SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

追う者と追われる者、そして幼き夢に溺れる。





Episode20-10 過去の序曲

 人間には狼のような爪牙はなく、猿のような身軽さもなく、鷲のような翼もない。

 では、人間の強みとは何か? 多くの回答が並ぶだろう。何の強みも無い生物が地球の支配者と驕れる程の一大勢力を築けるはずがない。

 

『人間の最も優れた点を1つ挙げるならば、それは得た経験と知識を組み合わせ、感情と自意識という2つの媒体を通して「弱み」を克服することができる点です』

 

 そう教えてくれた恩師はもういない。生徒たちに生きる意味を啓蒙していたその男は、胸の内に収めた『弱さ』を克服できないままに自身の手で生涯の幕閉じを選んだ。

 恩師が何に苦しんでいたのか、それを推測する材料はあったとしても、真実には決してたどり着けない。だが、唯一確実に言えることがあるとするならば、遺書も残さずに死んだ恩師は絶望の底にいて、誰も彼の苦痛を癒せず、また彼も苦痛を誰にも打ち明けることが出来なかったことだ。

 

『人間は暗闇を恐れた。だから火で闇を照らすことを学んだ。人間は野獣を恐れた。だから武器を作った。人間は人間を恐れた。だから殺し合いの術を極めた。人間は経験や知識を蓄積するだけではなく、共有・継承させ、種全体を能動的に進歩させることが可能な唯一無二の生物です。他の生物も親から子へと継承される狩猟のいろはがあります。群れの内で共有される外敵の情報があります。ですが、それは極小さなコミュニティに限ったことであり、種全体の発達に繋がることは稀です』

 

 恩師は人間嫌いだった。それなのにどうして教鞭を持ったのかは不思議でならなかった。

 教科書の枠外にある、人間という生物の在り方を語る恩師は、もしかしたら自分が出会うよりも前に絶望していたのかもしれない。人生を捨てる覚悟が決まっていたのかもしれない。だからこそ、大嫌いな同じ人間に対して少しでも自分の考えを伝えようと教職を選んだのかもしれない。

 

『環境に適応できない生物は淘汰されます。仮に適応できたとしても、その性質を遺伝させて次代に受け継がせなければ、1代限りの変異に過ぎません。人間はこの数千年の間に純粋な身体能力はむしろ劣化しているとも言えます。食料生産性の向上と医学の進歩によって体格・筋力という点では確かに改善されました。ですが、それは同じ環境であったならば、2000年前の人間であろうとも同程度の骨格・筋肉量を得られました。それは進化ではありません。「進歩」なのです』

 

 恩師は徹底的に人間という生物を貶した。自分だけではなく、生徒たちにも人間がどれだけみじめな生物なのか教えるかのように。

 

『人間の「進化」への道のりは遠く、また環境適応の先に待っているのは身体的劣化かもしれません。ですが、人間は恒常的に「進歩」を志す生物です。体格にも、爪や牙にも、五感にも左右されることなく、様々な問題に対して思考と精神の2つを支えにして、過酷な問題に立ち向かって可能性の幅を広げられる「進歩」の生物こそが人間なのです』

 

 その一方で、人間とはくだらない生物ではないと信じているようでもあった。矛盾するような期待と絶望が合わさった恩師は、いつも最後はこう締めくくるのだ。

 

 

 

『願わくば、皆さんが得た可能性を少しでも伝承・共有し、人間の未来に役立たんことを』

 

 

 

 恩師に問いたい。ならば、諦めて、捻くれて、堕ちてしまった人間はどうすればいいのだろうか?

 リゼットは幼き手を引きながら、警戒を怠らずに路地裏を歩き、後ろ髪を引く過去を脳裏に追いやりながら大通りを目指す。

 

「にゃーにゃー♪ にゃーにゃー♪ マシロもお腹空いた? ぼくも!」

 

 目が無い白猫のぬいぐるみを抱きしめた白の子は、名も明かさぬままに、無邪気にリゼットの手を振り払うこともなくついて来る。

 出会った時からそうであるが、好奇心が非常に強く、基本的に人間の悪意や欲望に無警戒な童心が隠されることなく露になっている。その一方で安易に名前を明かさないのは、警戒よりも親からの言いつけを守っているかのような素直さだ。

 こんな子を裏路地に……いいや、DBOに放置すれば、1晩と待たずして汚らしい大人の餌食になるだろう。あるいは、子ども同士であったとしても、自分より劣る弱者を囲んで支配しようとするだろう。

 

(やっぱり教会しかないよね)

 

 巡回警備中に子どもを保護した旨は既に本部へと連絡してある。即答で『「著しい問題」がないならば規則に従うべし』という命令が下っている。

 規則とは『生命を脅かされた状況ではない限り、自主独立の精神を尊ぶ』というものである。要約すれば『見て見ぬフリをしろ』と言う事である。教会に多額のお布施をしている大ギルドの対応は、いずれも似たり寄ったりである。

 子どもは諜報活動の『道具』にもなる。大ギルドのみならず、あらゆる組織は子どもを飼いならして諜報戦の尖兵に仕立てている。それを組織側の洗脳と呼ぶか、あるいは子どもが身に着けた生存戦略と呼ぶか、それは個人の自由である。

 そもそもとして、未発達である子どもは可能性の塊であると同時に絶対的弱者だ。現代においても、多くの子ども達が基本的人権も守られていない環境下にある。ならば、大ギルドによる秩序が敷かれつつあるとはいえ、全ての子どもに援助の手を差し伸べるなど不可能だ。たとえ、教会であってでもだ。

 教会で保護されている子ども達は、いずれも両親を眼前で殺害された、あるいは大きな事件に巻き込まれて「孤立」した者ばかりだ。

 人間は群れる。同じように子どもも群れる。群れの中で1人だけ保護されたならば、その嫉妬の矛先はその1人だけではなく、教会の孤児というグループ全員に向けられる。そして、何も『苦労することなく食事も寝床も教養も与えられる』という『子どもの特権』を最も妬むのは大人だ。

 故に教会も安易に保護活動は出来ない。多くの裏は持っていたとしても、教義と威信を広められる孤児の保護に教会が積極的に出られない理由の1つでもある。他にも先にも挙げた仕立てられた諜報員というリスクもあるが、それ以上に『子ども』というブランド品を集めて教会の著しい聖域化を拒みたいという各勢力の思惑も絡んでいる。

 故にこの白の子を教会に連れて行ったとしても、はたして保護してもらえるかどうかは怪しいものである。2、3日だけ食事と宿を与え、後は配給券と簡易聖典を握らせて『独立』させるだろう。

 

(分かってるよ。見えないところでたくさんの死人がいる。たくさんの子どもが死んでいる。それもDBOだって……ちゃんと分かってる)

 

 結局は自力で戦って抗うしかない。レベルが上がれば自然と収入を得られる機会は増える。子どもであっても立派に働いている者たちもいる。

 だが、子どもを導くのは大人の役目なのではないのか? 知識を与え、経験を積ませ、それでこそ『独立』と呼べるのではないのか?

 

(プレイヤー互助会の巣立ちの家は……あそこのキャパシティも限界って聞いてるし、クラウドアースに属する私が赴くってのもなぁ)

 

 3大ギルドは良くも悪くも見て見ぬフリをしているプレイヤー互助会は、3大ギルドのいずれにも属さないプレイヤーで結成されたものだ。その活動の1つが巣立ちの家であり、あの凶悪ダンジョンと名高いアノールロンドで【竜狩り】オーンスタインを単独撃破した経歴を持つ、独立傭兵のスミスが携わっている。

 皮肉と呼ぶべきか、スミスの名声が高まったせいで、余計な権力を得ないようにと各勢力はプレイヤー互助会に圧力をかけていると聞いている。スミスは『出資者に過ぎない』というスタンスを取っているらしいが、互助会の幹部陣が折れるのは時間の問題だろう。

 そんな所に巡回警備のリゼットが子どもを預けにいく。よしんば、首を縦に振ってもらえたとしても、今は目立ちたくないリゼットとしては、クラウドアースからのお叱りは避けたかった。

 

「リゼットさん、痛いよ」

 

「え? あ! ごめんね!」

 

 悩みが握力に入れ替わってしまっていたのだろう。白の子の手を握り潰す勢いになっていた自身に気づき、リゼットは謝ると慌てて手を解こうとする。

 だが、白の子は手放さない。むしろリゼットの苦しみを溶かすような温かな微笑みを浮かべる。

 

「大丈夫。怖くないよ。ぼくが傍にいてあげる」

 

 そのまま腕に抱き着かれて体重をかけられる。まるで母親に甘えるような頬擦りであるが、それはむしろリゼットの苦悩を人肌で癒してくれようとしているかのような、行動に反して母性を感じるものだった。

 

「あのね、恐いものはぜーんぶ食べちゃえばいいんだよ? リゼットさんの恐くて怖ろしいもの、ぼくが食べてあげようか?」

 

「……えーと」

 

「あ、ごめんね! マシロもいるよね! うんうん、一緒にリゼットさんの恐いもの食べてあげる」

 

 やっぱり子どもワールド全開過ぎて、何を言いたいのか分からない。だが、リゼットの不安を機敏に読み取っているのは間違いないだろう。

 この子は記憶も曖昧のままにDBOという未知に放り出された。だからこそ、頼れるのはリゼットしかいない。それなのに自分を気遣ってくれる。

 

「大丈夫だよ。お姉さんの心配はしないで。それよりも、もうすぐ人通りの多い場所だから、マシロちゃんと離れ離れにならないように、しっかり抱いていてあげてね」

 

「はーい」

 

 しっかりしろ。大人の私が何とかしてあげないと! リゼットは何とか無事にたどり着けた大通りに安堵の息を漏らし、まずは教会へ向かおうと方針を決める。

 大ギルドを中心として発展した終わりつつある街は、少なくとも大通りはひとまずの治安を手にしている。ギルド・プレイヤー間の乱闘、自暴自棄になったプレイヤーによる傷害・殺人等々は日常的ではあるが、それでも初期に比べれば『平和』と呼べるものがあるだろう。

 その点から言うならば、今日も『平和』だろう。たまに竜の神が空から落ちてきそうになったり、獣狩りの夜事件で虐殺があったりもしたが、今日は『平和』だ。

 だが、今日は少し事情が異なる。華やかな花吹雪が街を彩っている。

 色彩豊かな格好と独特のメイク。各々が玉乗りやお手玉などの芸を披露している。彼らはまるでパレードのように紙吹雪を舞わせながら、大通りを普段は忙しなく行き交うプレイヤー達の目を釘付けにしていた。

 クラウドアースが企画した、明後日にクラウドアースが開催するアミューズメントフェスタの宣伝である。

 3大ギルドでも金融・娯楽に秀でたクラウドアースは、常にプレイヤーの心を掴み取るべく、多くの娯楽施設を経営している。今回はその内の実験の1つとして、大規模建設を予定としたアミューズメントパークの試作の展示会を大々的に開く予定だ。

 ラストサンクチュアリを前にして見せるこの余裕は、クラウドアースの資本力のアピールだ。3大ギルドでも規模と軍事力は依然として聖剣騎士団こそ上であるが、資本力と影響力ではクラウドアースがトップであるという告知でもある。

 

「すごかったねー」

 

「うん。この街っていつもお祭りなの?」

 

「まさか……って言いたいけど、良くも悪くも刺激には事欠かないかなぁ。静かに平穏に暮らすとか無理そうだね」

 

 それを是とする人間にとっては楽園なのだろうが、ここはDBOだ。デスゲームだ。どんなお祭りであっても我が身の危険が常に付き纏うならば、ご免被るのが普通というものだ。そういう意味では、プレイヤーが企画したお祭りならば、その分だけ安全とも言えるだろう。

 

「……お腹空いた」

 

 だが、白の子は顔をぬいぐるみに埋めながら呟いて足を止める。

 思えば時刻はもう昼過ぎだ。朝から何も食べていないならば、白の子が空腹を訴えるのも不思議ではない。

 

「ちょっと待っててね。すみませーん!」

 

 リゼットは近くの屋台から顔のサイズ程もあるバタークッキーを購入する。1枚100コルと安い分だけ味も知れているが、それでも質より量である。

 

「いいの!?」

 

「もちろん。お姉さんの奢りよ」

 

「ありがとう!」

 

 まるで星が散りばめられているように目を輝かせた白の子は、リゼットに抱き着いて感謝を述べる。

 クッキー1枚で大袈裟な。苦笑するリゼットであるが、嬉々と自分を見上げる白の子に胸が締め付けられそうになる。

 こんなにも素直に裏表なく感謝されたのは、どれだけ前だろうか? いいや、いつから『裏』があると穿った目で見るようになってしまっていたのだろうか。

 クッキーを受け取った白の子は、すぐに齧り付く……ことはなく、奇麗に半分に割ると、リゼットに片方を差し出す。

 

「はい、リゼットさんの分」

 

「私もいいの?」

 

「えーとね、『誰か』が言ってたような気がするの。一緒に食べて、同じ気持ちを共有するの。それが大事なんだって!」

 

「……そっか。うん、ありがとう」

 

 クッキーの半分を受け取ったリゼットは、白の子の頭を撫でる。ふわふわの髪の毛はいつまでも触っていたくなるような依存性があり、危うく白の子を抱き寄せたい衝動に駆られるも何とか耐える。

 

「えへへ。お姉さんに褒められちゃった♪」

 

 恥ずかしそうにぬいぐるみで口元を隠した白の子を前に、リゼットはクッキーを一口齧ろうとして、だが途端に鼻を強烈なニオイが襲う。

 先程まで美味しそうだったバタークッキーの香り。だが、今はそれがまるで腐った卵と牛乳を混ぜ合わせたという表現でも足りない悪臭に変じている。

 ああ、『また』だ。むせ返ったリゼットは、クッキーを落として両手で鼻を覆う。蹲った彼女は涙で両目を満たし、周囲の人々の奇異の視線に耐える。

 どうして? どうして? どうして!? リゼットは人目を忍ぶように走ろうとするが、悪臭に耐え切れない吐き気が脳を揺らしたように動けない。

 

「ぎゅー」

 

 だが、リゼットの頭が小さな両腕で抱かれる。

 プレイヤーも行き交って人目も多い中で、ただでさえ視線を集めているリゼットを、あろうことか白の子は自分も地面に座り込んで抱いているのだ。

 

「気持ち悪いの? 吐きたいの? いいよ。お姉さんの気分がよくなるまで、ずっとぎゅーってしてあげる」

 

「……うぇ」

 

「ぎゅー。ぎゅー! ぎゅーっう! 吐いて楽になれー。楽になれー! お姉さんを苦しめるなー!」

 

 抱きしめられながら背中を摩られ、リゼットはゲロが実装されていたならば、本当に白の子の胸に吐瀉物をぶちまけていたのではないかと思う程に気が緩み、またその分だけ気楽になる。

 そうして鼻が正常に戻ったリゼットは、クッキー屋の店主から特に変人を見るような目を向けられている事に気づき、引き攣った笑顔で白の子の手を引いて逃げた。

 

「もう大丈夫?」

 

「え、ええ。でも、どうして、あんな事を……?」

 

「えーとね、うーんとね……分からない。だけど、お姉さんが苦しそうだったから、何とかしてあげようって思ったの。吐いたのを皆に見られたら、お姉さんはもっと苦しむ。だから、皆に見えないように受け止めてあげようって」

 

 よもやリゼット気遣った挙句にゴミ箱よろしくゲロを受け止めようという発想を自然としていた白の子に、1秒単位で印象が目まぐるしく変わって混乱がより深くなる。

 きっと何も考えていない。打算もなく、ただリゼットを気遣ってくれただけだ。自分を顧みることさえも無い。

 

「キミは……」

 

 優しいね、と続けようとしたリゼットは、もっと適切な表現があると探す。

 

「はい、クッキー。お姉さんの分。もう落としちゃ駄目だよ?」

 

 平然と、それが当たり前のように、半分だけのクッキーを更に半分に割って、白の子は差し出す。

 そうだ。慈愛だ。こんなにも幼いのに、まるであらゆる罪と穢れを受け止めてくれる聖女のようだ。リゼットはクッキーを受け取るとしっかり味わうように口の中でゆっくり溶かす。

 

「美味しいね」

 

「……う、うん」

 

 白の子とバタークッキーの風味に癒されたリゼットは、幼い指が止まっていることに気づく。あれ程に空腹を訴えていたはずなのに、クッキーを一口齧っただけだ。

 

「ほ、本当に美味しいよ! で、でも、ぼく……あ、そうだ! もう、そんなにお腹空いてないんだ! これ、お姉さんにあげる!」

 

 ……うわぁ、幾ら子どもでもここまで嘘が下手とか。リゼットは先程までの白の子に感じていたある種の神聖さ吹っ飛ぶ勢いの、お粗末過ぎる演技と嘘に哀れみを覚える。

 そんなにも手をジタバタさせて、目を泳がせて、語気も乱気流だったならば、たとえ馬鹿でも嘘だと分かる。

 

「キミは……本当に不思議だね」

 

「そうなの?」

 

「ええ。このクッキーは預かっておくね。またお腹が空いた時にあげる」

 

「……はーい」

 

 炭酸が抜けたコーラのような返事を耳にして、リゼットは終わりつつある街の簡素な説明をしながら、ようやく目当ての教会にたどり着く。

 終わりつつある街でもトップクラスの広大な敷地を有し、象徴である大聖堂はもはやダンジョンと揶揄される程に複雑怪奇な増築が成されている。その最深部は大ギルドの幹部さえもほとんど知らず、教会のトップシークレットである。

 正午の礼拝も終わったばかりなのだろう。礼拝を終えて満足そうな信者の集団とすれ違う。ぶつかった白の子が危うくこけそうになり、リゼットは信者の背中を恨めしそうに睨んだ。

 

「預かりたいのは山々ですが、教会としても安易に孤児院の定数を超えるわけにはいきませんので」

 

「ですよねぇ」

 

 そして、白の子を孤児院で預かって欲しいと願い出るも、応対した修道女は困り果てたといった様子で首を横に振る。

 

「エドガー神父も増枠を予定していますが、それも来月からですし、既にお待ちになっている方々が何人もいらっしゃいます。あの子の枠が回って来るのはまだまだ先になるかと。以前ならば、いずれの大ギルドも競うように保護していたのですが、このような時世となっては……」

 

「人口増加ですもんね。教会が纏めて預かるようになったからこそ、枠も争奪戦ですか」

 

「はい。エドガー神父も心苦しく思っています。あんな顔ですが、孤児院にも頻繁に顔を出されていますし、積極的に保護もされていましたから」

 

 分かってはいたが、門前払いか。リゼットは頭を掻いて、今夜だけでも預かるという修道女の申し出を断る。

 

(いっそエドガー神父に直談判を……いやいや、今は問題を起こしちゃ駄目なんだって!)

