SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

生きて、悩んで、苦しむ。人間だもの。



Episode20-03 いつの日かの旅路

 人間は悔やむ生き物である。

 過去の選択を何度も精査し、そこに僅かでも綻びがあれば後悔を抱く。絶望に叩き落とされた大失敗であろうとも、周囲から喝采を浴びた大成功であろうとも、無意識の内に完璧を追求しようとする心理が働く。その度合いは個人差こそあるが、多くはメンタルに直結する大切な要素である。

 だが、後悔自体は悪ではない。失敗を気にしない楽天家はメンタルの強さで成功を引き寄せるならば、後悔を繰り返す勤勉な分析家は成功・失敗の両方から学び取る事ができるからだ。

 では、彼の場合は? 傍から見れば、影と憂いを帯びた凛々しい若者……むしろ、俗にイケメンと呼ばれる部類のエイジは、酷く後ろ向きなメンタルの持ち主だ。それが生来のものか、はたまた経験によって備わったものか、どちらであろうとも今の彼を変化させるものではない。

 愛称スレイヴなる人型にして人語を操るレギオンの手を取り、SAOとDBOでは得られなかった『力』を求めたエイジであるが、こうして時間を置けば置く程に『あの時の自分は感情任せで浅はかだったのではないか?』という自己批判の声が心より滲み出るのだ。

 しかし、それも仕方のない事である。幼馴染にして初恋の相手を見殺しにした挙句、現実世界の家庭環境もよろしくない。SAO生還者はほぼ全員が社会復帰に多大な時間を要する程の心的外傷後ストレス障害を抱えていたように、エイジも例外なく膨大な時間をカウンセリングに要した。社会復帰こそしたが、薬を手放すことが出来ない程に精神面は追い詰められていたのだ。

 

(思えば、いつも選択肢を間違えてばかりだ)

 

 これがギャルゲーならバッドエンド一直線か、と無理にゲームらしい茶化し方でメンタルを正そうとするも、その程度で修正できるならば今のエイジが出来上がっているはずもなく、ただでさえ死んだ魚……いや、夏場の生ゴミのように濁った目をしたエイジは、組んだ両手に額を置いて溜め息を吐く。

 

「ほう、ここがお前の家か。悪くないが、まずは引っ越しだな。さすがに複数人で住むには狭すぎる」

 

「待ってください。僕は引っ越しませんよ?」

 

 メンタルをゴリゴリとヤスリで削る原因……レギオンのスレイヴは、エイジの部屋をぐるぐると見回し、棚を物色してチョコバーを勝手に頬張りながら、エイジのマイホームに駄目出しをする。

 エイジが暮らすのは終わりつつある街にあるクラウドアース所有のアパートだ。1人暮らしならば、むしろ快適に過ごせる狭さなのであるが、2人ともなれば息苦しさを覚える。

 

「金が無いのか?」

 

「…………」

 

「図星か。だったら、まずは金を稼いでもらわないとな。レッスン1『マネーはパワーである』。『力』には複数ある。暴力や権力、そして財力だ。権力はともかく、財力は手にしてもらわねば困る。装備・アイテム・情報収集・住居……何でも金がかかる。投資した分だけ『力』は増す。現実・仮想問わずに働く摂理だ。憶えておけ」

 

「ご高説に感謝しますよ」

 

「レッスン2『口は災いの元』。慇懃無礼で皮肉屋である所は俺の好みではあるが、敵を作るから程々にしておけ。我らレギオンは口程にトラブルを呼ぶものはないと熟知している。いや、本当に……本当に知っている。喋っても喋らなくても問題を起こすのは変わりないが、喋った方が問題を招く。だが、喋らなければ勝手に悪い方に勘違いされていく。ふむ……救いようがないな」

 

 何やら勝手に諦観しているようだが、スレイヴが呆れているのはエイジではないのは確かである。レギオンについてプレイヤーは無知だ。故にスレイヴの言動を分析しようにも、エイジには材料が無かった。

 

(金……金か。貯金は60万コルぽっち。これでもある方のはずだが、まるで足りない)

 

 安給与の巡回警備職にしては溜め込んだ部類である。だが、これからトッププレイヤーの領域を目指すならば、相応の装備が不可欠になる。レベリングするにしても十分な装備が無ければ始まらない。

 最低でも100万コル。それだけあれば、レベル100水準でもなんとか戦える装備とアイテムを揃えられるだろう。

 

「よし、目標金額は300万だ」

 

「は!?」

 

「300万だ。簡単だろう? ネームド1体でも単独討伐すれば、すぐに稼げる」

 

「か、簡単じゃないだろ!? 僕を殺す気か!?」

 

「素が出ているぞ。悪くない傾向だ。信頼関係の1歩が踏み出されたようだな。感動したぞ」

 

 言葉遣いを気にしていられない程に動揺しただけだ! 今にも髪が抜けそうな勢いで頭を掻いたエイジは、冷静になれと深呼吸する。

 途端にエイジの鼻を擽ったのは、まさしく肉が腐ったような悪臭だ。顔を顰めたエイジはすぐに発生源に気づく。

 蛆が湧いてもおかしくないボロボロのローブ、煤や埃塗れのボサボサの髪、貧民街にこそ相応しいといった風貌のスレイヴだ。

 

「スレイヴさん」

 

「呼び捨てで構わない。我々は同志だ」

 

「……スレイヴ、僕もあまり言いたくありませんが、少々臭います。シャワーでも浴びられたら如何ですか?」

 

「そうか。生まれ持った体質とはいえ、マナー違反ではあるな」

 

 意外にも従順だ。スレイヴはバスルームへと向かうも、足を止めてエイジを哀れむような目を向ける。

 

「レッスン2を復唱しておけ。モテる秘訣は会話力だ。これでも俺は――」

 

「さっさと行け!」

 

 やや傷ついたような物言いのスレイヴに、モテたいならばこの態度も幾らか改めていると嘆息する。

 ベッドに背中から倒れたエイジは、やはりこの選択は間違いだったのかもしれないと後悔する。だが、脳内で何度同じ場面を繰り返しても、どう抗おうとしても、必ずスレイヴの手を取ってしまうのだ。

 憎悪。エイジは自分も、他人も、環境も、運命も……全てを憎んでしまっている。若い身でありながら、憎悪で染まり切ってしまう程の積み重ねがあったのだ。

 

「殺した。僕が……殺した」

 

 貧民プレイヤーを2人も殺した。殺人は初めてではないが、命を奪った重責が今更になって指先を震えさせる。

 駄目だ。呑まれるな。恐怖に屈するな。親指の爪を……いや、親指そのものを食い千切る勢いで噛み、生じたダメージフィードバックで体の震えを止めようとする。

 

「おーい! おーい、エイジ! シャンプーはどっちだ?」

 

「赤いボトルだ!」

 

「そうか。済まないな」

 

 だが、気の抜けたコーラのように呑気なスレイヴの声で、エイジは何とか自分を浸す恐怖から脱する。

 どうして、いつもそうなのだ? だから『彼女』を救えなかったのだとエイジは奥歯を噛む。

 何分……いや、何十分が経っただろうか? 鼻歌を奏でて上機嫌のスレイヴに苛立ちながら、エイジは気を紛らわそうと剣の素振りをする。狭い部屋であるが、エイジの得物は巡回警備用の簡素な片手剣だ。貧民プレイヤーには十分過ぎる殺傷力であるが、最前線ではまるで役立たずである。

 エイジはレベル87だ。エリートプレイヤーとしての育成を受け、また警備巡回に配属された後も地道にレベリングをしていた成果である。現在、トッププレイヤーがレベル100オーバー。上位プレイヤーがレベル95前後であるならば、決して追いつけないレベルではない。

 だが、スレイヴの言葉通り、装備もアイテムも足りない。クラウドアースはエイジに何ら支援を寄越さないだろう。エリートプレイヤーとして期待されていながら、情報が網羅された、しかも水準レベルが下回るリポップ型ネームドを相手に腰を抜かしたまま動けない醜態を晒したのだ。どれだけ言葉を並べても無意味だ。

 ならば借金をするという方法もあるが、エイジではせいぜい借りられても100万コルが限度だろう。所持金の60万コルを合わせれば、装備とアイテムは整えられるが、スレイヴは納得しないはずだ。

 どうすれば大金を稼げる? どうすればいい? 剣速は増し、スタミナ消費の上昇に伴って汗が滴る。暖房が入っているとはいえ、寒気を覚える11月の空気がこびり付く室内において、エイジの体は加熱されていく。

 

「ふむ、素晴らしい。確かな才能と真摯な努力を感じる。なのに、どうして死の恐怖を乗り越えられなかった? ある程度の実力は自信に繋がり、また経験と努力は精神を支えるものだ。どうにもアンバランスだ」

 

「僕が知りたいくらいですよ。この心の弱さの理由を――」

 

 熱中し過ぎたのだろう。汗で湿った前髪を掻き上げながら、いつの間にかシャワーを終えたスレイヴの声が聞こえた背後を振り返り、そして彼は硬直する。

 

「ん? ああ、すまない。思えばボロ布ローブしか持っていなかったものでな。出来れば、服を貸してもらいたいのだが……」

 

「お、おおおお、おおおお!?」

 

「お?」

 

 エイジが何を言いたいのかサッパリ分からないとスレイヴは首を傾げるも、彼からすれば言語能力に障害が発生も致し方が無い衝撃だった。

 振り返った先にいたのは、一糸纏わぬ裸体のスレイヴだ。タオルを渡さなかったエイジの配慮不足もあり、全身は濡れたままである。だが、問題点はそこではない。

 酷く痩せてこそいるが、微かに膨らんだ胸部。華奢な肩。何よりも『男の象徴』が無い。エイジが先程までとは別の意味で震える中で、顔面に貼り付いた前髪を邪魔そうにスレイヴが掻き上げれば、そこには痩せていようとも美麗という2文字こそが相応しい容貌が露になる。

 

「女ぁああああああああああああ!?」

 

「なんだ。やっぱり気づいてなかったのか」

 

 濡れたままスレイヴは部屋を歩き回り、腹が減ったとばかりにテーブルにばら撒かれたままであるチョコバーを手に取る。

 さっさと体を拭け。服を着ろ。恥じらいを持て。色々な言葉がエイジの頭の中で回るも、ショートした思考はスレイヴに対して発声を許さない。

 思えば、その声はハスキーであり、女性と言われれば女性である。また、先程の『臭い』の1件にしても、スレイヴが女性であったならば、男性であるエイジの発言に少なからず傷ついたのも納得がいき、だからこそレッスン2を出して女性の扱いについて注意を促したのだろう。

 

「こんな色気のない女体で騒ぎ過ぎた。まさか、お前……童貞か?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 なお、エイジは経験済みである。貧民暮らしの時、微かな稼ぎを得る為に娼婦のお守りをしていたが、支払い代わりに体を差し出す者も少なからずいたからだ。逆に言えば、そこで肉欲や酒、麻薬アイテムに溺れてしまえない程にエイジの絶望は深かったとも言えるだろう。

 エイジの説得、もといDO☆GE☆ZAによって、渋々といった様子でベッドのシーツを服代わりに纏ったスレイヴは、冷蔵庫から勝手にテツヤンの店1日5個限定チョコレートアイスを取り出して貪る。

 床で正座するエイジ、ベッドに座って足を組みながら彼を見下ろすスレイヴ。この状況は何だとエイジは叫びたくなるも、改善する方法が全く見えなかった。

 

「実に素晴らしい。意外とスイーツの多い家だな。甘いのが好きなのか?」

 

「好きって程ではありません。辛いものが良ければ左の棚の――」

 

「辛いのには興味が無い。苦いのは嫌いだ。俺と暮らすのだ。憶えておけ」

 

 やはり同居するつもりなのか。別の意味で絶望したエイジに、そこまで嫌かとスレイヴは傷ついた表情をする。

 

「……まぁ、この1人称だし、声もハスキーだから、男と勘違いできないこともない。それにあの恰好ではボディラインも分からんし、この痩躯ではな。俺の裸体に欲情したわけでもないだろう? いつまでも正座なんてしないでくれ」

 

 チョコレートアイスを平らげたスレイヴは、自分でも困っていると言わんばかりに溜め息を吐く。

 

「俺はグン姉さんとは違って、元々人型として設計されたわけではないものでな。人間のアバターに変化させるまで、自分でも男だと思っていた。お前を責める権利はない」

 

 エイジが正座を崩さずにいれば、呆れたようにスレイヴは自ら床に腰を下ろす。シーツを纏っているとはいえ、躊躇なく胡坐を掻く彼女に、エイジはこんな女と共同生活なんて胃に穴が開いてしまうと絶望する。

 貴重な60万コルであるが、スレイヴの為に服を、そして体臭を誤魔化す為の香水を買わねばならないだろう。エイジは最優先のコルの使い道を決定する。

 

「さて、先の話だが、どうにもお前は変だ。どうして死の恐怖を乗り越えられなかった?」

 

「カウンセリングのつもりですか?」

 

「俺は遊びでお前と組んだわけではない。お前に『強さ』と『力』の意味を教えるのに妥協はしない。話してみろ」

 

 真剣な眼差しのスレイヴに、エイジは自分でも分からないとポツリポツリと話し始める。

 どのようにして『彼女』を見殺しにし、その時の自分がどれ程までに惨めで情けなかったのかを教える。

 

「なるほど。FNCか。お前の場合、理性で恐怖を乗り越えようとしても、本能的に感じた恐怖の方が優先的にアバターの制御を奪ってしまうわけだな」

 

「そういう事ですよ。尤も、SAO事件後に判明したことですけどね。僕にはそもそもとして仮想世界で戦えるだけの才能が――」

 

「いや、才能はある。現時点でのお前の反応速度はVR適性S相当だ。それに仮想脳の形成も確認されている。だが、測定される実適性はDだと? これはどういうことだ。いや、待て。似たような症例が複数確認できた。該当するケースを検索している。ふむ……ふむ……これか?」

 

 仮想脳とは何だ? 知らぬ単語に首を傾げるエイジであるが、それよりも重要なのは自分のVR適性が奇妙という点だ。

 FNCが発生するのは低VR適性者だけだ。その障害は様々であるが、エイジの場合は簡単に説明するならば『本能的判断が常に優先的に反映される』というものだ。強い恐怖を感じれば、それを乗り来ようとする意思など関係なく、彼の足は竦み、あるいはその場から逃げてしまうのだ。

 

「アミュスフィアⅢはナーヴギアよりも性能は遥かに上だ。VR技術の拡散により、あらゆるニーズに対応できるように汎用性を向上させてある。人種・性別・年齢問わずにマッチングできる。ハードの問題はクリアしているはずだ。それにDBOに使用されている運動アルゴリズムは、個々人に最適化される、元々は軍用モデルとして開発された最新バージョンだ。SAOではともかく、DBOではお前の軽度のFNCが発生するとは考え難い」

 

「だったら、僕の心はどうしようもなく弱かった。そういう事でしょう」

 

 DBOでも何度も醜態を晒したのだ。言い訳の余地など無いとするエイジに、スレイヴは腕を組んで考え込み、やがて仕方ないとばかりに溜め息を吐く。

 

「少々苦痛は伴うが、致し方あるまい。今からお前をレギオンプログラムでスキャンする。安心しろ。レギオンになるようなことは無い。だが、抵抗はするなよ。した分だけ苦しみが増す」

 

「拒絶しても実行するのでしょう? どうせ僕に拒否権はぁああああああああああ!?」

 

 せめて始める前に合図をしてくれ! スレイヴがエイジの顔面にアイアンクローを決めた途端に、自分の内側……脳髄を……心を……魂を蹂躙するような『何か』が入り込んでくる。

 視界が明滅し、頭痛という表現を超えた激痛が意識を焦がす。

 

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 

 蜘蛛の足音がエイジを満たしていく。闇の中で溢れた光へと落ちて、堕ちて、落ちて、堕ちて、そして見る。

 

 

 

 

 青ざめた血のような夜空に浮かぶ赤い月を見る。

 

 

 

 

 頬を殴られた衝撃でエイジは意識が戻り、DBO特有のダメージフィードバックに唸る。

 

「よし、戻って来れたようだな」

 

「……何も……殴らなくても……」

 

「想定よりも相性が良かったようでな。放置していれば、レギオンにはならないが、廃人にはなっていたぞ?」

 

 そんな物騒なモノを使ったのか!? あっさりと精神が破壊されかけていたと教えられ、エイジはやはりスレイヴの手を取ったのは間違いだったのではないだろうかと再度後悔するも、今更になって止まれるはずもないと不安を呑み込む。

 

「結論から言おう。現時点でもFNCは完治していない」

 

「矛盾していますね。ハードの問題はクリア。運動アルゴリズムは最適化されていたのでしょう?」

 

 エイジがSAO事件後に測定したVR適性は判定Dだ。Cに届くか届かないかの擦れ擦れであったが、低VR適性者らしく、SAO事件の3年が経過してもまるで拡張していなかったのである。

 ならば、現時点での適性Sの方が間違いであるはずだ。エイジの指摘に、スレイヴも同意するように頷く。

 

「そうだ。だが、お前の場合はFNCが少々特殊だ。VRデバイスと運動アルゴリズムに対してお前の脳が反応し過ぎているのが最大の原因のようだ。先にも言った通り、DBOの運動アルゴリズムは個人に最適化される。要はお前の敏感肌に合うように、専用調合された石鹸が準備されたようなものだ」

 

「分かりにくい譬えですね」

 

「これによって、お前のVR適性自体は急速に拡張している。その敏感体質がお前の成長を助けている。より拡張を促す高負荷の戦闘を繰り返せば、いずれはSSまでは上昇するだろう。お前次第だが、DBOで3人目のSSSになることも可能かもしれない」

 

「夢のある話ですね。ですが、僕にもオチが読めましたよ。敏感体質……つまり、欠点であるFNCが最適化された運動アルゴリズムとハードの高性能化のせいで余計に悪化している、という事でしょう?」

 

「頭もキレるようだな。増々気に入った。ああ、その通りだ。運動アルゴリズムとの連動性が高まれば高まる程に、VRデバイスはお前の本能的恐怖を過剰検知し、お前の理性が下す命令よりも優先的にアバターへ反映する。『恐怖を感じる』という時点でお前はアウトだ」

 

 たとえ、精神で恐怖を乗り越えることを促そうとしても、アバターのアクションは生存本能を優先してしまうのだ。これではどうしようもない。

 

「誤解するなよ。恐怖は生存において重要な感情だ。大事なのは、屈することなく踏破することだ。そうすれば、恐怖はその大きさのまま、お前の『強さ』に変わる。今のお前は繰り返しFNCで『死の恐怖に屈した』という経験が先入観となっているだけだ。これを払拭すれば、お前はすぐにでも恐怖に再び立ち向かうことができるようになる」

 

「ふざけるな! 精神論でどうにかなる話じゃない! 僕は障害で――」

 

「恐怖に基づいた本能的命令を優先的に検知して反映する。だが、それが絶対ではないとお前自身が証明している!」

 

 スレイヴは声を張り上げ、エイジの両肩をつかむ。細く長く、まるで肉が付いていない痩せた指はエイジに微かな熱を感じさせる。

 

「戦いには大なり小なり恐怖を覚え、生存本能が刺激されるものだ。だが、お前は少なくとも上位プレイヤーに届くだけのレベルに達するだけの戦いを繰り返した。SAOでも! DBOでも! お前は恐怖に立ち向かった成果がある! レベルという数値がそれだ!」

 

「…………っ!」

 

「仮想世界において、恐怖に根差す本能的命令を優先する閾値が常人よりも低い。それがお前のFNCだ。そして、本能的命令に対して打ち消す理性的命令もまたお前は同時に出している。それが上回る限り、お前がFNCに屈することはない」

 

「だったら……だったら、僕はやっぱり『彼女』よりも自分の命を優先したクズという事になりますね」

 

 障害を克服する可能性の提示。だが、それはエイジの過去の傷口を抉る。『彼女』を救えなかった記憶が溢れ出す。

 自嘲を重ねて剥がれかけた瘡蓋を覆い隠そうとするエイジを、スレイヴはまるで我が子を癒すように抱擁する。

 

「それは違う。お前の場合、常人以上の精神力が不可欠というだけだ。他人が1で済むところを、お前は10も必要なんだ。その辺の雑魚モンスター相手でさえ、お前にとってはドラゴンに挑むほどの精神力がいるんだ」

 

「それでも……それでも……僕は……俺は……『彼女』を見殺しにした!」

 

「憎め、エイジ。お前に苦痛と絶望を強いた運命を憎め。その憎悪を誰にも否定などさせない。それにな、俺にはお前の苦しみが分かるんだ。世界を喰らっても足りぬ飢餓を抑え込み続ける姿を知っているからな。我らはレギオンであるが故に、誰よりもお前の苦悩を理解できる」

 

 嗚咽と慟哭は漏らさず、エイジは奥歯を噛み締めて耐え続ける。ここで泣けば、スレイヴは許してくれるだろう。だが、そうなれば、『弱さ』ばかりが詰まった今の自分では、彼女が認めてくれた憎悪さえも涙と一緒に流れ出てしまいそうで恐ろしかった。

 エイジの胸の内を承知しているように、スレイヴは何も言わずに彼を抱きしめ続けた。その体の震えが止まり、決して涙が出ないという確信を持ってエイジはそっと彼女の胸を離れる。

 

「……『憎悪』を司るにしては、慈愛に溢れているんだな」

 

「愛が憎しみに変わるならば、憎しみには愛の名残くらいはあるかもしれないという事さ。だが、皮肉が言える程度には持ち直したようだな」

 

