SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

フロンティア・フィールド、探索開始!


Episode20-16 人心迷宮 前編

「この時間から酒か?」

 

「文句でもあるの?」

 

「別に。俺も少し暇だから話し相手でもなろうかと思っただけさ」

 

 終わりつつある街にある酒場『バーボン・デイズ』。なお、本物のバーボンを提供しているわけではなく、日々の研鑽によって本物のバーボンをいつか製造するという信念の下で経営される。店主の【バーボン・ロード】は名前の通り、無類のバーボン好きであり、酒造経営もしており、そこには太陽の狩猟団の投資もされている。

 そんな関係もあってか、太陽の狩猟団の専属傭兵であるシノンは割引価格で楽しむことができる。地下に設けられた酒場は雰囲気もよく、酒はプレイヤーメイドからドロップアイテムまで幅広く取り揃えられており、陳列された酒瓶を目で楽しむこともできる。

 だが、とにかく飲みたいだけだったシノンは、銘柄も見ずに適当に選んだ酒をひたすらに煽っていた。グラスを満たす琥珀色の液体は、【グヴィネヴィアの涙】と呼ばれるレアドロップアイテムであり、高級感漂う虹色のガラス瓶に僅か300ミリリットルしか入っていない。だが、市場価格は1本10万コルにも届き、並のプレイヤーではまず手は出せない高級品である。無論、がぶ飲みするような品ではない。

 

「グヴィネヴィアの涙か。口当たりは優しくて飲みやすいけど、酔いも回り易い。俺も好きだよ。ドロップ品だからなかなか手に入らないのが残念だ」

 

「へぇ、そんな名前だったのね」

 

「知らないで飲んでたのか?」

 

「お酒なんて酔えればそれでいいのよ。貴方と違ってこだわりはないわ」

 

 いや、俺も酒が好きってわけじゃないんだけどな。そう小さく呟いた『名無し』を、シノンは酔って赤みがかかった顔を歪めながら睨む。

 目元を大きく隠すサングラス姿で全身を黒色のコーディネートで纏めた『名無し』は、オフの格好だ。対するシノンも同様であり、足のラインが映える密着性の高いパンツスタイルであり、だが酒の勢いで着崩したシャツは危うい色気を誘う。彼女をランク3と知らなければ、酔った女を持ち帰ろうと企む男たちが声をかけてきただろう。いや、実際に相手がシノンであろうとも泥酔したならばと遠巻きで狙っている男たちも幾らかいた。

 

『シノのん荒れてたからさ、ちょっと様子を見に行って来てよ』

 

 人魚の狂像のソウルを渡して、今すぐ仕事に取り掛かって欲しいと『名無し』が要望した瞬間に絶望フェイスを披露したマユの頼みで来てみれば、まさかこれ程までだったとは。『名無し』は彼女を窺う男たちにサングラス越しで軽く睨みながら笑んで威嚇をしておくことにした。無論、シノンの為であると同時に彼らの安全の為である。酔った山猫は手加減を知らず、思わぬ大怪我を負わせかねないのだ。

 

「……酒好きってわけじゃないけど、飲む機会は本当に増えたよ。これもスミスの影響かな?」

 

 どうして酒を飲むのか? 無論、酒を好むのにわざわざ大仰な理由など要らない。酒の歴史は人類の歴史であるからだ。

 だが、酒に手を出す理由は様々だ。酔わずにはいられない。酔わねばやっていられない。酔うしかない。酔わねば心が耐えられないから酒を口にする。

 スミスは純粋に酒を好んでいるタイプだ。何かを忘れたい、目を背けたい心を休めたいから飲むのではない。ただ酒を嗜み、酔いを楽しむだけだ。だが、『名無し』が酒を飲む理由のほとんどは心に濁りのようなものがあった時だ。

 時刻は午後5時。夕暮れではあるが、まだ酒を飲むには早い。だが、それは現実世界の基準であり、個々で生活リズムが違う、特にダンジョンに潜るプレイヤーならば尚のこと異なるならば、誰も文句は言わず、非難の眼差しもない。

 シノンのグヴィネヴィアの涙のボトルを手に取ろうとすれば、これは私のだと言わんばかりにシノンの手が払い除ける。苦笑した『名無し』は、グヴィネヴィアの涙にも負けずとも劣らない名酒【ベルカの仇花】を注文する。優しい味のグヴィネヴィアの涙とは違い、ベルカの仇花は濃厚で舌に残り続けるほどに癖が強く、飲めば刺々しく、だが香りだけは何処か懐かしさを覚える程に爽やかだ。

 万人を魅了するグヴィネヴィアの涙と比べられがちであるが、DBOで酒豪を名乗るならばこれを飲まねば認められない。漆の如き黒の石瓶からグラスに注げば、鮮やかなピンク色の液体に満たされる。『名無し』が一口飲めば、他のプレイヤー達が羨望の眼差しを向けて喉を鳴らす。

 

「……それ、美味しいの?」

 

「俺は嫌いじゃないよ」

 

 ベルカは罪の女神だ。ベルカは闇に通じる神ともされ、時代によって信徒は迫害されることもあった。だが、彼女は罪を罰し、だが同時に罪を清める女神でもある。『善人』は告罪することで悪人への裁きを欲し、悪人は罪を許されることで『善人』となるのだ。

 PK推奨のDBOにおいて、SAOのようにカルマ回復イベントは必要ない。レッドやオレンジの括りもない以上は、一目見ただけでは相手が殺人に手を染めているかどうかなど分からない。

 だが、SAOでも同様だ。カーソル1つで相手の真実など区別はできない。たとえば、『名無し』がかつて出会ったグリムロックというプレイヤーは、現実世界でも妻だったグリセルダを謀殺している。だが、彼のカーソルはグリーンであり、システム上は『善人』だった。

 人殺しは悪だ。だが、それは法と社会が正常に機能しているからこそ罪も罰も定義される。ならばこそ、真に罪を定めるのは己の心だ。罪を感じる心……罪悪感だ。

 どれだけ場数をこなして慣れようとも、教育によって洗脳されようとも、大義で覆い隠そうとも、罪の意識は必ず芽生える。自分自身でも認識できない濁り、泡立ち、傷として感じる事が出来る。

 人殺しを楽しむシリアルキラーであるとしても、命の価値を感じないサイコパスであるとしてもそれは変わらない。

 快楽殺人鬼は罪悪感すらも自身の愉悦を満たす、酔いしれる為の酒にできるだけのことだ。命の価値も分からぬ欠落者は、罪悪感を認識できないだけであり、その歪みは確かに蓄積されていく。

 科学が立ち入れなかった魂の分野。ホルモンでも電気信号でもなく、そこに届いたとされるフラクトライトの研究さえも解明には至れないかもしれない。人間の飽くなき好奇心は、宇宙や深海と同じくらいに、生物の真理を紐解けていないのだろう。科学とは過去の研究を覆す為にある学問であるともされているならば、新たな発見の度に過去の真実は虚構となり、過去に妄想と嘲われたものこそが新たな真実として台頭しうる。

 人間はまだ魂という学問の扉の戸を叩いただけに過ぎない。その第1歩こそが仮想世界であり、拡張現実であり、あるいは過去より脈々と続く神秘を暴くことなのだ。たとえ、それが罪であるとしても好奇の狂熱を止めることはできない。それが科学者……いいや、探究者というものなのだろう。

 だからこそ、今再び問われるのは罪の所在だ。法や道徳ではなく、人類種に通じる魂に継承された善悪の秤があるならば、不完全で歪んだ秩序が敷かれ、だが原初の暴力こそが支配するDBOにおいては、道徳を超えた先にある罪の所在こそが何にも勝る。

 

『それが「人間」という生物なのだろうな。人類は互いに殺し合う事を是としながらも、同時に人間を殺す事に罪を背負う。正義、信仰、悦楽、侮蔑、差別、大義……何かと理由づけているが、殺人という罪悪感は逃れられない。私は性善説を信じていないが、同じくらいに性悪説も鵜呑みはしない。人は善や悪と呼ばれる因子を生まれながらに持つだけだ。陰陽と同じだよ。どちらか片方が欠落している時点で、それは人として成立しない。バランスが取れているか、あるいはどちらかの側面が強く現れるだけだ』

 

 アルヴヘイム帰還後、今のシノンと同じように酒を煽っていた『名無し』に、スミスはそう零した。

 

『真の意味で殺人に魂の罪を背負わぬ者は、それは善悪を超えた「バケモノ」かもしれないな。それはもはや能動・受動の域を超えたものだ。「獣」……天災と同じなのだろうさ』

 

 能動的殺意と受動的殺意、どちらも最後に待つのは自らに圧し掛かる罪の意識だ。能動性と受動性は、それを消化するための1つのロジックに過ぎない。理性で人を殺せると宣うスミスもまた、人間である限り、殺人の十字架を背負い続けているのだろう。

 消化しきれなければ腹の内に残り続け、腐敗し、自らを毒す。だが、正しく消化することができれば、それは前進する為の活力にもなる。『名無し』はピンク色の酒の水面に、今回のペイラーの記憶の顛末を映し込む。

 傭兵として仕事をこなしただけというロジックは成立する。それで消化する事も出来るだろう。だが、『名無し』はそれを是としたくなかった。だからといって、彼らの結末を肯定する能動的意思を持てるわけでもなかった。だからと言って、仕方なかったという受動の姿勢も容認できない。

 スミスならば、仕事だからこういう事もある、と淡白に割り切るのだろう。彼はそういう男だと『名無し』は理解している。たとえ、『名無し』を撃つ時であろうとも、自身の殺意を理性で肯定して能動的にトリガーを引けるはずだ。

 

「俺達は何をやってるんだろうな」

 

「傭兵でしょ?」

 

「でも、仕事だからって割り切れないから、シノンも飲んでるんだろ?」

 

「…………」

 

 無言の肯定。シノンもまた既にエイジの冤罪については耳にしているだろう。オリジナルのユナの件は、まだ伝わっていないかもしれないが、話が拗れる為に『名無し』は敢えて伏せる。

 ユナの件を把握しているのは、『名無し』、シリカ、ユージーン、エイジと彼の相棒というスレイヴ、そして教会の1部の人間だけである。彼もまたユナの件はひとまずクラウドアースに報告しないと約束してくれていた。

 

「私達は正義の味方じゃない。撃つ相手は悪党ばかりじゃない。それくらい分かってるわよ」

 

 シノンはアルヴヘイムで手を血で染めている。彼女もまた能動的殺意で誰かを殺した人間だ。いや、それ以前から彼女は大きな罪の十字架を背負い続けている。

 

「でもね、たまに虚しくなるのよ。『こんなはずじゃなかった』って割り切れない時が……あるのよ」

 

「スミスが言ってたじゃないか。それが正しくて、シノンは何も間違ってない。人の心は、どれだけ鍛え抜かれた鋼のようになっても、傷つくし、錆びるし、折れることだってある」

 

 ここで無理に己を正当化しようとすれば、歪んでいくことになるだろう。あるいは、それを狂うとも呼ぶのかもしれないと『名無し』は恐れる。

 かつて『名無し』はアルヴヘイムで『鬼』に堕ちかけた。剣を振るう者……剣士ではなく、剣に憑かれた鬼……剣鬼になりかけた。

 引き戻してくれたのはユウキであり、クラインであり、リーファ達だった。ユウキの全力の剣が、クラインの引導の弾丸が、リーファの親愛が『鬼』に堕ちる『名無し』の手を掴んでくれた。本当は救われたがっていた『名無し』に、罪の意識を直視させてくれた。

 そのまま心折れて腐り朽ちようとしていた『名無し』を再び立ち上がらせてくれたのは、現とも夢とも区別がつかない純白の友だった。

 恵まれているのだろう。振り返れば、いつだって『名無し』はここぞという時に、誰かが手を伸ばしてくれた。誰かが支えてくれた。誰かが背中を押してくれた。

 確かに『独り』だからこそ苦しんでいる時もあった。アインクラッドのソロプレイヤー時代など特にそうだろう。だが、いつだってすぐ近くには繋がりがあって、自分自身を『独り』に追い込んで必死に取り繕おうとしているだけだったとも気づけた。

 

(アスナの笑顔が……手が……温もりが……俺を救ってくれたんだ)

 

 アスナはまるで太陽のようだった。だからこそ、彼女が亡き後に夜を彷徨い続けたのだろう。夜の闇……その深みへと嵌まり続け、剣鬼に堕ちかけたのだろう。

 そして、今は夜の闇を進む月明かりがある。月光の聖剣などではなく、あの夜のクゥリがくれた月明かりとは……助けたい、救いたい、守りたいという確かな魂の叫びのままに、荒れた大地に種を撒き続け、いつか希望の花が咲くと信じて、心折れてもまた立ち上がって前に進むという『名無し』に宿った意思だった。それこそが真の月明かりだった。

 だからこそ、『名無し』は思う。どうして見出した唯一無二の贋作たる自身の聖剣は『月蝕』なのかと。結局のところ、『名無し』は月光の聖剣の資格者ではないという表れなのかとも考えた。

 だが、そうではない。月蝕とは欠落した存在であり、同時にいずれは再び満たされる兆候だからだ。

『名無し』の魂の叫びが守りたい、助けたい、救いたいであったように、自身もまた誰かに守られ、助けられ、救われている。自己では完結しない欠落した存在だからこそ、仲間に、友人に、大切な人に補われて満たされていく。

 これでいいのだ。『名無し』は自分の聖剣が月蝕であることに誇りを思う。だからこそ、これからも間違えるとしても、少しでも正していきたい。たとえ、心折れても、酒に酔いたい時があっても、罪に怯えて震えるとしても、前を向いて胸を張って、自分の信じる道を歩いていたいのだ。

 だから、今のシノンは放っておけない。『名無し』は彼女の空いたグラスにベルカの仇花を注ぐ。

 

「だからさ、俺でよければ、今日はとことん付き合うよ。『独り』で酔うんじゃなくて、俺と一緒に飲もう。ううん、違うな。俺もきっとシノンと同じくらいに、今日は酒に溺れて酔いたい気分なんだ。だから、俺の為にも一緒に飲んでくれ」

 

「……奢ってくれるの?」

 

「げ、限度はあるけどな」

 

「ヘタレ」

 

「いやいや! 俺の財布ってシノンが考えているよりずっと薄いからね!?」

 

 なにせ、ラストサンクチュアリの経営に報酬を持っていかれるだけではなく、装備開発には膨大な投資が不可欠なのだ。『名無し』の装備はほぼオーダーメイドで固められており、コストは莫大である。傭兵や各ギルドの象徴であるトッププレイヤーでも、フルオーダーメイドはほんの一握りだ。

 しかも人魚の狂像のソウルを持ち込んだばかりに、今回のペイラーの記憶の稼ぎはほぼ吹き飛んでしまったのだ。マユは『使いたくなかった手段』を用いて必要素材を掻き集めてくれることになっている。しかも明日の夜明けまでに完成させるという無茶ぶりを敢行する予定だ。

 

「でも、シノンには大きな借りがあるからなぁ。ここにあるお酒全部……とまでは言わないけど、頑張って奢らせてもらうよ」

 

「……『あれ』は確かに私のだけど、元を辿ればクーのモノなのよね。私が不当な取引で……だけど、私もまんまと騙されたし……」

 

「え!? そうなのか!?」

 

 シノンが素材提供してくれたエスト瓶は、マユの手によって大きく生まれ変わっている。代わりに『名無し』も幾らか素材を彼女に提供しているが、到底見合う取引ではなかった。だが、それは彼女がクゥリとの取引で不当性を感じたからなのだろう。

 当時、シノンが持ち込んだエスト瓶を見た瞬間にマユは狂喜乱舞した。あの時の彼女の様子といえば、ほとんど狂人に等しかっただろう。なにせ、大ギルドが血眼になって探していたエスト瓶が転がり込むなど夢にも思っていなかったはずだ。

 

「じゃあ、俺は回り回ってクーにも支えられているんだな。俺はいつも彼に……大切な何かを教えてもらっている気がするよ」

 

 ずっと、ずっと、ずっと彼の事は考えないようにしていた。気を抜けばアインクラッドの時と同じ関係に戻ってしまいそうで、彼の『力』に魅入られて理想にした自分が恥ずかしくて、アスナを救おうと大罪を犯して、しかも剣鬼に堕ちかけ、挙句に【聖剣の英雄】という称号に醜く固執していたなど笑い話にもならない。

 

(こうして振り返ってみると、俺って本当に……格好悪いなぁ)

 

 間違えて、間違えて、間違えまくって、それでも正したくて、正そうとして、正せると信じて、今もこうして生きている。魂の叫びに従い、自分の信じた道を歩いていける。今更になってと指差されようとも、背負った罪に反して都合が良過ぎると嘲われようとも、それでも1歩ずつ踏みしめていける。

 もう仮面は要らない。ラストサンクチュアリの決戦が終わったならば、『名無し』は潔くクゥリに会いに行くつもりだ。

 顔面に渾身のストレートか、あるいは仮面なんて防具を保険で付けたとなればマウント腹パンか。どちらにしても震えは止まらなかったが、それでも『名無し』は会いに行かねばならないのだ。

 アルヴヘイムの夜の花畑におけるクゥリとの再会は、彼の元に届けられた聖剣が先ぶれとして見せた夢だったのか。仮にアルヴヘイムにいたならば、クゥリが回廊都市の決戦に参加していないわけがなく、石碑にその名が刻まれていなかった以上は、やはりいなかったのか。それもまた出会えばハッキリするだろう。

 

「……あっちも似たような気持ちかもよ」

 

 ベルカの仇花が注がれたグラスを揺らして香りを楽しむシノンは、何処か悔しさを滲ませながら呟く。

 

「クーは貴方のことを大切に思っている。とても大切にね。貴方がクーに支えられていると思っているならば、クーも貴方を大切に思うだけの『何か』があるはず。それは……私には分からないけど……でも……それこそが貴方達の、他の誰も割り込めない絆なんじゃないの?」

 

「そうか。シノンがそう言ってくれるなら、きっとそうなんだろうな」

 

 シャルルの森で耳にしたクゥリの叫び。豪雨でほとんど聞こえなかったが、彼もまた何かに苦しみながら戦っていたのだろう。アインクラッドでは、アスナの復讐だけを生きる支えにしていた『名無し』では聞けなかった、彼の苦悩があったのだろう。

 だからこそ、『名無し』は迷っていた。彼とちゃんと向き合いたい。そして、友人として手を取り合いたい。だが、その資格はあるのだろうかと。

 だが、そもそもとして、月光の聖剣と違って資格など要らないのだ。『名無し』はクゥリに友情を感じており、彼もまた同様であると確信している。ならば、後は心のままに従えばいいのだ。迷うこと自体がクゥリに対する非礼である。

 

「まずはラストサンクチュアリの戦いを勝ち残りなさい。生きていないと、クーに会いに行くことだってできないんだから」

 

「そうだな」

 

「そうよ。生き残って、クーに殴られに行きなさい」

 

「……殴られるのが前提かぁ。そうだよなぁ」

 

「当たり前でしょ。貴方の都合で、どれだけ友人を待たせていると思ってるの? 私がクーだったら、友情なんて残って無いわよ。もう絶交……他人以下ね」

 

「だよなぁ……!」

 

「クーだけじゃない。貴方は色々な人にちゃんと『自分』で会いに行かないといけない。スミスさん、マユ、リーファ……他にもたくさんの人にね。たくさん殴られなさい。優しい人たちばかり……とは言い難いけど、でも、きっと『貴方』を許してくれるわ」

 

 いつの間にか空になっていた『名無し』のグラスに、今度はシノンがグヴィネヴィアの涙を注ぐ。

 

「シノンも……許してくれるか?」

 

