SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

今こそ主人公力が試される時。



Episode20-06 剣に誓いを

 劣勢から拮抗。否、微かにだが、1歩ずつ着実に前に進んでいるかのように、勝機という名の光は強く差し込んでいく。

 正義感が強く、実直真面目で、だからこそ気張り過ぎて空回りする事も多かった。

 誰よりも強くなりたい。だからこそ、自分より強い人々の真似をすることに躊躇いが無い。尊敬の念を持つからこそ、どれだけ努力を重ねても我が物にしていく。

 ラジードのVR適性は決して高くない。上位プレイヤーと呼ばれる上澄みに至る為に不可欠な才能が無い。VR適性があるからこそ、プレイヤーの反応速度と思考速度は飛躍的に上昇し、アバターを精密操作するにしても低ストレスで済むからだ。

 VR適性という篩にかけられてもラジードがトッププレイヤーに食い込む程に成長できたのは、妥協を許さない弛まぬ鍛錬、前に進み続ける精神力、身近な強者という目標、そして守りたい人々がいたからだ。それらが1つでも欠けていれば、ラジードは埋もれていたか、道半ばで倒れていただろう。

 聖剣騎士団の精鋭中の精鋭が参加し、円卓の騎士が3人も戦死したアノールロンドのボス戦という死闘を生き残り、数多の戦闘経験を蓄積し、並外れた努力で強者の技術を少しでも体得しようと足掻き続けた果てに、ラジードの才能は完全に開花する。

 

(これが本当にラジードくんなの?)

 

 参戦するミスティアは立ち止まって思考停止に陥りそうな程に、煙の騎士と苛烈に剣戟を繰り広げるラジードに魅入られる。

 ラジードの戦闘スタイルは、片手剣・両手剣・特大剣の3種類の剣を状況に応じて選択し、戦闘中でも使い分けるというものだ。基本的に双剣型の片手剣を標準装備し、相手に合わせて両手剣と特大剣のどちらかを装備する。

 比較的重量を抑えやすいドラゴン系素材の中量級防具を装備し、近接ファイターらしく高VITにポイントを割り振っている。敵との斬り合いにも長け、DEXも捨てていないのである程度の機動力も確保できる。まさしく理想的な前衛である。

 だが、煙の騎士と正面から斬り合うラジードは、トッププレイヤーの中でも特別な存在……UNKNOWNやユージーンといった傭兵最上位陣やサンライスと同列に到達しているようにも思えた。

 ミスティアが不安視していた危うい攻撃性と今まで培った堅実性の融合を経て、強大なネームドを前にして大輪の花は咲いた。彼女に悔しさなど無く、彼は本当に自分を完全に追い抜いていったのだと誇りに思う。

 煙の騎士の特大剣を用いた堅実なガードと片手剣によるカウンター狙い戦法。ミスティアが崩せなかった煙の騎士の堅実な攻めを、ラジードは双剣のラッシュで強引に崩していく。まるでダムが決壊したかのような圧倒的な手数による斬撃の壁は、確かにUNKNOWNの剣技の片鱗が見える。

 守りに徹していては削り殺される煙の騎士は攻めに転じるしかない。正統派騎士を思わす片手剣による3連斬りからの特大剣への薙ぎ払い。だが、片手剣の連撃を躱す、あるいは双剣で受け流したラジードは、最後の薙ぎ払いに合わせて【渡り鳥】の特異なステップの模倣を使い、逆に煙の騎士の背後に回り込む。

 反転しながら特大剣を振り下ろした煙の騎士は、胸から肩にかけて深々と斬り上げを喰らう。模倣ステップ中に双剣から特大剣に切り替えていたラジードは、煙の騎士の反転斬りに合わせて踏み込みからのかち上げ斬りを繰り出していたのだ。

 だが、そこは人型とはいえネームドだ。特大剣の1発くらいで怯みはしない。そのまま特大剣による連続回転斬りでラジードを磨り潰そうとする煙の騎士であるが、模倣ステップで後方に退避したラジードは、回転斬りに合わせて、太陽の狩猟団の新製品【クラッカー爆弾】を投擲していた。

 クラッカー爆弾とは、薄膜のボールに入った無数の小型爆弾である。投擲するとすぐに破れて中身をばら撒くことができる。1発当たりの火力は低く、フルヒットしても大したダメージは出ないが、爆弾系らしく衝撃はそれなりのものであり、フルヒットすれば相手を怯ませることが出来る。ただし、性質上扱いが難しく、市場では余り売れ行きが芳しくない攻撃アイテムの1つだ。

 接触衝撃によって炸裂する小型爆弾の壁。だが、その程度で煙の騎士もまた怯まない。それはラジードも予測済みだったのだろう。ならば目的は目暗まし。爆発による視界の制限の内に双剣に切り替え、模倣ステップで煙の騎士の懐に入り込んで連撃を刻み、反撃の片手剣を捌いて甲冑の弱点の1つである脇を狙うと見せかけ、強烈な右膝蹴りを見舞う。張り付くラジードに対して、煙の騎士も特大剣の薙ぎ払いを使うも、ラジードは敢えて踏ん張らずに双剣をクロスさせてガードし、衝撃を利用して距離を取る。

 途端に煙の騎士の直上からソウルの柱が降り注ぐ。ラジードの動きを見越したミリアのソウルの閃光が炸裂する。煙の騎士が呻き、これまで歯牙にもかけていなかったミリアへと剣を向ける前にラジードはクラッカー爆弾を投げつけ、煙の騎士に自分こそが相手だとアピールする。

 煙の騎士のHPバーの1本目は、ラジードの参戦によって、たった3人だけとは思えぬ程の速度で削れていく。ダメージの過半を叩き出すのはラジードであるが、それを可能とするのは随所でミリアが魔法でサポートしているからであり、また彼の戦いに見惚れるミスティア自身も大いに関係していた。

 ミスティアはラジードの参戦によって本来の戦法が可能になった。十分に距離を取り、加速を乗せた長槍による一撃離脱を試みる。ラジードだけに注意していれば、ミスティアが鎧の隙間を正確に狙った突きを見舞う。煙の騎士が反撃しようとしても高DEXでミスティアは離脱済みであり、逆にミスティアに対処しようとする反応がラジードのラッシュを刻む好機を作る。

 ラジードが一呼吸を挟む為に距離を取ろうとしても煙の騎士が許さないならば、代わりにミスティアが突進突きで挨拶しながら前衛を切り替わる。以心伝心クラスで、ラジードとミスティアは互いの動きを把握して連携する。それを崩さんとする煙の騎士だが、ミリアの厭らしいとも呼べるほどの的確な魔法で出鼻が挫かれる。

 

「ミスティア!」

 

「ラジードくん!」

 

 互いに呼び合い、前後から挟み撃ちを仕掛ける。煙の騎士は左手に持つ特大剣を肩で担ぎ、姿勢を低くする。ソウルの嵐を破った全方位攻撃の構えと知るミスティアは、警告の言葉を発しようとするが、ラジードは彼女の目を見ただけで何を伝えたいのか分かったように頷く。

 2人が間合いに入ると同時に繰り出される斬撃を纏った突風が荒れ狂う煙の騎士の全方位攻撃。ミスティアは急制動をかけて離脱するのに対して、ラジードは特大剣に切り替え、間合いのギリギリで煙の騎士を見据える。

 繰り出された強烈な突き。特大剣の重量とラジードの高STRを載せた破壊の一撃は、煙の騎士の腹部中心に吸い込まれる。煙の騎士の兜から血が微かに零れ、黒い甲冑を揺さぶる。

 ネームドのカウンター性能が高い、張り付き対策の全方位攻撃の間合いギリギリに立ち、なおかつ攻撃終わりに合わせて最もリーチがある特大剣の突きを正確に見舞う。胆力のみならず、扱いが難しい特大剣も熟達していなければ不可能だ。

 双剣を用いた攻撃を押し付ける苛烈なラッシュにはUNKNOWNの剣技がある。模倣ステップや武器の切り替え、要所における攻撃アイテムによる攪乱には【渡り鳥】の戦法がある。他にも彼が関わった多くの敵・味方問わずに、尊敬すべき強者から学び取った技術の粋がそこにある。

 

(こんなにも強くなってたんだね)

 

 安心感を覚える程に逞しい背中だ。だからこそ、彼を悲しませたくないとミスティアは気合を入れ直す。

 煙の騎士のHPバーはようやく1本目を削り切られた。だが、ラジード参戦以前から消耗していたミスティアのスタミナは決して余裕あるものではなく、ミリアの魔力も底が見えて来る頃合いだ。

 ミスティアは攻撃ペースを下げる必要があり、ミリアの援護は薄くなる。対して煙の騎士はまだ2本もHPバーを残している。ここからの戦いにおいて、ラジードにかかる負担は更に増す事になる。

 ネームド戦において、HPバーの1本目は『様子見』とも言い替えられる。大抵のネームドは、HPバーの1本目は外見から予想される通りの戦闘スタイル・能力のみだ。だが、2本目以降は新たな能力の発動や性能向上など危険性が大幅に増す。

 何よりも危険なのが最終HPバーだ。『本番』と呼ばれるネームドの本領にして真価が発揮される最終強化形態は、最も多くの死者が出る。プレイヤーの対ネームド戦における死亡比率は、絶対的に最終段階が高いのだ。それ程までに段違い……HPバー1本目とは次元が違う。

 ならばこそ、煙の騎士の底はまだ見えない。傷ついた甲冑……流血システムによって防御力は低下しているが、それでも煙の騎士は高HP・高防御力を見せつけている。

 人型最強という評価を受けた【竜狩り】オーンスタインは、より回避に特化されており、人型ネームドでも並、あるいはやや低めの耐久性能だったのに対し、同じアノールロンドのボスとして立ち塞がった【処刑者】スモウは、ドラゴンと見紛う程のタフさで攻略部隊を苦しめたとミスティアも聞いている。

 煙の騎士は後者……回避よりも高防御力でダメージを受けながらも攻撃を仕掛けてくるのが、ネームドとして与えられた性能からも見て取れる。それを差し引いても、プレイヤーの攻撃を回避し、またガード・受け流しを多用する技量の高さは尋常ではないが、真っ向からの斬り合いを制するのが煙の騎士の戦い方なのだ。

 HPバー2本目。煙の騎士は素早い攻撃を繰り出していた片手剣を煙に変え、岩盤をくり貫いたような特大剣に吸い込ませる。

 発せられたのは煌々とした赤と闇を孕んだ黒。2色が混ざり合った炎が岩盤をくり貫いたような特大剣にエンチャントされる。

 普通の炎でもなく、完全な黒炎でもない。炎属性と闇属性の2つを有した特殊エンチャントだろう。ただでさえリーチが長かった特大剣は、纏った炎によって更に間合いが伸びている。また猛る炎はまともにガードしてもアバターを舐めてダメージを強いるだろう。

 特大剣を両手持ちした煙の騎士は、まさにパワー型の見本のようだ。だが、ミスティア達は知っている。煙の騎士は筋力一辺倒ではなく、卓越した技量を持った剣士である。十全にあの特殊エンチャントされた特大剣を操るならば、どれだけ脅威かは言うまでもない。

 

「かなり手強いよ。どうする?」

 

「変わらないよ。僕が前に出続ける」

 

「無理しないでね」

 

「ミスティアもね」

 

 並んで微かに笑い合える。死線の中でも……いや、だからこそ互いの気持ちを強く感じられる。

 負けない。負けられない。生きて帰る為に。意気込みを新たにするミスティアは、特大剣を構える煙の騎士の雰囲気がやや変わることに気づく。

 

「……絆か。ナドラ、迷惑をかけるが、頼むぞ」

 

 ナドラ? ここにはいない誰かに呼びかけた煙の騎士は、片手剣を棄て、豪快な特大剣1本に切り替えたかと思えば、逆手に構えて煤の大地に突き立てる。

 生じたのは大爆発。赤炎と黒炎の2つの炎が荒れ狂ったかと思えば、プレイヤー1人を呑み込むに足る火球が時計回りに回転しながら放たれる。

 純粋な剣技だけではない! エンチャントの時点で予想できたことであるが、魔法剣士の如き攻撃を仕掛けて来るとは思っていなかったミスティアは火球の回避に専念する。

 だが、瞬間には煙の騎士が目の前まで踏み込んでいた。火球で動きを制限し、避けたところを狙っての容赦のない踏み込みに、自分達が掴んだ勝機とはどれ程に細いものだったのかを思い知る。

 

「ミスティア!?」

 

 同じく火球の回避に専念していたラジードは模倣ステップで駆けつけようとするが、煙の騎士まで遠く、とてもではないが間に合わない。また、あくまで真似ているだけに過ぎず、【渡り鳥】の域に達しておらず、DEXも足りないからか、ステップ1歩の移動距離は短い。

 炎を纏った特大剣の振り下ろしがミスティアを脳天から叩き潰すかに思えた瞬間、煙の騎士との間に結晶を帯びたソウルの壁が形成される。

 魔法【ソウルの結晶壁】だ。障壁を形成する魔法【ソウルの壁】の上位版である。それが特大剣の一撃を止め、ミスティアに回避を許す。

 

「わ、私のサポートを忘れないでください!」

 

 おさげを可愛らしく舞わせながら、ミリアは煙の騎士に啖呵を切るが、ミスティアは驚きを隠せなかった。

 ソウルの壁系の魔法は発動まで時間がかかる。使用すれば発動まで足を止めねばならない魔法だ。煙の騎士の火球は広々としたボス部屋全体まで届く高射程であり、煙の騎士から時計回りに複数放出される関係上、距離を取れば取る程に当たるリスクは抑えられるとはいえ、初見の攻撃の最中に煙の騎士から目を離さず、ミスティアを狙って動く挙動を察知してソウルの結晶壁を発動させるなど常人の観察眼ではない。

 魔法使いの花形であるソウルの槍系を始めとした大砲は使わずとも、随所のサポートには抜きん出ている。存外、この戦いの肝は彼女のサポートを活かすことにあるのかもしれないとミスティアは計算する。

 だが、ソウルの壁系の魔法は燃費が悪い。発動まで時間がかかるのに対して、発動はほんの1、2秒だ。ミリアの技量があってこそ活かせているが、頼り切ることは出来ない。

 そして、煙の騎士は先の戦い、HPバー1本目ではまるで本気では無かったのだと悟るしかない。片手剣の扱いは熟達していたが、それは彼の本領ではない。特大剣1本による豪快なる一撃必殺こそが煙の騎士の真の戦闘スタイルだ。

 

「盾はいい。だが、過信してはならない。頼れば軟弱な心を生むものだ」

 

 ミリアのソウルの結晶盾を褒める煙の騎士は、何処か楽しそうに特大剣を肩で担ぎ、煤を散らして踏み込む。狙いはあくまでミスティアだ。だが、彼女は火球という初見攻撃を絡めていなければ回避できる自信がある。

 予想通り、破壊の振り下ろしはミスティアに掠ることもなく煤を舞い上げるだけだった。大きく距離を取って加速を稼げたミスティアは、煙の騎士の背後から接近したラジードの攻撃に合わせるタイミングを計算する。

 だが、煙の騎士の騎士は振り下ろした特大剣が煤の大地にめり込んだまま、強引に回転斬りを繰り出す。莫大な粉塵の壁となり、それはラジードに直撃して踏み込みを阻害する。

 嫌な金属音が響き、ラジードが吹き飛ばされる。2つの炎に身を焦がされた彼は、粉塵の壁を突き破った煙の騎士の突きを辛うじてガードこそ出来たが、放出されている炎までは双剣では防ぎきれなかった。また粉塵で見えなかった特大剣の一撃を咄嗟にガードできたのはラジードだからこそであるが、ネームドの操る特大剣を真正面からガードしてしまったのだ。耐えきれずに亀裂が入っている。

 また、ラジードの双剣は軽量型であるためにガード性能も低い。小盾以上にガードブレイクし易く、またスタミナ消費も甚大だ。煙の特大剣にはスタミナ削りと高衝撃でガード崩し効果がある闇属性の黒炎もあるとなれば、減ったHP以上の消耗を受けたことになる。

 ラジードの片手剣では煙の特大剣を捌き切れない。同じく片手剣使いとはいえ、UNKNOWNならば、重量型片手剣と剣技、ユニークスキルでカバーできるが、ラジードにはそれらのカードが揃っていない。

 模倣は出来てもオリジナルの域には到達できない。それは他でもないラジード本人が自覚しているだろう。死の気配を感じるミスティアに対して、太陽の狩猟団の若きエースは……『笑う』。

 点火した闘争心を示すように、苦境に挑めることに喜びを覚えるように、ラジードは『笑う』。

 双剣の連撃と特大剣の乱舞がぶつかり合う。火花が彩り、炎が靡き、両者の闘志が鎬を削る。

 煙の騎士の薙ぎ払いをガードし、またもラジードが吹き飛ばされるが、今度は煤を散らしながらも耐えきる。姿勢も崩すことなく、だがHPも回復しない。

 ラジードの強引な攻めにミスティアは胸を締め付けられながらも、真っ向から煙の騎士を抑える頑張りを無駄にしないべく、奇跡【漂う雷球】を発動させる。宙をふわふわと漂う雷球は機雷のようであり、それはゆっくりと煙の騎士に向かって近づいていく。

 漂う雷球はゆっくりと相手を追尾し、接触すると高火力の雷爆発を起こす。やや扱い難いが、障害物が無い今回のようなボス部屋では意外な役立ち方をする。

 ラジードと煙の騎士は互いに漂う雷球に注意を払う。対処は必然的に距離を取るか、先に起爆させて処理するか、そのどちらかだ。

 どちらが先に退くかのチキンレースだ。高耐久の煙の騎士ならば雷爆発を受けても十分に耐えられる。対して雷属性防御力が防具の素材の関係上低いラジードは小さくないダメージを受けることになる。不利なのは言うまでもない。

 だが、煙の騎士の方が先に間合いを離す。迫る雷球を受けてダメージを得るよりも、まずは距離を取ることを選んだ。

 

「……っ!?」

 

 しかし、それは許されない。煙の騎士が跳び退いた瞬間に、彼は背中からソウルの結晶壁に衝突する。ダメージこそないが、何もない場所に生まれた壁によって回避行動は阻まれる。

 ミスティアとミリアの無言のアイコンタクト。漂う雷球のプレッシャーと煙の騎士の行動を読み、ミリアがソウルの結晶壁で退路を阻む。

 2秒も無いソウルの結晶壁であるが、雷球の接近を許すには十分な時間だ。ラジードは余裕を持って跳び退き、クラッカー爆弾を投げる。それは雷球に命中し、煙の騎士が特大剣でガードするよりも先に雷爆発を起こす。

 3人の言葉を交わさぬ連携による攻撃。煙の騎士は健在であるが、無敵ではないのだと勝利を求める心に再び熱を得る。

 太陽の狩猟団製回復アイテム【太陽ポーション】をラジードは使用する。ドリンク型であり、半透明の小瓶に入った黄色がかかった液体は、HPを6秒間で3割回復させるだけではなく、一時的に微量ながらもオートヒーリングを付与する。ただし、味に難があり、また素材の関係から生産量も少ない新製品である。なお、サンライス命名である。

 流血システムも加わり、これからの高レベル帯……レベル100以上において、特に近接アタッカーはオートヒーリングの有無が生死を分ける。それは3大ギルドの共通認識だ。オートヒーリングを得る方法は、指輪を代表としたアクセサリーの能力、スキル、回復系奇跡、アイテムなど多種に亘る。太陽ポーションは、そうした事情を踏まえて太陽の狩猟団が開発したものだ。

 たとえ市場で勝てずとも開発は怠らない。それが太陽の狩猟団のスタンスだ。苦手分野であろうともノウハウを蓄積し続けた成果は実っている。

 また、ラジードはレベル80で≪バトルヒーリング≫も獲得している。受けたダメージの1部を回復するスキルは、常にダメージを負う危険がある近接ファイターには重宝されるスキルだ。

 このまま押し切れるか。残り少ない魔力で槍にエンチャントを施し、雷属性攻撃力を付与したミスティアは、ラジードと入れ替わって煙の騎士の鎧の隙間を穿つ。着実にダメージは重ねているが、煙の騎士はまだまだ余裕を感じる。

 煙の騎士が両手で構えた特大剣に炎を凝縮させる。強烈な振り下ろしと共に、煙の騎士の前方に炎の波が放出される。足下の煤すらも焦がし続ける黒と赤の2色が混じった炎は、純然たる破壊力の結晶であり、斬撃と炎を同時に浴びればタンクでも一撃死はあり得るだろう。

 一撃死級の破壊力。それ自体は珍しくない。だが、ミスティアを戦慄させたのは、溜めの短さだ。通常の剣戟でも1つ間違えれば、正面全てを焼き払う炎の斬撃が飛ぶ。煙の騎士と正面から戦い続けるリスクは計り知れない。

 再び炎を凝縮させ、今度は特大剣をゆっくりと薙ぎ払う。目に見えてスローモーションの攻撃であるが、膨大な炎が放出されており、ボス部屋の隅まで届くリーチが煙の騎士より扇状に解放される。

 これでは後方支援の為に距離を取っているミリアの安全圏もない。炎のエンチャントによってリーチを増した特大剣を縦横無尽に振り回し、煙の騎士はじわじわとラジードのHPを奪い取っていく。

