SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

幼き夢はまだ続き、闇濡れの騎士は贋作となって立ち塞がる。


Episode20-12 正しき在り方

「畜生」

 

 滴る血より零れる『蟲』を踏み躙る。

 

「畜生」

 

 どろりとした熱を孕んだ死血を振り払う。

 

「畜生」

 

 恐怖を訴える悲鳴と命乞いも、絶望を湛えた表情も涙も、等しく煩わしい。男は枯れた羽根が特徴的な帽子をかぶり直す。何処となく狼を模したかのような、あるいは単純に『獣』の頭部を思わすような三角帽子である。

 屍より刃を抜く。鋸状の刃は皮を、肉を、骨を、そして何よりも血を削る。その度に盛れる吐息は首元から鼻まで覆うマスクに隠されている。盗賊マスクよりも黒く、静音性に富んでいるのは、尋常ならざる『獲物』を狩る為に吐息を隠す為か、あるいは自らの表情を隠して自己を律する為か。

 男は狩りに用いる手元の武器を気に入っていた。素早く振るえる鋸刃の曲剣として、だが振るって変形させれば槍としても機能する。鋸槍というストレートな名称も分かり易かった。

 狩りにおいて何よりも尊ばれるのは速度だ。分厚く重い太刀や携帯性に難のある槍よりも、速度に秀でた得物を是とする。太刀の一閃と同じ瞬きの間に十数と絶命に至らせる傷を与えればよい。獲物の肉も骨も臓物も血も裂き、砕き、抉り、狩人はそう考える。

 確かに分厚き太刀であるならば、獲物の頭蓋を一撃で砕き、また刃は脳髄に達して絶命に至らしめるだろう。体重と速度を上乗せした鋭き槍は鋼の如き体毛と肉を貫いて心臓を刺すのに秀でているだろう。それらもまた良いものであるが、狩りの基本は速度にあることを忘れてはならないのだ。

 だからこそ、鋸は良いものだ。速度と筋力さえあれば刃毀れなど関係なく獲物を削り殺せるのだ。なによりも『血を削る』という行為こそがある種の必要性を有することを狩人は熟知していなければならないのだ。

 

「ひっ……ひっ……ひっ!」

 

 男は笑わず、また嗤わない。

 あるのは失望と侮蔑。忌むべき『獣』に対する唾棄だけがある。

 それは怒りにも似て、悲しみにも類して、憎しみにも等しくて、だがいずれとも異なるものだ。

 

「助けてください! 約束します! これからは真っ当に生き――」

 

 左手の大口の散弾銃。銃弾が内包するのは水銀だ。水銀は古来より不老不死の霊薬として信じられ、その実は毒である。狩人達は古き時代より知っていた。水と銀は清めの力を持つ。ならば、2つの性質を持つ水銀とは過ぎた浄化であり、即ち生命を害する死の毒であることは必然である。

 己の血を混ぜた水銀はまさしく獣狩りに不可欠な猛毒であった。銃器という人類の進歩が生んだ武具に仕込み、狩人達は好んで水銀を内包した銃弾を用いたのだ。そして、自らは水銀に侵されぬように血を鍛え上げたのだ。自らの狩道具で死ぬなど愚の骨頂だからである。

 トリガーを引けば、放たれた水銀弾が畜生の後頭部を吹き飛ばす。至近で撃てば頭蓋を砕くに足る威力であるが、距離があれば牽制にしかならない。銃は良いが、やはり狩りにおいて己の手で振るう狩り武器こそが何よりも信用に足ると男は再確認する。

 

「あ、あひ……あぁああ……」

 

 今宵だけでどれだけ狩っただろうか。最後の獲物は壁際でへたり込み、涙と鼻水と涎で顔を醜く染め上げて、いかなる表情を作っているのかとも分からぬ程に顔を歪めている。

 

「……貴様は、違う?」

 

 ああ、そうだ。そうだった。男は思い出す。彼女は畜生に襲われていた側だ。

 だが、そこに『人』のニオイがするだろうか? 彼女もまた畜生なのではないだろうか? 男は悩むが、すぐに『どうでもいい』と切り捨てることにした。

 

「何処もかしこも『獣』ばかりだ」

 

 まるでカラスの黒色を溶かし込んだかのような、だが幾多の狩りを経てボロボロになったコートが月明かりを染み込ませた夜風で靡く。

 中肉中背。身長は180センチに届くかどうかだろう、外装からも筋肉質と分かる優れた体格。コートと同じ、だが濁り腐ったような黒髪を靡かせ、月も星も無い暗雲の夜空を浸したような黒の瞳。マスクと帽子で隠れていながらも明らかな、日本刀の如き冷たき鋭利な男性美の顔立ち。真冬の凍てついた湧き水のように透き通るテノールボイス。そのいずれもが男の纏うむせ返るような血臭と混じり合い、言い表せぬ色気を生む。

 

「貴様も、どうせそうなるのだろう?」

 

 だが、それでもまだ『人』を捨てぬならば……と、涙と嗚咽に塗れた女を前にして男は目を伏せ、踵を返す。

 

「女が夜道に1人で出歩くな。世に満ちる畜生共の慰めものになる」

 

 体が上手く動かない。

 異様なまでに眠気が眼を霞ませる。

 消えぬ喉の渇きと空腹感が意識を支配しようとする。気を許せば、割れたガラス窓に映る瞳は蕩けて崩れそうになる。

 だが、男は言い表せぬ感情と共に空に浮かぶ月を見上げて睨む。

 

「まだだ。まだオレは……止まれない」

 

 狩れ。

 

 狩れ。

 

 狩れ。

 

 狩って、狩って、狩り尽くせ。世に蔓延る汚物……畜生共を狩り尽くすのだ。

 

 わらわらと新たに畜生が集まって来た。先に狩った輩の同胞か。何やら息荒く喚いていることに、男は煩わしさを覚える。

 仇討ちか? いや、そんな『強さ』は感じない。いずれも『人』は宿っていない畜生……『獣』共であることは嫌でもケダモノ特有の悪臭で分かるが故に、男は眉間に皺を寄せる。

 どうして、そんなにも簡単に『捨てる』ことができるのだ? その失望こそが男に渦巻く混沌たる感情の『1部』だった。だが、あくまで欠片に過ぎず、混沌の感情の正体を男は解き明かさせず、またそれを望むことはない。

 

「やはり畜生ばかりだ」

 

 虚ろに呟く男は鋸槍を構える。

 畜生共が放つ矢と銃弾は1歩のステップと共に躱し、逆に間合いを詰めて鋸槍を振るう。

 悲鳴と血飛沫。絶叫と屍。命乞いと殺戮。瞬く間に解体された畜生の死肉ばかりが血の海に沈む。

 

「ゴホ……ゲホガホ……ぐっ……もう時間が……無い……!」

 

 同時に男は片膝をつき、マスクを濡らして滴る、どす黒い闇に浸された血を吐く。

 そして、振り返る。そこには助けたはずの女が、放たれた矢と銃弾を浴びて絶命している姿があった。

 自分が躱しさえしなければ死ぬことはなかったはずだ。男は女に歩み寄ると、もはや光を映さぬ眼をそっと閉じさせる。

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 それは女だけではなく、血の海に沈んだ畜生たちも含めた、葬送を為す弔いの言葉だった。

 喰らえ。狩人として彼らを糧として前に進め。男は鋸槍にこびり付いた血と肉片を振り払う。

 

「貴様らの『命』は無駄にはしない。オレは必ず狩りを全うする」

 

 そして、男は頭痛を覚える。

 そうだ。狩りを全うせねばならない。『何故』なのだ? 何の為に狩りを全うしなければならないのだ?

 

 

 

 

「オレは狩りを全うせねばならない。だが、『何の為』なのだ? 思い出せない」

 

「その問いに答えることはできない。そう言っているだろう?」

 

 

 

 

 血溜まりを踏みつけて現れたのは、目元を包帯で覆った若い女だった。名を示すような真っ白な髪を揺らす。雪の結晶の紋様が描かれた和服姿であり、だが肩が露出する程に着崩した姿は妖艶だった。同じく崩れた裾から白肌の足を延ばし、血で染まる下駄を鳴らして男の胸元に跳び込む。

 月明かりで伸びる女の影は人であらず。それは人外たる猫である。女は男を慰めるように、鋭き爪が伸びた細指で彼の頬を撫でる。

 

「キミは受け継がれた狩人の遺志にして、血を縛る『鬼』の意思にして、血の悦びを求めて夜を彷徨う妄執だ。幼き夢と神子の夢は巡り続け、そのどちらもキミが為すべきことを為す『理由』を有している。だが、そこには確かな差異がある。いつかキミは夢に帰り、そして夜に醒めるんだ」

 

「分からない。オレには分からない。だが、狩り尽くせばいいのだろう? いかなる『理由』であろうともやることは変わらない」

 

「迷わない。それはキミの美徳であり、酷い欠点だ。狩りにおいてキミは迷わない。だが、『理由』に根差しているのは狩りではない。幾重の祈りと呪いが重なり合った誓いにして契約だ。だからこそ、その手に贄姫は無いんだ」

 

 まるで甘えるように……いいや、『かつてそうであったように』、女は自分の首元に男の手を這わせる。

 

「同じようで違う。その差異こそがキミにとって何よりも大切な道標となるかもしれない。キミの『答え』に至る鍵となるかもしれない」

 

「……『答え』」

 

「そうだよ。私もいつまでもキミを見守っていたい。だけど、キミと同じように、私にも時間が無い。キミに狩られてから随分と経った。キミはずっと私を『食べなかった』。私の『力』を喰らっても……『命』を完全に糧には出来ていない。でも、それは間違いなんだよ」

 

 まるで接吻でもねだるように、抱擁を欲するように、血の交わりを渇望するように、女は男の首に抱きつき、耳元で囁く。

 

「どうか私の『命』を喰らい尽くしてくれ。キミの糧となるならば本望だ」

 

 そっと男の胸を押して、愛おしさと切なさの名残の香りを纏わせるように笑みながら、女は離れる。

 

「幼き夢、神子の夢、夢の狭間を迷う受け継がれた遺志、そして……。そのいずれにも私は味方だよ。必ず守ろう」

 

「オレは狩りを全うするだけだ。それ以外はどうでもいい」

 

「すぐに『どうでもいい』と狩りに純化させるのもまたキミらしい。それでいいさ。キミは為すべき事を為さんとする。狩りを全うしようとする、獣血に呑まれんとした受け継がれた狩人の遺志とキミ自身が己に打ち込んだ楔、それこそが『鬼の意思』なのだから。『契約と使命』はちゃんと神子の夢が抱き続けている。幼き夢が持つのは……」

 

 少しだけ寂しそうに言葉を切った女は、それでも愛する友へと捧げるように牙を煌かして笑う。

 

「私は灼けても構わない。私はキミを苦しめ続ける思い出……『痛み』が受肉した幻に過ぎない。恐いものは食べてしまえばいい。キミに『痛み』を与え続ける私は食べられるべきなんだ。そうだろう?」

 

 血に波紋を作り、女は月明かりと戯れるように踊る。その度に振袖が舞い、白雪が散り、彼女を冷たく覆っていく。

 

「キミの『力』を少しだけ借りていく。繰り返そう。私は必ず守る。幼き夢も、悪夢も、夢を見続けるキミも、等しく『キミ』なんだ。だから、『キミ』を守るよ。キミが目覚めるその時まで……必ず守る。キミの目覚めの旅路を邪魔するならば、たとえこの世界の全てが敵に回ったとしても殺し尽くそう」

 

「守られる必要はない」

 

「そう言わないでくれよ。こんな時くらい甘えてくれ、我が最初で最後にして最愛の友よ」

 

 女は闇雪と共に姿を隠す。残された男は、ひたすらに狩りの全うだけを求めて彷徨う。

 

「畜生。畜生。畜生。浮世を満たす畜生共が」

 

 狩れ。狩れ。狩り尽くせ。全ての『獣』を狩るのだ。

 

「狩りを全うする。獣も、鬼も、神も……邪魔するならば人も狩る」

 

 どうせ、今は『人』であろうとも、すぐに『獣』に堕ちるのだろう?

 それが貴様らなのだろう?

 

 それでも。

 

 それでも。

 

 それでも。

 

「それでも……オレは、信じている、のか?」

 

 尊き『人の意思』こそが鋭き爪牙しか持たない『バケモノ』では手に取ることが出来ない、夜明けの光に相応しい結末を引き寄せられるはずだ。そんな幸福の英雄譚を信じているのか? 男は心底くだらないと嘲おうとして、だが口元はどうしようもなく真一文字を崩さず、不機嫌に闇へと消えた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 クゥリが行方不明になることは珍しいことではない。

 だが、今回は何かが違う。いつもとは違う。そんな予感がユウキにはあった。

 

「あのお馬鹿は何処にいるの!? フロンティア・フィールド探索依頼がもうすぐ始まるのに!」

 

 グリセルダは叫びながら、クゥリの居場所を知ってそうな面々にメールを飛ばしているが、芳しい返事は得られていない。

 

「グリムロックさんの所じゃない? 確か、今は南方の海で『仕事』中なんでしょ? 暇で遊びに行ってるんじゃない?」

 

「もう確認済みよ。さすがのグリムロックも、この状況でクゥリ君の所在を隠蔽するはずがないわ。本当にどうしてこうもフラフラと……!」

 

「予期しないことがあったんだよ。『また』何かに巻き込まれたんだ。クーが1度引き受けた依頼を軽視するはずがないもん」

 

 クゥリの現住居でもある傭兵待機部屋にて、いつも通りにビールを片手にヨルコは呑気に、グリセルダは鬼気迫る表情で、ユウキはまた熱で火照った体を揺らして、白き傭兵についてそれぞれの見解を述べる。

 

「今回の仕事は絶対に失敗できないわ! フロンティア・フィールドの探索における彼の有用性を大ギルドにも証明する絶好のチャンスなんだから! 私はサインズ本部で情報収集してくるわ! 私がいない間に帰ってきたら必ず捕まえておきなさい!」

 

「私達に? ユウキちゃんはともかく、私に【渡り鳥】の足止めとか無理ゲーじゃない?」

 

「話術で何とでもなるでしょう!?」

 

「そりゃそうだけど、【渡り鳥】って面倒臭くなったら実力行使だから意味ないじゃん」

 

「大丈夫。あの子もさすがにヨルコ相手ならば四肢を折るくらいで済ますはずよ!」

 

 顔を青くするヨルコを置いて去るグリセルダを見送るユウキは何とも言えない顔をした。黄金林檎の面々はクゥリを支援する……もとい、それぞれの思惑はあるとしても、彼に協力的な奇特な面子ばかりだ。だが、同時にクゥリの危険性に対しては決して揺るがない評価もまた下している。

 たとえ、親しみがある黄金林檎であろうとも、クゥリが目的達成の為に『邪魔』と感じたならば、口で除けさせることができないならば、あれこれ手段を講じて説得することを『面倒臭い』と判断したならば、余程のことがない限り殺されないにしても、およそ好感度がマイナスに達しかねない程に『力』で潰しにかかるということだ。

 

「私、逃げる。グリセルダさんには断酒会に参加したとでも言っておいて!」

 

「りょーかい」

 

 しばらくは何処かの酒場に隠れるつもりなのだろうヨルコに敬礼したユウキは、1人残されたクゥリの傭兵待機室にて、ソファで膝を抱える。

 クゥリは酷く面倒臭がりで、だがその実は世話焼きで、また目的を得たならば何があろうとも達成しようと手を尽くす。

 矛盾しているようで、だが不思議と整合性があり、そして非合理的である。傍から見た場合、本人の秘密主義も合わさって、何を考えて動いているのか分からない人物である。

 ユウキも最近は幾らか分かったつもりではあるが、それでも過半は謎に包まれている。今の彼女に分かるのは、今回のクーの行方不明は、彼にとって予期しないトラブルであるということくらいだ。

 グリセルダ曰く『グリムロックの馬鹿が作った最凶兵器まで持ち出している以上はとんでもないことが起こるはず』ということであり、その危惧はあながち間違いではないとユウキも同意する。だが、クゥリがやること成すこと全てが成層圏突破のぶっとんだ事ばかりであることを考慮すれば、自分の想像を上回ることが起こっているのだろうともユウキは考える。

 

「……お祭りかぁ」

 

 クラウドアースが催したエンターテイメント展示会のせいか、終わりつつある街は普段以上の活気を見せている。ある者は仲間たちと息抜きに、ある者は恋人を連れて、ある者は1人で存分と、クラウドアースが提供する様々な娯楽に興じているはずである。

 望めるならば、ユウキもクゥリと巡りたかった。だが、体調もあるが、いよいよ明日に迫ったフロンティア・フィールド探索ともなれば、彼に疲労を蓄積させることもできないと諦めていた。

 だが、まさか諦める以前に行方不明になるとは思いもよらなかった。ユウキはこれで何通目になるかも分からないメールを送り、来ない返事を待ち続ける。

 と、そんな彼女の耳を擽ったのは玄関ドアのノック音だった。それはクゥリの帰還ではなく、彼への訪問者を示す。故にユウキは居留守を決め込むが、ノック音が連続で響き、仕方なく誰が来たのか確認し、そして唇を噛む。

 ああ、予感通りだ。クゥリに予期しない、それも最悪過ぎる『何か』が起きたのだ。ユウキはクゥリに代わって……否、他でもない自分を訪ねてきただろう人物を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

「よう、地獄から帰って来たぜ」

 

「やぁ、地獄に帰りなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや互いは宿敵でも怨敵でもあらず。それでも埋めがたい溝があることには変わらない。

 普段は顔を隠すポンチョもなく、まるでクラウドアースのメンバーを思わすように、むしろ容姿の野性味のお陰でやり手のビジネスマンといった風貌にすら思えるPoHに、ユウキは腕を組みながら睨む。

 出会い頭に≪絶影剣≫でもぶち込んでやろうか、という思考が無かったわけではない。PoHも同様らしく両手は≪死霊術≫の発動の予備動作があった。

 だが、遺恨は積み重なっていても、2人の意思のぶつかり合いはアルヴヘイム……崩落のヨツンヘイムの底でひとまずの終わりを迎えている。ならばこそ、ユウキは殺意を向けず、PoHも闘志を見せない。

 

「まさか生きてたなんてね」

 

「俺も死んだと思ったさ。だが、意外と有能だった同僚に助けられてな。持つべきは仲間だと再認識させられたぜ」

 

「うわぁ、何それ。似合わない」

 

「俺もゲロ吐きそうだ。だが、真実を歪めるつもりはない」

 

 主無き部屋にて、PoHとユウキは互いにいつでも殺し合いを開始できる間合いを保ちながらも、あくまで冷静に舌戦を挨拶のように交わす。普段の彼女を知る者がいれば口の悪さに驚き、またPoHの正体を知る者が同席していれば彼の雰囲気の変化に心身共に震えるだろう。

