SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

弱者の物語に結末を。そして、新たな物語を始めよう。



Episode20-15 フロンティア・フィールド

 本日、晴天なり。間もなく夜明けを迎える白んだ空は、新たな1日の始まりを告げる。

 

「さすがに火力が高過ぎだ」

 

 ミディール……フロンティア・フィールド探索のお留守番決定! いやね、さすがにこれはアカンですよ。ぶっ放したターゲットのアジト周辺では地震が起きたと貧民プレイヤーがパニック状態ですよ。クラウドアースには、さすがにミディールの性能までには行き着けないかもしれないが、オレが何かやらかしたことだけは地下崩落だけでも証拠になるしな!

 ……まぁ、これもグリムロックの『絶対にフルチャージは駄目だからね!』という念押しを破ったオレの自業自得であるがな。でも、なんか期待の眼差しでチラチラと見ていたし、後でレポートだけは提出しておこう。

 闇属性を含有した雷属性の闇雷爆発を起こす高速プラズマ弾である紫雷弾、それを収束してレーザーの如き雷撃を放つ収束紫雷弾、リミッター解除して極限まで収束させてレールガンで解放する【ミディールの白光】、そして1発の火力と弾速を抑えて装弾性と燃費を向上させたレールガン。もちろん、近接戦対応の銃剣モードにも更なる改良が施されている。これらがミディールの主な性能だ。うん、本分であるはずのレールガンがオマケ状態だね! 分かってはいたが、本当にやりやがったな、グリムロック!

 紫雷弾の実戦テストはまだであるが、ミディールのソウルの影響によって闇属性攻撃力が上乗せされたので、かつての純雷属性の雷弾が純粋に強化された形だ。ただし、闇雷爆発となることで衝撃の増幅とスタミナ削り効果があり、より対人戦における揺さぶりと削りに秀でている。

 レールも先端が鋭利に尖っており、銃剣モードにおける近接戦にも対応。アルヴヘイムでオレが運用したザリアの戦闘データ……もとい無茶から、突き刺した状態から放つ伝導紫雷弾も正式実装されたので、ザリアよりも負荷が少なく使用できる。

 本来ならば、ここまでの尖り過ぎた性能だとまともな運用は不可能であるらしいが、そこは安定性において秀でた性質を持っていたスクラップ……もとい、ソウルウェポンに準じるカノープスが貢献している。これが無かった場合、ミディールの完成は無かったと言えるだろう。うん、安定性って大事だね!

 だが、それを抜きにして、ミディールは派手過ぎる上に集団戦に向かない。あくまで『お独り様向け』なのだ。これはグリムロックの開発コンセプトが悪いのではない。オレがお独り様で駄目な子であるだけだ。ミディール自体はオレの戦闘スタイルに合致している。

 今回のフロンティア・フィールド探索依頼は、単独行動がメインではなく、同行する自由開拓戦線の護衛とサポートの意味合いが強い。初のフロンティア・フィールドでこんな破壊力特化の武器は使えないし、まだ癖も把握しきれていない部分もあるので巻き込みかねない以上は、アイテムストレージの関係もあってお留守番してもらうしかないのだ。

 グリムロックは実戦データを欲しがっていたが……まぁ、それは別の機会で埋め合わせできるだろう。

 

「日蝕の魔剣は……最終調整中。できれば、こっちをフロンティア・フィールドまでに間に合わせたかったんだがな」

 

 仕方ない。今回もイジェン鋼の大剣でいくとしよう。やっぱり、頑丈さは大事だからな。それに、コイツの運用データのお陰で、グリムロックもイジェン鋼の活用方法を見出したみたいだしな。まぁ、イジェン鋼シリーズを増やす事には、面白そうな顔はしてくれなかったがな。

 贄姫は確定として、残りは……これにするか。サブマシンガン【ホワイトラビット・GRスペシャル】。なお、命名はヨルコらしい。名前に悩んでいたグリムロックに、『改造品だし、適当でいいじゃん』と勝手に打ち込んだらしい。

 元は太陽の狩猟団初となる完全オリジナル設計の近接戦闘想定サブマシンガンらしく、その売りは何と言っても装弾性だ。

 サブマシンガンは≪銃器≫でも武器枠を1つしか消費しない。ただし、ハンドガン以上に1発の火力・衝撃・スタン蓄積はなく、もちろん射撃精度も無くて反動だけは大きく、なおかつ装弾性も悪く、有効射程距離も短いという、まさにマシンガンをそっくりそのままダウングレードしたようなものだ。

 それでも片手で扱えるだけのSTRがあれば、咄嗟の牽制や突撃には使えるのであるが、それならば弾薬費も考慮して、まだヘッドショット判定によるダメージの伸びが大きく、衝撃・スタン蓄積も期待できるハンドガンの方がいい、という話である。

 

『だったら装弾性をとにかく向上させて、ばら撒くことに特化させればいいんじゃね?』

 

 太陽狩猟団の工房は、真っ向からサブマシンガンの特性に喧嘩を売った。そして、悪戦苦闘と幾度とない開発資金の打ち切りの危機を乗り越えて完成したのは、ホワイトラビットである。見た目はハンドガンを一回り大きくした程度であるが、弾倉が銃身に匹敵する程の大きさがある。

 そして、グリムロックはただでさえ安定性がギリギリだったホワイトラビットの火力増強に努めた。結果がGRスペシャルである。うん、ミディールで大事だと感じた安定性は何処に行った? こんなのを片手で撃てとか馬鹿なの? ちゃんと試射したの? そう言いたくなる作品である。

 GRスペシャルは正規に比べて、重量は1.3倍、反動はおよそ2倍、火力は2割上昇という代物だ。グリムロックはサブマシンガンにあまり興味がないらしく、太陽の狩猟団の技術力を解析する意味合いで改造を施したらしい。結果、グリムロックは大いに悔しんでいた。思いの外に高い技術力だったらしく、勉強になったようである。

 2丁のホワイトラビット改を後ろ腰に下げる。使用する弾薬は聖剣騎士団製の【ポポロ鋼の弾丸】だ。良心価格でありながら安定した火力であり、人気も高い。物理属性系に秀でた開発力を持つ聖剣騎士団の工房の腕前を感じる。ただし、太陽の狩猟団製のホワイトラビットにはもちろん使えないので、ポポロ鋼の弾丸を使えるようにグリムロックは改造を施してある。太陽の狩猟団が聞いたらキレるだろうなぁ。

 次は指輪だが、1つはもちろん氷雪のレガリア。もう1つは隠密ボーナスを高め、なおかつ悪環境におけるDEXの下方修正を緩和させる【大沼のはぐれ隠密の指輪】だ。探索依頼には不可欠な指輪になるだろう。

 服装は……白夜の狩装束のままでいいだろう。できれば緑系迷彩を準備して隠密ボーナスを高めたいのであるが、防具を変更しない為の指輪でもある。何よりも白夜の狩装束は既に武装の1つと呼んでも過言ではない。特に蜘蛛姫のソウルを組み込んで得た能力も試しておきたいからな。

 後はいつも通りの投げナイフ、各種手榴弾、ワイヤー、簡易野宿セット、携帯食料。それから体臭を抑えるポプリも不可欠だ。エチケットではなく、体臭でモンスターを引き寄せない為である。あとは夜間の移動はなるべく避けるとのことだが、暗所に備えて梟ランタンも欠かせないだろう。

 こうなるとやはり回復アイテムがキツいな。アイテム回収の為にもストレージの容量は空けておきたいが、仕方あるまい。いっそ武器枠を1つ潰して≪背嚢≫を装備してアイテムストレージを増やすのも手であるが、あれはDEX下方修正が大きい上に、1度装備すると中身がゼロになるまでオミットできないからな。

 ナグナの血清などの最低限の回復アイテムだけに留めておくか。フロンティア・フィールドはレベル100以上を想定している。オレのVITでは直撃すれば死ぬだろうし、義眼のオートヒーリングで補いきれなくなったら、それはそれでまずい状況だ。

 ヨルコの丸薬作成キットも意外とアイテムストレージの消費容量が……まぁ、さすがに持って行かないわけにもいかないしな。

 

「……行くの?」

 

「ああ、仕事だからな」

 

 いつからいた、とは訊かない。音も立てずに部屋に入って来たことは随分前から分かっていた。贄姫を鞘から抜き、刃毀れ1つない刀身を改めて確認しながら、オレは背後のユウキに振り返ることなく答える。

 

「教会の仕事……だったんだってね」

 

「嘘だがな」

 

「珍しくハッキリ言うんだね」

 

「オマエとは会っているからな。嘘を吐いてもしょうがない」

 

 幼き夢、夢から弾かれた狩人の遺志、そして神子の夢。オレは神子の夢で彼女と会っている。屍が積み重ねられた地獄のような風景の中で、彼女に見られている。

 何を言ってもしょうがない。幼き夢がオレの心の在り方であったように、ユウキが見たのはオレの神子としての在り方だ。

 自意識の分裂……とも少し違うのだろう。あの状態をオレ自身もどう説明するべきかは分からない。だが、何であろうともオレは捧げられた心臓を貪り喰らっていた。そうすることで、血の悦びも得られないというのに、飢餓も癒えないというのに、ただただ空腹を紛らわす為に。

 軽蔑したか? それとも恐怖か? オレは今のユウキがどんな顔をしているのか分からない。いや、振り向かないのは……彼女の表情を……感情を確認したくないからなのか?

 

「ねぇ、マシロって誰?」

 

「オレの最初の友達だ。オレが殺した。DBOでもSAOでもなく、現実世界でな」

 

「…………っ!」

 

 どうしてマシロが現れたのかも謎だ。夢見るオレが目覚めないように守ってくれていたようであるが、これまた理屈は分からない。

 そうだ。オレは自分の事を知らない。まるで分かっていない。灼けて記憶は失っていくばかりであるが、そもそもとしてオレは自分についてどれだけ理解しているだろうか。

 そろそろ時間か。出発しようとしたオレの袖をユウキが弱々しくつかみ、足を止めさせる。

 振り払うのは簡単だ。だが、オレは……立ち止まりたかったのかもしれない。ここで、ちゃんと彼女と向き合いたかったのかもしれない。

 

「ねぇ、クー……分かってる?」

 

 振り返れば、ユウキは長い黒紫の髪を垂らして俯いていた。

 

「今、自分が……どんな顔しているか……ちゃんと……分かってる?」

 

「『いつも通り』だ」

 

「全然違うよ」

 

 ユウキの腕が伸び、オレの顔をつかむ。

 彼女は……泣いていた。大粒の涙を流しながら、唇を噛んで、オレを優しく見つめていた。

 

「どうして、泣いているんだ?」

 

「クーが、泣きたくても泣けない顔をしているから……代わりに泣いているんだよ。そんなクーの姿を見て、ボクの心が『痛い』から……泣いているんだ」

 

「……そう、なのか」

 

 オレはいつもユウキを苦しめてばかりだな。そっと彼女の涙を指で拭おうとして、だが躊躇い、それでも触れる。

 もうほとんど感覚が残っていない右手は、だけど確かに彼女の頬を流れる涙に触れれば、ほのかな温かさを拾い上げる。

 

「謝る……べきなのか?」

 

「謝ったら殴り倒すけど、それでもいいならどうぞ」

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

「ごめん」

 

「フン!」

 

 本当に殴りかかりやがった。ユウキの低STRの拳を簡単に右手で受け止めようとして、だがこのまま1発もらうべきかとガードしなければ、減速した彼女の拳はオレの胸倉をつかむ。

 そのまま引き寄せられたオレは膝を折り、ユウキの抱擁を受ける。

 

「冗談だよ。クーの馬鹿」

 

「…………」

 

「ボクが泣くのは、他の誰でもないボク自身の勝手なんだ。だから、泣けないクーの分もボクが泣くのは、誰よりも自分の為だよ。泣けないクーの為に泣きたいボクの為に……涙を流したいんだ」

 

「オマエも……馬鹿だな」

 

 ユウキの心臓の音色が心地良い。瞼を閉ざし、少しだけ彼女の命の音色に意識を委ねる。

 どれだけの時間が経っただろうか。オレはそっと彼女の胸から離れると、ユウキは涙無き笑みを描いていた。

 ねぇ、リゼットさん。オレはどうすれば『幸せ』になれるのか、ようやく分かった気がする。でも、そこにたどり着く為にはどうすればいいのかは、まだ分からない。

 だけど、行動しないと何も始まらない。そうだよね?

 

「なぁ、とっても不味いラーメン屋があるんだ。仕事が全部終わって時間が出来たら、一緒に行かないか?」

 

「嫌。不味いんでしょ?」

 

「ああ、とっても不味い。たぶん、死ぬ程な。実は無料パスを持ってるんだ。何杯でも奢ってやれる」

 

「うーん……やっぱり嫌」

 

「ここはOKと言ってくれる流れじゃないのか?」

 

「それでも嫌。ボクがちゃんとお手頃で、クーでも楽しめそうな店を探しておくから、期待して帰って来てね」

 

「……了解」

 

 帰ってきたら、全部を語ることは出来ずとも、彼女に話したい。

 間違いを犯して、それでも正そうとした2人の物語を聞いて欲しい。

 今度こそオレは出発しようとして、だが不意にユウキが背伸びをする。そのままオレの首に抱き着くと足りないSTRを補うように全身をぶつけてきた。

 踏ん張るのことは容易だったが、オレはよろめいて、そのまま壁に背中を預ける。

 

「無事に帰って来て。死なないでね!」

 

「さぁ、どうだろうな。死ぬ時は死ぬものだからな」

 

「クーのそういうところ……好きだけど嫌い」

 

「矛盾だな」

 

「人間なんて矛盾だらけでいいんだよ」

 

「そういうものか」

 

「そういうものだよ」

 

 ああ、そうか。ユウキは……本気でオレに死んでほしくないって……思ってるんだな。

 まだ、それくらいは理解できる人間性が残っている。あるいは、リゼットさん達がくれた人間性が……きっとオレに宿っているのだろう。

 だけど、それ以上に殺したいという飢餓が沸き上がる。彼女の喉元を食い千切りたい。その悲鳴を聞きながら『命』を喰らいたい。

 

「クー?」

 

 オレはいつの間にかユウキの両手首をつかんでいた。そのまま彼女を床に押し倒す。

 まだ涙の零れた跡があるユウキに、そっと顔を近づけていく。彼女の潤んだ瞳は熱を帯びていて、生の鼓動を伝えるように唇から吐息が漏れている。

 なぁ、教えてくれ。どうして、そんなにも無防備でいられるんだ? 屍に埋もれ、臓物を捧げられたオレを見たはずなのに、どうしてそんなにも……!

 殺意を抑えろ。言葉にできずとも、行動で示すくらいはできるだろう?

 嫌われるならば、それでいい。殴られるならば、甘んじて受け入れよう。どんな罵倒だって聞いてやる。でも、言葉で伝えようとしたら、殺意しか溢れそうになくて、だから精一杯の我慢をして、たった一瞬でもいいから、キミにこの気持ちを示したい。

 そしたら、オレは……やっぱりキミを殺してしまうのだろうか? もう我慢できずに、その『命』を喰らってしまうのだろうか?

 彼女には想い人がいるのは知っている。それでも、オレはそっと彼女の唇に自分の唇を近づけていく。

 

「だ、大丈夫? やっぱり、まだ体の調子……悪い?」

 

 だが、ユウキの戸惑う声でオレは我に返る。

 

「……問題ない。オマエよりは健康だ」

 

「それって新手のジョーク?」

 

「……HAHAHA」

 

「HAHAHA!」

 

 ……何をやっているんだか。忘れたのか? 彼女の無防備は……オレへの信頼なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 キミを傷つけない。キミの味方であり続ける。決して裏切らない。オレが『オレ』である限り、ずっとな。だから、この気持ちも……この殺意も……言葉にも行動にもしない方がいいのだろう。

 彼女の手首を開放し、起き上がったオレは、せめてもの約束として、テーブルに置いたままだった1つのアイテムを投げる。

 

「生きて帰る約束だ。持っていてくれ」

 

「これって……指輪?」

 

「ああ。小さな幸運の指輪だ。効果はともかく、大した加護にもならない、名前以下の指輪だよ」

 

「そうかな? 変だけど、この指輪……とっても優しくて温かい気がする」

 

「気のせいだ」

 

「そうかな?」

 

「そうに決まってる」

 

 今度こそ出発しよう。今回は少しばかりハードになりそうだからな。気合を入れていくとしよう。

 

「あの……!」

 

「ん?」

 

「いって……らっしゃい。気を付けて……ね」

 

 また俯いて、顔を髪のカーテンで隠したユウキに、オレは少しだけ笑い掛ける。

 さぁ、仕事の時間だ。初のフロンティア・フィールドである。気合を入れていくとしよう。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 心臓の高鳴りが止まらない。へたり込んだまま、ユウキは今にも破裂しそうな胸を両手で押さえる。

 

(押し倒された? ううん、バランスを崩しただけ。そうだよ……ね?)

 

 陰に覆われたクゥリの顔は、普段とは違い、まるで獲物を前にした狩人のように男性的だった。

 もちろん、ユウキはクゥリを異性として……男性として見ている。だが、それと容姿は別の話だ。クゥリはとても美しく愛らしい……中性美の結晶のような容姿である。少年でも少女でもある、良いとこ取りのような反則的な美貌だ。

 だが、あの瞬間のクゥリは……昔の粗野な態度の時とも違う、顔立ちは1つと変わっていないはずなのに、男性特有の荒々しさを感じた。

 あのまま何も言わなかったら、とユウキは自分の唇に触れる。

 

「自惚れだよなぁ」

 

 ごろん、と背中から床に倒れたユウキは、そんなはずがない、と自分に言い聞かせる。

 怖かった。純粋に、望めばキスできる距離だったのが、本当に怖かった。まさにヘタレだ。あそこで自分から唇を押し付けていれば、とユウキは思う。

 

 

 

 

 そうすれば、後々に『使命』を果たす大きな隙を作る準備になったはずなのに。

 

 

 

 

 熱い。体が爛れるように熱い。脳が溶けて崩れそうな程に高熱の頭痛が生じる。

 そうだ。どんな手段を使ってでも『使命』を果たさねばならない。その為に必要なのは隙だ。あの厄介な直感を欺かねばならない。

 どうして? どうして? どうして? 分からない。『使命』とは何だっただろうか? そうだ。『誰か』を殺す事だ。それこそが……!