 火力が足りない。正面から斬り合うラジードは、煙の騎士の攻撃を躱し続けているが、反撃を仕掛ける暇がない。ミスティアが攻撃を挟み込もうにも、煙の騎士はもう彼女の動きを見切ったかのように、炎を散らして壁を作っている。

 闇を孕み、より実体に近しい性質を持つ煙の騎士の炎は、炎属性と闇属性の2つの攻撃力を持つだけではなく、その炎自体が強力な防御でもある。浴びれば強い衝撃が与えられ、ミスティアではSTRが足りずに姿勢が崩れてしまう。また、闇属性特有のスタミナ削り効果は継戦能力を奪うだろう。

 

「もう魔力が……!」

 

 ミリアが悲鳴を上げるように限界を告げる。ミスティアも自分のHPバーの下で激しく点滅するスタミナ危険域のアイコンに奥歯を噛む。自分達2人が戦線を離脱すれば、全ての負担をラジードに任せる事になる。そうなれば、何分……いや、何秒耐えられるか分からない程に、煙の騎士の攻防の的確さは増している。

 これが最後の魔力だ。エンチャントを施した槍を構え、せめて最大火力をぶつけなければ逆転の目はないとミスティアは睨む。

 スタミナ切れを覚悟でソードスキルを当てる。それでも倒しきれないが、ラジードに勝機を残すならば、クリティカル部位に最大威力の突進系ソードスキルを当てるしかない。

 幸いにも煙の騎士の弱点は、金属甲冑らしく雷属性だ。クリティカル部位に、最大加速・最大威力の突進系ソードスキルを命中させれば大ダメージは確実だ。

 

(だけど、当てたら最後……アタシは離脱できない)

 

 煙の騎士の攻撃範囲外から逃げるだけのスタミナは残らないだろう。

 自分の命か、それとも勝機か。いや、ラジードの生存か。ミスティアは迷わなかった。無論、ラジードの為に勝機を残すのだ。

 煙の騎士が大きく跳び、ラジードの頭上から特大剣を振り下ろす。舞い上がる煤の中で、煙の騎士の10連回転斬りが暴虐の嵐となり、ラジードがガードに使った双剣の破片が飛び散る。また、エンチャントされた炎までは防ぎきれず、ラジードのHPが1割まで減少する。

 発動するのはラジードが保有するデーモンスキル≪緊急回復≫。だが、ボス戦など想定しておらず、完全回復アイテムである女神の祝福を持ち込んでいない。セットされていた太陽ポーションによってHPが回復されるも、煙の騎士の一撃を受け取るには余りにも少な過ぎる。

 刃毀れし、また砕ける寸前の双剣を棄て、ラジードは特大剣1本に切り替える。だが、同じ特大剣使いでも、体格が違うならばリーチの差は圧倒的であり、また剣速も煙の騎士の方が上だ。特大剣の持ち味を活かすには、煙の騎士は相性が悪過ぎる。

 特大剣の重量を用いた回し蹴りを煙の騎士の横腹に打つラジードであるが、ダメージは微々たるものであり、また姿勢も揺るがない。逆にカウンターの、煙の特大剣の面積が広い刀身の腹で殴りつけられ、ラジードはまるでピンポン玉のように跳ね飛ばされる。

 

「……かっ……はっ……はっ!」

 

 息荒く立ち上がるラジードは汗だらけの顔で、だが愉快そうに『笑う』。咄嗟に左腕を使ってガードしたからか、ダメージは最小限に抑えられているが、革製の籠手は中の腕ごと潰れている。もはや剣を構える事さえも困難であるはずなのに、ラジードはまるで怯まない。

 言い知れない不安がミスティアを占める。最近のラジードが見せる危うい攻撃性。それが煙の騎士との戦いで引き出され、ブレーキが利かなくなり始めている。今は冷静に回復のタイミングを探すべきなのに、ラジードはHPバーが赤く点滅した……HP1割未満の状態で煙の騎士と刃を交える。

 

「駄目! それ以上は――」

 

 ラジードの特大剣の振り下ろしが煙の騎士を斬り裂く。だが、それは敢えて斬らせたのであり、煙の騎士は左手でラジードの顔面を掴む。

 身の丈程の特大剣を自由自在に操る煙の騎士のSTRが炸裂すれば、ラジードの頭部は熟れたトマトのように潰れるだろう。

 選択肢などない。ミスティアは≪槍≫の突進系ソードスキル【クイック・フェザー】を発動させる。ミスティアが狙っていた大技ではなく、発動までの短さ、スタミナ消費の軽さ、スピードが売りのソードスキルだ。それはラジードの頭部を掴む左腕の肘裏に命中し、また刺し貫く。

 煙の騎士の握力が緩み、ラジードは脱出に成功する。同じく離脱しようとしたミスティアであるが、スタミナ切れで体の動きが鈍る。

 まるでフルマラソンしたかのような虚脱感と疲労感。肺の空気が全て押し出されたかのような息苦しさ。まともに立つことも出来ないスタミナ切れの症状は、致命的な隙をミスティアに生じさせる。

 スタミナ切れの状態では全ての攻撃がクリティカル判定となる。指から槍が離れ、その場に触り込んだミスティアは目前の死を淡々と見つめる。

 逃げられない。助からない。死ぬしかない。悲観もなく、ミスティアは滑稽と想える程に己の死を予測した。

 ラジードが強くなる一方で、ミスティアは心の何処かで自身の限界を感じていた。

 自分がアノールロンド攻略に参加していたとして、生き残る事が出来ただろうかと幾度となく自問した。

 自分の戦闘スタイルが単独戦闘に向いていない事は重々承知している。だが、それを抜きにしても、これから先に無いとは言いきれない、アノールロンドと同等、あるいはそれ以上の難関・強敵を前にして生き残ることが出来るとは思えなかった。

 ラジードはどんどん強くなった。1つの戦いを越える度に実力を高めていった。

 並ばれ、抜かれ、手が届かなくなる。どれだけ走っても、ラジードはそれ以上に加速して強さを増していく。

 それで良かった。嫉妬などなかった。羨望さえもなかった。むしろ、より高みを目指す資格があるラジードを誇らしくすら思った。

 だからこそ、己の弱さを直視した。トッププレイヤーと呼ばれていても、それは全員が同質の一括りなどではなく、明確な線引きと格付けがある。たとえば、UNKNOWNとミスティアを並べれば、どちらが強いかと問われて後者を選ぶ者はほとんどいないだろう。事実として、デュエルでも殺し合いでも、ミスティアはUNKNOWNに勝利できるとは思えなかった。

 トッププレイヤーと目される最大の評価基準は、レベルや装備などではなく、本人の実力そのものだ。プレイヤースキルが如実に反映されるDBOだからこそ、個人の力量が問われるのだ。

 経験を積んだだけでは超えられない壁がある。レベルや装備で誤魔化すには限界がある。死に物狂いで訓練を積んでも届かない領域がある。資格を持つ者だけが扉を開くことができるのだ。

 ミスティアは扉に触れることができる。それだけでも十分に『超人』と呼べる域なのだろう。だが、決して開くことは出来ない。他の誰でもなく、自分自身が深く理解している。ここが限界なのだと。どれだけ実力を高めても、扉の向こう側にいる者たちには決して追いつけないのだと。他でもないラジードの存在が彼女に資格の有無を自覚させた。

 経験と努力の末にラジードもまた扉に触れ、そして開くことが許された。だが、そもそもとして、弱者だったはずのラジードは扉の前に至るまで己を高め続けなければ、資格があろうとも意味が無かった。

 

(ああ、そっか。アタシ……怖かったんだ)

 

 どんどん強くなるラジードに不安を覚えた最大の理由を、今更になってミスティアは理解した。

 本当はどうでもよかったのだ。完全攻略なんて使命も大義も何もかも棄て、一緒にいて欲しかったのだ。傍にいて欲しかったのだ。それだけで幸せだったのだ。

 醜く弱い心だ。戦いから逃げ出す卑怯者だ。だが、それが己の本心なのだとミスティアは気づいて嗤った。死を前にして、ラジードにも立ち止まって欲しいと願った。危うい戦いに身を投じることを止め、戦いから逃げた卑怯者であるとしてもずっと一緒にいて欲しいと望んだ。

 だから、これでいいのだとミスティアは信じたかった。彼ならば、いずれは……いや、あともう少しでUNKNOWNやユージーンと同じ領域にたどり着けるはずだ。ならば、自分の本心など決して光を浴びるべきなどではなく、ひっそりと死という闇に葬られるべきなのだ。

 

 それなのに、何故なのだろうか?

 

 舞い上がる煤の中で振るわれた、黒ずんだ鈍色の刃の軌跡に魅入られて、生きたいと強く願ってしまうのは何故なのだろうか?

 

 立ち止まって欲しいと心は訴えているのに、同じくらいに扉の先に行き、遥か高みにたどり着いて欲しいという本心とは相反する願いがあるのは何故なのだろうか?

 

 胸に灯る、ほんのりと熱を帯びた気持ち。それこそが『愛』なのだとミスティアは涙で濡れる。

 

 ミスティアも知らぬ、彼の決意を示すような異質の刃に、ただ1つの祈りを込める。

 

 ただ今この時を生き残り、ラジードに勝利があらんことを。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 怒り。怒り。怒り。

 闘争心に振り回された挙句、ミスティアを死にかけさせた己の脆弱さへの怒り。

 理不尽と死を強要し続ける、DBOに対しての怒り。

 自分たちに死という運命を押し付けようとする、目前の煙の騎士への怒り。

 憤怒の感情がラジードを満たし、それは燃料となって闘争心を更に燃え上がらせ、だが思考は極端に冷え込んでいく。

 堪え難い熱を帯びた怒りと普段以上の冷静な判断力を両立させたのは、皮肉にも背後にいるミスティアの危機だった。

 誓ったはずだった。仲間を……ミスティアを必ず守ると。その為ならば、どんな力でも手に入れて使いこなしてみせると誓ったはずだった。

 それなのに、この様は何だろうか? 煙の騎士は確かに強い。その剣技は剣士としてはラジードよりも上であり、多彩な攻撃も合わさって突破口が見えなかった。

 だが、『最強』ではない。煙の騎士以上の強さを持つ者がいる。【竜狩り】オーンスタインという実例も目にしている。

 強敵だから勝てないのは仕方ない。それは甘えだ。弱者の発想だ。

 不退転の決意と死の覚悟、それだけで勝てるならば、万人が勝者になれるだろう。

 ならば、勝者と敗者を分ける条件とは何なのか? ラジードは一呼吸と挟むことなく、煙の騎士の血で濡れた刃に己の怒りを注ぎ込むように、柄を握る両手に力を籠める。だが、無為に肩肘を張って剣技の柔軟性を損なわないように全身に命令を下し、最高のポテンシャルを発揮する、最高の精神状態へと移行すべく呼吸のリズムを刻む。

 ミスティアを眼前に、剣を振り下ろすだけだったはずの煙の騎士は、今は距離を取っている。割り込んだラジードの一閃を浴びて遠退いたのだ。だが、高防御力を誇る煙の騎士ならば、たとえ特大剣の一撃であるとしても怯むことなくミスティアを始末することが出来ただろう。

 だが、煙の騎士は距離を取ることを選んだ。その最大の理由をラジードは察している。煙の騎士は豪快な戦闘スタイルに反して、堅実な戦法を好む。無力化したミスティアは敢えて放置して足枷として、ラジードの行動を制限するのが狙いなのだ。

 

「ミリー、ミスティアを頼む」

 

 背後のミスティアを意識しながら、心地良い脱力感と研ぎ澄まされた闘争心、そして自分でも否定したい程に荒れ狂う怒りで歪んだ殺意と共に、ラジードは煙の騎士の前に立つ。

 肥大化した闘争心によって半ば暴走してこそいたが、ラジードは分析を怠らなかった。

 煙の騎士の戦闘スタイルは、特大剣1本になってからは、より火力重視にシフトした。煙の騎士の巨体を超えるリーチを持ち、大重量に加えて闇と炎の2つの属性を有した特殊エンチャントは、まともに剣戟など出来ない凶悪なものだ。

 味方の援護も薄い少数……しかもヒーラー不在ともなれば、ある程度はダメージを許容して一撃を当てる特大剣では不利である。対プレイヤーでは高火力と高衝撃を十分に発揮できる特大剣も、人型ネームド相手では一撃必殺は狙えない。特に高い技量を持つ人型ネームド相手に特大剣を、手傷を最小限に抑えて当てるのは無理がある。

 いや、可能ではあるのだろう。だが、ラジードはまだ己がその領域に達していないのだと把握する。

 特大剣は高火力と高衝撃、高スタン蓄積を持ち、またガード性能にも秀でた武器だ。これだけを見ればトップクラスであるが、扱い辛さ、重さ故の剣速の遅さ、スタミナ消費量の大きさなど多くのデメリットもある。

 特大剣で戦うならば、いっそ機動力を捨てた方が利口だ。全身を重装甲冑で覆い尽くし、防御力を徹底的に上げて振り回す。むしろ、それこそが特大剣使いのあるべき姿だ。

 だが、ラジードは違う。確かに特大剣の火力の高さを好んでいるが、彼の本領は『3種類の剣を状況に応じて使い分ける』という点にある。

 煙の騎士の第2段階の時点で、ラジードは自分と煙の騎士では同じ特大剣使いでも生半可では超えられない実力差があると判断した。ネームド特有の高STRで特大剣を片手剣の如く軽々と振り回される時点で、余程のSTR特化でもない限り、プレイヤーは同じ真似など出来ない。特大剣のデメリットである剣速の遅さを克服されている時点で、耐久面において決定的な違いがある以上、煙の騎士と同じ土俵で勝つことは不可能に等しい。

 ラジードは確かに制御が利かない闘争心のままに戦っていた。だからこそ、特大剣での戦闘に不利と見て、煙の騎士に頭を掴まれた状況でありながら、打倒の為に武器の変更を実施していた。

 

(甘えていた。ミスティアがフォローしてくれると思っていた!)

 

 結果として、ラジードの予想通りにミスティアは助けに入った。だが、彼女のスタミナ限界が近いと知りながら、戦いに没頭して軽視してしまったのは、他でもない己であり、それが彼女を『殺しかけた』とラジードは己を責める。

 怒り。怒り。怒り。ひたすらに怒りが湧き上がる。肥大化した闘争心を怒りが肉付けしていく。

 中身のない膨らんだ風船のようだった闘争心は、憤怒によって血が通い、肉の脈動と共に形を成し、ラジードの1部となっていく。

 多くの者が誤解しているが、ラジードは元より闘争心が乏しい人間ではない。むしろ真逆である。

 不断の努力を支える向上心。それは言い換えれば競争心の強さである。トッププレイヤーになる程に貪欲に強者の技術を吸収し、我が物にするまで鍛錬を怠らぬ姿は、見ようによっては狂気的なまでの闘争への執着と呼べるだろう。

 元来の闘争心の高さは、生来の温厚さと生真面目さに隠れ、また強者との比較による卑下によって影に追いやられていただけである。それが結果的とはいえ、アノールロンドで患った闘争心の肥大という障害によって表面化しただけの事である。

 殺し合いである以上、必ず犠牲は出る。仲間や大切な人を死なせたくないならば、敵に死を押し付けるしかない。理不尽なまでに、暴力的に、有無を言わさず、死を押し付けるしかないのだ。

 その為には『力』が要る。どんな敵だろうとも撃滅する『力』が不可欠だ。

 

(今の僕にそれだけの『力』はない。だけど……それでも……!)

 

 だからこそ、ラジードは今まさに手にした剣に祈りを束ねる。この戦いを制するだけの『力』を得る道筋を見出す。

 双剣と特大剣をオミットし、最軽量の状態で装備したのは、煙の騎士に対してリーチ・火力・剣速をバランスよく発揮できる『両手剣』である。

 中量級らしく、黒ずんだ鈍色の刀身は程良い厚さを有し、目の意匠が金彫されたデザインは、何処か宗教的であり、祭具としても通じるだろう。

 

(誰にも犠牲を出さないなら、全てのリスクを己で背負うこと。自分の死が仲間の死……大切な人の死となる恐怖を乗り越えること)

 

 だが、そこに『孤独』は無いのだとラジードは知っている。他でもない、この剣を渡してくれた白の傭兵こそが教えてくれたのだ。

 心に寄り添ってくれている人々を感じる。これから悲しませ、また苦しめるかもしれない大切な人を感じる。ならばこそ、ラジードは単身で煙の騎士を撃破するという覚悟を何の迷いもなく抱き、また実行するという意思を燃え上がらせる。

 何があろうとも戦い抜く。心折れようとも立ち上がり、挑み続けることをこの剣に誓う。ラジードは煙の騎士を純然たる敵として排除すべく、だがそれでもこの戦いは『守る』為のものなのだと己に楔を打ち込むように、新たな刃の名を呼ぶ。

 

 

「【退魔剣・影喰】」

 

 

 それは折れたヴァルキュリア・ソードの代用品として、クゥリが貸してくれた両手剣の名だ。

 退魔剣・影喰はソウルウェポンである。ユニークソウルより創造された武器であり、その価値は単なる価格に変換できないものがある。

 ソウルウェポンはいずれも癖こそ強いが、使いこなせば最高の装備と呼べる。武器としての純然たるステータスの高さに加え、特異な能力を持たせることが出来るのだ。その代償として破損時の能力喪失のリスクや修理コストの高さなどはあるが、それらを差し引いても強力である。

 だが、ソウルを手にする機会があるトッププレイヤーでもソウルウェポンを運用している者は多くない。その最大の理由は、前述した癖の強さである。

 命懸けの戦場において、多彩な能力があれば、その分だけリスクに対処が可能だ。だが、根本的に運用する側が十全に活用できなければ、むしろ枷となってしまうのだ。ましてや、武器1つを扱うだけで精一杯の者が大多数だ。生死をかけた戦闘の中で武器の能力を駆使するのは負担が大き過ぎる。多くの場面でソードスキルを活かしきれないプレイヤーの多さから見てもそれは火を見るより明らかだ。

 だが、ラジードにはソウルウェポンを使いこなすだけの土台がある。能力のある武器を運用した経験がある。それは裏付けのある自信である。

 迷いはない。ラジードの持つ影喰に、煙の騎士はじっくりと能力を分析するかのように、まずは小手調べとばかりに炎を迸らせる。闇を孕んだ炎がラジードへと刃となって放出され、それは波の如く彼を呑み込む。

 だが、炎は裂ける。正確に言えば、含まれた闇の黒色が影喰に『吸収』される。それによって炎は刃としての形を失って散る。

 同時にラジードのHPが回復し、そのまま模倣ステップで煙の騎士との距離を詰める。己の炎が無力化された煙の騎士は驚きを残したまま、だが冷静にラジードに対処する。

 正面から衝突する影喰と煙の特大剣。いかにソウルウェポンとはいえ、特大剣……それも煙の騎士のサイズ基準ともなれば、エンチャントも含めて剣戟など不可能だ。

 しかし、結果は異なる。影喰から放出された緑色の炎が推進力となってアシストし、逆に煙の特大剣を強化していたエンチャントからは闇が奪われて勢いを失う。

 闇属性ならば何でも吸収して無力化し、HP・魔力を回復させ、緑炎に変換する。緑炎は魔法属性を含んでおり、また放出することで推力とすることで剣速を上昇させ、また攻撃力を増幅させる。

 そして、退魔……即ち『対深淵』の力を持つが故に闇関係のモンスターに特効ダメージを与えることができる。ラジードの読みは外れ、煙の騎士は闇の力こそ使うが深淵の眷属ではないらしく、ダメージの伸びに特効性は見られなかった。

 だが、闇の吸収によって、煙の騎士は第2段階の肝である闇を含んだ炎の能力を『完封』されたことになる。煙の騎士の炎は、全て影喰の能力によってラジードの回復と攻撃強化に変換されてしまうからだ。

 退魔剣・影喰。それは正しく『深淵狩りの武器』に相応しい得物である。影喰の前では、最古の深淵の主のあらゆる攻撃も防御も強化も無効化される。最強と謳われた裏切りの騎士すら、深淵が関与した能力を全て封じられることになる。それが影喰の『闇の吸収』の能力の真価なのだ。

 ただし、その能力故に素材として活かすのは極めて難しく、相性次第では他素材の特性も影喰の能力も完全に殺してしまうことから、あのGRですら『ソウルをそのまま武器化するしかなかった』という曰く付きであることもまた、ラジードは知る由もない。

 影喰から放出した炎を推力に、ラジードの剣速は上昇し続ける。また、炎の放出と模倣ステップを組み合わせ、変則的な動きを可能とし、煙の騎士を翻弄する。

 

(一瞬も気を抜くな! 自分を高め続けろ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 1秒でも早く殺せ殺せ殺せ!)

