SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

傭兵たちの仕事は尽きず、宴は夜を彩る





Episode21-03 なぞなぞ

 本日、晴天なり。終わりつつある街は冬の真っ盛りであるが、その地に吹くのは心地よい温かな風である。

 場所はアルヴヘイム、遥か遠方には霜海山脈が望める地であり、シルフが中心となって治める銀嶺望の街がある。霜海山脈から流れる豊かな水と肥えた土地を持ち、アルヴヘイムでも有数の穀倉地帯という設定になっている。

 オベイロンによって改変されたアルヴヘイムが、数多の犠牲を出しながらも妖精たちの勝利で終わりを告げた。妖精王オベイロンは倒され、その後はどうなったか知る術などないが、オベイロンの圧政の先に新たな未来を見たことだろう。

 だが、本来のアルヴヘイムに『その後』はない。改変アルヴヘイムのクリア状況は反映され、オベイロンなどのネームドなどは撃破されていたが、多くのミニダンジョンやイベントは未クリアの状態である。妖精たちは翅を失ったまま、オベイロンが討ち取られた事に対する喝采だけが反映されていても、それ以上に歴史が進むことはない。

 オベイロンの搾取によって荒れ果てた土地はアルヴヘイムの住人……『NPC』によって復興することもない。プレイヤーが自力で、あるいはイベントをクリアすることによって、少しずつ回復させることはできても、アルヴヘイムにオベイロンを倒した後の自由たる『その後』の歴史は永遠に訪れない。

 だが、それでもアルヴヘイムの風景には確かに改変アルヴヘイムの思い出を感じさせるものがあり、郷愁にも似た懐かしさを覚えるのも確かである。

 ああ、素敵な場所だ。もしも穏やかに過ごすならば、これ以上とない程に適しているだろうとレコンも認めるところである。

 

「ねぇ、リーファちゃん」

 

「ん? なーに?」

 

「僕たち……何やってるの?」

 

「何って見て分からない?」

 

 銀嶺望の街の東にあるプレイヤーが獲得できる土地。そこに設けられた、かつて名も知れぬ貴族が暮らしていたとされる小さな館。豪奢ではないが、中規模ギルドでも息苦しさを感じることなく暮らせる広さがあり、何よりも素朴な農園風景は自然と心を洗われるものがある。

 イベント<銀嶺の画家を捜せ>をクリアすることによって館も含めた周辺の土地の購入がアンロックされる。フロンティア・フィールドの先取りのように開墾によってある程度も拡張でき、拡張性に関してはフロンティア・フィールドには劣るが、同じレベル100水準であるとしても安全性はこちらが遥かに上であり、しっかりとした防衛設備さえ準備していればモンスターの襲撃イベントもオートで完封できる。

 

「ふぅ、やっぱり健全に汗を掻くって気持ちいいね!」

 

「…………」

 

 リーファの動きやすさを重視した半袖の上着、丈夫なズボン、厚手の手袋と靴、首には汗が染み込んだタオルをかけ、頭には爽やかな麦わら帽子。そして、剣の代わりに肩で担ぐのは……鍬。

 

「なんで僕たちは農業してるのさぁあああああああああああああ!?」

 

「え? 3日目にしてツッコミって幾ら何でも遅過ぎるんじゃないの?」

 

「むしろツッコミどころが多過ぎてフリーズしてたんだよ! 何やってんだよ!? 本当に何やってんの、僕たち!?」

 

「だから農業よ。でも、やっぱり人手が要るわよね。それにあたしはまだ≪耕作≫があるけど、熟練度も高いわけじゃないし、上位スキルも持っていない。レコンは持っていないから効率も生産性も最悪。うーん、やっぱり熟練度が高くて専門的にスキルを持っている人たちを集めないと駄目よね。畜産もしたいし、≪酪農≫を持っている人を集めないと」

 

「うーん、でも農業にしても畜産にしても優秀な人材は大ギルドや有力ギルドに引き抜かれているし、そもそも僕たちの持ってるノウハウなんてたかが知れてるし、種子や苗の配合レシピも、それに肥料の仕入れルートも……って、そうじゃないよ!?」