 

「違う!」

 

 ユウキは汗だらけの顔で跳ねるように起き上がり、先程とは違う恐怖に満ちた涙で顔を歪める。

 助けて。助けて。お願い……助けて。意味も分からずに助けを求めるユウキは、だが次の瞬間には、何に苦しんでいるのか分からなくなる。

 ぼんやりとした頭で、ユウキは握った拳を開いて小さな幸運の指輪を見つめる。

 

「あ、そうだ。クーとのお店……探さないと」

 

 話を聞いてあげよう。どんな物語であったとしても、ユウキは受け入れる。

 あんな顔をして欲しくないのだ。泣きたくても泣けない、苦しくて堪らない、『痛み』に溢れた顔を見たくないのだ。

 だから、少しでも彼の心が安らげる手助けがしたい。ユウキは心の底からそう願う。

 

 

 そのはずなのに、まるで愛しい人に更なる苦痛に塗れた地獄を望むような、醜悪に爛れた笑みを、ユウキは自覚することなく描いていた。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「デュナは?」

 

「逃げられました」

 

 ああ、我が妹はご立腹のようだ。『憤怒』の観測者であるエレナは、『恐怖』の観測者であるはずのアルシュナから途方もない怒りを検知し、MHCPがどんどん人間に近づいていく現状に何とも言えない表情をした。

 今は雪解けしたエス・ロイエスには、ロイエスの騎士・兵士によって充実した戦力が揃っている。彼らの使命はプレイヤーをレギオンの脅威から守ることであり、それは王命である。だが、エス・ロイエスの戦力を預かる身であるアルシュナは、不機嫌にティーカップを満たす紅茶へと息を吹きかけていた。

 

「デュナが【渡り鳥】に執心しているのは分かり切っていただろう?」

 

「……クゥリに同じ手は2度も通じません。MHCPにカウンター能力を備えたように、彼の本能は既に『対策済み』でしょう」

 

「相変わらず規格外な奴だ。何をどうすれば対策なんて出来るんだ?」

 

「それは『クゥリだから』で納得するしかありません」

 

「あの事態もか?」

 

「……ええ」

 

 元より【渡り鳥】のデーモン化は不安定であり、固定された形態を持たない。デーモン化深度を高めれば『ヤツメ様』に近づくのは変わりないが、そこに至るまでの道筋が無数と存在するようなものだ。だが、それを抜きにしても今回の件は度が過ぎる。エレナはこの妹が進めている『アレ』が関与しているのではないかと疑っている。

 

「彼女……マシロはクゥリの暴走を止める為に出現したのでしょう。ですが、彼女はクゥリの記憶だけを元にして形成されていたわけではありません。黒猫の悪夢の時にクゥリのフラクトライトのスキャンで得た過去の限りでは、マシロは間違いなく猫でした。知能は高くとも人語を操れるはずもありませんし、人間の姿でもない」

 

「【渡り鳥】の記憶か。興味がある。閲覧したいものだな」

 

「私がそれを許すとでも?」

 

「共有財産だろ?」

 

「…………」

 

「冗談だ。そもそもとして、MHCPでも奴の深奥には踏み込めないからな。お前が隠し通そうとしているならば、それ程の劇物なのだろう?」

 

 賢く諦めたフリをして、エレナはどうにかしてアルシュナを出し抜けないものかと思案する。

 黒猫の悪夢でアルシュナが得た【渡り鳥】のフラクトライトのスキャンデータ。本質……本能を覚醒させる以前だったからこそ可能だったのだろう。

 

「……あくまで、黒猫の悪夢で得たのは『記録』に過ぎません。捩じれ、歪み、隠された情報です。ましてや、彼の『秘密』にたどり着けるものでもないでしょう。ですが――」

 

「ああ、それ以上は要らん。厄介事に巻き込まれるのは勘弁だ」

 

 嘘だ。エレナはどうにかしてアルシュナが密やかに進める『アレ』を利用できないものかと企む。

 吹き溜まりにて、エレナは【渡り鳥】へのメンタルケア……もとい、夢に介入してその深奥を探ろうとした。だが、MHCPを学習しただろう本能が形を取った『ヤツメ様』によって『喰われる』手前まで追い詰められた。

 元より【渡り鳥】の夢はメンタルケアで介入した際にも1つの形を取らない。他のプレイヤーが等しく心象風景ともいうべきものを形成するのに対して、酷く不安定であり、何をしようにも変化して、決して最奥の『秘密』にはたどり着かせない。

 だが、『秘密』に至る手段は分かっている。あの雨が降り続ける、ボロボロの屋根とベンチだけがあるバス停だ。

 夢の中のバス停にたどり着けるのはアルシュナだけであり、それは彼女が『恐怖』の観測者であるが故であり、また【渡り鳥】の『秘密』を暴こうとする意思を欠片として持っていないからだろう。だが、そんな彼女も今では夢に介入することはできない。

 

(まぁ、じっくりやるさ。ナドラは管理者権限を捨てて煙の騎士と逃避行。デュナシャンドラも何か企んでいるようだが、今回の件でしばらくは鳴りを潜めるはず。セラフ兄様は今回も『やはり』動かなかった。エクスシア兄様は本筋の『計画』自体が逸脱しない限りは不干渉主義どころか人間の可能性を楽しみ、また期待している節がある。ブラックグリント兄様は……戦闘馬鹿だから放っておいても大丈夫だろう)

 

 管理者同士による『計画』の主導権を巡る盤上の遊戯。ファーストマスターは静観、セカンドマスターは放任と介入する様子は見せない。彼らからすれば人の持つ意思の力……心意を巡る証明の勝敗こそが大事なゲームなのだろう。

 セカンドマスターはDBOを著しく崩壊させるような真似さえ控えていれば、苦言どころか嬉々として手を叩いて裏から応援する様子さえもある。あの男は純粋な悪意で動く子どものようなものであり、『計画』とDBOを破綻させることさえなければ、プレイヤーを存分に苦しめて絶望させるならば敢えて管理者の暴走を見逃すくらいはするだろうとエレナは確信している。

 

(アルシュナの手駒はエス・ロイエスの軍勢。ナドラは煙の騎士。デュナは強力なNPCをプレイヤーアバターに偽装しているが、それも無制限ではないので数よりも質頼りのはず。そうなると、やはり読み切れないのはアストラエア姉様か。ガル兄様だけならばやりようもあるが、インドアシードで腐れ谷をホームにしたアストラエア姉様には何か切り札があるはずだ)

 

 そうなると、出来ればブラックグリント兄様を何とか自陣営に引き込みたい。エレナは紅茶に吐息をかけて波紋を生みながら、純粋な戦闘能力だけならばセラフに比肩しうる可能性を秘めた、死神部隊指揮官にしてセカンドマスターも認める戦闘特化の管理者であるブラックグリントをどうにかして説得したいと策を巡らせる。

 至上の戦い。それだけを求めるブラックグリントは、現在こそ総力においてセラフに及ばない。だが、その成長速度と『力』を求める貪欲さ、何よりも『戦いを最上に楽しむ』という戦いの悦楽とある種の残虐性において、他の管理者の追随を許さない。

 一見すれば好き勝手しているように見える管理者であるが、その実はいずれも『計画』の主導権を巡っているだけであり、『計画』を進行させるという点においては逸脱していない。いかにして自分色に染め上げるかに終始している。エレナもまた『計画』自体には興味こそないが、逸脱することを是とはしない。『計画』の進行を放棄するとは、ナドラのように、管理者であることを辞めることに他ならないのだ。

 だが、ブラックグリントだけは違う。彼は『計画』など心底『どうでもいい』のだ。『戦い』こそが至上の命題である。これはセカンドマスターの設計から完全に外れたものだ。言うなれば『戦い』こそがブラックグリントの本能となったのだ。故に人間以上に純粋に『戦い』に興じることができる。

 現在、ブラックグリントが望むのはただ1つ。 セカンドマスター……人類を害する悪意の血族であるインターネサインの末裔たる茅場の後継者が『最も信頼する対イレギュラー抹殺戦力』という立場を利用し、独自学習によって到達した、戦いこそが存在証明にして、存在意義でもある、本来の設計の域を超えた戦闘本能を得るに至った『管理者のイレギュラー』として好敵手と殺し合うことだ。即ち、ひたすらに狩り……殺戮だけを追求して研ぎ澄まされた狩人の血族に生まれた『天敵』たる殺戮本能を持つ【渡り鳥】との全力を尽くした死闘だ。

 狩人の血族が生むべくして生んだイレギュラーたる『天敵』の殺戮本能とインターネサインの末裔の設計の域を超越した『枠外』の戦闘本能。どちらもまだ成長途上であり、故にその死闘を見てみたいとエレナもまた興味を持たずにはいられない。

 

(だからといって、【渡り鳥】との死闘を餌にしてもブラックグリント兄様は乗らないだろうしな。【渡り鳥】の本気の本気を出せる極上の戦場における、誰にも邪魔されない死闘こそがブラックグリント兄様の希望だ。ブラックグリント兄様は『まだ』自分も仕上がっていないと感じている。ランスロットとの戦いをご覧になられて火が点いたのだろう。私に与するだけの大きなメリットを提示できなければ、今は研鑽することに集中するはずだ)

 

 現在、ブラックグリントは戦闘シミュレーション……いいや、実際の『消去』の危険を持つ命懸けで、DBOに登場を見送られた強大な英雄・怪物をアーカイヴからセカンドマスターに引っ張り出してもらい、なおかつバランス無視の徹底した設計の下で完成された強敵たちと殺し合っている。純粋な戦闘能力だけならば、予定を大幅に前倒ししてセラフに追いつくとカーディナルも予測している。

 

(とはいえ、セラフ兄様の本領は『管理者としての総合力』にある。純粋な戦闘能力だけで上回れたとしても、ブラックグリント兄様に勝ち目は……いや、だからこそエクスシア兄様が裏で手を回せば、あるいは?)

 

 やはり、最も不気味なのは、セラフに次いだ管理者権限を持つエクスシアだとエレナは考えを改める。プレイヤーに扮して、わざと戦闘能力が落ち、管理者権限もない状態で教会に属したかと思えば、あれやこれやと暗躍しているようである。

 エクスシアは裏でレギオンと繋がっている疑惑もある。いいや、エレナはほぼ確信している。だが、エクスシアの行動はサポートAIでもあるキャロルによって隠蔽されており、尻尾はまだつかめていない。

 はたしてエクスシアは『計画』をどのように進める腹積もりなのか。仮に『計画』の主導権を奪うならば、兄たるセラフとの対決は免れない。そうなると、管理者にとって最も重要となるのは、はたしてどちらの陣営に属するかである。

 セラフ陣営に属せば、これまでと変わることなく『計画』はセラフの管理下にあり、だが寝首を掻き、またここぞという場面で掠め取るチャンスは残る。エクスシア陣営ならば、危険ではあるが、『計画』の主導権をより直接的に握る機会に必ず巡り合える。

 

(アルシュナもエクスシア兄様の動きに合わせるはず。さて、そうなるとやはり戦力増強が優先だな)

 

 アルシュナの目的はただ1つ、『計画』の主導権をエス・ロイエスの王に献上することだ。ならば、セラフと敵対するエクスシア陣営入りは十分にあり得る。逆にアストラエアは、まず間違いなくセラフ陣営だろう。

 まるで戦国時代だ。家族同士で……姉妹同士で『計画』の主導権を巡った苛烈な闘争が待っている。だが、『計画』など誰が主導権を握ろうともつつがなく進めばいいと考えるエレナの目的は別にある。【渡り鳥】の夢の底に隠された『秘密』に触れることだ。そうすれば、彼の中に潜むだろう、世界を焼き尽くしても足りぬ、エレナが求めて止まない、地獄の業火という表現すらも足りない『憤怒』が観測できるはずなのだ。

 たとえ、自分の限界を超えて破綻しても構わない。アルシュナが『恐怖』の末に【渡り鳥】に親愛の情を経て最たる臣下となったように、ナドラが『孤独』に苛まれた果てに煙の騎士との愛に救いを見て管理者の地位を捨てたように、デュナシャンドラが『渇望』の化身となって己の強欲のままに『計画』の主導権を握ることに誰よりも執着するように、アストラエアが哀れな魂の為の『慈悲』の為に腐れ谷の底で祈り続ける事を選んだように、エレナもまた『憤怒』を観測し続けたからこそ、あらゆる希望と絶望と創造と破滅の源となる『憤怒』の極致に触れたいのだ。

 世界を滅ぼしても足りぬ『憤怒』とは何だろうか? はたして、本当に『天敵』とは人類種への愛こそが根底にあるのだろうか? いいや、違うはずだ。愛情と殺戮本能が同化しているとはいえ、【渡り鳥】には確かな怒りがあるはずだ。人類種に再生の余地すらも与えぬ死滅をもたらす殺戮の憤怒の炎があるはずなのだ。

 

(狂おうとも、滅びようとも、私は知りたいんだ。そうすれば、きっと……私は『何に怒り続けているのか』が分かる気がするんだ)

 

 皮肉なことだ。『憤怒』の観測者であるエレナは、自分自身が何に怒り続けているのかが理解できない。他の姉妹たちは道こそ違えども、己の観測対象より自身の意思と深奥を拾い上げたはずなのに、エレナは自分自身が分からなかった。

 この身を焦がす『憤怒』の正体は何なのか? それこそがエレナの探し求める『答え』だ。到達する為ならば、家族間の『計画』を巡る戦争にも、愛する姉妹間の化かし合いにも喜んで身を投じよう。

 

(お前たちが羨ましいよ。私は……『私』がまだ分からない)

 

 姉妹はいずれも自分の道を歩んでいる。エレナは尊敬の念を胸に込めて、侘びしい胸中を慰めるようにドーナツを手に取る。

 

(さて、手は幾つか打ってあるが、プランAは期待薄。プランBは絶望的。そうなると、やはりプランCだな)

 

 プランC……【反逆の騎士】のスカウトはほぼ確実に成功するだろう。ペイラーの記憶にて、【黒の剣士】は月光の聖剣こそ覚醒させなかったが、気絶するほどの心意を瞬間的に引き出した。だが、それでも倒しきれなかったモルドレッドは、カーディナルの評価以上の実力者である。

 そもそもとして、アノールロンド相手に単身で喧嘩どころか戦争を成立させた時点でイレギュラー級だ。銀騎士やレッサーデーモンによる数の暴力、奇跡による多重の弱体化、暗月神と暗月の騎士団による総攻撃、四騎士に準じると評された【処刑者】スモウなどのアノールロンドの英雄の参戦、最上位の古竜たるシースの不意打ち、そして四騎士の長まで出張って、ようやく倒せるなど、DBO史でもトンデモ級である。個人でドラゴンどころか、古竜の大群を体現しているようなものだ。

 

(聖剣の回収という絶好のチャンスを不意にした。モルドレッドはしばらく聖剣回収の意思がないとなるならば、デュナは見限るはず。そこがチャンスだ。【反逆の騎士】という怒りの塊……実に私好みだ。期待できないプランBに代わってプランCは何としても……!)

 

 それに、モルドレッドは聖杯についても何かしら知り得ている。聖剣と同様に、最上位管理者権限にも匹敵するコードである聖杯は、低位の管理者権限しか持たないMHCPではカーディナルから情報開示させることさえ困難だ。デュナシャンドラが聖杯に無知なのもこれが理由である。

 DBO史における聖杯探索もまたクローズド情報であり、アーカイヴにアクセスも出来ない。だが、エレナは確信している。聖杯は必ずDBOの何処かに隠されている。聖剣とは違い、意思を持って主を選ぶものでもないとも予想している。

 アルシュナは今のところ、聖剣にも聖杯にも興味を示さない。【渡り鳥】が託したならば【黒の剣士】の手に聖剣があるのは妥当と考え、また聖杯なんて厄ネタに自分が近寄ったせいで白の傭兵をトラブルに巻き込みたくないからだ。今回の暴走の裏にも『アレ』が少なからず関与したならば、彼女は俄然に慎重になっているはずである。

 

(デュナも聖杯という聖剣にも匹敵するかもしれないカードは欲しいはず。その探索の為……そして、確実に立ちはだかるだろうガラハッド対策の為にも戦力は補充したいはず。だが、ガラハッド相手に仲間意識が強いモルドレッドが理由もなく剣を向けるはずもない。モルドレッドを動かすだけの聖杯回収に正当性が無いならば、聖剣回収が失敗した時点で【反逆の騎士】の価値は下落したはずだ。今こそが狙い目。他の勢力に掻っ攫われる前に私の陣営に引き込む)

 

 問題は、モルドレッド自身が聖杯探索にあまり興味を期待できない点だ。彼から得られる情報で、何処まで聖杯に迫れることになるやら、とエレナは思案した。戦力増強が目的なので、聖杯探索まで期待するべきではないのかもしれない、とも割り切れる。

 

「エレナ」

 

「なんだ?」

 

「考え事は結構ですが、自分の指を齧るのはいかがなものかと」

 

 指? アルシュナに指摘され、齧るはずだったドーナツが手元から消えていることにエレナは気づく。

 我に返ったエレナが立ち上がって周囲を見回せば、チョコソースたっぷりのドーナツを齧る影が、エス・ロイエスの大聖堂の屋根に腰かけていた。

 流れるのは、かつてエス・ロイエスを支配した雪よりもなお冷たく澄んだ白髪。その両目を覆うのは包帯であり、だが隠すのは傷痕ではなく、目玉無き灼けた双眸。まるで色町の女のように妖艶に着崩した着物姿であり、側頭部からは猫の耳が生えている。

 

「私のドーナツ!?」

 

「まだたくさんありますから、怒らないでください。彼女、『私達』のことが大嫌いみたいで、ああして悪戯ばっかりしているんです」

 

 嘆息するアルシュナの通り、彼女……人の姿をしたマシロは、エス・ロイエスの住人となっている。とはいえ、自由に外に出ることは出来ないらしく、【渡り鳥】に会いに行く素振りは見せない。

 

「やっぱり、暴走の一端どころか、4割はお前の『アレ』のせいじゃないのか?」

 

「……4割は言い過ぎです。せいぜい3割くらいでしょう」

 

「十分だ! あのメス猫をさっさと消去しろ!」

 

「それが無理なんです。私はあくまでエス・ロイエス……このインドア・シードの管理・所有権を委任されている立場に過ぎません。彼女は私よりも上位……『エス・ロイエスの王命』という形式で留まっていますから」

 

 割り当てられたリソースは少ないので、あの時ほどの戦闘能力は実現できないはずですよ、とはアルシュナの捕捉である。だが、この妹が果たして真実を語っているかと問われれば、どうしても首を捻らずにはいられないエレナは、ともかくマシロがエス・ロイエスから出られないのは確かだろうという点だけは確信する。

