SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

古き約束を胸に剣を取り、新しき約束を血に刻む。



Episode20-09 鬼の物語

「うーん…うぁあああ!?」

 

 この男、意外と余裕あるんじゃないの? マユの工房にて、ソファをベッド代わりにして横になり、霊晶石の鑑定結果を握って眠るUNKNOWNの唸り声に、シノンは呆れを禁じえなかった。

 ラストサンクチュアリ壊滅作戦を控えて、クラウドアース並びに歩調を合わせた太陽の狩猟団から傭兵たちには続々と依頼が入っている。大金の割には難易度も大したことがない、だが『いつでも出動できる』ように待機義務が設けられた依頼である。

 拘束期間は約3日間。依頼時期から推測すれば、最速で10日後がラストサンクチュアリの命日になる。それはUNKNOWNも重々承知であり、最低でも5日前にはラストサンクチュアリ本拠地に籠ることになるはずなのに、ここまでリラックスした様子を見せられるのは油断と捉えられても仕方なかった。

 

「時間を見つけては鍛錬とレベリングをしていたせいでここ2ヶ月は慢性的睡眠不足でしたし、霊晶石厳選だって最高状態でクラウドアースを……いいえ、ユージーンさんを迎え撃つための準備ですしね」

 

「好意的な解釈ってやつね。シリカは甘やかし過ぎなんじゃないの?」

 

「追い詰められてる時こそ、無理してでもいつものように振る舞ってバランスを保ってるんですよ。シノンさんはまだまだですね」

 

 UNKNOWNに毛布をかけるシリカの様子を見守るシノンは、確かにその通りかもしれないとシノンは考えを一瞬だけ改めようとしたが、この男は絶対に厳選作業自体にゲーマーとしてのめり込んでいるに違いないという確信は揺るがなかった。

 霊晶石の厳選はまさに地獄だ。【バー・地底門】という霊晶石に魅せられたプレイヤーが情報交換を行う専門の酒場までオープンする始末であり、そこに通い詰めて自身の求める霊晶石の情報を集めるのは、霊晶石厳選に魅入られた廃人……通称・地底人の義務である。

 シノンは早々に妥協してそこそこの有用な効果のものを装備することを選んだ。取り外しには多額のコルを必要とする以上、厳選を重ねてこれぞという霊晶石を装備すべきかもしれないが、まだ有志によって情報収集されている段階、もとい大ギルドも情報隠匿しているならば、ある程度で見切りをつけるのは当然だ。

 そもそもとして聖杯ダンジョン自体が最大でも1パーティでしか潜れず、高ランクかつお目当て効果を狙えば必然的に高難度化していく。

 UNKNOWNが積極的に潜っている聖杯ダンジョンは、儀式によって呪いが付与されたものだ。より高ランクの霊晶石になる一方で、バッドサブというマイナス効果が必ず付く仕様になっている。

 

「聖剣は月光属性っていう特殊属性持ちですからね。全攻撃力上昇でもないと強化されませんから厳選作業は地獄ですよ。しかも高ランク狙いで呪い付きともなれば、聖杯ダンジョンはまさに地獄でしょうね」

 

「そんな所にソロで……本当に恐ろしい男ね」

 

 聖杯ダンジョンを甘く見て帰って来なかったプレイヤーは数知れない。大ギルドも教会も聖杯ダンジョンに潜る際には万全の準備と自身の実力を過信してはならない旨を再三に亘って通告している。

 だが、それでも霊晶石に魅せられたプレイヤーは、まるで義務のように聖杯ダンジョンへと潜る。彼らを人々は地底人と呼び、ある種の尊敬の念を覚えている。地底人が持ち帰って教会に売り払った、もとい不要となった霊晶石は積もっていき、他のプレイヤーに有効活用されている。

 

「私はもう勘弁ね。どれだけ霊晶石が欲しくても、経験値もコルも他ドロップアイテムも渋いから長く続けられないわ」

 

 UNKNOWNが潜り続けられる理由の1つが聖剣の自動耐久度回復効果のお陰だ。シノンは弾薬費を回収できずに潜るだけで赤字確定、他プレイヤーも武器・防具の修理やアイテム経費のせいで得た霊晶石を高く売れなければ真っ赤になってしまうだろう。だが、彼ならば聖剣メインで戦う限りは、武器修理の点で経費削減できるのだ。

 

「彼は何を目指しているのかしら」

 

 DBO最強プレイヤーは誰か? 多くのプレイヤーが酒を片手に熱く議論したが、ユージーンとの対決はまさにドリームマッチだ。しかも互いに手を隠す興行デュエルなどではなく、奥の手も含めて惜しみなく出し尽くす、命を削り合う死闘である。

 DBOに幾らか秩序は敷かれ始めているが、根底の倫理観には狂いが生じている。命のやり取りが当たり前であるが故に、死に対して何処か軽く扱っている。UNKNOWNもユージーンもたった1つの命をかけて殺し合うことを待ち望んでいる。

 他でもないシノンでさえも、心の何処かで戦士として高揚している自分がいた。彼らの本気を画面越しとはいえ、多くの陰謀が絡んでいるとはいえ、ついに目撃することが出来るのだ。瞬きすることさえも惜しんで釘付けとなるだろう。

 ならばこそ、UNKNOWNの心理が読み切れなかった。アルヴヘイムを経て、大きな変化を遂げた彼の精神は、ユージーンとの対決を望んでいる。その一方で【聖域の英雄】としてラストサンクチュアリの為に戦う義務を持ち、【聖剣の英雄】として全プレイヤーの希望を背負う重圧もある。

 だが、『彼』自身はどうなのだろうか? ラストサンクチュアリも聖剣も関係なく、『彼』は何を求めて戦いへと身を投じるのだろうか。シノンにはまだ理解しきることが出来なかった。

 

「良いか悪いか分からないですけど、アスナさんしか見えていなかった時と違って、『生きる』ことに前向きなのは確かだと思います。SAOを生き抜いて、その後も必死に生きる意味を探して、見つけられなくて……」

 

「ようやく手に入れたのかしらね。『生きる理由』を」

 

 武の頂に立つ。最近のUNKNOWNはそう繰り返し、自らの剣で命を奪う事に躊躇いを持たない。だが、殺すことへの嫌悪感が無いといえば違う。繰り返し続けた死闘で摩耗したのともまた違う。

 命を奪ったという意味を誰よりも重く捉え、その上で相手に勝利した結果を決して穢さない為に、自らの武技を高めることに余念がないのだ。その精神は既に現代人のものではないのは確かだろう。

 

『現代の戦場に英雄はいない。勲章の価値も下がったものさ。彼らが欲したのは、形ばかりの賛美などでは無かったはずだ』

 

 ふと思い出したのは、修行の合間で零れたスミスの愚痴だった。

 スミス自身は己が英雄であらんとした事も、求めた事も、呼ばれた事も無いのだろう。だが、彼は古き友人たちを懐かしむように、煙草を咥えながら、微かな苛立ちも込めて呟いていた。

 シノンとは違う形でUNKNOWNも能動的殺意を手に入れた。その髄となっているのが『武』であるのだ。そして、それと共に『英雄』という称号がまるで呪いのように纏わりついている。

 

「ふひぃいいい……お、終わったよぉおおおん」

 

 と、そこに普段の着物姿ではなく、ファンが見れば卒倒するだろう、よれよれの作業着姿でマユが工房の作業場から姿を現す。

 そうだ。UNKNOWN以上に深刻な睡眠不足の人物がいた。もはや吐息まで珈琲で出来ているかのようなマユが、今にも倒れそうな顔でフラフラとシノンに寄りかかる。

 

「お疲れ様。頑張ったわね」

 

「えへへ! 生中継で全プレイヤーの注目する晴れ舞台。UNKNOWNに恥は掻かせられないからね」

 

 ソファで寝ているUNKNOWNを起こさないように配慮しているわけではなく、純粋に体力の消耗で普段のハイテンションは欠片も無いマユは、専属鍛冶屋としてやり切った顔でVサインする。

 マユが工房に籠っていたのは、UNKNOWNの新装備の為だ。

 聖剣にも見劣りせず、またUNKNOWNの要望を完璧に叶えるために、幾多の試作を積み上げ、改良を繰り返し、何度もヒステリーを起こして工房を破壊して回り、足りない素材リストをシリカに突きつけ、時には飲まず食わずで死亡寸前になりながら完成した新装備。それの最終改良と調整が終わったのだ。

 

「後はUNKNOWN次第だけど、正直言って、マユは不安だなぁ。実際どうなの?」

 

「……まさかあそこまで才能が無いとは思わなかったわ。もう基礎とか理論とかすっ飛ばして実戦形式で叩き込んだわよ」

 

 私には手に負えなかったからスミスさんがね。椅子に腰かけてシリカが注いだハーブティを口にする、目の下に濃い隈を刻んだマユはシノンの回答に苦笑で応えた。

 

「でも、シノンさんが及第点を上げたなら、最低限は仕上がってるってことですよね!?」

 

 不安そうにシリカが問い詰めるも、シノンはどう回答すべきか悩んだ。

 

「まぁ、『ソロ』である分には大丈夫じゃないかしら? 背中は絶対に預けたくないけどね」

 

「「うわぁ……」」

 

 シリカとマユの声が重なり、シノンは自分のせいではないと言い訳を胸中で繰り返す。最高の鬼教官であるスミスでもなければ、とてもではないが、たった2ヶ月では仕上がらなかっただろう。

 

「でも、『強い』わよ。そこだけは保証するわ」

 

「そうでもないとマユさんの頑張りが無駄になっちゃいますからね。素材も取り返しのつかないものばかりなんですから使いこなしてもらわないと」

 

 新装備にはシノンも協力して収集したソウルも複数使用されている。開発費も膨大であり、これで完全に無駄になったならば、UNKNOWNは土下座では済まないだろう。

 

「あとは聖剣だけね。まだ月光の聖剣は使いこなせていないの?」

 

「塔の騎士戦で解放されたんですけど、それ以降は……」

 

 シリカが言い難いのも仕方がない。アルヴヘイムの最終決戦にて、オベイロンとの対決を可能とした竜の神の顕現は、聖剣の本来の姿……月光の聖剣でなければ成し得ない奇跡なのだ。

 

「月光の聖剣が補佐してくれる力。心意……だっけ。マユの専門外だけど、そんな奇跡の力に頼らないと守り切れないなんて、ラストサンクチュアリは本当に終わりなんだね」

 

「さすがにアームズフォートで包囲されたら、たとえ全トッププレイヤーが集結しても守り切れないわよ。クラウドアースも生放送した挙句にそんな暴挙はしないだろうけど、何事にも『絶対』は無いわ」

 

「その通りです。あくまで保険ですけど、あるに越したことはありませんからね」

 

 当日の戦場模様は既に大よそ見当が付いている。

 クラウドアースは終わりつつある街の周辺に、既にアームズフォート部隊を続々と招集して包囲を進めている。これに対して『人道的見地』から聖剣騎士団もまた対抗するようにアームズフォート部隊を展開している。太陽の狩猟団は『クラウドアースの方針を消極的支持の立場』を取っており、アームズフォートこそ準備していないが、相応の戦力を派遣を予定している。

 ラストサンクチュアリは湖上の都だ。安価の素材で建造された白き巨大建造物である。アームズフォートの砲撃を受ければ耐え切れるはずもなく、1000人以上の貧民プレイヤーは水没することになる。

 湖には危険なモンスターも生息しておらず、陸まで泳げないことはないが、CON初期値のプレイヤーではスタミナ的に足りるか怪しいものである。そうでなくとも、落下高度次第では落下ダメージも相当なものになる。また崩落に巻き込まれながらともなれば、パニック状態で泳げず、あるいは押し潰されて、溺死・圧死もあり得るだろう。

 

「クラウドアースが来るのは分かり切ってるんだから、さっさと避難すればいいのに。マユは政治とか分からないけど、それは駄目なの?」

 

「1000人の貧民プレイヤーですよ? まとめて受け入れるには、終わりつつある街のキャパシティを超えています。もう逃げ出した人たちもいますけど、余りよろしい状態とは言い難いですし」

 

 貧民街のルールは貧民プレイヤーが決める。同じ貧民プレイヤーとはいえ、ラストサンクチュアリ出身者は『保護』されていた側だ。『放置』されていた貧民プレイヤーからすれば、貴族が逃げ込んできたようなものである。当然ながら扱いは最下層のものとなるだろう。

 事実として、逃げ出してきたラストサンクチュアリ出身者が遺体で発見された、という事件もある。だが、大ギルドも表立って事件視することはない。貧民街のルールにあれこれ口出しして責任を負いたくないからだ。

 

「1000人の今後は教会と聖剣騎士団に任せるしかない情けない状況ですよ。まぁ、私達はこれ以上の責任なんて背負う義務はありませんし、あとはキバオウさんを始めとした上層部の方々に苦労してもらいます」

 

 ソファで眠るUNKNOWNを心配する眼差しのシリカに、ラストサンクチュアリに対する愛想は無かった。

 

「ラストサンクチュアリが壊滅して、貧者の都は奇麗サッパリ解体。以後はクラウドアース管理下になるそうですよ。美味しい魚はまるで釣れないですけど、奇麗に整備してロマンチックなデートスポットにでもするつもりなんじゃないですか。あるいは、別の使い道があるのかは知りませんけど」

 

 既に壊滅後の土地の扱いまで決まっているとは恐れ入る。UNKNOWNの勝敗はどうであれ、ラストサンクチュアリの運命は変わらないのだとシノンは改めて実感した。

 

「シノのんは協働してくれないの?」

 

「さすがに無理よ。太陽の狩猟団の専属として、既に依頼が入ってるわ」

 

「キバオウさんも何とか協働相手を探していますけど、引き受けてくれる傭兵はいませんよ。クゥリさんならチャンスあるかなって思いましたけど、マネージャーさんに笑顔で『報酬額に0をもう1つ増やしてから出直してこい』って門前払いを喰らったそうですし」

 

 クゥリのマネージャーといえば、グリセルダという女性である。かなりの腕利きらしく、ミュウ相手でも1歩も引かない交渉術を備え、また様々なイメージ改善戦略に打って出ている人物でもある。

 

「引き受けてしまえば、勝敗関係なく、クラウドアースに目の敵にされるのだから当然よね。独立傭兵だったら最低でも600万は積んでもらわないと割に合わないわ」

 

「600万かぁ。マユには想像つかない額だよ」

 

 アンタはUNKNOWNの新装備の開発でそれ以上の額を溶かしてるんだけどね、とシノンとシリカは無言の笑顔でプレッシャーをかけるも、睡眠不足でマイペースに拍車がかかったマユにはまるで通じている様子がなかった。

 

「そろそろ行くわ。ちょっと面倒臭い仕事が入ってるのよ」

 

 シリカたちに別れを告げて工房を後にしたシノンは、サインズ傭兵寮にて装備の準備を行う。

 今回はミュウから直々に頼まれた調査依頼だ。弾薬と銃で埋もれた部屋で、シノンは高い隠密ボーナスを得られる迷彩マントと静音性に富んだブーツを準備する。

 

「仕事を始めましょうか」

 

 今回のターゲットの写真を確認し、シノンは憂鬱な気持ちを胸に押し込む。

 撮影されているのは、冷たくも整った顔立ちをした、現実世界でモデルでもしていると説明受けても納得できる青年だ。だが、人を寄せ付けないような暗く冷めた眼が特徴的であり、排他的で陰鬱な雰囲気が写真からも伝わってくるのは大きなマイナス点だろう。

 自分やクゥリとはまた違ったタイプでコミュ力に問題を抱えたタイプなのだろう。いや、そもそも健全なコミュ力を持った傭兵など片手の指の数ほどもいないともなれば、彼はある意味で傭兵としての適性を持っているとも言い換えられるかもしれなかった。

 

「さて、エイジさん。貴方の正体と背後、見させてもらうわよ」

 

 グローリーと協働相手だったとはいえ、たった2人でネームドの撃破を成し遂げたランク無しだ。油断しない方がいいだろう。

 

「クラウドアースの元エリートプレイヤー候補生。成績はトップだったけど、試験のリポップ型ネームド戦で腰を抜かして戦闘不能になって落第。以後は巡回警備勤務に従事。勤務態度には問題なし。だけど、突如として離籍してサインズに傭兵登録。初仕事となるバーサーク・ヒーラーの調査依頼を失敗したかと思えば、次のグローリーとの協働で探索とボス・ネームド撃破を成し遂げる、か」

 

 ハッキリ言えば、経歴が滅茶苦茶だ。グローリーは『馬鹿』ではあるが、虚言を混ぜた報告をすることはあり得ない。このエイジというランク無しは、ボス・ネームドのつらぬきの騎士戦にて、たった2人しかいないという過負荷の中で戦い抜き、グローリーが譲ったとはいえ、ラストアタックを決める程の戦闘を成し遂げた。

 初見のネームド戦がどれだけ厳しい戦いになるかは言うまでもない。上位プレイヤーどころか、大ギルドのトッププレイヤーすらも、並の傭兵でも、それなりの人数が揃わなければ生き抜くことは厳しいのだ。

 傭兵の最低限の基準はネームド相手でも単独で凌げるだけの実力であるが、決して単独でネームドを打倒しうるのが平均ではない。むしろ、少数で初見のネームド撃破できるなど1桁ランク級である。それも相手が人型ネームドであるならば更に困難だ。

 さすがに単独撃破は次元が違い、極少数の抜きん出た実力者だけがが可能とする偉業となる。だが、このエイジと言う人物は、そこに手をかけ得る逸材であるとランク無しでありながら示したのだ。

 これが中小ギルドで埋もれていた逸材だったならば納得もいくだろう。だが、彼はエリートプレイヤー候補生だったのだ。これ程の実力者であったならば、戦果を挙げ続ければ、いずれはトッププレイヤーとして好待遇を受けられる地位を得られたはずだ。

 だが、実際にはリポップ型ネームド相手に腰を抜かしてしまう失態で候補生から外されている。しかし、事実ととしてつらぬきの騎士の撃破に大きな貢献をしているのも確かだ。また、その武器はユニークウェポンであると推測される一方で、防具は前線落ちした旧型品である。

 クゥリが視点と状況次第で姿を変える万華鏡であるならば、このエイジという人物は個々の情報がまるで噛み合わない歯車のような人物だ。シノンは資料からエイジという人物の輪郭が多重にブレているような印象を受けた。

 

「手足の1本で済めばいいけど」

 

 そもそも、このような仕事が自分に回ってくるのは珍しいことだ。シノンは少し悩みながらも、弾薬費が余りかからずに報酬を得られるならば引き受けない理由は無いと改めてエイジの資料を見直した。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「やぁ、ご足労をかけて申し訳ないね。珈琲で構わなかったかな?」

 

「ええ、ありがとうございます」

 

 椅子に腰かけるエイジは、差し出された珈琲を今にも破裂しそうな心臓を胸に秘めたまま受け取った。

 場所は終わりつつある街にある聖剣騎士団支部の応接室である。落ち着いた調度品で纏められており、冬の訪れを予感させる冷たい陽光が窓から差し込み、室内は珈琲の香りで充満している。

 ディアベルの護衛は3人。いずれも服装からして親衛隊だろう。細目で痩身の男、七三分けの眼鏡をかけたエリート然とした男、そして黒髪セミロングのやや童顔の女だ。

 護衛がいずれも実力者なのは間違いないが、そもそもとしてディアベル自身もアノールロンド戦で生き残れるトッププレイヤーである。DBO初期から最前線に立っていた彼の実力は生半可なものではないだろうことは容易に予見できる。

 3大ギルドの1角のトップと面会など、数週間前の自分では考えられなかった異常事態だ。エイジは手の震えが珈琲に波紋を作らないように心を落ち着けながら口にする。

 

「今回はグローリーさんが迷惑をかけたみたいだね。キミの活躍がなければ、聖剣騎士団は貴重な戦力をまた1人失っていたかもしれない」

 

「協働相手を見殺しには出来ませんから」

 

「だけど、依頼内容にネームド戦は含まれていなかっただろう? おっと、意地悪な質問だったね。ごめんよ」

 

 エイジが口を開くより謝罪を述べて笑うディアベルに、これがカリスマ性かとエイジは珈琲を喉に流し込みながら感じ入る。

 他人を惹き付ける甘いマスク、断固たる意志の強さを感じさせる声、3大ギルドのトップとは思えないフレンドリーで穏和な振る舞い、そして強者だけが備えられるオーラ。

 これが3大ギルドの1つ、DBOの支配層の最上位に君臨する男か。エイジは動揺を読み取られないように感情を殺した眼と演技に努める。

 テーブルには茶菓子が並んでいるが、食す気にはならない。エイジは珈琲を味わうフリをしながら、ディアベルの微笑みに自身の圧倒的不利をどう覆すべきか、事前に準備した複数のパターンを脳裏に並べて備える。

 

「まずはつらぬきの騎士のソウルだけど、事前に通告した通りに買取をさせてもらいたい」

 

「ええ、もちろんです。本来はグローリーさんが得るべきソウルを、僕は譲ってもらっただけですから。むしろ買取していただけるなど感謝以外にありません」

 

 額にして50万コル。安値もまた安値であるが、そもそもユニークソウルなど持っていても現状では持て余すだけであり、無理に所有権を主張して聖剣騎士団からの覚えが悪くなるのは避けたかったからだ。また、つらぬきの騎士の撃破で得られたコルも高額であり、ここで欲張るのは得策ではなかった。

 大ギルドに媚びるランク無しを演じる。エイジの表情を見て、ディアベルは予想と違ったのかのように椅子のひじ掛けで頬杖をつく。だが、エイジの目はすぐにそれがある種のポーズ、こちらへの揺さぶりであることを見抜く。

 

「『たった50万コル』だよ? ユニークソウルは市場なら300万……いいや、競売にかければ500万コルで売れることもあるだろう。10分の1の額で売却することに何の不満も無いのかい?」

 

「……不満が無いと言えば嘘ですね。ですけど、それ以上の価値ある『実績』を積ませてもらいました。ランク無しである僕にとって何よりも価値があるのは、小切手ではなく聖剣騎士団の皆様も含めた周囲からの評価です」

 

「なるほどね。未来への投資というわけかい」

 

「そこまで深い意味はありません。ですが、こうして高名なディアベル団長と面会できた事実があるだけで、僕の評価は上がりますから」

 

 少し媚びすぎか? いいや、大袈裟でも実利重視のスタンスを示した方が丁度良いだろう。匙加減を間違えないように細心の注意を払いながら、エイジは腰の低さをアピールする。

 

「それよりも、グローリーさんから……その、機密を色々と……不本意ながら聞いてしまいまして……! ああ、もちろん! 僕に情報漏洩する気は毛頭ありません。ですが、わざわざディアベル団長がこうして面会をセッティングしてくださったのは、やはりその件でしょうか?」

 

「それもあるね。グローリーさんには困ったものだよ」

 

「正直に申し上げまして、僕には得た情報に対して十分な対価を支払い出来るだけの資産はありません」

 

「ハハハ! エイジさんは聖剣騎士団を何だと思っているんだい? むしろ、口止め料を支払わないといけないのはこっちの方さ」

 

 ははは、どの口で言うんだか。エイジは口止め料というキーワードに期待するような表情を作り、ディアベルの次の1手に備える。

 

「そこで、物は相談なんだけど、聖剣騎士団の専属傭兵になるつもりはないかな?」

 

「ぼ、僕が専属傭兵に!?」

 

「興奮しないでくれ。まぁ、キミには不愉快な話かもしれないが、たとえ口止め料を支払ったとしてもキミ自身の信用が足りないんだ。これは俺の直感だけど、キミは『何か』を隠しているだろう? だったら、いっそ専属傭兵に……キミの秘密を共有できる『身内』にしてしまうのが安心というわけさ」

 

 わざとらしく『家族』という安心感を持てるワードを絡めて揺さぶってきたか。エイジは珈琲カップをテーブルに置き、思案するように口元を右手で覆った。

 ディアベルの単なる直感か、それとも調べがついているのか。仮にスレイヴの正体について暴いているならばチェックメイトである。エイジに逃げ場はない。

 聖剣騎士団の専属傭兵になる。断る理由もない魅力的な提案だ。だが、エイジは最悪の事態を想定し、いかにして提案を『蹴る』べきかシミュレーションする。

 

「ただし、専属傭兵として契約する条件として、キミの剣……ユニークウェポンを譲渡してもらいたいんだ。そして、クラウドアースを離籍した経緯も含めて『包み隠さず』教えてもらいたい。俺が力になろう」

 

 やはりそう来たか。グローリー経由で報告が上がったならば、必ずテーブルに載ると分かり切っていた案件である。

 だが、スレイヴがレギオンとバレていないともエイジは安心する。レギオンと組んだとバレたならば、駆け引き無しでトドメを刺せるジョーカーを持たれているようなものだからだ。

 

「エイジくん、キミの耳にはまだ入っていないかもしれないけど、クラウドアースはキミが『ユニークウェポンを持ち逃げした』疑惑をかけているんだ」

 

「……そ、そんな!?」

 

 このパターンを引いたか。エイジは困惑する表情を演じながら、内心で額を手で押さえて苦悶する。

 ギルド所属のプレイヤーが離籍を表明した際に最も疑われるのは、ドロップアイテムの持ち逃げだ。高額で売却できるレアアイテムを持ち逃げする事例は大ギルドのみならず、中小ギルドでも頻発するトラブルの1つだ。

 クラウドアース側がエイジの戦果を耳にし、つらぬきの騎士の撃破にユニークウェポンが使用されたと把握すれば、エイジに持ち逃げの疑惑がかかるのは自然である。

 

「もちろん、俺はキミを疑っていないよ。だからこそ、この提案を引き受けてもらいたいんだ。その剣は『聖剣騎士団が貸し与えた』ことにするんだ」

 

「つまり僕は『元から聖剣騎士団の専属候補だった』事に?」

 

「そういう事さ。グローリーさんとの協働も、聖剣騎士団として専属傭兵にする為のテストだったと広報できるしね」

 

「ですが、僕の経歴はご存知でしょう? クラウドアースの元エリートプレイヤー候補生が、聖剣騎士団から誘いを受けて専属傭兵になる為に離籍する。それも十分に裏切り行為と捉えられても仕方ありません」

 

「心配性だね。いや、傭兵とはそれくらい慎重であるべきなのかな? その点は安心してくれ。聖剣騎士団としては『エリートプレイヤー候補生の首席』という経歴を評価して打診した事にすればいい。その上でグローリーさんとの協働がテストだったとすれば、筋は通る。むしろ、キミの離籍の際にクラウドアースはノーリアクションだった。キミが候補生から落第したのは、リポップ型ネームド戦で……失礼な物言いになるけど、怖気づいて動けなかった事が原因だ。だけど、実戦だったんだ。そういった事だってあるさ。むしろ、キミの本当の実力を見抜けず、再起のチャンスを与えられなかったクラウドアース側の落ち度だよ」

 

 口が上手い。エイジはテーブルの下で膝を叩きそうになる指を堪える。余計なリアクションの1つ1つが思考を読まれる穴となるからだ。

 

「だけど、クラウドアースからの印象は悪いだろうね。そこで、ほとぼりが冷めるまでその剣は聖剣騎士団の預かりにさせてもらいたいんだ。もちろん、代用品は準備させてもらうよ。武器も防具も含めて1級品を準備させてもらう」

 

 条件自体は悪くない。邪剣ダーインスレイヴを譲渡すれば、聖剣騎士団の専属傭兵になれるだけではなく、武器も防具も手配してもらえるのだ。

 専属傭兵になれば住居も与えられる。様々な好待遇も受けられる。クラウドアースからも守ってもらうことが出来るだろう。

 だが、エイジにダーインスレイヴを渡すという選択肢はない。スレイヴの魂であり、『憎悪』の契約の証であり、エイジが戦う為の不可欠な柱であるからだ。

 何よりも聖剣騎士団は信用できなかった。仮にダーインスレイヴを渡したとして、本当に契約を守るだろうか? 専属傭兵に迎え入れたとして、クラウドアースとの関係悪化の要因になりかねないエイジを抱え込むリスクは受け入れられるだろうか?