 

「人材のスカウトはレコンに任せた方がいいよね。でも、威張り散らしたら駄目だからね。アンタはすぐ調子乗るんだから! まぁ、安心しなさい! 現場ではあたしが汗を掻くから! 細かいことはよろしくね!」

 

 うん、やっぱり可愛い。まるで着飾っていないのに、凶悪な胸部を余すことなく魅力を引き出しながらの爽やかウインク。これでまるで狙っていないのだから、男たちは放っておかないだろう。なお、中身は御察しであるが、とレコンは冷静に分析し、すぐにツッコミに戻る。

 

「いや、いやいやいやいや! 本当に何やってるんだよ!? 僕たちにとって1番重要な時期に趣味に全振りしている余裕なんてないだろ!? というか、リーファちゃんの趣味って農業なの!?」

 

「んー、DBOで少しだけ目覚めたかも。現実だともっと手間がかかるんだろうけど、DBOは良くも悪くも簡略化されつつ、現実ではありえない苦労と奥深さがあるのよね」

 

 確かに旧フェアリーダンスの小さな庭で家庭菜園をしていたリーファであるが、趣味にしても規模を考えねばならない。なにせ、見渡す限り、農地、農地、農地、まだ整備されていない家畜小屋、いずれは家畜小屋の建築予定地、農地、農地、農地、未開墾の林、農地……! レコンは頭を抱えて、必死になって鍬を振るった土地で転がり悶絶する。

 フロンティア・フィールド<忘れられた樹海の都>における功績を『表面上』は讃えられ、自由開拓戦線の中心部に表立って食い込めるチャンスを得た。リスクはあろうとも、ここから専属傭兵として【黒の剣士】キリトの獲得に乗り出し、新生フェアリーダンスの結成を始めとした本来の目的に進まねばならなかった。

 確かにフロンティア・フィールドでは多くの問題が露呈した。客観視してみれば、自分がどれだけ危険で怪しい人物なのか、まるで分かっていなかった。功績を得ようとも、犠牲が、教会との意図せぬ共闘が、これまでの負の積み重ねが、生命の危機にすら直結する謀略を生みかねない状況だった。ハッキリ言って『詰み』である。

 レコンは考えた。どうすれば逆転の策を出せるか。自由開拓戦線の上層部にどれだけの情報を渡せばいいか? リーファの攻略本を読み返したが取引した分だけ追い詰められる。人脈? あるはずがない! 何もかもが無い無い尽くしだと思い知るだけだった。

 それでも『延命』策を! 目の下に隈を作って、自由開拓戦線のリーファたちの今後の処遇……まずは功績に対する恩賞を与える場にて、レコンがなんとか口八丁手八丁で切り抜けようとした時、リーファは眩いばかりの笑顔を作った。

 

『あ、だったら農業とか酪農とかしたいので、適当な土地をください! あたし達、ギルドを再結成したいだけですし! あ、フロンティア・フィールドは勘弁してください! あたし達の経歴ってご存じかもしれないですけど、ALO組なので、できればアルヴヘイムでお願いします! これ、欲しい土地です! よろしくお願いします!』

 

 場は凍り付いた……というよりも『コイツ、何言ってんの?』と完全な混乱に支配されてきた。上層部のみならず、恩賞授与の場に参加してた他ギルドの面々も唖然とし、何人かは笑い声を漏らした。あるいは失笑した。

 結果、得たのがこの土地である。自由開拓戦線の上層部に食い込むどころではなくなった。確かに『背後関係も分からない、大ギルドの手先であることが濃厚な不気味な2人』という認識は打ち消せたが、代わりに『フロンティア・フィールドの恐ろしさにすっかり腑抜けた阿呆2人』にクラスチェンジしてしまっただけである。まだ疑いの目はあり、フロンティア・フィールド攻略の主流からも外され、お先真っ暗なのは違いない。