 いつまでも床に座っているわけにもいかず、またスレイヴもシーツを服の代用にし続けるわけにもいかない。エイジはスレイヴも着れそうな寝間着のジャージを投げ渡し、彼女が着替えている間は後ろを向いて食事の準備をする。

 ろくに使っていない≪料理≫スキルであり、食材らしい食材もないが、パスタくらいは作れる。

 豚肉の缶詰を絡めさせた即席パスタに、ジャージ姿のスレイヴはまるで天下一品の美食を口にしたような幸せそうな顔をした。

 

(『憎悪』のレギオンなんて物騒だと思ったが、まるで普通じゃないか)

 

 いや、スレイヴ自身が言っていた通り、『憎悪』が酷く希薄で形を成していないからこそなのだろうか? レギオンでありながら、他のどんな人間よりもエイジに理解を示し、成長の道標を与えようとしているスレイヴに、より感謝の念を強める。

 

「さて、お前の問題点は明らかになった。慰めて早々に悪いが、これはかなりの難問だ。先も言った通り、他人なら1の精神力で済むところを、お前は10も要する。相手が野犬程度ならば踏ん張れるかもしれないが、普通なら100も精神力が必要な場面ならば、お前は1000も要る。これでは、どれだけ実力があってもネームドの単独撃破は夢のまた夢だ」

 

 感じる恐怖の対象が大きければ大きい程に、必要となる精神力が激増する。それがエイジの抱えるFNC最大の問題点だ。スレイヴに言われるまでもなく、この問題点を把握していたエイジは、彼自身の卑屈さに反して、極めて客観的かつ冷静な分析力を有していると言えるだろう。それは彼がFNCを乗り越えようと努力した賜物である。

 

「実際のところ、数値化は出来ない以上は、ざっくりとした目標を決めねばならない。そうだな……お前の目指す最終目標は、覚醒したレギオンの王と相対しても戦えるだけの精神力だ。王の恐怖さえも踏破できれば、お前は2度とFNCに悩まされることはないはずだ」

 

「レギオンの王……僕に乗り越えられる相手ですか?」

 

「戦闘能力という意味では、今のお前では、FNCが完治していたとしても無理だ。覚醒した王に勝てるとするならば、王を超えるイレギュラー……あるいは『英雄』の資格を持つ者だけだ。『バケモノ』を倒すのは、いつだって『人』の英雄だと相場は決まっている。その英雄譚が悲劇ではない限り……な」

 

「……英雄」

 

「そうだ。英雄の条件は、聖剣の有無などではない。たとえ、心折れようとも立ち上がり、バケモノに挑むことが出来る『強さ』。それこそが英雄を生むんだ。『力』は必ずしも必要ではない」

 

 意外とロマンチストだ。エイジはスレイヴに増々の人間味を感じる。少なくとも、今の自分も含めた大多数の人間よりも気高い信念と矜持を持っている。それは『憎悪』のレギオンという実態からの乖離を強く感じさせた。

 

「今のは王からの受け売りだ。王はそうした『人の強さ』を何よりも愛している。そして、その上で理不尽な暴力で踏み躙る。それが摂理だと示すようにな」

 

「結局は『力』が必要ということじゃないですか」

 

「そうなるな。だが、レギオンの王を倒すには『力』よりも『強さ』が求められるのかもしれん。他のレギオンは否定するかもしれないが、俺はそう思っているんだ。共感する必要はない。お前はお前の英雄像を見つけろ。俺は『強さ』と『力』の意味を教えるだけだ」

 

 まるで自分の王様が倒されることを願っているような口振りだ。もう少しだけ踏み込んだ話をしようとしたエイジの邪魔をするように、普段ならば絶対にあり得ないチャイムの音が響く。

 

「どうやら到着したようだな」

 

「誰か呼んだのか!?」

 

「ああ、家族を……な」

 

 主であるはずのエイジに断りもなく客人を……それも家族というならば同じレギオンを招いたスレイヴに、彼はキリキリと胃に痛みを感じ始める。痛覚遮断は機能しているはずなのに、確かな痛みをもたらされ、エイジは唸りをあげたくなる。

 胃薬が欲しい。切にそう願いながら、エイジはまず玄関を開ける前にどのような人物……もといレギオンなのかチェックしようとするも、何を手間取っているとばかりにスレイヴが勝手に玄関ドアを開ける。

 

 

 

 

「はーい☆ 呼ばれて登場、ナギちゃんデース!」

 

 

 

 

 脚線美が眩しいホットパンツ。キャミソールの上にレザーコートという、防御力よりも外見に全振りしたとしか思えない防具。血のように赤黒い髪は黒リボンでポニーテールにしており、100人中100人の男が振り返らずにはいられない愛らしい顔立ちをしている美少女が、ウインクした右目をVサインで覆うポーズを決めた。

 僕のレギオン像が崩れる。スレイヴも大概であるが、ナギと名乗ったこのレギオンにはその上を行くオーラを感じてしまい、エイジはプレイヤーの怨敵として扱われるレギオンの実態が分からなくなる。

 

「紹介しよう。【ギャラルホルン】姉さんだ」

 

「違うもん! そんなゴツい名前じゃないもん! ワタシはナギだもん!」

 

 ナギ、あるいはギャラルホルンという名前の美少女は、涙目になってポカポカとスレイヴの肩を叩く。スレイヴは男と見間違うのも納得の身長170センチオーバーであり、ナギは身長140センチ台だろう事を考慮すれば、どちらが姉なのか、態度も含めて初見では判別不能だろう。

 

「姉さん、もちろん――」

 

「ダイジョーブ☆ ナギちゃんに抜かりはない! ちゃーんとレギオン・ネットワークは切断してあるよ。これがナギちゃんの特権だからね!」

 

 ……とりあえず、パスタをもう1人前作るか。エイジは物欲しそうに即席パスタを見ているナギにも同じものを振る舞う。だが、彼女はスレイヴとは違い、ごく普通に、特に目立ったリアクションもしなかった。

 明日、スレイヴにはもっと美味いモノを食べさせてあげよう。そんな決定を内心で下したエイジは、何処からどう見てもレギオンには見えない2人を前にして、自分はどのような話と反応をすべきなのか困る。

 

「掻い摘んで説明しよう。全てのレギオンは繋がっている。戦闘経験から知識、思考まで残さずな。もちろん、探ろうと思わなければ分からないこともあるが、基本は常にオープンだ。だが、ホルン姉さんは、例外的にレギオン・ネットワークから自己を切断できる。本来はメリットなどないし、レギオンとしての種の特性に反するのだが、ホルン姉さんには特別な役目があるので実装されている。そして、俺の場合は『出来損ない』であるが故に、自分から接続しようとしない限りは、デフォルトがオフライン状態だ」

 

 常時オンラインであるが、任意でオフラインに出来るのがナギ。常時オフラインであるが、希望した時だけオンラインに出来るのがスレイヴ。そう纏めたエイジであるが、そもそとしてレギオンの特性を暴露されるという大問題に自分が直面している事実を敢えてスルーする。

 

「ふーん、これがスレイヴの……悪くないね。ナギちゃんの好みだなぁ。ナギちゃんを魅せてくれそうだなぁ。あれ? でも、おかしいなぁ……全然ドキドキしない。なんで? こんなにも人間賛歌を聞かせてくれそうなのに、ワクワクしてるのに……ドキドキしない。どうして?」

 

 問題が起きたようにナギは考え込むも、どうでもいいかとばかりに笑顔を咲かせる。

 

「それで? スレイヴは本当にこの人でイイの?」

 

「ああ。エイジにはそれが必要だ。他の奴らに会わせる前に、彼を最低限は仕上げておかねばならない。その為にも、FNCに対して処置が必要だ」

 

「……ナギちゃんはオススメしないなぁ」

 

 自分の知らない所で勝手に話が進んでいる。困惑するエイジの前で、スレイヴは出会った時に披露した、腐った肉汁が零れるレギオンの触手を露にする。

 咄嗟に臨戦態勢を取ろうとしてしてしまうエイジであるが、同時にナギから溢れた殺気に恐怖を覚えて足が竦んで動けなくなる。

 これまでエイジがレギオンと出会ったのは1度だけだ。獣狩りの夜の時である。レギオンと出会い、彼はひたすらに、我武者羅に走って逃げた。レギオンから感じる恐怖は尋常ではなかったのだ。

 だが、ナギから感じる恐怖は獣狩りの夜に遭遇したレギオンの比ではない。故にエイジは過敏反応で後退り、壁際まで勝手に自分で追い詰められる。本当はそんな事したくないはずなのに、体が命令を受け付けないのだ。

 

「へぇ、なるほどねぇ。スレイヴの言う通り、『人』を捨てたわけではないけど、体が勝手に動いちゃうんだ。うんうん、ナギちゃんとしても、これはちょーっと問題だね」

 

「ああ、だから頼む」

 

「OK。ナギちゃんに任せなさーい!」

 

 腐った肉汁が滴る触手に、ナギは嫌な顔1つせず、笑顔で右手を突っ込む。途端にスレイヴの顔が苦痛で染まり、悲鳴を堪えるように唇を噛む。

 

「スレイヴ!?」

 

「こ、これが……ホルン姉さんの……能力の……1つ!【武器創造】だ!」

 

「まぁ、普通に使っても、特に面白味なーい武器しか生み出すことが出来ないんだけどね」

 

 触手が弾け飛ぶ。肉片が撒き散らされ、スレイヴは膝から崩れ、その場に倒れる。駆け寄りたくても足が動かないエイジに、全身に肉片を浴びたナギは、まるで女神が恩寵を授けるかのように彼へと『それ』を差し出した。

 

 

 

 

 

 

「これがキミに与えられる『模造された導き』……スレイヴの『憎悪』そのもの……【邪剣ダーインスレイヴ】だよ」 

 

 

 

 

 

 

 

 飾り気のないの直剣。片手剣にしてはやや長く、両手剣にも思えた。

 銀色の刀身は光を浴びれば、微かにであるが、瑠璃色に輝いている。手に取った瞬間に、エイジはまるで生きているかのような脈動を、邪剣ダーインスレイヴの柄を通して感じ取る。

 

「ナギちゃんはね、お母様が『導き』のコードの再現を目指した『失敗作』でもあるんだよ。だから、これはナギちゃんだけの特権。『敬愛』を受け継いだナギちゃんだけに許された『力』。かつて存在した、黄金の薔薇より聖剣を写し取った誇り高き深淵狩り達の名残から再現を試した『導き』の模造品が埋め込まれている。幾つかの条件はあるけど、同意がある時に限り、ナギちゃんは対象の能力を1つの武器に変えることが出来る」

 

「それは……俺のレギオンプログラム……そのもの……でも、ある。レギオンプログラムは……王が持つ殺戮本能の劣化模造品。俺は……最弱のレギオン……本能を最も受け継ぐことが出来なかったレギオンだ。だが、最弱だからこそ……出来ることもある……人間であるお前に……レギオンの『力』を……『導き』として与えることが……できる!」

 

 倒れたまま咳き込むスレイヴは、嬉しそうに笑う。その姿にナギは心を痛めるように目を伏せたかと思えば、エイジも認識できなかった速度で彼との距離を詰める。

 そこにあったのは狂笑。どれだけ可愛らしい姿をしていたとしても、その皮を剥げばレギオンという怪物が潜んでいると教えるかのように、ナギは……いや、『ギャラルホルン』は笑っている。

 

「この剣はスレイヴそのものなんだ。これがある限り、キミはレギオンの……スレイヴの『力』を借りることができるよ。でも、恐怖に屈してレギオンプログラムの『力』を求めた時、キミはレギオンプログラムに蝕まれる。クヒ、クヒヒ、クヒャヒャヒャ! キミは死ぬよりも恐ろしい絶望を味わうんだよ? きっと、レギオンになり切る前に、精神はグチャグチャに壊されちゃうだろうなぁ。そして、仮にキミがレギオンになりかけたとしても、ナギちゃんは許さない。キミを殺すよ? レギオンになったら家族になっちゃうもん。その前に……キミを食べちゃう」

 

 かぷり、と可愛らしく右耳を甘噛みしたナギに、エイジはただ恐怖だけを覚える。

 

「これ使うと物凄く『お腹が空く』のが困るんだよねぇ。今日は『狩り』もしたし、ナギちゃんは『ごはん』を食べに帰りマース! エイジ、期待してるから、ナギちゃんを魅せてね♪」

 

 レギオンとしての恐怖が薄れ、ナギはまるで何事も無かったかのように去っていく。残されたエイジは、途端にダーインスレイヴを酷く重く感じ、危うく落としてしまいそうになる。

 武器としての重量はエイジのSTRならば軽々と扱えるだろう。だが、この剣にはスレイヴの命が注ぎ込まれているのだ。重くないはずがない。

 

「……安心しろ。その剣が折れても俺は死なないさ。だが、これで……俺のレギオンとしての戦闘能力は……正真正銘……ゼロ、だ。その剣を……俺が使えば……また別だが……そもそも俺は『最弱のレギオン』だからな。元より限りなく……ゼロだったような……ものだ。だが、飢餓は……消えていない、か。あくまで、その剣と俺は……リンク、している。これではグン姉さんの苦悩を晴らすことは……出来ないな。ふむ、だったら剣が完全消滅した場合、どうなるのか……興味はあるが、試すのは……無理そう、だな」

 

「……どうして!? どうして、僕なんかの為に!?」

 

 エイジには理解できなかった。まだ出会って数時間の相手に、全てを託すという選択をしたスレイヴの真意が分からなかった。

 壁に寄りかかったスレイヴは、口から腐った血を零している。ナギの能力は決してノーリスクではないのだろう。スレイヴはエイジの質問の意味が分からないとばかりに笑う。

 

「『憎悪』は……最も醜い感情として扱われている。だったら、俺は何なんだ? 俺は……醜く蔑まれる為に……生まれてきたのか? 違うはずだ。憎悪は……心の最も真摯な……叫び……俺は……俺は『王の心の悲鳴』そのものである……はずだ。この腐った虚ろの身こそ、王の……苦しみそのものなんだ」

 

 ようやく足が動いたエイジに、スレイヴはこれ以上と無い笑顔で応じる。何1つとして後悔はしていないと伝えるように笑う。

 

「エイジ……憎悪の剣の申し子よ。お前は……きっと、普通の人間……だ。憎しみを捨てられず、憎しみによって生かされる……ごく普通の人間だ。だからこそ、俺は……お前を『英雄』にしてみせる……憎まれるべきレギオンの『力』で……蔑まれるべき『憎悪』で鍛え上げ、邪剣を持つ……英雄に……!」

 

「だから、どうして僕なんだ!? 僕みたいな負け犬じゃなくて良かっただろ!?」

 

「……『気まぐれ』だよ。王は……いつも『気まぐれ』を……大切にするんだ。俺も……王から生まれたからこそ……『気まぐれ』で……お前を……」

 

「スレイヴ! スレイヴ!? スレイヴぅうううううううううううううう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言っておくが、別にここで死ぬわけではないぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今にも息を引き取りそうだったスレイヴを揺すっていたエイジは、いい加減に休ませろと言わんばかりに睨む彼女にポカンと口を開ける。

 

「確かに負荷はかかったが、生まれた時より腐った、いつ崩壊するかも分からぬ身だ。だからこそ、母上も色々と自由を許してくれている。ホルン姉さんの能力で崩壊リスクは増えたが、別に今日すぐに死ぬわけではない」

 

「…………」

 

「ほほう? 俺を心配してくれるのか? 良いぞ良いぞ。俺が死ぬ時は盛大に泣いてくれ。『憎悪』のレギオンが悲愴の涙で見送られるなど、それはそれで面白そう……って、止めろ! 止めろ、エイジ! 肉汁を俺の顔に塗りつけるな! は、鼻に流し込むな! 耳に注ぐなぁあああああああああああああああ!」

 

 ビクンビクンと痙攣するスレイヴに色気の2文字などなく、エイジは右手に持つ邪剣ダーインスレイヴを軽く素振りをする。

 今まで多くの剣を握ったが、最も手に馴染む。いや、自分に『最適化』されていると剣が教えてくれる。まだ詳細なステータスや能力は確認していないが、上位プレイヤーでもなかなか有していない、それこそソウルウェポンにも匹敵する武器だと感じ取れる。

 

「本能的恐怖を、模され劣化した殺戮本能の出涸らしで打ち消す。だが、あくまでお前自身の闘争心と邪剣はリンクしているから、お前が心から戦うことを諦め、恐怖に屈したら意味を成さない。それにあくまでハードルを下げただけだ。お前が恐怖に相対する精神力は……踏破する為の意思は、常人以上に必要となるだろう。それでも、お前には道が開けたはずだ」

 

「……ありがとう」

 

「フッ、感謝の言葉は俺が死ぬ時まで取って置け。さて、明日から忙しくなるぞ」

 

「覚悟しています。ですが、まずは掃除ですね」

 

 エイジの部屋はダーインスレイヴ創造の際に、肉汁と肉片で汚らしく染め上げられている。悪臭も酷く、とてもではないが人間が住める環境ではなくなっている。

 1歩も動けないと主張するスレイヴに、自分が頑張るしかないとエイジは≪清掃≫スキルがあればいいのにと思いながら片づけていく。

 

「さて、メインウェポンは手に入ったが、防具諸々も要るし、アイテムも情報も足りない。やはり金が欲しい。そこでだ、エイジ。お前には傭兵に転職してもらう」

 

「は!?」

 

「2度も言わせるな。傭兵だ。明日にでもクラウドアースに辞表を持って行くぞ。クラウドアースの専属になるならば、離籍しても問題あるまい。実力と経歴からして、最初から専属入りは無理だが、ものは考えようだ。使い捨て扱いならば、1発目からハードな依頼を得られるかもしれないからな。たとえば、ネームドの戦力調査依頼とか。それならば、調査ついでに倒してしまったという言い訳も立つ」

 

 何が何でもネームドにソロでぶつけようと企んでいるスレイヴに、ネームドをソロで倒すのが当たり前と考えているレギオンの思考がまるで分からないとエイジは嘆息する。トッププレイヤー……一騎当千の傭兵でもネームドを単独撃破は困難なのだ。ランカーでも数人しか成し遂げていない偉業である。

 

「ところでだ。お前の憎しみは分かる。環境、運命、自分を強く憎んでいる。だが、お前はどうして他者を強く憎めるようになった?」

 

「…………」

 

「お前みたいな人間が狂い、壊れるのには理由がある。『彼女』の死の詳細について教えてくれ」

 

「僕のプロフィールでも読み込んだように的中させますね。それとも、レギオンはメンタリストなんですか?」

 

「…………」

 

「スレイヴ?」

 

「…………」

 

「まさか……本当に僕の……プロフィールを?」

 

「お、俺はレギオンだ。使える手は何でも使う! 卑怯は褒め言葉だ!」

 

 カッコイイ物言いをして、その実は俺のSAOでの経歴を覗き見していただけか! エイジが肉汁塗れの雑巾を手に近寄れば、あわわわわとスレイヴが涙目で首を横に振る。

 

「待て! まだ少ししか見てない! それに、見たのはたった今だ! 信じてくれ!」

 

「……信じますよ。僕が思うに、レギオンという輩は……人間以上に信頼できそうですからね」

 

「それもレギオンと手を組んだ理由の1つか。哀れだな。それとエイジ。優しい物言いで、俺の頭の上で雑巾を絞るのは止めてくれ。お前、さてはドSだな? ドSなんだな!?」

 

 レギオンに哀れまれるプレイヤーか。エイジは自嘲しながら『彼女』の詳細な最期を語り、改めて1つの希望を抱く。

 エイジも死者の復活……特にSAO死亡者がDBOで今も生きているように存在しているという事は知っている。3大ギルドと教会の宣言によって、プレイヤー人口が増加し続けていることも認知済みだ。

 エイジは探した。『彼女』を求めた。だが、何処にもいなかった。エドガー神父によれば、SAO死亡者が必ず復活しているというわけではないという事だった。また、もう1年以上もDBOが経過した以上は、『彼女』もまた既にDBOの何処かで死亡してしまったかもしれないという残酷な宣告だった。

 故にエイジは彼女を探すことを諦めていた。DBOの何処かにいる『彼女』と出会っても失望させるだけだ。また、再び『彼女』が死んだという事実に直面すれば、今度こそ耐えられないと分かっていたからだ。

 いや、そう言い訳して逃げ続けたのだ。敗者であることを受け入れようとしていたのだ。

 スレイヴのお陰で、本当の敗者にならずに済んだ。たとえ、もはや理不尽としか言いようがない程の憎悪しか残っていないとしても、まだ前を向ける……前に進めるのだから。

 

「ふむ。なるほど。『彼女』については少々調べる余地があるな。俺の賛同者に、その手の分野に詳しい奴がいる。何かしらの情報が得られるだろう」

 

「期待しておきますよ」

 

「任せろ。我らレギオンは人間とは良くも悪くも違う。契約を破ることは決して無い。王より継いだ『憎悪』に誓おう。『俺は何があろうともお前の味方だ』」

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、エイジは夢を見た。

 

 いつもと同じように『彼女』を救えない悪夢だ。

 

 だが、1つだけ違った。過去は再現されて足は動かないはずなのに、今夜は違った。

 

 たった1歩……1歩だけ踏み出せたのだ。

 

 その時、『彼女』が微笑んだ気がした。ようやく助けに来てくれると嬉しそうに笑いながら、『彼女』は死んだ。

 

 

▽    ▽     ▽

 

 

 久々にクゥリと会う。シノンは緊張した面持ちでサインズ本部の談話エリアで足を組み、心を落ち着かせる為に珈琲を飲む。

 ミュウから依頼が入ったのは昨日の事だ。NPCのギリガンの元に行くクゥリに同伴を求められた。理由は太陽の狩猟団が保有するダンジョンで好き勝手させない為の見張りであるが、あの女がそれだけの理由で傭兵を……それも高ランクであるが故に報酬も高くなるシノンを動かすはずがない。

 てっきり、隙があれば武器やスキルについて調べろと命令されるかと思えば、特に報告義務も与えられていない。増々の不気味さを覚えながらも、シノンには数ヶ月以上まともに会話をしていないクゥリとどう接するべきか悩む方が先決だった。

 DBO初期、ガーゴイル戦、シャルルの森の凶行、コスプレキャバクラ等々……まともな思い出といえばDBO初期の2ヶ月だけである。

 ディアベルは聖剣騎士団のリーダー。クゥリは数多の悪名を持つ独立傭兵。そして、自分は太陽の狩猟団の専属傭兵だ。無論、専属と独立が友好的な関係を築いてはいけないわけではない。むしろ、独立傭兵をなるべく引き込むように、あの手この手でパイプを作っておくのも専属傭兵の立ち回り方だ。

 だが、シノンは他人との馴れ合いを好まず、クゥリもまた幾らか態度は変わったとしても相変わらずだ。2人はタイプこそ違うが、俗に言うコミュ障なのである。

 

(まさか、黄金の引換券の使い道を見つけているなんてね。コレ、てっきりコレクターアイテムかと思ってたわ)

 

 DBO初期、謎のネームドであるダークライダーの撃破時に、茅場の後継者からお詫びで得られたアイテムである。黄金の引換券は各所で、無駄にレアドロップとしてゲットできるのであるが、長らく使い道は謎に包まれていた。

 クゥリ曰く、NPCのギリガンに黄金の引換券を使えば『何かが起こる』という事だ。ミュウは情報のお礼として無償でクゥリをギリガンの元に行く事を認可している。これもまたミュウらしく無い不気味さを覚える。あの女は獲れる時にはガッツリ獲るスタイルなのだ。

 

(平常心……平常心……平常心!)