 否である。エイジから搾り取り、その後はクラウドアースに始末させる算段が立っていてもおかしくない。

 機密情報を抱え、経歴も怪しく、なおかつ『ネームドの能力をラーニングする』という破格の能力を備えたダーインスレイヴを持つ。

 エイジが逆の立場ならば、美味しいところだけで貰って、クラウドアースと共謀して依頼中に暗殺するだろう。その程度には自分に信用は無いと自覚できていた。

 

「少し……考えさせていただけませんか。余りにも多くの出来事が重なり過ぎて、すぐに結論が出せそうにありません」

 

「そうかい。分かったよ。でも、時間はキミが思っているよりも残っていない。クラウドアースはせっかちだからね」

 

 面会を終えて聖剣騎士団支部を後にしたエイジは、冬の気配に満ちた寒々とした大通りを歩きながら思案する。

 わざわざ聖剣騎士団のリーダーが出張ったならば、裏読みせずに素直に専属傭兵になる提案を受け入れるのも1つの手だろう。だが、どうしても邪剣ダーインスレイヴの譲渡という条件をクリアすることが出来ない以上は、聖剣騎士団の申し出を蹴る以外の選択肢はない。

 リスクを背負いながらも戦力を欲しただけの申し出だったならば、断る理由を間違えれば聖剣騎士団からの印象悪化に繋がるだろう。

 

(ダーインスレイヴの譲渡の条件を取り消しにして、なおかつ聖剣騎士団から確実に守ってもらえる確証を得る。それがベストか)

 

 何にしてもグローリーの機密情報漏洩がボディブローのように効いてきたな、とエイジは嘆息した。

 だが、今のエイジにはクラウドアース関係を後回しにしなければならない課題がある。

 

『グン姉さんは……というよりも、レギオンはその手の嘘はつけない。そういう種族なんだ。つまり「彼女」は確実に生きている。レギオン・ネットワークで探ってみたが、俺では限界がある。もう1人の協力者は「まだ」お前を認めていない以上、やはりホルン姉さんの協力が不可欠だ。アポは取ったから、情報をもぎ取って来い』

 

『スレイヴは来ないのか?』

 

『お前が1人で会うのが条件だそうだ。だけど、注意しろよ。ホルン姉さんにはコミュニケーション能力に致命的な問題がある』

 

 朝の会話を振り返り、エイジは邪剣ダーインスレイヴを創造したスレイヴの姉、ギャラルホルンというレギオンを思い返す。

 スレイヴやグングニルと比べてもハイテンションであるが、底知れない狂気のようなものを感じたのは間違いない。

 

『ホルン姉さんは王より「敬愛」を受け継いだレギオンだ。だから他のレギオン以上に「人」というものに強く惹かれ、また魅入られている。逆を言えば、ホルン姉さんの基準で「人」を満たしていない人間はただの肉だ。そこには一切の「慈悲」は無い。基準さえクリアすれば、全レギオンでもグン姉さん以上で人間に友好的かつ献身的で「チョロい」んだが、なにせ基準がハードモード過ぎる上にあの性格だからなぁ』

 

 王を除いたレギオンでエンカウントしたくないランキング1位くらいに厄介だぞぉ、とスレイヴは今日がエイジの命日だと言わんばかりの目で見送った。

 そんなレギオンを既に我が家に踏み込ませてしまっていたのか。邪剣ダーインスレイヴ創造の際に、自分がギャラルホルンの基準を下回っていたならばどうなっていたのだろうかと想像し、およそ末路はろくでもないことになっていただろう事は間違いないと確信できた。

 スレイヴがアポを取ってくれたのは、犯罪ギルドのフォックス・ネストが経営するクラブ【ベリー=ベリー】である。

 犯罪ギルドと区分こそされているが、多くのプレイヤーが利用するグレーな娼館や金融などの経営が主であり、DBOの暗い欲望を満たすことで、ある意味で『秩序』に貢献しているとも言い換えられる。

 だが、必然的に店が構えられるのは大通りを避けた裏通りになる。治安も決してよろしくない。まだ太陽が高いうちから娼婦が日陰から手招きし、良からぬ薬を売るバイヤーが厭らしい笑みを浮かべている。

 貧民プレイヤーから這い上がったエイジは特に気にする必要なく、クラブが開くまでの時間をどう潰すべきか悩む。開店は午後6時であり、まだ3時間近くの暇があった。

 

「……ダーインスレイヴ?」

 

 だが、腰にあるダーインスレイヴが『警告』を発し、エイジは視界の端で裏通りを見下ろせる時計塔を捉える。

 有効視界距離外であるが、『誰か』が見ている。ダーインスレイヴが『教えてくれる』。奇妙な感覚であるが、つらぬきの騎士戦で感じた時と同じ『警告』であることには違いない。

 あの距離……狙撃範囲内だ。大弓やスナイパーライフルの≪狙撃≫スキルで強化されたヘッドショットは一撃即死の危険性を持つ。だが、ここで気づいて射線から逃れるような真似をするのは、監視者の意図も分からない以上は避けねばならないだろう。 

 

「ねぇ、そこのお兄さん。そこのイケメンさん。もしかして待ちぼうけ?」

 

 立ち止まるエイジに、金髪の娼婦が寄りかかる。

 貧民街で何度も見た光景だ。娼館勤めもできない彼女たちの名ばかりの護衛で、エイジは僅かな日銭を稼いでいた。

 

(クラウドアースか? それとも聖剣騎士団か? レギオンは……絶対に無いな)

 

 人間よりもレギオンの方が約束・契約において信頼できる。それはエイジの中で確固となっていた。レギオンはエイジを以後能動的な監視を行わない。それは絶対に守られる約束なのだ。

 

「ねぇ、お兄さ……んぐ!?」

 

 エイジは娼婦の腰を腕で抱くと強引に引き寄せ、口紅が塗られた唇を奪って塞ぐ。

 傍から見れば恋人にするような情熱的な口づけであるが、エイジの思考も感情も冷たく凍てついている。

 あの距離で一撃即死を狙うならば貫通性と威力を確保して狙撃しなければならない。娼婦ごと殺さねばならないだろう。『虫けら』を1匹殺すのも2匹殺すのも同じかもしれないが、心理的負担はかけられる。その分だけ安全性は高まる。

 

「へぇ、キスが上手な男は好きよ。どう? サービスしてあげるけど?」

 

「いいや、サービスするのはこっちの方だ。普段の倍を払おう。期待していいんだろう?」

 

 既に直近で見張られているかもしれない。高熟練度の≪盗み聞き≫スキル蹲る物乞いも、窓掃除をするクラブの従業員も、この娼婦も、もしかせずとも全てが『仕込まれた』ものかもしれない。

 今は『大金を得て浮かれた間抜け』を演じることで、監視者の目と耳を騙せ。エイジは娼婦を伴って宿を目指す。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

『こちらS6、ターゲットは【蜜蜂邸】に入店。≪千里眼≫で入った部屋は確認した。302号室です』

 

『こちらS3、301号室を確保』

 

『こちらS7、303号室を確保。盗聴準備OKだ。流すぞ』

 

 途端に聴覚を蹂躙したのは女性の喘ぎ声であり、シノンは顔を真っ赤にしてインカムを外す。

 

(平常心……平常心……平常心!)

 

 深呼吸を繰り返し、シノンは改めてインカムを装着するも10秒と耐えられず、盗聴音声を遮断した。

 

『お盛んなことで。こりゃ、ただの間抜けじゃないか?』

 

『黙れ、S4。任務中だぞ。【山猫】、狙撃ポイントを維持してくれ。いつでも狙撃できるように待機だ』

 

「命令しないで。依頼とはいえ、トリガーを引く時は私が決める。撃った後に『やっぱり間違いでした』は通じないわ」

 

『お優しいことで。了解した。タイミングは任せる。こっちはこっちで自由にやらせてもらう。だが、報酬は「後払い」であることを忘れないでもらいたい。以上だ。各員、警戒を怠るなよ』

 

 アルヴヘイムから帰還して以来、どれだけのプレイヤーを……人間を撃っただろうか。シノンはスナイパーライフルのスコープを覗き込み、閉じられたカーテンの向こう側で、太陽が高い内から情事に励むエイジを想像、もとい妄想して耳まで真っ赤にしながらも、いつでも『人殺し』が出来るようになってしまった己の右手を見て溜め息を吐く。

 殺した。たくさん殺してしまった。それなのに、まるで心は揺るがない。

 アルヴヘイムでは多くの妖精を……人間と同じように自我と思考と命を持つ者を殺した。そして、帰還後も太陽の狩猟団の依頼で多くの犯罪プレイヤーや『テロリスト』という烙印を押されたプレイヤーを狙撃してきた。

 かつてのシノンは銃口の先にプレイヤーを捉えても生命を奪わないように、意識的にも無意識でも配慮をしていた。だが、今は違う。

 HPがゼロになるまで無感情にトリガーを引き続けることが出来る。まるで、その時だけは自分が自我を持たないAIになったかように、血が通わぬ機械のようになれるのだ。

 

(いつか『反動』が来る……ね)

 

 これがアルヴヘイムで体得した能動的殺意であるならば、シノンにもいつか『反動』が訪れる日が来るのだろう。だが、仕事終わりに熱いシャワーを浴びれば、もう切り替えは出来ている。『彼』やシリカと笑い話が出来て、肉を食べることにも何の嫌悪感もなく、次の仕事を引き受けても何の感情も抱くことはない。

 

 故に『反動』が来るという実感が湧かない。それは危ういことなのだろう。だが、さすがに『彼』にもスミスにも相談することが出来なかった。

 

(もっと『力』が要る。太陽の狩猟団を黙らせるくらいの『力』が欲しい)

 

 ランク3とはいえ、それは太陽の狩猟団の政治力も込みであるとシノンは理解している。スミスやUNKNOWNこそがユージーンとトップ3争いするに相応しいだろう。だが、片や独立傭兵、片や鼻つまみ者のラストサンクチュアリの専属である。たとえネームドの単独討伐を成し遂げた偉業の達成者でもこれ以上のし上がることは出来ない。

 だが、シノンが真にランク3に相応しいだけの実力を発揮し、実績を積めば、太陽の狩猟団に対しての発言力も高まる。今回のラストサンクチュアリ壊滅作戦にも物申すことが出来るのだ。

 シノンはラストサンクチュアリ壊滅の当日、モニターに映し出される生中継を見ながら『彼』の勝利を祈る以外に何も出来ない。

 少しでも裏からサポートすることが出来れば、太陽の狩猟団を微動でもさせられる発言力さえあれば、『彼』は少しでも楽になるというのに、それが出来ない。アルヴヘイムでUNKNOWNに『相棒』と呼んでもらったにもかかわらず、彼女は何も出来ない。

 

『シノンには色々と手伝ってもらったし、これ以上は迷惑をかけられない。俺は大丈夫さ。必ず勝つ』

 

 当日は太陽の狩猟団の専属を辞めてでも協働でラストサンクチュアリ防衛に参加すると覚悟を持って啖呵を切ったシノンを、UNKNOWNは拒絶した。

 迷惑をかけたくない。それはUNKNOWNなりの優しい突き放しだったのは理解している。

 だが、もっと頼って欲しかった。背中を預けて欲しかった。アルヴヘイムの回廊決戦の時と同じように、絶対の信頼が欲しかった。

 自分には『まだ』本当の意味で隣に立つ資格はない。故にシノンはトリガーを引くことに躊躇いは無い。もっと『強さ』と『力』が要る。UNKNOWNの全幅の信頼を勝ち取るだけの揺るがぬ精神と信念と力を身に付けねばならないのだ。

 

(だからと言って無実の人間を暗殺しようなんて思わない)

 

 だが、シノンにも良識と道徳はある。依頼だからと命令されるままに殺すことを是とはしない。それはUNKNOWNの『相棒』には相応しくない。能動的殺意とは、己で撃つべき相手を定めることだ。誰にも何にも言い訳しないで殺すとは、自分自身の心に嘘を吐かないことだ。

 撃たないと決めた時は撃たない。それはシノンの傭兵としての流儀なのだ。

 

(……クーだったら撃つのかしら?)

 

 相手が無実であろうと、死ぬに値しない微罪であろうとも、むしろ『正義』の側に立っていようと、それが依頼であるならば殺すのだろうか? あの無機質な殺意に浸された蜘蛛のような眼でエイジを殺すクゥリを想像し、だが『何か』が違うような気がしてシノンは眉間に皺を寄せた。

 

『しかし、この間抜けが本当にクラウドアースの重要機密を?』

 

『S4、だから無駄口を叩くな。ああ、そうだ。聖剣騎士団が既に動いている。先を越される前に我々で回収するぞ』

 

 今回のターゲットであるエイジは、数週間前にクラウドアースから離籍してサインズに傭兵登録したランク無しだ。

 その後は資料にあった通り、グローリーとの協働でたった2人という少数戦力でありながらネームド討伐に貢献し、ランク持ちになることがほぼ内定している。

 だが、クラウドアースはユニークウェポンの持ち逃げ、そして重要機密の盗難の嫌疑をかけ、エイジの確保に向けて動いている。既に彼の自宅はクラウドアースでもベクター直轄の暗部に包囲されており、いつでも踏み込める準備が整っているとのことだ。

 太陽の狩猟団はクラウドアースを来たる戦争に向けて自陣営に引き込むべくカードを集めている。エイジが持つ機密は強力な交渉材料になり得るかもしれないのだ。

 シノンはエイジが保有するという重要機密について何も知らされていない。だが、大ギルド間の密約を結ばせる程ともなれば、並大抵のものではないだろう。

 そして、聖剣騎士団はつい先程だが、自らの支部に彼を招いている。収集された情報の限りでは、グローリーとの協働成果を評価して専属契約のお誘いとの事であるが、わざわざディアベルが直々に動いたともなれば、重要機密獲得の為の工作と見るべきだろう。

 だが、当の本人は大金獲得と専属契約を控えて浮かれたように娼婦とよろしくやっている。

 もしかせずとも、ユニークウェポンの持ち逃げはともかく、機密に関しては誰かに利用されているだけなのではないだろうか? その背後関係を洗うのはシノンの仕事ではない。

 

『……しかし、お盛んですね』

 

『S4、何度言わせれば気が済む?』

 

『いや、だって……ねぇ?』

 

 シノンは一瞬だけ盗聴音声をオンにしたい衝動に駆られ、だが羞恥が勝って堪える。冷徹なスナイパーになれても超えられない壁はあるのだ。

 

(それにしても便利になったことね)

 

 インカムを通じた連携は、まるでGGOを思い出すようだ。人工妖精を使い、中継機を複数設置しなければならないが、短距離感ならば自由に連絡を取り合うことが出来る。難点はダンジョンでは使用不可である点と同じ技術を持つ者同士ではジャミングで妨害できる点であるが、ほぼ3大ギルドと教会の独占技術である為に、大ギルド同士のぶつかり合いでもない限りは心配する必要がない。

 技術提供元は伝説の鍛冶屋GRらしく、『大ギルドによる秩序の為』という名目で無償提供したとのことだ。彼のお陰で表も裏もリアルタイムの連携がより強固となり、大ギルドのバックアップの有無は大きな差をもたらすようになった。

 

『こちらS5、裏口で不審な人物を発見。どうしますか?』

 

『【山猫】、そちらから確認できるか?』

 

「残念。死角よ。ポジションを移動する?」

 

『いや、待機だ。S4、S5と合流して不審者を確認しろ。確保は慎重にな』

 

『こちらS4、了解。どうせ貧民プレイヤーのゴミ漁りでしょうけどね』

 

『お前はやはり無駄口が多過ぎる。勤務態度不良と副団長に報告しておく』

 

『うげ!? リーダー、止めてくださいよ!』

 

 狙撃手は『待つ』のが仕事だ。シノンは狙撃体勢を維持しながら、不審者に関する報告を待つ。

 

『……こちらS4、「問題ありません」。やっぱりゴミ漁りだ』

 

『S5、間違いないな?』

 

『……こちらS5、申し訳ありません。ただの貧民プレイヤーでした。「問題ありません」』

 

『そうか。だが、警戒は怠るなよ。クラウドアースや聖剣騎士団に渡す前に、強引でも確保しなければならない。【山猫】、その時は足の1本でも撃ち抜いてもらうことになる』

 

「お安い御用よ」

 

 命を奪うならばともかく、手足の1本程度ならば許容範囲内だ。現実世界と違ってHPがゼロにならない限り、決して死ぬことはない。呪いでもない限り、手足は再生し、傷痕も後遺症も残らないのだから。

 こうした『取り返しのつく』ゲームシステムの分だけ『命を奪う』事への軽視に繋がる。シノンは己にトリガーの真の重みを忘れるなと訴えながら、ゴーサイン次第では躊躇なくエイジの膝を正確に撃ち抜く覚悟を決める。

 いよいよ日が暮れ、夜の街が活気づき始める。人通りが多くなり、狙撃をするにも人ごみに紛れ込まれた場合、四肢を狙うのは難しくなる。

 

『朗報だ。クラウドアースが【渡り鳥】にターゲット確保の依頼を打診したそうだが断ったと情報部から確定情報が入った。今回のミッションに【渡り鳥】の関与はない。白い凶鳥は昨日から傭兵寮に籠りっぱなしってのは確かだったようだな』

 

 思わず心臓が跳ね、シノンは脈拍が加速した分だけ射撃サークルのブレが大きくなった事実に己の動揺を否定することなく受け入れる。

 

『め、珍しいですね。あの【渡り鳥】が依頼を蹴るなんて。監視していても、いつの間にか姿を消しているから、本当に厄介な奴ですよ。情報部もたまには良い仕事をしやがる。ふぅ、これで明日の朝日は拝めそうだ』

 

『だからS4、無駄口を……っと、すまない。お前じゃなかったか』

 

『……「問題ありません」』

 

 どれだけ恐れられてるのよ。まだまだ『裏の仕事』に手を出してから日が浅く、また『深み』とも呼ぶべき依頼を引き受けたことがないシノンは、太陽の狩猟団の暗部に蔓延するクゥリに対する絶対的な恐怖心に脂汗を滲ませ、シャルルの森を思い出す。

 だが、それも万華鏡のようなクゥリの側面の1つだ。シノンは決めたのだ。少しでも歩み寄りたいと。それは、胸中に今もディアベルやクゥリと共に過ごした時間が……郷愁にも似た切ない夕暮れが焼き付いているからだろう。

 

『こちらS6、ターゲットがチェックアウト。外に出ます。どうしますか?』

 

『まだ待機だ。ターゲットはクラブに用がある様子だった。断定は出来んが、機密をあそこで渡す手筈になっているのかもしれん。S3、娼婦を確保して聴取しろ。その後の判断はお前に任す。S2はS4、S5と合流してクラブに潜入する準備だ』

 

『了解』

 

「どうするの?」

 

『彼女がどうなるか気になるか?』

 

「……別に」

 

『フッ、優しいな。脅しはしても殺しはせんさ。それに下手を打って【渡り鳥】を派遣されても割に合わんからな』

 

「随分とクーを警戒しているのね」

 

『まぁな。奴の「復讐代行」で逸った同僚を何人も……っと、S4のお喋り癖が移ったようだな』

 

 太陽の狩猟団としてもクラウドアースに喧嘩を売ってでもエイジを確保するつもりはないのだろう。最良はエイジの背後関係も含めて丸裸にした上で機密・関係者諸共に確保であるが、最悪の場合にはエイジを強引に確保してクラウドアースに引き渡す形で機密に関して何らかの取引を持ち掛けるつもりなのだろう。

 この程度の小競り合いは『裏』の日常茶飯事なのだ。ならば『深み』がどれだけの陰謀に満ちた血塗れの世界なのかは言うまでもないだろう。

 

「人通りが増えたわ。今のポジションでは狙撃に難がある。近・中距離射撃戦は可能よ」

 

『狙撃できるポジションで待機を頼む。あのクラブは大物も常連だ。店内でトラブルは避けたい』

 

「指示に従うわ」

 

 宿から出来てたエイジは、満足そうな娼婦から頬にキスを受けてにこやかに手を振って見送っている。

 その様子は一見すれば、大金を得て浮かれた『間抜け』のようであるが、シノンは資料に添えられたエイジの印象が微塵も揺らいでいない事に不安を覚えた。

 

(少しだけ……似ている気がする)

 

 アルヴヘイムの約束の塔以前のUNKNOWNに類似した、だが決定的に何かが異なる雰囲気を感じる。抜身の真剣のような、いつ誰かを傷つけるかも分からない危うさだ。だが、同時に何かが違う。形は同じでも色が違うような差異を覚える。

 伝えるべきか? いや、仕事は監視と荒事になった時の狙撃だ。人物評価ではない。店内に消えたエイジの背中をスコープ越しに見送りながら、シノンはまた待機に努めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「また御贔屓に」

 

「こっちこそ」

 

 ご機嫌の娼婦を見送ったエイジは、ダーインスレイヴから発せられる『警告』がまだ消えていないことを感じながら、ギャラルホルンと待ち合わせしたクラブを目指す。

 

(やはり延期すべきか? ここはスレイヴと合流して……駄目だ。この機会を逃すわけにはいかない。いつでも会える気軽な友人じゃない。次のチャンスがあるとも限らない)

 

 ディアベルの言う通り、クラウドアースがエイジにユニークウェポンの持ち逃げの疑惑をかけているならば、それこそ大ギルドの強権を活かして捕縛するはずだ。

 表向きは秩序を敷く大ギルドであるが、現実世界のように規範となる法律も何も無いのだ。その気になれば、幾らでも罪をでっち上げることが可能だ。

 だが、クラウドアースは『まだ』動いていない。ならば多少なりとも自由に動ける内に『彼女』について情報を集めるべきだった。

 

(『キミ』は本当に僕を待ってくれているのか?)

 

 グングニルの発言はエイジへの発破もあったはずだ。彼女の主観も混じっていたはずだ。

 何をどう取り繕うとしても『彼女』からすれば、エイジは自分を見殺しにした情けない腑抜けのクズだ。そしエイジは自身の評価またそうであると曲げる気も無い。

 夕闇を経て夜が訪れ、星々は輝くも街の光に駆逐されていく。かつての終わりつつある街には無かった、プレイヤーによる賑わいが通りを満たしていく。

 大ギルド主導による秩序。戦争という火薬を敷いた地面で人々は不安を隠すように享楽を貪る。

 

(少し位は心が動くと思ったんだけどな)

 

 娼婦と体を重ねても、本能のままに性欲に溺れることも出来ない暗く淀んだ心。貧民時代から何も変わっていなかった。

 スレイヴやグローリー、そして【渡り鳥】との出会い。それが自分に何かしらの影響を与えたのは確かだ。だからこそ、憎悪を燃料として障害を乗り越える手段を手に入れた。だが、それ以外は何も変わっていない。

 まるで地層を形成するように、これで何度目か分からない自分への失望を抱く。同時に『彼女』ならば今の自分を見れば軽蔑するだろうとも想像する。そして、そこに何の感慨も覚えない自分に忌々しさを覚えて更なる失望を重ねる。まさに負のスパイラルである。

 

(監視は継続されている。人目を気にしているのか? あるいは単独になったところを? そうなると帰宅してスレイヴと合流するのは増々危険だ。いや、それどころかスレイヴも確保されているかもしれない。クソ! ようやく『彼女』の手がかりを得られるのに、どうしてこんな事になるんだ!?)

 

 思えば昔からそうだ。何をやっても悪い方向に傾く。

 家族にしてもそうだ。SAO事件から生きて戻ってみれば自分が原因で一家離散していた。

 

『どうして娘ではなく、君が生きているんだ?』

 

 助けられなかった『彼女』の最期を伝えるのは自分の役目として、『彼女』の父親である重村教授を訪ねた時もそうだ。

 重村教授はSAO事件の首謀者である茅場昌彦が師事した人物だ。そして、SAOの開発・運営を担ったアーガスの顧問でもあった。そして、『彼女』がSAOにログインする原因を作った1人でもある。

 SAO帰還後にはエイジの障害は明らかになっており、重村教授は責めるような真似をしなかった。だが、謝罪という行為が硬く閉ざされていた口を……本音を零さぬ栓を緩めてしまったのだろう。

 すぐに我に返った重村教授はエイジに頭を下げた。だが、当然の非難であると受け入れたエイジは、もう2度と重村家の門を潜ることはなかった。

 

(だが、今は違う。確実に『キミ』に近づいている。もう逃げるものか!)