 

 何十回。何百回。何千回と練習してきた! 背後に緑炎を放出して爆発的加速を得た模倣ステップで煙の騎士との距離を詰めたかと思えば、そのまま顔が地面に触れる程まで姿勢を低くした回転斬りにつなげる。

 膝を薙がれ、だが煙の騎士は余裕を持って反撃する。高耐久の煙の騎士は、機動力で劣るならばカウンターを決めればいいと最初から待ち構えていたのだ。回転斬り後のラジードを逃さない完璧な振り下ろしが放たれる。

 だが、『ライトエフェクト』を帯びた回転斬りはそのままラジードを『大きく後ろに跳び退かせる』動きに繋げる。回転斬りがそのまま離脱行動に繋がった事に驚愕した煙の騎士は、微かに驚きの吐息を漏らす。

 クゥリとのデュエルで学び取った剣技の1つ、回転跳び退き斬り。クゥリはそれを己の身体制御だけで成し遂げる。だが、ラジードはどれだけやっても再現の足掛かりすらも得られなかった。

 それでも挑戦し続けた。『1回』で構わない。ラジードはひたすらに練習を重ね、我流で形を成していった。そして、奇跡的に『1回』だけ成功することが出来た。

 終わらぬかに見えた『OSS登録』作業は実りを得て、ラジードはOSSとしてクゥリの回転跳び退き斬りのコピーに成功した。実戦で安定して出せないならば『システムアシストによって100パーセント成功するソードスキル』にしてしまえばいい。奇跡の1回を得る為の試行錯誤と鍛錬の末に、ラジードは『狼の剣技』を我が物とした。

 なお、OSS名は【ラジード・スペシャル=A】。何かカッコイイ名前を付けたいと考え抜いた末に、所詮はコピーなのだからこれでいいのだと妥協した結果である。

 そして、AがあるならばBもある。跳び退き斬り後のラジードの硬直を見逃さない煙の騎士は、特大剣に炎を滾らせて放出させる。闇の吸収は継続しているが、特大剣と刃を交わらせねば緩やかに闇も回復していく。火力は十分ではないが、ラジードにダメージを与えることを優先した煙の騎士の攻撃だった。

 だが、躱せなくて構わない。ラジードは闘争心に身を委ねる。死の恐怖よりも自他への怒りが魂を焦がす。

 もっとだ。もっと『力』が要る。誰も死なせない。誰も傷つけさせない。敵にだけ『死』という終わりの運命を押し付ける『力』が要るのだ。その為ならば、人間の域を超えても構わない。ラジードは炎が命中する寸前で次のOSSを起動させる。

 OSS【ラジード・スペシャル=B】。クゥリが使った縦回転斬りであり、これもまた無数の試行錯誤の末に得た『1回』の成果だ。だが、こちらは回転跳び退き斬りとは根本的にコンセプトが異なる。

 この尋常ならざる剣技を、クゥリは常識離れした体幹技術によって連撃として機能させる。全身に巡らせたSTRパワーを乗せた、もはや斬撃よりも敵を『叩き潰す』為の剣技である。

 ラジード・スペシャル=Bは『スキルコネクト前提OSS』である。どうすればクゥリのように連撃を成せるかと考え抜いた末に、ラジードは必然的にこの結論に至った。

 緑炎の推力を得たラジードの縦回転斬りは、炎を斬り裂いて進み、喰らった闇でHPと緑炎を得て、2撃目の回転斬りは更なる速度と威力を加えて煙の騎士を脳天から斬りつける。これには揺らいだ煙の騎士に、更にスキルコネクトをして縦回転斬りを加え続け、磨り潰していく。

 血飛沫がラジードを染めていく。だが、冷徹にラジードは眼前の敵の『抹殺』だけに心身を注ぐ。余計な情も思考も捨てる。敵を滅ぼすならば、人間としての感情も、戦士としての矜持も不要だ。

 

「おぉおおおおおおおおお!?」

 

 煙の騎士が特大剣特有の幅広い刀身で縦回転斬りをガードし、ラジードの攻勢を止める。空中で硬直時間を味わい、同時に脇腹に入った蹴りが彼の体を吹き飛ばす。ガードと同時にラジードを蹴り飛ばした煙の騎士は、浅くない傷を負っているが、HPバーは2本目を2割ほど残していた。

 煤と吐血が混じる中でラジードは立ち上がり、大幅に消費したスタミナに対して割に合ったダメージを与えられた、と冷静に分析する。OSS化した縦回転斬りの火力ブーストはなかなかのものである。ラジードはまだモーションをなぞって動く事による追加ブーストは出来ないが、それも加わった暁には、1度捉えればプレイヤー相手ならば磨り潰すまでダメージを与えることは可能になるだろう。

 

(スタミナは危険域。僕ならできる。1度やったんだ。何を捨てたってかまわない!)

 

 プレイヤーが戦闘中にスタミナ切れに迫った場合に取る選択肢は2つ。スタミナ回復を図るか、スタミナが切れる前に倒すか、そのどちらかだ。だが、ソロではどちらも難しいのは言うまでもない。敵の攻撃は止まらない以上、プレイヤーは攻撃せずともガードか回避を迫られるからだ。スタミナ回復量に対して消費量が上回り続ける限り、スタミナ切れに着実に追い込まれていく。

 DBOにおいて、現状ではスタミナの直接的回復手段は今のところUNKNOWNが保有するユニークスキル≪集気法≫を除いて存在しない。スタミナ回復速度を上昇させるアイテム・装備は存在するが、スタミナ回復手段そのものは今もDBOでは発見されていない。

 ならばこそ、プレイヤーは常にスタミナ切れに怯える。ミスティアがそうであったように、スタミナ切れは死と同義となった。

 だが、ラジードは恐れない。スタミナ切れになろうとも動けた経験がある。どれだけの代償を支払うことになるかも重々承知している。

 激しく点滅するスタミナ危険域のアイコン。ラジードは自らを切り捨てることを是とした。背負った命……仲間と愛する人の為に、自らを燃やし尽くす不純物無き覚悟があった。それが可能とするのは、この場で煙の騎士を打倒する唯一無二の手段だ。

 スタミナが切れる。まるで体を操っていた糸が切れるように体が傾く。煙の騎士はこれを待っていたとばかりに特大剣を肩で担ぐ。

 油断が命取りだ。ラジードは『笑う』。何の迷いもなく、脳の中にある黒点のようなイメージに自らを投じ、致命的な精神負荷を受容する。

 

 灼ける。

 

 灼ける。

 

 灼ける。

 

 本来ならば耐えらず、自己認識すらも曖昧となり、それは精神崩壊へと導いていく。だが、デーモン化を同時発動させる事によって、肥大化した闘争心で意識に指向性を与えて堪え抜く。

 己に刻み込むのはたった1つの命令……『守る為に敵を殺せ』。その為だけに動く暴力装置となり、ラジードはスタミナ切れというプレイヤーにとっての死を克服する。

 もっと『力』を。獣人型のラジードは純粋にSTRとDEXをパワーアップさせるが、低燃費型であるが故に上昇効果は低い。だが、ラジードの願望……いや、『成長』を受けてその姿に変化が生じていく。

 筋肉はより膨れ上がり、狼の如き瞳孔はより生々しさを得ていく。模倣ステップは純粋なDEXの上乗せによって速度が増し、更に緑炎を放出し続けることによる変則機動も加わり、煙の騎士を翻弄する。

 依然として『剣士』としては煙の騎士の方が上だ。培った体術も含めてラジードは追いつけていないだろう。だが、煙の騎士の炎能力を影喰で封じ、また彼が経験したことがない緑炎と模倣ステップを組み合わせた独自の戦闘機動への対処がまだ追いつかず、なおかつラジード本人の着実な成長が牙を剥いた事によって、戦いの行方は傾き始めた。

 ラジード達の避けられない死から、煙の騎士の死へと、天秤は傾きを変えていく。少しずつ、流した血の分だけ、煙の騎士を死へと追い込んでいく。

 負けられないのは煙の騎士も同様である。かつて経験したことがない、剣士でも騎士でもない戦い方をするラジードに、超一流の戦士として対処すべく動き始める。一方的に斬られるのではなく、カウンターのタイミングを合わせていく。

 煙の特大剣の切っ先が顔面を薙ぐ、目の下から鼻にかけて抉れて血が溢れる。目潰しにこそならなかったが、あと半歩深く踏み込まれていたならば頭部を叩き潰され、即死しただろうというラジードは、恐怖なく分析する。

 いいや、違う。恐ろしいのだ。恐ろしいのは確かだ。だが、それは『己の死』が恐ろしいのではない。自分が死ぬことによってミスティアが死んでしまうことが恐ろしいのだ。だからこそ、ラジードの1歩はより深くなっていく。

 もっと『力』を。もっと『力』を。もっと『力』を! これまで培った技術と積み重ねた鍛錬をここで爆発させろ! ラジードは奥歯を噛み、脳の奥にあった歯車を軋ませながら回していく。

 多くのプレイヤーが挑戦し、挫折を覚える。それがステータスの高出力化だ。プレイヤーは一般的に3割前後の出力しか発揮できず、またそれを前提にして得られるSTR・DEXエネルギーは配分されている。ならばこそ、3割以上を出すことが出来れば、プレイヤーはよりパワーとスピードを獲得することが出来る。

 DBOに限らず、こうしたシステム側の都合を無視して高出力化を可能として同じステータスであるはずなのに尋常ではない動きを可能とする者は存在する。ただし、その分だけアバターの精密制御が求められる為に、高出力化は高VR適性者にこそ相応しい技術である。

 故にラジードは体得しながらも十分に利用しきれず、ここぞという場面だけのブーストに留めるしかなかった。

 低VR適性者が高VR適性者と同じ動きをしようとすれば、その分だけ膨大な集中力が求められ、また脳にかかる負担も増大する。ならば、ただでさえ高密度・多量の情報がやり取りされるDBOのバトルにおいて、致命的精神負荷を受容した低VR適性者が高出力化をするとなれば、それはガソリンに火を投じるようなものである。

 支払う『命』という燃料は一気に奪われる。それは生存本能が最もよく理解している。だからこそ、ラジードの本能は『否』を唱える。

 だが、ラジードはデーモンシステムによって増幅され、また自己を侵食する闘争心を利用し、生存本能を捻じ伏せる。

 まずは4割……そして、5割! ラジードは意識が明滅する中で、生まれた時から脳にかかっていた『肉体を己自身で破壊しない』為のリミッターを解除していく。一瞬ではなく、常時使用し続けるべく、ブレーキを破壊する。

 煙の騎士自身のスピードは大したものではない。剣速こそ特大剣の域を超えているが、今のラジードには恐ろしい程にクリアに斬撃軌道が予測できた。高出力化も加わり、更に変則的となったラジードの動きに対処し、常に正面を捉える煙の騎士は見事であるが、彼の目は煙の騎士の攻撃を見抜いている。

 強大な剣士とは幾度となく戦っている。UNKNOWNという二刀流使いとのデュエルは、ラジードの中で経験として積み上げられている。

 ラジードより剣士としては煙の騎士が強い。だが、同じように煙の騎士よりもUNKNOWNの方が剣士としては上だ。だからこそ、ラジードはUNKNOWNの二刀流を潜り抜けるよりも容易いとばかりに、煙の騎士の攻撃をより精密に、まるで白き傭兵の如く躱しながら斬り込んでいく。

 煙の騎士の特大剣の突きを跳躍で躱したかと思えば、炎が猛る鈍い刃の上に立ち、ダメージを負いながら駆けて煙の騎士の兜の覗き穴に影喰を突き入れる。

 緑炎の放出によって強化された突きが煙の騎士の顔面を貫き、そのまま押し倒す。背中から倒れた煙の騎士の胸を踏みつけ、顔面に突き刺した影喰を更に深く押し込む。

 痙攣する煙の騎士より見えぬ衝撃波が放たれ、辛うじてラジードは影喰を手放すことなく十数メートル飛ばされた先に着地する。

 最終HPバー突入だ。背中から倒れていた煙の騎士は、兜越しで顔を右手で押さえながら立ち上がる。

 ネームド戦は最終HPバーからが本番だ。だが、仮に煙の騎士の能力が第2段階……闇含有の炎の強化であるならば、影喰ならば封じ込められる。

 無論、影喰の闇の吸収にも限界がある。闇を緑炎に変換して放出するが、蓄積上限が存在するのだ。緑炎による消費を上回れば吸収できなくなるのである。

 だが、闇属性の攻撃は出来ても、闇のスペシャリストではない煙の騎士の攻撃ならば、緑炎による消費を上回ることはない。むしろ、煙の騎士の炎を吸収した分だけ影喰は強くなり、またラジードのHP・魔力は回復する。ラジードがここまで圧倒的攻勢に出られるのも、攻撃こそが回復手段であり、ダメージを受けながらも攻め込むことが可能だからだ。

 ラジードの体感では、煙の騎士は第1段階から変わっていない。それが心理面にもプラスに働いているが故に、彼は自身を蝕む……いや、『変えていく』闘争心のままに戦闘継続を迷うことなく可能とする。

 

「来い。殺し……きって……やるよ!」

 

 呂律が上手く回らないラジードは、傷が修復されていく煙の騎士との最終決戦を求める。

 だが、煙の騎士は新たな能力を解放しない。代わりに降り注いだのは赤い煤だった。

 

 

 

 それは<ERROR>というシステムメッセージから降り注ぐ、重大な違反に対しての警告の光だった。

 

 

 

 煙の騎士の傍らに灰色の砂……いや、『煤』が集まり始める。それはぼんやりと人の形を成した。輪郭からして女性なのは間違いないが、詳細は分からず、またラジードは理解しようともしなかった。

 

『どう……して? どうして、戦うの? 私達は……ただひっそりと……静かに……生きていたいだけ。お願い……もう手を出さないで。私達は……貴方達を……傷つけたくない』

 

 どうして? 決まっている。『敵』だからだ。殺さなければ殺される。それがDBO……いいや、戦場なのだ。現実世界も仮想世界も変わらない。戦場とは『敵を殺す』ことだけが絶対なる真理なのだ。

 相手の理由も心情も関係ない。死を理不尽に押し付けろ。殺し合いである以上、味方が傷つかないことはない。死は双方に等しく訪れる。ならば、暴力の限りを尽くして仲間を襲う死の運命を敵に押し付けろ。ラジードは己の心を更に闘争心で塗り潰す。

 いや、もはやまともな思考など残っていない。眼前の敵の抹殺だけがラジードの思考の全てだ。それこそが闘争の愉悦なのだ。

 

『もう少し……あと、もう少しだから……耐えて……お願い……「煙」』

 

「承知した」

 

 煙の騎士は特大剣を構え直す。その身に温かな光を帯びた渦巻く煤を纏い、雪の如く降り注ぐ赤い光の下で決意を示す。対するラジードは、左腕をだらりと垂れ下げながら肩に担いだ影喰より緑炎を迸らせた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 敗北とは何か。アーロンは死と敗北を同義とは捉えない。

 戦術と戦略では勝利の意味が異なる。戦術的勝利の積み重ねが戦略的勝利に繋がるのは道理であるが、それは一概に正しいとも呼べない。個の次元ではなく、組織・国家の視点から勝利の価値を定めねばならない。

 アーロンは考える。自分の敗北は鉄の王にとって大きな損失となるだろう。だが、その一方で自分の存在こそが鉄の王のコンプレックスを刺激し、破滅へと追いやっているのではないかとも懸念する。

 既に鉄の王は自分以外にも優れた臣下が揃っている。十分な戦力を保有している。個の武勇が1つ欠けたところで、国の情勢は変わらない。アーロンは己にそこまでの価値はないと冷静に分析する。

 ならばこそ、アーロンは己の死が主君の敗北ではないならば、武人として高みに至れないことこそが敗北なのかと自問する。

 否である。武人として頂点に至りたいという気持ちは無いわけではない。武を志した者ならば、誰もが欲する頂きに立ちたいという願いはある。だが、それは真に渇望が根差したものかと問われれば、やはり首を横に振るだろう。

 血沸き肉躍る死闘。これもまた否だ。それは求道の手段である。武人として心躍る死闘は求めて堪らぬものではあるが、そこで死んだとしても……敵に勝てずとも、アーロンは悔いこそあっても敗北は無いと断じる。屁理屈のようにも聞こえるが、『勝利できなかった』に過ぎないのだ。

 敗北とは何か? それは心が屈伏することだ。志を……今まで貫いた己の生き方を棄てることだ。

 生きる。それこそが無条件で肯定される正義であると嘯く者たちがいる。アーロンは迷いなく唾棄する。

 生が無条件で肯定されていいのは幼子だけだ。生こそが絶対にして不変の正義であるならば、心など要らないのだ。何たる惰弱な発想か。

 百万の軍勢に包囲され、降伏以外に生きる術が無いとしても、戦わねばならない時がある。生の理屈ではなく、死の意義によって戦わねばならないのだ。それを愚劣と罵る者がいるとしても、死して示さねばならない矜持がある。

 人と獣の決定的な違い。それは感情でも理知でもない。矜持の有無こそが分かつのだ。たとえ、万人に罵られるような生き方だとしても、そこに矜持がある限り、胸を張って生き、満足して死ぬことが出来るのだ。それこそが心を持った意味なのだ。

 だからこそ、アーロンは不屈である。どれだけ勝機が無くとも、培った武技を、愛剣を、選んで突き進んだ道……『答え』を裏切ることなく、死が訪れるまで戦い抜く。

 

 

 

 

 

 そう……たとえ、『人間の形をした理不尽な暴力』を前にしても戦意を失うことはない。

 

 

 

 

 

 まるで雪夜の月明かりを溶かしたような白髪を靡かせ、緋血が滴る妖刀を携えながら、狩人は微笑んでいる。

 幼さ残る可憐にして、美麗にして、清廉にして、妖艶である容貌は、この世で最も戦いから縁遠いようにも思えて、だが戦場でこそ最も相応しく映えるだろう。金銀宝石で彩るよりも返り血こそが化粧となって美を際立て、花々の香水よりも血と臓物のニオイこそが色香を濃く深めるだろう。

 斬撃結界を展開。アーロンは不可視の斬撃と共に狩人を攻め立てる。一閃でも入れば勝てるという確信の下で刃を振るう。

 だが、もはや掠りもしない。躱され、受け流され、反撃を喰らう。足を止めれば嵐に呑まれるように一方的に刻まれる。

 踏み込みからの摺り足を利用した、地を滑るようにして迫る斬り上げ。だが、その時点でアーロンの意識外ですれ違い、胴、太腿、左肩、そして首を裂かれる。振り返る間もなく血刃の連撃が背中を強襲し、振り返る頃には投げナイフが迫り、回避したかと思えば跳んで頭上にいた狩人より氷の矢が射られて脳天を貫かれる。

 物心ついた頃から剣を握り、ひたすらに己を高め続けた。武門の奥義まで修め、我流を開き、強敵との戦いで鍛え上げた。一朝一夕では到達できないアーロンの剣技。それは欠片と残すことなく『喰らい尽くされた』。

 まるでもう1人の自分を相手取っているかのような……鏡を前にしているかのような錯覚に陥る。いや、表現としては限りなく正しいのだろう。目の前にいる狩人は、アーロンの武技の全てを喰らい尽くし、純然たる暴力に変じさせてしまっているのだ。

 妖刀の能力である斬撃結界を真似されていないだけで、アーロン自身の武技の本質と呼ぶべきものは奪い尽くされた。

 これならどうだ? 3連斬りから派生する突き、そこから顎を狙った蹴り、勢いを利用して宙を舞いながらの気刃の乱舞、着地からの斬撃結界の鎧を纏ってのタックル。いずれもアーロンが試した事もない即席のコンビネーションだ。

 だが、通じない。『本質』を喰らい尽くされたならば、そこからどれだけ派生しても根っこは同じだと言わんばかりに、狩人は最小限の動きで全て躱し尽くした挙句、アーロン自身も見切っていなかった最後のタックルが届かない半歩の場所までステップで退いたうえで、微笑みながら優しく、だが残虐なまでに鋭くカタナの突きを繰り出す。それはアーロンの喉を突き破り、溢れる血が呼吸を止める。

 それでもアーロンは止まらない。カタナが喉に埋まっているいまこそがチャンスだと体格を活かして覆い被さろうとする。膂力は己の方が上であり、斬撃結界を纏った今ならば、圧し掛かるだけで狩人を斬殺できるからだ。

 見ようによっては、可憐で儚い美少女に押しかかる落ち武者のような、悪漢の所業にも映るだろう。だが、現実は全くの逆だ。アーロンの必死さを嘲うように、まるで最初から幻であったかのように狩人は消える。

 ステップによる高速移動。だが、カタナは喉に突き刺さったままだ。武器を手放したのかと思った時には、彼の首筋に冷気の刃が触れていた。

 

「氷雪のレガリア……氷雪の大鎌」

 

 冷気と氷の粒によって形成された、神々の得物を写し取ったかのような大鎌がアーロンの首を薙ぐ。だが、ソウルの業によってアーロンの首はまだ繋がっている。存命している。ならば戦えるとアーロンが意気込むより前に、踊るような大鎌の連撃が、両腕、両太腿、胴、最後に頭部と余すことなく決まった挙句に、撤退しながら大鎌を振るって跳び退けば、冷気が床を伝い、アーロンの足下で爆ぜて追撃を与える。

 喉から零れ落ちたカタナを渡すものかとアーロンが蹴り飛ばせば、最初から何処に飛ぶのか分かっていたかのようにステップで先回りしていた狩人はカタナを宙で掴み取り、そのまま血刃を放出してアーロンを縦に一閃する。

 カタナを振るえば血刃が飛び散って刀身以上に斬撃は伸び、居合であるならば本来の10倍でも足りぬ間合いを実現する。変幻自在の氷の大鎌は回避を許さず喰らい付き、矢は精密にして確実に隙を射抜いてくる。

 まだ爪牙を隠し持っている。狩人はまるで『本気』に至っていない。いや、本人はアーロンを仕留める為に余念はないのだろうが、最初から全てを出し尽くすなど『狩り』ではないのだ。アーロンの抗いを予見し、何枚あるかも知れぬ手札から1枚ずつ、1枚ずつ、1枚ずつ切っているのだ。