 

 ギリガンのいるステージは水準レベル40程度だ。レベル100を超えたシノンならば、たとえソロでも余程のミスをしない限りは危険など無いだろう。だが、何が起こるのか分からないのはDBOの常だ。ましてや、クゥリと一緒ならば、何か波乱が起きそうな気がするのである。

 いや、そんな考えは駄目だ。シノンは慌てて首を横に振り、先入観を捨てる。巷では、クゥリを死天使と崇める狂信者集団がいると聞く。彼らは、あらゆる厄災は【渡り鳥】によって

もたらされると考えており、クゥリを神格化し、畏怖を持って祀ることを是としている。

 シノンもシャルルの森を契機に、クゥリに強い恐怖を覚えていた。だが、今はそれだけではない。クゥリの実態がまるでつかめないのは確かであるが、それもまたクゥリらしさなのではないだろうかと考えている。

 何よりも『彼』の『相棒』というポジションにいたクゥリに、今の自分はどう映るのか、尋ねてみたいという気持ちもあった。

 

「お待たせしました」

 

 時間ピッタリだ。傭兵らしい。シノンは空の珈琲カップを置き、柔らかな物腰と穏やかな微笑みを浮かべるクゥリに、思わず吐き気を覚える。

 シノンの知るクゥリは『粗暴で口が悪く、ガキのような態度を取る』というものだ。今のクゥリは余りにもギャップがあり過ぎて耐えられなかったのである。

 

「もう少しフランクでいいわよ。ほら、専属と独立とはいえ、私達は傭兵じゃない。協働の時くらい……ね」

 

 きっとクゥリも距離感が掴めないのかもしれない。口元を手で隠し、何やら思案した様子の白の傭兵は、曖昧な表情で頷く。

 

「了解した。シノンに合わせるから、『奇妙に思った点はすぐに指摘してくれ』。修正する」

 

「変なオーダーね。まっ、私はそれでいいけど」

 

 今回の仕事は報酬など雀の涙であるが、その実は太陽の狩猟団どころか3大ギルドが大きく注目している仕事でもある。

 黄金の引換券。無駄にレアリティは高いが、まるで使い道が分からず、なおかつ売却してもほとんど値が張らない、まさしくコレクション要素しかないアイテムだったからだ。初期は有用なアイテムだろうと収集する者もいたが、今ではほとんど忘れ去られるどころか、ドロップしたらスカ扱いで怒りのままに破り捨てられるのが常である。

 それが突如として利用価値が提示されたのだ。クゥリのマネージャーというグリセルダは、ほとんど事情を知らさることなくギリガンの居場所を捜索していたらしく、痛恨のミスだとばかりに溜め息を吐いたと聞いている。もしもギリガンを探していた理由をグリセルダが承知していたならば、まさしく一攫千金の情報として取引を仕掛けたはずだ。

 

(頭は悪くないんだろうけど、取引や交渉……対人技能全般が苦手なのは相変わらずね。マネージャーさんは大変だわ)

 

 シノンもマネージャーを通して仕事をしているが、ビジネス的な付き合いであり、プライベートな関係は築いていない。むしろ不要だと感じている。だが、クゥリのマネージャーであるグリセルダは、彼をプロデュースして少しでも好感度を上げようと四苦八苦しているようだった。そんな彼女の努力を知ってか知らずか、クゥリはマイペースに振る舞っているようにも思えた。

 

「2ヶ月も何やってたのよ。さすがに死んだんじゃないかって思ったわ」

 

「心配したのか?」

 

「まさか。でも、生きてたなら顔くらい見せなさいよ。それで、何やってたの?」

 

 大嘘である。死んだとは思っていなかったが、安否は気遣っていた。シノンは決して安くないコルを支払って情報屋に調べさせたものである。

 

「んー、ちょっと長めの休暇だな。毎日寝て過ごしてた」

 

「はいはい。私には教えられない仕事をしていたってわけね。無理に訊き出さないわよ」

 

 行方不明の2ヶ月間は、いずれかの大ギルドの裏の仕事に従事していた、というのが傭兵間の噂である。3大ギルドのいずれも公式で【渡り鳥】の2ヶ月間について触れておらず、存外3大ギルドの合同依頼だったのかもしれない、とも囁かれていた。

 ギリガンがいるのは<石売りのクロアーナの記憶>にある<毒の源泉>と呼ばれるイベントダンジョンだ。レベル1の毒が常時蓄積するダンジョンであり、長時間潜るならば毒対策が必須である。シノンは【毒咬みの指輪+2】で大幅に毒耐性をアップさせ、またレベル1の毒の蓄積を減らす毒紫の苔玉も多量に準備している。

 水準レベル自体は35程度の簡単な部類であり、出現するモンスターも弱小だ。だが、潜るにしても毒対策で経費がかかるのでレベリングにも利用されず、また目ぼしいアイテムもドロップしない為に半ば放置されていたダンジョンだ。しかも弱いとはいえ、非常に腹立たしい程にレベル1の毒デバフ攻撃を仕掛けてくるモンスターばかりでストレスも溜まる。

 ボスも非常に貧弱であり、大した被害も無く倒せたかと思えば、ソウルはもちろん、目ぼしいドロップアイテムも無し。経験値もコルも低い。何から何まで旨みが無いイベントダンジョンの最奥にあったのは、かつての坑道が連なった広場であり、そこにNPCのギリガンが多少は有用性のある、だがわざわざここまで来て購入する程ではないアイテムを売ってくれるだけだった。

 当初は何か秘密があると探っていた太陽の狩猟団であるが、コストに対してリターンは得られず、ついには放置されるに至ったのである。

 

「【魔除けの聖水】を使って……と」

 

 レベル差が大きく離れたモンスターとのエンカウントを避けるアイテムを使ったシノンは、エンカウント率を下げるアイテムを使う様子もないクゥリに何をしているのかと無言で促す。すると彼は苦笑いをしながら頬を掻いた。

 

「遭遇するモンスターは片っ端から倒せばいいと思って」

 

「……脳筋」

 

 低レベルの頃からガンガン使用している<気配遮断>スキルの熟練度は2人とも高く、得られる隠密ボーナスはかなりのものだ。また、2人とも金属甲冑のような隠密ボーナスを下げる装備でもなく、むしろ高めるタイプであるはずだ。それを考慮すれば、わざわざエンカウント率を下げるアイテムなど使わなくてもいいかもしれないが、無駄な戦闘を避けるのは自然な発想のはずだ。

 万が一に備えて武装はレベル100水準のメインウェポンである。雑魚モンスターと戦ってかかる修理費を考慮すれば、多少の値は張ってもエンカウント率を下げるアイテムを使うべきだ。経費との戦いでもある独立傭兵ならば、尚更そのような思考が染み付いているはずであるが、クゥリは違うようだった。

 

「使って」

 

「良いのか?」

 

「……傭兵仲間でしょ? 腐っても協働だし、それに私だけ使っても効果半減よ」

 

「すまない」

 

 シノンは魔除けの聖水を差し出し、クゥリは申し訳なさそうに使用する。

 充満する緑色の霧の中、地下へ地下へと潜っていく。緑色のガスは等しくレベル1の毒を蓄積させる効果がある。幸いにも可燃性ではなく、松明や火花、炎属性攻撃で着火して大爆発……なんてオチはない。

 HPドレインと毒蓄積の吸血攻撃をしてくる直径1メートルほどの巨大蝙蝠。骨まで毒が染み込んだ緑色の毒死スケルトン。スコップやつるはしで攻撃してくる亡者系の毒堀り。1番厄介なのは岩石に擬態して待ち構えている毒大蜥蜴だ。

 武装開発で資金が無いシノンは、経費削減だとばかりに安物の松明で光源を確保しようとする。だが、クゥリは要らないとばかりに携帯ランタンを取り出す。

 

「クラウドアース製の【梟ランタン】ね」

 

 梟ランタンはクラウドアースの最新アイテムだ。明るさは松明系に比べれば劣るが、使用者だけに見える光を放つ。またランタンの光は隠密ボーナスの低下を招き、暗闇の中で潜んでいる者を暴く効果もある。まだ市場には出回っておらず、広告の意味も込めて傭兵に販促されている。

 ただし、1度使用すれば消灯させることはできず、効果時間は12時間の使い捨てだ。独立傭兵達とクラウドアースの仲介人兼セールスマンでもあるネイサンの交渉をシノンも耳にしたが、1個2000コルという価格も効果時間と使い捨てを考慮すれば決して安くはない。だが、闇からの奇襲により対応できるという効果は、夜間でも様々なミッションに従事する傭兵にとって魅力である。

 とはいえ、シノンは太陽の狩猟団の専属という事もあり、基本は専属先のアイテム以外は使用できない。あらゆる大ギルドの装備・アイテムを自由に使えるのは独立傭兵ならではの強みである。

 

「さっきのお礼だ。1つやるよ」

 

 相変わらず律儀だ。1個2000コルか、とシノンは心にチクリと痛みを覚える。魔除けの聖水は1個1200コル……しかも太陽の狩猟団に支給されたアイテムである。シノンは太陽の狩猟団のトップランカーとして破格の待遇で契約を結んでいる。住居はもちろん、サインズが新たに建設した待機部屋という名のマンションも太陽の狩猟団が全額負担だ。いかなるミッションでもあろうとも修理費は3割、弾薬費に至っては半額も確定で支払ってもらえる。

 対してクゥリは独立傭兵である。ミッション後に報酬から経費を差し引いて眉間に皺を寄せている独立傭兵は少なくない。RDは報酬から経費を引いて赤字だった頃は人生の終わりだとばかりに泣き叫び、エイリークは自棄酒である。弾薬費で経費が嵩むはずのスミスがどうやって黒字を維持しているのかはサインズ傭兵七不思議の1つだ。

 ここは丁寧に断って突き返すべきか否か。3秒ほど迷ったシノンは結論を出す。

 

「ありがとう!」

 

 最高に良い笑顔でシノンは梟ランタンを受け取った。

 腰に梟ランタンをぶら下げ、毒の源泉という名に相応しい毒ガスに満たされたダンジョンを進む。ショートカットが既に発見されているとはいえ、ギリガンの元まで行くには最低でも1時間はかかる。隠密ボーナス低下を覚悟で突っ走った日には、モンスターに山ほど集られることになるだろう。低水準レベルのダンジョンとはいえ、数の暴力ともなれば何が起こるか分からない。故に高DEXであるシノンもダンジョンを強行突破することは無い。

 基本は歩いて進む。それがダンジョン攻略だ。なお、グローリーは毎度のように大声を張り上げてダッシュしまくる為に、協働相手からは毎度のように仕事終わりにパンチを喰らい、2度と協働しない旨を突きつけられる。聖剣騎士団のオーダー無しで彼と協働するのは、それこそクゥリくらいしかいないものである。

 

(あのグローリーの協働依頼だって引き受けるお人好し。貴方は本当に……訳の分からないことだらけね)

 

 あのUNKNOWNでさえ『頼む、もう勘弁してくれ』と頭を下げたというグローリー。彼と協働を快く引き受けるクゥリは、シノンからすれば聖人君子というよりも頼まれたら断れないお人好しにも映っていた。

 

「ああ、オレの財布なら気にしなくていいぞ。ネイサンが格安で売ってくれたんだ。『50個セット購入で1個2400コルのお買い得』だってさ。あとでグリセルダさんに良い買い物したって報告しないとな」

 

「…………っ!?」

 

「どうした?」

 

「い、いいえ。そうよね。安い……わよ……ね」

 

 シノンが黙っているのを梟ランタンを譲ってもらったことを気にしていると勘違いしたのだろう。まさかの高値で売りつけられているクゥリに、シノンは思わず同情して顔を背けた。グリセルダはクゥリが持って帰った領収書を見て、まるで石化のデバフがかかったように硬直することになるだろう。

 

 

『単品ならば3000コルのところを、50個セット購入で2割引。これはクラウドアースの好意です。そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?』

 

 

 ネイサンのいつもの嫌味たっぷりのビジネススマイルを思い出し、きっとこんなセールストークに騙されたんだろうと、やや上機嫌のクゥリをシノンは哀れんだ。これが自分も恐怖心を抱かずにはいられなかった最凶の傭兵の実態なのかと思えば、増々の頭痛を覚える。

 

「止まれ」

 

 マップデータはシノンだけが持っている。必然として先導するのは彼女になるが、途端にクゥリがストップをかける。人差し指を唇に当てる様は、まるで可愛らしくお菓子をおねだりしているかのような可憐さもあり、シノンは思わず見惚れそうになってしまう。

 だが、クゥリの目は真剣だ。≪気配遮断≫がしっかり機能していることを確認した上で、シノンは更に上位スキルである≪隠蔽≫を発動させる。静止状態に限り、姿を完全に消すことができるスキルだ。『待つ』ことが大事な狙撃では重宝するスキルである。

 クゥリと共に膝を折って身を屈めて岩陰に隠れれば、巨大蝙蝠の群れが先のT字路を右から左に濁流のように飛行する。

 巨大蝙蝠は≪消音≫スキルと同様に、飛行音などをほとんど聞かせることなく接近してくる毒の源泉で最も厄介なモンスターだ。狭い洞窟内とはいえ、群れて飛び回って攻撃してくるだけに注意は怠れない相手でもあった。

 魔除けの聖水を使っているとはいえ、効果は絶対ではない。あのままのペースで歩いていたならば、まず間違いなくT字路で巨大蝙蝠の群れと鉢合わせしていただろう。

 

「どうして分かったの?」

 

「勘だ」

 

「…………」

 

「本当だ。後はガスの流れだな。ゆっくりと右から左に向かって流れていた。空気の流れがあるのか、それとも短期サイクルで何かが通っているのか、どっちかだ。勘と合わせて後者だと判断しただけだ」

 

 ただの脳筋ではない。彼が魔除けの聖水を使わなかったのは、経費削減だけではなく、素の索敵能力の高さもあるのだろうと理解する。高い隠密ボーナスとそれを使いこなすロジック、そして野生動物染みた……いや、まるで人間レーダーのような直感も合わされば、エンカウント率を下げるアイテムなど不要だ。

 

「確かにガスが動いているわね。その直感と観察眼と分析力をもう少し交渉技術向けに調整したら?」

 

「……オレもそう思うよ」

 

「そ、そんな真剣な顔しないでよ!」

 

 シノンは元よりウィットに富んだトークで場を和ませながら協働するタイプではない。UNKNOWNを除けば、むしろ徹底したビジネスライクの淡白な付き合いを望む。そうした積み重ねがクールビューティの女傭兵という評判を生んだのだ。

 だが、クゥリとこうして2人だけで協働……それも誰の目も無いともなれば、自然とあの頃のように……DBO初期のような態度になってしまう。それに気づいたシノンは、胸に苦しみを覚えて調子を戻そうとする。

 

「…………」

 

「…………」

 

 無理だ。意図して作り出した沈黙に耐え切れず、シノンは我慢するのも馬鹿らしいと溜め息を吐く。クゥリもシノンもタイプこそ違えどもコミュ障だ。互いに沈黙は苦ではない。だが、今のシノンは黙々とダンジョンを進むなど耐えられなかった。

 

「あとで梟ランタンのお礼にご飯でも奢るわ」

 

「聖水のお礼だから気遣いは――」

 

「あれ、本当は太陽の狩猟団からの支給品なのよ! だから施しを受けたみたいで嫌なのよ!」

 

「……そっか。だったら、期待しておく」

 

 優しく、穏やかに、特に怒りを示す様子もなく、クゥリは微笑んでシノンのやや喧嘩腰だった申し出を受け入れる。それはまさしく、あらゆる悪も罪も穢れも許すかのような聖女の微笑みだ。

 そんな顔しないで。思わず頭を垂らしてあらゆる罪の告白をしたくなるほどの神聖にして愛らしい振る舞いに、シノンはクゥリのことが増々分からなくなる。

 DBO初期のデリカシーの欠片もない悪ガキのようなクゥリ。シャルルの森で見た残虐なクゥリ。イメチェンした後の上品な振る舞いが板についたクゥリ。グローリーの協働依頼を引き受けるようなお人好しのクゥリ。たまに教会の敷地内で孤児たちと遊んであげている聖女のようなクゥリ。取引・交渉能力がまるでない底抜けのお馬鹿のようなクゥリ。そして、敵対した者たちが口にする災厄そのものと呼ぶしかないバケモノのようなクゥリ。

 同一人物であるはずなのに、余りにも落差があり過ぎる。それがシノンを混乱させる。人間が多面的な存在であるならば真実を求めるなど無意味なことかもしれないが、感情は『本物のクゥリ』を探し求めてしまうのだ。

 

「ねぇ、何か食べたいモノある?」

 

「そうだな。甘いモノがいい。とびっきり濃くて甘いモノ」

 

「だったら中華にしましょ。今は辛いモノが食べたい気分なの。最近オープンした、とびっきり辛い麻婆豆腐を食べさせてくれる店があるらしいわ」

 

「辛いのは苦手なんだがな。まぁ、シノンがそれでいいなら、オレもそれでいいさ」

 

 DBO初期の2ヶ月間は毎日が不味い食事ばかりだった。だからこそ、ディアベルもシノンも、アレが食べたい、コレが食べたいと文句を口にしていた。だが、クゥリだけは決してそんな発言をしなかった。せいぜいが不味いメシだと愚痴を零したくらいである。

 

(……何も知ろうとしなかったのは、私の方だったのね)

 

 それなのに、腐敗コボルド王戦を境にして、シノンはクゥリの真実をいつの間にか探してしまっている。最も近くにいた時期には触れようとしなかった、彼の本当の姿を求めてしまっている。

 どうして? 恋心? 好奇心? それとも傭兵として敵対するかもしれない強敵の分析?

 違う。乙女色に染まった甘い恋心でもなく、無粋極まりない好奇心でもなく、敵として倒す為の分析でもない。

 

「ねぇ、私達は……『あの頃』に戻れると思う?」

 

「戻れないだろうな」

 

「相変わらず、こういう時は容赦がないわね」

 

「……そうだな。でも、それが『オレ』なんだろうさ」

 

 ただの懐古だ。互いに近くにいながらも、決して互いの領域に踏み込もうとしなかった事への未練と後悔だ。

 あの2ヶ月間で、ディアベルとクゥリの2人と少しでも繋がりを得ようとする努力を重ねていれば、何かが変わったのではないだろうか?