 爽やかな風が吹いている。ユウキがそう思うほどに、PoHからはヨツンヘイムの頃にはなかった、まるで青空のような晴れ晴れとした確固たる覚悟のオーラがあった。

 

「何があったの? 正直言って、凄い気持ち悪いんだけど?」

 

「お互い様だ。ストーカーのくせによ。あのドロドロは何処にいった?」

 

「ボクはクー公認ストーカーだから。そっちこそ、クー非公認ファンクラブのくせに」

 

「ファンクラブねぇ。確かに、以前の俺はそうだったかもしれないな。『天敵』という理想像に振り回されて、アイツの在り方から目を背けていた。まさにアイドルに浮かれたファンと同じだ。おぞましいが、気づかせてくれたのはお前だ」

 

「……ボクもクーの本質を理解しきれていなかった。本質もクーの1部なのに。それを教えてくれたのはお前だよ」

 

「気持ち悪い」

 

「それもお互い様」

 

 家主はいないが、茶くらいは出さねばならない。ユウキがお茶を持って来れば、ありがたく飲む……ということはない。ユウキは内心で舌打ちをする。お茶にはたっぷりとレベル3の麻痺薬が混入させてあったからだ。

 

「『天敵』こそが【渡り鳥】の本質だ」

 

「『天敵』なんてクーの本質に過ぎない」

 

 似ているようで決定的に異なる、決して交わらない平行線。互いに一言でスタンス自体は決して変わっていないことを作業的に確認した上で、ユウキは今度こそ混入物無しのお茶を差し出す。

 

「【渡り鳥】が厄介な状況にある。手伝え。レギオンの助力があっても事態を把握するのに時間がかかり過ぎた。このままだと早ければ今晩にも終わりつつある街のプレイヤーは丸ごとアイツに喰らい尽くされる」

 

「どういう風の吹き回し? それこそお前の望む『天敵』の顕現なんじゃないの?」

 

「アイツはこんな形で『天敵』になることを望むはずがない。俺が望むのは、今の【渡り鳥】の在り方の先で世界を焼き尽くす『天敵』として羽ばたくことだ。アイツの今の在り方もまた『天敵』の姿であると今は理解しているからな」

 

「まるで理解していないね。『天敵』はクーの在り方の1つに過ぎないんだよ」

 

「相変わらずの愚かしい盲目的純愛だな。さっさと死に腐りやがれ」

 

「そっちこそ、いい加減に棺桶に戻ったら? 献花くらいしてあげないこともないよ」

 

「花を添えてくれるとはお優しいじゃないか、俎板ボディ」

 

「胸は関係ないでしょ!? あと、板じゃないから! 少しくらいの膨らみはあるもん!」

 

 顔を赤くして机を叩いたユウキに、自分の1ポイント先制だとPoHは右手の親指を立て、それを引っ繰り返す。美しい地獄に堕ちろポーズに、我に返ったユウキは歯を食いしばって顔を背ける。

 

「……もちろん手伝うよ。だって、そんな事態は『クー』は……絶対に我慢して耐え抜こうとするはずだもん」

 

 とても残酷な話であるとユウキは思う。彼女が知る『優しくあろうとする』クーは、いつだって『自分には優しくない』ことばかりを選ぶのだから。

 

「助かる。だが、随分とグロッキーみたいだな。アルヴヘイムでの後遺症は治っているとばかり思っていたんだがな」

 

「ちょっと体調が悪いだけ。今はほとんど調子も戻ってるよ」

 

 嘘ではない。体は熱っぽく、思考にも霞がかかっていないと言えば嘘になるが、これくらいの状態は現実世界で幾らでも堪えてきたことだ。

 帰って来たら無人というグリセルダが発狂するだろうことは想定済みとして、ユウキは一切の躊躇いもなくPoHと一緒に出発する。もちろん、敢えてグリセルダにメールで通達はしない。いつかの意趣返しであるなどという彼女らしくないダーク思考であるはずがない。

 

「知っての通り、俺はレギオンと組んでる。レギオンが収集した情報にも幾らかアクセス可能だ。この終わりつつある街にも多くのレギオンが情報収集で潜んでいるが、とんでもない速度で『狩られた』」

 

「クーに?」

 

「……情報の限りだと【渡り鳥】ではない。白猫だ。白猫の……ぬいぐるみ、のはずだ」

 

 白猫のぬいぐるみ? 歯切れの悪いPoHに、傭兵寮から出たユウキはPoHと並んで歩いて早々に人通りの少ない裏路地に入ると眉を顰める。

 

「マザーには見当がついているようだが、何も言う気はないようだった。他の上位レギオンも口を閉ざしている。だが、連中が動かないとなると、白猫のぬいぐるみはかなり厄介な存在であることは間違いない。それこそ、終わりつつある街にじっくりと張り巡らしていたレギオン監視網が破壊されることを見過ごすくらいにはな。そして、同時に俺を派遣したのは、今回の騒動の核……白猫のぬいぐるみは『レギオンにとって致命的に相性が悪い』からだ」

 

「あのレギオンが相性を気にするなんて……」

 

「同意だ。だが、マザー直々に今回の事態の解決を命じられた。レギオンにとっても、このタイミングで『天敵』が顕現するのは困るのさ。ククク、アイツの計画クラッシャー性質には、さすがのマザーも悲鳴を上げるってところだな。だからこそ、俺の進言もあったが、お前と組んで事態解決する方針を決定した」

 

「……具体的に知ってる? その相性の悪さについて」

 

「レギオンの最大の強みである、模され劣化した殺戮本能。それがもたらす先読みを『先読み』されちまうのさ。レギオンである限り、絶対に先手を取れず、後手どころかワンサイドゲームと化すんだとよ。レギオンであること自体が弱みになる」

 

 最大の武器が弱点となる。だからこそ、レギオンの『力』を借りることはあっても、レギオンそのものではないPoHの出番ということなのだろう。そして、マザーがユウキを指名したのは、ユグドラシル城で嫌い合ったこともまた要因として機能していることも違いなかった。

 少なからずマザーレギオンにも認められた。だからこそ、あれ程までに清々しい嫌悪感を向けられた。そのことを喜ばしく思うユウキに、PoHは苛立ちを目元に滲ませた。

 

「何か手掛かりはないの?」

 

「多数の殺人事件が確認されている。遺体はいずれも心臓を抉りだされた女性プレイヤーで、犯人は『ごく普通のプレイヤー』ばかりだ。大ギルドはまだ事態を把握しきれていない。だが、早々に犯人グループの捕縛部隊を合同で派遣する方針で合致している……が、クラウドアース絡みで厄介な事態になっているようでな。足並みを揃えるには程遠く、各々が情報収集に動いて被害者を増やしている状態だ。傭兵に依頼が回るのも時間の問題だが、それよりも先にタイムリミットだろうな」

 

 既に大ギルドが解決に向けて動いている。それは最悪の事態だ。プレイヤーの大量死に何らかの形でクゥリが関与していると知られたならば、傭兵としての利用価値と有用性で辛うじて保たれているクゥリという存在の認可は、瞬く間に『処分』へと切り替わることになる。

 ただでさえ、死天使信仰などという、まだマイナーではあるが、クゥリを信仰対象として密やかに祀る輩もいるのだ。彼らの危険性に比べれば、別の意味で危険度大ではあるが、YARCAなど実に穏健に『【渡り鳥】ちゃんを愛でる会』として微笑ましい。

 

「連中の犯行現場と行動ルートを分析して拠点となるポイントを割り出したが、絞り切れていない。とにかく白猫のぬいぐるみに妨害されまくっているからな。レギオンを送り込んでも片っ端から狩られる」

 

 PoHから渡された資料によれば、事件は主に『裏』関係で起きている。ならば解決に向けてチェーングレイヴが既に動いていてもおかしくない。だが、クゥリ絡みで、またチェーングレイヴの大義にも反した身として、彼らの力を借りるわけにもいかず、ユウキは頭を抱える。

 既に何人も加害者は捕縛されているとのことであるが、いずれも意味不明な発言を繰り返しているとのことだ。頻繁に登場するワードは『黄金の稲穂』であり、それが何を意味するのかは特定できていない。

 あるいは、レギオンやPoHは知っているのかもしれない。だからこそ、この大量殺人事件を手掛かりとして提示したのだ。ユウキはひとまずこの事件を追えばクゥリの居場所にたどり着けるはずだと睨む。

 

「ところで、素顔を晒して大丈夫なの?」

 

「SAOも含めて、俺の素顔をまともに知っている連中はほとんどいない。この顔自体が俺を隠すカモフラージュになるってわけさ」

 

 言われてみれば確かに、PoHと言えばトレードマークたるポンチョであり、それもまた彼が計画的に印象付けたものなのだろうともユウキには思えた。

 そういう意味では、クゥリは良くも悪くも目立ち過ぎる容姿だ。美貌もそうであるが、雪のような白髪と独特の赤みがかかった黒の瞳は、アサシンかリアルゲリラのような暗殺を得意とするスタイルに反して、見る者の意識に焼き付く。あるいは、だからこそ恐怖の代名詞ともなるのだろう。

 

「クーも知ってたの?」

 

「……ノーコメントだ」

 

 一瞬だけ、この男らしからぬ寂しさが瞳に映り込み、ユウキは思わず口を閉ざす。

 もはや宿敵と怨敵という関係は終わった。互いに感謝を、そして同時に絶対的否定を変わらず持ち続ける奇妙な関係となった。

 敵でも味方でも中立でもない。クゥリという存在によって変動するのが今の2人なのだ。

 

「相談には乗らないけど、愚痴くらいなら聞くよ」

 

「そうかい。ありがたく言わせてもらう。さっさとくたばりやがれ」

 

「ちょっと心配したボクが馬鹿だったよ」

 

「お前に心配されても死にたくなるだけだ」

 

「だったら、もっともっとたくさん心配して自殺に追い込まないとね! やる気出てきたよ!」

 

「その性格の悪さを【渡り鳥】にも見せたらどうだ?」

 

「HAHAHA! ナイスジョーク! いやぁ、吃驚したぁ。コメディアンの才能があるよ。転職すれば?」

 

 クゥリの真似をしたアメリカンドラマ風笑いに苛立ったのか、PoHが無造作に壁を裏拳で殴りつけて瓦礫が飛び散る。その様を見て、ユウキは可愛らしく舌を出しながら左手の中指を立てる。1ポイントゲット。これで同点である。PoHは歯ぎしりをして額を数度叩き、自らに冷静さを訴えているようだった。

 

「機会があったら、今度こそ殺してやる」

 

「ボクを殺していいのはクーだけ。だから他の誰にも、お前にだってボクは殺せないけどね」

 

「イカれた純愛め」

 

「褒め言葉ありがとう」

 

 

 この奇妙な共同戦線に慣れたくない。ユウキはきっとPoHも同意見だろうと確信しながら、事件の真相を探るべく、そしてクゥリの居場所を求めて先を急いだ。 

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 直方体の深緑のコンテナやドラム缶の残骸が詰め込まれた倉庫は、教育施設から離れた空港の傍らにあった。

 巨大な滑走路から飛び立つ鋼の鳥はなく、今は閑散としており、警備ロボットの厳しい巡回が敷かれている。

 ユナたちが潜む倉庫はリサイクル施設に持ち込まれる予定の廃棄物の保管倉庫でもあり、錆びた鉄と煤のニオイで満ちている。だが、警備の目は薄く、状態が芳しくないエイジを匿うには適していると言えた。

 この場所に案内したのは騎士ではなく、途中で合流したチェスターコートの男だった。顔には不気味な笑みを刻んだ仮面を被っており、胸元には1輪の赤薔薇を飾っていた。その手に持つのは長大なクロスボウである。

 

「フフフ、貸しだからな」

 

「チッ! 分かってるさ」

 

 騎士とチェスターの関係はユナの目から見ても良好とは呼べなかった。騎士は一方的にチェスターを嫌い、チェスターもまた騎士を小馬鹿にした態度を取る。友好性は皆無ではあり、互いに利用し合っている利害関係が如実に露になっていた。

 破壊力こそ凄まじいが、それ故に目立つ騎士ではエイジを静かな場所に隠すことは出来ない。だが、彼の暴れっぷりを見ていられなかったのか、チェスターが登場して騎士に取引を持ち掛け、こうして場所を移動することができた。

 

「だが、貴様も奇特な奴だ。『アレ』はもう駄目さ。すぐにでも腐る生ゴミ。助けたところで何になるのやら。まぁ、こっちとしては恩を売れて儲けだがね。フフフ!」

 

「あの女と同じくらいに性根が腐った野郎だ。だが、取引は取引だ。望みを言いやがれ」

 

「では、情報を1つ。騎士アルトリウスの伝説について教えろ。いやね、今となっては随分と昔に感じるが、俺も崩壊直前のウーラシールにいたのさ。あの不死め、よくも……よくも! この俺をフォースで谷底なんぞに……!」

 

「なんだぁ? フォースで吹き飛ばされたのか? 随分と間抜けだな。それで、始祖アルトリウスの何が知りたい?」

 

「俺は深淵狩りの伝説についてもちょっとばかり齧っていてね。アンタのお仲間の何人かが探しに行ったんだろう? そう、聖杯さ。そこら辺にある紛い物じゃない、本物の……最初の聖杯だ」

 

「……くだらねぇ。あるか無いかと問われれば、『ある』と答えるが、俺は興味なんてねぇさ。探しているなら、あの女に聞いた方が早いぜ」

 

「彼女が知らないから貴様に訊いているのさ。俺はね、どんな願いでも叶えるとか、永遠の命をもたらすとか、そんな迷信に踊らされて聖杯を探したいわけじゃない。貴様ら深淵狩りが『探した』という事実! つまり、聖杯もまた聖剣に関連した『何か』だ。そうだろう?」

 

「さぁな。俺は始祖アルトリウスの後継ではあり、聖剣にはちょいと煩いが、聖杯は専門外だ。だが、パーシヴァルはこう考えていたようだぜ。神々の被造物であり、偉大なるソウルさえも受け入れることが出来るとされる王の器。そのオリジナルこそが聖杯だとな」

 

「それさえ聞ければ満足だ」

 

「そうかい」

 

 立ち去るチェスターを見送った騎士は、エイジの額の汗を拭くユナに遅くなったと詫びるように兜を外して片膝をつく。

 脱いだ兜が明かす騎士の素顔は、ユナも驚くほどに端正な……まるで少女を思わす美貌だった。およそ荒々しいとしか言いようがない態度と言動に反した顔立ちである。

 

「あ……がぁ……」

 

「よーし、まだ意識は保ってるな」

 

「う、うん。でも、酷い汗。呼吸も粗くて、心拍も……! このままだとエイジが死んじゃうよ!」

 

「死ねた方が幸せかもな。深淵の病と同じなら、気を緩めた瞬間に怪物になる」

 

 エイジが怪物に!? 目を見開くユナは、心を痛めながらもエイジの頬をペチペチと叩いて眠らないようにエールを送る。

 

「トリスタンなら症状を緩和させる薬学も持ち合わせいてたかもしれねぇが、俺は勉強が嫌いだったもんでね。門外漢だ。だが、コイツが毒と同じならば、やるべき処置には心当たりがある。お嬢さん、コイツの体をしっかり押さえてろよ」

 

 騎士に指示されたユナはエイジの胸に体重をかける。呻いた彼の震える眼はユナを捉えたようにも思えたが、その実は何も映さぬ虚ろだったかのように宙を迷うばかりだった。

 エイジの額を右手で押さえた騎士は、左手で腰のナイフを抜く。嫌な予感がしたユナが何をするのかと問うより先に、ナイフの鋭い先端がエイジの右目に抉りこんだ。

 

「ぐぁああああああああああああああああああ!?」

 

「あ、口に布を詰めるの忘れてた。おい、舌を噛まないように何とかしろ」

 

 突如として追加指示されても、ユナは暴れるエイジの体を押さえるので精一杯であり、タオルを取ることは出来ない。

 ならばとユナは自分の左手をエイジの口に入れる。途端に指を食い千切る勢いでエイジが噛み、ユナは顔を歪めて悲鳴を堪えるように歯を食いしばる。

 

「根性のある女は好きだ」

 

 敬意を払うように騎士は笑み、エイジから溢れる血飛沫で手と頬を染めても怯むことなく、慎重に彼の右目を摘出する。

 

「トリスタンがよく言っていた。ソウルと瞳は深い関係にあると。ソウルとは観測するエネルギー……存在を確固たるものにする因子みたいなものだってな。だから強い奴程に膨大なソウルを溜め込み、特別な奴には特別なソウルが宿る」

 

「だから、瞳が崩れた目を取り除けば、エイジは助かるの?」

 

「知らねぇよ」

 

「そんな!」

 

「俺が医者や神官に見えるか? 詳しい診断は専門家にしてもらうんだな。それよりもコイツの上着を脱がせ。どうにも右手の震えが酷い。目だけじゃねぇみたいだな」

 

 言われるままに、ユナはエイジの防具を……首元のファスナーを下ろし、ホックを外して防具を脱がす。露になった黒のインナーをゆっくりと捲れば、逞しい筋肉が張り付いた男らしい肉体が目に映る。

 だが、それ以上に彼女の目を釘付けにしたのは右腕だ。まるで毒されているように、皮膚の所々が赤黒い痣が出来ていた。それは内出血にも似て、だが爛れてもいるようでもあり、何よりもまるで皮膚の下で蠢いているかのように拡大と縮小を繰り返していた。

 

「触れるな! やっぱり深淵の病と同類だな! コイツを何かが蝕んでやがる。痣が心臓まで伸びるのは時間の問題だ。瞳が崩れたのは前兆か」

 

「う、腕を斬るの?」

 

「切断しても遅いだろうな。見ろ。もう肩から胸にかけて痣が伸びてやがる。目玉を抉ったからか、幾らか侵蝕は遅くなったみたいだが、患部を全部切除しようものなら、腕どころか肩と胸の肉もごっそり抉らなくちゃならねぇぞ。そうなりゃ、さすがに助からねぇよ」

 

「じゃあ、エイジは助からないの!?」

 

 そんなの駄目! ユナは今にも意識を失いそうなエイジに、酷であると思いながらも眠らせまいとその身を揺らし続ける。滴る涙は、エイジの右目の空洞から零れる血と混じり合い、まるで彼の血涙のように頬を伝う。

 

「俺に出来るのは応急処置までだ。約束は果たした。コイツを救う義理も使命もない」

 

 騎士はユナとの約束を果たした。安全な場所まで連れていき、ひとまずの処置を施した。無関係である彼にこれ以上の願って救いを乞うものではないともユナは理解した。

 自分は無力だ。歌う事しか出来ない。たとえ、それは都市の皆に自由の心を取り戻すことが出来るとしても、エイジを助けることは出来ない。

 ポロポロと涙を流すユナの前で、騎士はせめてもの慈悲でも与えるように、エイジの喉元に刀身が橙色の光を帯びた大剣を突きつける。

 

「やっぱり、もう無理だな。人間の内に死なせてやれ。それが慈悲ってもんだ」

 