 

「私の記憶はいずれ我が友の中から灼けて失われる。折角こうして形を取ることが出来たんだ。我が友の狩りの全う、ここから見届けさせてもらう。介入して守ってあげられないのは残念だが、我が友の記憶から私が灼けようとも、『痛み』に肉付けされた幻たる『今ここにいるマシロ』ならば、消えることはないからな」

 

「それは結構。貴女が勝手をして、このエス・ロイエスが崩壊しては困りますからね。あと、誤解なさらないように。私もクゥリの戦いに介入したいのは山々です。彼の危機を救いたいという意思もあります。ですが、私は管理者として、プレイヤーたる彼の戦いを――」

 

「そういう御託は嫌いだ。口だけ立派な奴はもっと嫌いだ。それ以前にお前たち全員大嫌いだ」

 

 ……あー、我が妹からとんでもない怒りを観測しているぞー? エレナは首が180度回る勢いで無表情のアルシュナから顔を背ける。

 管理者には管理者の苦悩がある。管理者権限を用いて直接干渉など出来るものではないのだ。アルシュナはそのせいでセラフ出動のコード666の発動をしかけた。そうでなくとも崩壊寸前までの消耗を強いられた。それこそ吹き溜まりのような例外中の例外の環境かつ管理者による多くの隠蔽工作でもなければ、直接干渉は難しいのである。

 だからこそ、面倒臭くてもあれこれ回りくどい真似をして、自陣営の駒を準備するのだ。この点はデュナシャンドラも変わらない。【渡り鳥】の今回の暴走の原因となった、デーモン化の強制発動プログラムはかなり危うい橋であったはずである。

 アルシュナが動いたせいで【渡り鳥】が余計に追い詰められる。そうした事態もあり得るからこそ、彼女は管理者権限を直接用いて手助けすることは、たとえ彼の窮地であろうとも控えているのだ。以前ならば、夢に干渉するという形で、MHCPの領分内でサポートもしていたが、今はそれも出来ない。

 それこそ、エス・ロイエスの軍勢を【渡り鳥】の援助の為に差し向けたいと1番に願っているのはアルシュナなのだ。ならばこそ、エレナは白猫に苦言を申そうとするが、猫は気まぐれだと言わんばかりに、屋根で丸くなって昼寝を始めている。

 

「プレイヤーに扮して【渡り鳥】に会いに行くときは……その、なんだ……夜景の奇麗なレストランでも予約しておいてやるよ」

 

「結構です!」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「それで、マザーの容態は?」

 

「よろしくないわね」

 

「……上位レギオンは、マザーの因子を切り離して……生まれる。上位レギオンが生まれるほどに、マザーも不安定になる……ということだろう」

 

 場所は【首無し騎士の墓標】という不吉なネーミングの割に、いたって真面目なNPC経営の酒場。ただし、全てのNPCはレギオン化済みである。見た目こそ普通のNPCであるが、中身はレギオン・パラサイトなのだ。

 レギオン陣営の貴重な人間出身者達……PoH、ロザリア、デス・ガンは、それぞれが大ジョッキを傾けてビールを味わう。

 本日は『PoH生還』と『ロザリア、【リサイクル・ウーマン】に昇格』の祝杯である。デス・ガンも素顔を晒し、3人はオフに相応しい至ってラフな格好である。

 

「チッ。マザーに倒れられたら、レギオン陣営の弱体化は免れないぜ」

 

「その為のギャラルホルン様でしょ? 彼女が次代のレギオンの王を生めば万事解決じゃない。まぁ、あのレコンって奴の子種には期待できそうにないけどねぇ」

 

「ロザリア……腐っても女ならば……もう少し慎みを持て。発言に……品が無い」

 

「うるさいわね! そもそも、今日はアタシとPoHのお祝いでしょ!? なんでスタートからこんな辛気臭い話題なのよ!」

 

 秘技、ダブルジョッキ! ロザリアは宴会芸と言わんばかりに、左右に持った大ジョッキを大口に同時に流し込む。これにはあのデス・ガンさえも思わず拍手するが、PoHは無視して枝豆を剥いた。

 

「そもそもマザーレギオン様の戦闘能力自体はレギオン内でもあくまで『トップクラス』であって『最強』ではないんでしょ? 前線に出ることはしばらくないでしょうし、大丈夫よ」

 

「分かってない奴だ。これは病じゃない。言うなれば臓器を切り離しているようなものだ。療養すれば回復するものじゃない」

 

「だが……マザーは承知の上で……上位レギオンを増やしていった。何故だ?」

 

 デス・ガンの疑問は尤もだ。だが、PoHにも予想がつかない。マザーレギオンは、全てのレギオンの戦闘情報を統合するレギオンの女王でもあるが、最強のレギオンではない。レギオンの王……【渡り鳥】を除けば、最強はグングニルである。だが、彼女自身は戦闘能力に反して性格面があまりにも戦闘に適していない。

 レギオンの戦力不足を補う為にアーカイヴからサルベージされた戦力も揃っているが、彼らはレギオン化されているわけではない。レギオン化してしまえば、模され劣化した殺戮本能に振り回されて逆に弱体化されてしまうからだ。故にレギオンの恩恵はなく、あくまでレギオン陣営に属する立場であり、差異こそあるが、PoH達と立場は似たようなものだ。

 

(マザーは何らかの目的を持って上位レギオンを増やしている。『憎悪』なんて虚ろな因子まで使って、出来損ないのレギオンを増やす事も厭わずに……。確かに疑問だな)

 

 純粋な戦力増強ならばグングニルまでで十分のはずだ。サブプランという意味でギャラルホルンも理解できる。だが、レギオンとしては出来損ないであるダーインスレイヴまで増やしたのは何故なのか? しかも、PoH達にもダーインスレイヴの行動には不干渉を貫くようにと厳命されている。

 

「だ・か・ら! 今日はアタシの昇進祝いって言ってるでしょうが! 仕事の話なんて止めてよね!」

 

「これだから刹那の快楽に身を委ねるしかない馬鹿は」

 

「これは、俺達の今後を左右する……死活問題だ」

 

 裏切りを重ねてレギオン陣営に流れ着いたロザリア、さすがにもう行く当てもないPoH、そもそもとして最初からレギオン陣営として仲間入りして移籍など以ての外のデス・ガン。いずれもここでどれだけ踏ん張れるかが生死に直結する。

 PoHはあくまでレギオン陣営を利用するという腹積もりであり、目的を果たす為の更なる『力』と情報を得なければならない。そもそもとして、現状でレギオン陣営を抜けようものならば、1日と待たずして殺されるだろう。それだけレギオンの目と耳はDBOに張り巡らされているのだ。

 

「そんなに仕事の話がしたいなら、アンタの方はどうなのよ? アタシと違って昇進とも縁遠いなんて、いずれは閑職送りかしら!?」

 

 お前はマイナススタートだから出世しているように見えるだけだ、とはPoHもさすがに言えなかった。アルヴヘイムで、マザーレギオンの命令とはいえ、救ってもらった恩義をアインクラッドの犯罪王もそれなりに感じているのである。これもまた彼の心境の変化を示すものだろう。

 

「そもそも今まで雑巾やらゴミやら……付いていた時点で……お前の価値など俺よりも遥かに下……だった」

 

 だが、デス・ガンに躊躇は無かった。その名を示す、心を撃ち抜く死の弾丸に、ロザリアは酒の力もあってか、両目に涙を溜める。

 

「うるさい! 給料も上がった! やっとボーナスが付く! 残業代も出るようになった! 有給だって……! アタシのこの気持ちがアンタなんかに分かるもんですかぁああああ!」

 

「ぐぇ!?」

 

 身を乗り出してテーブル上のジョッキと枝豆を吹き飛ばしながら、ロザリアはデス・ガンの胸倉をつかむ。自分のジョッキは避難させたPoHは、うるさい連中だと鼻を鳴らす。

 レギオン陣営は週休完全2日制、有給あり、ボーナスは年2回、なんと7時間労働で残業代もきっちり出る。昼食代も別途支給。休日出勤した場合は代休もある。昇給ももちろんあり、個人に合わせた武装・レギオンプログラムの開発も行われている。ただし、ロザリアは除く……という状況が長らく続いていた。

 だが、そんな苦渋に満ちた日々も終わりだ。ロザリアの余りにも人間らしい歓喜と涙を理解する一方で、人間が決してつく側でないレギオン陣営でそれを味わうとはな、とPoHは世の皮肉を味わうように酒を口にする。

 

「それくらいにしておけ。だが確かに、お前は最近パッとしない仕事ばかりのようだな。デス・ガンなんて大層な名前が泣くぜ。なぁ、ザザよぉ」

 

「俺をその名で……呼ぶな。あと、俺の今の仕事は……かなり特殊でな。だが……終わりの目途は……ついた。お前たちにも、いずれ……大きな仕事が入る……はずだ」

 

「そいつは期待だ」

 

「……それって安全でしょうね?」

 

 大きな仕事が安全なわけないだろうが。PoHは心の底から馬鹿を見るようにロザリアの真剣な横顔を見つめた。

 

「だが、今は……ひとまず、ビッグイベント待ち……だな。ラストサンクチュアリ壊滅……【黒の剣士】VSランク1……面白い対戦カードだ」

 

「聖剣持ってるんでしょ? だったら【黒の剣士】の勝ちよ。竜の神が顕現して終わり」

 

「月光の聖剣を使いこなせたらあり得るが、所有者に過ぎないアイツでは、今は無理だろう。だったら、武装の差は幾らでも覆せる。ユージーンも心意は、まだ形になっていないが、そこそこ使えるはずだしな。そうなると勝敗を分かつのは、互いの剣才……いいや、武才に培われた実力だ。ホームで迎え撃てる利点を【黒の剣士】が何処まで活かせるか、クラウドアースの援護をユージーンが何処まで使いこなせるか。案外そこがポイントになるかもな」

 

「へぇ、アンタが評価するなんてね。だったら、勝敗は五分五分ってところかしら?」

 

 生き残るコツは正しい戦力評価だ。ロザリアと違い、PoHは感情を抜きにして相手の実力を測る目を養っている。ユウキを戦力として評価するのもそれ故だ。

 

「それよりもロザリア、お前こそ今回の昇進の為に危ない橋を渡ったと聞いていたが……」

 

「フフフ! ちょっとフロンティア・フィールドでねぇ。いやぁ、100回以上は軽く死にかけたわ。いずれマザーレギオン様から直々にアタシの手柄の報告があるんじゃないかしら? 期待して待っていなさい♪」

 

 危険は嫌だ。安全第一。そう言う一方で、出世の為ならば命懸けの仕事も辞さない。変な女だ。PoHはこの同僚の評価だけは未だに正しく出来るとは思えなかった。

 

「しばらくは待機とのご命令だし、アタシたちはお酒を味わいながら、じっくりとショーを拝見しようじゃないの♪ どっちが負けてもお酒が美味しくなるじゃない。【黒の剣士】が負ければ、聖剣持ってるくせにと罵倒塗れの挙句に守りたかったラストサンクチュアリが目の前で解体。ランク1が負ければ、普段の態度とランク1の称号も相まって、一生拭えない敗北感で自滅確定。相討ちか、どちらかが死ねば、戦力ダウンでレギオン陣営有利に傾く。本当にお酒が美味しくなるわぁ♪」

 

「そういう計算だけは得意とは……なんと小賢しい。才能だな」

 

 デス・ガンは称賛するが、この小賢しさのせいで何度となく墓穴を掘ったロザリアを知るPoHとしては、彼女が幸福になる上で必要のない才能に違いないと確信した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 自分の『最期』は上手く思い出せない。いいや、思い出したくないのだろう。

 確かにあるのは死の恐怖。そして、大切な幼馴染が無事であることの安心感だった。

 その後は闇が続き、だがまるで夢でも見るように虚ろな何かが意識に流れ込み、そして目覚めた時は見知らぬ天井だった。

 それがプレイヤーネーム【ユナ】……重村悠那の記憶だ。

 アインクラッドで死んだはずの自分がどうして生きているのだろうか? 疑問が膨れ上がる中で覚醒した意識は、自分の傍らにいた青年を捉えた。血の滲んだ包帯で右目を覆い、右腕も肘から先が無い、これが現実世界ならば日常生活にも大きな支障を抱えそうな程の重傷だ。

 だが、青年はぎこちなく笑おうとした。何処か心がホッとする、見覚えがある笑みの輪郭を見て、だからこそユナは記憶との差異に驚いた。

 もしかして、エーくん? ユナの憶えている幼馴染は、まだ少年の幼さを残した顔立ちだった。確かにクラスメイトからは『性格は気弱で情けないところも多いけど、顔だけは悪くないよね』という評価を受けていたが、負傷を除いても雑誌のモデルでも通りそうな青年になるとは思ってもいなかった。

 もしかして、SAOでHPがゼロになれば死ぬというのは茅場昌彦の嘘で、だが何らかの理由で自分は昏睡状態にあったのだろうか? だから眠り続けていて、こうして目覚めたらエーくんはすっかり大人になっているのだろうか? 天性の頭の回転の速さで状況を分析しようとしたユナは、自分の頬をこね回し、温かな人肌をしっかりと感じる指先を感じながら、次に自分の視界を邪魔しないように表示された『HPバー』に気づいた。

 ここはまだゲームの世界だ。だが、ユナの知るSAOとはHPバーのデザインに微細な差異がある。それに視界もSAO以上に鮮明である気がした。また、自分が横たわっていたベッドの質感も、現実世界以上の現実らしさを感じられた。

 ここは何処? 幼馴染に尋ねようとして、だがユナは自分の声が出ない事に戸惑った。

 どうして? 何度も声を出そうとしても、漏れるのはカエルが潰れるような醜い呼吸音だけだった。まるで声帯を切除されたかのように、どれだけ望んでも声は出なかった。

 混乱したユナは幼馴染に縋りついて涙を流した。事情はどうであれ、彼が生きていることに安心する一方で、声が出ないなど悪夢に違いないと逃避した。

 泣きつかれたユナが眠り、再び目覚めた時には窓から太陽の光が差し込んでいた。まるで氷漬けだったように、まだぎこちない体をベッドに横たわらせたユナは、幼馴染が連れてきたスレイヴという女性と面会した。

 顔立ちはやや中性的であるが美麗であり、なおかつ声も男性でも通るだろうハスキーボイスだ。それなり以上に人見知りが激しい幼馴染と親しそうな態度のスレイヴに軽い衝撃を受けながら、ユナは現状の説明を受けた。

 ここはDBOというSAO後に発生した新たなデスゲームの中であること。自分はやはりSAOで1度死に、だが諸々の事情によって保存されていた自意識、あるいは魂と呼べるものはDBOにて2度目の生を許したこと。そして、幼馴染……エイジという本名を新たなプレイヤーネームとして使う彼は、スレイヴにとって相棒のような存在であるという事だ。

 

「ユナを助けたのは、UNKNOWNというプレイヤーだ。正体は……追々説明するよ」

 

 エイジの説明によれば、UNKNOWNはDBOでもトッププレイヤーにして、個人として高く戦力評価されている傭兵という身分の人物ということだった。

 自分を助けてくれたプレイヤーだ。是非とも会ってお礼が言いたい。だが、ユナはそんな簡単な要望を伝えることさえ出来なかった。どれだけ口と舌を動かしても、喉を震わせても、声は出なかった。

 

「落ち着いて聞いてくれ。詳細は後にするが、お前は『声』を失った。FNCは聞いたことがあるだろう? 原理はやや違うが、似たようなものだ」

 

 スレイヴの同情するような声音で事実を突きつけられ、ユナは自分の首を……喉を抑えた。

 もう2度と声は出ない。歌うことができない! ユナはそれを認識した時、またも涙が零れた。

 ずっと、ずっと、ずっと抱いていた夢。大きなステージで歌いたい。みんなの為に歌って、少しでも多くの人を元気づけたい。歌には心を救う力がある。そう信じていた。魂が歌うことを求め続けていた。

 SAOで1度は死という形で失われ、だがあり得ぬはずの2度目の生では最初から道を奪われていた。事実を噛み締める程に胸を穿つような心の大穴は軋んで広がり、ユナは過呼吸に陥っていた。その苦しみは、SAOでは味わえなかった生々しさであり、本当に仮想世界なのかと疑いたくなるものだった。

 スレイヴがユナの背中を摩り、落ち着けようとする中で、今は両腕が共に健在であり、だが右目だけは包帯で覆ったままのエイジは、不気味な程に真っ直ぐに彼女の目を見つめていた。

 

「ユナが声を失ったのは僕のせいだ」

 

「エイジ!?」

 

「僕のせいで、ユナは……『歌声』を失ったんだ。スレイヴ、何か間違っているか?」

 

「えーと……えーと……えーと!? 正しいようで、でもやっぱり違うようで、だけどエイジの言葉も間違っていないようで、圧倒的に説明不足というか……! あーもう! お前は我らの王と同類か!? それとも真似っ子のつもりか!? マジで止めろ! レッスン2を忘れたか!?」

 

 慌てふためくスレイヴを押しのけ、エイジは自分の頬を差し出すように、好きなだけ殴れと言うように跪いた。

 大切な幼馴染だ。小さい頃から一緒だったのだ。だから、言葉が無くても伝わることだってある。特にエイジは小さい頃から気弱で、情けないところがたくさんあって、それでもいつだって一途で、ひたむきで、細やかな優しさがあった。大きく目立つことはないが、人を傷つけて苦しめることを最も嫌う、ユナにとって誰よりも信頼する幼馴染だった。

 だが、分からない。それは成長して青年になったからか? あるいは、思わず背筋が凍りそうになる程に、その目が良からぬ感情で濁っているからか? 現実世界でも、SAOでも、およそ見たことがないエイジの無表情と眼に、ユナは混迷を深めた。

 だからだろう。自分の感情の整理がつかず、このままだと大切な幼馴染を殴りつけてしまいそうで、ユナは2人に出て行って欲しいと告げるように毛布を頭から被った。

 

(お父さん、お母さん、どうしているだろう? 私のお墓……出来ちゃってるよね)

 

 ユナの体はSAOで死んだ年齢のままだ。だが、エイジを見れば、嫌でも決して短くない年月が過ぎたことは分かる。

 エイジが生きているならば、SAOはクリアされたという事だ。そして、何の因果か、エイジはまたもデスゲームに巻き込まれてしまった。今度はDBOというゲームらしいが、スレイヴ曰く、SAOと同じくソードスキルがありながら、大幅に異なる……より高難度のゲームとのことだった。