 たとえば、ディアベルは聖剣騎士団のリーダーとなったとしても、シノンとクゥリは同ギルドに在籍していたかもしれない。自分たちの存在が他2つの大ギルドの台頭を防げたとまで驕らないが、少なくとも現在とは何かが違っていたはずだとシノンは夢想する。

 ようやく出口が見えた。明るい光が見え、シノンは毒地獄も終わりだと早足になり、そして相変わらずのんびり歩いたままのクゥリの手を義手で掴む。

 

「シノン?」

 

「確かに戻れない。だけど、私は諦めたくない。長い時間がかかったけど、ようやく分かってきた気がするの。私が求めていた『強さ』とは何だったのか」

 

 それはきっとクゥリと『彼』のお陰だ。右腕を失い、アルヴヘイムにおける冒険と殺人と死闘を経て、血塗れの手になってようやく分かった気がしたのだ。

 

「私は専属傭兵。貴方は独立傭兵。いつ戦場で出会うかは分からない。貴方はきっと手を抜かないでしょうし、私も全力で戦いたい。でも……だけど……『その時』が来るまでは、少しでもやり直したいのよ。私は……もう後悔したくない。誰にも負けたくない。特に『自分』には……絶対に」

 

 どうして傭兵なのか。大ギルドに在籍すれば、より安心と安定と名声を得られるかもしれないのに、どうしてリスクを背負う傭兵なのか。

 たとえ専属であるとしても、心だけは自由でありたいと望むからだ。ならば、太陽の狩猟団にも邪魔はさせない。『彼』の傍にいたい。そして、あの頃には出来なかった分だけクゥリについて知りたいのだ。

 

「そうか。シノンは……『強い』な」

 

 何処か誇らしそうにクゥリは微笑んだ。そういう顔をもっと皆の前で出来れば、彼に対する不当な誤解も消えるのではないだろうかと思うも、それが出来たら苦労もしないかとシノンは笑った。

 到着したギリガンの居場所は、意外にも屋外だった。坑道と聞いていてはずだが、とシノンは周囲を見回せば、採掘用の縦穴が無数と穿たれていた。

 

「アイツがギリガンか?」

 

 クゥリが指差した先には、全体的にぷっくりとした体型をした、まるで盗賊のような防具を纏った中年男がいた。ボサボサの髪と髭を生やした中年男であり、シノン達に気づいても会釈1つせず、無視するように岩に腰かけている。

 NPCの中には条件を満たしたプレイヤーに敵対する者もいる。注意しつつ、シノンはギリガンに近づく。

 

「挨拶もせずに近寄るなんて、常識ねぇのかよ」

 

「…………」

 

「落ち着け。オレに比べれば、まだ友好的な部類のはずだから」

 

「貴方も大概に卑屈ね」

 

 ギリガンの開口1番に、シノンが威嚇するように義手を鳴らせば、クゥリが待ったをかける。

 シノンもクゥリもNPC相手に有利に話を勧められるスキルは所有していない。とはいえ、黄金の引換券を見せれば話は通じるはずだ。シノンはアイテムストレージから黄金の引換券を取り出し、まるで扇のように広げて見せつける。

 

「そんなに集めたか。よーし、梯子チャレンジさせてやるぜ! さぁ、いくら払う?」

 

「お金を取るの!?」

 

「タダでやらせてもらおうなんて、常識ねぇのかよ!」

 

 てっきり黄金の引換券を渡せばアイテムや情報とトレードと思っていたシノンは、呆れたギリガンを前にして幾らまでならば出せるだろうかと計算する。そんなシノンを前に、先んじてクゥリは、それこそ札束と思える程の黄金の引換券をギリガンに渡す。

 

「お支払いはこれくらいでよろしいですか?」

 

 ギリガンにいくら支払ったかは分からないが、指の動きからしてく十数万コルは違いないとクゥリの資産に、シノンは唖然とする。何が得られるかも分からないイベントに、これだけの金額を傭兵が個人で投資するなどあり得ないからだ。

 

「おお、太っ腹じゃねぇか!」

 

 機嫌よくギリガンは、それこそ何処から出したのかも分からぬ長大な梯子を坑道の竪穴にかける。

 

「この坑道はどうやら昔の大貴族様の宝物庫を掘り当てちまったみたいでな。色々な所にお宝が埋まってるのさ。引換券の回数だけ掘り起こして構わないぜ」

 

「なるほど」

 

 スコップをギリガンに渡されたクゥリは梯子を下りようとする。シノンも借りようとするが、そうはさせないとギリガンが通せんぼした。

 

「……常識ねぇのかよ」

 

 1000コル支払ったシノンに、ギリガンは哀れみとも蔑みとも思える視線を向けると、クゥリとは違って余りにも短い……それこそ3メートルとない梯子を別の坑道にかける。それはもうジャンプして跳び下りた方が早い程に浅い縦穴だ。

 瞬時にシノンは理解した。これは支払額に応じて……恐らくは引換券1枚当たりの支払額に応じてチャレンジできる縦穴が変わるのだ。クゥリは知ってか知らずか、高額の支払いをした為に、多数の黄金の引換券があっても最高ランクの縦穴を使わせてもらったのだ。

 クゥリの使う縦穴の方がレアリティの高いアイテムがゲットできるはずだ。シノンはギリッと歯を食いしばる。

 

「ほらよ。まったく、金を渋るなんてケチ臭い奴はお宝を掘り当てられねぇぞ?」

 

「うるさいわね!」

 

 結局は高額コルを追加で支払い、クゥリと同じ縦穴へと変更したシノンは、スコップを背負ってクゥリと共に縦穴の底に向かう。

 かつては坑道だったそうだが、壁面には鉱石らしき物質は露出しておらず、代わりに壊れた美術品などが飛び出していた。これは実用性の高いアイテムは余り期待でき無さそうだと、シノンはギリガンへの支払いが探索経費で太陽の狩猟団に請求できるだろうかと思案する。

 そこに到着すれば、スコップに数字が表示される。それはシノンが保有していた黄金の引換券の枚数だ。この数字の分だけ地面を掘ることができるのだろう。

 

「何をゲットしても恨みっこ無しよ」

 

「分かってるさ」

 

 早速スコップを地面に突き立てる。大してSTRも必要もなく土を掘り返すことが出来たかと思えば、システムウインドウが表示され、入手したアイテムが表示される。

 

 

<【錆びたブローチ】を入手しました>

 

 

 これは≪鑑定≫スキルが不可欠なタイプだろうか? シノンが得たアイテムの詳細を開けば、ただのコレクターアイテム……それも外れの部類だと把握する。

 クジと同じだ。コストに見合うリターンが必ずしも得られるわけではない。シノンは怒りを込めて数回連発で掘り返すも、いずれも10コルに届けば良い部類のコレクターアイテムだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「思えば、私ってリアルラックは最悪の部類だったわ」

 

「奇遇だな。オレもだ」

 

 今日は様子見にして、改めてドロップ率を高めるアイテムや装備を持ってきてから挑戦すべきだったか。まんまとギリガンの挑発に乗ってしまったとシノンは自分の浅はかさを呪う。

 残り4回。ガラクタばかりが溜まるシノンは、今までとは違う煌びやかな銀縁のシステムウインドウに期待を膨らませる。

 

 

<【ギリガンのセクシー自画像】を入手しました>

 

 

 フン! ギリガンがブーメランパンツでセクシーポーズを取る、無駄に彩色豊かな自画像を実体化させて破り捨てたシノンは、どうして貴族の宝物庫跡という設定なのにギリガンの自画像が掘り出されるのだと叫びたくなる。

 そして、同様にクゥリも無言で何やら埋めていた。それは熊の木彫りならぬ、ギリガンの木彫りである。自画像と同じく、ブーメランパンツ姿でセクシーポーズを決めている。

 

「……麻婆豆腐、楽しみね」

 

「……そうだな」

 

 もはや何も期待しない。シノンが再びスコップを振り下ろせば、今度は眩いばかりの金縁のシステムウインドウが高々と鳴るファンファーレと共に出現する。

 

 

<【月の旋律の指輪】を入手しました>

 

 

 またコレクターアイテムかとシノンはまるで期待しなかったが、意外にも装飾品……立派に指輪枠に適用できるモノだ。

 かつて暗月神に多くの楽曲を捧げた演奏家アルキジェロの指輪であり、その効果は『≪演奏≫スキル無しで設定した楽器を演奏できるようになる』というものだ。

 1度設定すれば取り消し出来ず、システムのサポートを受けられないとはいえ、スキル枠を消費しなければ得られない≪演奏≫スキルを指輪枠1つで代用できるのだ。市場に出せば、数十万……いや、100万コルを超す額は簡単に付くだろう。

 DBOでは楽器1つ演奏するのにもスキルが要る。≪料理≫と同じく、スキル無しではどれだけ本人の技量が高くてもまともに奏でられないのだ。この指輪の価値は計り知れない。

 シノンは元より≪演奏≫を持っているので所持している理由もない。装備開発で資産が目減りしたシノンは、これは良いアイテムを得たと喜ぶ。

 

「私はお宝を掘り当てたわよ。貴方はどう?」

 

「……無駄にレアリティが高い空き瓶が出た」

 

「そ、そう。私はもう終わりだから頑張って」

 

 要はレアリティ詐欺のガラクタを掘り当てたというわけか。その後もクゥリはスコップを振るい続けるも、表情は段々と暗くなるばかりで、結局は1つとして目ぼしいアイテムはゲット出来た様子はなかった。

 クゥリはアイテムストレージを圧迫するゴミだとばかりに入手アイテムを次々と実体化して放り投げている。指輪以降は目ぼしいアイテムをゲットできなかったシノンは、クゥリが積み重ねるガラクタを手に取る。その中には深い緑色の瓶があった。

 

(これが無駄にレアリティの高い空き瓶ね。【汚れた瓶】……≪鑑定≫なら何か分かるかもしれないわね。それにしてもこの瓶の形……何処かで見たような気が……っ!?)

 

 そうだ。亡者系モンスターや不死系ネームド・NPCがたまに回復行動で使う【エスト瓶】だ! 不死と亡者以外が使っても効果が無いため、闇の血を持つ者という設定のプレイヤーには使用できず、また入手機会もないが、大ギルドは有用なアイテムではないかと目を付け、何処かで得られるはずだと血眼で探しているアイテムだ。

 始まりの火が陰る時、人間より不死が現れる。不死とはいえ、やがて記憶と自我を失い、最後には亡者となる。そして、多くの不死は故郷より追放されるか、あるいは亡者にならない術を求めて旅に出る。そんな不死の旅とは、彼らによって唯一無二の安らぎの灯……篝火を巡る旅であった。エスト瓶とは篝火の熱を封じ込め、不死の傷を癒す回復薬として持ち歩ける道具のことである。

 即ち、エスト瓶は不死限定で『半無限で使用できる回復アイテム』なのだ。エスト瓶そのままでは使えないとしても、何かしらの加工を施せば、使い道があるかもしれない。ごくりと生唾を呑んだシノンは、動揺を隠しながら、この高確率でエスト瓶だろう空き瓶をどうやって入手したものかと考える。

 いや、クゥリはわざわざ実体化させている……つまりはこの場に捨てるつもりなのだ。ならば、ゴミを拾ってもシノンは何ら悪くない! むしろ、価値をまるで分かっていないクゥリが悪いのだ!

 だが、その一方で、シノンは先程の自分の発言を思い出す。たとえ、いつか戦うとしても、その時が来るまでは少しでも友好を深めたいと宣言したばかりではないか。ならば、空き瓶の正体を教えるべきではないのか!?

 

「ねぇ、この空き瓶なんだけど……」

 

「ああ、それか? 無駄にレアリティが高いし、何処かで見覚えがある形状だけど、オレのことだからどうせゴミだろうと思って」

 

 どうやらクゥリはリアルラックの悪さにすっかり打ちのめされ、空き瓶に見覚えがありながらも深く追及しなかったようだった。

 天使と悪魔が交互に笑う。ここで真実を告げるべきか否か。迷いに迷った末に、シノンは決断を下す。

 

 

 

 

「この空き瓶と指輪を交換してあげるわ。今日から始める新しい関係の記念にね」

 

 

 

 

 時価推定100万コル以上! これならば文句は無いだろう!? シノンは必死に心の中で言い訳するも、仮に空き瓶がエスト瓶であったならば、大ギルドがこぞって奪い合い……それこそ1000万コル以上の額は軽く付くと承知していた。

 指輪を受け取ったクゥリは、その効果に驚いたように目を見開く。

 

「受け取れない。空き瓶と交換なんて駄目だ。相応の額で取引させてくれ」

 

「良いのよ。たまには私の……わ、わわわ、私の……私の『善意』を受け取って!」

 

 今にも崩れそうな笑顔で指輪を押し付ければ、クゥリは感謝を込めた微笑みを描く。

 

「そうか。シノンは……『良い人』なんだな」

 

 いいえ、私は『悪い人』です! 余りにも奇麗な笑顔に、シノンは罪悪感で押し潰されそうになる。

 

「さてと、そろそろ帰るか。麻婆豆腐を食べたいしな。もちろん、今日はオレの奢りだ」

 

「…………」

 

 感謝を示したクゥリに、シノンはいよいよ耐え切れず、空き瓶の正体を告げるべきだと唇を震わせる。

 

「ねぇ、クー。実はこの空き瓶だけど――」

 

「ああ、『エスト瓶なら好きにしてもいいぞ』。オレはどうせ低VITだから回復アイテムはそこまで要らないし、優秀な薬師もいるからな」

 

 ……は? シノンは思わずミュウのように『だうー』といった表情で口から魂に似た何かが零れそうになる。

 上機嫌に、まるで尻尾のように三つ編みを揺らしたクゥリは背中を向けて梯子に手をかける。

 

「HAHAHA! シノンが指摘しただろ? もう少し観察眼を対人に傾けろって! いやぁ! シノンがわざわざ『善意の取引』を持ちかけるなんて、絶対に無いだろうなぁって思ってさ! だから、よくよく瓶の形状を思い出してみたら、エスト瓶にそっくりじゃないか!」

 

「だ、だったら……もしも、私が取引に応じてたら……」

 

「指輪の時価分、きっちり満額支払ってたさ」

 

 振り返ったクゥリは、歓楽街のホステス顔負けの小悪魔フェイスで告白する。

 やられた! クゥリの大根役者っぷりを知っているシノンは、まさか彼が演技をしているなど欠片も予想していなかった。これが戦闘だったならば、喉を奇麗に裂かれていてもおかしくない程に、まんまと騙されたのである。

 頬を膨らませたシノンであるが、すぐに自分には損が無いことに気づく。

 クゥリは1000万コル、あるいはそれ以上の額は付くだろうアイテムを100万程度の指輪と交換した。この時点でクゥリの損だ。そして、仮にシノンが指輪を正規価格で売っていた場合、更に100万コルの損だ。

 クゥリが得たのは、無意味な駆け引きのスリルと騙すのに成功した快感だけだ。それはエスト瓶を失う代償としては、余りにも軽過ぎる。

 

「本当に……貴方は何なのよ?」

 

 損得勘定が出来ないのか。あるいは損だと分かりながらもシノンと『じゃれる』ことを優先したのか。はたまた、本当にエスト瓶には興味が無かったのか。

 

 

 

 縦穴から出たシノンは、少しだけ楽しそうな笑みと共に先んじて待っていた、黄昏の光を背負うクゥリを見て、どうでもいいかと深く考えることを止めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 モノの価値は相対的なものだ。エスト瓶よりもオレにはこの指輪の方に惹かれるものがあった。

 音楽。それは多くの人間が『幸せ』を感じる要素だ。オレも奇麗な演奏を聞けば気分も和むし、音楽からオレの『幸せ』を探るのも悪くないと思えたのだ。

 それにカイザーの兄貴が貸してくれた官能小説には興味深い記述もあった。この小説に登場するのは新進気鋭のアイドルなのであるが、それが徐々にプロデューサーの手によって……というストーリーである。彼女が好きだった幼馴染は指を咥えて彼女が徐々に変わっていく姿を見ているしかない、というのがこの官能小説の肝らしいのだが、オレにはまるで理解できる部分が無かった。人間性が足りないのだろうか?

 まぁ、ストーリーの内容はともかくとして、この官能小説に登場する女の子は、歌で皆を幸せにしたいと望むキャラクターだ。つまり、歌には『幸せ』が多く詰まっているとも言い換えられる。

 残念ながら、オレは壊滅的な音痴なので、せめて演奏くらいは……と思い、≪演奏≫スキルの代用となるこの指輪は非常に有用だった。

 

「貴方の何を考えているか分からないところ、嫌い!」

 

「はいはい」

 

 シノンのオススメの中華料理店【北京出張店】。ちなみに店主が中国人というわけでもない。ごく普通のモヒカン男である。ちなみに店員も店主も含めて棘付き肩パットというチョイスなのは何なのだろうか? 味で勝負できないから外見の奇抜さで勝負しているのだろうか? その割には内装が普通なのだが?

 そして、我らがシノンさんであるが、店に着くなり酒を要求され、料理が並ぶより前にすっかり出来上がってしまっている。この酒、かなり強いようだな。オレは味覚が破壊された影響か、酒にも段々酔えなくなっているようだ。まぁ、あくまで仮想世界の酒だからな。

 

「オレには本当に要らなかっただけだ」

 

「それ、普通じゃないでしょ!? 時価1000万以上よ!? 貴方はモノと情報の価値が分かって無いわ!」

 

「分かってるさ」

 

「全然分かって無い! 大体ね! 貴方はいつも本音を隠し過ぎなのよ!」

 

「常に本音がオープンなんて、それこそ気持ち悪いだろ」

 

「グローリーをもう少し見習ったらどう!? 彼くらいに大っぴらに本音をぶちまけなさいよ! そりゃね、私だって社交的なタイプじゃないわよ!? でも! これでも! 必死に努力してるのよ! この前の太陽の狩猟団主催の夕食会でも――」

 

「すみません。餃子のお代わりを彼女に。あと麻婆豆腐はまだですか?」

 

「話を聞きなさいよ~!」

 

 そうかそうか。シノンは酔ったら絡むタイプだったか。クールビューティの称号を返上しないといけないくらいに話しまくる彼女は新鮮……新鮮か。シノンについての記憶も随分と灼けてしまっているのだが、こう感じるという事は、オレはシノンがここまで酔った所を見たことが無いという事かもしれないな。

 しかし、ヨルコさんもそうであるが、静かに酒を飲める女はいないのだろうか? グリセルダさんの記憶は完全に灼けてしまったので、彼女は外見通りの大人の女の振る舞いを期待したいものである。

 

「それで? 夕食会が何だったんだ?」

 

「サンライスがいきなり……演奏して歌えって……評判良くて……つい調子に乗ってギターソロを……そしたら週刊サインズに歌手デビューなんて記事を書かれて……否定しようにも話が大きくなり過ぎて……!」

 

「すみません、彼女にもっとお酒を」

 

 顔を手で覆ってすすり泣くシノンを見ていられず、ストレスを吐き出せと酒を追加注文する。ところで麻婆豆腐はまだですか?

 

「でも良かったじゃないか。傭兵を止めても食べていけるぞ」

 

 DBOには現役アイドルのマユやラビズリンがいる。他にも音楽活動をしているプレイヤーは多い。歌という形で、常に死と狂気が隣り合わせのDBOにおいて、確かな癒しと娯楽を届けている彼らには敬意を覚える。

 

「それにユージーンも確か自分のバンドグループを持っていたはずだし、2足の草鞋でもいけるだろ」

 

「ねぇ、しれっと私のデビュー前提で話を進めないでもらえる? そりゃ、私だって息抜きで演奏して歌うのは嫌いじゃないわよ? 現実世界では縁が無かったけど、DBOだからこそ何か新しいことを始めたいって思って≪演奏≫と≪作曲≫を取ったわけだしね」

 

「フレーバースキルも何かと役立つぞ。必須のイベントも多いし」

 

「……貴方のそういう思考、『彼』の『相棒』だったのも納得ね。でも、『彼』は≪釣り≫を持ってるわよ。かなりの腕前よ」

 

 やっぱり『アイツ』は≪釣り≫を取っていたか。まぁ、SAOでも釣り好きだったしな。

 フレーバースキル。それは攻略する上では重要性が乏しいスキルだ。≪料理≫や≪釣り≫などが該当する。精神安定の意味でも、こうしたフレーバースキルを獲得しているプレイヤーは多い。特に≪料理≫は大人気の部類だ。NPCのメシは余程高額でもなければ美味さは期待できないからな。まぁ、それなりのコルを支払えば、そこそこの味とは巡り合えるのだが、現代人の舌を満足させるものにはなかなか出会えない。

 それにスキルが無ければクリアできないイベントも多い。たとえば、踊り関係のイベントでは、≪ダンス≫スキル未所持のプロのダンサーよりも、スキル所持の素人の方がイベント上では高評価を得られるのだ。

 あとはシステムアシストがあるので、自前の技能が無くてもある程度何とかなる。たとえば、ヴァイオリンなんて弾いたこともない素人でも、システムアシストによって華麗な演奏が可能になるらしい。しかも、それはソードスキルのシステムアシストとは違い、とても自然に体が動くというのだから、多くのプレイヤーを魅了するのも当然だ。

 更に言えば、そうしたシステムアシストは学習効果も高く、短期間でハイレベルの技能を会得できる。これはVRにおける高速学習効果の賜物らしい。

 グリムロック曰く、VR環境においては脳の学習作用が高められ、短時間で多くの技能・学問を修められるとのことだ。

 剣の扱い1つを取っても、本来は何年もの地道な鍛錬が必要とされる。言われてみれば、武術の心得なんて持ち合わせていない一般人がVRゲームで戦えるように開発されたのがソードスキルだった。これによって、まるで達人のようにキレのある動きで攻撃を繰り出すことが出来る。だが、スタミナシステムのせいでソードスキルを安易に撃てないDBOでは、より本人の技量が求められる。

 

『上位プレイヤー程に高VR適性者なのは、反応速度による生存力上昇だけではなく、高VR適性による短期間学習効果のお陰だろうね。VR環境と本人の才覚が極限まで高められる生死をかけた戦場。この2つがプレイヤーの戦闘能力を飛躍的に引き上げていることは間違いない。だからこそ、クゥリ君の異端っぷりが増々目立つんだけどね』

 

 ちなみにVR環境で得られた技能がそのまま現実世界の肉体に反映されるかと言えば、どうやら違うらしい。VR適性が高い程に『本来の肉体以上にアバターの方が動かしやすい』という弊害が生じる。そもそも現実世界の肉体は脳だけで動いていない。全身に張り巡らされた神経が不可欠だし、筋肉も当然ながら必要だ。そのズレを克服するには、結局は現実世界でも相応の時間を割かねばならない。特に肉体をフルに使うスポーツや武術は尚更だ。

 だが、それでも現実世界だけで技能取得するよりもずっと短時間で済むらしい。故に各国の軍隊はVRを訓練に取り入れる傾向にあるらしいともグリムロックは語っていたが、オレが想像している以上にVRというのは軍事転用が可能な技術のようだ。思えば、吹き溜まりでも現実世界では人間搭乗のロボット兵器が出現しているらしいしな。SFがSFではない世界が現実世界に広がってると思うとどんな反応をすべきか困る。

 

「フレーバースキルか。オレも何か獲得してみようかな」

 

 プレイヤーが得られるスキル枠は有限だ。故にこの指輪の価値はかなり高い。特にフレーバースキルは活躍する場面が全くないとは言い難いが、少なくとも戦闘ではほとんど役に立たないに等しいのだ。この指輪のお陰で≪演奏≫を獲得しないで済むというだけでも、想像以上の価値があるのは確かだ。それこそユニーク級の指輪である。

 

「へぇ、だったら≪料理≫なんてどう? それで私に美味しいご飯を作りなさい」

 

「≪料理≫はあまり興味ないな。それよりも店員さん、麻婆豆腐はまだですか?」

 

 酒で顔を赤らめたシノンが食いつき、オレは真剣にどんなスキルを獲得したものかと腕を組んで悩むも、そもそもレベル120なんて先のまた先と思えば、じっくりピックアップする時間はあるかと考えるのを止める。

 ……いや、これが駄目なのだ。もう少し……もう少しだけ深く考えてみよう。

 

「オレって音痴だし、≪歌唱≫なんてスキルは無いか?」

 

「聞いたことないわね。ユニークスキルに可能性を求めて探してみる?」

 

「そこまで興味はない」

 

「貴方って奇麗な声だし、音痴さえ直せば歌手デビューできるわよ」

 

 シノンさんはどうやら自分の歌手デビューをオレに肩代わりさせたいようだ。そうはさせんぞ。

 今では獲得条件も明らかになった≪銃器≫や≪カタナ≫のように、特定のイベントや条件を満たさねば獲得できないEXスキルもあるし、≪歌唱≫が無いとは断言できない。だが、1年以上も経った現在でも発見されていないともなれば、期待を持つものではないな。

 

「でも、本当に勿体ないわね。変声期を迎えたとは思えないくらいに、高い声じゃない。まぁ、男に聞こえないこともないけど、こう何て言うか……」

 

「女性声優が少年役をやっているような声?」

 

「そう! それよ!」

 

 棘付き肩パットの店員さんの優しい助言で、アルコールですっかり気分が良くなった様子のシノンは納得したように頷いた。世紀末感漂う外見のくせに、なんと紳士的な店員だろうか。やっぱりアレか? ただのユニフォームなのか? 中身はDBOでも奇特なくらいに奇麗な聖人ばかりなのか? あと、麻婆豆腐はまだでしょうか?

