SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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・前回のあらすじ
騎士アーロンと煙の騎士、参戦。



Episode20-05 煙と鉄

「間違いなくアスナさんですね」

 

 双眼鏡を覗き続けて5分。エイジは頭痛の種が増えたと額を押さえた。

 場所はアルヴヘイムにあるチャレンジダンジョンの1つ、ウンディーネの修練場近くのフィールド。背の高い木々が生い茂り、出現するモンスターもさほど攻撃的ではない。エイジは≪気配遮断≫と隠密ボーナスを高める【間者のマント】を羽織り、太い枝の1つに陣取っていた。

 初仕事で引き受けた【バーサーク・ヒーラー】の調査依頼。ランク持ち傭兵たちが手を付けず、ランク無し傭兵たちに『お零れ』として落ちてきた大ギルドの仕事だ。

 傭兵は2種類に分けられる。ランク持ちとランク無しだ。大ギルドの後ろ盾も無く傭兵業界に踏み入ったプレイヤーは、まずはルーキーですらない有象無象のランク無しからキャリアをスタートさせる。ここで大ギルドの目に留まるか、あるいはサインズに実力を認めさせることによって、正式に『傭兵』として認められるのだ。

 当然ながらランク無し傭兵の仕事は安報酬の仕事ばかりだ。フィールドやダンジョンでのアイテム収集や荷物持ち、デュエルの相手、お飾りの護衛等々である。1度の仕事で低ランク傭兵でも数十万コルが動くとされるランク持ちとは違い、ランク無しに回ってくる仕事はいずれも雀の涙のような報酬だ。

 サインズに持ち込まれるのは、何も高難度ミッションばかりではない。中位プレイヤーやギルドからも仕事は舞い込む。だが、レベルや装備がトッププレイヤー水準のランク持ちの傭兵を動かすとなると報酬が馬鹿にならない。そこでランク無し達の出番である。こうした報酬の安い仕事を引き受けて実績を積むのだ。また、敢えてランク無しに腰を落ち着かせて、中位プレイヤーを相手にして程々の報酬と達成感に満足する輩も多い。

 だが、傭兵業界に飛び込んだからには、大仕事をして早くランクを得て、大金と名声を得たいと望むのが普通だ。そうした生き急いだプレイヤーの大半は挫折か死を味わう。

 ぬるま湯に浸かっても芯が腐ることなく堅実にキャリアアップを目指すか、それとも命懸けで大仕事をこなして早々にランク持ちになるか。どちらを選んでも構わないが、エイジは後者を選択した。もとい、スレイヴが選択させた。

 

『要はサインズを納得させるだけの実力を示すか、大ギルドの目に留まれば良い。なるべく大きな仕事を引き受けるぞ』

 

 何が何でもネームドの単独討伐という破格の箔を付けさせたいスレイヴを無視し、エイジが最初に選んだのが【バーサーク・ヒーラー】の調査依頼だ。探偵紛いの身辺調査依頼は、傭兵の探索能力が試される。プレイヤーとして所有する様々な探索・諜報に適したスキルはもちろんのこと、自身が所有する技術と知識を総動員して対象を調査する能力が求められるのだ。

 報酬は成果次第であるが、元はランク持ちが引き受けるはずだった仕事である。ランク無しに回って来た時点で減額こそされているのは目に見えているが、十分な額が期待できる。まずは資金を調達したかったエイジとしても、最初の仕事としては悪くないと人気が無かった仕事を引き受けた。

 だが、開始して3分で【バーサーク・ヒーラー】の正体が判明してしまい、エイジは困惑を通り越して苦悩を覚えていた。

 

(あの動き、忘れるはずがない。だが、どうして素性を隠しているんだ?)

 

 動きだけで個人を特定する。余程に優れた観察眼を持つか、脳にこびり付く程に目にしたか、そのどちらかである。エイジが【バーサーク・ヒーラー】=アスナと特定したのは後者の要因である。

 元血盟騎士団のメンバーだったエイジは、鬼の副団長と恐れられる彼女の戦いを何度も間近で目にしている。実力を高めるならば、より強者から学び取るのが1番だからだ。扱う武器こそ違えども勉強になった部分は多かった、とエイジは思い出したくもないSAOの記憶を複雑な感情で掘り返す。 

 アスナが『75層の悲劇』で死亡した事ももちろん知っている。だが、特に悲愴を覚えることは今まで無かった。『彼女』を見殺しにした自分、そして絡んだ死の因果から攻略組に八つ当たりに等しく憎しみをぶつけていたからだ。

 SAO事件は多くの書籍を生んだ。帰還したプレイヤー目線から綴られた脚色著しい伝記から、当時SAO事件を追っていた警察や技術者の見解を含んだ考察まで様々だ。だが、一様にしてスポットを当てられるのは活躍したプレイヤーだけであり、エイジたちのような『その他大勢』について言及した書籍は無かった。

 自分達のような弱いプレイヤーは……いいや、『彼女』は記されるに値しないのか? SAO事件から生還したエイジを捩じらせ、また憎しみを募らせたのは、『彼女』の名残すらも感じさせない冷たい文字列だった。

 しかし、さすがのエイジも死んだアスナに対して憎しみを抱いているわけではない。同じく戦って死んだ『彼女』への侮蔑になると考えるからだ。

 75層以降の地獄っぷりのせいで『彼女』が死んだ当時の攻略組のプレイヤーはほとんど残らずに死んだ。それどころか、SAO事件後はほぼ全員が精神面の問題で社会復帰困難だった。エイジもその1人ともなれば、今更になって八つ当たりするのもおかしな話なのである。

 それでも消えない、まるで粘質のオイルの如く心にこびり付いた憎しみを意識しつつ、エイジは再び双眼鏡を覗く。

 チャレンジダンジョンに入る前にウォーミングアップをしている【バーサーク・ヒーラー】の動きを見守る。この距離ともなれば、さすがにエイジに気づくことは無い。周囲を警戒している素振りはあるが、まさか動きだけで正体がバレるなど予想もしていないはずだ。

 この情報をどうするべきか? 木の枝から跳び下りたエイジは、帰る準備をしながら悩む。

 

(【バーサーク・ヒーラー】は教会の庇護下にある。大ギルドは正体を探っている。つまり、教会側は『【バーサーク・ヒーラー】=アスナさん』という情報を持っているが、敢えて大ギルドには公開することなく隠蔽している)

 

 仮に【バーサーク・ヒーラー】の正体がアスナでなかったならば、エイジも気にも留めずに仕事の成果をサインズに報告し、労力に見合わぬ程の高額報酬を受け取っていただろう。だが、エイジが危惧するのは、この仕事を達成することは必ずしもキャリアにおいてプラスにならないかもしれないという事だ。

 アスナが【黒の剣士】と深い関係にあった事はエイジも知っている。それどころか、嫌と言うほどに多くの書籍で何度も目に通して事実として認識している。あの時ばかりは、恋人の死を何度も書かれる【黒の剣士】には、小さくない同情の念を覚えた程である。

 そして、件の【黒の剣士】と目される人物はDBOにもいる。最強の傭兵候補であるUNKNOWNだ。ユニークスキル≪二刀流≫を持ち、聖剣を有する英雄である。単独でボス討伐という劇的デビューを飾って傭兵となり、竜の神から終わりつつある街を寸前のところで救い、アルヴヘイム事件においてはもはやプレイヤーが経験すべき事柄ではない冒険と戦いを繰り広げている。

 

(UNKNOWNも顔と素性を隠している。アスナさんも同じ。2人は何か計画に沿って正体を隠していると考えるのが妥当か)

 

 アスナの性格を考えるならば、わざわざ正体を隠して攻略に関わらない方がおかしい。だが、実際には表舞台には立った様子はない。

 無論、プレイヤー人口が日々増加している以上、アスナもまたDBOに中途参加したとも考えられない事もない。だが、その場合でもアスナがわざわざ素顔を隠して活動する理由が無いのだ。

 教会とグルになって、UNKNOWNとアスナは素顔を隠さなければならない『何か』に関わっているという懸念が生まれる。UNKNOWNは傭兵として表舞台に立ち、アスナは教会の力を借りて裏で動く。あり得ないことではないか、とエイジは悩む。

 だが、その一方で【バーサーク・ヒーラー】が目撃されたのは9月以降である。タイミングとしては奇妙だ。大ギルドのスカウトマンは、至る所で目を光らせている。【バーサーク・ヒーラー】は教会保有のレベリングに適した狩り場で目撃例が多発している。つまり、これまで大ギルドのスカウトマンの目に触れなかったのは不自然なのだ。

 

(2ヶ月前……2ヶ月前……チェンジリング事件とアノールロンド攻略があった頃か)

 

 大ギルドは『本当にスカウトする目的で【バーサーク・ヒーラー】の正体を探っているのだろうか』という疑問をエイジは抱く。

 エイジは自惚れない。卑屈と呼んでも差し障りの無い程に捻じ曲がった思考は、至極当然のように、息をするかの如く、自分が思い至ったならば大ギルドも同様であるはずだ、という前提を生み出す。

 ここで馬鹿正直に報酬目当てで仕事をこなすのは、むしろ悪手なのかもしれない。使い捨ての駒どころか、何かの企みの生贄にされるなど堪ったものではない。ならばこそ、『【バーサーク・ヒーラー】=アスナ】』という情報を最大限に活用しなければならない。

 

(教会にアスナさんの正体を知っていると脅しをかける……のは絶対にすべきじゃない。UNKNOWNにそれとなく探って反応を……いいや、接点が無い以上は止めた方がいい。せめてランク持ちになれば、世間話を装うこともできるが……)

 

 考える。考える。考え抜いて、エイジは結論にたどり着く。

 

 

 

 

「良いぞ。実に良いぞ。1人で悩んで決めれぬならば相談する。それもまた我々が仲間にして同志であればこそ可能であることだ」

 

 

 

 

 

 喋る前に口回りのケチャップを拭いてもらいたい。ワンモアタイムにて、大盛ナポリタンを3人前も平らげたスレイヴを前に、エイジは溜め息を吐きながら頬杖をつく。

 

「分かってますか? 僕のサンドイッチで300コル、貴女のナポリタンが550コル×3、オリジナルブレンド珈琲が200コル×2で、合計で2350コルの出費です。昼食だけで2350コルですよ? せめて大盛を止めるくらいの経済意識は無かったんですか?」

 

「レッスン3『食を軽んじた者には死あるのみ』だ。古今東西において、メシに気を配らない輩の末路など似たり寄ったりだぞ。ほら、お前も食え!」

 

 フォークでぐるぐる巻きにしたナポリタンを差し出すスレイヴに、エイジは要らないと鼻息を吹きかける。だが、彼女は知った事ではないとばかりに彼の口に押し込んだ。

 ケチャップが絶妙に絡んだ、何処か懐かしさを覚える味付け。さすがは傭兵も大ギルドも争いごとを持ち込むのはご法度とされる至高のユートピア、ワンモアタイムの昼食メニューである。ケチを付けることも出来ない味にエイジが黙れば、悪戯が成功した子供のようにスレイヴは笑う。

 

「どうだ? 美味いだろう?」

 

「それは認めるしかないようですね」

 

「まぁ、お前が作ってくれるスパゲティの方が俺は好きだがな」

 

「…………」

 

 スレイヴと話をしているといつも調子が狂う。至福を味わうようにハムスターのように両頬を膨らませてナポリタンを食べるスレイヴから目を背けながら、エイジは珈琲を飲んで気持ちを落ち着かせる。

 エイジたちが腰を下ろす2人用のテーブルは、1階の1番奥の席である。夜は酒場になるワンモアタイムにはカウンター席からずらりと並んだお酒を眺める事も出来る。2階はテラスもあり、夕焼けや星空を見ながらディナーにも適している。

 DBOで最も安全に飲み食いできるプレイヤー経営の飲食店、それがワンモアタイムだ。だが、秘密の会話を望むエイジからすれば、人の耳が多過ぎた。だが、スレイヴの希望で食事をしながら話し合いをすることになったのである。

 

「秘密の話は人前で堂々とするのが1番だ。その方が誰も気に留めない」

 

「リスクを下げる工作が必要なら、家ですればいいのでは?」

 

「それでは、ここのナポリタンが食べられないではないか!」

 

 真面目に相談するのも馬鹿らしくなったエイジは、今ここでわざわざアスナについて話題にするべきではないと後回しにした。

 

「お前の相談したいことは分かっている。『彼女』についてだろう?」

 

 このまま昼食を終えてフェードアウトを狙っていたエイジであるが、相談内容を勘違いしたらしいスレイヴの自信満々の表情を見て、とりあえず話題に乗ることにした。

 

「ええ。情報は何か掴めましたか?」

 

「『ネットワーク』に検索をかければ、もっと情報は得られるかもしれないが、ホルン姉さん以外の家族とはなるべく接触は避けたい。だから、この手の専門家の力を借りた。結論から言おう。『彼女』はDBOで復活していない」

 

「…………」

 

「何だ? そのガッカリしているようで、ホッとしているような顔は」

 

 自分はそんな矛盾を孕んだ表情をしているのか。エイジは左手で頬に触れ、自嘲を零す。

 今でこそ大ギルドによってある程度の秩序がもたらされているが、裏通りに1歩踏み入れば、エイジが良く知る人間の悪辣さと欲望で支配されている。先日のスレイヴとの出会いがまさにその証拠だ。表だけを取り繕えているだけでも大ギルドの意義はあるが、DBOの本質……人間の本性を暴く無秩序は決して失われていない。

 こんな世界に『彼女』がいる。どんな形であれ、自分とは違ってSAOで立派に戦って死んだはずの『彼女』がいる。それは死者にとって安寧を得られる天国など無く、人間の醜悪さだけを知らしめる地獄に落ちたのと同じことだ。

 ……いいや、違う。エイジは奇麗に取り繕った言い訳を払い除ける。『彼女』が復活しているかもしれない、再会できるかもしれない可能性を知りながら、探し出そうとする勇気も無かった自分を直視しないで済んで安心しているだけだ。己の弱さと醜さに、エイジは奥歯を噛む。

 

「心が折れぬ者に『強さ』を得られる道理など無い」

 

 だが、エイジの鼻を右手の人差し指で押して、表情を無理矢理歪めたスレイヴは優しく笑む。エイジの心の動きを見透かしたような穏やかな眼差しは、『憎悪』のレギオンとは思えぬ程に、まるで冬の灰色の空から差し込んだ陽光のような温もりがあった。

 

「打ちのめされ、膝をつき、心が折れようとも、それでもなお立ち上がる。それが『強さ』というものだ。己の足で再び奮い立つも良し。誰かの手を取るも良し。過程などどうでもいい。お前は俺の手を取ったではないか。お前は自分が思っている程に『弱い』わけではない」

 

「……スレイヴ」

 

「だからもっと笑え。笑っていいんだ、エイジ。俺はお前の憎しみを尊ぶ。だが、憎しみで腐って滅びる様が見たいわけではない。憎しみと共に進むお前の道の先に、確かな『答え』があると信じているのさ」

 

 更に強く指を押し込まれ、エイジは椅子が傾いて危うく後頭部から倒れそうになる。慌てた彼を、スレイヴは楽しそうに笑う。だが、彼女から漂う強い薔薇の香水は、避けられぬ滅びの運命を示す腐臭を隠す為のものだ。こうしてエイジと会話を重ねる時間も、スレイヴの余命を着実に削っている。

 それでもスレイヴは笑っている。今この瞬間をエイジと語らえることが楽しくてしょうがないといった様子で笑っている。そう思えばこそ、エイジも釣られて肩の力を抜いて苦笑をしてしまった。

 

「復活はしていない。だが、お前が『彼女』と再会できないと決まったわけではない。専門家から詳細を聞かずに結論を出すのは早いだろう。だが、この専門家が少々厄介だ。相手はお前を認めたわけではない。奴は仲間とは言い難い存在でな。あくまで目的の1部を共有しているだけだ。利害関係の一致というものだな。だが、それは俺に対してのものであり、お前は含まれていない。なにせ、今のお前は『その他大勢の有象無象プレイヤー』だからな。世間の評価は何であれ、奴にお前の有用性を証明しなければ、話はまるで進まない」

 

「だから傭兵業とネームドの単独討伐ですか」

 

「そうだ。何も資金だけが目当てではない。ネームドの単独討伐という偉業は、人間の極致に手をかけた可能性の持ち主の証拠にもなる。そして、傭兵というポジションは、俺達では得難いプレイヤーとしての立場から個人で大きくDBOの事情にアプローチをかけられる」

 

 有用性を証明する。エイジはSAO書籍に記されることもなかった『名も無きプレイヤー』に過ぎない己を自覚する。

 今ここにいるエイジというプレイヤー……いいや、人間は限りなく価値が低い。だが、それでもスレイヴは可能性を信じて、己の全てを賭けて邪剣ダーインスレイヴを託してくれた。

 たった1つの武器……強い憎しみ。八つ当たりにも等しく他者に牙を剥き、だがそれ以上に己の心を抉り続ける憎悪こそが、エイジとスレイヴを繋ぐ縁となった。

 

「真剣さが足りませんでした。謝罪させてください」

 

「構わんさ。いきなり傭兵にジョブチェンジしたんだ。目的地も分からぬままアクセルを踏めと言われて躊躇わない蛮勇など評価にも値しない」

 

 ワンモアタイムから出たエイジたちは、その足でサインズ本部に向かう。

 今日もサインズは数多の傭兵や依頼人、関係者で賑わっている。ランキングボードには、傭兵たちのランクがずらりと記載されている。だが、受付嬢の1人であり、エイジも思わず男として視線が傾いてしまった凶悪胸部装甲の持ち主である、ゆるふわ系ギャルといった外見のルシアが、ランク44……ランクを得たばかりのルーキーの名前を外し、悲痛が伴った嘆息を漏らす。

 生まれた空白が意味するのは、傭兵からの引退か、それとも死か。後者であることはルシアの表情から見ても明らかだ。よくよく見れば、他にも空白は複数ある。更新されたのは11月初頭であり、まだ1週間足らずしか経過していないにも関わらず、3人も傭兵が亡くなっている事実をエイジは重く受け止める。

 

「5人に1人だ。貴様には何のことか分かるか?」

 

 と、そこでエイジは急に声をかけられ、思わず目を見張る。いつ間にか傍らに立っていたのは、燃えるような赤い鎧を装備した長身の男だ。鎧よりもなお赤い短髪と背負うのが重量型の両手剣ともなれば、必然として誰なのかエイジにも嫌でも分かる。

 一騎当千の傭兵において頂点の称号たる『ランク1』の男、ユージーンだ。古巣のクラウドアースの専属傭兵ともなれば、何か因縁をつけられたのかとも思ったが、そもそもとしてかける言葉もなく離籍届を受理された自分にそんな価値はなかったか、とエイジは苦々しく自己評価する。

 ランク持ちではない、傭兵としてルーキーと呼ぶことさえも出来ない自分に、先輩として声をかけてくれた。そんな程度だろうとエイジは判断する。いつの間にか自分から離れていたスレイヴを視界の端で追いながら、昨日の【若狼】の時のような無礼を働かないように態度に注意すべく気を引き締める。

 

「ランクを持ったルーキーの1ヶ月後の残存率だ。仕事に失敗して死ぬか、己の実力不足を痛感して引退する。そのどちらかだ。専属であれ、独立傭兵であれ、最初の1ヶ月で嫌でも篩にかけられる。傭兵でも最弱の部類の【運び屋】でさえ、単独撃破できるかはともかく、ネームド相手にソロで戦うことができる。『その程度』も出来ない弱者ならば淘汰される厳しい業界だ。見ての通り、入れ替わりも激しい」

 

「逆に言えば、古株はいずれも実力者揃いというわけですか」

 

「実力者というよりも曲者といった方が正しいだろう。良くも悪くも『まとも』な精神の持ち主は、傭兵として生きていけるものではない」

 

 ユージーンが苛立つように視線を向ける先では、傭兵でも竜虎コンビと名高い2人がグラビア雑誌を挟んで激突している。互いの拳のラッシュが衝突し合う様は、もはや爆発音にも等しい公害クラスであるが、誰も気にする様子はない。

 カウンターに目を向ければ、テンガロンハットが特徴的な探索専門とされる傭兵のカイザーファラオが受付嬢の1人にコブラツイストをかけられている。

 傭兵だけが利用できる談話エリアでは、無駄を極めた無駄にカッコイイポーズを赤褌1枚の姿で決める聖剣騎士団最強の傭兵であるグローリー。そんな彼の1メートル圏内で、ミニスカートのアイドル衣装を手に、顔を真っ赤にして震えているのは、太陽の狩猟団が誇るランク3のシノンだ。

 他にも様々な傭兵はいるが、いずれも自由気ままに好き放題にやらかしている。そんな傭兵たちの姿が日常だとばかりに、サインズの職員たちは見向きもしない。

 実力は確かであるにも関わらず、どうして大ギルドに属さないのか。あくまで専属なのか。そして、大ギルドに与しない独立傭兵まで存在するのか。その端的な理由を見せつけられたようであり、エイジは厳格な理屈ではなく、心に生まれた納得を重視した。こんな連中をきっちり組織で管理しようなど、大ギルドでも願い下げの案件なのだ。

 

「魔境ですね」

 

「その一言で済ませられるならば、貴様も傭兵としてやっていける素質はある。励めよ、ランク無し。貴様はまだ傭兵ですらないのだからな」

 

 激励に対して、エイジは感動などしない。だが、ユージーンという男の器の大きさだけは実感する。

 言われずともランク持ちには必ずなってみせる。これから仕事らしいユージーンの背中を見送り、エイジはランク無し用に準備された、質素な仕事掲示ボードに向かう。このボードからランク持ちの傭兵でも仕事を受けることは可能であるが、暗黙のルールとして手出ししない事になっているのだ。

 

(農園予定地に大量ポップする【オオアオナメクジ】の討伐と巣の駆除……推定水準レベル40、報酬は2万コル、経費負担無し。結婚詐欺を繰り返す女性プレイヤーの捕縛依頼、報酬1万コル。犯罪ギルド【アンバー=ダイバーズ】の拠点調査依頼、報酬5万コル、クラウドアースが経費2割負担。どれも点数を稼げそうな依頼じゃないな)

 

 他にも山ほどあるが、いずれもその日の食費と経費でほとんど報酬が消えそうなものばかりだ。

 掲示ボードの前に立つ他のランク無しも様々だ。覇気がなく簡単な仕事を持って行く腑抜け。向上心を剥き出しにして高難度そうな仕事を選ぶ蛮勇。そこそこの評価を狙う堅実。色々な姿を見て取れる。

 

(依頼内容に騙されるな。1発大きな花火を打ち上げればいい。それが出来る依頼を――)

 

「おーい、エイジ! 仕事もらって来たぞー!」

 

 エイジは真剣な表情のまま依頼掲示ボードに顔面から突っ込む。

 発破をかけてやる気を出させておいて、根こそぎ奪い取るような真似は止めてもらいたい。エイジが怒りを堪えながら振り返れば、自信満々と言った顔をしたスレイヴが迎える。

 

「ランク持ちとの協働依頼だ! お前を紹介したら、是非ともご一緒したいということだ!」

 

「騙されたんですよ。何処にランク無しと協働してくれる奇特な傭兵がいるんですか」

 

「ん? 普通にいたぞ。ほら、あそこだ」

 

 スレイヴが指差す先には、受付カウンターで洗練を重ねて無駄が多過ぎる程に輝かしいポーズを決める、赤褌1枚の変態スタイルの傭兵がいた。

 

「どうした? 顔が怖いぞ、エイジ? そ、その洗濯ばさみは何処から取り出した? 止めろ! 止めるんだ! 鼻パッチンは嫌だぁあああああああ!」

 

 鼻を洗濯ばさみで潰されて美人が台無しになったスレイヴを置き去りにして、次々とポージングを決める、傭兵業界において、ある意味で最悪の称号をほしいままにする傭兵の前にエイジは立つ。