「どうかしらね。ここにあるお酒全部奢ってくれるくらいに男気を見せてくれたら、考えてあげないこともないかもしれない」

 

「は、ははは……冗談だよな?」

 

「天下のランク9でしょ? それくらいの豪遊が出来ないなんて、ランク無し達に申し訳ないと思わないの?」

 

「俺よりランクが上のシノンだって金欠だろ」

 

「だったら、ユージーンに勝ってランク1を奪い取りなさい。私の上に立ってこそ、私も貴方からランクを奪う楽しみができるわ」

 

 シノンはベルカの仇花で満たされた、『名無し』はグヴィネヴィアの涙が揺れる、それぞれのグラスを自然とかち合わせる。涼しい音色に互いに笑みを零す。

 

「負けたら承知しないわよ」

 

「了解。他の誰でもない、『俺』に誓って、必ずユージーンに勝って生き残る」

 

 酒に溺れて腐るのは論外だが、酒に酔って癒されたい時だってある。

 随分と遠いところまで来てしまった。『名無し』は心地良く酔う夢見心地の中で思い出す。

 

 鉄の城での生死をかけた戦い、アスナとの絆、そしてクゥリとの出会い。

 たくさんの出会いと別れが今の自分を形作り、また支えてくれている。だからこそ感謝を捧げるのだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「――ということです」

 

「ふむ、事情は大よそ把握した」

 

 さて、何処まで誤魔化せたか。3杯目の珈琲をご馳走になりながら、アスナは嘘と真実を混ぜた説明に、特に興味も無さそうに耳を傾けていたスミスの横顔を観察する。

 アスナが『目覚めた』のはアノールロンド攻略後間もなくであり、居合わせたエドガーに保護された。その後、彼の診断によって重度の記憶障害を抱えていることが明らかになり、『彼』に関する記憶の欠落が見られたことから、生命の安全の為にも接触を控えるように言い渡された。その後、教会の保護下にあったが、自分にも何かできることはないかと教会……もっと言えばDBO攻略に貢献を申し出たところ、聖遺物探索への助力を求められた。今も正体を隠すのは、『彼』と接触を避ける為であり、『彼』もまたアスナの生存を知らない。

 以上はアスナの説明である。大筋の嘘は言っていない。ただし、アルヴヘイムや【渡り鳥】に関して伏せている。また聖遺物探索に参加した経緯がやや異なり、また要所においてエドガーと【渡り鳥】を入れ替えているだけだ。

 

「蘇った死者は、死に関わる記憶を刺激した結果、最悪の場合は死に至るかもしれない……か」

 

「私も詳細は把握していませんが、頭痛などの症状から同様の兆候が見られるとエドガー神父に診断を受けました」

 

「大筋は納得しよう」

 

 つまりは疑う余地が残っている、とも言い換えられる。アスナは何食わぬ顔で、自分はありのままの真実を語ったといった顔をした。

 先程はグローリーの死球で対応しきれなかっただけだ。だが、だからと言って彼らを相手に騙し通せると安易に驕らない。慎重に、嘘が破綻しないように細心の注意を払わねばならないのだ。

 

「ですので、私の正体を口外しないようにお願いしたいんです」

 

「ふむ、そうだな。善処しよう」

 

 何処まで信用できるのか。だが、信じる以外の道がアスナには無い。自己保身の為の殺人などは以ての外だ。彼らの口封じをするくらいならば、アスナは自死を選ぶ。たとえ、それが『彼』にとっての悲劇になり、クゥリとの約束を破ることになり、独り残すユイを苦しめることになろうとも、認めてはならない罪の線引きが存在する。

 外套のフードを被り直したアスナに、スミスは珈琲のお代わりを進めるが、さすがに飲み過ぎだと首を横に振る。

 

「しかし、それにしては変装がお粗末なのではないかね? いっそ、顔を原形が残さない程に破壊する手段もあるとは思うがね」

 

「色々と事情があって……」

 

 声に関してはエドガーが手配してくれた音声加工機能が付いたチョーカーを装備しているが、顔に関しては1度焼いて潰してみたところ、ユイに大泣きされてしまったのだ。さすがのアスナも泣き止まない愛娘には負け、また外出する度に顔を破壊するのも現実的ではないことから諦めた。

 買い物の際には全身を重装甲冑であり、本格的な戦闘が予想される場合はフードで顔を隠すことにしているのである。特殊装備のお陰で自分で外すか、余程の破損でもない限り、アスナの素顔を覗き見ることはできない。髪に関しても水色に染めることで、敢えてアスナのイメージから切り離してある。

 得物に関してはさすがに命を預けるという事もあって慣れ親しんだジャンルから外れることはできなかったが、本来は前衛に出ないヒーラーとなる予定だったのだ。それが【バーサーク・ヒーラー】という不本意極まりない異名を賜ったお陰でご破算となっただけである。

 

「しかし、大変だろうな。なにせ『彼』は何かと露出が多い」

 

「今のところ、声までは大丈夫です。『彼』も何故か仮面で素顔を隠しているみたいですし」

 

 買い物中に流れていたラジオから、偶然にも『彼』のインタビューが流れてきた時は心臓が止まりそうになったものである。だが、想像していた頭痛などの崩壊の予兆は特になかった。

 これまでの経験上、『彼』について深く思い出そうとした瞬間に激しい頭痛が生じた。つまり、意識的に無視しようとできる範囲であるならば、アスナの崩壊は何とか免れるのだろう。ならば、間違いなく直の接触はアウトだろう。意識して逸らすには限界がある。

 あのままラジオに耳を澄ませていたならばどうなるのか。デッドラインは何処なのか。だが、何にしても正体がバレた以上、表向きは『アンナ』として扱ってくれているエドガーにも説明と口裏合わせが不可欠になった。この時点で、白の傭兵がどんな目で自分を見ることになるかは大いに想像できた。

 もしかしたら、四肢を切断して達磨コースかもしれない。地下の暗室で、チューブに繋がれたまま身動きもできず、声も出せないままに一生を過ごす未来を想像し、アスナは思わず全身が震えそうになる。

 しかも、バレた理由があまりにもくだらない……もとい、常人の域を脱している。

 アスナも女性として美容には気を遣っている。ファッションも軽視していない。だが、脚線でバレるなど、男の下心……いいや、グローリーの常識外れには驚かされるしかなかった。

 そして、件の『騎士』といえば、大粒の涙と鼻水を垂らしていた。

 

「私は……私は、自分が恥ずかしい! グローリー☆ナイツのリーダーでありながら、女☆騎士アスナの苦悩に気づけぬまま、むしろ謎を解き明かしたと誇っていた己を、今、猛烈に殴りたい!」

 

 滝のように流れる涙と鼻水を拭いもせず、グローリーはアスナの両肩を掴む。

 

「騎士として誓いましょう! アスナの……いいえ、アンナの秘密、必ずや決して口外しません! いいえ、それどころか、アンナがこれからもDBOで健やかに過ごせられるように、惜しみない援助をお約束しようではありませんか!」

 

「い、いえ、秘密にしてくれるだけで……」

 

 汚い顔であるが、嫌でも本心から力になろうとしている事は感じ取れる。だが、それはそれとして全身から気迫と共に放出される熱気をご遠慮したいアスナだった。

 

「素直に受け取っておきたまえ。グローリー君は確かに馬鹿であり、救いようのない馬鹿であり、手の施しようもない馬鹿ではあるが、DBOでも珍しい、一切の裏表なく信頼できる誠実な男だ。馬鹿ではあるがね」

 

 繰り返された馬鹿という指摘には良くも悪くもグローリーの愚かしいまでの正直さを物語る。

 だが、アスナはグローリーという男について詳しく知らない。DBO歴がまだ2ヶ月であり、なおかつ彼女はSAO死後長きに亘ってオベイロンに幽閉されていた。

 信じるに足る人物であるとしても、まずは自分で見極めたい。アスナはひとまずポーズだけでもグローリーの誠意を受け取ることにした。

 その日の夜番はグローリー、アスナ、スミスのローテーションで行うことになった。グローリーに夜番を任せるのは不安であり、微睡む事しか出来なかったアスナは、交代の途端に鼾を掻く勢いで横になった自称騎士に呆れを覚えた。

 野宿は恐ろしい。ましてや、アスナにとっては素性も把握しきれていない男2人と共に深い森の中である。当然ながら心理的負担もまた大きい。休まねばならないと頭で分かっていても、瞼を閉じても寝付けないのだ。

 

「眠れないのかね?」

 

「…………」

 

「それでいい。安易に人を信じるな。人の世で裏切りは常だ」

 

 先程はグローリーを信じるに足る人物と言った口で、今度は裏切りを警告する。だが、そこに矛盾など無いとアスナは感じ取る。

 グローリーという個人は、確かに愚かな点も多々あるが、それこそが逆に信用の裏打ちにもなっている気がした。だが、それはそれとして、物事には優先順位が存在する。はたして、アスナの秘密よりも優先度の高い何かがあった時、秘密を明かさないわけがない。

 

「貴方はどうなんですか?」

 

「キミが誰であろうと興味はない。そもそも、私には【バーサーク・ヒーラー】の正体を探れなどという小さい依頼は来ないものでね。『彼』と敵対するかもしれないリスクを勘定すれば、相応の額を積まれねば引き受けんよ」

 

 逆に言えば、見合うだけの報酬が準備されたならば、何の躊躇いもなくアスナの情報を渡すとスミスは宣言する。

 

「……幾らお支払いすればいいですか?」

 

 つまりはそういう事なのだろう。アスナが溜め息を吐きながら取引を持ち掛ければ、スミスは顎を撫でる。

 

「所詮は個人の調査依頼だ。今の相場ならば……50万コル以上まで吊り上がることはないだろう。リスクも込みならば、300万コルほど積まれない限りは動かんよ」

 

 300万コルは今のアスナでは手の届かない大金だ。ユイの持つ特許を教会に売却すれば稼げない額ではない。だが、それではアスナがリスクを背負ってでも聖遺物探索に参加した意味がない。

 また、仮にここで支払いに応じても、このネタで強請られ続ける危険性もある。

 

「分かりました。必ずご準備します」

 

 ならば、今はこの返答がベターだった。アスナは支払えるだけの能力があると示しながら、スミスへの対策を練る。場合によっては、使いたくはなかったが、教会の力に頼ることにもなるだろう。

 

「要らんさ。代わりにキミには、300万コル相当の情報を売ってもらいたい」

 

 情報とは価値の分かる者以外には粗鉄にも劣る。はたして、アスナから聞き出したい情報とは、300万コル相当か、あるいは額のつけようもない爆弾か。

 

「まず確認したいが、キミは教会にどの程度まで顔が利く?」

 

「エドガー神父とは親交がありますが、教会全体には……」

 

「いや、それで構わない。エドガー神父とパイプがある。それこそが貴重だからな」

 

 アスナが聞いたところによれば、エドガーは教会の設立メンバーであり、ウルベインが亡き今は教会でも特に影響力を持つとのことだった。

 

「神灰教会は3つの勢力がある。教会の守護やDBO全体の治安維持にも貢献する教会剣。慈善活動や布教を中心とした修道会。そして、演奏や合唱などの芸術活動からDBO内に存在する聖遺物探索や謎の探究を行う聖歌隊。教会の工房は枠外勢力としてカウントしてもいいかもしれないな」

 

 いびきがいよいよモンスターを引き寄せる騒音級になり始めたグローリーの口に問答無用でテープを貼ったスミスは、ライフルに銃弾を補充し始める。消費したオートリロード分は、専用の設備か手動で弾詰めをしなければならないのも≪銃器≫の運用の難点だった。

 

「それぞれの勢力は独立しているわけではない。教会剣でも修道会の活動に参加することはあるし、修道会に属しながらも教会剣として活躍している者もいる。主はどちらかというだけだ。だが、聖歌隊だけは少々異なる立ち位置だ。エドガー神父も厳密にはこの聖歌隊に属している」

 

 アスナも教会については相応に調べている。スミスの説明通り、教会には3つの勢力があり、その中でも聖歌隊だけは別格だ。

 教会の権威を思うままに利用しようと企み、3大ギルドが特にスパイを潜り込ませているのは、もはや公然の秘密だ。そもそもとして、教会剣にも修道会にもギルドに属していても問題はなく加わることができる。

 だが、聖歌隊だけは違う。下部の演奏・合唱団はともかく、その上層にはギルドに所属する限り、決して入ることはできず、加入条件も明確に定められていない。聖歌隊を実質的に取り仕切っているのはエドガーともされている。だが、実態は完全に謎に包まれているのだ。もしかしたら、エドガーも聖歌隊の指示の下で動いている『尖兵』に過ぎないかもしれないのである。

 

「聖歌隊だけが教会の『秘密』を握っている。どうして聖遺物を収集するのか。彼らの言う『灰より出でる大火』とは何なのか。そして、教会の真の目的もな」

 

「真の目的……ですか」

 

「ああ。彼らは単に『永住』を前提とした宗教組織ではないということだ。3大ギルドのいずれかが覇権を握る時代など見据えていない。彼らが目指すのは、もっと異なる……常人の考えでは及ばない狂気の域……まさしく『信仰』だけがたどり着ける次元なのだろうさ」

 

 心底くだらない。そう告げるように、スミスは大きく嘆息を吐く。宗教の意義は認めても、関わり合いにはなりたくないのがこの男の本心なのだろうとアスナも理解した。

 アスナも信心深いかと問われれば異なる。神や仏を信じていないわけではないが、生活や思想の中心に据えているわけではない。ただ漠然と存在を肯定も否定もせずに受け入れているだけのことだ。

 

(そういえば、結城の本家の付き添いで、奇妙なお祭りに参加したっけ……)

 

 それは小さい頃の朧になった記憶だ。古びたバスに乗り、薄暗い森を抜け、トンネルを潜った先にあった、まるで現代社会から切り離されたかのような異質な村の祭りである。

 その村で経験したことは決して口外してはならないと本家にきつく約束させられた。迷信を信じない母すらも、本家の余りの気迫に、それが意向ならばと従った。

 他にも絶対に夜に外に出てはいけないと言い付けられた。血肉に飢えた怖ろしい『獣』が現れるからとのことだった。両親はまともに信じていなかったが、結城の本家の人間は何かに怯えているようにも幼い眼には映った。

 

 

『ねぇ、お姉さん。もしかして迷子なの?』

 

 

 あの女の子はどうしているだろうか? 兄に連れられて村の探索をしていたアスナは、いつの間にか逸れて、苔生した仏像に囲われた森の中にいた。

 仏像たちは嬉々と嗤っていた。アスナを嘲っていた。木々のざわめきさえもが嘲笑に聞こえ、また耳から入り込むように蜘蛛の足音が聞こえたような気がした。

 間もなく夜が訪れる夕暮れの中で、蹲って泣いていたアスナを助けてくれたのは、自分よりもやや年下だろう女の子だった。

 心細くて、恐ろしくて、泣いてばかりだったせいかだろうか。あるいは夕闇のせいでハッキリと顔が見えなかったからか。顔はよく思い出せないが、とても神秘的な雰囲気を纏った女の子だった。

 女の子は泣きじゃくるアスナを落ち着けるように、手を握って森の外に連れて行ってくれた。あの女の子が現れた瞬間に、仏像の嘲りも、蜘蛛の足音も、森の陰に潜む不気味さも失せた。まるで、主の前では静寂を保たねばならないと沈黙を守るように。

 もしも、あのまま森の中にいたまま夜を迎えていたならば、あの女の子が手を引いて連れて行ってくれなければ、自分はどうなっていただろうか? 今にして思えば、自分が過剰に幽霊や怪談などを怖がるのは、あの体験が原点にあるのかもしれない。アスナはあの奇妙な村で祀られていた神の名は何だっただろうかと思い出そうとする。

 たった1度だけの夏の奇妙な体験だ。以後、アスナはあの村を訪れたことはなく、そのまま記憶の片隅に追いやられていた。

 

「アンナくん?」

 

 だが、敢えて偽名で呼ぶスミスに、アスナは我に返る。

 

「教会の情報が欲しいなら、私よりも信用できる適任者がいると思いますが?」

 

「欲しいのは教会の秘密ではない。ある怪物の情報だ」

 

 怪物? モンスターやネームドではなく、怪物と明確に表現したスミスにアスナは違和感を覚える。

 

「【悲鳴に浴す蕩けた人肉】、【深みの聖者】……あるいは【人喰らい】。エルドリッチと呼ばれる怪物だ」

 

 一瞬だけ、スミスの双眸に寂しさのようなものが映る。それは後悔にも似て、だが揺るがぬ決意と冷徹な殺意であり、故にアスナは背筋に冷たいものを覚える。

 エルドリッチ。アスナは言葉にせず、スミスが追い求める怪物の名を反芻させる。だが、その名が記憶に掠ることはなかった。

 

「教会は必ずエルドリッチに関する『何か』を掴んでいる。それは聖遺物に関するものであるはずだ。私はエドガー神父に信用されていないものでね。聖遺物探索に関する依頼は、今回のように戦力として緊急を要する案件かつ重要度が低い案件でもない限り、なかなか回してもらえない。だからといって、教会に探りを入れるのは少々まずい状況でね」

 

「だから私にエルドリッチの情報を?」

 

「そうだ。なに、キミにとっても悪い話ではないだろう?」

 

「生憎ですけど、私はエルドリッチに関して何も存じ上げません」

 

「そうだ。『今は』な。だが、キミは今回の依頼を為し遂げれば、エドガー神父の信用を勝ち取れる。そうすれば、必ずエルドリッチに関する情報が得られるはずだ」

 

 奇妙だ。アスナはスミスからの申し出を吟味し、その上でアスナにこの取引を持ち掛ける意味を考える。

 そもそもとして、『【バーサーク・ヒーラー】=アスナ』は、アスナ個人の生命と特定の人物以外には意味がない情報だ。

 確かにアスナはSAOにおいてネームバリューもあった。謙遜もなく、実力も上位であったと胸を張って言える。だが、アインクラッドを超える魔境を戦い抜いているDBOプレイヤーや大ギルドからすれば、『SAOで亡くなった実力者の1人』以上の意味を持たないだろう。『彼』への交渉材料にしても、そもそもとして『彼』と接触すればアスナは死亡する危険性もあるならば、価値は更に暴落する。

 教会がアスナを重用してくれているのは、エドガーにとって彼女は有用であり、またユイの存在も関係している。教会に利益をもたらす人材として評価を受けているからだ。

 

(私に教会について探らせる事そのものが目的? それとも本当にエルドリッチに関する情報が欲しい? ううん、まだ早合点すべきじゃない)

 

 今ここで最重要なのは、スミスがアスナの正体を隠匿するというひとまずの協定を結ぶことだ。アスナはスミスの狙いはどうであれ、今の自分が取るべき選択肢を見失うことはなかった。

 

「そこまでして、エルドリッチについて知りたがるのは何故ですか?」

 

「それは取引に応じると受け取らせてもらうぞ?」

 

「私に拒否権はありません。もちろん、今後も強請る気ならば、私も相応の覚悟をしなければいけませんが……」

 

 レイテルパラッシュを鞘から少しだけ抜き、焚火の明かりで刀身を輝かせたアスナに、スミスは鼻で嗤う。

 

「キミは交渉・取引に慣れているようだが、自己保身のために他者を害せるタイプではない」

 

「『私だけ』ならそうかもしれない。でも、『彼』の為なら、私は貴方を……斬れるわ」

 

「記憶もない『彼』の為に?」

 

「記憶はなくても、心は憶えている。『彼』に抱いた感情は……嘘偽りなく私の中にある」

 

 だからこそ、『彼』に会いたくてしょうがないのだ。いっそ、全てを忘れていれば楽だったはずなのにと何度も苦悩する程に、『彼』への想いだけは確かに残されているのだ。

 

「無理だな」

 

 だが、スミスはあっさりとアスナの覚悟を切り捨てる。

 

「ああ、済まない。誤解しないでくれ。キミの『覚悟』は認めよう。その剣が私の命を奪うべく振るわれるのも確かだ。だが、キミは絶対に『躊躇い』を捨てきれない。ならば、それは致命的な隙となり、私はキミより先にその首を落とせる」

 

「やってみる?」

 

 現在はヒーラー兼職とはいえ、アスナ自身の適性は近接アタッカーであり、事実としてSAOでは最前線で常に戦い続けた剣士だ。簡単には後れを取らないというプライドがある。

 それは刹那の交差。アスナの右手首はいつの間にか掴まれ、彼女に馬乗りになったスミスはその首筋にナイフの刃を押し付けていた。

 現実世界とは違って短剣の刃が首に侵入しても絶命しない。たとえ、≪暗器≫に次いでクリティカルボーナスが高い≪短剣≫であるとしても、本職の近接アタッカー程ではないにしてもVITを割り振っているアスナを一撃即死させることはできない。しかし、首を斬り、そのまま何度も頭部や胸を刺されたならば、はたしてどうだろうか?