 

「……ねぇ、本当に男なの?」

 

「期待を裏切って悪いが、正真正銘の染色体XYだ」

 

「そう。でも、アレは笑ったわね。ほら、貴方の女装よ。本当に笑ったわ」

 

 女装? オレが女装? 思い出し笑いするシノンには悪いが、全く記憶にない。灼けてしまったか。そういえば、オレの悪名に女装癖というのがあるのは非常に気になっていたが、DBO中にオレが女装癖と思われるような事件があったのだろうか?

 ……詮索するのは止そう。オレが女装したなんて、それこそDBOプレイヤー全滅の危機くらいの事件だったに違いない。そうだったと信じたい。

 

「ねぇ、教えて。『彼』とはSAOでどんな風に過ごしてたの?」

 

「……あまり憶えてないな」

 

 正確に言えば、他人に聞かせるには些か穴だらけの思い出ばかりなんだがな。『アイツ』関係のヤンヤンガール案件ならば腐る程思い出せるんだが、それ以外は戦いの記憶ばかりだ。

 だが、シノンの酔って熱が籠もった視線で見つめられ、また立ち止まって聞き耳を……いや、それどころか≪聞き耳≫スキルを使ってる疑惑の店員や他の客たちに気づき、期待には少しくらい応えるべきかと嘆息する。

 

「心折れても立ち上がる『強さ』を持っていて、どれだけの苦境があろうとも最後は前を向いて歩き出せる。そんなヤツだったよ。剣の腕前も超一流だけど、それだけに頼るような奴じゃなかった。あの手この手を使って必死に戦い抜こうとしていたよ」

 

「そうなの? 意外だわ」

 

「『アイツ』が変わったのは……いつからだったのかは憶えていない。攻略組の希望の光。ユニークスキル≪二刀流≫を持つ【黒の剣士】。そんな押し付けられた期待に応えようとして、そうであろうと振る舞おうとして、やがて≪二刀流≫に固執するようになっていった」

 

「…………」

 

「だからシノン。『アイツ』の事が気になるなら、『英雄』なんて称号に振り回されることなく、ありのままの姿を見てやってくれ。『アイツ』の優しくて、ちょっと甘ったれで、格好つけたがって、ゲーム馬鹿で、あれこれ悩んでは俯いて、意外と打たれ弱くて、それでも……それでも、最後は自分が正しいと信じた道を真っ直ぐ前を向いて歩いて行けるヤツだからさ。そんな『強さ』が……オレは……友人である『オレ』にとっては、何よりも誇らしかったはずだから」

 

 ちゃんと言葉にする大切さ。これで良いだろうか? シノンも含めて静まり返っている店内に、オレは失敗を悟る。≪コミュ力≫スキルが欲しい。ユニークスキルであるならば、どれだけのコストがかかっても必ず入手するんだがな。

 

「麻婆豆腐……お待ち!」

 

 なんか目に涙を浮かべた店員さんがサムズアップと共に麻婆豆腐を……って、炒飯!? これは麻婆豆腐じゃなくて炒飯だぞ!? 激辛麻婆豆腐は!? 少しは味覚が刺激されるんじゃないかと期待していたんだが!?

 唖然とするオレを置いて、シノンは何の指摘もなく炒飯を食べ始める。シノンさーん。麻婆豆腐……麻婆豆腐をオレ達は注文したはずですよね?

 

「貴方の言葉は忘れない。『彼』のあるがままの姿をこの目に映してみせる」

 

「あ、うん。それよりも麻婆豆腐は何処に――」

 

「ありがとう。これで私も前に進める気がする」

 

「それは良かった。だけど麻婆豆腐は――」

 

「さぁ、今日は吐くまで飲んで食べるわよ! もちろん、クーの奢りでね!」

 

 ……オレの麻婆豆腐。いや、まだチャンスがある。明日にでも……って、今日で終わり!? メニューに今日で麻婆豆腐は終わりって注釈が!? 麻婆豆腐って季節モノだったか!? いや、違うだろう!? 年中やってるはずだろう!? モヒカン店主さん、是非とも釈明をお願いします!

 熱々の湯気が昇る炒飯を頬張るシノンを見て、とりあえずはこれで良いかと息を吐く。もちろんだが、炒飯から何1つとして味を拾うことは出来なかった。だが、シノンが喜んでいるならば、これでいいのだろう。

 

「ねぇ、ところで指輪には何を設定するの?」

 

「まだ決めてない」

 

 あくまで指輪で設定できる楽器は1つ。≪演奏≫ならば熟練度の上昇によって複数の楽器を使用できるようになるんだがな。それに楽器にもランクがあり、たとえばギターでもランクによって品質が全く異なる。この指輪では最低ランクしか使用できない。また初期選択できるものしか選べない。

 まぁ、そう美味い話があるわけないか。スキルを代用する武器や装飾品は複数確認されているが、完全代用できるものは乏しい。楽器の熟練度上昇もないので、イベントで活用できるものでもない。この指輪は『個人で楽しむならばご自由に』程度のものだ。

 

「和楽器は無理か」

 

「へぇ、渋いわね。和太鼓とか?」

 

「琴だよ」

 

「貴方がまた1つ分からなくなったわ」

 

 誰かに教わっていた……気がする。少なくとも琴は弾けると確信がある。だが、残念ながら初期選択の楽器に琴は含まれていない。

 と、そこにニコニコと笑ったヤツメ様が指差してアピールする。どうやら、これを選ばせたいようだな。

 

「……ピアノがいい」

 

「丁度そこにピアノがあるし、1曲弾いてみたら?」

 

「中華料理店にピアノって……普通に置いてあるな」

 

 棘肩パット店員3人がここぞとばかりにアピールするピアノがある。如何にも裏通りにあるような庶民的中華料理店風の店内にどうしてピアノが? しかも何故に高級レストランも顔負けのグランドピアノが? この店は何を目指してるのか是非とも教えてもらいたい。

 指輪を装備して……っと。これでオレも疑似的ではあるが、≪演奏≫持ちというわけか。少し擽ったい気持ちだ。

 

「最初はシステムアシストは強めの設定が良いわよ。それでも十分、自分の指で弾ける感覚が味わえるわ」

 

「いや、オフで構わない」

 

「もしかして、ピアノも習ってたの?」

 

「……さぁ、どうだろうな?」

 

 ピアノを教えてもらった記憶はない。だが、ヤツメ様はオレの隣に腰かけて自信満々だ。『血』がピアノの弾き方を喰らっているようだ。

 ヤツメ様の導きのままに。本能に従い、体を動かす。自分でも驚くほどにピアノは旋律を紡ぐ。

 奏でるのはピアノソナタの月光。世界的に有名な曲だし、聞き覚えのある人も多いはずだ。

 弾き終えれば、静まり返った店内で拍手は……無い。まぁ、そこは期待していないさ。重要なのはシノンの感想だ。

 顔を俯けていたシノンは、まるで感動したように肩を震わせ……感動しているわけじゃない? なんか様子がおかしい。泣きじゃくっているが、どうにも変な様子だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……生きていて、ごめんなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 WHAT!? シノンはダムが決壊したように大泣きしたかと思えば、店内にいたオレを除く全員が、まるで人生のどん底を味わっている最中のような絶望フェイスで泣き始める。

 

「鬱だ」

 

「俺が呼吸した分だけ酸素が減る。地球に申し訳ない」

 

「モヒカンでごめんなさい。中華料理店の店長なのにモヒカンでごめんなさい」

 

「世紀末コスチュームでごめんなさい」

 

「ミスティアさんのパンツが欲しいなんて依頼を出してごめんなさい」

 

「【渡り鳥】ちゃんの三つ編みをクンカクンカしたくて堪らなくてごめんなさい」

 

「YARCA旅団残党壊滅の為の潜入スパイだったのに、感化されて同志になってしまってごめんなさい」

 

「そうだ、自殺しよう」

 

「付き合うぜ」

 

「俺も」

 

「僕も」

 

「私も」

 

 ……な、何が起こっているんだ!? 色々と聞いてはならない発言もあったような気もするが、この際だ。放っておこう! とりあえず、泣くばかりで、他に比べれば正気を……正気なのか!? 魂が抜けたように虚ろな目をしたシノンの肩を揺する。

 

「シノン! しっかりしろ!」

 

「素晴らしい演奏だったわ。プロ顔負けね。貴方ならきっと世界一の……人類史に残るピアニストになれるはずよ。それはそうと……鬱だわ。私みたいな根暗女が『彼』の『相棒』になろうなんて、太陽の上で土下座しないといけないくらいの恥知らずじゃない。死ぬべきね。死ぬべきよね。今すぐ死んで蝉に転生して、10年間は地中で反省すべきよね」

 

「蝉転生か。だったら俺はノミに転生するぜ」

 

「じゃあ、私はゴキブリね」

 

「あ、ズルい。だったら僕はダニだな」

 

「おいおい、ここはアメーバだろ?」

 

「植物プランクトンになりたい。赤潮になって漂いたい」

 

「もうミジンコでいいや」

 

 ネガティブの……ネガティブの嵐が吹いている。何が起こっているんだ!? ヤツメ様、説明をお願いします!

 狩人が作った麻婆豆腐を涙目で完食したヤツメ様は、口直しとばかりにLLサイズのチョコレートシェイクを両手で持ってごくごくと飲むと、笑顔で胸を張った。

 

(ワタシが戦いと殺し以外に役立つはずないじゃない!)

 

 ……ハッ! そうだ。ピアノの演奏はヤツメ様の導きのままに行ったものだ! 今まで1度として、戦いと殺し以外でまともに機能した試しがないのに! その時点で気づくべきだったのだ!

 音楽とは感情に訴えるツールとして昔から活用されてきた。人間以外の生物でさえ求愛の手段に用いるのだ。

 

(殺意と音楽のコラボレーション! これこそ、貴方の秘めたる『力』……ジェノサイドスキル≪虐殺演奏≫! アナタの演奏を聞いた者は無条件で精神不安定になって自殺衝動に駆られる!)

 

 そんものあってたまるか、と狩人のチョップがヤツメ様に炸裂する。頭部陥没どころか股まで両断されたヤツメ様は狩人に引き摺られて消えていく。

 ……いやいや、まさかね! そんな自前スキルあるはずが……って、いつの間にかシノン達が和気藹々と絶望フェイスでどんな自殺をするかで盛り上がっている!?

 まずい。これはまずい! どうにかして止めねばならないが、ブレーキをかける言葉が思いつかない!

 

 

 

 

 

 

 

 

「歌は世界を救う! 心に『絶望』をもたらす暗黒の旋律に立ち向かうのはアイドルの役目! 歌って踊れて戦える純和風なんちゃって大和撫子系アイドル・マユユン参上!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中華料理店のドアが勢いよく開き、ラジカセ片手の和装美少女アイドルのマユが乱入する。途端にゾンビの如く虚ろだった店内の人間がうーうー言いながら、まるで浄化の光を求めるように彼女に群がる!

 このままでは危うい! そう思われた時、シノン達を吹き飛ばしたのは、眩しいばかりの赤い褌を靡かせた変態だった。

 

「フッ! 助太刀しますよ、美少女アイドル! 騎士として! 騎 士 と し て ! 騎 士 と し て !」

 

 オレが寝ている間にDBOはどうなってしまったのでしょうか? 歌って踊れて戦えるアイドルはスタンド付きマイクを魔法のステッキのように振るい、グローリーは清々しい程のシックスパックの腹筋をYポーズで披露している。

 

「今すぐ暗黒の旋律から解放してあげる! 届け、マユのニューシングル!『ラブリーエンジェル☆フェザー~ソードマンに最高のスマイルを~』……歌いまーす! ミュージック、スタート!」

 

 え? 何でスポットライトが? グローリーの奇跡? 魔力を消費してスポットライト代わりに奇跡を発動させてるの?

 マユの喉から溢れたのは、まさに恋する乙女のような甘々の歌声。途端に自殺願望ゾンビ状態だった店内の人々が苦しみ始める!

 

「シノのん、目を覚まして!」

 

「……マユ。わ、私は何を……暗い……暗い闇に囚われていたの。それで……」

 

「もう終わったんだよ。ごめんね、シノのん。本当はデビューなんて嫌だったよね」

 

「違う……本当は違う! 私がマユと同じステージに立つなんて……怖くて……どうしても勇気を持てなかっただけ! でも、マユの熱いハートが私にも届いたわ! 私……デビューする! 歌手として……いいえ、アイドルとして!」

 

「シノのん!」

 

「マユ!」

 

「「私達……ずっと友達だからね!」」

 

 拍手喝采、感涙洪水。グローリーが無駄にぷるるんとお尻を震わせながら、抱き合う女の子2人の後ろで『漢』の背中で友情を讃えている。

 

「いやぁ、間一髪でしたよ! 実はこの近くでマユユンの新曲のプロモーション撮影がありまして! マユユンが暗黒の旋律の波長をキャッチしていなければ、どうなっていたことか。しかし、絶望を生む暗黒の旋律……くっ! 暗黒楽団はマユユンと私の活躍で壊滅したはずなのに、活動を再開していたとは! この私も油断していました!」

 

「心配いらないよ。マユ、戦うもん! 皆に『希望』の歌を届ける! マユは魂の限りに歌うよ!」

 

「及ばずながら、騎士たる私もサポートさせてもらいます!」

 

「貴方達だけにカッコイイ真似させない。これからは私も一緒に戦うわ!」

 

 おい、このスポットライトは何処から降り注いでるんだ? グローリーの奇跡じゃないみたいだぞ。なんか、3人の周りだけコンサートのステージみたいに煌びやかに見えているんだが、気のせいだよね? 気のせいだと言ってよ、茅場の後継者。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで【渡り鳥】さん、売却したいアイテムとはこちらですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 シノンがマユやグローリー、あと中華料理店の店主・店員・お客の皆様と祝勝会で飲みに行く様を見届けた後、オレはミュウを呼び出して指輪の売却を持ちかけた。

 

「既に使用可能楽器は設定済み……価値は下落していますね。30万コルで如何でしょう?」

 

「好きにしてください」

 

「……何かあったのですか?」

 

「聞かないでください」

 

 仰々しいのも嫌なのでサインズの食堂にて、オレとミュウの商談は行われた。

 きっとこの指輪のせいで皆おかしくなったんだ。オレが演奏さえしなければ、こんな事にはならかったんだ。もういい。こんな指輪はさっさと売り払ってしまいたい。

 思いっきり買い叩かれたような気もするが、こんな指輪は一刻も早く手放したい。いっそタダで譲ってもいいのだが、それだと逆に怪しまれるので、とりあえずは言い値で売却を決定する。

 シノンは酒に酔ってただけだよね? グローリーはいつも通りの馬鹿だっただけだよね? マユは……正直知らん。普段からあんなノリの女の子なのだろう。

 

「欲しい情報があるのですが」

 

「何でしょう?」

 

「暗黒の旋律や暗黒楽団というキーワードに心当たりはありますか?」

 

「DBOの闇……とだけ申し上げておきましょう。暗黒楽団の目的は暗黒の旋律でプレイヤーを絶望させて負のエネルギーを集め、邪悪音楽帝王ゼツボーンの復活を――」

 

「もういいです。聞いたオレが馬鹿でした」

 

 ミュウに真顔で返答され、オレは珈琲を飲んで今日のことは奇麗に忘れようと決心した。

 

「ちなみに情報料は30万コルです」

 

「…………」

 

「冗談ではありませんよ? 邪悪音楽帝王ゼツボーンの名前にはそれだけの価値があります」

 

「…………」

 

 オレが寝ていた2ヶ月の間に何があったのか、本当に気になるぞ。DBOではどんな裏バトルが繰り広げられていたんだ!?

 商談を終えたミュウは離席……せずに牛丼を注文する。オレはサインズのオリジナルブレンド珈琲だが、味はまるでしない。

 

「ところで、シノンが歌手デビューするという話ですが……」

 

「さすがは【渡り鳥】さん。お耳が早いですね」

 

「衣装は是非ともミニスカートのアイドル衣装にしてあげてください。どうやら、アイドル願望があるみたいなので」

 

「それは意外でした。衣装班にすぐにでも指示をしておきます」

 

 ギラリ、と眼鏡を光らせたミュウの動きは迅速だった。オレはミュウと少しだけではあるが、友好の2文字を築けるような気がした。うん、気の迷いだよね。絶対にそうだ。

 珈琲を飲み終えたオレは、並程度の牛丼を半分程でギブアップしているミュウを残して席を立つ。

 

「【渡り鳥】さん、太陽の狩猟団は貴方と末永く良い関係を築きたいと願っています。これからもよろしくお願いしますよ」

 

「ええ、オレも同意見です」

 

 今回の依頼の真意はオレには分からない。だが、ミュウには何かしらの計算があっての事だろう。大ギルドがどんな陰謀を企んでいようともオレがやるべき事は変わらない。引き受けた依頼は必ず果たす。それだけだ。

 ……疲れた。とりあえずは傭兵準備室に……いや、我が家だ。あんな文化的な空間に帰っても休まらない!

 想起の神殿を経由し、我が家があるトリニティタウンの記憶に到着する。そうだよ! これだよ! 精気のない顔をしたNPC! 油の香りが漂う蒸気! まさに終末感が漂う近未来的な街並み! これこそがオレに微かな安心感をもたらしてくれる!

 さぁ、もうすぐ我が家だ! ただいま、マイホーム! オレを最低限の文化的な生活を送れるギリギリラインの殺風景でお迎えしてくれ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マイホームのロックを解除したら、そこにはいきなり地下へと続くエレベーターだけがありました。これはどういう事でしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いやね、グリセルダさんが何かしたのは聞いていたけど、内装が全て消えているんですが? 殺風景どころか、古臭いエレベーターだけが設置されているんですが?

 オレの記憶違い……まさか灼けただけで前々から……いやいやいやいや! 絶対に違う!

 とりあえずはエレベーターに乗ってみることにしよう。ボタンを押せば、エレベーターはゆっくりと地下へと向かう。そ、そうか! 奇襲に備えて改築してくれたのか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エレベーターがたどり着いた釣瓶落としの涼やかな音と共に、純和風の邸宅がオレを待っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教えてくれ、グリセルダさん。地下を増築したのは100歩譲って理解できる。どうして、わざわざ地下に邸宅も設けたのでしょうか?

 オレの武器庫……武器庫は何処? アイテム備蓄は? トレーニングルームは? ねぇ、何処? 何処? 何処!? ここか!

 

「とりあえず装備は無事か。アイテムも問題ない」

 

 だが、この文化的過ぎる空間は何だ? 枯山水まであるじゃないか! 何を考えてるんだ、グリセルダさん!