 ランク5のグローリー。週刊サインズでもぶっちぎりの得票率で『最も協働したくない傭兵1位』の座を欲しいままにする人物だ。実力は確かであり、性格はむしろ善人の部類なのであるが、協働相手の精神を適確に攻撃するフリーダム過ぎる行動が特筆される傭兵でもある。

 エイジがランク無しとしてキャリアを出発した日に、同じランク無し達から3つの忠告を受けた。『ライドウに関わるな』・『グローリーと協働するな』・『【渡り鳥】に近寄るな』である。

 バトルジャンキーとして合理性に欠けた行動を多々取るライドウ。SAOにおける虐殺なども含めて最も危険な傭兵にしてプレイヤーである【渡り鳥】までは、誰もが理解するところだ。だが、グローリーに関しては前の2人とは違う、多くの『経験者』たちがせめて後続が『悲劇』を回避するために残した忠言なのである。

 

「やぁ、キミが美人さんの言っていたランク無しですね! まずは騎士として挨拶を! 挨拶は騎士道の基本ですからね! 私はグローリー、見ての通り騎士です!」

 

 傭兵じゃないのか? いや、それ以前に褌1枚では変態と名乗るべきではないのか? エイジは心の中で即座にツッコミを入れたが、言葉として発さず、また表情も動かすことなく、丁寧に腰を折る。

 

「エイジです。この度は僕のような――」

 

「礼儀は大事ですが、私達の関係には不要です。騎士として、輝ける栄光の騎士ロードを走らんと志したならば、貴方もグローリー☆ナイツのメンバーの資格を持っているのですから! おっと、ですが簡単には正規メンバーとして認めませんよ? キミも騎士として試練上等であるはず。功績を立て、ランクという騎士叙勲を果たし、グローリー☆ナイツに加わる! キミの騎士☆プライド、騎士の中の騎士たる私は重々承知しているのでご安心を☆」

 

 ウザい&理解できない……いいや、理解したくない。DBOという気を抜けば鬱屈した重苦しい空気が流れ込んでくるデスゲームにおいて、明らかに場違いな雰囲気で周囲を汚染していくグローリーに、エイジは『経験』として、彼と協働することがどれだけの精神的苦行に値するのかを理解し始める。

 

「これは失礼しました。仕事の話でしたね。実は聖剣騎士団にあるダンジョンの調査依頼を任され、ランク44の新人君と一緒に乗り込んだのですが、思わぬ窮地にアーマー☆テイクオフをしてしまったんです。お恥ずかしいことに、システムウインドウで回収し忘れてしまって、所有権が失われてダンジョンに放置されたままなのですよ。一緒に仕事をしていたランク44は、説得も虚しく傭兵を辞められてしまいましたし、私も騎士☆アーマーをこのまま損失するのは惜しい。それに仕事も完遂していませんからね。そこで仕方なく1人で赴こうとしていた所に、キミとの運☆命の出会いに恵まれたのです!」

 

 ランク44は死んだのではない。グローリーとの協働で精神を病み、傭兵としてやっていける自信が無くなって引退したのだ。先ほどのルシアの悲痛の嘆息は、ルーキーをそのウザさで潰してしまったグローリーに対するものだったのか、とエイジは頭痛を、そして早くも胃痛を覚える。

 だが、これは好機だ。グローリーとの協働という事は、高ランク傭兵が従事する仕事に同行できるという事だ。報告書にはエイジの名前が載ることになる。スレイヴは決してお遊びでグローリーとの協働を取って来たわけではないのだ。

 

「キミには申し訳ありませんが、ランク無しとの協働には少々面倒な手続きが多いので、今すぐに出発というわけにはいきません。ですが、心配ご無用です! キミの輝かしい栄光の騎士☆ロードの歩み、この私が加速させましょう! 騎士として! 騎 士 と し て ! 騎 士 と し て !」

 

 ウザい。エイジは心の底からそう思い、また周囲の傭兵や職員たちの哀れみの視線を全身に浴びて拳を握る。

 だが、このチャンスを逃すものか。エイジは固い決心をして、グローリーの差し出された手を握った。

 

「ところで、どうして裸なのかお伺いしても?」

 

「フッ、私の到着を待っている騎士☆アーマーへの、せめてもの慰め……でしょうか」

 

 本当にやっていけるだろうか。エイジは今にも体をくの字のしたい程に胃が痛み始め、人生で初めて心から胃薬を所望した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

(フン、このランク1が傭兵ですらないランク無しの探りとはな)

 

 サインズ本部を後にしたユージーンは、ベクターから頼まれた、先日クラウドアースから離籍して傭兵登録をしたプレイヤーを思い返す。

 新たにエイジと名乗りを変えたランク無しは、やや奇妙な経歴の持ち主だ。エリートプレイヤー候補生としてスカウトされるも、テストの情報が網羅されたリポップ型ネームドとの戦闘で腰を抜かして動けない醜態を晒し、以後は終わりつつある街の巡回警備に配属されていた。だが、何を思い立ったのか、いきなりクラウドアースに離籍届を提出した。理由は傭兵への転職である。

 クラウドアースとしても優秀な専属傭兵は1人でも欲しい。だが、レベルよりも大幅に低い水準レベルの、能力も全て明らかになっているリポップ型ネームドを相手にして、パーティメンバー全員が連携を取って撃破している中で、1人だけ震えて動けなかった『ゴミ』に割く時間はないと、あっさりと離籍届を受理した。

 だが、報告を偶然にも目を通したクラウドアース評議会の議長を務める、大ギルドの表向きのトップであるベクターは違った。

 

『何処にでも使い道のない「クズ」というものは存在するものだよ。だが、小さな傷を見逃して大きな病を招いてもつまらない。簡単で構わない。彼について少し探りを入れてもらいたい。この先、クラウドアースの害悪になるかどうかを……ね』

 

 有象無象の石ころではなく、『クズ』という表現。ランク1のユージーンに任せたのは、ベクターにはない戦士としての目でユージーンの意見を聞きたいからだろう。それもランク1に頼むともなれば、酷評したからこそ、ベクターにも何か思う所があるのかもしれなかった。

 

(実力はあるが、精神が貧弱で発揮できない典型だろう。試合では強くても実戦では成果を出せない。哀れなことだ)

 

 ユージーンも多くの死闘を潜り抜けた猛者だ。特にアルヴヘイムの冒険は彼を大きく成長させた。そんな彼の目から見たエイジは、たとえ傭兵を目指したとしても、精神が屈伏して醜態を晒すか、あるいは死体となるか、そのどちらかに思えた。

 だが、まるでゴミが沈殿した水路の汚水のように濁った眼に、どす黒い執念のようなものを感じたのも確かだった。それがユージーンの足を止め、思わず話しかけた要因にもなった。

 傭兵としてやっていけるか否かは別として、あの類の人間は危険だ。ユージーンはどのような報告をすべきか迷う。内容次第では、ベクターは大事を取って、1秒もかからぬサインで『処理』を認可するはずである。

 限度を超えた危険な依頼を1つ与えるだけで済む。大ギルドとして圧力をかければ、後ろ盾のないランク無しは引き受けるしかなく、自ら死地へと赴く。後は暗部を配置し、確実な死を見届けさせればいい。

 

(せいぜい抗うがいい。このオレに出来るのは、貴様の『処理』を止めることくらいだ)

 

 これで良いのだろう、サクヤ? ユージーンはエイジを『見るに値しない』と、ベクターと同等の酷評を敢えて下す決断をする。評価通りだったならば、エイジは傭兵業界から去るか死ぬ。間違っていたならば、ユージーンは肩を竦めて自分の目が狂っていたようだと批判を受け流すだけだ。

 考える。考え続けている。決して頭から離れないサクヤの末路と共に、ユージーンは自分が成すべきことを考える。

 聖剣騎士団が主導となって提示された新たな完全攻略の定義。『永住』と『帰還』という究極の選択。ユージーンは、完全攻略にプレイヤーを導く『ランク1』として、自分はどちらを選択すべきか悩んでいた。

 無論、この2つを両立させる方法が決して存在しないとは言い切れない。だが、大ギルドは完全攻略に向けて動き続けている。いずれはクラウドアースも正式に『永住』と『帰還』のいずれかを表明するだろう。現実世界に肉体を持つプレイヤーが既に少数である以上、大ギルドとしての組織力を保つためには、必然として前者以外の選択肢はない。そして、その時は専属としてユージーンも表明を求められる。

 

(現実世界に残されていた貴様の遺体は、もう葬られているだろう。オレが望むのは、DBOをクリアしたと貴様の墓前で報告することだ。オレがランク1として完全攻略を成し遂げる『英雄』となり、貴様の勝利として現実世界に凱旋する。それこそがオレの願いだ。だが……)

 

 仮に『帰還』を選んだならば、帰るべき肉体を持たないプレイヤーを待つのは当然ながら『死』だろう。数多の試練を共に潜り抜けた先にあるのは、自らの滅びであるなど、誰も許容できるはずがない。『帰還』を志す者は、帰るべき肉体を持たないプレイヤーにとって等しく邪悪なる敵なのだ。

 表明するまで、まだ時間は残っている。また、セサルは『帰還』こそが大前提である以上は、クラウドアースも軽々しく『永住』の表明は出来ないはずだ。だが、太陽の狩猟団が先んじて表明すれば、同じ大ギルドとしてクラウドアースも決断を迫られることになる。

 

(サクヤならどうする? 肉体を持たぬ多数の為に『永住』を選ぶか、それとも目指した現実世界への『帰還』を貫き通すか)

 

 分からない。ユージーンはこのような迷いを抱えたままでは、いよいよ迫ったUNKNOWNとの戦いで後れを取ると己を恥じる。

 UNKNOWN戦を視野に入れた装備も整い、後はクラウドアースのゴーサインを待つだけだ。不確定要素として、協働相手がまだ未決定であるが、誰であろうとも自分とUNKNOWNの一騎打ちを邪魔させるつもりはない。

 ベクター曰く、セサルの推薦もあり、【渡り鳥】が有力候補として挙げられている。どれだけラストサンクチュアリに壊滅的な打撃を与えて幕閉じさせようとも、【渡り鳥】の悪名が批判を引き受けるという打算があるからだ。セサル個人としては、浅からぬ関係であるUNKNOWNと戦わせたいという要望があるようだった。

 次点で同じく独立傭兵のスミスだ。ミッションの遂行を最優先する理想的な傭兵であり、ユージーンが前衛を務めれば、後衛として完璧にサポートに徹し、間違いなく勝利をもたらすだろう。【竜狩り】オーンスタインを単独撃破し、最強傭兵候補にも数えられる彼も加われば、UNKNOWNの敗北は確実だ。もちろん、ユージーンはスミスのサポートなど認可するつもりはないが、あくまでミッション達成を優先して適確な横槍を入れてくることは目に見えていた。

 同じく専属傭兵であるライドウも候補に挙がっているが、ユージーンとの性格面での相性も悪い以上は、選ばれる確率は低いだろう。だが、仮に協働相手となった場合、ユージーンが何を言おうともUNKNOWNの撃破を優先して動くことは間違いない。むしろ、ユージーンを邪魔者として攻撃してくるパターンさえも想像できた。

 生中継も予定される以上は、クラウドアースは絶対的な勝利を得ねばならない。それが大ギルドの威信だ。ユージーンからすれば、協働相手が準備される時点で、自分ではUNKNOWNに勝てないと評価されているようで気に食わないが、念には念を入れねばならないクラウドアースの不安も分かる程に、揺るがぬ勝利のビジョンが持てる相手ではないこともまた事実だった。

 故に準備は怠らない。最高の精神状態と最高の装備で挑まねばならない。ユージーンは気合を入れるべく、今回の仕事もきっちりこなすと意気込む。

 

「……どうも」

 

 だが、今回の依頼に同伴する人物は、ユージーンに渋い顔をさせるしかなかった。

 ユージーンが好む、女性らしい豊かさとは無縁の、細身で小柄の少女。幼さが濃い可愛らしさは、今はどんよりとした影がかかっている。

 クラウドアースより派遣された、セサル直轄の暗部に所属し、なおかつチェーングレイヴとも深い関わりを持つユウキだ。アルヴヘイムで多少の交流こそあったが、友好を築けたとは言い難い相手に、ユージーンはあくまで傭兵として仕事をこなす鉄仮面で応じる。

 

「このオレがパートナーで不満か?」

 

「そういうわけじゃないよ? ただ、こういう仕事は……」

 

「【渡り鳥】が適任だろうな。だが、ヤツは随分と仕事が詰まっていると聞く。残念だったな」

 

 気持ちは分からないでもないがな。ユージーンが鼻を鳴らせば、ユウキは態度が悪かったことを詫びるように頭を下げた。

 今回の仕事は、ここ最近になって巷を騒がせている女性プレイヤー連続殺人事件の調査だ。

 教会の死体の検分によって、被害者は肉体を保有するプレイヤーばかりであるとすでに判明している。仮想世界を唯一無二の生きる場所にして、自分たちは選ばれた存在であると公言する過激派の新人類の犯行とも予想されていたが、教会の記録によって、そもそもとして殺害された女性プレイヤーは教会で自分の真実を確かめていない事が明らかになった。

 故に偶然の連続か、あるいは『リスト』を何者かが盗み見て犯行に及んでいるか、どちらかも分かっていない。だが、何にしても大ギルドも教会も事件を放置するわけにもいかず、傭兵に仕事を依頼することになったのだ。

 被害者はいずれも治安の悪い区画で遺体が発見されている。ならば犯罪ギルド……特に武闘派であるチェーングレイヴの情報は欠かせない。ラストサンクチュアリ壊滅前に、世間からの評価を少しでも高めておきたいクラウドアースは、他の大ギルドよりも先に事件を解決すべく、パイプのあるユウキに白羽の矢を立てたのだ。

 無論、ユウキがチェーングレイヴとパイプ……どころか、1員であることはクラウドアースでも1部しか知らない情報だ。具体的にはヴェニデとクラウドアースの上層部だけである。同じ暗部でもヴェニデに属さない者は正体を知らされていないとユージーンは聞いていた。

 ユウキの存在は、クラウドアースが密にチェーングレイヴとコンタクトを取り、裏でしっかりと握手して協力関係を結んでいる証拠でもあるのだ。

 

「犯人は不明だけど、『被害者の奇妙な行動』について複数目撃情報があるんだ」

 

「資料は確認させてもらった。にわかに信じがたいな」

 

 今回の女性プレイヤー連続殺人事件は、単なるPKではない。

 まず被害者についてであるが、いずれも見るも無残な遺体……敢えて分類するならば『焼死体』で発見されている。皮膚は焼き爛れ、目玉は蒸発し、内部から炸裂して体液と内臓は煮込まれたシチューのようになって垂れ流されていた。

 過度な加虐を好む変態の所業かとも思われたが、プレイヤーの犯行の限度を超えた損壊。なおかつ、装備やアイテムを強奪された様子もない。

 そして、大ギルドとチェーングレイヴの情報収集によって『被害者』の奇行が明らかになった。

 被害者はいずれも失踪する数日前から体調不良……特に頭痛や眩暈を訴えていた。また、他人に対して痛烈な発言を繰り返すようなっていたという。いずれも相手の感情を見透かした適確な言動であり、被害者の1人の恋人だった男性プレイヤーは、悟られる気配もなかった浮気を見事に言い当てられたと、恋人の死を悲愴の表情で受け入れきれぬ様子で赤裸々に語った。

 無論、ユージーン個人としては、女の直感は恐ろしいものであり、その執念深さも少なからず承知している。単に浮気を嗅ぎつかれただけかとも思う所であるが、類似した言動の不安定さは確認されていた。

 その後、行方不明になった女性プレイヤーは、主に人目のつかない区画で行動していたことがチェーングレイヴの報告で明らかになった。壁に頭を叩き付ける。すすり泣く。奇声を上げて蹲る。およそ正気を保っているとは思えない報告例ばかりだ。また、彼女たちと思われる、アバターが損壊し始めた状態の目撃もある。

 目撃情報を集めたチェーングレイヴ側も半信半疑のようであるが、クラウドアースとしては見過ごせない事態にもなっている。現在、次なる被害者と予想されたのは、クラウドアースの第2期主席のエリートプレイヤー【ノリーエ】だからだ。3日前からこれまでの被害者と同様の体調不良と情緒不安定となり、クラウドアースが保護する前に行方不明となってしまった。

 

「これまでの被害者だけど、肉体持ちだけじゃなくて、全員とても優れたプレイヤーだったみたい。大ギルドか有力ギルドの所属だったみたいだからね」

 

「だからこそ、このランク1に仕事が回ってきたのだ。事件を推理するならば、『帰還』派を勢いづけかねない肉体持ちのプレイヤーを狙った犯行か。だが、殺し方が奇妙だ。少なくとも普通のやり方では、あのような遺体にはなるまい。それに行方不明になる前の奇行も他殺だとするならば、説明がつかんな」

 

 遺体の写真を思い出したユージーンは顔を顰める。これまで多くの戦場で死を見てきた彼であるが、あのような惨たらしい遺体は見たことがなかった。

 写真からも伝わる、遺体からの悲痛な負の感情。死に際の彼女たちの胸中はどのようなものだったのか、ユージーンには想像もつかなかった。

 

「貴様の意見はどうだ?」

 

「分からない。ボクもボスもまるで見当がつかないよ。だから、今できるのは目撃情報から『まだ』生存していると思われるノリーエさんを至急発見・保護することだね」

 

「そうか。オレは今回の事件、レギオンの犯行ではないかと疑っている」

 

 アルヴヘイムにおいて、最終決戦で反乱軍の指揮系統を破壊したプレイヤーに擬態するレギオン。あれがプレイヤーに『寄生』するタイプであったならば、今回の事件にも辻褄が合うのだ。

 ユージーンは『リスト』でサクヤが肉体持ちであったことを確認済みだ。だが、サクヤはレギオンプログラムによって汚染され、血に飢えた怪物となりかけていた。AIのみならず、生身のプレイヤーの自我を破壊し、怪物としての意識に作り替えてしまうことが出来るレギオンプログラムならば、被害者の奇行も納得がいく。

 サクヤの話によって、レギオンプログラムの侵蝕を妨げる要因の1つが脳という有機物であることが判明している。人間の思考と自意識を育む有機物の器こそが、レギオンプログラムの侵蝕から守る大きな防壁となっているのだ。

 逆に言えば、肉体を持たないプレイヤーはレギオンプログラムに対して、肉体持ちよりも脆弱であるという事だ。

 復活したSAO事件の死者はもちろん、DBOのマジョリティとなっている肉体を持たない由縁も知れぬプレイヤー達。彼らが原理的にはアルヴヘイムの住人と同じであるならば、レギオンプログラムの侵蝕を受け、レギオン化することは十分にあり得るということになる。

 だが、この仮説をまだユージーンはクラウドアースに報告していない。誰もがレギオンになり得るという情報が、1度でも拡散してしまえば、人々は仲間も友人も伴侶すらも信じられぬ孤独の疑心暗鬼に陥り、最後は己さえもが本当はレギオンなのではないかと疑いを持つようになってしまうだろう。それは『帰還』・『永住』以前の破滅を招くことになる。

 今回の女性プレイヤーの連続失踪事件。これが肉体持ちプレイヤーを、より簡易的にレギオン化させる実験であるならば、何としても阻止しなければならないだろう。だが、その一方でレギオンを殲滅する手段を思いつくことも出来ず、プレイヤー側はひたすら後手に回るしかないのも実状である。

 

「……ねぇ、レギオンは『悪』なのかな?」

 

 ユウキの問いに、ユージーンは思わず喉が締め付けられる。

 サクヤの末路はレギオンが決して人類と相容れない存在であるという証明だ。アルヴヘイムの決戦においても、レギオンは猛威を振るい、巨大レギオンの最奥においては知性あるレギオンの危険性をユージーンは味わった。

 だが、その一方であの時ユージーンを崩落から救ったのもレギオンだ。後の情報の擦り合わせからグングニルという名称だと特定された人型のレギオンは、およそ人類の敵とは思えぬ程に慈悲に満ちた微笑みを描いていた。

 

「倒さねばならない。どんなレギオンであろうと必ずな」

 

 レギオンは『敵』だ。だが、『悪』かと問われれば、今のユージーンには即答できない。サクヤの尊厳を踏みにじった万死に値する怪物たちであるが、巨大レギオンの底で語らいながら殺し合った知性あるレギオンには、武人として敬意を覚えずにはいられなかった。

 レギオンという種としての誇りを持ち、勝利に対して飽くなき執念を燃やし、自らの死を厭わずとも牙を剥き続けた。どれだけの人間が『人類』という種族を意識し、また矜持を抱いて戦えるだろうか?