「勝手に決めないで! エイジは助かる。必ず助かるもん!」

 

「助からねぇよ」

 

「助かる! 絶対に助かる! 私が助けてみせる!」

 

 出会った時からエイジは自分を通して別のユナを見ている。

 私はエイジの知っているユナでは……『悠那』ではない。それでも、彼女は彼の誓いが何1つ嘘偽りではないと信じていた。

 歌いたい。ユナの願いを叶える為ならば、どれだけ弱くても強敵に挑み続けてくれた。

 エイジにだってプライドがあったはずだ。捨てられないものがあったはずだ。それでも、どれだけ無様でも、屈辱を味わっても、ユナを守る為ならば死力を尽くしてくれた。

 

「どけ。コイツを戦士として逝かせてやれ」

 

 エイジに覆い被さるユナに、騎士は少しばかりの優しき声音で諭すように呟く。

 

「嫌!」

 

「どきやがれ!」

 

 怒鳴った騎士は、裏拳でユナを殴り飛ばす。地面を転ったユナは、だがすぐに立ち上がって大剣を振り上げた騎士の足に縋りつく。

 

「止めて! エイジを殺さないで!」

 

「うるせぇ!」

 

 内臓が破裂する勢いの蹴りがユナの腹で炸裂し、口内に血の味が広がる。毬のように跳ねたユナは廃材に背中を叩き付ける。

 

 そのはずだった。

 

 だが、衝撃こそ伝わっても、ユナは肉のクッションに阻まれて、鋼が背中を強打することはない。

 

「守る……ユナ……今度、こそ……」

 

 エイジはまだ意識を失っていない。たとえ、朧のような……現と夢の区別もつかない曖昧な意識でも動いてくれた。

 ユナを庇うように立ち、右手で鈍い銀の長剣を構えたエイジに対して、騎士は獰猛に笑う。

 

「いいぜ。床に伏せた病人をぶった斬るのは趣味じゃねぇ。戦士らしく戦って死ね! 派手に死ね! 我が聖剣に斬られることを誇りながら死ね!」

 

 エイジを斬るべく歩み寄った騎士に、今度はユナが彼を庇うように立ちはだかる。

 両腕を伸ばしてエイジを守る盾となったユナに、騎士は苦々しい表情を浮かべる。

 

「いい加減に――」

 

「エイジは……エイジは負けてない! まだ負けてない!」

 

 涙を散らしてユナは叫ぶ。美しい歌声を奏でるはずの喉は嗚咽に塗れて濁り、だがそれでも彼女の真摯な叫びに騎士は立ち止まる。

 怖い。

 怖くて堪らない。

 この騎士からすれば、ユナなど塵芥に等しく邪魔者にならない。それでも律儀に『殺さない』ように対応してくれていることくらいはユナにも分かる。絶対的な力量の差が足を震えさせる。

 それでも負けない。怯えを呑み込んで騎士を見つめるユナに、彼はゆっくりと大剣を下ろす。

 

「『負けていない』……か」

 

 何かを思い出すように、空に浮かぶ月に手を伸ばすかのように、騎士は大剣を撫でた。

 しばしの沈黙の後に騎士の姿が消える。一瞬にして自分たちの背後に回られたと悟った時には、エイジの首根っこは騎士によって掴まれていた。

 殺させない。ユナは拳を握って戦おうとするが、誤解するなと言うように騎士は驚くほど優しい顔で首を横に振った。

 

「……目の処置はした。夜明けまで待つ。それまでにバケモノにならなかったら、コイツは『まだ負けていない』って認めてやるよ」

 

「ありが……とう」

 

「礼を言われる筋合いは……あるか。ありがたく受け取ってやるぜ」

 

 エイジを改めて寝かせた騎士は廃材を椅子代わりにすると、何かを懐かしむように目を細めた。

 

「大丈夫。エイジは負けないよ」

 

 ユナはエイジの右手を両手で包み、眠ることを許されない彼に歌を紡ぐ。

 自分ではエイジを救えない。それが分かっているからこそ、ユナはせめて彼の旅路の果てで使命を全うして歌うことを望んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 カサカサ、と。

 

 頭の中で蜘蛛の足音が止まらない。

 エイジは無数の蜘蛛に覆われていた。自分の皮を、肉を、骨を貪る蜘蛛たちに集られていた。

 喰らい尽くされる。そう思った時、エイジは己の内に巣食う憎悪を感じ取る。

 まだだ。

 まだ負けていない。

 エイジは自分を喰らう蜘蛛たちを、逆にその手でつかんで頬張り、そして噛み砕く。

 蜘蛛の体液が喉を、臓物を、魂を溶かす。まるで強酸の塊を喰らっているかのような錯覚の中で、エイジはひたすらに蜘蛛を喰らい続ける。

 喰われて堪るか。ひたすらに抗い続けていたエイジは、だが増え続ける蜘蛛に呑み込まれていく。

 だが、蜘蛛を散らす光が差し込む。それは記憶を掻きむしる、だが心を揺らすことなどないはずの彼女の歌声だ。

 

 そのはずなのに。

 

 憎悪で爛れた魂に、まるで真冬に差し込んだ陽光のような切ない温もりの歌声が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 それは僅かではあるが、己を焦がして止まぬ憎悪……燃える怨嗟を、ほんのひと時、忘れる程に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エイジ! 私が誰か分かる!? 大丈夫!? 大丈夫だよね! 良かった!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユナ? ぼんやりとした意識を少しずつ鮮明にしながら、エイジは右半分の失った視界に気づく。

 右目を覆うように巻かれた包帯。そして、微かに記憶に残る迫る刃。右目を抉りだされたと自覚したエイジは、自身の上半身裸体に抱き着くユナを引き離す。

 嬉し涙を零すユナに、エイジはどう声をかけるべきか悩む。彼が鮮明に憶えているのは、【聖剣の英雄】と闇濡れの騎士から死に物狂いで逃げていたところまでだ。それ以降は気を失ったわけではないが、何もかもがぼんやりと霞がかかっていて、1つとして明確に思い出せることはなかった。

 

「お目覚めか」

 

 次いでエイジに声をかけたのは、闇濡れの騎士に似た意匠の甲冑を纏った騎士だ。頭上に浮かぶカーソルはプレイヤーであるが、その超絶とした雰囲気はプレイヤーの域を超えているようにも感じられ、エイジの喉が引き攣る。

 狼をモチーフにしたフルフェイス兜を被った騎士は、橙色の光を湛えた大剣を肩に担いでいる。その剣は何処となくUNKNOWNの有する聖剣と似通っているような気がしたが、エイジはまず事情を理解するべくユナに説明を求めた。

 倒れたエイジを助けてもらうべく、ユナはたまたま通りがかった騎士に懇願し、ここまで自分を運ばせた。そして、騎士はエイジの右目を抉り出す処置を施したとのことだった。

 瞳が崩れるのはレギオン化の兆候とされている。ダーインスレイヴとの無理を超えたリンクにより、自身のレギオン化が進行したのだろうとエイジは把握した。

 ギャラルホルンの警告が頭を過ぎる。レギオン化しきる前に、ギャラルホルンは殺しに来ると宣言していた。だが、彼女が現れなかったということは、彼女の判定ラインを超えることはなかったという事だろう。命拾いしたエイジは息を吐き、まずは騎士に深々と頭を下げた。

 

「助けていただきありがとうございます」

 

「野郎の感謝など要らねぇんだよ。俺は淑女と美女の味方であるだけさ。だが、始祖アルトリウスの後継たるこの俺に礼を尽くそうという姿勢は評価してやろう! 存分に頭を下げるがいい! にゃははは!」

 

「偉そうに言ってるけど、この人はエイジが病気に負けるから殺そうとしてたからね」

 

 ユナの告げ口に、騎士は魔化すように口笛を吹く。驚くほどによく響く口笛に、こういう時のお決まりから外れているなぁ、とエイジはぼんやりと感想を抱いた。

 

「始祖アルトリウスの名における宣誓は果たした。あとは好きにしろ。お前がバケモノになろうと、お嬢さんが何処でくたばろうと、もう知ったことじゃねぇからな」

 

 時刻は既に夜明けを迎えて久しい午前11時だ。レギオン化に抗い続けていたせいか、心身共に疲労も激しく、頭痛と眩暈と嘔吐感が襲い掛かる。立ち上がろうとして、1度は膝をついたエイジは、だが気合を入れ直し、装備したダーインスレイヴを杖にして立ち上がる。

 もう時間が残っていない。スレイヴとの合流まで残り12時間だ。だが、集めねばならない楽譜はあと1枚あるのだ。しかも、楽譜を集めた後は祭壇……もっとも警備が厳重だろう、都市の中心部にある灯台の如き塔を目指さねばならない。

 最悪の場合、灯台ではボスとの戦闘もあり得る。コピー・ネームドの第1段階でも勝機を掴めないエイジでは、ボスの撃破はおよそ無謀の彼方だ。

 だが、皮肉にもエイジの追手という戦力が期待できる。ボスの単独撃破経験もあるUNKNOWNを上手く誘導し、ボスに激突させることが出来れば、闇濡れの騎士から逃れた時と同様にボスもまた潜り抜けられるのではないかとエイジは思案する。

 他力本願であるが、ユナが歌う為ならば、どんな汚い手段でも行使せねばならない。無論、今回は奇跡的に助かったとはいえ、ダーインスレイヴとのリンク強化も不可欠になる局面は必ずあるだろう。

 

「ハァ、温かいゴハンが食べたいなぁ」

 

「食材と調理器具さえあれば、何か作ってあげられるけど、この状況ではな」

 

「え、嘘!? エイジって料理できるの!?」

 

「できるって程ではないけど、同居人にはそれなりに好評だよ」

 

「食べたい! エイジのゴハン、食べたい!」

 

「俺も食べたい!」

 

「……機会があったらな」

 

 食事の保存食を齧るユナと騎士に迫られ、エイジは困惑しながら言葉を濁らせる。

 せめてものお礼だと食事を振る舞えば、騎士の可愛らしい少女のような素顔が露になっていたが、エイジはツッコミを放棄した。世の中には【渡り鳥】のような性別不明もいるのだ。騎士の姿に驚く道理などなかった。

 

<魂別の楽譜:蝋水で清められた乙女は、次に氷室の石棺に収められる。蝋水に濡れた乙女の血肉は凍てつく。そして、神官が海塩の刃で喉を裂き、返り血を浴びることなく歌声を取り出すのである。体に流れる血は継承の象徴として尊ばれることもあるが、外に流れれば不浄の対象となるのだ>

 

 UNKNOWNと闇濡れの騎士という乱入者こそあったが、予定通りに楽譜を入手することは出来た。教育施設で情報収集できなかったのは痛手ではあるが、今更になって戻ることもできず、エイジは最後の楽譜を求める。

 楽譜が2つ揃ったお陰か、行き先を示す光はよりハッキリと彼を誘う。だが、都市の土地勘が無いエイジでは手探りしかない。

 

「さて、腹も膨れたし、そろそろお別れだ。だが、その前に、えーと……エイジだったか? ちょっとこっちに来い。ユナはそこにいろ」

 

「まさか、エイジを虐めるつもりなの!?」

 

「お前はエイジのオカンか。そんな心配するなっつーの。始祖アルトリウスの後継たる俺は完全無欠の紳士だ。信じろ」

 

 アルトリウス……現時点で最強人型ネームドと認定されている【竜狩り】オーンスタインと同じ四騎士であり、無双の剣士にして【深淵歩き】の異名を持つ。だが、ネームドやNPCとして登場する気配はなく、表向きは大ギルドも遭遇した報告を上げていないはずだ。

 この男は何者なのだ? 命の恩人ならばこそ、また力量差を感じたからこそ、下手な口を利かないように気を配っていたエイジは、ユナから距離を置いた廃材の山の下に招かれる。

 

「今すぐその剣を捨てろ」

 

「急に何を――」

 

「始祖アルトリウスと同じ賢さを持つこの俺には看破されちまってるんだよ。お前の病の元凶はその剣だ。呪い絡みならトリスタンが詳しいんだが、ともかく、ソイツは呪われた剣なんだろう?」

 

「…………」

 

「他の剣が無いなら見繕ってやる。今すぐソイツを捨てろ。じゃないと……死ぬぜ?」

 

 この騎士は只者ではない。ダーインスレイヴの正体こそ見抜いてはいないが、原因であると特定できている。エイジは騎士の好意に対して首を横に振る。

 

「……捨てられない。これが無いと僕は戦えないんだ」

 

「あん?」

 

「戦えないんだよ」

 

 理解してもらおうとは思わない。口で語ったところで、この騎士には伝わらないだろう。FNCとはそういうものだ。エイジは奥歯を噛みながら、彼らを待って廃材に腰かけて足をブラブラと揺らすユナへと視線を向ける。

 あとどれだけ戦えるかは定かではないが、ユナが歌う為にも、ダーインスレイヴの力は不可欠なのだ。

 

「そうかよ。だったら好きにしろ」

 

「ありがとう」

 

「礼を言うならそれらしい顔をしやがれ。オラ、少し剣を振ってみろ。この俺様が1つか2つアドバイスをくれてやる。せめて、少しでも長生きできるようにな」

 

 言われるままに、エイジはいつものように素振りを始まる。騎士は尊大な態度ではあったが、強者からの助言を得られる機会を無為にする程に愚かではない。

 もっとだ。もっと『力』が要る。エイジはいつものように整然と型を披露する。

 

「お前に最初に剣を教えたのは誰だ?」

 

「我流ですが、敢えて言うならば、教官でしょうか?」

 

 SAO時代に剣を教えてくれる者はいなかった。モンスター相手に剣戟のいろはを学び、その後は我流で鍛え上げたのがエイジだ。

 

「教官? 学校の先生か?」

 

「似てますね。対人・対モンスターの戦い方を1から学び直しました」

 

 エリートプレイヤー候補生時代には、DBOにおける戦闘について、座学・実技共に学んでいた。今も欠かさず鍛錬に取り入れている。

 

「ソイツは『秀才の剣』だ。農民や甘ったれな騎士見習いを戦場に立てるように仕上げるには丁度良いが、個々の才能を伸ばすものじゃねぇんだよ。言うなれば『優秀な戦士』を増やす目的の剣技であり、それ故に個々が眠らせている才能を活かせない剣技だ」

 

 エイジの胸を右手の人差し指で突き、騎士はこの程度も自覚がなかったのかと鼻を鳴らす。

 

「思い出せ、自分の戦い方を。振り返れ、今の素振りを。棄てろ、押し付けられたくだらん常識を。まったく歯車が噛み合ってないはずだ」

 

 騎士に言われるままに、エイジは1度瞼を閉ざし、これまでの……SAOとDBOの戦いを振り返る。

 

「自分の才能を活かせない奴が戦場で生き残れるわけがねぇだろうが。仲間がいないなら尚更だ。この俺は始祖アルトリウスの剣技を復興した。仲間との連携を良しとしない孤高の剣技だ。だがな、それとは別に自分の強みを活かすことを忘れなかった。他の連中もそうだ」

 

「…………」

 

「強みを伸ばし、弱みを潰し、新たな領域を手にする。それこそが成長だ。勘違いするなよ。『時間をかけた分だけ強くなれる』ってのは幻想だ。大事なのは効率だ。理解だ。応用だ。道場で剣を振るうのは必要不可欠な基礎を身に着け、また技術をじっくりと磨く為だ。だが、時間をかければ強くなれるか? 場数をこなせば強くなれるか? 馬鹿が。経験を効率よく消化し、死闘の中で己の深奥を理解し、得た全てを応用して新たな領域に至ること。それが強くなるってことだ」

 

 騎士の言葉を反芻させ、エイジは握るダーインスレイヴの重さを通じて己を見つめ直す。

 エイジが再び瞼を開けば、恥ずかしそうに頬を朱に染めた騎士は舌打ちを大きく鳴らす。

 

「……チッ! 俺はガウェインちゃんか!? ガラにもないことさせやがって!」

 

 騎士は大剣をその場に突き立てるとエイジを今にも噛み殺そうとするような勢いで睨む。

 

「あのコはお前を『負けていない』と言った! お前を信じてるんだ! だったら、最後まで抗え!」

 

 信じている。エイジは自分の胸に手を置く。

 ずっと聞こえていた。朦朧とする意識の中でユナの歌声が響いていた。

 決して消えることがない憎悪を……僅かでも忘れることが出来たからこそ、ダーインスレイヴに喰われずに済んだのだ。

 

「もう終わったの?」

 

「ああ、この俺の指導で100倍強くなったはずだぜ!」

 

「100倍!? スゴーイ! じゃあ、もうどんな奴が現れてもエイジの敵じゃないね!」

 

「ユナ、冗談だよ。真に受けないでくれ」

 

 だが、それこそ今の100倍強くなるくらいの気概でなければ目的は果たせない。ユナを歌わせることは出来ない。ならば、騎士の助言を忘れることなく、自分を送り出してくれたスレイヴの為にも、何よりも信じてくれたユナの為にも、より『力』を欲する。

 かつて【渡り鳥】が教えた魂の叫び。エイジはどうしようもなく『力』を渇望する己を自覚する。それは魂の叫びの反響のようなものだ。自分の魂の叫びが何なのか、まだ見出すことはできない。

 

「出口はあっちだ。俺はここで野暮用を済ませていく。じゃあな」

 

「感謝します」

 

「ありがとう!」

 

 腰を折るエイジと手を振るユナは、廃材保管の倉庫から出発する。空は薄暗く、今にも大粒の雨が降りそうな雲行きだ。

 都市内部は相変わらずの厳重警備であり、ダーインスレイヴを装備したままでは警戒値があっという間に蓄積するだろう。

 

(楽譜が示す方向で最も怪しいのは……発電施設か。UNKNOWNが教育施設に現れたのは偶然じゃない。何らかの手段で楽譜が隠されている場所を探し当てたとするならば、また追手と遭遇するかもしれない)

 

 地図と照らし合わせてルート構築に悩むエイジに、ユナの手が差し出される。

 

「悩むより先に進もう。大丈夫! 私達ならきっとたどり着ける! エイジは私を守ってくれる。そして、私もエイジを同じくらいに助ける。一緒にやり遂げよう!」

 

「……そうだな」

 

 たとえ、この先に何が待っているとしても、ここで立ち止まっていたならば得られるものはない。ならば、ユナの言う通り、まずは1歩を踏み出すことだ。

 

「少しだけ……眉間の皺が取れたね」

 

「そうか?」

 

「うん。さぁ、スマイル! 練習だよ!」

 

「忘れてなかったのか」

 

「もちろん! エイジの笑顔、ちゃんと見たいし! いつまでも悪役スマイルじゃ駄目だよ?」

 

「努力するよ」

 