 落ち着け。とりあえず落ち着け。そうだ。住めば都という先人の遺したありがたい言葉もあるではないか。存外、暮らしてみれば……いや、無理だ。なんで純和風なのに、寝床は天蓋付きベッドなんだよ!? どうして風呂はローマ風ジャグジーなんだよ?! それと酒蔵が無駄に充実しているのはヨルコさんの手回しだな!?

 

「……引っ越そう」

 

 縁側に腰を下ろし、地下なのに見える星空を……あ、これってプラネタリウムなのね。このコントロールユニットで好きに星空を変えられるのね。うわぁ、凄ーい。うん、要らない。

 時間が出来たら物件探しだな。オレらしい、人目につかない、何処かひっそりと暮らせるような、最低限の文化的な生活が送れるマイホームを探すとしよう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ラジードくん、アタシは怒ってます。何故だか分かりますか?」

 

 腕を組んだミスティアに睨まれ、ラジードは頭を掻きながら目を逸らす。

 

「どうして1人で突っ込んだりしたの!? 下手しなくても死んでたかもしれないんだよ!?」

 

「結果的に勝てたからいいじゃないか!」

 

「結果は関係ない! 何であんな無茶をしたの!?」

 

 ミスティアの涙目の怒声に、確かに今回は自分が悪かったかもしれないとラジードは反論が飛び出しそうな口を閉ざす。

 ラジードとミスティアは、アルヴヘイムで発見された新たなミニダンジョンの攻略に赴いていた。既にダンジョンのマッピングは8割が完了しており、彼らの役目は最奥のネームドの撃破だった。

 総数24名。ラジードは黒霧の塔の探索を控えた自分の部隊を伴わず、ミスティアがリーダーを務めるパーティに組み込んでもらった。

 出現したのは<処刑斧の亡霊アグリッタ>。ゴースト系であり、実体のある巨大な大斧をまるでポルターガイストのように操るネームドだ。HPバーも2本しかなく、攻略部隊の実力とトッププレイヤー2人が揃っていれば、犠牲無く倒せるはずだった。

 だが、アグリッタのHPバーが1本になった時点で、新たに<処刑槍の亡霊ジミー>が出現した。こちらは槍に憑いた亡霊であり、HPバーを3本持ち、悪霊犬に引かれたチャリオットに乗って暴れ回る強敵だった。

 新たなネームドの乱入は珍しくない。問題だったのは、ジミーの持つ能力だ。ジミーが存在する限り、アグリッタは暴走モードになるという点だ。攻撃力・防御力は大幅に上昇し、激化する攻撃は最前線で戦い続けた上位プレイヤーでも容易に飛び込めるものではなかった。

 そこでラジードは単独でアグリッタを引き受け、その間にミスティアを主力にして高速で動き回るジミーの撃破する案を出した。ミスティアは反対したが、ラジードは彼女の了承を待たずにアグリッタと対峙した。

 そして、ラジードはアグリッタを撃破した。アグリッタは確かに猛攻であったが、処刑者スモウや【四騎士の長】オーンスタインには劣る。ましてや、最後に立ちはだかった【竜狩り】オーンスタインに比べるまでもなかった。

 激しい攻撃には両手剣で丁寧にカウンターを決め、距離を取られたら双剣に切り替えてラッシュしながら詰める。見る者が見れば、それは【渡り鳥】の超回避能力が可能とするカウンター戦法と【聖剣の英雄】の二刀流剣技の模倣であると見抜けるだろう。

 他のプレイヤーが唖然としている中で、ラジードはミスティア達が攻めきれていなかったジミーの撃破にも加わった。HPバーが削られる度に能力を解放していくジミーに、ラジードは1歩も引かずに喰らい付いた。

 だが、最終形態の時点でスタミナ切れ間際となり、察知したミスティアが退避を求めた。ラジードは聞こえていながらも、頭の芯まで燃え尽くすような闘争心に駆られて前に出続けた。

 そして、最後はガードし損ねて、ジミーの突きが両手剣を削りながら腹に突き刺さった。だが、それでも止まらなかったラジードは、血を吐きながら双剣の片方を投擲。ジミーの頭部に命中させ、ついにスタンさせたところで、腹に槍が突き刺さったまま、もう片方の剣で最後のスタミナを使って発動した≪片手剣≫のソードスキルであるバーチカル・アークでトドメを刺した。

 戦果で言えば、2体のネームドの内の実に7割以上のHPをラジード単独で削った計算になった。戦果に応じて得られる経験値はもちろんトップであり、ラジードはレベルアップを果たした。

 帰還する間は、同僚に称賛を浴びていたラジードであるが、終わりつつある街の支部に到着するや否や、ミスティアに手を引っ張られ、彼女の私室に連れ込まれると強烈なビンタを受けた。

 そして現在……ラジードはミスティアが何を怒っているのか、正しく理解していながらも、それを受け入れることが出来ない闘志の燻ぶりに奥歯を噛む。

 

「相手はネームドなんだ! たとえミニダンジョンでもレベル100級ともなれば脅威だって分かるだろ!? 倒せる奴が前に出るしかない! そうしないと犠牲が増えるじゃないか!」

 

「強い人がリスクを背負うのも戦略の内なのは分かってる! でも、それはラジード君1人が背負うリスクなの!? 違うでしょ!?」

 

「死人が出るよりマシだ!」

 

「ラジード君が死んだら意味ないじゃない!」

 

 頭では分かっている。ミスティアは正しい。間違っているのは自分だ。だが、ラジードはどうしても受け入れることが出来ない。

 アノールロンドの死闘。それは経験した者にしか分からない地獄だ。たとえ、幾多とネームドやボスと戦った経験のあるミスティアにも理解できるものではないだろう。

 守りたい人がいる。助けたいという意思のままに剣を振るう。圧倒的な【竜狩り】オーンスタインを前にして、ラジードがディアベルを守るべく動けたのはシンプルな信念だった。

 だが、現実はどうだ? アノールロンド戦後の初となったネームド戦において、ラジードの目の前で自分の部隊のメンバーが死んだ。あと1秒でも早く踏み込んでいれば庇うことが出来たはずなのに、守ることが出来なかった。

 闘志が滾る。自分の信念を貫き通すならば、あらゆる敵を粉砕しなければならない。守りたい人を死なせない為には、他人が背負うリスクを自分が引き受けるべきだ。より前に、前に、前に出て最も危険な場所で敵と対峙すべきだ。

 

「ネームド単独討伐依頼は、サインズでも厳重な審査の上で受理される。どうしてなのか分かる? ユージーンさんやUNKNOWNさんは、ボスだって単独討伐できるくらい強い。だけど、彼らだって人間なの。『出来るかもしれない』なんて希望的な予測で、危険なネームドやボス戦のリスクをたった1人に背負わせるなんて間違ってるからだよ! そんな甘い予測で人間1人が死ぬかもしれない! だから――」

 

「そんなの建前じゃないか! 結局は、傭兵の過ぎた戦果に相対して、大ギルドの評価が下がるのを嫌がっているだけだろう? そりゃ扱いに困るよな! 何十名も投入して、死者が出て、やっと倒せるような敵を1人で倒しちゃうんだからな! でも、彼らこそが『英雄』じゃないか! 彼らが戦った分だけ犠牲が減るんだ! DBOのボスやネームドはどんどん強くなっている! フロンティア・フィールドは尚更だ! 弱い人たちは前に出るべきじゃない! 戦える人が……強い奴が敵を倒すべきなんだ!」

 

「最初は誰だって弱い! 最初から強い人なんていない! ラジード君が1番分かってるでしょ!?」

 

「強くなる前に死ぬかもしれないじゃないか!」

 

 そうだ。ラジードは弱かった。どうしようもない程に弱かった。それでも、多くの死闘を経て成長した。

 分かっているのだ。自分だけがリスクを背負って解決する問題ではない。代替可能な戦力……それこそが重要なのだ。唯一無二の突出した戦力に依存すれば、それが倒された時に脆弱性を露にする。だからこそ、たとえネームド単独討伐可能クラスのトップランカーであろうとも、あくまで攻略部隊と組ませて戦わせる。

 傭兵の3強。クラウドアースのランク1、ユージーン。聖剣の所有者、ランク9のUNKNOWN。【竜狩り】単独撃破者、ランク8のスミス。彼らに依頼を出せば、たとえレベル100級であろうともネームド単独討伐は可能だろう。だが、そこには想像を絶する死闘が待つ。1度でもネームドと対峙した者ならば、嫌でも単独討伐はどれ程の高みにある偉業なのか理解できるはずだ。

 彼らくらいに強くならねばならない。スミスと【竜狩り】オーンスタインとの戦いを目にしたラジードは尚更そう考えていた。

 

「ねぇ、どうしちゃったの? 最近のラジード君は変だよ」

 

「…………」

 

「教えてよ。アタシ……今のラジード君が分からないよ」

 

「僕は何も変わっていない。強くなりたいだけだよ」

 

 唇を噛むミスティアに、ラジードは背中を向けてこれ以上の会話は嫌だと拒絶を示す。

 

「明日は黒霧の塔の探索任務なんだ。クゥリに挨拶してくるよ」

 

「今から!? 駄目! ゆっくり休んで! 今日だって無理言って付いてきたのに!」

 

「これくらいなんともない!」

 

 ミスティアの心配を振り切り、ラジードは支部から飛び出すと、クゥリと待ち合わせしているサインズ本部に向かう。

 黒霧の塔の探索自体は、ほとんど期待らしい期待が込められた任務ではない。ミュウもクゥリとのコミュニケーションを重視するようにと命じられている。だが、ラジードは黒霧の塔のボスの正体を暴く意気込みで挑むつもりだ。

 黒霧の塔は特殊なダンジョンだ。モンスターの強さが一定ではないのだ。深部に向かえば向かう程にモンスターの強さは増していく。入口付近はせいぜいレベル40程度であるが、深部はレベル90にも匹敵すると見られている。

 強さが変動するダンジョン。それ自体は珍しくない。プレイヤーのレベルに合わせてモンスターの攻撃力・防御力が変動するダンジョン。深部に行く程に高難度化するダンジョン。時間帯に応じてモンスターの強さが激変するダンジョン。タイプは様々だ。

 だが、黒霧の塔は多くのギミックがあり、その1つ1つを攻略しなければ奥に進めないタイプのダンジョンだ。これまで太陽の狩猟団は再三に亘って探索部隊を送り込んでいるが、ボスが待つだろう最深部へのルートを発見できずにいる。

 あるいは、ボスも特殊な条件を満たさねば出現しないのか。ラジードは黒霧の塔のデータを必死に思い返す事で、自分がミスティアに酷い態度を取ってしまった後悔を押し込もうとするが、どうしても払いきれず、自己嫌悪で項垂れる。

 

「どうすればいいんだ?」

 

 街灯のポールに額を叩きつけ、どうしても消えない闘争心……より戦いと強さを求める渇望を抑え込もうとする。

 致命的な精神負荷を受容し、同時に行ったデーモン化による精神の変調。アノールロンド以来、ラジードは自分の闘争心の肥大化に苦しめられていた。

 どれだけ傷ついても敵の撃滅を優先する。自分の負傷を厭わずに攻撃し続ける様はもはや狂戦士に近しく、まるでデーモン化による暴走状態のようだ。日常生活ではそこまで問題が露呈することはないが、戦闘中は否応なく昂ぶり、戦闘後も戦い足りぬとばかりに荒れてしまう事が増えた。

 周囲はアノールロンドの死闘の影響と考えており、また今までとは違うワイルドな彼にどちらかと言えば好意的であるが、ミスティアは一貫して心配してくれている。

 アノールロンドの戦いで負った障害が尾を引き、ミスティアから相談を受けたサンライスにも長期休養を勧められ、1ヶ月近くの休養を経たが、その分だけ周囲に後れを取ってしまった。過酷な任務が欲しいとミュウに直談判し、教会剣でも積極的にレギオン狩りに参加してレベルは何とか追いついたが、その分だけミスティアとの間に溝を作ってしまった。

 

「最低だ。ミスティアは正しいのに、僕は……」

 

 ラジードを苦しめるのは矛盾だ。自分が信じた正義……プレイヤーを守る剣となり、完全攻略の礎となるべく戦うという信念は、肥大化する闘争心のせいで歪んでいっていると気づいている。それなのに自分を抑えきれず、あまつさえミスティアに逆ギレするなど恥ずべき事だ。

 加えてラジードを苛めているのは、聖剣騎士団が宣言した新たな完全攻略の指針だ。現実世界への帰還ではなく、仮想世界への永住を選ぶ。確かに大多数のプレイヤーがもはや帰るべき現実世界……肉体を持たないならば、ディアベルは正しい。彼は最多の幸福の為に現実世界への帰還に否定の立場を示した。

 だが、現実世界に帰ることを心の支えにしていたプレイヤーはどうすればいい? ラジードは教会で自分が現実世界に肉体を有することを確認済みだ。

 

(ミスティアはどうなんだ? 怖くて聞けない。もしも、ミスティアが帰るべき現実なんて無いなら、僕はどうすればいいんだ?)

 

 迷う。いいや、迷う『フリ』をしている。

 本当は既に決心してしまっている。ミスティアこそがラジードにとって帰るべき場所なのだ。ならば、彼女が現実世界に居場所などないならば、ラジードは覚悟を持って現実世界への帰還を諦め、彼女と添い遂げる選択をする。

 だが、その一方で今の自分には彼女の傍にいる資格はないと自責の念を抱いている。この肥大化した闘争心を何とかしない限り、ラジードはいずれ彼女の心に深い傷を負わせてしまうことになるだろう。

 気晴らしがしたい。今の自分を試したい。ラジードはクゥリとのデュエルを望む。

 教会剣として活動するUNKNOWNとも幾度となくデュエルをしているが、ラジードは未だ1勝もしていない。アルヴヘイム事件の解決にユージーンと共に大きな貢献をしたUNKNOWNは、かつてとは比較にならない程に実力と闘志を備えていた。

 より戦士としての高みに至ったUNKNOWN。その手に持つ聖剣には否応なく魅せられ、ラジードは彼に勝利して聖剣を奪い取る夢想を何度もしてしまう自分を恥じている。だが、そんな妄想すらも烏滸がましい程に、UNKNOWNの剣技は成長している。

 

『俺は武の頂に立つ。信念と矜持を持って立ちはだかった戦士を倒した以上、生き抜いて武の頂に立たないといけない。それが勝者としての責任であり、俺の誇りなんだ。彼らの最期を穢さない為にも、必ずたどり着いてみせる』

 

 仮面の向こう側でどんな顔をしているのか、ラジードには分からなかった。だが、責任と誇りこそがUNKNOWNに勝利を求める光り輝く執念を与え、それが彼に増々の成長をもたらしているような気がした。

 そして、UNKNOWNとは対極とも言うべき存在がクゥリだ。UNKNOWNが情熱を秘めた勝利の執念であるならば、クゥリの戦い方は敵を『狩る』と呼ぶに相応しい純然たる殺意の結晶であると、繰り返しのデュエルの中でラジードは実感していた。

 クゥリのDBO戦歴は多くが謎に包まれている。大ギルドの依頼を中心に受けているとされているが、ほとんど公表されることはなく、同じ傭兵でも彼の実力を正確に把握している者はいないとされている。バトル・オブ・アリーナで見せたのは、彼の全力からは程遠いものであると、デュエルの度にラジードは理解した。そして、『デュエル』という枠組みである限り、クゥリの本領を見ることは出来ないことも感じ取っていた。

 本気の殺し合い。命を奪い合う舞台でない限り、クゥリが本気で牙を剥くことはない。そして、デュエルでクゥリを下したとしても、そこには虚しい勝者の称号しかない。

 そうだとしても、クゥリと戦いたい。デュエルであるとしても、彼と戦えば何かが掴めるような気がするのだ。

 フレンドメールを飛ばせば、クゥリはサインズの新築マンションのトレーニングルームにいるとの事だった。明日の黒霧の塔の攻略に備え、専属鍛冶屋と最終調整に向けてトレーニングルームを貸し切っているらしく、デュエルにも応じる旨が返答された。

 

「ふーむ。しかし、よもやクラウドアースから離籍届を受理されるどころか、追放とはな。お前は全く期待されていなかったようだな。HAHAHA! これは予想外だった」

 

「その笑い方はギャグのつもりですか? 笑えないので止めてください。それと僕も自分の価値がここまで無かったのかと改めて実感して鬱になりそうですよ。育成費を請求されなかっただけ大目に見てもらえたということでしょうがね」

 

 と、ようやく到着したサインズ本部前では、奇妙な男女がいた。1人は癖が酷くてボサボサとしか言いようがない、しかも黄ばんだような金髪の美女だ。もう1人はやや冷たい印象を与える整った顔立ちをした茶髪の青年である。

 

「しかもサインズで傭兵登録しても、ランク無しの有象無象が幾らでもいると来た。捨て駒扱いさえもしてもらえないとは、これまた予想外だった」

 

「エリートプレイヤー『候補生』なんて肩書はまるで通じませんからね。このままでは引っ越しどころか、家賃すらも支払えませんよ。防具を整えて、スレイヴの服やら何やら買って、貯金も底が見えてしまいましたからね」

 

「それは困る。そうなると、まずはランク持ち傭兵を目指すぞ。ランクを得る方法は2つ。サインズに傭兵としての価値を認めさせるか、大ギルドから推薦をもらうかのどちらかだ。幸いにもお前みたいな駆け出しルーキー用の仕事は幾らでもある。簡単な採取依頼で地道に……という方法もあるが、何はともあれ金が要る。とりあえずはこの『【バーサーク・ヒーラー】の調査依頼』から始めようではないか」

 

「プライバシーを探られても笑って許してくれる御方だといいんですけどね。僕だったら殺しますよ」

 

「お前、意外と物騒だな」

 

「何を今更」

 

 ……本当に奇妙な2人組だ。マネージャーと新米傭兵だろうか。ラジードはやや呆気に取られながらも、彼らの旅路に幸があらんことを祈る。

 一騎当千の傭兵。特にランカーは大ギルド所属のトッププレイヤーすらも上回る戦力として認識されている。彼らが得る報酬を知り、莫大な富を求めて傭兵を目指す者も多い。

 だが、その過半は力及ばずに挫折か死のどちらかを迎える。サインズも新米向けの仕事は準備しているが、傭兵を目指す者は大なり小なり自分の実力に過信している者が多く、キャパオーバーの依頼に挑む傾向がある。

 ランク持ちから見れば簡単で低報酬とされる採取・採掘・アイテム回収依頼すらも、あくまでランク持ち傭兵からすれば低難度というだけであり、新米傭兵からすれば想像を絶する難度であり、多くはまともに依頼を果たせずに傭兵登録の抹消を望む。

 ラジードもそれなりの修羅場を潜り抜けた者として、また【聖域の英雄】と【渡り鳥】の2人と幾度となくデュエルを繰り返した者として、相応に目は肥えている。そんな彼の目から見て、奇妙な2人組……新米傭兵だろう青年の方は、かなり実力者であるように感じられた。

 大ギルドのみならず、中小ギルドなどの有力プレイヤーの顔と名前を頭に入れているラジードは、青年について何も思い至る点が無かった。

 

「これは【若狼】さんではありませんか。僕に何か御用ですか?」

 

 ラジードの視線に気づいたのだろう。青年は丁寧な物腰……それも度が過ぎて慇懃無礼とも思われる程の刺々しさがある口調と態度を取る。途端に背後の美女が彼の後頭部に拳を打ち込んだ。

 

「レッスン2を思い出せ」

 

 悶絶して頭を抱えてしゃがみ込む青年のHPは僅かに減少している。ダメージを与える程のパワーで殴った証拠である。当然ながら、無防備な後頭部を狙われたとなればダメージフィードバックも相当なものであり、青年の反応は正常そのものだ。

 

「僕は気にしないよ。それよりも、何処かで会ったかな?」

 

「貴方は有名人ですからね。太陽の狩猟団に見出され、亡きベヒモスさんの下で修練を積んでトッププレイヤー入り。そして、あのアノールロンドの生還者。太陽の狩猟団のトップ3……サンライス団長、【雷光】のミスティアさん、そして貴方を知らないプレイヤーを見つける方が難しいですよ」

 

「そ、そうなんだ。あははは、ごめん。自分の知名度とかには無頓着でさ」

 

「…………」

 

「エイジ、顔に出てるぞ。新米は愛想が無いと仕事がもらえないんだ。スマイルだ、スマイル! ハッピースマイルだ!」

 

「黙ってろ」

 

 エイジと呼ばれた青年は軽く頭を下げて去っていき、その後を慌てて美女が追う。

 面白いコンビだ。思わず頬が綻んだラジードは、どれだけ知名度があっても、どれだけ実力があっても、自分の信念を貫き通せねば意味が無いと薄暗い気持ちを再燃させる。

 傭兵準備室……もはやマンションとも呼ぶべき建物に入り、ラジードは地下に設けられたトレーニングルームに向かう。クゥリが使用しているのは地下4階である。

 傭兵とは奇妙な存在だ。同じ専属先でも依頼や報酬、ランクを巡って対立している。だが、その一方で時には敵対陣営の専属とも協働しなければならない。自分以外の傭兵は、常にライバルであり、また欠かせない同僚でもあるのだ。そして、昨日は協働して肩を並べた相手が、翌日は敵対して命の削り合いに発展することも珍しくない。

 故にトレーニングルームは貸し切るのが基本だ。傭兵は誰もが奥の手を隠し持ち、ここぞという場面まで温存しているものである。

 