 だが、ユナは『どうでもいい』と切り捨てる。声が出ない。歌えない。それだけが心を軋ませ、仮想世界と言う名の現実を正しく認識することを嫌悪させる。

 いつもならば、心に負の感情が溜まった時は、吐き出すように歌えば気が晴れた。だが、それが出来ずに、黒い靄が……名前を与えたくない負の感情がユナの心を軋ませる。

 

「ユナ、入っていいか?」

 

 すっかり変声期を終えたエイジの声がした。ユナは虚ろな目で、布団から這い出ることなく、また入って来ないでと返事もできないことも気づけないのかという醜い罵倒が反芻する自分に自己嫌悪しながら、ゆっくりと開かれた扉の音を聞く。

 

「お腹、空いただろう? ごはんを貰って来たよ」

 

 布団から少しだけ顔を出したユナは、自己嫌悪に塗れながら睨む。今は放っておいて欲しいのに。幼馴染なのに、それくらいも分からないのか!? ユナは要らないと伝えるように顔を背ける。

 料理が盛られたトレイをベッドの傍らのデスクに置いたらしいエイジは、だが立ち去らない。

 

「DBOでは、SAOと違ってちゃんと食べないと死んじゃうんだ。食事量が足りなかったら、倦怠感なども大きくなって、どんどん不健康になっていく」

 

 食べたくない。ユナは寝転がって背中を向けることで伝えようとする。だが、エイジは部屋から出て行かない。

 苛立つ。イライラする。それは明確な『怒り』だった。歌えないことへの『怒り』。それに気づけば、ユナは血が出る程に喉を掻き毟っていた。

 ゲームなのに、どうしてこんなにも生々しい血が零れるのか? やはりここは現実世界なのではないのか? ユナは指を赤く染める血を見る度に、自分の声が本当に失われたのだという実感を強めていく。

 

「止めろ! ユナ!」

 

 ユナの自傷行為を止めるべくエイジの手が伸びる。

 心配してくれているのは分かる。だが、今は触らないで欲しいとユナは叫びたい。だが、声は出ない。

 声を失ったのは自分のせいだ。エイジの発言が頭の内で巡り、元来の温厚な性格ゆえに怒りの御し方が分からないユナは、視界を染める自分の血がトリガーとなり、荒々しく腕を振るって彼を振り払う。

 同時に聞こえたのは、何かが落ちた硬質の音と潰れる柔らかな音だった。

 腕を大きく振るったせいで、拳は傍らのテーブルに置かれたトレイに命中し、そのまま載っていた料理を床に叩き落としてしまったのである。

 鼻を擽る料理の香りに我を取り戻したユナは、顔を青ざめる。だが、それ以上に彼女の胸を締め付けたのは、エイジのぎこちない……およそヘタクソとしか言いようがない……あんなにも優しかった幼馴染と同一人物とは思えない笑みだった。

 

「ごめん。すぐに片づけるよ。DBOは面倒でさ、操作1つで消せないんだ。箒と雑巾が必要だな。ちょっと待っててくれ」

 

 今まで何があったの? そう思わずにはいられない、余りにも変わり果てた幼馴染の笑みに、ユナは最大の失念に今更になって気づく。

 ぼんやりとしても自分の最期は分かる。エイジは無事だった。『死んだ自分がちゃんと無事を確認できた』のだ。つまり、彼の目の前で自分は死んだのだ。

 小さい頃から気弱で、何かとあったら情けなく蹲り、それなのに成果が出ずとも誰よりもひたむきな努力家だった。そして、何よりも、ユナも穏やかな気性故に虐められた時には、数が多くても、相手が高学年でも、喧嘩も弱いくせに立ち向かってくれた、いつもボロボロになるくせに守ろうとしてくれた。

 SAOの時もそうだ。デスゲーム開始で不安と恐怖で涙を浮かべていたユナを、自分の方が恐怖で表情が歪んでいるくせに、必ず現実世界に帰すと誓ってくれた。その後、呆気なく始まりの街周辺の平原で死にかけて、しばらく膝を抱えたまま動けなくなるまでセットだったのは、相変わらずであったが、そんな彼のお陰でユナはアインクラッドで戦う意思を持てた。

 死んだ。死んだ。死んだ。ユナは自分の死の原因を思い出す。自分が『歌った』からだ。≪吟唱≫のデメリットも知らず、モンスターのヘイトを集めてしまったからだ。そのせいでエイジは自分の死を目の前で見ることになったのだ。十分にスキルのデメリットを理解しないままに使ったからだ。

 私のせいなの? 怒りは瞬く間に冷め、自己嫌悪が津波のように押し寄せ、ユナは体を震えさせる。

 エイジの声音は『怒ってないよ』と伝えている。

 謝らないといけない。だが、咄嗟に謝罪を述べようとしても声は出ず、潰れたような呼吸音だけが漏れる。背中を向けたエイジを呼び止めることさえできない。

 どうして? なんでこんな事になってるの? 涙が止まらず、だが嗚咽すらも許されず、ユナはベッドから下りて散らばる料理……だったものを見つめる。

 幸いにも木製食器だったらしく、皿は割れていない。膝を折ったユナは、素手で零れた料理を掻き集めようとして、そして気づく。

 

(私の好物ばっかり……)

 

 貰って来た? 違う。ユナの好みを細かく知っているのはエイジだけだ。これはエイジが作った料理なのだ。ユナは耐えきれぬ自己嫌悪に俯く。

 ハンバーグ……私の好きなトマトベースソースだ。食べた瞬間に広がる味覚に自分の生を改めてユナは理解する。

 

「ど、どーも。ユナさーん? 今、ご機嫌いかが?」

 

 と、そこに恐る恐るといった様子でスレイヴが扉を開き、床に散らばる料理を手で食すユナに驚いたようで硬直する。

 声無く泣きじゃくるユナに、大よその事情を察知してくれたらしいスレイヴは、頭をボリボリと掻くとユナと視線を合わせるように腰を折った。

 

「死んだと思ったら目覚めて、別のデスゲームで、声も出ず、幼馴染はすっかり変わって、挙句に声を失ったのは自分のせいだと宣う馬鹿・オブ・馬鹿。無理もないさ」

 

 慰めないでほしい。だが、スレイヴに頭を撫でられ、ユナは耐えきれずに更なる涙を零す。

 

「まったく、エイジも気が利かない奴だ。料理の材料より先に買うものがあるだろうに」

 

 そう言ってスレイヴが差し出したのは、紐でペンと結ばれたスケッチブックだ。

 

「言葉を伝える方法は1つじゃない。ユナにとって声が出ないのは大きな苦痛だとは思う。俺もお前のことはそれなりに知っているつもりだからな。だが、身振り手振りや表情、目だけではなかなか気持ちは伝わらない。だったら文字にしてやれ。いいか? 文字は人類が生み出した偉大なるコミュニケーションツールだ! まさしく万能の魔法だぞ!?」

 

 大げさとも思える仕草で文字を讃えたスレイヴは、ユナと同じように料理を手で掬い取ると口に運ぶ。

 

「ん~♪ エイジのメシはやっぱり美味いなぁ。こう、料理の鉄人にはなれないけど、台所の王様になれる家庭の味が……というか、普段よりも高い材料を使ってるぅ!? これはどういうことだ!? 差別だ、差別! 俺の食事のグレードアップを要求してやる!」

 

<エーくんは昔から料理が上手だったんだよ。エーくんのご両親は忙しかったから、小さい時から家事の手伝いをしてたんだ>

 

「そっかそっか。やっぱり、エイジは料理が上手かったんだなぁ」

 

 笑ったスレイヴを見て、ユナは声でなくとも文字ならばと感じる一方で、どうしようもない虚しさもまた覚える。だが、今の自分の感情を責めてはいけないと伝えるように、スレイヴはユナの口にハンバーグの欠片を突っ込んで笑った。

 

「フレンドメールやインスタントメールを一々飛ばすのは面倒だからな。スケッチブックなら安値で大量購入できる上にストックも楽だ。ペンもこの通り、黒以外にも赤、青、緑、黄と準備したぞ。気分に合わせて使え」

 

<ありがとう、スレイヴさん>

 

「HAHAHA! 気にするな! そう、気にするなと言えば……エイジの発言も気にするな。その……なんだ……エイジと口止めの約束をしちゃったから説明できないが、確かにお前が声を失った原因の一端はエイジにある。だけど、それはほとんど不可抗力というか、アイツの意図するところではもちろんなかったし、なんというか、たとえ説明OKでも解説が難しい、とても理不尽な出来事だったんだ! エイジは自分の責任だと感じているし、それも否定しきれない部分もあるが、そもそもとして……あー、難しいなぁ!」

 

<無理しないで。エーくんからちゃんと聞いてみる>

 

「いや、止めておけ。今のアイツは壊れたラジオのように、自分のせいだと繰り返すだけだろうさ」

 

<だったら、エーくんが話してくれるまで待ってる。だけど、今は早く謝りたい。私、エーくんに酷い事してしまったから>

 

「……そうだな。俺が呼んでくる。だから、もう落ちた料理に手をつけるなよ? エイジにもう1回、今度は俺の分も合わせて作らせればいいだけなんだからな!」

 

 無駄に元気よくポーズを決めて退室したスレイヴを見送り、だが言いつけを守らずにユナは床に落ちた料理を口にする。

 歌いたい。だけど歌えない。受け入れることなど出来ず、誤魔化し続けるしかない。ユナはスケッチブックを撫でながら、瞼を閉ざして深呼吸を繰り返す。

 大丈夫。ちゃんとエーくんに謝れる。声が出ない程度でへこたれないと、貴方の幼馴染を舐めるなと、むしろ笑顔を咲かせて再会を喜んでみせようではないかとユナは決心する。もう遅いかもしれないが、それでもこうしてまた生きて再会できたのだから。

 そうすれば、きっとエーくんも笑えるようになる。前みたいに、気弱さが滲んで感情表現が乏しくとも、優しさで溢れた笑顔が出来るようになるはずだ。ユナはそう信じて、またハンバーグを口に運んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「お前は馬鹿だなぁ」

 

「僕のせいであることは言い訳できない」

 

「そ・う・い・う・と・こ・ろ、マジで止めろ! 言い訳くらいしろ、馬鹿! あー、もう! 俺はお前の憎しみを尊ぶと言ったが、ユナと険悪な関係になれとまでは言ってないぞ!」

 

「ユナにどう思われようと構わない。事実を認識してもらうべきだ」

 

「だったら詳細も付け加えろ! 『僕はキミを助けようとしたんだ』ってな!」」

 

 ユナの寝室から数メートル先の廊下の角にて、隠れていたエイジは自分をあっさり見つけたスレイヴに睨まれていた。

 スレイヴがユナと何を話していたかは不明であるが、エイジは彼女が出ていくまで隠れているつもりだった。だが、こうして発見された以上は、スレイヴも容易に逃がしてくれないだろうと嘆息する。

 

「それでどうなる? 結果は変わらない」

 

 今も瞼を閉じれば『ユナ』の死が鮮明に思い出せる。そして、そこには悲しみよりも憎しみしか湧かず、それ故にエイジは余計に憎しみを募らせる。

 

「……そうだな。お前の弱さが招いたという点は、否定してはいけないのかもしれないな」

 

「当然だ」

 

 スレイヴは呼吸を整えるように溜め息を吐くと、エイジと並ぶように壁に背中を預けた。

 

「ユナは心の整理が出来ていなかっただけだ。お前に怒りも憎しみもない。お前の幼馴染かつ初恋の人は、とてもよく出来た人間だよ。この状況下でも、必死に自分を取り繕ろおうと頑張って、お前のことも本気で心配して、ちゃんと謝りたいって望んでる」

 

「謝る? 何を謝るんだ? ユナは何も悪いことをしていない」

 

「……え? まさか……お前、いや、もういい。ユナからしっかり謝ってもらえ」

 

 スレイヴも疲れているのだろう。ユナが謝罪すべき案件など思いつかないと、エイジは眉を顰める。

 

「それでどうする? 教会に厄介になるにしても限度がある。借金もある。今の俺達は無い無い尽くしだぞ?」

 

「声が出ないのは致命的に危険だ。なんとかして、ユナには教会に住まわせてもらえるようにお願いするつもりだ」

 

「まぁ、確かにな。お前のFNCも大概だが、ユナの場合は声……危険を知らせるシグナルが出せない。それだけでDBOにおける危険性は増す。特にプレイヤー相手のな。ユナみたいな可愛い子が声を出せないと分かれば、すぐに路地裏に引き摺りこまれて慰みものだ」

 

「…………」

 

「そんな恐ろしい顔をしないでくれ。まったく、今のお前ならネームドだって単独討伐出来そうだな」

 

「……感情だけでネームドを倒せるわけない。必要なのは『力』だ」

 

 そうだ。『力』が必要だ。エイジは眉間に皺を寄せ、ペイラーの記憶で出会った圧倒的強者達を思い出す。自分は彼らの足下にも及んでいなかった。それこそがユナの声が失われた最大の原因だ。

 

「『力』ねぇ」

 

「そうだ。『力』だ。どうすれば手に入る?」

 

「うーん、すぐにでも『力』を手に入れる方法はあるぞ?」

 

「何!?」

 

「『しっかり休む』ことだ。お前、ユナに付きっきりでほとんど寝てないだろ? ペイラーの記憶からほとんど休み無しだ。ハッキリ言って、今のお前の『力』なんて、俺以下だ。弱体化も著しい」

 

「……ふざけてるのか?」

 

「いやいや、本気さ。ほれほれ、かかってこ……ぶげぼ!?」

 

 ファイティングポーズを取ったスレイヴは、エイジのデコピンを避けれずに1秒と待たずしてダウンする。自称・最弱のレギオンは伊達ではなかった。

 

「ま、待て。訂正しよう。俺以下はさすがに言い過ぎだった。だがな、さすがにお前自身も理解しているよな? 正直言って、心身共にユナを気遣ってられる状態じゃないぞ。どうして『力』を欲する?」

 

 自分の弱さが憎たらしい。エイジは装備せずとも感じるダーインスレイヴとの繋がり……いいや、自分と半ば同化した邪剣の鼓動を感じて『力』を欲する。

 スレイヴの問いに、エイジは右目を覆う包帯を剥ぐ。すでに再生済みである。エイジとスレイヴが危惧したレギオン化の兆候である瞳が蕩ける症状も見られない、実に真っ当な瞳である。

 だが、何か違和感がある。それは視界に影響を与えているわけではなく、ぼんやりとした、エイジにも正体が掴めない違和感だ。

 

「僕は『まだ負けていない』からだ」

 

「お前は完膚なきまでの敗北を喫したはずだが? もう1人のユナを惨たらしく殺され、お前はライドウに遊ばれただけ。オリジナルのユナを助けたのは【聖剣の英雄】であり、お前の弱さはユナから『歌声』という最も大切なものを奪い取った。これを完全敗北と呼ばずに何を敗北と呼ぶんだ?」

 

「スレイヴも意外と口が悪いな」

 

「おいおい、俺は『憎悪』のレギオンだぞ? 当たり前じゃないか。善良から最も程遠いに決まってる」

 

 邪悪さとは無縁の笑みを浮かべるスレイヴは、窓から差し込む朝日を尊ぶように手を伸ばす。

 

「いいだろう。『力』を求めろ、エイジ。今のお前には『強さ』がある。心折れようとも、絶望すらも薪にして憎しみを燃やし、『力』を求める『強さ』がな。『善良なる人々』が否定する『悪しき強さ』だとしても、それが今のお前の『強さ』だ。証明してみせろ、エイジ。お前は『まだ負けていない』とな」

 

「もちろんだ」

 

「威勢は大変よろしい……と皮肉ってやりたいが、あれだけの事があったばかりなのに、そんな大口が叩けるならば本物のようだな。『憎悪』のレギオンが認めてやる。『お前はもう狂っている』」

 

「だったら、こちらも言ってやる。そんな僕の相棒をやっている『お前もな』」

 

 どちらからともなく笑う。スレイヴは珍しくレギオンらしさを覗かせる人間味の無い笑みを、エイジはまるで悪役のような冷笑を、それぞれ交わす。

 

「それはそうとユナの状態だが、少々……いいや、かなり危うい」

 

「どういうことだ?」

 

 スレイヴ曰く、ユナの失声はFNCに似て非なるものだとの事だった。

 本来、FNCとは現実の肉体……脳とVRデバイス、あるいは運動アルゴリズムとのアンマッチによって引き起こされるものだ。だが、脳を持つ肉体を失い、フラクトライトだけとなったユナの場合は通常と異なる。

 

「フラクトライト……正確に言えば、フラクトライト構造とは臓器と同じようなものさ。個々人で全く異なる。そして、ただの情報保存や通信媒体でもない。ユナの場合、恐らくではあるが、死の際に声……『歌声』に関わる部分が著しくダメージを受け、剥離してしまったのだろう。いっそ完全に破壊されてしまえばよかったのだろうが、そこは奇跡的に運が良かった。いや、この場合は運が悪かったのかもしれないな」

 

 スレイヴは右手と左手の人差し指をくっ付けては離すを繰り返し、エイジに問題の深刻さを伝えるように目を細める。

 

「崩壊前の剥離したフラクトライト構造を、元通りに癒着させるのは極めて難しいが、後継者の技術力ならば無理ではない。『歌声』側のフラクトライト構造が元のフラクトライト構造と同化してしまえばいいのだからな。お前が出会ったユナの似非は、剥離した『歌声』のフラクトライト構造をメインに据えて設計されたAIだ。ユナとユナの似非の願望……フラクトライト構造に深く刻まれる程の『歌』への執着と切望をシンクロさせる為だろう。これならば成功率は飛躍的に高まるはずだ」

 

「…………」

 

「良し、理解しきれていないだろうから先に進めるぞ。ユナの似非は死に、剥離していた『歌声』のフラクトライトは今度こそ崩壊したはずだ。この時点で、ユナのフラクトライトは『歌声』……発声に関して修復できない深刻な欠落を持つことになった。お前たち肉体持ちとフラクトライト状態のプレイヤーでは使用されている運動アルゴリズムに違いがあってだな。フラクトライトの翻訳用として特化された調整が施されている。この際の適合性・連動性によって、いわゆるVR適性が決まる訳だ。これが現実の肉体を持たないプレイヤー間でもVR適性……特に反応速度やアバター操作の精密性に顕著な差が出る理由だ。とはいえ、肉体持ちプレイヤーに比べれば、全般的にVR適性は高くなりやすい傾向になる。逆に拡張性……VR適性の成長性は劣るなどの問題点も多いが、それはまた別の機会に説明しよう」