 それでも……とユージーンは僅かな間だけ瞼を閉ざす。

 

「そうでなければ、滅びるのはオレ達だ」

 

 プレイヤー……いいや、人類とレギオン。これは決して相容れぬ敵同士だ。どちらかが滅びるまで続く生存競争にも等しく、レギオン側は戦闘能力・統制・成長性という点で圧倒的に有利である。ならば、個人的な感情は切り捨て非情の刃で討伐せねばならない。さもなければ、怪物の爪牙によって人類は滅ぼされるか、サクヤのように人間としての尊厳を奪われてレギオンに変えられるか、そのどちらかだ。

 ユージーンの発言に、ユウキは何処か悲しそうな眼差しをしたが、特に何も言わなかった。彼もまた彼女に意見を求めなかった。

 少なくとも3大ギルドの枠を超えてレギオンはプレイヤーの最大の脅威として対処することで意見を合致させている。教会の下でレギオンの脅威付けが行われ、対レギオンに重きを置いた装備や戦術は日夜研鑽されている。

 

「旧市街か。相変わらず薄気味の悪い場所だ」

 

 無駄話もこれくらいにすべきだろう。ユージーンたちは保護対象が最後に目撃された区画に到着する。

 日々拡張を続ける終わりつつある街。だが、その開発から取り残された区画も多い。ここは初期の終わりつつある街の名残が濃く残され、また獣狩りの夜による壊滅的な被害を今も刻み込んだ区画……旧市街地である。

 住人はほぼ貧民プレイヤーで構成されている。目が付く範囲でも、ボロボロの布を防寒具代わりに纏った複数人のプレイヤーが、ドラム缶に投じた薪に火を点けて暖を取っている。11月ともなれば、夏のように寒空の下で薄着で寝れば凍えることになる。本格的な冬が来れば、凍死体も増えることになるだろう。

 教会による貧者救済事業だけでは救いきれない。大ギルドの秩序とは、即ち強者の理屈と経済の成立である。

 剣を手に取ってモンスターと戦えない者たちはレベルアップする事も出来なければ、僅かなコルすらも稼げない。増え続ける人口とは、即ち貧困層の増加でもあり、大ギルドや有力ギルドがもたらす労働の需要にも限りがある。

 誰もが戦えるわけではない。自らの死が迫る瞬間に足を止めぬ方が異常なのだ。プレイヤーは正規の訓練を積んだ、国家の威信と国民の財産を守る為に戦う軍人ではない。彼らは帰るべき場所さえも曖昧な、己の命以外に何も抱えていない、信義も居場所も財産も何もかも剥ぎ取られた丸裸の人間なのだから。

 

「貴様は慣れているのだな」

 

「元職場だからね」

 

 居心地の悪いユージーンとは違い、ユウキは特に気にした様子もなく旧市街を見て回る。

 貧民の目にあるのは嫉妬と羨望だ。ユージーンが装備した鎧も大剣も、彼らからすれば欲してやまない武力と財力なのだ。

 ここでは『ランク1』という肩書きがどれ程の救いをもたらすというのか? 場違いにも程があるとユージーンは自然と拳を握る。

 

「ほら、こっちだよ。ここは目立つから」

 

 そんなユージーンの固く握られた拳を解き、そっと右手を握って引っ張るのはユウキだ。女の子らしい細くやわらかな指の感触が絡まり、だが力強く彼を貧民の目が集まる崩壊した広場から小路地へと連れ込む。

 

「キミは有名人だし、ボクよりも色々と悪感情を向けられる立場だから、気持ちが分かるなんて言わないけど、一々取り合っても仕方ないよ。キミは今の自分に誇りを持ってるんでしょ? だったら、もっと堂々としないと!」

 

 小路地の暗がりで振り返ったユウキの笑みに、ユージーンは心の中のサクヤがいなければ、間違いなく取り返しのつかない勘違いをしていただろう。

 ユウキの服装は、クラウドアースの暗部のものを改造したものだ。黒に近しい暗色の紫であり、何処となく軍服チックなデザインである。右の腕章はクラウドアースに属するいかなるギルドや部隊のものとも異なる独自のエンブレムがあり、小さく『Sleeping Knights』と刻まれている。ロングスカートは足首まで裾こそあるが、機動性を損なわない為にスカートの左側にはスリットが入れられており、太腿にはナイフホルダーであるベルトが巻き付けられている。それ故に瓦礫を跳び越える度に、まるで男心を擽る為のデザインのように、絶妙な脚部のチラリズムが視線誘導する。ある意味では、あからさまなミニスカートよりも破壊力があるだろう。

 この女、無防備過ぎるのではないだろうか? 並の男など束にかかっても一蹴できる実力があるからこそか、あるいは己の魅力に気づいていないのか。先ほどの行動といい、心を乱す魔性を感じ、ユージーンは嘆息する。

 

「オレ達も服装を貧民に合わせるべきだったか」

 

「そんなことしたら、縄張りに余所者が来たって因縁付けられて動けなくなるよ? ちゃんと武装するのは無言の威嚇だよ。まぁ、装備の売却を狙った連中に襲われることもあるから、一概に正答とは言えないけどね。それにね、貧民かそうではないかは『目』を見れば分かるから、案外すぐバレちゃうものだよ?」

 

 実戦はともかく、街の裏側についてはユウキの方が1つも2つも上手だ。如何にプライドの高いユージーンであっても、自分より富んだ見識の持ち主に無意味な反論はしない。

 

「人海戦術で見つけるべきだけど、下手に刺激するのもまずそうだし、裏に慣れてるチェーングレイヴが人員を貸してくれてるけど、早く見つけてあげよう」

 

 行方不明のノリーエを保護し、また事件の真相に近づくのが今回のユージーンの仕事だ。そのサポート役兼被害者の条件に合致する囮としてユウキは派遣されている。

 それが『表向き』の理由だ。言い方を選ばなければ、『この程度の事件』にランク1を派遣する程にクラウドアースは暇を持て余していない。ユージーンを完璧に仕上げることを優先するだろう。

 だが、今回のユウキと組まされた理由の1つは、このような胡散臭い事件に本来は適任である【渡り鳥】について探りを入れる為だ。

 クラウドアースも1枚岩ではない。複数のギルドの連合という性質上、常に派閥争いが生じている。現状クラウドアースを牛耳っているのはベクターであり、また裏から支配するのはヴェニデを率いるセサルであるが、そこには権力と財力を商品にした政略が多重に絡んでいる。

 いよいよ今月の決行が内定したラストサンクチュアリ壊滅作戦。草の根の噂からメディア、聖剣騎士団や太陽の狩猟団、有力ギルドに至るまで最終工作を進めているクラウドアースにとって、目下最大のイレギュラー要素は【渡り鳥】だ。

 ラストサンクチュアリの切り札であるUNKNOWNの正体が『彼』であることはほぼ確定している。だが、仕事は確実にこなす【渡り鳥】ならば、たとえ元相棒が敵だとしても容赦しないだろうと『予想』される。

 あくまで『予想』に過ぎない。誰も個人の胸の内にいかなる感情が存在し、いかなる思考が張り巡らされ、いかなる結論が出るのかなど、100パーセント的中できるはずがない。どれだけAIが発達しようと不可能である。何故ならば、人間は理性を重んじていながら、感情によって振り回される非合理的存在だからだ。

 2ヶ月間の休業から突如の復活。ユージーンの見た限り、ベクターにも想定外だった。それが演技か否かの判断はつかない。だが、いよいよと迫ったラストサンクチュアリ壊滅を控えたこのタイミングでの復活は、大きな不安要素なのは間違いない。

 ユウキと【渡り鳥】の関係は何なのか? 2人は恋仲とは言い難い。だが、2人の行動・言動を傍から見れば、どう見ても互いに想い合っているものだ。むしろ気づかない方が異常である。

 普段から何を考えているか分からず、礼儀正しく品のある振る舞いはやんごとなき血統の如く、だがとんでもなく抜けていてぼーっとしており、政治・交渉には壊滅的に能が無い。一方で戦闘では残虐無比であり、敵対した者には凄惨な死が約束される。仕事に関しては律儀かつ誠実であるが、彼がいる場所には必要以上の流血がもたらされる厄災の象徴でもある。

 ユージーンも何度か組まされたことはあるが、その仕事の多くで物事は最悪の方向へと転び、犠牲者は積み重ねられ、血と死で溢れた。

 無論、ユージーンは巷の死天使信仰のようなオカルトを信じてはいない。先の通り、今回の事件のような胡散臭い案件を【渡り鳥】が多く担当しているだけのことだ。ならば、必然的に陰惨な結末に繋がり易いだけだろうと考えていた。

 だが、サクヤの死が頭から離れない。豪雨と雷鳴の下で、サクヤの顔を陥没させるまで潰した【渡り鳥】は……美しかった。人間の血と悲鳴と涙に浴する姿こそが相応しいと程に、余りにも人間離れしていた。

 

「……ところで、【渡り鳥】の調子はどうだ? オレも奴とはアルヴヘイムで会ったが、あまり調子が良さそうでは無かったがな」

 

 出会って早々にサクヤの死で我を失って殴り掛かった、とまでは言えずに、ユージーンはやや言葉を濁しながら問いかける。

 途端に先程まで快活にして純粋とも言うべきだったユウキから表情が変化する。

 

 

 

「ねぇ、それって『仕事』に関係のあることじゃないよね?」

 

 

 

 可愛らしく小首を傾げながら、ぞっとするほどに光が灯っていない眼で、ユウキは笑った。

 

「クーは『元気』だよ? でも、ユージーンさんって、クーを気遣う程に仲良かったかな?」

 

「奴は敵にも味方にもなり得る独立傭兵だ。特にラストサンクチュアリの件は貴様も耳にしているだろう? 奴に白羽の矢が立ちかねない以上、重要な協働相手となるかもしれんからな。ましてや、相手はかつての相棒だ。奴のコンディションについて知りたいのは当然だろう?」

 

「そっか。そうだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃった」

 

 滑らかに言葉を並べたユージーンに、ユウキは謝罪を述べる。表情は元通りだが、目だけは一切変わることなく、まるで路傍の石……いや、アスファルトを割って伸びた雑草を見るかのように、感情がまるで籠もっていない。

 類は何とやら、か。ユージーンはアルヴヘイムで関わったUNKNOWN関連の女性たちを思い浮かべながら、その相棒だった【渡り鳥】も同類だったかと溜め息を吐く。

 

「オレも奴が2ヶ月間ものんびり休暇を取っていたとは思っていない。本当に休んでいたならば、レベルが追い付かないはずだからな。だが、レベル100以上の戦力であるとサインズが認定している」

 

 ステータスやスキルの公開を強要するのはご法度であるが、サインズは傭兵の戦力評価の為に、最低でもレベルだけは確認する権力があり、傭兵はこれに応じる義務がある。サインズが判子を押している以上、休業していた2ヶ月間は、何らかの裏の仕事に従事し、しっかりとレベルアップしていたことになる。

 

「この2ヶ月間、何をしていたのかに興味はない。奴は強い。協働するならば、他のいかなる傭兵よりも信用を置ける相手だ。その上でオレは不安だ。奴の内面というものがまるで読めん」

 

「…………」

 

 語気を強めたユージーンに、ユウキは立ち止まって灰色の空を見上げる。快晴とは程遠く、だがこれ以上荒れることもないだろう、どんよりとした曇り空だ。

 

「クーは……どんな依頼だろうと果たすよ。それだけじゃ不満なの?」

 

「協働相手に信頼は要らん。信用だけで十分だ。オレが問いたいのは心の問題だ。ターゲットは奴の元相棒だからな」

 

「だったら依頼しなければいいんだよ。それでも、クーを選ぶのは『元相棒だろうと殺せる』って確信があるからでしょ?」

 

「クラウドアース『は』そう思っている。だが、これはオレ個人の疑念……いいや、懸念だ。奴はUNKNOWNを『殺せる』のか?」

 

 仕事ならば完遂させる。【渡り鳥】は引き受けた仕事を必ず達成させるという信用はある。だが、その内面が分からない以上は、ユージーンとしてはラストサンクチュアリ壊滅作戦だけは決して組めない理由になる。

 ユージーンの強い眼差しに折れたのか、ユウキは小さく嘆息して振り返った。

 それは今にも泣きだしそうな程に、切なさと儚さで浸された、だがそれでも明るく振る舞いたいと望むようなユウキの笑顔だった。

 

「『殺す』よ。『敵』である限り、絶対にね」

 

「……オレが悪かった。この仕事、早々に済ますとしよう」

 

 惨酷な質問だ。ユージーンは己を恥じる。

 それが『敵』であるならば、共に戦場を馳せた元相棒であろうとも殺すことができる。それ即ち、敵という立場であるならば、どんな事情があろうとも一切の容赦なく、完膚なきまで殺し尽くすことができるということだ。

 傭兵ならば、昨日の協働相手が明日の敵という事も十分にあり得る。独立傭兵といういずれの陣営にも与していない立場ならば尚更だ。傭兵ならば、誰もがそうした覚悟を抱いて依頼を受けている。

 だが、【渡り鳥】は根底が異なる。ユージーンはどうしてもそう感じてしまう……心の奥底で恐怖という感情を覚えるのは、サクヤを殺した【渡り鳥】が頭から離れないからだろう。彼がいなければサクヤは身も心も怪物に成り果てていた。ならば、【渡り鳥】は彼女の魂を救ったことになる。

 そのはずなのに、時間が経てば経つほどに、記憶の中の【渡り鳥】の美しさとおぞましさが際立っていく。それが言い表せぬ不安の元凶なのだ。

 

「それと1つ言っておくが、仮に【渡り鳥】と協働しても奴に出番はない。せいぜいがラストサンクチュアリの防衛部隊の相手だろう。このオレがUNKNOWNを倒す」

 

「へぇ、自信満々だね。秘策があるんだ」

 

「フン。それはお互い様だろうがな。奴もまた策を練っているように、こちらも準備を怠らぬだけだ」

 

「そっか。期待してるね。ボクはユージーンさんが勝つ方に賭けたんだから。あの真っ黒をボコボコにしちゃってよ!」

 

「……何か私怨があるのか?」

 

「あると言えばあるけど……恨んでいいことじゃないって分かってるから。でも、それと感情は別! ユージーン先生、お願いします! ボコボコにしちゃってください! あのキザな仮面をぶち割ってください!」

 

「フッ、任せておけ。このオレが奴を倒し、誰が完全攻略の担い手に相応しい『英雄』かを全プレイヤーに知らしめてやる!」

 

 ジョークと本気が混じった会話で濁っていた空気を正し、ユージーン達はノリーエを探す。

 貧民プレイヤーばかりの旧市街において、上位プレイヤーであるノリーエは目立つはずだ。だからこそ、目撃情報から大よその所在地は把握できた。

 

「だが、解せんな」

 

「何が?」

 

「これまでの犠牲者いずれも裏通り近くとはいえ、人目のつく場所で発見された。考えたくはないが、ノリーエも今までの犠牲者と同じ末路を辿るならば、旧市街では遺体が発見され難いはずだ」

 

「言われてみれば、確かにそうだよね。でも、今までの犠牲者も旧市街とか表通りから離れた場所で目撃例が集まってるし、何でだろう?」

 

「あくまで潜伏場所……ということかもしれんな。被害者が何故そのような行動をとるかは、このオレにも分からん」

 

 仮に上位プレイヤーの死体があれば、武器や防具を根こそぎ奪って売却され、死んだこと自体が認識され難いはずだ。

 死者の碑石の撤廃によって、DBOを覆っていた欺瞞と虚偽は剥ぎ取られた。その一方でプレイヤーの生死を迅速かつ正確に把握する手段も失われた。聖剣騎士団の功罪はどちらも大きく、またディアベルは奇麗事だけで完全攻略を目指さないという覚悟を同時に示した。

 誰もが耳障りの良い言葉に流される。DBOのように明日すらも分からぬ程に、大ギルドの秩序という薄皮を剥げば、市街の外の戦場に出れば、死と狂気が蔓延する世界ならば尚更だ。だからこそ、宗教は心の拠り所となり、神灰教会は大きな信仰を集めている。

 だが、時代を作るのは甘言ではなく、信念に裏打ちされた宣言と実力で示された結果だ。それが1段1段と確固たる足場となり、崇拝にも似た支持を集めるのだ。

 かつてのディアベルは、清廉な理想を掲げる、偶像にも似たリーダーだった。それは多くの人々を魅了し、円卓の騎士のような猛者たちを集わせた。だが、そんな彼は策謀と政略を駆使する他2つの大ギルドに翻弄されていた。

 だが、今のディアベルは違う。清濁併せ呑み、付き従う人々にも不利益は被るという事実を突きつけ、その上で自分が未来を切り開き、完全攻略の末にプレイヤーの……いいや、仮想世界という新たな居場所、ニューフロンティアを手に入れると宣言した。多大な犠牲を伴いながらもアノールロンド攻略という形で、決して夢物語ではないと知らしめた。

 ユージーンは1人の人間として、男として、戦士として、ディアベルに敬意を抱く。我が利益こそ最上にして最優先とするクラウドアースとは違い、ディアベルはどんな罪を背負ってでも、現実世界へ帰る事を望む肉体持ちプレイヤーに否を突きつけたとしても、この仮想世界にしか居場所がない人々の為に戦うことを選んだのだから。

 

(その点、オレはどうだ? まだ腹を決めかねている。『帰還』か『永住』か。あるいは……両立も可能なのか?)

 

 あるか無いかも分からぬ幻想を追い求める。それもまた『英雄』の在り方だろう。だが、幻想に溺れて現実を直視しないのは、悪ではないにしても正義ではなく、最も堕落した唾棄すべき卑怯なのではないだろうか?

 どちらかが死ぬかもない決着の前に、UNKNOWNと1度この命題について話をしたいとユージーンは望む。彼にとってラストサンクチュアリ壊滅作戦とは、どちらの実力が上なのか知らしめるものではなく、完全攻略を担う『英雄』であることを全プレイヤーに示す儀式でもあるのだ。どちらが勝者であるとしても、背負うべき運命は重い。ならばこそ、ユージーンは死力を尽くして戦う前に、深く語り明かしたいと望んだ。

 

「お嬢」

 

「それ止めてよ」

 

 と、ユージーンが思考の海に没入していれば、チェーングレイヴのエンブレムのネックレスを付けた男が現れる。スーツ姿であるが、クラウドアースのビジネスマンのようなスタイルではなく、裏を取り仕切る住人に相応しい威圧感があるものだ。わざとそうした着こなしをしているのは明白であり、ユージーンは特に身構えない。

 

「ボスからまだ聞いてない? ボクは戦力外通告。いずれ正式に『追放』処分だよ」

 

「そんな! お嬢みたいなちょーっとばかしネジが外れた頭のおかしい娘を引き取ってくれる奇特なギルドがあるわけないでしょう!? 大人しくボスの好意に甘えて、もう少し在籍していましょうよ!」

 

「ねぇ、もしかして、ボクって喧嘩を売られてるのかな?」

 

「まさか! マクスウェルさんも、お嬢がいなくなったら悲しみますって! あの人の最近の楽しみは、お嬢がメイド修行で日に日に女の子らしくなっている所なんですから! まるで我が子の成長を楽しみにするパパさんみたいな顔なんですから!」

 

「まさかボクの業務報告がそんな評価を受けていたなんて思いもよらなくて吃驚だよ」

 

 溜め息を吐くユウキに助け舟を出すべく、ユージーンはわざとらしく咳を挟む。

 

「ああ、これは失礼しました。自分はチェーングレイヴの【リベルト】です。お嬢の部下で、主な業務は借金の取り立てです。旧市街は俺達の庭みたいなものですけど、最近は流民も増えて把握しきれないこともあって、色々と手を焼いてるんですよ。今回の件もその1つです」

 

 右耳に3連ピアスをしたリベルトは、オールバックの髪を正しながら、敬意を示すようにユージーンに挨拶する。

 チェーングレイヴは犯罪ギルドであるが、その主な役割は裏の秩序の構築にある。犯罪ギルドがいずれも野放しになり、勢力争いを活発化させれば、どんな悪影響がもたらされるか分からない。だからと言って一方的に浄化させでもすれば、火山が噴火するように必ず何処かで取り返しのつかない爆発が生じる。

 DBOは現実世界のように、人権や財産を保護する国家もなければ社会的枠組みも無い。法律も治安維持機構も無い。あくまで大ギルドが、言い方を選ばなければ、好き勝手に支配を敷いているだけなのだ。教会の登場によって、大ギルドはより合議で社会秩序の構築を表向きは目指しているが、その裏では壮烈な勢力争いをしているのだから。現実世界でも国家や企業の陰謀が錯綜するならば、DBOもまた同様である。

 だからこそ、チェーングレイヴの存在は、クラウドアースのみならず、他の大ギルドにとっても目を瞑るべき必要悪だ。彼らは行き過ぎた犯罪ギルドを粛清し、また武力で纏め上げることで抗争を抑止している。また、彼らは裏市場を支配する手前、盗品や横流しされた情報、技術にも耳聡い。チェーングレイヴとの蜜月は、クラウドアースにとっても大きな成長の原動力になったのだ。

 

「そんなに最近はまずいの?」

 

「ええ。まぁ、借金し過ぎる馬鹿は比率的には同じですけど、ヤクの方がちょっと。ウチが管理している以上のヤバい奴が市場に出回り始めてるんですよ。最近では変なドーピングアイテムのせいで、血生臭い殺人も増えてますし。娼館には出元不明の『すんごい』媚薬が入り込んでるし」

 

「び、媚薬……!」

 

 顔を赤らめて数歩後退ったユウキとは対照的に、興味が湧いたと顎を撫でてユージーンはリベルトに詰め寄る。

 

「ほーう。その媚薬について詳しく聞かせてもらおうか」

 

「さすがは『夜もランク1』と有名なユージーンさん。効果は黒傘大針茸と同等かそれ以上……とだけ言っておきましょう。かなり『すんごい』です。情報料は要りませんが、ウチが用心棒している娼館ですので、是非とも御贔屓に」

 

「ほほーう」

 

「2人とも! ボクが女性だって忘れてない!? 破廉恥だよ!」

 

 顔を真っ赤にして腕を組んで頬を膨らませるユウキに背中を向けながら、リベルトがウインクと同時に差し出した媚薬が集中的に回っている娼館の名刺をユージーンはありがたく受け取る。出会って数分、そこには男の間だけに成立する言葉など要らない情熱の共感があった。

 

「それよりも仕事! 仕事でしょ!?」

 

「ああ、そうでしたね。お嬢たちが来るってんで、こっちも聞き込みとか、ターゲットを圧迫しない程度に人員も増やしてたんですが、どうにも変なんですよ」

 

「変とはどういうことだ?」

 

「ウチの連中が揃いも揃ってダウンしちまって。どうやらターゲットに接近し過ぎた連中みたいなんですけど、心神喪失っていいますか……催眠術でもかけられたみたいに譫言を繰り返したり、眠ってしまったりしているんです。どうやら、ここ最近では貧民連中にも似た症状があったみたいですね」

 

 仲間の容態が心配するリベルトに、ユウキも不安を隠せない様子で考え込む。

 元より奇妙な事件であったが、増々の嫌な予感が募る。早めに解決しなければ、後々に思わぬ災いとなるかもしれない。ユージーンはリベルトの案内で、ノリーエが潜伏していると思われる廃墟に案内される。

 元より終わりつつある街は荒廃した街並みが特徴的だった。そのモデルはSAOの始まりの街であるとされている。だが、プレイヤーの手によって増改築と拡張が施され、発展している区画はより繁栄を、取り残された区画は獣狩りの夜の影響もあって増々の衰退を辿った。

 旧市街地と称されるエリアは貧民の巣窟であり、今も残る獣狩りの夜の爪痕を感じさせ、また何処か懐かしさを覚える初期のニオイを漂わせる。ユージーンは元々がどのような施設だったのかも分からない廃墟に踏み入れば、チェーングレイヴのメンバーと思われる男女たちが虚ろな目で座り込んで仲間からの介抱を受けていた。

 

「お嬢! お久しぶりです!」

 

 仲間を介抱していた、派手な金髪の男が礼を取る。それを見て他の者たちも一斉にユウキに頭を下げるが、彼女は居心地が悪そうに頬を引き攣らせた。

 

「だから、それ止めてよ。もうボクは……って、もうこの話は後からでいいや。それよりも何があったの?」

 

「分かりません。この先に元は地下倉庫に続いていたと思われる倉庫があるんですが、底が抜けて更に地下と繋がっちまってるみたいなんです。深部までのルートはウチが仕切ってるので、さすがに繋がってるとは思いませんが、どうにも人為的に開けられたっぽいんですよね」

 

 終わりつつある街の深部には広大な地下空間が広がっている。アルヴヘイムにおけるヨツンヘイムの如く、最深部まで地下何層まであるかも分からぬ巨大空間だ。これらの地下空間は治安が悪く、盗品や流出技術が並ぶ裏市場、地上で経営されているよりも黒寄りの店などがひしめいている。ユージーンも仕事で立ち入ることはあるが、長居はしたくない場所である。

 多くの犯罪の温床であり、テロリストの活動・補給拠点にもなっている地下を大ギルドが一掃しない理由は幾つかあるが、その1つは大ギルドもまたこの地下を存分に利用して謀略を駆使しているからだ。

 地下を取り仕切っている犯罪ギルドはそれぞれ鎬を削っているが、チェーングレイヴだけは別格の扱いだ。彼らは裏には裏のルールがあると『暴力』で分からせる。彼らを嘗めて勝手な真似をして粛清された犯罪ギルドは両手の指の数でも足りないだろう。

 

(チェーングレイヴの幹部陣は、トッププレイヤーにも匹敵する実力者揃いの上に、対人戦に秀でていると聞く。しかも全員が≪暗器≫使い。物量で大ギルドが押し切れるかもしれんが、それまでにどれだけの犠牲が出るかも分からんし、暗殺で首脳部を潰しにかかられたら堪らんだろう。3大ギルド合同ならば被害も最小限に抑えられるかもしれんが、クラウドアースが裏で繋がっている以上、それもあり得んし、仮に叶っても誰が最も損害を被るかの押し付け合いにもなるだろう)

 

 またチェーングレイヴという重石が無くなれば、折角ここまで築いた秩序が台無しになる。火中の栗を拾おうと大火傷した挙句に、治安悪化の責任をなすりつけられるなど、いずれの大ギルドもご免なのだ。

 恐るべきはここまでの展開を初期から計算し、各所にパイプ作りを怠らなかったチェーングレイヴの設立メンバーだ。ユージーンもアルヴヘイムの道中を共にしたバンダナ男……カタナ使いとは思えぬ豪快な剣筋が目立ったチェーングレイヴのボスの手腕は見事と言わざるを得ない。

 そして、単に必要悪を担う為だけにチェーングレイヴが設立されているわけではないのもまた明らかだ。彼らは何らかの目的を持って動いている。それはユージーンにも大ギルドにも探り切れていない。あるいは、チェーングレイヴとのパイプを直接作ったセサルならば、その真意を把握しているかもしれなかった。

 

(大聖堂の地下には火継の祭壇があった。そこが最深部というわけであるまい。チェーングレイヴめ、何を隠している?)