 殺される。アスナは呼吸するのと同じくらいに自分の死のビジョンが浮かんだ。ここから逆転する術を試しても、等しく潰され、反撃の暇もなく自分は殺されるだろうという確信があった。

 そして、アスナを驚かせたのはスミスの動きが全く追えなかったことだった。一瞬として目を離さなかったはずなのに、と困惑が支配する。

 

「安い挑発は止めたまえ。私は殺気や直感といった不確かなものは戦いにおいて信じない主義だが、全否定しているわけではない。キミに出来るのはせいぜい脅し程度。私の命を奪うに足る殺意がまるで足りないくらい見抜けるぞ」

 

 スミスの双眸は完璧に感情を御し、理性に基づいてアスナの首を刎ねるという意思があった。

 この男はアスナを『殺せる』。相手の背景を一切考慮せず、殺害するに足る理由と利害の計算をした上で、何の躊躇もなく命を奪える。それは限りなくAIに近しく、だがAIではたどり着けない理性に基づいた殺意だ。

 生唾すらも飲めない死の瀬戸際。頭は必死に反撃の糸口を探しているのに、心は死の恐怖に屈していないのに、どうしても自分が血溜まりに沈むイメージから脱却できない。

 ゆっくりとアスナの首からナイフを離したスミスは、まるで何事もなかったように焚火を囲い、テープで口を塞がれていながらも熟睡するグローリーへと呆れの視線を投げる。対するアスナはスミスへの警戒を強めながら、倒された体を起き上がらせる。

 

「貴方は何者なの?」

 

「国家公務員だ。今は傭兵だがね」

 

「……傭兵」

 

 自らの戦闘能力と技能によって依頼をこなし、多額の報酬を得る、DBOでも異質のプレイヤー達。それが傭兵である。アスナは斬られてもおかしくなかった自分の首に触れ、スミスとの実力差を思い知る。

 自惚れていたわけではない。アルヴヘイムでも大した戦闘経験を積めず、アスナのDBO歴は実質たったの2ヶ月だ。その間はひたすらにソロで己を鍛えていたといっても、リスクマネジメントは怠らず、危険に対しては常に撤退を是とした。

 だが、傭兵は目の前に分かり切った危険があろうと、どれだけ困難であろうとも投げ出すことはできない。無論、退き際は大事であるが、我が身可愛さに線引きを誤れば、役立たずの臆病者とみなされて信用は下落する。そうなれば仕事は減り、傭兵として終わることになる。

 アスナは確かに秀でた戦闘の才覚を持ち、鉄の城で鍛えられた戦闘能力は、DBOでもトップクラスだろう。大ギルドで活躍すれば、すぐにでもトッププレイヤーとして数えられる、既に磨き上げられた宝石だ。

 だが、『それだけ』だ。DBOにおいては、アスナはトッププレイヤーになれるとしても、真の意味でDBOとは何たるかを体感したことがない人間だ。それはアルヴヘイムにおいても『ティターニア』でしかなかった彼女にはまだ真の意味で理解できないものだ。

 あるいは、フロンティア・フィールドでそれを味わうことになるのかもしれない。だが、それは『まだ』だった。

 焚火に薪を追加したスミスの表情は変わらない。淡々として、だが何処か気遣うようでもあり、その実は無関心にも思える。故にアスナは惑わされる。

 

「キミの剣には殺意がまるで足りない。自他を守る為に戦うことは出来ても、殺すことまでは是とすることができない。故に覚悟を決めても必ず躊躇いが生じるということさ。実力差があるならば問題にならないが、そうではない場合は先のように命取りになる」

 

 そんなことはない。アスナは約束の塔でオベイロンを刺し、また突き落とそうとした時を思い出す。あの時、アスナは確かにオベイロンを……須郷を殺そうとした。

 だが、全くの躊躇いが無かったと断言できるだろうか? 覚悟に覚悟を重ねて、須郷を背後から刺そうとしたからこそ目立たなかっただけなのではないだろうか?

 

「闘志と殺意の比率の話だ。普通は7:3のところをキミは9:1、あるいはそれ以下といったところだろう。受動的殺意すらも消極的。典型的なスポーツマンタイプだな」

 

「何が言いたいんですか?」

 

「実力が拮抗した者と殺し合った時、キミは必ず負けるということだ。そして、仮に命を奪った時には、殺人という罪の重さにキミは耐えられないだろう」

 

「そんな事……」

 

 断言しきれないのは、アスナ自身が1度としてその手を赤く染めたことがないからだ。少なくとも身に覚えはない。

 誰かを守る為には、時として人の命を奪わねばならない。殺人を無条件の罪として罰せられるべきだと叫べる程にアスナは法と道徳の『正義』を信奉していない。だが、同じくらいに、この心は殺人の罪を……自分の所業ならば尚更の事、決して容認しないだろう。

 

「安心しろ。それが正常な精神だ。たとえ訓練を積んだ軍人であっても人殺しの罪悪感に長年に亘って苦しむことになる」

 

「貴方は違うんですか?」

 

「私だって罪悪感を覚えるさ。昔から処理するのが上手いだけだ。むしろ、上手過ぎる事を気に病んだ時期があったくらいだ」

 

 もう過去の事だ。そう告げるスミスの目は遠い昔を思い出しているようで、アスナはこの男の人間味を感じ取る。

 

「前にも言ったが、殺さないのに越したことはない。誰も殺さないで済むならば、それが1番だ」

 

「……ご忠告、ありがたく受け取っておきます」

 

「ああ、そうしてくれ」

 

 善人ではないのだろう。だが、悪人でもない。この男は感情を排して、論理と計算に基づいて『殺せる』だけだ。『殺してしまうことができる』……悲しい人なのだ。本人は哀れまれるなど心外かもしれないが、アスナはこの男から微かに感じた哀愁を無視したくなかった。

 

「先程の申し出、正式にお受けします」

 

「ほう。その心変わりは?」

 

「貴方は信用も信頼も置けない人物だとは思います。でも、私に取引を持ち掛け、わざわざ騙すメリットがまるでありません。強請るつもりならば徹底抗戦しますが、そうでないならば、私も今回の取引には応じます。元よりそのつもりでした」

 

「私も今のキミから情報を貰っても、無条件で信じるつもりはない。ガセネタか徹底的に調べるつもりであるし、あくまでキミは手段の1つに過ぎない。だからこそ、キミと良好な関係を築いて『信用できる情報筋』を得たい。強請るなど以ての外だし、私にもメリットがある関係が維持されるならば、キミの正体をバラすことはない。そもそも、仕事でもない限り、キミの正体を流布する意義も価値もない」

 

「結構です。では、話を戻しますが、どうしてエルドリッチについて知りたいんですか?」

 

「私らしくない、酷く感情的な弔いの為さ」

 

「…………」

 

「だから情報を揃えている。時が来たならば、確実にエルドリッチを殺せるようにな。キミには聖歌隊が管理している【深みの聖書】を手に入れてもらいたい。かつて、人喰らいの最中にエルドリッチが垣間見た何か……それに関わる思想と信仰を纏めた書物だそうだ。強力な奇跡系闇術を学べるユニークアイテムらしいが、教会が禁忌として封印している。それもあのエドガー神父が直々にな」

 

「だから私に手に入れろと?」

 

「そうだ」

 

 無茶だ。アスナも教会に世話になっているからこそ断言できるが、教会のセキュリティは尋常ではない。トラップだけではなく、大聖堂はわざと迷宮のような複雑な構造になるように増築・改築が施さており、なおかつ侵入者を決して許さぬ『何か』があるのだ。

 だが、取引であるならば断われない。何らかの手段でエドガー神父から深みの聖書について訊き出し、中身を拝見することができれば、持ち出すことは無理でも、内容をスミスに教えることは可能である。幸いにもアスナには≪信心≫があり、闇術習得に必須であるPKという条件こそ満たしていないが、深みの聖書を読みたいと申し出ることもできる。

 そうなると不可欠になるのはスミスの信用だった。アスナがスミスを信用していないように、彼もまたアスナの口伝では信じないだろう。

 信用があるからこそ成立する取引であるはずが、取引を成立させる為に信用を得ねばならない。アスナは溜め息を吐きたい衝動を堪える。

 

「分かりました。善処します。ですが、すぐにとはいきません」

 

「もちろんだ。私は気が長い方でね。ゆっくり待たせてもらうよ」

 

 握手を交わしたアスナは、この男は信用ならないが、その一方で1つの仮説を思いつく。

 グローリーはともかく、スミスに正体を知られたままでは、アスナは不安を抱き続け、また正体をバラされるかもしれないという恐怖心から自己保身に走ってスミスの暗殺を狙うかもしれない。アスナ本人にその意思はなくとも、スミスから見ればあり得る暴走だ。

 ならばこそ、わざわざ取引を持ち掛けてアスナの不安を少しでも払拭したのではないだろうか? それこそが自身の安全確保にも繋がり、またアスナの精神の健全性を保つことにもなる。

 それならば、まだ出会って間もないアスナに、わざわざこのような取引を持ち掛けることも納得がいく。

 

(考え過ぎ? それとも……)

 

 この男はまるで読めない。アスナはどうすればこの男の信用を稼げるだろうかと苦悩した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 密林を抜け、リーファが目にしたのは、かつてのビル街が緑の海に飲み込まれた、文明が終わりを迎えた世界だった。

 フロンティア・フィールド探索2日目。ついにマップデータの無いエリアまで到達したリーファ達は、滴る汗を拭いながら、大自然に埋没した都市を見た。

 アスファルトを砕いて伸びるのは捩じれた大樹であり、茂る木の葉は風の形を取るように揺れる。ビルの表面は苔や蔦に覆われ、中には直径10メートルにも及ぶ赤い大輪の花の苗床にもなっていた。

 極彩色の羽が特徴的な鳥が空を舞い、鋼を思わす硬質の光沢を持つ昆虫が木の蜜を吸い、まるで南の大海原のように青い翅の蝶が群れを成す。それらはモンスターではあるが、好戦的ではなく、リーファ達に襲い掛かる様子はない。

 

「なるほど。忘れられた樹海の都とは、よく言ったものだ」

 

 雄大な自然と滅びた都市の融合に、普段の厭味ったらしさも鳴りを潜めたメタトロンも感動を隠せないようだった。他の面々も未踏の秘境に到達した冒険者のように心を震わせているようだった。

 たとえ恐怖と死が常に傍にあろうとも、この瞬間の為に。物語に登場する冒険者にどうして憧れるのか、リーファは改めて理解する。

 かつて、海の向こう側にどんな国があるのかも分からない時代があった。だが、今は写真で、テレビで、インターネットで、VR・ARで、容易く情報を得られてしまう。それで疑似的な満足感を覚えてしまうのだ。

 古き時代の冒険者は……未踏の地に新たな生活の場を築こうとした開拓者は、きっとこんな気持ちだったのだろう。世界はまだまだ広いと、好奇の情熱のままに活力を得たのだろう。

 フロンティア・フィールド。まさしくその名に相応しい。この風景を背後に写真を撮りたい衝動にリーファは駆られるが、さすがにそのような呑気な真似はできない。隊長として彼らの安全を守る義務があるのだ。

 

「――って、ハボックさん、何やってるの!?」

 

「え? 何って撮影の準備だけど……」

 

 身の丈にも迫るバックパックから高性能カメラを取り出したぽっちゃり系女子のハボックに、リーファは驚きを隠せなかったが、その反応にむしろ疑問を持つように彼女は首を傾げる。

 

「フロンティア・フィールドは謎も多いし、後々の資料や攻略の為にも写真撮影は必須……ですよね? え? これって戦線の方針じゃありませんでしたっけ?」

 

「ええ、まさに。ハボックさんは何も間違っていませんよ。リーファ隊長が『無知』だっただけでしょう」

 

 困惑するハボックに、メタトロンは当然であると頷く。

 そんな決まりあったっけ? 焦るリーファはレコンへと顔を向けるが、彼は気まずそうに視線を逸らす。

 

「ここからはマップデータも無いのに、隊長がこれで大丈夫なの?」

 

「そう言うなよ。実力はあるんだし、俺達でフォローすればいいさ。まぁ、不安は拭いきれねぇけどさ」

 

 露骨に怒りを示すノイジーを宥めるジャイロは、リーファを見てから小さく吐息を漏らす。

 今のは挽回しようのないミスだ。リーファは拳を握り、気合を入れ直せと自分に喝を入れて素直に頭を下げる。

 

「申し訳ありませんでした」

 

「別にいいじゃん。ルールに雁字搦めで何が『フロンティア』だって話だしさ」

 

 ハボックは気にする様子もなく撮影を開始する。静音性能が高いらしく、シャッター音は聞こえない。

 

「植生は如何にも熱帯雨林って感じだね。でも、先入観は捨てて進もう。大丈夫! 僕もフォローするからさ!」

 

「ありがとう」

 

 レコンに慰められ、リーファは隊長として彼らを死なせることなく任務を果たせるだろうかと弱気になりそうになる。

 フロンティア・フィールドの死亡率は高い。探索隊が全滅して1人も帰還しないことなど日常茶飯事だ。それは実力不足……レベル100にも到達していないプレイヤーがフロンティア・フィールドに乗り込んでいる事も大きく関係している。

 今回の探索隊にしても、レベル100を超えているのはリーファ、レコン、ノイジーの3人だけだ。ジャイロはレベル91、メタトロンはレベル93、ハボックはレベル61と最も低い。

 だが、レベルと探索能力はまた別の話だ。アルヴヘイムの経験があるとはいえ、リーファは根っこからの戦士タイプで探索に秀でた才覚はなく、またスキルも揃えていない。それに対して、やはり最も指揮能力と探索技能が高いのは、1度はフロンティア・フィールド攻略達成を為し遂げた実績のあるメタトロンだろう。

 ノイジーは口こそ悪いが、その実は探索系スキルを一切持ち合わせていない、リーファと同じ、典型的な戦闘タイプだ。だが、フロンティア・フィールドの経験者として、実績もないリーファがいきなり隊長として自分を指揮下に置くことを認められないのだろう。逆に言えば、この隊における戦闘の要であるノイジーさえ認めさせれば、隊は大きく引き締めることができる。

 

「リーファ隊長、ここからの探索は如何様にするおつもりですかな?」

 

 副隊長のメタトロンは、厭味ったらしい態度は抜けきってこそいないが、リーファを隊長として扱っている。だが、決して自分の意見を述べない。まずはリーファに発言させ、駄目だしして自分の意見を通させる腹積もりだ。そして、悔しいことであるが、リーファも認めるしかない程度にはメタトロンの打ち出す方針の方が適切だった割合は高かった。

 実績もない名ばかりの若き隊長に代わり、経験豊富な中年の副隊長が仕切る。まるで戦争物のハリウッド映画の黄金パターンのようだ。だが、リーファは負けていられないと緑と一体化した巨大なビル群をどう進むか頭を悩ませる。

 

「まずは地上ルートを進みましょう。薄っすらとですけど水音が聞こえます。水源の傍には野営ポイントも多い傾向にありますし」

 

「ですが、水場の近くにはモンスターも集まりやすい。プレイヤーにヘイトを向けない温厚なモンスターを餌とする凶暴なモンスターが出現しやすい傾向にある。それに加えて、本格的な都市部ともなれば、ヒューマノイド系も登場するでしょう。それに空からの強襲も考慮すれば、私は地下ルートを推します。ご覧ください。どうやら都市全体には地下街が張り巡らされていたようです。樹海化の影響は免れていないでしょうが、探索する価値はあるかと」

 

「待ってください。楔の標を発見するのが僕たちの任務です。だったら、地下探索よりも先にエリア最奥を目指すのが先ではありませんか?」

 

 フロンティア・フィールドには明確なボスは存在しない。楔の標と呼ばれるポイントにオーナーフラッグを立てればクリアだ。ただし、楔の標の場所は完全に謎に包まれており、仮に発見しても特定のイベントをクリアしなければオーナーフラッグは立てられない。特定のイベントとは、アイテム収集であったり、ネームドの撃破であったり、と様々である。だが、これまで発見された楔の標はいずれもエリアの中心部にあったことから、探索の基本はエリア中心部を目指すことにある。

 

「ええ、レコンさんの言う通りです。ですが、これだけ広いエリアで何処にあるかも分からぬ楔の標をどうやって探すのですか? フロンティア・フィールドの攻略は探索こそ基本にして王道。ここからは先の探索部隊も未踏の地。ならば、次に備えてこのビル街の探索を徹底的に行うことこそ常道でしょう。それに、このビル街ならば何処かに転移ポイントがあってもおかしくありませんからね。それとも、レコンさんには楔の標を今回の探索で何が何でも見つけねばならない理由がおありで?」

 

 楔の標は全くのノーヒントで見つけるわけではない。プレイヤーはエリアの各所にある【楔の残滓】と呼ばれるチェックポイントに到達することによって、楔の標の座標情報が得られる。多くの楔の残滓を巡ることによって座標情報は精度を増していき、最終的にはミリ単位の誤差もなく楔の標の場所を指し示してくれる。また、楔の残滓は一方通行とはいえ転移ポイントにもなるので帰還も可能だ。

 リーファ達の今回の探索の目的は、楔の残滓、ないし新たな転移ポイントを発見することである。今回の探索で<忘れられた樹海の都>の攻略をすることではない。

 だが、レコンの計画は違う。ここで大きな実績を作ることによって、自由開拓戦線で表立って発言できる地位の獲得だ。

 

『僕たちにはとにかく実績が足りないんだよ。裏から手を回すだけのやり方だと、いつか同じ方法で潰される』

 

 レコンは自由開拓戦線の設立に裏から糸を引いていた。大ギルドは既に彼が黒幕だと掴んでいるか否か。そもそもとして、レコンもまた個人である限り、組織となった自由開拓戦線に切り捨てられる側になることも十分にあり得る。今回のスリーパーの件も、もしかしたらリーファのみならず、レコンも亡き者にしようと企んだ自由開拓戦線の謀略である事も十分にあり得るのだ。

 だからこそ、十分な発言力を持ったギルド……新生フェアリーダンスを結成し、自由開拓戦線でも有無を言わさぬ地位を獲得しなければならない。

 情報があっても、個人の武力がどれだけ高くても、優れた才能があっても、他に類のない経験をしていても、周囲を頷かせるだけの実績がなければ意味がないのだ。

 小さな野花ではその他で埋もれてしまう。必要なのは内外の目を惹く大輪の薔薇だ。劇的な活躍こそが必要なのだ。

 

「……分かりました。メタトロンさんの意見に従います」

 

 だが、とリーファは考える。自分たちの実績の為に無理をして死人が出るなど許せない。リーファが目指すのは……サクヤから継承した理念とは、仲間に無理と犠牲を強いるものではないのだ。