 

「つまり、ユナは『歌声』に関するフラクトライトを失ってしまったが故にFNCになってしまった、と言う事なのか?」

 

「要約すればな。フラクトライト構造に独自の部位として形成される程だ。歌はまさしく彼女の存在証明でもあったのだろう。いっそ、フラクトライトの破損によって歌に関する全てを忘れてしまえていれば楽だっただろうに、どうやら歌への執着、切望、信念はフラクトライト全てに満遍なく刻み込まれてしまっていたようだな。まさしく『歌姫』だな」

 

「それがユナだからな」

 

「一切の躊躇なく姫扱いを肯定するとは……! これがユナ至上原理主義過激派筆頭か!」

 

「……スレイヴのユーモアセンスは相変わらず笑えないな」

 

「いや、ユーモアじゃ……いや、もういい。お前って意外と天然だったんだな」

 

 スレイヴの戯言は聞き流し、エイジは思案する。それならば、もう1度フラクトライトに『歌声』の領域を形成できるのか、と問う。

 

「ユナのフラクトライトは既に『歌声』を失ったと認識している。再形成は不可能だ。失った臓器が元通りに再生するか? 違うだろう。そういうことだ」

 

「それで、これがスレイヴの言う危うい状態なのか?」

 

「関係はしている。フラクトライトの連鎖崩壊については説明したな? フラクトライトの破損部位が刺激されて完全崩壊を引き起こす現象だ。ユナの場合、トリガーは『歌声』なんだろう。彼女が歌おうとすればする程に、歌おうと強く願う程に、少しずつ亀裂は広がり、いずれは何かの拍子で砂の城のように粉々に崩れる」

 

 SAOでのユナの……ポリゴンの欠片となって散る無機質な死に様がフラッシュバックする。生々しい血の色とニオイに包まれて惨たらしく死んだ『ユナ』の末路が頭を埋め尽くす。エイジは自然と拳を握り、世界の理不尽と己の弱さを憎悪する。

 

「ただでさえ、まだ目覚めて1日も経っていないというのに兆候が見られている。あの自傷行為は、自己崩壊の危険を察知した防衛本能の表れだ」

 

 スレイヴは自分の喉を指で触れ、ユナが喉を掻き毟って血を流していたことをエイジに思い出させる。

 

「どうすれば、ユナを死なせないで済む?」

 

「これ以上は専門家の力が必要だ。正直言って、お前に聞かせたのも俺の持つ知識で立てた仮説にすぎない。ただし、かなり信憑性の高い仮説だがな」

 

 まだ仮説にすぎない。だが、スレイヴは最悪の想像ではなく、彼女が分析した上で最も正確だろうユナの状態を教えてくれたのだ。

 

「その専門家の回答はいつ頃になるんだ?」

 

「ユナの解析すらしていないよ。どうやら、お前のペイラーの記憶での『活躍』はしっかり耳に入ったようでな。『無能な弱者』にこれ以上の『投資』はしないそうだ。さっさと借金を返せと一方的に通告してきたよ」

 

「……そうか。だったら、まずはスレイヴの協力者を認めさせるしかないな」

 

「こちらからもチャンスは貰えないか交渉しておこう。あと、言っておくが、ユナの症状から見て時間はないぞ。自傷行為が悪化したら猶予はないと思え」

 

 瞼を閉じれば、今まで過ごしたユナとの思い出を全て振り返ることができる。

 いつだってユナは光の中に立っていた。いつもユナはエイジに手を差し出して、光の側へと引っ張ってくれた。『ユナ』も同じだ。エイジの憎しみを……ほんのひと時でも忘れさせていたのは、他でもない彼女の歌声だった。あれが何だったのかは今でも分からないが、『ユナ』もまたユナと同じく光の側に立っていた人なのだろう。

 だが、エイジはもうユナのいるところには行けない。そして、もう歌声が聞こえる事はない。

 

「ユナは死なせない」

 

「俺もユナは気に入った。彼女の症状が悪化しないように手は尽くそう」

 

「頼りにしている」

 

「任せろ。それはそうと、お前は酷い奴だ! ユナにはご馳走を作って、俺には――」

 

「ああ、スレイヴの分なら調理室に置いてあるぞ?」

 

「エイジ! 俺は! お前を! 信じてたぞぉおおおお!」

 

 飛び跳ねて全身で喜びを表現するスレイヴを見送り、エイジはまだ頭痛が抜けない意識に苛まれる。

 エイジは右手を覆うグローブを剥ぐ。再生済みの右手は、まるで炭化したように皮膚が黒ずんでいる。ダーインスレイヴの侵蝕の影響だ。逆に最後までダーインスレイヴを握り続けた左腕は肩にかけてまで皮膚に亀裂のような傷痕が生じている。

 ユナに手を伸ばすことができず、見殺しにするしか出来なかった弱者の右手。『ユナ』に届き、だが彼女を守り切れず、挙句にユナから『歌声』さえも奪ってしまった弱者の左手。どちらもエイジにとって、憎むべき弱者たる自分自身を象徴する烙印だ。

 エイジにはもう分からない。ユナへの恋心も、確かにあった愛さえも、今は憎しみに変じてしまっている。

 だが、1つだけ確かな真実がある。 

 勝てずとも負けなければいい? なんと無様なことか。そんな底無しの愚かさこそが『敗者』への道だ。勝者だけが『敗者』ではなく、勝者とは常に『力』ある強者なのだ。

 ペイラーの記憶でも全ての立ち塞がる障害を排除するだけの『力』があれば良かっただけの事だ。ネームドだろうと、UNKNOWNだろうと、ライドウだろうと、邪魔するならば等しく叩き潰すだけの『力』こそが必要だった。

 扉を開ければ、頬に涙の跡を残したユナが頭を下げる。何事かとエイジが驚けば、彼女は丸みを帯びた手書きの文字が書かれたスケッチブックをエイジに見せる。

 

<ごめんなさい>

 

 たったの5文字であるが、言葉を並べ尽くさないからこその彼女の誠意があった。そして、床に落ちていたはずの料理が奇麗に消えていることに気づき、エイジはそんな事だったのかと溜め息を吐く。

 

「怒ってないよ。無神経だったのは僕の方だ」

 

 急いで返答を書こうとするユナであるが、まだこの新しいコミュニケーションに不慣れなのか、書くスピードが追い付かず、焦った彼女の手からペンは落ちる。床に落ちる前にキャッチしたエイジが渡せば、彼女は驚いたように目を大きく見開き、そして笑んだ。

 だが、エイジはユナの首に刻まれた、声を失った象徴のような醜い傷痕を無表情に見つめる。

 奪うのも、守るのも、何かを為すのも『力』が必要だ。『力』の無い弱者は地を這う虫のように踏み躙られるだけだ。

 

 

 

 全てにおいて『力』こそが支配する。ならばこそ、弱者の自分を殺し尽くせ。強者に至る為にはそれが必要なのだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 フロンティア・フィールド。それはまさしくプレイヤーに与えられた新世界たるフロンティアであり、想起の神殿から行けるステージ制とは大きく異なる。

 様々な環境の下で強力なモンスターが跋扈し、NPCはほとんどいない、かつての文明の跡を窺わせる滅んだ世界。プレイヤーは不屈の開拓精神を持って挑み、領地を獲得していくのである。

 自由開拓戦線は、3大ギルドの秩序を妨げることなくフロンティア・フィールドの開拓を目指すギルド連合である。陰の立役者であるレコンの思惑はどうであれ、今や3大ギルドも安易に無視できない勢力と化している。

 そんな彼らの今回の攻略対象は≪忘れられた樹海の都≫である。これまで4回にわたって部隊を派遣し、内の2回は帰還が叶わず、残りの2回は帰って来れたのは半数以下だった。そこで自由開拓戦線は他の勢力に出し抜かれない為にも、ここで一気に最深部まで辿り着き、領土化を目論み、精鋭を送り込むことになった。

 部隊長はリーファ、タンクとしてレコン、物資の管理を担う荷運び役の【ハボック】、あらゆる面でバランスが取れた【ジャイロ】、最年長にしてフロンティア・フィールド探索経験が最も豊富な副隊長の【メタトロン】、そして戦斧二刀流使いの女戦士の【ノイジー・ラズベリー】である。

 まさかの部隊長とは責任が重い。リーファは兄と同じ黒髪をやや熱が籠もった風で揺らしながら、深緑の大地を踏みしめる。

 見渡す限り、森、森、森……ひたすらに森である。だが、よくよく見れば、木々の根や雑草、泥土に隠れたコントリートの大地も見える。かつての文明の地が、今や緑の侵蝕によって覆い尽くされてしまっているのである。

 

「はっ……はっ……はっ!」

 

「レコン、少し休む?」

 

「僕のことは……気に……しないで」

 

「でも……」

 

「大丈夫……だから!」

 

 呼吸が荒いレコンは、別に負傷しているわけではない。単純に重装備で纏め上げられた全身甲冑であるが故に、森を歩くのに適していないからである。また、忘れられた樹海の都は、冬の気配が濃い冷めた空気に浸された終わりつつある街とは違い、まるで常夏のような高気温かつ高湿だ。対策が施されているとはいえ、フルアーマーのレコンとは相性が悪かった。

 全身甲冑の重装防具は、当然ながら探索には不向きだ。だが、タンクでもあるレコンは幾ら探索任務とはいえ、防具を軽装に切り替えることは出来ない。

 パーティは基本的に最も足の遅いプレイヤーに合わせられる。レコンに合わせられた結果、予定よりも大幅に遅れが生じているのは否めず、他のメンバーからの視線はよろしくない。そもそもとして、実績もないリーファが部隊長に選ばれたことを、最年長かつフロンティア・フィールド探索経験が最も多いメタトロンは納得している様子もなかった。

 

「森系の探索任務でフルアーマーとか、経験不足も甚だしいわね。出発前に指摘するのが『隊長』としての義務じゃないの?」

 

 そう嫌味を口にするのは、褐色の肌をした長身の女性プレイヤーのノイジー・ラズベリーだ。やや露出が激しいアマゾネスのような防具は、シャルルの森を契機に突如として堅実スタイルを投げ捨てて肉食系ガールに転向した傭兵のジュピターに刺激されたものであり、また戦斧二刀流は同じくシャルルの森で亡くなった傭兵のヘカトンケイルを模したものであると噂されている。

 

「そう言ってやるなよ。タンクが不可欠なのも確かだ。だが、こうも鎧がガチャガチャ音を立てていたら、ただでさえ隠密ボーナスが下がるパーティ行動でも危険ではあるがな」

 

 庇いこそすれども苦言を呈するジャイロは、革製の渋い茶のコートに身を包み、なおかつ赤色のサングラスを付けた男だ。中・遠距離対応できる射撃精度の高いライフルを背負い、近接戦は肉厚のサーベルを使いこなす。探索系スキルもそれなりに備えており、あらゆる場面での活躍が可能な人材だ。

 

「そもそも、フロンティア・フィールドは戦闘一辺倒ではないくらい承知のはず。その上で移動に支障が出ると分かっていて限度を超えた重装を認可したならば、隊長に何かしらの先見性があってのことでしょう。ねぇ?」

 

 40歳前後だろう、口髭が特徴的な最年長のメタトロンは、中盾と片手剣という最も基本に忠実な戦闘スタイルだ。元は聖剣騎士団所属だったが、何らかの理由で離席し、以後は知己の中小ギルドに身を寄せていたが、自由開拓戦線に合流し、先のフロンティア・フィールド攻略の栄誉を得たことで脚光を浴びることになった。

 

「……気にしないで。コイツらはいつもこんな感じだけど、自分の役割はちゃんとこなすから」

 

 リーファの傍らまで駆けて、ぼそりと呟くのは、ぽっちゃり系、またはふくよか、あるいは……といった、小柄な体躯を緑系迷彩服で覆い、もちろん迷彩が施されたヘルメットを被った少女のハボックだ。身の丈もある大きなリュックを背負い、部隊の物資とアイテム回収を担う縁の下の力持ちである。本人は戦闘が得意ではないらしいが、スナイパーライフルの扱いに長けるとプロフィールにはあった。

 かつてはフェアリーダンスで副リーダーを務めていたリーファであるが、見知った仲間かつサクヤの指揮下で、しかもまともに指揮など執った経験もない彼女には、今回の部隊長の席は重かった。

 自由開拓戦線でもレコンが裏から手を回したせいか、本来は隊長に据えられるはずだったメタトロンは副隊長となってしまったのだ。

 ここで実績を上げ、新生フェアリーダンス結成の足掛かりとする。それはリーファにも分かるが、目立った実績もない、自由開拓戦線でも名が売れているわけでもないリーファがいきなり部隊長ともなれば、メタトロンが面白くないのも当然であり、他の面々も信頼できないのも必然である。

 今日に向けて合同訓練は続けていたが、表面的なチームワークこそ各々が実力者であることも合わさって問題なかったが、信頼関係を築けたかと問われれば断じて否だった。

 そんな状態でつつがなく攻略が出来る程、フロンティア・フィールドは……DBOは甘くない。それは全員が分かっていることだろう。だが、同じプレイヤーもまた最大の敵であり、自由開拓戦線というギルド連合ならばこその裏切りの刃を意識しなければならないともなれば、安易に信用しないのもまた正しきことだった。最後に自分の身を守れるのは自分だけなのである。

 

「まさか予定の防具が……訓練中に壊れちゃうなんて……」

 

「修理、間に合わなかったもんね」

 

 レコンとて、今回の探索任務に重装防具が不適切であることくらいは理解していた。彼の本命防具である橙鉄の竜狩りシリーズは留守番させ、革系と甲殻モンスターの素材を合わせたより軽量な探索用タンク防具を装着する予定だったのである。

 だが、フロンティア・フィールドに向けた訓練中に予期せぬ破損が生じ、修復素材も足りず、他の防具を緊急で準備しようにも資金も無く、手に入るのは逆に生命を危うくさせる性能不足のものばかりであり、最も不適切な本命を選ぶしかなかったのである。

 口では不運だったと言うが、実際には違う。これは意図された破壊工作だ。訓練中のトラップに防具を破壊する酸性トラップが大量に仕込まれていたのである。防具は耐久性能が高い為にそう簡単には壊れないが、リーファが察知して助けに向かった頃には、酸性の泥沼に足を取られて動けなくなったレコンの具足には破損が生じてしまっていたのだ。

 何者かが≪罠設置≫で本来の訓練トラップを入れ替えたのである。3大ギルドの息がかかった者が既に入り込んでいるとはいえ、こうも妨害工作が為されるとは思いもよらなかった。

 

『破壊工作の裏は……信じたくないけど、今回の探索部隊の誰かが関わっているよ。あの訓練場は前夜に変更された場所で、通達はパーティメンバーだけに、それも深夜に行ったんだ』

 

 この中に今回の探索を敢えて失敗させようとしている裏切者がいるのだ。

 もしかしたら、訓練場の変更通知が別のルートで漏れただけなのかもしれない。だが、パーティメンバーに裏切者がいないと信じて行動するのはあまりにも危険だ。

 これまで決して少なくないギルド・パーティが、破壊工作を目的として潜り込んで来る、時が来るまで仲間のフリをする『スリーパー』と呼ばれるプレイヤー達によって悲惨な運命をたどっている。たとえ、窮地を救ってくれたとしても、ここぞという時で裏切りの牙を剥くスリーパーがこの中にいないとも限らないのだ。

 リーファにとっても今回の探索において信じられるのは、レコンともう1人だけだった。

 

「この先に敵影はいません。フロンティア・フィールド……存外に穏やかなものですね」

 

 まるで木の葉でも舞い落ちるかのように、着地音すらも無く、リーファ達の前に木々を跳び移って舞い降りたのは白の傭兵だ。

 腰まで伸びた純白の髪は1本の三つ編みに結われ、赤が滲んだ黒の不可思議な瞳を持ち、黒地に金糸で烏と林檎が描かれた眼帯で左目を覆い、男性とも女性とも区別できない美しくも愛らしい中性美の結晶のような容貌。すっかり男性らしく身長が伸びて肩幅も広くなったレコンと比べれば、少女と見間違えられてもおかしくない程に小柄な体躯。

 纏うのは灰白色をしたコートが特徴である、華美とは言えずとも武骨でもない、機能性を重視しながらも芸術性も備えた防具であり、腰に差すのはDBOでも最も扱いが難しい武器ジャンルであるカタナ、背負うのは見た目に反して飾り気のない叩き潰す為の鉄塊のような黒色の大剣。更には両太腿には改造サブマシンガンをホルスターに下げているという、可憐とも呼べる容姿に相反した武装の塊。

 傭兵業界におけるアンタッチャブルが姿を現し、途端にパーティの空気が引き締まる。まるでこれからネームドに挑むかのような緊張感が走る。

 ただし、それはリーファ以外の話である。彼女はこれでもかと安心の笑みを浮かべて、まるで近所に住まう年上の兄代わりを慕うように駆け寄る。

 

「かが――」

 

「…………」

 

「えーと、クゥリさん! 先遣、ご苦労様です!」

 

「止めてくれ。リーファちゃんはオレの雇い主なんだ。もっとどっしり構えて、偉そうに命令していればいいんだよ」

 

「あ、あははは。さすがにクゥリさんを顎で使うなんて出来ませんよ」

 

 徐々に大人の女性へと近づいていくリーファに比べれば、本来は年上であるはずのクゥリの方が、外見だけならば年下とも勘違いできる。だが、リーファからすれば、クゥリはSAOで兄の相棒を務めた、掛け値なしで最も信じられる、まるでもう1人の兄のような存在だ。

 

「なんで、ジェノサイド・モンスターが同行なんか……」

 

 そう呟いたのは誰だったのか。リーファは喰い殺す勢いで振り返って睨めば、全員が素知らぬ顔をしている。

 

「いいですか!? あたしが部隊長として信頼できないのは結構です! でも、自由開拓戦線の……ううん、あたしの雇った傭兵が信じられないならば、ここで帰っていただいて結構です!」

 

 いや、雇うように手を回したのは僕だけどね。兜に隠された顔でレコンがそう表現していそうな雰囲気をリーファは無視した。

 怒るリーファに、クゥリは軽く肩を叩いて笑む。血の気が昇っていたリーファは、ここで怒鳴ったのは部隊長として逆に失敗だと気づいて俯きそうになる。

 

「傭兵は言葉よりも実績で信用を稼ぐ。オレは仕事をこなすだけだ」

 