 

 ユージーンも正確な情報は掴んでいないが、チェーングレイヴが支配する地下深部を探ろうとした大ギルドの暗部はいずれも『帰って来ない』。手練れを配置しているのか、それともダンジョンとなっているのか、何にしても探りを入れるならば、チェーングレイヴとの地下の闇の中での殺し合いを制し、また『DBOの治安』という代償を支払って全面戦争する覚悟がなければならないだろう。

 

「本当に地下に繋がってるみたいだね」

 

「はい。ここは未踏エリアっぽいすね。なにせ地下はデカいし、崩落して通れない場所も多かったですから、ここもその1つかと。この件はクラウドアースが噛んでるってんで、マクスウェルさんに待ったをかけられていて、奥まで探れてませんが、モンスターは出てきません。代わりに入った連中の大半がご覧のとおりです」

 

「そっか。ボクとユージーンさんで潜るから、皆は出入口を見張ってて」

 

「了解! 聞いたな、皆! お嬢の命令だ! ここを死守するぞ!」

 

 ユージーンはユウキに並んで、本来は地下倉庫に繋がっているだろう階段を下る。途中で大きく崩落し、瓦礫が階段替わりになっており、それを1つ1つ足を踏み外さないように下りて行けば、発光するクリスタルが照明となった地下空間に出る。

 元は神殿にも似た、円柱が並び、また松明が揺らいで闇を払うことこそ相応しいのだろう。だが、無粋なパイプや配線がその錆を露にして転がっている。

 

「下水道とか地下道とか色々組み込まれた地下4層くらいまでは、ボク達チェーングレイヴの縄張りだし、それなりに目は光らせているけど、まだ未探索エリアも多いんだ。ここはボクも初めてかな?」

 

「ほう。つまり――」

 

「止めた方がいいよ。ここから深部を探るのは絶対に不可能だから。だからこそ、ノリーエさん……ううん、今までの被害者さんがどうしてここを探っていたのかは不思議なところなんだけどね」

 

 不可能と言い切る理由は何なのか、ユージーンは幾つか仮説を思案するが、それは無意味だと悟る。これまで大ギルドがチェーングレイヴの目を欺いて最深部を探ろうとしたことは1度や2度ではないはずだ。今回のように適当に掘って道を開けるならば、既に大ギルドは実行しているはずである。

 

「冗談だ、『お嬢』」

 

「ムッ!? それ、喧嘩でも売ってるの!? 良いよ。買ってあげるよ! この仕事が終わったらボクとデュエルしてよね!」

 

「『お嬢』の相手をする程にオレの剣は安くない。却下だ」

 

 面白い娘だ、とユージーンは不機嫌に唸るユウキを放って置いて先に進む。

 

「設定では、この広大な地下空間を最後の砦として利用していたが、それも放棄された……といったところか」

 

 オブジェクトの機材や発電機を見るに、人類の英知を集められるだけ集めてみたが、もはやまともに復興させることも出来なかった、といったところだろう。プレイヤーの手でどれだけ発展しても、この街は人類の黄昏の象徴なのだとユージーンは思い知る。

 フロンティア・フィールドとは、終わりつつある街周辺エリア……その先への立ち入りを禁じる色の無い霧の向こう側なのではないだろうか。ユージーンはそう予想している。ユージーンも既にフロンティア・フィールドに何度か立ち入っているが、これまでのステージやダンジョンとは毛色が違った。どちらかと言えば、アルヴヘイムに近しい雰囲気があった。

 王の器を手にした聖剣騎士団が、今は完全攻略の主導権を握っている。聖剣騎士団を潰すか、それ以上の攻略キーアイテムを手にするかに他の大ギルドは躍起になっている状況だ。その点においてクラウドアースと太陽の狩猟団は手を組める余地はある。もちろん、裏を掻く算段を立てた握手にはなるが。

 

「しかし、アルヴヘイムも大概だったが、ここ最近のDBOは前にも増して妙だな。レギオンはもちろんだが、奴らに対抗する『白騎士』のNPCが大量出現。大ギルドの手を借りぬ自由開拓戦線。暗黒楽団と邪悪音楽帝王ゼツボーン」

 

「ゼツボーン……あれは本当にプレイヤー全滅の危機だったよね。謎の美少女和風アイドルの活躍がなかったら、どうなっていたことか」

 

「そうだな。謎の美少女なんちゃって大和撫子系アイドルに感謝しなければなるまい。だが、謎のランク1が熱唱して注意を引き付けたからこそ、ゼツボーンを倒せたことも忘れてもらっては困る」

 

「もちろんだよ。でも、まさか謎の仮面二刀流剣士が謎の赤褌騎士とシンクロして、あんなキレキレのバックダンスで謎の美少女和服アイドルを援護するなんて、ボクも予想外だったなぁ」

 

「それを言うならば、謎の自称国家公務員の情熱のフラメンコも忘れてはなるまい。あの時ばかりはゼツボーンも魅入られていたぞ」

 

「あれは……凄かったね」

 

 邪悪音楽帝王ゼツボーン、恐ろしい相手だった。ある意味ではオベイロン以上の脅威だった。思い出しただけでユージーンの額に脂汗が滲む。

 他にも奇妙な案件は幾つかある。まだ噂程度であるが、各ステージにいるNPCの何人かに違和感を覚えたという報告が集まっているのだ。『以前よりもNPCらしくなった』や『会話しても前よりも感情が乗っていない気がする』などの曖昧なものばかりであるが、大ギルドは何かの前触れではないかと調査しているが、今も情報は得られていない。

 DBOは変質を続けている。仮想世界は現実に成り代わるべく肉付けされていき、また住まうプレイヤーを本物の住人として呑み込もうとしている。ユージーンは日々増える流民の顔を見る度に、『永住』を決意したプレイヤーを1人見る度に、自分に選択肢などないという圧迫感を覚えるのだ。

 

「これ、血痕みたいだね」

 

 ユウキが発見したのは、折れた円柱にべっとりと付着した血液だ。だが、沸騰しているように湯気が揺らいでいる。これまでの被害者の遺体を思い出し、ノリーエもまた同じ末路が近づいているのではないかとユージーンは危惧した。

 

「倒れた円柱を越えられずに転んだといったところだろう。かなり弱っているようだな。保護を急ぐぞ」

 

 真新しい血痕は、ノリーエに近づいている証拠だ。ユージーンが早足になった時だった。

 視界にノイズが走る。一瞬の立ち眩みがしたユージーンは何とか姿勢を正す。

 

「今、何か奇妙ではなかった? おい、貴様も同じ感覚が……ぬっ!?」

 

 ユウキにも同じ現象があったのか問おうとしたユージーンは、すぐ傍にいたはずの彼女がいない事に気づく。

 それだけではない。先程から何処かで嗅いだことのある、品のある落ち着いた香水が鼻を擽る。ユージーンは背負う両手剣の柄に指を這わし、周囲を警戒すれば、いつの間にか一面白い花畑となっていた。

 昼とも夜とも分からぬ霧に覆われた空。このニオイは花からしたものかと思えば、まるで違う。霧の中に隠れる誰かから漂うものだ。

 

「幻術か? そんなスキルは聞いたことも無いが……あり得んこともあるまい」

 

 むしろ、仮想世界において≪幻術≫スキル程に実装しやすいものはないだろう。似たようなスキルや能力はあるが、今のところは確認されていない。だが、ユニークスキルやユニークウェポンの能力として、十分にあり得るだろうとユージーンは踏んでいた。

 ならばノリーエ自身か、あるいは一連の事件の犯人の仕業か。何にしても、ユージーンは揺るがない。幻術とは悟られた時点で効力は半減だ。敵は恐らく幻術に嵌まったユージーンを闇討ちするつもりだろうが、その手に応じるつもりはない。ユージーンは構えた両手剣に≪剛覇剣≫を発動させ、いつでもカウンターできる準備をする。

 だが、≪剛覇剣≫が発動しない。それどころか、握っていたはずの両手剣すらも消えて無くなっている。困惑したユージーンは、突如として吹き荒れた風で舞い上がった白い花びらで視界が覆われる。

 頬を打つの礫の如き大粒の雨。

 髪を揺らすのは神々の怒りのような風。

 耳を引き裂くのは輝かしい光を帯びた雷鳴。

 

 知っている。

 

 ユージーンはこの光景を知っている。

 

 連なる木々の狭間で立ち竦んでいたユージーンは、まるで自分を誘うような甘いニオイへと駆け出す。

 

 これは幻だ。

 

 これは夢だ。

 

 これは過去だ。

 

 だから、何をしても無駄だ。抵抗するならば、今すぐ夢から覚めるように努力すべきだ。

 

 だが、ユージーンは止まれない。頭の奥底で膿の如く思考を湿らせる滴りを振り払えない。 

 

 そして、たどり着く。

 

 記憶よりも形を保った、まるで眠っているかのようなサクヤの遺体の前にたどり着く。

 違う。死んでいない。生きている。鼓動をしている。呼吸でその胸は微かに動いている。

 

「サクヤ!」

 

 名前を呼んでサクヤの上半身を抱き上げる。羽毛と思うほどに軽い彼女は、苦しむように呻き、ゆっくりと瞼を開く。

 だが、開かれた眼に鎮座するのは人間の瞳ではない。醜く蕩けて輪郭が崩れた怪物の瞳だ。

 

『どうして助けてくれなかったんだ?』

 

 口が耳まで裂け、並ぶ牙がユージーンの喉元に喰らい付く。不思議と痛みはなく、だがサクヤの両目から溢れる涙が血飛沫と混じり合う。

 違う。助けようとしたんだ。救える方法があると信じたんだ。そう必死に言葉を練ろうとしても、喉を食い千切られたユージーンには、何も伝えることが出来ない。そうしている間にも、ユージーンの肉を咀嚼したサクヤの姿は人間から外れていく。レギオンへと変じていく。

 

『信じていたのに。私を救ってくれると……信じていたのに! ああ、情けない! 惨めだ! お前のような男を頼った私のなんと愚かしいことか! 見ろ! 見ろ! ミロ! オゾマシイ! オソロシイ! ワタシヲミロ!』

 

 背中から触手が生え、人間としての造形を失っていくサクヤの啜り泣きが木霊し、ユージーンの視界が明滅する。

 甘い香りが誘う。それはサクヤの香水のニオイだ。雷鳴が脳髄を支配し、まるで全身に音叉が仕込まれたように反響する。全ての細胞が破裂するかのような圧迫を覚え、ユージーンは落ちていく。深く深く、落ちて、堕ちて、落ちて、堕ちて……そして、たどり着く。

 

「こ、こは……」

 

 食い千切られたはずの喉は元に戻り、ユージーンが倒れ伏すのは、雲1つない青空と輝く太陽の下に広がる砂塵であり、立ち上がれば遥か彼方に巨塔の如く大剣が砂漠に突き刺さっている。

 見覚えがある。だが、何処かは思い出せない。ユージーンは眩暈を覚えながら、強迫観念にも等しく大剣を目指して歩き始める。

 ユージーンは知っている。この砂漠を知っている。

 どれだけ歩いても、あの大剣には近付けない。全身を焦がす太陽は決して地平線には沈まず、また癒しの雨も降らない。草木もない砂漠では、喉も乾かなければ、腹が空くこともない。ひたすらに歩き続けることだけが使命の如く足を動かす。

 

『飽クナキ「力」ヘノ欲求。満チルコトモ乾クコトモナク、歩キ続ケルコトコソ誉レト信ジテイル。ダケド、心ノ何処カデハ諦観ヲ抱ク。己デハ「届カナイ」ノダト。コノ「夢」ハ、オ前ヲヨク表シテイル』

 

 黒ずんだ人影の蜃気楼。ユージーンを嘲い、彼の足を止めるように立ちふさがる。

 

『アア、可哀想ニ。必死ニ信ジ込モウトイテイル。歩キ続ケレバ、イツカ望ンダ姿ニ……愛スル人ヲ救エタ「英雄」ニナレルト信ジテイル。デモ、オ前ハ決シテ彼女ニハ会エナイ。奇跡ヲ望ムナラバ、万人ノ「英雄」デハナク、我欲ヲ優先シタ裏切者ニナラネバナラナイ。「彼女ノ英雄」ニナリタイノダロウ?』

 

 黒ずんだ人影は、砂漠の砂を両手で掬い上げる。それは清廉なる水へと変じ、乾いた砂地を瞬く間に癒して泉へと変える。オアシスがユージーンを優しく包む。

 水面から白い腕が伸び、やがて黒髪が夜風に靡く。青空は星空となり、太陽ではなく月が照らす。

 

『ユージーン、お前はどうして「英雄」になりたいんだ?』

 

 水面から現れたのは、怪物の姿などではなく、ユージーンが望んだとおりの人間の形をした、憶えている通りのサクヤだった。彼女は裸体の姿で花が咲く岸辺に上がり、まだ砂塵の上に立つユージーンを手招きする。

 

『私との約束があったからだろう? お前は「ランク1」という英雄の称号の為に戦い続けることを選んだ。だけど、もういいじゃないか。私は死に、新たに聖剣という英雄の証明が成された。お前がすべきなのは、万人の為の「英雄」たる「ランク1」を背負うことではないだろう?』

 

「違う。オレが成すべきは完全攻略に皆を導くという使命であり、それこそが『ランク1』の責務!」

 

『でも、迷っている。もう皆の希望の光になれる「英雄」など不可能だ。「帰還」と「永住」、どちらかを選ばねばならない。片方を選べば、片方にとっては絶望の闇だ』

 

「だからこそ、オレは両立できる道を――」

 

『お前はそれを卑怯と感じた。責任を先延ばしにして、ありもしない夢を追いかける。それが本当に「英雄」の役割なのか? そして、そこにお前が望んだ栄誉と満足があるとは到底思えない』

 

 こっちに来い。誘うサクヤに、ユージーンは拒絶を示して巨塔の大剣を目指そうと歩き出す。だが、いつの間にか、あれ程までに視界の中で消える事はなかった巨塔の大剣は影も形も無くなっていた。

 温かな人肌がユージーンを背後から包み込む。いつしか着込んでいた鎧すら塵となって消え、ユージーンは裸になっていた。後ろのサクヤの温もりが、彼の内側にあった決心を溶解させていく。まるで氷を人肌で溶かすように、ユージーンは膝をつく。

 

「オレだって本当は分かっている。この道の果てには、オレが本当に求めていた……貴様との未来は無いのだと。それでも、貴様と約束したのだ。オレは『ランク1』という称号に相応しい戦士としてあり続けると。皆が迷い、道を見失った時にこそ、何もない荒野を進む最初の1歩を踏める者になると……そう決めたのだ」

 

 立て。立ち上がれ。ユージーンはそう願うも足は動かない。心の支えとなるのは、たった1つの空虚な称号のみ。

 

「オレは……貴様の理想でありたかった。貴様が示してくれた「ランク1」という偶像を体現したかった」

 

『……そうだな。お前はやはり「強い」男だ。でも、今だけはゆっくり休め。ここには誰もいない。ここでは、誰もお前の涙を非難する者はいないんだ』

 

 俯いていたユージーンの顔を、サクヤは両手でそっと持ち上げると唇を重ね、そして彼を抱きしめる。

 頬を涙が伝う。サクヤの死、レギオンへの憎悪、『帰還』と『永住』のジレンマ、そして嫌でも眩しさを感じてしまう二刀流の剣士の背中。

 

 どうしてだ?

 

 同じように愛する人を喪っていながら、どうして迷いなく前を進み続けることができる?

 

 オレは本当に貴様と戦う権利などあるのか?

 

 どれだけ自信満々に、威風堂々と振る舞っていようとも、隠しきれない空虚の穴が開いた心を抱えるオレは、貴様の敵として立つに相応しいのか?

 

 ユージーンの中で自問が空虚に巡って輪となり、彼を捕え続ける。

 

 それはまるで……この果て無き砂漠のように。見えていても決してたどり着けぬ目的地のように。

 

『私はその答えを持っていない。だが、きっと見つかるはずだ。また歩き始めるのだろう?』

 

「ああ、そうだとも。オレは……「ランク1」だからな」

 

 それでも、今だけは涙を流していいのだろうか。ユージーンは嗚咽のままに、サクヤの抱擁に甘えた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ユージーンさん! ユージーンさん!? どうしちゃったの!?」

 

 突然倒れたユージーンは、そのまま虚ろな眼となって動かない。ただ口だけは微かに譫言を繰り返しているようだが、聞き取れるものではなく、ユウキは焦って彼の頬を叩く。

 だが、意識は取り戻されない。それどころか、瞼は深く閉じようとしている。だが、呼吸に乱れはなく、むしろ心安らいでいるようにすら思える。

 

「ボクのSTRでは背負っていけないし、でもここに放っておくなんて出来ないし……!」

 

 終わりつつある街の地下はダンジョンではない。フレンドメールも使用可能だ。ユウキは仕方なく地上で待機しているチェーングレイヴのメンバーを呼び寄せるべくメールを飛ばす。

 5分もしない内に救援が駆けつけるはずだ。それまで動かなくなったユージーンを守るべく、ユウキは腰の剣を抜く。

 ユウキの新たな軽量型片手剣【宵の明剣】は、ガウェインのソウルを素材にして作成されたソウルウェポンだ。≪絶影剣≫を前提としてグリムロックが設計したものであり、ガウェインの深淵に堕ちた業と太陽の騎士としての矜持の2つを併せ持つ。夜の訪れを感じさせる宵色の刀身であり、彼女のSTRで振るえるギリギリの重さに調整してある。アルヴヘイムで折れたスノウステインをベースとしているので魔法の媒体にもなり、クゥリから貰った伯爵の剣も素材として組み込んであった。

 

(HENTAIだけど、腕だけは本当にいいんだよなぁ)

 

 周囲に目を配らせながら、ユウキはユージーンが完全に寝落ちした事を確認すると≪絶影剣≫を起動させる。

 熟練度の上昇により、黒紫の結晶剣の火力上昇はもちろん、同時発生数の増加、燃費も向上した。武器の動きを追随する幻刃の攻撃力も上がったが、最も特徴的なのは『剣陣』と呼ばれる黒紫剣による能力だ。

 

(同時発生数は今のところ10本。思考操作のお陰で手足のように動かせて便利だけど、だからこそ頼り切らないようにしないとね)

 

 リミッター解除の悪影響は抜け、PoHとの対決の時とは違ってアバターや≪絶影剣≫の操作に問題はない。だが、ユニークスキルは確かに強力であるが、それ故にプレイヤーの戦闘スタイルを凝り固めて柔軟性を奪ってしまうリスクがある。ユウキは深呼吸を挟み、救援の到着を待つまで気を張り詰めるべく集中力を引き上げる。

 ユージーンはチェーングレイヴの皆と同じように、何らかの攻撃を受けて意識を失ったのだろうとユウキは推測した。だが、その攻撃手段がまるで分からなかった。ユージーンとユウキはほぼ並んで歩いていたのだ。仮に範囲攻撃であるならば、ユウキにも何かしらの影響があったはずだ。

 無論、各種防御力やステータス、スキルの違いによってユウキは攻撃から免れたとも考えられる。だが、その場合でも何かしら感じるものがあったはずだ。

 1秒1秒が長い。だが、ユウキはクゥリの目覚めを待った2ヶ月に比べるまでもないと意識を尖らせる。

 だからこそ、耳が拾い上げる。地面が擦れる足音を聞く。距離は決して遠くない。高VR適性に基づいた高知覚能力は正確に音の居場所を割り出し、距離にして10メートルもない円柱の物陰を探り当てる。

 チェーングレイヴが出入口を見張っていた以上、ここにいるのはノリーエか、あるいは彼女と同行した人物……最も確率が高いのは犯人だ。ユウキは円柱の近くに黒紫剣を忍ばせ、一気に高DEXで加速すると距離を詰める。

 

「……おっと!」

 

 犯人に備えて斬りかかるつもりだったユウキは、目に入ったのが資料の写真にあった行方不明のノリーエであると確認して剣を止める。危うく肩からバッサリと袈裟斬りになるはずだったノリーエは、ほとんど呼吸らしいものをする様子もなく、これまでの被害者と同様に焼け爛れた姿で座り込んでいた。

 だが、まだ息はある。HPも9割以上が残存しており、別の要因で死にかけているのだとユウキは察知する。

 

「えーと、ボクは所属がちょっとややこしいけど、クラウドアースから貴女の保護する為に来たよ。ほら、あっちで居眠りしてるのがユージーンさん。貴女はノリーエさんだよね?」

 

 万が一に備えて剣を収めることなく、ユウキは俯いたまま不動のノリーエの肩を左手で揺さぶる。まるで熱された地面に触れているかのようであり、ユウキは彼女が危険な状態であると判断した。

 保護対象は発見した。後は周囲に潜んでいるかもしれない犯人を警戒しつつ、救援のチェーングレイヴにユージーンとノリーエを回収してもらえば、ユウキの仕事は終わりだ。

 

(早く終わってよかった。クーも日帰りの探索依頼だし、晩御飯には間に合うね)

 

 久々に自宅に帰ったクゥリは、その日の内にユウキへ引っ越す旨をメールしてきた。新しいマイホームを見つけるまではサインズの傭兵マンションで暮らす事になっている。

 何事もなく終わったとは言い難いが、少なくとも保護対象を無事に発見できたことに安堵したユウキは、自分の左手とノリーエの両手が重なった事に僅かに遅れて気づく。

 

 

「高いVR適性……イイ……実にイイ……わ!」

 

 

 今まで俯いていたノリーエは突如としてユウキを見上げる。頬も唇も爛れ、肉も炭化した顔がユウキに心底嬉しそうに笑いかけた。

 途端にユウキの視界にノイズが走る。酷い立ち眩みがしたかと思えば、懐かしいアルコール臭が鼻を突く。

 

「な、何!?」

 

 ノリーエの手を振り払う。そのはずだったユウキは、いつの間にか彼女の姿は失せ、代わりに白い花が周囲に咲き乱れているのに目を見開く。

 幻覚か。ユウキは真っ先にその危険性を疑い、黒紫剣で周囲を固めて攻撃に備える。低VITのユウキの場合、背後からの一撃で死亡する確率は高い。奇襲の先制攻撃に決定的に弱いのだ。同じく低VITであるのクゥリは、並外れた直感で奇襲を回避するどころかカウンターを決めるが、あれは反則だとユウキは常々思っていた。

 だが、黒紫剣は出現しない。それどころか、ユウキが持っていたはずの宵の明剣さえも消えて無くなっていた。

 

「この感じ……何処かで……」

 

 そうだ。いつか同じような経験をしたような気がする。白い花畑は突風と共に真っ白な花弁を散らし、吹雪のようにユウキを呑み込む。

 途端にユウキの目に映ったのは棺桶だ。暗闇よりも濃く黒い棺だ。そして、その中で眠るように収まっているのは……白い花に埋もれて眠るように目を閉ざしているのはユウキだ。

 違う。似ているが、違う。他でもないユウキだからこそ、棺の中にいるのは自分ではないとハッキリと自覚できた。

 亡き姉だ。双子として生を受けた自分の片割れだ。死人であることを示す蝋のように白い肌に触れようとすれば、棺の蓋は閉ざされてユウキを拒む。

 

「ま、待って!」

 

 棺は闇の中で流星となって消えていく。取り残されたユウキは追って走り出すも、闇の中の地面が抜けたように、棺とは対照的に闇の底へと落ちていく。

 落ちて、堕ちて、落ちて、堕ちて……そしてユウキは虚ろな眼で、最も嫌っていた汚れ1つない白の天井を見上げる。

 

「ここは……あ、あぁ……あぁあああああ!?」

 

 ガタガタと震えてユウキは、自分が横たわっていたベッドのシーツを引き寄せる。

 もう怖くない。そう思っていたはずなのに! 乗り越えたと思っていたのに! ユウキは弱々しく溢れる涙を拭うこともせずに、アルコール臭で充満した空間を見回す。たった1人だけの、夜の暗闇に浸された病室に怯える。

 シーツを引き寄せ、ベッドの隅で縮こまるユウキは、瞼を閉ざして暗闇に抗う。

 

 

 

『祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ』

 

 

 

 だが、クゥリと唱えた弔いの言葉が胸で反芻し、熱を帯びた温もりとなる。それが病室の冷たい暗闇を遠ざける。

 