 改変アルヴヘイム帰還後の努力と暗躍がほぼ水の泡になった。これが悲劇ではなくて何だというのか。四肢を這いつくばらせたレコンは美しい青空に咆えたくてたまらなかった。

 

「いいじゃない。これだけの土地を買おうものなら、とんでもない大金が必要になる。あたし達がイベントクリアしていたとはいえ、とてもじゃないけど短期間で準備できる資金じゃなかったしね」

 

「あははは! そうだね! だけどね! これって要は『手切れ金』だよ! 主に僕に対しての! これ以上は自由開拓戦線の運営に関与を許さないっていう脅し!」

 

「そこはボーナスって言いなさいよ。アンタがいないと設立できなかったのは事実なんだしさ」

 

「ポジティブ過ぎる!」

 

 能天気とも言えるリーファの態度に、レコンは土に頭突きする。

 

「あたしたちの失敗って何だと思う?」

 

「……信頼を勝ち取ってこなかったことだね。周囲の目をまるで理解しないままにフロンティア・フィールド攻略のメインになろうとしたことだよ」

 

「半分正解で半分間違い。あたし達の最大の失敗は仲間作りを後回しにしたこと」

 

「でも、僕たちは……!」

 

「あたしは『帰りたい』。お兄ちゃんと、レコンや『帰りたい』って望んでいる人たちと一緒に現実世界に帰りたい! そして、同じくらいに仮想世界でしか生きられない肉体のない人、現実世界ではなく仮想世界で生きることを選んだ人、そうした人たちも見捨てたくない! それって間違い!? それって変!? ワガママ!? 違うでしょ! まだエンディングじゃない! あたし達はまだ両立できる道を探せる! どちらかを選ぶしかないなんて、最後の選択肢が現れてから決めればいいじゃない!」

 

 切り株に腰かけたリーファは水筒の水をがぶ飲みすると汗を啜ったタオルで口元を拭う。

 

「でもさ、それは大ギルドと敵対する道だよ? 今は聖剣騎士団が公式に表明しているけど、DBOの人口増加……『帰還を選ぶ必要がない』人たちが増えているんだ。当然だけど、大ギルド内でも肉体持ちプレイヤーはマイノリティだよ」

 

「そこよ! そもそも全員が割り切れるの?『あ、自分は肉体が無いから、帰れない人たちとかどうでもいいです』って冷たく言い切ってんの!? 違うでしょ! そもそも『帰還』と『永住』という2つの選択肢があるという事に懐疑的な人だっているはずよ! SAOって前例通りなら完全攻略=『帰還』じゃない!」

 

「え、えーと……つまり? 大ギルドに懐疑的な人間を集めるってこと?」

 

「え? 全然違うけど? 別に大ギルドに迎合していようと懐疑的だろうといいじゃない。別に大ギルド相手に戦争したいとか出し抜きたいってわけじゃないんだし。そもそも、あたしたちの目的って『帰還』と『永住』の両立だから、『永住』を掲げる大ギルドにとって別に敵対するものでもないでしょ?」

 

「そもそも、『帰還』を掲げるだけで異端視! いずれは危険分子扱いされて検挙! いや、そうじゃなくても帰還派を敵視して過激な行動を取っている連中もいるんだ!」

 

「そんな事を言い出したら何もできないじゃない。あたしは『帰還』と『永住』の道を探すためにも、現状の攻略状況から脱却、あるいは亜流となる『攻略を目的としたギルド』を結成する」

 

 レコンは衝撃を受ける。リーファはまるで知略やら謀略やらテーブルの下の殴り合いやら、そんなものは全て『どうでもいい』とばかりの脳筋発想を述べたからだ。

 だからこそ、真理を突いていた。そもそもとして、大ギルドや傘下・影響下の有力ギルドが攻略を牽引している。レコンが裏で糸を引いた自由開拓戦線にしても、あくまで大ギルドの影響を受けない中立を目指しただけである。

 今や多種多様なギルドが結成されているが、『攻略』を目的としたギルドは恐ろしく少ない。いや、レコンが知る限り、もはや名前すらも聞かない。何故か? 全てはお上のご命令通りに。攻略を牽引するのは、大組織であり、大資本であり、大勢力である大ギルドだからだ。