 見たい。狩人の全てを……最後の手札が切られる瞬間が見てみたい。だが、アーロンの求めた死闘の時間はいよいよ尽きる。

 血を流し過ぎた。傷を受け過ぎた。もはや一太刀と受けられない身であると悟ったアーロンに残されたのは、最後の攻撃に全力を注ぎ込むことだけだった。

 

「……参る」

 

 斬撃結界を妖刀に凝縮させる。全ての力を注ぎ込んだ最強最速の攻撃を放つ。気刃が竜巻のように刀身を覆い、長巻は蜃気楼に呑まれたように姿を屈折させていく。妖刀と一体化したアーロンの最終奥義である。

 もはや身に纏う刃の鎧はない。己の肉体ではなく、妖刀こそが魂の拠り所となったのだ。

 

「ああ、とても素敵ですね」

 

 微かにだが、目を見開いた狩人は賛美する。そこには純粋な敬意だけがあるとアーロンは感じ取れた。

 最高の一撃へと心身を高めるアーロンに対し、狩人は瞼を閉ざして居合の構えを取る。

 疾走。1歩で最速に到達したアーロンの一閃。斬撃結界の攻撃力の全てを上乗せした、伝説の古竜すらも屠れるだろうと自負した、今のアーロンに出来る最強の攻撃だった。

 ステップ……いいや、宙に跳んで躱した。氷の矢で射られるか? だが、それは予想済みだ。アーロンの最終奥義は『連撃』である。躱した相手に斬撃結界を放出しながらの突きを浴びせる。それ即ち、剣先を向けた瞬間に相手は斬られるという回避不能の攻撃だ。これこそがアーロンの至った妖刀との一体化と己の武技がたどり着いた極みだった。

 後は躱した相手が反撃に出る前に切っ先を向けるだけだ。だが、宙を跳んだ狩人が何処にいるのか? 刹那の思考の中で、アーロンが信じたのは、これまで培った経験と生まれ持った才能……などではなく、鏡のように反射する床に映し込まれた影だった。

 鉄の王の栄華。その立役者となった、武に生き、剣を鉄の玉座に捧げた男が最後に信じたのは、決して裏切らないと誓った主への敬愛だった。

 

 アーロンの技量ならば一呼吸と待たずして剣先を向けられる。

 

 だが、それは決して叶わない。

 

 身を翻し、宙を舞う狩人へと長巻の切っ先を向ける間に勝負は決したからだ。

 

 

「美しい」

 

 

 そう思わず零したのは、血刃居合……斬撃の線が絡み合って『面』となった、まさに斬幕がその身を通過した後だった。

 血刃居合による『7連撃』の斬幕。アーロンと同様に回避不能の面制圧した血刃によってアーロンの全身は切断された。

 これは剣技ではない。純粋な殺意の結晶だ。武人では到達できない死そのものだ。故にアーロンは魅入られる。

 着地した狩人は息荒く左膝をつき、だが淀みない動作でカタナを鞘に収める。

 

「走馬燈併用……霞桜。感謝します、騎士アーロン。アナタのお陰で、また1つ完成に近づいた」

 

 狩人が決して安くない代償を支払ったのは明確だった。アーロンは鋭利な傷口から離れていく左腕を感じながら、1歩、1歩、また1歩と狩人へと距離を詰める。

 これが死か。恐怖など無い。戦いに身を置く者は、いつか戦いの中で死を迎えるのは道理であり、また誉れであるからだ。

 ならば、アーロンが止まらないのは、自らの敗北を決して許さない為だ。最後まで狩人と戦う意思を手放さない為だ。

 両足が傷口より切り離されていく。体が分解されていく。もはやソウルの業では肉体を……生命を維持できないのだ。

 右腕から切り離される。己の分身でもあった妖刀が離れる。もはや両腕も両足も無くなったアーロンは、己の頭部もまた分断されていくのを感じる。

 

「……王よ、どうか――」

 

 迷いなく、躊躇いなく、玉座に。貴方にはそれが出来るはずだ。

 アーロンは、己ではたどり着けなかった武の頂に悔い、そして王への変わらぬ忠誠のままに散った。

 

 

「騎士アーロン。祈りも無く、呪いも無く、安らかに眠れ」

 

 

 弔いの言葉を亡骸が聞く術などあるはずもなく、故にそれは静寂に木霊し、溢れた血に溶け込んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 風景が元に戻っていく。騎士アーロンの撃破と共に、マルドロの亡骸が残る黒霧の塔の隠された上層へと転移されたのだ。

 ランスロットとの戦いを経ていなければ、残り火……致命的な精神負荷の受容を強いられていたかもしれない。DBOでも上位クラスの人型ネームドだったはずだ。

 限定受容停止。瞬間に左腕はぶらりと垂れ下がって動かなくなる。しばらくは使い物にならないな。

 

「ゲホ……ガホ、ゴホ……っ!」

 

 深淵の病の再発……か。いや、元より症状が落ち着いていただけだ。無理をすれば、すぐに悪化するということだろう。まぁ、だからこそ走馬燈を使うのも容易だったんだがな。

 アーロンの最後の一撃はまずかった。どんな攻撃だったのか分からないが、ヤツメ様が全力で警告したほどだ。故に確実に殺せる霞桜を『使わされた』。まったく、これだから『人の意思』を持つ輩は……本当に度し難い。最後まで抗って、抗って、抗って、戦い抜こうとする。それが愛おしくて堪らない。

 だが、アーロンの剣技は糧となって血に溶けた。速度を重視した彼の剣技の真髄は血肉となった。

 ステータス出力7割で霞桜が7連撃まで到達できた。8割ならば、完成形の9連撃は可能だろう。アルテミス、ランスロット、そしてアーロンを経て、ようやく霞桜の完成が見えてきた。

 

「ヨルコ……使わせて、もらうぞ」

 

 HPはオートヒーリングで十分に回復しているが、深淵の病がまずい。アイテムストレージから取り出したのは、ヨルコから貰った丸薬調合キットで作成した、深淵の病用で準備した鎮静剤だ。

 闇が光を蝕むように、光もまた闇を清める。ならばこそ、神族……光に由来する素材を使った丸薬ならば、深淵の病にも少しは効くのではないかと予想したが、どうなのだろうか? そもそも深淵の病はあくまでフレーバー要素であり、本来はプレイヤーに無縁のものだ。黄の衣のせいでオレは発症しているが、同じフレーバー要素で何かしらの効果を期待できるかもしれない。

 全身の血管に漂白剤が流し込まれたような爛れた激痛が押し寄せる。だが、贄姫に映るオレの右目の白目部分を侵食していた闇はゆっくりと退いていく。

 アルヴヘイムでの経験が役に立ったな。深淵の病にある程度の効果を発揮する素材はある。完治は無理でも、症状を抑える事は可能だ。これで隠蔽することができる。今回の丸薬作成に使った素材は【アノールロンドの黄昏花】だ。闇属性防御力を高める効果を期待できる素材だが、オレが求めたのは説明文にあった『【深淵歩き】のアルトリウスが深淵狩りに挑む遠征前に摘み取り、これを煎じて身を清めた』という内容だ。アルトリウスも深淵の病に蝕まれていたはずだ。ならば、深淵の病に効果を発揮したはずの黄昏花ならば、効果があるのではないかと思ったのだ。

 だが、決して特効があるとは言い難いな。これからも研究が要るか。ヨルコさんに頼んで栽培でもしてもらうか。酒でも渡せば快く引き受けてくれるだろう。

 

「…………」

 

 マルドロの遺体から暗器ランスを奪い取り、切断された首をアイテムストレージから取り出した正方形の布で包み込む。防性侵蝕用に準備した布であるが、これで上手く包み込めるだろう。遺体を転送してもいいのだが、彼の場合は丁寧に弔われることもないだろから、この方がいいだろう。

 しかし、騎士アーロンにぶつけるまでがマルドロの策だったのだろうか? どうにも変だな。

 マルドロに暗殺依頼を出した輩はこの展開を望んでおり、暗殺計画にも口を出していたならば、彼の死までは予定通りであり、本命は騎士アーロンだったということだろうか? それにしては、オレがアーロン戦後に戻って来ても待ち伏せしている様子が無い。

 ……考えてもしょうがないな。今ある情報から真実が見えるのかもしれないが、オレに頭脳労働はやはり向いていない。後でグリセルダさんにでも相談して……ああ、憂鬱だ。黒霧の塔は太陽の狩猟団の占有であり、ネームドを勝手に討伐したのだから、報酬面で大きなトラブルを抱えた事になる。今回の契約内容にネームドの討伐は含まれていないのだから当然だ。

 オレのアイテムストレージにはアーロンのソウルがある。これが普通のネームド討伐ならば、所有権は太陽の狩猟団にあるが、今回のようなイレギュラーの場合はどうなるのだろうか?

 ……別にいいか。グリセルダさんに丸投げしよう。オレが交渉しても正当以上に毟り取られるだろうし、プロに任せるのが1番だ。それよりも今はラジードが優先だな。

 オレの暗殺が目的だとしても、巻き込まれたラジード達が無事とは限らない。とりあえず、敵は全て皆殺しにすればいいとしても、肝心の彼らが無事でなければ意味が無い。

 

「意外と正常……か」

 

 自分でも驚いているが、アーロンの呼びかけのお陰で幾らか飢餓に対して精神が拮抗している。アーロンを『獣』として喰らうこともなかった。

 だが、安定した状態もいつまで続くか分からないし、限定受容無しでは左腕は動きそうにない。ラジードとのデュエルの時点で分かってはいたが、戦闘時間……というよりも密度による負荷によって左腕の操作がほぼ機能しなくなるようだ。

 オレ自身のコンディションにも関係するだろうが、長期戦は難しそうだな。戦闘時間が長引くネームド相手では限定受容が前提となるか。

 後は白夜の狩装束の改良が必須だな。未完成だから仕方は無いが、完全開放時の疑似デーモン化に多くの不備があった。

 腰に装備したイジェン鋼製の大型投げナイフとワイヤーを接続し、獣血侵蝕してレギオンの触手の如く振り回す。これが完全開放の大きな目玉なのであるが、思考操作に必須のVR適性が決定的に低いオレでは使用が絶望的だ。

 そこでグリムロックが目をつけたのは、レギオンプログラムだ。うん、この時点で大馬鹿だな。明かされた時にはぶち殺してやろうかと思ったよ。だが、元を正せばレギオンプログラムはオレから生まれたものであり、オレの『力』として使用するならば、ギリギリで執行猶予をつけてあげようというのがヤツメ様の判決である。

 白夜の狩装束によって白木の根が全身に張り巡らされることによって、青血の義眼と接続される。これにより、義眼に使用された狂縛者のソウルの能力と結びつく。

 復活・強化されたオートヒーリングは、狂縛者のソウルの影響だ。もう1つの能力はレギオンプログラムの学習・先読み機能の付与である。要は思考操作ではなく、オレの思考を先読みして触手がオートで動く……というものらしい。何それ、意味が分からない。でも、グリムロックは実験無しでこの発想にたどり着いて実装してやがった。

 ……まぁ、勘付かれてるかもしれないと思ってはいたが、オレとレギオン由来ソウルの親和性の高さからレギオンの正体も悟っていたのかもしれないな。その上で何も言ってこないのは、グリムロックにとってレギオンの正体など『どうでもいい』のだろう。アイツにとって、強い武器を作ることだけが全てなのだから。

 今回は初発動という事もあり、オレの思い描いた通りには動いてくれなかった。思考操作ならば、そもそも動かないのだから文句を言うつもりは無いが、反応は遅いし、何よりも精密性がまるで足りない。やはり思考操作ではないので限界があるか。最悪、残り火を使って獣性解放して、ナグナの焔火と同じように、思考操作を耐え抜くという方法もあるわけだしな。

 そっちの限定受容も実験してみるか……って、止めて! ヤツメ様、本気で叩かないで! 涙目で殴り掛からないで! さすがにそんな阿呆な真似をしようとは思ってません! それもありかなって思っただけです!

 だが、今後はグリムロックにも少し注意が必要だな。執行猶予付きとはいえ、本来ならば死刑……『狩り』の決行だ。素材が素材なので量産は不可能だろうが、HENTAIは想像外のことをしでかすものだ。レギオンプログラムすらも弄れるともなれば、場合によってはグリムロックも狩らねばならない。

 他にも懸念材料がある。レギオン由来のソウルはオレが独占しているわけではない。知らない所で個人・ギルドが保有している確率はかなり高いはずだ。グリムロックのようなHENTAIではない限り、よもやレギオンプログラムを搭載した装備など作らないはずであるが、通常のソウル加工でも何らかの影響を与える恐れがある。

 今後はレギオン系ソウルの行方も調査が要るな。大金を積んで譲ってくれるならば良し。そうでないならば……まぁ、手段は諸々考えるとするか。そもそも、グリムロック曰く、狂縛者のソウルはかなり特殊だったらしいからな。

 エギルを改変し続けたという性質。まさにレギオンプログラムの学習と反映そのものだ。だからこそ実装できたわけだしな。考え過ぎならばいいが、アルシュナに相談案件としてリストに入れておくに越したことは無いだろう。

 

「そろそろ……動けそうだな」

 

 白木の根を侵食するパラサイト・イヴによって、緋血の血管模様が全身に生じる。これによって深淵の病の症状の1つ、黒化した血管の浮かび上がりを隠せるのは喜ばしい副産物はあるが、悪化した深淵の病のせいで白目まで黒ずんでくるとはな。油断はしない方がいいだろう。ユウキには……あまり心配かけたくないしな。親身になられたら殺したくなってしまう。

 後は血の味の調査も必須か。狂縛者のソウルがそうであったように、体内にあるパラサイト・イヴにもレギオン由来のソウルが2つも使用されている。結果として味覚エンジンに何らかの影響を及ぼしたのかもしれない。

 だが、先の暗殺者と戦った時に、血塗れの饅頭を食べても味はしなかった。そうなると、今回の白夜の狩装束の能力解放がトリガーなのだろうか。まぁ、何にしても調査は不可欠だな。

 氷雪のレガリアも対ネームド相手でも十分に使いこなせた。特に氷雪の弓の使い心地は悪いものでは無かった。銃とは違い、すぐに馴染んでくれたからな。もう記憶にはないが、弓矢に関しては手解きもあったのかもしれない。

 ウーラシールのレガリアと同様に、氷雪のレガリアもオレが武器スキルを保有していなければ形成できない。そこで使われたのがホルスのソウルだ。能力は疑似的な≪弓矢≫スキルの付与である。

 ソードスキルは使えないが、本来はスキルを所持していなければ装備できない弓矢を使えるようになる。ステータス補正もちゃんと乗るので通常使用の上では、氷雪の弓に限らず、他の弓矢も装備することが可能だ。

 目覚めて引き受けた最初の依頼……風花隊の抹殺でも試しにグリムロック製の弓を使わせてもらった。調子を試したかったので、必要以上に嬲ってしまったがな。

 氷雪の弓の場合、氷雪の矢の形成能力もある。10本までストック可能で、能力使用時には必要本数を余計に消費する。ちなみに必ず『10本分』の魔力を使ってフル補充となるのでストック全てを使い切ってから補充しないと無駄な消費となる。だけど能力によっては本数が足りず、浪費してしまう事になるジレンマだ。

 まぁ、その為の白木の根でもあるがな。スタミナ消費をすればするほどに魔力回復速度が上昇する。つまりはスタミナ切れが近づく程に魔力には補充される。うん、この能力はどう考えてもネームドをお独り様で撃破する用だよね。ねぇねぇ、奥様。聞いてくださいな。グリムロックさんは何を考えてこんな能力を実装されたと思いますか?

 試したいカードはあったが、習熟が必要なものあるし、やはり霞桜で正解だったのだろう。ヤツメ様が強行したほどだ。他のカードではアーロンを仕留める前に殺されていたかもしれない。

 何にしても先を急ぐとしよう。マルドロは狩ったが、他にも暗殺者はいるからな。クロスボウ使いを始末しておかなければならない。

 

 

 

「素晴らしい。実に素晴らしい。噂以上のバケモノっぷりじゃないか」

 

 

 

 だが、オレの道を阻むように、黒いチェスターコートを着たプレイヤーが立ちはだかる。黒いシルクハットと不気味な笑顔の仮面を装備した長身の男だ。胸元には赤い薔薇の飾りをつけており、何処か演技がかかった仕草で拍手している。

 

「マルドロを一方的に葬り、鉄の王に仕えた英雄すらも単身で狩り殺す。あのアルトリウスすらも超えたランスロットを仕留めた御方とあっては、この2人では余りにも不十分過ぎたわけだ」

 

 この風貌、何処かで聞いた覚えがあるな。確か……NPCとして登場する【素晴らしいチェスター】だっただろうか? NPCの恰好を真似するプレイヤーは少なからず存在するし、同じ装備を入手して完全になり切る『完コス』もいないわけではない。

 だが、コイツからは単なるコスプレではない『本物』とも言うべきオーラがある。さて、どうしたものか? 確か素晴らしいチェスターはスナイパークロス使いという情報だったが、マルドロの仲間として認定していいのだろうか?

 ……ああ、自分が嫌になる。そもそもNPCが暗躍してるって何だよ? 普通に出歩くな。自分のイベントだけしっかりこなしてろ。プレイヤーと協力してPKとか企むな。ツッコミどころが多過ぎる!

 

「失礼ながら、アナタは?」

 

「素晴らしいチェスター。皆はそう呼ぶ。名前は忘れてしまったものでねぇ。フフフ、お前を殺そうと企んだ者の1人さ」

 

 抜刀、血刃居合。チェスターに向かって放たれた血刃居合は、思いの外に軽やかな動きによって躱される。なかなかに良い動きをするな。

 

「おいおい、待ってくれ。こっちは降参しに来たのさ。本当だとも。その証拠に武装を解除しているだろう? まさか丸腰の相手を殺す趣味が……ああ、お前なら十分あり得るか。聞いてるよ。殺戮の飢餓だったか? 殺し好きのイカレ野郎や殺人依存症、戦闘狂とは会ったことがあるが、飢餓とは驚いた。本能の時点で殺戮が組み込まれているとはなぁ。このバケモノめ」

 

 安い挑発だ。乗る必要はない。問題はチェスターの発言を何処まで信じるかだ。まぁ、殺せば敵が1人減るのでそれ以外の選択肢は今のところ無いがな。

 

「待ってくれよ。バケモノ呼ばわりしたことは謝罪しよう。それに戦う意思が無いのは本当だ。私も死にたくない。本当さ。何なら土下座でもしてみせようか?」

 

「……目的は何ですか?」

 

「戦力評価さ。今のお前の実力を測りたいのが雇い主の意向でね。徹底的に不利な状況におけるマルドロとの殺し合い、そしてアーロンとの連戦。お前のバケモノっぷり……フフフ、失礼。とんでもない強さは重々分かった。こっちはそれで今回の所は満足なのさ。迷惑をかけたお詫びの品もある」

 

 チェスターが攻撃するなというジェスチャーをして足下に置いたのは、小さな黒い封筒だ。中身は何なのか知らないが、ろくでもないことだけはヤツメ様の渋い顔からも何となく察することが出来る。

 

「それよりも急いだ方がいい。フフフ、どうやらお前の連れは『運が無い』らしい。私に構っている暇などないぞ? ほらほらほら!」

 

「……分かりました。今回は見逃しましょう」

 

「おや、あっさり」

 

「本気で逃げ回る相手を狩るのは時間を使います。その間にラジードを死なせたくありませんから。ですが、その前に1つだけ。オレを殺せば、マルドロは本当に『脱出』できたのですか?」

 

「あるわけないだろう! 全部『嘘』さ。あんな小物がお前を殺せるはずがないと分かった上でぶつけただけ。依頼主はアーロンに勝つことまで予定内だよ」

 

 首の無いマルドロの遺体へと肩を竦めて見せたチェスターの態度から見て、それは真実なのだろう。マルドロはオレに勝てたとしても現実に戻ることは出来なかった。

 つまり依頼主は後継者ではない。あの男は契約と報酬には律儀だ。そこだけは決して虚言を混ぜることはない。つまりは後継者以外の管理者ということか。

 管理者名簿を持っているわけではないオレでは対象を絞り込めないな。アルシュナに期待するしかないか。

 

「では、私はこれで。話が出来て有意義だったよ、バケモノ」

 

 チェスターが1歩後ろに跳べば、そこには転移トラップが設置されていたのだろう。転移の光の中に消える。マルドロを小馬鹿にした去り方だ。やはりマルドロに語った報酬は『嘘』だったのだろうな。

 残された黒い封筒を手に取る。封蝋がされているな。中身を確認してもいいが、それは後からで構わないだろう。

 

「ラジード達にも何かを仕掛けたか」

 

 単なるオレへの嫌がらせか? それとも別の意図か? どちらにしても、今は一刻も早くラジードの元に急がねばならない。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 煙の騎士の最終段階。能力の強化の類は一切なく、煙の騎士は変わることなく『剣士』としてラジードと相対している。

 特大剣を振るう姿は豪快でありながら、力任せではない技量の高さは十分に味わった。退魔剣・影喰を利用したラジードの変則的な動きにも既に対応しきっており、真っ向勝負を押し切らねばならず、より地力が試され始めていた。故に搦め手に欠け、また剣士としての土俵に引き摺りこまれつつあったラジードは、徐々に手傷を与える機会を失いつつあった。