「違う。ボクは……ボクは皆の死を受け入れた。皆を弔った。もう囚われたりしない」

 

 ユウキはシーツを纏まったまま、ベッドから降りて、そっと冷たいタイルの上に1歩を踏み出す。

 ここから出るんだ。ユウキは生唾を呑み、病室を去る唯一の出入口に向かう。見覚えのある通りのスライド式のドアだ。

 病室の四方から闇が染み出す。それは湿りを帯びて、ユウキをこの病室に閉じ込めようとしている。

 

「ボクは出るんだ。ここから……出るんだ!」

 

 ドアを開き、ユウキは自分を捉えようとする闇を振り払うように奥へと進む。

 

 

 

 だが、ユウキは『病室に戻っていた』。

 

 

 

 入ったはずのドアの先には病室があり、振り返ればドアは閉ざされている。

 ユウキは繰り返す。何度も何度もドアを潜っては、病室に戻される。

 負けるものか。負けるものか。負けるものか! 涙を散らしながら、じわじわと蝕む恐怖心に堪えながら、ユウキは病室から幾度となく出ようとする。

 だが、出られない。やがて疲れ切った体は休息を求め、ユウキは膝を折って座り込む。

 

「何で……ボクは……皆をちゃんと……弔ったのに」

 

 もう【黒の剣士】を倒すことに執着していない。スリーピングナイツの弔いにそんなものは必要なく、ユウキが皆の死を受け入れて本当の意味で眠らせてあげる事が重要だったのだ。

 そのはずなのに、どうして孤独の病室に囚われている? ユウキは湿る暗闇に怯えを募らせ、頭を抱えて耳を塞ごうとする。

 

『普段ハ明ルク元気ニ振ル舞ウ怖イモノ知ラズ。デモ、本当ハ孤独ニ浸サレテ暗闇ニ怯エル小サク気弱ナ本性。可愛ラシイ』

 

 いつの間にかベッドには誰かが腰かけていた。それは黒ずんだ炭の塊だ。いいや、炭化する程に焼け爛れた人の形をした『何か』だ。

 

「……そうだよ。いつだって怖い。この病室が……皆が死んでボクだけの孤独になってしまった……この病室が怖くて堪らない」

 

 そうだとしても、ユウキは自分の胸で今も彼女を鼓舞する温もりを感じる。

 ボクは『独り』じゃない。それが堪らなく悔しくて、途方もないくらいに嬉しい。

 キミはいつだって『孤独』でボクはその心と魂に寄り添うことも出来ないのに、キミは平然とボクを孤独の暗闇から引っ張り上げてくれた。

 

「ボクは行かないといけない。この病室から出て行って、今度こそ……自分のやりたい事をちゃんと自分で決めて……自分で成し遂げたいんだ」

 

『デモ、貴女ハ出ラレナイ』

 

「そうかな? ほら、このドア……よーく見たら、鍵穴があるんだ。ボクはもう鍵を持っている」

 

 祈りを捧げるように手を組めば、胸の内の温もりは両手に集まり、火の粉が散る白い鍵となる。ユウキは嬉しそうに笑みながら鍵穴に入れて捩じれば、錠の外れる音が聞こえた。

 

「ほら、ボクは出られる。ボクはどうやっても寄り添えないくらいに『孤独』なのに、ボクの心にはちゃんと温かい熱を残してくれたキミがいる」

 

 ユウキがドアを開けて向こう側へと進もうとする。

 だが、ドアが動かない。いつの間にかドアは溶接され、ユウキを決して外には出さない鉄壁へと変じていた。煌々としたマグマのような熱の亀裂は、瞬く間に病室全体へと広がっていく。

 

『好都合ダ。貴女、アノ「バケモノ」ニ恋慕シテイタノカ。アア、「ワタシ」ト同ジダ。「ワタシ」モソウダッタ……カモシレナイ。モウ分カラナイ。ダガ、使命ガ残ッテいル。全テのプレイヤーの安寧ノ為に……人類ノ為に「バケモノ」を殺さナイといケない』

 

 焼け爛れた『何か』の声が肉付いていく。その度に病室が蝕まれ、変異していく。

 炎がユウキに纏わりつき、縛り上げ、焦がしていく。体が……いいや、脳が焼け爛れるような熱を覚え、ユウキの意識は黒く濁っていく。

 

『今まデの連中は駄目ダった。脳が弱過ギた。良質な仮想脳は、高VR適性と強い精神が育ム。お前ならば十分過ぎるキャパシティがあル。しかも、かつて「ワタシ」が抱いていたのと同じ感情を奴に向けている。上手く溶け合えるはずだ。さぁ、一緒に殺そうじゃないか。お前をプレイヤーの救世主にしてやろう。「バケモノ」退治だ。奴をじっくり苦しめ、追い詰め、そして殺そう。お前の恋慕と愛情は奴を殺す刃となるべくあったのだから!』

 

 炎の中で『何か』は狂笑している。ユウキは自分を侵略する歌声に抗おうとする。だが、孤独の闇と溶けた炎が滴り落ちて、彼女を呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢! 良かった! 目を覚ましたんですね!」

 

 

 

 

 

 

 酷い頭痛と嘔吐感と共に目を開いたユウキは、チェーングレイヴの拠点の1つである酒場のソファに寝そべっていた。

 

「起きたようだな」

 

 先に目覚めた様子のユージーンは、カウンター席で酒の入ったグラスを揺らしながら、何か考え込んでいるようだった。だが、何処か晴れやかに思える表情は、ユウキとは正反対だった。

 ユウキの覚醒に歓喜する3連ピアスの男は、奥から現れたスキンヘッドの男を見て背筋を伸ばす。ユウキも立ち上がって挨拶しようとするが、彼は手でそれを制した。

 

「久しぶりだな、馬鹿娘が」

 

「マクスウェルさんも……元気そうだね」

 

 チェーングレイヴの頭脳にしてナンバー2のマクスウェルに、ユウキは思わず視線を逸らす。彼がテイミングしたアリーヤを死なせ、なおかつチェーングレイヴを抜ける意思を伝えるなども含まれば、とてもではないが顔を合わせられる相手では無かったからだ。

 だが、いつもの仏頂面を100倍濃くしたような不機嫌面で、マクスウェルは水を差しだす。ユウキが恐る恐る受け取って飲めば、無言でグラスを奪い取る。

 

「何とも無いようだな。安心した」

 

「その顔……心配してくれてるんだ」

 

「それ以外のどんな顔に見える?」

 

「うーん、今にも拳骨を……って、痛っ!?」

 

「欲しいならそう言え」

 

 痛みが生じる……即ち、ダメージを与えない程度に調整された拳骨にユウキは唸りながら頭を抱える。

 その後、マクスウェルから説明によって、2人は救護に駆けつけたチェーングレイヴに保護された事が明らかになった。同時にノリーエの『遺体』も収容しており、クラウドアースには報告済みとの事だった。

 

「デバフの睡眠では無さそうだったが、何があった? 他の連中もお前と似たよな症状だったが、まるで見当がつかない。ボスを呼んで見識を借りるつもりだが、お前の主観でまずは分析してみろ」

 

「そんなこと言われても……ユージーンさんは、どう?」

 

「恥ずかしいが、このオレにも何が起こったのか分からん。ただ……何か……とても有意義……とは少し違うな。心地良い夢を見ていた気がする」

 

「そっか。ボクは真逆。すごーく怖くて苦しい夢を見てた……と思う」

 

 何もかもが曖昧だ。ノリーエを発見したところまではユウキも記憶は残っているが、それ以降はぼんやりと曖昧なのだ。それも時間が経てば経つほどに輪郭を失っていく。それはまさに『夢』としか言い表せないものだった。

 ユウキの説明に納得できないのは当然だろう。マクスウェルは眉を顰めながらも、今はそれ以上の事を聞かなかった。

 

「ノリーエの死はオレから報告しておこう。貴様は先に帰るがいい」

 

「ありがとう」

 

「礼はいい。今日は世話になったからな」

 

 ユージーンはノリーエの死についてクラウドアースに報告するべく、一足先に席を立つ。ユウキは無言のマクスウェルを前に、どんな態度を取るべきか困りながらも、自分も帰るべく出発の準備をする。

 

「アリーヤの死は責めていない。お前がチェーングレイヴを抜けることもな。だが……たまには顔を見せろ。死者の碑石が無いせいで、お前が生きてるか死んでるかも分からんからな」

 

「分かった」

 

「それと正式に離籍するのは、クラウドアースとの調整待ちだ。それまではウチの1員である自覚を持って行動しろ」

 

「はーい」

 

「『はい』は伸ばすな!」

 

「はーい!」

 

 怒れるマクスウェルに捕まって説教を喰らう前に酒場を飛び出したユウキは、その足で傭兵マンションに向かう。空は昼間の曇天が嘘のような星空だ。

 この時間ならば、クゥリはもう仕事も終わって帰ってきているだろう。ユウキは合鍵を取り出して思わず笑む。

 

「あ……れ?」

 

 何だろう、この気持ちは? ユウキは無性にクゥリに会いたかった。それはいつものことだ。

 だが、今日は違う。今は『何か』が違うのだ。会って『何かをしなければならない』と感じている。それは胸の鼓動とズレていて、だが確かにユウキの内側から溢れる、形も色も曖昧な目的意識だ。

 敢えて言うならば『使命感』だ。ユウキは波のように押し寄せた頭痛に顔を歪めながら額を押さえる。

 

「ボクは……ボクはクーを……クーを……?」

 

 ボクはクーに『何』をしないといけなかったんだっけ? 思い出せないのとも微細に違う、霧がかかった曖昧な思考を振り払うように、ユウキは歩き出した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 強いのは分かっていた。だが、ここまでとは……! ミスティアは飛び散る汗を拭うことさえもできず、苛烈な刃のダンスに翻弄されていた。

 煙の騎士は左手に持つ特大剣と右手に持つ片手剣の緩急をつけた多彩な攻撃を仕掛けてくる。幸いにも遠距離攻撃手段はまだ披露していないが、近接戦だけでも尋常ではない強さを発揮していた。

 煙の騎士の体格はプレイヤーの2倍以上。身長は3メートルにも届く長身。ならばこそ、煙の騎士にとっての片手剣とは、プレイヤーからすれば特大剣にも匹敵するサイズである。そして、煙の騎士にとっての特大剣は、その巨体からしても長大な武器であり、女性にしては高めの身長165センチ前後のミスティアからしても余りにも巨大過ぎる武器だ。

 それを煙の騎士は、並のプレイヤー以上の技量で操り、剣速すらも尋常ではない。片手剣の刃の軌跡はミスティアの目でも追うのがやっとであり、特大剣はあくまで片手剣からすれば遅いというだけである。

 また岩盤をくり貫いたような煙の特大剣は、その分厚く幅広い刀身のお陰で盾としての役割も十分である。煙の騎士は特大剣でガードし、片手剣で刻むという戦法でミスティアを迎え撃っていた。

 貫通性能に優れる槍とはいえ、煙の特大剣のガードを貫くならば、長い助走が不可欠だ。如何にミスティアのDEXでも、数歩分だけの瞬発力だけでは威力が足りない。

 プレイヤーが行える運動が伴った攻撃は、全てモーション値が存在する。より高重量系武器・高火力武器ジャンル程にモーション値の補正がかかる。そして、モーション値を決定づける重要な要素の1つがSTRとDEXのエネルギーだ。

 高STRがもたらすパワー、高DEXによるスピードを上乗せすれば、当然ながら攻撃力は上昇する。理論上は、トップスピードに到達した状態のフルパワーの攻撃こそが、プレイヤーの最大通常攻撃である。厳密に言えば、更に武器運動速度なども密接に関わってくる。

 DEXに多くポイントを振ったプレイヤーは挫折を味わう。第1に得たスピードを扱いきれずに自滅するという壁。第2に如何にしてトップスピードまで一気に引き出すのかという身体制御の分野の壁だ。

 トップスピードまで如何にして最短時間で到達するか。これはステータスの高出力化とはまた別の技術である。

 自転車の漕ぎ始めは遅いように、プレイヤーもトップスピードに至るまでには時間がかかる。高DEXプレイヤー程に初速は高くなる傾向にあるが、トップスピードに至るまでの時間は各々で異なる。

 如何にしてスピードを維持して戦うか。如何にしてトップスピードに至る瞬発力を手に入れるか。より精密にアバターを動かしやすい高VR適性者程によりスピードを操れるのは道理であるが、それだけで決定する要素ではなく、元来持つ肉体制御能力も大きく関係している。

 ミスティアは助走をつけて余裕を持ってトップスピードに至って突撃する戦法を好む。だが、何も近距離における槍捌きに自信が無いわけではない。高DEXを活かした踏み込みから得られる初速の高さ、そしてそこから一気にギアを入れてスピードを上げる技術において、太陽の狩猟団でもサンライスに次ぐだろう。

 だが、煙の騎士に通じない。ミスティアが十分な加速が得られると見込んだ3歩分の間合い、そこから繰り出す攻撃を全て捌き切る。そして、それ以上の加速が得られる間合いの外には決して逃がさない。ミスティアの槍は一撃として直撃せず、煙の騎士のHPは僅かしか減っていなかった。

 

(緩急をつけて、こちらの回避と攻撃のタイミングを狂わす技量! ここぞという場面では押し切ろうとする苛烈さ! そして、冷静に対処するクレバーな立ち回りから見える知性の高さ! 幾ら仮想世界でも、プレイヤーが簡単に追いつけるものじゃない!)

 

 仮想世界において技術の習熟が早いのは実証されている。軍隊の訓練やスポーツ選手のトレーニングに早々に取り入れられた程である。だが、いかなる技術にも頭打ちとなる天井が存在する。ある程度までの習熟は可能でも、天井を突破して新たなステージに行けるかどうかは経験・才能・鍛錬が不可欠だ。

 ミスティアも認めるサンライスは、彼女とは対極の剛槍の使い手である。重量型の槍を縦横無尽に振り回すが、単なる力任せではなく、まさしく天賦の才が無ければ到達し得ない領域であると肌で感じた。

 ミスティアも槍の才能はあった方だろう。だが、サンライスには遠く及ばない。彼のようにはなれない。それを嫌でも自覚してしまった。

 同じように煙の騎士からも、ある種の到達者の技量が垣間見えた。底知れない煙の騎士の剣技、その深奥はこの程度ではないとミスティアは理解して震えそうだった。

 ガードの隙間を狙った4連突き。だが、煙の特大剣で全て弾かれる。刺突攻撃は高いカウンター補正を持ち、また斬撃・打撃に比べてもダメージ到達深度が出易い。だが、決定的な弱点も幾つかある。貫けず、また弾かれた場合、大きな隙を晒すことになる。それをカバーすることも含めて技術であり、技量の高さなのであるが、煙の騎士はその隙を見逃さずに攻撃を仕掛けてくる。

 

(こちらの攻撃は全て弾かれ、あるいは躱され、受け流される! 煙の騎士は深追いして来ない。これではこちらが一方的にスタミナを削られるだけ……!)

 

 悪い意味での膠着状態だ。ミスティアは打開策を模索するも、いずれの手段も煙の騎士を追い詰めるには足らない。

 

「ミスティアさん!」

 

 掛け声と共に距離を取っていたミリアより魔法【ソウルの嵐】が放たれる。渦巻くソウルの塊の上位版の1つであり、煙の騎士の頭上に巨大な青い光の塊が生じたかと思えば、全方位に曲線を描くソウルの矢が放出される。

 単発火力は低いが、広範囲をカバーできる魔法だ。プレイヤーもモンスターも同士討ちのリスクが生じるDBOにおいて、範囲攻撃は使い手と場面を選ぶ。だが、ミリアの発動タイミングは絶妙だった。ミスティアが距離を取ろうと動き出す寸前で発動させて援護したのである。

 いかに単発は火力が低くとも、煙の騎士の巨体ならば発動中心部にいれば連続ヒットは免れない。ミスティアは十分に距離を取ることができる。

 

(ソウルの嵐は集団戦でも特に扱い辛い魔法の1つ。発動まで時間がかかり、燃費も悪く、単発の威力の低さはモンスターに効果を発揮させ難く、また範囲の広さは仲間への被弾もあり得る。それをアタシの思考を読んでタイミングを合わせて使うなんて……!)

 

 伊達に少数精鋭の3番隊のメンバーではない、とミリアは実力で示す。

 ミスティアもミリアの実力は疑っていない。だが、たった2人の指揮官もいない状況で、安心して後方支援を任せられるかと問われれば、冷徹に否定するしかない。感情では彼女の支援に期待したいが、それとコンビネーションは別の話だ。

 指揮官の有無。集団戦において、全体の動きを把握し、適確な指示を飛ばせる人材は不可欠だ。特に強大なネームドやボスを相手にするならば、戦略的視点を持って戦場を管理できる人間の存在がどれだけ大きいかは言うまでもない。また、6人……パーティ単位においても司令塔が存在するだけで、本来以上の能力を発揮でき、また生存率は劇的に変動する。

 だが、DBOにおいて人型ネームド相手に発声による指揮は非常に危険である。彼らは総じて人間の言葉を理解しているからだ。直接的な命令を耳にすれば、即座に対抗策を練って来る。それを逆手に取る戦法もあるが、それは仲間にも悪影響を及ぼしかねない。故に事前に陣形や連携を把握し、指揮官の最小限の指示で目的を把握することが求められる。

 DBOは高難度ほどにプレイヤー個人の力量が求められる。だが、断じて集団の利点が死んだわけではない。上位プレイヤーでも1人で同レベル水準のダンジョンに潜れば、その多くは成す術なく遁走を余儀なくされ、それも叶わずに死ぬことも多々ある。仲間の存在がなければ、ろくに回復することもできず、複数のモンスターに囲まれて一方的に攻撃される。

 だからこそ、プレイヤーは繰り返す訓練の下で仲間との連携を磨く。指揮官が不在でも信頼できる仲間との連携は、苦難を乗り越えるにおいて、同等かそれ以上の武器になるだろう。

 その極致こそが、反復練習で染み付いた型通りではなく、互いが互いの動きを完全に補い合う、まるで魂を溶け合わせた連携だ。単純に動きから意図を読んで合わせるのではなく、僅かなラグすらも感じられない程に、もう1人の自分がいるかのように同調することだ。

 無論、そのような極致を全員に求めるなど不可能だ。だからこそ、事前にフォーメーションを定め、様々な連携の練習を繰り返す。

 そして、ミスティアとミリアは親睦を多少深めたとしても、互いの息を合わせるトレーニングは何1つ積んでいない。故にミスティアは彼女がどのようなタイミングで後方支援の魔法を発動させるのか、読み切ることが出来ない。

 だが、逆は違う。ミリアにとってミスティアは、尊敬する上司の恋人である以上に所属ギルドのトッププレイヤーだ。当然ながら、いついかなる時に戦場を共にするか分からない以上、指揮官不在の状況でも的確に支援しなければならない。『トレーニングを積んでいなかったので支援できませんでした』と詫びても、聞くのは墓標ばかりとなる。

 故にミリアの魔法支援は適確かつ最上だった。弛まぬ地道な努力の結晶だった。ミスティアはそれを感じ取り、これを反撃に繋げるべく距離を取る。

 そのはずだった。だが、煙の騎士はソウルの矢が吹き荒れる範囲攻撃から逃げることなく、むしろミスティアが取ろうとした距離を詰める。

 絶句。ミスティアも思わず言葉を失った。確かに単発威力は低くとも数も重なればダメージは馬鹿にならないソウルの嵐に対して、煙の騎士は姿勢を低くして溜めの動作から左手の特大剣による回転斬りを繰り出した。途端に突風が吹き荒れ、ソウルの矢を打ち消す。

 ネームドの標準能力ともいうべき全方位範囲攻撃。プレイヤーが数に物を言わせて囲んで殴り掛かった場合に発動することが多く、火力の高さはもちろんであるが、その多くはカウンター補正が極めて高い。攻撃に夢中になったプレイヤーがまともに直撃すれば、たとえ高VIT・高防御力プレイヤーでも大ダメージは免れない。また、発動までの予備動作が極めて短い場合が大半であり、発動中はネームドの防御力や衝撃・スタン耐性が極度に向上する為に、強引に攻撃を重ねて阻止は難しい。

 包囲による物量攻撃が特に有効な人型ネームドは、全方位範囲攻撃を持っていない方が珍しい程だ。故に煙の騎士が発動させてもおかしくはない。

 問題なのは、全方位範囲攻撃を『範囲攻撃を打ち消して距離を詰める』為に発動させた点だ。

 人型ネームドは、まるで生きているかのように自意識を示すAIであることが多い。彼らはいずれも戦場の英雄であり、人の形を成した伝説である。ならばこそ、煙の騎士が例外であるはずがない。彼もまた、黒霧の塔の底で煤に埋もれていたとしても、プレイヤーの難敵として立ち塞がるに相応しい存在なのだ。

 ミリアの努力の結晶を容易く粉砕し、ミスティアとの距離を詰めた煙の騎士の斬撃が襲う。右手の片手剣による素早い連撃を躱しきれず、ミスティアの右肩が斬り裂かれる。飛び散る血の量は、ダメージ到達深度と減少したHPを端的に示す。ならば、ミスティアの足下に血溜まりが出来る程ともなれば、どれ程のダメージを負ったのかは明白である。

 HPが一気に4割損耗。流血によるスリップダメージも生じる。ミスティアはダメージフィードバックを堪えて動きを鈍らせない。むしろ、衝撃によってに揺らいだ所に更なる攻撃が仕掛けられないように、槍の柄でガードの構えを取る。

 だが、煙の騎士は仕掛けない。ミスティアに手傷を負わせたならば、それ以上の深追いはしない堅実さを発揮する。またしても絶妙な距離を維持され、ミスティアは自分が嬲り殺しにされているのだと悟る。

 

(回復アイテムはある。だけど、使えるタイミングが無い)

 

 草系、ドリンク系、クリスタル系、注射系など様々な回復アイテムはあるが、いずれも1アクションが不可欠だ。それはネームド相手には致命的な隙となる。

 

(オートヒーリングで補うにはダメージが大き過ぎる。どうすればいいの?)