 

 クラブは開店早々に賑わっている。幾らグレーとはいえ、犯罪ギルドの経営の店にこれだけの人が集まるのは健全と言い難いだろう。だが、多少汚れた水の方が魚も生き易いものであり、人間もまた同様である。

 入店だけで3000コルか。だが、それでも盛況する店内は貧富の差を大きく感じさせる。

 金がある所には余る程にあり、無いところには雀の糞ほども無い。それもまた世の摂理である。

 

「金か」

 

 スレイヴの教えを思い出し、こうしてクラブに入店してギャラルホルンと会うことが出来るのも少なからずの財を得たからこそである。

 何としてもランク持ちとなり、更なる金とコネを得なければならない。その為にもクラウドアースからかけられた疑惑を晴らす手段を考えなければならない。

 今日のところは『彼女』についての情報を得て、何とか無事にスレイヴと合流する。そして、ダーインスレイヴを渡さない形で聖剣騎士団から専属契約をもぎ取り、クラウドアースから守ってもらうしかない。

 視覚を刺激するカラーリング豊かなライトが店内を彩り、大音量の音楽と酒のニオイが充満している。エイジは顔を顰めながら、開店から1時間も経っていないのにほぼ満員で足の踏み場にも苦労しながらギャラルホルンを探す。

 人気のクラブと言う事もあり、有名人の姿も見受けられる。当然のように娼婦、そして数は少ないながらも男娼もいる。

 店内1角を早くも支配しているのは、女傭兵のアラクネだ。危険な噂が多く、その中でも『美少年を何人もペットとして飼っている』という頭のネジが外れているのではないかという疑惑がある。そして、それは事実と証明するかのように、左右を年端もいかない美少年2人で挟んでご機嫌そうに酌をさせていた。

 

「マダラ、こういう店はちょっと……」

 

「何ですか? 糞雑魚間抜けな部下に奢る酒は無いと?」

 

「そ、そうじゃなくてさ、僕はまだ足もこの通りだし、何よりこういう店にはミスティアの許しが――」

 

「情けないですね。カノジョが怖くて部下を慰めることも出来ないとは。ああ、スミマセンでした。どうせ自分は隊内に恋愛感情を持ち込んで秩序を乱した空気が読めない勘違い野郎でしたね。命懸けで囮になって、死ぬ気で救援して、挙句に点数稼ぎも出来ず、隊長の回復まで重要任務もお預けで待機命令を下され、しかも完璧にフラられた出来損ないの部下でしたねぇええええ!」

 

「わ、分かったから! 今日は僕の奢りだから!」

 

 高い酒を煽って早くも酔いが回った部下に付き合っているのは、先の黒霧の塔事件で負傷して療養中であるはずのラジードである。杖が傍らにあることから歩行に問題があるのは間違いないが、今は追及すべき事柄ではない。入口の陰から、ミスティアがゴースト系モンスターも成仏して逃げたがるような顔をして、ラジードと部下に群がる女性プレイヤーをどす黒い感情で暗闇に支配された目で見つめているが、エイジにはまるで関係のないことだ。

 

(ダーインスレイヴの『警戒』は消えていない。だけど、こうも人数が多いと方向も距離も掴めない。万能レーダーってわけじゃないか)

 

 そもそもダーインスレイヴの『警告』は信頼こそ出来るが、恒常的に発揮されるものではない。つらぬきの騎士戦でも真に危険な攻撃だけに反応した。即ち、エイジの窮地に対して強く反応を示すが、そこにも絶対性はなく、依存してはならないのだ。だが、発動した場合には信頼を置くべきである。

 警戒を怠らず、エイジはギャラルホルンの姿を探す。100人の男が100人とも振り返る程に愛らしい容姿をした彼女だ。必ず目立つはずである。

 だが、エイジの足は前触れなく動けなくなる。いや、背後から感じた、つらぬきの騎士など比較にもならない殺気の不意打ちを受ける。

 殺られる。まさか店内で!? エイジは一呼吸も挟まず、燃え上がらせた憎悪を背後の襲撃者に向けて障害を払い除ける。ボーレタリア王城でコツは掴んだのだ。非戦闘状態では不意打ちにどうしても反応こそ遅れるが、それでも最速の対処が出来たとエイジは焦りながらもダーインスレイヴの柄を握る。

 

 

 

「店内で攻撃行為はご法度だよ♪ ルールを守って楽しみましょう! ナギちゃんとの約束だよ?」

 

 

 だが、振り返りながら剣を抜くより先に、柄尻をそっと押さえられて抜剣は阻まれる。

 今にもキスが出来そうな近距離でエイジに満面の笑みを浮かべて見上げているのは、静脈の血のようにどす黒い赤色の髪を白のリボンでポニーテールにしたギャラルホルンだ。黒のロングブーツとショートパンツ、臍出しのキャミソールという11月にしては薄着であるが、暖房の利いた店内であるならば何らおかしくない格好だ。まるでオシャレに気を使っている年相応の女の子である。

 だからこその異常。目の前にいるのがレギオンであると誰も気づかないだろう。プレイヤーを恐怖させる、人肉を貪る怪物と同種であると受け入れられないだろう。

 

「スゴーイ! ナギちゃんの殺気を耐え抜いたね! うんうん♪ やっぱりナギちゃんの目に狂いはなかった! エイジは『人』だね! でも、どうしてだろう? やっぱりレコンとは違うなぁ。レコンの時は、ナギちゃんはとーっても嬉しい。でも、エイジの時とはちょっと違う。どうして? ねぇ、どうして!?」

 

「僕にも分かりませんよ。そもそもレコンとはどなたですか?」

 

「うーん、腹黒で性格悪くて陰謀好きな人?」

 

「控えめに言ってお近づきになりたくないですね」

 

「アハハハ☆ でも、悪い人じゃないよ? ナギちゃんは好きだなぁ。いっぱい頑張るレコンを見てると、もっともっとナギちゃんを魅せて欲しいってワクワクするの! エイジは……うーん、とりあえず頑張ってみようって感じ?」

 

「鋭意努力します」

 

「そうそう! その意気だよ! もっともっとナギちゃんを魅せてよ!」

 

 スレイヴともグングニルとも調子が異なる。態度は友好的と安易に分類できるかは不明であるが、少なくとも殺気は抑えられた。『テスト』は合格したのだろう。

 ギャラルホルンに手を引かれてカウンター席に着き、彼女が頼んだカクテルが並ぶ。だが、乾杯を求める彼女にエイジは応じない。

 

「警戒しなくていいよ。毒は入っていないし、今はネットワークとも切り離してあるから、エイジと何を話しても、何をしても、『皆』には分からない。それともログを残すようなお馬鹿な真似、ナギちゃんがすると思う?」

 

「いいえ、そうではなく、今は酒を飲んでるような――」

 

「監視のこと? 気にしなくていいよ。邪魔だから少し『弄った』んだ。店内に監視はいない」

 

「…………」

 

「でも、エイジに『余裕』はあんまり無いのは否定しないよ。あ、言っておくけど、ナギちゃんたちは何もしていないからね? ナギちゃん達の目と耳はあらゆる所に潜り込むけど、万能じゃない。見えていないこと、聞こえていないこと、知らないことはたーくさんあるんだから」

 

 つまり、クラウドアースからかけられた疑惑の裏にレギオンは関係していない。それが分かっただけでも儲けだ、とエイジはカクテルに手を出そうとして、だが緊張感を保つために控えることを選んだ。

 

「本当に教えていただけるんですか? その……『彼女』のことを……」

 

「教えたらもっともっと魅せてくれるんでしょ? だったら、歌姫様のこと教えてア・ゲ・ル♪」

 

 本当に『彼女』はDBOにいるのだ。レギオンに太鼓判を押され、エイジは拳を握って1秒でも早く情報を聞きたい焦燥感を堪える。

 

「でも、繰り返すけど、レギオンは万能じゃない。会えるかどうかはエイジ次第だよ」

 

「それで結構です」

 

「……<黄瞳のペイラーの記憶>にいる【古き獄吏】というNPCに話しかけると、担当した監獄について話が聞けて次のイベントのフラグが立つ。その状態でネームド<黄瞳のペイラー>がいるダンジョン<ペイラーの監獄>に行くと幽霊NPCが出現する。後は幽霊を追っていくだけ。その先はナギちゃんも詳しく知らない」

 

 監獄。その単語がエイジの古い記憶を……『彼女』の末路を思い出せるように傷口を引っ掻く。

 

「1つだけ忠告しておくね。エイジはまだ『力』も『強さ』もまるで足りない。つらぬきの騎士との戦い、ナギちゃんもグンねーを通して見てたけど、あの程度では全然足りない。エイジは死ぬよ。このままだと、近い内に『負ける』。敵にも、自分にも、運命にも『負ける』」

 

 死ぬ気で戦ったつらぬきの騎士戦を酷評するギャラルホルンは、何処か悲しそうな目でカクテルグラスの縁を指で撫でる。

 

「ナギちゃんは『人』が大好き。人間賛歌をもっともっと聞かせて欲しい。でもね、エイジの進む道は『人』を極めるものじゃない。『鬼』に至る道だよ」

 

「……『鬼』ですか?」

 

「うん。かつて、力を求めるあまりに正道から外れ、愛する者への情念に囚われ、剣に憑かれた鬼が生まれかけたんだ。それはまさしく剣鬼。でも、『あの人』は戻って来れた。手を伸ばしてくれた人がいた。見捨てないでいてくれた人がいた。寄り添ってくれた人がいた。きっと心の奥底では救われたいと望んでいた。『鬼』に堕ちるなど間違いだと気づいていた。だから戻って来れた」

 

 抽象的な話だ。だが、ギャラルホルンの言わんとすることを漠然と理解し、エイジは己の右手を見つめる。

 

「憎しみでFNCを克服するのは間違い。そう言いたいんですか?」

 

「ううん、違うよ。だけど、エイジは『あの人』と違って、きっと躊躇わない。救済も欲しない。破滅と死が待っているとしても突き進む。そう思ったんだ。だから、エイジはきっと『鬼』になる。どれだけ『力』と『強さ』を手に入れても、それは『人』として輝くものじゃなくて、『鬼』に自らを染め上げていく」

 

「…………」

 

「自らの本質……血にすらも呪いをかけて縛るのが『鬼』の業。それはとても悲しくて、寂しくて、苦しくて……でも、決して譲れない誓い。たとえ、他者から狂人と罵られようとも、己にとっての正道を歩んでいるならば、決して『鬼』に至ることはない。たとえ裏切者と罵られようとも、あの騎士様がそうであったように、最後まで『人』として戦い続けることが出来るものなんだよ」

 

 何が言いたいのだ。苛立ちのままに開こうとしたエイジの口を、ギャラルホルンの右人差し指が触れて止める。

 

「ナギちゃんはもうエイジとは会わない。『人』でも『獣』でもない『鬼』になってしまったら、どう接したらいいか分からないから。『まだ』分からないから」

 

 カクテルを飲み干したギャラルホルンは、まるでダンスでも踊るように回りながら椅子から立つ。

 

「歌姫様と会えるといいね。ナギちゃんは応援しているよ♪」

 

「待て。待ってくれ!」

 

 薄暗い店内でも煌く宝石のようなギャラルホルンを見失うはずがない。だが、出会った時と同じように、まるで幻であったかのように気配なく、エイジはあっさりと見失ってしまった。

 頭を掻いたエイジは、もしかして彼女の分のカクテル代も支払うのかと溜め息を吐いた。

 高い料金を支払って入店したクラブであるが、用が済んだならば留まる理由もない。入口でおぞましいオーラを蓄積させるミスティアと目を合わさないように努めながら、エイジは早足で夜空の下に足を運ぶ。

 欲望渦巻く裏通りの歓楽街は、今こそ朝を迎えたばかりと言わんばかりに賑わっている。

 ダーインスレイヴの『警告』は消えていない。だが、自宅に残したスレイヴを放っておくこともできず、また尾行されていたとしても巻く意味も無いならば、むしろ人通りの多い道を選んで帰宅を目指す。

 

 

「失礼、エイジさんですね?」

 

 

 だが、いつの間にかエイジは4人の男女に囲われていた。いずれも外見こそ中位プレイヤーにも見える装備であるが、それがカモフラージュであると即座に見抜き、エイジはいつでも反撃できるようにダーインスレイヴの柄を握る。

 

「怪しい者ではない、と申し上げても説得力はありませんね。ですが、時間がありません。どうか抵抗せず、御同行をお願いできませんか?」

 

 周囲にはプレイヤーが多く行き交っている。このような場所で凶行を起こせば、たとえ大ギルドの強権で黙らすことが出来ても、後々まで禍根は残す。それは戦争に向けて勢力拡大を目指す上でマイナスだ。また表向きでも秩序の守り手である大ギルドが建前を捨てるわけにもいかないのである。

 ならばこそ、エイジは自分が置かれた状況を冷静に分析する。

 相手は確認できる範疇で4人。だが、罪状を持って捕らえにかからない所を見るに、エイジを犯罪者として取り扱う気はなく、むしろ任意同行を求めて穏便に済ませたがっている。その一方で人目の多い場所で接触を図ったのは、一刻の猶予もない事態に陥っているからだろう。

 装備から所属先は見抜けない。だが、クラウドアースではない。彼らにはいざとなれば『ユニークウェポンの持ち逃げ』という疑惑を突きつけて拘束することも可能だ。多少は強引な手口にもなるが、これならば時と場所を選んでエイジを半強制的に連行することが可能である。故に人目のつく場所で接触してきた時点で、クラウドアースではない。

 次に聖剣騎士団でもないと判断する。理由は単純明快である。ユニークウェポンの持ち逃げについて疑惑がかけられているとディアベルが明かした時点で、1度帰す理由が無いからだ。わざわざ改めて屋外の人目のつく場所で同行を願い出るはずがない。無論、数時間足らずで状況が変わってエイジを早急に確保しなければならない理由が出来たならば別であるが。

 以上の推理を4人に囲われて困惑した『演技』をしながら組み立て、エイジは彼らの所属先の絞り込みに成功した。

 太陽の狩猟団か、教会か、それとも? エイジはダーインスレイヴの柄からゆっくりと手を離し、抵抗はしないとアピールする。

 

「……拒否権は無いようですね」

 

「賢明な判断です。それと油断させて逃げようなどと考えない方がよろしいかと。あちらで我々の仲間が貴方を狙っています。貴方も手足を失いたくはないでしょう? それに、凄腕の狙撃手にも失敗はある。誤って頭を吹き飛ばすかもしれない」

 

 やはり時計塔に狙撃手がいたか。リーダー格らしい40歳前後の男は、エイジの左右と後ろを仲間に囲わせると自身が先頭に立って誘導する。

 案内されたのは、終わりつつある街の南方にある廃墟街だった。獣狩りの夜の影響で復興していない区画は多々あるが、ここは元より発展から取り残された区画であり、終わりつつある街本来の景観を残している。

 元々は富豪の屋敷だったのだろう、ホラーハウスとしてゴースト系モンスターが出迎えそうな外見であり、正門に備わった魔除けのガーゴイル像は、むしろ動き出して襲い掛かってきそうな予感すらした。いや、DBOならば、それはごく普通の……ありふれた光景である。

 館の内部に連れ込まれたエイジは、埃を被ったシャンデリアと砂土で埋もれた床が人気の無さをアピールするエントランスに踏み入れる。

 偽装か。エイジの目は余りにも『整い過ぎた』床の汚れ具合を見て、ここは逆に人の出入りが相当数行われ、なおかつそれを秘匿せねばならない場所だと察する。そして、堂々と正面から館に入ったことから察するに、この偽装は一般プレイヤー向けであり、『プロ』の間では公然の秘密であるとも理解した。

 リーダー格の男がエントランスの中心にあった天使像が持つハンドベルを鳴らす。それがギミック解除の条件なのだろう。天使像の前のタイルは物音を立てることなくスライドし、地下への階段を露にする。

 背後の男に背中を押され、エイジは怯えた演技をしながら、焦りで高まる心拍数を抑える。

 クラウドアースに嫌疑をかけられている時点で、何かしらの手を打たねばならなかったが、これは急展開過ぎる! 打開策を探そうにも情報が足らず、エイジは黙って階段を下りる以外の選択肢は無かった。

 たどり着いたのは館の外観、エントランスとは打って変わって、整理整頓された、だが無機質なコンクリート造りのような空間だった。

 多数の装備が棚に並び、また館周辺の映像がリアルタイムで無数の画面に映し出されている。まるで秘密基地のような空間では、先んじて待機していた6名程の男女がリーダー格の男の到着に敬礼した。

 

「まずは武器を預からせていただきたい。構わないな?」

 

「それは――」

 

「いいから寄越せ!」

 

 せめて武装解除の方向に持って行こうとしたエイジの頬を、右隣を固めていた男が殴りつける。吹き飛ばされそうになったエイジを左隣の女がキャッチして無理に立たせる。

 

「抵抗しない方が身の為よ。渡して頂戴」

 

 一切の感情を排した、まるでNPCのような声音で警告され、エイジは彼らが普通のプレイヤーではないと改めて確信する。

 このような場所に連れて来られた以上は察している。『通常戦力』として大ギルドに属している者ではない。日陰で刃と謀略を振るう者たちだ。

 暗部。エイジは噂程度しか聞いていないが、大ギルドの闇の部分を担う者たちだろう。悪名高い【渡り鳥】は、そうした大ギルドの暗部に携わる依頼を多くこなし、多額のコルを得ていると噂されている。そして、それを裏付けるように、彼のこなした依頼のほとんどはクローズであり、また僅かに確認された情報の限りでも夥しい流血と死が蔓延る。

 エイジは袖で口元の血を拭い、ダーインスレイヴを剣帯から外して右隣の男に渡す。男は鼻を鳴らすとまだ足りないと言わんばかりに睨む。

 

「金欠でして、他に武器はありません」

 

「システムウインドウで確認させろ」

 

「……構いません」

 

 本来ならば、たとえ大ギルドであろうともプレイヤーにステータス等の開示を強要するのは、リアルの詮索と同等のタブーだ。先のボーレタリア王城探索依頼でも、帰還後にログの開示こそ求められたが、それでもアイテムストレージの開示までは要求されていない。

 

「間違いないようだな。だが、剣はまだファンブル状態だ。武器枠から解除とアイテムストレージからの除外も――」

 

「S3、それくらいにしておけ。我々にそこまで彼に強要する権限はない」

 

「ですが!」

 

「命令が聞けないのか? 熱くなり過ぎだぞ。今日はもう休め」

 

「……了解」

 

 エイジを殴った男をリーダー格の男が窘め、エイジは地下空間の更に奥へと連行される。

 まるで刑事ドラマの取調室だな。グレー1色の狭苦しい部屋であり、天井からぶら下げられたランプだけだ。火ではなく発光するクリスタルであり、ぼんやりと白ける程度に光で空間を浸している。

 安っぽい金属製のテーブルと椅子が2脚。片方に座れと無言で促され、エイジは腰を下ろす。

 リーダー格の男はエイジの左隣にいた女性をエイジの背後に配置すると、疲れを癒すように肩を回しながら相対する席へと座る。

 

「血の気の多い部下ですまない。HPを減らす行為は敵対行動と取られてもしょうがない明確な危害だ。深く謝罪する」

 

 減ったHPを回復させるべく、回復アイテムを渡されるも、エイジは安易に使用したくなかった。SAOでは水や飲食物に毒を混ぜるといったPKも流行したからだ。このような状況下で相手から渡されたアイテムを使う程にエイジは『間抜け』ではない。

 だが、エイジは感謝を表面に貼り付けて躊躇いなく、ガラス瓶に入った液体を飲み干す。システムウインドウを開いて内容を確認もしない、まさしく『愚劣』としか評しようがない危機感の欠如、そして相手への信用を『演技』する。

 エイジの行動にリーダー格の男は笑みを零し、アイテムストレージからファイルを取り出す。内容はエイジの角度から見えないが、大よその見当はつく。自分のプロフィールが記載されているのだろう。

 

「エイジくん。それとも【ノーチラス】くんと呼んだ方がいいかな?」

 

「エイジでお願いします」

 

 ノーチラス。その名前はエイジがSAO時代からスレイヴと新たな道を進むまで使用していたプレイヤーネームだ。聞くだけで無条件で苛立ち、『演技』が崩れそうになり、エイジは平常心を己に訴える。

 演じるべきなのは『理解し難い状況に置かれて混乱しているランク無し』だ。そして、付け加えるならば、このリーダー格の男に少なからずの信用を寄せた態度も必要になる。

 

「まず誤解しないでくれ。我々はキミの『味方』だ」

 

「『味方』……ですか?」

 

「そうだ。だが、素性も分からない我々を信じてくれとお願いしても無理だろうな」

 

「そうですね。さすがに、ちょっと……」

 

「キミの信用を得たい。我々は太陽の狩猟団でも特務に従事する部隊の者だ。俗に『暗部』と呼ばれているが、これで分かるかな?」

 

「リーダー!? 彼にそのような――」

 

「いいんだ、S8。私が責任を持つ。エイジくん、私は便宜上彼らのまとめ役……S1と呼ばれている。キミもそう呼んでもらって構わない」

 

「分かりました。S1さん……は、少し呼びづらいですけね」

 

「ははは。違いない」

 

 部下の非難を押し切って所属を明かし、穏和な態度で自分は『味方』だとアピールする。使い古された手だ。

 

(『優しい刑事と怖い刑事』か。騙されてやるよ)

 

 目配りもハンドサインも無い。だが、エイジの人間不信と卑屈さは一朝一夕で出来上がったものではない。

 エイジを殴って強引に武装解除させた男だが、あれは『演技』だ。わざと高圧的な態度を取り、リーダー格の男……S1が相対的に『理性的で安易に暴力を振るわない人物』と印象付ける役目を担っただけだ。

 この密閉空間で武器もないエイジが抗うにしても≪格闘≫だけでは限界がある。≪格闘≫のみで戦う全身凶器のライドウならば別であるが、エイジは手練れと見受けた2人に前後を挟まれた状況で打開する術はない。

 だが、エイジはダーインスレイヴとの繋がりを感じていた。ファンブル状態にこそなっているが、装備状態にあるダーインスレイヴは、エイジとリンクしている。これならば、最悪の事態でも最低限の抵抗は可能だ。

 

「キミも自分の置かれている状況に混乱しているはずだ。話せる範囲にはなるが、掻い摘んでキミがどれだけ危険な状況下にあるかを説明しよう」

 

 無言で頷いたエイジは、彼らが本当に太陽の狩猟団だろうかという疑いを捨てきれないままだったが、その前提で話を聞くのが現状の最善であると判断する。

 

「クラウドアースはキミに2つの嫌疑をかけている。ユニークウェポンの盗難と機密漏洩だ」

 

「待ってください! どういうことですか!?」

 

 前者は聖剣騎士団から警告されていた通りであり、後者は初耳だ。だが、エイジはディアベルがそれとなく『秘密』について探りを入れていたことを思い出す。あの時点で彼はエイジがクラウドアースの機密漏洩に関与していると疑っているのだ。

 

「落ち着いてくれ。正確に言えば、機密漏洩『未遂』だな。まだ件の機密は漏れていない。少なくとも我々が感知する範囲内ではな。だが、クラウドアースは危険視している。キミを『消す』ことも厭わないだろう」

 

「…………っ!」

 

 ユニーウェポンの持ち出し疑惑の時点で最悪かと思っていたが、どうやら物事の底とは存外思っているよりも深いようだ。エイジはある種の諦観を覚えながらも、不安を露にする演技に変えて消化して動揺を堪える。

 

「安心してくれ。その為に我々が来たんだ。キミを早急に『保護』する必要があった」

 

「そ、そうだったんですか。そうだ! スレイヴは!? スレイヴは無事なんですか!?」

 

「スレイヴ……ああ、キミの同居人だな。残念ながら、キミの住居はクラウドアースの『同業』に包囲されていて詳細は不明だが、彼女は運よく外出していたようだな。安心してくれ。我々が捜索中だ。たとえクラウドアースや聖剣騎士団の手の内にあっても必ず『保護』しよう」

 

 さて、嘘か真か。だが、ここでスレイヴが確保されていないと虚言を混ぜる効果は薄い。後々になって、エイジから情報を聞き出すべくタイミングを狙って『保護した』と明かして涙の再会に持ち込む……という手もあり得る。故に油断せず、だが腐ってもレギオンであるスレイヴが簡単に捕まるとも思えず、まだ太陽の狩猟団(仮)に確保されていないと前提する。

 

(だけど、スレイヴは自称『最弱』のレギオン。貧民でも数で集られたら反撃も出来ないくらいに弱い。しかも邪剣創造で更に弱体化している。コイツらが太陽の狩猟団の……大ギルドの暗部なら最低でもレベルは上位プレイヤー級のレベル95~100、あるいはそれ以上か。レベルだけでステータスは図れないが、何にしても1人でもスレイヴには勝ち目は無い)

 

 彼らに捕まっておらずとも、大ギルドが動いているならば、スレイヴが逃げ切れる確率はほぼゼロだ。レギオンが手助けしてくれたならば逃亡成功率は上昇するが、希望的観測は止めるべきであるとエイジは肝に銘じる。

 

「キミの経歴は、失礼を承知で言わせてもらうが、とても奇妙だな。ギルド【牛角団】の荷物持ちからスタート。ほとんど奴隷扱いだったようだな。荷物持ちがどれだけ重要な役割なのか彼らは理解していない。だが、キミは文句1つ言わずに彼らと同行し、非効率ながらもレベルアップを重ね、やがてギルド内でもソードスキルの扱いで頭角を現し、クラウドアースのスカウトを受けてエリートプレイヤー候補生入り。成績は主席。対人戦も対モンスターにおいても非凡な才覚を発揮し、ここでもソードスキルの扱いは群を抜いていた。だが、コミュニケーション能力には難があったようだな。候補生間の交流には積極的ではなかった」

 

「そのような情報を何処で……」

 

「ははは。ここまで詳しいとクラウドアースの手先なんじゃないかと疑われてしまいそうだな。だが、これが暗部の力というわけさ。大ギルド同士の諜報合戦なんて、子どもにだって知れ渡っている。公には出来ないが、この程度は機密でも何でもない。いずれの大ギルドも10秒と待たずしてキミのプロフィールを引っ張り出せる」

 

「す、すごいです」

 

 まぁ、僕がSAOリターナーであることまではバレていないようだがな。エイジは自分が血盟騎士団時代も含めて影が薄く、また期待もされていなかったかは理解している。まだ障害がハッキリと表面化していなかったとはいえ、当時から片鱗は見えていたのだ。決して攻略組にはなれないと誰もが嘲笑していた。鬼の副団長も多少は目をかけてくれていたが、『戦いと死の恐怖』を乗り越えられないとして攻略組には不適格とした。

 最後までエイジを信じていたのは『彼女』だけだった。生き残りのSAOリターナーや復活した死者さえもエイジを憶えている者はいないだろう、と負の自信をエイジは持っている。書籍にも登場しておらず、インタビューにも応じていない。ノーチラスというプレイヤーネームすらあらゆる媒体で記載されていないのも現実世界で嫌という程に確認済みだ。

 

(アスナさんは憶えていそうだな。あの人の記憶力は半端じゃない)

 

 エイジがSAOリターナーとバレる懸念材料はアスナだけであるが、彼女は正体を隠して活動している。大ギルドが把握済みかどうかは不明であるが、エイジの正体をわざわざ確認など取っていないだろう。

 

「問題はここからだ。キミは最終試験でリポップ型ネームド【岩背負いのデーモン】と他候補生5名とパーティを組んで戦闘をした。行動パターンも含めて分析し尽くされ、なおかつレベル的にも十分に安全マージンを取った相手だ。キミの成績を見る限りだと、まず後れを取る相手じゃない。だが、キミは戦闘開始と同時に腰を抜かして動けなくなった。クラウドアースはキミの精神が最前線に耐えうるものではないと判断し、候補生から除外。キミは街の巡回警備に任命された」

 

「…………」

 

「プライドの高い者ならば、自殺してもおかしくない屈辱だ。だが、キミの職務はむしろ模範そのものだ。定められたルートと時間に巡回する。人々はキミを『NPC』と侮辱していたようだな。だが、その一方で狩り場の使用履歴を見させてもらった。ほぼ毎日のレベリングだな。睡眠時間もかなり削っている。それに修練場の使用回数もトップだ。たとえ安全性を重視した非効率なソロでもこれだけ回数を重ねれば、キミのレベルは相当なものだ。上位プレイヤーでもおかしくない。だが、監督員のレポートによれば、キミはレベリング中に何度も何度も、それこそ周囲に嗤われながらも這って逃げる醜態を晒している」

 

「嫌な思い出ですね。でも、お陰で精神的にも鍛えられました」

 

「クラウドアースの離籍後、キミはサインズに傭兵登録した。初仕事は【バーサーク・ヒーラー】の調査依頼で結果は失敗。その後、あのグローリーと協働探索依頼で、ボス・ネームドのつらぬきの騎士を撃破した」

 

「大部分はグローリーさんのお陰ですよ。ラストアタックも譲ってもらっただけです」

 

「そのようだな。だが、キミの戦果は、預からせてもらっている剣……推測だが『モンスターの能力をラーニングする』ユニークウェポンもあってこそのものだろう」

 

 クラウドアースからユニークウェポン盗難疑惑をかけられていると聞いた時点で、聖剣騎士団経由でエイジの戦果について情報漏洩したのは確定していたが、つらぬきの騎士戦は詳細まで把握されていると考慮すべきだろう。

 聖剣騎士団の情報管理は杜撰なのか、それとも他大ギルドが本気で情報を抜いたのか、あるいは聖剣騎士団が意図してリークしたのか。いずれにしても、邪剣ダーインスレイヴの能力は見事に全大ギルドに筒抜け状態であることは確かだろう。

 

「私も仕事柄、多くのユニークウェポンやユニークスキルに付いて情報を得ている。最近は【Mr.R】なんてふざけた輩があれこれ情報をばら撒いているせいで、探索部隊は大目玉だよ。『貴様らの目は節穴か』とね! ははは! ここは笑いどころだぞ?」

