうように促す。

 無線機をポケットに入れ、仮面を付けたリズベットは待っていてくれた光莉や灯と合流し、灯篭で囲われた石階段を上る。

 

「大社に着いたら、なるべく息を殺してね」

 

「それとお酒が配られるから、一口で全部飲んで。変な味がしても全部飲むこと」

 

 2人に忠告を受け、大社にたどり着いたリズベットは、昨日の縁日を思わす華やかさとは打って変わり、厳粛な空気に浸された大社に息を呑む。

 まず鼻を突いたのは多量のお香だ。薬草の類なのだろう。思わずむせて仮面を外しそうになったリズベットは必死に堪える。

 来賓の数は少ない。美桜と同じようにショック症状を起こしてしまったのだろう。光莉たちのように私服姿の女性や子どもを除けば、黒い狩装束を纏った男たち、そして白毛のカツラが備わった兜を被った集団が大社の周囲を警備している。それは時代劇から飛び出した武士にも思えたが、その身に纏う鎧は最低限であり、むしろ野山を駆け回る上で最低限の防具を備えたといった実状を感じさせる。

 

「昔の狩装束の1つ『白兜』よ。戦に参じる際には、狩人はあの風貌で参じたの。狩人は昔から軽装を好むわ。重い鎧なんて着込まないのよ」

 

 昨日の礼祭では菓子が溢れんばかりだった境内は、今や木彫りの像が並んでいる。だが、いずれもモチーフになった生物がまるで分からない、だが『獣』としか言い表せない何かの像ばかりだ。

 木々には獣皮で作られた人形……吊り贄が吊るされてある。それらのいずれも夜風で揺れる姿はまるで首を吊っているかのようだ。美桜の言葉が蘇り、リズベットは喉から漏れそうになる悲鳴を堪える。

 小間使いの人々もまた『獣』の仮面をつけているが、区別するように仮面のデザインが異なる。彼らは来賓を1ヶ所に集めているようだった。

 リズベットは気づく。篝火が火の粉を散らし、お香で充満した境内には、昨夜の礼祭ではあれだけ注意を受けても撮影を止めなかった記者たちの姿が1人していない。来賓はいずれも祭り慣れした様子で小間使いの案内を受けている者ばかりだ。

 

「母さん、私はちょっと外すね。静が心配だし」

 

「……ええ、分かったわ。静ちゃんにはよろしく言っておいてね」

 

 灯が離れ、リズベットは心細さを覚えるも、自分が付いていると伝えるように光莉が笑む。

 

「おうおう! 嫁っ子の到着か!」

 

 と、そこに今にも破裂しそうな風船の如く緊張が高まった空気を破ってきたのは、面会した時と同じく和装姿の老人だ。

 久藤家当主の光之助だ。慌てて頭を下げようとするリズベットに、老人は止せと手で制す。

 

「いやぁ、参ったねぇ。外忌は毎度の事だが、まさか大祭で阿呆をやるとは。ちょいとばかし骨が折れる『狩り』になりそうだが、嫁っ子は気にすんな」

 

「…………」

 

「そうだ。それでいい。何が起ころうと声は出すな。何が聞こえても耳を貸すな。何が見えても目で追うな。祭りに集中しな。そうすりゃ『狩り』は終わって夜明けだ。明日の本祭まではとてもじゃないが夜は明けそうにないが、俺達が夜を終わらせる。それが狩人の務めって奴だ」

 

 祭りを楽しめ、と気軽に言い残してリズベットの頭を撫でた光之助の背中を見送り、リズベットは人々が集まる舞台へと向かう。

 正方形の木造の舞台は、四方にそれぞれ篝火を焚いている。舞台の中央には祭壇が設けられ、直径1メートルはあるだろう金属製の器があった。その輝きからして貴金属なのは間違いないだろう。

 舞台に次々と上がるのは白依達だ。薄く透けたベールを頭から被り、和装のような風貌でありながら、決して神道ではなく、複数の宗教の要素を持ち、だがその実は独自の意義を隠した装飾が数多い。静の話の通りならば、彼女たちが纏う白い衣に描かれた血管の如き赤の紋様は、かつて自らの喉を裂いたとされる贄姫の血を模ったものである。

 底が厚い漆塗りの下駄を履き、彼女たちは腰に差した日本刀を抜き、篝火に刃を突きつける。途端に刀身は燃え上がり、彼女たちはまるで火の精霊のように舞う。

 刀身に油が塗り込んであるのだろう。あんな真似をすれば、美術品としての価値も、また刀剣としての機能も損なわれる。だが、あれらの刀剣も祭儀の為に鍛えられたものであることに違いなく、故に今ここでこそ役目を全うしているのだとリズベットは感じ取れた。

 

「古き時代より火こそが『力』。故に狩人は火の扱いに長けねばならない。火を恐れる者に狩人の資格は無い」

 

 光莉の言葉は正しいと証明するように、舞台に立つ白依達に続くように、狩人達はその手に松明を持ち、篝火より猛る熱をもらい受ける。篝火より分かたれた焔火は、瞬く間に大社全体を明るく照らしていく。そして、その分だけ伸びた暗い影に月光は落ち、何かの蠢きを覚えずにはいられなくなる。

 そっとリズベットの手を光莉が握る。冷たくも優しく労わるような手は、祭りが終わるまで手放さないと強さを増し、リズベットも恐怖を堪えて握り返す。

 猛々しく燃える炎を帯びた刃を手に剣舞を披露する白依達は、それらを全て中央の盃に集める。そこに現れたのは、他とは異なり、赤い紋様が無い装束姿の白依だ。静である。彼女の後ろを4人の白依が追う。彼女たちはそれぞれ瓶を抱えており、器の前に立つ静を囲う。

 4人から瓶を受け取った静は1本ずつ蓋を外しては中身を器に注ぐ。その度に器の中に投じられていた日本刀の火を受けて激しく燃え上がる。中身はアルコール……度数の高い酒であることは間違いないのだろう。4本全てを注ぎ、器の火と月を仰ぎ、礼を尽くした静は舞台を見守る人々……リズベットのいる側へと身を翻す。

 途端に4人の白依はそれぞれ腰の短刀を抜き、左掌に傷を入れ、赤い血を垂らす。自傷によって滴る鮮血を、静の純白の装束へと浴びせていく。

 火から血へ。器で酒を焦がす火を前に、静は腰の日本刀を抜くと4人の白依の前に差し出す。彼女たちは左手の血を刀身に塗りたくる。そうすれば、まるで肉を斬ったばかりのように血が滴る刃が出来上がり、彼女は血を散らしながら剣舞する。

 静を残して白依は下がり、新たな人物が舞台に上がる。それは男だ。他の狩人達と同じ黒い装束であるが、風貌がやや異なる。肩のマントがやや長めであり、また被る帽子にも黒い羽根……烏の羽根の飾りが付けてある。そして、それらの装束を纏うのは光輝だ。

 

「烏の狩人。狩長のみが名乗れる受け継がれた称号よ。ヤツメ様を狩り、夫婦となり、そして子々孫々に狩りの使命を継がせた始まり」

 

 静は恭しく膝をつき、血塗れの刃を両手に光輝へと献上する。彼は光莉に勝るとも劣らぬ、蜘蛛を思わす無機質な殺意を秘めた眼でそれを受け取る。

 火が揺れる器の前に立ち、光輝は刃を火で炙る。血は火で焦がされ、まるで刀身に張り付いていくかのようであり、煤で汚れた刃を彼は月に掲げる。

 いつしか聞こえていたのは笛や太鼓の音色。いや、あるいは最初から奏でられていたのかもしれない。リズベットが我に返れば、光輝は白磁の盃を手に、火によって炙られている酒を1人1人に振る舞う。静はそれに付き添い、器用に火が燃える酒を杓で掬っては光輝の手にある盃に注ぐ。

 

「火を食み、その熱で我らの獣血を鎮める。暗き夜にこそ己の内に夜を祓う火を絶やすことなく持ち、ヤツメ様の血に呑まれぬ誓いを立てる。我らは狩人。血に酔えば獣と同じ。ならばこそ。さぁ、リズベットちゃんもお酒を貰いに行きましょう」

 

 時間の概念が薄れる程の祭儀は自然と心を絡め捕り、リズベットの目をひたすらに釘付けにしていた。月の傾き具合から察すれば、少なくとも1時間以上はあっただろう舞台に魅入られていたのだと悟る。

 整然と並んで光輝から酒を貰う列に加わる光莉の後をすぐに追おうとしたリズベットは、お香で満たされ、また篝火の熱で燻ぶった空気の中で……気づく。

 先んじて歩く光莉。彼女との距離はほんの1メートルも無い。だが、その1メートルの距離の中で、リズベットの右手は彼女と繋がっていない。

 

 

 ならば、先程からこの手を握る優しくも冷たく、だが確かな温もりを有した手は……誰なのか?

 

 

 1度、2度、3度とリズベットの手の甲を撫でる。その優しくも、まるで血を塗り込むような指使いに呼吸は止まる。

 光莉と手を繋いでいるのは『誰』なのか? その髪はピンクに染色され、腰まで伸びた髪は夜風と篝火の熱で揺らいでいる。だが、伸びるはずの影はない。

 リズベットが望まずとも『誰か』は振り返る。そこにあるべき顔はなく、無貌とも言い難い黒ずんだ渦が穿たれた穴のように鎮座している。

 叫べぬ程に喉は震え、まるで蜘蛛の糸が絡みつくかのように全身は動かず、涙が双眸を濡らす。誰かに気づいて欲しいはずが、誰もリズベットが見えていないかのように通り過ぎていく。

 黒渦の穴から白い指が這い出る。まるで芋虫のように、あるいは蛇のように、もしくはナメクジのように、湿りを感じさせるほどに音も無く這い出る。

 

 腕が。

 

 肩が。

 

 頭が。

 

 胴が。

 

 足が。

 

 ずるり。

 

 ずるり。

 

 ずるり。

 

 ずるりと滴りの音色を奏でるように這い出る。

 

 それは小柄な娘。月光を帯びているかのように、淡い光を帯びた白髪の乙女。その身に纏う装束は白依に似て、だが祖にして、始まりにして、主であると示すかのように格の違いを感じさせる。

 捩じれた首を両手で正し、乙女は己の口に右手を突き入れ、喉に突っかかった小骨でも取るように何かを掴み取る。

 それは目玉。瞳は虚空を見つめながらも宇宙を浸しているかのようであり、瞬きの星空を秘めているかのようだった。目玉を握り潰して汁を啜り、乙女は垂れた髪で顔を隠しながら、ゆらりゆらりと揺れながらリズベットに近寄る。

 乙女に影はなく、だがリズベットの背後にこそ彼女がいるかのように、近寄られるごとにリズベットの後ろから火に逆らうように影が伸びていく。それは人の形をしてこそいるが、だが少しずつ変形していく。

 いつしか影の形は蜘蛛となり、8本の足を蠢かせるようにリズベットと深く重なる。そして、乙女もまたリズベットに抱き着くかのように眼下にたどり着き、自分を見ろと言うように見上げている。

 彼女を見てはならない。そして振り返るな。振り返ってはならない。列に並ぶのだ。強く念じてリズベットは乙女を無視すべく1歩を踏み出す。

 

 

 

 

 そして、リズベットは月明かりも陰る程に濃く茂った森の中にいた。

 

 

 

 

 

 木々の根から幹まで苔生し、足下は浅く水に浸っている。緩やかな傾斜によって岩肌を水が静かに流れているのだ。

 ひらひらと木の葉のように、木漏れ日の如く差し込む月光を浴びた青い蝶が視界を舞う。

 鈴虫にも似た、だが聞いたこともない虫の演奏が耳を擽る。

 喉が乾く。まるで何日も遭難したかのようにお腹が空いている。

 

「ここは……何処?」

 

 あたしは誰、とは言わなかったのは、明確に自己が認識できたからであり、だからこそリズベットは己の身に起きている事態を把握しきれず、それは恐怖となって涙を零させる。

 蜘蛛の足音が聞こえる。振り返れば、木々の間を縫うように張り巡らされているのは無数の蜘蛛の巣だ。掌程もある大蜘蛛が巣の中心で獲物がかかるのを待っている。

 

「帰らないと。あたし……帰らないと……帰らないと……帰らないといけない!」

 

 何処に? 夏であるはずなのに冬の氷水のごとく冷たく澄み切った水面より足を抜き、苔生した岩肌に立つ。全身を舐め回すような夏の蒸し暑さは確かに感じるが、だが同時に悪寒としか言いようがない内側から広がる冷気が内臓を凍らせ、また心臓さえも止めてしまいそうだった。

 方角も分からぬままに、背の高い木々が幾重にも重なり合った森をひたすらに歩く。VRでは幾度となく森系ダンジョンは経験したが、いかにダンジョンとして設計されて『整備』されていたかを思い知らされる。本物の山とは、森とは、自然とは、これ程に歩き難いとは経験したことが無かった。

 だが、伊達に幾度となくワールドクラスの危機を乗り越えたわけではない。ロンドンでは暴走列車の屋根に飛び乗った。世界同時金融テロ未遂事件では銃撃の雨に晒された。DBO事件前日まで続いた米国GGO事件では高層ビルで紐無しバンジージャンプもやった。それに比べれば、1人で夜の森を歩くなど大したことではない。

 そのはずなのに、恐ろしい。リズベットは常に誰かに見られているかのような視線を感じる。振り返るべきではないとは思いながらも、孤独に耐え切れずに誘われるように何度も背後を確認する。だが、そこには誰もいない。闇の森の中でもくっきりと浮かぶ影だけが彼女に寄り添う。

 

「ま、負けて堪るもんですか。あたしは……生き残る。絶対に……生きて、帰る!」

 

 奥歯を噛んで内外から蝕む恐怖に抗う。だが、どれだけ歩いても森の出口は見えず、むしろ奥へ奥へと深く進んでしまっているような禁忌の予感が募る。

 まるで砂漠を横断しているかのような渇きが大きくなる。荒野を駆けまわったかの如く空腹が酷くなる。

 

「お腹……空いた。喉が……」

 

 不衛生と分かっていながらも、渇きを癒すことを優先して、木の根の間に溜まった水を掬い飲む。だが、まるで喉は潤わず、むしろ飲んだ分だけ渇きの自覚が大きくなる。

 駄目だ。水では駄目だ。もっと豊潤で、濃厚で、生命に満ち溢れていなければならない。

 同じくらいに空腹も耐え難いものになる。祭りに備えてあれだけ食べたはずなのに、何日も食事していないかのようにお腹が鳴る。

 頭がおかしくなるほどの飢えと渇き。それは自然と嗅覚を尖らせ、彼女の歩みに指向性をもたらす。

 探して、探して、探して、たどり着く。

 まるで仕立てられたように横倒しになった大木はテーブルとなり、そこに料理が並べられている。そこにはリズベットは自分だけが森を迷い歩いていたのではないと知る。幾人かが同じように空腹に耐え兼ね、食事をしている最中だった。

 祭りに来ていなかった記者たちだ。彼らは大事な仕事道具を放り出し、無我夢中で料理を頬張り、食い千切る。リズベットも仲間に加わろうと歩み寄る。彼らは笑顔でリズベットを歓迎し、さぁ食べろと彼女に料理を差し出す。

 マナーなど知ったことか。飢えと渇きに突き動かされ、リズベットは荒々しく右手で料理を掴む。

 誰かが手を引っ張った。誰が彼女を止めた。振り返れば、やはり誰もいない。だが、リズベットは我に返り、記者たちが喰らい、また己の手が握る『料理』に気づく。

 それは臓物。赤く濡れた腸であり、今まさに引き摺り出されたばかりのように熱が籠もっている。

 

「ひぁ……ひぃああぁあああああああああ!?」

 

 絶叫してリズベットが臓物を捨てれば、肺に齧りついていた記者が勿体ないとばかりに地面に落ちたそれを奪い取る。割れた眼鏡をかけた人間の顔のまま、だが瞳は蕩けて崩れ、ソーセージを磨り潰すかのように腸がたっぷり啜った血を堪能しながら噛み千切る。