 ユナに指で頬を突かれながら、エイジはダーインスレイヴを1度オミットする。

 だが、何かがおかしい。これまではダーインスレイヴを武器枠から解除すれば、リンクが切れてしまうのが欠点だった。

 そのはずなのに、今も感じるのだ。

 ダーインスレイヴの脈動を感じるのだ。

 右腕全体を通して、抉り取られた空洞の右目を疼かせて、そして肩から胸にかけて、確かに感じるのだ。

 それはまるで悪魔の手が心臓を握り潰そうとしているかのようであり、エイジは微かな不安を覚え、だが自分の手を握るユナは笑みに誘われた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「隠れてるのは分かってる。出てきやがれ!」

 

 気づかれていた? 廃材の影に潜んでいたアラタは、1人だけ残った騎士に察知されていたことに驚きながら、両手を挙げた無防備で姿を現す。

 ライドウには既に居場所を連絡したが、まだ到着していない。時間にもルーズであり、約束事も自分都合で捻じ曲げ、また破る男だ。到着には時間がかかると予想していたが、まだ現れる気配はない。

 

「あの、僕……!」

 

「ガキだと?」

 

 大剣を担ぐ騎士は、アラタの姿……10歳前後の少年であることに驚いたようだった。

 子どもであることは大きなアドバンテージだ。それだけで相対する者は油断する。未成熟で弱々しい、取るに足らない存在であると侮る。アラタは抗う術のない子どもであるべく、武器も装備せず、防具も貧弱だ。騎士からすれば敵意を向けるに足らない外観である。

 

「ごめんなさい! な、仲間とはぐれてしまって、それで――」

 

 泣きじゃくる子ども。傍から見れば完全にアラタは貧弱な存在だ。

 だが、騎士は1歩で間合いを詰めるとアラタに対して一切の容赦なく大剣を振るった。

 咄嗟に躱し、地面を転がったアラタは、続いて放たれた橙色の光の刃……光波を避けることができず、両腕をクロスさせてガードする。

 まさしく破壊の刃。強烈な重圧が肉を抉り、骨に達し、細身の体を吹き飛ばす。廃材の山に突っ込んだアラタに対して、騎士はくだらないとばかりに大剣を振るって橙色の光を散らす。

 

「ガキの姿をしても俺には通じねぇんだよ。お前からは深淵のニオイがプンプンしやがる! さっさと正体を明かしやがれ!」

 

「……酷いなぁ。正体も何も、僕は『アラタ』っていう子どもですよ?」

 

 ああ、本当に酷いことをする。アラタは痙攣する体を起こし、胸を刺し貫いた鉄材を引き抜く。途端に傷口からドロリと黒ずんだ蕩けた肉が零れ落ちる。

 折れ曲がった首を両手で正し、傷口を撫でて肉を引き寄せて塞ぐ。およそ尋常ではない修復を成したアラタに、驚くに値せずとばかりに騎士は続いて光波を放つ。

 その一撃はもはや竜のブレスと同格の破壊をもたらす。廃材倉庫の壁と天井は吹き飛び、まともに受けたアラタの胴体は両断される。

 だが、死なず。胴体から零れた肉の泥が千切れた体を集めていく。割れた頭蓋から溢れる肉の泥はあらゆる形を取って宙で蠢く。

 

「深淵の魔物……いいや、主か? 深淵そのものを内側に内包しているってところか。お前みたいな奴に会うのは初めてじゃないが、この感じ……本体ではないみたいだな」

 

 この騎士、何者だ? プレイヤーの域を超えている。アラタは焦りを見せる。これ以上の肉体の破壊は再生に時間がかかるので阻止しなければならず、また騎士の攻撃は予想を遥かに超えた馬鹿げた威力だったからだ。

 

「上手な殺し方があったと思うんだがよ、いつも通りに『消し飛ばす』のが1番楽そうだな、オイ!」

 

 騎士からすれば軽く剣を振るっただけなのだろう。だが、それは巨人の全力の一撃にも達し、また光波は竜のブレスに匹敵する。しかも全力には程遠いものならば、この騎士の本気はおよそ災害としか言いようがない域に達するだろう。

 この体は不死ではない。少しばかり頑丈であるだけだ。肉の泥を垂らし、アラタは撤退を決め込む。相手の油断と理性に子どもの姿で訴えかけるのがアラタの手法だ。だが、この騎士は常に直感と感情を優先するタイプだ。

 消費は著しいが、仕方あるまい。アラタは口と傷口から肉の泥を排出し、蠢くスライムを騎士に襲わせる。動きは鈍重であるが、物理防御に秀でたスライムだ。炎属性が弱点であるが、騎士の攻撃に炎属性はないことは見抜いている。

 

「邪魔だ」

 

 だが、騎士に通じず。騎士は剣を振るうことさえ億劫だとばかりにスライムを踏み潰す。

 竜がわざわざ足下の虫にブレスを放つだろうか? 否だ。この騎士は人間の形をした巨獣なのである。

 殺られる! そう思われた時、虹色の球体が2人の間に出現し、コピーネームドが召喚される。2対の多腕にそれぞれ大槌を持った巨人型のネームドだ。【写し身・はぐれ巨人のベーム】というコピー・ネームドは、騎士に襲い掛かり、アラタが逃げる時間を稼いでくれる。

 天運の助けであらず。騎士の度が過ぎる破壊力は警戒値を上昇させ過ぎるのだ。アラタは一目散に逃げだし、騎士の追撃光波で左腕を吹き飛ばされながらもなんとか危機を脱する。

 

「ハァハァ……本当に酷いなぁ。体がボロボロだよ」

 

 だが、ターゲットはまだ追跡可能だ。修復には時間もかかるが、HPも残っている。

 ベクターからの命令はターゲットの捕縛、無理ならば殺害だ。扱い難いライドウの制御を任されたからには成果を出さねばならない。

 

「……姉さん」

 

 クラウドアースのトップであるベクターの信頼を勝ち取り、そして目的を果たすのだ。アラタは修復されていく肉体に、己の死を自覚する。

 そうだ。『アラタ』という少年は1度死んでいる。はたして、自分が何処まで本物と同じなのかは分からない。あるいは、まるで何もかも違っているのかもしれない。だが、それは復活した死者たちと何が違うだろうか?

 己を定めるのは何か? 記憶か? 自意識か? それとも存在が曖昧な魂の有無か。アラタには分からない。『同胞』も同様の悩みを抱えているようであるが、彼らはとりあえず『主』の性質通りに『食べる』ことに固執しているようだった。

 

「きっと迎えに行くよ。『深海の時代』が来たら……必ずね」

 

 その為にもまずは仕事の完遂だ。アラタはライドウに情報を伝えるべく、蠢く肉を飛ばした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 アルヴヘイム最強、ランスロット。

 間違いなく『剣士』としては極上にして最上の才能を持つ『名無し』とほぼ同列の剣才を持ち、貪欲な向上心によって武技全般が達人という域さえも超えたレベルで鍛え抜かれている。

 これだけで既に人型でも強ネームドの地位は揺るがない戦闘能力が約束されるだろう。ネームドとして与えられた性能を十全に発揮する様は、プレイヤーからすれば己の培った実力と呼べるものがどれだけ矮小だったか思い知らされるだろう。

 だが、超絶した武技だけがランスロットの全てではない。そんなものは入口に過ぎない。【深淵渡り】と呼ばれる瞬間移動によって間合いの完全支配を可能とし、深淵纏いによってスピードを中心にして全能力を底上げし、黒炎と黒雷が凶悪さに拍車をかける。

 唯一の弱点は耐久面の低さであるが、そもそもとしてランスロットに攻撃を当てること自体が困難である。ラッキーパンチなど期待した瞬間に待つのは斬殺の未来だ。

 

「嬉シイゾ、腕ヲ上ゲタヨウダナ。ヤハリ今ノ貴様ノ剣ニハ血ガ通ッテイル。俺ノ目ニ狂イハナカッタヨウダ」

 

「ハァ……ハァ……! アンタは相変わらず出鱈目な強さだな!」

 

 まだ『本物』ではない。『本物』の域まで自我は到達していない。それは抑揚のない声音のみならず、戦いにおける『濁り』と呼べるものからも明らかだった。

 せいぜいが『本物』の3割……いいや、それでも多く見積もり過ぎているだろう。そう思える程の『薄さ』をコピー・ランスロットからは感じる。

 そのはずなのに、圧倒的劣勢。『名無し』は片膝をつき、右手の聖剣を地面に突き立て、深く斬られた二の腕から流れる血で左手の剣を赤く染める。

 コピー・ランスロットは『本物』に遠く及ばないのは分かる。だが、それでも強過ぎた。

 あり得ない程の成長。ただでさえ、過去最強の敵だったランスロットは、まるでプレイヤーの『成長性』という特権を奪うかのように、廃坑都市で戦った時よりも高みへと至っていた。

 

「フム、ヤハリ黒剣ハ使エンヨウダナ。呪縛……イイヤ、コノ身モ心モ贋物ナノダロウ。俺ハ確カニ死ンダハズ。我ガ忠義ハ破レ、夜明ケノ温カサト美シサヲ知ッタ」

 

 立ち上がった『名無し』は左手の剣の突きを誘導に、本命の聖剣の一閃を繰り出す。だが、ランスロットは瞬間移動で消え、『名無し』の頭上に出現すると黒炎メテオを放つ。これを『名無し』はリフレクト・ブロッキングでガードし、そのまま弾いて軌道を捻じ曲げる。エネルギー系を通常武器でもガードできるようになる≪集気法≫の専用ソードスキルにしてガードスキルであるリフレクト・ブロッキングは、ランスロットの黒炎に対しても有効だ。

 だが、その一撃の重さは、かつて相対したスローネの雷球にも匹敵する。そして、リフレクト・ブロッキングした隙を逃さず、ランスロットは瞬間移動の連発で攪乱を仕掛け、『名無し』の右側面から斬りかかる。

 これを『名無し』はギリギリでガードする。派手な火花を散らし、左手の剣が軋む。だが、ランスロットは止まることなく、炎の如く変幻自在の連撃から肩に背負った闇濡れの大剣による渾身の一閃へとつなげてガードをこじ開けようとする。

 耐え抜いた『名無し』の月蝕光波の反撃を、ランスロットは瞬間移動で躱して容易く彼の背後を取る。繰り出された回転跳び退き斬りが『名無し』のガードを弾き上げる。ガードブレイク寸前であり、そこに叩き込まれた黒炎メテオが直撃する。

 黒炎の大爆発と土煙から抜け出した『名無し』の脇腹に、瞬間移動で待ち構えていたランスロットの蹴りが穿たれる。受け身もガードも取れていなかった『名無し』は仮面の内を吐血で染め、数十回とバウンドしてビルの壁に叩き付けられる。

 戦いの内に教育施設からは脱し、2人が立つのは大通りだ。NPCが逃げ惑い、サイレンを鳴らすドローンが宙を無数と舞う。戦いの余波を受けて破損した外灯は点滅して『名無し』を照らし、転倒した自動車に立つランスロットはまるで月見でもするように空を眺めていた。

 

「我ガ忠義ニ終ワリは無イ。ダガ、俺ハ贋物。コノ手ニアルノハ愛剣ノミ……カ。フッ、随分ト酔狂ナ運命ダナ」

 

「ぐっ……!」

 

 HPが大幅に減っており、3割を切っている。月蝕の聖剣のオートヒーリングだけで補うにはダメージが大き過ぎた。

 リスクを承知で『名無し』は仮面の口元をスライドさせて白亜草を口に放り込む。

 回復アイテムはそれぞれにデメリットが存在するが、統一して言えることがあるとするならば、使用には必ずスタミナ消費が伴い、回復中・後まで様々なデバフがシークレットで発動している。

 特に草系はアイテムストレージ消費量こそ最小であり、多く持ち込むことができるのだが、その分だけスタミナ消費量も大きく、使用中はスタミナ消費量増加・防御力低下が著しい。故にある程度の資金を持ったプレイヤーは、草系回復アイテムを戦闘中に使用することはなくなる。ましてや、長期戦になるネームド戦に使用することはない。

 ならばこそ、これは屈辱でもある。『名無し』が白亜草を使用することを選んだのは、噛んで磨り潰して発動できる草系は意外と隙が少ないからだ。だが、そもそもランスロットは回復妨害をする気配もなかった。

 『名無し』は≪集気法≫の治癒勁を発動させる。オートヒーリングとアバター修復速度を引き上げるバフをかける。ただし、治癒勁は全スタミナ消費量を増やす為、ただでさえスタミナ消費が激しいスローネの雷強化との併用は、スタミナの大量消費を招き、長期戦には向かない。

 だが、ランスロットの耐久度は低く、なおかつHPバーは1本のみ。そして再起動と呼ばれる2回戦もコピー・ネームドならば想定されない。ならば、ここはリスクを承知で短期決戦する以外の選択肢はない。

 しかし、『名無し』は念には念を入れる。更に『追加』で≪集気法≫の【闘王勁】を発動させる。攻撃力・防御力を共に上昇させる、≪集気法≫でも最上位クラスのパッシブ系バフだ。

 『名無し』が持つユニークスキルは2つ、≪二刀流≫と≪集気法≫だ。前者の陰に隠れてこそいるが、≪集気法≫は自己強化補助に特化されたユニークスキルである。スタミナ回復効果と高衝撃で攻撃を弾くことができるリカバリーブロッキング、エネルギー系をガードし、またそこから受け流しや弾くことに繋げられるリフレクト・ブロッキングという2つのガードスキルをもたらすだけではなく、回復から強化まで多種に亘るバフをかけることができる。更にはDBOでは現時点で唯一確認されているスタミナ回復能力を持つ。まさしく万能補助だ。

 アルヴヘイムを経て熟練度を高めた≪二刀流≫がツイン・ワン・ソードという新たな能力を開花させたように、≪集気法≫も同様に新たな能力を獲得している。それが『連勁・二重発動』だ。それまでは1種類しか発動できなかったパッシブ系バフを2つ同時に維持できる。しかもデメリットであったスタミナ消費量増加のデバフは、同時発動させた2つの内の高い方だけが適応されて重複しない。

 治癒勁よりも闘王勁の方がスタミナ消費量増加のデバフは強い。より短期決戦を覚悟するならば、『名無し』は最大までアクセルを踏む事を選ぶ。

 

「ホウ!」

 

 スローネの雷によって『名無し』の動きは、かつてないスピードを獲得している。並のプレイヤーならば『名無し』の攻撃を掠らせるどころか捉えることさえも困難だろう。

 ただし、スローネの雷による速度強化には弱点がある。デーモン化と同じくテンションゲージが存在し、これを溜めていない状態で発動させた場合、スタミナ消費量がより増大するのだ。

 最も燃費よくスローネの雷を維持する為には、戦い続けてテンションゲージをMAXまで引き上げることだ。なおかつその後も積極的に戦闘に参加し続けてテンションゲージの保持をすれば最上である。故にスタミナ管理が求められる対ネームド戦においては、どうしてもエンジンがかかるのは遅めになるのが問題点だ。

 だが、今回は湖獣の最速撃破の為に発動し、なおかつそのままランスロット戦に移行した為に、テンションゲージは溜まっていない状態で発動させている。ランスロットとの戦いでじわじわと上昇こそしているが、それまでに消費したスタミナ量は膨大であった。

 そして、リスクを背負ったスローネの雷でもランスロットを傷つけることは出来ない。ランスロットは右手だけで闇濡れの大剣を振るい、『名無し』の二刀流の斬撃を捌く。

 

「大シタ膂力ダ。黄金ノオーラ……深淵纏イニ近イヨウダナ。ソレニ雷ニヨル加速ハ、グウィン王ニ連ナル神族ノ業……特ニオーンスタインノ血筋ガ好ム。ナルホド、神ヲ超エタカ!」

 

 興味深そうに『名無し』が纏う闘王勁の黄金色のオーラに、ランスロットは自身の深淵纏いを絡ませる。

 ランスロットが繰り出す黒雷の槌。それはまさしく竜の鱗を砕く雷の槌であり、だが闇の黒で染め上げられている。強烈な破壊の一撃を『名無し』はクロスさせた2本の剣でガードし、リフレクト・ブロッキングで受け流し、ランスロットにカウンターを仕掛ける。

 だが、ランスロットの左拳が『名無し』の喉に突き刺さる。宙を浮いた彼の腹を闇濡れの大剣が突き刺し、そのまま投げ飛ばされる。

 街灯のポールに激突した『名無し』は、脊椎が折れるのではないかと思うほどの衝撃とダメージフィードバックを味わう。

 

「剣技ハ上々。ダガ、体術ハマダ仕上ガッテイナイ。雷ノ加速ニ振リ回サレテ、動キガ単調ニナッテイルヨウダナ」

 

 人類最高峰の反応速度と高VR適性によるアバターの精密操作。だが、それを操る『名無し』自身がスローネの雷で強化に対応しきれていないのだ。これは『名無し』自身がスローネを操り切れていないと自覚していた課題だった。

 だが、それもランスロットとの戦いでコツをつかみ、また馴染んでいる。死闘を通して『名無し』は自身の成長を実感する。そして、それでもなお届かぬランスロットに確かな恐怖を覚え、それを乗り越える闘志を燃やす。

 たとえコピーであるとしてもランスロットも倒せないならば、スローネに誓った武の極みには辿りつけられない。

 デーモン化を使うにしても、『名無し』の場合は、スローネの雷と同様にテンションゲージを稼がねば実用性の域に達しない。テンションゲージ無しでは、発動に余りにも時間がかかり過ぎてしまうのだ。

 

(攻撃が無属性のお陰でスタミナ削り効果が無い。闇属性だったら、あとどれだけスタミナが残されていたかも……!)