 清廉であってほしい。レコンはそう願ってリーファに暗躍を手伝わせない。だからこそ、リーファは受け継いだ者として判断を下す。

 リーファの選択ならば従う。レコンは反論しなかったが、長い付き合いになる彼女には彼の不満が透けて見えた。

 真っ赤な薔薇は確かに目を惹くが、存外に人々が愛でるのは野花であるものだ。ならば、自分を裏切ることなく、やるべきことを1つずつこなしていきたいとリーファは望む。そうしてこそ、受け継いだ理念に感応した仲間が集まってくれるはずだと信じているのだ。

 

「話し合いは済みましたか?」

 

 と、そこで耳を擽ったのは、高温多湿の樹海に響く風鈴の音色と思わすクゥリの声だった。

 話し合いには加わらなかったクゥリは、アスファルトを突き破った30メートルにも届く大樹の幹を撫でていた。大きさに相応しい伸びた枝は広く木陰を作っている。多くの木々が連なる樹海は、その実は薄暗いことを示すように、クゥリの白髪は美しく映える。

 

「【渡り鳥】さんも何かあれば意見を」

 

「オレはアナタ達のサポートが仕事です。方針に口出しはしません」

 

 左目を覆う黒い眼帯を撫でるクゥリは微笑むだけであり、メタトロンは困惑する。噂と実態の乖離はもちろん、クゥリの掴み所がない雰囲気にどう対応するべきか分からないのだろう。皮肉にも、彼らの中にある【渡り鳥】に対する悪名こそが二の足を踏ませているのだ。

 

「では、皆さん! 楔の残滓の発見を最優先に参りましょう。それでよろしいですね、リーファ隊長?」

 

「……はい」

 

 リーファではなく、メタトロンが取り仕切るように両手を叩けば、各々が準備を始める。

 指揮官としての才能はない。リーダーシップがある方とは言い難い。周囲を纏め上げるカリスマ性もない。フェアリーダンス時代も副リーダーではあったが、あくまで特攻隊長ポジションだった彼女には、この場を取り仕切るには経験も足りなかった。

 アルヴヘイムで大軍を指揮した経歴があるレコンも、あくまで軍を預かる上層部から指揮権を付与されたものばかりだ。虎の威を借りてこそ才能を発揮できるタイプがレコンであり、そもそもとして信用も信頼も無い面々を纏め上げることは出来ない。お得意の口八丁手八丁も、生死が関わる現場ともなれば、実力者と経験者がモノを言うのが道理であり、やはり実績不足が響く。

 レコンの焦りも分かる。このままでは自由開拓戦線でもその他大勢として埋もれてしまう。レコンは裏の設立貢献者としてアドバンテージが残っている内に、大ギルドの影響が濃く現れる前に、何としても表での地位と発言力を得たいという目論みも理解できる。だが、リーファにとってそれは目の前の危機と人命を秤にかけられるものではない。たとえ、この中にスリーパーが紛れ込んでいたとしても、可能な限り死者は出したくないのが彼女の本音だ。

 甘いのだろう。だが、それがリーファのサクヤの遺志の継ぎ方である。裏の黒く汚い部分をレコンが背負ってくれるならば、彼に頑張りに報いる為にも、逆に彼の計画を邪魔することになったとしても自分の気持ちと継いだ遺志を捻じ曲げることは許されない。

 フロンティア・フィールド攻略の経験があるメタトロンに、たとえ情けなくてもリーダーシップを発揮してもらうのが今は1番だ。今回の経験を活かす為にも、まずは生還を最優先にしなければならないのだ。死者に『次』は無いのだから。

 

「しかし、暑いな……」

 

 出発して10分と経たずして、ジャイロが顎から汗を滴らせて呟く。

 生い茂る緑によって直射日光が当たる場所は少ないが、根本的に高温多湿であり、呼吸の度に肺まで蒸されていくようだった。比較的軽装のリーファーでも汗が止まらないのだ。防具変更したとはいえ、胴体は鎧のままのレコンは早くも顔が汗まみれである。

 

「火気に注意しろ。このニオイ……【油袋虫】だな。奴らはちょっとした火で燃え上がる。群れに引火して大爆発など笑い話にもならない惨事だ」

 

 環境もまた敵の1つ。もはや嫌味を口にする余裕もないらしく、ノイジーは水筒を大きく傾けて喉を鳴らし、他の面々も早くも水分補給を始めている。

 だが、水も貴重な物資だ。安易に生水を飲めば、様々なデバフが付くこともある。1つ1つの効果は小さくとも、積み重なれば無視できず、また小石で躓いて大惨事を引き起こすこともあるのだ。また、DBOには恐ろしいデバフとして疫病もある。回復手段が限られており、ほぼ時間経過で回復する以外は絶望的だ。

 

「クゥリさん……なんで、汗1つ……掻いて……ないの?」

 

「防具のお陰だ。色々あって、ミッションに会わせて防具を変更するのが難しくなったから、とりあえずこれ1つであらゆる環境に適応できるように仕上げてある。足りない分は服薬でカバーしているだけだよ」

 

「ずるい」

 

「その代わりに修理コストがえげつないけどな」

 

 性能が高ければ修理コストは嵩む。多くのプレイヤーが量産品から脱却できないのも修理コストを無視できないからだ。リーファも高性能なレア・ユニーク装備を身に着けるようになってからは嫌と言う程に実感している。

 安定した黒字を出す為にはリスクを抑えねばならない。だが、リスクを下げればリターンは減ってレベルアップ等の成長は鈍化する。ならばこそ、性能を抑えても量産品から脱却できないプレイヤーが多いのだ。

 

「あとは呼吸だな。なるべく体熱を上げないように呼吸の仕方に気を配る。内側に籠る熱を吐き出すようにするだけでも楽になる」

 

「意味は分かりますけど、この状況で実践できる余力はないです」

 

「……そうか」

 

 そもそもとして、先行するクゥリの足の速さが段違いだ。草が生い茂り、根がコンクリートを破って張り巡らされた足場において、まるで整備された都市の路上を闊歩するかの如く進んでいく。

 

(そういえば、お兄ちゃんも小さい頃はよく外で遊んでたっけ。あたしは後ろから付いていくので精一杯で……)

 

 すっかりインドア派になってしまった兄を思い出し、リーファは懐かしくなって笑う。外に出たがらない人間が行き着いた先の仮想世界で汗だくになりながら駆け回る事を強いられるならば、それは実に矛盾した結末である。

 兄。そうだ。今回の目的はもう1つある。レコンがわざわざクゥリを雇ったのは、来たるラストサンクチュアリ崩壊の後に『名無し』を自由開拓戦線に引き抜く為の段取りとして、情報を欲したからだ。

 元相棒であるクゥリからならば何か聞き出せるかもしれない。レコンはそう期待していたようだが、リーファは些か微妙であると感じていた。DBOでは2人の交流はほとんどないはずであると予想できたからである。

 ならばこそ、リーファがむしろ知りたいのは別にある。アルヴヘイムにて、兄を立ち直らせたのは果たして本当にクゥリだったのか。兄の夢か、それともアルヴヘイムに実際にいたのか、リーファは問いたい。

 仮にいたならば、どうして回廊都市の決戦に姿を現さなかったのか? アルヴヘイムでは何をしていたのか? 兄をどうやって再び立ち上がらせたのか? リーファには問いたいことが多くあった。

 だが、秘密には理由がある。それもまたリーファの考え方だ。秘密にしている事をわざわざ暴く趣味はなく、秘密を白日に晒して快感を覚えることもない。知らないでも問題ないならば、知らないままでいいと済ますべきだとリーファは考える。

 知的好奇心にノーを突きつける。だが、質問は常に胸の内で渦巻く。ならば言葉にすべきなのかもしれないが、やはり躊躇われる。リーファは先を進むクゥリの背中を遠く感じた。

 

「敵です」

 

 だが、先行したクゥリが姿勢を低くして茂みに身を隠せば、途端に全身に緊張が走る。

 フロンティア・フィールドに入って2日目というのに、戦闘はまだ2桁にも到達していない。クゥリの先行によって事前にモンスターを察知し、安全重視で戦闘を避けていた事もあったが、それ以上にメタトロンも首を傾げる程にモンスターの数が少ないのだ。

 

「ヒューマノイド系か。ハボック」

 

 リーファが指示を出すより先にメタトロンがハボックを呼びつける。物音を立てないように彼女は茂みまで寄ると≪博学≫を使用する。

 

「【アサルト・ヒューマノイドC7型】が6体、【ブレード・ヒューマノイドF5型】が2体、それと【クイーンドローンE型】が1体。ブレード・ヒューマノイドは未確認モンスターです」

 

 ネームドという表現の通り、モンスターは基本的に名前は表示されず、撃破数に応じて名称などの情報がアンロックされる仕組みになっている。だが、スキル≪博学≫を使用すれば、熟練度にもよるが、視認しただけで最初から対象のモンスターの名称を確認することが可能だ。また、戦闘中にモンスターに与えたダメージを自動編纂し、弱点部位や弱点属性の再確認が楽になる。そして、撃破数を稼いでいけば、ドロップアイテム、ドロップ率などの情報開示もされる。

 戦闘に直接役立つわけではないが、1人でも所有者がいれば何かと便利なのが≪博学≫である。探索系スキルとしてもメジャーな部類だ。特にモンスターの種類が豊富なフロンティア・フィールドでは情報統合する際に誤りがない為に重宝されるスキルである。

 

「手強そうですね」

 

「ええ。ですが、奴らは動かない。あの建物を守っているようですね。固定配置……この都市部の何か重要な施設と見て間違いないかと」

 

 2メートルほどの身長をしたヒューマノイド系はいずれも人型ロボットである。頭部には1つ目の大きなカメラアイを有し、人間同様の繊細な動きが出来る手の指を持ち、人間用の武装を運用し、だが人間には出来ないロボット特有の追加兵装などを装備可能とした、人間の代用となった兵士達だ。終末の時代でよく確認されるモンスターである。

 リーファ達が確認したヒューマノイドはいずれもブルーコーティングが表面に施されており、金属の光沢を失っていない。ブルーコーティングは射撃属性と属性攻撃をカットする効果があり、この塗装によってヒューマノイドはHP以上にタフである。ただし、塗装を剥ぐこと自体は決して難しくなく、攻撃を当てれば簡単に剥げる程度のものだ。だが、この塗装面積が多い内は、弱点である雷属性によるダウンはできないという特徴もある。

 アサルト・ヒューマノイドはアサルトライフルを装備しており、また腰には手榴弾を格納しているようだった。中距離射撃戦をメインに弾幕を張りながら、こちらが隠れた場所に手榴弾を放るという攻撃方法が厭らしいモンスターである。

 ブレード・ヒューマノイドは射撃戦をするヒューマノイドの護衛、あるいは防戦に入ったプレイヤーへの突撃を行うタイプのモンスターだ。固定型レーザーブレードを装備し、光の刃で斬り込んでくる様は恐怖そのものである。ヒューマノイド系でもとにかくタフかつスピードがあり、下手なプレイヤーよりも洗練された剣技で襲い掛かってくる。また種類も豊富であり、小型バリア・シールドも装備したタイプ、実体剣を装備したタイプ、二刀流のタイプ、強力な放出型レーザーブレードを操るタイプなど様々だ。今回のF5型は未確認タイプであるが、右手には柄だけのレーザーブレード発生器を保有していることから、ある程度の戦闘スタイルは予想できる。

 だが、この場で最も厄介なのはクイーンドローンである。巨大な蜂を思わす外観をしたモンスターは、腹部に多数の小型ドローンを搭載しており、戦闘時はそれを展開することによってヒューマノイドのデータリンクを行い、プレイヤーへの対処能力を引き上げ、また運動性能も露骨に上昇させる。

 

「あの数……さすがに相手にするのは危険ですな」

 

 メタトロンが躊躇うのも当然だ。DBOのモンスターはネームドでなくとも強力なのである。ならば数で負けるならば戦わないのが最善だ。特にアサルト・ヒューマノイドが6体ともなれば、その掃射を突破するだけでも相当のダメージを受けることになる。

 

「僕が盾を構えて弾幕を突破しますから、背後から皆さんはついて来てください」

 

 自分が突破口を作ると提案するのはレコン。

 

「未確認のブレードヒューマノイドといきなり近接戦とか自殺行為でしょ。まずは攻撃手段の分析をしましょう」

 

 危険な初見の相手といきなり斬り結ぶべきではないと否定するのはノイジー。

 

「まずはクイーンドローンを何とかしないと話にならないぜ。アイツがいるだけでヒューマノイドの脅威は倍じゃ済まない」

 

 敵の戦力ダウンが先決だと述べるのはジャイロ。

 

「クイーンは私の狙撃で弱点部位を狙っても一撃では倒せないだろうし、強化状態を相手するのは避けられないと思いますが」

 

 戦闘に備え、折り畳み式スナイパーライフルを準備するハボック。

 バラバラだ。フロンティア・フィールド2日目にして、ようやく出会ったまともな脅威に対してまるで意見が纏まらないという体たらくにリーファは焦る。

 個々の我が極端に強いわけではない。パーティを纏めるリーダーの不在が問題となって露呈しているのだ。本来ならば、率先して纏め上げねばならないリーファの発言力の無さが大きな障害となっている。

 いっそメタトロンに指揮権を投げ渡してしまった方が纏まるかもしれない。だが、それは部隊長としての責任放棄であり、むしろ今後の探索において大きな問題と化す。確実に火種となって別の火薬に着火する。

 

「あの施設を何か守っているとしても、あたし達が無理に探索する必要はありません。ここは退きましょう」

 

「それでは本末転倒では? ですが、隊長が申されるならば仕方ありませんな」

 

 メタトロンも正面突破は困難と判断したはずだ。だが、リーファの発言を待っていたとばかりに同意を示す。

 これではリーファが臆病風に吹かれたようだ。だが、それでも安全優先だ。ここで無理して戦って無駄な負傷をするのも、死者が出るのも避けねばならない。

 

「……【渡り鳥】さんならどうしますか?」

 

 撤退を指示をしようとしたリーファの口が開く前に、レコンが沈黙を保つクゥリに問いかける。

 そうだ。ここには傭兵がいるのだ。全員の視線がずっと口を閉ざしていたクゥリに集まれば、彼は何の事もないと肩を竦める。

 

「オレが受理した依頼は探索同行です。雇い主の意向を最大限に尊重しますよ」

 

「だったら教えてください。【渡り鳥】さんなら、どうやってあのモンスターの集団を突破しますか?」

 

「倒すだけです」

 

「ですから、どうやって?」

 

「どうも何も、障害となるなら排除する。それ以外の選択肢などありません」

 

 レコンは作戦を問いているのに、クゥリは質問の意味が分からないと首を傾げる。

 メタトロンは話にならないと嘆息し、ノイジーも頭が痛いとばかりに額を押さえる。だが、リーファだけは彼らとは根本的な理解の度合いが違った。

 これまでのフロンティア・フィールドの戦闘において、いずれもクゥリはまともに参加していない。戦闘能力が低いハボックの護衛につくなどしてフォローに回っていたからだ。

 

「できるんですね?」

 

「それが依頼なら為し遂げるだけだ」

 

「だったら、お願いします」

 

「了解」

 

 リーファが強い眼差しを向ければ、クゥリは微笑んで茂みから躍り出る。

 クゥリを確認したクイーンドローンが頭部に備わった警報器を鳴らし、人工音が都市を呑み込んだ樹海に響き渡る。だが、そうしている間にクゥリは一気にクイーンドローンに接近すると宙を舞い、腰のカタナを抜く。

 一閃。それが頭部にダメージを与えるだけではなく、再び鞘に納める着地までの間に飛行を担う3対の翼部にダメージを与えて墜落させる。

 全ヒューマノイドがクゥリをターゲットに捉える。6体のアサルト・ヒューマノイドが放つアサルトライフルは弾幕を生むが、作り出された『面』の内にクゥリはいない。草と根、割れたコンクリートと泥土という悪環境でありながら、まるで踊っているかのように、ステップを用いた高速移動でクゥリは自身に1発として射線を捉えさせない。

 あっさりと6体のアサルト・ヒューマノイドの懐に入り込もうとしたクゥリを、2体のブレード・ヒューマノイドが迎撃する。右手に持つレーザーブレード発生器より黄色の光の刃が形成される。固定型レーザーブレードであり、取り回しを重視されている。

 2本の光の刃をクゥリはまるで霞であるかのように容易く潜り抜ける。あっさりとブレード・ヒューマノイドの迎撃を抜けたクゥリは、距離を取らず、アサルトライフルを右手に持ち、左手で腰のナイフを抜いたアサルト・ヒューマノイドに対して背負う大剣を振り下ろす。

 轟音と共に頭部から地面に叩き潰される1体のアサルト・ヒューマノイドは、まるで悲鳴のように軋んだ金属音を響かせる。潤滑剤、あるいはエネルギー媒体なのか、白い液体が血のように飛び散る。

 そのまま回転斬りでアサルト・ヒューマノイドの密集陣形を破壊したクゥリは、背後から斬りかかる2体のブレード・ヒューマノイドに対して、後ろも見ずにバックステップする。それだけでブレード・ヒューマノイドの攻撃タイミングはズレ、すれ違う形で逆に背後を取ったクゥリは左手に大剣を、右手にカタナを持ち、それぞれを背中から刺し貫く。

 スパークが散り、ブレード・ヒューマノイドが白い液体が溢れる。痙攣する2体を盾にしてアサルト・ヒューマノイドの銃撃を防いだかと思えば、そのままカタナで刺し貫いた方を投げ飛ばして激突させ、空いたカタナで大剣に突き刺したままのブレード・ヒューマノイドの頸部を斬り落とす。

 踊る。踊る。踊る。銃撃は1発と掠りもせず、まるで未来でも見えているかのようにばら撒かれる銃弾の雨の中を踊る。カタナの一閃がアサルト・ヒューマノイドの胴体を両断し、大剣が砕き斬る。性質の異なる2本の刃は、個々に独立した動きを持っていた。

 右手と左手で全く異なる動きをさせながら、異なる性質の剣を最適に操作する。しかも独立していながらも連携している。それがどれだけ高難度であるかは言うまでもない。ノイジーもまた斧二刀流であるが、彼女の戦闘スタイルはあくまで同じ動きをする2つの斧を重ね、あるいは乱舞して手数を稼ぐというものだ。

 だが、クゥリは左右でそれぞれ独立していながら、実は完全なる連携であり、僅かとして隙が無い。復帰しようとしたクイーンドローンへと大剣を突き立てたかと思えば、そのまま斬り上げて浮かし、胴体をカタナの一閃で裂いたと思えば、それは回転斬りであり、投じられていた手榴弾を刀身で打ち上げた挙句に大剣の腹で逆にお返しする。

 自爆したアサルト・ヒューマノイドの爆散する欠片が降り注ぐ中で、カタナを手放したかと思えば、いつの間にか右手に挟み込んでいた投げナイフが飛び、接近しながら弾丸をばら撒いていたアサルト・ヒューマノイドの肘と膝を刺し貫いて射線をズラして同士討ちさせ、かつ転倒させる。

 その間は僅か1秒未満であり、落ちるカタナを宙でつかんだクゥリは大剣を背負うと居合の構えを取る。

 繰り出されたのは緋色の血の如き刃。刀身の間合い外まで斬る血刃の居合は、奇麗に集められた残りのヒューマノイドとクイーンドローンを切断する。

 そう、背後から迫るHP僅かのブレード・ヒューマノイド以外は。左手にエネルギーを凝縮させたブレード・ヒューマノイドが掌底を繰り出せば、正面が眩く光り、球体状のエネルギーフィールドが形成される。これがF5型の能力なのだろう。素早いレーザーブレードで翻弄し、左手の攻防一体のエネルギーフィールドを叩き込むというものだ。