 だが、それは根本的な苦境の理由ではない。致命的な精神負荷の受容とデーモン化の相乗効果によって『敵を倒す』という1点に凝縮されたラジードの思考さえも揺るがしかねない、不条理とも思える能力を煙の騎士は備えたからだ。

 

 

 もはや不死に等しいレベルのオートヒーリングとアバター修復速度である。

 

 

 ラジードが与える傷は片っ端から癒えていき、HPは毎秒どれだけ回復しているのか想像できない程に瞬きする暇も補われる。

 治癒を施しているのは煙の騎士が纏う人の形を取った煤であり、まるで伴侶に寄り添う花嫁の如く煙の騎士を加護している。煤にどれだけ斬撃を浴びせても、緑炎で焦がしても、まるで無意味であり、煙の騎士の治癒は全く衰えることがない。

 心が軋む。闘争心に亀裂が入りかける。ラジードが致命的な精神負荷の受容を可能としているのは、彼自身の精神力とデーモン化による闘争心の刺激の合わせ技である。

 危ういバランスの上に成り立っているが故に、闘争心が挫かれれば受容は容易く停止する。

 勝てないかもしれない。そんな弱気が僅かでも泡立った瞬間に、ラジードは動けなくなる。故にひたすらに戦闘に没頭する以外になく、だが純化され過ぎた闘争心は彼の意識を狂わせていき、過剰な戦闘への没頭は冷静な判断力を損ねていく。

 デーモン化最大のリスクは、デーモン化制御時間の完全消費による獣魔化への自動移行である。プレイヤーはモンスターへと変化し、倒されるべき存在へと成り果てる。そこには勝利など一切なく、守りたかったはずの仲間すらも害する暴走した野性だけが残るのだ。

 デーモン化制御時間はSANへのポイントの割り振りによって決まるが、ラジードは積極的に成長させていない。SANは他のステータスに比べて恩恵を直接得られる機会が乏しく、また使い難いデーモン化を強化するために多くのポイントを割り振るのはナンセンスだからだ。また、ラジードの場合は低燃費型ということもあり、わざわざ多くのポイントを割り振らずとも十分に活用できるという利点もある。

 だが、致命的な精神負荷の受容によって暴力性が引き出された今のラジードは、かつてない程にデーモン化制御時間が急速に減少していくことに気づけていなかった。あるいは、認識できていても理解することが出来なかった。

 眼前の敵を倒す。もはや敵を排する暴力装置になりつつあったラジードは、いかにして煙の騎士を打倒するかだけに思考を回転させる。逆に言えば、己の持つ人間の尊厳すらも手放さねばならない程に、煙の騎士の異常な治癒能力を前にして精神は挫かれかけていた。

 過剰なオートヒーリングを突破する方法は2つ。ギミックを解除するか、回復量以上のダメージを与え続けるか。そのどちらかである。

 大ダメージを与える為のソードスキルは見切られる。緑炎を加えた斬撃でも煙の騎士の治癒速度を上回れない。それどころか、ラジードの攻撃に適応した今の煙の騎士には、ダメージを与えることさえも徐々に難しくなっている。

 ならばギミック解除しかない。だが、ラジードも気づいている。先ほどから頭上より降り注ぐ赤い光……エラーメッセージより零れる警告は、煙の騎士が、あるいは煤の花嫁が『重大なルール違反』を犯しているからなのだ。

 かつてない経験がラジードに焦燥感を植え付ける。それが恐怖心を煽り、ラジードの足を止めようとする。

 たった1歩でも止まれば楽になれる。『死』という形で苦しみから解放される。

 スタミナ切れで動くだけでも尋常ではない苦痛がもたらされる。ましてや、致命的な精神負荷の受容とは、もはや正気を保つ方が地獄とも呼ぶべき拷問だ。

 呼吸の1つ1つはまるで溶けた鉄を肺まで流し込んでいるかのようであり、手足の指先まで針を埋め込まれているかのように一挙一動の度に激痛が駆け抜ける。視覚情報が熱を帯びているかのように目玉は今にも溶けそうであり、耳から入る音は脳髄を糸鋸で削っているかのようだ。

 それは与えられたクリアな感覚とは相反する、全身の自由を奪いかねない苦痛という表現すらも足りぬものだ。だが、何よりも……生物的な痛みよりもおぞましいのは、自己の喪失……まさに『自分』と呼べるものが焦げて灰になっていく『灼ける』感覚だった。

 自分自身を定義する『何か』が失われている。1秒経つ度に『自分』というものが曖昧になっていく。それは致命的な精神負荷を受容する意味を見失わせようとする。いや、そんなものはどうでもいい。

 灼ける。灼ける。灼ける。灼ける度に痛みに耐えられなくなっていく。

 負けたくない。何があろうとも敵を殺す。どうして? 分からない。純化されていく闘争心で萎びる精神を補おうとすればするほどに、どうして煙の騎士と戦っているのか分からなくなっていく。

 煙の騎士の横殴りの一撃。特大剣の大質量を活かした、刃ではなく刀身を利用した強烈な打撃が入る。影喰の効果でHPを回復できるラジードだが、スタミナ切れである以上は全ての攻撃がクリティカル扱いになる。

 クリティカル補正の伸びが悪い打撃属性とはいえ、特大剣……それもネームド級の攻撃がクリーンヒットしたとなれば、ほぼフルだったHPは大幅に削れていく。跳ね飛ばされ、口に煤が入ったラジードは、ガードすることもできないままに折れた左腕を垂らし、獣の如く唸る。

 

「あぁああああああああああああああ!?」

 

 死にたい。殺してくれ。誰でもいい。早く殺してくれ。そうすれば楽になれる。そんな弱気が芽生えそうになるが、暴走した闘争心がそれを許さない。

 勝てる手段を模索する。何かあるはずだと探り、思い出す。最下層に降りる前に遭遇したNPCより与えられた熔鉄の杭である。

 もしかせずとも、今こそが使用するタイミングなのではないだろうか? ラジードは影喰を口に咥え、動く右手でアイテムストレージから熔鉄の杭を実体化させる。

 

『……っ!? そ、それは……まさか……そう! そうなん……だね? デュナ! デュナシャンドラ! 許さない!』

 

 当たりだ。分かりやすいほどに動揺してくれた。普段のラジードを知る者ならば、思わず目を背けるだろう、醜悪な勝利を求める笑みを浮かべた彼は、煙の騎士に向かって全力で熔鉄の杭を投擲する。ステータス出力も高められ、投擲スピードも飛躍的に上がっている。

 

 

 だが、煙の騎士が正面から投げられた熔鉄の杭に対処できないはずもなく、特大剣の一閃によって砕き散らされる。

 

 

 唯一無二の逆転の鍵。それをあっさりと失った原因は2つ。もはやラジードにはまともな思考をする余地がほとんどなくなっていた程に痛みと闘争心で満たされてしまっていた点。そして、もう1つはようやく見つけた勝利の道筋に、じっくりと燻製されていた焦燥感が爆発してしまった点である。

 僅かでも冷静な判断力さえ残されていたならば、ラジードは確実に命中させる接近戦での命中を狙ったはずである。だが、根本的にその判断力を残せる余力を持てるならば、ラジードがここまで追い詰められているはずもない。

 勝てない。そんな絶望が芽生え、ラジードの体は痙攣する。咥えていた影喰が零れ落ちる。

 よく頑張った。ミスティアもきっと許してくれる。ここで死んでも胸を張って戦い抜いたと褒めてもらえる。そんな敗者にして弱者の思考が巡る。

 

 

 

「援護に行くって……言っただろ? 忘れるなよ、隊長」

 

 

 

 だが、飛び散る血の赤と己を呼ぶ声がラジードを繋ぎ止め、ファンブル状態に移行する寸前で影喰を宙で右手が掴む。

 

「ぐぉおお!?」

 

『あ……ああああ!?』

 

 重なり合う煙の騎士と煤の花嫁の悲鳴。それは煙の騎士の背後からその左脇腹に突き刺さる、ラジードが失ったはずの熔鉄の杭がもたらしたものだ。

 既にラジードは熔鉄の杭を損失している。逆転の手札は残っていない。

 だが、ラジードの他にもう1人だけ、渇望の使徒と遭遇して熔鉄の杭を入手しているプレイヤーがいる。

 多量のモンスターを相手取り、ラジードを先に進ませる為に囮となったマダラだ。

 その姿は瀕死そのものだ。右腕はなく、左腕も肉がごっそりと削げ、左目は潰れ、全身は止血包帯こそ巻いているが、止まらない流血のスリップダメージが示すのは数多の負傷であり、もはや身動きすら出来ない程のダメージフィードバックのはずだ。

 援護に向かう。あれだけのモンスターに囲われていながら生き延びただけではなく、本当に危機に駆けつけてくれたのだ。

 

「マダラ! 逃げて!」

 

 ボス部屋の端でミスティアと共に見守るしかなかったミリアの叫びが木霊する。だが、彼もまたスタミナ切れの上に負傷の体を引き摺っていたのだろう。最後の力を出し尽くしたと煙の騎士の傍らで膝をつく。

 逃げられない。いや、もはや余力が残っていないのだろう。HPすらも回復出来ていないマダラは、HPがレッドゾーンだ。スタミナ切れも含めれば、今の彼に煙の騎士の攻撃を受けてれば耐えられない。

 マダラは笑う。普段とは異なる、角が取れた優しい表情で笑いながらミリアを見つめて、何かを口走ろうとして、だが唇を真一文字にして閉ざす。

 諦観ではない。これが己の成した正義にして貫いた信念だと示すように、苦しみのままに無造作に振り回される煙の騎士の特大剣を見つめている。

 

 嫌だ。

 

 失いたくない。

 

 ようやく本当の意味で仲間になれたのだと思えたのだ。

 

 やっと本心で語り合える関係になれたのだ。

 

 

 もっとだ。

 

 もっと『力』を。

 

 誰にも負けない『力』を。

 

 仲間を守れる『力』を!

 

 

「届けぇええええええええええええええええええ!」

 

 ラジードは影喰より緑炎を放出させ、その推力でマダラの元へと向かう。彼を物言わぬ肉塊へと変えようとする煙の特大剣を防ぐべく間に入ろうとする。

 

 だが、DBOは……いいや、この世界はいつだって不条理をもたらす。

 

 故に人々は神に祈りを捧げ、バケモノに呪いを唱える。

 

 運命とは何なのか? 正義とは何なのか? 生きる意味とは何なのか? 神に不条理の意味を問い、バケモノに真実を見る。

 

 ちっぽけな人間に出来ることなど限られていて、己の手が届く範囲すらもろくに管理できず、友も仲間も愛する人さえも零れ落としていく。

 

 そして、絶望の果てに己の無力さを思い知る。

 

 その手は何も成せず、何もつかめず、何も遺せないのだと虚無の真理にたどり着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ならばこそ、虚無の真理を覆そう。今この瞬間は『力』こそが全てなのだと、白き獣はきっと告げるはずなのだから。

 

 

 

 絶望を知った時に、諦めることなく、心折れようとも立ち向かうことが出来る魂の『強さ』こそが『人』であるはずなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつだって世界は不条理を愉悦に満ちた悪逆の嘲りと共にもたらす。

 

 ならば『力』で押し返せ。その為の刃を振るう1歩は『強さ』が支えてくれる。

 

 心に『孤独』などなく、友も、仲間も、愛する人もいてくれるならば、弱者の諦観などなく、故に剣はより研ぎ澄まされる。

 

 退魔剣・影喰。それは守るべき者を持つ戦士にこそ相応しい、たとえ怪物に堕ちようとも『守る為の力』をもたらす剣である。

 

 故にその刃は最後の瞬間まで、たとえ愚行であるとしても、守護を望む者と共にあるだろう。

 

 ラジードは知らない。影を喰らう怪物の物語を知らない。

 

 苦痛の乙女の悲鳴を聞き続けた、救う事が出来ずとも傍にいて守り続けた怪物の物語を知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、退魔剣・影喰もまた『託された』ものであるならば、ラジードは正しく『遺志』を継承したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煙の特大剣がマダラを潰すより先にラジードは駆けつけ、煙の騎士を刺し貫いてマダラから遠ざける。

 緑炎を放出し、煙の騎士を焦がしながら、全力で貫き通し、そのままボス部屋の隅まで追いやる。

 ラジードは幾度となく目にしている。

 いかなる実力者も叩き潰すDBOがもたらす暴力の真実を味わっている。

 成す術なく蹂躙される恐怖を知っている。

 だが、ラジードはそれらを実力で、幸運で、運命で、等しく踏破してここにいる。

 届く。必ず届く。ラジードは祈りと祈りと祈りを重ねた果てに、灼ける自己を闘争心で染め上げる。

 

 ラジードには無い。超人的な反応速度も、天賦の剣才も、殺戮を成す為だけに研ぎ澄まされた本能も、等しく持っていない。

 

 だからこそ、たどり着いた境地があった。

 

 強き者たちが示してくれた戦い方があった。

 

 灼ける。灼ける。灼ける。だが、そこには恐れなど無い。全てを忘れても帰れる場所があると信じられるからこそ、一切の躊躇いはなかった。

 

 もう止まらない。ラジードは動きが鈍った煙の騎士の息の根を止めるべく、刃を振るい続ける。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 もはや勝ち目などなかった煙の騎士の最終段階は、瀕死の状態でありながら駆けつけたマダラの一撃によって覆された。

 敗北確定のイベントバトルのようなオートヒーリングとアバター修復は失われただけではなく、煙の騎士の動きは明らかに鈍っている。対するラジードもまた満身創痍であるが、動きのキレはこれまでの比ではない。

 

「マダラ! マダラ! しっかりして! まだ生きてる! だから……お願い、死んじゃダメ!」

 

 倒れたマダラの元に駆けつけたミリアは、流血のスリップダメージでじわじわとHPが減っているマダラの口に太陽ポーションを飲ませようとするが、吐血と共に押し返されて飲用できない様子だった。

 魔力さえ残っていれば、とミスティアは悔やむ。1度尽きた魔力は3割回復するまで使用不可である。故にミスティアが奇跡による回復を行使するには、あともう少しの時間が必要だった。

 飲用するドリンク系の回復アイテムは全て飲み干さねば効果を発揮しない。ダメージによって喉に血が詰まって咳き込んでいるマダラでは、とてもではないが服用できないのだ。

 だが、ミリアは涙を拭う暇すらも惜しいと自らの口に太陽ポーションを含むと、マダラに口移しさせる。咳き込むマダラの口を自身の唇で強引に塞ぎ、無理矢理でも全てを飲ませる。

 

「死なせない。絶対に死なせない!」

 

 マダラのHPは回復し、微弱なオートヒーリングも合わさり、流血のスリップダメージと拮抗こそしないが、少なくとも危機は脱する。安堵するミリアであるが、まだ戦いは終わっておらず、彼女たちを戦いがもたらす衝撃波が揺らす。

 ミスティアの目に映るのは、もはやスタミナ切れであることは確実であるはずなのに、むしろ動きが今までで最も優れているラジードが、徐々に本領を取り戻した煙の騎士と斬り合う姿だった。

 派手に飛び散る火花の分だけ、ラジードは緑炎を利用した尋常ならざる機動力で煙の騎士に襲い掛かる。対する煙の騎士はラジードの動きに合わせて一撃を浴びせるべく、闇は食われても揺らぐ炎は消えない特大剣を振るい続けている。

 色眼鏡なく、剣士としては煙の騎士の方が上である。だが、単純な剣の腕前だけで決まるのが戦いではない。持てる全てを出し切り、己の弱みすらも利用して勝利をもぎ取るのが戦いなのだ。

 折れた左腕を振り回し、狂戦士の如くラジードは執拗に煙の騎士を斬り続ける。どれだけ反撃を浴びても、ミスティアも知らぬ剣が闇を喰らえばHPを回復させる。回復量と己が傷つくことを容認した、苛烈な攻撃によって煙の騎士を追い詰めているのだ。

 無論、これは命懸けの綱渡りだ。スタミナ切れであるラジードは、全ての攻撃がクリティカル扱いだ。ただでさえ高火力の煙の騎士の攻撃がまともに直撃すれば、それこそ一撃死の危険すらもある。

 また、流血システムは、アバターの損傷による防御力の低下を招く。クリーンヒットこそせずとも、ラジードは重ねた傷によって肉は抉れ、革製の鎧は剥げてしまっている。いずれは掠るだけでも容認できないダメージを負うことになるだろう。

 だが、ラジードは止まらない。だからこそ、煙の騎士も傷を負っていく。自らの命を投げ捨て、どれだけ斬り払っても攻撃を仕掛けてくるラジードに、カウンターを決めきれずにいる。

 煙の騎士のHPは既に3割を切っている。押し切れるか否かのギリギリだ。ラジードは剣より噴き出す緑炎を利用し、全身全霊をかけた突進を仕掛ける。

 

『「煙」!』

 

 だが、煙の騎士を加護する煤が叫び、完全にタイミングが合致したかち上げ斬りがラジードに決まる。

 息をのみ、ラジードの死が視界を塗り潰して悲鳴を漏らしそうになったミスティアは、それが死の予感によって先行したイメージに過ぎず、実際にはラジードの手から剣が弾き飛ばされただけであることに安堵し、また戦慄する。

 武器を失えば、もはやラジードに対抗手段が無い。再装備の暇などないだろう。ミスティアはスタミナ切れの体に鞭を打つ。

 もっとCONにポイントを割り振っておくべきだった。ミスティアは奥歯を噛み、まだ回復しきらないスタミナに怒りを覚える。ここで助けにいかなければ、ラジードが死んでしまうのだ。

 

 

「ありがとう、クゥリ」

 

 

 だが、ミスティアの危機感に反し、ラジードは嬉々と『作戦通り』だとばかりに笑う。その右手の拳が大地を揺さぶるような踏み込みと同時に繰り出される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「穿鬼」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは使い手がほぼ存在しないとされる『産廃』扱いの≪格闘≫のソードスキルの名だ。発動時間が極めて短く、シビアなタイミングで命中させねば火力を発揮できない。実戦で狙えば、むしろ硬直時間によって致命的な隙を晒すことになる。

 ラジードの右拳が煙の騎士の腹に叩き込まれた瞬間、雷鳴の如きサウンドエフェクトと一瞬の瞬きのように炸裂したライトエフェクトが空間を彩る。煙の騎士の巨体が浮き上がり、背中から倒れ伏す。

 これまでのスタン蓄積が爆発し、動けなくなかった煙の騎士を前にして、ラジードは宙を舞う剣をキャッチし、そのまま斬りかかる。

 ソードスキルも使わない滅多斬り。それ故の苛烈で暴力的な攻撃。煙の騎士の鎧は砕け、血飛沫が舞い、そのHPが減っていく。

 勝負あった。ミスティアはラジードの勝利を確信する。穿鬼というジョーカーによって煙の騎士に大ダメージとスタンを与え、一気にラッシュをかけている。

 これでいい。勝利で安心したはずのミスティアは胸が締め付けられる。

 それはきっとラジードの表情が、目前の敵だけを殺すことだけに全てを注いだ、残忍極まりない暴虐の牙を剥いているからだろう。

 ラジードは自分たちの為に戦ってくれている。彼は背負った自分たちの生死の為に、多大な犠牲を払って、今あそこで全力を尽くしている。

 だから、『守られる』側であるミスティアは、そこに口出しする権利など無い。

 

「駄目……駄目……だよ」

 

 それでも零れる涙は、唾棄すべきワガママなのだろう。

 ミスティアが好きなラジードは、生真面目で、正義感が強く、暴力の不条理を嫌い、また己の得ようとする強さに誇りを抱こうとする人間だ。

 だが、今のラジードは違う。戦う為に、殺す為に、守る為に……手放してしまった。

 そこまで追い詰めてしまったのは、見守るしかなかった……弱かったミスティアだ。

 スタンから抜けた煙の騎士のHPはもはや僅かだ。次のラジードの攻撃を受ければ、確実に撃破されるだろう。

 

『止めて……お願い……止めて! 止めてぇえええええええええ!』

 

 片膝をついた煙の騎士を守るように、人の形を成した煤が両腕を広げるようにして立ちはだかる。だが、ラジードは大きく剣を振り上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう……もう止めて、ラジードくん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スタミナ切れの体で駆け、倒れるようにラジードを背後から抱きしめたミスティアは、涙で濡れた声で懇願する。

 

「嫌……ヤダ……『消えないで』!」

 

 間違っているのだろう。殺し合うしかない、プレイヤーとモンスターとの戦いで、それを止めるなど間違っているのだろう。

 だが、ミスティアは煙の騎士を庇う煤ごと斬ろうとするラジードを止めねばならなかった。止めたいと望んだ。

 

「お願い、帰って来て! アタシの知ってるラジード君に……!」

 

 ここで止めねば、たとえ生き延びたとしても、ミスティアの知る『ラジード』ではなくなってしまう。

 仮にそれがラジードの望んだ結果だとしても、ミスティアは否定する。そんな生に何の意味があるのかと吐き捨てる。

 全てを台無しにする愚行だ。ラジードの奮戦の意味を奪う恥知らずだ。それでも、今のラジードに煤の乙女ごと煙の騎士を殺させるわけにはいかなかった。それを成してしまえば、もう戻って来れなくなる。

 

「……ミス、ティア?」

 