 

 たとえ1晩だけの保護であるとしても、このまま教会に預ければ『巡回警備のリゼット』としての責任は十分以上に果たされる。むしろ、規則以上の善意で動いたとも言えるはずだ。だが、『リゼット』としては、この小さな手を握った責任はまだ終わっていないのだ。

 教会の敷地内を白の子の手を引いてぐるぐる回り、偶然でもエドガー神父やそれに準じた教会内で強権を振るえる保護推進派と会えないだろうかと期待するも、果報は寝ても去っていくものであり、あっという間に日暮れとなる。

 そろそろ1度本部に戻り、本日の業務終了の旨を報告しなければならない。リゼットは溜め息を吐いて墓所を眺められるベンチに腰掛ければ、白の子も隣に座る。

 

「ごめんね。ずっと連れ回しちゃってさ」

 

「ううん、気にしないよ。教会って大きいね。いっぱいお部屋があるのに、どうしてみんなで住めないんだろう?」

 

「あははは。簡単なようで難しい質問だね。そうだなぁ。それが世の中だからかなぁ」

 

「世界が悪いの?」

 

「ちょっと飛躍し過ぎだね。世界……というよりも、人間かなぁ。善意だけで動く世界にする為には、100人いたら100人が善人じゃないといけない。99人が善人でも、1人でも悪人が混じっていたら、悪意で善意は利用されて貶められる。そうして悪人だけが美味しい汁を啜って、そうして力を得て99人の善人を従える」

 

「だったら、99人で1人の悪者を倒せばいいんじゃないの?」

 

「あははは。ところがね、その99人も根っこから善人じゃないんだ。妥協したり、流されただけだったり、本当は悪意を隠し持っていたり……でさ。1人の悪人が成り上がったら、馬鹿を見たくない人々が善人を辞めるの。悪意の大元は大抵が欲望だから歯止めが利かなくなる。そうして、善意で動く世界は終わる」

 

「ふーん」

 

「あ、興味ないでしょ? さすがに難しいかぁ」

 

「そんなことないよ。もっと教えて」

 

「そう? だったら、もうちょっとだけ。それでね、人間は『なるべく悪意が表立って動けない世界』を作ることにしたの。それは善人と悪人の折衷案なんだ」

 

「…………」

 

「やっぱり難しかったよね」

 

「ううん、分かるよ。ちゃんと分かる。そうだよね。善人も悪人も、貫き通す願い、誇り、信念、理想があるんだもん。知ってるよ。『清濁併せ呑む』だよね?」

 

 そんなカッコイイものじゃないけどねぇ、とリゼットは内心で人間と言う存在を冷笑する。

 

「キミはまだ小さいから分からないだろうけど、人間は昨日までの自分を平然と裏切るんだ。自分勝手な都合で、妬んで、恨んで、憎む。間違っていると気づきながら、傷つけ、苦しめ、嘲って悦に浸るの」

 

 自分は何も言ってるのだ? リゼットはつい口が滑ったとしか言いようがなかった。

 白の子は普通ではない。それは過ごした僅かな時間で十分に分かった。だが、それでも相手は子どもだ。

 後悔したリゼットは、肩に寄りかかる白の子の重さを感じる。それはやはり甘えているのとも違う、リゼットに寄り添って温もりを与えているかのようだった。

 

「『お姉さん』は間違えちゃったの?」

 

「…………っ!」

 

 白の子の一言でリゼットの心に刺さる棘が蠢く。傷口を腐らせていく棘を抜きたがっているかのように心が揺れる。

 リゼットは『人間』を嗤っていたのではない。『自分』を蔑んでいたのだ。

 

「いいよ。何も聞かない。でも、ぼくは信じてる。お姉さんは……とっても『優しい人』。だから、間違えたとしても、きっと正すことができるはずだもん」

 

「……そうかなぁ?」

 

 それこそ、きっともう無理だよ。だって『終わってしまった』ことなのだから。

 だが、それでもリゼットは温もりをくれた白の子に感謝を伝えるべく、頭を撫でて抱き寄せる。

 

「よーし! 今日はお姉さんの家でお泊りしようね! 明日は明日の風が吹く!」

 

「むぅ!? ふ、ふかふか! 息……で、できない!」

 

「こう見えてもバストサイズには自信があるんだからね! うりうり!」

 

「むぅううう!?」

 

 何でだろう? 本当に短い時間しか過ごしていないのに、どうしてこの子はこんなにも自分の心を揺らすのだろう。

 茶化していなければ、抱きしめて黙らさなくては、情けなく泣きながら『秘密』さえも洗いざらい白の子の胸に抱き着いて吐き出してしまいそうだった。

 また、それはそれとして、白の子の小さな体とスベスベの肌、柔らかく細い髪をこれでもかと堪能したいという欲望が無かったわけでもない。

 

「……うわぁ、ロリコンのレズとか退くわぁ」

 

 いやいや、子どもとじゃれているだけでしょ? 横槍で入った声に、リゼットは睨む。

 それは如何にもやんちゃそうな、もとい生意気そうな顔立ちをした少年だった。服装からして孤児院の者だろう。

 

「私は職務を果たしているだけで怪しい者じゃないから。ねー?」

 

「むぅううう!?」

 

「おい、ソイツ窒息しかけてるぞ! このままだとHP減るぞ!?」

 

 胸で窒息死なんてするはずないじゃない。リゼットはそう言い返そうとして、元カレに『お前の胸は凶器か』と言われた事を思い出す。

 解放された白の子は涙目でぜーぜーと息荒いが、リゼットは悪くないと伝えるように微笑む。その様があまりにも天使過ぎて、彼女は再び抱きしめて今度は頬にもキスをしてあげようと迫るが、少年が間に割って入る。

 

「待て待て! 個人の性癖にあれこれ言うなって神父も口うるさいけど、時と場所と対象は考えろよな!?」

 

「怯えてないもんねー? リゼットお姉さんのこと、好きだもんねー?」

 

「うん、好き」

 

「ほら見なさい!」

 

 ああ、もう決めた! 今日はこの子を抱き枕にする! リゼットが涎をだらりと垂らして決心をすれば、白の子は意味が分からない様子で愛らしく首を傾げ、出会って1分と経っていない少年の方が全てを悟ったように頬を引き攣らせる。

 

「お前も嫌な事はハッキリと嫌と言えよな! じゃないと…………か、カワイイ。ハッ!?」

 

 白の子の顔を直視した瞬間に、リゼットがのめり込むのも理解したように少年はたじろぐ。

 

「つーか、お前……性別不明シスターと似てね? もしかして妹さん?」

 

「妹? よく分からないけど、『妹』じゃないよ?」

 

「そっか。ごめん。だけど、なんかこう……似てるんだよな。アイツもとんでもなく可愛くて奇麗だし。髪と目のカラーリングも――」

 

「はい、ストップストップ。この子ね、まだこっちに『来たばかり』なの。何も知らないし、記憶も混濁してる。OK?」

 

「あ、そういう事ね。了解……って、だったらアンタは尚更何やってんだよ!? 怯えさせるんじゃねぇよ!」

 

「怯えてないもんねー? リゼットお姉ちゃんのこと、大好きだもんねー?」

 

「うん、好き」

 

「チッ! まだ大好きまでは届いていないか。でも、時間をかければ……!」

 

「天丼してんじゃねぇ! あと、やっぱりヤベェ女じゃねぇか! 神父ぅううう!? 神父、何処ぉおおお……って、地下礼拝堂だったぁああああ!? あの性別不明シスターが来る度に礼拝堂に何日も籠ってるんじゃねぇぞ、馬鹿野郎!」

 

 うん、この子ってコメディアンの素質があるわね。本当にノリのいい子だとリゼットは好意的に笑む。

 DBOでは児童の拉致監禁など珍しくとも何ともない。子どもはいつも真っ先に悪意の餌食になる。ならばこそ、この少年が本気で警戒しているならば、それこそ全力で逃げて応援を求めるはずである。

 

 

 

 

「ねぇ、どれくらい好きなら大好きになるのかな? リゼットさんのこともちゃんと『愛してる』けど、好きより好きの大好きってどれくらい大きく『愛してる』なら大好きになるの?」

 

 

 

 

 そして! この! 天使発言! こっちの方が息も出来なくなるじゃない! 自分でどれだけ危うい発言をしているのか分からない白の子に、更にリゼットは悶える。

 

「馬鹿! えーと……えーと……そうだ! 大好きってのは、スゲェ好きなやつに使うんだよ! こういうヤバい奴には好きまでしか使っちゃ駄目! いやいや、俺も何言っちゃってんの!? 好きとか愛してるとか軽い言葉じゃねぇだろ!?」

 

「でも、好きだし、愛してるから。あ、大丈夫だよ。アナタのことも――」

 

「止めろぉおおおおお! 俺を惑わすな! 俺には心に誓った人がいるんだよ! お前みたいに可愛い子にコクられたら、さすがに心が揺らぐ!」

 

「まぁ、さすがにツッコミ入れてあげるけど、この子の愛してるとかって博愛のことよね。好きは本当にそのまま好意。まったく、これだから大人ぶったガキは。この程度で揺さぶられちゃってさぁ」

 

「え? 俺が悪いの? 俺が駄目なの? 俺って何なの!?」

 

「アナタは悪くないし、駄目でもないし、ちゃんと『人』だよ?」

 

「そして、この天然発言! 神父が見たら拉致監禁どころか聖壇に飾りそうな子を何とかしてください! お願いします!」

 

 まったく、仕方ないわね。土下座する少年の男気に免じ、リゼットは白の子の頭を撫でる。それだけで、くすぐったそうだが、何処か嬉しそうに、白の子は微笑んでリゼットを見つめる。

 

「とりあえず、敷地内では程々にしろよなぁ。あと、最近は物騒だから、そんな可愛い子を連れてるならさっさと帰りやがれ」

 

 怒涛の連撃に少年は憔悴しきった様子で、フラフラと墓所の方へと向かう。

 

「まったく、こっちはしんみりと墓参りだってのに」

 

「誰か死んだの?」

 

 墓参りという言葉に反応した白の子が少年の後を追う。少年の忠告通り、最近は物騒な事件も多いからこそ早めに帰りたいが、無理に手を引っ張るのも気が引けたリゼットは無言で彼らの後を追う。

 

「会って数分のくせに踏み込むなぁ。まぁな。友達だよ」

 

「友達? 死んじゃったの?」

 

「ああ。俺達ってストリートチルドレンって奴なのかな? ともかく獣狩りの夜っていうヤバい事件の後で家族もいなくて、色々と悪さしてるところを性別不明シスターに捕まってさ、それでそのまま孤児院に入りできたわけ。悪さの償いってわけで教会から雑務は任せられるし、勉強ばっかりだし、メシは意外と質素だし。でも、あの頃よりはマシだと思ってたんだ。ここなら強くなれる。好きな子も……仲間も守れるくらいにさ。でもアイツらは違ったみたいだ。教会の生活がだんだん嫌になって……」

 

 これ以上は踏み込んではならない。個人の事情というものだ。人の心に土足に踏み入ってはならない。どんな地雷が埋め込まれているか分からないのだから。爆発すれば、自分も相手も傷つけることになる。

 少年は並ぶ3つの墓標に1つ1つ菓子を添える。それはマシュマロにも似た、見ただけでもふわふわと分かる菓子だ。

 

「悔やんでるの?」

 

 だが、白の子は止まらない。跪いて祈る少年の傍らに同じく座り、死者を労わるように墓標の1つを撫でる。そこには『アラタ』という簡素に、だが死者の名前が彫り込まれている。

 

「それ以上だ。自分を殺したくて堪らねぇよ。アイツらとどんどん反りが合わなくなってたのは分かってた。俺さ、口は悪いし、態度もサイアクだけど、それでも……教会の生活を気に入ってたんだよ。知識を身に付けた分だけ強くなれるって分かってたからな。だから、いずれはアイツらも好きな子も守ってやれるって……」

 

 墓前で胡坐を掻き、少年は夕陽が沈む中で俯いて、だが頬を涙で濡らして嗚咽を漏らす。

 

「文句ばかりでサボるアイツらに言っちまったんだ。『そんなに嫌なら出て行け。お前らの代わりに孤児院に入りたい奴は山ほどいるんだ』って……そしたら、本当に消えちまって……俺どうしたらいいか分からなくて……マキに相談したら……一緒に探してくれて……でも、そしたら……アイツの弟まで……!」

 

「……死んじゃったんだね」

 

「……ああ。しかもご丁寧に遺体まで残りやがるクソアプデの後だ。神父も詳しく教えてくれなかったけど、犯罪ギルドに捕まっちまってたらしい。ガキを専門に売春させてる連中でさ、最近は『オス』が足りなかったんだと。捕まった犯人によると、俺の友達2人はさ、かなり抵抗して、だから殺されちまったらしい。『うっかり』だとよ。マキの弟は……本当に『肉』としか言いようがないくらいに潰れてた。どうしてあんな風になったのか、まるで分からねぇくらいに」

 

 酷い。だが、それもまたDBOの『日常』だ。『力』を持たない者は一方的に踏み躙られる。生殺与奪の権利は常に強者が握る。

 ならばこそ、強くなるしかない。だが、人間がそもそも『弱い』生物であるならば、たとえゲームシステムがあろうとも、命のやり取りを強いるDBOで己を鍛え上げていくとは、それだけで生死の境界線を歩く。レベルが上がれば上がる程に、渡る綱は細くなっていく。

 そうした細い綱を歩き抜けるのが上位プレイヤーであり、走って渡れるのがトッププレイヤーだ。そして、あろうことかダンスでも踊っているのがUNKNOWNやユージーンといったトッププレイヤーでも最上位……ネームド単独撃破できるような存在なのだろう。

 少年には可哀想であるが、これもまたDBOの不条理であり、理不尽だ。確かに原因は彼の心にもない発言だったのかもしれないが、真に浅はかだったのはDBOを甘く見た死者たちの方だ。

 だが、その理不尽を当然と認めてしまっていいのだろうか? リゼットが今まさに白の子に対してしているように、庇護されるべき弱者なのではないのだろうか?

 

「もう受け入れたよ。とっくにな! だから強くなってやるって決めたんだ! マキだって笑顔で仕事してる! 弟があんな無惨に死んだってのにな! だけど、本当は泣きたいんだ。分かるんだよ、それくらいな! だから、俺……男だから……もう泣かせないように、守ってやるように、強くならないといけない!」

 

「……そっか」

 

「ああ、そうさ! 決めてるんだよ! 俺が1番憧れてる強くて、優しくて、スゲェ奴! いつもよく分からない微笑み浮かべて、悪口ばっかり言われて、それでも……きっと、アイツみたいになれたら……最高にカッコイイって思える奴になれたら……コイツらも……報われる」

 

 太陽が地平線に落ちる。リゼットには彼に対して何も言うことは出来ない。彼を導く言葉などない。

 恩師ならば違ったのだろうか? 人間に心底絶望していながらも、最大の期待を込めて可能性を信じていた恩師ならば、彼に光を与えることが出来るのだろうか。

 

 

 

「報われないよ」

 

 

 

 だが、冷淡とも思える程に白の子は少年に切り返す。

 

「弱きは死に、強きは生きる。彼らは不運な弱者だったから死に、アナタは運命という『力』を味方に付けて生き残った強者。そして、死者は祈ることも呪うこともない。故に報われない」

 

「お前……喧嘩売ってるのか?」

 

「それが『命』の理だよ。『力』が足りなかった弱者は糧となる。これこそ摂理であり、理想も思想も信念も矜持も意味を成さない。だって『命』は食べられるためにあるんだもん」

 

「お前ぇえええええ!」

 

 激昂した少年が白の子の胸倉をつかんで立ち上がり、拳が振るわれる。リゼットが止める暇もなく、それはあっさりと白の子の顔面に向かう。

 たとえ格闘攻撃であっても、クリティカル次第では大ダメージを与えることになる。ましてや、白の子はレベル1も十分にあり得る。少年のレベル次第では即死にも至るかもしれない。

 だが、少年の拳は白の子の顔面に触れる直前で止まる。それはリゼットが制止がギリギリで間に合ったからではなく、少年が己で止めたからだ。

 

「……チクショウ!」

 

 白の子を投げ飛ばすように解放し、少年は地面に拳を叩き付けて項垂れたまま動かない。

 

「別にビビったわけじゃねぇぞ! この前だってまた1つ強くなった! もうさ、死ぬ程練習したんだ! 目を瞑っても短剣を的に当てられるんだぜ!? 俺って才能あるよな! だから、アイツに褒めてもらうんだ。また強くなれたって……コイツらにも……」

 

 どうすればいい? 迷うリゼットに対して、少年を自暴自棄にさせようとしたかのように、残酷とも呼べる発言をした白の子は、彼の握られた右拳を、白の子は優しく両手で包む。

 

「そうなんだ。でも、今のアナタの手がやるべきなのは『力』を得ることじゃないよ。だからこそ、殴らなかったんだよね? 本当は何をやるべきか分かっているから。この手が今やらないといけない事は……『大好き』な女の子の涙を拭ってあげることだもん。ちゃんと泣いていいんだって、力いっぱいに抱きしめに行ってあげて」

 

 少年の握られた拳をゆっくりと開いてあげた白の子は、先程まで惨酷な言葉をぶつけていた本人とは思えない程に穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。それは年齢不相応であるはずなのに、これ以上と無く映え、故に誰もが魅入られるだろう。

 

「そんなことしても――」

 

「うん。そんな事をしても過去は変えられない。でもね、未来は変えられる。『どうして、あの時「大好き」な女の子を抱きしめてあげられなかったんだろう』って後悔する未来を変えられる。『「大好き」な女の子が本当の意味で笑顔になれる』未来に変えられる」

 

「…………っ!」

 

「大丈夫。恐くない。怖くないよ。アナタはちゃんと泣けたんだもん。彼らの為に泣いてあげられたんだもん。その涙がアナタに『強さ』をくれるよ。そして、『大好き』な子を守りたいって気持ちの分だけ『力』を蓄えられる。いつか花開く時が必ず来るよ」

 

 もう地平線に太陽は落ち、暗闇の中では白の子の顔が見えるのは至近距離の少年だけだろう。

 

 

 

 

「だから、ちゃんと友達の『命』を食べてあげて。それは生き残ったアナタにしかできないことだから」

 

 

 

 

 墓所を照らす外灯が続々と光を宿す。蝋燭を思わす温かな光が墓所を静かに、だが死者を慰めるように照らす。

 嘆きの涙で満ちる死人の寝床で、少年の嗚咽と涙が染み込んでいく。白の子は優しく抱きしめ、まるで我が子をあやすように、微笑んで語り掛け続けていた。

 

「心配しないで。アナタのことも愛してるから。たとえ、これからアナタがどうなろうとも愛してるから」

 

 それからどれだけの時間が経っただろう。大泣きする少年に気づいた修道女たちによって問い詰められ、傍観していたリゼットはどう説明したものだろうかと悩んだ。だが、少年は自分を慰めてくれていたのだと説明し、リゼットは弁明することもなく解放された。

 

「おい、ガキ! 俺は別にお前に惚れたわけじゃねぇぞ! ちょっとドキッとしたけど、俺はマキ一筋だからな! 胸を貸したくらいでいい気になるなよ!」

 

「なんのこと? なんでアナタが惚れるの? だって、ぼく――」

 

「だけど、ありがとう。お陰でスッキリした! もしも孤児院に来たら、その時は俺を頼れよな!」

 

 元気よく手を振って別れを告げる少年に見送られたリゼットは、なるべく人通りの多い道を選び、絶対に白の子の手を離さないように心がける。

 

「ねぇ、どうしてあんな事を言ったの? 元気づけるにしても、1歩間違えればあの子の立場が危うかったわよ?」

 

 仮に暴力事件を起こしたとなれば、あの少年は孤児院から追い出されていただろう。心に傷を負った子供ばかりの孤児院で、暴力に訴える者は排斥されねばならない。なにせ、彼らのほとんどは理不尽な暴力によって苦しめられた者ばかりなのだから。

 

「元気づける? 違うよ。ぼくは本当のことを言っただけだもん」

 

 リゼットの問いの意味が分からないように、両手の指を合わせ、白の子は笑う。

 

「『命』は食べられるためにある。だから、ちゃんと美味しく食べてあげないと。あのままだと、あの子は友達の『命』を腐らせちゃって無駄にしちゃうもん」

 

 背筋が凍る程に、人間とは思えない冷たく無機質な瞳で、だが今までの愛らしさに譬えようのない美しさを垣間見せて……笑う。

 それもまた天使のような笑顔なのだろう。人間と同じ感受性など持っているはずもない、残酷な死をもたらす天使の笑顔だ。

 

「あれ……あれぇええええええええええ!? リゼットさん、マシロがいない!」

 

「へ?」

 

 と、リゼットが思わず白の子から距離を取ってしまいそうになった時だ。白の子が悲鳴を上げて、何も掴んでいない手を見せる。

 

「あ、本当ね。そういえば、教会に着いた時にはもういなかったような……」

 

「え? え!? えぇええええ!? マシロ、出てきて! ぼくが悪かったら! マシロ! マシロ! マシロ!」

 

「あとで一緒に探してあげるからね。はーい、今は帰ろうねー」

 

 今の感覚……気のせいだろうか。不思議ちゃんではあるが、ぬいぐるみ1つで大騒ぎする幼い子どもだ。リゼットは安心感で満たされる。

 深呼吸を1つ挟み、心を凍てつかせて仕事モードに入る。『巡回警備のリゼット』の仮面が顔に貼り付いたと自分に言い聞かせる。

 まずは上司……とはいっても、他の巡回警備と同じく賄賂漬けであるが、本日の業務内容を報告する。上司は特に何も言わず、それどころか子どもを1人保護して預かってもいいかという旨さえも全てを聞くまでもなく了承した。