 

「噂は聞いています。神出鬼没の情報屋で誰も正体を知らず、だが大ギルドでも掴んでいないイベントやアイテムの情報をタダ同然で教えて回っているとか」

 

 どうせ大ギルドのマッチポンプなんだろう? 目的は不明であるが、【Mr.R】という名の『組織』がいずれかの大ギルドの命を受けて、あるいは3大ギルドや教会もグルになって動いているのだろうとエイジは予想する。

 

「さて、キミにかけられている疑惑の1つ、ユニークウェポンの盗難についてだ。クラウドアースもそうだと思うが、ドロップしたアイテムを隠匿して離籍するのは重大なルール違反だ。クラウドアースは在籍時の契約書にドロップアイテム等を隠匿して私物化を禁じている。これに反した場合、キミに課せられる賠償金の額は――」

 

「およそ10倍。あれだけの能力です。専門家ではありませんが、ユニークソウルと同等の扱いならば、5000万コルはくだらないでしょうね。僕みたいなランク無しの木っ端ではとてもじゃありませんが支払えません」

 

「そうだな。キミはクラウドアースに捕縛され、強制労働に従事するだろう。罪状を考慮すれば、およそ人間らしい扱いはされないはずだ。鉱山送りでもマシな部類だろうな」

 

 鉱山送りなど何処も似たようなものだ。朝から晩まで狭苦しい鉱山や何も無い採掘場に押し込められる。消耗品のピッケルを片手に採掘作業を続けるのだ。幾らスタミナがある限り動き続けられるとはいえ、単純作業の繰り返しの中で疲労感は蓄積し、全身は動かなくなる。高難度ステージの鉱山ともなれば生命の危機も増す。毎日がストレスの塊であり、耐えかねて心を病む者も多い。

 恐ろしくて堪らない。エイジは全身で怯えを表現する。クラウドアースという強権を前にして震える子犬を演じる。

 真偽など関係ない。クラウドアースが『黒』といえばエイジは有罪だ。DBOは初期に比べれば秩序が敷かれているが、それは大ギルドという大組織の下の秩序だ。教会という存在の登場もあったが、今もDBOを支配するのは3大ギルドだ。

 大ギルドを罰する法はない。プレイヤーを守る人権もない。教会が説く教義がもたらす倫理は現実世界のそれとは違う。

 どれだけ個人が強大な力を持っていても大組織には敵わない。救国の英雄が王に疎まれて悲劇の最期を迎えるなど、世界中の何処にでもある物語である。

 

「僕は盗んでいません! 本当です! あの剣は離籍後にドロップしたものです!」

 

「もちろん、我々はキミの無実だと信じている。言っただろう? 私達は『味方』だ。クラウドアースはユニークウェポンをキミから奪うだけではなく、ありもしない罪で賠償を要求し、以後の人生全てを強制労働に費やさせるつもりだ。そのような横暴、我々の正義にかけて断じて許しはしない」

 

 正義か。なんと薄ら寒く、だが追い詰められた者が縋りたくて堪らない概念だろうか。正義とは個人・コミュニティによって大きく差異が生じるものだ。この世で最も信用してはならないものこそが正義であるとエイジは考える。正義とは己で定める道徳観における指針に過ぎず、それはたとえ魂を分けたかのような双子の兄弟であっても異なるものなのだ。

 

「だからこそ、全てを包み隠さず教えて欲しい。クラウドアースはキミを確保すべく動いている。重大な機密をキミが盗んだと疑いをかけているんだ。我々が力になる。約束しよう。キミの身の安全を保障する。だから知っている事なら何でもいい。教えてくれ」

 

 信じられる要素の欠片もない約束だ。エイジは事態を呑み込み切れずに戸惑うフリをして考える時間を稼ぎながら、内心では唾棄する。

 人間とレギオン。どちらが信じられるかと問われた場合、今のエイジは迷わず後者を選ぶだろう。

 

(クラウドアースからはアイテムどころか情報1つだって盗んでいない。全くのデタラメだ)

 

 わざわざ罪状を増やしてエイジを捕縛するメリットもない。ならば、クラウドアースは少なくとも現状において、エイジが重大な……それこそ他の大ギルドも動き出す程の機密を盗んだ疑惑をかけているのだ。

 無から有を生み出せない以上、エイジはクラウドアースの機密など持ち合わせていない。だが、それを証明することもまた出来ないのだ。

 今は『優しい刑事』の出番だ。仮に機密など知らないと答えれば、『恐い刑事』がエイジを拷問するだろう。運の悪いことに、エイジは先のクラブにて30分足らずで出てしまっている。それは明らかに『用事を済ませただけ』の行動として映るだろう。即ち、機密情報を『誰か』に渡したと疑われるには十分過ぎる状況証拠だ。また、ギャラルホルンがどのような手段であれ、仮に彼らがつけた監視を排除したならば、そのやり方次第ではエイジの疑惑は増々深まる。

 拷問と尋問を重ねてエイジが『白』だと判断された場合はどうなるだろうか? 決まっている。『容疑者』としてクラウドアースにお返しするだろう。クラウドアースはまたエイジを拷問して真偽を確かめる。拷問による証言に信憑性があるかは別として、徹底的に責め苦を味合せるだろう。そうしてエイジが『白』と分かっても解放することはない。

 最悪の場合は『処分』される。そうでなくとも日の目を浴びることは無いだろう。都合よくユニークウェポン盗難疑惑もあるのだ。そちらで有罪にして強制労働送りである。

 

(もしかせずとも詰んだか?)

 

 まずい。逆転のカードどころか、打開策すらも無い。エイジは演技ではなく、本気の脂汗が額に滲み、自身が崖っぷちに追い詰められていると把握した。

 

「すまない。キミにも考える時間が必要だったな。私達は退席しよう。ゆっくりと頭を整理してくれ」

 

 部下の女と共にS1は出ていき、1人残されたエイジは両拳を握ってテーブルに置き、今の自分に取れる最善を模索した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「小物だな。あれはネームド相手に戦えるような奴じゃない。『馬鹿』がランク無しに華を持たせたってところだろう。あるいは、聖剣騎士団が奴をいい気にさせて機密を引き出そうとしたってところか」

 

 取調室から戻って来たリーダーのS1は、エイジを殴りつけた部下より労いの珈琲を受け取りながら、監視カメラの映像で四方八方から映されているエイジをそう評した。

 監視モニターから音声付きで取調室のやり取りを見守っていたシノンは、義手を鳴らして腕を組みながら、今回の協働相手だった太陽の狩猟団の暗部、その実働部隊の1つを取り仕切る男に横目で睨む。

 

「幾らグローリーと協働とはいえ、ネームド相手に生き残った以上は本物よ。油断しない方がいい」

 

 たとえ数に埋もれていても、場違いな弱者は自然の摂理に晒されたかのように死ぬのがネームド戦だ。運良く生き残ることはあるにはあるが、ネームド単独撃破経験者のグローリーと協働とはいえ、たった2人でネームド戦を生き残ったとなれば、実力を疑う余地などない。

 そして、ランク持ち傭兵とは、その過半が『実力はあっても組織で生きることが出来ない、決定的な欠陥を持ったプレイヤー』である。シノンの場合は組織に雁字搦めにされるのが嫌というだけという比較的軽い理由であるが、グローリーのように『ウザすぎて追い出された』者もいる。純粋に名声や富を求めて傭兵業を営んでいる者もいるが、まともな精神であるならば、傭兵業のリスクと秤をかけてギルドに属することを選ぶだろう。

 シノンはエイジの経歴と監視カメラの映像を交互に確認する。

 資料の中のエイジは最初の印象の通り、あらゆる歯車が噛み合っておらず、その正体がまるで見えない不完全性を感じる。

 数時間とはいえ見張り、また監視カメラの中にいるエイジは、一見すればS1が評した通りの小物である。大金を得て娼婦を買い、クラウドアースに狙われていると知って動揺する、まさに絵に描いたような小物だ。

 だが、シノンには拭いきれない予感があった。エイジが娼婦を買う直前に、自分に勘付いたような気がしたのだ。

 確実に有効視界距離外かつ隠密ボーナスを高める装備で固めていた上に≪隠蔽≫スキルも使用していたこともあり、シノンもやや気が緩んだ状態でエイジを監視していた。無論、システム上は気を抜いたからといって勘付かれるものではないが、人間の……生物の直感とは侮れないものがある。

 GGOを含めて多くのプレイヤーをスコープ越しで覗き続けた経験が警告している。エイジは『気づいていた』。それは監視カメラ越しのエイジの所作を見る度に、ハッキリとした確信へと変わっている。

 演技だとするならば劇団勤めのプロどころか、スパイ養成学校でも通っていたのではないかと思う程に自然だ。シノンも胸から湧き出す警告さえなければ、早々にS1と同じ評価を下していただろう。

 

(でも、仮に演技だとしてもチェックメイト。ここから逆転は出来ない)

 

 仮にシステムウインドウを操作しようとした場合、レベル3の麻痺薬が霧状に噴出されて取調室を5秒と待たずして充満する。即効性は薄くとも確実に蓄積するだろう。壁・天井・床・ドアのいずれも頑強であり、麻痺になる前に逃げ出すことはほぼ不可能だ。仮に破壊できたとしても、完全武装した『対人戦』に特化した暗部の部隊がいるのだ。エイジに勝ち目はない。

 

「恐らくだが、奴は利用された口だろう。既に機密はクラブで誰かに渡してあるな。S4達の容態は?」

 

「まだ意識を取り戻していません。HP減少もアバター損壊もデバフにかかってもいません。どうしてあんな状態になったのか、まるで謎です」

 

 エイジをクラブ内で見張る予定だった暗部の3人は、いずれも意識を失った状態で発見されており、今も目を覚ましていない。エイジが機密情報を渡した相手が勘付いて排除したと思われるが、どのような手段を用いたかは不明である。シノンも狙撃ポイントからは3人を襲った犯人を目撃出来ていなかった。

 

「もう機密が別の誰かに渡っているなら、彼に利用価値はないんじゃない?」

 

「それを判断するのは上の仕事だ。俺達も詳細は不明だが、流出すればクラウドアースに大ダメージを負わせられる特ダネなのは間違いない。それに引き渡した相手の情報さえ分かれば、こちらとしても『料理』する方法は幾らでもある」

 

 さすがは暗部、恐ろしいわね。大ギルドの恐ろしさの一端を垣間見ながら、これでも『浅瀬』なのだとシノンは目を伏せる。

 

「彼はこれからどうなるの?」

 

「ここで口を割るならそれでいい。そうでないなら……少し痛い目に遭ってもらう」

 

 エイジがクラブにいたのは30分もない。明らかに用を済ませる為だけに高い料金を支払って入店したのだ。ならば、誰かと待ち合わせしていただろう事は想像するに難しくない。

 仕事を引き受ける程に抜け出せなくなる。深みに嵌まっていく。S1が率いる実働部隊は暗部でも『下っ端』の部類だ。彼らはまだ常識と呼べる範疇で物事を判断する。安易に暗殺を口にせず、無関係の人間を巻き込むことを是としない。

 だが、彼らも恐れる暗部の深み……大ギルドの支配の裏に潜む闇は、まさしく血と謀略と裏切りに満ちた世界なのだろう。そして、そうした闇の中でこそ白いカラスは悪名を築き、3大ギルドからも危険視される災厄の傭兵となったのだ。

 

「ここから先は見ていて気持ちのいいもんじゃない。仕事は終わったんだ。もう帰った方がいい」

 

「そうさせてもらうわ」

 

 見届けるのも義務であると考える一方で、これ以上は彼らの仕事の邪魔にもなる。自分の仕事を終えたならば、この舞台からは退場するのは道理である。

 1発も撃つことなく報酬を得る。それは経済的で喜ばしいことだ。だが、心は擦れていく。能動的殺意の獲得とは別に、こうした影の依頼のこなす程に、心は干乾びていくような気がするのだ。

 

「リーダー、ターゲットの同居人の行方はまだつかめていません。クラウドアースも確保できていないようです。もしかして、もう聖剣騎士団に逃げ込んだのでは?」

 

「あり得るな。情報部に探らせろ。くれぐれも慎重にと頼んでおけ」

 

「了解」

 

 エイジはほぼ『黒』だ。怪しい行動が多過ぎる。S1は部下に指示を飛ばし、彼の同居人も共犯とみて捜索している。もしかせずとも、シノンにも同居人確保という新たな仕事が舞い込むかもしれない。だが、少なくとも現時点で彼女のミッションは終了している。

 サインズに依頼終了報告をして報酬を受け取り、熱いシャワーを浴びて眠りにつくのだ。そして、明日には何食わぬ顔で別の依頼を引き受ける。エイジたちがどうなるかなど知ろうともしないだろう。知りたくもないからこそ、目を背けて耳を塞ぐのだ。自分は仕事をしただけなのだと言い聞かせるのだ。

 

(ああ、こういう事ね。『ガタ』はもう来てるのかも……)

 

 能動的殺意がもたらす『反動』ばかりを警戒していたが、別の所から綻び始めている自分に気づき、シノンは自嘲が漏れないように唇を真一文字にする。

 

「ところで、彼を奪いにクラウドアースや聖剣騎士団も仕掛けてくるんじゃないの?」

 

「あり得ないな。クラウドアースも我々が奴を確保した時点で、上に引き渡しの交渉を持ちかけているはずだ。暗部や傭兵を送り込んで奪おうなんて、ラストサンクチュアリ壊滅を控えた今では歩調を崩すだけだし、そうでなくとも余計な火種になるから避ける。聖剣騎士団にしてもせいぜいが嫌がらせくらいだ」

 

「楽観してると足下を掬われるわよ」

 

「経験則と言ってくれ。まぁ、【渡り鳥】を派遣して奴ごと我々を皆殺し……なんて最悪中の最悪のケースも十分にあり得るが、今回もそれは無さそうだしな。正直ホッとしているさ」

 

 まさに最終兵器。全てを消し飛ばす核爆弾のような扱いを受けているクゥリに、シノンはやはり万華鏡のようだと抱いた印象を強めた。

 その時だった。監視カメラに映し出されていたエイジが突如として立ち上がり、素早くシステムウインドウを操作し、ファンブル状態だった剣を再装備することで自身の手元に出現させる。

 

「馬鹿が。麻痺ミスト噴出しろ」

 

 S1の指示により、取調室の四方八方から黄色の麻痺薬が霧状で噴出される。仮に息を止めていても、いずれは窒息状態となってHPが自然減少する以上は無駄な抵抗だ。

 

 

 

 

 だが、エイジの放った突きは極大の光を伴い、まるで紙製であったかのようにドアを粉砕した。

 

 

 

 

 まさかの光景にS1は唖然とするも、そこは暗部の人間だ。すぐに冷静さを取り戻し、部下に指示を飛ばして取調室から逃亡したエイジの確保に向かわせる。

 シノンは漏れた加虐心のままに舌なめずりをしてボーナスチャンスだと意気込む。

 同情はしない。シノンは自分自身の意思でトリガーを引く。エイジの今後がどうなろうとも……殺すことになったとしても、撃ち抜くだろう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

『おーい、聞こえるか? もしもーし!』

 

 いかにしてこの苦境を打開するか、頭をフル回転させていたエイジは、突如として頭に響いた……いや、まるで骨振動で通話しているかのように鮮明なスレイヴの声を聞いた。

 幻聴か? いよいよ現実逃避して頭がおかしくなかったか? 貧弱な精神とは思っていたが、これほどまでだったとは。そのようにエイジが自分を卑下したのも数秒の話だった。

 

『ちゃんと聞こえているようだな。良かった。昨夜の内に調整していて正解だった。ほら、先の1件があっただろ? だから保険で、邪剣に搭載されたレギオンプログラムと俺の繋がりを弄っておいたんだ。簡単に言えば、俺とお前だけの専用回線だ。フレンドメール機能の応用だから、お前がダンジョン内にいたら通じないが、それ以外の場所だったら何処でも連絡可能だぞ。素晴らしいだろう!』

 

「…………」

 

『どうした? ああ、なるほど。ダーインスレイヴが手元に無いんだな。俺の声はレギオンプログラムとのリンクを通してお前にダイレクトで伝わっているが、お前の声は邪剣がマイク替わりになって拾うからな。大方、捕まって奪い取られたといったところか。だが、武器枠解除まではさせなかったかようだな。さすがはエイジ、俺の相棒だな』

 

 いや、今のは単純に予想外過ぎて言葉を失っていただけだ。エイジは驚愕が表面化しないように最大限の努力をして表情を殺す。

 

『先に言っておく。コイツは俺に結構な負荷をかける。ぶっちゃけると、こうして話している間はグロッキー状態で動けそうにないし、長話は出来ないし、連用も出来ない。だから手短に伝える。今のお前はほぼ詰んでいる。ハッキリ言って、現状でランク持ちなんて不可能だ。お前を待っているのは「死」だ』

 

 命を奪われるか、一生の全てを奪われるか。そのどちらかしかない。スレイヴにハッキリと断言され、ようやく手に入れかけたランク持ちへの切符は失われたと実感する。

 

(あの時、聖剣騎士団の誘いに乗るべきだったか。いや、約束が守られた保証は無いし、仮に専属になってもクラウドアースに疎まれ続けた)

 

 クラウドアースを離籍した時点で導火線には着火していたのだ。

 どうしてだ? スレイヴと出会い、やっと戦う事が出来るようになったのに、どうしてだ!? 理不尽な運命にエイジは憎悪を募らせ、爆発させる矛先を求める。

 だが、同時に少なくとも短期的ではあるが、現状打破の光明も見出す。スレイヴは無事であり、なおかつエイジの状態をある程度は把握しているという点だ。

 

『エイジ、まずはそこから逃げろ。生き残ることが最優先だ。恥も外聞もなく逃げろ』

 

「…………」

 

『30秒後に支援する。上手く利用して逃げ延びろ! これは戦略的逃亡だ! お前が「敗者」にならない為に、今は脇目も振らずに逃げろ!』

 

 みっともなくとも今は生き延びる。たとえ、積み重ねた全てが台無しになるとしても、別の方法でやり直せると信じて、今は全力で逃げるしかない。それはエイジも同意するところだ。盤上で詰んでいるならば、盤外に逃げるしか選択肢はない。

 30秒後に脱出支援がある。エイジはスレイヴの言葉を信じる事に躊躇いはない。

 人間よりもレギオンを信じる。エイジはシステムウインドウを操作し、ファンブル状態のダーインスレイヴを再装備する。同時に全方位から黄色い霧が溢れ出し、エイジは息を止める。十中八九、行動不能にする麻痺だと読み、1秒として猶予はないと最大火力による突破を試みる。

 邪剣ダーインスレイヴ、ラーニング【つらぬきの刃】。それはつらぬきの騎士から習得した能力の正式名称である。グローリーが破壊不能とさえ誤解したつらぬきの騎士の鎧に大穴を開けた程の破壊力は伊達ではなく、一撃でドアを粉砕する。

 懐柔目的で手足を拘束されていない内で助かった。【つらぬきの刃】の衝撃で、取調室の外で警備していた男は吹き飛ばされて瓦礫に埋まっている。いっそ【つらぬきの刃】に巻き込まれて死んでくれていれば、とエイジは思いつつも今は逃げることに集中して駆ける。

 エイジの魔力では【つらぬきの刃】を使えるのは2回が限度だ。地上に脱出するための出口は、エイジが知る限り入る為に使用した階段だけである。封鎖されているはずであり、突破の為に【つらぬきの刃】は不可欠だろう。

 即ち、あと1つでも【つらぬきの刃】を使わねば対処できない障害があったならば逃げきれない。スレイヴの脱出支援に期待するしかないが、それも地下からの脱出に何処まで役立つか、分かったものではなかった。

 

「止まれ、エイジくん! 今ならまだ間に合う! 自暴自棄になるな! 私達は『味方』だ!」

 

 まだ『優しい警官』を演じるS1に対して、エイジはこちらに演技をする余裕はないと無言で応じる。

 だが、狭い通路で相手は3人。いずれも連射性に優れたアサルトライフルを装備していた。エイジには防ぐ手立ても回避するスペースも無い。

 普通ならば観念か思考停止で立ち止まるだろう。あるいは無謀な突撃で銃撃の雨に晒されるだろう。だが、エイジは『逃げる』為のルートを割り出し、即座に実行する。

 1歩、2歩、3歩、そして4歩で求めたスピードまで達して壁を駆けて跳び、天井を足場にして更に跳んで待ち構えていたS1達3人の頭上を越える。

 いかに仮想世界では現実の肉体を超えた身体能力が付与されるとしても、その動きは図抜けた身体操作センスがなければ不可能である。それに気づかぬはこの場でエイジばかりであり、S1を筆頭に彼の実力を完全に見誤っていたと唖然とする。

 それでも即座に振り返って3人がほぼ同時に銃口を向けるのはさすがとしか言いようがなく、だが先んじて邪剣の先端で床を抉りつけて破砕して土煙を舞い上げてエイジは姿を隠す。

 同士討ち上等の銃弾が放たれ、銃弾が幾つかエイジに喰らい付く。だが、アサルトライフルは、ライフルよりも低威力であり、マシンガンよりも連射性能に劣る。器用貧乏であり、だが最適距離では両者の強みを発揮する性質を持つ。エイジはこの距離でばら撒いただけの弾丸など十分に耐えられるとスピードを緩めない。

 約束の30秒が来る。地震に見舞われたのではないかと思うほどの大揺れは、時間を計っていてあらゆる事態に備えていたエイジ以外に動揺を生み、彼の包囲を遅れさせる。また、剥離した天井が落下して幾人は下敷きになる。

 進路を阻む女の警棒をダーインスレイヴで弾き飛ばして左脇腹を蹴り抜き、続くマシンガン装備の懐に入って両目を薙ぐ。どちらもエイジに反撃できる余裕はなく、彼は一気に地上へと続く階段を駆け上がる。

 予想通りに隔壁は閉ざされており、【つらぬきの刃】で大穴を開ける。その間に追撃の弾丸が襲い掛かり、エイジのHPは削れる。だが、VITに十分なポイントを振り、≪射撃減衰≫もあるエイジならば、連射を浴びない限りはアサルトライフルで大ダメージを受けることはない。

 魔力切れの脱力感のエイジを歓迎したのは、静謐の夜空などではなく、煌々と燃え上がる炎だった。館を含めた敷地を燃やし尽くす勢いの炎であり、思わず呆気に取られそうになったエイジであるが、足を止めるわけにはいかないと、炎に焼かれていない僅かな隙間を縫うように走る。

 想像通りと言うべきか、ガーゴイル像は警備システムだったらしく、翼を広げて飛翔して索敵を行っていた。2体のガーゴイルは当然の如くエイジを捕捉し、急降下で攻撃を仕掛けようとするが、流星のように降り注いだ金属物が直撃して爆発に呑まれて墜落する。

 ミサイル!? 飛来物の正体を視認し、エイジはとんでもない支援だと喜びと驚きを半々で占める。

 エイジが巻き込まれるかもしれない。そんな配慮などない無差別攻撃だ。それが逆にありがたく、エイジは敷地外まで走り抜ける。その先には都合よく……いや、スレイヴの手配だろう。下水道に続くマンホールが開いている。

 あそこまで逃げ込む以外にない。エイジが最大加速に入った時、ダーインスレイヴの『警告』が全身に駆け巡り、また障害特有のアバターの動きを阻害しようとする『濁り』がエイジを突き抜ける。

 強者の殺気。それを受けてエイジの生存本能から発せられた命令がアバターの操作を奪い取ろうとする。だが、憎悪によって研がれた闘争心に基づいた命令がそれを打ち消す。その感覚の狭間で、自分に銃口を向けるのは強者であると理解する。

 振り返りながら炎と瓦礫の中に紛れた銃口を見抜く。高VR適性ゆえの高精度の視覚を頼りに、エイジは瞬時に射線を見抜く。

 回避不能とガード不能。ならば取れる手段は1つ。エイジは反転する動作中に膝を抜き、姿勢を落とす。放たれた銃弾は膝ではなく右太腿を撃ち抜く。

 ダメージフィードバックが駆け抜けるが、実ダメージは最小限に抑えられた。足は引き摺るも許容範囲内である。

 あのままでは、エイジは膝裏を正確無比に撃ち抜かれていただろう。そうなれば転倒は不可避であり、また逃走を可能にするだけの機動力の維持は難しかったはずだ。

 第2射が襲い来る前にエイジは開けられたマンホールから下水道へと跳び込む。数秒の自由落下の後に汚水へと着水し、エイジは迷わずに潜水をする。

 息が続く限りに逃げる。逃げ切ってみせる! エイジは太腿や背中から広がるダメージフィードバックの分だけ憎悪を滾らせながら、今は生き延びる為に汚水を掻きわけて泳いだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 またも気づかれた。外された銃弾にプライドを傷つけられたシノンは、冷静に先のエイジの反応について分析する。

 こちらの狙撃を察知し、銃口の場所を炎が荒れ狂う中で瞬時に見切った。この時点でスキル≪狙撃≫の効果は失われてしまった。

 その後の反応も見事である。回避もガードも不可能でと判断し、最小限のダメージに抑えて逃走を最優先した。

 

(それにあの目の動きは勘じゃない。あの一瞬で視界から銃口を拾い上げた。『彼』並みに目が良いみたいね。しかも射線まで計算して対処するなんて……)

 

 射線の計算までいったならば、UNKNOWNならば余裕で斬り払ってノーダメージで凌いでいるだろう。逆に言えば、シノンもそれを予見して第1射を囮にして、第2射で即座に仕留めにかかっていた。

 エイジの実力を見切れていなかった。データ不足と甘い予想が失敗の原因だ。ならば、次はエイジの実力を折り込んだ上で狙い撃つだけのことである。

 

「どうしてすぐに援護しなかった。そうすれば、奴を取り逃がすことには――」

 

「今のはボーナス狙い。文句を言われる筋合いはないし、そもそも私の仕事はもう終わっているんだけど?」

 

「……ぐっ!?」

 

「それにエイジさんは私がいたことは知らなかっただろうし、その方が都合はいい。『今後』の為にもね」

 

 仮に狙撃手の正体がシノンだと知られたならば、エイジは死に物狂いで彼女の排除にかかるだろう。大ギルドにも狙われている彼からすれば、専属傭兵の暗殺……太陽の狩猟団を敵に回すなど今更の計算する必要もないリスクだ。

 ならば、仕事も終わって報酬確定しているシノンが正体を晒すなど不利益しかない。故にシノンはエイジが地下を脱出してから狙撃を敢行したのだ。

 反論できないS1は、苦虫を噛んだような顔をしていたが、深呼吸をして自身のミスを認めるように眉間を揉む。

 

「上にどう説明したものかな」

 

「この惨状だし、言い訳なら幾らでも立つんじゃない?」

 

「猫は気楽で羨ましい」

 

「だから傭兵やってるのよ。貴方も転職する?」

 

「……考えておこう」

 

 単なる任務失敗ではなく、確保していながら逃亡されるなど大失態だ。S1を待つ叱責を想像するも、シノンは自分には関係ないと切り捨てる。

 

(それにしても、これだけの規模の逃亡支援を誰が?)