 だが、初期は……それこそ大ギルドが生まれたばかりの頃は、誰もが同じ志を持っていたはずだ。『完全攻略』というゴールを目指していたはずなのだ。

 リーファは初期の志を再興させる。サクヤの遺した中立であらんとする遺志を昇華させてDBOに挑むつもりなのだ。

 

「大ギルドに潰されるに決まってるじゃないか!」

 

「だからこその自由開拓戦線でしょ? あたし達はすっかり主流から外れても自由開拓戦線の末席。自由開拓戦線はフロンティア・フィールドを攻略し、権利を大ギルドに売却することを目的としている。逆に言えば、最終的にはフロンティア・フィールドの土地を売り払う前提なら探索し放題ってことじゃない。あたし達は自由開拓戦線に所属して、自由開拓戦線の理念の下で、あたし達がやりたい事をやる。『攻略』という目的の旗を掲げる」

 

「……甘いんじゃないかなぁ」

 

「そうね。きっと甘いと思う。だったら、甘いと指差されて嗤われても笑い飛ばせるような人たちを集めればいいじゃない」

 

 リーファは政治なんて分からない。交渉や取引も得意ではない。ここぞという場面で感情的になってしまう。他人を引っ張るリーダーの才覚にも欠けている。

 

「『帰還』と『永住』の両立希望者歓迎! 純粋に『冒険したい』って人も歓迎! ただ『強い奴と戦いたい』っていう戦闘狂もOK! 目指すは1つ『攻略』のみ! あたしたちが目指すのは『もっとも困難な攻略ルート』よ!」

 

「それ、本末転倒にならない? 最終的には合議で『危ない事は止めよう』って話にならない? 大ギルドがスリーパーとか潜らせない?」

 

「だから、そんな事を言い出したら何もできないじゃない。あのね、そもそも大ギルドは実績も! 人材も! 情報力も! 資金力も! 何もかもが勝ってるの! グローバル展開している大企業に細々とやってる零細企業が暗躍して勝とうって発想が間違ってるの! あたしたちは大ギルドの邪魔なんかしないで独自のルートを、大ギルドを貶すことも、評判を落とすことも、なーんにもしないでやっていけばいいのよ。それなら大ギルドのスリーパーが紛れていようといまいと問題ないじゃない」

 

「……ぷっ! あははは! た、確かに! スリーパーがいようと『こんな命知らず共に関わっていられるか!』って自分はとんでもないところに派遣されたと頭を抱えるだろうね!」

 

 ああ、シンプルだ。シンプルに、いっそゲーマー的と思える程に、武道経験者らしく求道的とも言える程に『冒険し尽くして、探索をやりきって、最高難度の攻略ルートを見つけてやるぜ』というのがリーファの発想というわけなのだ。大ギルドを利用しようとした自由開拓戦線に、そのまま攻略を目的として居座ろうとしているのだ。

 

「それで、リーファちゃんがやりたい事は分かったけど、農業は何で?」

 

「あたし達はいずれ現実世界に帰るとしても、それまではこの世界で生きていくわけだし、残される人たちだっている。だからこそ、この世界で『生きる』ってことをもっと知る必要がある。『生きる』のに必要な財産を残す必要がある。『生きる』ことの意味を求める必要がある。だからかな?」

 

「短慮だなぁ。まずは相談してほしかったよ」

 

「その点は謝るけど、仮に相談したとしても首を縦に振った?」

 

 あり得ない。レコンは全力で反対し、あらゆる理屈や危険性を提示してリーファの意思表示を挫こうとしただろう。

 考え抜いて行動しなければ危うい。だが、危うさばかりに焦点を当てて何も行動できなくなったら何もしていないのと同じだ。切羽詰まった状況下で、リーファは少しでも打開策を提示し、レコンは理屈をこねくり回すことしかできなかった。それは動くことがない結果だ。

 