 直撃を受けた。そう思ったのはリーファ以外だろう。エネルギーフィールド発生のタイミングには弧を描くように回転をかけたステップでブレード・ヒューマノイドの背後を取るクゥリを、彼女の目はハッキリと捉えていた。

 背後から首を落とされた最後のブレード・ヒューマノイドが膝をつき、全身のスパークと同時に動かなくなる。

 戦闘時間は約20秒。一方的かつ圧倒的……まさしく蹂躙だった。HPを1ドットとして減らさず、汗1つ掻かず、クゥリはカタナを濡らす白い液体を振り払うと戦闘の余韻を味わうように納刀する。

 最初に速攻でクイーンドローンを撃墜させてデータリンクを阻害し、その間にアサルト・ヒューマノイドの密集陣形を破壊し、各個撃破しながら敵を血刃居合で纏めて一掃できるように集め、最後にわざと隙を晒すことで情報が無かったブレード・ヒューマノイドの能力を、リーファ達が今後も対応しやすいように、わざと使用させてから撃破した。

 

 そして、何1つとして難しい事はしていないとクゥリは微笑む。言葉を失う面々の中で、リーファだけは興奮して駆け寄る。

 

「すごーい! 今のどうやったんですか!? どうやって躱したんですか!? 後ろからの攻撃とかも、ほとんど先んじて躱してましたよね!? どうやったんですか!?」

 

「改めて言われると……そうだな……直感と予測?」

 

「予測は分かりますけど、あれは無理ですよ! 後ろに目が付いていても無理ですって! すごい! すごい!」

 

 ぴょんぴょんとウサギのように跳ねるリーファに、クゥリは無言で顔を背ける。

 普段は調子に乗った対応するのに、率直に褒められると照れて反応が無愛想になるのも相変わらずだとリーファは微笑ましく思う。

 

「いや……いやいや……いやいやいや! リーファちゃん、今のは頭がおかしいから! この人なんなの!?」

 

 だが、衝撃から復帰したらしいレコンはリーファとは異なる興奮を見せる。

 

「確かに、バトル・オブ・アリーナの頃よりも何段階も強くなったみたいだし、アンタの驚きも分かるけど、頭がおかしいは言い過ぎじゃない? ほら、クゥリさんに謝って!」

 

「別に謝罪は要らない。気にもしていない」

 

「ほら、傷ついてるじゃない! クゥリさんがこういう反応を見せた時って、本当は結構ダメージ受けてる時なんだからね!? ほら、ごめんなさい!」

 

「…………」

 

「いや、リーファちゃんの方が絶対に傷つけたから! 今の沈黙とか絶対にそうだから!」

 

「いいから謝る!」

 

 レコンの頭を掴んで下げさせたリーファに、クゥリは妙に長い沈黙の後に小さく笑んだ。

 

「相変わらずだな、リーファちゃんは。少しだけ……ホッとしたよ」

 

 施設への侵入を妨げていたモンスターは排除された。リーファは改めてヒューマノイドたちが警護していた施設を観察する。

 壁の表面は剥げ落ち、また蔦や根に覆われて半ば植物と一体化しているような外観であるが、他の建物がほとんど半壊に近しいのに対して大まかな原形を残している。侵蝕した植物を剥ぎ落せば今からでも再利用できそうな印象もあった。

 分厚いガラス製の自動ドアは亀裂が入っていてもなお健在である。鍵がかかっており、≪ピッキング≫スキルを使うことを決めたリーファはピッキングツールで成功率を上げると難なく開錠に成功する。

 

「……そうだよな。それが普通なんだよな」

 

「何がです?」

 

「いいや、何でもない」

 

 背負っていたはずの大剣を何故か抜いていたクゥリに、まさか力尽くでこじ開ける……もとい破壊して侵入するつもりだったのだろうかとリーファは敢えて問わないでおくことにした。

 

(なんか、さっきよりも沈黙の質が変わったような……)

 

 まさしく廃墟といった、荒れ果てた内装を見回しながら、一同の沈黙が重々しく、また強い警戒心に変じているような気がして、リーファは改めて皆の様子を確認する。

 レコンはともかくして、他の面々は明らかにクゥリから距離を取っていた。まるで今にも自分の首元に喰らい付いてきそうな狂犬を警戒するような素振りに、リーファは苛立ちを強める。

 クゥリの悪名はリーファも重々承知している。だが、傭兵として雇い、同行する以上は仲間であるはずだ。信頼を置ける関係は築けていないにしても、この態度はあんまりではないだろうか。リーファは不機嫌に眉間に皺を寄せ、沈黙を破るように咳を挟む。

 

「誰も怪我を負わずに侵入できたのを喜ぶとして、これからこの施設の探索を行いたいと思います。よろしいですか?」

 

「あ、ああ。もちろんですとも、隊長殿」

 

 言葉を失っていたらしいメタトロンは、明らかにクゥリを意識するように、横目で何度も彼の動きを注視しながらも応じる。

 

「リーファちゃん。どうやらここは医療施設……病院だったみたいだね。見取り図を手に入れたよ」

 

 さすがはレコンだ。手際が良い。壁に提示された簡素な病院内部の見取り図をレコンが指差し、全員が触れればマップデータが更新される。詳細は実際に足を運ばねば分からないが、大よそでも構造が分かるのは攻略において有用である。

 

「固定配置されたモンスターが守っていた施設だ。レアアイテムか、情報か、それとも案外ここが楔の残滓だったりして」

 

「重要と見せかけただけのハズレもあるわよ」

 

 これまでとは違い、やや慎重さを滲ませたジャイロの発言に、ノイジーもまた強張った声音で応じる。

 リーファが最も苦手とする嫌な雰囲気が醸されている。気が引き締まるのは結構であり、それが結果的に互いの歩み寄りをもたらして信頼関係の1歩になるのは喜ばしいが、纏まる方向性がよろしくない。

 だが、だからこそリーファは別の角度でこのチームの欠陥に今更になって気づく。

 そもそもとして、ここにいる面子はいずれも、リーファとレコンを除けば、属するギルドも異なるプレイヤーばかりなのだ。

 ギルド連合という自由開拓戦線の性質上もあってか、ギルドの枠を超えて攻略メンバーは招集される事も多い。だが、同じギルド連合ではあっても、商業・生産・金融系ギルドが主として結集し、大ギルドという御旗の下で固有の軍事力を、様々なブランド力と絶大な資金力で時間をかけて築き上げたクラウドアースと比べれば、まさしく烏合の衆だ。

 自由開拓戦線は大ギルドのお零れではない、一攫千金を夢見る中小ギルドを中心にして結成されている。だが、それは逆に言えば、大ギルドの下で細々と生きるのではなく、少なからずの野心があるギルドが集まっているという事だ。

 フロンティア・フィールド開拓の為に戦力・資金・情報を結集させこそするが、その実はクラウドアースも思わず失笑する程に内部闘争が激しい。誰もが我先にと成果を競い合い、それを諫めるだけの統率力を持ったリーダーも不在だ。それなりに名の売れたプレイヤーもいるにはいるが、各大ギルドの代名詞にもなっている名物プレイヤーは不在だ。

 大ギルドの手先が数多と潜り込む以前に、その実は互いに噛みつき、爪を立て合う。それが自由開拓戦線の内情なのである。

 ギルド単位で派遣していては先に進まない。今回の各ギルドから派遣されたプレイヤーで結成された部隊は、自由開拓戦線の上層部にとっても、大ギルドに丸呑みされない為にも不可欠な実験でもあるのだろう。

 

(あたしが情けないリーダーだからこそ、メタトロンさんはそれを利用して皆を纏めてたんだ)

 

 厭味ったらしいが、この人って凄いのかも。気づきによってメタトロンのやり方を評価できたリーファは、組織とは大変だと頭痛を覚える。

 だが、今度はクゥリに対する警戒心によって新たな纏まりを得つつある。否定したい一方で、彼らを統率する力は自分には無いとリーファは奥歯を噛んだ。

 レコンが欲する象徴と権威。聖剣を持つ兄を自由開拓戦線の専属にしようとする目論見には、リーファに語った以上の多くの思惑があるのだろう。デスゲームを共に歩んできた友人もまた遠い所に行ってしまった気がして、自分はまるで1歩も進んでいないような劣等感を覚えて、小さな焦りが生じる。

 実績が要る。レコンが繰り返していた今回の探索の重みを、自分はどれだけ直視していただろうか。

 人命優先なのは今も変わらない。だが、ここで何も成果を挙げることができなかった場合、はたして『次』は来るだろうか? チャンスを何度も得られるならば、この世は成功者だらけのはずだ。誰も挫折して項垂れて足を止めることはない。

 せめて楔の残滓の発見。その最大の功労者にでもならない限り、『次』を得られるかどうかも怪しい。リーファは足早になって無音の病院を探索する。

 

「人骨がゴロゴロ転がっているかと思えば、そうでもないわね」

 

 病室はいずれも荒れ果ててこそいるが、死体などはなく、拍子抜けするほどにモンスターも出現しない。ノイジーは安心と不安という相反する2つが混じった吐息を漏らしているが、リーファは警戒を怠らない。

 

「リーファ隊長、ちょっとよろしいですか?」

 

 メタトロンに呼び出され、ベッドの下を覗き込んでいたリーファは彼の緊張の面持ちに、決して喜ばしい話ではないと覚悟する。

 

「【渡り鳥】殿とは親しいようですが、彼は何者なんですか?」

 

「えーと、関係性を問われると少し難しいんですけど、個人的に交流がある間柄なんです」

 

「では、信頼の置ける人物であると?」

 

「もちろん」

 

「本当に?」

 

「くどいです。クゥリさんの何が気に入らないんですか?」

 

 探索に参加し、レコンの指示を受けながら病室を漁るクゥリは、見たとおりに真面目に依頼をこなしている。発言こそ少ないが、リーファ達のやり方に口出ししないという意思表明でもあるのだろう。サポートに徹しているという印象も受ける。

 互いにしか聞こえない小声の会話がまるで悪口を発しているかのような罪悪感を芽生えさせる。リーファは今すぐ会話を切り上げたい一心で自然と早口になっていた事を自覚して、クールダウンを己に訴えかける。

 

「ヒューマノイドは、フロンティア・フィールドでも耐久面では低めのモンスターではありますが、あれだけの数の不利を単身で覆せる相手ではありません」

 

「それが出来てこそ傭兵なんでしょう?」

 

「あれだけの弾幕の中で、無傷で一方的に、1分以内にあの数を撃破するなど尋常ではない」

 

 確かに無傷と短時間撃破は驚くべき事だ。だが、クゥリは低VITであり、超攻撃特化型であることはリーファも承知している。それはクゥリの卓越した回避能力を根底に据えたバトルスタイルだ。

 トッププレイヤーであろうとも、相手にもよるが、数の不利があれば大なり小なりのダメージは避けられず、強敵との戦いでは無傷とはいかない。だからこそ、回復手段を豊富に準備するのは攻略の基礎だ。受けたダメージの1部を回復する≪バトルヒーリング≫スキルなどは、近接アタッカーにとって不可欠なスキルである。

 

「あれは『プレイヤー』の戦い方ではない。もっと別の……まるでバケモノのような……」

 

 自分でもどうして不安に捕らわれているのか分からない様子のメタトロンは、落ち着くように深呼吸を挟む。

 

「リーファ隊長、1つ信じていただきたい。私は貴女が隊長であることを喜ばしく思ってはいないが、今回の探索を無事に終わらせて帰還したいと望んでいる。私が言いたいのは、そう……つまりは適材適所だ。貴女は隊を預かる才覚が無い。あくまで『戦士』としてこそ才覚を発揮するタイプだ」

 

「あたしも同意見です。隊長とか、やっぱり似合わないなって感じてますから」

 

 だが、それを今更になって前置きを挟んでまで面と向かって告げる意味は何だろうか? クゥリへの陰口だけを聞かされて不愉快なリーファの睨みに、彼はあからさまな怯みを見せる。

 

「今夜にでも、改めてお話したい事があります。よろしいですか?」

 

「今ここでは駄目なんですか?」

 

「駄目です。デリケートな問題……隊内の不穏分子についてなので」

 

 リーファは目を見開き、会話を一方的に切り上げたメタトロンの背中を掴みたい衝動に駆られる。

 レコンに対する妨害工作に端を発したスリーパー疑惑。同様の疑いをメタトロンが持っていても不思議ではない。だが、彼の方から切り出してくるとは予想外だった。

 この中に高確率で裏切者がいる。だが、そもそもとして互いに同じギルドの仲間ではなく、潜在的には自由開拓戦線という枠組みの内で蹴落とし合うライバルだ。ならば、『大ギルドの手先』ではなく、『自分のギルドに利益誘導する』ことを目的としたスリーパーが潜んでいてもおかしくない。

 もはや誰もが信用も信頼も出来ない。レコンとクゥリだけが味方なのだろうか? リーファは彼らを信じて生還したいという気持ちがある一方で、潜む裏切者を罵倒したい負の感情もまた強まる。

 

「おい! ちょっと来てくれ!」

 

 と、そこでジャイロの声が響き、リーファは駆け足になる。

 

「何があったんですか?」

 

 リーファが到着する頃には、彼女以外の全員が揃っており、一同の視線は開かれたトレジャーボックスに注がれている。

 トレジャーボックスは時代に合わせて外観が変化するが、<忘れられた樹海の都>は終末の時代特有の先進的な都市であることもあり、電子ロック式のようだった。もっとも、鍵が何であろうとも≪ピッキング≫スキルは有効であるのは変わりない。ただし、鍵の種類に合わせたピッキングツールでなければ開錠成功率は上がらない。

 

「ただのトレジャーボックスじゃないですか。あ、もしかしてミミックだったとか?」

 

「ミミックだったら、もっと大騒ぎよ。いや、この場合はミミックの方がマシだけど」

 

 ノイジーの非難に、軽いジョークではないかと反感を抱いたリーファは、改めて柔軟性に欠けた雰囲気が隊内で形成されていることに危惧を覚える。

 だが、確かにミミックならば大騒ぎどころか悲鳴の連鎖だろう。リーファが片膝をついてトレジャーボックスに何かおかしい点はないかと探るも、特に目立った違和感はなかった。

 

「あの、本当にこれがどうしたんですか?」

 

「……開いていたんだよ。俺が見つけた時には中身が空だった」

 

 もしかして、隊内の誰かが見つけてこっそり懐に入れたのだろうか? アイテムのネコババは御法度だ。非難されて然るべきである。

 

「このトレジャーボックスは最初から開いてたんだ。しかも固定設置型トレジャーボックスだから、他の誰かが先に来ていたことの証拠なんだよ」

 

 リーファの勘違いを察したのか、レコンは努めて冷静であろうとする声音で告げる。

 他の誰かが来た? リーファは10秒ほどの沈黙の後に、レコンが何を言いたいのかを理解する。

 自由開拓戦線は多額の資金と戦力を投入して<忘れられた樹海の都>の攻略に乗り出している。

 教会という後ろ盾があるとはいえ、大ギルドほどの戦力も無ければ、何よりも資本力が足りない自由開拓戦線にとって、1つでもフロンティア・フィールドのエリアを我が物として、高額で大ギルドにレンタル契約して『事業』を軌道に乗せねばならない。

 DBOにおいて、最も資本を有するのは大ギルドと教会だ。特にクラウドアースは図抜けている。だが、他にも『資本家』は存在する。彼らの投資が無ければ自由開拓戦線は早々に破綻するだろう。

 自由開拓戦線は先に1つのエリアを攻略達成しているが、その際にも巨額の経費がかかっている。リーファの価値観からはズレているが、死者以上に金は『重たい』ものだ。

 1度の『奇跡』で終わらせてはならない。フロンティア・フィールドの開拓を『事業』として成立させてこそ自由開拓戦線なのだ。その意味では、リーファ達以上に<忘れられた樹海の都>の攻略に心血を注いでいるのは、自由開拓戦線の上層部であり、彼らと裏で繋がるレコンだろう。

 レコンの焦りは何も自分たちの実績獲得だけが理由ではない。ようやく設立した自由開拓戦線の今後を左右する『事業』を軌道に乗せる為でもあったのだ。

 

「僕たちが出発した時点で、<忘れられた樹海の都>の攻略を公式表明している勢力はいなかった」

 

 DBOには公式攻略協定がある。即ち、ギルドが攻略に乗り出す場合は公式発表するというものだ。非公式の場合、攻略を巡って現場で『何があろうとも』問題として取り上げてはならない。モンスターに襲われている所を見殺しにされようとも、PKされようとも、文字通り何があろうともである。ただし、公式攻略の為には規定された攻略の目途と根拠を提出しなければならず、それまでは協定も有効ではない。

 これは大ギルド同士が現場で攻略を巡って武力衝突から戦争に発展することを避ける協定であり、シャルルの森の教訓から危惧を覚えた大ギルドが教会の名の下で決定したものだ。公式攻略には日単位で教会に多額の『公式攻略費』を積まねばならない。攻略すれば公式攻略費の支払いは免除されるが、挫折・失敗した場合は当然ながら支払い義務が生じる。また、公式攻略は最長30日単位であり、延長の場合も支払いが生じる。

 大ギルド同士の表立った衝突を避ける狙いがある一方で、この協定は資本を持たない限り、公式攻略という『安全』を確保できないという途方もない壁を中小ギルドに突きつけた。言うなれば、この協定は大ギルドによる攻略独占を明示したも同然だからである。しかも協定には加盟費も不可欠だった。

 大ギルドや支援を受けた有力・中小ギルドは公式攻略という御旗を掲げ、公式攻略費どころか加盟費すらも払えない非公式攻略に乗り出す中小ギルドや個人を抑圧する。特に大組織になったからこその体裁を気にする大ギルドとは違い、支援を受けた有力・中小ギルドは非公式側の成果の横取り、嫌がらせ、脅迫行為は多々行われている。特に悪質なのは、トレインしたモンスターを押し付けるMPKであり、邪魔な非公式攻略組を排除しようと過激な行為を辞さない輩もいる。

 そんな中で唯一の例外とされるのが傭兵だ。傭兵は依頼最優先の原則に従い、依頼範疇であるならば、あらゆる行為が認可されている。たとえ公式攻略組であろうとも、大ギルドが相手だろうとも、依頼主側が制限でもしない限り、依頼達成を阻むあらゆる障害の排除が許される。『依頼』という理由だけで殺人さえも容認される程の、代替不可能な特異な人材……それが傭兵なのだ。

 もちろん、依頼を盾にすれば一切お咎めなしというわけではない。サインズ側の判断で警告、謹慎、賠償、除名、最悪の場合は賞金首扱いの処分もあり得る。だが、傭兵がいるからこそ存在するサインズが、希少なランク持ち傭兵たちに重度の処分を下すのは、それこそ3大ギルド合同の処分希望でもない限りは稀であると言われている。

 

「つまりは何? 私達以外の、非公式の連中が入り込んでいるの!?」

 

 リーファ達は自由開拓戦線の名で<忘れられた樹海の都>の公式攻略に乗り出している。これまでの攻略部隊の派遣によって<忘れられた樹海の都>を公式攻略するだけの権利を得た自由開拓戦線は、大手を振って攻略に注力できるようになったのである。

 

「騒ぐな、ノイジー。別に珍しいことではないだろう。非公式であろうとも、攻略さえしてしまえれば、権利主張は許されている。あくまで協定が守ってくれるのは、攻略中に受けた被害に対してだ。この前の風花隊を公然と断罪出来たようにな」

 