 まるで我を取り戻したように、ラジードの顔から獰猛さが抜ける。そして、煙の騎士を庇う煤の乙女を静かに見つめる。

 

 

「私の……負けだ」

 

 

 そして、煙の騎士が己の得物を手放した。

 

「私は殺して構わない。だが、頼む……ナドラを……どうか見逃してくれ。彼女が安全な所に逃げ切れるまで、守ってやってくれ」

 

『「煙」!? 駄目! 私達は……ずっと一緒に――』

 

「もういい。私は彼らの『敵』なのだろう? ならば、これでいいのだ。ナドラ、キミに出会えて、私の心は……孤独に満たされていたソウルは救われた。それで十分だ。王を諫めるべく反逆し、友にも理解されずに敗れ、この地に流れ着いた私の孤独は……キミがいたからこそ、埋める事が出来た。キミがいたからこそ、私は王の騎士ではあらずとも、キミを守れる誇りを抱けた」

 

 自らの死と引き換えに愛する者の助命を懇願する煙の騎士に、ミスティアは沈黙と共にラジードの答えを待つ。

 この戦いの結末を出すことができるのは、戦い抜いた彼以外にいないのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 どうして? どうして? どうして? ひたすらに疑問がラジードを満たす。

 煙の騎士ほどの戦士が敗北を認める。愛する人を救うために剣を手放す。その行為にラジードは困惑する。

 そもそもこの戦いは何だったのだ? ラジードは右手に持つ退魔剣・影喰の重さを改めて感じ取る。

 この戦いにおいてラジードは幾度となく死線を潜り抜けた。だが、同時に何かがおかしかった。

 

 煙の騎士の戦い方が消極的過ぎたのだ。

 

 愛する人がいる。守るべき者がいる。それは今の煙の騎士の態度からも明らかだ。

 ラジード達は『敵』だ。彼らからすれば、寝床に忍び込んだ賊と何ら変わらない。安住の地を脅かす外敵だ。

 煙の騎士は強い。だが、蓋を開けてみればどうだろうか? 誰も死んでいない。煙の騎士程の戦士であるならば、確実にトドメを刺せる機会は幾つもあったはずだ。

 スタミナが回復すれば、いずれは参戦するだろうミスティアを仕留める手段もあった。幾ら闇は無効化できるとしても、広範囲攻撃までは防ぎきれない。ボス部屋全体を射程に収める多数の火球攻撃などを使われたら、ラジードはともかく、スタミナ切れのミスティアは躱しきれない。

 ラジードの背後……ボス部屋の出入口を覆っていた煤が崩れ落ちる。侵入することは出来ても、脱出することは許されなかった壁が消える。

 ボス部屋からの退却許可。ボスのHPバーの減少や特定部位の破壊など種類は様々であるが、最もメジャーなのが時間経過である。

 

「貴方達は……もしかして……最初から……」

 

 消極的かつトドメを刺さない戦法。その理由が『ラジード達を生かしたままボス部屋から脱出させる』為だったとするならば、辻褄が合うのだ。

 あり得ない。そんな事があるはずもない。否定したいはずのラジードは、降り注ぐ赤い光……システムエラーの輝きに、彼らはプレイヤーと同じようにDBOの理不尽さに反逆をしていたのかと思い至る。

 侮辱のつもりか。ラジードは耐えがたい怒りを覚える。

 煙の騎士は間違いなく本気だっただろう。ラジードは剣を通して彼が手を抜いているとは感じ取れなかった。特に最後は生死をかけた命懸けの気迫があった。だが、同時に煙の騎士は何としてもラジード達を『生かす』という覚悟を持って戦っていたのだ。

 殺すわけはいかない。誰かが死ねば、もはや退くことは出来ないのだから。

 この戦いを無事に切り抜ける最大の障害。それはラジード自身だった。ラジードの不屈の闘志と皆を守りたいという意思こそが、約束された生から遠ざけていた。

 こうして瀕死の煙の騎士が得物を手放しでもしない限り、ラジードでも信じなかっただろう。プレイヤーとモンスターは殺し合う関係が当然であるからこそ、言葉を交わしても理解し合えなかっただろう。

 

『ごめん……なさい。私では……今の私では……ボス部屋の入退管理にまで……影響を与える事が……出来なかった。妨害……されていて……まさか、デュナが……ううん、貴方達に罪はない。貴方達は……「正しい事」をしている……から』

 

 そうだ。僕は正しい! プレイヤーがモンスターを倒すのは当然の権利だ! ラジードは奥歯を噛み、完全な勝利の為に剣を振り下ろすことを望む。

 

 

 

 

 

 

 

「帰ろう。僕たちは……『何も見なかった』」

 

 

 

 

 

 

 

 致命的な精神負荷の受容を停止し、ラジードはバランスを崩す。それをギリギリでスタミナが回復したのだろう、ミスティアが支える。

 

「相変わらず甘ちゃんだ。でも、それが隊長の判断なら……従う」

 

 泣きじゃくるミリアの傍らで寝そべっていたマダラが上半身を起こし、ラジードに同意する。彼からすれば、少数によるネームド討伐という大功績を不意にする行為どころか、文字通りの決死の戦いに無意味の烙印を押されたに等しい。だが、マダラはラジードが選んだならば従うと、何処か満足そうに頷いていた。

 

「ミリーも……それでいいかい?」

 

「納得はできない、けど……でも、2人がそれでいいなら……」

 

 最も苛烈に戦ったマダラとラジードを交互に見て、自分の危機よりも2人が傷ついたことが許せない様子のミリアだったが、そんな2人が是とした判断に同意しないわけにはいかないと頷く。

 

「ミスティアは――」

 

「アタシにそれを訊く? もちろん、いいよ。アタシたちは『何も見ていない』。それでいいんだよね?」

 

 むしろ、ミスティアはラジードの判断を後押しするように、涙で濡れた満面の笑みを咲かせる。

 ここでボスを見逃したとしても、黒霧の塔は稼働している以上、いずれはボス攻略部隊が派遣されるだろう。さすがにラジード達にはそれを止める術がない。だが、少なくとも時間は稼げるはずだ。

 DBOのシステムに反逆した煙の騎士と煤の花嫁。彼らならば、その僅かな時間で運命を変えられるはずだと信じられた。

 

『ありがとう。私達は……ここを去る……追手は来るだろうけど、きっと……きっと、逃げ切って見せる』

 

「感謝する、勇猛なる戦士よ。貴公の名誉を損なわぬ為に言わせてくれ。私は本気だった。たとえ、ナドラとの誓いで貴公の命を奪わぬ覚悟があったとしても、持てる剣技の全てを出し尽くした。騎士として、戦士として、貴公の武勲を讃えたい。ナドラ、頼めるか?」

 

 煙の騎士は傍らに置いていた特大剣をラジードに差し出す。煤の花嫁は剣に手を添えれば、青い光がまるでスキャンするように通り抜ける。

 

『本来は、「煙」のソウルから創造できる……剣。これは能力を宿していない……けど……それでも……受け取って』

 

 得られたのは【煙の特大剣】というストレートなネーミングの特大剣だ。煤の花嫁の説明通り、特殊な能力は無い。だが、高い攻撃力と耐久度を誇り、純粋な物理属性武器としてみれば、ガード性能も含めて最高峰だ。

 本来ならば、この剣に煙の騎士が使った闇を含んだ炎などの特殊能力が追加されていたのかもしれないと思うと、どれだけの強武器だったかは明らかだ。弱体化しても特大剣でも他の追随を許さぬ性能からも、煙の騎士の強さが窺える。

 経験値は得られず、アイテム消耗と傷ばかりを負った。だが、ラジードは初めてでありながら手に馴染んだ退魔剣・影喰、煙の特大剣、煙の騎士との戦闘経験、そして何よりもミスティアや仲間との絆を確固たるものにできたと、それで良しとする。

 いいや、それは言い訳だ。ラジードは今にもブレーカーが落ちて眠ってしまいそうな意識をギリギリで保ちながら、湧き出す怒りの中の本心を探す。

 仲間を傷つけられた怒り。煙の騎士の本意に対する戦士としての怒り。この戦いで何度も味わった己の未熟さに対する怒り。だが、そんな怒りに埋もれていても、今ここで煙の騎士と煤の花嫁を見逃すことを是としたのは、他でもない魂から湧き上がる切なる想いがあるからだ。

 それはまだ言葉にすることが出来ない。だが、この気持ちこそが己を定義するものであるならば、あのまま煙の騎士を斬っていたならば、ラジードは2度と後戻りはできない修羅……いいや、暴力に呑まれた畜生となっていただろう。

 デーモン化制御時間がリミットギリギリとなって点滅している。デーモン化を解除したラジードは、ミスティアが止めてくれていなければ精神だけではなく、プレイヤーからモンスターへと変じて大切な人々を傷つけていたかもしれない恐怖心を抱く。

 

『ありがとう……勇敢にして優しい剣士。貴方の進む道に……幸福があらんことを……願っています』

 

 煤の花嫁を傍らに、煙の騎士は消え失せる。特大剣がその場に突き刺さり、再びこの地にプレイヤーが踏み入るまでスリープモードで待機するのだろう。

 

「JJとソルトも合わせて口裏合わせ。オマケに報告書には虚偽を記載。他も合わせれば、軽く7つは規定を破ることになりますね。バレれば追放処分どころか反逆罪で投獄もあり得るかと。よしんば上手く切り抜けられたとしても、武装もアイテムも大幅に消費とは、しばらくは笑い者か。評価も落ちるし、隊長もこの様で戦線復帰はしばらく後となると、重要任務はお預けだ」

 

「め、面目ない。何処かで……埋め合わせは……するよ」

 

 マダラはミリアに、ラジードはミスティアに肩を貸してもらいながらボス部屋から抜け出す。モンスターは不自然な程に出現しないのは、煤の花嫁が何かしらの工作をしているからなのかもしれなかったが、ラジードにそれを事実と特定できる要素はなく、だが不思議と心は何にも恐われる心配が無いと確信していた。

 だからこうして軽口も叩ける。皆が生きているからこそと思えば、ラジードはマダラの苦言に対して素直に謝罪する以外のリアクションを取れなかった。

 

「生きてるだけ儲けものだよ! マダラは出世欲強過ぎ! それなのに……さっきは……」

 

「仲間を助けるのは隊員として当然の義務だ。それが隊長なら尚更だ。俺は副隊長だからな」

 

 言葉の尻を濁らせるミリアに、マダラは鼻を鳴らすも途端に頬を朱に染める。

 

「お、お前も……何を考えているんだ? ひ、ひひひ、非常事態だったとはいえ……く、口移しなど……」

 

「ひぎゅ!? あ、あれは無し! ノーカン! 人工呼吸と同じだから!」

 

 口移し? 人工呼吸? 自分が煙の騎士と死闘を演じている間に、この2人には何があったのだろうかとラジードは疑問を抱くも、ミスティアに横腹をつねられて無粋な問いを言葉にすることは無かった。今この瞬間の甘酸っぱい空気を守れという恋人からの厳命である。

 無事にリフトに到着し、ラジードは4人全員無事であったことに改めて安堵の息を漏らす。そもそもとして煙の騎士にこちらを殺害する意図は無く、むしろ穏便に済ませる最善手を打ったのだろうが、プレイヤーとモンスターという避けられない敵対関係が望まぬ戦いを生んでしまった。

 いいや、違う。ラジードは改めてDBOの日々を振り返る。プレイヤー間の闘争ばかりではない。ラジードがこれまで倒したモンスターたちも、煙の騎士と同じように戦いを望まない者もいたはずだ。

 ダンジョン潜って最奥の怪物を倒す。そんなありきたりのストーリーであっても、怪物を討伐せねばならない理由がそこにあるだろうか?

 王国を滅ぼそうなんて考えておらず、穴倉でひっそりと生きているだけのドラゴンを倒すことに名誉があるのだろうか?

 正義とは己の心が見定めるものであるのか? それとも社会や法、集団心理が定義するものなのか?

 煙の騎士との戦いを通じて、ラジードは改めて迷う。そして、迷うことは悪ではないのだと、煙の騎士達を見逃した結末に何よりも満足している心で理解する。

 

「でも、本当に良かった。ラジード君が止まってくれて……本当に良かった」

 

「ごめん、心配をかけた」

 

「ううん、謝らないで。あの時、間違っていたのは絶対にアタシなんだから。皆を守る為に戦ってくれていたラジード君を責める権利なんてない。でもね……それでもね……ワガママだと分かってるけど、それでも……」

 

 ミスティアも心の整理がついていないのだろう。曖昧な笑みを浮かべるばかりだ。

 命懸けの死闘の中でこそ人間の本性は露となるならば、あの戦いにおいて誰もが己の真実と向かい合ったのかもしれないとラジードは考える。

 マダラを生かそうと手を尽くしたミリア。

 死にかけても仲間の為に駆けつけたマダラ。

 ラジードが自分を捨ててまで戦おうとする様を見過ごせずに止めたミスティア。

 

(僕は……僕は……煙の騎士を……『殺したくなかった』んだ)

 

 だからこそ、最後に剣を止めることが出来たのだ。

 見本となった多くの強者達。彼らを倣い、必死になって『力』を身につけた。それは確かに煙の騎士に届いた。

 だが、それだけでも駄目なのだ。たとえ、誰かを泣かせたとしても皆を守りたいと望む反面、彼らの笑顔も守りたいとラジードは強く望んでしまっている。

 再び同じような場面に遭遇した時、自分はどのような判断を下すのか、今のラジードには分からない。もしかせずとも、その時はミスティアが望まない結末を選ぶのかもしれない。

 だが、今回の選択は確かな礎となり、心を支え続けるだろうという確信もあったからこそ、ラジードは不安こそあっても前に進める意思を持てた。

 

「しかし、【渡り鳥】も無事だといいのですが」

 

 と、そこでマダラの一言でラジードの全身を浸していた安堵は、津波の前触れのように引いた。

 その通りだ。煙の騎士との死闘ですっかり頭から抜けてしまっていたが、ラジード達はマルドロの策に嵌まったせいでこのような事態に巻き込まれたのだ。

 クゥリが負けるとは考え難いが、噂通りならばマルドロはPKに特化した戦術を駆使するはずだ。さすがのクゥリも苦戦、ないし危機に陥っているかもしれない。

 だが、肝心のラジードは致命的な精神負荷の受容の影響でまともに歩く事すらできない。マルドロ相手に立ち向かうことはほぼ不可能どころか、無事にダンジョンから脱出できるかも怪しい。

 マダラも平然のように振る舞っているが、片腕・片目を失った挙句に全身傷だらけの穴だらけだ。むしろ、このようなあり様であのモンスターの包囲網から生還した挙句に援護するなど、本来ならば上層部から大絶賛される武功である。そんな彼に今からクゥリの救援に向かって欲しいなど口が裂けてもお願いできない。

 

「まずはJJさん達と合流しましょう。【渡り鳥】さんの救助はその後よ」

 

 ミスティアも放置できない案件であると厳しい表情で告げる。

 何はともあれ、JJ達と合流してモンスター侵入不可エリアに負傷者を預けることが先決だ。それがミスティアの判断であるならば従うとラジードは頷く。この状況で恋人の安全を優先して友人を見捨てるという選択肢はラジードに無かった。

 リフトが昇り終え、4人は周囲を警戒しながらモンスター侵入不可エリアに待つJJ達の元へと向かう。

 ハニーソルトはまだ動けないとして、JJは泣いて喜ぶか、それとも小言を並べるか。どちらにしても最後は生還を讃えてくれるだろうと予感し、ラジードは笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ラジードを迎えたのは、モンスター侵入不可エリアを真っ赤に染め上げた血の赤色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体何が起きた? 愕然とするラジードは、血の海で倒れ伏すJJとハニーソルトの元へと駆けようとする。制止するミスティアの腕を払い除け、まともに立つことも出来ない体は倒れ、だがそれでも這って彼らに近づく。

 

「JJ……ソルト……!」

 

 うつ伏せになったまま動かないJJの体に触れ、ラジードは奥歯を噛みながら、その上半身を抱き起こす。折れた左腕からもたらされるダメージフィードバックを堪えながら、目を見開いたまま硬直したJJに、涙を零す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大天使クゥリエル様……万歳。我、天啓を……得たり。然り! 然り! 然りぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、突如として発狂して具現された至福……要は鼻血をオーバードソードスキルなのではないかと思うほどに放出し、生存を示すカーソルをしっかりと表示したJJは、その面影も見ることもなく幸福なる絶頂の表情のまま気絶した。

 顔面から鼻血を浴びたラジードは、目を白黒させ、両腕で何とか赤色を拭き取る。

 

(興奮の過剰表現の鼻血ってここまで凄いんだなぁ。あ、この鼻血って通常の出血表現と違って数十秒で消えるんだ。そうだよね。当たり為だよね。はは、ははは……はははは!)

 

 色々と認めたくない頭が理解を拒み、ともかくJJは無事だと安心感と同時に、連れ添った仲間が決して戻って来れない秘境に旅立ってしまった寂しさを覚えながら、ラジードは同じく恍惚の2文字を顔面に張り付けて痙攣するハニーソルトの無事をとりあえず確認したミスティアと顔を向かい合わせる。

 と、そこでラジードは背後に気配を感じ取って振り返る。それに釣られて他の面々も同じく視線を1点に集中させる。

 それは≪消音≫スキルを使っていたのではないかと思うほどである。だが、それは自前の技術であると示すように、ラジード達に近寄る頃には安心させるようにブーツの足裏を擦る。隠密ボーナスの高さもあるかもしれないが、それ以上にシステム外スキル≪忍び足≫が抜きん出ているのだ。

 ラジードが目撃したのは、激戦を超えた証明のように解かれた白髪のロングヘア。シルクという表現すらも足りない、どれだけのコルを積めば購入できるかも分からない髪質……いいや、本人の持つ美貌があるからこその麗しさを得た白色に魅入られる。

 

「無事だったんだな。彼らの介抱も終わったので最下層に行こうかと思ったから、戻ってきていたオマエが目について、声をかけようと思ったんだけど、大声を出してモンスターを引き寄せてもつまらないしな」

 

 マルドロとの戦いで負傷したのか、左腕を動かす様子もなく垂らしながら、灰白のコートを揺らして白の傭兵は右手を己の胸に添える。その仕草1つで生まれからして異なると露にするように気品があり、また心を揺さぶ艶やかな色気がある。

 安心を示す微笑みは無条件で癒される慈悲そのものであり、まるで母の懐に帰ったようだった。赤が滲んだ黒の……どれだけメイキングしても到達できないと確信できる不思議な瞳は、いかなる感情を宿しているのかも分からない静謐でありながら、そこに闇を照らす篝火のような温もりを見せる。

 

「本当に……無事で良かった」

 

 軽く体を傾かせて生存の安堵を伝えるクゥリを見た瞬間、ラジードの意識をYARCAの『漢』の背中が埋め尽くす。

 亡きタルカスがブーメランパンツ1枚の姿で、マッスルポーズを決めながら、超えてはならない境界線の向こう側で誘っている。

 

 

『我々の熱情と信仰! その全てが等しく【渡り鳥】ちゃんにあるのだ! 尊き御身にこの魂を捧げん! さぁ、共に叫ぼう! 然り! 然り! 然り!』

 

 

 させるものかぁああああああああああああああああああああ!? 思わず合唱しそうになったラジードは、ダメージが発生する程に額を地面に叩きつけて精神を保つ。

 危うかった! あと1秒……いや、コンマ1秒……否! 否! 断じて否! 刹那で判断が遅ければ『あのように』なっていただろう。

 

「然り! 然り! 然りぃいいいいいいいいい!」

 

「然り! 然り! 然りぃいいいいひぃいいいいはぁああああああ!」

 

 JJとハニーソルトは全くの同タイミングで、まるで何十年とアイドルを追っかけ続けた熟練のファンの如く、一心同体となってYARCA合唱をする。

 

「違う。俺はノーマル。ノーマル……ノーマル? ノーマルってなんだ? そもそも【渡り鳥】って本当に男? オトコ? 性別って何? 美味しいの? そんなの関係ない。【渡り鳥】は【渡り鳥】であって、【渡り鳥】ちゃんは大天使クゥリエルであって、だから……えーと……あれ? あれ? あれぇえええ!?」

 

 ラジードと違い、自らにダメージを与えて正気を保つという判断に遅れがあったマダラは、額から血を垂らしながらも譫言を繰り返している。辛うじて最後の境界線を踏み越えずに済んでいるのは、JJとハニーソルトの狂気の熱狂があったからこそだろう。

 お、おかしい! よく分からないけど、今のクゥリはおかしい! ラジードは煙の騎士以上の脅威を覚える。

 そう、それは言い換えるならば、ギャルゲーで選択したヒロイン攻略に邁進して個別ルートに入ったと思ったら、悪役として登場したラスボスが魅力的過ぎて心奪われてヒロインなんてどうでもよくなった。そんな細か過ぎる脅威だった。

 いつもは結われている髪が解けただけだ。たったそれだけのはずだ。だが、オーラが違う。ある種の神々しさがある。クゥリを本能的に注視してしまうのだ。それは天敵の捕食者に遭遇したが故に、一挙一動を見逃さないという生命存続のための爆発力と全く等しい! そして、それが逆に精神を蝕み、心を呑み込み、YARCAの真理への啓蒙をもたらそうとしているのだ。