 いや、彼らは本当に『人』なのだろうか? ひたすらに晩餐にありつく彼らの衣服は何年も森に囚われたかのように汚れて朽ち、伸びた髭や髪は獣毛にも似て、伸び続けた爪は分厚く黄ばんでいる。

 

「肉……もっと……ニク……」

 

「血を……血ヲくれ……喉が渇クんだ」

 

 かつての造形すらも分からぬ程に食い荒らされた晩餐から、正気を取り戻したリズベットへと彼らは蕩けた瞳を向ける。まるで槍のように尖った枝を持つ。

 咄嗟にブーツに仕込んであるプラスチックナイフを抜き、リズベットは構えながら後退る。殺傷能力は低いが、リズベットの細腕でも急所を狙えば致命傷を与えられる。だが、彼らは金属の輝きを持たない刃物に脅威を感じないとばかりににじり寄る。

 だが、リズベットに死が訪れるより先に、彼らはいずれも恐怖を滲ませ狼狽える。闇に潜む何かに怯えて散っていく。取り残された彼女は、自分の手を濡らす血にどうしようもない魅力を覚えながらも、正気を取り戻した分だけ遠ざかった飢えと渇きから逃げるように走り出す。

 だが、整備されていない森の中を走れば、簡単に転倒して額を強く地面に打つ。脳に響く痛みがこの森に現実感を持たせ、それが余計に恐怖と孤独をもたらしていく。

 

「痛いよ……あたし、どうして、こんな目に……」

 

 子どもの頃から信心深い方では無かった。都合のいい時ばかりに神頼みをした。お賽銭をケチったこともある。神社仏閣で作法を誤ったのは両手の指の数でも足りない。だが、こんな目に遭うような程に蔑ろにした覚えもない。

 あるいは祟りと呼ばれるものは常に不条理であるならば、だからこそ恐怖を怪物に……畏怖を神に抱くのだろうか。それこそが人間の限界であると頭を垂らすのだろうか。

 水滴がリズベットの首筋を濡らす。雨が降って来たのか。痛む額を摩りながら体を起こせば、茂る木の葉を赤黒く濡らすのは血であり、それがリズベットの顔面に降り注ぐ。続いて千切れた腕が、臓物が、骨片が、脳髄が、目玉が彼女に降り注ぐ。

 

「嫌ぁあああああああああああああ!」

 

 血と肉から逃げ、リズベットは這うようにして森の出口を探す。両手の指の爪は剥げ、皮膚は破れて血が滲み、砂利や木片が肉に食い込んで痛みを生む。

 嗤い声が聞こえる。リズベットの醜態を嘲っている。森に呑まれたかのように、リズベットが歩む先には蔦に絡まり、あるいは苔で覆われ、もしくは樹木の苗床となった地蔵が立つ。木々には無数の荒縄が垂れ下がり、清廉だったはずの水はいつしか泥の如く濁り固まった血溜まりばかりとなる。

 蜘蛛の足音が聞こえる。耳から? いいや、違う。頭の中だ。頭蓋の内側……神経を伝うように……より深奥の魂の神秘に巣を張るように……蜘蛛の足音が聞こえる。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 止むことが無い蜘蛛の足音が聞こえるのだ。

 

 

「大丈夫かい!?」

 

 

 蜘蛛の足音を押し潰すように頭を抱え込んでいたリズベットに、聞き覚えのある男の声が降り注ぐ。

 恐る恐る顔を上げたリズベットの目に映ったのは、自分と同じように泥だらけとなったジョーだった。

 

「ジョーさん。どうして、ここに……?」

 

「分からない。気づいたら森の中にいたものでね。それよりも連中は何なんだ!? 村にいたマスコミみたいだが……」

 

 困惑するジョーに、リズベットは何も答えられることはないと首は横に振る。だが、正気の者と出会えたとリズベットは安堵を覚えた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ああ、『狩り』が始まった。紫藤静は脱ぎ捨てられた赤く染まった白依衣装が収まった籠を傍らに、袖を通し慣れたお気に入りの薄いブルーのワンピース姿になって三面鏡の前で今にも溶けて崩れてしまいそうな程に上機嫌な笑みを引き締めるべく、両頬を叩く。

 月前祭は終わり、狩人達は『狩り』を始めた。記録によれば、九塚村で最後の『狩り』が行われたのは昭和末期だ。それを最後にして『狩り』は途絶え、長らく九塚村は穏やかな時間が過ぎていた。特に神子が生まれてからは、かつてない安定期に入ったとも宣言できた。

 だが、神子不在で迎えた大祭。外忌は常とはいえ、『狩り』にまで発展するなど無かった。外忌は新たな外忌を呼びよせ、それは連鎖して大禍を招く。愚かな好奇は禁忌の意味を忘れさせ、不可侵の領域に踏み入る。

 

「どれにしようかしら?」

 

 母から娘へと受け継がれた口紅を手に取り、だがナチュラルメイクの方が翼は喜ぶだろうと断念する。もう少し年齢を重ねてからの方が似合うに違いない。静は鼻歌を奏でたい気持ちを堪える。

 場所は大屋敷。数多の館が繋がり、重なり、結びつき、迷宮の如き姿は、入る者を迷わせる為にあるのではない。むしろ、その逆だ。静は障子を擦るような夜風に耳を傾けながら、鏡に映る自分の心に問いかける。

 

「私は『獣』? それとも……」

 

 さぁ、答え合わせの時間だ。静は踊るような足取りで廊下に出れば、月明かりが彼女を迎えてくれる。

 他者が狂気と呼ぶものこそが正気であり、人々が正気と信じるものこそが狂気。それは『血』を受け継いだ者が生まれ持つ業だ。本家に迎えられてもおかしくない程に『血』が濃い静にとって、都会での生活は常に狂っているのと同じであり、たとえ身内でも『正気』を是とされることは許されなかった。

 

「ヤツメ様。ヤツメ様。ヤツメ様。私に後悔はありません」

 

 だから、彼の『答え』を聞けた後ならば、この血肉を捧げることも厭いません。彼の口から『答え』が聞きたいのです。静は応接室の戸を開けば、赤い座布団の上で律儀に正座して待っていた翼が感情を殺した眼で迎える。その視線を見ただけで、静は身震いするほどに歓喜し、今すぐにでも抱き着きたい衝動に駆られる。

 だが、耐えねばならない。久藤の女としての品位が損なわれる振る舞いは避けねばならない。

 

「遅くなってごめんなさい。美桜ちゃんの容態はどう?」

 

「……今はぐっすり眠ってる。かなり酷いもんさ。あんなに弱り切った妹を見たのは初めてだ」

 

「無事でよかったわね」

 

「それだけ?」

 

「何を言っても、今の翼くんには耳障りでしょう?」

 

 翼の目を見た瞬間に……いや、月前祭の後に是非とも会いたいと望まれた時点で、静は彼が真相に至ったのだと悟っていた。

 お風呂でしっかりと血と汗は流した。香水は敢えて使っていない。化粧は元より不要な程の美貌だ。どれだけ抗いたくても静を目で追ってしまう翼は、それを恥じるように唇を噛むも、その仕草さえも愛おしくて彼女は舌なめずりをする。

 対面するように腰を下ろせば、2人を照らすのは月明かりでも電灯でもなく蝋燭1本のみ。電気が無い時代に遡ったかのような印象を与える和室には、特に丁度品などはなく、だが天井に彫り込まれた蜘蛛の巣の如き紋様ばかりが火の光を受けて怪しく陰影を塗り込む。

 

「生徒会長は何がしたかったんだ?」

 

「…………」

 

「俺はさ、高校生探偵なんて不本意な称号をもらってはいるが、こんな人生ご免被りたいっていつも願ってたよ。行く先々で事件ばかり。心休まる時なんて無い。サボれば制裁されるように不運が付きまとう」

 

「…………」

 

「誰が死のうと関係ない。俺がどうして解決しないといけない? いつだって、理不尽に遭遇する事件の度に、そうやって自分の運命を呪ったさ」

 

「…………」

 

「家族はバラバラ。妹は禁断LOVEを告白。幼馴染は失踪したと思ったらアヘ顔ダブルピース。いや、本当にこれ以上は精神がヤバいんだって。もう俺を追い詰めないでくれよ。自殺すれば、どれだけ楽になるか、考えない日は無い」

 

 無感情に述べる度に翼の目は暗く濁っていく。妹もいないからこそ、強がる必要もなく、故に弱さを曝け出す。それを静は微笑みと共に受け入れる。

 

「だからさ、生徒会長に誘われた時……嬉しかったよ。美人で、頭も良くて、金持ちで、人望もあって、オマケに年上。もう完璧じゃんって……ここで決めないと男じゃないって……人生全力投球のつもりで来たんだ」

 

「……翼くん」

 

 ああ、憎まれているのだろうか? それとも失望されたのだろうか? どちらにしても、静は胸が苦しくなる。だが、今は堪えて彼の語る真実に耳を傾ける。

 

「九塚村で起こった連続殺人事件と贄姫盗難事件。この2つは繋がっている」

 

「是非とも聞かせて。翼くんの推理を……ううん、キミが見つけた『真実』を」

 

「ああ、もちろん」

 

 一呼吸を挟み、翼は射抜くように静を見据えて口を開いた。

 

 

 

 

「犯人は隅木譲二さんだ」

 

 

 

 

 膝を指で3度叩いて間を作ってから、翼は傍らに置いていた携帯端末を手に取る。この村では電子機器は使えない。ネットにも接続できない。意図的に隔離された空間を作り出された九塚村で文明の利器は大幅に制限される。

 

「実はさ、最初から違和感はあったんだ。バスでジョーさんが『ヤツメ様』を呼び捨てにした時、生徒会長は怒りを態度で示した。ジョーさんを恫喝した。だけど、俺が知る生徒会長はいきなり声を荒げるような人ではない」

 

「でも、自らの信仰を侵害されたならば、怒りを表明するのは当然だと思うけど?」

 

「俺もそう思って納得したよ。生徒会長にもこんな顔があるんだって新鮮にも思った。でも、この村で過ごせば過ごす程にあの時の態度に違和感を覚えた。九塚村の人たちは掟を守るように促しこそすれども、『無知』に対してはとても寛容なんだ。掟を守るように促し、無知に対しては語って悟らせようとする。無礼も『無知』から来るものならば、同じ過ちを犯さないように、より大きな間違いを呼び寄せないように教えてくれる」

 

「……続けて」

 

「確かに『ヤツメ様』を呼び捨てにしたのは、許されない事だったのかもしれない。だけど、それが『無知』から来るものならば、まずは声を荒げずに訂正を促す。だから、あの時の態度は『合図』だったとすれば納得がいく。これから九塚村で行う計画には、現地でサポートしてくれる協力者が不可欠だった。その協力者が生徒会長……貴女だ」

 

「その計画って?」

 

 まるで無知の子が物語をせがむように、静は翼のたどり着いた真実に聞き入る。そんな彼女の様子を訝しむようではあったが、成すべきことは語ること以外にない翼には拒否権などない。この状況自体が静の望んだ展開なのだから。

 

「それはジョーさんの正体を暴かないといけない。これは俺の経験なんだけど、真実を探るならば事件現場で情報収集よりも外部から情報を取り寄せた方が手っ取り早い。ジョーさんは自伝を自費出版しているようだった。ノンフィクションを謳っているが、誰も信じちゃいない、本屋の片隅で埃を被り、ネットでもネタとして取り上げられることもない。彼は世界中にある、知られざる宗教や集団に接触し、残虐性に富んだ儀式を暴く『正義のジャーナリスト』だ」

 

「正義なんて自称するものではないわ」

 

「俺も同意見だ。だけどな、正義の味方って世間体になってる警察は、随分前からジョーさんをマークしていたらしい。明るみに出せない事件の幾つかに彼が関わった痕跡があった。ましてや自費出版までして公表しているんだ。強い自己顕示欲に耐えられなかったんだろうさ。ハッキリ言って、逮捕は時間の問題だった。むしろ泳がしている状態。時が来れば世間に明るみに出ることもなく『処理』される。そういう『正義』もある」

 

「法の秩序の下で裁かずに闇へと葬る。それを『正義』と呼べるかは論議すべきでは無さそうね」

 

 狩人の時代は終わった。狩人がすべき仕事を担うだけの『力』を秩序の担い手たちは有している。静は真剣な翼の声音に、普段のお道化た調子とのギャップに心を震わしながら、早く続きを聞かせてと笑みで促す。

 

「ジョーさんを泳がせていたってのは、彼の取引先の闇ブローカーを炙り出す為だ。随分前から日本は美術品の盗難と国外流出に悩まされてきたからな。日本警察としてはそろそろ威信を取り戻したかったわけだ。彼は『正義のジャーナリスト』である一方で、蒐集家が好む宗教的祭具を売り払っていた。裏の商流と顧客を根こそぎ壊滅させる手柄が欲しかったのさ」

 

「仮にここまで語ったのが事実として、『高校生』探偵である翼君は、どうやって短期間で情報を集めたのかしら?」

 

「高校生『探偵』だからな。これまで不本意で解決した事件の数の分だけ人脈がある。それに今回は強力な味方も出来た。次期当主の久藤光輝さんにお願いすれば、電話も使い放題だったしな。伊達に某国のプリンセスごと国家滅亡の危機を救っちゃいない」

 

 コウ兄様を動かすなんて、どんな手品を使ったの? 内心で驚きながらも、静は表情に出すことは無い。

 

「今回の祭りの参加客のリストも見せてもらったさ。実業家や政治家、官僚もいたよ。もちろん、日本警察のお偉いさんもね。俺に不本意な人脈があったように、生徒会長にもジョーさんの情報を仕入れる術があった。そして、利用しようと企んだ。今回の『狩人気取り事件』を引き起こさせる為にね。ジョーさんからすれば、いつもと同じように、マイナーかつ不気味な宗教の実態を暴くという形で自作自演で犯行に及んで、目ぼしいお宝を売り捌くだけ。多分だけど、今までも似たような事件を起こせたのは、内部に協力者がいたからこそ。手法を熟知していた生徒会長は、正体を隠したまま計画を持ち掛けた」

 

「1つ質問があるわ。どうしてジョーさんはわざわざ自作自演をしてまで『正義のジャーナリスト』になりたかったのかしら?」

 

「さぁな。警察でも見解は割れてたみたいだ。だけど、俺が感じた限りでは、ジョーさんはオカルトを己の手で実現させ、それを信仰していたはずのコミュニティが慄き混沌に堕ちる様を見て悦に浸り、自らの手で世間に『邪悪な神秘』を公表することで、独特な自己顕示欲を満たしていたんだと思う。金目の物を奪うのは戦利品と同じさ」

 

「ユニークな人ね」

 

「何処がだよ。ただの屑さ」

 

「いいえ、とても人間らしいと思うわ。自らの欲望の為に動き、己を知らしめる姿はとても愛らしい。『我を見よ! 我を見よ!』と世界に訴えかけているようじゃない。私は嫌いになれない」

 

 静の見解を受け入れられないのか、あるいは元より気に留めるつもりもないのか、眉1つ動かさずに、だが凝りを解すように右手で自分の首を揉んだ翼は、長く、深く、重く息を吐く。

 

「思えばおかしい点は幾つもあった。この村には多くの来賓が泊まれる宿泊施設なんてない。オマケに祭りの取材……っていうか、ある芸能人を追ってきたパパラッチのせいで、キャパオーバーもいいところさ。それなのに、ジョーさんは難なく宿に泊まれた。ジョーさんが案内された宿は、紫藤家の管理下にあるんだってな。前々から紫藤家が招いた来客用で数部屋をキープしていた。その内の1つをジョーさんは使っていた。そして、ジョーさんの為にわざわざ宿の手筈を整えたのは――」

 

「私ね。ええ、認めないといけないわ。だけど、私は分家の1つ、紫藤の娘。鶴の一声で彼に部屋を貸したと思えば、別に不思議ではないでしょう?」

 