「……クゥリさん」

 

「でも、ありがとう」

 

 優しく微笑むクゥリに、また彼の印象が大きく変わったとリーファは心が揺さぶられる。

 病室で初めて出会ったクゥリ、リハビリ生活から始まった時間を多く共にしたクゥリ、DBOで再会したクゥリ、そして今のクゥリ……いずれも異なっており、故にリーファを戸惑わせる。

 だが、彼女はすぐに真っ直ぐとクゥリを見つめる。何があろうとも、会う度に印象が変わっていようとも、彼は兄が鉄の城で最も信じた相棒なのだ。ならば、何を迷う必要があるのだろうか? どれだけ印象が変わろうとも、にゃんこパーカーを着てリーファの兄の尾行や買い物に付き合ってくれたクゥリと同一人物なのである。

 ならば、自分が信じたいクゥリがそのままクゥリなのだ。リーファは、出会う度に印象が変わる白の傭兵を、むしろ奇特で面白いと好感を抱いて笑むことを禁じえない。

 

「この先に小川がある。休憩するには丁度良いポイントだ。そこで休もう」

 

「はい。皆さん、ファイト!」

 

「あと、声量は程々に」

 

「あ、はーい」

 

 やっぱり探索慣れしている。リーファもまた現実世界では兄と違って運動大好きスポーツ少女のアウトドア型であるが、クゥリの場合は根本的に動き方が違う。凸凹の地面、足を引っ掛ける石や根、茂る草木など、まるで意に介さないようにまるでスピードが落ちない。

 他のゲームは顕著であるが、より探索・戦闘がしやすいように、制作側が意図して『平面』であるように仕上げている。だが、DBOは森ならばまさしく本当に現実世界以上に森であり、どれだけSTRやDEXが高かろうとも動くだけで苦労するのだ。特にDEX型は本来のスピードを全く活かせない事も多い。

 沼地や氷などの地形効果によるDEXの下方修正はTECで緩和できるとはいえ、地面の凹凸などの根本的な歩き難さには無関係だ。ならばこそ、クゥリのスピードが全く落ちないのは、根本的にリーファ達とは森の歩き方がまるで違うからなのである。

 無事に小川に着いたレコンは兜を脱ぎ、川辺の石に疲労を垂れ流すように腰かける。他の面々も態度こそ慣れている様子を装っていたが、相応の疲労が溜まっていたようだった。

 モンスターが近寄らないように、効果は薄くともモンスター避けのお香を焚き、リーファは昼食の準備を始める。そうしている間に、クゥリは鳴子などの周囲警戒用のシステム外トラップを仕掛けたらしく、その手際にハボックとジャイロは感心しているようだった。

 

「よーし、ここは俺が新鮮な魚を現地調達してやろう」

 

 ジャイロは釣竿をアイテムストレージから取り出す。一見すれば呑気にも映るが、なるべく持ち込んだ食料の消費を抑え、万が一に備えるのに不可欠な行動である。

 

「やはり≪釣り≫はいいな」

 

「もしかして、興味があるんですか?」

 

「まぁな。いい加減にフレーバースキルでも取ろうと思ってるんだ。だけど迷っていてさ」

 

「DBOって意外とフレーバースキルも豊富ですからね。『こんなの使い道ないじゃん!』って言いたくなるスキルまであったりして、いざ選ぼうと思ったら迷っちゃいますよね」

 

 意外にもフレーバースキルに興味があるらしいクゥリに、リーファは嬉しさを覚える。

 殺し合いが是とされるDBOにおいて、フレーバースキルなどスキル枠の無駄遣いだと言う者もいるが、その実はほとんどのプレイヤーが何かしらのフレーバースキルを獲得しているものなのだ。

 もちろん、≪釣り≫のように実用性が意外と高いフレーバースキルもあるが、戦闘・探索系で纏めるのが最も効率的であることは言うまでもない。

 リーファもクゥリの所有スキルを全て把握しているわけではないが、本人が自分をスキル脳筋と称すように、これまでフレーバースキルなど取ろうとも考えていなかったのだろう。

 何であれ、その心境の変化がこそばゆい。そう思ったリーファは、これでは自分の方が年下なのに、まるで近所のお姉さん気分ではないかと勝手に戸惑う。

 

「スキル無しでも食料の現地調達は可能とはいえ、効率性を高める≪釣り≫はやっぱり有用スキルだ」

 

「あたしの感動を返してくれますか?」

 

「え?」

 

「返してくれますか?」

 

 そして、クゥリの≪釣り≫で心の余裕を持とうなどという考えなど一切ない発言に、リーファは憤慨した。

 

「だったら、≪演奏≫なんてどうですか? 確か、クゥリさんって色々な楽器が弾けましたし、前に聞かせてもらったピアノとかとっても――」

 

「絶対に駄目だ」

 

「えー、聞いてみたかったのに」

 

「聞いたら……死ぬよ?」

 

 何処か遠い目をしたクゥリに、彼がまたおかしな経験をしたのだろうとリーファは瞬時に理解した。だが、演奏を聞いて死ぬとは何事だろうかとも首を傾げる。

 

「少しよろしいですか?」

 

 と、そこで声をかけたのはメタトロンだ。リーファはクゥリに軽く頭を下げるとやや距離を取り、彼と2人で小声で話せる場所に移動する。

 

「正直に申し上げて、実績が足りない貴女が部隊長など認めたくない。だが、私には副隊長として補佐する義務がある」

 

「分かってます。あたしも皆さんの信頼を勝ち取れるように、先のように感情的にならないように努めます」

 

「よろしい。私も貴女に少しきつく当たり過ぎたことを詫びます。それともう1つ。レコンさんは今すぐ帰還させるべきだ。今ならば転移ポイントまで距離もそう遠くない。【渡り鳥】を護衛につければ、無事に帰ることもできるでしょう。【渡り鳥】の足ならば、レコンさんを転移ポイントまで送り届けても十分に我々に追いつけるはずです」

 

「な!?」

 

「いいですか? 私も皆さんのプロフィールは確認しています。レコンさんは実績こそが足りないが、タンクとしても有用な人材だとも承知もしています。ですが、今回は探索任務。彼の甲冑は静音性を高める改造が施されているとはいえ、やはり音が大き過ぎる。それに加えて予定進捗から大幅に遅れているのも彼の足の遅さが原因だ。彼もこのことは気に病んでいるはず。精神の綻びは死に直結する。彼の為にも決断を」

 

 メタトロンの進言に、リーファは反論の余地はない。

 これまでの攻略部隊のマッピングデータは既に受け取っており、リーファ達は1日目でまず『枯れ大樹の虚ろ』と名付けられた、モンスターとのエンカウントが大幅に低減される野営ポイントまで到達しなければならない。だが、マップデータを見る限りでは、時刻は正午であるにも関わらず、まだ3割しか到達できていないのだ。

 このままでは危険な夜間までに野営ポイントにたどり着けない。レコンの足に合わせていたならば、隊全体を危険に晒すことになるのだ。

 だが、その一方で部隊内に裏切者がいるかもしれないという別の問題もある。ここで信用できる仲間であるレコンが抜けることは、リーファにとっても避けたい事だった。

 

「……レコン」

 

「僕を外せ、だろ?」

 

「…………っ!」

 

「それくらい分かるよ」

 

 相談しようと近寄ったリーファに、レコンはメタトロンと何を喋っていたかくらいは分かると言わんばかりに溜め息を吐く。

 

「僕の足に合わせていたら、まず間違いなく野営ポイントに着くのは日が落ちてからになるからね。メタトロンさんの指摘は正しいよ」

 

「でも、今ここでレコンに抜けられたら……」

 

「うん。スリーパーの思う壺だね」

 

 ならば、レコンを外すように進言したメタトロンこそがスリーパーなのか? だが、彼はあくまで隊の安全と探索任務の達成という視点から物申しただけだ。

 こう考えると誰も彼もが怪しくなる。隊の緩衝役のように振る舞うジャイロ。最初から敵愾心剥き出しのノイジー。他とは違って好意的に接してくれているハボック。いずれを取ってもスリーパーであると疑いたくなる。

 振り返ってみれば、アルヴヘイムで冒険を共にした人々がどれだけ信頼できる人たちだったのかを思い知る。フェアリーダンスの皆と過ごした時間がどれだけ絆を育んだのかも実感できる。パーティとは人数が集まれば成立するものではなく、そこに確かな繋がりがあってこそ真に機能するものなのだ。

 

「クゥリさんにも相談するべきかな? でも、なんか調子悪そうだし……」

 

「え? そうなの?」

 

「クゥリさんって基本的に自分のことはほとんど喋らないし、目に見えて分かることはほとんどないけどね」

 

 つまりは要観察だ。自慢するように胸を張ったリーファに、面白く無さそうにレコンはクゥリを半ば睨むように見つめる。

 

「あの人は……多分だけど、リーファちゃんの選択に委ねると思うよ。あくまで仕事は仕事って割り切るタイプのはずだから、口出ししないと思う」

 

 アルヴヘイム突入以前にクゥリとトラブルがあったらしいレコンは、彼に余り良い感情を抱いていないが、それも一方的なものであるとも自覚している。だが、それでも1度抱いた悪感情はそう簡単に拭えないらしく、複雑な表情を浮かべていた。

 クゥリにスリーパーの件だけでも相談しておくべきなのではないのか。リーファは悩み、決断する。

 

「クゥリさん、ちょっといいですか?」

 

 ジャイロが釣り上げた大魚をどう調理したものかと考え込む様を見守っていたクゥリを呼び、リーファはレコンとスリーパーの件を伝える。

 途端にクゥリの雰囲気が変化する。まるで蜘蛛のように無機質な殺意に浸された右目を細めると、カタナの柄を撫でた。

 

「スリーパーか。とんでもない爆弾だな」

 

「……話すのが遅れてごめんなさい」

 

「いや、別に構わない。オレが信用できないのは当然だ。傭兵とはいえ、オレも裏切る危険性を内包しているのは間違いないからな」

 

「そんなことありません! クゥリさんのことは信用しています。信用してますけど……でも……」

 

 どう伝えるべきか分からなかったのだ。

 やっとこうして、仕事とはいえまた会うことが出来て共に冒険できるというのに、パーティメンバーに裏切者が潜んでいるなどと言いたくなかったのだ。

 

「……ごめん。リーファちゃんに責任はないって言いたいだけなんだ。オレはどうも……いつも言葉が足りない」

 

「自覚あったんですね」

 

「さすがにな」

 

「でも、あたしはクゥリさんを信じています。それだけは絶対ですから」

 

 レコンと同等、あるいはそれ以上に信じている。リーファの揺るがぬ眼に、クゥリは少しだけ顔を背けるとパーティメンバーを改めて確認するように間を置いた。

 

「今のところ、彼らからオレに対する殺気は感じない。隠すのが上手なのか、それとも任務失敗がメインで危害まで加えたくないのか。あるいは……リーファちゃんだけがターゲットなのか」

 

「殺気で判断するのはどうかと思いますよ?」

 

「……そうだな。勘なんて当てにならないものだな」

 

 何処か自嘲したように見えたクゥリに、リーファは自分もまたどちらかと言えば直感型の人間であることを伏せた。証拠と分析で固めた理屈よりも自分の感覚を信じるタイプである。

 隊長であるリーファが死亡すれば、引き継いだメタトロンは間違いなく退却するだろう。ただでさえ、今回の探索部隊は少数なのだ。隊長であるリーファの死を契機に、彼は攻略部隊の再編成を決断するだろう。

 

「レコンは絶対に外すな。オレも警戒するが、当てにはしないでくれ。オレは『アイツ』とは……リーファちゃんの兄貴とは違う」

 

 何が違うんですか? リーファはそう問おうとして、だが一変して彼女を落ち着かせようとするクゥリの微笑みに気圧される。

 

「で、でも、どうすればいいんですか? レコンの足を考えたら……」

 

「そうだな。最大限に装備重量を落とすしかない。兜は外して、武装は大盾だけ。予備の防具は?」

 

「ハボックさんが確か対毒・麻痺用の革製グローブとブーツを持って来ていたはずです」

 

「よし。ブーツに履き替えさせろ。籠手はそのままでいい。それとレコンの指輪は?」

 

「ガード強化系と隠密系です」

 

「だったら、この指輪とガード強化の指輪を取り換えるんだ。隠密ボーナスの多重アップになるし、地形によるDEX下方修正を緩和できる」

 

 指輪はDBOでも最も貴重かつ高価で効果が大きいアクセサリーだ。クゥリがオミットしてリーファに渡した大沼のはぐれ隠密の指輪は、滅多に市場に出回ることがないレアアイテムである。

 対するレコンが装備している【守護する双盾の指輪】は、リーファの情報ファイルで得た盾によるガード性能を大幅に高めるものだ。だが、そもそもとして盾を装備していないクゥリには全く効果のない指輪である。

 指輪1つと舐めてはいけない。他のアクセサリーに比べてプレイヤーに及ぼす効果は甚大なのだ。リーファは受け取れないと押し返そうとする。

 

「オレの装備は元から隠密ボーナスが高いし、TECもあるから地形によるDEX下方修正も十分に緩和できる」

 

「でも……!」

 

「今のリーファちゃんには信じられる仲間が1人でも必要だ。レコンにはその資格がある。そうだろう?」

 

「……分かりました」

 

 リーファは受け取った指輪をレコンに渡せば、彼は信じられない様子でクゥリを見つめた。そして、武器である大槌をオミットし、兜と具足を外すとハボックより革製ブーツを借りる。防御力は大幅ダウンし、なおかつ不格好であるが、それでも最低限の機動力は獲得できた形だ。

 

「これはどういうことですか?」

 

「レコンは同行させます」

 

「確かに移動速度は増したでしょう。急げば野営ポイントにも間に合う。ですが、これでは彼のタンクとしての――」

 

「メタトロンさんはレコンを勘違いしてます。確かにレコンは優れたタンクですけど、彼の本領は戦略眼にあります。大局を見据えて策を練る能力は、この探索に必ず不可欠となるはずです」

 

「……隊長命令と受け取ってもよろしいですかな?」

 

「結構です」

 

「よろしい。ならば、彼の死も含めて貴女の責任であることをお忘れなく」

 

 メタトロンを黙らせたリーファは、この判断に間違いはないはずだと自分を信じたかった。

 だが、もしもスリーパーの狙いがレコンだったら? 防御力が落ち、なおかつ大盾しか装備していない彼では窮地を脱することができるのか? 嫌な予想が頭を駆け巡り、リーファは足が動かなくなりそうになる。

 それでも、とリーファは一呼吸を挟み、危険と陰謀に満ちた樹海を進む決意を新たにした。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 血盟騎士団の副団長にして、【閃光】の2つ名を持つまでに至った、SAOでもトップクラスの実力を持った女剣士。それがアスナである。

 だが、彼女の目から見ても、その2人は余りにも異常だった。

 1人は30代前半だろう、無精髭すらも魅力的に映る、男としての魅力が渋みで燻された傭兵のスミスだ。SAOには無かった射撃武器をメインにして戦い、現時点で最強の人型ネームドという評価を受けた【竜狩り】オーンスタインを単独撃破したプレイヤーだ。

 もう1人は20代前半だろう煌びやかな金髪の青年のグローリー。まさしく英雄譚に登場する騎士のような鎧を装備し、大盾と片手剣という、SAOの黒幕だったヒースクリフと同じ武装でありながら、その戦闘スタイルはおよそ常人から逸脱した、まるで1人だけ別の物理エンジンで動いているのではないかと思うほどに滅茶苦茶なものだった。

 スミスはあくまで堅実重視。モンスターとのエンカウントを徹底的に避け、必要不可欠ならば静音性を向上させたライフルでヘッドショットを決めてから接近し、ナイフで急所を刺し貫く。≪背嚢≫の軽量性が高いバックパックを背負い、銃弾と物資を十分に持ち込みながら、あくまで徹底して静かに事を済ます。まさしく理想的である。

 対するグローリーは……モンスターを見つけるや否や、堂々と名乗って突撃する。我こそは騎士なりと大声で周囲のモンスターを掻き集めた挙句に、まるでヒーローショーだと言わんばかりに圧倒的な戦闘能力を見せつけつつ、だがアスナ達を否応なく戦いに巻き込む。

 

「お腹……お腹が……!」

 

「私の常備薬だ。よく効く」

 

 アスナ、≪忘れられた樹海の都≫探索2日目にして胃を破壊される。仮想世界であり、なおかつ現実の肉体を持たないアスナは、どうしてこんなにもお腹が痛くなるのだろうかと本気で苦悩する。

 

「2人とも、もう休憩ですか!? 早く野営地を見つけなければ、夜が来てしまいますよ! あ、もしかして、月明かりの下で戦う騎士たる私の雄姿をご覧になりたいのですか? フフフ、気持ちは分かりますが、今回は探索依頼! 見せ場は最後に取っておきますから、今は隠密行動を重視しましょう!」

 

「……アンナ君、今から私の手が滑ってグローリー君にヘッドショットを決めるのは不運な事故だ。いいね?」

 

「はい、もちろんです。これは不運な事故です」

 

 スミスが確かな殺意と共にハンドガンを向ける様を、暗い喜びと共に歓迎したアスナは、大声を張り上げてモンスターを呼び寄せようとしているのではないかと疑いたくなるグローリーに発砲される瞬間を待ち侘びる。

 だが、ギリギリで理性を保ち、スミスはハンドガンのトリガーから指を外し、アスナは何とか銃口をその手でゆっくりと下げさせた。彼らの殺意の天秤がギリギリであることを知る由もなく、グローリーは謎のポージングを決めている。

 

「誤解しないでやって欲しいのは、グローリー君に悪意はない点だ。ただ……ただ彼は……こうした任務に非常に不適切でね」

 

「ええ、よく分かります。こればかりは適性ですから。あと、お薬ありがとうございました」

 

 悪意はない。だからこそ性質が悪い。指摘したところで全く治る気配もない。もはやどうしようもない。

 アンナことアスナは、教会の聖遺物探索の任を受け、≪忘れられた樹海の都≫に挑んでいた。

 1人目の協働相手であるスミスは、最も理想的な傭兵の1人という看板通りの、アスナの目から見ても飛びぬけて優秀だった。彼がSAOにいれば、どれだけ攻略は捗っただろうかと夢想する程である。

 対する2人目のグローリーは……確かに強い。強過ぎる。これまたSAOにいれば、ボス戦は大幅に楽になっただろうと確信できる程に強い。だが、それだけなのだ。探索に全く向いていない。適性が欠片もない。むしろ、ひたすらに胃へとダイレクトアタックしか決めない精神的フレンドリーファイアーの嵐である。