 タルカス、恐ろしき男! ラジードは改めて最強の特大剣☆使いに敬意を覚える。彼の存在そのものがYARCAの真理として全プレイヤーに啓蒙の施しを与えていたのだ。

 タルカス死してもYARCAは死なず。ラジードはミスティアへの愛を頭と心と魂で何度も復唱し、またこれまでの砂糖とハチミツたっぷりの甘々恋人DAYSを振り返ってYARCAの誘いを退ける。

 

「……【渡り鳥】きゅん。まさにエンジェル☆プリティ☆スイーツ……って、え? へ? あれぇえええ!?」

 

「アタシはラジード君が好き。ラジード君が好き。ラジード君が好き! え? ラジード君へのLOVEとYARCAの真理は共存できる? そう? そうなの!? ち、違う! アタシを誘うな! おのれ、タルカス! アタシのラジード君へのLOVEは本物なんだから! 絶対に【渡り鳥】さんのミニスカアイドル衣装姿が見たいとか、そんなこと思ってないんだから! 本当だからね、ラジードくん!?」

 

 若干の鼻血を垂らしたミリアと半ば壊れて狂乱するミスティアに、女性も区別なしとは恐れ入るとラジードは戦慄する。思えば、男性メンバーばかりが目立っているが、俗に言う女性メンバーも地味に多いと聞いていたが、こういうことだったのかぁ、と太陽の狩猟団のエースは額の傷口に指を突き入れて正気の鍵をかけ直す。

 狂いに狂った3番隊の面子に、最も動揺している素振りを見せたのが、他でもないクゥリであり、彼は困惑した様子で顎を撫でて深刻に考え込む。

 

「やはり『連中』による精神攻撃か。味な真似をしてくれる」

 

 違うよ? キミからの精神攻撃だよ? ラジードは友情があったからこそ、発言をギリギリでストップさせる。

 その後、興奮し過ぎた精神に意識が耐え切れずにシャットダウンしたのか、それとも『革新』の為のチャージタイムなのか、気絶したJJやハニーソルトを横に並べ、ラジード達は一息吐いて改めて治療と休養、そして情報交換を行う。

 

「そっか。マルドロは倒したんだね」

 

「ああ。それなりに手古摺ったが、あの通りだ。証拠も持ってきた」

 

 布に包まれたボール状の物体……部屋の隅に置かれたマルドロの首を指差し、クゥリは特に何事も無かったと言うように左目を覆う眼帯を撫でる。座る彼の背後では、ハァハァと息を荒くしたミリアが、今にも舐め回しそうな程に涎を垂らして白髪を結っている。

 

「そっちはボス戦か。煙の騎士……ね。オマエも『色々』あったみたいだな」

 

「うん。僕は彼らを見逃したい。時間さえあれば、彼らも抜け出せる策があるみたいなんだ。どれだけの時間が必要なのか分からないけど、ともかく上には何も発見できなかったって報告するつもりだよ」

 

「だが、もう塔は稼働している。これだけの大音量だし、動き出したリフトを見れば、オマエが虚偽報告したとしても、明日には最深部の調査隊が送り込まれるぞ」

 

「何とか止められないかな? ミスティアはどう思う?」

 

 自分とクゥリだけでは知識も知恵も足りない。意見を求められたミスティアは、何処かぎこちない視線で白の傭兵に数秒だけ視線を向け、その後にじっくりとラジードの横顔を見つめた後、右手の人差し指を立てた。

 

「アタシたちは最下層のマップデータがある。そこで偶然にボス部屋を発見するも『別のギミックを解除しないとボス戦は始まらない』という虚偽の報告をする。まだ可動したばかりのリフトで行ける新エリアはほとんど未探索だし、そちらの調査に意識を向けさせれば、少しは時間を稼げるかもしれない」

 

 だが、ミスティアの言葉のキレが無いように、ほとんど効果が無いのは明らかだ。

 ラジード達がそのような報告をしても、最深部への調査隊の派遣はまず間違いなく行われるだろう。そうなれば、ラジード達の虚言はバレる。時間稼ぎにもならない。

 

「じゃあ、もうボスを倒しちゃったことにしたらどうですか?」

 

 奇麗に1本に結われたクゥリの白髪を手に満足した様子のミリアの発言に、それも1つの手かと思うも、距離を置いて壁にもたれて腕を組んでいたマダラが馬鹿にするように溜め息を吐いた。

 

「隊長が入手した煙の特大剣だけでは証拠にならない。ログを確認されたら、煙の騎士を撃破していないことがバレる。そもそも、ダンジョン帰りはログの提示が義務になっているはずだ」

 

 

 経験値やドロップアイテムは最大で72時間分までログが残るのだ。探索任務帰りでは提示が不可欠である。これはドロップアイテムの隠蔽・横流しを防止するためである。無論、意図的にログを部分消去することで工作することは可能であるが、この場合は煙の騎士を撃破したという証拠が必要であるので、むしろ『追記』が必須だ。

 煙の特大剣はイベント入手扱いであり、これでは煙の騎士の撃破の証明にならない。また、そもそもとして煙の騎士を撃破した証拠を提示できたとしても、どちらにしても調査隊は送り込まれるのだ。まともな時間稼ぎにはならないだろう。

 想像以上に困難な仕事を請け負ってしまった。頭を抱えるラジードに、ミスティアは渋々といった様子で嘆息する。

 

「マルドロの件を『大火事』にする。これなら何とかなると思うよ。黒霧の塔は太陽の狩猟団の完全独占。出入口も1つしかない。だけど、ターゲットは誰であったとしても『3番隊が被害を受けた』事実は変わらない」

 

「今回の事件が裏切者探しに止まらず、派閥争いに利用されるのは当然ですが、敢えてマスコミにリークして、外にも火種をばら撒こうという腹ですか。上手く誘導すれば、黒霧の塔をしばらくアンタッチャブルの扱いに出来る。いや、リスクマネジメントを考慮すれば、ミュウ副団長のことだ。まず見送るでしょう」

 

「ええ、その通りです。いくつかの報道ギルドには伝手があります。【暗殺者】マルドロの死と3番隊の被害、絶好のネタになるでしょう。聖剣騎士団も喰らい付いてくるはずです。外圧も利用して黒霧の塔を争点として問題を起こします」

 

「ですが、それこそ明日までに最低限の情報を出回らせないといけない。それだけの情報操作はどうやって? 情報操作に長けた暗部は副団長の直轄ですよ?」

 

「……秘密は無しにしましょう。アタシには【Mr.R】とパイプがあります」

 

「【Mr.R】……なるほど。自由開拓戦線設立を裏から糸を引いていたという闇情報ブローカーの大物ですか。暗部もまだ特定できていないはず。まさかミスティアさんに伝手があったとは」

 

「直接の面識はありません。ですが、あちらから接触がありまして、連絡手段があります」

 

「それを報告していない……と。今回の件が無くとも、反逆行為に手を染めていたとは」

 

「あら? わざわざ『ストーカー被害』を報告しろと? 仮にも太陽の狩猟団の名を背負うトッププレイヤーの1人として、ストーカー被害1つで暗部の方々までお騒がせするなんて恥知らずな真似は控えただけのことです」

 

 え? 何これ? このハイレベルな会話は何? クゥリと並んでラジードは、ミスティアとマダラの間で繰り広げられる今後の暗躍の会話にまるでついていけず、一緒になって首を横に傾げる。

 政治に興味など無いが、もちろん政治が出来るタイプでもない。それがラジードである。馬鹿正直で正義感の強い好青年。だからこそ、人々の信頼を集めた男である。

 

「えーと、つまりは下手したら謹慎処分どころか、裁判なしで……なーんて事をしようってことですよね?」

 

 青ざめた顔をしたミリアに、ミスティアとマダラはその通りだと肩を竦める。途端に泣き顔になった彼女に、ラジードはさすがに綱渡り過ぎないかと不安になる。

 

「ラジード君が諦めてどうするの? キミが『やる』って決めたなら、アタシたちは全力でサポートする。だからキミは胸を張って口裏合わせだけに集中して」

 

 その通りだ。適材適所である。発端である自分にはそれしか出来ないことに無念と気恥ずかしさを覚えながら、JJとハニーソルトは従ってくれるという仲間への信頼があるとして、包み隠さず一連の内容と今後の方針を聞かせたクゥリの反応を待つ。

 ラジードの視線の意図を察したのだろう。クゥリは新しく編まれた三つ編みの毛先を右手で弄る。

 

「オレの仕事は『黒霧の塔の探索』以上でも以下でもない。オマエの選択にとやかく口出しする必要性もない。オレは『オレが成した事』をそのまま報告するだけだ。オマエの企みには関与しない。そもそもオレの依頼主は『太陽の狩猟団』だ。そこにはオマエも含まれている以上、情報隠蔽もオーダーの範囲内だ」

 

「素直じゃないな。つまりは協力してくれるって事だよね?」

 

「……好きにしてくれ。どうでもいい」

 

 頬を少し赤らめて顔を背けたクゥリに、本当に素直ではないとラジードは苦笑する。

 

「それにしてもクゥリの薬は凄いな。もうマダラも治ったよ」

 

「……腕のいい薬師がいるからな」

 

「そっか。この薬は……秘密にしておくよ。協力してくれるキミに、僕からの個人的報酬として受け取ってくれ」

 

「協力はしていない。傭兵として真っ当に仕事しているだけだ」

 

「そういう事にしておくよ」

 

 クゥリが提供してくれた再生薬のお陰で、マダラもソルトも欠損部位の再生は完了している。驚きの再生速度であり、同じく投与されたラジードの左腕も修復されている。

 だが、致命的な精神負荷の代償として、まともに歩くことも出来ないラジードは、脱出までクゥリの肩を借りることになった。彼も左腕は動かないが故に、お荷物同士で組むことになったのである。

 

「マダラ、報酬には期待していますよ」

 

「……嘘はつかない。だ、だが! もう少しタイミングを見てからで――」

 

「駄目です。脱出したら、ちゃんとお願いしますね?」

 

「ぐっ……! 分かった! 契約は守る! だから……少し覚悟の時間をくれ」

 

 ラジードの知らないところで、クゥリとマダラの間では何かしらの取り決めがあったのだろう。クゥリからの意味深な要求に、マダラは顔を真っ赤にしながら、横目でミリアを意識する。

 帰るまでがダンジョン攻略であり、クゥリ曰く暗殺の危機は去ったとはいえ、モンスターは依然として出現する。だが、死線を潜り抜けて成長したマダラ、絶好調のJJとハニーソルトの活躍により、ミスティアがほとんど出る間もなくモンスターは次々と討伐されていく。

 色々とあったが、皆が無事で良かった。ラジードは隊に変態が2人もいる現状から目を背けながら、心より誰1人として欠けることなく無事に帰れることを喜ぶ。

 

「……オマエが何をしたのか、オレは敢えて聞かない。だけど忠告はする。『使い過ぎるな』」

 

「そうだね。前に……スミスさんにも……同じことを言われたよ。でも、後悔はない。僕は……『守りたい』っていう本心に……従ったから」

 

「そうか。オマエは『強い』な」

 

 自分より背が低く、また小柄なクゥリはラジードの歩き易さを重視した落ち着いた足取りでダンジョンを進む。

 口ではあまり分からないが、本当は驚くほどに気配りをしてくれる。それがクゥリだ。だからこそ、ラジードは彼のお陰で多くの『力』と『強さ』を学ぶことが出来たことを感謝する。

 夕陽が奇麗だ。間もなく訪れる夜の予感と共に、黒霧の塔の出口が目に入る。

 

「1つお願いがあるんだ。僕に影喰を譲って欲しい。もちろん対価は支払うよ」

 

「構わない」

 

「キミは……本当に無頓着だね」

 

「オマエの方が相応しいと思ったからな」

 

 影喰の対価は正当に支払ってもらえるように、上層部……特にミュウに掛け合わねばならないだろう。ラジードは背負う影喰の能力のお陰でまた1つ強くなれた。多くの大事なものに気づくことが出来た。たとえ戦わずとも本当はよかったとしても、煙の騎士との死闘がなければ見えなかった大切な真実があった。

 

「理不尽な死の運命を『敵』に押し付ける。より大きな『力』で……暴力で『敵』を殺す。それが正しいのかもしれない。それしか大切な人たちを守る方法は無いのかもしれない」

 

「…………」

 

「でもさ、僕は……『敵』も救いたいって……思ったんだ。ううん、ちょっと違うか。目の前にいる『敵』が本当に『敵』なのか……ちゃんと見極めたいんだ。立ち塞がるなら、危険を感じたら、誰であろうと倒すのではなく、ちゃんと……自分の心で『敵』は決めたい」

 

「…………」

 

「分かってるさ。こんな考えだと、いつか仲間を喪うことになる。ミスティアを死なせることになる。でも……それでも……ギリギリまで僕は迷っていたいんだ。皆が信じてくれる『僕』であり続ける為に……さ」

 

 その為に退魔剣・影喰が必要なのだ。最後の瞬間まで迷う為の『力』が欲しいのだ。身勝手なお願いであり、またクゥリが教えてくれた仲間の守り方に反する意見であるが故に、彼の反応を予想できた。

 失望や諦観。そんな乾いた感情が示されるのだろうと覚悟した。

 

「そうか。オマエが望むなら、それでいいさ。いいや、それでこそ『人』らしいのかもしれない」

 

 だが、いずれでもなく、優しい声音には微かな喜びがあるように感じられ、ラジードは目を見開く。

 夕陽で顔の右半分だけを照らし、眼帯をつけた左半分を闇で染め、クゥリは穏やかに……今まででもっとも強くラジードの心を掴み取る微笑みを美しく描いている。

 

「オマエの信じた道を貫けばいい。それが『答え』なら、何があろうとオレは認める。たとえ、オマエが選んだ道の末でオレが『敵』になったとしても、全力で……オマエを殺してやる」

 

 相変わらず物騒な物言いだ。だが、過去最大の敬意を払われたような気がして、ラジードは擽ったい気持ちになる。

 クゥリは独立傭兵だ。ならば、いつかは戦場でラジードと戦うような事があるかもしれない。

 その時になってラジードは選ばねばならないのだろう。迷い抜いた末に、クゥリを『敵』として倒すか否かを定めねばならないのだろう。そして、どんな選択肢を選んだとしても、クゥリは全力でラジードを『敵』として殺しにかかるはずだ。

 クゥリはその1点において決して迷うことが無い。それは奇妙な信用であり、故にラジードはそんな未来が訪れて欲しくないと願う。

 

「甘いって嗤われるかと思った」

 

「嗤って欲しいか?」

 

「いいや、止めておくよ。キミに本気で嗤われたら、それこそ心が折れそうだ」

 

「軟弱者め」

 

「それでいいよ。そんな情けない姿も含めて『僕』なんだろうなって……今は思えるからさ」

 

 その後、無事にラジード達は黒霧の塔から脱出した。

 JJとハニーソルトは無駄に極まったマッスルポーズを決めて喜びを表現し、ミスティアは泣きながらラジードを抱きしめた。

 

 

 

 

 そして、マダラは突如としてミリアの両肩を掴み、何の前触れもなく、だが夕陽以上に真っ赤に顔を染めて、愛の告白をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果は玉砕。マダラの恋は夕陽と同じくらいに鮮やかに沈んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 グリセルダは苦労人である。

 何のトラブルも起きるはずがない、接待同然の未攻略ダンジョンの探索依頼。だが、蓋を開けてみれば、同行していた3番隊はボロボロ、実行犯の暗殺者は返り討ち、オマケとばかりに『偶然』にも発生したイベントでネームドを単独討伐という濃厚な結果である。

 同行した3番隊にはネームドの単独討伐について伝えなかったのは、クゥリなりの配慮……などではなく、単に『どうでもいい』という判断で後回しにされたからに過ぎない。仕事から戻って来るなりに呼び出された挙句、『ネームドを単独討伐してソウルもドロップしたし、ラジードにソウルウェポンを譲ったから対価も含めてミュウと交渉したいのでヨロシク』と丸投げされたグリセルダの心中は、如何様なものだったかは言うまでもない事だろう。

 同席を求めたクゥリであるが、事態を混乱させるからという切実な願いの下でグリセルダは却下し、単身でミュウとテーブルを挟んで協議に臨んでいた。

 

「こちらとしては、騎士アーロンのソウルも含めた全ドロップアイテムの即時『売却』をお勧めします」

 

「こんな安値で? 御冗談でしょう。ソウルの火種発見以前とは違い、ソウルの使い道は大きく増えたわ。たかだか『100万コル』で買おうなんて、市場相場をご理解されていらっしゃらないのかしら?」

 

「ですが、そちらとしても今回の『騎士アーロンの単独討伐』は隠蔽したいはず。マルドロの暗殺騒動は【渡り鳥】の策略で、本当の狙いは黒霧の塔のネームド単独撃破だった、などという根も葉もない噂が広まる……なんてこともあり得るでしょうしね」

 

「そうね。そんな根も葉もない噂が真実のように『不自然なほどに広まる』なんて、そう簡単にあり得るとは思えないけど、こちらとしても警戒には値するわ」

 

 にっこりVSにっこり。グリセルダはアップにした黒髪を撫でながら強気に笑み、ミュウは薄紫色の髪を弄りながら眼鏡を光らせる。間に挟まれた、今回の報酬調停を行うサインズの職員は顔面蒼白で直立不動である。

 

「だけど、この2ヶ月でクゥリ君の戦力価値にも疑いが生じているわけだし、元より悪名はあるのだから、いっそネームド単独討伐という箔でもつけて、次回の傭兵ランクで上位を狙うのも面白いかもしれないわね」

 

「あら? グリセルダさんはそのようなリスクを取られる方とは思いもよりませんでした」

 

「博打の無い人生なんてつまらないじゃない」

 

「ええ、仰る通りです。ですが、あくまで余裕のある範囲での博打が面白いのであって、人生そのものをチップにした博打はただの破滅願望に過ぎませんが」

 

「成功者は等しく人生を賭けたギャンブラーよ」

 

「これは1本取られましたね」

 

 ふふふふふふふ! 互いに笑い合うグリセルダとミュウに、今にもゲロを吐きそうな顔をしたサインズ職員は逃げ出そうとするも、2人は同時に眼光を注いで逃亡を許さない。

 

「そもそも太陽の狩猟団の依頼基本規定として『ドロップアイテムは全て依頼主である太陽の狩猟団に譲渡する』とあります。こちらは『売却』を持ちかけている分だけ有情であるとご理解ください」

 

「そうねぇ。でも、今回の依頼は『探索』よ。依頼内容にネームド戦は含まれていないわ。あらぁ? 面白い記述もあるわね。『本探索におけるドロップアイテムの所有を認可する』ですって! ネームドからのドロップアイテムは例外なのかしらぁ? それなら依頼内容の虚偽で損害賠償をもらおうかしら」

 

「我々は『探索』を依頼したのであって、『ネームド討伐』まで要求した覚えはありません。むしろ、本来得られたドロップアイテムも失われた太陽の狩猟団としては、損害賠償を起こしてもよろしいのですが?」

 

 ネームドを単独討伐すれば経験値とコルは総取りであるが、ドロップアイテムはそうもいかない。確定ドロップは確実に入手できるが、それ以外のアイテムはプレイヤーの貢献度とドロップ率……主にリアルラックが試される。

 戦闘に余裕がある場合、ラストアタックが見え始めた頃にドロップ率を高めるバフをかけておくのは定番だ。ネームド戦ではそのような余裕など滅多に無いが、ドロップ率を高めてレアアイテムを狙うのは普通である。

 そして、討伐したネームドによって得られるアイテム数の上限は決まっているが、余程の特殊なネームドではない限り、どれだけ戦闘に貢献しても、どれだけリアルラックが優れていても、どれだけドロップ率を引き上げていても、12個が限界と大ギルドは見ている。逆に『ネームド型トレジャーボックス』とも呼ばれるアイテム大量放出型の場合、1人が何十個とアイテムをゲットできる。尤も、アイテムストレージも有限である以上、逆に何十個もドロップしても迷惑になるのが実状であるが。

 ドロップ率アップを行っておらずとも、ある程度の貢献度を稼いでさえいれば、5個は確実にレアアイテムが入手できるのがネームド戦だ。最大のお目当ては確定ドロップであり、その中でもランク付けされた最高位のもの……ユニークソウルなどがラストアタックボーナスを決めたプレイヤーに分配されるのが常である。

 つまり、単独討伐したプレイヤーが得られるのは、確定ドロップアイテム全てとランダムドロップアイテム数個だけになる。そのランダムドロップ分もレアアイテムともなれば、命懸けのネームド戦に参加すれば、どれだけの実入りになるかは言うまでもない。

 無論、大ギルドとしても育成した戦力から余計な犠牲者を出してまでネームド戦に必要以上の戦力を割り当てることはない。ただ数を増やしただけでは、貢献度が足らず、ドロップ率を高めてもアイテムは得られないからだ。それどころか、貢献度はレアリティにも関与しているらしく、得られたアイテムも価値が低いものになり易いのだ。

 生存と活躍を見込める戦力最大数で派遣し、犠牲者を出すことなくネームドを討伐する。それがネームド戦における理想であるが、思い描いた通りに上手くいくならば、今頃にはDBOの完全攻略など成せているはずである。

 ネームドを単独討伐できるプレイヤーがいながら、それを最大限に有効活用しない背景には、このドロップアイテム関係に関する冷徹な計算があると理解しているのは、DBOプレイヤーでも少数である。そのほとんどはネームド戦における苛烈さと単独討伐という華々しさに目が奪われてしまうのだ。