 誰1人としてやる気がない職場だ。閑職ですらないゴミ溜めだ。そして、自分もまたゴミの1人だとリゼットは自嘲しようとするも、白の子が頭に過ぎって嗤えなくなっていた。

 

「なになに!? リゼット、この子、だれ!?」

 

「かわいいぃいいいい! ねぇ、幾つ? うわっ! 肌スベスベ! どんなスキン使ってんのよ!? これなに!?」

 

「この髪の艶スゴ! しかもふわふわとか! 無敵か!」

 

「だ、駄目……微笑み……破壊力……天使!?」

 

 そして、その白の子は同僚女子たちに囲われ、椅子の上でオレンジジュースを飲んでいた。髪を弄られても、頬を撫でられても、特に嫌がる素振りもなく、されるがままだ。

 あ、客観的に私はこれ以上にヤバいことをしてたのか。リゼットは我に返り、だが、私はあの子に『好き』扱いだから許されると自己肯定に走る。

 

「お疲れさまでした! 私、明後日まではオフなんでよろしく! んじゃ!」

 

 奪還! リゼットは有無を言わさずに白の子の手を引っ張る。白の子はやわらかく笑みながら、同僚女子たちに律儀に手を振って別れを告げる。

 いつもは裏路地に子どもがいても見て見ぬフリするくせに! リゼットは同僚女子をそう罵倒しながら、だが先日までも自分も同じだったはずだと気づく。

 昨日までの自分を裏切る。他でもないリゼット自身の言葉だ。彼女は何の因果か、白の子と出会い、そして昨日までの自分では考えられない行動を取っている。

 容姿が天使のように愛らしいから? 違う。純粋無垢な眼に、疑うことをしらない無警戒の瞳に、自分を気遣って信じてくれる姿に、どうしようもなく過去が引っ掻かれるからだ。

 クラウドアース支部を正面玄関から出たリゼットは、1度だけ振り返る。

 ここに良い思い出など1つも無い。昨日までもそうだった。だが、今日だけは白の子に出会えたことがこれ以上の無い幸福に思えた。

 

「…………」

 

 何かを言おうとした口は上手く動かず、故にリゼットは白の子を連れて帰路に立つ。だが、支部の敷地と通りの境界線にて、白い何かが落ちていることに気づく。

 

「マシロ! リゼットさん、マシロだよ!」

 

 それは目玉のない白猫のぬいぐるみだった。何かを落としたとしても、貧民プレイヤーが日銭集めで回収して戻らないのがDBOだ。装備している武器や装飾ならばシステムウインドウで回収できるが、実体化したオブジェクト・アイテムはそうもいかない。故にリゼットは諦め、あとで新しいぬいぐるみを買ってあげるつもりだった。

 

「もう勝手に離れたら駄目だよ? ぼくたち、ずーっと友達なんだからね!」

 

 こんな事もあるのだろうか。不思議に思いながらも、見つかったならばそれに越したことがないと、リゼットは胸の内の言い知れない『何か』を拭い去った。その感情に名前を付ければ、この白猫のぬいぐるみがそれこそ勝手に動いて自分に襲い掛かってきそうだと思えたのだ。もっとも、DBOならば、動くぬいぐるみなど別段不思議でもないのだが。

 

「リゼットさんの家ってどんな所?」

 

「んー、前は寮暮らしだったんだけど、今は別のところかな。家賃は少し高いけど、それでも住みやすいよ」

 

 家賃はほとんど賄賂で払ってるんだけどね、とはリゼットも言えなかった。

 自宅は終わりつつある街の北東区画にある。主に中位プレイヤーの拠点が多く、住居の過半は3大ギルドの建設したものだ。彼女が暮らすのは5階建てのアパートの最上階である。

 

「……汚いね」

 

 そして、言い訳できない汚部屋である。ゴミが散乱し、空いた酒瓶も積み重ねられ、空気は煙草臭い。およそ換気されていない部屋に、リゼットは幾ら小柄な子ども1人とはいえ、これでは寝るスペースも無いと頭を掻く。

 どうしたものか。手をこまねいているリゼットを尻目に、白の子は率先して掃除を始める。

 その手際はまるでプロのメイド……いや、家事神が降臨したかのようである。リゼットが散らばった雑誌を重ねている間に、白の子はあっという間にゴミの処分を終え、台所を奇麗に片づけ、窓を開けて空気の入れ替えも済ましている。

 

「リゼットさんって駄目な大人?」

 

「……否定できないなぁ」

 

 汚部屋の原因の6割……いや、7割は相方のせいもあるが、それに引っ張られて掃除を怠った弁明はできず、リゼットはこれぞ人間の住む空間だと深呼吸する。

 

「メール送信……っと。今、相方にキミを泊めるって伝えたから。まぁ、反対するだろうけど、お姉さんに任せなさい!」

 

「お友達と住んでるの? でも、ベッドは1つしかないよ?」

 

「あー、何というか、友達じゃなくて……私の恋人なんだよね。だからベッドは1つでいいの」

 

「なんで?」

 

「お子様にはまだ早いかな? うん! まだ早い!」

 

 だが、DBOの事を考えれば、自己防衛の為にもいつまでも隠せるものではない。このままでは、白の子は何も知らないままに誘われたらホテルに入ってしまいそうな……いいや、確実に入ってしまうだろう。リゼットは義務感を胸に宿す。

 

「ピザでいい? あんまり美味しくないけどさ」

 

「う、うん。何でもいい! お腹減ってないから!」

 

「……そう。でも、リゼットお姉さんはお腹が空いてるから作っちゃうね」

 

 空腹を癒すようにお腹を撫でながら、オーバーリアクションを取る白の子に、本当に嘘が下手だとリゼットはピザを焼きながら、この子にはハッキリと言っておくべきかと決める。

 だが、リゼットの口が開くより先に、荒々しく玄関が開き、もう1人の部屋の主が帰宅する。

 

「あ、お帰り、【モンスーン】」

 

「なにが『あ、お帰り』だ!? そのガキをさっさと放り出せ!」

 

「嫌よ。それよりもグッドタイミング。熱々のピザが出来上がったところよ。晩御飯はどうせまだでしょ?」

 

「……ビールは?」

 

「もちろん、あるわよ」

 

 ウインクしたリゼットに、共同生活を送る恋人にして、『秘密』の共有者でもあるモンスーンは、すっかり奇麗になった部屋を驚いたように見回しながらソファに腰かける。

 冷たいビールをモンスーンに投げ渡し、リゼットは部屋の奥でぬいぐるみへと熱心に語りかけていた白の子を手招きした。

 

「この子よ。預かってもらえる所が見つかるまで一緒に暮らすから」

 

「駄目だ。ペットじゃないんだ。さっさと捨てて来い」

 

「そんなこと言わないで、ほら、ちゃんと見てよ」

 

「あのな、俺達が今どれだけ――」

 

 と、そこでモンスーンの表情が完全停止する。それもそうだろう。幾ら幼いとはいえ、将来にはアイドル業界に激震どころか神話を築いても足りない美少女に成長することは疑う余地などなく、大人になれば世界中の男が求婚して戦争すら起こすだろう傾国の美女確定なのだ。たとえ、モンスーンの『目』であってしても心奪われないはずがない。

 しばし見惚れていた様子のモンスーンは、何とか我に返り、ビールを飲んで落ち着こうとする。

 

「……1晩だけだ。それ以上は駄目だ」

 

「そう。明日も明後日も泊まっていいって! やったね!」

 

「言ってないよ?」

 

「そうだ! 言ってないぞ!」

 

 ここはノリで協調して欲しかったなぁ、とリゼットは残念に思いつつ、どうにかしてモンスーンを説得しないといけないと頭を悩ませる。

 モンスーンは血も涙もない冷血漢ではない。リゼットと共に抱える『秘密』に白の子を巻き込まないとする彼なりの道徳心だ。それはリゼットも同意するが、このまま白の子を放りだせば、まさに1晩と待たずして白の子は『壊される』だろうという確信もあった。

 リゼットは事情を説明し、モンスーンにどんどんビールを飲ませる。

 

「お願い、せめて世話をしてくれる人が見つかるまで。ね?」

 

「あのガキがスパイじゃないって保証は? ストリートチルドレンは、平気でスパイ紛いや情報取引をするからな」

 

「あの子は違う。まだ来たばかりみたいだし」

 

「そう装ってるだけもしれないだろ」

 

「でも、あの子はやっぱり違うと思う。モンスーンも少し話せばわかるよ」

 

 白の子に聞こえないように小声でやり取りし、リゼットは説得にかかるが、モンスーンは納得しなかった。

 

「ガキ、来てみろ」

 

「ちょっと! ガキは止めてよ!」

 

「分かった。じゃあ名前は?」

 

「……知らない」

 

「はぁ!? お前、名前も知らないガキを飼う気か!?」

 

「飼うは止めて。ペットじゃないんだから。あと、名前なんて簡単に聞き出せるわよ。ちょっと見てて」

 

 モンスーンに呼ばれて、ピザにも手をつけずに椅子で足をぶらぶらと振っていた白の子を、リゼットは笑顔で迎える。

 

「ねぇ、お姉さんとゲームしない?」

 

「ゲーム? 何の?」

 

「そ・れ・は、物知りゲーム! 今からお姉さんが出す問題に100点を取れたら勝ち。キミが勝ったら……ここに住んでいいよ! 行く場所が見つかるまでずっと!」

 

「何を勝手に……!?」

 

 焦るモンスーンを無視し、リゼットは紙を取り出すとペンで問題を記載していく。

 そして、そこに1つ細工をする。リゼットは出来上がったテスト用紙を、全身からわくわくを抑えられていない白の子に差し出す。

 

「これ、テスト? 勉強するの?」

 

「物知りゲーム」

 

「でも、これ……」

 

「物知りゲーム!」

 

「……はーい」

 

 分かりやすい。テンションが1段回落ちた。だが、それでも白の子は真面目に回答していく。

 

「簡単だよ。はい!」

 

 自信満々で白の子は回答済みのテスト用紙を差し出す。

 なるほど。確かに全問正解だ。だが、これにはリゼットも少し驚いた。テスト内容は小学生で解けないレベルの数学の問題も含めていたからだ。ちょっとした意地悪だったのであるが、白の子は何の戸惑いもなく回答できていた。

 

「そっか。そっかぁ。100点満点だよ、【カガリ】ちゃん!」

 

 だが、リゼットの狙いは別にあった。

 テスト用紙の最上部、名前を書く欄には、全プレイヤーが秘匿している1つである、現実の名前……白の子の本名だろう『久藤 篝』が記載されている。

 

「あれ? ぼくの名前、どうして――」

 

「うわぁ、カガリちゃんの文字、凄い達筆だね! まるで習字の達人みたい! 凄い凄い♪」

 

「えへへ。お姉さんにまた褒められちゃった」

 

 頭を撫でて褒めれば、白の子は微笑みではなく、少しだけ頬が緩んだ様子で嬉しがる。

 

「……チョロい」

 

「こんな子がスパイだと思う?」

 

「いやいや、油断させて……駄目だ。天然だ。それ以外に考えられない」

 

 モンスーンも納得するしかない様子であるが、カガリを住まわせることには踏ん切りがつかない様子だった。

 

「私だって巻き込みたくない。だけど、この子は同時に『丁度いい』と思う。そうでしょ?」

 

「……そうだな。まさか、こんな状況でガキと一緒に暮らし始めるなんて、想像の枠外だろうよ。実際に俺もそうだしな」

 

「だから……ね?」

 

「分かった。だが、『済む』までだ。それ以降は駄目だ」

 

「……OK。それまでにアンタに一緒に住みたいって思わせてあげるわ」

 

 交渉成立だ。リゼットは心に刺さる棘が疼くのを自覚しながら、カガリを後ろから抱きしめる。

 そうだ。これは『カモフラージュ』だ。リゼットは自分にそう言い聞かせ、だが即座に否定する自分を受け入れる。

 この子を見捨てたくない。昨日までの自分を裏切った、今日の自分の選択を信じたいのだ。

 

「じゃあ、まずはみんなで仲良くなるために。秘密を1個バラしましょう! まずはカガリちゃん!」

 

「ぼくの秘密? でも、話せる秘密はないよ?」

 

「あるわよ。キミ、味覚がおかしいんじゃない?」

 

 途端にカガリは目を見開き、リゼットの抱きしめる腕から脱出しようとする。

 

「エスパー!? エスパーなの!? 超能力者なの!?」

 

「違いまーす。カガリちゃんが分かりやす過ぎるんでーす! はい、次は私の番。私は『嗅覚』なんだ。突発的な嗅覚異常。いきなりニオイがすっごい腐敗臭みたいになるの。ちなみにモンスーンは……」

 

「……俺は『目』だ。恒常的に視界がモノクロだよ。これって割と重度のFNCらしいな。DBOでも珍しいらしい」

 

 リゼットとモンスーンはFNCだ。リゼットは嗅覚異常であり、モンスーンは視覚異常である。

 

「私達はみーんな仮想世界からの嫌われ者。どうせ何をやっても無駄。欠けている奴が何をやっても勝てるはずがない」

 

「……勝てないの?」

 

「そうだよ。どう足掻いても私達は強者にはなれない。勝者にはなれっこない。どうせ打ちのめされる。足掻いた分だけ苦しむだけ。どんな夢や希望を見たところでね」

 

「リゼット」

 

「あ、ごめん! カガリちゃんはこんな話、聞きたくないよね!」

 

 リゼットはカガリを抱き上げると自分の膝の上に置いて抱きしめる。そう、まるで……ここがキミの居場所なのだと教えるように。

 

「弱きは死に、強きは生きる。きっとカガリちゃんの言う通りだよ。私達は弱い。どうしようもなく『弱い』んだ。だから……」

 

 それ以上を言ってしまえばカガリを巻き込んでしまう。モンスーンに睨まれ、分かっているとリゼットは小さく頷いた。

 恩師は今の自分を見て何というか?『弱さ』の克服を至上とした教えに背き、『弱さ』を言い訳にした自分をどんな目で見るのだろうか?

 

 

 

 あの人間に絶望しきった眼で、かつての教え子を軽蔑するのだろうか?

 

 

 

 シンパシーか、あるいは元より警戒心が無いからか。カガリは何を食べても味がしないことを打ち明けてくれた。

 重度の味覚障害。他人が当たり前のように甘受できる楽しみをカガリは得ることが出来ない。それは少しずつ、だが確実に心を蝕んでいくことになるだろう。

 

「想像より重たいモノを背負ったガキだな」

 

「うん。やっぱり放っておけないよ」

 

 いつものように煙草を吸おうとしたモンスーンの頭を叩いて開けた窓辺に追いやり、リゼットは喉を鳴らしてビールを飲む。眠たそうなカガリは先に寝室に向かわせた。今頃は夢の世界だろう。

 

「だが、ちょっと妙だな」

 

「妙?」

 

「FNCは現実の肉体……脳を持っているプレイヤーに生じる障害ってのが俺の認識だ。運動アルゴリズムとの連動性不和や情報送受信トラブルが原因だからな。だから肉体持ちプレイヤーしかFNCは起きない。だが、あのガキはDBOに来たばかりの流民プレイヤーだろ?」

 

「流民プレイヤーの正体なんて分からないじゃない。そもそもFNCなんて弱みを明かす人間はいない。流民プレイヤーにだってFNCはいるかもしれない。そもそも、FNCの原因って全て解明されていないんでしょ?」

 

「……それもそうだな。だが、どうしても気になる。あのガキの顔……何処かで見覚えがあるような気がするんだ。だが、どうにも、こう……記憶とマッチングしないっつーかな」

 

「他人の空似でしょ。あんな可愛い子、1度見たら忘れるはずないじゃない。大体さ、アンタの記憶力とか全く信じられないんですけど? そもそも不鮮明なモノクロ世界で生きてるアンタの場合、もっとアテにならないでしょ?」

 

「うるせぇ、ゲロ吐き女」

 

「まだゲロは実装されてないし!」

 

 少し酔いが回ったせいもあるだろう。リゼットは赤くした顔を怒りで歪めながら、モンスーンの煙草を奪い取る。

 

「……こんなクサイの、よく吸えるわね」

 

「でも、好きなんだろ? 煙草のニオイがよ」

 

 否定はしない。リゼットは煙草をまだ中身が残っている缶ビールに落とし、消えていくニオイを求めるように窓から顔を出す。

 

「私達さ、クズだよね?」

 

「そうだな。最低のクズだ」

 

 クズ同士でお似合いだ。リゼットは新しい煙草を咥えるモンスーンの横顔を覗く。

 本当に不清潔な髭面だ。傭兵のスミスのようなダンディズムをまるで感じないのは根本的な造形の差だろう。ただただ不衛生に見える。だが、これはモンスーンなりの人避けだ。FNCで経験した苦難と絶望は、リゼットとの比較にならないだろう。

 

「話したっけ? 私さ、元小学校教師なんだ」

 

「前に酔っ払った時に聞いた。理想に燃えた新米教師が、現代のガキ共と触れ合って心が折れたって話だろ? 自分のガキだったころを思い出せば、すぐに分かるだろ。ガキは邪悪な小鬼なんだよ。教師が子どもを導く聖職だったとか何十年前の話だよ。そもそも昔でも絶対に美化され過ぎてるだけだからな」

 

「小鬼は言い過ぎ。まぁ、理想と現実の差を受け入れられずに仮想世界に逃げ込んだのは本当だけど。まさかデスゲームに巻き込まれるなんて思ってなかったわ」

 

「……あのガキが理想の中で探した『純粋な子ども』にでも映ったか? 馬鹿だなぁ」

 

「あははは。うん、その通りだね。本当に馬鹿だよ。そういうアンタのリアルは?」

 

「リアルの詮索はマナー違反」

 

「別にいいじゃん」

 

「NGだ。どんな過去だろうと、今の俺がクズなのは変わりないだろ? まぁ、現実でもクズだったけどな。死んだ親父も兄貴を見習えってばかりで……」

 

 モンスーンもやっぱり酔っている。いいや、酔わねばやっていられないのだろう。そうしなければ『秘密』に押し潰されてしまいそうになるのだろう。

 

「ちなみに今日の俺の寝床は?」

 

「ソファ。不満?」

 

「……チッ」

 

 露骨に不満を露にして舌打ちしたモンスーンに、それとも3人で川の字になって寝るかと誘おうとも思ったリゼットであるが、この男がロリコンに目覚めたらクズを通り越してゲスに堕ちる為に提案を呑み込んだ。

 さぁ、抱き枕の時間だ。ここ最近は安眠と程遠かったが、今日はぐっすり眠れそうな気がする。浮かれた足取りのリゼットの背後を、当然のようにモンスーンが追う。

 

「ちょっと! ついて来ないでよ!」

 

「クズな恋人が危ない趣味に目覚めてないか心配でな」

 

 寝室のドアをゆっくりと開き、ベッドでぬいぐるみと一緒に丸まっているカガリを想像したリゼットだったが、それは裏切られる。

 ベッドの上には誰もいない。正確に言えば、白猫のぬいぐるみは置いてある。肝心のカガリは、開けられた窓から吹き込む夜風で揺れるカーテンの向こう側……雲1つない夜空を見上げていた。

 差し込む月明かりを抱きしめるように両腕を伸ばしていた。

 

「カガリちゃん?」

 

 リゼットが話しかければ、まるで踊るようにカガリは振り返る。その魅惑の微笑は否応なく心を揺さぶる。

 いいや、違う。普段は何とも思わない、街の光によって掻き消されるだけの月光が、カガリという存在がいるだけで全く異なる特別なものに変じているように思えたのだ。

 

「月の光を感じてたの。ほら、聞こえるでしょ? 月の音色……光の中で踊ってる……優しい調べ」

 

「ただのエフェクトだ。本物の月明かりじゃない。お前はまだ自覚がないかもしれないが、ここはゲームの中だ。現実じゃない」

 

「ちょっと!? いきなりそれは……!」

 

「早めに事実を教えておくべきだ」

 

「何処でどんな形であろうとも月の本質は変わらない。だったら、月の光も変わらないよ」

 

 モンスーンの容赦のない否定に、カガリはどんな指摘があろうと揺るがないと証明するように、楽しそうに月光の中で踊る。それは祭事の如き神性を持ち、カガリの一挙一動が月明かりを束ねていくようでもあった。