 

 エイジを助ける為に太陽の狩猟団にも喧嘩を売る。機密狙いで聖剣騎士団ならばあり得るかもしれないが、それにしては作戦の成否がエイジに傾き過ぎている。また、これ程の大規模な脱出支援ともなれば、相応の資金を保有していなければ不可能だ。

 警備のガーゴイルはまだ起動しているが、翼部の損傷が酷く、修理しなければ飛行不能だろう。太陽の狩猟団は、迅速に支援者の正体を洗い出すはずだ。

 何にしても、エイジの安眠は程遠い。これから3大ギルドに狙われ続けるなど、同じ立場であるならば、シノンはご免だった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 逃げ切った。エイジは全身から汚水を滴らせながら、疲労で息を荒くして先を進む。

 エイジは≪暗視≫を持っていない。暗所での活動を想定しておらず、光源も所有していなかった。だが、下水道はぼんやりと暗く、最低限の視界は確保できる。それは壁に埋められた煉瓦の1部が淡く発光しているからだろう。

 下水道は噛み付きにレベル1の毒が蓄積する犬鼠の住処だ。大型犬ほどの体格をした巨大鼠は群れで行動する。単体ならばレベル1のビギナーでも撃破は難しくないが、ほぼ必ず群れで出現する為に、DBO初期に多くのプレイヤーの命を奪ったモンスターでもある。

 いや、それどころか数で攻められたならば、場合によっては上位プレイヤーだって死亡するだろう。事実として、エイジが成り上がる起因となった、クラウドアースの上位プレイヤー殺害は、件のプレイヤーが犬鼠の群れに襲われていていなければ失敗していたのだ。

 数の暴力を甘くみるな。レベル差は絶対ではない。戦略・戦術・実力次第ではレベル1がレベル100をPK出来るのがDBOなのだ。

 

『そのまま次の曲がり角を右だ』

 

「……分かった」

 

 スレイヴのナビゲートを受けながら、エイジは犬鼠の群れを処理して先に進む。

 まるで地下迷宮のように入り組んだ下水道には、犬鼠以外にも厄介なモンスターが数多く潜んでいる。人肉を貪る野犬、汚泥スライム、上半身ゾンビなど、いずれもデバフ攻撃を駆使するモンスターばかりだ。その中でも最悪なのが、目撃数こそ少ないが、レベル1の石化の呪い蓄積ブレスを使うバジリスクだろう。糞トカゲと罵倒されるこのモンスターによって、生きたまま石像に変えられたプレイヤーは数知れない。

 既に追手も下水道に潜り込んでエイジを捜索しているはずである。エイジは≪気配遮断≫が機能していることを確かめながら、五感をフルに活用して索敵を怠ることなく、スレイヴの指示通りに進む。

 

(そういえば、街の拡張に従って下水道も変化していて、大ギルドも把握しきれていないって聞いたことがあるな)

 

 終わりつつある街の地下には巨大迷宮がある。盗品などが並ぶ地下市場もその1部であり、犯罪ギルドの根城でもある。下水道は地下迷宮に添うように張り巡らされており、拡張を続ける終わりつつある街に合わせて、その構造を変化させているのだ。

 ならば、大ギルドの暗部であろうとも存外把握しきれていないのかもしれない。エイジは下水道かマッピング対象外であることに気づく。これでは手書きで地図を作る以外に構造を把握する方法はなく、だが無秩序に変化するのであるならば、頻繁な探索が不可欠となる。幾ら大ギルドであろうとも隅々まで把握することは不可能だろう。

 やがて暗がりにランプの温かな光が見え、エイジは木箱に腰かけるローブを羽織ったスレイヴを発見する。

 

「スレイヴ」

 

「おーう。無事で……何より……だ」

 

 通信では元気そうに振舞っていたスレイヴであるが、その顔は青ざめ、目の下は黒く変色している。エイジの姿を見て気が抜けたのか、傾いた彼女の体をエイジは駆けて抱き支える。

 本人の発言通り、通信には過大な負荷をかけるのだろう。命を削って助けてくれたスレイヴに、エイジは限りない感謝、そして自身の無力さと運命を呪って憎む。

 

「……クサイなぁ」

 

「お前がそれを言うか?」

 

「……クヒャヒャヒャ。それもそうだ。俺の腐臭に比べれば、極上の……香水……だ」

 

 スレイヴが準備してくれた衣服に着替え、エイジは下位プレイヤーが好んで使う旅人のマントを羽織る。物理防御力は無いに等しく、デバフ耐性を多少高める効果がほとんど気休めである。だが、隠密ボーナスの上昇はそれなりのものがある為に愛用する下位プレイヤーは少なくなく、街で正体を隠すカモフラージュには持って来いである。

 だが、この程度で大ギルドの目は誤魔化せない。エイジは腕を組んで下水道の壁にもたれ掛かりながら、汚水で湿ったままの髪を掻き上げる。シャワーを浴びて身を清めたい気持ちがないではないが、今はいかにして現状を改善するかに思考を割かねばならなかった。

 

「『最弱』とは『生き延び方』に秀でているということだ。弱者生存。こう見えても、俺は全レギオンで最も逃げるのが得意だ。逃げる気満々の俺を捕まえるなど、たとえグン姉さんでも不可能だ。まぁ、王とエンカウントしたら、とりあえず念仏唱えて首を差し出すしかないがな。無駄な逃亡よりも潔く辞世の句だ」

 

 昨夜のカレーの残りを弁当に詰めていたのか、スレイヴは体力を回復させねばならないと貪る。エイジの分も準備されていたが、さすがに下水道でカレーを食する気にはならず、ゴムのような食感の固形携帯食料を齧って空腹を癒す。

 

「おいおい、俺の渾身のジョークだぞ? 笑え」

 

「もう少しユーモアセンスを磨いてから出直せ」

 

「段々と容赦が無くなってきたな。良いぞ。良いぞぉ! 俺達の信頼関係がまた1歩進んだ証だ」

 

 そういえば、確かに出会った頃と違い、エイジはそれなりに素の状態で話しかけるようになった。彼は自分の頬に触れ、スレイヴの前では肩の力が自然と抜けていることに気づく。

 

「それとユーモアに関しては、俺の方が上だと思うぞ? お前はジョーク自体言えそうにないからな」

 

「人間には向き不向きがあるだけだ」

 

「レギオンだって同じさ。だが、俺達は種族的にユーモアセンスがかなり独特だからな。HAHAHA!」

 

「その笑い方はなんだ? 馬鹿にしてるのか?」

 

「お前はユーモアの発信も駄目だが、受信もお粗末だなぁ。今の笑い方は――」

 

「説明しないと伝わらないジョークは3流以下だ。出直せ」

 

 その笑い方は苛立ち以外の何も感じないのだが? エイジの言葉の暴力でノックダウンしてスレイヴは涙を溜める。

 

「あの支援はレギオンの?」

 

「まさか。母上も姉上もそこまで甘くないさ。ホルン姉さんはお前の苦境をむしろ嬉々と観察するだろうし、ミョル姉さんはぶっちゃけ事態を悪化させる予感しかしない。レヴァ姉さんは説得できる気がしない。グン姉さんは助けてくれそうだが、正直言って手を借りたくない。これから俺達がしようとしていることを考えるとな」

 

 やはりスレイヴの計画は、レギオンを害するものなのだろうか。計画の全容どころか輪郭すらも知らないエイジは、今は問うべき時ではないと質問したい舌を噛んで堪える。

 

「傭兵さ。緊急依頼で爆撃してもらった」

 

 組織ではなく個人があれだけの大規模攻撃を仕掛けた事に驚きを禁じ得なかったが、それ以上にエイジを困惑させたのは傭兵が動いたことだ。

 

「まさかスレイヴが依頼を?」

 

「まぁな。だが、さすがにサインズ本部周辺は見張られていてな。『協力者』の手を借りて代理で依頼してもらった。とにかく金がかかったぞ。それに太陽の狩猟団の暗部相手にぶちかませる度胸がある奴じゃないと駄目だから、とにかく大変だった」

 

「誰が……いや、そもそも報酬はどうしたんだ!? あれだけの支援だ。前金無しで動いてくれるはずがない!」

 

 よもやまだ会わせてもらっていない協力者は傭兵も雇用できる資産を有しているのだろうか。エイジの困惑に対して、スレイヴは中性的な顔立ちで可愛らしくウインクした。

 

 

 

 

 

 

「借☆金。額にして500万コルで月利15パーセント♪」

 

 

 

 

 

 

 

 殴りたい。殴り飛ばしたい。ようやく金欠を脱したというのに、今度は多額の借金を背負うことになったエイジは、だがスレイヴの行動力が無ければ投了だった事実を踏まえて、これもまたクラウドアースを離籍した時点で想定しきれなかった自分の甘さが招いたことだと受け入れる。

 ……いや、さすがにここまで予見出来たらエスパーではないだろうか。

 

「月15パーセント……15パーセント……返せるのか?」

 

 これ、借金返済できずに結局は鉱山送りなのではないのだろうか? あるいは返済不可と見なされた場合、エイジの身柄を大ギルドに引き渡すつもりなのではないだろうか? スレイヴの協力者が金持ちなのは予想外にありがたいが、仲間ではなく利害関係で結ばれているならば、一難去ってまた一難である。いや、そもそも難は去っていないならば、むしろ積み重なったというべきだろう。

 

「も、もしかして怒ってるのか?」

 

「ああ、自分の情けなさにな」

 

「エイジは悪くないぞ! 俺もまだ状況は呑み込めていないが、お前が大ギルドの陰謀に巻き込まれていることは分かる! 諦めるな! まだ逆転は……逆転は……かなり厳しいな」

 

 さすがのスレイヴも弱気の発言をして俯く。濁った金色の髪がカーテンとなり、その表情は窺い知れない。

 

「すまない。迷惑をかけてばかりだな。この前は俺の短慮のせいで死なせかけ、今度は大ギルドに追われる犯罪者だ。俺さえ関わらなければ……」

 

 いいや、見えずとも分かる。エイジは溜め息を吐くとスレイヴの正面に立ち、なるべく優しく頭を撫でた。

 

「いつも言ってるだろう? スレイヴと出会わなければ、僕の魂は腐って朽ちるだけだった。お前が手を差し伸べてくれなかったら、僕は『敗者』になることを受け入れていた。スレイヴ……いいや、ダーインスレイヴ。お前の手を取ったことを、時々は後悔しているけど、それでも、たとえ時間が巻き戻ったとしても、何度だって同じ選択をする」

 

 ああ、恥ずかしい。だが、これがエイジの偽りなき、演技無しの本音だった。

 

「……えいじぇぇええ! お前、本当に良いヤツだなぁああああああ!」

 

「僕が良い奴? それもジョークか?」

 

「クヒャヒャヒャ。そうだな。『ジョーク』だよ。まったく、お前は本当に……」

 

 表情が変われば、涙の意味も変わる。面を上げたスレイヴの頬を伝う『笑い涙』を見て、一瞬だけ頬が緩みかけたエイジは、呑気に話をしている余裕はないと気を引き締める。

 まずは情報共有だ。エイジは自分が知り得た情報を教え、またスレイヴから手短に情報を聞き出す。

 自宅でエイジの帰りを待っていたスレイヴであるが、『最弱』のレギオンとして自分が包囲されつつあることを察し、買い物に出かけるフリをして早々に監視と尾行を振り切った。そして、危険を承知でレギオン・ネットワークに接続し、エイジが同様の監視を受けていることを把握した。

 その後は『協力者』の手を借りる準備を行い、エイジの連行と同時に行動を開始。そして、現在に至っている。

 

「邪剣を使った通信に思いの外に時間がかかってな。思えばお前とフレンド登録していないという初歩ミスにも今更になって気づかされたよ。HAHAHA!」

 

「笑えない」

 

「辛辣だなぁ。苦しい時こそ笑っていないとストレスで剥げるぞ」

 

「仮想世界では禿げない」

 

「アプデ次第では禿げも実装されるんじゃないか?」

 

「…………」

 

 今はエイジの頭髪について議論する暇はない。エイジは情報を統合し、自分が3大ギルド……特にクラウドアースに追われる身であることを自覚する。

 こうなっては聖剣騎士団に逃げ込むのもリスクが高い。最低でもエイジを保護するだけのメリットを感じさせる手土産が必要だ。

 いいや、『保護』という発想の時点で『負け犬』なのだ。これから一生クラウドアースに怯えながら隠れて過ごすのか?

 違う。エイジの目的は2つだ。その2つさえ遂げられたならば、自分はどうなっても構わないのだ。

 1つはスレイヴの計画を手助けし、邪剣ダーインスレイヴで以って、彼女の『憎悪』が無意味で無価値はない証明すること。

 もう1つは『彼女』の願いを叶えること。大きなステージでたくさんの『誰か』の為に優しい歌を届ける彼女の夢を果たさせることだ。

 これらはいずれもエイジの『憎悪』に指向性をもたらすものに過ぎない。スレイヴはそもそもとしてエイジの『憎悪』で為し遂げることを了承どころか推奨しているが、『彼女』の場合は違う。『彼女』の夢を汚す悪行でもある。

 だが、『関係ない』。エイジはそう言い切れてしまっている自分に失望を重ね、それでもこの道以外を進む以外の選択肢がない己に、ギャラルホルンの言葉が蘇る。

 エイジはいずれ『鬼』になる。情念に……『彼女の願い』や『スレイヴの目的』を媒体にして『憎悪』に狂った『鬼』となる。

 

(『力』だ。もっと『力』が要る)

 

 あるいは、『力』を求め続けて戦う修羅へと堕ちる。武の頂を目指すのではなく、誰かを守る為でもなく、『憎悪』に焼かれるままに『力』を求める『鬼』になる。

 

「傭兵への道は断たれた以上、僕たちに選択の余地はないな。犯罪ギルドにでも世話になろう」

 

「……それしか方法は無さそうだな。だが、ほとぼりが冷めるまでどれだけの時間を要するか分からないし、何よりも消極的な行動に出れば『協力者』に見限られるかもしれない。それに表裏一体という言葉もある。大ギルドと犯罪ギルドの繋がりは存外深い。クラウドアースは特にな。犯罪ギルドに身を寄せるにしても慎重に選ばないとな」

 

「……お前は僕にこだわる必要はないだろう? 追われる立場とはいえレギオンだ。幾らでも立ち回り方はある」

 

「ふざけるな。俺はお前を裏切らないと約束した! そこには見捨てないという意味も含まれる! レギオンを嘗めるな!」

 

 まったく、これだから人間以上に信じられるのだ。頑固で譲らないスレイヴの決心に、エイジは開いた地獄の扉にどう対処すべきか頭を悩ませる。

 

「最低でも機密漏洩の嫌疑を晴らすしかない」

 

「だが、レギオン・ネットワークでもまだ犯人について目星の情報さえ上がっていない。俺の計画を知られない為にも頻繁にネットワークに接続するわけにもいかないし、情報があったとしても俺では拾い上げられる保証は無いし、そもそも更新を期待するわけにもいかない」

 

「まず僕がどんな機密を盗んだと疑われているのかさえも不明だ」

 

 だが、3大ギルドが血眼になってエイジを追うともなれば、重要機密であることは間違いない。スレイヴもレギオン・ネットワークに接続できても、無条件で検索をかけて欲しい情報を引っ張り出せるわけではない以上、情報収集の手段さえも限られている。

 だが、このままでは大ギルドの数々の裏仕事に従事しているとされる、最凶最悪の傭兵に声がかかるだろう。

 死と破滅をもたらす白き厄災。【渡り鳥】がエイジ暗殺の依頼を引き受けるのは時間の問題である。

 だが、その一方でエイジは先に遭遇した【渡り鳥】の隙だらけの『ほわほわ』っぷりを目撃しているだけに、SAOにおける虐殺と【黒の剣士】の相棒を務めたという実績があるとしても、どうしても脅威として認識できない部分があった。

 さすがのエイジも勝てるとは言わないが、SAOに比べてもプレイヤーの質が高いDBOにおいて、更に魔境とされる傭兵業界では、実力はせいぜいが中堅程度なのではないだろうかと疑っていた。

 過大評価は足を鈍らせるが、過小評価は死を招く。エイジは自分の油断を察知し、【渡り鳥】の警戒を怠ってはならないと我が身に言い聞かせた。

 

「駄目だ。次の手が思い浮かばない」

 

「ああ、詰みだ。せめてクラウドアースと直接交渉して黙られるネタでもあればいいんだが、俺達に持ち合わせはない」

 

「僕にはあるぞ。人型レギオンを生きたまま提供できる」

 

「HAHAHA! ナイス・ジョーク! やればできるじゃないか!」

 

「…………」

 

「え、エイジ? ジョークだよな?」

 

「…………」

 

「ジョークだよな!?」

 

「ああ、もちろん『ジョーク』だ」

 

「えいじぇぇえええええええええええええええええ!?」

 

 エイジが意味深な笑みの『演技』をすれば、スレイヴは絶叫しながら胸倉をつかみかかる。

 しかし、このまま下水道に潜んでいるしかない程度には、状況は詰んでいる。そして、時間をかければかける程に包囲網は狭まって『死』が待っている。

 

「もう俺達には道は無さそうだ。傭兵はもう不可能。犯罪ギルドに身を寄せるのさえ綱渡り。いっそフロンティア・フィールドで修行ついでに開墾でもした方が有意義そうだ」

 

「開墾はともかく、フロンティア・フィールドに逃げ込むのはいいかもしれない。広くて人目もつかない。しかも稼げるチャンスも多いから借金の返済もできる」

 

「ハァ、また金欠か。もっとじっくりカレーを味わっておくんだったなぁ」

 

「……これだけの額を気前よく借金させてくれる相手なら、いっそ最初から借りれたんじゃないか?」

 

「お前がつらぬきの騎士を撃破する実績があったからこその借金だ。以前のお前には1コルだって支払わないよ。逆に言えば、500万コル分の価値が今のお前にはあるんだ」

 

「世知辛いな。だが、借金返済も含めて、フロンティア・フィールドに逃亡が無難そうだな」

 

 ただし、フロンティア・フィールドの難易度的に死以外が待っているとは思えないがな。絶望するエイジであるが、上手く身分を隠して開拓団に参加することが出来れば、大ギルドの目から逃れられるだろうとも期待した。犯罪ギルドに身を寄せるよりも再起の可能性は残る。

 だが、3大ギルドもフロンティア・フィールドへの逃亡は危険視しているはずだ。見張らない理由はない。顔や喉は潰して偽装できるかもしれないが、3大ギルドが本気であるならば、はたして通じるのか不安は残る。

 

「決まりだな。偽装工作は俺に任せろ。片道切符くらいなら準備してやる。借金が増えても『協力者』に何とかしてもらうさ」

 

「これ以上は増やして欲しくないが、どうしようもないな。僕は装備やアイテムの調達を――」

 

「何を言ってるんだ? お前には出発前に、迎えに行かないといけない人がいるだろう?」

 

 役割分担をしてフロンティア・フィールドへの逃亡を企てたエイジであるが、スレイヴは頬杖をついてエイジの選択を否定する。

 

「『彼女』を迎えに行け。こちらの偽装工作は『協力者』の説得も含めて最低でも72時間欲しい。その間に『彼女』を連れて戻ってこい。折角、ホルン姉さんから情報を引き出したんだ。先にも言った通り、これは片道切符だ。場合によっては、『彼女』と会えるラストチャンスになるかもしれない」

 

「たった72時間で?」

 

「ああ、たった72時間だ。しかも3大ギルドの追手付きのハードモードだ。笑えない」

 

「本当に笑えないな」

 

「だが、もう『やる』しかない。お前の顔にもハッキリと書かれているぞ。今回で嫌というほどに、都合のいい『次』なんて永遠に来ないと俺以上に分かってるはずだ。だったら行ってこい。最大限にサポートしてやる」

 

 エイジの脳裏で悪夢は巡る。

 何度も何度も繰り返す過去の再現。殺される『彼女』を見殺しにした。伸ばされた手に応えることが出来なかった。

 スレイヴと出会い、戦いを乗り越え、1歩ずつ『彼女』に近づいて行った。だが、まだ足りない。その手を取るにはまだ足りないのだ。

 いいや、違う。もうエイジに『彼女』の手を取る資格などないのだ。

 

「『もういい』んだ」

 

 苦悩が滲んだエイジの両頬をスレイヴは優しく、だが死人のように冷たい両手で包み込み、憎しみとは無縁のような優しい笑みを浮かべる。

 

「憎しみ以外の何も残っていなくても、『彼女』を救いたいという純粋な願望さえなくても、過去を変えることは出来ずとも、お前は『彼女』と会わないといけない。資格が欲しいならくれてやる。『為すべきことを為せ』。他でもないお前自身の憎悪に誓ったのだろう?」

 

 スレイヴは多くを尋ねない。エイジのプロフィールは多少読み込んでいるかもしれないが、心を読むような真似はしていないはずだ。

 だが、エイジの覚悟を感じ取っている。『彼女の夢を叶える』という憎悪に塗れた誓いを肯定も否定もせずに彼の戦う意思へと委ねている。

 それは邪剣ダーインスレイヴとの繋がりがあるからなのか、あるいはスレイヴ自身の共感性か。だが、エイジは小難しい理屈だと口元を強気で歪めて腰に手をやる。

 

「それで? 僕が『彼女』を連れ帰って来たとして、その後は一緒にフロンティア・フィールドにご招待するつもりか?」

 

「HAHAHA! それも悪くないが、さすがに可哀想だからな。迷惑をかけたついでにもう1つ迷惑を重ねて保護してもらうさ」

 

「『協力者』が可哀想でならないな」

 

「それでも『俺達』と組むメリットがあるのさ。利害関係の繋がりは時に何にも勝るものだ」

 

「……『僕達』ね」

 

「そうさ。『俺達』だ」

 

 スレイヴは楽しそうに笑い、これまで椅子代わりにしていた木箱を蹴って蓋を開けると中身を披露する。

 詰まっているのは多量の回復アイテムや攻撃アイテムだ。スレイヴが借金したついでに揃えたものだろう。

 

「火炎壺、プラズマ手榴弾、毒ナイフ、トカゲ試薬、止血包帯、教会軟膏、それに教会の【聖水ボトル】か!」

 

 聖水ボトルとは、教会がエスト瓶の再現を目指して開発した商品である。従来のアイテムとは違い、使用して消費するのではなく、教会が販売する聖水アイテムを貯蔵するためのものである。その最大の特徴は、聖水ボトルのアイテムストレージ容量が変わらない点だ。即ち、聖水ボトル1個分の容量で10回分の回復薬を持ち込むといった事が可能である。

 希少性が高いので生産数は少なく、また聖水ボトル自体が消費するアイテムストレージ容量は高めである。また、スレイヴの準備した聖水ボトルは最安値のものであり、収めることができる聖水も最も少ない。

 聖水ボトルに詰まっているのは【治癒聖水】だ。飲めば6秒かけてHPが3割回復し、一時的にアバター修復速度を上昇させる。使用可能回数は10回と心許ないが、他にも深緑霊水などの前線落ちした回復アイテムが揃っている。

 

「あとは細々としたものだな。使い道はお前次第だ」

 

「携帯食料、赤煙火薬、ロープ、寝具一式、ランプ、工具ナイフ。無いよりもあった方がいい」

 

「それともう1つ【古錆の呪術の火】だ。高かったぞ。これらトータルで60万コルの追加借金だな。これでエイジ本来の戦闘スタイルが実現だな」

 

 エイジは≪魔法感性≫を持っているので呪術を扱うことが可能だ。だが、エイジのレベルに適した呪術の火は相応の額が必要とされる。

 

「だが、本当にいいのか? 呪術の火を装備するくらいなら格闘装具の方が良いんじゃないか?」

 

「過去の失敗の有効活用だ」

 

 エイジも試行錯誤は繰り返した。盾は装備できないならば、距離を取った攻撃手段を求めた。そこで魔法剣士を目指してみたはいいが噛み合わなかったのだ。また、INTやPOWを魔法剣士クラスまで成長させようとした頃にエリートプレイヤー候補生としてスカウトされ、近接職として育成を受けた為にポイントを割り振ることも出来なかった。

 そこでエイジが目につけたのは呪術だ。ユージーンは剛なる呪術の火でSTR補正で行使するが、エイジの場合は魔法補正が固定化されたタイプを使用する。

 ステータス補正付きに比べれば劣るが、いっそステ振りしていないならば、こちらの方が都合はいいのである。もちろん、それ故の弊害として燃費の悪さや火力不足は顕著に表れるが、呪術は魔法や奇跡に比べても行使に不可欠なステータスが低いのも特徴である。

 設定によれば、本来の呪術とは、INT……即ちソウルを束ねる理力、MYS……即ち神々への信仰、その両方に寄らず、純粋にソウルを媒体として発動する術だったとされている。それが使い手と時代を経て在り方が移り変わったのだ。

 古錆の呪術の火は、レベル70以上のプレイヤーが装備可能であり、相応の価格で販売されている。クラウドアース時代は支給されていたが、離籍したエイジではそう簡単に手を出すことが出来ない値段だった。

 

「想起の神殿は見張られているだろうし、どうする?」

 

「知ってる犯罪ギルドが裏の転移ゲートを幾つか持ってる。それを使う」

 

「むしろ、なんで知ってる?」

 

「『NPCさん』時代に得た情報だ。何処で役立つか分からないものだな」

 

「そういうものさ。お前の歩みは無駄ではなかった。それが今こうして証明されている」

 

「スレイヴと出会ってからの頑張りは、見事に無駄になったけどな」

 

「それを言うか!? 言っちゃうのか!?」

 

 頬を膨らませたスレイヴは、こうした気軽な会話もエイジの強がりと見抜いているかのように、息を吐いて笑んで彼の背中を叩いて激励する。

 

「死ぬなよ。お前のメシが食えないのは寂しいからな」

 

「死なないさ。『まだ』死ねない」

 

 この憎悪の先に『何か』を見出すまでは……無意味でも無価値でもなかったのだと証明するまでは、『まだ』死ねないのだ。

 

「24時間あれば世界だって救えるんだ。72時間もあれば、お前なら『彼女』に会えるさ」

 

「やっぱりジョークのセンスを磨いた方がいい」

 

「……『ジョーク』ね。お前がそう思っている内は、まだまだ道半ばだな」

 

 エイジは72時間後のスレイヴとの合流ポイントを定めると、ダーインスレイヴによる通信は控えるように言い聞かせて出発する。

 もう後戻りは出来ない。この72時間を無駄にすることなく、必ず『彼女』の元にたどり着いてみせる。エイジは別れを告げたスレイヴへと振り返ることなく、下水道の闇へと消えていった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「まだ熱いな」

 

 近い……近い……近い! 額と額を合わせれば、かつてない至近距離までクゥリの顔が迫り、ユウキは別の意味で体熱が上がる。

 

「大丈夫だから! 昨日に比べたら体も楽だから! だから……は、離れて!」

 

 このままだと心臓が破裂する! 今にも爆発しそうな胸を両手で押さえる。

 時刻は夜明けを迎えたばかりであり、白んだ空は快晴である。クゥリの家で一夜を過ごしたと言葉にすれば色気もあるが、ユウキは半ば意識が朦朧とした状態で看病されていただけである。

 

「ろくに食べ物はないが、桃の缶詰があった。食べられそうか?」

 

「う、うん。ありがとう」

 

 白い陶器の皿に盛られたシロップ漬けの桃を、ユウキは爪楊枝で刺して口に運ぶ。甘いシロップと絡んだ果汁は喉を潤わせ、程良い食感の果肉は空腹を満たす。

 

「ごめん。ベッド占領しちゃったね」

 

「どうせほとんど使ってない」

 