 あくまで平静を保つメタトロンであるが、声に反して目は明らかに動揺を隠せていない。

 フロンティア・フィールドの死者が多い理由のもう1つは、攻略を巡るPKであるとも言われている。モンスターと同等かそれ以上に危険なのがプレイヤーなのはDBOの常だ。

 

「だけど、死人に口なし。私達が死んでも、死因が明らかにならない限りは……」

 

 震えた声でハボックが胸の不安を吐露してしまい、咄嗟に口を両手で覆った時には遅く、息をするのも困難と思える程に空気が重苦しくなる。

 誰もが考えないようにしている。自分の背中を別のプレイヤーが狙っているのではないだろうかという恐怖心と戦っている。だが、それはモンスターがもたらす恐怖以上にそれは抗い難いものだ。

 戦わねばならない。リーファは拳を握り、皆を鼓舞するように強気の笑みを描く。

 

「確かに他のプレイヤーが来ていたのは間違いないだろうけど、自動ドアはロックがかかってました! それにこれだけ埃と土塗れなのに足跡も無い。少なくともここ数時間以内ではありません! あたし達がまず警戒すべきなのはプレイヤーよりもモンスターです!」

 

 フロンティア・フィールド特有の強大なモンスターとの戦闘がないせいか、皆の警戒がいるかいないかも分からない他プレイヤーに注がれるのは危うい。ましてや、クゥリに対しての危険視も異様に膨れ上がっているのだ。

 

「……アンタは安全だからいいでしょうけどね」

 

 ぼそりとノイジーが呟き、リーファは何の事だと首を傾げて問おうとするが、レコンが砂利を踏んで音を立てて言葉は封じられる。

 

「リーファちゃんの言う通りです。僕たちが優先すべきなのは生存です。その為にも、楔の残滓を発見し、転移機能を解除しましょう」

 

 実績優先だったレコンがリーファの意見を汲んだ発言をしてくれる。援護射撃にリーファは弱気になるなと自分に喝を入れ直す。

 その後、リーファ達は再開した探索によって病院の地下へと続く階段の発見に成功する。どうやら一方通行らしく、地上側からしか開錠できない仕組みになっていた。どうやら特別な鍵が不可欠らしく、あのトレジャーボックスにはこの扉の鍵が入っていたのだろうと予想できた。

 自分達以外のプレイヤーが何処かにいる。それは当たり前であり、だが同時に逃げたくなるほどに恐ろしい。それは普通のステージやダンジョンとは違う、フロンティア・フィールド特有の、プレイヤーの剥き出しの野心と生存本能が露になっているからなのか。

 皆の心は1つではない。『帰還』と『永住』を巡ってプレイヤー間では完全攻略の方向さえ失っている。だからこそ、全員が手を取り合って協力し合うなど夢のまた夢だ。

 だが、情けなかったリーファや戦いを見せたクゥリがそうであるように、負の鎖で縛り上げて団結させることは出来る。全プレイヤーが団結する他の無い『強大な敵』でもいれば、また話は違うのにとリーファは思う。

 

(いっそラスボスが3大ギルドどころか、全プレイヤーが協力しても倒せるかどうかってくらいに強大だったら……)

 

 そんな不謹慎な空想を抱けば現実になってしまいそうだ。リーファは頭を振って頭から嫌な想像を振り払えば、たまたま目のあったクゥリの少し楽しそうにも思える笑みに釘付けになる。

 

「何か面白いものでも見つけましたか?」

 

「急にどうしたんだ?」

 

「なんか楽しそうに笑ってましたから」

 

「……そうか。オレ、笑っていたのか」

 

 クゥリは隠すように自分の口元を右手で撫でると、何でもないと告げるように嘆息する。

 多くを語ることはない。それはクゥリの美徳でもあるとリーファは考える。口下手で、そもそもコミュ障であるのもあるが、彼は言葉の重みを大切にしているようにも思えるからだ。

 

(だからこそ、お兄ちゃんはきっと信じたんだよね)

 

 SAOではサインズのような傭兵の信用の裏書とも呼べる組織は無かったはずだ。それでも、クゥリだけが傭兵として成立できたのは、積み重ねた実績が……決して依頼主を裏切らないというスタンスを貫き続けたからだろう。たとえ、どれだけ裏切られようとも、彼は生き方を変えなかったのだ。それ故に悪名も育まれたならば、およそ狂った因果としか言いようがないものでもあった。

 少しでも踏み込んで接すれば分かる。彼はとても律儀で、たとえ自分にとってどれだけ不利な契約であろうとも結んだならば必ず守る人物だ。些細な口約束であってもだ。

 リーファが秘密には理由があるから無理に暴くべきではないというスタンスに至ったのも、尋ねればSAOや兄に関することは何でも教えてくれたクゥリが、その実は自分の事を全く喋らなかったからだろう。

 

「意外と下りるな」

 

「脇にエレベーターがあったでしょ。本来はそれを利用するんじゃない? 電源が入るとは思えないけどね」

 

 愚痴を漏らすジャイロに、ノイジーは左右の手にそれぞれ斧を装備して警戒を怠らずに先行する。今回はクゥリが最後尾であり、背後からの奇襲を警戒する役目を担っており、彼らに挟まれる陣形でリーファは生唾を飲む。

 自分たちよりも先にこの地に至り、地下に至ったプレイヤーはどうなったのだろうか? ちゃんと生きて帰れたのだろうか? 不安が募るリーファを他所に、本来は明るく照らす電灯に代わって発光性のキノコやコケが暗闇を払う地下世界へと入り込んでいく。

 だが、突如として歩みは止まり、何事かと思えば、階段が途切れていた。立ち止まる皆の元へと向かったリーファは思わず息をのむ。

 地下へと続く階段の断絶の先にあったのは、崩落した地下都市だった。元々は蟻の巣のように入り組んだ構造をしていたのだろうが、植物の侵蝕の影響か、見える広範囲が崩落していた。

 キノコや苔の成分を含んでいるからなのか、溜まった地下水は妖しくエメラルドグリーンに発光している。また地上の大樹の根が幾多と地下空洞を貫き、また絡み合っていた。だが、それらの多くは苔や菌類の侵蝕を受けているようだった。

 澄んだ空気とは言い難い。だが、夏場のゴミ捨て場で漂う腐敗臭とも違う、悪臭に区分できるが何処か癖になる甘ったるいニオイで満ちている。

 

「うわぁ……凄い」

 

 写真撮影するハボックは思わず感動の吐息を漏らす。思わずシャッターを連射する彼女の感激にはリーファも共感した。

 現実世界では決して味わえない、現実世界以上の質感を持った幻想風景。未知に挑む冒険者の醍醐味とはこれなのだと警戒も緊張もこの時ばかりは解いてリーファは堪能してしまう。

 

(いつかお兄ちゃんと一緒に冒険がしたいな。同じ風景を見て、同じ感動を共有したい)

 

 兄と一緒に何にも縛られることなく、自由に、心の思うがままに、何処までも冒険する日々があるならば、リーファは現実世界への帰還さえも諦めてしまうかもしれない。根っこの部分には未知の探索を渇望する冒険者魂があるリーファには、この幻想風景は抗えない魅力に満ちていた。

 

「デバフの蓄積は無し。空気汚染はないようですな。あちらを見てください。崩れた崖際の根を伝えば下まで降りることが――」

 

「撤退しましょう」

 

 崖を下りて地下空間の探索を指示しようとしたメタトロンの発言を遮ったのは、これまで攻略方針には決して口出ししなかったクゥリだった。

 普段の微笑みは失せ、口を真一文字にしたクゥリは片膝をつくと崖際まで群生する菌類を手に取る。綿毛のような胞子をばら撒く姿は、エメラルドグリーンの水の光を乱反射しているかのように、まるで雪の結晶の如く美しく煌く。思わず心を奪われる光景であるが、クゥリは増々と目元を厳しくする。

 

「ここは危険です。装備と戦力を整えてから探索するべきです。楔の残滓があるにしても、このままだとオレ以外の全滅は免れません」

 

「根拠を提示していただきたい」

 

「……勘です」

 

「話にならない。もしかせずとも、他の組織に攻略を先行されているかもしれない今、ここで撤退など……!」

 

「ちょ、待ってください! クゥリさん、ちゃんと説明してください!」

 

 クゥリの直感は馬鹿にならない。リーファは何とかメタトロンを抑え、改めてクゥリに向き直ると最低限の根拠の提示を要求する。

 しばらく悩んだ様子のクゥリだったが、宙を漂う胞子を右手でつかむ。

 

「捕食者には2種類います。獲物を追い求めて自ら動くタイプと狩りに有利なテリトリーを構築するタイプ。ここにいるのは後者です。自分の能力を最大限に活かす方法を心得た捕食者が罠を張って待ち構えています。情報が無い以上、必要となるのは不測の事態に対処できるだけの指揮官と十分な戦力と装備、あるいは何があろうとも突破できる実力。どちらかが不可欠です」

 

「ですから、その根拠を提示していただきたい」

 

「…………」

 

 クゥリは本当に勘で警告しているのだろう。リーファは悟るとここは隊長として判断を下すべきだと心得る。

 ここで撤退して地上に戻るのも1つの選択肢だ。この地下空間に楔の残滓がある保証はない。地上の探索を十分に行って情報収集するのも手段の1つだ。

 だが、その一方でクゥリの直感を無視する事も出来ない。過去の交流で彼の勘の鋭さは幾度となく経験している。リーファは撤退の決断を選択しようとする。

 

(でも、ここで先を越されたら『次』はないかもしれない。それどころか、レコンが頑張って設立してくれた自由開拓戦線も無くなっちゃうかもしれない)

 

 もちろん、リーファ達の失敗1つで<忘れられた樹海の都>の攻略自体が失敗となるわけではない。これまでがそうであったように、犠牲を出してでも探索部隊を派遣し続けるだけだろう。上層部は……裏で糸を引くレコンも含めて、失敗にも備えた策は準備しているはずだ。

 人命最優先。だが、それならば冒険自体をするべきではない。命懸けでなければ進めない道がある。それまで否定するのか? リスクを避けるだけならば誰でも出来ることだ。リーファは苦難の味で頭の中が真っ白になる。

 

「僕はメタトロンさんに賛成です。【渡り鳥】さんの直感が正しいにしても、情報の1つもなく手ぶらで帰るべきではありません」

 

 悩むリーファを……隊長である彼女を差し置いて、隊の方針を巡って話し合いは進む。

 

「ですが、過ぎたリスクを背負うのもまた愚行。修羅場を幾つも潜り抜けた傭兵である彼の勘も無視できません。そこで折衷案はいかがでしょうか? まずは3時間、この地下を探索しましょう。成果の有無にかかわらず、3時間経過したら地上に戻る。あの病院内にはモンスターも出現しませんでしたし、野営ポイントを確保できていない僕たちの今夜の寝床にも最適でしょう」

 

「3時間……順当に行きと帰りに使ったなら6時間後は夕暮れ間近ってところか。俺は賛成だ」

 

「私は反対。3時間なんてあっという間よ。まずは行けるところまで行くべきね。安全地帯じゃない場所で野宿なんて、ここにいる連中なら誰でも経験済みのはず。先を越される前に探索を進めないと……」

 

「私は皆さんの意見に従います。ほら、荷物持ちですから」

 

 ジャイロとノイジーの意見が割れ、戦力としての価値が低いハボックは隊の方針に従う旨を表明する。

 全員の視線がリーファに注がれ、彼女の意見表明が切望される。

 どうする? どうすればいい? 悩み抜いた末に、リーファは震える唇を開いた。

 

「レコンの案でいきましょう」

 

「……了解した」

 

 失望されただろうか。リーファの決断に対してクゥリはそれ以上何も言わなかった。

 

「意外ね。スリップダメージでも発生するのかと思ったら無害だわ」

 

 崖を下り、先陣を切ったノイジーがエメラルドグリーンの発光水に片足を突っ込んで確認を取る。毒々しい色合いから害が生じるかと思っていたリーファは拍子抜けする。

 土は柔らかく、体重をかけ過ぎれば足首まで容易く埋まってしまいそうだ。重量があるレコンはやや苦戦しているようでもあったが、どうにか固い地面を選んで歩みを始める。

 

「先行しないの?」

 

「……距離を取っている間に全滅されたら困りますから」

 

 今までならば、先に進んで危険を確認してくれていたはずのクゥリであったが、ノイジーを後ろに下がらせるだけだった。ハボックの問いに簡潔に答えるクゥリに対して、明確に実力不足を指摘されてか、特に隊内でも戦闘の要を担うノイジーは面白くないようだった。

 配慮が欠けて容赦がない。言葉遣いは丁寧であるが、クゥリの本来の切れ味が露になっているだけだ。彼も少なからずの自覚があるからこそ、言葉を選ぶために口数は少なくなり、また発言を控える傾向があるのだろう。

 

「あたし、間違えちゃったのかな」

 

「そんな事ないよ。リーファちゃんは正しい判断をした。あそこで撤退していたら、もう誰もリーファちゃんに従ってくれなくなる」

 

「でも、皆の安全を考えたら……」

 

「安全って何さ? 僕たちはフロンティア・フィールドにいるんだ。熟睡できる安全地帯なんて何処にもない。それに探索は命懸けなんだ。皆だって死ぬ覚悟は――」

 

「死ぬ覚悟なんて軽々と口にしないでください」

 

 小声で喋っていたつもりだったが聞こえていたのだろう。振り返りもしないクゥリは、足を止めることもなく、感情が宿らない淡々とした声音で告げる。

 

「『死ぬ覚悟』の有無が真に問われるのは、己の生死がかかった瞬間です。『覚悟』がある者だけが死線を越えて前に踏み出ることが許される。自分の命を投げ捨ててでも為すべきことがある時こそ『死ぬ覚悟』は意味を持つ。アナタはこの探索に命をかけられますか? 自分が捨て駒になってでも為す覚悟がありますか?」

 

 いいや、違う。感情の色こそないが、クゥリは微かに感情的になっている。

 怒気は感じない。声音も冷静そのものだ。だが、どろりと濁った、感情の区別がつかない混沌とした何かにリーファは言葉を失う。

 死ぬ覚悟。レコンはその重みを知っている側のはずだ。スローネとの戦いの時、身動きが取れなくなったリーファと兄の為に捨て身で庇ってくれた。彼がいなければ、2人もこの世にはいない。

 

「失礼、言い過ぎました。お詫びします」

 

「いいえ、僕の方こそ失言でした」

 

 レコンも軽率だったと自覚したのだろう。表情を引き締めるだけでそれ以上は何も述べなかった。

 

「元がどんな場所だったか、これだと分からないわね」

 

 ノイジーの指摘の通り、広大な地下空間は木の根と侵蝕されて崩落した地下通路の融合によって、さながら迷宮のようにもなっていた。だが、それはダンジョンとして意図して設計されたものには思えなかった。

 DBOのダンジョンは、いずれも意図してプレイヤーを迷わせ、遠回りさせ、惑わせる構造になっている。また、ショートカットも準備されており、攻略を進めればそれに見合うリターンが得られるように設計されている。茅場の後継者はこの辺りの手抜きを一切していない。

 だが、この地下空間は純粋に自然が作り出した造形のようだった。それはフロンティア・フィールド全体に言えることであり、プレイヤーにとってもモンスターにとっても、有利・不利が環境によって大きく左右されるようになっている。

 

「モンスターが1体も出現しないのも不気味。これだけ如何にもって場所なのに……」

 

 ハボックは写真撮影をしながら、レンズが捕える中に生きた被写体が無いことに言葉を震わせる。モンスターなど出現しないに越したことはないが、あれだけ危険が叫ばれていたフロンティア・フィールドでこれでは拍子抜けを超えて恐怖心を煽られる。

 

「そこなんですが、奇妙ですな。先の探索隊はモンスターによる苛烈な妨害と奇襲を受けたはず。我々が少数行動であること加味しても、ここまでエンカウントしないのはおかしい」

 

 メタトロンも不安とまでいかずとも疑問を抱いているのは同じのようだった。

 何も今回が<忘れられた樹海の都>の初攻略ではない。これまで数度の攻略部隊が派遣された上で、少数の方が隠密性に優れて探索に有利という判断の上でリーファ達に白羽の矢が立ったのだ。レコンの裏工作があったにせよ、リーファが隊長でなくとも少数人数によって構成された部隊を『実験』として派遣することは決定されていたのだ。

 

「フロンティア・フィールドといえば、強力なネームド級モンスター。私も前回の攻略の際には大いに苦しめられました」

 

「そのネームド級なんですけど、実際にネームドに匹敵するんですか?」

 

「……それは個人の感想によるとしか言いようがありません。ですが、体感ではありますが、リポップ型ネームドには十分に匹敵する強さかと。それにフロンティア・フィールドでは徘徊型ネームドも多く、何度となくエンカウントしましたよ」

 

「へぇ、やっぱりフロンティア・フィールドって難易度が桁違いなんですね。私たちで対処しきれるんですか?」

 

「ハボックさん、リポップ型ネームドといってもピンキリでしてね、私の経験から言わせてもらうならば、単体であるならば、能力のあるフルメンバーのパーティ1組でなんとか対処できるものです。もちろん、相手のHPバーの数にもよりますがね」

 

「まぁ、確かに強力な1体よりも雑魚10体の方が危険ってのは往々にあるわよねぇ」

 

 ノイジーの言う通り、強力なモンスター1体より先程のヒューマノイドのように1体の性能は低くても数が揃っている方が厄介な時があるというのはリーファも同意見だった。連携がなくとも数の暴力に対処しきれるものではないのは、アルヴヘイムと地獄のレベリングで経験済みである。

 だが、その一方でプレイヤー側が数の暴力で訴えてもなかなか通じないのもDBOの特徴だ。数は有用であるが、質と戦略が伴わねば強敵相手には通じないものである。

 奇妙な悪臭は微かに濃くなっているが、やはりモンスターも出現することない。群生する菌類は多種多様に見えて、その実は数種しかなく、だが成長性を語るように大きさがまるで異なる。

 もうすぐ3時間が経つ。マッピングは機能しており、帰り道は問題なく辿れる。リーファは何事も無かったことを喜びながらも、同時に成果が無いことに落胆も覚えた。

 

「どわっ!?」

 

 と、そこでジャイロの叫びが響き、一同が破裂するように視線を勢いよく向ける。

 柔らかな土を踏み抜いてしまったのだろう。そこには右足を地面に陥没させたジャイロの姿があった。安心の吐息を漏らしたリーファは手を差し出そうとするが、それより先にジャイロは恥ずかしそうに足を引き抜く。

 

「す、すまねぇな。情けない声、出しちまった」

 

「本当よ。心臓に悪い……った……ら……!」

 

 ジャイロに悪態を吐こうとしたノイジーは何かに気づいたようにジャイロを押しのけると、彼が踏み抜いた、群生した菌類で大きく盛り上がった地面を手で払い除ける。

 それは地面では無かった。ノイジーの手に付着したのは、ジェル状になる程に腐敗した肉だった。

 それだけではない。肉だけではなく骨まで腐っているのかのように、まるで麩菓子のようにボロボロに崩れているが、ノイジーが触れたことで流動した腐肉が露にしたのは、間違いなく人間の頭蓋骨だった。

 

「ひっ……!」

 

 短い悲鳴と共に後退るハボックの肩をジャイロがつかみ、焦りと恐怖が滲んだ表情で生唾を飲む。

 

「こ、これは……オブジェクトではない。まさか……そんな……プレイヤー、なのか?」

 

 ノイジーと並んで遺体を確認したメタトロンは、遺品獲得が出来る事実と共に口を押える。まだ嘔吐は実装されていないお陰で吐瀉物は出なかったが、彼でなくともリーファも胃の内容物を引っ繰り返すような強烈な嘔吐感に襲われる。

 

「ど、どうやら彼らはクラウドアースの融資を受ける有力ギルド【ガロ十字連盟】のようですな」

 

 ガロ十字連盟はフロンティア・フィールド攻略に精力的な活動を行っている有力ギルドの1つだ。ギルド連合である自由開拓戦線やクラウドアースとは違い、複数の中小ギルドが聖剣騎士団の下で統合されている。リーダーのガロは過激な人物であるが、優れた実力を持つ人物だ。クラウドアースはあくまで融資関係としているが、実際にはクラウドアースの勢力としてフロンティア・フィールド攻略における他大ギルドの勢力との代理戦争を担っている。

 

「まさか、この土の盛り上がり……ぜん、ぶ……プレイヤーなんじゃ……」

 

 信じたくない様子のノイジーであるが、リーファはそれ以上の最悪の想像をしてしまった。

 この地下空間の地面はいずれも柔らかい。ジャイロが踏み抜いたのは腐敗途中であったからであるが、もしもこの地面そのものがプレイヤーのみならず生物……たとえばモンスターの死骸で形成されているならば?