 それは型と見えぬ童の舞踊でありながら、神に奉じる神楽を思わせ、狂ったように笑うカガリからリゼットは目が離せなかった。

 

「夜はまだ終わらない。まだまだ終わらないよ! 楽しみだね、マシロ! リゼットさん! クヒ、クヒヒ、クヒャヒャヒャ!」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 DBOの攻略の大まかな攻略の流れとは、ステージのフィールドを探索し、サブダンジョンをクリアしていき、メインダンジョンの最奥にいるステージボスを倒し、記憶の余熱を獲得して次なるステージへの道が開かれるというものである。イベントダンジョンは総じてステージのレベル水準以上であり、登場するモブもネームドもより強力になる傾向こそあるが、一般的には『攻略に関係ない寄り道』として認識されている。

 現在、プレイヤーの攻略先がステージ制の想起の神殿から、広大なマップが繋がり合ったフロンティア・フィールドに移ろいつつある。既に過半のステージのメインダンジョンが攻略されているからである。だが、それは想起の神殿から移動できる全てのステージのネームドが撃破され、アイテムが回収され、イベントがクリアされたわけではない。

 だが、その中でも<黄瞳のペイラーの記憶>は異色のステージの1つだ。

 サブダンジョンは一切なく、ステージボスが潜むメインダンジョンのみである。それどころかフィールドそのものがない。

 巨大な都市1つ。ただそれがあるだけである。同様の都市だけのステージとして<神々に至る都トリニティタウンの記録>があり、こちらはボスすらも発見されていないのに比べれば、ボス撃破を済ませている分だけ攻略進捗度は上である。

 だが、このペイラーの記憶は非常に厄介な点が複数ある。東西南北の隅々まで交通インフラが整っている為に移動が楽である一方で、このステージでは多くの禁則事項が設けられているのだ。

 プレイヤーは北・東・西の3つのゲートのいずれかより都市【LK-03】より立ち入ることができるのだが、その際にプレイヤーは滞在許可証を購入しなければならない。1万コルもする滞在許可証を得たプレイヤーは『旅行客』として都市内を自由に行動することができるのだが、都市内では『攻撃行為並びに武装禁止』となっている。

 次に『文化的と捉えられる行為と関連スキルの使用禁止』である。≪料理≫の行使はもちろん、水場があっても≪釣り≫を使用してはならず、また≪演奏≫なども不可である。

 他にも多数の禁則事項はあるが、それらを1つでも破った場合、警備ロボットが出現し、追い回される羽目となる。

 故にペイラーの記憶の攻略は難航を極めた。唯一のダンジョンである南端の地下監獄のゲートを開く為には、都市管理を担う上層部の信頼度を稼がねばならず、その方法というのが禁則事項に違反したNPCを発見して密告を繰り返すというものだからだ。

 禁則事項によってプレイヤーは都市内の物件購入も許されておらず、故に3大ギルドは例外的に手を組んでこのステージの攻略を目指した。ちなみに肝心のメインダンジョンは、水準レベル90と認定されるだけの歯応えはあるのであるが、正確には看守モンスターの索敵から逃れて地下へと続くエレベーターをアンロックしていくスニーキングがメインであり、ボスの黄瞳のペイラーは攻撃パターンが分かり易く、HPバーを減らしても攻撃種類が劇的に増えることも無い為にこれまでの苦難を乗り越えたプレイヤーの敵ではなく、聖剣騎士団のダンジョン攻略部隊が偶然ボス部屋を発見して、そのまま死者も出さずに撃破してしまって気まずい沈黙が流れたという逸話は有名である。

 これらの性質上からペイラーの記憶の探索は著しく進んでおらず、無駄にダンジョンの水準レベルが高い為に中小プレイヤーの探索もまあまだ先であり、必然的にフロンティア・フィールド攻略の影に追いやられてしまった。

 

(陰気な場所だ。本当にこんな所にいるのか?)

 

 西方ゲートが都市へと入ったエイジは、男女ともに全く同じデザインをした薄青色の服を着たNPCばかりが暮らす都市に『噂』以上だと顔を顰めた。

 このステージの特徴を簡潔に述べるならば、『近未来ディストピア』こそが最もふさわしい。あらゆる娯楽を禁じられ、与えられた職務をこなし、味気の無い食事の配給に並ぶ。そうした、まさに魂の無い人形のようなNPCばかりである。

 清掃ロボットが待機する大通りにはゴミ1つ落ちてもいないが、街路樹もない。プレイヤーが利用できる『旅行客向け』の店こそあるが、それ以外は皆無だ。生活感と呼べるものが全く存在しないのである。

 DBOの多くのステージの都市は、荒廃していたり、内部抗争真っ盛りであったり、そもそも余所者に冷たかったりとろくでもないものが多い。だが、それでもこの都市に比べれば呼吸しやすいだろうとエイジは辟易した。

 空中を飛び回るボール型のドローンは、NPCのみならずプレイヤーも監視している。ドローンのカメラやセンサーに引っかかる違反行為は徹底的に避けねばならない。またNPCにも密告者がいることも留意しなければならない。

 

(そもそも情報不足だし、まずはギャラルホルンから貰った情報通り、古き獄吏の所に行くか)

 

 NPC全員が同じ格好である為に、プレイヤーはこれ以上と無く目立つ。周囲を見回してもエイジ以外のプレイヤーの影は見当たらないが、≪気配遮断≫や≪隠蔽≫などのスキルで隠密ボーナスを高めた状態では容易く認識することは出来ない。確実に居場所に見当をつけるか、じっくりとフォーカスロックを合わせて相手の隠密ボーナスを看破しなければならないのだ。

 エイジは≪気配察知≫スキルである程度までは相手の隠密ボーナスを下げられるが、それでも不足は生じる。ましてや、装備などで隠密ボーナスを高めた上で高熟練度の≪気配遮断≫を使用するプレイヤーともなれば、監視の目を察知することは極めて難しい。頼みの綱のダーインスレイヴのもたらす『警告』も、禁則事項によって武装解除しなければならない為に利用できない。

 追手もエイジに安易な暴力行為を働けない一方で、エイジはそれ以上に対抗手段がない。故に自然と心拍数は上がり、落ち着きなく周囲を見回す不審行為を繰り返してしまう。

 

(犯罪ギルドは大ギルドと繋がりを持っている。僕がペイラーの記憶にいる事も把握されるのは時間の問題だろうな。そうなると、まずは出入口を見張るはずだ)

 

 仮に『彼女』を見つけても大ギルドの追手から逃れてスレイヴと合流しなければ意味がない。

 ペイラーの記憶から脱出する方法は3つ。3つのゲートから立ち去る。ボス部屋の転移ポイントを使用する。そして、アイテム【強制退去装置】を使用する。

 北東西のゲートは真っ先に封鎖されるだろう。ボス部屋の転移ポイントも同様である。ならば、方法は強制退去装置しかないのであるが、エイジも情報しか知っておらず、何処に幾つあるのか分からないのが現状だ。

 そもそもエイジがペイラーの記憶について得ている情報は、せいぜいが隔週サインズに掲載されていた情報が限度であり、また隈なく暗記しているわけでもない為に、誤りや抜けがあるのだ。

 ペイラーの記憶の転移前に犯罪ギルドから幾らか情報を買ってあるが、それも古き獄吏の居場所までしか得られていない。ダンジョンのマップデータどころか、出現モンスターや弱点についても情報不足である。

 残り68時間。睡眠時間を最小限に抑えるとしても、60時間動き切れるか否かだろう。スレイヴとの合流までも含めれば、65時間と見積もっても多過ぎる程である。

 幸いにも交通インフラが整備されているお陰で都市内の移動は楽である。エイジはリニアトレインに乗り、そのまま南端にある唯一無二のダンジョンであるペイラーの監獄へと向かう。

 黄瞳のペイラーは都市の管理システムに反逆を企てたレジスタンスのリーダーであり、だが作戦は失敗して最深部の専用牢獄に囚われた。人々の自由と解放を夢見て牢獄で狂ったペイラーは、やがて怪物となり、看守を密やかに狂わせていった……という設定である。

 古き獄吏はペイラーの監獄に登場するNPCの1人であり、地下6層で自ら壊れた牢獄に閉じこもっている。だが、マップデータのないエイジは居場所の目印しか情報はなく、看守モンスターが徘徊する地下6層へと情報なしで挑まねばならない。

 スポットライトを浴び、警備用の無人ヘリが飛び回るペイラーの監獄の入口に到着する。既に先人がゲートを解放しているお陰でエイジは苦も無くダンジョン内に入り込めたが、1歩踏み込んだだけで重苦しい雰囲気の変化に戸惑う。

 ここからがダンジョンだ。そう教えるように、ゲートの外にはいるはずの警備員や職員がいない。無機質に清掃ロボットだけが動き続けるフロントに立つ。

 防具を変更し、ダーインスレイヴと呪術の火を装備する。ここからはダンジョンであり、武装可能なのだ。

 監獄というよりも病院のようだ。エイジは天井に並ぶ照明の光を浴びながら、正方形の青いタイルが敷かれた床を踏みしながら、起動済みの大型エレベーターに乗り込む。最深部の地下10層まで解放されているショートカットである。

 偉大なる先人に感謝を。ペイラーの監獄を攻略した3大ギルドの探索部隊に頭を下げてありがとうと言いたい気持ちを胸に、エイジは地下7層に到着する。

 フロントと同じく、汚れも破損も何もない、清潔整然とした廊下がエイジを迎えた。だが、敢えて光量は抑えられて薄暗く、また牢獄には生気のない顔をした人間……NPCが幾人も閉じ込められている。

 足が震える。障害ではない。トラウマのせいだ。エイジは抜いたダーインスレイヴとの呼応を求める精神と相反し、引っ掻かれた過去の記憶から湧き上がる『彼女』の死を思い出し、口元を手で覆い、吐瀉するように体をくの時に曲げた。

 

「が……ぐが……ゲホゲホ!」

 

 だが、まだ嘔吐は実装されていない。唾液だけで濡れた口元を袖で拭い、エイジは脳髄を浸す過去を振り払おうとする。

 トラウマの元凶……『彼女』の死はSAO第40層で引き起こされたものだ。とあるパーティがトラップに引っかかってダンジョン内に閉じ込められ、それをエイジや『彼女』を含めた、攻略組にはまだ届かなかった面子で救出することになった。

 当時は攻略組がフロアボス討伐で不在であり、彼らでやるしかなかったのだ。だが、結果的に言えば救出中に彼らもまたモンスターに囲われ、『彼女』がSAOではあった≪吟唱≫スキルで囮となり、難を逃れたが、ヘイトを集めたことによって多数の獄吏モンスターに包囲されることになった。

 そして、エイジは何も出来ないまま、彼女の伸ばされた手に応えられないまま、HPがゼロになってポリゴンの欠片となって砕ける『彼女』の最期を見せつけられた。

 奇しくも同じ監獄……いいや、明確な悪意を持って『彼女』への手がかりがペイラーの監獄にある。

 

『茅場の後継者は複数のプレイヤーにお前と似たような「口説き文句」でDBOに誘っている。奴にとってこれもまたゲームであり、「ある男」の為に準備した悲劇のシナリオの実験みたいなものだったのだろうさ。後継者が誘った以上、必ず「彼女」はいる。だが、注意しろ。奴の書いたシナリオを理解して攻略法を見つけろ。それ以外に「彼女」を助ける方法はない』

 

 自分と『彼女』の過去という題材は、『誰か』の為の悲劇のシナリオを完成させる上での試作品にでも利用されたのだろうか。そう思えばこそ、『誰か』は随分と後継者に悪い意味で気に入られており、またとばっちりを受けた自分と『彼女』はどのような反応をすべきなのだろうか、とエイジは悩む。

 ……特に何もない。エイジは自分の経験が特別なのではなく、これもまたDBOの『ありふれた事』なのだと受け入れることが出来た。もしかしなくとも、奇妙に思えるエイジの今の経験も、彼が知らないプレイヤーが何人も辿った道なのかもしれないという無意味な諦観さえもあった。

 吐き気は止まらないが、少なくとも足は動く。ダーインスレイヴとの繋がりの分だけ前に進めるとエイジは地下6層の探索に入る。

 エイジのレベルは90だ。先日のボーレタリア王城深部の探索とつらぬきの騎士戦における経験値は大きな実りとなった。ペイラーの記憶のレベル水準に届いている。

 高レベル帯程にレベルの数値を目安にして安全は計れるものではなくなってくる。レベルが1上昇して得られた成長ポイントを割り振ってもプレイヤー側の攻撃力は激変しない。だが、レベルが上がる分だけHPも防御力もアバター強度も上昇する。また、多くの防具はレベルによって性能も変化する為に、レベルアップの最大の恩恵とは生存率の向上なのだ。

 VITにも十分にポイントを割り振っている。クリティカル部位に強攻撃でも命中しない限り、一撃即死は免れるだろう。だが、一撃で死なないだけならば、平然と追撃を仕掛けてくるのがDBOのモンスターAIだ。

 背後を守ってくれる仲間はいない。ボーレタリア王城深部では、グローリーという百戦錬磨の猛者がいた。規格外の実力者が傍らでカバーしてくれた。だが、今ここにいるのは自分だけであり、ミスをしてもフォローしてくれる仲間はなく、そもそも全力を尽くせば何とかなるという甘えが通じることもない。

 それでも、とエイジは踵を返してエレベーターで地上に戻ろうとする両足を殴って喝を入れ、先へと進む。

 古き獄吏は緑ランプが付いた半開きの牢獄の中にいる。地下6層の広さも分からない以上は、1つ1つ手探り以外の道はない。

 戦闘は最小限に抑える。エイジは姿勢を低くし、廊下の角から顔を覗かせて先を確認する。

 4脚型のロボット型モンスターがこちらに接近している。人型の上半身を備え、両腕は近接戦ではスタンロッドにもなるだろう、電撃が迸る砲身となっている。高さは4メートル程度であり、頭部に当たる部位はアンテナと3つのカメラアイが備わっている。

 ロボット型モンスターは索敵能力に優れている。より高い隠密ボーナスを得て、静止状態ではほぼ不可視になる≪隠蔽≫スキルがあれば隠れ凌げるかもしれないが、エイジは≪気配遮断≫しか持っていない。防具の隠密ボーナスも高くなく、索敵範囲内に入れば、ほぼ間違いなく発見される。

 物音を立てないように、ゆっくりと離れ、別の通路へと進む。今度は道行く先に、2体の人型の警備ロボットと遭遇する。青ランプが灯った解放されている牢獄内に潜り込めば、索敵範囲外なのか、警備ロボットはエイジを無視して先へと進んだ。

 1歩間違えれば袋の鼠だった。咄嗟の判断とはいえ、安直だったと自分を戒めながらも、エイジはこれでも本来の難易度からは下がっている方なのだろうと自覚する。

 未攻略状態のペイラーの監獄は、天井に設置された監視カメラ、壁の各所に備わったセンサーと連動し、侵入したプレイヤーの居場所を随時、巡回するモンスターに通達する仕組みになっていたのだろう。今はどちらもオフの状態であり、難易度は大幅に緩和されている。

 だが、それでも1分1秒毎に精神はヤスリで削られているかのようだった。1歩の度に精神力は摩耗していき、それは弱気をもたらし、障害の発露をもたらそうとする。

 

(もう1時間か。それなのに、マッピング範囲はたったのこれだけ……!)

 

 交戦は最大限に控える。だが、度が過ぎた隠密行動は効率を落とす。エイジは水を飲んで喉を潤しながら、マップデータを息荒く睨む。

 ボーレタリア王城深部とはわけが違う。あちらは鎧を回収するまではマップデータがあった。その後もグローリーが常に隣にいた。それは補助輪のようなものだ。数に囲まれても、グローリーの存在がどれだけ自分に無意識の部位で安心感をもたらしていたのか実感して苦笑する。

 

「『馬鹿』と揶揄されてもランク5……か」

 

 真っ向勝負しか出来ない『馬鹿』だとしても、それでも十分過ぎる程に強く、また役立つ。どれだけのモンスターが立ち塞がろうとも、あのふざけた戦い方と絶やさぬ笑顔で乗り切ってしまうのだろう。

 過半数のプレイヤーは『馬鹿』と嗤いながらも、彼の足下にも及ばない。エイジは障害の芽吹きのように震える左手の指を、改めて噴き出した憎悪で拳を握って抑え込む。

 前に進めば未知なる苦難、後ろに戻れば大ギルドに捕らわれて人生終了。ならば前へ、前へ、前へ……ひたすらに前へ。

 50センチほどのドローンが無数と飛び回る大部屋を積まれたブロックの物陰を利用しながら隠れて進み、人型警備ロボットが頻繁に行き交う通路を避け、砲台が待ち構える階段の突破を断念する。

 人間の精神は脆い。ほんの1、2時間でも、たった1人で夜の森に放り出されれば、心弱き者は容易く正気を失う。

 たとえデスゲームでなくとも、攻略は困難を極めるだろうDBOの場合、たとえ情報が揃っている水準レベルが低いダンジョンでもソロで潜りたいと思うプレイヤーはいない。周り全てが敵の空間で、何処から自分を狙っているか分からない緊張感の中で、不安と恐怖を分け合える仲間がいない状況は、精神を短時間で弱らせる。そして、1度壊れた精神は、HPやアバターと違ってアイテムでは治せない。長時間のカウンセリングをかけても立ち直れる者は稀なのだ。

 滴る汗は戦闘の疲労ではなく精神の困憊がもたらすものだ。逃げ場のないダンジョンで1人、何処を目指すでもなく迷い続ける圧迫感は、呼吸の仕方さえも忘れさせる。そして、散漫になった注意力は警戒を怠らせる。

 背中に熱を帯びた炎属性のダメージフィードバックが広がり、続く衝撃でエイジは大きく吹き飛ぶ。

 

「がっ……!?」

 

 いつの間にか背後から接近していた四脚型ロボットの攻撃だ。どうやら両腕はバトルライフルだったらしく、着弾後に小規模の爆発を起こす弾丸を連射してくる。

 バトルライフルの特徴は、実体弾でも弾速が遅く、貫通性能が低い代わりに、命中時に炎属性ダメージを与え、また距離減衰が乏しいので実射程を確保しやすい点である。とはいえ、それはプレイヤー側が使用した場合の特徴であり、モンスター側は往々として高性能な攻撃を仕掛けてくるものである。

 この四脚型ロボットは片腕につき、5連射が可能であるらしく、復帰したエイジを着実に狙っている。左右に駆けて射線に入らないように粘るエイジに、腹部を開放して新たな砲口を見せるとプラズマキャノンを放つ。

 これも弾速は遅いが、着弾・一定距離後にプラズマ爆発を起こす。両腕のバトルライフルと腹部のプラズマキャノン、そして近接戦はブレード付き脚部で対応することまでは見抜けたが、エイジには接近することが出来ない。

 ここは逃げの1手だ。エイジは呪術【火宿りの灰燼】を使用する。口から広範囲に拡散する熱を帯びた灰を吐く呪術であり、接触した場合は極小の炎属性ダメージを与える。どちらかと言えば目眩ましの要素が強く、使い慣れてはいないが、今回のダンジョン探索用でセットしておいた呪術である。

 ロボット系に毒・麻痺・睡眠の3大デバフはまず通じない。故に毒の霧よりも火宿りの灰燼の方が振り切るには最適だろうとエイジは判断した。たとえ小さくともスリップダメージエリアを作れば、追跡は手ぬるくなる。

 だが、DBOのモンスターAIは、たとえ雑魚であろうとも安易な『逃げ』の姿勢を良しとはしない。スリップダメージなど関係ないとばかりに、エイジの追撃を優先した四脚ロボットは滞空する灰燼エリアを突破し、雷撃を纏った両腕の砲身を振るう。

 攻撃範囲内にいたエイジは、その軌道を目で捉えて回避しようとするが、まるで雨漏れのようにじわじわと染み出していた障害が反応を鈍らせる。

 咄嗟に左腕を掲げてガードし、そのまま壁に叩き付けられ、至近距離でバトルライフルの10連射を腹に浴びる。口から血が飛び散り、腹部に炎属性特有の熱を帯びたダメージエフェクトが深部まで広がる。