 

 ミスティアはMYSが高ければ高い程にオートヒーリング効果を高める【王女の抱擁の指輪】を装備している。だが、HP4割のダメージをオートヒーリングで補うのは余りにも危険過ぎる。HPがフルでも危険であるというのに、残り6割では即死圏内に半身が踏み入っている。

 スタミナ回復とオートヒーリングの時間稼ぎの為に、構えを取って動きを止めれば、煙の騎士も応じる。攻めてこないのはありがたいが、集中力だけは削られ続けるミスティアは時間の経過と共に追い詰められる。

 ソロでネームドを挑むのが無謀とされる理由の1つは、言うまでもなく集中力が持続しないからだ。死の縁に立たされた人間は、原始の生存本能が覚醒して集中力を高める。だが、それは永続するものではない。長引けば長引く程に、敵が強大である程に、集中の糸は細く、脆く、千切れやすくなっていく。

 疲労は脳と精神を着実に弱らせていく。死の重圧は増していく。たとえHPが減らずとも、1秒毎に追い込まれていくのは間違いなくプレイヤー側なのだ。

 だが、煙の騎士の動きが変化する。ミリアが支援で放った【ソウルの一閃】を躱す為だ。任意の場所にソウルの光の柱を生じさせる魔法であり、威力は高い方ではないが、高い衝撃を持つことから、上手く使えば味方の攻撃をサポートできる。

 ミリアの狙いは、ソウルの一閃で煙の騎士を動かしてミスティアの回復タイミングを作ることだろう。だが、煙の騎士は続くソウルの一閃を『斬り裂く』。ソウルの一閃は見た目こそ光の柱を生じさせる魔法だが、その実は発動ポイントの頭上から攻撃するというシンプルな魔法だ。その出始め……命中判定が地面まで通過するラインを煙の騎士は見切り、右手の片手剣で命中判定斬りを行ったのだ。

 

「そん……な……!」

 

 ミリアの絶望の声は尤もだろう。彼女は更に追尾するソウルの太矢を放つ。中級魔法であるが、使い込んで熟練度を高めてしっかりカスタムすれば、レベル100クラスでも十分に通じる魔法である。

 だが、煙の騎士は見向きすらしない。弾速が遅い追尾系の魔法など見るに値しないとばかりに、顔も向けずに片手剣でまたも命中判定斬りで消し去る。

 反則だ。プレイヤーでも絶技の内に入るシステム外スキルの命中判定斬り。これを使って来る人型ネームドは確かに存在は、ミスティアも耳にしたことはある。逆に言えば、目にした事が無い程に、実例が数える程しかない程に、如何に人型ネームドでも容易く使ってこないという事だ。

 しかし、煙の騎士からすれば文字通りの片手間に過ぎない。他人からすれば銃弾を斬り払えるなど尋常ではないとしても、当の本人からすれば何の不思議もないように、余りにも次元が違い過ぎる。

 精神に亀裂が入る。敗北を心が認めた時、勝利の可能性は失われ、生存を手繰り寄せる事すらも不可能になる。ミスティアはオートヒーリングの回復を待たずに、1本目のHPバーが1割と減っていない煙の騎士に再び攻撃を仕掛ける。

 勝利の糸口を探る為ではなく、死を意味する心の敗北を恐れたからこそ、攻め続けるしかなかった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 黒霧の塔が稼働している。重々しい駆動音は鉄の音色を奏で、これまで微動だにしなかった各所のリフトも忙しなく動き始めている。

 誰かがギミックを解除したのだ。これによって黒霧の塔は新たな様相を見せている。これまで入ることが出来なかったエリア……特にボスが待つだろう最深部に行けるようになったのは大きい。

 だが、今回の転移トラップの1件が深く関与しているのは間違いないだろう。ラジードはようやくたどり着いた吹き抜けの中枢部……ミスティアと喧嘩したモンスター侵入不可エリアへと足を運ぶ。

 モンスター侵入不可エリアには、プレイヤーへの攻撃は可能でもトラップは仕掛けられない。また、四方は壁に囲われた小部屋であり、出入口は2つだけなので、ひとまずは安全地帯となるはずだ。安堵を隠せないJJを伴い、ラジードがモンスター侵入不可エリアに立ち入れば、2人の先客が待っていた。

 

「隊長、御無事で何よりです」

 

「マダラ! それにソルトさん! 生きていてよかった」

 

 喜びを隠さないラジードに、マダラは苦々しそうに目線を逸らす。

 

「俺は無事ですが、ソルトはご覧の通りです」

 

「コイツは……惨たらしいな」

 

 怒りを静かに示すJJが跪く先には、もはやミイラと見間違うほどに止血包帯で巻かれたハニーソルトが横たわっていた。両腕は肘から先が無く、下顎は切断されている。喉も足も執拗に潰されており、もうしばらくの復帰は無理だろう。

 マダラは自分やハニーソルトに何があったのか説明した。彼は運よく転移する前にクゥリに助けられ、敵の狙いを考察し、マニュアルに従わずにバラバラになった仲間との合流を優先した。その途中でハニーソルトを呪いの塔で発見し、クゥリは犯人だった【暗殺者】マルドロと対決し、2人は命からがらここまで逃げてきたとの事だった。

 

「あのマルドロか! 太陽の狩猟団を敵に回すなんて、何を考えてるんだ!?」

 

 JJが憤慨する通り、マルドロの犯行は太陽の狩猟団への明確な敵対行為だ。だが、ラジードの懸念は別にある。

 

「マルドロさんを雇ったのは、太陽の狩猟団を敵に回しても問題ない存在ということだろうね。でも、それだけじゃない。ギルド内に侵入の手引きをした裏切者もいるはずだ」

 

 黒霧の塔の出入口は、現時点で分かっているのは1ヶ所だけだ。太陽の狩猟団が見張っているので、勝手な立ち入りは難しいだろう。ならば、少なくともダンジョンの出入口を見張る警備の誰かが裏切者なのは間違いない。

 裏切りは世の常とはいえ、同じギルドの仲間を疑いたくない。だが、それ以上にラジードが心配なのは、マルドロを雇ったのが他でもない太陽の狩猟団であった場合の事だ。そもそもとして、クゥリが黒霧の塔に来たのは太陽の狩猟団からの依頼があったからだ。

 

「【渡り鳥】の援護に行くのか? 俺は反対だぞ」

 

「俺も同意見です。悔しいですが、【渡り鳥】の強さは噂以上です。マルドロがどんな悪辣な真似をしたとしても、殺しきれるとは到底思えません」

 

 JJとマダラはクゥリへの救援に否を唱える。ラジードはすぐにでも駆け付けたい気持ちを抑え、まずは深呼吸を挟んで冷静に状況を分析する。

 確実にクゥリを殺す策を巡らしているだろうマルドロに対してクゥリが勝てる見込みは薄い。だが、その一方で救援を待っているミリアやミスティアを放っておくわけにもいかない。敵の狙いはあくまでクゥリかもしれないが、目撃者にもなったラジードたちの始末しようと企んでいるかもしれないからだ。

 また、身動きが取れないハニーソルトを放っておくわけにもいかない。バランドマ侯爵のトカゲ試薬を使っているとはいえ、数時間は身動き出来ない彼を守る為には、最低でも2人はこの場に残さなければならない。そうなれば、クゥリの救援にしても、ミスティア達の捜索にしても、1人で行わなければならない。

 マダラの話の限りでは、敵はマルドロとスナイパークロス使いの2人だ。だが、他にも敵が潜んでいるかもしれない。何をするにしても人員が少なすぎるのだ。

 

「う……うぁ……あ……あい……ちょ……う」

 

 と、そこでハニーソルトが体を揺さぶって唸り声を上げる。

 下顎と舌の1部を切断されたハニーソルトは上手く喋る事が出来ず、システムウインドウを音声起動も出来ない状態だ。

 

「ソルト、無理に喋るな!」

 

 落ち着かせようとハニーソルトの肩に触れたJJだが、彼は嫌がるように……いや、何かを伝えるように身を捩じって手を払い除け、芋虫のように這って何処かに行こうとする。

 HPは回復し、再生処置を施してあるとはいえ、ハニーソルトを襲うフィードバックは相当なものだ。痛みではないとしても、まともに意識を保っている方が苦痛である程だろう。だが、ソルトはお構いなしに、むしろ自分を苦しめるように、モンスター侵入不可エリアの外……リフトが稼働している塔の中枢部に進もうとしている。

 

「何を伝えたいんだ?」

 

 今のハニーソルトを1歩でもモンスター侵入不可エリアの外に出せば、抵抗すら出来ずに殺されるだろう。隊長として、また人間として彼の行動を認可できないラジードに対して、ハニーソルトは何かを訴えるように唸る。

 

「みぃ……いた……じぃ……たぁあああ」

 

「みぃ? ミリーのことか!? いた……じぃた……下にいるのか!?」

 

 マダラは言葉と捉えることも難しい唸り声から情報を拾い上げ、瞬く間にハニーソルトの意図を察する。ラジードは読み解こうとする思考すらまだ始まっておらず、マダラの頭の回転の速さには驚くしかなかった。

 ハニーソルトはダンジョン内でフレンドの居場所を探ることが出来る≪朋友感知≫スキルを持っている。ならば、マダラの言う通り、ハニーソルトが伝えたいのはミリアの……即ち一緒に転移したはずのミスティアの居場所なのだ。

 起動したリフトのお陰で黒霧の塔の最深部に向かうことは出来る。だが、2人がわざわざ危険を冒してまでパーティがバラバラになった状態で最深部を目指すとは思えない。ならば、転移トラップの影響で最深部に飛ばされてしまったと考えた方が自然だった。

 あり得るのか? 一瞬だが疑ったラジードであったが、ハニーソルトはマダラが正解だと示すように頷いている。

 ハニーソルトは呪いの塔でマルドロの餌として利用されていた。だが、ハニーソルトが倒された後に運び込まれたのではなく、一連の凶行が呪いの塔で行われたならば、彼は≪朋友感知≫でミリアの居場所を察知したからなのではないだろうか? 

 危険を覚悟で最後のギミックを解除すべく呪いの塔に向かったハニーソルトの覚悟。もはや身動きすらまともに出来ない状態になりながらも、彼女たちの救助を優先する強い意思に、ラジードは敬意を表する以外になかった。

 

「どうする? 最深部にいるとはいえ、リフトが稼働したならば、戻って来れるはずだ。このままここで待つべきじゃないか?」

 

「確かに。ミリーはともかく、ミスティアさんはトッププレイヤーだ。最深部がレベル90以上の水準だとしても、ミリーを守りながら戻って来れないこともない。だが、俺は救助に向かうべきだと進言させてもらう。敵の狙いが不鮮明である以上は、俺達は一刻も早く合流すべきだ」

 

 慎重派のJJと救助を訴えるマダラ。ラジードは心情的にはマダラの意見に賛成だが、JJもまた無情で待機を申し出ているわけではないことも重々承知している。救助に向かう先は、少なくともレベル90以上……あるいはレベル100水準に到達するだろう黒霧の塔の最深部だ。戦力が激減している現状で突入すべきではない。

 だが、それは最深部に取り残されているミリアとミスティアをこのまま最深部に取り残すとは、彼女たちを見殺しにしかねないという事だ。また、2人の救助を優先するということは、今もマルドロや他の暗殺者と戦っているかもしれないクゥリへの救援を後回しにするという事である。

 

「……僕が単独で最深部に行くよ」

 

「正気か!?」

 

「どうだろうね。でも、僕は最前線ダンジョンにソロで潜った経験もあるし、適任のはずだ。マダラたちはここで待機だ。ソルトさんを守ってくれ。クゥリもマルドロを倒したら、1度はここに戻ってくるはずだ。彼を待っていてあげて欲しい」

 

「……了解」

 

 奥歯を噛み、不服と不満を滲み出しながらも、身動きできないハニーソルトを放っておくことは出来ないマダラは了承する。対して、そもそも最深部に救助に向かうこと自体が反対のJJは、欠損とトカゲ試薬のフィードバックで悲鳴を堪えるハニーソルトの傍らで胡坐を掻く。

 

「マダラ、お前も行け。ソルトの護衛は俺だけでやる」

 

「それは駄目だ。モンスター侵入不可エリアとはいえ、出入口が2つ。最低でも2人は――」

 

「マダラを連れていかないなら、隊長もここに残れ。ソロで行くなど許さん。隊長は今後の攻略に不可欠な人材だ。俺やソルト……それにミリアよりもずっと価値のある人間だ。ここで死なれたら困る。隊長が救助に向かうならば、もう止める気など無いが、マダラを同行させろ。無念だが、俺よりもマダラの方がずっと役立つ」

 

 JJはタンクだ。常にモンスターの攻撃に晒されながらも仲間を守る壁であり続けねばならない。ならばこそ、彼は冷静だった。仲間の命に序列を付け、自分やハニーソルトの危険を増やすよりも、ラジードの生存率を上げることを優先した。

 

(僕は隊長だ。でも、皆を引っ張れる指揮官としての才能は……やっぱり無いな)

 

 誰かに指示を飛ばす指揮官ではなく、剣を振るい続ける前線の戦士の方が性に合っている。自分よりもマダラやJJの方が上に立つに相応しい。ラジードは適性の観点から隊長という役割は自分に不適切だと分析した。

 

「だけど意外だな。マダラも救出に賛成なんてさ」

 

「ミスティアさんだけならば心配しませんが、ミリーと一緒となると足を引っ張っているかもしれませんからね。俺なりの尻拭いってやつですよ」

 

 素直じゃないな。言動とは裏腹に清々しい程にやる気を見せるマダラに、ラジードは曖昧な笑みで応じる。

 JJに見送られて出発したラジードたちは、早足でダンジョン内を進む。

 炉に火が入り、まるで血流が通って生気を帯びたかのような黒霧の塔。新しい表情を見せるダンジョンに冒険心は擽られるが、ラジードはミスティア達の救出こそが最優先であると最深部に潜るリフトへと向かう。

 黒霧の塔の中枢部は、巨大な柱が1本通り、円状に穿たれた穴を覗き見ることが出来る。そこでは資材運搬用リフトが休みなく上下に動いており、これまで進むことが出来なかった黒霧の塔の地下奥深くへとラジード達を誘っている。

 だが、ラジードたちの道を阻むように、炉の火で影が妖しく揺れる人影があった。

 先程まではいなかったはずだ。警戒して特大剣の柄に右手を這わせたラジードは、マダラとアイコンタクトを取って警戒態勢を取る。

 魔女。あるいは占い師。そう呼ぶのが相応しいだろう、黒いドレスを纏った女だ。目元まで深く隠すフードは金と銀で彩られ、豊かな胸部を強調するようなデザインのドレスは淫靡とも思えた。足首まで隠すスカートの裾は花弁の如く広がり、炉の火が伸ばす闇色の影を何処か不安を煽るように歪めていた。

 頭上のカーソルはNPCだ。つまりはマルドロの仲間ではない。無論、フラグ次第では敵対するNPCもいるが、心当たりのないラジードはひとまず敵対行為と見られかねない事を警戒して武器を収めた。

 NPC名は<渇望の使徒>だ。名前は表示されておらず、元から設定されていないか、ある程度の友好度を稼がなければ分からないタイプだろうとラジードは判断する。マダラも同様らしく、NPCと敵対して時間を浪費するのも惜しいと武器を下げた。

 炉に火が入った事によって出現したNPCであるならば、話しかければレアアイテムを得られるイベントが得られるかもしれない。だが、優先すべきは救出である以上、ラジードはなるべく目を合わさないようにし最深部に続くリフトが地下より上がって来るのを待つ。

 

「ご存知ですか? この塔には悪霊が住み着いているのです」

 

 艶のある声音を、ルージュの口紅で染まった唇を震わせてNPCは2人に語り掛ける。無視すべきだとラジードは背中を向け続けるが、マダラは少しだけ興味が惹かれてしまったのか、顔半分だけ振り返った。

 

「悪霊?」

 

「ええ、そうです。その悪霊は孤独に捕らわれた哀れな娘。独りの寂しさと苦しさに狂い、そしてこの地で反逆者の懐に居場所を見出しました。決して報われることもないというのに」

 

 マダラの問いに対して、NPCはやや芝居がかかった仕草で悪霊について語り始める。間もなくリフトが来る以上はNPCの長話に付き合うわけにはいかない。ラジードは肘で小突いてマダラに無視するように促す。

 

「ですが、隊長。わざわざ最深部前にいるNPCです。これはもしかしてボスの情報では?」

 

「そうだとしても、今は1分1秒が惜しいんだ。2人を助けてからでも遅くはない」

 

 確かにボスの情報は気になるが、太陽の狩猟団が黒霧の塔を独占している以上は、他の大ギルドに先を越されることはない。ラジードの意見は正しく、マダラも同意してNPCに背中を向けようとする。

 

「哀れにも反逆者に挑んだ戦士が2人いらっしゃいます。彼女たちはきっと負けるでしょう」

 

 だが、NPCの聞き逃せない発言に2人は固まった。

 これまでのNPCの発言は、マダラの指摘通りボスに関してのものだろうことは推測できた。そして、NPCは現在ボスに挑むプレイヤーについても言及したのだ。

 ミスティア達がボスと戦っている? ラジードは信じられない……いや、信じたくない気持ちで足下がおぼつかなくなる。

 ミスティアは太陽の狩猟団でも5本指に入る実力者であり、ミリアもサポート能力に秀でた魔法使いプレイヤーだ。だが、たった2人でボスに……それもNPCの発言から察すれば人型ネームドに相対するなど無謀である。

 単独、もしくは少数で人型ネームドと戦うな。それがDBOの鉄則だ。ネームドとしてのステータスの違いもあるが、それ以上に人型ネームドの危険性は群を抜いているからだ。

 ネームドとして登場するのは、大なり小なりDBO史に名を刻んだ存在だ。それは時として一国の英雄であり、あるいは伝説である。そんな存在に常人が挑んだところで勝ち目などない。

 たとえば、【竜狩り】オーンスタイン。ラジードもその目で見た、古竜との戦争で多大な戦果を挙げてグウィン王の四騎士の長となった、偉大なる英雄だ。その実力がどれ程のものだったかは、プレイヤーでも屈指の実力を持っていたはずの聖剣騎士団の円卓の騎士のヴォイドが、単身では傷1つ付けられなかったことからも明らかだろう。

 人型ネームド相手には数の暴力が有効とされているが、それは正確に言えば誤りだ。『絶対的な実力差を数で埋めるしかない』のだ。

 存在そのものが天災と呼ぶべき圧倒的な破壊力と規格外のタフネスのドラゴン型ネームドに対して、純然たる技量と研ぎ澄まされた能力を持って立ちはだかる人型ネームド。この2つだけは他とは一線を画す危険性があるのだ。だからこそ、単独・少数で遭遇した場合は脇目も降らずに生存優先で逃げることが推奨されている。

 ミスティアは生命よりも功名心を優先するタイプではない。仮にネームドと交戦したならば、それは不測の事態だったのは間違いないだろう。そして、ボス戦ともなれば、離脱不可のギミックが起動していてもおかしくない。

 

「ミリー……!」

 

 拳を握り、マダラは最悪の事態を想定して眉間に皺を寄せる。ラジードは自分も似たような表情をしているのだろうと自覚しながらも、まずは冷静さを損なわないようにと最深部に入ってからのプランを考える。

 だが、どれだけ思考を巡らしても、すぐに真っ赤なイメージが頭を支配する。

 胴体が千切れたミスティア。誰なのか区別がつかない程の肉塊となったミスティア。まるで眠るように瞼を閉ざして首だけとなったミスティア。

 たくさんのミスティアの『死』のイメージが氾濫し、気を抜けば足が震えそうになる自分にラジードは怒りを覚える。

 彼女は簡単に負けない。仮にネームドと戦っているならば、生存の為に死力を尽くしているはずだ。ならば、今自分がすべきことはただ1つ、急ぎ救援に向かうことだ。

 その一方でラジードの冷静な……いいや、冷徹な部分は即時撤退を推奨する。既に2人がネームドと交戦状態に入っているならば『手遅れ』だ。ここで自分が乱入してもマダラと合わせて2人分の死体が増えるだけだ。ならば、クゥリと合流してからダンジョンを脱出し、ギルドに事の次第を報告し、後に『仇討ち』をすべきだ。

 

(駄目だ! 何を考えてるんだ!? そんな事……そんな事……できるはずがない!)

 

 冷静な判断? 糞喰らえだ。ラジードは酷く感情的であることを自覚し、また開き直る。

 マダラも覚悟は決まっているらしく、無言ではあるが、ラジードと同様にボス戦に挑む決意を揺るがぬ眼で示している。

 ミスティアとミリアが無事だという仮定であったとしても、人型ネームド相手にたった4人で挑む。それがどれだけ無謀なのかは言うまでもない。

 だが、決して不可能ではないと先人が証明している。他でもないラジード自身が、【竜狩り】オーンスタインがたった1人のプレイヤーによって撃破された光景を目にしている。

 彼らに追いつきたい。そう願うならば、ここで仲間を……恋人を見殺しにするなど以ての外なのだ。

 

「反逆者を倒すことを望まれるならば、これをお使いください。孤独の悪霊の加護を打ち破ることが出来るでしょう」

 

 NPCがそう言って差し出したのは、まるで熱が籠もっているかのように煌々とした輝きが含まれた鉄の杭だ。【熔鉄の杭】と名付けられたアイテムは、ラジードとマダラに1本ずつ与えられたようだった。

 区分は攻撃アイテムだ。手で直接突き刺すか、あるいは投擲が有効だろう。ラジード達がボスを倒すことを後押しするように、NPCは深々と頭を下げた。

 

「闇の血を持つ者たちよ。どうか孤独の悪霊を倒し、この塔を浄化してください。いいですか? その杭は孤独の悪霊にしか効果を発揮しません。反逆者を追い詰め、悪霊が姿を現した時こそ、その杭を使うのです」

 

「感謝します。行こう、マダラ!」

 

「了解」

 

 NPCの援助に感謝を述べ、ラジードはマダラを招いて最深部に降りるリフトに乗る。

 もはや選択肢はない。ラジードは1秒でも早くミスティア達の元に向かう為に、リフトが最深部に到着するより前に跳び下りたい衝動を抑える。

 

「1つ提案があります。ボス部屋までは相応の距離があるはず。道中でどれだけモンスターに出くわすかは分かりません」

 

「そうだね。だから、なるべくエンカウントしないように隠密行動を心がけよう。急がば回れと言うからね」

 

「本来ならそれが正解でしょう。ですが、俺は……強行突破を提案します。俺は≪挑発≫スキルを持っています。2人で全力で走り抜け、モンスターに包囲される限界ギリギリで俺が≪挑発≫を使用し、全ヘイトを集める。その間に隊長はボス部屋に行ってください」

 

 酷く感情を押し殺したマダラの提案に、ラジードは大きく目を見開いた。

 通称『走り抜け』と呼ばれるダンジョンの強行突破は、モンスターとのエンカウント上昇ペナルティが生じる。だからこそ、プレイヤーはスピードに物を言わせてダンジョンを踏破するといった『走り抜け』行為はほぼ封じられている。そんな真似をすれば、大量のモンスターをトレインするだけではなく、四方八方からモンスターを集めてしまい、逃げ場なく包囲されてしまうからだ。

 特に厄介とされるのが『走り抜け』時に出現するというペナルティ・モンスターだ。経験値・ドロップアイテム共に著しく渋い上に極めて強力なモンスターが出現する。

 故に高DEXプレイヤーでも、ダンジョンでモンスターとエンカウントした場合は『走り抜け』はせず、撃破か逃亡して隠れ潜み、エンカウント状態を解除するのだ。即ち、極論を言わずとも最速最短で進む方法とは、隠密ボーナスと速度のバランスを絶妙に保ち、なおかつモンスターの索敵に引っかからないように行動するしかない。

 だが、マダラが提案したのは禁じ手とも呼ぶべき裏技だ。『走り抜け』で多量のモンスターを集め、1人がヘイトを集める≪挑発≫を使って仲間の為に道を開くというものだ。無論、成功率は決して高くないが、使い込まれたマダラの≪挑発≫スキルとタイミング次第ならば、ラジードだけを先行させることができる。

 

「待ってくれ! ただでさえ『走り抜け』は危険なんだ! 2人分のペナルティだぞ!? どれだけの数になるか分かってるのか!?」

 

「数十体で済めばいい方かと。しかも強力なペナルティ・モンスター付き。しかも狭いダンジョン内ともなれば、一方的に押し潰されるだけ……といったところでしょう。だけど、それ以外に方法はない。幾らミスティアさんがトッププレイヤーでも、たった2人で人型ネームドを相手取って長く耐え抜けるとは思えない。特にスタミナはすぐに枯渇するはずだ」

 

 マダラの言う通り、対ネームドにおいて集中力・精神力はもちろんであるが、スタミナ管理の難易度も大きく上昇する。

 スタミナ管理は全プレイヤー……特に近接戦を主とするプレイヤーにとっては奥義にも等しい。スタミナ管理技術の有無で継戦時間は天地程の差が出るからだ。事実として、ラジードよりも少ないCONでありながら、彼以上に動いているように見えて、だが継戦時間は長いプレイヤーも存在する。

 対ネームド戦において少数で挑んだ場合、嫌でも『動かされる』場面は増える。敵の攻撃が分散しないのだから当然だ。その分だけスタミナ消費を増やす動きの贅肉は増え、それは驚くほどに明確かつ露骨にスタミナ切れという形となって表面化する。

 これはラジードの私見であるが、ネームドを単独討伐した猛者達は、いずれもCONを成長させ、スタミナ回復速度上昇のバフを備えていただけではなく、スタミナ管理技術が秀でていたからであると考えていた。

 

(ミスティアは決してCONが高いわけじゃないし、そもそも戦闘スタイル自体がソロ向けじゃない。マダラの言う通り、きっと長くは耐えられない。だけど……!)