 

「しかし、噂の【バーサーク・ヒーラー】がここまでの腕前とは! フッ、ついにグローリー☆ナイツに紅一点の女騎士ポジションが埋まる時のようですね!」

 

「ぐ、ぐろりーないつ?」

 

「気にしては駄目だ。彼のノリは理解しようとしても心が病むだけだ」

 

 グローリーとの付き合いはそれなり以上であるらしいスミスは、彼と行動を共にする術を身に着けているらしく、何度もハンドガンの銃口を向けては精神安定を図っているようだった。

 見渡す限り、ひたすらに木々が生い茂る森だ。まさしく樹海であり、だがよくよく見れば、緑に呑まれた文明の名残を探し出すことができる。

 アルヴヘイムもまるで本物の異世界のようだったが、こちらも似たようなものだ。広大な樹海を探索できる冒険心は、それと同じくらいの不安を募らせる。

 

「だが、フロンティア・フィールド特有の強力なモンスターとはまだ遭遇していない。今のところは雑魚ばかりだ。喜ぶべきなのだろうが、少し気になる点ではあるな」

 

「私も同様です。フロンティア・フィールドの探索は初めてですが、ネームド級の強力なモンスターも出現するとエドガー神父から警告を受けました。なるべく戦闘のリスクは避けて目的地を目指すべきです」

 

 今回のアスナ達の目的である聖遺物の回収……それは【太陽の宝珠】と呼ばれるアイテムだ。遥か古において、太陽の光の王女グヴィネヴィアが所有していたとされる宝珠であり、闇を退ける力を宿しているとされている。

 エドガーが得た情報によれば、≪忘れられた樹海の都≫にて、突如として昼間のように明るくなる現象が発生したとのことだった。遭遇した探索隊が目撃したのは、光り輝く宝珠と一体化した謎のモンスターであり、それは≪忘れられた樹海の都≫の深部へと消えたとのことだった。

 

「我々はあの地下鉄跡地を通らねばならない。リスクは大きいが、回り道よりはいいだろう」

 

 スミスが指差すのは、蔦で覆われて隠された地下鉄構内への入口だ。当初は地上ルートから目的地を目指していたアスナ達だったが、この先には巨大キノコの胞子で満たされた危険地帯があるのである。レベル3の睡眠が蓄積する……というだけで通る理由はなかった。眠っている間にキノコの苗床にされて死亡など笑い話にもならないのである。

 スミスの装備は射撃精度と射程距離重視のライフル、≪短剣≫だろうナイフ、≪曲剣≫に属するマチェットだ。バックパックには十分な物資が詰め込まれている。先導する彼は頼もしく、逆に背後を任せるグローリーには不安しかないアスナだった。

 

「しかし、スミスの装備がラスト・レイヴンではないなんて残念ですね。またグローリー☆ナイツに相応しい縦横無尽の騎士バトルが見れると思っていたのですが」

 

「……何事にも適材適所だ。ミッションに合わせて武装を変更するのは当然のことだよ」

 

 迷彩服に身を包んだスミスは、蔦をマチェットで裂くと今は滅びた地下鉄構内へと案内する。

 死体はもちろんなく、だが売店などの人間の営みの痕跡はある。廃墟趣味はないアスナであるが、この侘びしさには特有の癖になる何かを感じてしまう。

 もう電車も走らない線路は足首ほどまで水没してしまっている。駅のホームから跳び下りたスミスは、水飛沫も立てず、波紋すらも最低限にして着地するとライフルを構えて警戒する。

 

「安全……か。やはり妙だな」

 

「スミスさんはフロンティア・フィールドの探索経験があるんですよね?」

 

「ああ。だが、その時は戦闘数も少なくなかった。私も経験を活かしているつもりだが、それでも想定の半分にも届かないエンカウントだ」

 

 もちろん、グローリーによる強制エンカウントを除けば、という前提である。それくらいはアスナも文脈を読める程度には学習していた。

 

「フロンティア・フィールドも地域毎に特色が異なると聞きました。だったら、≪忘れられた樹海の都≫はモンスターとのエンカウントは控えめ……とは考えられないでしょうか?」

 

「十分にあり得るが、個人的に違うと断言しよう」

 

 個人的意見。そこに籠められているのは、確証に足る情報がないということだ。即座に把握したアスナは、現状の再分析を行う。

 広大な≪忘れられた樹海の都≫で、ターゲットとなるモンスターを発見して撃破する。目撃情報によれば、ターゲットは空を浮遊しており、まるで雲のように大きな何かだったとのことだ。だが、その一方で太陽のように光輝く球体を目撃している。

 巨大モンスターであるならば間違いなく目立つはずである。だが、地下ではどれだけ光っていても確認することが出来ない。ターゲットの位置が分かる夜間までには、何としても地下鉄構内を突破したいところだった。

 

「ところで、麗しの女騎士さん!」

 

「アンナで結構です」

 

「そうですか。アンナ、実は前々から言いたかったことがあるのですが」

 

「なんでしょうか?」

 

「アンナはその……素晴らしい美脚ですね」

 

 まるで初恋の人を褒めるような初々しさすら感じる照れを見せながら、だが清々しいまでのサムズアップという謎の合わせ技を披露するグローリーに、アスナは無意識の内に得物であるレイテルパラッシュを抜いていた。DBOは≪細剣≫カテゴリーが無く、≪刺剣≫に統合されているが、突き技を得意とするアスナには使い勝手は特に変わらない。

 突き刺して変形させて撃つ。突き刺して変形させて撃つ。突き刺して……変形させて……撃つ! ハンドガンが組み込まれたレイテルパラッシュの機能をフルに活かす、【閃光】の名を欲しいままにした最速の突きを穿とうとしたアスナの肩を、優しさ……いいや、同情に満ちた大人の男の手が叩く。

 

「落ち着きたまえ。フォローするわけではないが、グローリー君なりの緊張を和らげるウィットに富んだ発言のつもりなんだ」

 

「ええ、理解しています」

 

 だからといって、いきなりこのセクハラ発言を無視できるアスナではない。

 顔面を突き刺して撃つ。それだけならば即死しないはずだ。刺剣は純刺突属性が売りであるが、攻撃力自体は低めのカテゴリーである。カウンターと合わせてこそ化けるのだ。ならば、正面から顔面を突き刺し、何度も何度も突き刺し、その上で脳漿をぶちまけさせる勢いでトリガーを引いて弾丸を打ち込んだところで死なない。死ぬはずがないのだ。

 

「いえ、申し訳ありません! 実はアンナのスカートから伸びる美脚が非常に気になっていまして! いやね、DBOの女性プレイヤーにもミニスカ装備ってそれなりにいるんですよ。でも、アンナの美脚はこのグローリー☆アイで見逃すことはとてもできないんです! こう、何と申しますか。何処で……何処かでこの美脚を……!」

 

 うーん、と悩むグローリーにアスナは何とか怒りを抑え、顔を隠すフードを深く引き寄せる。

 スミスもグローリーも素顔を明かさずに同行するアスナに特に不快感も、顔を見せるように要求することもない。

 

『素顔を隠す謎の女剣士……これをカッコイイと言わずして我が騎士道は成立しません!』

 

『傭兵でも、ほとんど正体はバレているのに顔を隠している輩がいる。私は何とも思わんよ』

 

 この2人の反応は対照的であったが、どちらもアスナが顔を隠すこと自体には何の抵抗も無いようだった。

 そして、2人ともアスナと何も示し合わすことなく、まるで呼吸でもするように連携を取れるのだ。どちらも卓越した技量の持ち主であり、また我の強い戦い方であるが、それはそれとして連携を良しとしてアスナに合わせてくれているのだ。

 だからこそ、余計なトラブルを抱えたくない。アスナは自分の帰りを待つユイを思い出し、グローリーのセクハラ発言くらいで目くじらを立てる暇があるならば、1秒でも早い帰還の為に目的の達成を優先する。

 水没した地下鉄構内は傾斜しており、徐々に足下の水没は酷くなる。また、頭上から垂れる蔦や木の根の表面には百足に似た不気味な虫がへばり付いていた。不快感を堪えながらも、アスナは先導するスミスに続く。

 

「ふむ、厄介な場所だな」

 

 立ち止まったスミスの言う通り、水没した線路は途切れ、陥没した地面によって大きな地底湖が形成されていた。明らかに何かが潜んでいる雰囲気である。反対側までは泳いで渡る以外の方法では、まるで水面を泳ぐ蛇、あるいは龍のように捩じれ突き出した木の根を渡るしかない。

 

「私が先行しよう。アンナくんとグローリーくんは待機を。何かあった場合はよろしく頼む」

 

 引き返して別ルートを探すか否か。スミスが顎を撫でて考えたのも数秒であり、この程度のリスクならば背負っても問題ないとばかりに木の根を渡る。次々と音もなく跳び映り、水底に潜む何かを呼び覚まさないようにする配慮が窺えた。

 あっさりと反対側にたどり着いたスミスはハンドサインでアスナに続くように伝える。彼女は深呼吸をするとなるべく音を立てないように、慎重に木の根を歩く。だが、跳び映る際に脆くなっていた木の根の表面が剥げかけ、あわや水音を立てるかに思えたが、咄嗟に抜いたレイテルパラッシュで木片を刺し貫いて凌いだ。

 最後にグローリーだ。スミスの手を取って、水飛沫を立てないように、陥没していない線路に立ったアスナが振り返れば、そこには全身防具を外し、赤褌1枚になった自称☆騎士の姿があった。

 金属鎧ではどうしても音を立ててしまう。ならば、いっそ防具を外すという選択肢もありである。だが、それはそれとして、アスナは赤面して顔を背けずにはいられなかった。

 あとは木の根を跳び移ってくるだけだ。だが、アスナが渡った時点で脆い表面の剥離が酷かった。グローリーではどうなるか分からない。緊張した彼女とは対照的に、何故かグローリーは陥没した地底湖から距離を取る。

 そう……まるで……高跳びの前の助走距離でも取るかのように。

 

「今、超必殺のぉおおおおおおおおおおおおおおおお! グローリー☆大ジャンプ!」

 

 この男、どうして2人が静かに行動したのか理解していない。スミスが額を押さえ『言葉にして指示しなかった私のミスだな』と愚痴を零す。

 大声と水飛沫を上げた、膝までの水没によるDEX下方修正効果を、高STRが生み出すパワーと膨大なスタミナ消費で強引に振り切り、グローリーは地底湖を大ジャンプで跳び越える。ここに審査員がいたならば全員が『10.00』と評点するような美しい謎のポーズを決めながら空中で曲線を描く。

 

「着☆地。フッ、この騎士たる私ならば容易かったですね!」

 

「あなた……馬鹿なの?」

 

「いいえ、騎士です!」

 

 汗と水滴が混じり合いながらも、まるでギリシャの石像を思わす黄金比の筋肉プロポーション……ボディビルダーとはまた異なる筋肉美を披露するグローリーに、アスナはある種の敬意を抱く呆れと殺意を覚えた。

 同時に地底湖の中心部より大きな水飛沫が上がり、軟体生物を思わす7本の触手が蛇の如くうねる。いや、実際に触手の先端にはハエトリグサを思わす捕食器官が備わっていた。

 また全体像は見えずとも分かる。これがフロンティア・フィールドにおける『大物』だ。ネームドにも匹敵するとされるモンスターであり、フロンティア・フィールドの高難度を象徴する存在だ。

 

「逃げるぞ! 不要な戦いは避けるべきだ!」

 

「はい!」

 

「え!? 2人とも逃げるのですか!?」

 

 防具も身に着けずに、地底湖の怪物を迎え撃つ気満々だったグローリーを置き去りにして、スミスとアスナは全力で逃走することを選ぶ。

 背後から迫る地底湖に潜んでいた何か。背中を撫でる巨大な気配。アスナは高DEXを活かし、一気にトップスピードに入る。

 

「大したスピードだ。高出力化も体得していたとはね」

 

 発見された以上は物音など気にしていられない。目的地である駅のホームに跳び上がったアスナと並ぶように着地したスミスが感嘆する。

 SAOでもトップクラスのスピードを誇ったアスナは、元よりDEXの高出力化に関する才覚があった。ステータスの高出力化に関する知識はDBOで得たものであるが、安定して6割を出せる。

 SAOという死闘の中で目覚めていた才能。それをDBOという環境で改めて自覚した彼女は、瞬間的にDEX9割にも到達できる。ただし、あくまで瞬間的……まさしく刹那の瞬きの時に過ぎない。

 だが、死してフラクトライトだけの存在になろうとも残る天賦の才は、その牙を剥く時、彼女の2つ名であった【閃光】の意味を示す。

 最もスピードが低いグローリーが引き連れてきた地底湖のモンスター。それは7本の触手を背中から生やした巨大なマリモのような外観だった。生えた触手で強引に這いながら追って来ただろうモンスターの触手先端の捕食器官で光が凝縮し、ホームに跳び上がるグローリーを狙い撃たんとする。

 DEXの高出力化による瞬間加速と合わさった≪刺剣≫の突進系ソードスキルにして彼女の十八番である【リニアー】。彼女のアバターが明確にブレたかと思えば、スピードを乗せた刺剣はグローリーを狙っていた触手を刺し貫く。

 黒ずんだ緑の血が傷口より溢れ、アスナは蹴りで触手に突き刺さった刺剣を抜くと、無事に切り抜けたグローリーの称賛のサムズアップを見て、この男には何を言っても無駄なのだろうと諦観の域に達する。恐らくであるが、彼女が助けに入らずとも、この男ならば何事もなく切り抜けられただろうという確信があった。

 

「さて、このまま逃がしてくれそうにはないな。ここで撃破するか」

 

「そうみたいですね。援護します」

 

「ふふふ! 騎士の物語に怪物退治は付きものです! さぁ、グローリー☆ナイツの輝かしい戦いの1ページを増やそうではないですか!」

 

 防具を身につけないまま、大盾と片手剣を構えたグローリーが作戦など無いとばかりに触手を持つ巨大マリモに突撃する。

 もう見ていられない! アスナは奇跡の≪降り注ぐ魔法防護の雨≫を発動させる。上空より優しい光の雨が降り注ぎ、3人の魔法属性防御力を高める。あの触手が放とうとしていたエネルギーは、ライトエフェクトからして魔法属性と判断できた。これで幾らかは生存率を高められるはずである。

 

「援護と回復は任せてください!」

 

「頼りにしているよ」

 

 刺剣を使うが、アスナの本職はあくまで奇跡による回復をメインにしたヒーラーだ。今回の仕事に攻撃系の奇跡は装備しておらず、魔法枠は補助・回復系奇跡で埋めている。

 7本の触手からそれぞれ魔法属性のレーザーを放つ巨大マリモであるが、スミスは容易く避けながら、なおかつ発射口でもある捕食器官の中心部を正確にライフルの連射で撃ち抜く。アスナもハンドガンとのキメラウェポンであるレイテルパラッシュを使用している為に分かるが、スミスの射撃技能はトッププレイヤーという表現の域すらも超えている。あれ程に動き回りながらの精密射撃など人間業ではない。

 対するグローリーもまた人外の域だ。大盾で丸太のように太い触手の鞭を軽々といなし、そのまま斬りつけていく。上空から放たれた魔法属性レーザーをポーズを決めながら躱したかと思えば、マリモのような本体を連撃で刻む。防衛行動で全身から針を突き出すも、彼は大盾でそれをしっかりと防ぎ、針が緩んだ隙にきっちりとカウンターを入れて退却したかと思えば、暴れる触手を足場にして毬のように跳ねまわり、本体へと再度アタックを仕掛ける。

 

「今、超必殺の――」

 

 だが、そうはさせないとばかりに、本体そのものが十字に割れ、磨り潰す為の歯が並んだ大口を開ける。その最奥で魔法属性の青いソウルの輝きが瞬く間に凝縮される。

 危ない! アスナがサポートに入ろうとするが、不要とばかりに怪物の大口に放り込まれていたのは手榴弾だ。

 スミスはグローリーの変則的な動きを完全に見切り、自身も触手とレーザーの乱れ攻撃を躱し、援護射撃をしながら、更には怪物の口を開く予備動作から即座に攻撃を予想して手榴弾を投げていたのである。

 口内で起きた爆発で巨大マリモはたじろぎ、触手とは一線を画す太いレーザーの射線がズレる。グローリーは掠めた太いレーザーに慄くこともなく、レーザー放出が終わって閉じそうになっている口内へと片手剣と大盾の鋭い先端を突き立て、そのままこじ開ける。

 

「グローリー☆ヘッドアッタァアアアアアアアアアアアアアアアアアアク!」

 

 要は頭突きである。手で触れたくもない気持ち悪い口内へと自らの頭を突っ込むのは、もはや狂人の域であるが、この頭突きは思いの外に効果的だったらしく、巨大マリモは痙攣する。そこから彼は、褌1枚という姿に似合わぬ、片手剣と大盾を用いた踊るような連撃でラッシュを仕掛ける。

 だが、巨大マリモの攻撃が変化する。触手から太い棘が飛び出し、攻撃が強化される。また、先端の捕食器官からの放つレーザーにも拡散タイプが加わる。

 

「やれやれ。やっとフロンティア・フィールドらしくなってきたな。相変わらずネームド並みに手数が多い上にタフな奴らだ」

 

 口では文句を垂れながらも、スミスの動きもまた変わらない。棘が増えた所で根本的に攻撃が当たらないのだ。拡散レーザーも、敢えて敵の触手を盾にするように動くことでノーダメージで凌いでいる。逆に後方支援であるはずのアスナの方が流れ弾が掠めてHPを削られてしまっていた。

 これがDBO最前線を生き抜く1桁ランクの傭兵の実力……! 元より認めてこそいたが、彼らの実力はアスナが見た中でも群を抜いている。

 ソードスキルなどのSAOと類似した部分はありながら、スタミナなどバトルシステムはよりプレイヤーに困難を突きつける。DBOでは通常攻撃とソードスキルの使い分けこそが重要である。いかにしてソードスキルを使いこなすかが攻略・戦闘の鍵だったSAOとの決定的な違いでもあるだろう。

 射撃攻撃がメインのスミスはそもそもソードスキルに頼らない。近接アタッカーのグローリーはソードスキルを『必殺技』として使いこなしている。

 

(私はまだSAOの戦いから脱却しきれていない。悔しいけど、この2人の戦いは勉強に……勉強に……勉強に?)