 睨み合う事245秒。サインズ職員がいよいよ失神しそうな程にプレッシャーが室内に充満したところで、グリセルダとミュウは互いに溜め息を吐いた。

 

「……ブラフの掛け合いは止しましょう」

 

「ええ、そうね。『本当』の交渉リストを見せて頂戴」

 

 ミュウは眼鏡を外して眉間を揉み、グリセルダは額を押さえて今にも机に伏したい表情を浮かべる。

 実のところ、ここまでの舌戦は挨拶のようなものであり、テーブルにつく以前に互いの腹の内は探り終わっている。ここまでの言葉の銃撃戦は、あわよくば相手の弱みを引き出して交渉を有利に進められるかもしれないという淡い期待程度のものである。

 交渉・取引とは、テーブルにつく前段階でほぼ完了しているものであり、面と向かい合った時点では契約を結ぶだけの出来レースである。百戦錬磨の彼女たちはそれを承知している。むしろ、交渉・取引のいろはを知らない輩を相手取る方が、多くのプランを準備して望まねばならない分だけ重労働なのだ。

 無論、相手の予想外……イレギュラーを交渉の場で叩き付けて揺さぶるという戦法も存在こそするが、それはリアルヘイトを集中させて後々に報復されるリスクが伴うのでグリセルダは極力避ける主義である。だが、グリセルダ本人としては殴り合い戦法の方が得意なのは、また別の話である。

 

「こちらとしてもネームド単独討伐という箔は垂涎だけど、マルドロの暗殺未遂事件どころか返り討ちにしちゃった挙句に『宣伝向け』の3番隊に被害マシマシなんて状況はセットで欲しくないのよ。あのコは本当にやらかして欲しくない時にやらかしてくれるんだから」

 

「お察しします。こちらとしても【渡り鳥】さんとの友好は深めたいですし、彼の利用価値を高める上でもある程度の世間の正当な実力評価は欲するところですが、タイミングが悪いものですね」

 

 まるで十年来の友人のように語らう2人であるが、無論そのような温かな絆があるはずもなく、実際には裏の読み合いである。あくまで交渉において余計なストレスが無いだけであり、眼前は確固たる利害の天秤を巡った『敵』であると認識しているのだ。

 ブラフは無し。そう言った口で、今も嘘と真実を散りばめて『次』の交渉に活かす武器を手に入れようとする。抜け目のない2人の戦いに、ようやく修羅場が終わったと安堵するサインズ職員が気づかないのも無理はないのだ。

 

「しかし、こちらとしても確証が得られて何よりです。UNKNOWNさんやユージーンさんと同等のネームド単独討伐級。【渡り鳥】さんの戦力評価に間違いは無かったようですね」

 

 ミュウの発言は『そちらがネームド単独討伐しているのも以前から把握しているし、だからこそ噂が広まらないように情報操作しているんですよ?』という副音声とセットであり、これを聞き取れないグリセルダではなく、にこやかに交渉リストを確認しながら頷く。

 

「これからの独立傭兵が食べていくなら、ネームドの単独討伐くらいは出来ないとお話にならないわ。だけど、ソウルウェポンって修理が大変で困るのよね。素材の調達1つでもコストがかかって、もう大変よ。独立傭兵のつらいところね」

 

 こちらも『そちらが把握している以上にユニークソウルは入手しているし、他のルートで修理素材調達は可能。しかもその伝手から、ネームド単独討伐の疑惑は他にも不特定多数に植え付けている。それも含めて交渉のカードですのでお忘れなく』という無言の反撃である。

 そして、この裏のやり取りさえも、何処までが真実なのか、嘘はどれだけ混じっているのか、果てしない疑心暗鬼の下で読み合わねばならない。

 言葉の銃弾と無言の剣戟が繰り広げられる交渉の場において、政治も出来ず、取引のいろはも皆無であり、挙句に鴨葱行為を想定もしないタイミングでやらかす何処かのポンコツ過ぎる白の傭兵など、狙う側のミュウからしても困惑であるならば、守る側のグリセルダからしたら発狂ものである。

 いつの世もイレギュラーは度し難い。ここだけは理解し合えたように、何の前触れもなく、2人は嘆息を重ね合う。

 

「では、アーロンのソウルの所有権は貰うわよ。他ドロップしたレアアイテムは、ご提示していただいた金額通りに売却させていただくわ」

 

「ええ、こちらとしても、さすがに難癖をつけてユニークソウルの不当廉価での売却を迫るつもりは毛頭ありませんから」

 

 あら、嘘がお上手ね。グリセルダは契約書を隈なく確認した上でサインし、ミュウとにこやかに握手を交わす。なお、ソウル以外のレアアイテムの売却はまさしく不当廉価であり、それを呑み込んでも今回の取引は成立させる意味があるとグリセルダは判断しての事である。

 交渉を長引かせたくないのも理由の1つであるが、今回のネームド単独討伐の1件を公にせず、またマルドロの返り討ちに関して悪意ある噂を『流さない』という不文の契約料である。

 どれだけの損害を被っても必要な得を奪い取る。たとえ、額面の数字で損害が上回っても、それ以外の価値で目標とした利益を得られたならば勝利なのだ。

 金銭の数字ではなく、そうした多くの付与価値に目を向けてこそ、WinWinの関係は成立するとグリセルダは考えている。

 

「次にラジードさんの剣についてですが、ヴァルキュリア・ソードの損害補償ですが……」

 

「使用された推定素材リストの市場価格に不備でもあったかしら?」

 

「いいえ。ですが、素材リストは非公開ですので、あくまで参考程度にはならないかと」

 

「そうね。『推定』に過ぎないものね」

 

「ええ。ですが、今回の件に関しては……サンライス団長から『恩には2倍返し』という口添えもありまして……」

 

 これはミュウ側のイレギュラーなのだろう。直談判したラジードは上手く誤魔化せるとしても、運悪く同席してしまっていたサンライスが口出ししてしまったのだ。

 不義を嫌い、実直を是とし、正道こそが王道であるとするサンライスは、陰謀と策謀を駆使するミュウとは真逆の人物だ。そんな彼女を副団長に据えているのは、他でもないサンライス自身が彼女の汚れた部位を許容しているのは、いずれは己が毛嫌いする権謀術数の批判すらも背負う覚悟があるからである。

 清廉潔白では覇道はならず。大組織ともなれば当然だ。そして、戦陣に立つ猛者であっても、組織運営にはからっきしのサンライスは、いずれ陰謀の分だけ歪みが出るならば、己の力不足が招いたこととして、ミュウを庇って責を負うつもりなのだろう。それがサンライスなりのミュウに対する信頼の見せ方なのだ、とグリセルダは分析している。

 

(不義と陰謀を嫌いながら、その塊のような女を庇う。これも愛の在り方なのかしらね)

 

 サンライスとミュウに男女関係があるという噂は欠片として聞かないが、その信頼関係は絶対であることは周知の事実だ。それは2人の出会いに関与しているのかもしれないが、誰1人として太陽の狩猟団の始まりについて知る者はおらず、彼女たちだけの秘密となっている。ならば、それもまた愛の形なのだろう。

 

「ヴァルキュリア・ソードの損害補償と、報告にある退魔剣・影喰の能力並びに使用されたのがユニークソウルという事実を踏まえ、こちらの提示したユニークソウルとの物々交換を希望します」

 

 2倍どころか正当であるが、ここで利益を貪ろうとするのは藪蛇だ。むしろ、ヴァルキュリア・ソードの損害分だけマイナスが出ると踏んでいたグリセルダは、プランを切り替え、提示されたリストを拝見する。

 リストに載っているのは『知られても問題の無いソウル』である事は見当がつく。ならばこそ、太陽の狩猟団側も鍛冶屋などの専門家も交えて検討した上で『価値が比較的低いもの』であることは言うまでもない。

 だが、ミュウとしてもそんな楽観でリストを提示したわけではないだろう。なにせ、黄金林檎にはグリムロックがいるのだ。大ギルドでも『HENTAIで1番敵に回してはいけない男』として扱われているのである。

 

(ミュウとしても技術協力を引き出したいところのはず。ここは提案に応じるとしても、後々を考えて、都合のいい時に共同開発を1つでも持ち掛けるべきね)

 

 要はバランスだ。薄ピンクのレディーススーツのタイトスカートから伸びる黒ストッキングに覆われた両足を組み直しながら、グリセルダはリストを指で叩きながら思案する。

 グリムロックからの要求は聞いており、用途は不明であるが、性質が期待できるソウルはピックアップしてある。

 

「……【蜘蛛姫のソウル】。これにするわ」

 

「即決でよろしいので? ここは【渡り鳥】さんやグリムロックさんを交えて十分にご相談した方がよろしいのでは?」

 

「今回の交渉の決定権は私に委託されているわ。即決即断。独立傭兵のマネジメントにはこれが大事なの」

 

「それはそれは……勉強になります」

 

 さて、これは誘導か否か。グリムロックの市場での素材探しから分析し、敢えてリストに加えていたとも考えられる。グリセルダは今回の局地的戦いとも言うべき交渉は、果たしてどちらに軍配が上がったのかと思案する。

 常に互いの隠したカードを想定するのは、戦闘も交渉も同じなのだ。互いに打った手が何処まで通じるのか。それはいずれ訪れる結果が物語る。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 白夜の狩装束の問題点を箇条書きしてグリムロックにメールを飛ばし、仮住まいの傭兵寮にて一息を入れる。

 単なる探索依頼のはずが、マルドロの奇襲とネームド戦、そしてラジードの綱渡りに早変わりだ。最後はオレには何も出来る事は無いし、報告書も特に偽造していないが、バレたら心象は悪く……いや、元から最悪だしな。『傭兵としての信用』にも瑕がつくかもしれない程度のリスクか。まぁ、でも嘘は報告していないし、問題は無いだろう。

 

「少しは動くようになったか」

 

 左手の回復の傾向は見られる。痙攣するばかりで動かなかったはずが、今は肘は曲がるし、指先も多少は動く。だが、握力はまるでない。

 回復までの目途も知りたいので、今回は丁度いい研究になる。何度も限定受容など出来ないからな。

 

「『少しは動くようになったか』……じゃないよ!? 何してるの!? 馬鹿なの!? もう少し自分を大切にしてよ!」

 

 そして、ユウキさんのこの容赦のない罵倒である。うん、今日は随分とキレキレですね!

 包丁を片手にジリジリと迫って来るユウキは、今にもオレの心臓に冷たい刃を振り下ろしそうな顔だ。いやはや、ここまで怒られるとは予定外だったな。

 

「……ごめん。ちゃんと分かってるよ。クーが無理しないといけない程の相手だったんでしょ?」

 

「そうだな。なかなかに強かったな」

 

「ネームドを単独討伐して『なかなか強かった』なんて軽い発言をするのはクーくらいだね」

 

「そういうものか」

 

「そういうものだよ!」

 

 でも、ランスロットと比べるとどうしてもな。アーロンも強かったが、やはり彼には及ばなかった。

 それにしても今日のユウキは感情の起伏が激しいな。ストレスでも溜まっているのだろうか?

 サインズにて報告書を提出し、帰ってきて10分でユウキが電撃訪問してきたかと思えば、オレのあり様に半ば悲鳴をあげられてしまった。

 まぁ、左腕はこの調子ならばフロンティアフィールド探索までは最低限の回復はするだろうし、楽観視していくとしよう。幸いにもレベル100以降の成長は極めて鈍い。なにせアーロンを撃破してもレベルアップしなかったくらいだ。無理にレベリングする必要も……まぁ、無いわけでもないが、そこまで焦る必要もないだろう。

 レベル120は険しい道のりだ。既にグリムロックからは指摘された問題点へのアンサーが帰って来ている。あの野郎、最初から想定済みだったな。オレが白夜の狩装束を完全解放すると完全に読んでいて返答を事前準備していたとしか思えないスピードだ。

 グリセルダさんはミュウと交渉して、アーロンのソウルと影喰の対価をもぎ取って来る予定だ。オレが参加したら邪魔らしいので、明日にでも大人しく成果をお尋ねするとしよう。ここ最近のミュウは不気味だし、グリセルダさんも上手くやってくれるといいのだがな。

 

「でも、本当にもう少し自分を大事にして。このままだと、いつか本当に死んじゃうよ。ボクは……そんなの嫌だよ」

 

「……善処する」

 

「そこで誓わないのがクーらしいよね」

 

「結んだ契約は守る主義だからな」

 

 オレが死んだら泣いてくれる人がいる。ユウキも、グリセルダさんも、ヨルコさんも、グリムロックも……泣いてくれるのかなぁ? アイツを見てると、泣くには泣くのだろうが、意味が違うような気もしてきた。

 ユウキにはまだ深淵の病について明かしていない。オレが寝ていた間にバレているかもしれないが、何にしても指摘はされない。今は症状も抑えられているし、隠せるならばそれに越したことはない。

 だが、今は少しだけ違う気持ちもある。それはラジードやマダラを見たせいだろうか。たとえ、心配させる事になったとしても、苦しめる事になったとしても、少しでも自分の真実を打ち明けたいという馬鹿な考えが頭に浮かぶ。

 

「……どう?」

 

「駄目だ。まるで味がしない」

 

「えー!? こ、これで? うっ……辛過ぎるよ! 我ながら殺人的な辛さだよ!」

 

 ユウキ特製カレーが完成し、確かに人間を殺せそうな程にスパイシー、もとい辛さを予感させる色と香りであるが、オレの舌は微塵として反応しなかった。

 これ、激辛系フードファイトで優勝できるんじゃないだろうか? この味覚障害で賞金稼ぎできるかもしれないな。

 1度作った以上は無駄にしない。そんな覚悟で泣きながら自家製激辛カレーを食すユウキが微笑ましくて思わず気が緩み、殺しそうになってしまいそうになる。

 

「ひょうしたにょ?」

 

「何言ってるのか分からん」

 

「みゃって……ひょっとぱけみゃって! みゅじゅ……み、みじゅううう!」

 

「やっぱり何言ってるか分からん」

 

 とりあえずテーブルの中央に置かれた水差しが欲しいのは仕草から理解できた。ユウキのコップに水を注げば、彼女は一気飲みして生き返ったとばかりに息を吐く。

 

「そっちも仕事が大変だったんだろう? オレなんかにわざわざ時間を使わず、もっとゆっくり休めばいいだろうに」

 

「ボクにとって、こっちが本日の本命なの!」

 

「そうか。時間の浪費家め」

 

「むしろ、ボク程に人生の大切さを知っている人間はそう簡単に見つけられないと思うよ?」

 

 それもそうか。ユウキの過去を思い出し、軽口を叩きながらウインクする姿に、彼女の『強さ』を感じ取る。

 ちゃんと過去を乗り越える事が出来たんだな。これだから『人』は素晴らしい。

 

「…………」

 

 ちゃんと気持ちを伝える。マダラは見事にやり遂げた。結果は……うん、敢えて何も言わないが、健闘は讃えるべきなのではないだろうか!?

 ラジードはしばらくベッド生活であり、その間は3番隊の切り盛りをミスティアが代理で務め、マダラがサポートする予定らしいが、しばらくは隊内が色々な意味でギクシャクしそうだな。

 

「なぁ、ユウキ」

 

「ん? 何?」

 

「……いや、別に。何でもない。本当に美味しそうに食べるなぁって思ってな。ほら、まだまだたっぷりあるぞ。たーんとお食べ」

 

「HAHAHA! 前々から分かってたけど、クーって息するように時々畜生発言するよね! 根っこはドSなんてレベルじゃないよね!」

 

「HAHAHA! 今更気づいたのか? 遅すぎるぞ!」

 

「「HAHAHA!」」

 

 ……止めておこう。オレの場合は高望みだな。今の関係で十分だし、ユウキが『アイツ』と上手くいって幸せになってくれる方が重要だ。その為にも『アイツ』の愛人ルートを開拓しなければならない。

 でも、ユウキは愛人枠とか嫌いそうだしな。ここは愛人ではなく側室枠なんてどうだろうか? 表現の違いではない。妻と愛人、正室と側室ではまるで違う! ルビーとサファイアくらいに違う!

 

「単に味が濃いだけでは駄目だからね! クーが食べてしっかり美味しいって感じてもらえるものを作らないと!」

 

「そもそもオレの味覚は完全死滅しているかもしれないぞ?」

 

「まだ諦めないよ。だって、ボクはクーと一緒にご飯を食べて、一緒に美味しいって感じたいんだ。たとえ、食べてる物はバラバラだとしても、同じ気持ちになれる瞬間を共有したいんだ」

 

「……好きにしろ」

 

 物好きなヤツだ。仮にも乙女なんだから、そういうのは惚れてる男に言ってやればいいのに。さすがの『アイツ』も少しは揺らぐのではないだろうか?

 

「ねぇ、次はどんな仕事なの?」

 

 皿洗いをしようとしたオレに『片腕で何やろうとしてるの?』と笑顔で怒気を散らされ、仕方なくソファで寝そべって神曲を捲るオレは、台所から飛んできた質問に、傭兵として明かせる範囲で答える判断を下す。

 

「エドガーからの依頼だ。孤児院関連の仕事だよ」

 

 命の危険性はゼロ……と信じたい。いきなりテロリスト乱入で血みどろパーティ開催とか、さすがに色々と困る。

 

「……そうなんだ。ねぇ、クーは教会のことをどう思ってる?」

 

「さぁな。どんな組織にも裏はある。それくらいだな」

 

 エドガーの真意も探りたいとは思っているが、藪蛇は御免だ。何を企んでいるとしても、オレの邪魔にならないならば、わざわざ干渉するのも馬鹿らしい。面倒なだけだ。

 文字を追っていた目が霞む。限定受容の悪影響で視覚が……今日はこれ以上の無理は止めよう。

 神曲をテーブルに置き、右腕で目元を覆う。途端に両頬を冷たくも熱のある手が触れる。

 

「少し、うとうとしてきた?」

 

「……少しだけな」

 

「休んでいいよ。ボクが傍にいる。ちゃんと『クー』を憶えているから」

 

 ラジードとミスティア。彼らは互いの気持ちが通じ合うからこそ心を曝け出し、本気でぶつかり合うことが出来た。

 彼らには確固たる信頼関係がある。だからこそ、時に傷つくことを恐れ、臆病になり、それでも理解し合う為に努力を重ねるのだろう。

 

「オレはまだ『独り』で戦える」

 

「知ってる」

 

「……そうか」

 

「うん」

 

 ザクロの呪いに身を委ねる。たとえ、安息の眠りは無いとしても、今だけは……少しだけ……少しだけ微睡みを。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「……知ってるよ。クーはいつも『独り』だもん。ボクも、黄金林檎も、『彼』さえもいない。キミの心は……魂は……いつだって独りぼっちなんだよ」

 

 他の者が見れば驚くだろう、クゥリの無防備な寝顔に、ユウキは寂しさを込めて笑む。

 それでも自分から縁を切ろうとはしない。クゥリも心の何処かで諦めきれていないのだ。胸の内の『孤独』を埋められる可能性を探しているのだ。

 自分でなくてもいい。アルシュナでも構わない。彼の『孤独』を少しでも癒してあげたい。ユウキは切なる想いを抱く。

 

「あれ?」

 

 そして、困惑する。

 自分はいつから『ナイフを握っていた』のだろうか? 気づかない内に右手で逆手持ちしたナイフを握っていることに、ユウキは奇妙な感覚に襲われる。

 クゥリが寝息を立てるのを見届けて、涙を零れ落ちるのを防いで、それで……その次は? まるで記憶にスキップ機能が付いてしまったかのように、ぼんやりして思い出せない。

 頭が痛い。まるで爛れるように熱い。よろめくユウキの視界にノイズが走る。ナイフを落とし、額を押さえて唸る。

 

 

 

 

 そして、視界をまるで月明かりのような白髪が靡いた。

 

 

 

 

 いつの間にかクゥリの傍らで、まるで我が子を寝かしつけるように髪を撫でる『誰か』がいる。

 それは神子装束なのか。だが、神道のみならず、多くの宗教モチーフが組み込まれ、まるで実態を掴ませない。

 後ろ姿だけでも、見た者に言い知れぬ絶望を与える、そして天啓にも似た啓蒙をもたらす美を持っているのだと分かる。

 

「キミは……『誰』?」

 

 いいや、知っている。ユウキは知っているはずだ。だが、喉まで出かかっているのに言葉に出来ない。

 だが、『誰か』は振り返ることなく、静かにするようにと唇に指を当ててジェスチャーする。

 

『起こしちゃ駄目。今は寝かせてあげて』

 

 まるで夜空の星々の光を紡いだように澄んだ美しい声音が耳を擽り、ユウキの視界に再びノイズが走る。

 

 

 

『それともアナタも愚かな好奇を抱くのかしら? だったら、恐ろしい死が必要ね。ああ、それも良いかもしれない。アナタを食べればこのコもきっと……クヒ、クヒヒ、クヒャヒャヒャ!』

 

 

 

 

 視界にはもう白髪の『誰か』はいない。クゥリは静かに寝息を立てているだけだ。ユウキは転がったナイフをまるで実体のない幻のように冷たく見下ろした。




かつて友を守れなかった怪物は、愛する者を守る者の手で今再び蘇った。

そして、赤紫の瞳は狂える古き神を映し込む。






それでは、320話でまた会いましょう。

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