 

 ペナルティ・モンスターを含む数十体に包囲されたマダラを『生贄』にして、2人を助ける。そんな冷酷な判断をラジードが下せるはずもなかった。

 

「ミリーにとって、アンタはヒーローなんだ」

 

 そんなラジードの胸中を見透かしてか、マダラは『隊長』に対しての礼儀を省いて語りかける。

 

「正直言おう。俺はアンタが嫌いだった。馬鹿正直で、正義感が強くて、仲間想いで、だけど変なところで鈍感なアンタが嫌いだった。俺はさっさと上に実力を認めさせて、出世して、隊を抜けたいのに、アンタは無駄に慎重だから危険な任務を受けても稼げる点数を下げてしまうしな」

 

「……マダラ」

 

「そう、嫌い『だった』んだよ。アンタみたいになりたいとは思わないが、俺はアンタのお陰で……仲間を見捨てたくないって思えるようになれた。憧れはしないが、尊敬はしている。だから、尊敬する隊長にお願いしてやるよ。『ミリーを助けてくれ』ってな。アイツは『大好きな隊長』を待ってるはずだから」

 

 止めろ。ラジードが手を伸ばすより先に、リフトの到着と同時にマダラは駆け出す。

 もはや導火線に火は点けられた。マダラが止まらぬ限り、何しても『走り抜け』によるペナルティは生じる。ならばラジードはもはやマダラの作戦に乗る以外に無かった。

 ふざけるな。馬鹿野郎。今ならまだペナルティも軽いから何とかなる。ラジードは多くの言葉が頭と胸の内で渦巻く中で、全てを呑み込んで先行するマダラの後を追う。

 

「隊長失格だな。僕はただの戦闘員の方がやっぱりお似合いだ」

 

「知ってる。でも、俺達にとってアンタだけが『隊長』なんだよ。まどろっこしい指示なんて要らない。アンタが斬り込んでくれる。アンタが助けてくれる。アンタが皆を引っ張てくれる。それだけで十分だ。アンタに足りない部分は俺が補う。俺は……アンタを支える『副隊長』だからな」

 

 続々とモンスターが集まっていく。モンスターの攻撃を潜り抜け、先に進めば進む程に、背後から追いかけるモンスター群れは密度を増し、飛び出すモンスターの数も増える。禍々しい黒ずんだ光と共にモンスターがポップして立ち塞がっていく。

 ペナルティ・モンスターとして、オーラを纏った鉄の巨兵が3体同時に出現して壁となる。いよいよモンスターの密度が限界に達したと思われた瞬間にマダラは立ち止まり、ラジードに目配りする。

 

「必ず2人を連れて助けに戻るから踏ん張ってくれ、『副隊長』」

 

「いいや、無理だな。俺がアンタの援護に行く。それまで粘れよ、『隊長』」

 

 ラジードは≪特大剣≫の突進系ソードスキル【ストレート・クラッシュ】を発動させる。長い溜めの動作こそ必要になるが、≪特大剣≫のソードスキルにしては燃費が低く、また突破力に優れているので包囲脱出に秀でている。

 ラジードのソードスキル発動のタイミングに合わせてマダラが≪挑発≫を使い、集めたモンスターのヘイトを一気に集める。ラジードが攻撃して包囲を突破した際のヘイトもすぐにマダラへと傾き、彼が先に進む道は開かれる。

 それでも数体はラジードを追おうとするが、モンスターの壁に囲われたマダラが≪挑発≫を乱発しているのだろう。ラジードを追跡する速度は緩やかであり、途中で引き返してマダラへの攻撃へと加わった。

 マダラが戦いの場所に選んだのは、広く段差もあり、一方的に包囲され難い空間ではあったが、膨大なモンスターの数の暴力は彼を磨り潰すだろう。

 

(マダラは勝つ。死なない。死ぬはずがない! 彼は……僕が思っているよりもずっと強い!)

 

 だから考えるな。考えるな。考えるな! ラジードは屍となって倒れ伏すマダラの最期を想像してしまえば、それが現実になってしまうのではないかと恐れを抱く。そして、それは引き返して彼の救援に向かうという、託された願いへの裏切りを誘う。

 だからこそ、ラジードは振り返れなかった。そうしてたどり着いたのは、渦巻く煤に覆われた空間だった。それはプレイヤーを脱出させない檻であり、ラジードは何の迷いもなく踏み込む。

 煤は体に纏わりつかず、ラジードを障害物が一切ない、まさにボス部屋に相応しい広々とした空間へと招待する。一面を煤の海であり、だが所々に血で出来た赤黒い染みが点在する明るくも暗くもない奇妙な空間で、ラジードの目に映ったのは、右肩を左手で押さえ、槍を握る右手を力なくぶら下げるミスティアだった。そして、彼女の目前には、3メートルにも届く巨体をした黒甲冑の騎士が、その身の丈にも匹敵する岩盤をくり貫いたような特大剣を構えていた。

 させるものか。ラジードはソードスキルを発動して突撃したい気持ちを抑え、まずは双剣を抜いて姿勢を低くして駆ける。

 もっと、もっと、もっとスピードを! ラジードの接近にミスティアと煙の騎士が同時に気づく。だが、対処されるより先にラジードの1歩は大きく変じる。

 それは地面を滑空するような、人外染みたボディバランスと運動エネルギーの制御が求められるステップ。白いカラスの傭兵が使う特異な体術の物真似だ。

 再現率は3割未満。だが、ステップによる急激な加速に煙の騎士は対処しきれず、ラジードの双剣は胴を薙ぎ払う。血こそ飛び散らなかったが、鎧に亀裂が生じ、HPも減少する。

 

「……隊長!」

 

「ラジードくん、どうして!?」

 

 涙目のミリアは歓喜で、ミスティアは喜びよりも怒りで、ラジードの到着に反応する。だが、今は彼女たちに声をかける余裕はない。煙の騎士は手負いのミスティアからラジードに目標を切り替え、右手の片手剣と左手の特大剣によるコンビネーションを仕掛けてくる。

 片手剣による素早い連撃と特大剣による重い一撃。緩急をつけてこちらの攻防の呼吸を乱す確かな技量の高さを感じる。

 だが、ラジードは肌で感じ取る。煙の騎士は確かに強い。だが、【竜狩り】オーンスタインよりも遥かに弱い。

 ネームドを単独討伐した強者達。彼らに追いつくならば、ここで負けるわけにはいかない。気圧されるわけにはいかない!

 煙の騎士の特大剣の薙ぎ払いに合わせ、ラジードは仮面の二刀流剣士のように双剣を舞わせる。火花を散らしながら煙の特大剣の軌道を歪め、双剣の軽量性を活かした剣速を発揮し、再びその胴に×印を描く斬撃を刻み込む。今度こそ飛び散った血が確かに通ったダメージを物語り、煙の騎士は大きく跳び退いた。

 

「馬鹿! ラジードくんの馬鹿! どうして――」

 

「どうしても何もあるか!『助けに来た』んだよ!」

 

 ミスティアの非難を、ラジードは心からの叫びで押し潰す。問答無用で黙らせる。

 ちゃんと分かっている。ミスティアの気持ちを理解している。自分を助けに恋人が死地に跳び込む事を是とするなど出来るはずも無いだろう。

 だからこそ、ラジードは傲慢に笑うことにした。ここにたどり着く為に、文字通りの決死の覚悟を見せたマダラに応える為に、煙の騎士に剣を向ける。

 

「太陽の狩猟団3番隊、隊長……ラジードだ。貴方に恨みも憎しみもない。だけど、頼む。僕たちが生き延びる為に……死んでくれ」

 

 こんな口上に意味などないのかもしれない。だが、ラジードは己の覚悟を示す為に宣言する。

 

「……良い戦士だ」

 

 対して煙の騎士は特大剣を肩で担ぎ、片手剣の切っ先を向けて応じた。そこにあるのは、確かな騎士の礼だった。

 途端に刻み込まれたのは、底知れぬ闘争心であった。

 確かに煙の騎士は【竜狩り】オーンスタインに比べれば弱いだろう。

 だが、そもそもの基準が狂っているのだ。【竜狩り】オーンスタインはDBOでも最強格の人型ネームドだ。あくまでオーンスタインに比べれば、煙の騎士は劣るというだけであり、自分が遥か彼方にいる彼らを見上げる立場であることに変わりはないのだ。

 驕るな。死力を尽くせば勝てるなどという甘い相手ではない。一瞬たりとも気を抜くな。1つのミスで死は訪れる。最適解を選び続けても勝ち目は遥か遠い。

 

「隊長、援護します!」

 

 だが、ここにいるのは自分だけではない。ラジードは纏ったオーラで、ミリアの魔法で防御力アップのバフがかけられた事を把握する。

 そうだ。ここには優秀な仲間がいる。

 

「……帰ったらお説教だからね」

 

 そして、【雷光】の異名をとる程の槍使いもいる。回復を済ませたミスティアが横に並び、ラジードは頼もしさに震える。

 

「だけど、ありがとう」

 

 嬉しそうなミスティアの呟きに、ラジードは無言で頷き、そして煙の騎士に向かって突撃した。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 かつて最初の火の伝説が残る西の地へ、東の彼方より旅してきた剣士・アーロン。

 東方にも最初の火にまつわる伝説・伝承は数え切れぬほどあり、また火が陰る度に不死が生じて亡者が蔓延った。だが、火の伝説に関わることは稀だった。

 多くの武具は西方まで伝来したが、武人・偉人の多くは火の伝説に名を刻まなかった。東方とは歴史の主流から隔絶された土地であったのだ。

 だが、決して弱者ばかりだったわけではない。多くの戦乱によって育まれ、刀剣は独特の進化を遂げた。大いなる白き者から生まれた魔の探究には遅れを取ったが、より自然との調和・同化という思想は呪術の発展に貢献し、それは西の呪術の本場であった大沼を上回り、偉大なる混沌の魔女の系譜にすらも届き得るものだった。

 アーロンが生まれた時代では、火の陰りは浅く、不死はほとんど生まれていなかった。だが、東の果てにも深淵や異形は蔓延り、また人間同士の諍いもあるならば、戦場に不足は無かった。

 では、どうしてアーロンが西の彼方までの旅に出たのか。それは自らの剣を捧げるに足る主君を求めての事だった。

 生まれた東の地に名君・名将が不在だったわけではない。むしろ、アーロンが生を受けた頃は群雄割拠の時代。我こそが王であると誰もが東の王を目指さんとしていた。

 だが、アーロンの目には全てが不毛に映った。東方の王など余りにも浅い。どうせ目指すならば世界の王であらんとする偉大なる玉座の主にこそ剣を捧げたい。アーロンが西を目指したのは、火の伝説が残る地にこそ、神代より受け継がれた真なる王冠の継承があると夢見たからだ。

 山を、砂漠を、海を越え、アーロンは西の大地にたどり着いた。奇異の旅人……放浪の騎士と呼ばれる者とは幾度か出会ったアーロンだったが、その本場は東の地がどれだけ小さき庭だったかと思い知らされる程に武と叡智の楽園だった。

 数多の国々が、数多の猛者が、数多の王が、我こそが伝説の継承者だと言わんばかりに切磋琢磨していた。火の伝説の中心だった西方こそが世界の中心であると知り、アーロンは裏切りの罵りを受けても東方を旅立った事を喜んだ。

 だが、それも数年と待たずして失望へと変じた。アーロンを満足させるには、西方の国々も戦士も『浅かった』のだ。

 アーロンが西方にたどり着いた時代において、主流となっていたのは、武術とは名ばかりの分厚い防具に物言わせた力任せだった。

 重厚な鈍器で殴り伏せ、叩き伏せる。シンプルで分かり易く、また酷く滑稽な程に強力だった。だからこそ、剣技は衰退し、辛うじて鎧の隙間を刺し貫く槍術に輝くものはあった程度だった。

 魔法も芸がなく、権力と物欲に塗れて奇跡には神々の恩恵の名残しか見えなかった。呪術に関してもお粗末極まりなく、大沼など既に忘れ去られたにも等しかった。

 立ち塞がる自称『歴戦の戦士』などアーロンの敵ではなかった。東の地より伴った愛刀とアーロンの剣技にかかれば、厚さばかりを増やした鎧を両断するなど容易く、鈍重な動きでは軽業師のように素早く動く彼を誰も捉えられず、振り回すばかりしか能が無い鉄槌など掠ることさえも無かった。

 魔法使いも呪術師もアーロンからすれば、何の脅威にもなりなかった。足りぬ間合いは、東の地にも伝わった聖剣伝説より発想を得た、ソウルで斬撃を固めて放つ『気刃』を会得していたアーロンならば、容易に補う事が出来た。むしろ、武術である気刃を、どのような体系の魔法なのかしつこく問う西の魔法使いたちの曇った眼に絶望すら覚えた。

 カビが生え、腐り果てた火の伝説の中心たる西方を見限り、たとえ狭かろうとも強敵と武芸に溢れた東へと帰ろうとしたアーロンだったが、出立前に偉大なるソウルの伝説が残る地に足を運んで土産話を持ち帰ろうとした気まぐれが、生涯を決する天啓を得る機会となった。

 その者は余りにも弱者だった。秀でた血統でもなく、だが貧者の生まれでもなく、実に中途半端な家柄の若者だった。玉座を狙えぬこともないが、幾多の奇跡でも起きぬ限りには決して届かない。そんな運命の持ち主だった。

 鉄を操り、生命を注ぎ込む力はあったが、余りにも貧弱だった。だからこそ、良質な鋼の精錬に情熱を捧げ、また自らに足りぬ才能・知識を惜しみなく他者に求める器量があった。

 どうして忠誠を誓ったのか、アーロンにも曖昧だった。酒を奢られ、酔って西方への失望の愚痴を延々と零していた事は憶えている。そんな自分に対し、火の伝説……世界の玉座に自分こそが座るという夢を語る若者に、ある種の憧れを覚えたからなのかもしれない。

 アーロンは持てる武勇の全てを若者に貸し与えた。絶対的な不利の戦場で若者と共に駆けて功績を挙げた。数多の怪物を葬った。

 やがて、彼らの名声を聞きつけた多くの武人・賢者・軍師が集った。瞬く間に若者は小国の王となり、周辺諸国を併呑し、大国への道を歩み始めた。

 そして、アーロンはようやく西の真髄を味わう事が出来た。真に『騎士』と呼ぶに値する猛者たちとの出会い。人非ざる長き生を武の研鑽に捧げた忘れられた英雄との死闘。この世の終わりとも思える程の怪物との激戦。呪術の祖に近しき火を受け継いだ魔女の末裔との知恵比べ。幻影の霧中で出会った偉大なる太陽の光の王に仕えた騎士との決闘。そして、聖剣の伝説を追い求める深淵狩りとの友誼。

 アーロンが西で求めた日々がそこにはあった。至高の日々の中で、鉄の王と謳われる程になったかつての若者は、アーロンの名誉を讃え、彼の名を継いだ鉄人形の騎士団を拵えた。それは王国の代名詞にもなり、彼の出身である東方にちなんでカタナを標準装備とした西方では異質の騎士団となった。

 まさに絶頂期。いずれは火の伝説の中核……世界の玉座に迫ることも叶うだろうと思われた頃より、鉄の王に狂いが生じ始めた。

 隣国より迎え入れた妻を邪険に扱い、武芸者とは名ばかりの芸人を道楽のように集めて金品をばら撒き、より良質な鉄を求めて山の禁忌の底まで掘り進めた。

 鉄の王は弱かった。武才は備わっていなかった。鉄を操る力はあっても、本人には戦う力が余りにも無かった。指揮官としても優れているとは言い難かった。それがいつしか歪みを募らせ、冷たい鉄の玉座が苗床となって魂の腐敗を招いたのだとアーロンは悟った。

 賢王が一夜で愚王に。珍しくないことだ。もはや世界の玉座など求めず、鉄と財ばかりを欲する見栄を張ったハリボテの王に、アーロンは忠誠を捧げる意義を見失いかけた。

 どうすれば、王の目を覚ます事が出来るのか? 見捨てるという選択肢は無かった。

 座禅を組み、思慮に耽る日々。久しく剣を振るうに相応しい敵とも巡り合えず、腕が鈍ってしまうと愛刀の虚しい輝きに憂いを募らせるばかりだった。

 そして、城内に騒ぎが起き、誰かが現れた。それは濃厚な闇……時代の陰りと共に少しずつ数を増やしていた不死の気配だった。

 ここでアーロンの記憶は1度途切れる。そして、まるで寝惚け眼がこじ開けられたかのように意識を取り戻したかと思えば、彼は製鉄の塔に立っていた。

 鉄の王にとって最も重要な製鉄の塔。煤が雪のように積もったこの地から良質な鉄を採掘し、最高の鋼を鍛える。まさしく国の心臓部であり、いかなる侵入者も尋問なく殺される。鉄人形も含めて、精鋭中の精鋭が集まった最高の砦でもある。

 だが、『バケモノ』はそこにいた。女神という表現すらも足りぬ程の美貌であり、被った返り血が狂おしい程に妖艶な色香となった、まさしく死と厄災を司る怪物がいた。

 四肢の装具は全身を纏い、人肉と一体となった異形の甲冑と化し、自分と同じく東方の得物たるカタナは血刃を纏って長刀に変じ、腰より伸びる太いワイヤー2本は先端に分厚い短剣を繋げてまるで触手のように蠢く。

 過去最強にして最狂、そして最凶。アーロンが人生で培ったあらゆる剣技が通じぬバケモノがそこにいた。

 鉄の王に仕える間もソウルを吸収し続けたアーロンは、身の丈も体格も常人を上回る。ソウルを集め過ぎた者は、その影響を何らかの形で受けるが、アーロンの場合は体の大きさに顕著に表れていた。

 パワーもスピードも東方を出立した頃の比ではなく、ソウルを得る程に老化は抑制されて心身は衰え知らずだった。東と西の戦いで磨き抜かれた剣技と体術は、鉄の王の配下でも群を抜いていた。

 騎士アーロン。東では類似した『武士』であったアーロンが、鉄の王より『騎士』の称号を賜ったのは、王の懐刀に相応しく、また王こそが彼の居場所であったからこそ。ならば、王の名誉にかけて、国の心臓たる製鉄の塔を侵す者には誰であろうとも負けることは許されない。

 そのはずなのに、アーロンは過去1度として味わうことがなかった、一方的な防戦に追い込まれていた。

 いや、それは『防戦』と呼ぶことさえも許されない程の屈辱だった。

 東の武技は盾を嫌う。脆くも軽く鋭いカタナ、あるいは分厚い大曲剣が主であった。盾など弱者の甘えであり、苛烈な攻勢で敵を滅することこそが是とされた。アーロンも東の武を受け継ぐ者として、盾を持たず、愛刀の長巻だけであらゆる戦場を潜り抜けた。

 奇しくもバケモノはカタナ使い。だが、それは武術と呼べるものではない。剣術と称するのは、全ての武人に対する非礼だった。

 敢えて言うならば、それは『狩り』の業だった。

 武術も流派によって千差万別だ。多くの思想と理想、そして戦場と死闘が武術を育む。その中には当然ながら、殺戮だけを追究したものも多々存在する。むしろ、あらゆるお題目を取り払えば、武術の本懐とは殺傷と守護の2つだ。敵を倒すか、己や他を守るか。この2つの比率によって武術の色は決まるのだ。

 ならば、バケモノの戦いにどうして『狩り』を見出せたのか。アーロン程の猛者ならば、初撃を体験した時点で明瞭だった。

 たとえ、殺戮だけ追求していたとしても、それが『技術』である限り、そこには理想が存在する。積み重ねた年月の差異はどうであれ、そこには『歴史』とも呼ぶべきものが存在するはずなのだ。

 だが、バケモノのあらゆる動きにはそれが『無い』のだ。

 バケモノより感じるのは、獣の爪牙にあるのは『歴史』ではなく、純然たる『暴力』のみ。

 たとえ、それが受け継いだものだとしても、学び取られたものだとしても、『技術』から『爪牙』に貶める。『暴力』として純化・昇華させている。

 だからこそ、アーロンはそこに感嘆する『美』を見ていた。

 惨酷な自然の摂理の結晶。生と死という相反しながらも本質は同一たる巡りの体現。故に何よりも純粋に死をもたらす暴力がそこにあった。

 

「……『狩人』か」

 

 だからこそ、アーロンは見抜く。全身を斬られ、抉られ、砕かれ、ようやく見抜く。このバケモノは一見すれば『獣』の如く戦うが、そこには獲物を仕留める『狩人』という誇り高い姿があると悟る。

 バケモノが飛ぶ。空中で縦回転を加えた強烈な斬撃。1度躱しても何度も追尾してくる様は、人間離れしており、狂戦士のようだ。

 かつて出会った深淵狩りも同じ剣技を駆使した。だが、それよりも更に暴力的だ。本質と呼べる怪物殺しの理想をまるで受け継いでいない、冒涜的なまでに『暴力』として結晶化されている。

 この攻撃の弱点は側面だ。自らを斬らせることを厭わずにアーロンが横薙ぎを狙えば、バケモノの動きが空中で変じる。余りにも変則的な軌道を描いてアーロンから離れ、彼の狙いは外れて斬られ損となる。

 思わず舌打ちする原因は、背中から伸びる触手だ。緋血がワイヤーに纏わりついて受肉したように脈動するそれは、剣戟すれば巧みに動いて背中や脇、首を刺し貫く。そうでなくとも、今回のように空中での軌道変化に用いられる。

 このままでは勝てない。アーロンは愛刀の長巻を自らの腹に突き刺す。それは東方における名誉ある自害……切腹に似ているが、実態は異なる。彼の愛刀は臓物の血を貪ることで力を増す妖刀であり、これは覚醒の儀式であった。激痛と体力の消耗を強いるが、禍々しいオーラを長巻は纏う。

 間合いと殺傷力の倍化。アーロンはここからが本番だと兜に隠れた口元を歪める。

 死闘の愉悦。それは戦士として、武を志した者として至極当然の甘美だった。

 強敵と出会わぬ武人は悲運に他ならない。安寧で退屈な長生きよりも、自らの命を擦り減らす強者との武の競り合いこそが本望であらねばならない。

 それは矛盾だ。王の安寧を願うならば、強敵の登場など欲するべきではない。だが、武人の魂は自らの限界を……それ以上を引き出し、高みに至る機会を切望する。

 だが、それでいいのだ。『勝てばいい』のだ。破綻と破滅を秘めた傲慢さが無ければ、武人は務まらないのだ。自らの正しさを証明する『騎士』としての生き方と強敵との巡り合わせを渇望する『戦士』としての在り方、それを強固に結びつけるのは、自らを最強に押し上げんとする傲慢と呼ぶ他ない闘争心なのだから。

 掠める。リーチが倍化した愛刀の斬撃範囲に、バケモノは回避を優先する。本来の刀身から伸びる禍々しいオーラの刃。それはあらゆる障害物を透過し、敵を刻み付ける妖刀の力である。刀身そのものに比べれば切れ味は劣るが、並の鎧ならば中身だけを切断することが出来る。

 そして、聖剣伝説から発想を得た東方の武技である気刃。斬撃を飛ばすだけであり、流派によっては鎌鼬とも称されるが、アーロンが繰り出すそれは斬撃の『線』を超越する。放たれた気刃はまるで水中の魚の如く宙を泳ぎ、バケモノの背後から槍の如く尖って強襲する。

 だが、これをバケモノは躱す。まるで木の葉が揺れるように、刹那の見切りで躱す。初見であるはずの攻撃を平然と見切られたことにアーロンは訝しみ、すぐに察知する。

 先程からバケモノより感じた尋常ならざる『獣』の如き気配。ならばこそ、それは野生の獣の如く危険を察知する直感を与えているのではなかろうか? 仮説に過ぎないが、多くの死線を潜り抜けたアーロンは、第6感であるのだろうと素直に受け入れた。魔法使いのように分析して無理に理解の範疇に収めようとするのではなく、『そういうものである』と受け入れることで対処を優先した。