(ランク42か。『実質最下位』なんてクゥリも不本意だろうなぁ)

 

 トレーニングルームのドアをノックし、開錠されるのを待ちながら、意外とランクを気にしているクゥリにどんな言葉をかけるべきかとラジードは悩む。彼が復帰して初めての顔合わせなのだ。2ヶ月ぶりともなれば、積もる話もあったはずであるが、いざ目前に控えれば語るべきものが湧いてこない。

 

「久しぶりだな」

 

「そうだね」

 

 ドアを開けたクゥリは、トレーニング中とは思えぬ程に汗1つ掻いていない。入室したラジードは、トレーニング用の石人形が次々とポリゴンの欠片となって消滅していく様を見回す。不動目標を相手にしたトレーニングだったのだろう。実戦的な訓練には適さないが、手にしたばかりの武器を馴染ませるまでやソードスキルのモーション確認には有用だ。

 ほぼ1フロア分ある広々としたトレーニングルームには、クゥリ以外の人物も控えていた。紳士帽とオシャレな丸眼鏡をした男……伝説の鍛冶屋にして、クゥリの専属でもある有名なGRだろう。

 HENTAI鍛冶屋4人衆でも謎の男として大ギルドにマークされている人物だ。その最大の理由は、3大ギルドも実態を追っている謎のゴーレムに関与している疑いがあるからだ。『あんなもの』と呼ばれる謎のゴーレムは、トッププレイヤーでも遭遇すれば逃亡必至とされており、つい1ヶ月前に目撃され、UNKNOWN、ユージーン、シノン、グローリー、スミスというドリームパーティが撃破ミッションに参加した。

 撃破は成功するも、証拠隠滅の自爆装置が備わっており、完全消滅したことによって作成者の尻尾を掴むことは出来なかった。対峙した全員……あのグローリーすらもが真顔でノーコメントを貫いたとされている。

 なお、謎のゴーレムはほとんど殺傷性が無いらしく、故に危険視されていないが、『とんでもない機動性』・『5メートル強の大きさで浮遊している』・『バリアを標準装備』・『接近したら周囲を薙ぎ払うバースト攻撃』・『ダメージを受けるとサッカーボール程の同外見の小型を複数ばら撒く』・『小型の機動性が変態級』・『ステルスモードなのか、姿が消える』・『マザーシップ的な200メートル級の超大型の目撃例』・『鹵獲されそうになると自爆』・『撃破されそうになっても自爆』などなどの情報があり、大ギルドは技術供与を求めて作成者を調査している。

 噂は本当なのか。真実を問いたいラジードであるが、GRは意味深な笑みを浮かべているだけだ。見た目で言えば、ヘンリクセンと同じくらいにまともであるが故に、所詮は噂か、とGRが謎のゴーレムとは無関係だろうと判断する。アイドルとはいえ、常に和服のマユ、ABC防護服標準装備のイドに比べれば、鍛冶屋でありながらスーツ姿のヘンリクセンよりも幾分か鍛冶屋らしい風貌であり、HENTAI鍛冶屋4人衆で最もまともにも思えたからだ。

 また、GRは他のHENTAI鍛冶屋に比べても技術供与に積極的な部分も多い。聖剣騎士団が『独自開発』したとされる分裂する人工炎精もGRが試作したとされている他にも、コロシアムなどの放送にも使用されている遠隔撮影用ゴーレムや人工妖精もGRの発明品である。特に撮影用はジャミングの影響を受けやすいとはいえ、各大ギルドからすれば喉から手が出る程に欲しかった技術だ。教会経由とはいえ、無償公開したGRは『他のHENTAI鍛冶屋に比べても取引にも応じる傾向があるので放っておいた方が得』という扱いを受けている。

 にこやかにGRと挨拶と握手を交わすと、途端にぞわりと背筋に悪寒を覚える。GRの目がねっとりと舐め回すように全身を観察しているような気がしたからだ。

 

「ほほう、素晴らしいね。ドラゴン系の素材が好みなのかな?」

 

「え、ええ。中量級でも高い防御力が――」

 

「キミのバトルスタイルに適していないね。特大剣・両手剣・片手剣の3種類の剣を使いこなすのがキミの特徴だ。だが、今のキミの装備では片手剣……特に好んでつかっている双剣を活かすには、腕部が重過ぎる。あと具足を軽量化してスピードを確保した方がいい。特大剣を扱う際のカウンター対策なんだろうけど、そこに偏重し過ぎて他の武器を活かせない。最近は特大剣がないと辛い場面も増えたんじゃないかい?」

 

「あ、当たりです! どうして!?」

 

「恥ずかしながら、巷では超一流として名が通っているからね。素材構成を見せてもらわずとも、外見と装備者の立ち振る舞いで分かるのさ。革防具でもドラゴン系素材は最高峰の部類だ。だけど、雷属性防御力の低さがネックだ。それを補う為に雷防御力を高める指輪を装備せざるを得ない。だが、特大剣によるカウンター・相討ちのリスクがあるキミの場合、雷属性防御力の低さは捨て置けない。いっそドラゴン系素材から離れて、指輪枠を1つ自由にするのも選択肢に入るはずだ」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「いやいや、これくらいは構わないさ。独立傭兵であるクゥリ君は模擬戦相手を探すのも苦労するからね。今日の感謝の印だよ」

 

 そういう事か。だが、ラジードはむしろお礼を言いたいくらいだと頭を下げる。元来の好青年っぷりに機嫌を良くしたのか、GRは隅のベンチに腰かける。

 

「模擬戦のデータはもらうけど、構わないね?」

 

「ええ、もちろんです。僕もギルメンとして、今回のデュエルの情報は太陽の狩猟団に報告する。クゥリもそれで構わないよね?」

 

「ああ。遅かれ早かれ集められる情報だからな」

 

 出来れば、2ヶ月間も何をしていたのかなどクゥリに問いたかったが、どうせはぐらかされるだろうとラジードはデュエルに集中する。

 今回のラジードの装備は、明日を予定した構成だ。防具はGRの指摘通り、ドラゴン系の皮装備だ。中量級であり、やや重めであるが、防御力が全般的に高い。特に炎属性防御力は高く、炎属性攻撃をしてくるモンスターが多い黒霧の塔では役立つはずだ。

 武器の1つは、軽量型片手剣の【磁刃の双剣】だ。片方の剣を手放しても、半径20メートル以内ならば引き寄せることができる能力を持つ。これによって、ラジードはクゥリが多用する武器の投擲攻撃をファンブルの心配なく実行できる。

 そして、もう1つは両手剣の【ヴァルキュリア・ソード】だ。ユニーク素材【高潔なる戦乙女の涙石】を使用された剣であり、HPが減れば減る程に攻撃力・防御力が増大し、スタミナ回復速度が上昇するというサポート特化能力を持つ。光属性攻撃力も有しており、闇の眷属にも高い効果を発揮するのも特徴だ。重量はやや軽めであり、特大剣がメインとなってしまったラジードには、やや軽く、また細過ぎるという不満がある。

 

「ん? その剣だけど……おっと、失礼。これ以上は集中力を削ぐね」

 

 2人の間……より正確に言えば、ラジードの集中力が高まっているのに気づいたのだろう。ヴァルキュリア・ソードについて口を挟もうとしたGRは両手を挙げて、ここからは無言だとアピールする。

 

「クゥリも早く防具を装備したらどうだい?」

 

 今のクゥリはコートを装備しておらず、黒のインナー装備だ。密着性の黒色のノースリーブだ。厚さはそれなりに確保されているがインナー防具ともなれば防御力は期待できない。グローブや籠手の類も装備しておらず、包帯だけが両腕の二の腕まで巻かれている。腰では2つの武器を下げる為のベルトが2つクロスで備わっており、カタナと2本のハンドアックスが吊るされている。

 

「いいや、今回はこれでやらせてもらう」

 

「舐めてるのか?」

 

「まさか。少し試したいことがあるだけだ」

 

「分かった。いつでも防具を変えてもいいよ」

 

 今回はトレーニングルーム用デュエル『アイアン・ボディ』だ。防御力が100倍相当、HPが20倍相当になる安全性の高いデュエルだ。勝敗条件は自由に設定できるが、ラジードは360秒で、より多くの『HPの割合』を減らした方の勝利に設定する。

 ラジードのレベルは98だ。トッププレイヤーがレベル100を突破している中で、休養が響いて十分にレベリングが出来ていないのだ。だが、高レベル帯程にレベル差が絶対的な差ではなくなっていくDBOならば、仮にクゥリがレベル100を突破していても、スキル枠の違いを除けば、総ステータスにはそこまでの差はない。むしろ、大ギルドの恩恵によって成長ポイントを集めやすいラジードの方が上であることも十分に考えられるのだ。

 大ギルドは、クゥリを『武器スキルを多くとって使用できる武器を増やす』傾向があると分析している。最低でも4つの武器枠を有するだろうクゥリは、複数の武器を並列使用してあらゆる局面に対応できるのが強みだ。

 だが、その一方で複数の武器を使う為のステータスを確保する為に、近接戦闘を得意としながらVITが極めて低い。複数の武器を運用する為の装備重量の確保を軽量化された防具で確保している。HPと防御力……デスゲームにおける文字通り生死を分かつ生命線を極限まで細くした、超攻撃特化がクゥリなのだ。

 以前のバトルオブアリーナでは、一撃で大ダメージを与えるべく特大剣を使用した。だが、クゥリを捉えるには特大剣では重過ぎたのだ。だからといって、軽量の双剣ではリーチが足りず、また火力も無い。

 ならばこそ両手剣との組み合わせ。リーチと剣速を確保し、双剣と絡めてクゥリに確実にダメージを与える。ラジードの意気込みに対して、クゥリは腰にカタナを差したまま、左目を眼帯で覆ったまま、両腕をぶらりと下げてリラックスした面持ちだ。

 デュエル開始のゴングを待つ身でありながら、ラジードは思わず見惚れてしまう。まるで女性のように華奢な肩と腕だ。バトルオブアリーナでもコートを脱ぎ捨てたが、あの頃とはまるで異なる、不可侵にして神性とも思える艶やかにして清らかな色気がある。

 

(落ち着け。これもクゥリの戦法だ。武器はカタナとハンドアックス2つ。防具も外した軽量化で翻弄するつもりだ。手抜かりじゃない)

 

 熱くなったら負けだ。クゥリは傭兵だ。あらゆる手段を用いる。デュエルという安全性が高い戦いならば、元より全回避が前提のクゥリのバトルスタイルならば、コートを脱いだ分だけ軽量化するのは勝つ上で理に適っている。

 デュエル開始。ラジードは慎重に間合いを詰めるべく、両手で握ったヴァルキュリア・ソードを正眼の構えのままクゥリを見据える。

 

 

 

 

 

 だが、途端に自分の腹から突き出たカタナの切っ先と続くダメージフィードバック、そして視界からクゥリが消え失せていたことを認識する。

 

 

 

 

 

 

 傷口を広げるように刀身が捩じれ、そのまま心臓を通過する形で肩まで斬り上げられる。これが実戦だったならば大ダメージを免れないだろう先制攻撃を受け、ラジードは悪寒と共に振り返れば、ふわりと木の葉が舞うように跳んで距離を取ったクゥリの微笑みを見る。

 それは余りにも美しく、また純粋無垢な子どものような微笑み。だが、まるで血に飢えた獣の顎を幻視する。

 ラジードが知っているクゥリとはスピードが違う。以前のクゥリも確かに速かったが、次元が違うのだ。DEXにかなりのポイントを割り振らねば得られないスピードだ。

 見切れ。ラジードは両手剣を手に、慎重さを捨てて突撃する。

 このデュエルの形式では、ヴァルキュリア・ソードの強みであるHP減少に伴ったバフは効果を発揮しない。だが、ラジードは純粋な剣技でクゥリを捉えるべく、連撃を繰り出していく。

 薙ぎ払いからの突き。振り下ろしから繋げる蹴り、躱されたら回転斬り。飛び散る汗の度に攻撃速度は増えていくも、クゥリは汗1つ垂らすことなく、まるで踊るように躱していく。

 まるで地面を滑るようなステップによる超回避は健在どころか磨きがかかっている。もはや同じ人間とは思えない動きだ。何よりも異常なのは『カウンター』だ。デュエルとはいえ、攻撃を受ければ血が流れる。ラジードの全身は既に血塗れだ。攻撃の半分以上にカウンターが差し込まれたからだ。

 

「悩みでもあるのか? 動きに無駄が多過ぎる」

 

「キミは動きにキレがあり過ぎる!」

 

 カタナをここまで自由自在に操れるプレイヤーは片手の指の数ほどもいないだろう。だが、クゥリの攻撃は根本が異なる。攻撃も防御も回避も全て先読みされ、まるで透過してくるように攻撃が差し込まれるのだ。

 また、クゥリの所有するカタナは、静止している時は確かに刀身がハッキリと目に見えているはずなのに、振るわれると見えづらくなるのだ。腕や手首の動きで追おうとしても、そちらに意識が向いた瞬間に拳や蹴りが差し込まれるのだ。

 双剣に切り替える。ラジードは戦いのリズムを切り替える為に、両手剣から双剣による二刀流に変化させる。

 ラジードに合わせるように、クゥリはカタナを鞘に収めるとハンドアックスを左右それぞれに握る。

 火力の斧とスピードの片手剣。互いに連撃同士のぶつかり合いとなるも、攻撃速度は互角……いいや、クゥリが上回る。軽量性に特化されたハンドアックスが右太腿の肉を裂き、骨にまで到達する。

 反応速度はラジードの方が上だ。それは実感として確かにあった。だが、クゥリは反応速度の差を潰す先読みと運動速度がある。正面からの斬り合いすらもあっさりと制され、手の出しようが無かったラジードが下がれば、右目に熱を……そして、強烈なダメージフィードバックを受ける。それが後ろに退いた瞬間に踏み込んできたクゥリの居合だと気づいた時には、ラジードの視界は半分になっていた。

 

(剣速は……UNKNOWNを超えてるんじゃないか!?)

 

 カタナは抜刀攻撃……居合に加速ボーナスが付くとはいえ、あり得ない剣速だった。ハンドアックスの時点で気づくべきだったが、クゥリの攻撃速度は尋常ではない。異常な先読みも合わさり、正面からの斬り合いすらも容易に崩せない。

 これに反応速度もあったら……そんな想像をしてラジードは死以外のイメージを拭えなくなる。だが、臆することなく戦うことを選ぶも、精神を立て直すまでのラグに腹立たしさを覚える。

 クゥリは居合の為に手放した右手の斧をつま先で蹴り飛ばし、視界が半分になったラジードは咄嗟に双剣で弾く。だが、それが目暗ましと気づいた時には遅く、またも視界からクゥリが消える。

 背後! 振り返るが、そこにもクゥリはいない。まるで≪隠蔽≫でも使われたかのように、クゥリの姿が無いのだ。ステップの微かな地面を擦る音だけが響いている。

 自分の呼吸音が異様に大きく聞こえる。顎から滴る汗を拭うこともせず、ラジードは己の情けないあり様に奥歯を噛む。

 アノールロンドの生き残り。竜の神戦と同様に伝説の1つとして扱われるようになった死闘から帰還したラジードは、周囲にも実力を認められる存在となった。名声に驕ることなく、むしろ更なる高みを目指して己を鍛えた。ミスティアの心さえも傷つけてしまう程に先へ先へと進み続けた。

 今ではネームド相手でも単身で十分に戦える。単独討伐も決して夢ではない。そう思っていたはずなのに、クゥリにまるで届かない刃が苛立ちと己への失望を募らせる。

 デュエル中に右目の修復が望めない。ラジードはクゥリに背後を取らせないべく、壁際に走る。壁を背にすることで、確実にクゥリを捉える戦法だ。無様と分かっていながらも、これこそが確実であるとラジードは即断する。

 だが、クゥリは攻め込んでこない。十分に距離を取り、居合の構えを取る。ラジードは失念していたと自分の愚かさに気づいた時には遅かった。

 以前は水銀。だが、今度はまるで緋色の血のような刃が居合で描かれた斬線を撫でる。広範囲の血刃が解き放たれ、それはガードを貫通し、ラジードの首を両断する勢いで襲い掛かる。

 これが実戦だったならば、今の一撃で首が落ちていた。死の悪寒で脱力しそうになるも、ラジードはこのまま負けて堪るかと双剣に切り替える。

 再び血刃居合。だが、今度は斬線を見切って躱す。先程のお返しだとばかりに右手の剣を投擲すれば、クゥリは余裕を持って左に避ける。だが、それこそがラジードの狙いだ。左手に持つ剣と呼応させて呼び戻せば、投げられて壁に刺さっていた剣は回転しながらラジードの手元を目指す。そして、ラジードと戻る剣の線上にはクゥリがいる。油断したクゥリを戻ってきている剣で背後から攻撃する狙いだ。

 もちろん、悟らせない為に右手にヴァルキュリア・ソードを握り、正面から近接戦を仕掛けるように演じる。クゥリは右手にカタナ、左手にハンドアックスで同じく正面から応じる構えだ。

 

「粗い。狙い過ぎて分かりやすい」

 

 振り返りもせず、クゥリはカタナで背後から迫る剣を弾く。確実に決まったと思った攻撃すらもあっさりと防がれるも、ラジードは負けるものかと踏み込めば、同じく踏み込んでいたクゥリの膝蹴りが左手首に直撃し、その衝撃が片手剣の握りを甘くしたところで、いつの間にか逆手に握り替えられていたカタナの柄尻で左手の指を強打される。

 カタナもバトルアックスもまともに振るえぬ間合いに持ち込んでのファンブル狙い。もはや別人と呼ぶに相応しい程に強くなっているクゥリに、ラジードは思わず恐怖心を覚える。だが、沸き上がると闘争心で強引に捻じ伏せる。

 残り時間は1分を切った。このデュエルの内に、本来ならば何回死んだかも分からない。だが、それでも何かを掴まねばならないとラジードはヴァルキュリア・ソードを両手持ちに切り替え、必死にクゥリに喰らい付く。

 

「おぉおおおおおおおおおおお!」

 

 雄叫びのまま、自分でも愚かだと分かる程の力任せの横薙ぎ。クゥリは悠然と左手のバトルアックスで受け流そうとする。

 だが、失敗する。渾身の薙ぎ払いとハンドアックスは正面から衝突し、火花が散り、競り勝つ。ハンドアックスがクゥリの手より弾き飛ばされる。

 馬鹿な。他でもないラジードが成果に驚く。クゥリらしくないイージーミスだ。受け流しに失敗し、ガードするには握りが甘かったのだ。いや、本来は受け流すこと自体……それもハンドアックスでは高難度と考えれば、失敗する方が自然だ。

 さすがのクゥリも雑過ぎる攻撃に油断したか。あるいは、わざと弾かせたか。どちらにしても逆転するならば今しかない。ラジードは隙が出来たクゥリに斬りかかる。

 そして、後悔する。これまで微笑みを絶やさなかったクゥリの目が変わる。冷たく無機質な……まるで獲物に牙を剥く蜘蛛のような殺意が浸る。

 本物の殺意。それを感じ取った瞬間にはクゥリの動きが更に1段階上がる。左手で顔面を掴まれたかと思えば、そのまま投げ飛ばされて壁に叩き付けられる。

 

 

 

「抜刀、血刃長刀」

 

 

 

 居合が来る。そう身構えたラジードの前で披露されたのは、刀身を緋血が覆って長刀と化したカタナだ。本来の銀色の刀身は完全に緋血によって隠され、見ているだけで内臓が口から零れそうな程に、毒々しくも鮮やかな緋血の刀身が形成されている。その刃は荒々しく波立って尖っており、まるで粗い鋸のようだ。

 

「クゥリくん!?」

 

 GRが制止を呼びかけるように叫ぶも、クゥリは止まらない。血刃の長刀を両手持ちし、壁に叩き付けられた衝撃が抜けきらないラジードに斬りかかる。

 血刃長刀の振り下ろしをヴァルキュリア・ソードでガードする。STR勝負ならばラジードに分がある。そう思った矢先に片膝をつく。まるで可憐な少女を思わす細腕とは裏腹に、高STRのパワーがガードを押しのけようとする。

 

(STRの高出力化!? 一体どれだけ高めれば……!?)