 モンスターがまるで出現しない理由。リーファが立てた予測は瞬く間に肉質を持ったように思考を埋めていく。意識の空白地帯が生まれる。

 

「慌てるな! 狼狽えるな! こ、この程度はフロンティア・フィールドでは珍しいことではない。私が参加した以前の攻略の時も……!」

 

 必死に平静を取り繕うとしているメタトロンの背後……苔や発光水などの淡い光を乱反射する胞子の輝きで満たされた空間で『揺らぎ』が生じる。リーファの優れたVR適性由来の優れた視覚は、その細かな変化を逃さず捉えてしまう。

 

 思い出したのはクゥリの警告だった。

 

 捕食者には2種類いる。獲物を追い求めて移動するタイプと自らのテリトリーを形成するタイプだ。

 

 地下空間に潜むのは後者だとクゥリは指摘した。獲物が罠に嵌まるまで、ジッと待ち続ける……動く時には確実に狩れる時だ。

 

 気づいた時にはもう遅い。揺らぎは高速で接近し、突風をリーファ達に叩き付ける。

 

 否、正確に言えば、リーファはクゥリの両腕で抱き上げられ、跳んだ彼の腕の中で前髪を風で揺らすだけだった。

 

「……来たか」

 

 無念さもなく、淡々と事実を噛み締めるように、木の根に着地したクゥリは、突風で巻き上げられた胞子が薄らぐ中に立つ人影を見つめる。

 いいや、それを『人型』と呼ぶべきかどうかは悩ましいだろう。なにせ、人体の右半分しかないからだ。頭部から縦に裂かれ、失われた左半分を求めるように片足立ちしたメタトロンは、自分に何が起きたか分からない様子のままHPをゼロまで減らし、断面から血と臓物を散らしながら倒れる。

 

「いやぁあああああああああああああ!?」

 

 幸いにも、あるいは最悪にもファーストアタックの犠牲者はメタトロンのみ。だが、メタトロンの血を真正面から浴びる立ち位置だったハボックは狂乱して駆け出していく。

 

「ハボック!? 糞、一体何が起きて……ぬわぁ!?」

 

 先の攻撃がトリガーとなったのか、地面が傾いて流動し、ノイジーはバランスを崩して地下の暗闇に流されていく。

 

「チクショウ! 足が……!」

 

「レコン! 今……今、助けに――」

 

「駄目だ。奴は『それ』を狙ってる。リーファちゃんはここから動くな」

 

 レコンを助けようと木の根から跳び下りようとしたリーファは、だがクゥリに制され、土砂崩れのように流れていく地面を見つめるしか出来なかった。レコン、ハボック、ノイジーの4人は、傾き滑る地面によって更なる地下へと消える。

 

「何が……何が起きてるんだぁああああ!?」

 

 何とか木の根に捕まり、流れる地面に巻き込まれなかったジャイロであるが、彼の背後の空中にまた『揺らぎ』が生じる。

 助けないと! リーファは木の根をどう伝っていけば最速でジャイロの元にたどり着けるかルート構築をするが、それより先にクゥリが動く。

 宙へと身を躍らせたかと思えば、袖より射出された投げナイフを別の木の根に突き刺し、それをアンカーにして繋がったワイヤーを引き込むことによって空中移動する。振り子のように身を揺らして勢いをつけ、ワイヤーの切断と共にジャイロの背後から襲い掛かる『揺らぎ』を迎撃する。

 強烈な金属音が響き、クゥリは抜刀したカタナを振るいながら空中で姿勢制御して別の木の根に着地する。

 

「なるほど。そういうカラクリでしたか」

 

 謎の襲撃者。それは全身を黒い金属質の鱗に覆われたドラゴンだった。サイズは8メートル前後であり、四肢に備わった爪に至るまで漆黒だ。だが、背中から生えた翼は異様であり、まるで刀剣のように鋭く鋭利であり、網目模様の半透明な姿は昆虫の翅に近しいイメージを与える。

 鱗は光を吸収する性質を持つのか、地下の暗闇に溶け込める。だが、それだけではあの巨体が動くならば必ず誰かが気づく。接近を気づかせない静音性以外の隠密能力を支えているのは、全身に纏わりついた胞子だ。鱗には微細な凹凸があり、そこで胞子を吸着させているのだ。

 光を乱反射する性質を持った胞子を纏うことによって、暗闇の中で動く『完全なる黒』を違和感なく更に溶け込ませていたのだ。

 環境を利用した狩り。この異質の地下空間に適応したモンスターが頂くのはネームドの証である名称表示だ。

 

「<斬鉄翼のバム=ルーク>。ドラゴン……ドラゴンか」

 

 HPバーの数は2本。だが、リーファはそのネームドに違和感を覚える。フロンティア・フィールド特有なのか、ネームドのHPバーのデザインが通常とはやや異なるのだ。

 ほんの些細な違いであるが、どうしても見逃すことが出来ない。だが、今は崩落に巻き込まれたレコンたちや難を逃れたジャイロの救出が最優先だ。どうやらダメージを負っているらしく、自力で動ける様子はない。

 セカンド・アタックをクゥリに妨害され、滞空するバム=ルークは警戒するようにクゥリを白目が無い黒真珠のような目で睨んでいるようだった。その内にリーファは木の根を跳び移ってジャイロの元まで向かう。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「右腕と右足を……抉られちまった。それよりも、メタトロンは……それに他の連中は……!?」

 

「死人や逸れた人たちのことではなく、今は自分の生存を最優先してください。正直に申し上げまして、ここは奴にとって完全有利な狩り場。オレではアナタ達を守り切れません。余計なことは考えず、今は遠くで隠れていてもらえると喜ばしいのですが」

 

 アナタ『達』? 自分も戦おうと剣を抜いていたリーファは、クゥリからの戦力外通告に奥歯を噛む。

 

「クゥリさん! あたしも戦え――」

 

「邪魔だ。手を出すな。彼の治療を最優先しろ」

 

 普段の温かみのある声音ではなく、完全なる拒絶の冷たき一言と同時にクゥリが跳ぶ。恐るべきスピードで、リーファの目でギリギリ追いきれる程に、上から伸びて絡み合っている木の根を足場にして跳び回る。

 常に飛行するバム=ルークとは、不安定な地面では戦えない。ならば数少ない木の根を足場にして戦うのは正解だ。だが、バム=ルークはそんなのお見通しだあとばかりに、鋭利な翼を煌かせて高速飛行する。それだけで木の根は次々と切断されて落下していき、瞬く間にクゥリの足場は失われる。

 だが、クゥリはワイヤー付き投げナイフを、残された木の根や地下空間の基礎となった侵蝕崩壊した人工物へと突き刺す。ワイヤーを用いた高速移動によって、空中を自在に舞うバム=ルーク相手に空中戦を仕掛ける。

 

「な、なんだ、ありゃ……!?」

 

 ジャイロが言葉を失うのも仕方がない。なにせ、足で地面に立って戦うのが基本のDBOであるはずなのに、クゥリはまるで元からあるゲームシステムであるように、ワイヤーアクションを利用して平然とバム=ルークの斬翼と切り結んでいるからだ。

 

「止血包帯……良し! 奇跡で回復します! 再生はできないけど、ダメージフィードバックは楽になるはずですから!」

 

「あ、ありがとう。面目ない」

 

「お礼はいいですよ。あたし達……仲間じゃないですか」

 

「仲間……仲間……そうか。アンタ、最初から……それなのに、俺は勝手に……」

 

 ジャイロを背負い、戦いに巻き込まれない物陰に隠したリーファは、そのまま戦場へと舞い戻る。

 ワイヤーアクションで戦うにはバム=ルークの動きが良過ぎる。翼で動いているとは思えない程の華麗な3次元運動を見せ、クゥリの攻撃を斬翼で的確に迎撃している。それだけではない。クゥリはワイヤーを使って宙を移動しなければならない性質を正確に見抜き、翼でワイヤーを軽々と切断して彼の動きを制限する。

 ALOで空中戦を嗜んでいたリーファだから断言できる。ワイヤーアクションだけでは完全なる3次元運動には勝てない。

 

(あたしのデーモン化なら何とかなるかもしれない!)

 

 このままではクゥリが負けるのも時間の問題だ。だが、リーファならば助けられる。彼女のデーモン化はフェアリー型であり、常時飛行は不可能であるが、ある程度の空中戦ならば可能とする。バム=ルークと相対するには能力不足ではあるが、クゥリのワイヤーアクションよりも勝ち目は見えるはずだ。

 本来、デーモン化は大ギルドや傭兵を除けば習得方法が秘匿されている。それはデーモン化がプレイヤーの暴走……モンスター化をもたらすリスクがあるからだ。だが、リーファはチェンジリングの補償で得た攻略本によってデーモン化を会得している。レコンも同様だ。

 

「クゥリさん! あたしが援護します!」

 

「来るな」

 

 普段の微笑みもなく、まるで蜘蛛のように無機質な殺意に浸された右目で睨まれ、一瞬だけ委縮したリーファであるが、彼に任せきることは出来ないとデーモン化の発動に取り掛かる。

 だが、バム=ルークの黒真珠の双眸がデーモン化を発動させようとしたリーファを射抜いたかと思えば、強烈な咆哮が響く。まるで空間が震えるような高音の咆哮は、ガラスを引っ掻いたかのような鼓膜を揺さぶるものであり、リーファは耐えられずに両手で耳を塞いでしまう。

 衝撃やスタンに依存しない、咆哮という五感に訴えかけて動きを阻害する攻撃……! まさかのバム=ルークの攻撃によって足をとめてしまったリーファが見たのは、全身に貼り付いた胞子をパージし、鱗の凹凸を隆起させる漆黒の竜の姿だった。

 バム=ルークの羽ばたきによって放出されたのは緑色のガスだった。それは雪崩のようにリーファを呑み込んだかと思えば、今までになく濃厚な甘い悪臭が鼻孔を支配する。

 同時にリーファは肌に生じた熱に目を剥いた。ガスを浴びたことにより、皮膚の1部が爛れたように……いいや、『腐った』ように変じたのだ。

 これがバム=ルークの能力! ガスによる広範囲攻撃とビジュアル変化による精神ダメージか。だが、アルヴヘイムと地獄のレベリングを経たリーファはこの程度で動揺しない。このガス攻撃は広範囲と滞留がメインらしく、ダメージは微々たるものだ。瀕死状態ならば危ういかもしれないが、そうでもないならば脅威にはならない。

 だが、リーファの推測は1秒と待たずして覆される。ガスの影響を受けて腐敗した部位に、戦闘の影響によって……何よりもバム=ルークが巻き起こす突風によって舞い上がった胞子は、リーファの腐敗部位に付着すると同時に急速に成長し、瞬く間に彼女の血肉へと根を張った。

 生じたのは今まで経験したことがない、肉を生きたままじわじわと『喰われる』ようなダメージフィードバックだった。

 

「ぐ、ぐぎぃあぁあああああああああああ!?」

 

 思わず漏れた悲鳴。その分だけガスと胞子を吸い込み、気道と肺もまた菌類の侵蝕を受ける。ダメージフィードバックに相応しいだけのダメージも生じ、リーファは立っていられずに両膝をつく。

 この地下空間に群生する菌類……特に綿状の胞子を付ける種は、腐肉を苗床にして急速成長する特徴があるのだろう。バム=ルークはそれを利用し、腐敗ガスの殺傷力を高めているのだ。

 ここはバム=ルークの狩り場。胞子を利用した隠密性向上など序の口だ。環境を利用し、自身の優位性を築く様は、明確な設計思想に基づいたAIとは違い、まるで野生動物が環境を学び取って狩りに流用したかのような生々しさがあった。

 ダメージは確かに大きい。今の侵蝕でHPを4割も削られてしまった。だが、侵蝕後の継続ダメージは微少である。また防具に守られた部位は腐敗ガスの影響を受けておらず、これ以上の菌類の侵蝕も無いだろう。

 上手く呼吸が出来ない。リーファは喘ぎながら、腐敗ガスの範囲外に脱しようとして、だが背筋に死の悪寒を覚える。振り返れば、バム=ルークは口内で青く渦巻く気流を溜め込んでいた。

 放たれたのは球体状に固められた青いガスだった。腐敗ガスの影響で逃げきれなかったリーファは青いガスを浴びる。

 だが、ダメージも無ければ、皮膚の腐敗が酷くなることもない。何も無い事に驚いたのも束の間、リーファの防具は瞬く間に腐り始める。

 緑の腐敗ガスと同様に滞留する青いガスから逃げるべく走ろうとするも、気道と肺を侵す菌類のせいで呼吸もまともに出来ず、走れなかったリーファは、防具の腐敗によって肌の露出面積が増えた原因をシステムウインドウを開いて探る。

 防具の耐久度の減少はない。だが、防具のアイコンは赤く激しく点滅しており、『腐敗状態』という警告メッセージが付与されていた。

 これが青いガスの効果なのだ。耐久度を削るのではなく、まるでデバフのように、防具を腐敗状態に変化させてしまうのである。解除されれば防具が元に戻るのかは不明であるが、何にしても現状では防御力が半減し、なおかつ緑のガスから身を守れる体面積は大幅に減ってしまった。

 緑のガスと菌類の連携、青いガスによる緑のガスの効果拡大と防御力低下。本体はステルス性を持ち、高い火力を持つ斬翼で防御力を落としたところを一撃必殺を狙う。

 狩り場。その名の通り、ここはバム=ルークが作り上げた必殺の狩り場なのだ。バム=ルーク自体はネームドとしての脅威はどの程度なのか不明であるが、自分に適した環境で戦うことで能力を何倍にも引き上げているのだ。

 何が3時間だけだ。リーファは己の選択ミスを呪う。あらゆる苦境を単身で突破する傭兵……その中でもSAOから戦い続けた古強者であるクゥリの警告だ。根拠のない勘とはいえ、彼の傭兵として活躍した『実績』は揺るぎ無いものだ。普段は攻略方針に口を出さないクゥリが警告した時点で、その重みをより確かに受け取るべきだったのだ。

 隊長として、自分の判断ミスが招いた窮地だ。いいや、もはや手遅れだ。メタトロンは死んでしまった。自分よりもずっと指揮官として皆を導く才覚と経験があったはずなのに、呆気なく死んでしまった。

 クゥリと親しい自分こそが彼の意見を押し通すべきだったのだ。そうすれば、こんな事にはならなかった。

 メタトロンは死ななかった。レコンたちを危機に追いやることも無かった。こうして、自分が死に瀕することもなかった。

 防御力が激減したリーファにバム=ルークが急降下攻撃を仕掛ける。だが、ワイヤーアクションで強襲したクゥリの斬撃を捌く為に方向転換を余儀なくされる。

 激しい火花が散り、バム=ルークの連撃がワイヤーを切り裂き、また空中で踏ん張れないクゥリを吹き飛ばす。地上の苔生した瓦礫地帯に激突したクゥリが土煙と胞子の海に飲まれるのを見て、リーファは己の弱さを噛み締める。

 クゥリは来るなと言った。足手纏いであると。全くのその通りではないか。バム=ルークはただのネームドではない。いいや、正確に言えば、リーファ達がまんまと自ら罠に嵌まったせいで、本来よりも何倍も凶悪になっている。

 バム=ルークが緑のガスを放出する。咳き込みながら走るも、まともに呼吸もできないせいでスピードは落ち、リーファの右足の脹脛が緑のガスに触れ、腐敗し、瞬く間に胞子の侵蝕を受ける。

 これでもう走れない。腐敗ガスによってブヨブヨになった肉と脆くなった骨、そこに菌類の侵蝕が合わさることで、アバターの崩壊を促進しているのだ。自重をかけるだけで自己崩壊してしまいそうである。

 

「あたしは……諦め……ない!」

 

 そう口にするも、リーファが隊長として正しい判断を下せていればこんな事にはならなかった。

 メタトロンが死ぬこともなかった。レコンたちが窮地に追いやられることもなかった。リーファの責任だ。

 罪悪感が思考力を低迷させ、それがリーファの足を止めそうになる。だが、それでも彼女は無理に踏ん張って走ろうとするが、負荷によって腐敗と侵蝕によって脆弱化した右足の脹脛が潰れて転倒する。

 バム=ルークがトドメの緑のガスを放出しようとしている。片足のリーファにはもう抗う術など無い。せめてHPを回復して堪えようとするも、侵蝕の影響で指はまともに動かず、奇跡すらも発動できない。

 嫌だ。死にたくない。生きたい! リーファが瞼を強く閉ざした瞬間に、彼女の体は勢いよく宙を浮く。

 投げ飛ばされたからだ。目を開いたリーファが見たのは、夥しい血痕を地面にこびり付け、走ることなど困難な体で駆けつけてくれたジャイロの姿だった。

 

「アンタは……生きろ。生きないと……いけない。この世界は……アンタみたいな人が……必要なんだ。きっとな」

 

「ジャイロさん……!」

 

「アンタを信じられなくて……ごめんな……アンタは俺達の為に……必死に……それなのに、俺は……アンタを疑って……」

 

 今にも緑のガスに呑まれるジャイロの謝罪が全て聞こえることはなかった。放物線を描いたリーファは斜面に激突して転げ落ちていく。その拍子に脆弱化していた右腕は肘からあらぬ方向に曲がる。

 エメラルドグリーンの発光水の傍で倒れ伏したリーファが次に耳にしたのは、地獄の責め苦を味わうようなジャイロの絶叫だった。

 あたしは何をやっているのだ? リーファは頬を涙で濡らし、生にしがみつくべく必死に呼吸を繰り返す。

 立つ為の足は潰れ、戦う為の腕は折れた。今のリーファに出来ることは何もない。

 悔しくて、自分が愚かしくて、情けなくて、何よりも死んだ2人が哀れで、リーファは子どものように嗚咽を漏らした。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「やってくれたな」

 

 瓦礫と地面を押し飛ばした時には遅かった。リーファちゃんはどうやら無事のようだが、彼女を助けたのだろうジャイロは、あの緑の腐敗ガスをまともに浴びてしまった。

 リーファちゃんの状態から察するに、青いガスは防具を、緑のガスは肉体を、それぞれ腐敗させる作用があるようだ。ジャイロは防具こそ無事であるが、傷口の断面をまともに侵蝕を受けてしまい、右腕と右足はほぼ菌類に支配されている。首や顔も同様であり、ほぼ体面積の半分近くを奪われていた。

 まともに動ける様子もなく、自己回復は不可能。HP残量からして、あと長くても十数秒の命だろう。近寄って回復アイテムを使用するにしても、バム=ルークはオレにもガス攻撃を仕掛けており、これでは彼を巻き込むことになる。

 1秒でも早い死を望むように、ジャイロは身を痙攣させている。もう自分が助からないと分かり、だからこそ死を恐れ、同時に終わりを渇望している。

 

「……リーファちゃんを助けてくれてありがとう」

 

 アナタは『死ぬ覚悟』を示してリーファちゃんを助けた。尊き『人』の輝きで彼女の命を救った。

 今からではどう足掻いても助けられない。だが、その輝かしい『人』に報いる為にも、アナタの恐怖と苦しみを終わらせよう。

 緑のガスを跳んで避けながら、空中で狙いをつけてイジェン鋼の大剣を全力で投げる。腐敗と侵蝕で脆弱化していたジャイロの頭部は命中と共に潰れ、確実な絶命をもたらす。

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 リーファちゃんはジャイロのお陰でまだ無事のはずだ。だが、このまま戦いが長引けばガスに巻き込まれる危険性がある。

 さて、どうしたものか。受け身も取れずに背中から激突したせいでHPも奪われたが、咄嗟の防性侵蝕でダメージは最小限に抑えることはできたが、ここからバム=ルークを狩るのは少し骨が折れる。

 ワイヤーアクションではあの動きに対応するには難がある。バム=ルークの動きは翼によるものだけではなく、全身から細やかに放出する無色のガスによる補助もあってのことだ。あれが驚異的な3次元運動を支えている。

 贄姫でも裂けない斬翼とドラゴン特有の堅牢な鱗か。まったく、フロンティア・フィールドにドラゴン……ドラゴンねぇ。色々と調べねばならないことが増えたが、それよりもドラゴンとはどうしてこうも厄介なのだ? 破壊特化のミディールに比べれば可愛いものだが、ドラゴンなのに搦め手使いとかふざけてるのか? そもそもオレはドラゴン相手など専門外だ。『アイツ』やユージーンを連れて来い。

 

(やっぱりミディールが必要だったわね。周囲の被害なんて気にする必要ないじゃない。どうせこうなるのは目に見えていたのに。アナタの戦いに仲間なんて要らないもの。ワタシだけがいればいいのよ。挙句にらしくもないくらいに焦って、導きの糸と狩人の予測外の動きをして傷を負うなんてね)

 

 はいはい、受け身を取れなかったのは悪かったよ。へそを曲げないでくれ、ヤツメ様。防性侵蝕でリカバリーしたから問題ないだろう?