 HPが減少し、4割を切る。幸いにも1発単位の威力は決して高くはなかったが、立て直す暇も与えぬ脚部ブレードの一撃がエイジの額を掠めたかと思えば、脚部より射出されたワイヤーがエイジの右足に絡み付き、そのまま彼を振り回して壁に叩き付ける。

 拘束されて逃げられない。それどころか脚部ブレードで斬り裂くべく、巻かれるワイヤーによってエイジは四脚ロボットへと無理矢理近付けられていく。

 死の予感が障害を完全に発露させる前にエイジはダーインスレイヴでワイヤーを切断するも、追撃のプラズマキャノンが掠める。背後のプラズマ爆発の光は、直撃すれば骸を晒していたという仮定を脳裏に映し込む。

 ボーレタリア騎士とは違った戦い方を求められる。つらぬきの騎士のような正統派とは違う。ネームドではなくともDBOでは幾らでも強敵がいる。

 お前はまだまだ弱い。四脚型ロボットはエイジを嘲うように、バトルライフルの連射を小気味よく響かせる。こうした戦闘音が他のモンスターを引き寄せる。早急に決着をつけなければ、待っているのは死だ。

 包囲されて嬲り殺される。それは『彼女』の末路と同じだ。同じ死に方ならば、『彼女』も少しは気が晴れるだろうかとエイジの心は死へと引き寄せられる。

 

「まだだ」

 

 だが、『まだ』死ねない。エイジは重油のようにどろりとした憎悪を燃やし、ダーインスレイヴとより濃く、より深く繋がる。

 自他で嗤った。どうせ無意味だと。それでも鍛錬を重ねた。

 ただの暇つぶしだと言い訳をした。だが、新しい戦術が開示されたならば、学び尽くした。

 無駄だ。無駄だ。どうせ無駄だ。腐っていくだけだ。そう言いながらも知識を集め続けた。

 狙うべきは1つ。回復を置き去りにして、エイジはバトルライフルの連射を潜り抜ける。最初のバックアタックで誤解したが、連射性能が高くとも命中精度は低いのだ。

 命中率を上げるのは連射しない単発時のみ。右腕の砲身の連射が止まり、エイジの動きを予測して狙い撃とうとしている。

 離れた精密な1射。それを紙一重で躱す。そのまま接近に成功し、ダーインスレイヴの横薙ぎを脚部に浴びせる。与えたダメージは低くとも、反撃行動に出た四脚型ロボットは、脚部ブレードでエイジを斬りつける。

 これはガードだ。真正面から受け止め、エイジは半ば床を滑りながら後ろへと吹き飛ばされる。

 さぁ、仕掛けて来い。ガードで足が止まったエイジを仕留めるべく、四脚型ロボットの腹部が開き、プラズマキャノンが発射されようとする。

 瞬時に発動させたのは呪術【瞬く炎の武器】だ。炎属性をエンチャントさせるが、効果時間は3秒と短い代わりに高い付与効果があり、どちらかと言えば武器に仕込むヤスリと同じく、瞬間火力の増幅に使える呪術だ。習得ハードルも低く、高値なヤスリを安易に使えない低・中位プレイヤーが特に愛用している。

 左手の呪術の火から炎がダーインスレイヴに燃え移る。猛る炎を纏った剣から即座に繰り出すのは≪両手剣≫の突進系ソードスキル【フェイント・バレル】。1度バックステップを踏み、そこから高速突進を繰り出すカウンターに秀でたソードスキルだ。

 放たれたプラズマ弾をバックステップでギリギリ躱し、フォーカスロックとの連動によるシステムアシストによる誘導に逆らうことなく、モーションをなぞって威力と速度をブーストさせながら放たれた突進突きは、炎の煌きと共に四脚ロボットの腹部……装甲が開かれて露になったままのプラズマキャノンの砲口へと吸い込まれる。

 【瞬く炎の武器】で火力を底上げした、ソードスキルによるカウンター。四脚型ロボットのHPは一気に削れる。

 

(ゼロだ……ゼロになれ……ゼロになってくれ!)

 

 だが、四脚型ロボットは粘りを示すようにHPを3割残して耐え抜く。根本的なダーインスレイヴの火力不足が、呪術とソードスキルの強化を足しても露になる。

 ソードスキルの硬直時間を脱する程度には四脚型ロボットはダウンした。これで仲間が1人でもいれば、追撃で仕留める事ができただろう。だが、ここにはエイジしかいかない。彼を援護する仲間はいない。

 更にダーインスレイヴを奥に押し込もうとしたエイジを、四脚型ロボットは全身を振るって弾き飛ばし、満足に着地も出来ずに横倒れになって床を擦って転んだ彼に、無慈悲に2つのバトルライフルの砲口が向けられる。

 目を見開いたエイジは、だが笑う。ギリギリの綱渡りではあったが、確かな勝利を掴み取って嘲う。

 四脚型ロボットの足下でプラズマ爆発が起きる。吹き飛ばされる寸前でプラズマ手榴弾を落としておいたのだ。仮にエイジを仕留めるべく脚部ブレードによる接近戦を仕掛けられていたならば、掠める程度だっただろうプラズマ爆発は、脚部に守られたロボットの真下で引き起こされる。

 

「多脚型ロボット共通の弱点は、脚部に囲われて守られた真下だ」

 

 自信のある近接ファイターならば、相手のサイズ次第ではあるが、脚部を潜り抜けて真下を攻撃する。魔法使いならば、対象の真下から攻撃する魔法がある。どちらも不可であるならば、モンスターの行動を読み切って爆弾を放り込む。

 エリートプレイヤー候補生時代に、対モンスター戦の知識は叩き込まれている。同じく4脚型ロボットモンスターとも何度も戦っている。

 自分は実に無愛想だった。パーティを組んだ他の候補生達とはほとんど関わり合おうとしなかった。

 もしも、誰か1人でも……友人と呼べる者がいたならば、ネームド相手に動けなくなる醜態を晒した自分を弁護してくれたのだろうか? 

 もしかせずとも、自分の他人との関わり合いを避けた態度が他の候補生からすれば、癪に触っていたのではないだろうか?

 何もかも仮定の話だ。だが、喜びも悲しみも分かち合える仲間などいなかったエリートプレイヤー候補生時代であろうとも、確かに意味があったのだとエイジは噛み締める。

 再度ダウンした、HP1割未満の四脚型ロボットに縦割りの一閃を浴びせて撃破する。モンスターも撃破後に遺体が残る仕様となったためか、最後の攻撃が大きく反映されて傷痕がつけられた四脚ロボットが、虚しいショート音と共に動かなくなる。

 得られた経験値は相当なものであり、ソロで相手をするならばそれなりの大物だったのだろうとエイジは数字という形で実感する。

 だが、つらぬきの騎士よりは弱かった。圧倒的に弱かった。それでも苦戦したのは、ダンジョンに単身で潜るというプレッシャーで疲弊した己の精神の弱さ、そして何よりも敵を圧倒できる『力』が足りなかったからだ。

 仮につらぬきの騎士との戦いで、グローリーがいなかったならば、瞬殺とは言わずとも長く耐えることもできずに死んでいただろう。あの時の戦いも、つらぬきの騎士は強敵であるグローリーへの対処にキャパシティを大きく割いていたからこそ、またそのようにグローリーも立ち回ってくれたからこそ、自分は生き残れたのだとエイジは自覚した。

 

「足りない。まるで……足りない。もっとだ。もっと『力』が要る」

 

 四脚型ロボットを仕留められたのも運が良かったからだ。プラズマ手榴弾を認識されて回避行動を取られていたならば、脚部ブレードによる近接戦を仕掛けられていたならば、死んでいたのはエイジの方だ。

 単に運が良かっただけだ。FNCという仮想世界の神に見放されていた自分が、運頼りで命を賭けるとは滑稽で堪らず、エイジは苦笑する。

 聖水ボトルで回復を済ませ、エイジは腹部のアバターが修復されるのを待つ。ダメージによる防具の破損も時間経過で回復するが、耐久度が減り続ければ破損したままの状態となり、継続的な防御性能の低下をもたらす。とはいえ、そこまで防具が摩耗するなど滅多にないことだ。余程の連戦か修復する暇もないような事態でもない限りはそのような事などない。

 出発だ。エイジは戦闘音で他のモンスターが集まって来るのではないかという不安を優先し、アバターの完全修復を待たずして移動を開始する。

 隠密行動を心がけ、いよいよ6時間が経過する。相変わらずの遅々としたマッピング速度であったが、戦闘を絶対に避けるのではなく、有利な時はむしろ自分から仕掛けるように方針を変更した事によって幾らかの改善はあった。

 当然であるが、ダンジョンであるが故に機能性を無視した構造となっている。だが、そこには法則性もまた存在する。

 たとえば、固定型トレジャーボックスが設置されているような場所には強力なモンスターや凶悪トラップがある。ショートカットを開くギミックの傍には門番のようにモンスターが常に徘徊する。こうした法則を理解すれば、わざわざ細かく調べる必要はなくなる。

 そして、NPCがダンジョンに配置された場合、プレイヤーがトレインしたモンスターの攻撃が命中しないように、その多くはモンスター侵入不可エリアか、モンスターの出現数が抑えられた場所に限られる。

 

(さっきの広間は砲台型が6機も待ち伏せしていたから無しだな。この通路は徘徊数が多過ぎるから先に進んでも確率は低い。ここは……狂った獄吏が常に3体もいるが、個々の耐久は低めだし、古き獄吏という名称からも考えて、可能性はあるか)

 

 こうした分析方法は、血盟騎士団時代にアスナから受けた座学で習得したものだ。鬼の副団長は実戦のみならず、知識共有の座学にも手抜かりはなかった。

 

『私だって最初から詳しかったわけじゃない。生き残る為に学んだことよ。今のキミと同じで最初は無知で、ほとんどは「彼」からレクチャーを……あ、今のは忘れてちょうだい』

 

 今にして思えば、当時のアスナが漏らしていた『彼』とは、【黒の剣士】のことなのだろう、とエイジはぼんやりと考えた。

 SAOを完全攻略に導いた英雄。それが【黒の剣士】だ。あらゆる著書で彼こそが英雄として記されていた。内容には誇張も多かったかもしれないが、その実績は揺ぎ無く彼の英雄性を物語っていた。

 故に憎悪した時期もある。『彼』のようであれば自分は『彼女』を救えたはずなのに、と自己憎悪の都合のいい媒体にしていた。

 だが、こうしてソロでダンジョンに潜れば、『彼』の偉大さが身に染みて分かる。SAOとDBOでは難易度が段違いとはいえ、当時はVRゲームのいろはなど無かった。また、基本的に近接攻撃手段以外がなく、ソードスキルを使いこなすことが主軸のSAOとでは、システムこそ受け継いでいても全くの別物であるDBOと比べるべきではない。

 そうしてエイジは気づく。『彼』もまたアスナを失った。75層で、正体を現したヒースクリフこと茅場昌彦に負けて愛しい人を目前で失った。

 どんな気持ちだったのだろうか? 自分の無力さを呪ったのだろうか? 自らを憎しみの炎で焼いたのだろうか?

 彼は戦うことができた。≪二刀流≫という英雄の象徴だったユニークスキルも持っていた。SAOでも最強プレイヤーだった。いつしか、ビーターという蔑みの称号は希望の光となっていた。

 DBOでもUNKNOWNこそが【黒の剣士】その人であるとほぼ確実視されている。むしろ、ここまで公然の秘密となったならば、潔く正体を明かさない理由は何故だろうかと誰もが首を傾げる程だ。

 颯爽と≪二刀流≫と共に現れ、多くの功績を挙げ、腐敗した聖域であろうとも弱者を守ることを選び、聖剣の使い手となる。まるで絵に描いたような英雄譚だ。

 それでも、彼はアスナを失ったのだ。それでも、足を止めることなく、攻略を続け、茅場昌彦に復讐を果たした。

 

「僕とお前の違いは分かってるさ」

 

 戦えても『力』が足りずに愛する人を失った者。そもそも戦うこと自体が許されなかった者。その差は大きく、故に分かり合えることはない。

 アスナは【バーサーク・ヒーラー】として生きている。素性を隠していても、確かに生きている。そこにUNKNOWNが関わっていないとは考え難い。ならば、彼はエイジの先駆者……死者との再会を果たし、その腕の中に取り戻すことが出来た者なのだ。

 ならばこそ、話がしてみたい。今は強くそう思うのだ。

 エイジは狂った獄吏を背後から喉を刺し貫いて仕留める。狂った獄吏は、このダンジョンで最も弱い。武器は長柄のスタンロッドのみであり、命中すれば物理+雷属性ダメージと麻痺蓄積こそあるが、攻撃は単調である為に見切るのは容易い。

 先制攻撃で1人減らしたならば、囲われる前に次の1体の腹を突き刺し、そのまま回転斬りに繋げる。刺し貫いた獄吏を振り回して背後から迫っていたもう1体に叩きつけ、まとめてダウンさせて倒れさせたところで、心臓を2体纏めて串刺しにする。

 経験値も最も低い。だが、最も相手にしたくない敵でもある。鉄仮面で頭部を守っている以外は貧弱ではあるが、どうしようもなく『彼女』の死が思い浮かび、エイジは頭を振るって過去のイメージが鮮明化する前に靄へと戻す。

 ようやく見つけた。エイジは緑色のランプが灯った半開きの牢獄を見つけ、そっと内側へと入る。そこには獄吏の証である鉄仮面を外した、スキンヘッドの痩せ細った男が簡素なベッドに腰かけて項垂れていた。

 NPC名<古き獄吏>が表示されている。間違いない。エイジがここにたどり着くまでに8時間超もかかっており、精神疲労は限界に達している。もはや最弱の獄吏さえも相手に出来そうになる程に精神は疲弊していた。

 そもそもつらぬきの騎士戦はほんの2日前の話である。大ギルド所属の上位プレイヤーでも、ギルドの方針としてダンジョンに潜った後は休暇を取ることを推奨している。毎日のレベリングも是としておらず、最前線ダンジョンに潜れば、1週間はじっくりと休むのが定番である。そうでもなければ、先に精神が敗北してしまうのだ。常に極限の緊張状態を強いる、生きるか死ぬかの瀬戸際を日常とするには、プレイヤーが生まれた現代は平和過ぎるのだ。

 エイジの場合、精神力は他のプレイヤーよりも戦闘継続に直結する。どれだけ憎悪を滾らせたとしても、根本的な精神の疲弊は障害の発生を招く。それは4脚型ロボット戦で堪能済みだった。

 

「ああ、アンタ……聞こえるかい? 俺達を誘う歌声が……」

 

「歌声?」

 

 思わず心臓を高鳴らせながら、エイジはセオリー通りにまずはNPCに調子合せて会話をすることを選択する。

 

「とても優しくて心地良い。俺はずっと間違っていたんだ。昔なぁ、絵を描いたんだ。母ちゃんの絵だ。酷く殴られたよぉ」

 

「……そうか」

 

 文化的な生活が禁じられたディストピア。芸術など1発で通報されるのだろう。たとえ、子どもであっても容赦はない。そういう『設定』なのだとエイジは自分に言い聞かせた上で、1秒でも早く『彼女』のヒントが欲しいという気持ちを抑える。

 

「だけどさぁ、母ちゃんは……音楽が好きだったんだ。幾つも音楽データを隠し持っていたんだ。ふざけやがって! なぁ、俺は間違ってないよな!? 母ちゃんを通報したのは正しかったんだよな!? おい!」

 

「…………」

 

 狂っている。エイジがそう思うのは価値観の違いがあるからだ。あの都市では古き獄吏は『正義』を執行した以外の評価はない。故に彼は良心にもがき苦しんでいるのだろう。

 同情しているのか? 相手はただのNPCだぞ? だが、エイジは彼の姿に、自分が八つ当たりのようにぶつける憎悪の在り方も似たようなものだと感じる。

 相手からすれば、必要以上の憎しみをぶつけられるなど堪ったものではないだろう。エイジは自分の戦い方……唯一無二の戦う手段である憎悪を武器とする在り方を、目の前のNPCに問い質されているような気分になった。

 

「ああ、聞こえるんだよぉ。母ちゃん……母ちゃぁああああん! 歌って……こんなにも素晴らしいものだったんだね! ああ、俺はとんでもないことをしてしまった!」

 

「その歌は何処から聞こえるんですか?」

 

「頼む。許してくれ。許してくれぇえええ。ヒ、ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒヒ!」

 

「何処から聞こえるんだ! 言え! さっさと言えよ!」

 

「ヒヒ……幽霊さんが歌ってるのさ。興味があるなら探してみな。見つけられる……なら……な」

 

 これ以上は何も語らないとばかりに、古き獄吏は狂って笑い続ける。エイジは他にヒントはないかと古き獄吏が閉じこもっていた牢獄を見回す。

 それは血で書いたのだろう。牢獄の白い壁には、母への罵倒と謝罪の2つが綴られていた。およそ正気を失いそうになる光景であるが、何かヒントはないかとエイジは細かく読んでいく。

 だが、読めば読むほど分かるのは、古き獄吏の母への強い愛情だけだった。母への愛の分だけ己の行いを恥じ、また都市のルールに従うしかなかった苦悩が読み取れる。

 

「……どうして獄吏になったんだ?」

 

 だからだろうか。エイジは古き獄吏を見下ろしながら、そう問わずにはいられなかった。

 

「歌を聞いて、感動して、だから自分を責めているのか?」

 

 壁に記された文面を読めば嫌でも分かる。この男はきっと最初から自分を責めていた。母よりも都市のルールを優先したことに苦しんでいた。

 

「僕にはお前の考えなんて分からない。でも、自分を憎み続けていることだけは……分かるつもりだ」

 

 どうして男はこの牢獄に閉じこもっているのだろうか。それはペイラーのもたらす狂気に惑わされたから? それもあるだろう。だが、根本的な理由が別にあるような気がした。

 

「俺は……母ちゃんに謝りたかった。でもさ、母ちゃんはもう……『母ちゃん』じゃなくなっていた。俺……どうしたらいいのか分からなくて……毎日毎日会いに行って……気づいたら、死んじまってた。酷いよなぁ。あんなにも歌が大好きだった母ちゃん、真っ黒に燃やされちまった。死体の焼却も獄吏の仕事だからよぉ、俺がやったんだ。俺だけでやったんだ。もう死んだんだ。だから……だから、せめてお別れの歌でもって……でもよぉ、俺……歌なんて……知らなくてよぉ! そしたら、幽霊さんが……幽霊さんが……!」

 

「焼却炉だな。何処にある?」

 

「……最下層だ。ペイラーの牢獄よりも下にある。コイツを使いな。この先に獄吏用のエレベーターがあるから行ける」

 

 システムウインドウが開き、【獄吏のカードキー】を入手が表示され、エイジは実体化を行う。半透明の黄色の薄いカードキーであり、何処で使うのか調べるべく、説明文を開示する。

 

<獄吏のカードキー:古き獄吏のジュック・ジャンのカードキー。ジュックが母を炎に投じた時、幽霊は今こそ途絶えた鎮魂の歌を奏でた。かつて、この島には太陽の光の王の娘の1人が水の神に嫁いだ神話があった。2人の間に生まれたのは人魚であり、その歌声は恩寵を紡いだ。だが、嫉妬深き女神によって喉は裂かれて声は奪われた。これこそが灯台伝説の始まりである>

 

 使う場所は分かっている。エイジは1度だけ古き獄吏へと振り返り、母へと許しを乞い続ける姿を一瞥した。

 許しを求めるのは罪の意識があるからだ。それは救いを欲するからこそである。

 ならばこそ、エイジは古き獄吏を見ていることができなかった。そこにいるのは、『彼女』を見殺しにした苦悩に苛まれていた自分の過去と同じだったからだ。

 悪夢の中で何度も何度も『彼女』に許しを求めた。だが、伸ばされた手に応えられなかった過去の結果は悪夢の中でも巡り続けた。

 いつしか許しを求めなくなった。エイジはカードキーを見つめ、自分の内側に生まれた戸惑いから目を背ける。

 

「これか。これで最下層の焼却炉に……」

 

 大ギルドはあのNPCからどうしてカードキーを入手できなかったのだろうか? フラグを立てねばNPCから貰えないアイテムだとしても、大ギルドがNPCに基本的な問答を試していないはずがない。