「ああ、確かに。だけど、そもそも旅慣れたジョーさんが事前に宿の手配を怠っていたとは思えない。九塚村が幾ら外界から隔離されていたとしてもな。その証拠に、以前この村で姉が失踪して真相を探りに来た岸間美琴さんは、きっちりと宿の予約を取ってたよ。隣町に提携している民宿があって、そこから予約が取れるって仕組み。九塚村への来訪者は必ずあの隣町で1泊する。なんせ唯一の交通手段が不定期バスだからな。申請を通さないといけない。俺達みたいに電車でわざわざあの無人駅で降りて、いつ来るかも分からないバスを待つ『招かれた客』以外は全員が同じ手段を取る」

 

 正解。静は薄桃色の唇を潤すように舌で舐める。九塚村と隣町を繋ぐ車道は途中で私有地を通るように設計されている。即ち、外部の人間は自家用車やレンタカーでは九塚村にはたどり着けない。『招かれざる客』は等しく九塚村に入る前から『蜘蛛の巣』に捕らわれる仕組みだ。加えて、隣町の主だった施設、役場の人間、警察官に至るまで、狩人に長らく仕えていた小間使いの家系によって独占されている。

 閉鎖的な時代錯誤の村から逃げ出して隣町にたどり着いたと思ったらグルだった……というのは、フィクションにおいて王道であるが、だからこそ現実の人間というのは想像の範囲外に置きたがるものだ。

 

「調べて貰えばすぐだった。ジョーさんだけ奇麗に痕跡が無かったよ。生徒会長の専属の小間使い……藍沢さんだっけ? その人がわざわざ動いていたみたいだな。九塚村はともかく、隣町には監視カメラがある。文明の目があるんだ。しっかりと彼が映ってたよ。ジョーさんと並んでる姿でな。どうやら、暗躍するにはモリモリマッチョマン過ぎたな。よく目立つぜ」

 

 幾ら腹心とはいえ、藍沢を使ったのはミスだったか。素直に静は自分の失点を認める。だが、それよりもこの短期間でどうやって監視カメラの映像を確認したのか。翼個人の人脈はともかく、隣町で監視カメラの映像を集めたともなれば、静の耳に入らないはずがない。

 

(ああ、そういえば今日は藍沢に会ってないわね。なるほどね。確保されていたのに気づかないなんて、ちょっと浮かれ過ぎてたかな? 私を『仕留める』為に、まずは手足を千切るなんて、意外と慎重派)

 

 いや、勘違いも過ぎる。この場で2人だけなのは、翼が推理を披露する為ではない。すでに裏付けも取り、静が黒幕と断定しているからこそなのだ。王手? 違う。もはや投了された。静の負けは決まっている。

 

「被害者の大学生6人。いや、持ち物から調べたらしいんだけど、彼らは日本の大学生じゃなかった。指紋照合をしてもらえれば1発さ。ここ最近で神社仏閣ばかりを狙う美術品専門の窃盗団。犯行現場にケアレスミスで残していた指紋の1つと合致した。彼らはジョーさんと同類だったのさ」

 

「ねぇ、だったらおかしいと思わない? ジョーさんが『狩人気取り』だとして、どうして仲間を殺したの?」

 

「彼らとジョーさんは面識なんて無かった。計画に携わるにあたり、殺害するターゲットをとして選んで、情報をリークして呼び寄せただけさ。ジョーさんも自分が目を付けられていると知っていた。彼らの『仲間』と警察に誤認させ、この村で行方不明という形で逃げることを目論んだ。生徒会長の狙い通りにね。その証拠に、ジョーさんと思しき人物が偽造パスポートのブローカーと接触しているっていう情報を少し前に警察は掴んでいた」

 

「面白い推理ね。だけど、高校生探偵の割には警察の力に頼り過ぎてるのが勿体ないわ」

 

「国家権力舐めんな。俺1人よりも警察の皆様の方がノウハウも情報網も捜査力も上なんだよ。俺が解決しているのは、そもそも警察が介入できなかったり、居合わせなかったり、見落としたりしたものばかりだ。まぁ、科学捜査を誤魔化した凄腕犯罪者もいたけど、警察がきっちり仕事すれば俺が出しゃばることなんて何もない事件ばかりだ。俺は情報を収集・整理・分析しただけさ」

 

 だからこそ素晴らしいのではないか。静はうっとりとした目で、翼の数奇な運命によって鍛え上げられた探偵力とも言うべき才覚に『血』の疼きを覚える。彼の『血』を欲しいと体が熱くなる。

 だが、それ以上に『血』が求める以上に、彼の世間と運命で濁り切った眼に宿る、まるで日本刀のように研ぎ澄まされた真っ直ぐな意思に魅入られる。

 私が好きになった目だ。世間に高校生探偵と騒がれ、ネットでは玩具にされ、幾多の事件に遭遇して心は擦れ、繰り返し植え付けられたトラウマによって歪められてもなお、人生を悲観することなく、荒野を突き進もうとする人間の逞しい意思の光だ。静は嬉しさで緩みそうになる頬を引き締めるのに何よりも集中力を注ぎ込む。

 

「わざわざ外の人間を犠牲者に選んだのは、生徒会長の指示だろ? 村の住人に……生徒会長にとって家族同然の人たちから犠牲者を出したくなかったんだ。いや、それだけじゃないか。下手にターゲットを選び損ねたら、逆にジョーさんが返り討ちにあってしまう。だから、確実に殺せる外部の人間を殺害することを選んだ。それに、『招かれざる客』は外忌になり易い。よもや、身内が計画的に外忌を引き起こさせ、裏で殺人計画を実行させているなんて、さすがの彼らも思わなかった。閉塞したコミュニティ……身内ばかりという環境は客観視を損ねさせるからな」

 

「辛辣ね」

 

「まぁな。今回の事件、情報さえ揃えば生徒会長まで辿り着くのはそう難しくない。大事なのは発想だ。『黒幕は生徒会長だ』ってパターンにたどり着いて、それを見て見ぬフリするかどうかにかかってた。このゲームの肝は先入観。情報収集手段が制限された閉鎖された環境、身内ばかりで人脈が制限されたコミュニティ、そしてヤツメ様。確かにヤベェ。俺も1人だったらどうしようもねぇよ。だけどな、こっちは某国のお姫様をテロリストから奪還とか! 暴走バスで30人のガキ共の命背負ってサイコ野郎相手に謎解きとか! 生首バーベキューしちゃうヒャッハー教団から脱出とか! ヤベェ奴らを相手にしてきてんだよ! この程度で怯むかよ。むしろ、俺自身の命は安全が確保された分だけ今回はイージーモードだぜ! それに、ちゃんと話せば協力してもらえる人ばかりだったしな」

 

 どうだと腕を組んで鼻を鳴らす翼に、やはり彼もまた血族に招かれるに足る異端の人生を歩んだ者なのだと静は改めて納得する。

 

「私の負けよ。翼君の言う通り、私が全て計画したわ」

 

 ああ、真実にたどり着いてくれた。自分が準備した謎は、彼には簡単過ぎたようだ。策謀はお手の物である静だが、所詮は10代の小娘では、持てる財力と人員を駆使してもこの程度が限界という事だろう。

 

「だけど、生徒会長にとってもイレギュラーが起きた。贄姫の盗難だ。いや、それ自体は計画にあったんだ。生徒会長の計画では、腹心である藍沢さんが盗み出して、贄姫で殺害されたかのように鋭利な日本刀で殺害された死体を作り、村全体にヤツメ様の祟りが起きているかのように錯覚させる事にあった。だけど、本当に贄姫が盗まれてしまった。あの夜の静さんの動揺は……本物だったんだ」

 

 静が黒幕であるという真実のみならず、贄姫盗難についても言及する翼は足を崩し、長い正座で溜まった痺れを抜くように胡坐を掻く。

 

「藍沢さんが話してくれたよ。6人の窃盗団の内の2人は吊り贄に似せて殺害。更に2人を贄姫で殺害されたようにみせかける。そして、最後の2人を深殿の前でバラして死体を供物のように並べる。それが一連の殺人計画だった。6人は初日で捕まえておいたんだろ? だけど、逃げられた。『誰か』が逃がしたんだ。そして、彼らは村に潜伏しながら、脱出の機会を窺っていた。ついでにお宝である贄姫も抱えながらな」

 

「……私の負けよ。ええ、その通り。あの6人は破廉恥な真似をヤツメ様の森で行っている所を、ジョーさんに薬を盛らせて眠らせたの。内の2人は吊り贄にしてもらったわ。残った4人は紫藤が管理する農園の納屋に閉じ込めていたのだけど、贄姫が盗まれた夜に逃げられたわ。ジョーさんにも情報提供をして、藍沢と協力して『狩りの真似事』をして4人とも仕留めたのだけど、少し荒事になってしまってね」

 

「やっぱりな。2つ目の殺人。刃物による滅多刺しは、わざと致命傷を割け、苦しませる為のものだったって須和先生が言ってたが、思った通りに拷問だったわけだ」

 

「苦しみを与えて殺す為……とは思わなかったの?」

 

「むしろ、なんで真っ先にその発想に至るんだよ。普通、死なないように苦しめるのは、聞き出したい情報があるから拷問する為だろ。まぁ、そうじゃない連中もいるけどさ。俺も何度もそういう輩の事件と遭遇したわけだし」

 

 ああ、これが先入観か。静は彼に仕掛けたトラップをそのまま体感する。本能の飢餓を癒す為に血の悦びを求めずにはいられない久藤の血筋は、総じて先天的なサディストの傾向が強い。より上質な血の悦びを得る為に、獲物に苦痛と恐怖と絶望を与えて命を染め上げて『喰らう』方が美味いと本能が長い歴史の中で学習しているからだ。あるいは、ヤツメ様はそうした恐怖で染まり切った命こそを好んで食したのかもしれない。

 だが、そもそもとして大半の人間は、『普通の見解』ならば、情報を引き出す為の拷問という発想に至る。

 

「恐らく、藍沢さんが離れている隙に、ジョーさんは協力者と贄姫の隠し場所を聞きだしたんだ。こっそり逃がしてやるとか、そんな甘言を使ったんだろうさ。この村に1泊でもすれば、ここがヤベェ場所だって窃盗団も気づいただろうし、ましてや殺される間近だ。全部ゲロっただろうな」

 

「後は『計画』通りに進めて窃盗団を皆殺しにして、協力者と手を組んで贄姫を持ち出して逃げる。そして、いつものように九塚村の異常性を『正義のジャーナリスト』として世間に発信して終わりだ。それは協力者にとっても望ましいエンディングだった。協力者はジョーさんの正体を知ってか知らずか、どちらにしてもこの村に最初から疑ってかかっていた。ジョーさんの『正義のジャーナリスト』と目的は合致していただろうさ」

 

 最初から全ての謎を解いた上で翼はここにいる。だからこそ、真相を暴かれた静は聴衆となって高校生探偵の言葉に耳を傾ける。

 

「窃盗団を逃がしたのは、姉がこの村で死んだ『真実』を追っていた岸間美琴さんさ。窃盗団が盗んだ贄姫を預かったのは、犯罪者と手を組む上での保険だろうな。贄姫を隠した岸間さんを窃盗団もジョーさんも簡単には殺せない。折角のお宝だからな。だから、彼女にも協力した。この村の秘密を暴く手伝いをした。そして、きっと1番やってはいけない禁忌を侵した。深殿に……立ち入った」

 

 俺がたどり着けたのはここまでだ、と降参するように翼は頬杖をつく。だが、静は彼を賛美すべく拍手する。ほぼ満点だ。欠けている部分は無い。

 

「俺はオカルトはそこそこ信じてはいる。神様も天使も悪魔も幽霊もいるとは思ってる。でも、生きた人間に何か影響を与えるはずがない。出来るなら、この世界はもっとマシになっているはずだからな。だから、正直言って、美桜があんな風になったのも信じられない。ヤツメ様がいることも信じられない。だけど、何かがこの村で起こってる」

 

「ええ、『狩り』が始まったわ。獣を狩り尽くし、ヤツメ様を鎮めて夜を終わらせる。昭和以来らしいわ。まさか『狩り』が始まるなんて……外忌が多過ぎたせいかしら? それとも神子様が不在のせい? クヒ、クヒヒ、クヒャヒャ……いいえ、私のせいね。私が企んだせい。翼くんに私の全てを知って欲しいと願ったせいよ」

 

 ああ、ようやく取り繕わないで済む。静は昂る血のままに狂貌を描く。それは好きな男の子の前では決してしたくなかった、血を求めて止まない『獣』の顔だ。もはや表現することさえも冒涜的な程に、だがだからこそ彼女の美貌を何よりも映えさせる狂気で塗り潰された笑みだ。

 いいや、これこそが『正気』なのだ。静は耐える必要なく、『獣』として姿を晒す。それを翼は引き攣った顔で見つめている。

 

「ねぇ、『どうして』って聞いたよね? 翼君は『どうして』私がこんな真似をしたのか、知りたかったのよね? 私はね、殺したくて、殺したくて、殺したくて堪らないの。私達にとって人間は『餌』。私達に流れる獣血は、命を喰らう……殺しを求める飢餓をもたらす。それがどんなものか分かる? 快楽殺人鬼とかと同じにしないで。これはね、言った通り『飢餓』なの。まさに飢えと渇き。まるで砂漠を飲まず食わずで横断するような毎日」

 

 両手の指を絡め、まるで蜘蛛の糸を織るかのように、静は蝋燭の火で作られた影を弄ぶ。まるで子供のように影絵を作っては壊す。

 

「私の全てを知って欲しかった。翼君が理想とするような女の子から程遠い、醜悪に策謀をめぐらし、人間の生死なんて何とも思わない。自らの策謀で人が死ぬことに……この手で作った蜘蛛の巣で『獲物』がもがき苦しむ様を見て微かでも血の悦びを集めて癒しを得て飢餓を慰める、私の本性を知って欲しかった」

 

 静は本家入りしてもおかしくない程に『血』は濃い。その分だけ彼女の本能はより殺しを求める。命を喰らえと囁く。飢餓も耐え難い程に強くなる。

 都会での生活はまさに地獄だった。常に上品に、男を虜にする理想の女性として振る舞い、久藤の女としての慎みと品格を持って人々に接せねばならない。だが、道行く人も、親しき学友も、何もかもが彼女には『餌』としてしか感じられない。

 

「だけどね、翼君だけは違ったの。私はキミに恋をした。愛してしまった。そしたらね、キミだけには殺意を抱けなかった。私はキミの前だけでは、私は……きっと普通の女の子になれた」

 

 自然と静の目からは涙が零れる。それが『獣』の狂貌も濡らし、だからこそ殺意を曝け出した彼女の本性を彩る。

 

「私の全てを教えたかった。何も隠したくなかった。私の本性を知った上で受け入れて欲しかった。私には……こんな風にしか、キミを『愛してる』って伝える方法が、分からなかったの」

 

 歪んでいるのだろう。狂っているのだろう。おぞましいのだろう。だが、いつだって他者が狂気と呼ぶものこそが静にとって『正気』であり、だからこそ彼女は『狂気』を宿して正気の如く振る舞った。

 神子に比べれば、この『血』の何と薄いことか。それでも、彼女には耐え切れなかった。だからこそ、愛せたからこそ殺意を抱けなかった翼に執着心を隠すことなく晒す。

 

「生徒会長……いいや、静さん。俺はな、正直言って幻滅したよ。まさか学校1番の美人の才女の正体がサイコパスなんて表現も生温い怪物だったなんてな」

 

「……怪物。そう、やっぱり翼くんは、私を『バケモノ』と……そう呼ぶのね?」

 

 キミだけにはバケモノ呼ばわりされたくなかった。静は涙を拭い、獣血のもたらす殺意ではなく、愛するが故の人間的な殺意を持って、翼に襲い掛かるべく身構える。

 だが、話は最後まで聞けと言わんばかりに、翼は先に立ち上がって静の肩を押し、そのまま覆い被さる。

 

「つ、翼……くん?」

 