 

 コピー・ランスロットの攻撃は全て無属性だ。本物のランスロットの場合、全ての攻撃に闇属性が付与されているのでスタミナ削りが発揮される。ダメージを受けた分だけスタミナが削られるのもまた本物のランスロットの脅威だった。その点においても、コピー・ランスロットはやはり弱体化している。

 やはり一撃に賭けるしかない。ランスロットを確実に葬る方法があるとするならば、最大火力まで引き上げた月蝕突きをランスロットのクリティカル部位に命中させることだ。

 チャンスは1度だけ。治癒勁からクリティカルダメージを伸ばす【忍殺勁】に切り替える。暗器には及ばないが、目論み通りならば、月蝕突きの火力は最大ダメージを与えることができる。

 

「……俺ハ贋物ダ。忠義ノ騎士ノ『証』モ無イ。懐カシキ気配ハ気ニナルガ、死者ハ沈黙ト共ニ去ルベキナノダロウナ」

 

 ランスロットは『本物』に近づけば近づく程に、好戦的闘志を鎮めていく。

 

「貴様ハ聖剣ノ資格者デハナイ。聖剣ハ深淵狩リノ伝説ノ内デ眠ルベキダ」

 

「聖剣は誰にも渡さない。たとえ、資格者ではないとしても、託された以上は……俺はやり遂げてみせる!」

 

 嫌でも分かっている。今も月光の聖剣を自由に覚醒出来ない現状こそが何よりの証拠だ。

 月光の聖剣を『誰か』に託された。だからこそ、『英雄』としての使命を『名無し』は己に課した。それこそが聖剣の使い手としての義務なのだ。

 耐え難い程の重圧だ。右肩には親しき者の期待が、左肩には名も知らぬ万人の希望が圧し掛かる。

 多くの人々に背中を押してもらい、支えられ、助けられ、見捨てられることなく、立ち上がる為の手を差し出された。

 もう嫌だと頭を抱え、諦めの縁で蹲る。だが、それでも自分自身を叱咤し、また多くの人々の助けを借りて、心折れても立ち上がることが出来た。

 

「俺は負けられない! もう絶対に……この聖剣を握り続ける限り!」

 

 次で勝負が決まる。『名無し』は全スタミナを注ぎ込んだ最後の攻防に備える。対するランスロットは闇濡れの大剣を肩で担ぎ、覗き穴から漏れる黄金の光を細める。

 

「貴様ハ……大キナ思い違いヲしてイるようだナ」

 

 ランスロットの自我が更に濃くなる。また1つ本物に近くなる。

 

「真なる聖剣……月光ノ聖剣ハ『英雄』ノ呪縛をもたらすノだろウ。ダガ、【聖剣の英雄】トハ、はたして貴様が『本当にありたかった姿』なのカ、甚だ疑問だナ」

 

 これが最後の攻防と考えるのはランスロットも同様だろう。

 

「貴様も『奴』と同ジだな。『嘘』に塗レル。だが、貴様はまダ間に合ウ。『嘘』に殉じる大馬鹿者なド……1人で十分ダロう」

 

 先に動いたのはランスロット。黒雷の大槍を出現させて空へと放つ。黒雷は拡散して暗雲と化し、無数の黒雷の雨が降り注ぐ!

 これがランスロットの奥の手! 回避すらも困難の黒雷の槍の雨を『名無し』はギリギリで躱し続ける。だが、回避ルートに当然の如くランスロットは瞬間移動で出現し、縦横無尽に斬りかかる!

 皮1枚で首が裂ける! 胴に刃が潜り込む! 太腿から血飛沫が上がる! だが、『名無し』は致命傷にならないように凌ぎきる!

 残量HP1割未満! 激しく赤く点滅するHPバーに死への恐怖と焦りがせり上がる。だが、それに屈することなく、最後の勝機に備える!

 黒雷の槍の雨がもたらした破壊は土煙を巻き上げ、視界を奪い尽くす。『名無し』はランスロットの姿を探す……のではなく、呼吸を整えて『静』を成し、月蝕の奔流を刀身に束ねる。

 研ぎ澄ませ。ランスロットの居場所が何処であろうとも必ず一撃を与えるという意思を確固たるものにしろ!『名無し』は自分の脳の奥底……仮想脳の脈動を感じ取る。

 瞬間移動による背後からの強襲。心臓を刺し貫くだろう一撃を、『名無し』は『ノーモーション』で躱す。ランスロットからすれば、『名無し』が微動にもせずに超スピードで半歩だけズレたように見えただろう。

 心意、ゼロ・モーションシフト。スローネの雷と併用することによって、それはもはやランスロット級の瞬間移動したかのように他者には映るだろう。

 剣の間合いにおける半歩は生死を分かつ。これこそが『名無し』の出したゼロ・モーションシフトの有効活用であり、心意による消耗の最大抑制だった。

 

「これは、俺の【深淵渡り】ノ……」

 

「ああ、きっとアンタへの憧憬が生んだ心意なんだろうな」

 

 月蝕の奔流を収束させた最大威力の月蝕突き! ランスロットの胸部の中心を刺し貫いた月蝕の聖剣は、その破壊力を開放する。解き放たれた月蝕の奔流は破壊の刺突を生み、ランスロットの胸を完全に刺し貫き、心臓まで吹き飛ばしただろう。

 血反吐ではなく白い塵を兜から漏らし、ランスロットはぐらりと傾くと月蝕の聖剣を胸から抜く。スタミナ切れになった『名無し』は片膝をつき、それでも聖剣を震える腕で構えて決着を見届ける。

 ランスロットは『本物』ではなかった。戦闘能力はまるで『本物』の域に達していなかった。発言からして使えなかった能力もあったと見るべきだろう。そもそもとして、彼は第1段階の姿なのだから当然だ。

 スローネの雷、≪集気法≫の最大活用、聖剣、そして心意が揃ってようやく入った一撃。だが、『名無し』は見抜いていた。最後の月蝕突きをランスロットは黒炎で軌道を反らし、逆に大剣の斬り払いで『名無し』の首を落とすつもりだった。それが出来なかったのは、ランスロットの自己認識に『ズレ』があったからだ。

 『本物』ならば当然のようにできることだった。だが、『本物』に至っていないコピー・ランスロットでは不可能だった。中途半端に意識を持ってしまったランスロットは『カウンターを狙う』という誤った判断を下してしまったのだ。

 どれだけ『本物』に近づいたとしても、決して『本物』と同一にはなれない。悲しい程に、本人が繰り返した通り、目の前のランスロットは『贋物』なのだ。

 

「貴様ハ『真実』を見落とシてイる。今1度、聖剣と向き合ウベきダ」

 

 ランスロットは白い塵となって姿を崩していく。だが、『名無し』との戦いは悪いものではなかったというような微かな喜びがそこにはあった。

 

「始まリノ聖剣……そレコそガ月光の聖剣。貴様にソの資格はナい。故ニ俺ハ、タトえ深淵狩りの裏切者であるとシテも、貴様を聖剣の主トは認めン。だが……フッ、灯台下暗しカ。貴様ハ『真実』を手にしナガラ理解できテいナい」

 

「どういうことだ!?」

 

「自分デ気づケ、阿呆ガ。言ってオクが、聖剣に関しテ言えバ、モルドレッドは俺程ニ優しくナいぞ? せイゼい奴ヲ認めさセルこと……だ、ナ。今ノ貴様でハ……まズ勝ち目ハ……無イ」

 

 ランスロットは消える右手から大剣を落とし、その刃もまた地に触れる前に塵となる。

 

「やレやれ、死後ニ……贋物とナっテ……聖剣ノ所有者ニ……助言とはナ。まぁ、悪クなイ。我ガ生涯最強の敵……奴ガ教えてクレた……夜明けノ温かさと美シさ……その返礼くライには……なった、カ」

 

 そして、ランスロットは威風堂々と……HPが尽きて敗れたと思えぬ程の凛とした立ち姿のまま消えた。まるで最初から存在しなかった幻だったかのように、だが死闘は本物だったと破壊の跡地に残された『名無し』は、虚しいリザルト画面を見もしないで消す。

 心から望んでいたランスロットとの再戦。だが、結果はどうだろうか? ランスロットは廃坑都市の時よりも成長を遂げ、その実力は『本物』にはまるで届いていないにもかかわらず、『名無し』を終始圧倒し続けた。

『名無し』も成長しているのだろう。だが、ランスロットはそれを超える成長を遂げていたのだ。あれ程の強者が更なる高みへと至るならば、目指すべき武の頂とはどれ程のものなのか、言わずとも体感できる。

 聖剣を睨み、『名無し』は胸の内で語りかけようとして、だが言葉を呑み込む。ランスロットとの戦いにおいて、聖剣は一瞬として彼を手助けしなかった。月蝕を払い、月光を差し込ませることはなかった。

 聖剣の資格とは何なのか? もしも『真なる英雄』であることならば、それは『名無し』では決して得ることは出来ないだろう。

 他でもない『贋物』のランスロットの言葉が胸に突き刺さる。結局のところ、『名無し』は『英雄』を演じ続ける者なのだ。それは虚言に満ちた……嘘と欺瞞で塗り固められた『贋物』なのだ。他者が聖剣を通して彼に見る憧憬と希望と嫉妬、それらを投影した都合のいい偶像なのだ。

 

「それでも、俺は……『英雄』を演じ続けないといけない」

 

 この聖剣は余りにも重いのだ。『英雄』を演じ続けなければ押し潰されてしまいそうなほどに重過ぎるのだ。

 誰もが彼を『英雄』と呼ぶ。聖剣で困難と恐怖を切り裂いて道を開き、人々を導く希望の象徴だ。

 自分で選んだのだ。この呪われた称号を背負うと決めたのだ。だからこそ、親しき者たちには『英雄』ではない姿で接したかった。そうでもないと心の均衡を保たてないのだ。

 だが、『仮面』がどうやっても剥ぎ取れない。皮膚を貫き、肉と骨に根を張っているかのように、心休まることなく『英雄』という称号が意識を苛めるのだ。そして、その分だけ聖剣を使いこなせていない、認められていないという結果が心を抉るのだ。

 

「ラストサンクチュアリの皆を守る。俺が始めたことだから……必ず……守り抜く。俺は負けられないんだ」

 

 その為にもエイジを捕縛しなければない。ランスロットの不穏な発言は気になるが、今は逃がしたシリカとの合流が最優先だと、『名無し』はHPとスタミナの回復と同時に動き始めた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 一緒に戦うと決めたのに。シリカは涙を湛え、戦場から逃げるしかなかった自分を恥じる。

 あれがランスロット。かつて『彼』とシノンが2人がかかりでも第1段階さえも突破できなかったアルヴヘイム最強の黒騎士。疑いこそしていなかったが、2人の誇張も含まれているだろうという思いも捨てきれていなかったシリカは、コピー・ネームドとはいえ、遭遇した事で嫌でも理解した。

 プレイヤーが……いいや、人間が『個人』で勝てる存在ではない。個人で軍団に匹敵する、あるいは超える戦闘能力を有した本物の超越者だ。

 DBOにおいて、古竜や神などの伝説とも呼ぶべき存在と戦う機会はある。だが、そのいずれにおいても必ず勝機は見えるものだ。膨大なリソースに物を言わせて『神』の力を手に入れていたオベイロンでさえ、突出した個人と統率された軍団によって追い詰めることができたように、必ず勝利のビジョンが見えた。

 だが、ランスロットには何も見えなかった。全くの『闇』だ。SAOを生き残り、アルヴヘイムにおいて最古の深淵の主と相対した経験も持つシリカでも、絶対的な『敗北』と『死』のイメージに捕らえる絶対強者だ。

 たとえ、3大ギルドの全精鋭と1桁ランク傭兵を掻き集めたとしても、どれだけの死者が出るか分かった者ではない。いや、はたして『犠牲を容認した程度』で勝てるだろうか。

 

「私はなんでこんなにも弱いんですか!?」

 

 お世辞でも近接戦闘に卓越しているわけではない。シリカの強みはピナとのコンビで行う多種多様な援護だ。また、スキル関係も探索や補助に特化させている。サポーターにアタッカーやタンクの役割を求めるなど的外れもいいところであるが、シリカは彼の隣にやはり自分では立つことが出来ないのだと痛感する。

 シノンならば射手として巧みに連携を取れるだろう。リーファならば彼の隙を埋めるだけの剣の腕がある。彼女たちがいれば、ランスロット相手でも少しは『彼』の重荷を減らすことができたのではないだろうかとシリカは悪い方向ばかりに仮定を膨らませる。

 

「もしも、クゥリさんがいたら……」

 

 最強と評された白黒コンビ。『彼』の実力を何倍にも引き上げて、アインクラッド100層攻略の時まで『相棒』であった白き傭兵を思い出し、シリカは奥歯を噛む。

 苦渋が滲むシリカの頬を伝う涙を、肩にのっていたピナが舐め取る。慰めてくれる大切な友達に感謝しながら、シリカは袖で目元を拭うとピナと同時に≪追跡≫スキルを発動させる。十分に追える距離ではあるが、『彼』を放っておいて動くこともできず、まずは合流に備える。

 と、そこでシリカはまるで竜が通ったかのような都市の破壊跡に遭遇する。都市は破壊不能オブジェクトではあるが、戦闘による影響によって破損して時間経過と共に自動復元されていくタイプだ。故に外灯や自動車の破損、道路の舗装が剥げる程度は十分にあり得るのだが、シリカが発見した破壊跡は度が過ぎていた。

 まるで竜が暴れ回ったかのような破壊跡は≪追跡≫スキルが示すターゲットの逃走経路と合致する。

 これだけの破壊力をターゲットが有しているとは考え難い。ならば、別の誰か……仲間と合流したと考えるべきだろうか。ターゲットがこの都市で機密の取引を予定したならば十分にあり得る展開である。

 

「この街はどうなってるのよ!? あんなバケモノ、何処の誰が倒したっていうのよ!?」

 

「さぁな。オレもアルヴヘイムで直接相対していない。オベイロンの攻撃に巻き込まれて死んだのかもしれんが、真偽は不明だ」

 

「アルヴヘイムねぇ。ランク1様や【聖剣の英雄】が冒険した狂ったアルヴヘイム……本当にDBOって何が起こってもおかしくないのね」

 

「貴様も傭兵を続けていれば、いずれそうした異常に巡り会う時も来るだろう」

 

「嫌よ」

 

「フン。度胸が足りん奴だ」

 

 この破壊跡に導きかれてか、あるいは別の理由か。こちらに向かって来るユージーンとアラクネ傭兵団を発見し、シリカは咄嗟にゴミ箱の陰に隠れる。だが、索敵スキルの高いメンバーがいたのだろう。アラクネ傭兵団の1人が警戒態勢を取り、それに応じてユージーンとアラクネもまた武器を構える。

 

「3秒以内に出て来い。オレの≪剛覇剣≫の破壊力は知らんわけではあるまい?」

 

 ドラゴンにすら一撃で深手を負わせることができるユージーンの≪剛覇剣≫は、ガード無効化と突出した一撃の破壊力が特筆される。シリカが素直にホールドアップしてゴミ箱の陰から出れば、ユージーンは素直に剣を下ろした。

 

「あら、アンタってUNKNOWNの……。これってランク1様の予想通りってわけ?」

 

 ユージーンと違い、警戒を解くことなく、部下に命令してシリカを囲わせたアラクネは、僅かに顔を歪める。よくよく見れば、彼女の左顔面は包帯に覆われ、また右足も引き摺っていた。また、彼女を含めて総勢9名のはずだ。だが、今はその数も4人と半数以下である。

 

「どうする? 殺す?」

 

「止せ。彼女を害せば、オレはここで奴と決着を付けねばならなくなる。それは望むところではない」

 

「……お優しいことね」

 

「貴様は血の気が多過ぎる。幾ら仲間を喪ったからといって――」

 

「私にとって団員は家族同然! 手足をもがれたようなものよ! この怒り、たとえランク1だろうと軽んじさせるつもりはないわ!」

 

 唇を噛んで血を流し、怒りで濁った右目でユージーンを睨んだアラクネは、沈黙を守るシリカに迫る。

 

「今の私に優しい対応なんて期待しないことね。アンタの知ってることを全部話しなさい」

 

「……取引ですか?」

 

 慎重に言葉を選んだつもりのシリカだったが、アラクネの容赦ない裏拳がシリカの右頬を打ち抜く。数度バウンドして焼き焦げたアスファルトに転がったシリカは、口内に広がった血の味に、今は感情に振り回されるべきではないと己を律する。

 威嚇するピナにハンドサインで制止を呼びかけ、シリカはこちらに攻撃の意図はないとアピールするようにゆっくりと立ち上がる。

 

「傭兵とはいえ、知人相手に初手で暴力で訴えるのはオレの望むところではない。アラクネ、貴様は下がれ」

 

 アラクネの肩を叩いて冷静になるように呼び掛けたユージーンは、両腕を組んでその大柄な体躯を活かして威圧するようにシリカを見下ろす。

 

「貴様がいるならばUNKNOWNもいるのは、まず間違いないだろう。敢えて、貴様らの目的が何かは問うまい。そちらにも依頼の秘匿義務があるだろうからな。傭兵ではないとはいえ、サポートで参加した貴様の口を割らせるつもりはない。アルヴヘイムを生き残った者同士の温情だと心得ろ」

 

「……ありがとうございます」

 

「その上で貴様に情報を求める。オレたちはコピー・ネームドとの戦闘中に、特異なネームドに襲撃された。奴の名は……ランスロット。最初の奇襲で2人が死んだ。オレたちは陣形を一瞬で崩され、奴の黒炎で足止めを喰らったオレは、戦っていたコピー・ネームドに隙を突かれ、捕縛攻撃を受けた」

 

「皮肉よね。私達が生き残ったのは、捕縛攻撃……要は【貪食デーモン】に丸呑みされていたからなのよ。アイツの腹の中だったお陰で助かった」

 

 少しだけ冷静さを取り戻したらしいアラクネは、死んだ仲間に顔向けできないとばかりに俯く。

 貪食デーモンは『最弱』ネームド候補である。見た目は丸々と太った、前足だけ備えたオタマジャクシのような姿である。およそ攻撃が捕縛攻撃と言う名の捕食攻撃くらいしかなく、後は転がるか跳んでスタンプするかのどちらかしかない。攻撃も単調であり、重量通りの火力の高さを考慮しても、常に側面か背後を取っていれば、まず負けることはないと判断され、事実として死者ゼロで討伐されたネームドでもある。なにせ、第2、最終段階でも捕食攻撃の強化以外は何も無いのだから、余程間抜けな指揮官でもない限り、負ける要素が無いのだ。

 

「姐さん、今は生き残ったことを喜びましょうや。いつも言ってることでしょう? 俺達傭兵は生き残ってなんぼだって」

 

「……そうね。でも、あの黒騎士には落とし前をつけないと気が済まないわ! それに、こんな糞みたいな戦場を生み出した奴……ノーチラスを潰すわよ!」

 

 それは逆恨みなのでは? 思わず指摘しそうになったシリカは、アラクネを刺激して本当に殺しにかかられては困ると口を閉ざす。ノーチラスからすれば、自分を追って来た連中がどれだけ傷つき、犠牲を出したところで、それこそ責任を負えるものではないだろう。だが、アラクネにとっては違うらしく、彼女の中では確かな正当性を持ってノーチラスへの復讐心を滾らせているようだった。

 それを理解してか、ユージーンは嘆息する。生存さえしていれば、行き過ぎた『尋問』は容認するつもりなのだろう。

 

「ランスロットは『彼』と交戦中です。私が最後に見た限りでは、互角以上に斬り結ぶことができたと思います」

 

「さすがは【聖剣の英雄】様ね」

 

「フン! このオレも奇襲でさえなければ、奴を斬り伏せることはできた」

 

「でも、ランク1様も私も最弱候補ネームドの腹の中だった。そうでしょう?」

 

「誰のお陰で脱出できたと思っている? このオレが内部から≪剛覇剣≫で爆散させていなければ、貴様らは骨も残さずに消化されていただろうに」

 

 逆に言えば、腹の中では捕縛状態で余程のSTR……つまりは馬鹿力が無ければ行動不能であるはずだ。ユージーンの高STRと高出力化と≪剛覇剣≫の3つが揃ってこそ、外部からの手助け無しで脱出できたのだろうともシリカは予測した。

 