 いくつかの条件は考えられた。たとえば、プレイヤーがソロでなければ入手できないアイテムだったならば、パーティを組むのが普通の大ギルドの攻略部隊では得られないのも道理だろう。また、特定のキーワードを口にしなければ、古き獄吏とのイベントが進まないことも十分に考えられた。

 あるいは、古き獄吏に思わず同情してしまったからだろうか? エイジはカードキーを見つめ、馬鹿らしいと目を伏せた。そんな曖昧な条件などあるわけがない。

 そもそもとして、この焼却炉は本当にエイジが1番乗りだったのかも疑わしかった。大ギルドが情報を隠蔽していただけの方が信憑性もある。真の最下層に到着したエイジは、鼻が詰まりそうになるほどの灰と腐臭にむせる。

 何もない。ひたすらに灰が舞う、清掃すらもされていない死者を焼き尽くす火葬場は、巨大な焼却炉がある。そして、放置された多くの囚人の遺体は腐敗しており、死肉を貪る蛆が湧き、蠅が群れを成して飛び回っていた。

 およそ正常な精神を狂わす空間だ。口を押えたエイジは、何か手掛かりはないかと周囲を見回すも、非常灯の微かな光を除けば光源が無い火葬場の探索には時間がかかる。

 

「まさか起き上がらないよな?」

 

 プレイヤーを嵌めることに余念がないDBOにおいて、一見すればオブジェクトに見える遺体もプレイヤーの接近によってゾンビ系モンスターに変化することもある。エイジは生唾を呑み、ダーインスレイヴの柄を強く握りながら、深呼吸を挟んで1歩ずつ踏みしめながら探索を開始する。

 ダンジョンの単独探索でエイジの精神力が限界に達しつつある。また四脚型ロボットが出現した場合、先程と同じ立ち回りが出来るかどうかは怪しい。エイジは遺体を1つ1つ確認しながら、最奥の焼却炉へと迫る。

 肝心の幽霊の気配はない。ハイテク都市とは思えない、手動の焼却炉の戸を開き、中身を確認すれば、100人単位を詰めても足りる空間があった。

 だが、そこはまさに異様。焼却炉の内部には、無数の手形や黒ずんだ引っ掻き跡があった。

 エイジの脳裏を過ぎったのは、生きたまま焼かれた囚人たちの救いを求める断末魔だった。そして、彼らの悲鳴と怨嗟の叫びを嗤いながら聞く獄吏の姿を思い浮かべ、エイジは耐えきれずに喉を痙攣させる。吐瀉はなく、だが零れた唾液が滴り、エイジは荒い呼吸を落ち着かせる。

 

「ただの設定だ。そう、設定だ。何も考えるな……考えるな……考えるな」

 

 今は1つでも『彼女』に繋がる情報を探さねばならない。覚悟を決めて焼却炉の中に入ったエイジは、いきなり戸が閉まるのではないかと怯えながら、だが短時間で探索するべく振り返らないように己を踏みとどまらせる。

 溶けて形を失った人骨の残骸が灰と炭に埋もれ、死者の最期を物語る人の形をした焦げ跡が各所に残っている。だが、エイジの期待に応えることなく、アイテムはもちろん、情報と呼べるものは何も無かった。

 恐れていた焼却炉の戸が閉じるような悪質トラップもなく、若干の拍子抜けもあった。エイジは焼却炉の外に出ると、他にヒントはないかと探す。

 

「何か欠けているのか? 何か見落としているのか?」

 

 古き獄吏が語った幽霊は何処にも現れない。出現条件を満たしていないのならば手詰まりだ。項垂れたエイジは、ふと足下を改めて見つめる。

 火葬場は灰が積もっている。故に探索したエイジの足跡が今も残っていた。だが、1つ奇妙なことがあった。

 エイジとは異なる大きさの足跡……サイズからして子どもか女性の足跡がエイジの背後を追うように残っているのだ。

 心拍数が高鳴り、エイジは振り返る。だが、そこには誰もいない。だが、足跡だけは確かに残っている。今この瞬間に、確かにエイジの背後に誰かがいたのだ。

 プレイヤーの影に潜み、油断したところでバックアタックを仕掛けてくるモンスターもいる。エイジはダーインスレイヴで背後を見ずに刺し貫こうかとも考えたが、これが件の幽霊だった場合、敵対行動をとれば『彼女』への手がかりを失うかもしれず、安易な行動を取ることは出来ない。

 そもそも幽霊に足があっていいのだろうか? ステレオタイプの足が無い幽霊を想像し、エイジはどちらにしても背後の仮称・幽霊とコンタクトを取らねばならないとエイジは汗を滲ませる。

 まずは敵対していないアピールからだ。エイジはダーインスレイヴを鞘に収め、ゆっくりと両手を挙げる。

 

「敵対するつもりはありません。少し話をしませんか?」

 

 さぁ、どうでる? もしもモンスターならば愚行であるが、探していた幽霊ならば、何らかの反応があるはずだ。

 だが、5分、10分、あるいは30分と経過しても背後からアクションはない。呼吸音どころか気配すらもない。エイジはゆっくりと顔だけ振り返るも、やはり幽霊はおらず、だが確かに彼の背後にいた証として足跡はある。

 古き獄吏はどうして幽霊に会うことができた? エイジは精神疲労を溜め息で吐き出しながら、謎解きは得意ではない自分を恨む。

 思えば、昔からパズルなどは苦手だった。発想が貧弱だったのだ。だからこそ、エイジに出来たのは地道な1歩だけだった。知識を集め、公式を記憶し、参考書を捲って問題のパターンをひたすらに頭に叩き込んだ。

 一方の『彼女』は豊かな感性と父親譲りの才覚があった。驕らない努力家でもあった。そんな『彼女』がいつも眩しくて、追いつきたくて、並びたくて、だが結局は何もできなかった。

 考えろ。考えろ。考えろ! ここには自分しかいないのだ。エイジは必死になって思考を巡らせる。

 

(幽霊はいつも背後にいる。振り返れば消える。鏡を使えばいいのか? でも持っていないし、ダーインスレイヴの刀身でも映せそうにない。だったら、トラップを仕掛けて……どうやって? そもそも無理に捕まえようとすれば敵対するかもしれない。どうすればいいんだ!?)

 

 エイジは思考する。たとえば、ここに複数人のプレイヤーがいた場合、各々の背後を確認し合えば幽霊に接触できるのだろうか? それは考え難く、この状況は『ソロ限定』と考えるのが妥当だった。

 

『ゲームの謎解きに特別な発想は要りません。散らばったヒントを組み合わせ、試行錯誤すれば自然とクリアできるように出来ています。トライ&エラーこそが基本だと心得てください』

 

 SAO時代のアスナのレクチャーが蘇り、エイジは自分が持っている情報を全て並べる。

 古き獄吏、カードキー、火葬場、焼却炉、幽霊。それらを1つ1つ吟味し、エイジは先程から鼻を圧迫する腐臭へと思考の矛先を向ける。

 監獄はペイラーの狂気によって機能不全になったせいで、遺体はこうして放置されている……という設定なのだろう。だからこそ、無数の遺体が焼かれることなく残されている。

 

「トライ&エラー……でしたね、アスナさん」

 

 ごくりと生唾を呑み、エイジは覚悟を決めて腐った遺体へと近づいて持ち上げる。幸いにもSTRの数値が十分なお陰か、持ち運ぶこと自体の労力は差ほどかかりそうになかった。

 腐敗が進んで関節から千切れそうであり、また触れれば蛆が絡みつき、蠅に集られる。吐き気を堪え、エイジは遺体を1体ずつ焼却炉へと運んでいく。

 蛆が頬に張り付き、視界を蠅が埋める。鼻孔、口、涙腺、耳……ありとあらゆる穴から死臭が内側へと広がっていくかのような悪寒が走る。

 1人だけでは不十分かもしれない。焼かれていない全ての遺体を焼却炉に運ぶ。せめてストレッチャーでもあれば楽になるのであるが、床に並べられた遺体は自分の腕を頼りに運ぶしかない。

 いっそ放り投げようかとも思ったが、幾らオブジェクトとはいえ、遺体を辱めるような真似はできず、エイジは丁寧に時間をかけて遺体を運搬する。

 やがて自分の汗のニオイが死臭と同じになったと思うほどに染み付いた頃、ようやく全ての遺体を焼却炉に運び終える。

 あとは焼却炉を起動させるだけだ。焼却炉の戸を閉ざし、錆付いた古い基盤を操作してレバーを上げる。これで動くか不安ではあったが、操作はさすがに簡略化されているのか、エイジの期待通りに燃え上がってくれた。

 だが、何も起きない。遺体は焼かれていき、炉の光が微かに火葬場を照らすが、それだけだ。間違えたかとエイジは嘆息し、次を試すべく焼却炉に背を向ける。

 

 

 

「燃える。燃えていく。死者のソウルが還っていく。ありがとう」

 

 

 

 振り返ったエイジに感謝を告げるのは、白いフードを目深く被って顔を隠した女性だった。体格と口元からして少女だろう。

 声にはノイズがかかっており、その素性は窺い知れない。だが、微かに耳を擽る声音に、エイジの喉は引き攣る。何よりも、微かでも見える顔の造形には覚えがあった。

 

「彼らのソウルはずっとここに縛られていた。可哀想に。彼らはただ心のままに欲しただけ。絵を描きたかった。踊りたかった。料理がしたかった。そして……歌いたかった。それだけなのに、罪として裁かれて罰を与えられた。何も無い牢獄で心は死に、体は病み、死後もソウルは牢獄に縛られた。そうして溜まった怨念のソウルがペイラーを狂わせて怪物にしたのに」

 

 エイジの動揺を知る由もなく、イベントを進める無機質なNPCのように、幽霊は両手を胸に這わせて歌う。だが、それはノイズがかかっており、エイジが聞き覚えのある歌声とは程遠かった。

 

「私はずっと、ずっと、ずっと、ここにいた。『誰か』を待っていた気がする。これは夢? とても長い夢? もう分からない。でも、貴方に見覚えがある気がする」

 

「ぼ、僕は……」

 

 自分の名前を告げようとして、だがエイジは唇を噛んで堪える。フードを剥いでその顔を覗きたい右手を左手で掴んで封じて我慢する。

 

「お願い、皆に自由を与えてあげて。心は自由であるべきと教えてあげて。この都市の支配者が皆から心の自由を奪ったのは理由があるの。古き灯台で儀式を成功させれば、支配を壊すことができるとペイラーは言ってた」

 

「どうすれば……いいんだ?」

 

「儀式を成功させる為にはソウルの憑代を灯台に連れていってあげて。そうすれば……そうすれば? どうして? どうして、私はこんな『説明』をしているの? あ、頭が……頭が痛い……痛い……痛いぃいいいいいいいいいい!?」

 

 突如として幽霊は頭を押さえて震えたかと思うと絶叫する。

 

「ソウルの憑代を……駄目! 駄目! ダメダメダメ! 逃げて!」

 

「ユ――」

 

 間違いない! エイジは『彼女』の名を呼ぼうとして、手を伸ばして、だが触れるより先に幽霊の姿に声と同じくノイズが走る。

 悪夢がフラッシュバックする。今度こそ、とエイジは灰を踏み躙り、倒れる幽霊へと……『彼女』の手を掴む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「【ユナ】!」

 

「ユナ? それが私の名前?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 触れたのは人肌。確かな人間の温もり。だが、何処かぼんやりとして、手放せば霧となって消えてしまいそうな不安感があった。

 目深くフードを被っていた幽霊は姿を変えていた。エイジのよく知る、愛らしく人懐っこそうな顔立ちをした、見殺しにした少女と同じ容姿をしていた。ただし、髪は色が抜け落ちたような白であり、瞳はルビーのように赤い。それは【渡り鳥】を一瞬だけ脳裏に過ぎらせるも、あちらが人外の如き神秘を感じさせるならば、こちらは大事な中身が零れ落ちた抜け殻を思わせた。

 

「うっ! 変なニオイ! ここは何処? 貴方は誰?」

 

 黒のミニスカートを揺らして、掴んだエイジの手を頼りにして立ち上がり、少女は死臭など分からない様子でエイジに問う。

 エイジとは初対面であるといった様子の少女は、彼女がいつも気合を入れていたのと同じく、前髪を編んで左房まで流しており、同じように右のもみあげも編み込まれている。このオシャレは彼女特有のこだわりだった。

 これは何だ? 何が起こっている? 困惑し、衝撃が抜けずに思考停止したエイジの正面にシステムウインドウが表示される。

 

 

 

<イベント【灯台伝説】を開始しますか? クリア条件:祭礼の楽譜を集めて儀式を成功させる>

 

 

 

 

 イベントを開始するかの是非を問われ、エイジはごくりと生唾を呑む。

 ギャラルホルンから貰った情報はここまでだ。これ以降は情報もゼロである。

 改めて『彼女』と……ユナと同じ容姿をしたこの少女を見れば、NPCカーソルが表示されている。名前は<ソウルの憑代>である。

 幽霊のあの苦しみ方、そして自分を呼び、彼女と同じ容姿の少女が現れる。エイジは理解が追い付かずとも、目の前の謎にぶつかり続ける以外の選択肢はない。

 走り続けるしかない。やり遂げるしかない。少なくとも、『彼女』かもしれない目の前の少女を無視するという選択肢はない。

 選択肢のYESを選んでイベントを開始し、エイジは少女と改めて向き合う。

 

「キミは……ユナだ。僕はエイジ。灯台伝説の……儀式の成就を手伝うために来た」

 

「儀式の? じゃあ、ペイラーのお友達なんだね!」

 

「……ああ」

 

 嘘であるが、今は話を合わせるべきだろう。エイジは少女をユナと呼ぶことに抵抗を覚えながらも、その声は間違いなく彼女と同じものであることに、名を呼ぶことを否定しようとする気持ちを抑え込むしかなかった。

 

「そうなんだ! ありがとう! やっと……やっと皆の前で歌えるんだね! 私、ずーっと待ってたの! ペイラーの願い! 自由の為の歌! 皆の為の歌! やっと歌えるんだね!」

 

 嬉しそうに笑うユナに、エイジはどんな顔をすべきか分からず、だが心に冷気を吹き込ませて思考を凍てつかせる。

 気を緩めば涙を零しそうになる。泣きながら縋りついて、心が決壊するままに、溢れかえった憎悪を垂れ流す程に言葉を紡いでしまいそうになる。

 だが、それは駄目だ。目の前のユナは『ユナ』ではない。あくまで『ユナ』に繋がる手がかりに過ぎない。容姿と声だけを似せた、自分を惑わす幻影に過ぎない。

 演じろ。自分を偽れ。それ以外に前へと進む方法を持っていないのだから。エイジは腰のダーインスレイヴを抜く。

 

「ユナ、教えてくれ。どうすれば儀式を成功できるんだ?」

 

「えーと、ペイラーはこう言ってたかな? かつて、この島には7つの祭壇があって、そこに楽譜がソウルとして刻まれていた。もう祭壇は壊されてるだろうけど、祭壇があった場所にはソウルが染み込んでいる。私がそこに行けば、自然と楽譜が分かるはず」

 

「つまり、ユナをかつて祭壇があった場所に連れていけばいいんだな?」

 

「そうだよ。その場所の1つが今は監獄になってるんだって。だから、自分はわざと捕まって私を監獄まで届けるって言ってたの。ソウルの憑代である私を連れて行ってくれる人が現れるまで、ずっとここで待ってたの」

 

 そういう設定なのか。ユナが幽霊として徘徊していたのは、監獄でボスとして立ち塞がったペイラーの策謀だったとエイジは把握する。

 

「祭壇は全部で3つあるはず。楽譜を全部集めたら灯台に行けばいいんだよ」

 

「分かった。そこまで僕が護衛する。ペイラーとの約束だからな」

 

「そうなんだ。頼りにしてるよ、エイジ!」

 

 可愛らしくウインクするユナに、やはり『ユナ』ではないとエイジは確信する。彼の知る『ユナ』から大きく乖離していることを理解する。

 

「監獄の何処に祭壇があるんだ? ここがその監獄なんだ」

 

「えーと、ペイラーは最深部にあるって言ってたかな? ずっと昔は集合墓地で火葬場でもあったんだって」

 

「……火葬場」

 

 まさにここか。エイジは背後で死者を燃やし尽くした焼却炉を見つめる。

 言うなれば、これはイベントのレクチャー編といったところか。エイジは恐る恐る焼却炉の戸に触れれば、先程まで高熱を孕んでいたとは思えないほどに冷たい。だが、開こうとすれば抵抗があり、数十秒後にゆっくりと開くことが出来た。

 湿った空気の中で散らばるのは人骨ばかりであり、背後のユナが息を呑む。

 

「エ、エイジ。これ……」

 

 怯えるユナに、エイジは自分も拳を握っていなければ彼女以上に手が震えてしまう事実に歯を食いしばる。

 怖い。これから何が始まるのか分からない未知が怖くて堪らない。

 これは障害ではない。純粋に未知への恐怖心だ。それが二の足を踏ませる。

 

(それでも……!)

 

 エイジは今度こそ手放すものかとユナの手を引く。

 

「僕が……守る」

 

 頷いたユナと一緒に焼却炉の中に入れば、濡れた床が足を迎える。人骨は四隅へと押し寄せられており、何処か不自然な光景にエイジは眉を顰めた。

 

「楽譜を集めるにはどうすればいいんだ?」

 

「え? 私は知らないよ? エイジはペイラーに何も聞いてないの?」

 

「ああ」

 

 まさか楽譜の手に入れ方から調べないといけないのか? 残り時間を考えれば、悠長に情報収集できるはずもなく、眉間に皺を寄せたエイジであるが、途端に音を立てて焼却炉の戸が閉じた事に自分の中にあった油断に舌打ちした。

 1度目は何も起きなかったが故に、こんな古典的なトラップに引っかかるとは! 生きたままユナと共に焼かれるイメージが浮かび、焦りを隠せないエイジであったが、予想と違って焼却炉に火が荒れ狂うことはなく、代わりに中心部で空間の歪みが生じる。

 

 

『緊急事態。緊急事態。緊急事態。コード:ブラックを発令。全敵性対象の強制排除を開始します』

 

 

 空間の歪みの中心部から現れたのは、まるで真珠のような虹色の球体だった。球体から白い砂状の物質が放出され、渦巻き、まるで粘土をこね回すようにして形を取っていく。やがて球体を核にして、完成した1つの造形がエイジたちの前に降り立つ。

 その造形をエイジは知っている。だからこそ、あり得ないと精神が揺さぶられて硬直する。

 かつて多くの武人は騎馬と共に戦場を駆けた。人間を超える質量と速度を持った騎馬はそれ自体が殺傷力の高い兵器であり、機動力という強大な武器として機能した。故に武人は馬を操る技術に心を砕き、一心同体を目指した。これこそ人馬一体である。

 だが、仮に心を通わすことが出来たとしても完全なる一体化は不可能である。ならばこそ、その幻想はある種の理想の体現であると言えるだろう。

 上半身は人間、下半身は馬。その幻想の名はケンタウロス。DBOにおいてもケンタウロスは出現する。陸上戦における高い機動力と速度の乗った一撃は脅威そのものだ。

 ケンタウロスでも有名なのは、クラウドアースによって討伐されたネームド【幽馬のゲオルグ】だろう。元は卓越した騎士であり、だが戦場で愛馬と共に倒れ、死後はソウルが1つに溶け合ってケンタウロスになったという変わり種である。

 ゲオルグが登場するのは、本来は騎馬を活用できない朽ちた古城である。だが、亡霊であるゲオルグは壁や天井をすり抜け、縦横無尽に空間を駆けることができた。また、ゴースト系である為に物理属性が通じ難く、少なからずの犠牲者と多大な時間をかけて討伐されたネームドである。

 上半身には分厚い甲冑、下半身の馬にも装甲を身に着けた姿は、資料にあった通りである。肉厚の刃が備わった長竿武器であるグレイヴを主軸に戦いながら、第1段階では連射&追尾性を持ったクロスボウを組み合わせ、第2段階では馬の幻影をばら撒いて数で攻める能力を追加し、最終段階では空間を歪めてプレイヤーを強制硬直状態にする魔弾を放ち、また接近を知らせる足音が消える。当時の派遣された攻略部隊総数は42名。その内より死者11名を出した悪名高いネームドだ。