 獣の直感を打ち破る。その方法はただ1つ、自らの知恵と力でバケモノの本能に肉薄し、競り合い、欺く。シンプルで分かりやすいとアーロンは嬉々と笑わずにはいられなかった。

 触手の連撃。一見すれば完璧に操られているように見える。だが、その実は『浅い』のだ。アーロンは一閃にしか見えぬ連撃で対処しきる。

 バケモノの動きに対して触手のテンポと精度がズレていた。その苛立ちをアーロンは敏感に拾い上げていた。恐らくだが、あの触手は獣の尾のように自らの肉体の1部として操っているものではない。何かを介在して動いているものだ。

 そして、何よりも脆い。確かに速度を乗せた先端の短剣の刺突は脅威だ。だが、刃を運ぶためのワイヤーは、緋血の受肉によって動くものも、武器として扱うには強度に明らかな不足があるとアーロンはこれまでの戦いで見抜いた。

 何も抵抗できずに攻撃を受けていたわけではない。傷を重ねながら、アーロンは愛刀で触手に少しずつ、探りを勘付かれないように攻撃を掠めさせていた。そこから触手の欠陥を把握し、刹那の攻めに転じる機会を作り上げた。

 煮えたぎる鉄が川のように流れる中で、鉄網の橋でバケモノと切り結ぶ。触手2つを纏めて切断し、完全に間合いに捉えたアーロンの渾身の突きが繰り出される。

 だが、これも躱される。皮肉な事に、アーロンの闘志に引き摺られるように、バケモノの先読みと動きのキレが格段に上がる。突きは逆にステップによる踏み込みによって懐に潜り込まれる致命的な隙となり、腹部に禍々しい獣の爪を備えたバケモノの左手が潜り込む。

 

「ぐ……がぁ……!?」

 

 思わず血と共に零れた悲鳴。これまでの斬撃は、この攻撃の為の積み重ねだったと知った時には遅かった。バケモノは腹部に斬撃を集中させ、左の貫手を潜り込ませる瞬間を待っていたのだ。

 東方の猟師の言葉が蘇る。『狩りとは待つことである』と。獲物を仕留められる瞬間をひたすらに待ち続けることこそが狩りの基本なのだ。

 このバケモノはただ苛烈に攻撃を仕掛け続けるだけではない。戦いの中で無数の策と罠を仕込み、冷酷なまでに獲物を仕留めるのだ。あらゆる攻撃がアーロンを死へと追いやる為の布石であり、その1つを看破したところで、バケモノは暴力で強引に捻じ伏せ、また別の策で殺しにかかる。

 純然たる殺戮に特化された知性を有するバケモノ。知性無く、またはあっても活かしきれない暴力の塊は存在するが、目の前にいるのは敵を殺しきる為に知性を研ぎ澄ましたケダモノなのだと再認識する。

 背中のワイヤーが巻かれ、再び短剣が装填される。あと何本あろうとも関係ない。ワイヤーは切断できる。だが、バケモノの攻撃が更に激化する。

 ステップによる攪乱からの斬り込み。躱したかと思えば回転斬りに派生して飛び退いたかと思えば、居合で血刃が間合い外まで放たれる。躱しきれなかったアーロンの左腕が刻まれて出血し、微かな動きの鈍りを見逃さず、これまでとは異なる視界から消え失せる程に気配が薄らぐステップで間合いを詰めて来る。

 血刃長刀の間合いは見切った。斬り上げを後退で紙一重で躱し、そのまま膂力の全てを乗せた長巻の振り下ろしでカウンターしようとしたアーロンの視界が真っ赤に染まる。

 刀身を纏っていた血刃が形を崩し、液体として飛び広まったのだ。それは姑息な目暗ましであるが、互いの実力差を考えれば、それがどれだけ危うい隙かは言うまでもない。アーロンが気配を追う頃には、彼の後頭部は背後からバケモノの左手でつかまれ、そのまま地面に叩き付けられ、引き摺られ、投げ飛ばされる。壁に激突したと同時に腹に刃が侵入し、喉元まで斬り上げられる。

 落下した先は溶けた鉄であり、寸前で身を捩じって愛刀から噴出されたオーラで移動して熱が籠もった縁に着地するも、待っていたバケモノの左手の突きが兜と鎧の隙間に入り、喉から顎まで爪が刺し貫き、そのまま掴まれて脳天から鉄の川に投じられる。

 高熱が全身を焼き、だが悲鳴を零すことなく、全身から気を放出させながらアーロンは大きく跳び退く。本来ならばアーロンこそが勝手知る庭のはずの製鉄の塔。だが、その地形をまるで熟知しているかのようにバケモノは利用してくる。

 この戦いの中でバケモノは単にアーロンを攻撃するだけではなく、仕留める為に利用できそうな地形の全てを把握していたのだ。

 才能? 違う。根本的な差異をアーロンは理解した。殺戮……その1点において、生まれた時から自分とバケモノは違うのだ。狩猟本能? 戦闘本能? そんな生温いものではない。ただ目前にいる全てを殺し尽くす為の本能……殺戮本能がそこにあるのだとアーロンは『歓喜』した。

 これだ。このような敵を待っていた! アーロンは自らの闘志が更に沸き上がるのを感じ取り、この出会いに感謝した。

 

「ここでは……足りぬ!」

 

 製鉄の作業場。このような立体的な地形での戦いもまた興じるものがあるが、それだけでは望んだ戦いと高みには至れない。何よりも複雑な地形程にバケモノには有利になるとアーロンは分析した。

 勝利の為ならば、今は喜んで逃走しよう。アーロンは迎撃の為に背を向けることなく、だが身軽さを活かして僅かな段差を利用して、吹き抜けの塔の上層へと跳んでいく。バケモノもそれを追跡するが、アーロンは敢えて邪魔はしない。ここで手の内を明かすべきではないからだ。

 鉄の玉座……控えの間。何も無い広々とした、磨き抜かれた床だけが存在する、まさに決闘に相応しく、またアーロンが自らの武技の全てを出し尽くすに足ると踏んだ環境だった。

 まるで澄んだ水面、あるいは鏡のように互いの姿が映る床は、近隣の火山の黒煙と炎を啜った空すらも映し込み、まるで乱雲の上で戦っているかのような錯覚すらも与えるだろう。だが、これはバケモノにとって攪乱の欠片すらも与えないことは承知の上だった。

 ここならば、触手を使った立体機動も制限される。アーロンは仕切り直しだと奮起する。

 摺り足の動作から、斬撃姿勢のまま前方にスライドしたかのように『静』のまま間合いを詰める。重厚な甲冑騎士すらも軽々と両断し、また大盾で防ごうとも吹き飛ばす斬り上げは、アーロンが独自に編み出した剣技である。また、解放された妖刀の力によって刀身はオーラの刃を纏い、攻撃範囲は倍化している。

 アーロンは己の臓物で覚醒を促したが、彼の妖刀は敵味方関係なく、血肉を味わう程に切れ味を引き出していく。アーロンも覚醒の極限にまで至ったことはないが、この妖刀があったからこそ、数多の軍勢を相手取る事が出来た。

 オーラの刃は実体がない。同僚の魔法使いに言わせれば、ソウルの剣のようなものらしいが、武人たるアーロンは武具の仕組みに興味はなく、いかにしてこの力を引き出すかに執心した。

 その成果が今ここで問われる。あらゆる攻撃を、まるで未来視しているかの如く、理不尽とも言い換えられる程に躱すバケモノは、まるで実体のない幻のようだ。だが、アーロンは動揺することなく脇構えで長巻に闘志を注ぎ込む。

 瞬間、アーロンは最速に達する。古では姿を消す魔法もあったが、アーロンは純粋なる速度で姿を消したと思える程の領域に達する。

 

 

「速い……が、ランスロットには及ばない」

 

 

 だが、アーロンは右肩から左腹にかけて深々と裂かれる袈裟斬りを受けて身を揺らす。緋血を纏って形を成す長刀は、カタナとしての鋭利な切れ味と鋸としての『削る』刃を両立させている。

 東方でも滅多にお目にかかれぬ名刀……いいや、アーロンの長巻と同等にも達する切れ味でありながら、粗い鋸状の如き刃によってカタナとは思えぬ、まるで凶暴な肉食獣の爪が力任せに振るわれたかのような醜い傷跡をもたらす。

 尋常ならざる武具。まさしく妖刀だ。アーロンは兜の隙間から血反吐を垂らしながらも、常人ならば目にも止まらぬ5連突きを繰り出し、目に錯覚が残るのではないかと思う程の速度で大きく跳び退き、渾身の突進突きを繰り出す。

 だが、いずれも届かない。敵を傷つける程に切れ味が上がるはずの妖刀は、バケモノに傷1つ与えることができない。それどころか、最後の突進突きに合わせて逆に3連斬りが左肩、右脇腹、左脛を刻んだ。そして、突進したアーロンに合わせてステップで背後に回り込まれるだけではなく、彼が反転するより先に背中から心臓が刺し貫かれる。

 途端に全身に裂傷が生じ、アーロンは両膝をついて己の血飛沫の温かさを知る。

 

(あの緋血……尋常ではないと思っていたが、よもや毒を含んでいたか!)

 

 僅かな時、体の自由を失ったアーロンが見たのは、兜の覗き穴を狙ったバケモノの一突きだった。鋸状の刃は高速で切っ先に向かって流れている。それは液体としての流動性の発露であり、結果として鋸状の刃が『削る』という性質をカタナの鋭利な切れ味を両立したまま発揮されるとなれば、どうなるかなど言うまでも無かった。

 アーロンの右目から侵入した血刃長刀は、高速で流れる鋸状の刃のまま、彼の頭部を貫き、捩じり、脳天まで斬り上げていった。

 背中から倒れたアーロンは己の血溜まりに沈む。本来ならば、これで勝負は決していてもおかしくない程の致命傷だ。だが、戦いの内で己を鍛える者は自然とソウルの業を身に着ける。故にアーロンは自らが死ぬにはまだ足りぬと意識の途切れ……『死』を拒むことができた。

 

「クク……クハハ……!」

 

 何たる無様な姿か。東でも西でも、アーロンはこれ程までに傷を負ったことなど1度としてなかった。鍛え上げた剣技と妖刀さえあれば、どんな強敵を相手にしても勝機が見えた。

 だが、目前のバケモノにはまるで勝ち目が見えない。それどころか、まるで蜘蛛の巣に捕らわれてたかのように、何をしても余計に自分を傷つけて死期を早めるだけと思わせるような、心を噛み砕く恐怖の予感さえもあった。

 だからこそ、アーロンは笑う。恐怖に屈して心が壊れたからではなく、至極の死闘に出会えた運命に感謝するべく笑う。

 何の迷いもなく立ち上がり、バケモノの次なる攻撃を躱す。軽やかに跳んで距離を取る。

 東から西への旅路の記憶。鉄の王に誓った忠誠。極上なる死闘への感謝。全てが今のアーロンを満たしていく。

 

「強いな」

 

 ならばこそ、勝利を求める。アーロンは自らに妖刀のオーラを付与する。否、更に先……己のソウルとの一体化を促す。

 アーロンの傷が全て治癒し、鎧の傷も完全に塞がる。彼自身もまた妖刀の禍々しいオーラを纏う。

 これまでの比ではないスピードを得たアーロンの踏み込み。長巻による袈裟斬りから始まり、バツ印を描く軌跡は右から左への薙ぎ払いで霧散し、その中心を穿つ突きがステップで躱しきったバケモノを正確に追尾する。

 顔面を刺し貫くはずだった長巻の突き。それをバケモノは紙一重で避け、逆にカウンター斬りを狙う。

 だが、途端に姿が見え難くなる急加速を得たステップで離脱する。

 やはり避けたか。だが、無傷ではない。バケモノの左二の腕に切れ込みが生じ、血が零れる。

 妖刀と一体化したアーロン。彼の周囲では妖刀のオーラが渦巻き、周囲の空間を完全に喰らい尽くしている。アーロンはこれを単純に『結界』と呼ぶ。

 この結界の範囲内では、アーロンが繰り出した攻撃は『移動』する。即ち、繰り出した突きは結界内では自由自在に、あらゆる方向から見えぬ突きとして生じさせることができる。タイミングも一呼吸分ならばズラすことも可能であり、バケモノのカウンターに合わせて心臓を刺し貫く見えぬ突きを配置していたのだ。

 それだけではない。アーロンが纏うオーラそのものが『刃』であり、彼が立つだけで床には無数の傷痕が生じる。あらゆる攻撃はオーラに触れる時点で斬撃の自動迎撃に阻まれるだけではなく、拳や蹴りのみならず、体の接触だけで相手はまるで無数の名刀に斬られたかのように裂かれるだろう。

 自らが刃と化し、周囲の空間を余すことなく斬撃の間合いとして支配する。これがアーロンの秘奥にして禁じ手である。

 もはや剣技の域を超えた魔性の業。故にアーロンはこの秘奥を禁忌とした。純然たる剣士として、あくまで妖刀を武具として扱うことを好む彼にとって、妖刀との一体化は武の探究には適さなかったからだ。 

 故にこれを扱うのは、剣士としての矜持、戦士としての闘志、騎士としての使命、その全てにおいて敗北を自らに許さぬ不退転の時に限った。

 距離にして10歩分。それがアーロンの結界の『標準』範囲だ。現在は範囲外にいるバケモノに対して、アーロンはここからが本番だと全身に纏うオーラを薄めて結界を『拡大』させる。

 死闘の舞台となる待機の間。その全てが余すことなく、上下左右の隔たりなくアーロンの間合いだ。アーロンが軽く長巻を振るうだけで、空間全てに斬撃を生じさせることができる。

 

(だが、これも躱すか!)

 

 アーロンの動き。その時点で既に生じる、自由な起点から自由な角度で生じる斬撃。そのカラクリを看破したかどうかは定かではないが、アーロンしか把握しきれないはずの見えぬ斬撃をバケモノは軽々と避けてステップで間合いを詰める。

 殺気。一流の戦士ならば、それを感じ取れて当然だ。今まで斬撃結界を生じさせても長く生き延びた相手には、アーロンの殺気から見えぬ斬撃範囲を感知して躱す猛者がいた。

 だが、バケモノの動きにはまるで躊躇いがない。淀みなくアーロンに斬りかかって来る。

 攻撃回数は実質2倍。しかも1つは前後左右上下あらゆる場所から生じる。だが、バケモノは平然とアーロンと切り結ぶ。途絶えることなく動き、それも最小限の所作で2つの攻撃を避け続ける。

 斬撃結界は元に戻し、再び鎧の如く纏ったアーロンは体術を駆使し、回し蹴りから踏み込みの掌打を繰り出す。掠れば接触部から伝染病のように斬撃が広まる。掠るだけで肉も骨も斬り裂かれるのだ。

 この状態ならば、触手など尚更気にする必要はない。バケモノは触手の先端でアーロンを狙うも、彼に到達するよりも先に無数の斬撃に拒まれて弾かれる。オーラを押し切るだけのパワーが足りないのだ。

 そして、アーロンは見逃さない。大きく跳んで頭上から振り下ろしを狙い、同時に炸裂するオーラで周囲を吹き飛ばしながら、ステップで攻撃範囲から離脱していたバケモノを目で正確に追い、気刃を放つ。

 気刃を放つ動作の時点で不可視の自在斬撃が生じ、なおかつ飛来する気刃はアーロンの意思によって自由に動き、刃にも槍にも変じる。不可視の斬撃も、気刃の『線』としての攻撃も躱すバケモノであるが、接近したアーロンの連撃への対処が遅れる。

 そして、ついにアーロンの刃が明確にバケモノを捉える。渾身の長巻の振り下ろしを、バケモノは真っ向から『右手だけ』で止める。

 アーロンは見逃さなかった。時間を経る毎にバケモノの左腕は動きが鈍くなっていた。アーロンが結界を展開してからはほとんどぶら下げた状態になっていた。

 病か古傷か。どちらにしてもバケモノは左腕が不自由であり、時間限定しか扱えないのだ。もはや満足に動かすことも出来ないのは火を見るよりも明らかであり、アーロンはだからといって弱点を狙わぬなどという、唾棄すべき脆弱なる考えはない。それは生死をかけた戦いへの侮辱に他ならないからだ。

 体格はアーロンが圧倒的に上である。執拗に動かせぬ左側からの攻撃でアーロンの斬撃を受け流させずに防がせ、バケモノは足を『止めさせられた』。途端に優劣は引っ繰り返る。アーロンの蹴りが炸裂し、バケモノは床を毬のように跳ねながら吹き飛ばされて壁に激突する。

 ただの蹴りでも入れば数多の斬撃が襲う。だが、アーロンは驚嘆した。あの瞬間、怪物は咄嗟に触手を重ねてガードしたのだ。触手となっていたワイヤーは切断されたが、バケモノは蹴りの動きに寄り添うように動いたことによって負傷を最低限に抑え込んでいた。

 だが、ワイヤーも無限にあるわけではないのだろう。もはや触手を再発動させることもできないらしいバケモノは、それでも微塵と殺意を衰えさせることなく、むしろ火山の噴火の前兆のように昂らせていた。

 その立ち姿、改めて見れば異質と言わざるを得ない。

 全身を覆うのは、金属とも鱗とも何かが異なる白き硬質。それは人肉と一体化し、鎧の如き外殻になっていることは理解できる。左右の手は鋭い爪を備え、特に左手は指そのものが爪と呼んでも差し障りない程に異形となり、また緋血の侵蝕・凝固によって禍々しい籠手となって肘まで変質している。頭部はケダモノと呼ぶ他ない異形の兜で覆われ、右側には7つの赤く細長い結晶が、左側には丸く大きな青い結晶が目の代わりにように煌いている。

 まさしく怪物の如き姿。だが、その背筋は凛と真っ直ぐに伸びている。それは確固たる人間の造形であり、『獣になった人』あるいは『人となった獣』という印象を覚えたのだ。だからこそ、アーロンはどれだけ獣の如き戦い方をしようとも『狩人』という在り方を見出すことが出来たのだ。

 

「狩人よ、名乗れ」

 

 だからこそ、アーロンは己を恥じた。胸の内でも『バケモノ』呼ばわりするなど、最強の敵と巡り会えた幸運なる戦士として許し難かったのだ。

 最強の敵は血刃長刀の切っ先を下げる。それは戦いへの諦めではなく、新たな幕開けの合図であるとアーロンは見逃さない。

 変化が生じる。全身を覆っていた白き何かは萎んでいく。異形の頭部は表面から剥がれていき、麗しい美貌が再び露となる。

 四肢の獣の籠手は具足として残り、また特に禍々しい左腕はそのままである。その皮膚には緋血によって血管がおぞましく浮かび上がっているが、それすらアーロンには狩人の『力』という名の美をより強調する化粧に思えた。

 狩人は咳き込んで吐血する。傷の影響ではない。どす黒い闇に蝕まれた血が吐き出され、喉元とコート、足下を汚す。

 出会った深淵狩りに聞いたことがあった。深淵狩りはいずれ闇に蝕まれる。それは深淵の病であり、怪物に堕ちることを切望させる程の苦痛をもたらすのだ。アーロンも詳細は知らないが、狩人の右目の白目は闇の影響を受けてか、黒く血走っている。もはや『見る』という行為すらも深淵の病の苦しみをもたらすのかもしれない。

 病人だから情けをかける? あり得ない。もはやアーロンは止まるつもりなどなく、狩人も同様だろう。どちらかが死ぬ以外の決着はない。

 編まれて三つ編みになっていた長く艶やかな白髪は解けて風の形を成す。火山の炎を擦った黒煙の空と相反するような純白がそこにあった。

 

「サインズ独立傭兵ランク42、クゥリです」

 

「……そうか。非礼の数々、我が武技で詫びさせて欲しい」

 

「いいえ、むしろ礼を欠いたのはオレの方です。アナタのお陰でオレはまだ……まだ見失わないで済んだ。だから、オレもアナタの闘志に応えます」

 

 指先が小刻みに痙攣し、もはやまともに動く気配すらもない狩人の左腕。だが、白き厄災はアーロンへの敬意を示すように微笑んだ。

 

 

 

 

 

「限定受容開始」

 

 

 

 

 

 狩人の左腕がまるで何事も無かったように、いいや……アーロンの目に狂いがなければ、先程までが濁った汚水だったと思うかのように、滑らかな動きの脈動を得る。

 

「左腕掌握完了」

 

 斬撃結界を拡大させ、アーロンは間合い外で連撃を繰り出す。それは不可視の自由自在の斬撃となる。だが、狩人はステップを駆使するだけではなく、左手の異形の爪を使って地面を捉え、急制動をかけながら、獣のようにアクロバティックな動きで不可視斬撃と気刃の包囲を潜り抜ける。

 先程の獣の甲冑とは動きが違う! あちらが荒れ狂う炎のような獣としての暴力が先鋭化されていたならば、こちらには狩りを成さんとする静謐の殺意が研ぎ澄まされている。

 加えて、獣の甲冑では使えなかったのだろう、コートに仕込まれた投げナイフが次々と飛来する。それは防ぐまでもなくアーロンが纏う妖刀のオーラによって弾かれるが、その投擲精度は凄まじく、攻撃を繰り出すアーロンの鎧の関節や兜の覗き穴を正確に狙っている。

 纏う血刃をカタナに吸収させ、狩人は居合の構えを取る。だが、その隙は与えない。アーロンは斬撃結界で捉え、先制攻撃を仕掛けようとする。

 だが、それはブラフ。鞘に収めたカタナを抜かず、狩人はアーロンの不可視斬撃を舞うように避けていくなかで左手を振るう。それは白髪に映える白雪と氷を呼び、瞬く間に左手に凝縮されていく。

 

 

 

 

 

 それは弓。まるで竜の角を粗削りしたかのような、だが高貴なる者が持つことこそ相応しい神性を宿した氷の弓だった。

 

 

 

 

 

 粗い表面と何処か捩じれた曲線を描く氷の弓に合わせるように、狩人の右手に冷気が凝縮された氷の矢が生じる。

 無論、飛び道具を躱せぬアーロンではない。剣士を殺すならば間合いの外からの攻撃は基本だからだ。だが、アーロンは今までにないプレッシャーを覚えるのは、深淵の汚染を受けた狩人の右目、その瞳に蜘蛛の如き無機質な殺意が底知れぬ程に純化されていったからだ。

 氷の矢が放たれる。アーロンはこれを難なく躱す。同時に狩人はステップでアーロンとの間合いを詰める。弓ではなく、右手に新たに生み出した氷の矢で刺し貫きにかかる。斬撃結界を元に戻しきれなかったアーロンは、この攻撃を受けながら斬り合いに望む。

 だが、不可視の斬撃も含めて狩人は軽やかに避けたかと思えば、至近距離で弓を水平持ちして矢を放つ。兜を掠め、アーロンが飛び退いた時にはステップで距離を取り、構えた氷の矢に冷気を凝縮させた強射が放たれていた。

 同じく冷気の弦から繰り出される高速の矢。それを長巻で叩き落とそうとしたアーロンは、自分の腕の動きの鈍さに今更になって気づく。先ほどの接近の最中で関節部に潜り込まされた投げナイフが僅かに動きを鈍らせた。

 刺すのではなく挟み込む。そんな姑息な手で欺かれた。右肩を刺し貫く氷の矢によってアーロンはよろめく。凝縮された冷気による貫通力の強化が施された矢なのだろう。

 アーロンは己の判断ミスを自覚した。あそこで攻撃を仕掛けず、間合いを取って斬撃結界を戻してオーラを纏うべきだったのだ。

 

「氷雪のレガリア【氷雪の弓】。トリスタンが用いた、暗月神の模造弓」

 

 右手で生み出した氷の矢を弄びながら、ケダモノの左手に相応しくない狩りの武具……氷の弓を見せながら、背筋が凍りつく程に狩人は微笑んだ。




失われた栄光の残滓であろうとも、剣士たちの誇りと刃に陰り無し。


ちなみに今回のエピソードのテーマは『主人公力』です。


それでは、319話でまた会いましょう。

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