「急ぐぞ。UNKNOWNはこのオレに匹敵こそするが、ランスロットは単身で相対させるには危険過ぎる。協力して奴を倒す。シリカ、案内しろ」

 

「分かりました」

 

 アラクネ傭兵団は半壊、ユージーンは目立った負傷はない。前者はともかく、ランク1の参戦は大きなプラスになるはずだ。シリカはピナに先導させ、UNKNOWNとランスロットの交戦地へと急ぐ。

 だが、この無駄に大き過ぎる破壊跡のせいか、警備ロボットが続々と登場する。慎重に隠れ潜んで進むならばともかく、先を急ごうとすれば戦闘となり、結果的に足止めを喰らう。

 間に合ってください! シリカは不安を振り払うように、ランスロットに両断された『彼』の遺体を想像し、泣きたくなる心を必死に支える。

 

「……シリカ」

 

 そして、先に聖剣を手にしたUNKNOWNが燃え残る黒炎を斬り払うように現れる。まずはシリカを、続いてユージーンたちを視認して剣を構えるも、すぐに敵対する意思はないと判断したのだろう。聖剣を背負って無手で歩み寄る。

 

「ユージーン」

 

「その様子だとランスロットは倒したようだな」

 

「……ああ」

 

「そうか、よくやった。しかし、こうして戦地で会うのは久しいな。貴様の目的は大よそ見当もついている。ならば、我々はライバルであり、ここで剣を交えても何1つおかしくない。だが……」

 

「まずはこの状況を打破するのが優先だよな。俺も同意見だよ」

 

 傭兵最強候補の2人は、ここで無為に争うことよりもコピー・ネームド祭りを終わらせることを優先したらしく、握手を交わして結託する。アラクネも文句はないらしく口出しはしない。

 

「情報の出し惜しみはしない。意見があったら聞かせてくれ」

 

 UNKNOWN主導で情報共有がされる。ユージーンたちはネームドの出現位置による重要地点の割り出しにはまだ到達していなかったらしく、驚きを隠せない様子だった。

 

「なるほどな。剣技だけではなく、情報分析にも長けているようだな」

 

「ゲーム勘がいいだけさ。そんな大層なものじゃないよ」

 

「だが、ノーチラスが教育施設にいたのは偶然ではないだろう。何か目的があって居合わせたに違いない。そうなると奴の次の行き先は……発電施設か」

 

「…………」

 

「フン、気にするな。依頼の守秘義務はあるが、今のオレたちは『仲間』なのだろう? ならば、これも『情報共有』だ」

 

 それで許されるのでしょうか? ユージーンの力押しの理屈にシリカはある種の感動を覚える。ランク1がノーチラスの捕縛に駆り出されたともなれば、ターゲットが機密情報を持っていると裏付けされたようなものだ。だが、ユージーンはそんなこと知ったことではないと言った様子である。

 

「この都市は人気がないとはいえ、オレたち以外の普通のプレイヤーもいた確率は捨てきれん。どれだけが犠牲となり、どれだけが生き残っているのやら。早急に事態を終息させること。それはオレたちの共通認識でいいな?」

 

「もちろんだ。幾らコピーとはいえ、ランスロットのように危険な奴もいる。もしも竜の神のような超大型ネームドが出現したら、どうなるか分からないからな」

 

「確かにな。オベイロンなど、むしろコピーの方が強そうではあるな」

 

「ははは、そうだな。でも、奴は本来のネームド・アバターではなく、改造して強化を施したイレギュラー・アバターとして登場したはずだ。さすがに出現することはない……と信じたいよ」

 

 2人の危惧通り、この状況で最も危険視すべきなのは、甚大な被害をもたらす広範囲攻撃を備えた超大型ネームドの出現である。今はまだ登場する気配がないが、絶対に現れない保証などない。事実として大型に分類される湖獣も出現したのだから。

 2人の1桁ランカーが熱心に話し合う間に、シリカは体を休ませるように半壊した自動車のボンネットに腰かけるアラクネに近寄る。

 

「ピナ!」

 

 シリカの呼びかけに応じ、ピナは光輝く竜鱗をアラクネに浴びせる。ピナの持つHP回復能力であり、アバターの修復速度上昇とダーメジフィードバックの緩和という2つの効果備わっている。

 驚いたアラクネは、少しだけ楽になったらしい右足に触れ、礼と謝罪を込めるように軽く頭を下げた。

 

「さっきは悪かったわね」

 

「いいえ。あの時、私達はまだ敵同士でしたし、仲間を喪う痛みは私も分かってるつもりです」

 

 もう2度と仲間を喪いたくない。大切な人を死なせたくない。その気持ちは誰もが同じだはずだ。親しき者たちの死を望むなどあるはずもない。

 

「何度味わっても仲間の死には慣れないわ。いいえ、慣れるべきじゃないのでしょうね」

 

 左顔面を覆う包帯を外し、ランスロットの黒炎で焼き抉られただろう、修復途中の傷痕を撫でるアラクネは、仲間の死を悔やむように黙祷する。

 

「仲間の死に慣れるなんて絶対にありません。何も感じなくなるのは、心が死んだ時です」

 

「その方が楽だって思う時はない?」

 

「無いです。心が死んだら、生きる意味なんてないじゃないですか」

 

「……アンタは私よりもずっと『強い』わね」

 

 アラクネは少しだけ羨ましそうに笑い、彼女がアラクネ傭兵団を率いる理由をシリカは知りたくなる。

 

「方針が決まった。オレたちはノーチラス捕縛に向けて発電施設を目指す」

 

「あら、いいの?」

 

「取引をした。仮にオレたちがノーチラスを捕まえた場合、ラストサンクチュアリと会談の席を設けるとな。ベクターも応じる他あるまい」

 

「勝手に決めていいのかしらね。私達まで責められるのはごめんよ?」

 

「責任はこのオレが持つ。ベストではなくベターだと奴も了承するはずだ。それが『政治』だと心得ている男だからな」

 

「傭兵に政治を求めるんじゃないわよ。私達は依頼をこなすだけ。そうでしょう?」

 

「だから貴様はランクが上がらんのだ。そもそも傭兵団などオレは認める気もないがな」

 

「上がりたくもないし、認められなくてもいいわよ。今くらいが丁度いいわ」

 

 不遜にして豪快。幾らランク1とはいえ、大ギルドのトップ相手に無許可でラストサンクチュアリと取引の場を準備すると断言するユージーンは、ノーチラスから得た機密をUNKNOWNと共有するつもりなのは明らかであり、また信頼に値するともシリカは頷けた。これもまたアルヴヘイムで培った絆なのだろう。また、アラクネ傭兵団の分の責任も持つ気のユージーンの男気には、シリカも敬意を表すに足るものだった。

 

「ノーチラスが連れていたNPCの少女だけど、湖獣との戦いで何かを獲得している様子だった。あれは多分……楽譜だと思う。まだ断言はできないけど、ノーチラスが連れているNPCはイベントの鍵になっているはずだ。彼女を確保すれば、このイベントの攻略も見えてくるかもしれない」

 

「フン。ほぼ確信があるのだろう? 五体満足は約束できんが、奴らを捕まえる役割は任された。湖獣程度に後れを取るならば、奴の実力は底が知れた。分かり切っていたことではあるが、オレの敵ではない。むしろ、殺さないように無力化する方が骨は折れそうだな」

 

「彼は『覚悟』を決めている。投降はしない。死に物狂いで抵抗するはずだ」

 

「『覚悟』があるからといって、絶対的な実力差は覆らん。戦えるだけの『力』があってこその『覚悟』だ。それはオレも貴様も十分に知っているはずだ。気持ちだけで苦難を踏破できるならば、DBOはとっくにクリアされているだろう」

 

「……そうだな」

 

 ユージーンの言葉はシリカにも突き刺さる。

 やり直したい。もう1度関係を改めて始めたい。だからこそ、シリカは『彼』の傍にいて、はたして今の自分が本当に役立つのだろうかと悩む。

 

「俺とシリカは『心当たり』を探る。今回のイベントの裏側が分かるかもしれない。ランスロットを倒したポイントでメール機能を使用可能にする『アクティブ・コール』を獲得してある。何か分かったら俺の方から連絡するよ」

 

 ユージーンたちは発電施設へと、シリカたちはイベントの謎を探るべくある場所を目指して出発する。潜在的敵対者が減ったのはありがたいが、同時にラストサンクチュアリが得られるはずだったクラウドアースに対する交渉カードの価値も下がった。もはやベストの結果は望めない状況である。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ランスロット戦の傷ならもう癒えたよ」

 

「そうじゃなくて、その……」

 

 UNKNOWNの思いつめた重苦しい雰囲気を感じ取り、シリカはどう尋ねるべきか苦悩する。

 いいや、本当は分かっている。聖剣を覚醒出来ない焦りとそれに伴った助けられなかった人々、そして【聖剣の英雄】という称号とラストサンクチュアリ1000人の運命という重圧。平気なように振る舞っているが、今にも窒息してしまいそうな程に精神的に追い詰められているはずだ。

 ギリギリで保たれていた心の均衡。それがランスロット戦で亀裂が入ってしまったかのような危うさを感じる。

 

(もしも、私じゃなくて、アスナさんが生きていたら……)

 

 アスナの死から復讐と憎悪に狂い、ヒースクリフ……茅場昌彦を倒しても心の傷は癒えなかった。アスナを取り戻すべくデスゲーム開始を見過ごし、アルヴヘイムで罪を背負い、聖剣と共に立ち上がり、オベイロンを倒し、だがその果てに待っていたのはアスナの亡骸だった。

 平気なはずがない。悲願は砕かれ、聖剣と称号に呪われた戦いの日々だけが与えられた。むしろ、よくぞ心折れることなく【聖剣の英雄】を演じているものである。同じ状況ならば、シリカは聖剣を放り捨てることを選ぶはずだ。あるいは『英雄』という称号を唾棄して聖剣を願望のままに振るうはずだ。

 

「少し休みましょう。仮眠の準備をします」

 

 UNKNOWNが獲得したポイント能力のお陰で都市内の移動は楽になっている。シリカはせめて自分に出来ることをすべく、先を急ごうとする『彼』の手を引く。

 監視カメラに覆われた電気自動車の補給用のエネルギースタンドにて、休憩用のベンチにて、シリカは隠密ボーナスを高める【自動迷彩寝具】を具現化させる。人間2人ならば余裕で包まることができる大きな毛布は、隠密ボーナスを高めるだけではなく、周囲の風景に溶け込むことによってより発見され難くなる。

 肩を寄り添い合い、シリカは毛布の中でUNKNOWNの右手にそっと自分の両手を重ねる。

 

「ごめんなさい。私って頼りないですよね」

 

「ランスロット戦のことなら気にしないでくれ。俺も言葉が過ぎたと思う。すまなかった」

 

「謝らないでください。私が足手纏いなのは本当ですから」

 

「そんなことない。シリカのお陰で、俺は今日まで戦ってこれた」

 

「でも、1番ピンチの時に私はいつも何もできないです」

 

 慰めるつもりだったのに。癒すつもりだったのに。そのはずなのに、シリカは自分の方が心中を吐露している事にどうしようもなく情けなくなる。

 かつての自分だったならば愛を押し付け、彼を包み込もうとしたはずだ。だが、今のシリカには出来ない。『やり直す』とはそういう事なのだ。

 

「オベイロンとの戦いの時、痛みと聖剣の夢に囚われていた俺を呼び戻してくれたのは……シリカだ」

 

「でも、私以外でも――」

 

「ずっと一緒にいてくれたシリカだからこそ、呼び戻してくれたんだと思う。他の誰でもない、キミの声が俺を戦わせてくれた」

 

 仮面に隠された顔はどんな表情を刻んでいるのだろうか。星空を見上げるUNKNOWNに、シリカは無性に仮面を剥ぎ取りたい衝動に駆られる。

 だが、それは許されないことだ。『彼』が仮面を外さないのは、白い傭兵との約束であり、また同時に仮面そのものが彼の背負う業でもあるからだ。

 ラストサンクチュアリの守護者。貧民1000人の命運を背負う、聖剣に選ばれた英雄。他者が押し付け、また望んで『演じる』からこそ、『彼』は自分の手で仮面を外すことは決して出来ないのだ。

 

「……分からないんだ。どうして俺に聖剣が託されたんだ? 俺よりも相応しい奴はいるはずなのに、どうして?」

 

 シリカに引き寄せられるように、UNKNOWNもまた、『英雄』としての彼しか知らぬ者からは想像もできない弱々しい声音で苦悩を紡ぐ。

 

「それでも、必死に聖剣に見合うように頑張ったつもりなんだ。時間が必要なのも分かってる。簡単に聖剣が応えてくれるとも思っていない。でも、1番必要な時に、俺はいつも聖剣に拒絶されるんだ。何かが失われてから、聖剣は月光を取り戻すんだ」

 

 悲劇無しで英雄は生まれない。聖剣とは正しく英雄の武器であるならば、『彼』が悲劇を味わってから覚醒するのかもしれない。まるで『彼』の苦悩と苦痛を味わうように、聖剣はこれ見よがしに真の姿を露にする。そして、悲劇の先に勝利を掴んだ『彼』の英雄性をより高める。

 UNKNOWNの言う通り、聖剣に意思があるならば、まるで好んで破滅をもたらそうとする悪女のようだ。むしろ、率先して『彼』を苦しめようとさえシリカには感じる。

 

「勝手に託されたんです。だったら、こっちだって勝手に捨ててもいいんですよ」

 

「……シリカは優しいな」

 

「私に出来るのは上辺だけの慰めですから」

 

「そうやってハッキリ言ってくれる分だけ気楽になるよ」

 

 ちゃんと分かっている。託されたからこそ生き抜くことが出来たと『彼』は責務を感じている。聖剣があったからこそ救えた人たちがいるならば、決して投げ出すことはできないのだ。

 

(私は……何も変わっていない)

 

 関係を改めたかったはずなのに、傷の舐め合いしか出来ない。それでも、シリカは今だけでも、少しだけでも『彼』に楽になって欲しかった。彼を甘えさせるように引き寄せ、人肌を触れさせる。

 

「全てを投げ捨てたいなら、私はいつだって賛同します。何処にだって一緒に行きます。忘れないでください」

 

 責任も使命も約束も、何もかも全てを放り捨てて逃げられないこそ『彼』なのだとシリカは知っている。

 SAOでもそうだった。『彼』は復讐心と憎悪を抱きながらも、眠れぬ夜と悪夢の度に、死んだ人々……何よりもアスナに許しを求めて泣いた。『彼』を抱きしめて、偽りでも許しを与えるのがシリカであり、そこにあった歪んだ安心感と満足感と狂った愛情こそが彼女を生に繋ぎ止めた。

 

「俺達は……」

 

「いいじゃないですか。私は『これでいい』んです。これが……私の望む『やり直し』なんです」

 

 同じ轍を踏んでいるだけなのかもしれない。だが、SAOの時とも、DBOに乗り込んだ時とも違う。『彼』は復讐心でもなく、憎悪でもなく、アスナを取り戻そうとする願望でもなく、背負った罪、聖剣の責務、そして己に刻んだ使命に苦しんでいる。

 ならばこそ、シリカは『これでいい』と望むのだ。在り方は似ていても、以前とは決定的に違うはずだ。自分も『彼』も確かに前へ、より良い未来を求めて進んでいるはずなのだから。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「うわぁ! お祭り! お祭り! すごーい!」

 

 飛び跳ねて全身で嬉しさを表現する無邪気なカガリの右手をリゼットが、左手をモンスーンが握り、ゲートを潜ればクラウドアース肝入りの仮設アミューズメントパークが待っている。

 クラウドアースが建設を予定しているアミューズメントパークのデータ取りとプレイヤーの人気取り、そして影響力と財力の誇示を目的とした催しである。クラウドアースが運営するコロシアム周辺は、元より出店などで日々賑わっているが、今日は普段の倍以上の賑わいだった。

 

「おじさん、ありがとう! 本当に連れてきてくれたんだね!」

 

 今日は落とさないようにと、背負ったリュックから猫のぬいぐるみの顔を覗かせたカガリは嬉しそうに礼を言う。

 

「約束したからな。良い子にしたら連れてってやるって」

 

「あら? いつの間にそんな約束したの? 私以上にデレデレじゃない」

 

 意地悪な顔をしたリゼットの横目から逃げるように咥えた煙草に火を点けようとしたモンスーンであるが、係員に睨まれて大人しく煙草をケースに戻す。本日は全面禁煙なのである。

 プレイヤーは娯楽に飢えている。コロシアムでは興行デュエルやモンスターズ・アリーナなど血の気の多い催しものこそあるが、そればかりが求められるわけではない。

 クラウドアースは常にプレイヤーのニーズを調査し、それに応えることで財力と影響力を獲得して、3大ギルドでも特に武力が関与しない支持層を得ている。これもまたクラウドアースのトップであるベクターの戦略であり、他の大ギルドが出遅れている分野でもあった。

 

「ジェットコースター、お化け屋敷、コーヒーカップ……定番は揃ってるわね。カガリちゃんはどれがいい?」

 

「リゼットさんと一緒に遊べるのがいい!」

 

「もう! カガリちゃんったら! リゼットお姉さんの好感度を稼いでもハグしか出ないぞ~♪」

 

 もう好感度はカンストしているのではないだろうか? モンスーンがそう疑いを持つ程に、リゼットはカガリを圧殺する勢いで抱きしめる。

 多くのプレイヤーが日々の闘争を忘れるように、逃避するように、クラウドアースの狙い通りに、様々な施設がもたらす刺激と体験にのめり込んでいく。生死を分かつ殺し合いから離れた、コロシアムのように血が流れることもない、健全なる娯楽が心を安らげるのだ。そこにどのような政治的背景があろうとも、甘受する大多数のプレイヤーからすれば実利の方が上回っていることである。

 

「リゼット」

 

「分かってるわよ。『カモフラージュ』でしょ? でも、カガリちゃんも私達も楽しまないと損じゃない」

 

「……そうだな」

 

 小声で諫めたモンスーンに、リゼットは笑顔で『目的』を忘れているわけではないと頷く。

 

「それで、何処にあるんだっけ?」

 

「……ホラーハウスの中だ。スタッフも配置されていない鏡の部屋にあるオブジェクトの中だ」

 

「何でそんな場所に隠したのよ?」

 

「俺が仕事の範疇で手を加えることができて、怪しまれることなく運び出せて、なおかつ絶対に見つからないからだ」

 

「確かにホラーハウスなら、万が一でも探られることはないでしょうけど、もっとマシな案は無かったの? カガリちゃんが怖がっちゃうじゃない」

 

 カガリはむしろ計画外なんだがな。溜め息を吐きたいモンスーンは、胸の内のしこりを意識する。

 今日で全てが終わる。やっと『秘密』から解放される。だが、その一方で今のモンスーンは素直に喜ぶことも出来ない。

 間違いを正す。カガリはモンスーンとリゼットの『秘密』を知る由はなくとも、彼らが無意識でも罪の意識を抱えていることを感じ取っていた。だからこその『間違い』……善悪ではなく、自分たちの心を裏切る『間違い』として、カガリはまだ正すことができるのだと告げたのだ。

 リゼットの言う通り、もう間違いを正すことは出来ない。『終わってしまった』ことだ。だが、本当に『間に合わない』ことなのだろうか? 罪の意識から逃避しているが故に諦めているだけなのではないだろうか?