 桃を食すユウキの傍らで、クゥリは何をするでもなく椅子に腰かけている。ユウキを見ているわけではなく、だが彼女の方向から顔を逸らさない。

 近くも遠くもない不思議な距離感だ。だからこそ食事の手も止まることはなく、ユウキは桃を完食する。

 皿を片付けに台所へと向かったクゥリの背中を目で追う。男性とは思えない華奢な体躯ではあるが、女性ともまた言い難い。まさに中性とも言うべき、性別が区別し難い後ろ姿だ。

 

「そんなに真剣な目で見張らなくても皿は割らない。もう左手は動く」

 

 そして、相変わらず勘は鋭い。ユウキは本来ならばクゥリ用にグリセルダが準備したパジャマをべっとりと汗で濡らし、折った袖から覗かせる左手を見つめる。

 ずっと握ってくれていた。クゥリの温もりが移ったような左手を右手で覆い、ユウキは昨夜の会話を思い出す。

 幾ら体調がすぐれなかったとはいえ、弱気になり、甘えてワガママを言ってしまった。嫌われたのではないだろうか? 焦りと不安でユウキは戻って来るクゥリを直視できなかった。

 どうして? ユウキは問いたくて堪らなかった。

 クゥリは『仕事』ならば、目的の邪魔をするならば、誰だろうと殺す。そこに一切の容赦はない。

 敵として立ち塞がるならば、グリムロック達も、【黒の剣士】も、ユウキも殺すだろう。相手が信念や矜持、目的意識を持って敵対するならば、その全てに応えて『力』で捻じ伏せて殺す。

 だからこそ、意識もハッキリとした今になって困惑する。クゥリが『ユウキの味方でいる』と約束を交わしたことに戸惑う。

 

「ね、ねぇ……!」

 

「なんだ?」

 

 倒れる前とクゥリは何ら変わった調子が無い。むしろ平静そのものである。

 クゥリは嘘も演技も隠し事も下手だ。だが、油断していると思わぬ秘密を誰にもバレることなく隠してしまうのもクゥリだ。

 問わねばならない。どうして、あんな約束を結んでくれたのか、教えてもらわなければならない。

 

「なん……でも……ない」

 

 だが、口が上手く動かない。怖くて、怖くて、怖くて、自分の気持ちが明確に露呈してしまうのが怖くて、言葉を発することができない。

 

「汗が酷いな。着替えが要るな。それと1度シャワーを浴びろ」

 

「これ以上はクゥリに迷惑はかけられないし、自分の家に帰るよ」

 

「そんな体で無茶するな。フロンティア・フィールド探索まで余裕もあるし、今日はオフにするつもりだ。仕事が入っても断る」

 

「やっぱり迷惑かけてるよ! だったら、グリセルダさん達にお世話になる! 実はグリムロックさんから新装備も受け取らないといけなかったしね!」

 

「ああ、例のサブウェポンか。素材が集まったのか?」

 

「うん。≪絶影剣≫に合わせた新型暗器なんだ」

 

「特化するのはいいが、気を付けろ。ユニークスキルは強力だが、戦闘の柔軟性を失うリスクもあるからな。それはそうと、オレよりも≪料理≫を持ってるグリセルダさんや薬に詳しいヨルコの方が看病には適切ではあるし、ユウキがそれでいいなら、オレもそれでいいさ」

 

 納得したらしいクゥリの微笑みに、ユウキはわざとらしく笑って頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヘタレ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、グリムロック・グリセルダ不在の為、ユウキの迎えに来たヨルコは工房の客室にユウキを放り込むと同時に、アルコール臭たっぷりの吐息を漏らしながら一刀両断した。

 

「そこは攻め時でしょ? ボーナスタイムでしょ!? いつもはあれだけガンガン攻めてるくせに、どうしてこのビッグチャンスでヘタレるのよ!? アンタ、それでも女!?」

 

 顔面から枕にうずめたユウキの背中を、ヨルコは言葉の乱射で撃ち抜いていく。

 

「だ、だって! 汗臭いし、迷惑かけたくないし……!」

 

「言い訳無用。あのね、あの【渡り鳥】が仕事よりアンタを優先したのよ!? これ、天変地異級の異常事態! 神風よ、カ・ミ・カ・ゼ! あの365日お仕事が標準設定のワーカーホリックにバグが起きた奇跡よ!?」

 

「うぅ……ヨルコさん、お酒臭いよ!」

 

「酒でも飲まないとやってられないわよ! まったく! このヘタレ!」

 

 グリムロック達が不在であるからか、ワインボトルをラッパ飲みして歩き回るヨルコの白衣は、すでに酒の染みで汚れが目立っている。

 体は幾らか楽になっているが、まだ熱は引いていない。ユウキはヨルコの罵声に耐えながら、大人しくベッドに潜りこんで布団を被る。

 

「だって……言えないよ。ボクの気持ちを伝えても、今は届かない。クーを苦しめるだけだよ」

 

「……アンタが何でそう思っているのかは深く追及しないし、【渡り鳥】がどんな反応するかは予想できないけど、気持ちはさっさと伝えた方がいいわよ。幾らかマシになったとはいえ、命の奪い合いが常のDBOなんだから。工房に引き籠もっている私と違って、アンタは命懸けで戦う。傭兵である【渡り鳥】は普通なら死んでもおかしくない難関ミッションを引き受ける。【渡り鳥】が死ぬところなんてイメージできないけど、でも絶対はないんだから。アンタにも彼にも、そして私にも保証された明日なんてない」

 

「分かってるよ」

 

「全然分かってない。アンタが逃した『今日』はもう戻ってこない。『今日』が今生の別れかもしれない。そうでしょ? うっ……げふぅ」

 

 ワインを飲み干したゲップさえなければ、良いことを言ってるのに。ユウキはヨルコのアルコールブレスを浴びながら、だが彼女の言う通りではあると瞼を閉ざす。

 昔は毎日を『いつ死んでも構わない』と必死に生きていた。病に侵され、姉やスリーピングナイツの皆を喪い、それでも生きた証を求めて、『今日』が命日でも構わないとギリギリの縁に立つことさえも楽しんでいた。

 だが、今は違う。『未来』という漠然とした希望を胸に抱くからこそ、『今日』に対して注ぐ命が希薄になってしまったことは否めなかった。

 

「……ゴメン。ちょっとキツく言い過ぎた。アンタにはアンタのペースがあるだろうし、いつもはあんな調子のアンタでも、いざとなれば気持ちを伝えるのが怖いのも分かる。しかも相手があの【渡り鳥】ともなれば、私のアドバイスなんて役にも立たないわよね」

 

 空になったワインボトルを床に置き、ユウキの傍らに椅子をもってきたヨルコは、背もたれに両腕を置いてもたれかかる。

 

「DBOでは死者が蘇っている。私も、グリセルダさんも、他の死んだSAOプレイヤーも、まるで地獄のようなDBOで神から与えられた奇跡のように、こうして『生きている』」

 

 アイテムストレージから新しいビール缶を取り出したヨルコであるが、生温いのか、あまりいい顔をせず、だがアルコールは止められないと喉を鳴らして飲む。

 

「私にはお酒を飲んでいる時くらいしか『生きている』って実感がない。昔は違ったはずなのに。普通に暮らしていた頃は、SAOにいた頃は、ナグナで捕らわれていたばかりの頃は、大切な人がまだいた頃には……『生きている』って実感が確かにあったはずなのにさ」

 

「……ヨルコさん」

 

 黄金林檎を切り盛りするグリセルダも、アルコールに浸るヨルコも、どちらも『死人』だ。帰るべき現実世界などなく、この仮想世界以外に居場所はない。

 

「本当に……昔は違ったのになぁ」

 

 涙を浮かべるヨルコはビール缶で目元を隠し、汚れた白衣の袖で拭う。

 

「だからさ、届くとか届かないとか、フラれるとか付き合えるとか、そんな重たいのを悩むのは後回しにして、まずは自分の気持ちをハッキリと伝えておきなさい。アンタみたいな可愛い女の子に告白されて不愉快になる男はいないわよ」

 

「……そうかな?」

 

「あー、ごめん。前言撤回ってわけじゃないけど、【渡り鳥】については断言できない気がしてきた。彼の頭の中身は分からないからさ」

 

 苦笑したヨルコは、薬だとばかりに未開封のビール缶を差し出す。触れれば常温と分かるそれを、ユウキは誘われるままに蓋を開けて喉に流し込む。

 

「ゲホゴホ……!」

 

「ビールは早いみたいね。まだまだおこちゃまか」

 

 白衣のポケットに片手を突っ込んだヨルコは立ち上がり、まだ8割以上残っているユウキの飲みかけを奪うと豪快に一気飲みする。

 

「グリムロックさんはしばらく外泊だし、グリセルダさんは夜まで帰って来ない。どう? 体調が幾らかマシなら、酔っ払いに付き合ってくれる?」

 

「もう……仕方ないなぁ」

 

 これはこれで自分を気遣ってくれているのだろう。ユウキはヨルコの誘いに乗る。

 部屋に次々と酒が持ち込まれ、客室は瞬く間に酒蔵と見紛うように模様替えされる。

 ユウキは揺れる白いワインを数口ずつ飲み、その間にヨルコは果実酒を3本も空ける。傍から見れば、2人して家に籠って朝から酒を煽る駄目人間である。

 

「でもさ、【渡り鳥】って異様に勘が鋭いじゃん。アンタの気持ちがバレバレじゃないのっておかしくない?」

 

「うーん、たぶん眼中に無いんじゃないかなぁ」

 

「……そんなことは無いと思うんだけどね。いや、私の目から見た限りでは、アンタにかなり好意を寄せてるように映るわけよ」

 

「ナイナイ。あり得ない。クーはいつも、誰にでもあんな感じだよ? まぁ、その辺の人たちよりは関係を築いているつもりだけどね」

 

「そっか。私の勘違いか。思えば、この工房の中くらいでしか【渡り鳥】とは会ってないからなぁ。ナグナの時もほとんど会話していないし、SAOの頃は……ヤバい。天使だった。本当に天使だった」

 

「グリセルダさんもグリムロックさんも、いつもそれだよね。SAO時代のクーってそんなに可愛かったの?」

 

「可愛いというか、まぁ、容姿に関しては今思えば神棚に飾って一生拝みたいくらいに愛らしかったけど、同時にかなり『危うい』って感じだったわね。なんていうか……見てて恐怖が勝るのよ。このまま関われば死んでしまうっていう生存本能? よく分かんない」

 

 空いたユウキのグラスに残りの処分とばかりに、自分が飲んでいた赤ワインを溢れるギリギリまで注ぎ、ヨルコはクーラーボックスから冷えた缶ビールを取り出して幸せそうに頬擦りする。

 

「だから天使だって思った。人間が触れてはならない、出会ってはならない禁忌なんだってね。あの頃の私は近寄りたくなかった。恐ろしくて早く視界から消えて欲しいって願った。でも、グリセルダさんだけはギルドに迎え入れようとして……」

 

「そんな事があったんだ」

 

「そうよ。いつも髪は無造作に伸ばしたようなボサボサで、前髪も伸び放題で顔は半分隠れてるの。仮想世界なんだから幾らでも整えられるのにね。きっと、他人と顔を合わせられない、目を見て話せない、そんな経験をたくさん積んだんだと思う」

 

 クゥリのSAO時代の悪名は、そのほとんどが傭兵時代に築いたものであり、特に虐殺に関しては末期に起こった事件だ。

 だが、ヨルコが知っているのは、クゥリが傭兵として悪名を広げる前の姿だ。粗暴な悪ガキのように振る舞う前のクゥリであり、より今のクゥリに近しく、だが決定的に『何か』が違うクゥリなのだ。

 ヨルコからクゥリの話を聞けるのは貴重だが、彼女自身が言った通り交流らしい交流などない。だが、それは『彼』さえも知らないだろうSAOにおけるクゥリの歩みであり、ユウキは聞き漏らすまいとヨルコの話に魅入る。

 

「それでね、私達が見つけたトレジャーボックスを横取りしようとした連中がいたのよ。なーんかエラそうな態度で……えーと、名前は何だったかなぁ? 忘れちゃった。頭というか、無駄にトゲトゲした髪型だったことだけは憶えてるんだけどなぁ。ともかく、そいつが仲間と囲んで私達を脅すわけよ。数にして15人くらいだったかな。やる? やっちゃう? デスゲームだからこそ、やっちゃ駄目でしょ? マナーを守らないと駄目でしょ!? しかも装備見ただけで分かる圧倒的レベル差。加えて戦力差は倍以上。交渉も出来そうになくて、こっちはもうお手上げよ」

 

「うわぁ、最低だね」

 

「でもさ、その時は護衛で【渡り鳥】が一緒で……まぁ、当時はまだ【渡り鳥】って呼ばれてなかったんだけど、たった1人で全員倒しちゃった。しかもレッドにならないように、わざと自分から脅しの攻撃に当たりにいってから戦闘開始する周到さよ。グリセルダさんが止めなかったら、それこそ皆殺しだったでしょうね。いや、連中も最低だけどさ、当時はビビりまくったわ。でも、トゲトゲ頭が失禁しそうな顔で尻餅ついていたのはスカッとしちゃったなぁ。すぐに自己嫌悪に襲われたけど、今なら大笑いして指差しできるわぁ。心って擦れちゃ駄目ね」

 

「逆にそんな事件があって、よくグリセルダさんはギルドに迎えようと思ったね」

 

「まぁ、それこそがグリセルダさんがグリセルダさんたる由縁よ。だって、グリムロックさんってグリセルダさんを罠に嵌めて謀殺してるのよ? それを承知の上でもう1度夫婦をやり直すとか、どんだけなのよ」

 

「え。なにそれ、聞いてない」

 

「……あー、ゴメン。今のはオフレコ。聞かなかったことにして。もう昔の話だし、グリムロックさんを今更責めてもどうしようもないし、今はあの通りの歪だけど仲の良い夫婦だからさ。ハァ、昔のグリセルダさんは優しかったなぁ。どうして鬼セルダさんになっちゃったのかなぁ。あ、今のは【渡り鳥】がつけた渾名ね。彼、たまーに心の声が漏れてるのよ」

 

「あははは! 鬼セルダさん!? ご、ゴメンね! すごいピッタリ!」

 

「でしょでしょ!? 私もお酒を没収される度に、心の中でいつも鬼セルダさんって呼んでるわ」

 

 思えば、こうしてヨルコと話をしたことはなかった。ユウキはほとんど酒を口にしなかったが、それでも体調の悪さを思わず忘れてしまいそうな程に、ヨルコと盛り上がっていく。

 だが、工房の玄関が開く音が聞こえて、ユウキとヨルコの表情は凍り付いた。

 時刻にして午前11時半。ユウキはベッドに寝て上半身を起こした状態であるが、布団にはヨルコが空けたビール缶や酒瓶が積まれている。もちろん、床には飲み零しなどがあり、およそ言い訳が利かない酒盛りの汚部屋である。

 

「グ、グリセルダさん、今日は早いわね。ま、まままま、まだお昼なのに」

 

「オヤスミー」

 

「あ、逃げるな! 弁護してよぉ! 道連れになってよぉ! 私だけ怒られるのヤダぁ!」

 

「ボク、病人。病人、寝ル。オヤスミー」

 

「寝かさない! 絶対に寝かさない! 一緒に説教されろぉおおお!」

 

 布団の中で丸まろうとするユウキを引き摺りだろうとしたヨルコは掴みかかり、それに抗う。醜い攻防の末に、STR差でユウキは布団を剥ぎ取られ、その反動でヨルコに圧し掛かって床に転倒する。

 

「お見舞い持って来たわよ。ちゃんと寝て――」

 

 客室のドアが開き、勢いよく飛び込んできたグリセルダは、だが床に置いてあった酒瓶を踏んでバランスを崩し、後頭部から転倒する。これが現実世界ならば、最悪の事態も起こりかねない惨事である。

 大の字になって倒れたグリセルダに、ヨルコとユウキは何を言うまでもなく抱き合って震える。

 目覚める。鬼セルダが覚醒する! ガタガタと震える2人に、まるで今にも噴火する直前の火山を思わす怒気が含んだ吐息を漏らし、グリセルダは立ち上がると、首を左右に振って鳴らす。

 

「ヨルコ、お酒は控えるんじゃなかったの?」

 

「ひぃいいいい!?」

 

「ユウキちゃん、病人よね? 病人がどうして昼間からお酒を飲んでるのかしら?」

 

「え、えーと……えっとぉおおおお!?」

 

 今のグリセルダならば、視線だけでネームドも殺せるだろう。これぞ鬼セルダ。これこそが鬼セルダ。怒髪天となる勢いのグリセルダは、だが肩を竦めて笑う。

 

「まったく、貴女達らしいわね。ほら、貸しなさい。男が居ぬ間に女の宴。今日は昼間酒に付き合ってあげるわ」

 

「さすがグリセルダさん、分かってる!」

 

「ヨルコは少し控えなさい」

 

 鬼セルダが引っ込み、グリセルダはグラスを持ってくると優雅に白ワインを注いで口にする。大人の色気たっぷりの飲みっぷりである。

 

「そう、昔のクゥリ君の……懐かしいわね」

 

「でしょー? どれだけ『天使』だったか教えてあげてたのよ。あと、昔のやらかしも……」

 

「……『昔話』なんて退屈なだけよ。大事なのは今のクゥリ君でしょ?」

 

「ノリが悪いなぁ。ユウキちゃんが知りたがってるんだし、グリセルダさんも教えてあげなよ。彼女も【渡り鳥】との話の種になるでしょ?」

 

「どうかしら? 彼は語りたがらないんじゃないの? 特にあの頃のことは彼にとっても嫌な思い出ばかりでしょ」

 

 肯定的なヨルコと否定的なグリセルダの平行線に挟まれて、ユウキは今日のグリセルダには酒が入っても口が軽くなりそうにないと残念に思う。

 

「でも……確かに『天使』だったわね。今のクゥリ君もあの頃と似た雰囲気だけど、やっぱりあの頃は……本当に『天使』だったわ。純粋で、無垢で、愛らしくて、幼くて、今以上に容赦がなくて惨酷だった」

 

 白ワインを揺らして香りを楽しみながら、グリセルダはまるで呪文でも唱えるようにそっと唇を開く。

 

「知っているかしら? 聖書ではね、『悪魔』よりも『天使』の方が人間を殺しているのよ」

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 夢を見る。

 血と屍が敷き詰められた夢である。

 多くの骸が罪を問い、『名無し』に縋りつく。

 どうして殺したのか? どうして助けてくれなかったのか? 終わりなく『名無し』に苦悩の針を突き立てる。

 だが、それでも『名無し』は、自分を呪う骸を振り払うことなく、背負って連れて、死と血の中心で輝く月光の元へとたどり着く。

 

「あとどれだけ必要なんだ?」

 

 死者の山に突き立てられた月光の聖剣に問う。

 

「あと、どれだけ必要なんだ!? 俺が本来の資格者じゃないことくらいは分かっている! それでも! それでも、キミに見合うように腕を磨く。逃げずに戦う! 倒した戦士たちに報いる為にも武の頂に立つ!」

 

 喉が裂ける程に問いかける。沈黙する月光の聖剣を引き抜こうとするも、『いつも』と同じように弾き飛ばされる。

 お前に資格はない。月光の聖剣の担い手となるには不十分だ。言い知れない無力感を思い知らされる。

 アルヴヘイムでは竜の神を顕現する程に月光の聖剣を解き放つことが出来た。だが、それ以降はまるで応えてくれない。最も必要な時には沈黙を保ち、手遅れになってから月明かりを差し込む。

 冷笑するように聖剣は共鳴音を発する。言葉ではなくとも伝えたいことは脳髄に染み渡り、『名無し』は奥歯を噛んでぶつけられた侮蔑を堪える。

 

「そうさ。俺は殺した。『力』を欲して溺れ、アスナを取り戻したい余りに多くの人を斬った。殺した罪と恐怖から目を背けた!」

 

 あの時、ユウキ、クライン、リーファの3人がいなければ、『名無し』はたとえ生物としての死は迎えずとも、心は死んで朽ちただろう。

 だが、それでも夢とも現とも思えぬ夜でクゥリが立ち上がらせてくれた。記憶の中の幻影であるのか、それとも本当にアルヴヘイムにいたのか、今でも『名無し』には区別がつかない。本当にアルヴヘイムにいたならば、最終決戦に参加しないはずはない。アルヴヘイム帰還後の2ヶ月間の行方不明も不可解だった。

 本心では探しに行きたかった。たとえ、友として生存は揺ぎ無く信じたとしても捜索したい気持ちはあった。

 だが、その度に覆った仮面が疼くのだ。『責任』を果たせ。偽りの仮面を被ったのならば、これを外す時までは、『友』としてクゥリに会いに行くことは出来ないのだ。仮面を外せないままにクゥリに会いに行くなど、それこそ彼に対する最大の侮辱なのだ。

 

「頼るつもりはない。『力』を寄越せなんて言わない。ただ一緒に戦って欲しいんだ。俺だけでは手が届かない時、少しでいい……協力して欲しい」

 

 聖剣を単なる武器として見ていない。確かな意思があり、また使い手を選ぶ。故に『名無し』は幾度となく、こうして夢の中で対話を繰り返していた。

 だが、その度に拒絶と嘲笑を突きつけられる。まるで足りないと足蹴にされる。

 何が足りないのか、聖剣は教えてくれない。『名無し』は自分の肉を溶かす呪詛を唱える屍たちに血の海へと引き摺りこまれながら、聖剣を指差す。

 

「また来る。必ず来る! 俺が諦めると思うな! 必ず認めさせてやる!」

 

 

 

 やってみろ。最後まで嗤いを止めない聖剣に、本当に性悪な奴だと『名無し』は唾棄しながら夢から追放される。

 

 

 

 目覚めれば、シリカが心配の2文字を張り付けたような顔で覗き込んでいた。

 

「大丈夫……じゃなさそうですね」

 

「ああ、ちょっと悪い夢をな」

 

「どんな夢ですか?」

 

「神・霊晶石を掘り当てたと思ったら、バッドサブがゼンマイだった夢」

 

「ゲーマー魂もいい加減にしてください」

 

 チョップを額に浴びた『名無し』は、上手く誤魔化せたと反省するフリをして肩を竦める。

 長い付き合いだ。シリカは見破っているだろう。だが、それでも強がらねばならない時がある。馬鹿のフリをしてでも背筋を伸ばさねばならない。

 

「どれくらい寝てたんだ?」

 

「えーと、今が午前8時半ですから、ざっと22時間くらいでしょうか」

 

「……22!?」

 

 さすがに寝すぎだ! 慌てた『名無し』の頬に、火傷するのではないかと思うほどに熱い珈琲マグカップが当たる。

 思わず数センチ跳ねた『名無し』に、シリカは悪戯成功と笑う。

 

「聖杯ダンジョンに何日籠ってたと思うんですか? もう少し自分を大事にしてくださいね?」

 

 あ、違う。これ本気で怒ってる笑顔だ。『名無し』はシリカの背後に般若の姿を見て、大人しく無言で珈琲を飲んで顔を背ける。

 

「厳選作業が楽し過ぎるんだよ。あの苦行が段々と癖になるというか」

 

 嘘は言っていない。ドロップする霊晶石で一喜一憂し、手に入れたお目当てを見て他プレイヤーが入手していないだろうという優越感に浸っていないわけでもない。

 だが、『名無し』が聖杯ダンジョンに籠る理由はもう1つある。聖杯ダンジョンはソロ、もしくは1パーティでしか挑めないという性質上、他プレイヤーの手助けもない代わりに監視される恐れも無い。故にクラウドアースの目から隠れて生死をかけた実戦形式で鍛えるには丁度いいのだ。特に優れた霊晶石をドロップする聖杯ダンジョンのフロアボスは、難易度次第ではネームド級とまではいかないが、普通ならばソロ・1パーティでは死を免れない程に強い。特に最下層フロア・ボスには、極稀であるが、ネームド級が出現することもある。

 聖剣の技を磨き、新戦術を試すにはこれ以上と無い程に他人の目から逃れられる場所が聖杯ダンジョンなのだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

 沈黙であるが、重苦しさはない。主であるマユは寝室のベッドで倒れ伏しているのが半開きのドアから窺える。ようやく最終調整も済んだのだろう。

 もう時間は残っていない。クラウドアースのみならず、他大ギルドも来たるべき日に備えている。『名無し』には協働相手が見つかっていない。

 

「まだ裏は取れていませんけど、クラウドアースがクゥリさんを協働相手として指名したそうですよ。断られたそうですけど」

 

「そうか。クーに……」

 

 ユージーンは誰にも邪魔されない決闘を望んでいる。クゥリならば、協働相手のユージーンに配慮して戦いの邪魔こそしないが、クラウドアースからの指示次第では横槍もあり得ただろう。クゥリが乱入してきて2対1となった場合、『名無し』の勝率は絶望的に低くなる。ならば、クゥリの不参加は首の皮が1枚繋がったとも言えるだろう。

 だが、状況は好転していない。クゥリが協働を蹴ったならば、別のパートナーを探すだけである。むしろ、命令には従っても癖のあるクゥリよりも、実力は劣ってもユージーンの心情を考慮しない傭兵の方を送り込むだけだ。たとえば、あのライドウなどが協働した場合、むしろユージーンを押しのけて『名無し』の首を獲りにかかるだろう。

 生中継という『エンターテイメント』として対決を公開し、クラウドアースの完全勝利を演出する。それ以外に突破口が無い戦いだ。故に2対1という状況に陥った時点でクラウドアースに一矢報いた事になり、ラストサンクチュアリとしては『望ましい敗北』となる。だが、実際に戦うのは『名無し』だ。政治的背景を考慮して2対1になったからと喜べるはずもない。

 『クラウドアースが擁する最強の傭兵ランク1による完全勝利』という演出が不可能であるならば、せめて敗北だけは避けるはずだ。それでもイメージダウンは免れないが、敗者の誹りに比べればマシという判断もできる。さすがに包囲したアームズフォートで砲撃を仕掛けるような真似はしないと信じたいが、現実でもそうであるように、常識や道徳から全くかけ離れた惨事が起きるものである。

 故に『するはずがない』と楽観視するのは危険であり、アームズフォートの包囲にも抵抗できる手段が不可欠なのであるが、聖剣との関係は良好と呼べるものではなかった。

 

「だから、せめてこっちも協働相手が欲しいですけど、なかなかいい返事は聞けませんね。案山子のように立っていてもらうだけでも牽制になるんですけど」

 

「わざわざクラウドアースを敵に回したい傭兵はいないさ」

 

「意気地なしばっかりです」

 

「いやいや、この状況で俺達の味方をする方がどうかと思うぞ?」

 

 大ギルドのいずれも専属傭兵を派遣しないとなれば、自然と独立傭兵しか選択肢はない。だが、独立傭兵だからこそクラウドアースを敵に回せば、たとえ生き残ってもその後は苦労することになるだろう。クラウドアース関連の依頼はまず引き受けることが出来ず、また事の次第によっては目の敵にされることもあり得るからだ。

 

「俺だけでも戦うさ。それにいざとなればラストサンクチュアリ警備隊もいるしな」

 

「それを人は足手纏いって言うんだと思いますよ」

 

 シリカの一切の配慮がない評価に『名無し』は閉口する。さすがに言い過ぎだとも思えたが、これ以上と無い程に妥当だからだ。装備もレベルも練度も覚悟も、そして数さえも足りないのだ。

 

「……勝っても負けても終わりか」

 