「俺は別に正義のヒーローをしているわけじゃない。法の番人でもない。正直、誰が死のうと知った事じゃない。高校生探偵なんて不本意な他称だ。俺は……失いたくないだけだ。家族も、友達も、恋も……この屑みたいな運命のせいで全部ぶち壊された」

 

 ああ、心臓が痛いくらいに鼓動が速くなる。本能と心が彼を求めて血が熱い。のぼせたように顔を赤らめる静の唇を、緊張して固まり切った顔で翼は強引に奪う。

 重なったのは数十秒の、荒々しいファーストキス。呼吸をするのも忘れた接吻に、静は年相応の少女のように頬を赤らめ困惑し、また骨抜きされたように四肢から力を抜く。

 

「どうして、俺達が2人だけなのか、考えろよ」

 

「それは……どうして?」

 

「昨日の夜に、御当主にはジョーさんが犯人って伝えたよ。だけど静さんのことは隠した。嘘を並べてでっち上げた」

 

「すぐにバレるわ」

 

「その場でバレてるさ。真偽を問われて御当主に睨まれた時は胃袋が引っ繰り返りそうだったし、殺されるとも思った。だけどな、一言こう仰られたよ。『秘密を作るなら責任を持て』ってな」

 

 それは当主に黙認されたという事だろうか。戸惑う静を起き上がらせ、翼はどう言うべきか迷うように前髪を掻き上げる。

 

「俺には静さんの苦しみは分からない。理解できるなんて簡単に口に出していいものじゃないはずだろうしさ。だから、俺さえいれば静さんが楽になるなら、ずっと一緒にいてやるよ。死ぬまでずっとな。それが俺の責任の取り方だ」

 

 年相応の少年の笑顔でありながら、年齢不相応の幾重の苦悩が層となった覚悟のある眼で、翼は人生全てを捧げると宣言する。

 

「とりあえずさ、帰ったらまずはデートしようぜ。美味いラーメン屋があるんだ」

 

「初デートがラーメン屋なんて……」

 

「嫌か?」

 

「ううん、素敵」

 

 どうして獣血に呑まれんと抗う生き地獄を是とするのか、静はようやく理解できた気がした。

 人間社会に適応する為? 生存戦略? 違う。それもあるかもしれないが、もっと単純な憧憬にして羨望だ。

 どれだけ理不尽でも、どれだけ恐怖しても、どれだけ苛まれても、その意思で暗闇の荒野を切り拓く。足掻き、立ち上がり、前に進む。

 善悪など関係なく、欲望だろうと、信念だろうと、矜持だろうと、研ぎ澄まして輝く心の『強さ』。それこそが『人』の証明なのだ。

 

「後はジョーさんを警察に突き出せば、後は勝手に『処理』してくれるなら、俺はそれでいいさ」

 

「簡単に言わないで。私達も万能ではないわ。確かに政財界にはパイプはあるけど、それも昔の話。多少の工作はできるくらいよ」

 

「へ?」

 

「あのね、何か大きな誤解があるみたいだから言っておくけど、私達は警察を思うがままに操れる権力なんて持っていない。むしろ、盟友たる如月家や須和家、それに大恩がある結城家の方が政財界への影響力は強いと思うわ。私達は古き時代より時の権力者と約定を交わし、影より『力』を行使してきた。今の日本において、私達はむしろ扱い難い切れ味が良過ぎる刃物のようなもの。冷戦後はほとんど忘れ去られたに等しいわ」

 

 意外そうな顔をする翼に、やはり勘違いされていたかと静は苦笑する。

 

「もはや狩人は不要な時代。冷戦までは暗躍という形で動くことは多くて、その繋がりはまだ残ってるけど、ほとんど引き継がれていない。対テロ戦争でも声はかからなかったそうよ。私達のような血族をわざわざ頼るよりも、忠実かつ安定した手駒が揃っているのだから当然よね。それに、権力を欲した血族が辿る末路は2つに1つ。根絶やしにされるか、絶対的な支配を確立する『王』になるか」

 

 鋭い刃物は鞘に収めていれば己を傷つけることはない。権力者にはそう思わせておけばいい。処分しようとするならば『狩る』が、蔵に放り入れて忘れ去るならばそれで構わない。いつか必要となる時代が来るまで刃は自ら研ぎ澄ますだけのことだ。

 今は『力』を蓄える時だ。戦後の反省を踏まえ、盟友たる如月家との関係も深め、最先端テクノロジーにも『蜘蛛の巣』は張ってある。

 

「私達と時の権力者が結ぶのはたった1つの約束。『私達を秘密にする』ことだけ。九塚村の隠匿の為ならば、あらゆる犠牲が容認される。その代わり、私達は彼らが望む時に、彼らの敵を『狩る』」

 

「『秘密』か。確かに今まで色々な事件に首を突っ込んできたけど、久藤とか狩人とか聞いたことが無かった」

 

「でしょう? 私達はそれで構わないの。たとえ、黄昏であろうとも、まだ『夜』は訪れていないのだから。少しでも長く夕暮れが続くならそれに越したことは無いわ」

 

 だが、忘れられ過ぎるのも問題ではあるが。須和家に潜ませた小間使いによれば、無知蒙昧な輩が神子の暗殺を企てたと聞いている。幸いにも須和先生と光莉が現場に居合わせて事無きを得たが、狩人の恐ろしさを知らぬ者が支配層に増え過ぎたのは問題だ。

 過小評価されるのは一向に構わないが、銃口を向ければ喉元を食い千切られることを忘れられては困る。あの事件後は草部が動いて見せしめに何十人かを『狩る』という大仕事もあった。表向きは病死・事故死・自殺のオンパレードであるが、ネットでどれだけ陰謀説が湧いて出たところで狩人の真実にたどり着くことはない。

 あの事件で得があったとするならば、冷戦時代の狩人の恐ろしさを知る老獪な政治家とその後継たちが勢力を伸ばしたことくらいか。こちらの実力行使を意図せぬ形で利用する様は、魑魅魍魎潜む伏魔殿に居座り続けるだけの事はある。

 尤も、このような政治の動きに興味を示すのは草部と紫藤という分家だ。肝心の本家の当主は、手綱を握れずに神子暗殺を企てたと腹切り前提で派遣された政界の重鎮に、今後はこのような事が無いように注意して欲しいと酒の席でお願いし、むしろ報復のような真似をして申し訳なかったと謝罪した。

 なお、同席していた静の父曰く、当主は手土産として手塩をかけて育てた和牛ロースと一緒に自らの手で狩った暗殺承認者の『首』を贈ったという。これを見て笑って承諾した重鎮もまた傑物ということだろう。これくらいで臆病風に吹かれていては政界でのし上がるなど出来ないのだ。

 

「変よね。『狩り』が終われば狩人の存在意義が無くなってしまうのに、私達は子々孫々と受け継いできた。『狩りを全うし、「夜」を終わらせる。それこそが狩人の使命である』と」

 

「そうでもないさ。俺はたくさんの事件に巻き込まれてきたけど、ここの人たちは凄い思いやりに満ちていて、むしろ居心地が良かったよ。静さん達がご先祖様から受け継いできた使命の意義は、俺みたいな外の人間だからこそ、大切な事なんだって実感した」

 

「……そう、良かった」

 

 先祖より繰り返されてきた狩りの全うは、決して無意味では無かったのだ。翼にそう認めてもらえただけで、静は己に流れる獣血を生涯初めて受け入れられたような気がした。

 

「でもさ、九塚村に訪れた人で、口が軽そうな輩は全員皆殺しにしてきたんだろ? 徹底的に隠蔽されてるから、滅多に来るようなことはないだろうけど、実際に今回の岸間さんみたいな人もいるんだしさ」

 

 静の罪は受け入れても、九塚村と血族の隠匿の為に流された血までは簡単には呑み込めない。そう告げる翼に、静は困ったように苦笑する。

 

 

 

 

「それこそ大きな誤解よ。私達は『何もしていない』わ」

 

 

 

 

 愚かな好奇には恐ろしい死を。掟は『守る』為にある。この村を訪れて秘密に触れた者は蜘蛛の巣に捕らわれることになる。決して逃げられないヤツメ様の糸に絡め捕られるのだ。

 掟は『客人を守る』為にあるのだ。招かれた者だろうと、招かれざる者だろうと、等しく歓迎する。そして、この村を隠匿する約束を結ぶ。それを破ろうとする者に訪れるのは、必ず悲惨な死だ。

 

「ねぇ、翼君。そういえば、ジョーさんと岸間さんは確保されたの?」

 

「それがまだなんだ。勘がいいのか、捕まえようと出向いたら行方不明でさ。村の出入口は見張ってるし、山はとてもじゃないが通り抜けられるものじゃないらしい。だけど、総出で探してるんだ。見つかるのは時間の問題さ。彼らを捕まえて贄姫を奪還すれば終わりだ。ジョーさんはともかく、岸間さんには温情かけてくれてよ?」

 

 楽観視する翼に、やはり彼はまだ狩人の……いや、ヤツメ様の恐ろしさを知らないのだと静は瞼を閉ざす。

 

「ラーメン、楽しみにしているわ」

 

「おう! 任せとけって!」

 

 静を不問にして、それどころか一生かけて愛すると責任を背負って受け入れた。彼もまた狂っているのだろう。だからこそ、血族に加わるのだろう。人の世で自らの居場所を得られなかったからこそ、異端は血族に列するのだろう。それは嘆かれるべき悲劇なのかもしれない。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 あれから何時間経っただろうか? 森の中では時間間隔が狂う一方であり、疲労は着実に精神を蝕んでいく。

 森を彷徨う中でリズベットは幾つかの点に気づいた。あの正気を奪うような飢餓の感覚は、心が恐怖に呑まれた時に強まるのだ。意識をしっかりと保ち、自己の認識を手放さなければ、まるで波が引くように薄らぐのだ。

 

「糞! この森はどうなってるんだ!?」

 

 悪態をつきながら森を進むジョーの後ろ姿を追いながら、全くの同意だとリズベットは頷く。

 

「もしかしたら、ヤツメ様の祟りかもしれません」

 

「祟り? 馬鹿々々しい。篠崎さん、この世に呪いとか祟りとか、そんなオカルトは存在しないんだ。キミだって現代人だ。分かるだろう?」

 

 疲れを癒すように、何百年もこの地に根を張るような大木に背中を預けて呼吸を整えるジョーは、首から下げたカメラを愛らしいペットのように撫でる。

 

「私はこれまで世界中のあらゆるミステリーに触れてきた。ハッキリと言おう。『神も魔法も存在しない』。全部ペテンさ。インチキなんだよ。奇術とか科学に疎かった前時代に、それらを奇跡とか祟りとか、超自然的な存在を妄想して勝手に作り上げたストーリー。それが信仰や怪談なんだ」

 

 自称ミステリーハンターにしては身も蓋もない、浪漫の欠片も無い主張だ。リズベットはそう思いながらも、現代人の視点からすれば最も正しい考察であるとも感じ取れた。

 SAO事件も元を辿れば茅場昌彦の異世界への憧憬があった、というのがVR犯罪対策室がひとまず出した結論だ。主犯たる茅場昌彦が死亡している以上はもはや真実を問い質す機会は失われたが、同じオブザーバーだった『彼』はこの説を否定せず、むしろ肯定するような態度を取ったとリズベットは聞いている。

 異世界を仮想世界という形で創造する。それは逆を言えば、現実世界において彼の望む理想郷は見つけられなかったという事でもあるのだろう。その可能性を感じ取れず、自らが神となって天地創造が出来る仮想世界に茅場昌彦は才能と情熱と生命を注いだのだ。

 文明が発達する以前、世界の果てなど誰も知らなかった時代には、無限に広がるフロンティアと神秘があった。大海原の先には見た事もない大陸と謎があり、誰もが冒険の先で可能性を切り開けるのだと夢を見ることが許された。

 だが、現代は違う。残された最後にして最大のフロンティアたる宇宙を諦観と共に見上げるだけだ。圧倒的多数の人類にとって、宇宙進出など夢物語にすらならず、閉塞された社会で『世界は広い』という乾燥した啓発を受けるばかりだ。

 

「そうかな? あたしは……神様もいるって思う」

 

 神様なんていない。アスナの死後、涙も枯れて項垂れた『彼』はそう呟いた。無慈悲に命を奪われる世界において、神の加護や慈悲など信じられるはずもなく、故にその存在を否定するのは致し方ない事だろう。

 だが、『彼』は心から神を否定していたのだろうか? 結局は『彼』とは道を違えた……いや、『篠崎里香』に戻ることを選んだリズベットでは、『彼』の心中を察することなどもはや遠過ぎて出来ない。それでも、『彼』は人間に救いをもたらす都合のいい神は信じずとも、概念としての神については決して否定はしていなかったと彼女には思えた。

 

「あたしはこう思う。信じる限り、神様は存在する」

 

「量子力学の話かい? それとも心の中なんて精神論かい?」

 

「そうじゃない。いや、そうなのかもしれないけど、あたしが言いたいのは、人間は今知ってることが全部正しいと思い込んで、あるいは全部知り尽くしたと驕って、肯定も否定なんてすべきじゃないってことです」

 

 リズベットは少し前まで『魂』という概念に最も近しいとされるフラクトライトについて全くの無知だった。いや、世界中の誰も知らなかった。前々から似たような存在を提唱した者はいても、観測して立証することも出来なかった。より言うならば、仮想世界自体が実現性のない夢の技術だと鼻で嗤われていた。

 それが今はどうだろうか? 茅場昌彦は稀代の才能で仮想世界を実現し、それどころか瞬く間に全世界に普及できるだけの技術として世に送り出した。フラクトライトは各国が競うように研究する最先端分野と化した。

 戦場で搭乗型ロボット兵器が活躍するなど、いかなる軍事専門家もミリタリーオタクも予想どころか、余りにも滑稽だと嗤った。アニメの見過ぎだと馬鹿にした。だが、現実には恐るべき量産速度で配備されている。今や紛争地帯から届く映像において、MTやACが写ることに疑問を抱く人はほとんどいないだろう。

 東京をはじめとして世界中の都市がAR技術との融合、VR技術との調和を目指した再開発に乗り出した。新たな都市開発事業は今や公共事業の目玉であり、各国は錦の御旗を得たとばかりに景気対策に利用している。

 医療業界ではAR技術を応用した義眼が、再生技術よりも先に導入された。法整備も後追いの状態で、人間のサイボーグ化だと批判する団体も現れている。だが、それはかつてSFの中だけだった技術が現代において誰もが触れられる水準まで落ちてきたからこそだ。

 茅場昌彦の登場とSAO事件を契機に、世界はまるで坂を転げ落ちるかのように急速な変化を迎えている。リズベットの次の世代がどのような時代を生きているのか、正確に予測できる学者など誰もいないだろうと断言できる程に、世界は姿を変えていく。

 

「あたし達はまだまだ知らない事がたくさんある。だから、ジョーさんが神様なんていないって思うのは勝手だけど、あたしは違うって思う。神様とか、信仰とか、人間にとってきっと1番大切な……心の深く関わる存在のはずだから。だから、無暗に否定していいものじゃないって思うんです」

 

 同じくらいに誰彼構わず肯定と信仰を強要するものではないとも思うが、リズベットは付け加えることは無かった。それはジョーが今にも殺しにかかりそうな程に恐ろしい眼で睨んでいたからだろう。

 

「宗教なんてどれも屑みたいなものさ。人間を騙すだけ騙して利用する詐欺なんだよ。篠崎さんも神なんてくだらないモノを信じていたら、いずれは思い知るさ」

 

「どうしたんです? ジョーさんは神様にでも恨みがあるんですか?」

 

「……私の両親はね、ある新興宗教に嵌まってたのさ。宇宙の理とか、来たる破滅の日とか、デタラメを並べる詐欺師達の懐を温める為に、貯金も家も何もかも手放した。私自身も参加させられてね。酷いものだった。母は『お清め』とか称して父と私の目の前で教祖に抱かれていたよ。それを父はありがたがっていてね」