 

「おじさんは楽しくないの?」

 

 と、考え込んでしまっていたモンスーンの表情が強張っていたのだろう。カガリの無垢な眼に見上げられ、モンスーンは誤魔化すように笑う。

 

「まさか。楽しいよ。だけど、今日はお前が主役だ。好きなだけ遊んでいいんだ。約束を守った良い子のご褒美だよ」

 

 本当は約束うんぬんなど口からの出まかせで、最初からカモフラージュの為に連れてくる予定だった。だが、モンスーンはさすがにそれを告げることは出来なかった。

 だが、カガリは何か不思議そうに、噛み締めるように、あるいは戸惑うように、モンスーンの手を握る力を強める。

 

「ほらほら、早く! 出遅れたら待ち時間が伸びちゃう! まずは穴場から狙うわよ!」

 

 カガリ以上にはしゃぐリゼットに引き摺れる形で、まず最初に選んだのは、まだ列を作っていないコーヒーカップだ。さすがに定番過ぎた、もとい現実世界でも廃れている部類のせいか、人気は他を下回っているようだった。

 

「回れ! 回れ! ぐるぐる回れぇえええ! おりゃああああ!」

 

「リ、リゼット! 回し過ぎ! 回し過ぎだ!」

 

「さらにもう1つ!」

 

「止めろ、ゲロ女!」

 

「誰がゲロ女ですってぇええええええ!?」

 

 遠心力でチーズになるのではないかと思うほどの高速スピンを味わい、平衡感覚を失ったモンスーンをリゼットは大笑いする。大してカガリはまるで平気だったらしく、彼がしゃがみ込んで息荒くなっている理由が分からないようだった。

 続いてバルーンワールドと名付けられた風船の海にて、風に攫われるままにモンスーンは名前負けするほどの絶叫を上げる。人間1人を浮かす風量で様々なバルーンアートの世界を飛ばされるとは、現実世界ではあり得ない体験であり、これぞ仮想世界と頷けるが、そもそもとして色覚が無いモンスーンでは、色鮮やかなバルーンアートを楽しむことは出来ない。

 そのはずだった。だが、リゼットの輝く目を見れば、どれだけ色彩豊かな幻想的な光景なのだろうかとイメージする事が出来た。

 世界は色付いている。モノクロの世界に『色』がある。モンスーンは出口で恐怖を吐き出しながらも、リゼットを通して感じ取れた世界の『色』を味わう。

 

「さすがは定番のメリーゴーランドは人気よね。こういうのでいいのよ、こういうので!」

 

「どの口が言うんだか。じゃあ、俺が白馬の王子様役でもやろうか?」

 

「今日は珍しく粋じゃない、髭面」

 

「ゲロ女の王子様には相応しいだろ?」

 

 カガリは毛むくじゃらの猫に乗せ、モンスーンはおよそ不細工な馬に跨るとリゼットを抱き上げる。彼女らしくない程に赤面しながらも、嫌がることなくお姫様に甘んじる。

 

「……私達ってさ、現実世界で出会っても絶対に付き合ってないよね」

 

「ああ、絶対にな」

 

 モンスーンとリゼットが付き合ったのは、互いが仮想世界から爪弾きにされたFNCだったからだ。互いに共感できる傷を持っていたからだ。たとえ、現実世界で出会ったとしても、決して心を通わせることもなければ、言葉を交わすこともなかっただろう。

 見つめ合ったモンスーンとリゼットは、そっと唇を重ねようとして、だがカガリの視線に気づいて、さすがに子どもの前では……とストップをかける。

 

「ねぇ、リゼットさん、おじさん、今……『幸せ』?」

 

「急にどうしたのよ?」

 

「だって、2人とも……とっても『幸せ』そうなんだもん」

 

 何処か寂しそうに、あるいは羨ましそうに、カガリは微笑む。

 

「カガリちゃんは楽しくないの?」

 

「……楽しい、と思う。よく分からない」

 

「分からない?」

 

「うん、よく分からない」

 

 くるくる回る。回り続けるメリーゴーランドで、カガリは他の客の笑顔や笑い声に触れるように両腕を伸ばす。

 モンスーンも感じ取れるくらいに、今この空間には人々の喜びで満ちている。だが、カガリだけがまるで浮いているかのように、空間からは弾き出されているかのような錯覚があった。

 

「ねぇ、『楽しい』は『幸せ』じゃない。『楽しい』は何処までも『楽しい』であって、『幸せ』とは違う」

 

「……カガリちゃんは、幸せじゃないの?」

 

「分からない。『幸せ』って何? どうすれば『幸せ』になれるの? 『楽しい』や『嬉しい』をたくさん集めれば『幸せ』になれるの?」

 

 モンスーンは思わず言葉に詰まる。それは酷く当たり前のことだからだ。誰かに教えられるでもなく『幸せ』を感じることは出来たからだ。

 幸福の定義は人それぞれだ。だが、そこに明確な基準の記載などなく、あくまで心のままに感じるものこそが『幸せ』なのだ。楽しいや嬉しいといった感情は、あくまで『幸せ』の扉を開く鍵でしかない。

 回って、回って、回って、だけど止まるメリーゴーランド。一足先に降りたカガリは、リゼットとモンスーンを儚い微笑みで迎える。

 カガリはまるで天使のようだった。いつも無邪気に笑い、だが時に子どもとは……いいや、人間とは思えぬ感性を見せ、独自の倫理観や価値観で動いているようだった。

 だからこそ『迷う』のだ。

 天使はきっと……地上に降りてきて、人間に触れて『迷う』ことを知るのだ。

 

「そうだな。楽しければ、嬉しければ、それで『幸せ』ってわけじゃないよな」

 

 カガリの目線に合わせるべく膝を曲げたモンスーンは、幼く無垢な眼を真っ直ぐと見つめる。以前の自分ならば捻くれて、何よりも己の中の淀みのせいで直視できなかったはずだ。

 刹那の快楽に身を委ねただけで『幸せ』になれるならば、人間は文明を築き、高度な社会を形成することはなかっただろう。

 では『幸せ』とは何だろうか? モンスーンは正しく今の自分が『幸せ』だと理解できた。

 

(俺はたくさん間違ってきた。自分自身の『心』を裏切る間違いを犯してきた)

 

 モンスーンは自覚する。今の自分にはカガリに『幸せ』とは何かを教えることは出来ない。だが、それでも伝えねばならないことがある。

 

「今、俺は『幸せ』だよ。リゼットとお前のお陰で……とても『幸せ』だ」

 

「ぼくのお陰で? なんで?」

 

「お前がいたから、俺は心に『色』を取り戻すことが出来た。お前がいたから、俺は裏切った自分の心を見つめ直すことができた。お前がいたから、俺は……リゼットのことを本気で愛したいと思えたんだ」

 

「モンスーン!?」

 

 愛の告白に戸惑うリゼットに、モンスーンは嘘偽りのない心からの発言だと笑みで伝える。

 

「『幸せ』が分からないなんて悲しいことを言わないでくれ。今は……今だけは、『楽しい』や『嬉しい』に身を委ねてみないか? 俺はお前たちと一緒にいることがとても『幸せ』なんだ。だから、きっと、俺の世界を色付けてくれたようにお前も……」

 

 もしも、天使が地上で迷子になったらば、とても心細いのではないだろうか? 寂しくて堪らないのではないだろうか? 人間が得る『幸せ』とは何なのか理解することもできず、ただ漠然とした憧れを抱くのではないだろうか?

 モンスーンの差し出した手にカガリは応えず、まるで戸惑うように背負う猫のぬいぐるみへと視線を逃がそうとする。だが、幼き手をリゼットが掴み取る。

 

「そうだよ! カガリちゃん、今日は思いっきり楽しもう! ほら、モンスーンも!」

 

 自分には勿体ないくらいに良い女だ。腕組みしたリゼットに半ば引き摺られるようにして、モンスーンは次なるアトラクションへと足を運ぶ。

 

『またまた失敗、大失敗! これで102名中102名のリタイアだぁあああ!』

 

 と、そこに空気を震わす大音量をマイクで吐き出していたのは、名司会者として多方面で活躍するプレイヤーであるバルサザールの張りがある声だった。

 何事かとリゼットと顔を見合わせて向かえば、そこにはモンスーンの視界ではあり得ない程に真っ黒の姿になった……何かしらの色が濃い塗料で塗り潰されたプレイヤーたちが屈辱の表情で仮設シャワールーム(有料)に長蛇の列を作っていた。

 催されているのは『ペイント・ガン・ランナーズ』というアトラクションらしく、障害物込みの直線距離約100メートルを走破するというものだ。四方八方から放たれるペイント弾を潜り抜けてゴールにたどり着けばクリアである。

 

「クリアすれば豪華賞品だって! アンタもやってみれば?」

 

「無理に決まってるだろ。並んでる連中を見ろ。上位プレイヤーもいるぞ」

 

 クラウドアースの催し物だというのに、聖剣騎士団や太陽の狩猟団の上位プレイヤーもペイント塗れになってシャワールームに並んでいる。そこには明らかに最前線で活躍する上位プレイヤーの顔ぶれもあった。

 

「プププ! マダラったらかっこわるーい! あんなに自信満々だったくせにさぁ」

 

「いやいや、悪くなかったぞ。まさか50メートル突破でゴール側から精密狙撃なんてなぁ。初見でなければ躱せただろう。だが、実戦だったらヘッドショットだな。眉間に穴が開いていたぞ」

 

「隊長だったら絶対に躱せたよ。もっと回避力を磨いたら?」

 

「JJ、ミリー、少し黙れ」

 

 シャワールームから出てきた三白眼の青年を、おさげの少女とムキムキマッチョマンの2人が出迎えしている。モンスーンも思わず哀れに思うほどに少女に煽られた青年は、大股歩きで怒りと屈辱を示しながら立ち去る。

 

「ほら見ろ。俺だったら10メートルも突破できない」

 

「やってみないと分からないじゃない! モンスーンのカッコイイところ、見てみたい♪ ほら、カガリちゃんも!」

 

「おじさんのカッコイイところ、見てみたい!」

 

 リゼットは明らかにペイント塗れになることを、カガリは純粋にモンスーンのクリアを期待する眼で、彼に恥辱の挑戦を訴える。

 落差が大き過ぎる2つの期待が突き刺さり、ここで応えねば男ではないとモンスーンは覚悟を決める。なお、腹をくくるまでの間に更に3名の挑戦者が10メートルと突破できずにリタイアしていた。最初の10メートルはハリボテのガンマン人形から放たれるペイント弾だけであるが、それでも並のプレイヤーでは射線を見切って回避するのは難しい。弾速とエイミングがエゲつないのだ。

 

『さーて、106人目の挑戦者は……こちらだぁ! ああ、お名前は結構! 語られるべきは勝者のみ! 意気込みだけを刻んでやるぜ!』

 

「10メートル突破を目指して頑張りまーす」

 

『なんと謙虚な髭面野郎だ! ちなみにシャワー代は高いから覚悟しな! さぁ、爆走タイム……レディ……ゴー!』

 

 バルサザールに背中を叩かれ、ギャラリーで左右を囲われた一直線の横幅8メートルほどのステージをモンスーンは睨む。足場は踏み固められた土であるが、30メートル付近が砂場になっている。高TECでもなければスピードが落ちることは免れないが、よくよく見れば砂色の保護色になった石が設置されてあるのだ。あれを踏み渡れば、DEXの下方修正は最大限に抑えて突破できる。

 口では10メートルと言ったが、モンスーンは30メートルを突破するつもりだ。リゼットに大笑いされるのは確定しても男の矜持を見せるつもりである。

 

 

 

『髭面謙虚野郎、記録……2メートル! シャワールームにご招待だぁあああ!』

 

 

 

 だが、甘かった。スタートラインを踏み越えた瞬間に、ハリボテ・ガンマンから繰り出される精密射撃はモンスーンの顔面をペイントで塗り潰した。

 

「あははははは! ま、まさか、2メートル? 2メートル!? 最短記録なんじゃないの!?」

 

「…………」

 

「おじさん、顔がキラキラ金色だよ! すごいゴージャス!」

 

「ははは、ありがとう」

 

 リゼットの大笑いに心を抉られ、カガリの無邪気な褒め言葉に磨り潰される。男としての矜持? そんなものは欠片も役には立たなかった。

 

「でも、豪華賞品ってなんだろうね。この調子だと達成者は現れないんじゃないの?」

 

「こういうアトラクションは、ギリギリまで引っ張ってクリアを出すのが通例だからな。どうせ、トラップも全部把握済みのクラウドアースから送りこまれた奴が成功するだろ。プロパガンダだよ」

 

「アンタってそういう所は擦れてるわよねぇ。まぁ、私も同意見だけどさ。こういう時こそUNKNOWNとかが颯爽とクリアして番狂わせしてくれたら面白いのに。ねぇ、カガリちゃん?」

 

「すごい面白そう! ぼく、やってみたい!」

 

「「へ?」」

 

 マイペースなのか、話の歯車に噛み合わず、カガリは挑戦を要望する。思わず顔を見合わせたモンスーンとリゼットは、身長が足りずにジェットコースタに載る事が出来ない子どもを諭すように首を横に振る。

 

「ダメダメ。カガリちゃんが出たらコイツの最短記録を更新されちゃうもん」

 

「おい! そうじゃなくて、あのペイント弾って意外と衝撃が凄いから止めておけ。泣いちまうぞ?」

 

「でも、賞品が欲しいんだよね? ぼくが2人にプレゼントしてあげる!」

 

「確かに欲しいけど……」

 

「やらせるだけやらしてみるか。泣いたらお前の胸を貸してやれ」

 

「それ、セクハラだから」

 

 先に折れたモンスーンに、リゼットは溜め息を吐くとカガリの手を引いて会場に連れて行く。

 男の……いいや、大人の沽券の為にも、2メートル前に脱落しますように、と自分が改めてクズだと自覚する願望を胸に、モンスーンは顔面ペイント塗れのまま観客席から見守る。

 

『これはこれは、可愛らしいチャレンジャーの登場だ! フードに隠れたお顔を見せてくれるかな?』

 

「だめ。おじさんに外では取っちゃ駄目って言われたの」

 

『そっかそっか。会場の皆さま、小さな勇者に盛大な拍手を! そちらのお姉さんは付き添いですか?」

 

「えーと、まぁ、そんなところです。ちなみに子供用のイージーモードってあります?」

 

『ははは! それってジョークですか?』

 

「ははは、ですよねぇ」

 

 観客の視線を集めてか、ぎこちない様子のリゼットと違い、カガリはやる気満々といった様子で屈伸をしている。モンスーンの言いつけを守ってフードで顔を隠しているお陰で、生まれ持った傾国級の容貌は露になっていない。観客はいずれも微笑ましい挑戦者にエールを送っている。

 

『背負ってるのはお友達かな? 汚れちゃうから置いていこうね』

 

「あ、私が持ってます」

 

 カガリからリュック、もとい猫のぬいぐるみを預かったリゼットの前で、元気よくカガリが飛び跳ねれば、スカートのようなローブの裾がふわりと浮いて膝小僧が晒され、何故か観客席で呻き声が聞こえ始める。

 

「な、何故だ!? 何故、我々のYARCA魂がこんなにも刺激されるのだぁあああ!?」

 

「ああ、旅団長の声が聞こえる! そこにいらっしゃるのですね!?」

 

 今日は絶対にカガリから目を離してはいけない。胸に誓いを立てたモンスーンは、灯ったスタートランプのカウントを見守り、カガリがペイント弾塗れになる未来を予想する。

 

『では、スタートぉおおおおお!?』

 

 バルサザールが右腕を振り下ろせばスタートブザーが鳴り、カガリが『歩き始める』。

 モンスーンがそうであったように、ハリボテ・ガンマンから次々とペイント弾が放たれる。だが、カガリは躱す。まるで踊っているかのように、優雅に、美麗に、動と静を繰り返す。

 まるで未来でも見ているかのようだ。カガリの動きは一見すれば無駄だけであるが、その実は全てがペイント弾の回避に必要不可欠な初動である。だが、それは5秒先……いいや、10秒先まで未来予知していても足りないだろう程に、これから起こる全てを見切っているかのようなのだ。

 20メートル地帯。左右から放たれるペイント弾は、事前に情報を持っていなければ躱せないだろう弾速と間隔だ。これまでの突破者は、先に到達した挑戦者の失敗から学んで対策を立てていたはずである。だが、カガリは完全に初見のはずだ。

 それなのに当たらない。まるで風で舞う木の葉のように、カガリは両腕を伸ばしてくるりと回れば、それだけで左右のペイント弾の狭間を抜ける。そのまま後ろ向きになって30メートルの砂場地帯にたどり着く。

 カガリは砂場に着地すると同時に急速回転し、砂を爆風のように舞い上げる。それがペイント弾を防ぐ壁となり、インターバルの間に射線を逃れるように保護色の岩場を見逃すことなく跳んでいく。

 50メートル地点。ゴール側からの精密射撃を、カガリは左右に体を揺らすだけで避けていく。

 70メートル地点。怒涛のペイント・ミサイルの雨が降り注ぐも、カガリは爆発範囲を完全に見切っているように裾すら汚さない。

 90メートル地点。ハリボテ・ガンマンが再登場する。ただし、装備しているのはガトリングガンであり、突破不能を思わす弾幕を張る。だが、カガリは大きく跳ぶと三日月を描くようにして射線が届かない宙を舞ってハリボテ・ガンマンの背後を取る。

 最後の門番であるゴールに待ち構える2丁拳銃のハリボテ・ガンマン。正確にカガリを銃口で狙う……と見せかけて、口が開いてのペイント液による範囲染色である。最後の初見殺しであったはずであるが、カガリは愛らしく踵を鳴らして後ろに跳んで範囲外に逃れ、回避を狙った2丁拳銃による最後のペイント弾すらも完全に見切って避ける。

 

「ゴール! 見て見て、おじさん! リゼットさん! ゴールしたよ!」

 

 静まり返る会場にて、カガリは無邪気に両腕を振っている。その姿に、実況を忘れていたバルサザールが1拍遅れて我を取り戻す。

 

『ク、クリアぁああああああああ!? おいおい、100名以上の挑戦者共! 目玉を洗って見ていやがったか!? 初クリアは……ねこねこ☆にゃんこフードちゃんだぁああああ!』

 

 慌ててゴールに駆けつけたモンスーンは、驚きを隠せない様子のリゼットに抱き着くカガリに言い知れない感情を抱く。

 ただの子どもではないと思っていた。だが、それはあくまで精神面であるとモンスーンもリゼットも勘違いしていた。

 