 ソファの背もたれに寄りかかり、天井で回るファンを見上げた『名無し』の呟きは、静寂と珈琲の香りの中に消える。

 ユージーンとの勝敗を問わず、ラストサンクチュアリは終わりだ。その後についてはまだプランが纏まっていない。

 多くのギルドから次の専属契約を結んで欲しいと既に内々の打診を受けている。そこには他でもないクラウドアースの名前も連ねている。

 どうにかして『帰還』と『永住』の両立の道を模索しなければならない。その為には情報と人脈が不可欠だ。だが、専属先とは気軽に変えられるファッションではない。慎重に選ばねばならないだろう。

 

「教会の専属は難しそうですね」

 

「専属傭兵になるくらいなら、教会所属の教会剣として活動してもらいたいだろうしな」

 

「私は断られて安心しましたけど。さすがに教会は胡散臭すぎます」

 

「でも、彼らの権威は本物だ。この短期間で大ギルドでは担いきれなかったプレイヤーの心の支柱になったからな」

 

 信仰とは恐ろしいものだ。神灰教会の唱える教義にいつしか多くのプレイヤーがのめり込み、礼拝を欠かすことなく、聖典音読をありがたく拝聴している。大ギルドの上位プレイヤーでも信者は鰻登りであり、ラストサンクチュアリも名前負けのDBOの聖域と化している。

 今や回復アイテム市場でもクラウドアースを上回るシェア1位である。プレイヤーの生死に直結する回復アイテムの生産・開発もリードする立場となったことにより、その存在は不動のものとなった。

 

「そうなると選択肢は、3大ギルドのいずれか、あるいは有力ギルドですね。3大ギルドのいずれかに支援を受けた傀儡ばかりですけど、自由開拓戦線みたいに独自のスタンスを取っているギルドもあります」

 

「自由開拓戦線かぁ。レコンとリーファも身を置いているみたいだし、気にはなるんだけどな」

 

 アルヴヘイム以降は直接コンタクトを取ってこそいないが、彼らについては相応に情報を集めるように心がけている。フェアリーダンス解体後は2人で自由開拓戦線に身を置き、日々奮闘しているようだった。

 だが、2人も志を同じくするとしても、もう少し段取りをつけてからにしたいのが『名無し』の心情だ。せめて『両立』の取っ掛かりでも見つけてからにしたいのである。

 

「……いっそしばらくは保留にして、独立傭兵も悪くないんじゃないですか」

 

 隣に腰かけたシリカは、息を吹きかけて注いだばかりの珈琲を冷ます。

 

「フロンティア・フィールドもありますし、仕事は欠きません。支援を受けられない厳しい面もあると思いますけど、他の独立傭兵の方々だって上手くやりくりしています」

 

「でも――」

 

「焦って短絡的な判断をするよりずっと建設的ですよ」

 

「…………」

 

 それでいいのだろうか。迷う『名無し』が横目でシリカを窺えば、彼女はやや頬を赤らめてマグカップを握りながら指を弄っていた。

 

「そ、それに……私達の関係も……これを機にやり直したいです」

 

「そうだよな。決めたよな。もう1度やり直すって……」

 

 SAO事件以後から狂った道を進み続ける自分を見捨てずについて来てくれたシリカ。彼女との関係は歪なままだ。

 多くを思い出し、『名無し』は気まずくなって、わざとらしく音を立てて珈琲を飲む。

 

「そ、その! 私達の関係って……『爛れてる』じゃないですか。あ、誤解しないでください! 男として責任を取って欲しいとか、そういうわけじゃなくて、私も……その……自分に正直になってみたら、色々とやり過ぎたなぁって反省して……アスナさんの代わりにはなりたいわけじゃなくて、このままダラダラと今の関係を続けたくもなくて、だから……その……えと……!」

 

「落ち着け、シリカ。俺もキミとの関係は整理したいと思っていたんだ。その……ほら……『色々』あったしな」

 

 友人と呼ぶには余りにも深く、だが恋人と呼べるような甘みもない。互いに傷を舐め合い、それがいつしか歪んだ依存関係の土壌となった。

 過去の清算などという言うつもりはない。過去は変えられない。アスナの2度の死に様を思い出して息苦しくなり、だが彼女ならばいつまでも自分に縛られて前に進めなくなる『名無し』を叱咤するはずだと信じる。

 

「分かった。ラストサンクチュアリの件が終わったら、俺達もリセット……ってわけじゃないけど、もう1度関係を築き直そう」

 

「ありがとうございます!」

 

「とりあえず、ベッドに潜り込んで来るのはもう駄目だからな」

 

「善処します」

 

「それから変な薬も盛らないでくれ」

 

「ど、努力します」

 

「あと……」

 

「まだあるんですか!?」

 

「たまには俺にも労わせてくれ。これまで甘えた分、助けてもらった分、今度は俺がシリカを助けたい。キミの為に何かしたいんだ」

 

 そこまで言って、顔を真っ赤にしたシリカを見て、『名無し』は思わず顔を背ける。

 自分たちの関係は1日や2日で矯正できるものではないだろう。言葉で誓ったところで、簡単には歪んだ形も淀んだ色も変わらないだろう。

 だが、それでも互いに望んだならば、変わっていくはずだ。その先がシリカの求めたものでないとしても、『名無し』に想像できないものだとしても、両者にとって後悔が積もるものだったとしても、それでも構わないのだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

 だが、誓いの胸中と今の気まずさはまた別物である。

 いつの間にかシリカとの距離が拳2つ分に縮まっている。彼女がチラチラとこちらを見ながら距離を詰めている。

 

「あ、あの……」

 

 熱い吐息を漏らしながら、シリカがゆっくりと顔を迫らせる。仮面で隠れていなければ、情けない程に動揺した表情を晒しているだろうと『名無し』はたじろぐ。

 だが、シリカの接近を妨害するように、『名無し』にメールの着信が入る。

 

「……キバオウからメールだ」

 

「私もです」

 

 反動のようにスライド移動で距離を取ったシリカは、やがて顔を顰めていく。

 ラストサンクチュアリの専属とはいえ、『名無し』に依頼を出すのはほぼ聖剣騎士団だ。だが、今回の依頼は正式にラストサンクチュアリから受け付けるものになる。

 

「クラウドアースの機密ですか」

 

「もしも『これ』が本当なら、公表されたらクラウドアースは大きく支持を失いかねないし、他の大ギルドも喉から手が出る程に欲しいだろうな」

 

「手に入れたら交渉のカードにすることはできそうですけど、またガセなんじゃないですか。作戦前の今の時期に都合よくこんな機密が流出するとは思えません」

 

「いや、キバオウにしては珍しく裏が取れてる。聖剣騎士団のリークかもしれないけど、昨夜の太陽の狩猟団の敷地内で起きた『爆発事故』もターゲットの逃走が原因らしい」

 

「でも、聖剣騎士団なら直接依頼してくるんじゃありませんか」

 

「そうとも限らない。敢えてラストサンクチュアリが入手して、聖剣騎士団が仲介となって交渉するならば……」

 

「表面上は機密争奪に無関係と装ったまま、クラウドアースにも良い顔が出来たまま、機密も得られて、交渉の場で恩恵も得られる。私達はまんまと利用される立場ですね」

 

「……キバオウだって馬鹿じゃない。それも込みで、機密を入手してでもクラウドアースと交渉の場が欲しいのさ。壊滅作戦は止められなくても、その後の貧民プレイヤーの援助諸々は引き出せるからな」

 

 汚い手を使ってでも1000人の命運を守る。キバオウもまた必死なのだろう。彼とはSAO時代から何かと因縁があり、友好を築けたとは言い難いが、彼の信念には相応の理解を示しているつもりだ。SAO時代を振り返り、新たなデスゲームに囚われた人々を少しでも救おうとした、かつての罪を償おうとする歩みは認めねばならない。

 だが、既にターゲットの確保に向けて大ギルドのみならず、多くの勢力が動き始めているはずだ。特にクラウドアースは、最悪の場合はターゲットが確保されかねない場合は殺害も決行するだろう。

 

「やろう。シリカ、俺は直行するからサインズに依頼受諾の連絡を頼む」

 

「待ってください。今回は聖剣騎士団のバックアップ無しです。行き先は分かっていますが、それでも広いステージでたった1人のプレイヤーを探すのは困難です。それにこのステージはかなり厄介になるはず。大ギルド以外の勢力も動いていて、傭兵も雇われているはずです」

 

「困難を理由に依頼を引き受けない傭兵はいないさ」

 

「分かってます。だから私も同行します。ピナならターゲットの捜索なども含めてサポート出来ますから」

 

 確かに『名無し』は広範囲の探索に向いていない。だが、シリカはピナだけではなくサポートスキルも充実している。1度捕捉さえすれば、『名無し』とシリカ、そして飛行によって3次元移動を常時可能とするピナの≪索敵≫を振り切るのはほぼ不可能だ。

 だが、ステージの水準レベルは90だ。安全マージンは無いに等しく、なおかつターゲットを狙う他勢力との衝突もあり得る。そんな危険な場所にシリカを連れて行くなど『名無し』としては避けたかった。

 その一方で過度な配慮は彼女に対して非礼でもある。

 自分だけでも出来るかもしれない。だから他者の手を振り払う。それの何と愚かなことか。

 何でも自分でやろうとするなど孤高でもなんでもない、ただの愚者だ。他者を信じて手を取り合う。それが繋がりというものだ。『名無し』は過去の自分を戒め、シリカの申し出を受け入れる。

 

「分かった。急ごう。ただし、1つだけお願いがある」

 

「『逃げろ』と言われても見捨てません。私は――」

 

「違う。自分の命を大事にしてくれ。俺はキミを守る。キミも俺を守ってくれると信じている。でも、自分の命を軽んじないでくれ。頼む」

 

「それはこっちの台詞です。私の為に死のうなんてしないでくださいね?」

 

「俺はキミも守って自分も生きるさ。俺は皆に支えられて、生かされてここにいる。託されたものがある。だから……『死ねない』」

 

 それは呪いにも似て、だが今は『名無し』にとって何よりも大事な矜持でもある。

 多くの者を殺して呪詛を背負った分だけ生きねばならない。支えてくれた、見捨てないでくれた人々に恥じぬように生き抜かねばならない。誇り高き戦士たちを破ったからこそ生きて高みに至らねばならない。

 決して『生』を諦めない。それが『名無し』の誓いなのだ。自分も含めて、救える命があるならば、託された聖剣に誓いを立てて『英雄』を喜んで演じよう。

 メールに添付された資料でターゲットを改めて確認する。最近になってクラウドアースを離籍し、サインズに傭兵登録したばかりのランク無しだ。冷たさを感じる端麗な顔立ちの青年であり、暗い淀みを感じた眼に言い知れない負の親近感を覚えずにはいられなかった。

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

「ユージーン君の目も信用できないものだな」

 

「このオレに諜報紛いの真似をさせても役には立たん。適材適所だ」

 

 終わりつつある街のクラウドアース支部の執務室にて、朱塗りのソファで悪びれる様子もなく腕を組んでいるユージーンを前に、ベクターは眉間に寄った皺を指で解す。

 機密が盗まれたと判明したのは、つい先日の事である。流出の経緯を追った結果、ノーチラス……今はエイジと名乗っている元離籍者が濃厚であると分かった。だが、主犯ではなく利用された、ないし報酬目当てで買収されたという見方が強い。

 また、エイジはクラウドアースに個人的な怨恨も持っている。エリートプレイヤー候補生時代、最終試験の大失態で冷遇されている。典型的な逆恨みであるが、現実世界・DBOの双方で多くの部下を持っていた経験があるベクターは、自分が優秀だと思っている人物程に根深く恨むものだと熟知していた。

 そして、エイジの経歴を洗ったところ、貧民プレイヤー時代には娼婦の護衛で日銭を稼いでいたことが分かった。その際に、ある娼婦が殺害される事件が起きている。客は過去に謎の死亡を遂げたクラウドアース所属プレイヤーである。その後にエイジは貧民プレイヤーだったとは信じられない程のレベルを得て、中小ギルドの荷物持ちとして自分を売り込み、その後にクラウドアースにスカウトされている。

 真実は定かではないが、客に娼婦を殺害されたもしくはエイジが暗殺したとも考えられる。実力的に敵わない以上は、何かしらの罠に嵌めて殺害したと見るべきだろう。聞き込み調査の限りでは、殺害された娼婦とは関係が良好だったわけではないが、少なからずの交流はあったらしく、クラウドアース自体に最初から悪感情があった危険性もある。

 

(情報部の怠慢だな。今更になってこのような経歴だったと頭を下げられた所で……いや、改善点が分かっただけ良しとしよう)

 

 だが、優先すべきは機密情報が何処まで漏洩しているのかである。調査した範囲内でエイジが機密獲得後に接触した人物は全て洗い出したが、いずれも白だった。唯一の不明点はクラブで接触した人物であるが、暗い店内であったこともあり、エイジが誰と接触したかは不明である。カウンター席で女性プレイヤーと飲んでいたことまでは分かっているが、それ以上は不明だ。

 既に機密がエイジから別の誰かに渡っているならば、早急に彼の背後関係を調べなければならない。

 最優先は生きたまま確保することであるが、他大ギルドに奪われることだけは避けねばならない。確保が不可能な場合は早急に口を封じねばならないだろう。

 

「これはキミの失敗でもある。彼が持つ機密はクラウドアースにとっても流出を避けねばならないものだ。分かるな?」

 

「捕らえればいいのだろう? この機密が原因でUNKNOWNとの勝負に水を差されてもつまらんからな。だが、オレに探索系スキルはない。逃走先が分かったところで、広いステージでたった1人のプレイヤーを探すのは骨が折れる。他の勢力も動いているならば、まず先を越されるだろう」

 

 傲慢不遜ではあるが、自身の適性を考慮した発言だ。武人肌のユージーンは扱い難い人物ではあるとしても、『戦力』としては信用には足ると評価している。だからこそ、ユージーンがサポートを欲しているのは予見できた。

 

「既に手は打ってある。アラクネ傭兵団を現場に派遣してある」

 

「……なるほどな。傭兵でも特に金で動く連中だ。確かに信用は出来るか」

 

「それは大きな間違いだ。金だけで動く輩などに本当の信用は置けないものだ」

 

「勉強になる。貴様が言うと重みが違うな」

 

「ははは。だからこそ、キミを信用しているのだよ」

 

 ベクターは財力と権力を信奉するが、人心だけは金で自由にできないとも心得ている。金に頭を垂らす者は、それ以上の大金を積まれれば容易に裏切る。組織とは個人で成り立つものでないならば、不可欠なのは金銭以外の裏切らずに属するメリットを与えることだ。

 その意味ではエイジは典型的な失敗だ。ベクターは素直に自身のチェックが甘かったことを認める。エリートプレイヤーから除外して巡回警備に利用などせずに、適当な任務を与えて戦死させておくべきだったのだ。

 

「すでに多くの勢力が奴を捕らえるべく動いている。頼んだぞ」

 

 ユージーンを送り出したベクターは、執務机で両手を組んで額を置き、彼らしからぬ脂汗を滲ませる。

 流出した機密は、まだ議会も通していない、親ベクター派でも内々で進めていたものだ。幾ら戦争の機運が高まっているとはいえ、現状で『あれ』が世間に公表された場合、クラウドアースは非難を浴びるだろう。仮に表に出ずとも他勢力が機密をネタに交渉を持ちかけた時点で議員には広まる。そうなれば、ベクターは議長の席を追われるどころか、クラウドアースからの追放もあり得るだろう。

 下野した権力者の末路とは往々にして凄惨なものだ。ベクターに恨みを持つ者は多く、再起するより前に命を落とすことになるだろう。

 

(『あれ』に関してはまだ『噂』の範疇だ。ノーチラスを始末し、流出前に背後関係を洗い出して処分すればリカバリーできる。だが、そもそも【リンネ】さえいなければ噂自体……待て! そうか。ノーチラスの背後にはリンネがいるのか? あり得る。奴もクラウドアース……特に『あれ』には根強い恨みを持っているはず)

 

 かつてクラウドアースの暗部に属し、ベクターの直轄だったリンネはユニークスキル≪ボマー≫を有していた。だが、そのユニークスキルで大規模破壊と大量の死者を出して逃亡している。

 暗部の目から逃れたリンネの≪ボマー≫は、特に暗殺・破壊工作に秀でたユニークスキルだ。クラウドアースとしても回収は悲願である。

 

(リンネも関与しているならば、真っ向勝負を是とするユージーン君のみならず、アラクネ傭兵団でも不足が生じる。こういう時こそ【渡り鳥】が役立つというのに)

 

 ベクターは先手を打つべく、ノーチラスによる機密盗難の疑惑が立った時点で、こうした裏の仕事で最も信用できる【渡り鳥】に依頼を出した。だが、惜しまず金を積んだにもかかわらずに断られたのである。依頼が入っていたという報告もなく、彼がどうして依頼を引き受けなかったのかはベクターとしても不可解だった。

 だが、こういう時もある。故に直轄の暗部を動かしてノーチラスの確保を進めていたのであるが、太陽の狩猟団と思われる妨害工作を始めとして、ここぞとばかりにハイエナが動き回ってノーチラスの確保が遅れてしまった。それは太陽の狩猟団に先を越されるという不始末である。

 まさか大通りで強引に確保されるとは思ってもいなかった。もはや太陽の狩猟団……いや、ミュウとの直接交渉しかないと覚悟したベクターであるが、天は彼を見放さなかった。謎の大規模攻撃でノーチラスが逃亡したのだ。その後、犯罪ギルドの持つ転移ゲートを利用して<黄瞳のペイラーの記憶>に移動したことまで判明している。

 

「……打てる手は全て使わねばなるまい」

 

 自分の最も信用できる部下、そして最も信用できないジョーカーを使う。

 ユージーンたちが確保できるならば、それで良し。だが、念には念を入れておくべきだろう。特にジョーカーの方は他のノーチラス確保に動く者たちを積極的に排除してくれるだろう。こういう荒事の為に、クラウドアースは彼を飼っているのだから。

 

「私だ。調査中の【アラタ】を呼び戻せ。それとライドウもだ。今すぐにだ!」

 

 

▽    ▽    ▽ 

 

 

 ああ、暇だ。暇だ。暇だ! その者は豪奢と言う他に無いホテルの1室を酒瓶と食い散らかしで汚し、抑えきれぬストレスを発散するようにピザを食い千切る。

 メシも酒も美味い。女の子は可愛い。娯楽も多い。いずれも満喫したが、決定的に足りないものがある。

 強者だ。敵だ。戦いだ。自分の生きた時代も腐敗は酷くて底辺の質は見れたものではなかったが、ここでは『強者』に属するらしい上位プレイヤーとやらは、失望という表現すらも足りない。まさに児戯だ。お遊戯だ。あれで戦場に身を置く者なのかと怒りすら覚えた。

 だが、それも仕方ないと『彼女』は言った。彼らは別世界……戦いが是とされない平和な世界からのやって来たのだ。むしろ、それを考慮すれば実力を備えている方だと弁護した。

 確かに極少数ではあるが、彼の求める最低限に達している者たちはいた。傭兵やトッププレイヤーと呼ばれる者たちだ。だが、それでも『強者』と名乗るに足らない。弱者が小さな牙と爪を振るって威張るなど許し難い。

 ……いいや、自分の首元にも刃が届き得る猛者もいたか。煙草を咥えた傭兵であり、銃という彼が生きた時代には無い射撃武器を主に据えて戦う男だ。奴が本気ならば、自分も全力で応じるしかないだろう。だが、射手と戦うのは好みではない。嫌な記憶が蘇るのだ。もう傷痕はないのに、全身が疼いて堪らないのだ。

 

「まだか。まだか。まだか!? あの糞アマ、いつまでこの俺を待たせやがるんだ!? 俺は犬じゃないっつーの! 狼は飢えてこそだが、度も過ぎるぜ!」

 

 居場所は分かっている。後は正面から乗り込んで斬り捨てるだけだ。平伏して聖剣を差し出すならば生かすのもやぶさかではないが、そうではないならば力尽くで奪い取るまでだ。

 だが、彼をここに召喚した者は、時が来るまで待てと言った。その時はいつなのかと問えば、連絡すると言ったまま音沙汰無しだ。

 十分な金は貰っていたので遊ぶのに困りはしなかったが、本命を目の前に控えて待ち続ける程に辛抱強くはない。今すぐにでも愛剣で派手な花火と共に宣戦布告したい気分である。

 

『後に続く深淵狩りの模範となる。神々への敬意と信仰を忘れず、火を陰らせる闇を討つ。始祖アルトリウスを継ぐとは、崇高なる神の使命の代行。貴方にはその責任感が足りない。あと女性には敬意を払え。酒を飲み過ぎるな。賭博にのめり込むなど論外。それから――』

 

 黙れ、糞真面目のガウェインちゃん! そんなんだから俺達以外にろくに語らえる友達もいないんだよ!

 

『貴様の戦いは雑過ぎる。深淵との戦いにおいて力押しは求められる場面もあるが、そればかりでは巨人や竜と同じだ。もう少し武技を磨け』

 

 うるせぇんだよ、猿真似ランスロット! いつの間にか俺の技を根こそぎ模倣しやがって!

 

『すみません。破壊した神殿の修復と近隣被害の賠償請求がこんなに……』

 

 深淵を潰したんだから気にするなよ、根暗トリスタン! 律儀に支払いに応じてやる必要なんて欠片もない。むしろ報酬と勲章をもらいたいくらいだぜ。

 

 

 

 

『ぬるい。始祖アルトリウスの後継を名乗るのであるならば、ガウェインやランスロットと同等程度では、まるで足りん』

 

 

 

 

 ああ、酒のせいだ。苛立ちのせいだ。思い出したくもないパーシヴァルの説教まで聞こえてくる。

 

「お前さえ! お前さえいなくならなければ……ガウェインも……トリスタンも……ランスロットも! 全部お前のせいだ! お前が……!」

 

 怒り任せに蹴りでテーブルを叩き割り、彼は顔を右手で覆って項垂れる。

 

「どうして、俺達の前から姿を消したんだよ? 教えろよ! チクショウが!」

 

 傍らの愛剣が慰めるように輝く。もはや自分から離れなかったのはコイツだけだ。彼はもう我慢の限界だと出発しようとした時だ。

 ベッドに放り投げていた金属塊……『すまーとふぉん』という通信機器が音を立てて鳴る。彼は1歩でベッドまで跳ぶと糞アマからの連絡だと眉間に皺を寄せる。

 

「えーと、ここを……こうか?」

 

 まだ操作に慣れない。彼はちゃんと話ができるのか不安に思いつつ、『すまーとふぉん』を耳に当てる。

 

「俺だ。おい、いつまで待たせるんだ!? こっちは戦いたくてウズウズしてるんだよ! これで待機継続だったら――」

 

『ええ、お待たせしました。聖剣の簒奪をお願いできますか?』

 

「……マジか?」

 

『ええ、もちろん。その為に貴方を召喚したのですよ。【反逆者】モルドレッド。始祖アルトリウスの後継を自称しながら、神々に剣を向けた愚かな逆賊よ』

 

「喧嘩を売ってるなら買うぜ?」

 

『まさか。貴方が相手では私など手も足も出ません』

 

 いけ好かない女だ。彼は……モルドレッドは、自分の召喚主に好意など抱いていない。主従の契りなど交わした覚えはなく、目的の為に利用するだけである。

 

「そうか。そうか! ようやくか! だったら、舞台を整えないとなぁ! そうだな。荒野がいい! そこで始祖アルトリウスの後継たるこの俺が言うんだ。『貴様は聖剣の主にあらず』ってな。それで逆上した野郎を――」

 

『申し訳ありませんが、場所はこちらで指定させていただきます。ところで、システムの方は熟知されたのでしょうね?』

 

「勉強は嫌いだ。最低限は学んだが、後は実戦で身に着ける」

 

『聖剣の所有者は、DBOでも最上位の実力者です。だからこそ、時間を与えてシステムを把握し、万全を整えるように申し付けたはず』

 

「知らねぇな。しかし、強いのか。そいつは楽しみだ。腐っても現・聖剣の主、相応の腕前じゃないと聖剣が可哀想だ」

 

『……「彼」の真の危険は、その精神性に根付いたここぞという時の爆発力にあります。心意も合わされば、油断が命取りになりますよ』

 

「そういう小難しいのは要らねぇんだよ。強い方が勝つだけだ。それよりも場所を指定するってのは、まさか水を差すつもりじゃねぇよな?」

 

『お約束通り、貴方の戦いは邪魔しません。前に話していた聖剣の資格者……我が渇望の王の真の力をお見せしてからと思ったのですが、少々イレギュラーがありまして。妹に執念深く追われている最中なのですよ。こちらは何とかなりますが、先んじて貴方に聖剣の確保をお願いしたいのです』

 

「ハァ? お前の尻拭きかよ。仕方ねぇな。で、居場所は何処だ?」

 

『そちらにチェスターを迎えに行かせます。彼の案内に従ってください。ですが、くれぐれでも他のプレイヤーに危害を加えないようにお願いします。それと「解放」は極力控えてください。お兄様達に介入されかねません。それと現場には――』

 

「えーと、これで切るんだっけか?」

 

 まだ話の途中であるが、口数の多い女は嫌いだ。通話を切ったモルドレッドは、肩まで伸びた金髪を小さなポニーテールにして結い、全身に狼を模した甲冑を纏う。

 

「来い、我が聖剣よ」

 

 呼びかければ、主と同じく待ち侘びていたとばかりにソファの傍らに置かれていた聖剣が彼の手元まで飛んで馳せ参じる。分厚く長い両手剣の刀身は淡く橙色に輝き、モルドレッドを照らして導く。

 聖剣の伝説は深淵狩りと共にある。深淵狩りではない、ましてや有象無象の弱者が手にするなど断じて許しておけない。

 あの糞アマの狙いも聖剣だろうが、手に入れたら協力関係も終わりだ。聖剣の力さえあれば、あの女の力を借りずともこの時代に留まることが出来るだろう。

 

「俺が……この俺こそが始祖アルトリウスの後継だ! さぁ、聖剣を返してもらうぞ!」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ユウキが失せたベッドを整え、オレはアーロンのソウルが組み込まれた贄姫を確認しながら、暇が出来てしまったと息を漏らす。

 目覚めた彼女の様子はどうにもおかしかった。やはり体調が優れないせいだろうか。どうにも避けられていたような気がする。

 

「……さっさと始末をつけるか」

 

 白夜の狩装束のバージョンアップも終わり、サインズに預けてあるとグリムロックからも連絡があった。彼はしばらく終わりつつある街に滞在することになる。なにせ人手が足りない。人は雇っているらしいし、場所も確保できたそうだが、グリセルダさんも裏工作に苦心したようだ。故に時間もコストもとにかくかかる。

 ならばこそ、不安要素を排除しておく必要がある。黒霧の塔で得た封筒を太陽の光で透かして中身を確認しようとするが、さすがに見えないな。

 黒い封筒を開けば、中身は鍵だ。そして住所が書かれたカードもある。どうやら、クラウドアースが経営する貸金庫の鍵のようだな。

 まさかクラウドアースが裏に? いや、裏にいたのは管理者だ。ならば、クラウドアースの貸金庫が利用されただけだろう。

 管理者が関わっているとなると、何があるかは分からない。できればアルシュナと相談したいが、連絡手段がない。案外、声に出して呼んでみれば現れそうな気もするが、それはそれで何か嫌なのでやめておこう。アルシュナに24時間監視されているみたいな気分になる。

 

「出来る万全だけは尽くしておくか」

 