 見間違いだと信じたい。だが、HPバー1本の上には<写し身・幽馬のゲオルグ>という名前が刻まれている。

 写し身……コピーという事だろうか。エイジは資料にあったゲオルグの能力と戦法を頭の書庫から即座に引っ張り出して参照する。それが最初の10秒を凌ぐ事を可能とした。

 突如として霧となって消えたゲオルグ。エイジは思い出した資料から、ゲオルグは壁をすり抜け、最初のアタックはプレイヤーの背後・頭上・足下からの奇襲をかけるということを想起する。エイジはユナを抱きかかえて跳び、足下から振り上げられたグレイヴの一撃の回避に成功する。

 

「きゃ……っ!」

 

 エイジと共に倒れて悲鳴を上げたユナにめがけて、宙を駆けたゲオルグのグレイヴが振るわれる。寸前でダーインスレイヴでガードしたエイジであるが、その衝撃が体の芯まで突き抜けて危うくガードブレイクを誘発されそうになる。

 速い! つらぬきの騎士とは質が異なるスピード。騎馬ならではの速度でありながら、3次元の動きを可能とし、あらゆる障害物をすり抜けて攻撃できるゲオルグには、オマケのように物理属性が9割以上も減衰するというゴースト系ならではの特性も備わっている。

 ダーインスレイヴは純物理属性であり、故にゲオルグとの相性は最悪だ。呪術でエンチャントさせるにしても短時間では話にならず、先に魔力がガス欠となるだろう。唯一の切り札である【つらぬきの刃】は魔法属性も含んでこそいるが、物理属性と複合してこそのあの破壊力である為に、実質的に効果は半減である。

 HPバーは1本。ならば、第1段階限定なのか? それならば幾らか気は楽になるが、そもそもとして相手はネームドである。障害を抑える為のダーインスレイヴとのリンクを強めるべく憎悪を滾らせるが、反応剤とも呼ぶべき精神力が限界であり、体の動きは露骨に鈍る。

 

「ユナ! 早く楽譜を!」

 

 次のアタックが来る! 壁の中に消えたゲオルグはエイジの目では追えない。音もなく迫るゲオルグを倒す為に、当時の攻略部隊は≪千里眼≫持ちを徹底的に守り抜き、接近するゲオルグをギリギリで発見して対処するという戦法を取った。だが、エイジには要となった≪千里眼≫が無い。

 

「でも、どうすればいいのか分からないよ! エイジは何か知らないの!?」

 

 知っていたら既に指示している。エイジは歯を食いしばり、本物のユナとはやはり違う事を痛感しながら、ユナの背後から迫っていた追尾性を持ったボルトを寸前で弾く。グレイヴによる薙ぎ払いと刺突のみならず、最大12連射を可能とする上に、闇術の如く追尾性を持ったクロスボウを使用できるのもゲオルグの脅威だ。壁の向こう側から連射して一方的に攻撃を仕掛けてくるのだから、当時の攻略部隊が苦戦を強いられたのも必然である。

 

「うーん……うーん……!」

 

 唸っているユナを横目に、今度は頭上からアタックを仕掛けられる。ユナを両断する勢いだった一撃を駆けつけたエイジは押し飛ばして守るが、分厚い刃がエイジの顔面を撫でる。

 

「ぐぁああああ!?」

 

「エイジ!?」

 

 ダメージフィードバックが突き抜け、溢れた血が顔面から喉元まで濡らす。だが、顔を押さえて蹲りそうになった体と心を御し、血塗れの顔で続く薙ぎ払い、振り下ろし、フィニッシュの突きをガードする。だが、反撃は許されず、ゲオルグはボルトをばら撒きながら距離を取り、頭上でグレイヴを回転させて刃にエネルギーを集めていく。

 ゲオルグの持つ攻撃の1つ、瘴気による広範囲斬撃だ。高威力の闇属性攻撃であり、更に斬撃命中箇所から怨霊が湧き上がってプレイヤーを束縛しようとする。やはり狙いはユナであり、エイジは動けないでいるユナの前に立ち、ガードの構えを取る。

 堪えろ! 振り抜かれた瘴気の刃は重く、ユナを庇いながら吹き飛ばされる。皮肉にも彼女がクッションになることでエイジ自身が壁に叩き付けられることはなかったが、彼女の苦しむ呻き声が漏れ、それが否応なくエイジの憎しみを底上げする。

 瘴気の刃が通った跡より怨霊が生じ、エイジではなくユナを束縛しようと群がる。繰り出す斬撃で怨霊を斬り払うが、再び姿を隠していたゲオルグが背後より攻撃してくる。刃は真っ直ぐにユナの首を狙い、エイジはダーインスレイヴを割り込ませて防ぐが耐え切れず、ガードブレイクしてしまう。

 殺られる! ガードブレイクで強制硬直したエイジに、ゲオルグがトドメの連続振り下ろしを繰り出す。だが、間一髪で今度はユナがエイジを抱いて跳んで難を逃れる。

 

「あああ……あああああああ!?」

 

 だが、ユナの口から悲鳴が漏れる。エイジを逃がした代償として、彼女の両足は膝から先が切断されてしまっていた。だが、NPCとしてHPは大目に割り振られているのか、ユナのHPバーの減りは鈍い。それは安堵をもたらすと同時に、自分の不甲斐なさが彼女を苦しめ、また死に近づけた事実にトラウマが蘇る。 

 再び壁の中に消えたゲオルグを探すように睨みながらエイジは止血包帯でユナの両足を覆う。これで欠損のスリップダメージは抑えられるが、流血の方のスリップダメージはしばらく続くだろう。

 

「足が……私の足が……! エイジ!」

 

 パニック状態のユナに名前を呼ばれ、エイジは泣きじゃくる彼女に自分の無力さを改めて噛み締める。

 たとえ『ユナ』の贋物だとしても、彼女と同じ声で苦しみを訴える。それがエイジの心を掻き毟る。

 このままではユナも自分も殺される。だが、逃げ道はない。

 

「ユナ、お願いだ。楽譜を見つけてくれ。それしか生き残る方法はない!」

 

「うっ……ひっく……えぐ……わ、分かった。やって……みる。でも、どうすれば……いいの?」

 

「とにかく試すんだ。何でもいいから試すんだ! 当たりを引くまで僕が守る! 絶対に……今度こそ!」

 

 焼却炉の戸は【つらぬきの刃】で破壊可能だろうか? それともゲオルグを撃破しなければ解放されないのだろうか? いいや、他にも何か逃げ場はあるはずだ。エイジは必死に思考を巡らせ、ユナを狙ったボルトの連射を、体を盾にして守る。

 

(このダメージ感覚……無属性なのか?)

 

 炎属性ならば熱を帯びた、雷属性ならば痺れを含んだ、水属性ならば冷たさを孕んだダメージフィードバックがプレイヤーを襲う。その差異でプレイヤーは相手の属性攻撃を見抜くことも戦術の1つと割り切る。

 思い出せ。ゲオルグの攻撃は魔法と闇の複合だったはずだ。エイジの記憶違いではない限り、当時の攻略部隊が分析を誤っていない限り、ゲオルグの攻撃属性がおかしい事に気づく。

 泣きながら、あれこれ試す様子のユナを守りながら、エイジは頑丈なダーインスレイヴでなければ、もうとっくに折れて自分は両断されているだろうと汗を散らす。だが、このままガードを続ければ、いずれはまたガードブレイクに持ち込まれる。

 そもそもとして、武器によるガードは、盾に比べてもガードブレイクしやすく、スタミナも耐久度も削られる。故に盾を持たないプレイヤーは、相手の攻撃のガードは最小限に抑えねばならない。

 スタミナの急速な消費を示すように体が火照り、汗は溢れる。汗と血は混じり合い、エイジは聖水ボトルを口に含んでHPを回復させながら、ユナを執拗に狙うゲオルグをどうにかして引き付けられないかと考える。

 楽譜の入手を諦め、まずは撤退を優先する。エイジがそう割り切った時、彼の耳を歌声が擽る。

 過去の思い出が泡立つ『ユナ』の歌声。隙になると分かっていながら振り返るしかなかったエイジは、戦場で歌う両足を失ったユナを目にする。

 このユナは偽者だ。本物に繋がる手がかりだ。だが、その歌声は紛い物ではないとエイジは不思議と確信できた。

 どうしようもなく憎悪で塗れ、もう何も響かないと思っていた通りに、ユナの歌声はエイジの魂を揺さぶらない。だが、憎悪を生んだのは過去という土壌であるならば、汚染しきった大地にも雨が降り注ぐように歌声は染み込んでいく。

 それは郷愁にも似た過去の想起だ。だからこそ、喪失の傷痕は刺激され、膿んだ憎悪が溢れ出す。

 歌うユナの周囲にソウルの光が蛍のように舞う。ソウルの蛍火は繋がり合い、楽譜を形成していく。完成するまでどれだけの時間がかかるか不明であるが、エイジのやる事は変わらない。

 楽譜を手に入れるまで、本物の『ユナ』にたどり着くまで、今ここにいるユナを守り抜く。その為ならば、どれだけ無様な戦いだろうと為し遂げる。

 

(最初の奇襲は必ず薙ぎ払い! それをガードした時は3連撃がディレイ込みで22パターン! クロスボウの連射は必ず壁の向こう側から来るけど、それは10秒以上出現しなかった時に背後から! 瘴気の刃は頭上回転からの薙ぎ払いと3連撃後にバックステップした際の斬り上げの2種類!)

 

 そして、エイジはゲオルグが『オペレーション通りに動くAI』であると確信する。

 DBOのAI……つらぬきの騎士のように、『生きているかのようなAI』はパターン化して対処することが不可能だ。こちらの分析を予測して攻撃のテンポを狂わせてくる柔軟性を持っているからだ。剣技のような型こそ存在しても、そこに生きた脈動が乗るならば、プレイヤー側が憶えたからと言って即攻略できるような生易しいものではない。それは正しく『殺し合い』であると1度でも経験したプレイヤーは嘯くのだ。

 常に目まぐるしく変わる戦いに適応できるか。それがDBOにおける『生きているかのようなAI』との戦いで最も不可欠なものとされている。今のエイジの目の前にいるのは、かつて相対したボーレタリア騎士などと同じ、生きてこそいないが、エイジやユナを殺す為に最適化されていくAIだ。組み込まれたオペレーションを対エイジ・ユナ用で最適化されていく血の通わない機械なのだ。

 ならばこそ、エイジは呼吸を整える。相手はゲオルグであってゲオルグではあらず。

 ここまで分析してもエイジの苦境は変わらない。反撃は出来ない。だが、凌ぐだけならば首の皮を繋げることができる。

 

(ガードするだけではスタミナを持って行かれる! ガードブレイクさせられる!)

 

 また、攻撃をガードしても衝撃は襲い来る。それは確実にエイジの衝撃耐性を減耗させていくのが分かる。スタン値こそ蓄積せずとも、衝撃耐性の目減りは体勢を揺るがされることに繋がり、それは隙とガードブレイクを誘発していく。それを防ぐために不可欠なのはSTR制御であるが、根底となる衝撃耐性が減っていけば、どれだけSTRが高くとも、STR制御に秀でていても、いずれは体勢を崩される。

 

『重装防具ほどに高いスタン耐性・衝撃耐性を有する! 軽装防具はその逆だ! だが、装備重量割合が大きい場合、スタン耐性は回復し難くなる! スタン耐性と衝撃耐性は同一視されがちであるが、本質はまるで異なる! スタン値を溜めれば相手を強制的に硬直状態して、必ずクリティカルダメージを与えることができる! 衝撃耐性とは体勢の崩れやすさの指針の1つだ。肝となるのはSTRだ! STRの高さと制御により秀でた者ほどに少ない衝撃耐性でも切り抜けられるのだ!』

 

 退屈な座学。だが、無駄に熱い教官だった。エイジはエリートプレイヤー候補生時代を振り返り、呼吸を整える。

 エイジは決してSTRに特化しているわけではない。STRとTECを均等に高めた上質タイプだ。器用貧乏とも言い換えられる。

 

『TECは影こそ薄いが無駄ではない。衝撃耐性そのものの回復速度はSTRよりもTECの関与が大きい。TECに割り振った分だけ衝撃耐性は回復しやすくなる。時として攻めるのではなく、敵の攻撃を凌いで呼吸を整え、STR制御と衝撃耐性の回復に専念するのだ! そして、注意しろ! 傷の分だけ、疲労の分だけ、アバターの制御は甘くなる! より体勢は崩され易くなるのは必然なのだ!』

 

 どうしてあの熱すぎる教官は、実技ではなく座学担当だったのだろうか。今でも本当に不思議だとエイジは深呼吸を挟み込む。

 同じ方向からのアタックは2回以上しない。バックアタックが2回続いたならば、次は頭上か足下だ。耳を澄ませ、エイジは歌い続けるユナを抱えて跳ぶ。真下からの薙ぎ払いがユナの頬を掠め、だが彼女はまるで感じてないかのように歌に集中している。

 もうエイジなど見ていない。歌う事にトリップしているユナに、エイジは過去を思い出す。

 そうだ。いつもそうだった。

 夕暮れの光の中で『ユナ』は……【重村悠那】はよく歌っていた。エイジなど見ていない、遠い眼で、歌だけに魅入られ、魂の全てを捧げているかのように。彼女にとって歌こそが何にも勝る最も大切なものだった。

 ずっと昔から気づいていた。ユナにとって歌こそが魂の拠り所であり、存在証明だった。

 

「ユナは変わらないな」

 

 思わずそう呟いたエイジは、自分の口元が微かに笑っていることに気づいていなかった。

 

『ガード性能に秀でた特大武器でもない限り、武器でガードをすればスタミナが大幅に削られる。体勢が崩れた状態での強引なガードは更にスタミナ消費が増える。ガードブレイクの危険性が高まる! 可能ならば受け流せ! スタミナ消費と武器耐久度減少は最小限に抑えられる! そして、流水の如く受け流せば、相手を翻弄し、隙を作ることが出来るだろう! そうしてカウンターを入れるのだ!』

 

 受け流す。極限の研ぎ澄ました集中力で眼を開き、パターンを頭に叩き込んだゲオルグの3連撃をダーインスレイヴの刀身で受け流し、逆に斬り込む。だが、ゲオルグの下半身である馬の前足の蹴りがこれを防ぐ。

 不発。だが、1歩の前進を噛み締める。

 何度も何度も繰り返した。ダーインスレイヴを持つ前であろうとも、基礎練習は欠かさなかった。レベリングでは持てる技術を動員した。それでも、いつもいつも醜態を晒して嗤われた。

 さっさと諦めればよかった。腐り果てていれば、悪夢に苦しめられることも、嗤われることも、こうして命懸けの戦いに身を投じることもなかった。『NPCさん』として淡々と毎日を消費していればよかった。

 それでも、今ここにユナの歌が響いている。たとえ、彼女は『ユナ』ではないとしても、彼女の歌が紡がれている。ならば、自分のしてきたことに……支えてくれた憎しみに意味があったのだろうか?

 まだ己の憎悪の先に何が生まれるのか、何を為せるのか、まるで見えていない。だが、微かな取っ掛かりを見つけたような気がして、エイジはユナを狙う頭上からの攻撃を弾く。

 

『受け流すにしても質がある。不完全に受け流そうとすれば、スタミナも奪われ、バランスは崩される! 結果的にはガードよりも悪手になることもある! だが、忘れてはならない。武器による防御方法はもう1つある。相殺だ! 攻撃には攻撃を合わせて相殺すればよい。たとえSTRの差があっても、余程の差がない限りにはそれなりに有効であるはずだ。そして、より攻撃的に防御するならば、相殺する際に相手の攻撃を歪めるように弾け! そうすれば、剣戟の内でも相手の姿勢を崩していくことができる! そうして衝撃耐性を落とした状態で与えた攻撃は、より大きなダメージとスタン蓄積という確かな成果をもたらすだろう!』

 

 これが『生きているようなAI』ならば上手くいかないだろう。巧みに攻撃を変えて来るだろう。だが、コピーされたゲオルグはオペレーション通りにしか戦わない。ならば、パターンさえ見切れば、リズムは変化しない。

 エイジとユナを殺す為に最適化されていても、次にどんなカードを切るのか、そしてリズムさえ分かっていれば、対処は可能だ。

 ゲオルグの苛烈に思えた3連撃だが、エイジはそれに攻撃を合わせて防ぎ、また弾く。だが、その程度でゲオルグは揺るがず、しかし対処されたことで新たな攻撃法として前足による踏みつけを繰り出す。そこから暴れ回りながらのグレイヴの振り回しに、エイジは刃を重ねて防ぐ。

 ガードではなく相殺! そして可能ならば弾く! 無理に受け流すことはしない。

 そろそろだ。エイジはスタミナが早くも危険域に達していることに歯を食いしばる。まだゲオルグのHPは欠片と減っていない。これが本来のネームド戦であるならば、文字通りの手も足も出ない状態だろう。ユナを庇いながらとはいえ、己の非力さに嗤いが零れる。

 それでも! エイジは再び消えたゲオルグが真下から攻撃を仕掛けると足音で判断し、その時を待つ。

 繰り出された一閃。ユナではなく明確にエイジを狙った薙ぎ払い。ゲオルグの攻撃をエイジは躱す。

『生きていないAI』は対エイジに最適化されていた。これまでエイジは敢えて剣戟に付き合うことで、ユナを庇う以外は躱すことをしなかった。ここにきて、エイジは前に踏み込む形でゲオルグの攻撃を躱し、霊馬と一体になった真正面を取ることに成功する。

 

「寄越せ。お前の能力を……!」

 

 エイジのダーインスレイヴの一突きは、反応が遅れたゲオルグの胸部……心臓に当たる部位に直撃する。ダーインスレイヴのバトル・ラーニングの条件はこれでクリアされたとエイジは笑う。

 だが、不発。バトル・ラーニングが成功したアナウンスはなく、ダメージこそ負ったが即座に反撃したゲオルグの前足蹴りがエイジの顎を打ち抜き、そのまま天井に激突する。

 

「がっ……!」

 

 どうして!? 困惑したエイジは、そもそもとしてゲオルグはコピーに過ぎないことを思い出す。落下する中でもゲオルグの攻撃は止まらず、ガードすることが出来なかったエイジは、空中で吹き飛ばされ続け、フィニッシュの強烈な振り下ろしに押し負けて刃が右肩に潜り込む。

 床に叩き付けられたエイジは、血を吐き散らしながら、頭上から降り注ぐクロスボウの連射を転がって躱す。

 コピーであるゲオルグからはバトル・ラーニングできない。突きつけられれば、なるほどと納得するしかないが、ならば能力を使うなとエイジは叫びたくなる。

 スタミナ危険域のアイコンが激しく点滅する。バトル・ラーニングに成功しなかったとはいえ、急所に入った一撃はゲオルグのHPを削っている。本物のゲオルグのようなゴースト系としての物理大幅減衰といった性質もないらしく、物理属性でもダメージを与えられたのは朗報であるが、勝ち目は依然として少ない。

 それでも、自分の確かな成長を噛み締め、残り少ないスタミナでどうやってゲオルグを『殺す』のかに思考をシフトしかけたところで、ユナの歓声が耳を擽る。

 

「やったよ! エイジ! 楽譜を手に入れたよ!」

 

 そうだ。ゲオルグを『殺す』のではない。ユナを『守る』のだ。エイジは初心を忘れていた事に己へとブレーキをかけた途端に、ダーインスレイヴに重みを覚える。

 まるで自分を戦いへと誘うような重みだ。それを振り払い、エイジは両足が無いユナを連れて、どうやってゲオルグから逃げるかに頭を悩ませる。

 奇抜な発想は要らない。あるべき情報を整理して試す。トライ&エラーだ。

 

(そういえば、これだけ大規模な焼却炉で、灰や人骨は何処に処理をするんだ?)