 

 拳を握るジョーは、懐かしむ過去などではなく唾棄すべき絶望だったと言わんばかりに目を細める。その声音は氷のように冷たく、また呪いを帯びているかのような怒りの熱が籠もっていた。

 

「やがて両親は幼い妹も教祖に差し出した。全力で止めようとした私は神の反逆者扱いされて折檻されたよ。今でも忘れられない。私を罵倒する父母の怒声と妹の悲鳴。私は食事も与えられずに地下に閉じ込められた。幸いにも違法増築されたお陰か、床のタイルが剥げてね。湿った泥土を食んで喉を潤して生き延びた」

 

「…………」

 

 言葉を失うリズベットを前に、人間と神と信仰の醜悪を語るジョーは、滴る汗を指で拭い取り、地獄を思い出すかのように舌で舐め取る。

 

「警察が踏み込んできたのは5日後だった。妹の『遺体』の破棄をしくじったみたいでね。それで足が付いた。前々から警察はタイミングを見計らっていたようでね、私は救助されて一命を取り留めた。教祖と幹部には実刑判決が下されたよ。公判では教義も何もかも嘘だと明かして、信徒は何人も自殺した。宗教に縋るのは心に弱さを持った人間ばかりだからね。拠り所が嘘だと分かれば、この世で生きる気力なんて無かったのだろうさ」

 

 ジョーの両親も自殺したのかを訊けるはずもない。リズベットは生唾を飲み、人間の悪意と欲望が生んだ神という名の幻を語るジョーは、自らの責務のようにカメラを掲げた。

 

「この世にオカルトなんて存在しない。全ては人間の妄想と欲望で都合よく形作られた幻想だ。私はミステリーハンター。謎を狩り、陳腐な真実を暴く者だよ」

 

「だから九塚村に? ヤツメ様なんて神様はいないって証明したくて来たの?」

 

「そうさ。でもガッカリだよ。『ヤツメ』は、日本でもポピュラーな先祖崇拝に過ぎないじゃないか。先祖を敬う気持ち。そこに元からあった蜘蛛信仰が合わさったってところかな? 後は狩人だっけ? バスの中でも話したように、あれは忍者……要は傭兵って事さ。伊賀とか風魔とかメジャーだろう? ここはマイナー過ぎて歴史にも残らなかっただけさ」

 

「『様』をつけた方が良いわよ。あたしはジョーさん程に宗教には詳しくないけど、『様』を付けるのは理由があるはず」

 

 敬称とは畏怖の証であり、また約束なのだろうと今はリズベットにも分かる。狩人達は祖先たるヤツメ様を敬う気持ちを忘れないのだ。

 

「篠崎さんもどっぷり浸かった口か。まだメジャーな宗教の方が世間体は立つ。オススメしないよ」

 

「誰かの目を気にして信じる神を選べる程に贅沢な身の上じゃないのよ」

 

 ジョーは馬鹿々々しいとばかりに鼻を鳴らし、リズベットもこの話題は止そうと顔を背ける。

 

「それで? 神様を否定するのはいいけど、あたし達の現状は説明できるの?」

 

「……何か理由があるはずだ。もしかしたら、薬を盛られて眠らされて運び込まれたのかもしれない。篠崎さんも奇妙な空腹感があるのだろう? 薬の副作用と考えれば納得できる。宗教にはよくある話だよ。いわゆるトランス状態になって神のお告げをするシャーマンだけど、その多くは薬による作用で幻覚を見たせいなのさ」

 

「あの人たちも? 人間をバラして食べてたわよ!?」

 

「そうだ! そうに決まってるだろう!? まさか、人間が血に飢えた野獣になってしまったと本気で――」

 

 振り返ったジョーの背後の闇より腕が伸び、彼の逞しい体を押し飛ばす。地面に叩き付けられて呻き声を上げた彼に覆い被さっているのは、先程まで『晩餐』を預かっていた男の1人だ。

 だが、先よりも容貌が異なる。まるで何年も経ったかのように髪も髭も伸び、瞳は蕩けて崩れ、頬は裂けて口は広がっている。犬歯は伸び、顎は発達したかのように太くなっていた。

 

「ツキが……月ガ……聞こエる……月カら……蜘蛛ノ……蜘蛛ノ足音ガァアアアアアアアアアアア!?」

 

「ぐっ!? この力……やはりクスリで……!」

 

 体格はジョーの方が上だ。だが、覆い被さる男を振り払えずにいる。リズベットは咄嗟にプラスチックナイフを振るう。小型であるが、人間の首の皮膚を裂くには足る長さと切れ味だ。

 だが、刃が通らない。リズベットの細腕を加味しても、重要な血管や気道を断つことは出来ずとも、傷くらいならばできるはずだ。だが、まるで皮膚そのものが防刃性であるかのようにプラスチックナイフは弾かれた。

 まるでホラー系VRゲームに潜り込んだようだ。思えばアスナは幽霊の類が苦手だったと現実逃避にも等しい感想を抱きながら、ジョーからリズベットへと殺意の方向を変えた男の腕が振るわれる。

 

 

 

 

 血飛沫。それは男の背後から突き出した刃であり、飛び散った血がリズベットを化粧した。

 

 

 

 

 日本刀の如き鋭利な刀身。だが、何かが異なる。刃の一撃は闇より忍び寄った黒装束がもたらしたものであり、男はよろめきながら刃を逃れる。

 

「ヒッ……か、狩人……来ルな……人殺シ……!」

 

 背後から心臓を一突きを受けても絶命しない男に、黒装束は左手の銃器を向ける。それは現代ではまず見かけることがない火縄銃だ。だが、その口径は異様に巨大だ。使われている火薬の量も尋常ではないのだろう。大砲かと紛うばかりの銃声で放たれた弾丸は男の頭部を粉砕し、血と肉と脳漿と骨が散乱する。

 

「血を……血を……飢えを満たす……血を……!」

 

 嬉々と呟きながら、頭部を失ってジョーの傍に倒れた男の骸に黒装束は執拗に刃を振り下ろす。よくよく見れば、刃の1部は欠け、荒い鋸のように刃毀れしている。

 いいや、違う。刀工ではないリズベットでは確信を持てないが、この日本刀は奇怪だ。付け焼刃のように脆く崩れやすい鋭利な刃が欠ければ、本体たる鋸状の刃が露になるように打たれているのだ。

 まだ残る鋭利な刃で容易く裂き、骨と臓物と血を鋸で抉り斬る。およそ人間に使うには非人道的な得物だった。

 格好も奇妙だ。まるで侍を思わす袴姿であるが、草履ではなく獣皮を縫い合わせた、むしろブーツに近しいものだ。被る頭巾も含めれば、忍者と呼ぶ方が相応しいかもしれない。

 火縄銃を後ろ腰に差したかと思えば、素早く背負う矢筒から矢を抜き、弓を構える。リズベットの目では見えない闇に矢を射たかと思えば悲鳴が聞こえる。リズベット達を無視し、黒装束は新たな得物を求めるかのように悲鳴が聞こえた闇に消えた。

 

「な、なんだ……今の男は?」

 

 解体された遺体の傍で我が目を疑う様子のジョーに、リズベットはとにかく逃げようと手を差し出す。

 リズベットは直感する。あれは『狩人』だ。だが、リズベットが月前祭で見た装束とは異なる。『時代が違う』のだ。光莉曰く、洋装になったのは明治時代からだ。大社で見たのは戦国時代のものだろう。ならば、あの狩装束もまた同じく戦国時代、あるいは江戸時代が妥当だ。

 そこまで考えて、自分はどうかしてしまったのか、とリズベットは現状を『受け入れている』自分に驚く。自然と『納得する』ことを実践してしまっている事に、これも九塚村で得た処世術かと嘆息する。

 

「あの弓……和弓じゃない……近しい外観……だが、獣骨で強化されていた……まさかコンポジットボウ? た、確かに騎馬民族が使っていたが、高温多湿の日本では……」

 

 だが、リズベットのように『納得』できなかった様子のジョーは、ブツブツと独り言を繰り返していた。

 

「しっかりして! ジョーさん!?」

 

「あ、ああ。そうだね。まずは森を出よう。それから考えればいい。は、ははは……何を考えてるんだ? 私は……別に現代で復元されてもおかしくない……趣味の悪い……歴史考証も不完全なコスプレだ……そうだ……そうに違いない」

 

 このままではジョーさんの精神が壊れる。焦るリズベットは、どうにかして森を出る方法は無いかと考える。

 必死に思考を巡らし、あたしは馬鹿かと内心で舌打ちする。気づけば森で精神を追い詰められ続けたせいか、ポケットに入っている重みをすっかり忘れてしまっていた。

 錫彦がくれた無線機だ。あれだけ転げてもなおポケットに入っていたのは奇跡だろう。

 

「昔の人からすれば、この無線機だって魔法の道具。そう思いません?」

 

「どうでもいい。それよりも早く救助を呼んでくれ! もちろん使えるんだろう!?」

 

 通話もインターネット接続もできないとジョーも承知だ。だからこそ、リズベットの取り出した無線機の電源を入れて誰かに繋がるのを待つ。

 

「もしもし! もしもし!? 誰か助けて! 森の中にいるの! ここが何処か分からない。ねぇ、誰か……誰か!」

 

『……篠崎さんか!? コウさん! 繋がったぞ!』

 

 この声……錫彦さんだ! 通話にはノイズがかかっているが、十分に聞こえる範疇だ。リズベットとジョーは向かい合い、安心感で胸を撫で下ろす。

 

『おい、代われ! 良かった! 無事なんだね!? 怪我はない!?』

 

 殴り倒すような乱暴な音と共に、今1番聞きたかった声が耳を擽り、リズベットは涙を溜める。

 

「大丈夫。あたしは無事よ。せいぜい擦り傷くらい。ジョー……隅木さんも一緒よ」

 

『そうか。いや、野郎はどうでもいい。キミが無事なら何よりだ』

 

 幾らVR犯罪対策室とはいえ、現役の警察官の発言ではない。ジョーに申し訳ないとアイコンタクトしたが、彼は気にしていないと苦笑で返す。

 

『母さんがキミを月前祭で見失ってから、皆で探してたんだ。今何処にいるんだい!?』

 

「それが分からないの。あたしもジョーさんも気づいたら森の中にいて……」

 

『森の中? まさかヤツメ様の森か!? おい、どうするんだ!?』

 

『うるさい、黙れ!』

 

 慌てた様子の錫彦を再度殴り倒すような粗音が響き、暴力的な『相棒』で済まないと錫彦には心の中で頭を下げる。

 

「そうよね。『ヤベェ』って部類よねぇ。確か、掟ではヤツメ様の森の中に狩人以外は入っちゃいけないんだっけ?」

 

『ああ。でも、話の内容から察すると、ヤツメ様に招かれたんだ。簡単に言えば、祟られたんだ。独力で脱出するのは難しい』

 

「祟り? 冗談は止めてくれ。これは――」

 

「はいはい、ジョーさんは黙ってて! 話がこじれるから!」

 

『近くに何か目印になるものはあるかい? 何でもいい』

 

 目印と言われても周囲は自然の深みを感じるばかりの森の風景だ。ジョーと一緒になって辺りを探索すれば、苔生した祠を発見する。中には銅鏡が入っており、表面は恐ろしく磨き上げられており、長年の月日の経過を感じさせない程に澄んで彼らを映す。

 だが、映り込んでいるのは茶髪の自分と獣のような姿となったジョーだ。

 嗤っている。茶髪のリズベットは……いや、映っているのは『篠崎里香』だ。『リズベット』のように髪をピンクに染めず、アインクラッドに心を囚われたままではない、彼女が戻りたいと望んでいる姿だ。

 

「うわぁあああああ!?」

 

 同じく獣のような姿になった自分が見えたのだろう。尻餅をついて倒れたジョーは、ガチガチと歯を鳴らす。

 

『どうしたんだい!?』

 

「な、何でもないわ。祠がある。鏡も祀られてるわ。かなり古いみたい」

 

『そいつは「鏡塚」だ! コウさん! 大体の居場所が分かったぞ!』

 

『よくやった! いいかい? そこから西へ――』

 

「西がどっちかなんて分からないわよ!」

 

『ごめん。祠から見て左に進むんだ。なるべく真っ直ぐにね。そしたら鳥居が見える。たくさんの鳥居だ。それを潜るように進んでくれ。僕もそちらに向かう』

 

 森の中に鳥居とは奇怪だ。だが、地蔵もあれば祠もある。ただの森では無いのは確かなのだろうとリズベットは無線機から聞こえる指示に従う。

 疲労と『幻覚』のせいだろう。ジョーの独り言は増えた。内容も聞き取り難くなっている。2人だからこそ遠ざけられた恐怖が再び湧き上がるようで、無言に耐え切れずにリズベットは無線機に声をかける。

 

「ねぇ、鏡塚って何?」

 

『……塚は「墓」を意味するのは知ってるよね?』

 

「知ってるわ」

 

『九塚村とは……「9番目の墓」という意味さ。ヤツメ様は烏の狩人に蜘蛛としての8本の足を斬り落とされた。それらは8つの塚として葬られて封じられ、ヤツメ様は森から出られなくなった。9番目の墓……深殿に囚われたんだ。故にヤツメ様は九塚村から出られない。でも、幾つかの条件を満たせば出られるんだ』

 

「何事にも例外はあるけど、この場合は止めて欲しいわ」

 

『まずは8つの塚が全て暴かれ、蜘蛛の足を取り戻す。残念だけど、長い歴史の中で、ヤツメ様を信奉した者たちによって成し遂げられた。だけど、まだヤツメ様は出られない。深殿に閉じ込められたままだ。誰かが外に出してあげないといけない。それが出来るのは……神子だけだ。そして、神子は獣血の昂ぶりに耐え切れなくなった時、贄姫で己の首を裂いて深殿に帰らねばならない』

 

「ちょ……待ってよ!? それって、光輝さんの弟さんは、自殺しないといけないって事!?」

 

『最悪の場合はね。狩人は15歳で1人前と見なされる。だから、SAO事件以来、村に帰ってきていない篝は……まだ自分の神子としての本当の務めを知らない。そして、仮に神子が血に酔っていた場合、当主たる烏の狩人の務めは神子を狩ることでもある』

 

「どうしてそんな酷いことを!? だって、それって家族で殺し合えってことでしょ!?」

 

『……先代神子は大戦中に多くの戦場を渡り歩いた。そうして祈りと呪いを集め、獣血は昂ぶり、血に酔った。鎮めるべく狩りに挑み、多くの狩人が死んだよ。当時の狩長……烏の狩人もこの時の深手が元で死んだ。まだガキだったとはいえ、糞ジジイでも仕留め切れなかった。最後は泣きながら、我に返って己の首を裂いて深殿に帰られた。糞ジジイを……可愛がっていた年の離れた「弟」をどうしても殺したくなかったんだ』

 

 光莉の憂いを帯びた母親としての顔が思い出せる。彼女が再三に亘って神子にしたくなかったという本意とは何だったのかをリズベットは理解する。

 我が子が己の首を斬って死ぬか、あるいは兄弟で殺し合いだ。母親がそれを望むはずがない。

 

『贄姫は初めてヤツメ様を下ろした神子だった。彼女はヤツメ様と契約を結んだ。「狩りを全うし、夜明けをもたらす」とね。それが全ての狩人にとっての務めとなり、また神子が「夜」を司るヤツメ様を深殿に帰すことで成就させる。狩りの全うとは「夜」そのものでもある「神子」が死ぬことで真に完遂されるんだ』

 

 ようやく鳥居が見えた。本来の色彩が失われ、雨風で蝕まれながらも、生した苔と蔦によって補強されたかのようなだった。石畳もまた腐葉土と苔で覆われ、また小さな白い花が足下を照らすように咲いていた。

 

『神子とは獣血が始祖に迫った乙女のことだ。神子は純潔の誓いを立て、破るのは深殿に帰る前に子を残す時だ。だけど、今回の神子は少し違う。体は男だ。限りなく女に近しくありながらも男だ。故に此度は狩人にして神子でもある。「例外」だよ』