「……ちゃんと生産性を考慮して土地は選んだみたいだし、ここは広々としているから密談しても盗聴されるリスクが著しく下げられる上に拠点だから集まっても問題ない。しかも、収穫物でパーティを開く名目で同志を集めても違和感はない。農業畜産組合とのパイプも持てるしね。不本意だけど、トンキー関係で教会とも繋がりを持てたし、食料ばかりじゃなくて薬草関係の栽培も悪くないね」

 

 だから認めよう。リーファの行動はベストでもベターでもなかったかもしれないが、それでも確かな1歩になったことを。レコンは苦笑しながらも何処か清々しさを覚える。

 

「後半は考えてなかったかな?」

 

「あ、うん、そうなんだ」

 

 嗤われた。自由開拓戦線での地位と権力を得るチャンスを失った。だが、<忘れられた樹海の都>で失った命を思い出し、レコンは青くて高い空を見上げる。

 小賢しい。リーファはそう評した。ああ、その通りだ。大ギルドの裏を掻こうとか、匹敵する組織を作ろうとか、小難しい理屈をこねくり回す前に、もっとシンプルにやるべき事があったのだ。それこそ、今は大組織である大ギルドだって最初から今ある地位と状況を目指していたわけではないのだから。

 サクヤの遺志。それは縛られるものでも固執するものでもなく、昇華するものだ。レコンよりもずっと、ずっと、ずっと、リーファはサクヤの死と向き合っていたのだろう。

 

「僕たちには僕たちのやり方がある……か。そうだね。そうだよね! ありがとう、リーファちゃん」

 

「それで? レコン大元帥はあたしの行き当たりばったりをどう修正してくれるの?」

 

「とりあえず、僕たちでは人手が足りないね。まぁ、考えはあるよ。これだけの土地を貰えたのは自由開拓戦線上層部の『ボーナス』のおかげだしね。有効活用しようじゃないか! その為にも農業畜産組合とのパイプが欲しいなぁ。10月のアプデで教会は大きな影響力を持ってるし、うーん……」

 

「その辺りは任すわ。あたしは自由開拓戦線本部に『レコン農場従業員大歓迎! 冒険大好き人間募集!』ってチラシを貼るから」

 

「止めて。本当にやめて。なんか、こっちが本業になっちゃいそうだから止めて!」

 

 あるか無いかも分からない道だ。ならばこそ、前進するしかない。その為には仲間がいる。リーファの考えなどその程度の事なのだろう。だが、『その程度』すらもレコンは忘れ、心の何処かで諦めていたのだ。

 

「それじゃあ、思いっきり馬鹿をやってみようか」

 

「当たり前じゃない。あたし達は最初から賢く生きられない『馬鹿』でしょ?」

 

 ああ、全く……その通りではないか。レコンは失われた命を振り返り、これからも自分はやる事が変わらないと思っていたが、今度はリーファが自分のやり方を修正していく番なのだろうと薄く笑った。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「……まさか本当に経費で落とすなんてな」

 

「ああ。本物の馬鹿だ」

 

 参加者の半数が酔い潰れるという醜態を晒した昨夜を思い出してか、キリトは酒の味で占領された吐息に嘔吐感を堪える。

 キリトに巻き込まれて相応の出費を覚悟していたのだが、グローリーは領収書を奪い取ると無駄にポージングを決めて、聖剣騎士団に経費として請求するとオレ達に告げた。正直言ってかなりカッコいい後ろ姿だった。

 辻斬りの被害が出たのかどうかは不明であるが、少なくとも昨日の夜、これまで辻斬りの主な事件現場だった歓楽街で何か起こそうと思った輩はいないのだろう。なにせ、何の通達もなく専属・独立関係なく傭兵が練り歩いていたのだ。飲めや食えやの大騒ぎしかしていないとしても警戒は大いにしたに違いない。逆に昨夜も辻斬りをしていたならば、わざわざ実行しなければならない緊急性がある背景を読み取れる。