 

 混乱するラジードに対して、クゥリは無言のまま血刃長刀の真価を発揮する。鋸状の刃は切っ先に向かって高速で流れ始める。刀身の形に固められても液体だと示すかのような滑らかな動きであり、それはまさしくチェーンブレードだ。

 火花が散り、ヴァルキュリア・ソードが削られる。こんな奥の手があったのかと驚嘆するも、ラジードはそれ以上にネームドと……それこそ【竜狩り】オーンスタインと対峙した時以上の濃厚な死の予感に浸される。

 バケモノ。多くのプレイヤーが彼をそう呼んだ。ラジードはクゥリにまさしくバケモノと呼ぶに相応しい『力』を感じた。『感じてしまった』。それを恥じた瞬間に、ヴァルキュリア・ソードがチェーンブレードと化した血刃長刀に耐え切れず、半ばから折れる。

 

「がぁあああああああああああ!?」

 

 左肩から侵入したチェーンブレード状態の血刃長刀が、肉を、骨を、内蔵を醜く抉り斬っていく。盛大な血飛沫をあげたラジードは、脳を焼くようなダメージフィードバックに気絶しそうになる。更に謎のデバフが発動し、全身に裂傷が生じてHPが一気に減少する。

 

「そこまで!」

 

 デュエル終了のゴングが鳴る。ラジードに駆け寄ったGRが止血包帯を使用し、また彼の首に針無し注射器を突き刺す。途端にHPは回復し、ダメージフィードバックは和らぎ、ラジードは何とか意識を失わずに済む。

 

「何を考えてるんだい!? デュエルとはいえ、血刃チェーンモードを使うなんて、彼を殺すつもりだったのかい!?」

 

 声を張り上げて非難するGRに、クゥリはカタナを覆う血刃を刀身に啜らせて鞘に収める。その右目の瞳は震えており、ショックを隠すように口元を左手で覆う。

 

 

 

 いいや、違う。左手で隠された口元は『笑っている』。まるでラジードから溢れた悲鳴と血飛沫を味わうように、クゥリは狂笑していた。

 

 

 

 思い出したのは、混沌の魔女クラーグ戦でクゥリに感じた言い表せない不安だ。ラジードの知る『クゥリ』ではないような気がして、まるで人類として決して見逃してはならない怪物を前にしたかのように、右手が武器を求めて動く。

 

「少し……熱くなり過ぎた。頭を冷やしてくる」

 

 だが、それよりも先に、完全な無表情になっていたクゥリは背中を向けてトレーニングルームから出ていく。黙って見送ったラジードは、その後もGRに介抱され、アバターの修復を終える。ラジードに使用された回復アイテムの詳細は分からなかったが、その効果は驚くべきものであり、クゥリの専属である工房・黄金林檎の技術力の高さに驚かされる。

 

「すまないね。普段のクゥリ君は限度を弁えているんだけど……」

 

 カタナに血刃を纏わせた攻撃と謎のデバフ。常に手札を隠すクゥリが、幾ら熱くなったとはいえ、デュエルであっさりと明かすとは思えない。それはGRも同様だったのだろう。

 全身が止血包帯でぐるぐる巻きになったラジードは、数分後に酷く申し訳なさそうな顔をしたクゥリを迎える。

 

「すまなかった。オレは……」

 

「いいよ。クゥリの本気を少しだけ見れたからね。それだけでも価値があった」

 

 いつものクゥリだ。やはり見間違いだったのだろうか? 先の狂笑したクゥリをどうしても信じることが出来ず、また真実としてしまえば、デュエルの……いいや、『殺し合い』の最中にクゥリにバケモノを覚えた恐怖心が肉付けされてしまいそうで、ラジードは頭から振り払う。

 

「奇麗に真っ二つだね。やっぱりデュエル前に指摘すべきだったよ」

 

 折れたヴァルキュリア・ソードに、GRは額を叩いて唸っている。

 

「破損が目立っていたからね。デュエル程度ならば折れないとは思っていたけど、クゥリ君が容赦なく亀裂を……それも血刃チェーンモードで狙ったからね。よく耐えた方さ」

 

 破損していた。ラジードは折れた愛剣……と呼ぶ程に使い込んでいないヴァルキュリア・ソードを見つめる。

 ネームドとの戦いで損壊したまま、ミスティアと喧嘩して飛び出し、工房で修復もしていなかった。幾ら頑丈な部類の両手剣とはいえ、ネームド級の攻撃のガードを幾度となく繰り返したのだ。よくよく見れば、少なからずの刃毀れもあり、万全からは程遠い。

 武器は元より損壊。ネームド戦の疲労も抜けていない。ミスティアとの喧嘩でメンタルだってお世辞でも良いとは呼べない。こんな状態でクゥリとデュエルしようとした自分こそが舐め腐っていたと反省する。この傷は授業料としては安過ぎたくらいだとラジードは好意的に受け取った。

 2人して並んでトレーニングルームの壁に寄りかかり、GRが準備したドリンクを飲む。レモンの酸味が疲労を溶かすようであり、自然とラジードはクゥリに相談を持ち掛けていた。

 

「……ミスティアと喧嘩か」

 

「うん。悪いのは僕の方だって分かってる。自分だけでリスクを背負っても誰かを助けても、僕が死んだら意味が無い。ミスティアを泣かせたら、たとえ戦いで勝者になったとしても、僕にとっては負けなんだ。だけど、同じくらいに……誰にも傷ついてほしくない。死んでほしくないんだ」

 

 傲慢だと分かっている。だが、これこそがラジードの本音だ。

 仲間に……大切な人たちに犠牲を出したくない。だからこそ、ラジードは単身で強敵と戦うことを望んでいる。仲間の実力は決して低くないと分かっているが、【竜狩り】オーンスタインとスミスの戦いを見て以来に強く思うのだ。

 

 

 

 

 あらゆる強敵を排する程に強くなれば、たった1人で戦場を支配する程の『力』さえあれば、もう誰も死ぬ必要はないのだと。

 

 

 

 

 間違っているし、あり得ない。ラジードは自覚する。【竜狩り】オーンスタインを単独撃破したスミスも、聖剣を持つUNKNOWNも、ランク1のユージーンも、ネームドを単独撃破出来る程の実力を有しているが、それは絶対的なものではなく、彼らも1つ間違えれば死ぬ、無敵とは程遠い存在なのだと分かっている。

 だが、仲間の骸を見る度に、ミスティアの死に様を想像する度に、怖くて堪らないのだ。自分の死よりも彼らの喪失こそが恐ろしいのだ。

 

「オレはオマエが間違っているとは思わないがな」

 

 だが、意外にも今のラジードをクゥリは肯定する。

 

「オマエにとって仲間は枷や邪魔者なんかじゃない。守りたい大切な人々だ。オマエは彼らを喪う恐怖に抗う為に、強敵と戦う恐怖と相対することを選んだだけだ」

 

「そうだけど、やっぱり違うだろ? 仲間と連携して――」

 

「仮に、オマエ以外の全員が戦闘不能になったとしよう。オマエが単独で戦わないと死ぬ。そんな状況で『皆で連携して倒そう』なんて思うのか?」

 

 違う。そんな状況に陥ったならば、ラジードは死ぬ気でどんな強敵であろうとも単身で挑むはずだ。

 

「仲間と支え合って、協力して戦う。それが理想であり、『人』のあるべき真実だとオレも思う。だけど、集団で戦い続ければ、いつか必ず犠牲が出る。殺し合いである限り、敵だけに犠牲を強いるなんて都合のいい奇跡は起きない」

 

 憂鬱そうに、クゥリは左目を覆い隠す眼帯を撫でる。まるで何かを思い出そうとしているかのように、右目はゆっくりと細められていく。

 

「だったら『いつか』を先延ばしにするしかない。賭けるのは自分の命。勝負の手数料は恋人の涙。勝てば『いつか』の先延ばし。負ければオマエは死に、カノジョは悲愴に暮れる。それだけだ」

 

「キミは相変わらず容赦ないな」

 

「これでも言葉を選んでるつもりだ」

 

 GRの咎めるような視線に気づいてか、自分の失敗を悟ったようにクゥリは頭を掻くも、今更になって言い直すのも面倒だったのだろう。小さく溜め息を吐く。

 

「どんな時でもオマエは『独り』じゃない。守りたい人の為に……大切な人の為に……命懸けの戦いを求める限りな。心に……魂に『誰か』が寄り添ってくれている。たとえ、周りには味方もいなくて、相対するのは死を覚悟するような強敵だったとしても……本当の意味でオマエを支えてくれるはずだ」

 

「精神論じゃないか」

 

「そうだな」

 

「でも……ありがとう。クゥリが言いたいことは分かったよ」

 

 絶対的な死。【竜狩り】オーンスタインとの戦いを思い出せば、クゥリが何を伝えたかったのかは理解できた。

 あの時、ラジードがディアベルを守ることが出来たのは……致命的な精神負荷の受容を耐え抜くことが出来たのは、ミスティアの存在があったからこそだ。そして、多くの人を守りたいという意思こそが体を動かした。

 あの日から燻ぶり続ける闘争心。それは確かに障害になるだろう。だが、最も重要なのは『何の為に戦うのか』だ。

 

「仲間を……ミスティアを守りたい。この気持ちだけあれば十分だったんだ」

 

 ただし、限度は考えねばならないだろう。何でもかんでも背負えばいいのではない。いついかなる時も全てを守ろうとするのは、傲慢なる破滅をもたらすのだから。

 必要な時ならば、たとえ単身だろうとも強敵に立ち向かえる『強さ』。それこそが不可欠なのだ。仲間が傷つくことを恐れる余り、必要のない傷まで負い続けて己を死に追い込むのは『強さ』ではない。仲間が死ぬという恐怖に屈した『弱さ』なのだ。

 残る障害は燻ぶる闘争心だが、こちらはラジードの心持ちの問題だ。クゥリに尋ねても得られる解決法はない。

 

「オマエはやっぱり『強い』な。オレとは大違いだ。『アイツ』と同じで……きっと『人』の道を進めるはずだ」

 

 迷いと悩みを振り切ったラジードに、クゥリは何処か嬉しそうに微笑んだ。

 

「しかし、剣は弁償しないとな。オマエくらいなら希少素材とか使ってるはずだろ?」

 

「そうだね。ハッキリ言うけど、ユニーク素材を使ってるよ。は、ははは……副団長にどう釈明しようか困ったね」

 

 任務中やレベリング中はともかく、個人で挑んだデュエルで破損だ。それも修復困難ともなれば大目玉だろう。

 ユニーク素材が使われている事もあり、出来れば素材化したいところであるが、太陽の狩猟団の工房でも素材化して活用できるだけの技術力を持った鍛冶屋は3人といない。彼らはいずれも2ヶ月先まで予約待ちだ。また、仮に素材化して次なる武器に継承させたとしても、能力の全てがそっくりそのまま残るわけではなく、むしろ弱体化した能力が干渉して新たな能力を活かせない、あるいは邪魔になってむしろ総合力の低下を招くことも珍しくない。

 破損した武器の素材化・継承の技術に関しては、GRの右に出る者はいないとされている。その理由は定かではないが、クゥリの武器使いの荒さ……希少素材が使われていようと使い捨てるようなバトルスタイルこそが原因だろうとラジードは薄々勘付いていた。

 少し考えた様子のクゥリは、ヴァルキュリア・ソードの修復をどうにか出来ないものかと悩んでいるGRの元に行く。何やら話し込んでいるようであり、GRからトランクケースを受け取って戻って来る

 

「ヴァルキュリア・ソードは弁償するとして、代替が必要だろう? オレの剣を使ってくれ」

 

「別にいいよ。僕にもサブがあるし」

 

「所詮はサブ、ユニーク素材を使っている武器には劣るはずだ。それに……『コイツ』は守りたい人がいるオマエの方が相応しい」

 

 クゥリはそう言ってラジードに両手剣を差し出す。彼が使っている剣ともなればGR製のはずだ。好意を無下にも出来ず、ラジードはやや興奮しながら剣のステータスを確認して顎が外れそうになる。

 

「駄目だ。これは受け取れない!」

 

「貸すだけだ。別に壊してもいいぞ」

 

「何で壊れるのが前提なんだ!?」

 

「ヴァルキュリア・ソードには釣り合うだろ?」

 

「ハァ!?」

 

 確かにヴァルキュリア・ソードにもユニーク素材が使われている。だが、何事にも格付けが存在する。ヴァルキュリア・ソードに使われている高潔なる戦乙女の涙石は、確かにユニーク素材であるが、似たり寄ったりどころか、同じ効果を付与できる素材は多くある。あくまで『1つしか入手できない』という意味のユニーク性なのだ。

 だが、渡された剣は強大さを持つ故のユニーク性を持つ素材が使われている。ラジードが受け取れないと押し返そうとするも、クゥリは1度渡した以上は返品を受け付けないと背中を向ける。

 クゥリも頑固者だ。こうなれば意地でも受け取らないだろう。このまま放置して帰るという選択肢もあったが、ヴァルキュリア・ソードの代用品があるかと問われれば沈黙するしかないのも事実だ。

 

「必ず返すよ。それにギルドには絶対に見せない。約束する」

 

「好きにしろ」

 

 新たな両手剣は、素材の選定も含めれば1ヶ月もあれば仕上がるだろう。ラジードはクゥリから受け取った剣を人前で見せれば、それこそ太陽の狩猟団でも大問題になるはずだと不要だった不安を抱える。

 もしもバレた時には正直に経緯を告白しよう。何はともあれ、ヴァルキュリア・ソードの破損について始末書を書かねばならないラジードは、憂鬱ではあるが、デュエル前とは違って晴れやかな気持ちでトレーニングルームを後にする。

 まずはミスティアと仲直りしなければならない。非は自分にある。だが、同時に譲れない意思もあるのだと伝えよう。ラジードは心なしか軽くなった足取りで帰路についた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 血刃居合は許容範囲だったが、血刃長刀モードと血刃チェーンブレードを明かしたのは予定外だった。ラジードが去ったトレーニングルームにて、何処か嬉しそうにも思える微笑みのまま壁に寄りかかっているクゥリに、グリムロックは嘆息する。

 クゥリの気まぐれや暴走は今に始まったことではない。だが、傭兵として常に手札を隠すのが彼の常だった。

 手札を明かすよりもデュエルで負けることを選ぶ。仕事ではない限り、クゥリは迷うことなくデュエルの敗北を許容できる。だが、今回は圧倒的優位でありながら、ラジードの猛攻に応えるように、披露する必要のなかった血刃長刀と血刃チェーンブレードを見せただけではなく、劇毒まで発症させてしまった。

 日蝕の魔剣やミディールに比べても、贄姫はメインウェポンとして露出する機会も多い。自然と能力はバレていくだろう。だが、未知と既知では対処が異なる。クゥリは貴重な未知を明かすことになってしまったのだ。

 ラジードがギルドに報告しない、という事はないだろう。彼は真面目な男だ。ギルドを裏切るような真似はしないはずだ。

 

(まぁ、贄姫の『アレ』は使っていないし、問題ないか)

 

 血刃長刀も血刃チェーンブレードも贄姫の基礎能力のようなものだ。痛手には変わらないが、クゥリならばバレていることを逆手に取って戦うこともできるはずだ。

 

「イジェン鋼で表面加工したハンドアックスの使い心地はどうだったかい? 軽量性と強度の両立を目指してみたんだが」

 

「悪くはないが、軽過ぎだ。斧の強みは取り回しより火力だ。もっと一撃を重くしてくれ」

 

「分かったよ。しかし、【若狼】相手でも、あんなにも一方的なんて……キミの強さは底なしだと改めて実感したよ」

 

「ラジードの調子が悪過ぎただけだ。疲労もあったようだが、それ以上に精神面だな。『アイツ』と同じで、メンタルでパフォーマンスが大きく変動するタイプなんだよ。動きも狙いも粗過ぎた」

 

 メンタル関係無しで実力を発揮できるのはキミくらいじゃないかな、とはグリムロックも言えなかった。誰だって大なり小なりメンタルに左右されるものである。問題はその幅の大きさだ。

 グリムロックの心の内を察したのだろう。クゥリは心外そうに嘆息する。

 

「オレだってメンタルに振り回されるさ」

 

「でも、キミはメンタルでパフォーマンスは『下がらない』。そうだろう?」

 

 クゥリの反論は無かった。グリムロックも長い付き合いだ。クゥリについては少しくらい分かっている。彼もまたメンタルによってパフォーマンスが変動することはあるが、『上がる』ことはあっても『下がる』ことはない。どれだけ最悪の精神状態であったとしても、冷徹と呼ぶに相応しく、彼の戦闘能力は落ちない。

 

(いや、常にパフォーマンスが『最低値』なのかもしれないだけか)

 

 言うなれば、常に『リミッター』を設けているようなものだ。その全てを外した時、クゥリがどれ程の戦闘能力を発揮するのか、グリムロックにはまるで想像できない。だが、2ヶ月前、クゥリが潜り抜けた死闘は武器に残されたデータから片鱗を読み取れたが、尋常ならざる強敵との連戦だったのは間違いない。そして、その度に彼は強くなっていった。ならば、同様の強敵を前にすれば、彼はそれこそ彼の目が届く場所でその全てを見せてくれるかもしれない。

 

「さて、明日持ち込む両手剣の最終調整をさせてくれ。日蝕の魔剣の改良が済むまでの代用だけど、それでもメインウェポンでも通じる性能だからね」

 

 今回わざわざサインズのトレーニングルームを利用しているのは、クゥリがしばらくはサインズ・マンションで暮らすことになったからだ。どうやら、グリセルダが改築したマイホームはお気に召さなかったようであり、グリムロックが訪問した時点では3大ギルドの物件雑誌を読み漁っていた。

 グリムロックの要望に、クゥリはシステムウインドウを弄る。あくまで日蝕の魔剣が完成するまでの繋ぎであり、グリムロックとしても多くの点は妥協したが、それも後に素材化して組み込む楽しみがあるからこそ我慢できた事である。だが、それと貴重なデータ収集を妥協するのは話が違うのだ。

 

「おや?」

 

 だが、グリムロックは首を傾げる。クゥリが装備しているのは、鍔の類は無い、黒光りする肉厚の長剣だ。グリムロックがハンドアックスと同様の高純度のイジェン鋼で仕上げた両手剣である。打撃属性にやや傾けており、長いリーチと高STR補正は魅力であるが、特別な能力など何も備えていない、頑丈さと安定した火力以外に見るべきものがない、素材の特性を把握する為に作成したサブウェポンだ。

 

「クゥリ君、そっちじゃなくて『アレ』を――」

 

「『アレ』はラジードに貸した」

 

「ふぁ!?」

 

「ユニークウェポンを壊したんだ。それに見合うのはユニークウェポンだろう?」

 

 グリムロックの顎は外れそうになる。ユニークウェポンを壊したから代用品が完成するまでユニークウェポンを貸す。釣り合いが取れているように見えて、内実はバランス崩壊だからだ。

 確かにヴァルキュリア・ソードにはユニーク素材が使われていただろう。だが、『アレ』の価値とは比べるまでもなく劣るはずだ。

 

「何を考えてるんだい!? いや、キミなりにバランスを取ったつもりなんだろうけど、彼が返却に応じなかったらどうするつもりなんだ!?」

 

「気に入ったならくれてやるさ。『アレ』はオレよりもラジードの方が相応しいからな。それに、ラジードは真面目だ。欲しいなら見合うだけの素材を取引に持ち掛けるはずだ」

 

「だけど大ギルドが……あのミュウが出張ってきたらどうするんだい!?」

 

「その時はグリセルダさんに頑張ってもらうさ」

 

 ミュウならば、ヴァルキュリア・ソードの損害分を水増しして『アレ』を奪い取るくらいの交渉をしてくるだろう。その時はグリセルダに一任させると丸投げ発言をしたクゥリは無責任であるが、その一方でラジードがそんな不義の真似をするはずがないと信じている様子だった。

 冷徹・冷淡・冷酷。ジェノサイド・モンスターと恐れられる【渡り鳥】だが、グリムロックは知っている。クゥリは人間の欲望や悪意に対しての勘定が甘過ぎるのだ。これでは伏魔殿で権謀術数の日々を送る百戦錬磨の大ギルドとは、政治の舞台においては完敗不可避である。

 無論、クゥリ自身はやはり自分の真価にまるで気づいていない。生存が確認されただけで3大ギルドが表裏同時に動き出す程のネームバリューと戦力価値があるのだ。

 

(『アレ』は目立ち過ぎる。考えようによっては、こちらの方が得策か)

 

 だが、イジェン鋼の大剣はやはり重過ぎる。クゥリのSTRならば片手でも十分に振り回せるが、グリムロックはやはり剣速に不満があった。もはや軽量型特大剣の域に達しているイジェン鋼の大剣では、クゥリの高速戦闘スタイルを活かすには重過ぎるのだ。

 

「イジェン鋼を素材にすると基礎攻撃力は高くなるけど、やはり重過ぎるね。それにSTRボーナスに偏重してしまう。武器のフレーム素材としては優秀だけど見送りかな。投げナイフの素材には有用だから、そちらに回させてもらうよ」

 

「ああ、頼む」

 

「しかし、彼もさすがはトッププレイヤーだ。調子が悪くてもクゥリ君のギアを入れてしまうんだからね」

 

 最後の攻防において、ラジードはクゥリの左手からハンドアックスを弾き飛ばした。グリムロックの目から見ても、クゥリはわざと弾かせたのではなく、受け流しきれずにガードし、耐え切れずに手放してしまったのだ。クゥリが最後に猛攻を見せたのは、思わぬ攻めに対して過剰反応してしまったからだろうとグリムロックは分析していた。

 今回のデュエルは、防具の大部分を外した状態で、武装も含めて軽量化した状態でのクゥリの戦闘データの収集がメインだった。アルヴヘイムを経て、DEXに大きく成長ポイントを割り振ったクゥリに合わせて防具を調整する為には不可欠の作業だった。

 貴重な対人戦データを集められて満足したグリムロックであるが、バトル・オブ・アリーナでもそうだったように、親しい相手には調子に乗ってしまうのはクゥリの悪い癖だと、油断してしまった己の浅はかさを呪わずにはいられなかった。

 

「…………」

 

 と、グリムロックは、右手に持つイジェン鋼の大剣の切っ先を下ろして左手をジッと見つめるクゥリに気づく。

 

「どうしたんだい?」

 

「……いいや、何でもない」

 

 意外とハンドアックスを弾かれたことを気にしているのだろうか。やはり負けず嫌いなところがあるな、とグリムロックは楽観して、イジェン鋼の大剣のデータ収集に意識を傾けた。




郷愁にも等しい懐古に意味は無い。
だが、歩んだ道のりには意味があったのだと知る。


長かった準備回も終了です。
次回は黒霧の塔や諸々を平行開始!

それでは、317話でまた会いましょう!

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