 

 だったら死ななくてもいいという事だろうか? まるで法律の隙間を縫うようなグレーゾーンを突いているようにも思えるが、それで済むならばいいとリズベットは願う。

 少しずつだが、木々の間隔が開けてきたような気がした。森の出口が近づいているのだとリズベットは確信する。背後ではふらりふらりと目が虚ろなジョーが何とか正気を保つような独り言を繰り返してついて来ている。

 

「あたし……増々ヤツメ様が分からなくなってきちゃった」

 

『……ある雪の降る夜に大納言の姫が孕んだのは、白髪にして血の如き瞳を持つ姫。天女すら霞む美貌を持ちながら気狂い。平静なのは眠る時と砂糖で甘く、甘く、甘くした「棗」を食んだ時だけ。故に姫は「棗」と呼ばれるようになったんだ。人々はマガツカミの化身と恐れ、怖れ、畏れた』

 

 白髪にして血の瞳を持つ姫、棗。リズベットはそれこそが「ヤツメ」様の本当の語源なのかと考える。そして、『棗』の狂った気性を落ち着かせる手段として古い時代は薬だった棗を、幼い姫にも食べやすいように貴重だった、それこそ貴族くらいしか手に入らないだろう砂糖で漬け込んでいたからこそ、ヤツメ様は甘いものに目が無いという伝承が形作られたのではないだろうか。

 

「蜘蛛の『8つ目』と姫としての呼び名。2つが混じって『ヤツメ様』。光輝さんはそう言いたいの?」

 

 辻褄は合うようで、何処か誘導されて誤答に導かれているかのような気分だ。結局のところ、光莉の言い分通り、事実は何であれ、『真実』とは『何に納得するか』次第なのだろう。

 

『信じるか信じないかは里香ちゃん次第さ。でも、怖さを紛らわすには丁度いいだろう? ヤツメ様は恐怖そのものだ。気を逸らせば月明かりがキミを「獣」に堕とさせるのを防ぐことができる』

 

 お道化た調子で、いつもと同じように、光輝は軽い口振りでそう嘯く。リズベットを励ますように、あともう少しで会えるという期待さえもにじませた声音だった。

 

 

 

 

 

「貴方……『誰』?」

 

 

 

 

 

 だが、リズベットは確かな『恐怖』を抱いて無線機に問いかける。

 

『「誰」って……僕だよ!? 光輝だ! まさか里香ちゃんも「獣」になって正気を――』

 

「違う! 貴方は光輝さんじゃない! 声は一緒だけど……違う! 絶対に違う! 光輝さんは……光輝さんは……!」

 

 鳥居はいつしか途切れ、苔生した石畳も失われ、だがリズベットは歩く。前に進む。その先には『夜』を裂くような明るい光が見える。

 

「光輝さんはあたしのことを『里香』なんて呼ばない! だって、あたしはまだ『リズベット』のままだから! こんなにも悔しくて情けないくらいに、まだ心がアインクラッドに縛られてる『リズベット』のままだって、光輝さんは知ってるはずだから! だから、あたしが呼んで欲しいってお願いした時以外は、絶対にあたしを『篠崎里香』として呼ばない!」

 

 

 

 

 

 

 

『……あら、そうなの。アナタは彼に「里香」って呼んで欲しいって望んでるから、間違えちゃった』

 

 

 

 

 

 

 楽しそうな笑い声が聞こえる。

 それは蜘蛛の足音にも似て、聞く者の魂を内側から貪る狂笑。

 

『クヒ……クヒヒ……クヒャヒャヒャ! ねぇ! お腹空いたの! お腹空いたの! ちょうだい! あま~いあま~いお菓子が食べたいな! 真っ赤な甘いの食べたいな! クヒ、クヒャ、クヒャヒャヒャ!』

 

「ひっ……!」

 

 震える指から無線機を落としたリズベットは、笑い声にすら反応しなくなったジョーの手を引き、一気に斜面を駆け下りる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、血染めのように赤い月の下の大社へとたどり着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽の光では無かった。太陽と思う程に、おぞましく血を啜った月が支配する『夜』だった。

 ジョーの手を引きながら、人気の無い大社の境内を走る。砂利が散る1歩の度に目を配らせれば、篝火が焚かれていない。

 

 

 

 

 

 闇を祓うのが篝火であろうとも、陽光の如く明るく、だが冷たき月光をもたらす血の月の下では無意味なのだから。

 

 

 

 

 

「ヤツメ様がやって来る」

 

「ヤツメ様がやって来る」

 

「ヤツメ様がやって来る」

 

「ヤツメ様がやって来る」

 

 里に下る石階段への道を塞ぐように、10歳前後を思わす幼い声音をした小柄な4人の少女が並び立ち、1拍ずつズレた発声と共に瞬く間に2人を囲う。

 いずれも白依の装束だ。だが、違いとして顔を紙の面で覆っている。8つの瞳を朱で描いた、蜘蛛の目の仮面だ。

 

「「「「我らは白依。ヤツメ様と深殿にお帰りになられる贄姫様に血の供物を捧げん」」」」

 

 1人は分厚く長い釘と小さな木槌。1人は血で錆びた鋸。1人は鉄片が縫い込まれた髪縄。1人は毒虫が詰まった壺。白依達は嬉々と笑いながらリズベット達を囲って回る。まるでカゴメカゴメでもして遊ぶかのように、だが獲物の肉を恐怖で染め上げるように、笑いながら回って舞う。

 

「ヤツメ様は足を失った。蜘蛛の足8本全部落とされた」

 

「だから捧げましょう」

 

「深殿に帰られる贄姫様は腕2本、足2本」

 

「それなら4人の血肉で足りるでしょうか」

 

 静に説明してもらった白依の起源。贄姫に仕えた神子ならぬ巫女たちはリズベット達を囲う輪を閉じるように近寄って来る。

 釘で、鋸で、縄で、毒虫で、自分がどんな目に遭わされるのかを悟ったリズベットは恐怖で動けなくなる。

 

 

 

 思い出したのは2人の背中。1つは鉄の城で出会った黒衣の剣士。もう1つは烏の如き黒衣を纏った狩人。

 

 

 

 ああ、本当に情けなくて、憎たらしくて堪らない。まだ『リズベット』に囚われているのに、『篠崎里香』として愛したい人がいる。

 

「外嫁……舐めんなぁあああああ!」

 

 リズベットは傷を隠すリストバンドを棄て、手首に巻かれた赤紐を見せつける。途端に白依達が動揺する。それを好機と見て、へたり込んでいたジョーを乙女の腕力の限界まで引き絞って立ち上がらせて駆ける。

 負けるものか。負けるものか。負けるものか! 恐怖で涙があふれて目を潰しそうになるが、どれだけ零れても前を見て走るリズベットは、もうすぐ石階段だと息切れの苦しみを堪える。

 

 

 

 

 

「姉さん……姉さん……私は間違ってなかったよぉ……」

 

 

 

 

 

 だが、石階段の手前で倒れ伏した女性を見つけ、リズベットは足を止める。

 姉の死の真相を追い、ヤツメ様信仰を……九塚村の秘密を探っていた岸間だ。その腰には無用の重石だろう衛星電話が下がっていることからも彼女に違いない。

 まだ生きている。追って来る白依達に危機感を募らせながらも、ここで彼女を置き去りにしては光輝と結ばれたい『篠崎里香』から遠ざかる気がして、彼女は岸間を起こすべく手を伸ばす。

 

「この村は……狂ってる。バケモノが……バケモノが潜んでいる。食べられる……食べられちゃうよぉ……助けて、姉さん……お姉ちゃん……見えない……何も見えないよぉおおおおお!」

 

 伏せた顔を上げた岸間に、リズベットは息を呑み、悲鳴をあげてはならないと直感して左手で口を覆う。

 岸間の双眸は溶けて崩れ、血と肉が混ざり合った涙を空洞から零していた。

 岸間は『見てはならないものを見てしまった』のだ。リズベットは赤紐から伝わる熱からそれを理解したような気がした。彼女は姉と同じように禁忌を侵したのだ。愚かな好奇を御しきれなかったのだ。

 

「来る! ヤツメ様が来る! 助けて! 助けて! お姉ちゃん! ヤツメ様がやって来る! やって来るのぉおおおお!」

 

 倒れ伏していた岸間が狂乱しながら起き上がれば、その両手でしっかりと握っているのは、漆塗りでありながら流れる血のような文様が描かれた鞘に納められた日本刀だ。

 

「あれは……贄姫! 贄姫だ!」

 

「ジョーさん!?」

 

 贄姫を見て我に返ったようにジョーがリズベットの手を振り払い、岸間が持つ贄姫を奪わんとする。

 

「寄越せ! それは私のだ!」

 

「嫌! 放して! 止めて!」

 

「うるさい! これで私は――」

 

 強引に贄姫を奪い取った拍子で岸間は後ろによろめく。両目が無い彼女ではバランスを保てず、フラフラと後ろに下がっていき、その踵が石階段の縁を踏む。

 リズベットは咄嗟に手を伸ばすも遅かった。岸間は首を、腕を、足を折り、砕き、曲げながら落ちていく。

 

「はは、ははは! やったぞ! ヤツメ様信仰の要! 神子だけが抜くことを許された贄姫! そうさ! 祟りなど存在しない! そんなものは人間が作った都合のいい妄想だ!」

 

 歓喜して贄姫の柄に手をかけたジョーに、彼が何をしようとしているのか察したリズベットは、その太い両腕につかみかかる。

 

「馬鹿! 何してるの!? 抜いちゃ駄目! 静さんが教えてくれたでしょう!? 神子以外が贄姫を抜いては駄目! 祟られるわよ!?」

 

「いいや、ちゃぁああんと憶えているね! だから、今ここで証明してやるのさ。ヤツメ様など存在しないとね」

 

 ここまで来て何を!? 体格でも筋力でも負けるリズベットがジョーを抑えきれるはずもなく、彼女は振り飛ばされる。

 全身を地面に叩き付け、呻いたリズベットが見たのは、その瞳が半ば蕩けて崩れたジョーが今まさに贄姫を抜こうとする瞬間だった。

 駄目。止めて。それだけは許されない。リズベットは『外嫁』として凶行を阻むべく起き上がって再度手を伸ばす。

 

 

 

 

 

「殺してやる! 殺してやるぞ、『ヤツメ』! お前は存在しない!」

 

 

 

 

 

 

 血染めの赤い月の下に贄姫が抜かれる。

 

「……は?」

 

「え?」

 

 だが、ジョーの口から漏れ、またリズベットから零れたのは、余りにも予想外過ぎて呆けた声だった。

 抜かれた贄姫の刀身が『無い』のだ。元より刃など備えていなかったとばかりに、想像していた美しく妖艶な刀身など無かった。

 

 

 

 

 

「贄姫は『ここ』には無い。神子が持ってる。神子が生まれた時から、その血にこそ贄姫はある」

 

 

 

 

 くちゃり。

 

 ぐちゃり。

 

 ぐしゃり。

 

 それは食み、噛み、貪る音。

 

 皮を千切り、肉を潰し、骨を砕く音。

 

 鈴の音色と思う程に美しく澄んだ声だ。まるで天女の息吹を幾重にも織り重ねたかのようである。

 黒い袴。血を思わす紋様が描かれた白の上衣。踊る姿で見える背中には肩甲骨に添うように2つの切れ込みがあり、白髪はそれそのものが蛍火の如く淡い光を帯びている。

 右目の瞳は小さな7つ。左目の瞳は1つ。異形の双眸を持ちながらも、その可憐にして、妖艶にして、清廉にして、天啓そのものである、愛らしくも美しい美貌は損なわれることなく、むしろ、だからこそ女神と呼ぶに相応しい。

 白磁という表現すらも足りぬ白い柔肌は赤い月明かりを啜るようであり、その指で握るのは血が滴る腕だ。岸間の右腕だ。

 食む。喰らう。貪る。ヤツメ様は美味しそうに、恐怖と絶望が染み込んだ肉の味を堪能するように、呆然とするジョーとリズベットの前で岸間の腕を頬張る。

 瞬く間に右腕1本を食べ終え、ヤツメ様は素足で愛らしく歩み寄り、ジョーの周りくるくる回る。廻る。回って廻る。

 

「ふひ……ふひぃ……ひぃああああ」

 

「怖いの? 恐ろしいの? いいよ。全部受け入れてあげる」

 

 いつしか世界は赤い雨で塗り潰され、リズベットは月明かりも届かぬ屋根の下にいた。

 8本の蝋燭が左右の壁に掲げられ、それが僅かばかりにまるで寺院、あるいは神社、もしくは教会とも思える、あらゆる宗教の要素が加えられて『秘密』を成した空間を作り出している。

 だが、何よりも目を引くのは散らばる臓物であり、切断された注連縄であり、開かれた古い木造りの両扉だった。

 

「ここは……深殿?」

 

 あるいはその入口? 思わず呟いたリズベットに、まるで我が子に全身全霊の愛を注ぐような母性と今まさに獲物の喉元を喰らい千切ろうとする残虐性が矛盾することなく溶け合った、蕩ける程に可憐にして美麗な笑みをヤツメ様は描く。それを見ただけで、リズベットの魂は蹂躙され、心は食い荒らされたかのように屈服しそうになる。

 蝋燭の光も届かない暗闇が扉の向こうには広がっている。何かを探ろうとすれば、耳に何かが聞こえてくる。いや、それは本当に『聞いている』のだろうか? 聴覚を騙り、脳に染み渡るのは本当に『音』だろうか?

 

「ヤツメ……『様』……私は……」

 

「いいよ、無理して『様』付けしないでも。ずっと苦しかったね。怖かったね。寂しかったね。大丈夫。アナタのせいじゃないよ。妹さんが亡くなったのは、この世に満ちる祈りと呪いのせい。貴方は助けようとした。守りたかった。でも、貴方には『力』が無かった。それだけなのだから」

 

 涙を零して両膝を折るジョーを抱擁し、ヤツメ様は愛らしい声で耳元で囁いている。

 駄目。心を許してはいけない。恐怖に呑まれてはいけない。リズベットは声を上げようとするが、喉は震えて何も喋れない。

 

「ねぇ、アナタ……とても美味しくなれると思うの。食べてもいい?」

 

「あ……ああ……あああ!?」

 

「いいでしょう? お腹空いたの。アナタの全てを許して、受け入れて、食べてあげる」

 

「ひぃあ……あああああああ」

 

「もっともっと美味しくなろう? 大丈夫。教えてあげる。アナタが知らない『恐怖』を。妹さんのことだって忘れられるくらいに。それが望みでしょう?」

 

「い、嫌だぁあああ。嫌だぁあああああああああ! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくないぃいいいいい!」

 

 失禁し、涙と涎を垂れ流し、ジョーはリズベットに跳びかかる。彼女の手首に巻き付いた赤紐を奪い取ろうとする。

 

「寄越せ! それさえあれば助かるんだろう!? 渡せ! 死にたくない! 死にたくないんだ!」

 

 ヤツメ様は笑ってる。醜く生に縋るジョーという人間の『弱さ』こそが味を良くするのだと嬉々と笑っている。

 ヤツメ様の影が伸びる。それは人の形でありながら、背中の部分から蜘蛛の足の如く8本の線が伸びる。それはジョーの影に重なったかと思えば、彼の体を蜘蛛の糸で縛り付けたように不動に至らしめる。

 

「お肉。お肉。お肉を食べたいなぁ。恐怖で濃く深くなった血が滴るお肉。もぐもぐ。もぐもぐ。もぐもぐ」

 

 まるでご馳走を前にして堪らないようにヤツメ様は踊る。いや、その容貌は12歳前後であるならば、まさしく外見相応にも思え、だが余りにも狂い尽くした笑みと舞いでジョーの恐怖を深め、血肉と魂と命にまで染み込ませるようだった。

 

「ああ、ヤツメ様」

 

「おお、ヤツメ様」

 

「下拵えは我らの役目」

 