 それにこういう戦いも趣があっていい。ワイヤー付きナイフを用いた空中戦も実用範囲内だ。これも蜘蛛姫のソウルを組み込んだお陰だな。

 白夜の狩装束に使用された蜘蛛姫のソウルによる恩恵の1つは『ワイヤーの無限精製機能』だ。これをナイフホルダーと組み合わせることによって、ワイヤーを無限精製することが可能となっている。強度は高純度蜘蛛糸鋼製に匹敵する。まぁ、純粋な蜘蛛糸鋼を用いた死神の剣槍のワイヤーには大きく劣るがな。

 他にもこの蜘蛛姫ワイヤーには面白い点が幾つかあるのだが、バム=ルーク相手では素の強度に不足があるようだ。メタトロンの死体から見るに、奴の斬翼の破壊力は尋常ではないからな。逆に耐えられた方が異常だから結果に不服はない。

 ここからバム=ルークを狩る方法は幾つかあるが、時間はかけられない。情報収集は済み、狩り方は見えた。

 

「バム=ルーク、腐敗の寝床の支配者よ。アナタの狩りに敬意を表しましょう」

 

 実に素晴らしい。バム=ルーク自身はせいぜいがガスを用いた3次元機動とガスの特性が強みだったはずだ。だが、環境に適合して……いいや、この周辺の菌類と共生関係を築くことによって、環境を自らの狩りに適したものへと変質させ、恐るべき成長を遂げたといったところか。これがフロンティア・フィールドのネームドの特性なのかは不明だ。

 だが、こうでなくてはな。狩るか狩られるか。シンプルで分かりやすい。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 迷い込んだ獲物をいつもと同じ手順で仕留める。バム=ルークにとって、この地下環境は時間をかけて作り上げた狩り場だった。

 この狩り場ならば誰が相手だろうと負けない。バム=ルークの自信は揺らぎないものであったが、同時に大きな不安があった。

 もしも『奴』が攻め込んできたならば、この狩り場でも不十分なのではないだろうか?

 より強大な力を手にできなければ、いずれ狩られるのは自分だ。盤石の狩り場とはいえ、常に不測の事態は生じる。

 だからこそ、今回の獲物は喜ばしかった。人間……奇妙なソウルを有する獲物だ。殺せば今までになく自分のソウルが高まるのを感じた。より多く殺せば、『また』大きな成長を遂げることができる。

 前回の集団は実に狩りやすかった。右往左往するばかりであり、奇襲をかける自分にまるで対応できなかった。人間とは質の高く脆弱な獲物としてバム=ルークは認識した。

 他にも特別な獲物を狩り場に引き込んだ。仕留め切れなかったが、十分に傷を負わせた。この狩り場から逃げ出せるはずもなく、いずれは確実に狩れる。じっくりと時間をかけていけばいい。あの獲物を仕留めれば、自分が特段に強くなれるという確証もあった。

 そこに現れた新たな獲物の人間。特別な獲物を前に、さっさと仕留めておこうとバム=ルークはいつもと同じように奇襲をかけた。

 最初の1人は奇麗に真っ二つに裂けた。1人は腕と足を傷つけた。腐肉を集めて菌類を群生させた、元々は急斜面だった地面を崩落させて立て直される前に分断も成功した。

 前回の人間の集団よりも個々の質は高いと感じるソウルからバム=ルークは喜んだ。彼らを倒せば、次なる成長に続く階段を一気に駆け上がれるのではないかと期待感を膨らませた。

 この狩り場では自分こそが支配者だ。だが、バム=ルークは獲物の中に異端が混じっていることに勘付いた。

 狩り場を荒らす者。『奴』と同類だ。『捕食者』であり、全力を尽くさねば狩られるのはこちらの方だとバム=ルークは慎重に立ち回った。

 奇妙な武器で空中を舞う自分に攻撃を仕掛けてきたのは驚いたが、バム=ルークは冷静だった。この獲物は……いいや、狩り場を荒らしに来た白き捕食者には、油断や焦りを見せてはならない。ここぞというタイミングまで待たねばならない。

 若い娘は戦闘不能に追い込み、手負いの男は絶命の寸前まで追い込んだ。分断させた他の輩は地下の奥底であり、すぐに這い上がって来ることはできない。若い娘を守ろうとした『捕食者』にもダメージを与えることができた。バム=ルークは順調であると判断しながらも、慢心しなかった。

 自分の能力をフルに活用し、じわじわと追い詰める。共生関係にある菌類との連携によって確実な死をもたらす。バム=ルークは全身から微細に放出するガスを用いることで、まるで空中で踊るように飛び回る。

 バム=ルークの武器は少ない。四肢は短く、陸戦に適していない。牙も数こそ多いが、鋭さに欠けて丸みを帯びている。近接戦の全殺傷能力を翼に結集させてある。極限まで研がれた斬翼が最高速度に達すれば、『奴』とて危ういだろうという確信があった。

 焦るな。自分は長く飛べる。余力を残している。まずはガスを浴びせて腐敗させるのだ。バム=ルークは苔と茸の光が星々のように輝く地下の闇を飛び、どうしようもなく恐怖を覚えずにはいられない白き捕食者の隙を伺う。

 あの若い娘を庇う動きを見せた。利用するべきだろうか? バム=ルークは悩むが、白き捕食者は先に動く。

 まただ。ナイフを投げ、接続したワイヤーを用いて空中戦を仕掛けてくる。最初こそ驚いたが、空中戦はこちらの土俵だ。バム=ルークは今までと同じようにワイヤーの切断をして動きの自由を奪う。それで仕留めきれない所がこの白き捕食者の恐ろしいところである。

 緑のガスを用いる為には溜めの動作が必要であり、また空気より重い。地上にいるならば空中から使用すれば当てやすいが、空中を動き回る白き捕食者には当て難い。口内から放つ青のガスは速度に劣り、同じく狙って命中させるのは困難だ。

 バム=ルークはガスを放出させる為に、また斬翼を成長させる為に、他のドラゴンに比べても鱗が脆い。隙を見せれば、バム=ルークは撃墜される恐れもあった。地上戦では勝ち目がないことを熟知しているバム=ルークは、ここで油断すれば負けるのは自分だと平静を保つ。

 白の捕食者は次々とナイフを投げる。騙されるな。ワイヤーが繋がっているナイフだけを見極めろ。そうすれば次の動きが予測できる。

 ワイヤーを切断し、空中で体勢を崩す一瞬を見出し、バム=ルークは勝負をかける。胴体を両断する勢いで、全身の鱗からガスを放出して加速すると斬翼を広げる。

 外れた。交差する瞬間に白き捕食者の姿が消えた。またワイヤー付きナイフで移動されたか。だが、バム=ルークは焦らない。次のチャンスを拾えばいい。人間の武器には限りがあることをバム=ルークは知っていた。あのナイフが尽きた時こそが白き捕食者の最期だ。地を這うしかできなくなったならば、後は緑のガスで腐敗させればいいだけなのだから。

 だが、バム=ルークを上空から衝撃が襲う。脆い鱗に傷が刻まれ、姿勢制御を失いかけたバム=ルークであるが、墜落寸前で何とか大きく翼を羽ばたかせて舞い上がる。

 何が起きた? まさか『奴』の襲撃か? それとも白き捕食者の仲間か? 黒真珠のような両目を忙しなく動かすが、バム=ルークは何も捉えられない。

 そう、白き捕食者の影すらもない。ワイヤー付きナイフで動く限り、バム=ルークの目から逃れることは出来ないはずだ。

 

「やはり鱗が脆い。ガスを放出する特性を得た為でしょうか?」

 

 そして、死神の囁きが甘く、優しく、蕩けるように、バム=ルークを浸す。

 首を狙った斬撃が入り、バム=ルークは悲鳴にも似た咆哮を上げる。バム=ルークが持つ特殊な咆哮は周囲を吹き飛ばす効果があった。前に来た人間の集団は≪ハウリング≫と呼んでいたが、バム=ルークは名前など気にしていない。

 危うかった。咆哮で吹き飛ばさねば、今度こそ撃墜されるところだった。バム=ルークは受けた傷の深さに微かな焦りを抱き、それこそが危険であると自らを戒め、だが時は遅く、もはや間に合わなかった。

 焦りが表面化すれば隙を生む。焦りは内側で消化すべきものである。特殊な咆哮を使った時点でバム=ルークは狩る者から狩られる者へと堕ちていた。

 ようやく見えた。それは赤い光の残滓だ。熱を帯びた火の粉のような輝きだ。

 

 人間には翼がない。だから空を飛ぶことは出来ない。

 

 ならばこそ、人間は翼を求める。空を自由に舞う手段を欲する。

 

 だが、白き捕食者は空中を、文字通り『駆ける』。

 

 一瞬だけであるが、白き捕食者の足下に生じるのは、火の粉が散る赤い蜘蛛の巣の紋様。それは足場として機能し、白き捕食者はステップを用いた空中機動を可能としていた。

 飛ぶ翼を持たぬならば、その足で空中を歩む手段を得ればいい。そう言わんばかりの白き捕食者の微笑みと同時に、バム=ルークの斬翼を軽々と潜り抜け、額から尾にかけてカタナの深き一閃が入り込む。

 今度こそ撃墜され、腐肉の絨毯にその身を叩きつけたバム=ルークは血反吐を垂らしながら牙を剥く。対して白き捕食者はバム=ルークを見下ろすように、苔生した人工物の上にふわりと着地した。

 

「白夜の狩装束、【天蜘蛛】」

 

 白き捕食者が口にしたのは、先の能力の名前か。バム=ルークは再び飛ばねば狩られると翼を動かそうとするが、ステップを用いた高速移動で、バム=ルークの目を欺いて迫られ、喉に刃が侵入する。

 速過ぎるだけではない。こちらの目を幻惑する独特の動きをする。尾を振り回して牽制をかけ、周囲に緑のガスを放出させて近寄らせまいとしたバム=ルークは再び空へと舞い上がる。

 だが、十分な高度を得られるより前に再び白き捕食者が迫る。大きく跳んで自分に直進してくる白き捕食者に、バム=ルークは青いガスを吐きかけようとするが、白き捕食者の動きは空中で『曲がる』。

 まただ。あの蜘蛛の巣の紋様が浮かび、空中でステップを踏んで軌道を変化させているのだ。

 高速で3回。まさしく目にも留まらぬ速度で、『足』で背後を取られたことにバム=ルークは驚愕する。

 振り返る間際に繰り出されたのは居合。間合い外であり、刃は届かぬはずであるが、放たれたのは緋色の血刃であり、刀身以上の間合いでバム=ルークの首を刻む。

 

「抜刀、血刃長刀」

 

 自由落下に任せず、蜘蛛の巣紋様を足場を用いて跳んで急降下してきた白き捕食者は、無様に背中から墜落したバム=ルークの腹へと刃を突き立てる。それはカタナに纏わりついた緋血の刃であり、刀身は白き捕食者の身の丈にも達する程に伸びていた。また、先の流麗で斬り裂く刃であったカタナとは違い、削り斬る、まるで獣の牙が並ぶような荒々しい鋸状の刃だった。

 腹に突き刺さった血刃長刀が臓物を醜く抉り、バム=ルークは悲鳴を上げる。そして、黒真珠の眼が目にする。

 

 

 

 

 まるで悲鳴に浴して歓喜するような、血に飢えた『獣』の笑みを見る。

 

 

 

 

 鋸状の刃が急速に動き始める。それは通常の刃とは異なる性質を持ち、まさしく削り、抉り、裂く。腹から喉、そして頭部に至るまでの一撃はまるで踊るようでありながら、だが同時に暴虐に満ちた獣の爪が振るわれたかのような荒々しさを矛盾させながら一体化させていた。

 まだだ。まだ戦える。バム=ルークは起き上がろうとするが、全身に裂傷が生じて血が噴き出す。

 何が起きた? バム=ルークは理解できなかったが、何かしらの毒によって体内から血が噴き出す自壊が生じたのだと把握した。

 

「ようやく1本。鱗が脆いとはいえ、やはりドラゴン。なかなかにタフですね。ですが、アナタのような大物を狩るのに血刃長刀はやはり適している」

 

 身の丈に達する血刃長刀を両手で構えた白き捕食者の連撃が喰らい付く寸前に、バム=ルークは大きく舞い上がる。

 まずは高度を稼げ。あの蜘蛛の紋様の性質は分かった。発動後、白き捕食者は『1歩』しか動かない。恐らく、それ以上は足場として機能しないのだ。たった1歩分だけの足場なのだ。本来ならば、それだけではほとんど意味をなさないはずが、驚異的な体幹制御と独特のステップを用いた高速移動術が合わさることによって凶悪な能力へと変化している。また連続発動にも限界があるはずだ。そうでなければ、連発してより惑わし、また全方位から連撃を仕掛けてこれたはずである。

 1歩しか足場として機能しない性質と空中で使用できる連続回数の制限。この2つを見極めない内に戦うのは愚の骨頂だ。加えて、あの白き捕食者はまだ爪牙を隠している。バム=ルークにまだ能力があると踏んで隠しているだけだ。

 あの白き捕食者には最初の奇襲も通じなかった。1人だけ対応しきった。こちらの存在を感知していたのだ。

 勝てない。ならば撤退あるのみ。今は『まだ』勝てない。もっと成長してからだ。バム=ルークに悔しさや敗北感はない。生き残る為に退くのは当然の判断だった。

 白き捕食者は追わなかった。単純な速度では空を飛べるバム=ルークが勝っていたからか、それとも逃げる背中を攻撃する気はないからか。尻尾を巻いて逃げるバム=ルークが振り返っても追撃の気配はなかった。

 傷が深い。まずは身を休めねばならない。絡み合った木の根と腐肉を組み合わせた寝床に戻ったバム=ルークは丸くなった。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 血刃長刀、解除。贄姫を覆っていたパラサイト・イヴの緋血を散らして納刀する。

 やはりドラゴンなどの大型を相手にするならば、血刃長刀の方が適しているな。カタナ特有のクリティカルダメージが落ち、スタミナ消費も増えるが、純粋な火力増強はやはり大きい。血質属性ダメージも伸びるし、落ちたクリティカルダメージ分は≪暗器≫の性質で十分に補える。以前の贄姫とは違い、纏う緋血を凝縮させることで居合には繋げられるとはいえ、やはり時間がかかる制約こそあるがな。

 バム=ルークは逃がしてしまったが、あれだけ痛めつけたのだ。回復するまでは襲ってこないだろうし、とりあえずは大丈夫だろう。追えないこともなかったのだが、リーファちゃんを放置するわけにはいかないからな。

 それにオレもまだ天蜘蛛を完全に我が物に出来ていない。とりあえず取り繕ってみたが、落第点だ。まるで活かしきれなかった。

 蜘蛛姫のソウルで得た能力その2、天蜘蛛。空中で赤熱したような蜘蛛の巣の如き紋様を足下に生じさせ、瞬間的な足場として利用できるというものだ。1歩分でも動くか、あるいは止まろうとすれば即座に消滅する性質を持つ。だが、要は使い方だ。いわゆる2段ジャンプは可能だし、空中で即座に足場を作れるので空中ステップを使うことで、これまでは回避困難だった浮いた状態を狙われた攻撃の回避も容易になった。攻撃に転用すれば、地上に捕らわれることなく、より自由な3次元的な動きで敵を攻撃することもできる。

 連続使用すればするほどに魔力の消費量が増加し、特に6回を超えると消費量が桁違いに伸びる。故に6連が実用範囲内だろう。そこは蜘蛛の足の数に合わせて8回まであれば名称にも相応しかったのだが、こればかりは仕方ない。別に6回以上使えないってわけじゃないしな。

 たった1歩。されど1歩。オレの戦闘スタイルに合わせた、グリムロックらしからぬ調整が施された能力だ。

 

(いいわ。これ、やっぱり凄くいいわ♪ 狩りの幅が一気に広がったわね)

 

 喜べ、グリムロック。ヤツメ様も大満足だ。やはり殺傷能力だけを追求するのは狩りの道ではないな。

 

「さてと……」

 

 イジェン鋼の大剣を回収し、体の半分……とまではいかないが、それなりの範囲を菌類の苗床となってしまったリーファちゃんが蹲っている水辺に向かう。オレが接近しても気づく様子はない。気絶……とは少し違うか。目は虚ろであり、意識が曖昧な状態のようだ。

 リーファちゃんの防具が腐敗しているせいで肌の露出が著しいので目のやり場に困るな。コートを脱いでリーファちゃんを包むと抱き上げ、何処か休める場所はないかと探す。バム=ルークはすぐに襲ってくることはないだろうが、ここは奴の狩り場だ。油断はできない。

 それにレコンたちを探す必要性もある。この地下空間がどれだけ広いのかは分からないが、地下深くに落ちた彼らを探さない理由はない。

 

「……ごめ、んなさい」

 

「…………」

 

「ごめん……なさい」

 

「…………」

 

 謝るのは死んだ2人にか。それとも……いいや、今は止そう。

 ここにはいない兄に縋りつくようなリーファちゃんの震える手に、オレは少しだけ強くリーファちゃんを抱きしめた。

 

「大丈夫。リーファちゃんは『強い』。だから……きっと大丈夫」

 

 だから、今は泣いていい。

 キミは涙を流せる。自分の為にも、他人の為にも、泣くことができる。それはきっと素晴らしい事であるはずだ。

 雨のようにきらめく胞子が舞う地下の闇を見つめ、オレは一呼吸を漏らす。

 

 

 ああ、殺したいな。涙を流すリーファちゃんを……殺したくて堪らない。




大自然を侮れることなかれ。


中編……330話にてまた会いましょう!

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