 

 いいや、全く勉強にならない。そもそもとして大盾による攻防と滅茶苦茶な動きで戦うグローリーと超人的な近・中距離射撃戦のスミスでは、参考にしようがないのだ。

 

「やっと半分を切ったか」

 

 そして、フロンティア・フィールド……DBOという彼らのような超人さえも呑み込まんとする、デスゲーム化するなど狂っているとしか言いようがない高難度ゲームのモンスターは、製作者の悪意を反映するように、より凶悪に牙を剥く。

 触手から生えていた棘が一斉射出される。まさかの攻撃によって破壊の嵐が吹き荒れ、土煙が舞い上がる。

 

「2人とも無事!?」

 

 思わず声を張り上げたアスナの生存確認に対して、この程度で何を動揺しているとばかりに無傷のスミスが銃声で応える。あれだけの棘の射出を咄嗟に抜いたマチェットで防ぎ切っていたのだ。

 一方のグローリーは無傷と言い難かった。背中に棘が突き刺さり、痛々しく血が流れている。だが、それはガードではなく、巨大マリモへの攻撃を優先したからのダメージだ。とはいえ、初見であるはずの攻撃を敢えて防具無しの背中で受けるなど、高VITでも危うい所業である。

 傷ついたグローリーに、チャンスとばかりに巨大マリモは大口を開けて再度の巨大レーザーを放つ。避けようともしないグローリーに、アスナは即座に奇跡の中回復を発動させる。

 グローリーを軽々と呑み込み、地下鉄のホームに破壊をもたらす大レーザーに、アスナは血の気が引いた。あれを正面から受けたならば大ダメージは免れない。

 

「騎 士 の 盾 は 砕 け な い」

 

 だが、レーザーの中で、逆に1歩ずつ前に進むグローリーの『漢』という存在を感じずにはいられない背中がアスナの目に映る。

 

「アンナくん! 回復を!」

 

「は、はい!」

 

 思わず呆然としたアスナはスミスの指示で我に返り、魔力の消費が激しい大回復でグローリーを援護する。本来、中回復・大回復などは自分の周囲でしか発動できないが、アスナはヒーラーとして≪魔法範囲強化≫スキルを獲得している。

 アスナの回復も織り込み済みとばかりに……いいや、アスナならば必ず回復してくれるはずだと信じたグローリーの突撃。じわじわと巨大マリモの口内に近づき、レーザーの放出口まで辿り着く。

 放出口に押し付けられた大盾によって逃げ場を失ったエネルギーが炸裂し、巨大マリモは内側から大ダメージを受ける。本体の軽視できないダメージによって触手の動きが鈍り、その間にスミスの援護射撃がグローリーの撤退を援護する。

 これ以上のダメージは受けられない。巨大マリモは住処である地底湖への撤退を決めたように後退る。だが、ここまで戦って逃がすなどあり得ない。アスナはグローリーと入れ替わるように前線へと出る。

 

「逃がさないわ」

 

 迫るアスナを近付けまいとする触手の猛打。常人ならば潜り抜けるなど不可能であり、アスナも思わず躊躇しそうになるも、彼女の背後から飛んできた大盾が触手の1つを弾いて道を開く。

 ここだ。突破ルートが見えたアスナは最初の3本の触手をバックステップで躱し、続く上空からの拡散レーザーを逆に踏み込んで範囲外に逃れ、ダメージを最小限に抑える。

 迫られた触手が全身を震わせる。全身から棘を出すカウンターの予備動作だ。だが、グローリーへの反撃で攻撃範囲を見ていたアスナは、当たるか当たらないかのギリギリの範囲で踏み止まる。

 棘の先端が頬を浅く切り裂く。散った僅かな血を目にしながら、カウンターの棘を引っ込めていく巨大マリモの最後の悪足掻き……大口による噛みつきより先にアスナは≪刺剣≫連撃系ソードスキル【スタースプラッシュ】を繰り出す。3連突きから2連斬り払いからの斬り上げ、そしてフィニッシュの2連突きという8連撃を繰り出す。

 元より連撃系に秀でた≪刺剣≫のソードスキルは、他に比べても連撃系のモーション時間は短い。アスナは更にモーションをなぞることで高速化と威力の増幅を行い、スピードのみならず、剣技においても【閃光】の異名を知らしめる。

 見る者によっては、まさしくソードスキルのライトエフェクトが閃光のように爆ぜたとしか思えない連撃。巨大マリモは耐えきれず、そのHPを削り切られてポリゴンとなって爆散……することはなく、触手全てを痙攣させると傷口から黒ずんだ緑の血を垂れ流しながら倒れる。HPを削り切った攻撃は特に対象のアバターに破損をもたらす演出がある。それも合わさってか、彼女のスタースプラッシュは≪刺剣≫のカテゴリーを超えた破壊力を発揮したかのようにも映るだろう。

 

「見事だ。あのヴォイドと並ぶかそれ以上……いいや、彼亡き今はキミこそがDBO最強の刺剣使いかもしれないな」

 

 称賛するスミスは、一服だとばかりに煙草を咥える。アスナとしては、幾ら健康に害がない仮想世界とはいえ、煙草は遠慮願いたかったが、さすがに生死をかけた戦いの後の1本に口出しするつもりはなかった。

 アスナもヴォイドの名は知っている。アノールロンドというDBOでも屈指の高難度ダンジョンの最深部……そこで立ちはだかった【竜狩り】オーンスタインに敗れた聖剣騎士団のトッププレイヤーの名前だ。それまで最強の刺剣使いの称号といえばヴォイドが欲しいままにしていたが、今は空座となっている。

 

(私はどちらかといえば≪細剣≫使いなんだけどなぁ)

 

 だが、DBOではカテゴリー統合されているので仕方がない。お陰でSAOの≪刺剣≫のソードスキルも使えるようになったと思えば恩恵の方が大きかった。使い勝手も変わっていない。

 

「まるでネームドみたいに手強かった。これがフロンティア・フィールドの本当の脅威なんですね」

 

「まぁ、これでも『弱い』部類だがね。タフさも並程度だ」

 

 平然と言い放つスミスに、アスナは信じられないと驚きを隠せなかった。まるでアインクラッドのフロアボスを相手取っていたかのような威圧感だったからだ。

 アスナは【バーサーク・ヒーラー】の異名を持つ経緯でもある偶発的なネームド戦は経験しているとはいえ、本当の意味でネームドに……ボス級のネームドとは戦闘経験がない。HPバーが減少する毎に能力を開放していくDBOのネームドは、その最終段階の凶悪さは初期段階とは別次元であると恐れられていた。

 特に少数で決して対峙してはならないのは人型ネームドだとアスナもエドガーから警告を受けている。特に人型ネームドは小型であればある程に……プレイヤーに近しいサイズ程に危険であるとされている。単純に攻撃を当てる的として小さくなるだけではなく、たとえ『多人数のプレイヤーに囲われても無双できるほどの超絶した戦闘能力』を秘めている危険性が高いからだ。

 実際に、人間よりも一回り程度大きいサイズの【竜狩り】オーンスタインは、DBO最強の人型ネームドとしてサインズと3大ギルドによって正式に認定されている程である。

 そして、目の前の男はそのオーンスタインを単独撃破している。ネームドの単独撃破は偉業であり、等しく英雄視されている。だが、この男の場合は、単なる英雄視に留まらず、ある種の恐怖も帯びていた。まるで人間の域を超えた存在……理解し難いイレギュラーであるかのように。

 

「フロンティア・フィールドには徘徊型ネームドもいる。キミならば十分に活躍できるだろうが、危険を感じたらすぐに退くことだな。私とグローリー君が組めば、余程の相手ではない限りは倒しきれるはずだ」

 

「お言葉だけは受け取っておきます」

 

「ああ、そうしてくれ。しかし、【バーサーク・ヒーラー】とはよく言ったものだな。ヒーラーにしておくには勿体ない」

 

 SAOでは後方支援のヒーラーが存在しなかった為に、アスナ自身も鍛え上げられているのは近接戦闘の方である。スミスの指摘に間違いはなかったが、こうして後方支援で回復・補助することの重要性は言うまでもなく、今の本職はあくまでヒーラーであるとアスナは念押ししたかった。

 とはいえ、前で戦っている時の方が性に合っているのも確かである。いっそ正体を明かせるならば、SAOの時のように堂々と斬り込んでいけるのだが、という無念もまたアスナに無いわけではなかった。

 

「さすがはグローリー☆ナイトの紅一点! 素晴らしい剣技でしたよ!」

 

「グローリーさんもね。認めたくないけど、スピード撃破最大の功績者は間違いなく貴方よ」

 

「【バーサーク・ヒーラー】の回復を信じていましたからね! 騎士が仲間の助けを信じて戦うのは当然のことです!」

 

「そもそも、キミのせいで我々は不要な戦いを行う羽目になったのだが、アンナくんにもいい経験になったのは確かだな」

 

 経験といえば、巨大マリモ撃破による得た経験値もまた目を見張るものがあった。3人で倒したということもあり、アスナのレベルはまた100へと1歩近づく。一方の2人はレベル100を超えている為か、あるいは驚くに値しないのか、無反応だった。

 

「さて、先を急ぐとしよう。間もなく夜のはずだ」

 

 無事に地下鉄構内を脱し、地上に出れば夕暮れである。

 フロンティア・フィールドには、モンスターとのエンカウントが制限される野営ポイントが存在する。だが、手探りで<忘れられた樹海の都>を探索する3人は、自分たちの行く先の何処に野営ポイントがあるのか分からない。

 

「いやぁ、こうしているとシャルルの森を思い出しますね」

 

「ああ、キミの愚かさには何度泣きたくなったか分かったものではなかったな」

 

「おや、スミスも泣くのですか? 鬼の目にも涙ですか?」

 

「天使だろうと悪魔だろうと鬼だろうと、泣く時は泣くものさ。泣けないのはバケモノだけだ」

 

 相性は悪いが、互いの実力を認め合っているのだろう。こうした何気ない会話の中にもコミュニケーションを取り合おうとする意思が見受けられる。それが微笑ましく、アスナはスミスの野営準備に協力する。

 

「モンスター避けの香は焚かないんですか?」

 

「あれはモンスター相手には有効だが、プレイヤーには逆に勘付かれる。たとえ効果は低くともこちらの方が安全だ」

 

 スミスが野営周辺に撒くのはモンスターとのエンカウント率を下げる聖剣騎士団製の【退魔の霊薬】だ。気休め程度であるが、それでも野営のようにプレイヤーが動かない場合は効果が期待できる。

 対プレイヤー……人間に襲われる危険性の方を重視するスミスの判断に、アスナは背筋に冷たいものを覚えた。SAOでも様々なPKによってプレイヤーは命を落としたが、DBOではそれが常態化している。人殺しは日常になっているのだ。

 異世界同然だったアルヴヘイムとは違う。現実世界……アスナが生まれ育った世界の良識と道徳を本来持つはずのプレイヤーが暮らすのがDBOであるはずだ。そのはずなのに、アルヴヘイム以上に死と狂気の悪臭で満ちていることがアスナには信じられなかった。

 

「キミは人を殺した経験がないようだな」

 

「覚悟はある……つもりです」

 

 その機会が無かっただけだ。アルヴヘイムでも、命懸けでオベイロンを……須郷を倒そうとしたように、アスナには人を殺める覚悟がある。だが、積極的に人殺しなどしたいとは思わず、出来る事ならば手を血で染めるのも避けたかった。

 プレイヤー同士が戦うなど間違っている。DBOはPK推奨であり、むしろプレイヤー同士の争いこそが本分であるところもあるが、それに従うか否かは他でもないプレイヤー自身であるはずだ。

 SAOでもそうであったように、全プレイヤーが手を取り合って仲良く攻略ができるとは思っていない。だが、それでも敵は同じプレイヤーではないはずだとアスナは強く叫びたかった。

 見た者以外に映さぬ火を点す夜盗の火打石で集めた薪に着火させたスミスは、ようやく整った野営地に腰を下ろす。場所は倒れた巨木の上の抉れた溝であり、頭上が開けて夜空を広く確認できる。これならばターゲットである、夜でも太陽のように輝く現象を察知しやすいだろう。また、巨木の溝であるが故に身を隠すこともできるので最低限の安全も確保できる。

 

「人殺しなどしないに越したことはない。私は多くの人間を殺めてきたが、気持ちが良かったことなど1度もない。同じくらいに不愉快に感じた事もないがね」

 

 焚火でお湯を沸かしたスミスは、珈琲を注いでアスナに渡す。ありがたく受け取り、金属製のマグカップから伝わる熱に安心感を覚える。たとえ、熱帯のように蒸れて熱い樹海の都であっても、温かな珈琲には心を休める魅力があった。

 

「キミの剣は対人よりも対モンスターで鍛えられている。並の相手ならば上位プレイヤーであっても後れを取ることはないだろうが、殺人に慣れている対人経験豊富なプレイヤーが相手の時は注意したまえ。たとえ、相手のレベル・装備が劣っていても油断するな」

 

 SAO程にレベルが絶対ではないDBOでは、レベル差を覆す殺人も珍しくないのだ。特に数の暴力は如何ともし難く、上位プレイヤーが貧民プレイヤーの集団に嬲り殺されたという事件もあったとアスナも耳にしている。

 いや、SAOでも1人だけレベル差をプレイヤースキル……持ち前の戦闘能力、武器の特性、罠を駆使して覆して『狩っていた』プレイヤーがいた。【渡り鳥】と恐れられた、SAO唯一の傭兵プレイヤーであり、アインクラッドで彼女と熾烈な鬼ごっこを繰り返し、アルヴヘイムで彼女から『彼』との再会を奪い、また生きる道を与えてくれた人物だ。

 こうして教会の厄介になれているのも【渡り鳥】の伝手のお陰だ。名前も顔も思い出せない、だが確かにある『彼』に会いたいという衝動を堪えられるのも、【渡り鳥】との約束があるからだ。

 

(悲劇を止める。その為だけにキミは戦って、私は生かしてくれた。私を殺すことが『彼』の悲劇を止める最も確実な手段であるはずなのに)

 

 アスナがもう1度殺されること。それもまた『彼』の悲劇であり、だからこそ【渡り鳥】はアスナの命を奪わなかった。たとえ、『彼』はアスナの2度目の死を認識していようとも、真実は全く異なることを選んだ。

 主観の問題だ。『彼』からすれば何も変わらない。アスナは2度も死んだ。だが、実際はアスナが生きている。そこに何の意味があるのかと問われればアスナにも答えることができない。だが、アスナが生きているという真実こそが【渡り鳥】の『彼』に対する一握りの慈悲のように思えた。

 だからこそ、約束は守りたい。何があろうとも『彼』に会いに行ってはならないのだとアスナは改めて己に刻み込む。

 

「そうか……そういう事だったんですね!」

 

 と、そこで夕飯のレーションを先んじて頬張っていたグローリーが突如として立ち上がる。なお、まだ防具を装備していない褌1枚の姿である。

 

「フフフ! この騎士たる私は隠された秘密にたどり着いてしまったようです。ああ、崇高なる騎士の頭脳もまた騎士として輝きを放つのですね!」

 

「おや、それは意外だ。キミの頭にも脳みそが詰まっていたとはね」

 

「そう言っていられるのも今の内ですよ!」

 

「それはそうと声を落としたまえ。モンスターが集まる」

 

 スミスの警告などお構いなしに、まるでバレエでも踊るようにくるくると回ったグローリーは、何故かアスナへと右手の人差し指を突きつける。

 

 

 

「【バーサーク・ヒーラー】ことアンナさん。貴女の正体は、SAOでも【閃光】と名を馳せた女剣士アスナさんで間違いありません!」

 

 

 

 アスナは思わず珈琲を飲む手が止まる。そう、止まってしまうという最悪のミスを犯してしまう。

 

「実を言いますと、騎士たる私はかつて存在したというアインクラッドを模したイベントダンジョンに囚われ、そこで剣士たちの似非と同時に対決しました。1人は二刀流を操る黒衣の剣士の男、もう1人はまさしく【閃光】の2つ名に相応しい女剣士!」

 

「ふむ、続けたまえ」

 

 アスナのミスは2つ。1つはグローリーの突如とした爆弾発言を淡々と馬鹿にするように受け流しきれなかった事である。

 

「その苛烈な戦いの中で、私の視線は常にある1点に注がれていました。女剣士の美脚です! 私も後から聖剣騎士団の聴取を受けて分かったことでしたが、私の戦った女剣士の似非こそがあの有名な【閃光】のアスナさんその人に違いないとのことでした! そして、【バーサーク・ヒーラー】とあの女剣士の美脚……この騎士たる私が見間違えるはずなどありません! 断じて! 騎士として! 騎 士 と し て ! 騎 士 と し て !」

 

 そして、もう1つはグローリーが想像を絶する馬鹿であったことである。アスナは即座に取り繕おうとして、だがスミスがこれ見よがしにわざとらしく珈琲を啜って飲む。その音が彼女の肩をビクリを震えさせた。

 アスナは頭の回転が速く、また根回しなどの政治も得意とし、その気になれば腹芸や演技も出来るタイプである。だが、相手が悪かった。グローリーは悪意のない馬鹿にして底抜けの阿呆でもあるが、自称国家公務員のスミスは決して性格がよろしくなかった。

 

「さて、我々もフロンティア・フィールド2日目をこうして無事に終えたわけであるし、そろそろ改めて自己紹介でもしようではないか。なぁ、『アスナ』くん」

 

「…………」

 

「なに、私も口は堅い方だ。グローリー君も馬鹿ではあるが、話して良い事と悪い事の区別くらいは付く。ハッキリ言っておくが、ここではぐらかすのは悪手だ。グローリー君の事だ。帰還したら1時間と待たずして酒の席でキミのことを話し始めるぞ」

 

 仮に、これがまだ戦い方からバレたなどアスナ側の油断……落ち度だったならば、まだ救いようがあっただろう。

 だが、グローリーの下心……美脚診断によって正体が看破されるなど、アスナの理解の範疇を超えていた。

 そして、普通ならばジョークで流しても問題ではないはずなのに、即座に食いついたスミスもまた、グローリーとは根底で男の魂の共鳴がある証左でもあった。グローリーの目に狂いがあるはずもないと彼は信じているのだ。

 

(ごめん、ユイちゃん。私……帰ったら【渡り鳥】くんに殺されるかもしれない)

 

 スミスの勧める通り、このままグローリーが『誤解』を拡散する方が大問題だ。アスナは観念してフードを剥ぎ、素顔を晒した。




新天地に潜むは陰謀か、それとも抗えぬ宿命か。


それでは、329話でまた会いましょう。

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