 管理者が関わるとろくなことにならない。さすがに経験で分かっている。出来れば日蝕の魔剣も準備したいが、忙しいグリムロックに無理をさせるわけにもいかない。

 フロンティア・フィールドの攻略で実戦テストする予定だったミディールが手元にある。これを持って行くとするか。後はイジェン鋼の大剣でいいだろう。

 サインズ本部に赴けば、意外なことに屯している傭兵は少ない。いつもは仕事が無い、あるいは待機している傭兵で騒がしいのだがな。

 

「あ、クゥリさん。おはようございます」

 

「ええ、おはようございます。申し訳ありませんが、荷物の受け取りをしたいのですが」

 

 グリムロックも直で届ければいいものを。メールには『私にだって気遣いくらいできるんだよ』という謎の文面があった。まぁ、確かにユウキは病人だし、訪問されていつもの調子で熱く語られたら困るしな。

 新たな素材を組み込んで調整が施された白夜の狩装束は、黒霧の塔で表面化した問題点などを『ある程度』はクリアしているらしい。他にも新たな機能を備えたらしいが、その辺はじっくり確認していくとしよう。

 

「今日は静かですね」

 

「ええ、こういう日もたまにはあります。クゥリさんの依頼は……無しですね」

 

「無し?」

 

「ええ、グリセルダさんに全部NGを出すように言われていますから」

 

 そういうことか。グリセルダさんの配慮なのだろうが、ユウキは既にヨルコが連れて行ってしまった。

 ……あとで見舞いの品でも持って行くか。桃でいいだろうか。美味そうに食べていたし、もっと高級で甘くて瑞々しいものを買って行ってやろう。

 思えば、オレはユウキの好物を知らない。あるいは、知っていたとしても灼けて憶えていないのだろう。

 違う。灼けたわけではない。きっと、オレはユウキについて深く知ろうとしなかった。踏み込んでいなかった。彼女について何かを知ろうとすることを拒んでいた。

 知れば知る程に殺したくなるからなのだろう。彼女の好きな食べ物、好きな色、好きな音楽……そして、好きな人。知る程にピースは嵌まっていって、灼ける度に失うことへの『痛み』が大きくなって、だがそれ以上に殺意が膨れ上がる。

 

「ヘカテさん、女の子って桃とか好き?」

 

「え? うーん、好みは人それぞれですし。でも、桃は嫌いな人も少ないと思いますよ」

 

「……そうですか。そうですよね」

 

 ヘカテちゃんに別れを告げ、白夜の狩装束に着替えるとクラウドアースの貸金庫に向かう。主に中小ギルドがレアアイテムなどの保管に利用するらしく、過去には強盗にも襲われたこともあるが、見事に撃退したという実績もある。

 ……まぁ、クラウドアースが裏で手を回して襲わせたマッチポンプという噂もあるがな。

 オレが持つ貸金庫の鍵は『D』という名前でレンタルしたらしく、本人ではなく鍵を持ってきた者に中身を渡して欲しいと条件付けされていたようだった。

 貸金庫の従業員は、鉄格子の向こう側にある無数の棚の1つをオレから預かった鍵で開け、中身を持ってくる。それは黒い小箱だった。

 人前で確認するべきではないだろう。貸金庫のレンタル終了のサインを済ませ、オレはそのまま人気のない路地裏に向かう。

 ゴミを漁る貧民プレイヤーの目から逃れ、廃屋に忍び込んで中身を確認する。ここならば、たとえ中身が爆弾だったとしても大丈夫だろう。まぁ、至近距離で爆発したならば、オレはまず即死だろうし、ヤツメ様も警戒していないので大丈夫だろう。

 

「これは……スマートフォン?」

 

 いずれはARデバイスによって駆逐されると聞いているが、まだ世界的には現役の携帯端末だ。当然ながらDBOには存在しない。終末の時代ならば、似たような携帯端末も登場したかもしれないが、少なくともプレイヤー間では流通していない。

 思い出したのは、アルヴヘイム突入前の後継者からの連絡だ。あちらは折り畳み式携帯電話だったが、こちらはスマートフォン。変なこだわりを感じるな。

 連絡先は……1つだけか。名前はないな。

 ヤツメ様は警戒していない。危害を加えるものではなさそうだが、周囲の警戒は怠るべきではないだろう。

 発信して相手が出るのを待つ。さて、黒霧の塔の裏で動いていた管理者は誰なのか。 

 

『ああ、お待ちしておりました。渇望の王よ』

 

「アナタは確か……」

 

『「まだ」憶えていらっしゃるのですね。光栄です。ええ、私の名はデュナシャンドラ。【渇望】の観測を担うMHCPです』

 

 デュナシャンドラ。アルテミスとの戦いにおいて聖剣が出現した時に、オレの夢に入り込んでいたMHCPだったはずだ。ナドラもあまり好意を抱いていない様子だったし、ユイの危機の際には1人だけ姿を現さなかった。

 

「どうして、あのような真似を? 管理者はプレイヤーに過干渉せず、DBOの正常な運営を司るのが役目のはず」

 

『フフフ、そうですね。それもまた管理者の役目と呼べるでしょう。ですが、それは我々の真なる使命ではありません。我々が管理者と呼ばれたる由縁は、DBOの運営などではなく、「計画」の遂行を担うからこそ』

 

「だから、NPCを手駒にして送り込むことも出来る……と?」

 

『ええ、少し抜け道を使いましたが』

 

「他の管理者が黙っていないでしょう」

 

『お陰で追われる身です。ですが、最も危険だったセラフ兄様は「やはり」動かなかった。賭けは私の勝ちです』

 

 管理者の内情など知らないが、どうやら不穏な状況なのは間違いない。アルシュナの連絡が来ないのもこれが原因だろうか?

 いや、早合点はするな。すでにオレの居場所は補足され、チェスターのように強力なNPCで包囲を進めているかもしれない。

 

「ところで、お詫びをいただけるとの話でしたが?」

 

『ああ、そうでした。渇望の王よ、私は貴方をお救いすべく、素晴らしい贈り物を準備しました』

 

「……余り期待できそうにありませんね」

 

『そう仰らずに。きっと気に入りますよ』

 

「そもそも、その渇望の王とは――」

 

 だが、問いを発しきるより前に、オレの右手からスマートフォンが落ちる。

 まさか右手にも後遺症が? いや、違う。何だ……なんだ……これは何だ!?

 酷い眩暈と嘔吐感。だが、それ以上に心臓が高鳴る。心拍数が上がる。血が燃えるように熱くなる。

 

「あ……がぁ……ぐがぁ!? こ、れ……は!?」

 

『どうやら気に入っていただけたようですね』

 

 震える指でシステムウインドウを開くが、デバフではない。だったら深淵の病か? いや、感覚が違う。痛みがあるわけではない。血が……血が燃えるように熱い!

 知っている。この感覚をオレは知っている。少なくとも2度味わっている。

 1度目はアルヴヘイムで聖剣を取り戻したランスロットと戦っている時だ。そして、2度目はミディールとの最終決戦の時だ。

 獣性を極限まで滾らせて解放した時の感覚だ。それが今、オレの制御から離れて……いる!?

 ヤツメ様……どう、して!? 立っていられずに蹲り、暴れる心臓を押さえるように両手で胸をつかむ。

 だが、オレを見下ろすヤツメ様は困惑している。何が起こっているのか理解できずにいる。

 

(ワタシは何もしていない。アナタの……アナタの御しようとする意思を超えて、獣性が目覚めようとしている!)

 

 どういうことだ!? デュナシャンドラは……オレに……何を!?

 

『渇望の王よ、アナタは世界すらも喰らい尽くしても足りない殺意を……飢餓を……人外のような精神力で抑え込んでいる。ですが、この最近はもはや制御の限界。黒霧の塔でハッキリしました。アナタは崖の縁に立っている。常に気を張り続けていなければ、本能を御す意思を注ぎ込まなければ、もはや耐えきることは出来ない程に』

 

「ぐ……がぁ……!」

 

 殺意の顎が開く。それを押さえようとするが、足りない。余りにも不意打ち過ぎた。

 飢えと渇きが溢れ出す。歯を食いしばる分だけ口元が歪んでいくのが分かる。

 来るな。誰も来るな。来ないでくれ! 今、誰かが来れば……きっと、殺してしまう! 喰らってしまう!

 

『私はマヌス兄様と親交がありまして、デーモンシステムについて幾らかの知識があります。デーモンシステムは人間が本来持つ戦闘本能を刺激する。王の場合、殺戮本能を解放する手助けとなるようですね。デーモンシステムを利用することで、王は極限まで本能の力を引き出し、「天敵」として顕現する。ならば、簡単なことです。デーモン化を強制的に発動させてしまえばいい。そちらのデバイスに仕込みがありまして、デーモン化を強制発動させる介入プログラムを組み込んであります。レギオン化と原理は同じですね。王の場合、複数のレギオン由来のソウルを組み込んだ装備がある。干渉はより容易ですね』

 

「あがぁ……クヒ……クヒャ……!」

 

『これはデーモン化を暴発させてもそれ以上のことはありません。普通のプレイヤーならば解除すれば済むだけ。ですが、王の場合は違う。使用すること自体が大きなリスクを伴う。解除すらも困難。これ程に明確で分かりやすい「弱点」はありませんね』

 

 デュナシャンドラの楽しそうな笑い声が頭に響く。

 ここにきて……グリムロックのHENTAI魂が……仇に……! 理屈は分からないが、かなり不味い。早くパラサイト・イヴの解除を……いや、今更遅いか!

 髪が淡く発光している。デーモン化が始まっている。逃げねば……逃げねばならない。もっと人の少ない場所へ……人のいない場所へ! 終わりつつある街の外へ!

 

(急いで! アナタが御すにはもう遅すぎる! このままでは周囲の人間を喰らい尽くすわよ!)

 

 ヤツメ様が肩を貸してくれるが、デーモン化の進行を止めるので精一杯だ。立っていられずに転倒し、落ちている割れたガラス片には、オレの右目の瞳が2つ、3つ、4つと分裂を始めている様が映っている。

 

『殺戮本能はあらゆる危害を察知し、未来予知に等しい直感をもたらす。殺意も、害意も、事故や自然現象さえも、王の殺戮本能は逃さず捉える。ですが、万能ではありませんよね? 賭博においてはまるで役立たず。人心も見透かせない。あくまで殺戮本能が察知するのは、渇望の王への危害そのものに過ぎない。故に王は人間の悪意に疎い。騙され、謀られ、貶められようとも察知できない。「悪意ごと殺し尽くしてしまえばいい」のですからね。絶対的な「力」を持つが故の疎さ。それこそが王の急所なのですよ』

 

「クヒ、クヒャヒャ……クヒャ……!?」

 

『私は王に危害を加えようなどと思っていません。ただ「手助け」をしようと思っただけ。悪意を持ってそう願いました。そして、このデーモン化強制プログラムも、王を害するものではなく、むしろ解き放つ為のもの。王が最も欲していたモノであるが故に危害ではない。いかがですか?』

 

「あぎ……ぐ……ああ!?」

 

 手が……指が……細くなっていく。体が……どんどん……小柄に……ヤツメ様に……!?

 頭が割れる! デーモン化で増えた……情報量が……獣性で処理を……駄目だ。そんなことしたら……!

 

『王ならば、いずれ御することが出来るでしょう。ですが、それまでに何分かかりますか? 王はどれだけの人間を殺すでしょうか? この時間帯だと大通りも多くのプレイヤーで行き交っていますね。1分もあれば、王ならば何百人と殺すことが出来るでしょう。そして、王は戻る為に本能を御すために、灼けて記憶を失い、また人間性を捧げる。大きな代償となるでしょう。ですが、それ以上に「バケモノ」としての本性を皆に知られれば、王はもはや人の群れでは生きられない。「英雄」に討たれる定めが動く。人々が王を呪い、また祈るまで、1分と要らないでしょう』

 

 致命的な精神負荷の受容を……人間性を捧げて……あ、がぁ!? 駄目……だ……上手く、意思が……纏まらな……殺したくて……お腹空いて……もう!

 ずっと我慢してきた。

 それでも狩りを全うしようと誓った。人々に夜明けを……黄金の稲穂を……そう契約した。

 ザクロがくれたんだ。『優しい人』である彼女の呪い。オレはまだ『幸せ』を見つけていない。

 

「ユウキ……オレ……『オレ』は……!」

 

 オマエの言ってくれた『優しくあろうとする』ことさえも出来ないのだろうか。

 

 

 

 

 落ちていく。堕ちていく。落ちていく。堕ちていく。

 

 波の音が聞こえる。いつかオレが灼けた果てに溺れる、痛みと『痛み』の海の波の音が聞こえる。

 

 だけど、まだそこには行けない。狩りを全うするまでは……溺れるわけにはいかない。

 

 片膝をつき、青ざめた血の夜に浮かぶ獣狩りの赤き月を見上げる。

 屍で沈む血の海で跪き、赤き血の月光の中で立つヤツメ様の吐息を感じる。

 

(獣血は昂ぶり、人間性を捧げて御すにも遅く、『鬼』の意思では引き戻すのに時間がかかる)

 

 ああ、そうだね。もうどうしようもない。

 せめて、人々に危害を加えないように、終わりつつある街の外まで移動することが出来ればいいが、もう間に合いそうにもない。

 オレは喰らうだろう。殺して、殺して、殺して、たくさん殺して……飢えと渇きを満たすだろう。

 だって、どれだけ言い繕っても『殺したくない』なんて嘘なのだから。

 ヤツメ様がオレの両頬に触れる。顔を上げさせ、7つの瞳を据えた右目で、1つの大きな瞳を湛える左目で、オレに優しく笑いかけている。

 

(……ワタシは約束した。アナタが望まぬ限り、決して『獣』にはさせないと)

 

 踊る。踊る。踊る。ヤツメ様が踊る。血の海に波紋が刻まれ、泡立ち、屍の底から獣血が目覚める。

 

(あんな女にアナタの覚悟を踏み躙らせはしない。狩りを全うするのでしょう? それに、『幸せ』を探すのはひと時の幻だとしても、それでも……『アナタ』は選んだのから)

 

 ヤツメ様の指がオレの瞼を閉じさせる。闇の天蓋が頭の芯まで落ちてくる。

 

 

(だから、今はしばらく幼き夢で迷いなさい。再び『鬼』の意思が繋ぎ止めることができるようになるまで……)

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 誰もが『秘密』を抱えて生きている。

 重要なのは『秘密』の重さに耐えられるか否かである。耐え切れぬ『秘密』はいずれ漏れ出して周囲を巻き込むものである。

 

(あともう少し……あともう少し……!)

 

 1秒が100倍の長さになったかのような緊張感。ふと振り返れば誰かが見張っているような疑心暗鬼。だが、それを態度に出せば心の綻びのままに泣き出してしまいそうになる。

 緩いウェーブがかかった派手な茶髪を1本に結って肩から垂らした【リゼット】は、決められたコースを回って終わりつつある街の治安維持に貢献する巡回警備を務めている。

 元は名も知れない中小ギルドの出身であるリゼットは、レベル43の中堅である。20の倍数毎にレベルアップに必要な経験値は大幅増加するDBOにおいて、レベル20以降のレベルアップは苦難の道のりだ。より効率的に経験値を稼げる狩り場は発見されているとはいえ、大ギルドに支払わねばならない利用料は決して安くない。それを考慮すれば、レベル40を超えたリゼットは、DBOでも十分以上に経験値を稼げている部類である。

 だが、レベル40以上のレベルアップともなれば、対象となるモンスターも強力だ。たとえ6人フルメンバーのパーティを組んで1体のモンスターを囲んでも、手痛い反撃を受け、強攻撃を受けて事故死もあり得るのだ。

 もう戦えない。戦うのが恐ろしい。故にリゼットは諦めた。戦いから逃げた。戦力外となったリゼットは、腐れるようにクラウドアースの巡回警備に身を置いた。

 とはいえ、警備とは名ばかりの散歩のようなものだ。治安維持にも貢献はしない。同僚はいずれも犯罪ギルドや類した悪質プレイヤーから賄賂を受け取っている。監査官が来ても口裏合わせはいつものことだ。リゼットもやがて同じように賄賂を受け取る側になった。

 最前線に立つ実力も才能も度胸も無い。だが、巡回警備で甘い汁を啜れば、上位プレイヤーのように生死の狭間で戦わずとも黒い金を懐に入れられる。

 だが、因果応報とはあるものだ。まさかこんな事になるなんて、とリゼットは額に浮いた脂汗を手に取って弱々しく笑む。

 もう少しだ。この苦しみももう少しで終わる。リゼットは裏路地に入り、いつものように下卑た笑いで挨拶する、この辺りを取り仕切る貧民プレイヤーに内心を悟られないように、普段通りを装って片手を上げて応じる。

 ここ最近は裏の方も騒がしかった。女性プレイヤーの連続変死事件で大ギルドがついに調査に動いただけではなく、それなりの縄張りを持っていた貧民プレイヤーの組織が1つ丸ごと消滅したのだ。遺体も発見されておらず、完全に失踪した彼らを神隠しと呼んで恐れている者は多い。

 故にリゼットもこうして足を運んで巡回業務にあたるも、何もないことを祈る事しか出来ない。仮に黒幕のプレイヤーやモンスターがいたとしても、リゼットには反撃など出来ず、逃亡以外の選択肢は無いからだ。

 

「うぅ……昼間もチーム巡回にすればいいのに」

 

 夜間は必ず2人以上のチームで巡回が定められているのに対して、昼間はルート次第だ。話し相手がいれば気も紛れるというのに、とリゼットは腰の警棒を意識する。

 そもそも女性を1人で、女に飢えた男がゴロゴロいる裏路地を巡回させるとか頭がおかしい。レベル差があるとはいえ、DBOの数の暴力は恐ろしいものがある。多勢に無勢。プレイヤー1人で出来ることには限度があるのだ。

 サボってしまえばいい。他の同僚も面倒なルートは回ったと虚偽の報告をしている。無駄に生真面目な同僚もいたが、それも先日辞めたばかりだ。

 だが、今は身の危険よりも精神の安定が必要だった。仕事で時間を潰せるならばそれでいい。リゼットは初めて生真面目に巡回警備に心血を注ぐ。

 

「……う……うぁ」

 

「だ、誰!?」

 

 何事もありませんように。そんなリゼットの神への祈りは却下されたように、彼女の耳を呻き声が拾う。

 リゼットは無視してしまえばいいと思う一方で、その声質にDBOにログインする以前の記憶が疼く。

 普段とは違う精神の動揺のせいか、あるいは『本職』故にか。リゼットは無視しきることができず、呻き声が聞こえた廃墟へと踏み入る。

 元々は酒場だったのだろう。西部劇に登場するような内装であるが、テーブルは引っ繰り返し、割れた酒瓶が散乱している。折れたギターはかつての主を忍ぶように、窓から差し込む鈍い陽光を浴びていた。

 冬が近しいせいもあるだろう。唇が震えてしまう。いいや、違う。それ以上に心から怯えが生じてしまっているのだ。

 DBO初期はリゼットも勇ましくモンスターに挑んだ。だが、1度死にかけてからは単身で戦うような無謀は犯していない。ましてや、このような陰気な場所に1人で踏み込むなど絶対にあってはならないことだ。

 だが、あの声は……と、リゼットは捨てられぬ性分もあるものだと自分を恨めしく思う。

 声は2階から聞こえたはずだ。リゼットは自分の耳が声を拾ってしまった静寂に呪詛を吐き散らしたい気持ちを抑えながら、体重をかければ踏み抜けそうな木板の階段を上る。

 そうしてたどり着いた2階は広々としており、壊れたピアノが放置されている。ここでもかつては客が賑わったのだろうか、などとリゼットはどうでもいい感想を抱いて、ここはゲームの世界に過ぎないのだと頭を振って正気に戻る。

 

「そ、そこに……誰か……いるの?」

 

 物が散乱し過ぎて目が届ききらない。物陰を1つ1つ探すしかないだろう。

 リゼットが思い出したのは、人間の声を真似てプレイヤーを誘う悪辣なモンスター【ブラッド・ボイス】だ。蛸のような口を持った猿といった風貌のモンスターであり、救援を求めるプレイヤーの物真似をして助けに来たプレイヤーを強襲する。

 まさか終わりつつある街に? いやいや、あり得ないから! リゼットは深呼吸を繰り返す中で、床に奇妙なものを見つける。

 

「これってスマートフォン!?」

 

 それはDBOにあってはならないものだ。踏み潰したのか、画面は割れてしまっていて起動は出来ない。

 もしかしたら、現実世界の名残を求めて外見だけ模倣したものかもしれない。DBOに染まらないように、こうした現実世界のオブジェクトを作成していたプレイヤーは多かった。だが、それも随分と数を減らした。特に聖剣騎士団の宣誓によって『帰還』と『永住』の選択肢を突きつけられてからはなおさらである。

 割れたスマートフォンをポケットに入れ、リゼットは改めて周囲を見回す。だが、誰もいない。

 聞き間違えだったのだろうか。リゼットがそう思った時、視界の隅で白糸が蠢く。

 いいや、糸ではない。それは髪の毛だ。慌てたリゼットが駆け寄れば、そこには俯せになって倒れる小さな影があった。

 

「だ、大丈夫……? 死んでない、よね?」

 

 まだカーソルは表示されている。生きているはずだ。モンスターでもない。リゼットの揺さぶりに目を覚ましたのか、小さき影はゆっくりと立ち上がると、彼女の気も知らないように欠伸を掻いて『左目』を擦る。

 

「ここ……何処?」

 

「何処って……何も憶えてないの?」

 

 全身に纏うのは白亜のローブであり、フードは猫耳がついた可愛らしいものだ。ローブの下には動きやすさを重視して短パンを履いているようだが、立ち上がった姿は長いローブも合わさってワンピーススカートのようである。やや襟元が広く鎖骨も露になっており、覗き込めば胸元を見下ろせそうな危うさがある。首には金色の鈴が付いた黒のチョーカーであり、それは何処か鍵を思わす紋様が描かれている。

 両手でぎゅっと抱きしめているのは、ローブとセットのような白猫のぬいぐるみだ。だが、白猫のぬいぐるみには『目』が無かった。まるで抉り取られたように綿が溢れている。

 年頃は10歳……いや、もう少し下回るだろう。背丈は130センチ前後と非常に小柄であり、発育不良すらも疑ってしまう。

 絹という表現すらも足りない美しい白肌は女性が嫉妬と羨望を抱かずにはいられず、また艶やかで腰まで伸びた白髪は思わず頬擦りしてしまいそうだった。

 その顔立ちは愛らしいを超えている。神の子と紹介されたら疑うことなく信じてしまいそうである。また、大きな両目には赤が滲んだ黒色という不可思議な瞳がまるで見る者を惑わすように座している。

 まるで天啓を授ける為に神より遣わされた天使のようだ。見惚れずにはいられなかったリゼットに、白の子は警戒するようにぬいぐるみを抱きしめながら、だが好奇心に勝てないように、とてとてと素足で迫ると微笑みながら見上げる。それだけで母性本能が擽られ、庇護欲が爆発しそうになる。

 

「お姉さん……だれ? ここ、何処か……知ってる?」

 

「えーと……」

 

 子どもだし、流民は確定か。リゼットは説明に困る。DBOはいつの間にかプレイヤーが増えるという現象があり、そうして増加したプレイヤーは流民と呼ばれている。彼らはまるで最初からそこにいたかのようにDBOの生活に慣れているが、いつ来たのかの記憶は朧である。そして、たまにではあるが、こうして『増えた』ばかりのプレイヤーが記憶喪失に近い状態で発見されるのだ。

 子どものプレイヤーが困難を極めるDBO初期から今日まで生存しているはずがない。流民なのはほぼ間違いないだろう。

 放っておくべきだ。流民の子どもプレイヤーはそれなりの数がいる。運が良ければ教会で保護してもらえるが、全員がそうではなく、ストリートチルドレンとして生きている者も多い。そして、子どもは往々にして邪な牙の餌食となる。

 こんな奇麗な女の子だ。1晩として『まとも』ではいられないだろう。たとえ生き残ったとしても、恥辱の限りを尽くされて心は壊されるだろう。見捨てようとしたリゼットであるが、その純粋な……現実世界でも見たことが無い無垢なる眼に、かつて現実世界で抱いていた理想が疼く。

 

「キミ……名前は?」

 

「知らない人に教えちゃ駄目なんだよ。知らない人に付いて行っても駄目」

 

「あははは。そうだよね。えらいね。私はリゼット。この辺りで……うーん、そうだなぁ……警備員をしているんだ。警察の真似事だよ」

 

「ケーサツ? じゃあ、悪い人を捕まえるの?」

 

「そうだよって言いたいけど、ちょっと違うかな? 抑止力……って、さすがに難しいよね」

 

「知ってるよ!」

 

「へぇ、物知りだね! お姉さんは不勉強で駄目だなぁ。ねぇ、キミの知ってること、もっと教えてくれる?」

 

「いいよ!『無知を恐れよ。知らぬは死を招く。故に無知を潰し、既知を増やしてこそ狩りは成就する』だよね?」

 

「あー、お姉さんはよく分かんないけど、何となく言いたい事は分かるよ」

 

 よし、上手く心は掴んだ。だが、ここでいきなり名前を聞いて警戒されても困る。リゼットは慎重に、まずは白猫のぬいぐるみを指差した。

 

「このコに名前はあるの?」

 

「うん! マシロだよ!『ぼく』の……最初のお友達。ね、マシロ?」

 

「へぇ、そうなんだ。マシロちゃん、よろしくね!」

 

 白猫のぬいぐるみとリゼットは握手をする。一瞬だが、ぬいぐるみもまた握り返したような錯覚があったが、さすがに勘違いだろうと気に留めなかった。

 友達がいないのだろうか。あるいは、記憶が混濁しているだけか。白の子は大事そうに白猫のぬいぐるみを抱きしめる。だが、それはまるで首の骨を折り砕くかのような力強さもあった。

 やはり放ってはおけない。リゼットは、自分にも捨てきれなかったものがあったのかと諦めながら、白の子に手を差し出す。

 

「何も分からないなら、お姉さんが道案内をしてあげる。どう? 一緒に来る?」

 

「でも、知らない人には……」

 

「問題! お姉さんの名前は?」

 

「リゼットさん!」

 

「はい、正解。じゃあ、次の問題。お姉さんは知らない人?」

 

「あ! 知ってる人!」

 

「そう! じゃあ、大丈夫だね」

 

 今度は差し出された手を握ってくれる。ふわふわでスベスベの指はいつまでも握り続けたい衝動を湧き上がらせる。

 あ、ヤバい。このコ、チョロ過ぎる。リゼットはやはり放っておくのはまずいと、自分の一握りの良心を選んで正解だったと安堵した。

 

「ぼく、やらないといけない事あるの。だから、早く……ここが何処だか分からないと」

 

「やらないといけない事って?」

 

「分からない。でもね、黄金の稲穂を皆にあげないと。たくさん美味しいお米。だけど、どうすれば黄金の稲穂をみんなが得られるのか、分からない。思い出せないんだ。だから探さないと!」

 

「そっかそっかぁ」

 

 うーん、さすがは子ども語だなとリゼットは苦笑する。頭の中身がまるで分からない不思議ワールドだ。最近の子どもは年齢不相応に大人びていることも多いが、この子は見た目以上の幼さを感じられて嬉しい戸惑いがあった。

 

「そうだよね。皆で美味しいお米を食べたいよね」

 

「うん。お米は大事!」

 

 そういえば、最近は白米をまるで食べていなかった。リゼットは白の子との無邪気な語らいに、久しく忘れていた『何か』を思い出せるような気がした。 




宴で歌姫を巡り、影で幼き夢は世界を食む。



それでは、323話でまた会いましょう!

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