 今日は朝から動く予定だったのだが、飲み過ぎたキリトを配慮し、10時過ぎからのスタートである。まったく、スミスとシノンめ。キリトに容赦なく飲ませ過ぎだ。それにキリトもキリトでグローリーやレックス、カイザーの兄貴と張り合って飲み比べをして、いつの間にか誰かの関係者が集まって、そのまた関係者が集まって、最後はどれだけの人数に膨れ上がったか、数えられたものではなかった。

 特に醜態を晒したのはシノンだろう。酔いが回りに回って、周囲に煽てられてノリノリでテーブルの上で踊って歌いだしたぞ。しかもワイン瓶をマイクの代用にしてな! スミスとキリトとグローリーは何か慣れているようにバックダンスしてたのは何なんだ? 竜虎コンビの巨貧戦争から飛び火して、男たちによる胸派、尻派、足派、うなじ派で熱い討論から殴り合いにまで発展して、もう最後は手に負えない状況だった。

 オレはあまり飲んだ覚えはないのだが、妙に馴れ馴れしいエイミーに引っ付かれ続けて大変だったが、彼女も深夜3時を回る頃には泥酔していたしな。最終的にはオレやスミスを合わせて4、5人くらいしかまともな状態の者はいなかった。

 

「でも、意外だったな。あの手の大騒ぎにはパッチが必ず参加すると思ったんだけど……」

 

「…………」

 

「タダ酒と聞いて彼が参加しないはずないんだけどな。やっぱり仕事で来れなかったのかな? 死んではいないみたいだけど、最近は余り見かけないらしくて、少し不安になるよ。クーは何か聞いてるか?」

 

「え? あ、ああ……特に何も……」

 

 パッチ……パッチ……パッチ? こう、ぼんやりと思い出せそうなんだがな。灼けてしまった誰かだろう。だが、キリトの様子だと面の皮が厚い傭兵のようだ。ぼろが出る前に在籍している傭兵をちゃんと洗い直しておくか。過去の協働履歴でオレとの大よその関係も分かるだろう。

 傭兵は個人主義者が多い。我が道を行く者でなければ傭兵にならないとも言えるだろう。だが、タダ酒という名目があったにしても、グローリーが呼び掛けてあれだけの数が集まるのは大したものだ。

 それに何よりもキリトだ。これまでは多くの傭兵と距離を置いていた。仮面はそのまま交流を妨げる壁でもあったのだ。だが、仮面を外して『キリト』として接することによって、傭兵たちにも認められ、昨夜の騒ぎでどのような人物なのか知ってもらえた。

 もちろん、良し悪しはある。知ってしまったからこそ、いざという時に敵対関係になったら情が邪魔するだろう。特にキリトはそのタイプだ。傭兵たちにはそうした打算も混みでキリトに絡んでいたヤツもいたはずだ。だが、そもそもとして傭兵たちは自分というものを曲げない。昨日の協働相手は明日の敵であり、明日の敵は明後日の協働相手であると覚悟して生きている。特に独立傭兵はそうだろう。

 だから、あれで良かったのだ。傍から見れば狂っていようとも、同じ傭兵だからこその共感がある。この世界で僅かでも自由であろうとする者たちが傭兵なのだから。

 

「クーも楽しんでたみたいで良かったよ」

 

「オレはあまり飲んだ覚えもないし、むしろお前たちの大騒ぎの後処理をする側だったからな」

 

 酒は程々に抑えたし、味覚もほとんど死んでいるので味わえない。料理も同様だ。オレからすれば、皆の大騒ぎを傍らで見ている事の方が有意義であった。

 

「だけど……悪くなかった。しばらくは御免だがな」

 

「ははは。俺も同感。ああいうのは時々するから良いものなんだろうなって何となく分かるよ。でも、もっと小規模なものなら定期的にやりたいな」

 

「オマエってコミュ障で廃人ゲーマーだが、根っこはむしろ陽気の世界の人間だよな」

 

「俺も他人と関わるのは苦手だよ。でも、嫌いじゃないんだ。嫌いじゃなかったんだ」

 