「調理は我らの役目」

 

「どうか我慢を」

 

「どうかお待ちを」

 

「彼には更なる痛みを」

 

「彼には更なる苦しみを」

 

「そして、ヤツメ様に献上を」

 

「そして、ヤツメ様に生贄を」

 

 いつの間にかリズベットの両脇を固めていたのは、双子の駅員とバスの運転手だった。2人の登場に、ヤツメ様はまた待たされるのかと言わんばかりに、腹の足しにするように、いつの間にか持っていた岸間の左足に齧りつく。

 

「「禁忌を侵した愚者の骸を食み、本祭までお待ちください」」 

 

 これからジョーを待つのは、贄になるための生き地獄なのだろうか。ぼんやりとリズベットは、ジョーを見つめるしか出来なかった。

 

「嫌だぁ! 嫌だぁ! 嫌だぁああああ! 止めろ! 死にたくない! 死にたくない! い、いや、違う……殺せ。殺してくれ! 今すぐ殺してくれぇえええええ!」

 

 ジョーの左右の足に鎌を突き立て、駅員と運転手は深殿から去っていく。爪を立てて床を掴むジョーの抵抗すらも楽しむように、2人は鼻歌を奏でる。

 そして、2人は同時に、リズベットとヤツメ様に別れを告げるように礼を取りながら声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、まるで猫の鳴き声のようであり、リズベットが振り返れば、そこには誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぺたり、ぺたり、ぺたり、とヤツメ様は歌詞などない、旋律ばかりの歌を奏でながらリズベットの周囲で踊る。その度にヤツメ様の口に岸間の肉が吸い込まれ、滴る血と零れた肉片がリズベットの末路を教えるように囁く。

 

「ねぇ、ワタシが怖い? 恐ろしい? ねぇ、教えて。アナタ……とっても良い香りがする」

 

「あたしは……あたしは……」

 

 怖い。怖い。怖い! 拳を震わせ、座することしかできないリズベットは、それでも恐怖に呑まれて堪るものかと奥歯を噛む。

 

「あたしは……たくさん怖い目に遭ってきた。絶望もした。死にたいとも思った」

 

 今だってアインクラッドの悪夢から解放されたわけではない。それが確固たる事実だ。今も『リズベット』であるのが何よりの証拠だ。

 

「だけど、あたしは……決めたの。『ちゃんと生きて、それから死のう』って! まだあたしには出来ることがある! やるべき事がある! 帰らないと……あたしは帰らないといけないの!」

 

「アナタ、恋してるの? 愛してるの? ねぇ、もっとアナタのお話を――」

 

 ヤツメ様は12歳前後の少女の姿に相応しく、幼く好奇な眼でリズベットの頬に触れようとする。

 だが、その瞬間にヤツメ様の眉間に穴が開く。続く銃声は右腕を千切り飛ばし、左脇腹に穴を開け、投擲された短剣が喉を刺し貫く。

 

 

 

 

「『リズベット』ちゃんに触るな」

 

 

 

 

 抱きしめるながらリズベットを庇うようにヤツメ様の前に立ち、烏を思わす黒衣は靡く。

 

「光輝……さん」

 

「ごめん、遅くなった。僕はいつもキミのピンチに遅れてばかりだね」

 

「ううん、それでも来てくれる。それだけで……あたしは幸せだから」

 

 ああ、温かい。狩装束越しでも伝わる熱にリズベットは安心感を覚える。だが、そうしている間にもヤツメ様の腕は瞬く間に繋がり、傷は塞がる。光輝は左手に持つ銃を乱射する。猟銃と呼ぶべきではない、ロングバレルの大型銃口からは次々と銃弾が放たれる。それは熊を撃ち殺す為のスラッグガンの類だろう。その衝撃をあろうことか、片腕で軽々と撃つ彼の筋力も尋常ならざるものならば、ヤツメ様は銃撃を浴びる度に受ける傷は小さくなり、治癒・再生の方が圧倒的に勝る。

 体内に入った弾丸を口から吐き出し、両手で受け止めたヤツメ様は見せつけるように床に転がす。

 

「アナタの血入り? 狩人の武器は、姿形は違えども、本質は昔と変わらないわねぇ。血を制すのは血の毒? クヒ、クヒャヒャ、クヒャヒャヒャ! 素敵。とても鍛えられた『血』の味がする。とても痛かったわ」

 

 リズベットを右腕で抱えながら後退る光輝であるが、ヤツメ様が笑えば深殿の出入口は固く閉ざされる。

 舌打ちした光輝は弾切れになるまで乱射するも、もはやヤツメ様には当たらない。何もない空間で弾かれているかのようだ。ただ、蝋燭で形作られたヤツメ様の背中から伸びる8本の蜘蛛の足だけが動き回っている。

 影の蜘蛛の足が光輝に一直線で伸びる。咄嗟の判断でリズベットを押し飛ばした光輝は左腕で防げば、見えない槍で突き刺されたように穴が開き、血が滴り落ちる。

 

(あたしを庇って……どうしよう? どうしよう!?)

 

 歯ぎしりする光輝と笑うヤツメ様の間で、このままでは彼が殺されてしまうとリズベットは唇を震わせる。

 

(あ、あれ……? そういえば、あたし……なんで?)

 

 記者たちはきっと掟を破ったのだろう。岸間にしてもそうだ。ジョーはあの口振りからしても同様だろう。だが、少なくともリズベットは掟を破った覚えはない。ヤツメ様の森に立ち入ったことが掟違反だとしても、それはヤツメ様が招いたからこその結果だ。

 美桜はどうしてヤツメ様と出会った? きっと遊んでほしかっただけだ。だからこそ、美桜は逃げきることができた。

 ならば、外嫁の証を持ち、なおかつ掟を破っていないリズベットを招いたのは、同じく遊んで欲しいからか?

 

 違う。

 

 違う。

 

 違う!

 

 

 

 

 

 

「こ、これ……金平糖……真っ赤な……金平糖……あ、あああ、あげます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 お守りとして持っていた小袋を開け、色とりどりの金平糖から赤い1粒を手に取って差し出す。途端にヤツメ様は光輝に伸ばしていた影を収め、子供のように目を輝かせて金平糖をそっと指で掴み取ると口の中に放り込む。

 

「あま~い! お菓子♪ お菓子♪ あま~いお菓子♪ 血みたいに真っ赤なお菓子♪ 甘くて美味しくてだ~いすき♪」

 

 そうだ。ヤツメ様は言っていたではないか。真っ赤な甘いお菓子が食べたいと、わざわざ教えてくれていたではないか。リズベットは勝手に新鮮な肉のことだと思い込んでいたが、言葉通りの意味だ。

 

 

 リズベットを招いたのは、彼女が持っていた金平糖が欲しかった。ただそれだけが理由なのだ。

 

 

 金平糖が詰まった袋をリズベットからもらい、上機嫌でヤツメ様は開かれた深殿の闇に帰っていく。

 何かがいる。闇の中に『何か』がいる! リズベットは思わず凝視しようとして、だが彼女の視界を塞ぐように光輝は正面から抱きしめる。

 

「……うん、分かってる。あたしは『見ない』」

 

 愚かな好奇には恐ろしい死を。岸間の末路を思い出し、リズベットは目を閉ざして共に生きたい人の顔を瞼の裏に思い描く。

 

 聞こえる。

 

 聞こえる。

 

 聞こえる。

 

 これは蜘蛛の足音?

 

 違う。これは波の音だ。蜘蛛の足音にも似た、砂浜を刻む波の音だ。

 

 音から脳裏に広がるのは、星空を映し込んだ暗闇の海。ヤツメ様はきっとそこに帰るのだろう。そして、いつかリズベットが来るのを待っているのだろう。

 

 だが、それは今日ではない。

 

 もっと年老いて、子を産んで、孫に囲われて、いずれこの世から離れねばならない最期に行くべき場所だ。

 

 星空を食む暗闇の海の水面で踊るヤツメ様は、リズベットに気づいたかのように振り返り、恐怖などまるで感じない優しい笑みを描いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、目を開いたリズベットは差し込む太陽の光に目を眩ませる。

 これは既視感のある風景だ。何処も大体は同じだろうが、細部が異なるので知らない場所なのだろう、とリズベットは息を吐く。

 

「目が覚めたようだね」

 

「須和……先生」

 

 SAO事件後はもちろん、オブザーバーとして数多くの事件の解決後に毎度の如く拝んでいる病院という風景なのだから、既視感があるのは当然だ。明らかにVIPルームであろうことも含めて、これに慣れてしまった自分に嫌気を差しながら、リズベットは上半身を起き上がらせる。

 

「無理をしない方が良い。全身打撲と肋骨が4本折れている」

 

「え? あ、イタタタタ……痛いぃいいい!?」

 

 教えられた途端に呼吸するだけで痛む体に、リズベットは今にも吐血しそうな勢いで唸る。

 思えば、あれだけ派手に森で転びまくったのだ。光輝やジョーのような筋肉の鎧を纏っていないリズベットでは無理からぬことだ。

 せめてリズにあともう少し胸があれば肋骨ガード出来たのに……! そう嘆くのは、今まで何処に行っていたのかと殴り倒したい脳内アスナだ。やはりこの親友は何処かで生きているのではないだろうかとリズベットは本気で悩みそうになるほどに、殴りたくなる悔しそうな顔だった。

 

「ここは九塚村と合併した塚守町にある、塚守須和病院。名前の通り、須和家の所有する病院だよ」

 

「……そっか。あたし、生き延びたんだ」

 

「ああ、本当に無事でよかったよ。『あの石階段を転げ落ちて生きてる』なんて奇跡としか言いようがない」

 

 ……え? リズベットは須和の発言に目を白黒させ、ゆっくりと記憶を遡る。だが、やはり月前祭の最中にいきなりヤツメ様の森に立っていたという摩訶不思議な体験が蘇り、そんなはずはないと首を横に振る。

 

「須和先生! あたし――」

 

「おっと、声を落としてくれ。彼、ずっとキミの看病をしていたんだ。キミは3日間も目覚めなかったんだよ」

 

 リズベットが声を荒げようとすれば、須和は唇に人差し指を立てて静かにするようにとジェスチャーをする。そこでようやく自分の隣で、パイプ椅子に腰かけて腕を組んだまま寝ている光輝に気づく。

 ヤツメ様に穿たれた左腕の傷痕は『ない』。半袖のシャツから覗かせる逞しい両腕は、これまでの事件の名残を思わすように傷痕が多く残っているが、少なくとも治療したばかりの、それこそ一生残るだろう傷痕の類も見当たらない。

 

「キミは月前祭の最中に意識が朦朧として、そのまま石階段から落ちてしまったんだ。憶えていないのかい?」

 

「……はい」

 

「ふむ、そうか。『納得』していない様子だね。いいだろう。少し話をしようか」

 

 光輝を起こさないように小声で、という条件の下で椅子を準備した須和は、リズベットの体験した冒険と呼ぶにはあまりにもおぞまし過ぎる怪奇現象について聞き入る。

 

「リズベットちゃんは憶えているかな? キミの血中フラクトライト数値は極めて異常な数値にあると。私が思うに、キミは月前祭の篝火の熱と嗅ぎ慣れない香、それに少々独特で刺激の強い白依の舞を見た興奮で、一時的なトランス状態に入ったとも考えられる。キミは言うなれば、自らの体内で作り出した仮想世界にログインしてしまった状態と言うべきかな?」

 

「そんな事あり得るんですか?」

 

「断定はできないが、否定しきることもできない。フラクトライトはまだ研究が始まったばかりの分野だからね。生憎、私は第1人者ではない。サーダナ博士ならば、別の見解も示すことができるだろう」

 

 あの面白お爺さんか。秋葉原での講演を思い出し、あれが世界でも屈指のフラクトライト研究者とは今でも信じられない、とリズベットは鼻を掻く。

 

「全部が幻だったというんですね? だったら、『棗』様はどうなんですか?」

 

「ん? それは誰だい?」

 

「ヤツメ様の……いいえ、何でもないです」

 

 須和の反応から察するに、本当に知らないのだろう。黙ったリズベットに、若き頃も老いた今も男前の顎を須和は撫でて考える。

 

「もう1つキミが『納得』できる説を提示しよう。空間フラクトライト構造という、ある種のパワースポットやミステリースポットで観測できる、自然界で安定化した巨大なフラクトライト構造がある。キミは先にも言った通り、トランス状態に入って自らが作り出した疑似仮想空間にログインした。更にそこから空間フラクトライトにアクセスした。要は九塚村そのものと呼べる巨大な『夢』の世界に入り込んでしまった、というのはどうだろう?」

 

「つ、つまり……?」

 

「そこには九塚村で集積された全ての情報があるかもしれない、という事だ。キミの言う『棗』様については私も知らない。久藤の歴史を全て知る権利と義務がある当主ならば別かもしれないが、少なくとも血族ではない私では知り得ない情報だろう。そうなると、リズベットちゃんの言う『棗』様は、キミが空間フラクトライト構造という『図書館』で、キミが無意識に求めた情報を『閲覧』して得た成果なのかもしれない」

 

「あたしはフラクトライト専門家じゃないから分かりません。でも、あれは……あの『夢』は本当にリアルだった」

 

 質感としては現実として認識できる程に完璧だった。だが、長期に亘ってSAOという仮想世界に囚われていたリズベットは、あの摩訶不思議な体験は、それこそ仮想世界でもない限り味わえないものかもしれない、とも『納得』する。

 同じ経験をしたかもしれないジョーの言葉が蘇る。神もバケモノも信仰も何かもが、人間の都合のいい妄想と欲望の産物とは思いたくない。だが、何処かしらで『納得』しなければ、いずれは愚かな好奇の呼び水ともなるだろう、とリズベットは確信する。

 無線機の時に感じたように、古い時代の人からすれば、あの科学の産物もまた魔法に思えたはずだ。神の奇跡に感じ取れたはずだ。ならば、いつだって神は人間の思考・知識がまだ追いついていない存在……『上位者』とも言い換えられるだろう。

 ならば、フラクトライトという魂に最も近しい分野の研究の先で、ようやく人間は神に謁見を果たすのかもしれない。そう思えば、リズベットは須和の説明は、ジョーのような神の否定では無いのだと受け入れられた。いや、むしろ彼は深くヤツメ様のという存在を信じているからこそ、愚かな好奇にならないギリギリのラインで『人』として研究を続けるのだろう。

 それに何であれ、あれが『夢』であったならば、それに越したことは無い。光輝が自分を庇って大怪我をしたなど、リズベットの乙女心が絶対に許さないからだ。

 

「贄姫は……無事に戻って来たんですか?」

 

「盗難も知っていたとは、増々空間フラクトライト構造アクセス説が濃厚になって来たね。ああ、盗まれたけど、無事に戻って来たよ。『子供の悪戯』だったんだ。当主にしこたま怒られてお許しを貰ってたよ」

 

「……『そういうこと』にしておきます」

 

「それがいい。さて、他に質問はあるかな? 私もそろそろ別件で離れないといけなくてね。DBO被害者解放の為にも、フラクトライト研究からPE技術の解明できると踏んでいてね。何とかアポが取れて、フランスの研究所を訪問することになっているんだ」

 

 そうだ。長い休暇は終わりだ。結局はいつものように傷だらけになっただけであるが、リズベットが本腰を入れねばならないのは、ヤツメ様の秘密に触れることではない。DBO事件を解決することなのだ。

 月前祭から3日間も寝ていたとなれば、本祭を見逃したのはもちろん、予定休暇日数を超過してしまっている。オブザーバーのリズベットはともかく、光輝は職場にいないとまずいはずだ。

 あのまま恐怖に呑まれていれば、ヤツメ様に食べられていたかもしれない。たとえ『夢』だとしても助けに来てくれたのは光輝だ。もしかしたら、自分と同じように九塚村にある巨大な『夢』に乗り込んできてくれたのかもしれない、とすら思うほどにリズベットはあの時の彼の熱は本物だったと信じられた。

 そして、こうしたリズベットが目覚めるまで守ってくれているのまた彼なのだ。

 

「ありがとう、あたしの狩人様」

 

 頬に口づけしようとすれば、光輝の首が突如として曲がり、狙いを澄まして唇同士の接触に変じる。驚愕したリズベットは、立ち上がった光輝にされるがままにベッドに押し倒される。

 口の中に舌が絡まるディープキスの末に解放されたリズベットは、こっちは肋骨が折れてるんだぞと涙目で恨めしそうに睨む。

 

「お、おおお、起きてたのね!? い、いつから!?」

 

「リズベットちゃんの声が聞こえた時からさ♪」

 

「卑怯者!」

 

「おや、僕は『キミの狩人様』だよ? 狩人は『狩り』をするのが道理だろう? 寝たふりなんて常套手段さ」

 

 反論する要素は山盛りのはずなのに、九塚村の経験のせいで言い返せない! 人間とは色々な意味で学ぶ生物なのだと思い知るリズベットは、顔を真っ赤にして、視線を惑わせながら、挑発するように睨む。

 

「で? キスは1度だけ? あ、ああああ、あたしを『狩る』には全然足りないんだけどぉ?」

 

「ほほーう。だったら、キスよりもっと深く熱いコト……してもいいのかい? 僕としてはキミが『里香』に戻ってからにしたかったんだけどさ♪」

 

 だ、誰もそこまで言っていない! 首元を緩め、世の女性を虜にするセクシーな胸筋を露にしながら、光輝は飢えた獣の光を宿した眼でリズベットを凝視する。

 覚悟は……できていない! リズベットは今の自分が病院支給の色気もへったくれもない下着だと経験から熟知している! そして、この男が1度欲望を解放すれば、全身打撲&骨折なんてお構いなしにリズベットを『貪る』だろうことは容易に想像できる!