「いやぁ、参りましたよ。このアトラクション、対象の速度に合わせるようにプログラミングしてあって、DEXに寄らずに難易度は一定になる仕組みだったんですけど、まさかキミみたいな子どもが突破するなんて。いやはや、身長までは計算に入れてなかったせいかな?」

 

「む!? ぼくだって、すぐに大きくなるもん! 目指せ、身長170センチオーバー!」

 

 アトラクションの開発者だろう男は、汗を滲ませた信じられない様子で、カガリに賞品が入った箱を渡す。

 バルサザールの追撃インタビューから逃れるように、カガリの手を引いて壇上から下ろしたモンスーンは、そのままリゼットと共に観客の奇異の目から隠れるべく人ごみに紛れる。

 

「す、すごーい! カガリちゃん、本当にFNCなの!? あんな動きが出来るなんて……!」

 

「動きだけじゃねぇぞ。とんでもない見切り……いいや、そんな次元じゃない。どうやったんだ!?」

 

 2人で詰めよれば、受け取ったリュックを背負うカガリは、何も大したことをしていないように首を傾げる。

 

「よく分からない。えーと……直感?」

 

「第6感って……そんな滅茶苦茶な」

 

 言葉を失うリゼットに同感するようにモンスーンは頷く。だが、カガリはむしろ2人の質問の意図を理解できないようだった。

 リゼットは嗅覚、モンスーンは視覚とそれぞれ障害を抱えているが、カガリは五感のほぼ全てに問題が生じているのだ。ヒアリングした限りでは、まともに歩けていることさえも不可思議である程である。

 

「でも、やってみたらあまり面白くなかったね。簡単過ぎてすぐに飽きちゃった」

 

 上位プレイヤーでも50メートルで脱落する困難なアトラクションを、退屈と称し、なおかつ『遊び』にもならない様子のカガリは人間の形をした別の『何か』に思えた。

 不思議よりも不気味。モンスーンはようやく、カガリの瞳が澄んで美しいのではないとモノクロの視界で『色』に気づく。

 混沌だ。善悪もなければ正も負もなく、全てを等しく呑み込み、溶け合わせて、歪んで、狂っている。何も映し込まぬ、凪いだ水面を思わす程に静寂とした、いかなる光を差し込ませても見出せるものはなく、むしろ探ろうとした者を深みに捕らえるような、混沌が生み出した深淵がそこにあるのだ。

 それはあらゆる芸術家が表現しようとした神々の眼である。人間が仰ぎ見上げる、決して触れることが出来ない天上の月のような、まさしく上位者の瞳なのだ。

 

 

 

「はい、プレゼント!」

 

 

 

 だが、カガリは笑う。無邪気に笑って、自分の存在がどれだけ異質なのかまるで気づいていない、理解していない、自覚していない、『2人に喜んで欲しいから』という単純明快な理由が透けて見える幼き微笑みで、クリア賞品を差し出す。

 モンスーンほどではないにしても、カガリの異質さに気圧され、また怖気づいていた様子のリゼットは、彼が動くよりも先に『白』を抱きしめる。

 

「カガリちゃん、ありがとう」

 

「えへへ、喜んでくれてよかった♪」

 

 そこには恐怖もあった。畏怖もあった。だが、それ以上にカガリに応えたいという母性の笑みでリゼットは抱擁する。

 

(やっぱり、俺は……いいや、俺達は『幸せ』なんだな)

 

 ほんの数日前までは、リゼットはこんな笑みを描くことは出来なかったはずだ。

 刹那の快楽だけを貪り、日々の安寧という名の堕落を欲し、それが『幸せ』であると自分を偽り続けて生きていたはずだ。

 だが、カガリと出会ってからリゼットは、DBOで……いいや、現実世界から抱えていた心の澱みさえも清められたかのようだった。

 

「よーし! 髭野郎のシャワーが終わったら、次はお化け屋敷に行こうね! ねぇ、モンスーン?」

 

「……そうだな」

 

 カガリと手を繋いだリゼットは、いよいよ『本来の目的』の為に動き出す。

 だが、モンスーンは朝まで抱えていた……いいや、瞬きの前まで抱いていた不安と迷いはない。

 DBOはホラー系ダンジョンも多いせいか、今更になってお化け屋敷など流行らないだろう……という大方の予想を裏切り、思いの外の長蛇の列が出来ていた。DBOの殺意と悪意全開のホラー系ダンジョンとは違い、来場者を楽しませたいというある種の善意に創造されたエンターテイメント作品との差は大きいのだろう。死の恐怖が無いからこそのホラーハウスは、相応の人気があるようだった。

 予想通りというべきか、カガリは全く恐がる様子がなかった。歪んだ鏡に映る長い髪の女、すすり泣く少女の首が180度回転、滴る血に合わせて出現する顔の無い男など、仮想世界ならではの現実世界ではまだまだ表現できないリアリティでも、まるで動じることはない。むしろ、恐怖ポイントの配置を憶えていたはずのモンスーンたちの方が悲鳴を上げる始末だった。

 そして、目当ての場所にたどり着く。如何にも動き出しそうなクリーチャーの石像が並ぶ広間だ。

 

「これ、アンタが全部作ったの?」

 

「まぁな。これなら色彩感覚が無くてもモデリング出来るからな」

 

「ハッキリ言うけど、絵よりも才能あるんじゃない?」

 

「…………」

 

「冗談よ」

 

 不貞腐れるモンスーンは、石像の内の1つ……赤子を抱える首なし女神像に近寄る。泣きじゃくるような顔をした赤子の口に指を突っ込むと、内部をほじくり、柔らかい粘土に穴を開けて隠された中身を取り出す。

 それは掌に隠れる程に小さい、数センチの直方体の板だった。見た目に寄らずに容量が大きい、高値を張る記録媒体クリスタルである。

 

 

 

 

「これがそうなの?」

 

「ああ、クラウドアース……ベクターのアキレス腱、大スキャンダルだ」

 

 

 

 楽しそうに、恐がる様子もなく、石像を見て回るカガリを横目に、モンスーンはクリスタルに首掛け用のチェーンを取り付けるとリゼットに預ける。彼女は首からかけるとクリスタルを谷間に挟み込んで隠す。アイテムストレージに収納するよりも、実体化して隠す方が時として隠蔽しやすいのだ。特に女性ならばアンタッチャブルも多い。

 

「取引は午後6時。日が落ちる頃合いだな。どうする?」

 

「カガリちゃんを思いっきり遊ばせよう。今日の主役でしょ?」

 

 目的は達した。リスクを侵さず退散すべきだ。だが、リゼットはカガリを優先する。

 

「カガリちゃんはさ、酷いFNCを患っているのに、少しも世界も他人も恨むことも憎むこともせず、それどころか私達を気遣ってくれるんだよね」

 

 ホラーハウスから出たリゼットは、休憩所にて珈琲を口にする。モンスーンは酒が欲しかったのだが、さすがに販売しておらず、同じく珈琲を選ぶ。味覚が無いカガリには、せめて少しでも気が紛れるようにと炭酸水を買い与えていた。

 休憩所の近くにはふれあいコーナーがあり、騎乗用モンスターに乗ることができる。カガリは係員の案内を受けながら騎乗用の飛竜の頭を撫でていた。そんな微笑ましい光景を慈しむように、リゼットは吐息を漏らす。

 

「あんなに凄いことが出来るなら、FNCなんて関係ないのかもって少しは思ったよ? でも、違う。カガリちゃんは、自分がFNCだろうと何だろうと……きっと気にしていないんだろうね」

 

「そうだな。カガリはきっと……『馬鹿』なんだろうな。良い意味で」

 

「私達も『馬鹿』だよね。悪い意味で」

 

「もちろんだ。でも、まだ変えられるかもしれない。同じ『馬鹿』でも、カガリに少し位は誇れる『馬鹿』になれるかもしれない。こんなにもどうしようもないクズな俺でも、自分の心に……魂に正直にありたいと思えたんだ。ようやく取り戻せた……カガリが思い出させてくれた『俺』を裏切りたくない」

 

「私も考えたよ。もう『終わってしまった』事だからって諦めた。だけど、カガリちゃんは……こんな私達の事も好きだって言ってくれる。信じてくれている。私は……『私の幸せ』をカガリちゃんに教えてあげたい。それが少しでも『カガリちゃんの幸せ』を見つける手がかりになって欲しい」

 

「リゼット、俺が巻き込んだことだ。お前まで背負うことは――」

 

「私も同罪。ううん、私の方が重罪。ここでアンタに丸投げしたら、私は間違いを正せない」

 

 ようやく心が決まったリゼットに否を唱えることは出来ない。本心を言えば、彼女を巻き込んだ張本人としてその過ちも一緒にモンスーンの手で正したかった。

 だが、それでは駄目なのだ。リゼットは自身で正してこそカガリに『幸せ』とは何たるかを示せると覚悟を決めたのだ。

 

「間違いを正すぞ」

 

「そうね。たとえ自己満足だとしても……恨みと憎しみを残すとしても……」

 

 

▽   ▽   ▽

 

 

 遊び疲れたのだろう。モンスーンの背中で眠ったカガリをベッドに寝かせ、リゼットはゆっくりと暮れ始めた空に目を細める。

 事の発端はモンスーンの借金だった。酔った勢いでイカサマ・ギャンブルで大負けし、多額の負債を抱えることになった。だが、それさえも『仕込み』であったと気づいたのは、もはや抜けられない深みには嵌まってからだ。

 最初は返済の足しになる程度の情報漏洩から始まった。モンスーンは協力者から貰った情報を、彼が作成するオブジェクトに隠して外部に持ち出していた。だが、そんなものは彼に本命の仕事をやらせる為の下拵えに過ぎなかった。

 ベクターが秘密裏に開発していた、ギルド間戦争の切り札としたアームズフォート【アンサラー】。これまでとは異なる、明らかな『一方的な殲滅、あるいは虐殺』を視野に入れた非人道性に富んだものだった。

 内部の協力者からもたらされた基礎設計データ。だが、こればかりは今までのようにはいかない。自分が大ギルド間の謀略……政治闘争の道具と化していることに気づいた時には遅く、またモンスーンは自分が捨て駒になっていることも察知した。

 相談されたリゼットは、モンスーンを突き放すことを出来なかった。そして、機密情報を盗んだ時、彼に疑いの目がかからないように1つの作戦を立てた。

 機密情報を盗んだ犯人を仕立て上げればいい。リゼットは丁度いい人物はいないのかと探し、時を待たずして目星はついた。

 『ソイツ』のことは前々から気に喰わなかった。自分と同じ巡回警備でありながら、元エリートプレイヤー候補生であり、だが最終試験のリポップ型ネームド戦で恐怖に負けて失態を晒して左遷された負け犬だった。

 期待されていない者の掃き溜めだ。エリートに成り損なった男など嘲笑の対象であり、また彼もすぐに馴染むだろうと思っていた。

 だが、『ソイツ』は違った。自分や周囲と同じような眼をしていながら、だが腐りきらず、また堕落することもなかった。賄賂は受け取らず、淡々と職務をこなし、周囲に『NPC』と揶揄されても何も言い返さなかった。

 

『なんかムカつくよね。いつまで自分をエリートだって思ってんだか』

 

 同僚の陰口にリゼットは大いに同意した。いつまでもプライドを引き摺っているなど惨めなだけだと嘲った。

 だが、『ソイツ』は違った。暇さえあれば、誰も使うことがない巡回警備用の訓練室に閉じこもって剣を振るっていた。トレーニング用の多腕型のロボット相手に、学んだ技術を染み込ませるように、スタミナ切れになるまで……いいや、なっても回復してすぐに剣を握って何時間も打ち込んでいた。

 義務付けられた実戦訓練など巡回警備は最低限しかこなさない。だが、『ソイツ』は違った。賄賂無しでは高くない給与を注ぎ込み、クラウドアース保有の狩り場で休みなくレベリングに励んでいた。ソロでは無理だと自覚してか、土下座をしてパーティを組んでもらっていた。

 戦う中で何度も足が止まり、モンスターを前にして無様に尻餅をつく。動けずに傷を負う。組んだプレイヤーから嘲われ、順番待ちの輩からも蔑まれる。

 

『組んで欲しいなら舐めろよ』

 

 元同じエリートプレイヤー候補なのだろう、相手の泥だらけのブーツを舐めていた。爆笑され、頭を踏み躙られ、頭からドリンクを浴びせられる。組んでもらえたかと思えば、わざと放置されて余計なダメージを負わされている時もあった。

 臆病者。狩り場のモンスター相手にさえ恐怖を乗り越えられないのかと馬鹿にされる『ソイツ』に、リゼットは違和感を覚えた。すぐに自分と同じFNCの同類だと気づいた。何らかの障害によって普通に戦うことができないのだと。

 さっさと諦めてしまえばいいのに。リゼットは何度も胸の内で呪った。『自分がそうだった』ように、諦めて堕ちてしまえと胸の内で罵り続けた。

 だが、『ソイツ』は変わらなかった。その眼は腐っていくのに、諦めているようにすら思えるのに、他の連中に見向きもされずとも、自分でさえも気づかないほどに、這ってでも、這ってでも、這ってでも前へと進もうとしていた。『まだ負けていない』と否定しているようだった。

 また最前線に戻れると思っているのだろうか? 一生かけても無理だ。何があろうとも不可能だ。FNCという仮想世界から愛されなかった者は、決して勝者にはなれない。上位プレイヤーにも、華々しく活躍して名声をほしいままにするトッププレイヤーにもなれない。

 決して強者にはなれない。FNCとは弱者の烙印なのだから。奪われる側として運命づけられた証なのだから。

 自分がFNCなのは、誰よりも自分自身で自覚しているはずなのに、『ソイツ』は自分でも気づかないほどに……ひたむきだった。休憩時間には最前線から過去の攻略まで事細かく情報を漁っていた。

 同じのくせに。FNCである限りは弱者であり、敗者の側から抜け出すことは出来ない。さっさと認めてしまえばいいのに。

 否定したかった。腐りきることを拒み続ける眼で自覚がないままに、前へと這い続ける『ソイツ』が……どうしようもなく憎たらしくて堪らなかった。

 やがて、『ソイツ』はいきなり辞表を出した。傭兵に転職すると申し出たのだ。誰も彼に目をかけていなかったからか、あっさりと受理された。だが、リゼットだけはどんな自殺願望なのかと驚いた。

 どうして? どうして? どうして? 何で諦めないのか? 何で堕ちないのか? 何で弱者にして敗者だと認めて、それらしく生きることを選ばないのか?

 どうして、あんなにも腐りかけていた眼に……再び強い意思を宿すことができるのか?

 

 

 

 どうして、私はこんなにも惨めで情けない……本当の敗者なのだろうか?

 

 

 

 許せなかった。認められなかった。憎たらしくて堪らなかった。

 だから、陥れることを選んだ。傭兵になったところで成功などできない。何をやってもどうせ挫ける。それがFNCという弱者なのだから。

 モンスーンに打診すれば、すぐに準備は整った。後は『ソイツ』の最後の勤務に合わせ、さも機密情報を抜き取って外部に持ち出したかのように偽装工作できた。モンスーンの雇い主はわざわざ≪変装≫スキルなども駆使して、わざとらしく、濃い疑惑がもたれるように、だが確定させないギリギリのラインで、『ソイツ』の機密情報奪取と見せかける工作を施した。

 ほくそ笑んだ。大いに嗤った。ほら、どうせお前も失敗するんだ。何も為せないんだ。

 

 嗤って、

 

 嗤って、

 

 嗤って、

 

 たくさん嘲って、

 

 自分の犯した罪に怯えた。

 

 堕落した敗者となった自己弁護の為に、自分と同じFNCのくせに敗者であることを認めようとしなかった『ソイツ』を陥れる為に、刹那の悪意の快楽の為に、大きな間違いを犯した。

 心を醜く抉り続ける『秘密』は、やがて絶えぬ恐怖へと変わった。終わらぬ怯えの始まりとなった。

 

 

 そして、カガリと出会ったのだ。

 

 

 あの日、あの時、どうしてカガリと巡り会ったのか、リゼットには今も理解できない。

 それは神様の贈り物なのか、あるいはリゼットが心の隅で抱えていた罪悪感が導いたのか。

 何にしても、今のリゼットがやるべきことは1つだった。

 たとえ、もう手遅れだとしても、何も変わらないとしても、身勝手で自己満足な行いだとしても、間違いを正すのだ。

 

「よく寝てるな」

 

「うん」

 

「お前さ、まるで本物の母親みたいだったぞ」

 

「アンタもお父さんみたいだった。まぁ、駄目で情けないパパって感じだったけど」

 

 白猫のぬいぐるみを抱きしめて眠るカガリの額を撫で、リゼットは柔らかな頬にそっとキスをする。

 これからどうなるかは分からない。

 だが、リゼットの気持ちは変わらない。カガリと出会えてよかった。たった数日間ではあったが、リゼットに人らしい温かな感情、現実世界の時から失っていた前を向いて生きる意思、そして己の魂を再び燃え上がらせてくれた。

 リゼットはテーブルに、白い便箋に入れた手紙を置く。目覚めたカガリに僅かでも意味があることを願って、心のままに書き記したものだ。

 

「じゃあね、カガリちゃん」

 

 湛えた涙を拭い、リゼットはモンスーンが待つ玄関へと向かう。最後に1度だけ、カガリのお陰ですっかり片付いている我が家を振り返り、胸を張る。

 あなたのお陰で、きっと私は『私』を取り戻すことができた。あるいは、初めて『私』を手に入れることができた。

 ずっと俯いて、目を背けて、いじけて、挫けて、自分を裏切り続けた日々に終わりを告げることができた。

 

「あなたのこと……ずっと愛しているからね」

 

 たとえ、少しの時間であっても、私はあなたの『お母さん』になれただろうか?

 やはり自分はクズで最低な女だ。それでも、とリゼットは涙を振り払い、決意と共に夕焼けの空の下に立つ。

 

「それは……」

 

「うん、カガリちゃんからのプレゼント。【小さな幸福の指輪】だってさ。結構なレアアイテムらしいよ?」

 

「確かに聞いたことがある」

 

 あのアトラクションの景品を装備し、リゼットは夕陽に照らす。飾り気のない銀色の指輪には小さな赤い宝石が付いている。

 煙草を咥えたモンスーンは、髭面がよく似合う『覚悟』が決まった男の顔だ。リゼットは初めて彼の髭面に愛着を覚える。

 ああ、やっぱり煙草のニオイって大嫌い。

 でも、どうしようもなく愛おしく思い出すのだ。

 今の自分にきっと失望するだろう、亡き恩師の面影を思い出すのだ。

 

「行くぞ」

 

「ええ、正すわよ。私の……私達の間違いを!」




悪意と憎しみは連なり、弱者の円舞曲は奏でられた。

真実を知らず、踊り狂う愚者たちに祈りと呪いを。

幼き夢はまだ醒めない。



それでは、326話でまた会いましょう!



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