 ……キリトも色々と考えるところがあったという事だろう。内心で何を抱いたのかなんて分からないし、知る必要もないし、わざわざ訊き出すなんて面倒臭い。結論、キリトはキリトで大宴会は有意義だったということにしておこう。

 

「でも、クーももう少し羽目を外しても良かったんじゃないか?」

 

「1人は介抱するヤツがいるだろうが」

 

 飲み過ぎて箍が外れたら誰彼構わず殺しそうになってしまう。そうでなくとも傍にキリトがいたのだ。折角の宴会の席を血で彩るなど無粋というものだ。

 

「OK。人見知りなクーの為にも、今度はもっと人数を絞って見知った顔ぶれで飲もう」

 

「好きにしろ」

 

 酒も料理もほとんど口にしていないが、雰囲気は十分に味合わせてもらった。オレからすれば100万コル支払っても構わないだけの価値がある時間だった。だから、キリトには感謝すべきなのだろう。

 キリトはいつもオレでは進めない1歩を軽々と踏み出していく。オレが進めない場所にいて、背を向けることしかできないオレを強引に連れて行ってしまう。

 この胸で疼くのは確かに残った、尊き人々が渡してくれた人間性。

 牙を剥いて喰らいたがるのは、飢餓で溢れんとする獣性。

 危ういバランスで保たれる天秤ではない。薪にする度に灰となって散る人間性は軽くなり、獣性は際限なく湧き出す飢餓の分だけ重くなり、今にも振り切れそうになっている。今は天秤が倒れないように強引に支えているだけのことだ。

 だから、いつかは訪れるのだろう。宴で奏でられるのは音楽ではなく悲鳴と絶叫となり、喉を潤すのは酒ではなく血と涙となり、腹を満たすのは料理ではなく臓物と命となる。その時は……その時が来る前に……狩りの全うを果たさねばならない。

 

「それよりも仕事だ。緊急性はないとはいえ、依頼人を長く待たせるべきじゃない」

 

 昨日に続いて変装するのだが、オレは変わらず教会服であり、キリトもオレのコディネートである。傍から見ればアンマッチな組み合わせであるが、余程のことがない限りには周囲から奇異に見られることもないだろう。なにせ、昨日の4人組はグローリーの着ぐるみの時点で明らかに浮いていたのだ。アレでも大丈夫だったのだ。ならば、オレ達2人が変装して並んだところで大したことはない。

 グローリーが掴んだ情報とは、レモネーが失踪したグルメ・クルセイダースについての噂だ。

 彼らは説明された通り、多種多様な食材を求めて、美味・珍味を探求するギルドだ。未知なる味を求めて時にはプレイヤーがほとんど踏み入らないフィールドからダンジョンの最深部まで探検する。結果的にギルドのメンバーは必然的に実力が求められるので高レベルプレイヤーで構成されるようになり、より難度の高いダンジョンに潜り続けるからこそ実入りもよくなって懐も温かくなる。

 だが、グルメ・クルセイダースは目的が目的であるだけに、より多額の資金が必要になる。生存を最優先するならば回復アイテムから隠密ボーナスを高めるアイテムまで相応の準備が必要となり、装備の購入・強化・修理などの整備も必須となる。更には大ギルドが生産している希少性の高い食材や香辛料なども要求される。

 簡潔に言うならば、ギルドの規模に対して『金遣いが荒過ぎる』のだ。グルメ・クルセイダースは失踪したレモネーも含めて全員で12名いるらしいが、フルでダンジョンに潜ったとしても1回にどれだけの経費がかかるか。拠点となるギルドハウスを持っているとして、維持費なども含めれば、やはり収入に対して出費が大き過ぎる……というのが、グローリーが聴取した市場の商人の見立てだ。

 もちろん、これは客観的な評価に過ぎない。グルメ・クルセイダースの内情や実際の稼ぎも分からないし、仮に金遣いが荒かったとしてもレモネーの失踪との因果関係は不明だ。だが、決して無視するべき情報でもないだろう。