 

 ゲオルグが壁の中に消えている間に、エイジは焦りを隠せぬままに、四方八方を見回し、そして発見する。焼却炉の四隅のパネルだけが少し浮いている。パネルの大きさは人間3人分ほどはあり、可能性はゼロではない。そして天井にも似たようなパネルが複数ある。

 

「ユナ、僕の首に腕を回してくれ。何があっても離すな!」

 

「う、うん!」

 

 頼む、当たってくれ! エイジは大きく跳び、≪両手剣≫のソードスキルであるヘルムブレイカーを発動させる。急行落下しながらの斬撃を繰り出す初歩的でありながら、様々な活用法があるソードスキルは、パネルに激突して破壊する。

 灰や人骨を放水で押し流すダストシュートだ。焼却炉が冷えていたのは、焼却後の放水が始まっていたからであり、エイジが開けようとした為に放水は停止したのだ。それこそ床が濡れていた、そして人骨が四隅にあった理由である。

 天井のパネルが放水口を隠しているならば、水圧で押し流した先にあるのはダストシュートだ。その先が安全かどうかも分からないが、今は試すしかない。何よりもヘルムブレイカーでエイジのスタミナはゼロだった。

 それでもユナを抱いて守りながら、エイジは暗いダストシュートの中を落ちていく。幸いにも落下距離は短く、だが曲がりくねったパイプの中でぶつかりながら転がり、そして耳が嫌な音を聞く。

 

「エ、エイジ……まさか」

 

「……口を……塞いでくれ」

 

「い、いやぁああああああああああ!?」

 

 ユナの可愛らしい叫びの正体は、もちろん下水である。死者の遺骨を下水に捨てるとは、とエイジは呆れながらも、こうして下水道で逃げるのは2回目だと何処か諦観を覚えながらエイジは着水した。

 

「ひぐ……えぐ……馬鹿。エイジの馬鹿。馬鹿馬鹿ばーか!」

 

 その後、たっぷり20分以上も流され、無人の下水処理施設に漂着したエイジは、何とかスタミナが回復した体で泳いで、ミキサーのようにしてごみを粉砕する機械から逃れ、ユナと共に汚水から這い上がる。

 下水処理施設の柵にもたれかかり、ゲオルグが追って来ない事に感謝を捧げながら、頭から生ゴミを被ったユナの罵倒を甘んじて受ける。

 

「少し苦しむことになる。我慢してくれ」

 

 それに今度は殴られるかもしれないしな、とエイジはバランドマ侯爵のトカゲ試薬を、ユナの了承なしに彼女の両足に使う。エイジは使い慣れてこそいるが、初体験となるユナは顔を歪めて絶叫して暴れ回る。

 

「ひ、酷い……酷いよ……な、なにこれ……足が燃える……熱い……うぃいああぁあああ!?」

 

 暴れるユナに顔を引っ掻かれ、鼻を殴られ、ついには肩を噛み付かれ、エイジはやはり『ユナ』とは違うと再認識しつつ、だがその歌声は……紡がれていた旋律は間違いなく『本物』だったという困惑もまた抱える。

 DBOのクオリティを考慮すれば、声など幾らでも似せられるかもしれない。だが、エイジはそうした表面だけを取り繕ったものではない、歌声に通った芯とも呼ぶべきものが『ユナ』そのものであったと感じていた。

 ゲオルグと死闘して得られたのは楽譜だけだ。倒せば経験値やアイテムもあったかもしれないが、得られそうになかったものを欲しても仕方がなく、バトル・ラーニングが出来なかったことも妥当と捉える。

 それでもユナを守った。そして、自分も成長することも出来た。泣き疲れて体を丸めたユナの傍らに腰かけながら、エイジは彼女の髪に引っ付いたままの生ごみを剥ぎ取った。

 

「……ねぇ、エイジ。1つ訊いていい? 私達って初対面だよね?」

 

「え? あ、ああ……そうだよ!」

 

 何時間経っただろうか? ユナの足の再生は順調であり、神経を張り詰めて周囲を警戒し続けたエイジは突如として話しかけてきたユナの声に、情けなく肩をびくりと跳ねさせる。

 

「私ね、何の記憶もない。私はソウルの憑代。ペイラーは言ってたわ。儀式をする為に生み出された『歌声』のソウルの塊。だから、過去もない。親もいない。名前もない。でも、やるべきことは分かってる。楽譜を集めて灯台で歌うの。それだけの為だけに生み出されたから」

 

「…………」

 

「エイジは私を守るって言ってくれたよね?『今度こそ』守るって。もしかして、私がソウルの憑代として生まれる『前』もあるの?」

 

 どう答えるべきか、エイジは悩む。

 このユナはNPCと呼ぶにしては豊かな感情を持ち、だが同時に人間的とは呼べない不完全さもあるような気がした。まるで人間とAIの中間にあるかのような半端な存在感だ。

 

「教えて。私は『歌いたい』。これだけは生まれる『前』から備わっていた願いのような気がするの。どうして、私はこんなにも『歌いたい』の?」

 

「……分からない。僕にも分からないよ」

 

「そっか。エイジはペイラーと違って物知りじゃないんだね。ざーんねん」

 

 もういいや、とユナもそれ以上は問わなかった。それを喜ぶべきか否かは判断がつかなかった。

 スレイヴと連絡を取るべきだろうか? いや、邪剣を使った通信はスレイヴに大きな負担をかける。エイジはユナの状態を問いたい衝動を堪える。

 

(残る楽譜は2つ。もしも同じ手順なら、ネームド戦をあと最低でも2回。どう考えても無理だ)

 

 今回は五体満足で切り抜けたが、次はどうなるか分からない。腕1本でも失えれば、もう勝ち目はない。傷を負い続ければ回復し続けても流血のスリップダメージで死ぬ。スタミナは削られ続けて反撃の糸口を見つける頃にはガス欠だ。

 あんな怪物を単独討伐する。『偉業』と呼ばれるに足る無謀さだ。エイジは震える左手を見て、右手のダーインスレイヴを握りしめ、自分の内側にある臆病の種を取り除こうとする。

 この先まだまだ戦いは続くのだ。今回のようにダーインスレイヴとの繋がりが薄くなれば、いつ戦えなくなるか分からない。精神の疲弊など言い訳にできない。邪剣とのリンクが途切れた時、エイジのFNCは発芽するだろう。そして、1度途切れたならば繋ぎ直すことはできない。そうなれば、待っているのは2人の死だ。

 もっと、もっと、もっと深く繋がりを。ダーインスレイヴに意識を集中させていくべくエイジは瞼を閉ざす。

 

「……っ!」

 

 だが、ダーインスレイヴの脈動が一際大きく右腕を通じて響き、エイジは右目に届くまで広がる強い痛みを覚える。

 

 

 それは、まるで右腕の内側から蜘蛛の群れが蠢き、肉と神経を貪っているかのような痛みであり、エイジは奥歯を噛んで叫びを堪えた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「ご苦労様、ピナ」

 

 ピナの上空からの捜索にもターゲットは引っ掛からず、嘆息するシリカを隣に、『名無し』は<黄瞳のペイラーの記憶>を歩く。

 このステージはその特殊性から探索が滞っており、フロンティア・フィールドへの注力によって大ギルドの手からも半ば離れていたステージだ。目ぼしい資源もなければ、ダンジョンのリソースも美味しくないお陰か、3大ギルドのいずれも所有権を表明していない。ボスを倒したのは聖剣騎士団であるが、そこに至るまでは3大ギルドによる共同作業もあったが故に、強く表明していない。

 いずれの大ギルドも占有していないならば、中小ギルドにとって稼ぎ場になるかといえば、都市のルールで雁字搦めにされている関係でそうもいかない。プレイヤーは物件を所有することもできない為に拠点も持てないことも加わり、わざわざ中小ギルドもリスクを冒してまで探索をして大ギルドの目から逃れたお零れを探そうともしていないのが実状だった。

 だが、『名無し』個人としては強い興味を持っていたステージでもある。攻略にこそ参加しなかったが、その特殊性から何らかのギミック……茅場の後継者の悪意が詰め込まれた、シャルルの森やアルヴヘイムとの類似性を感じていたのだ。

 

「それにしても、ステージ1つ丸ごと都市なのも趣があるよなぁ」

 

 だが、この都市をじっくりと探索するともなれば聖剣騎士団の協力が不可欠だ。あくまでラストサンクチュアリの専属である『名無し』としては、今後の事も考えれば、聖剣騎士団からの支援を控えめにせねばならず、故に言い出しきれない部分もあった。

 

「私は嫌いです。このステージは陰気臭くて……」

 

「まぁ、気持ちの良いステージではないよな」

 

「そもそもDBOでまともなステージを探す方が大変ですけどね」

 

「そりゃDBOだからな」

 

「……ハァ。その一言で済んでしまうのも考え物ですね。茅場の後継者も、もう少しオシャレなステージとかダンジョンを準備してくれたらいいのに」

 

「それはそれで気持ち悪いな。だってDBOだし」

 

 むしろ、DBOでまとも過ぎるダンジョンなど見かけた日には、『名無し』は10割で壮大かつ悪辣なトラップが仕掛けられているに違いないと確信する。茅場の後継者はプレイヤーを懇切丁寧に絶望させて殺すことに関しては妥協しない。それは茅場の後継者の悪意を詰め込まれたネームド戦などを経験したことがある『DBOに訓練された』プレイヤーならば、誰もが直感することだ。

 故に『名無し』は警戒している。ペイラーの記憶は特殊性こそ目立っているが、それを除けば『平穏』な部類だからだ。巨大なステージに反してダンジョンは1つだけであり、ルールさえ守れば都市内でプレイヤーは害されることがないからだ。

 まるで巨大な怪物の腹に閉じ込められている気分だ。『名無し』は早急にターゲット……現在はエイジと名乗っている『元』ランク無しの傭兵の捜索を進める。

 クラウドアースからの圧力があったのか、既にエイジはサインズ傭兵登録が抹消されている。指名手配されていないのは、賞金首として狩られてしまえば、機密漏洩に繋がりかねないからだろう。犯罪プレイヤーには自由に賞金をかけることが可能だ。他の大ギルドも大手を振ってエイジを仕留めにいくことができる。

 

「今のところ、他に来ているのはアラクネ傭兵団とユージーンさん、エイリークさんですね」

 

「エイリークが?」

 

 独立傭兵でもムラがあり、あらゆる難関ミッションで戦果はともかく何故か生還してしまうことで有名なエイリークは、今回のターゲットの捕縛のような細かい融通は利かないタイプである。良くも悪くも裏を読もうとしない真っ向勝負型なのだ。

 そんなエイリークをいずれかの勢力が雇って派遣したとするならば、わざと彼を目立たせ、暴れさせて他の勢力を牽制し、本命がエイジを捕らえるつもりだろう。

 事を荒立てたくないクラウドアースが、向いていないエイリークを雇うとは考え難い。そうなると、エイリークを雇ったのは太陽の狩猟団だろうと見当をつけた『名無し』は嫌な予感を募らせる。

 

「狙撃ポイントに注意を払おう。シノンと組んでいるなら、ピナでは見つけられない」

 

「そうですね。ピナの索敵にシノンさんが引っ掛かるとは思えませんし」

 

 今回の機密争奪戦は、何も全員が仲良しこよしでターゲットを追い詰めるわけではない。クラウドアースとしては他勢力と組むなど以ての外である。太陽の狩猟団もわざわざ協働しようなどという腹はないはずだ。

 故に『名無し』はエイジではなく、各大ギルドが派遣した追手……ライバルたちの方が危険だと判断した。

 

「でも、どうしてターゲットはペイラーの記憶に逃げ込んだんでしょうね。他にも逃亡先で有利な場所は幾らでもあるのに」

 

「何か理由があったのかもな。たとえば、このペイラーの記憶で取引をする予定とか。あるいは、追い込まれてもやらないといけない事が出来たか」

 

「大ギルドの追手に囲われてまでやらないといけない事って何なんですか?」

 

「俺にも見当つかないよ。でも、命懸けでもやらないといけない事があるなら、死の物狂いで抵抗するだろうな」

 

 1度でもターゲットに接触すれば、『名無し』・シリカ・ピナの≪追跡≫で追い回し続けることができる。特に……非常に不本意であるが、シリカの≪追跡≫熟練度は『名無し』を『諸事情』によって大きく上回る。ピナと連携すれば、捕まえるのは時間の問題だ。

 

(だけど、アラクネ傭兵団は厄介だな。リーダーのアラクネも傭兵としてやっていける実力者の上に、構成員も全員が実力者で連携も取れている。捕り物にも慣れているし、彼らに見つかればエイジは逃げられない。どうにかして先に見つけないとな)

 

 ピナの上空からの捜索で見つかれば『名無し』の勝率は高まる。奇襲を仕掛けて足を奪い、捕縛して即急に脱出する。むしろ、脱出の方が高難度である。

 

(そうなるとエイジにも自分で歩いてもらわないと困るから足よりも腕を狙った方が良さそうだな。上手く説得して身柄の安全だけは保障して……それで乗ってくれる相手ならいいんだけどな)

 

 こういう時にクーならば、問答無用で両手両足を斬り飛ばして達磨にした挙句、袋詰めにして引き摺りながら立ち去るのだろう。事実として、SAOどころか、DBOでもそのような光景が幾度か目撃されている。

 本人は素でやっているが、少しは衆目を考える癖をつけないと悪名は高まるばかりだ。『名無し』が嘆息すれば、シリカの睨みが飛んでくる。

 

「クゥリさんのこと考えてましたね?」

 

「もしかして≪読心≫スキルとかってあるのか?」

 

「……長い付き合いですから分かりますよ。そんなに気になるなら、仮面を外して会いに行けばいいじゃないですか。もう正体なんてDBO中にバレていますし」

 

「こ、これは男の約束なんだ! バレているとかいないとかの問題じゃない! 意地だ!」

 

「男って面倒臭い生き物ですね」

 

 男も女も面倒臭い。総じて人間は面倒臭い。それが真理というものだ。『名無し』は短い人生ながらもよくぞ我ながら学んだものだ、と余りにも濃すぎた青春時代を振り返る。

 そうして、『名無し』はこの先……『永住』と『帰還』を両立させたとして、自分の未来には何があるのだろうかと考える。

 だが、今のミッションには不要だ。『名無し』はまずターゲットの捕縛、そして次に待つ脱出、最後にラストサンクチュアリ壊滅作戦を想像する。

 今回のミッションの成否次第でラストサンクチュアリ壊滅後に大きな変化が生じる。クラウドアースの譲歩を引き出しさえすれば、1000人以上の貧民プレイヤーに細やかでも温情を与えることができるのだ。

 と、思考を巡らしていた『名無し』達をけたたましいサイレンが包み込む。途端に周囲を死人のような感情が無い顔をしていた無数のNPC達が騒ぎ始める。

 

『緊急事態。緊急事態。緊急事態。コード:ブラックを発令。全敵性対象の強制排除を開始します』

 

 明らかに変わった街の雰囲気。悲鳴が重なり合う中でNPC達は屋内へと避難し、取り残された『名無し』とシリカの正面で空間が歪み、虹色の球体が出現する。

 

「シリカ! 武装を!」

 

「はい!」

 

 本来ならばルール違反であるが、都市の敵意が自分たちに向かったことを敏感に察知した『名無し』は警告と共に武装する。

 右手に持つのは月蝕の聖剣、左手に持つのは先日の聖剣騎士団の親衛隊とのデュエルでも使用したブレイクダウンである。

 虹色の球体より放出された砂状の物質は、球体を核にして形作っていき、重量ある轟音と共に着地する。

 それは下半身が身体を煌々と赤く光らせた禍々しい大蜘蛛でありながら、上半身は黒髪の美女という異色の組み合わせを持った怪物だ。『名無し』も資料でしか知らないが、病み村で太陽の狩猟団に討伐された混沌の魔女クラーグに似ていた。

 いや、似ているのではない。HPバーを1本持った怪物は<写し身・混沌の魔女クラーグ>と名を冠している。だが、美女の双眸には『名無し』がこれまで幾度となく対峙した自我を持った輝きはなく、NPCとしての感情の無い空白の眼だけがある。

 それを証明するように、前口上もなく、クラーグは右手に持つ蜘蛛の前肢から形作ったような剣に赤い炎を滾らせる。

 

「えっちぃ姿ですね。目の毒です」

 

「じゃあ、さっさと退治するとしようか」

 

「ネームド相手に余裕ですね」

 

「1本しかないし、たぶんコピーだろうからな。本物に比べれば弱いだろうさ。それに……」

 

「それに?」

 

「シリカが援護してくれるなら、俺は負けないさ」

 

「……そういうの、すごくズルいと思います」

 

 ピナを宙に舞わせ、自身は短剣を抜いたシリカを後ろに、『名無し』は月明かりを隠した聖剣を手に、混沌の魔女クラーグの贋物と対峙する。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 緊急事態。緊急事態。緊急事態。

 ペイラーの悪足掻き……いいや、作戦だったのだろう。監獄の楽譜が回収されようとしている。

 もはや悠長に手をこまねいている暇はない。あらゆる手段を尽くして、敵性となり得る全てを排除しなければならない。

 この防衛機構が破られることはない。強者の記録を呼び寄せて防衛させる。贋物であろうとも、本物の実力が高ければ高い程に、強大な守護者として楽譜を守り抜き、最高のハンターとして敵性対象とソウルの憑代を仕留めてくれるだろう。

 手抜きはしない。仮に守護者の目と刃を潜り抜けても、儀式は決して成功しない。なにせ『核』は自分が持っているのだから。破壊出来ないことは忌々しいが、『核』を有するのは自分であるならば、決して負けはない。

 だが、念には念を。本物にはやはり及ばないが、それでもクオリティを近づけ、また長時間維持することができる1体を作れる。

 『それ』は都市の支配者として全ての力で敵対者の排除すべく動き出した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 はたして、神は賽子を振らないのか?

 運命の女神とは存在しないのだろうか?

 それは人間が神の存在証明に答えを出す以外に明かされる術はない。

 だが、DBOには邪悪な存在がいる。

 酷く子供っぽく、だが邪悪の限りを尽くして人類に破滅をもたらし、神様の間違いを証明しようとする者がいる。

 だから、これは小さな『悪意』。特に何の考えも無く、だが『彼女』を取り返しに来るだろう哀れな負け犬候補を苦しめる為の『悪意』だ。

 イベントで登場する守護者は、開始時に倒されたネームドよりランダムでレベル90水準にステータス変更された上で出現する仕組みになっている。オリジナルではなく、あくまで再現された、通常のAIに過ぎない。DBOの自意識を有したAIは、その特異性から完全複製ができないという、AIとしての利点を失っているのが特徴だからだ。

 それでもオリジナルが強大な戦闘能力を有しているならば、コピーもまた強力なのは道理だ。これはAIのコピーテストの実験をそのままイベントとして組み込んだものであり、負け犬候補をおびき出すのもちょっとしたお遊びに過ぎない。【黒の剣士】を絶望の底に叩き落とした上で無力感に浸されながら死なすのは、他の駒の役割だ。

 だから、この小さな『悪意』は何の意味もない悪戯に過ぎない。

 他のランダムとは違い、常時出現する守護者の要……敵性対象をハンティングする最高位守護者は、『これまで倒されたネームドで最も脅威度が高いネームド』を選別するように仕組んでいたのは、セカンドマスターと呼ばれる茅場の後継者のお茶目に過ぎない。

 都市の中心部、灯台を思わす巨大な塔の屋上に、一際輝きを放つ虹色の球体が出現し、他の出現者と同様にそれを核として1つの姿を得ていく。

 

 それは黒。

 

 何処までも黒。

 

 闇濡れの黒。

 

 元の甲冑が何色だったのかも分からぬ程に、深淵の黒に染まった、闇濡れの甲冑。フルフェイスでありながら、何処か狼の意匠がある兜であり、双眸を思わす覗き穴のスリットからは眼光のようにライトエフェクトが漏れている。

 全身に密着するような、軽量性を感じさせるスタイリッシュな甲冑を鳴らしながら、同じく闇濡れの大剣を肩に担ぎ、最高位守護者は出現する。

 

 

 

 

<写し身・裏切りの騎士ランスロット>

 

 

 

 

 それは小さな『悪意』だ。

 

 本当にちょっとした悪戯だ。




立ち塞がるは過去の幻影。
戦士たちよ、心せよ。迷う事なかれ。

幼き夢が笑うのは終わらぬ夜か、それとも終わりの朝か。
知らぬ者たちよ、心せよ。迷う事なかれ。



それでは、324話でまた会いましょう!

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