 逃げたくはない。だが……だが……戦略的撤退は時として選ばねばならないのだ!

 

「大丈夫。僕は経験豊富だから、身を任せて」

 

「あたしは経験ない……から!」

 

「うん、知ってる♪」

 

「何で知ってるのよ!?」

 

 思えばコイツは素であたしをストーキングしてたんだった、とリズベットはあわわわと怯えて涙目になって震える。だが、獲物が自ら縮こまって涙目で狩人の加虐心を煽るなど、絶対にしてはならない事である。

 駄目だ。もう止まらない。『喰われる』! リズベットは乙女として腹を括る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「ヤベェ……」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、そこでいつの間にか病室のドアは隙間ほど開き、そこで奇麗に縦に並ぶ3つの覗き見にリズベットと光輝は同時に気づく。

 

「あ、あははは~。お邪魔しちゃったみたいで……」

 

 1人はフルーツ盛り合わせを抱えた高校生探偵こと坂上翼。

 

「いやー、羨ましいですなぁ。お姉さんがこんなイケメンを捕まえてるなんて。私もおにぃみたいなイケメンに捕まりたいなぁ」

 

 1人はお菓子の詰め合わせを紙袋に入れた美桜。

 

「あら、翼くんはフツメンだと思うわよ。でも、どんよりと世間で汚れた苦悩の目はコウ兄様よりも素敵だと思うわ! それ以外の外見は全部負けてるけど、これは本当だからね!?」

 

 1人は花束を持った相変わらずの天然っぷりを発揮する紫藤静。

 3人は仲良く……とは言い難い、翼と静の間に美桜が割って入る形で警戒を振り撒く様子で入室してくる。だが、リズベットの目には、もはや美桜のガードなど無意味と言わんばかりに、2人の間には決して千切れない、まるで蜘蛛の糸のように絡まった絆があるように感じ取れた。

 軍配は蜘蛛の女さんの勝ちね。だが、翼の方に依存する勢いで愛の視線をこれでもかと送っている静を見れば、今後は彼にも幸がある人生が待っているだろうと思えた。少なくとも、彼女と共に事件に遭遇すれば今後は『色々な意味』で解決は捗るだろう。

 

「やれやれ、大人の時間は邪魔されちゃったね。これは彼らが帰ってからのお楽しみ、かな♪」

 

「断固拒否します……少なくとも病院では嫌よ」

 

「え? それって……」

 

「子供の前でこれ以上言わせないの!」

 

 またしても3人……いや、4人揃って『ヤベェ』と発言しそうな顔をしているのを見て、リズベットは顔を真っ赤にして光輝を突き飛ばそうとして、折れた肋骨に響いてのた打ち回る。

 

 

 いつか血族に加わる日が来る。だが、それは今日でも明日でもない。もう少し先の未来のはずだ。リズベットはそう信じて笑った。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「さて、灯ちゃん。何か私に言うことがあるんじゃないかい?」

 

 塚森須和病院のエントランスにて、世界的女優らしく、あるいは素として野暮ったい恰好をして変装をした灯に、須和は問いかける。

 マシュマロを食みながら、自動販売機で売られている缶ココアを飲むという、胸焼けするようなスタイルをさも当然のように行う灯は、ぺろりと世の男を一瞬で陥落させるほどに可愛らしく舌を出した。

 

「ごめんなさい☆」

 

 今の灯の美貌は光莉すらも超えている。だが、須和はまるで動じない。ちなみに、彼が生涯において心を揺さぶられた相手はたったの2人だ。もちろん、1人目は光莉であり、2人目は灯すらも凌ぐだろう篝だ。彼にナーヴギアをプレゼントした時に笑顔で『おじ様、ありがとう!』と抱き着かれた時に、この子は本当に何故女の子では無いのだと本気で苦悩したものである。

 

「……やっぱり、静ちゃんを唆したのはキミだったか」

 

「静は可愛い妹分だからねぇ。あれこれ悩んでたみたいだし、ちょっと『アドバイス』してあげたのよ」

 

「そのせいで私はかれこれ不眠72時間突破だ。そろそろ幻覚を見そうだよ」

 

「須和先生って幾つだっけ? もう若くないし、徹夜とかしたらそろそろ死んじゃうよ? 私達と違って頑丈じゃないんだからさ」

 

 それは重々承知している。人払いをしているとはいえ、患者に待ったは無い。エントランスに居座られてAKARIがいると知られたならば大騒ぎだ。塚守町の住人全てが久藤家の関係者ではないのだ。

 今回の狩人気取り事件と贄姫盗難事件。明らかに手際が良過ぎる。確かに静は紫藤家の息女に相応しく謀略に長けているが、まだ学生だ。持てる財力も人脈も限りがある。警察から情報を抜かねば、隅木譲二に計画を持ちかけるなど無理だったはずだ。

 ならば必然的に彼女を遥かに上回る大物がいると察しが付く。久藤の血脈のパワーバランスを知らない翼ではたどり着けなかったが、須和は彼の推理を聞くことで今回の事件の『本当の狙い』を見抜いていた。

 

「……『パパラッチの排除』にその可愛い妹分を利用するんじゃない」

 

「痛っ! はーい。反省してまーす」

 

 須和がチョップすれば、避けれるはずの灯は素直に額で受け、制裁の痛みを甘んじて味わう。

 今回の狩人気取り事件も、岸間美琴も、何もかもが灯の『計画通り』に進んだのだろう。

 彼女の本当の目的は、自分と婚約者のプライベートを嗅ぎ回る『肉袋』の排除だ。自分にとって邪魔なパパラッチ全てを『獣』に堕とし、『狩り』で始末させるつもりだったのだ。静は獣血の苦悩と恋心を利用されたに過ぎない。静がお咎めなしなのも、翼の推理を聞いた彼が、この裏には別の意図があると彼の背後で必死に当主へと老いた全身を酷使したジェスチャーをして伝えたからこそだ。当主は翼を睨んでいたのではない、『お前は何をやっとるんだ?』と須和の下手過ぎるジェスチャーを凝視して思い悩んでいただけだ。

 

「私から当主にはそれとなく伝えておく。あと、光輝くんもキミが真の黒幕だと察してるはずだ。ただでさえ兄妹仲が悪いんだ。今度取り持つ場を準備するから、しっかり謝るように。腕の傷も『夢』だったから無かったことになったようなものなのだが、伝承の通りならば、どうなっていたか分からないんだ。あと、光莉さんから言伝を預かってる。『覚悟しておきなさい』」

 

「……へーい」

 

 自らの手を血で汚すことなく、蜘蛛の糸で絡め捕り、獣血を御す程度に血の悦びを啜って始末する鮮やかな手際は、まず間違いなく『人畜無害』と周囲が『思い込む』だろう、彼女が最も唾棄して毛嫌いする父親そっくりだ。

 

「それで、キミにとって計画外だったことは?」

 

「リズちゃんを巻き込んだことかなぁ。屑兄はともかく、今度お詫びしないとね。それで、リズちゃんは何処までが『夢』だと思ってるの?」

 

「……さぁ、それは誰にも分からない。キミにも当主にも光莉さんにも……誰もがあの時、現実と『夢』の区別なんてついていない。等しく重なり合っていたのだろうからね。リズベットちゃんが石階段で発見されたも事実だし、光輝くんが彼女をヤツメ様から守ったのも事実だ。怪我の痕跡も階段からの落下と一致していたから、どちらも矛盾することなく『真実』なんだよ」

 

 現場に居合わせていなかったのは、本当に残念だ。須和は九塚村の『夢』と『狩り』を経験していれば、PE技術解明の糸口が見つかったのではないかと無念に思う。

 仮想現実と拡張現実。天然のVRとARが入り混じった、現実と『夢』の境界線が消えた『狩人の夢』。実証できるのは孫世代かと覚悟していたが、思わぬ誤算だ。そして、資料にしか無かった『夢』で赤い月を目撃した者たちに起こるとされた『獣化現象』と呼ばれる自我の喪失と凶暴化も確認できた。

 多重人格障害に置いて、人格のシフトに伴って肉体も変化したという例もある。彼らを検死した限り、獣化現象は彼らに多大な負荷をかけて新陳代謝を促進させ、肉体を強制的に短期間で増強させ、まるで人間が『獣』になったかのように変化させてしまうのだ。そして、脳細胞は負荷に耐え切れず、知性と理性は消失し、原始的な狩猟本能だけが顕現するのだ。

 獣化現象の初期段階にある強い飢餓感は、久藤に流れる獣血……殺戮本能とは全くの別物だろう。獣化現象を控えて肉体が多量のエネルギーを摂取しようと訴えたからだ。

 

「ねぇ、贄姫は無事だった?」

 

 没入しかけた思考の海から戻され、須和は何処まで話をしただろうかと曖昧に笑む。

 

「ああ。草部の刀工が確認したが、刃毀れは無いし、もちろん抜かれた形跡もない。奇麗なものさ」

 

「良かった。あれはかーくんのモノだから。他の誰にも抜かせるわけにはいかないよ」

 

「……そうだね」

 

 歴代初の男子の神子。血に酔えば、狩人総出でも深殿に帰せるかも分からない『最強の獣』になることは容易に想像がつく。長い久藤の歴史でもまさしく『例外』の存在だ。だからこそ、灯は誰よりも篝を可愛がっていたのだろう。

 

「昭和以来の『狩り』かぁ。思ってたのとはちょっと違ったかな?」

 

「『狩り』には色々ある。昔はもっと血生臭いのが多かっただろうさ」

 

「所詮はパパラッチ。獲物が貧弱だったら狩りも張りが無いってことね。いい勉強になった♪」

 

「その経験を活かさないでくれ。少なくとも、私が生きている内に九塚村で『狩り』など真っ平御免だ」

 

 了承か、はたまた拒否か。灯はひらひらと手を振りながら背中を向けて自動ドアを潜る。待っているのは、塚守町には相応しくない、紺色のスポーツカーだ。

 

「お待たせ、ダーリン」

 

「フン。待たされるのは趣味じゃない。準備出来ているな、貴様?」

 

「もちろん。日本プレミアを大成功させるのが『仕事』だもんね!」

 

「そうか。では、行こうか」

 

 彼のそういう派手な行動が追い払ってもパパラッチが寄りつく最大の原因だと思うのだがね、とは須和も口が裂けては言えない。あの灯が久藤の女の狂気らしく、自分の全てを捧げても愛したいと望む程の男は、須和を一瞥すると、グルジアが生んだ奇跡とも称される冷たい美貌を微かに歪めてアクセルを踏んだ。

 

「血族同士の婚姻を進めて闘争の時代に備えるためとはいえ、東欧の『革命家』の血族の生き残りに本家の長女が嫁ぐことを許すとは、当主も大きく出たものだ」

 

 とはいえ、彼らの子は久藤に属する約束がある。灯もそれを承諾しているし、彼もまた自らの血族の復興など望んでいない。彼らは銀幕の世界で出会い、恋に落ちた。それだけなのだから。たとえ、それが『血』がより良質な交配相手を求めたからこそ灯を動かしたとしても、同じくらいに心にも愛という名の情熱がその名の如く灯っていたはずだと須和は信じている。

 だが相手は社会を引っ繰り返すことを是とした『革命家』の血族の正当な生き残りだ。いかなるどんでん返しを仕掛けてくるかなど分からないのもまた懸念材料なのだ。

 病院のエントランスのテレビでは、塚守町からそう遠くない山間の旅館で全焼となる火事が起きたとニュースで流れている。犠牲者は30名以上であり、遺体の損壊は激しく、本人確認も難しい状態だ。だが、歯の治療痕の照合や宿泊者リストとの照らし合わせを経て、犠牲者は特定されるだろう。そして、彼らが『何らかの取材』で集まっていた国内外のパパラッチだともすぐに判明するだろう。

 マスコミ対策も万全。全国の盟友の家と小間使いとも連絡は取ってある。パイプがある政治家を通し、火災事故の捜査は息のかかった者が指揮をする手筈も整えた。

 人間は『尤もらしい理由』を求める。『常識』という名のバイアスから逃れるのは簡単ではない。須和は地下にある遺体安置所……その中でも彼が持つ鍵を使わねば入れない1室に進む。

 そこには本祭で捧げられた供物の『残骸』が箱詰めされている。行方不明者として処分しても構わないのであるが、多くの犯罪歴を持つ男だ。今回の大掛かりな隠蔽には警察上層部にも借りを作った形になる。これらの遺体を有効に利用し、彼の美術品ブローカーの壊滅という華を警察には持たせねばならない。

 

「『いつも通り』だな」

 

 須和家の宿命とはいえ、久藤家に付き合うとは本当に度し難い苦労の連続だ。だが、彼らこそが望む探究に最も近しいからこそ、須和家は盟友を結んだのだ。

 

「『棗』様……調べる価値はあるな。名も残らぬ姫ならば探しようもないが、ヤツメ様に関する文献を探れば何か見つかるかもしれない」

 

 これは手掛かりだ。いつか必ずたどり着いて見せる。神の領域へ。それこそが須和家の悲願なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、楽しみにしているわ。いつかワタシの元にたどり着いてね。その時は優しく食べてあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳朶を甘噛みされ、須和は心臓が止まりそうな程に死の予感と共に振り返る。

 ここは塚守町。九塚村の外だ。『外』であるはずなのだ。心臓の鼓動が加速する中で、須和は多くの『納得』する為の仮説を並べる。

 そっと耳朶に触れれば、涎で浸されているかのように濡れていた。だが、改めて指を見れば、もちろん涎など付着していない。耳朶も湿っていない。

 

「……『夢』か」

 

 それは疲労と睡眠不足がもたらした白昼夢か、それとも……? 須和は苦笑で冷や汗を隠す。いい加減に眠らねば体が耐えられない。

 愚かな好奇を抱くつもりはないよ。ただヤツメ様に近づきたいだけだ。そうすれば、若き日に出会った光莉さんとの問答に、本当の意味での『答え』を出せる気がするのだ。

 須和は白衣を翻し、供物となった肉片に哀れみと黙祷を捧げ、そして地下の暗室を後にした。




何を信じて、いずれを真実として定めるかは、あなた次第。


これにてサイドエピソード『狩人の里編』は終わりです。

次回からはまた仮想世界に舞台を戻します。


それでは、314話でまた会いましょう。

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