 だが、コーンロットはオレに依頼するだけではなく、以前にもレモネーの失踪の調査を依頼しただけの資金力を持っている。借金をしている線も捨てきれないが、やはりどうにも引っ掛かるな。

 サインズだって馬鹿ではない。支払い能力の有無だって確認するし、無いなら無いで依頼人に借金させてから依頼を受理する。

 傭兵がサインズに登録しているメリットの1つが報酬の未払いを心配しないで済む点だ。難癖をつけられて支払いを拒否されたり、逃げられたり、最悪の場合は『騙して悪いが』をされたりした場合、サインズはそれこそ『死んだ方がマシ』と思える程の報復をする。実際にオレもサインズからその手の依頼を受けた事がある。うん、サインズってエグい真似するよね。まさか支払い拒否して逃げたギルドだけじゃなくて、その関係者に至るまで根こそぎ巻き込むとは驚いた。死人は支払い拒否主犯格だけで済ませているのも更にエグいね。

 何にしてもレモネーは本当に誘拐・失踪したのか。そこから疑わねばならない。仮にグルメ・クルセイダースの狂言だとして、レモネーの失踪を偽るのにどれだけのメリットがあるのやら。

 市場は今日も賑わい、人の往来も激しい。人口増加も著しく、最も購買力が高い中間層もまた増加している。まぁ、貧民プレイヤーの人数・比率も高まってはいるんだがな。

 レベル20まで至ればスキル枠は十分な数になり、生産関連のフレーバースキルで埋め尽くせば、相応の職を得られるチャンスも増える。個々の技能や目指す職業にもよるが、慎ましい生活を送れない事もない。

 同じ鉱山夫でも3大ギルドの直営と有象無象の中小ギルドの経営では給与も労働環境も異なるだろう。特に有力ギルドは3大ギルド程の規模も資本も戦力も持たないが故の危険性を持つ。まぁ、懲罰・刑罰的な意味合いの鉱山送りの場合は3大ギルド下が最も危険だがな。

 比較的生命の安全が保障された環境下で大金を得るのは簡単ではないということだ。そういう意味ではグルメ・クルセイダースの稼ぎは決して悪くはないのだろうが、貪欲に食を求める方針であるが故に支出は相当なものだったのだろう。

 だが、金遣いの荒さもあくまでグローリーが尋ねた相手……すなわち個人の感想に過ぎない。やはり要調査だな。既にグリセルダさんにはこの情報は伝えてあるし、何かしらの回答が得られる事だろう。

 

「ここが現場か。キリト、そろそろオマエの名推理を聞かせろ」

 

「推理って程のものじゃないさ」

 

 市場から続く薄暗い路地裏の細道。まるで迷路のように入り組んだ奥にある、折れ曲がった街頭が特徴的な十字路にて、キリトは周囲を見回す。建物は乱立しているが、いずれも廃墟だ。これらは無秩序に拡大され続けた終わりつつある街の構造上の整合性を保つ為に、システム側がランダム建築したものである。いわばハリボテのようなものであり、雨風を凌ぐ程度ならばギリギリ出来ないこともなさそうだが、それ以上の意味はないどころか、犬ネズミや野良犬のような低レベルプレイヤーには脅威となるモンスターが住み着くことも多い。

 特に犬は殺せ。とにかく殺せ。見たら殺せ。DBOの常識だ。終わりつつある街周辺のフィールドに登場するスケルトンよりも終わりつつある街でランダムリポップする野犬の方が遥かに強い。ワンワンを舐めたプレイヤーから死ぬ。これもDBOの常識である。

 ともかく、未来図もなく、各々の勢力・組織・個人で拡大・拡張させ続けてシステム側が都市構造に整合性を与えようと奮闘した結果、最前線ダンジョンも真っ青なくらいの迷宮状態になっているのが現・終わりつつある街である。まだ廃墟街にして元の終わりつつある街の街並みが残っている旧市街の方が迷わないってどういうことだ、おい!

 

「≪朋友探知≫の反応が消える条件は主に『探知される側のプレイヤーが探知不可設定にする』・『探知範囲外に出る』・『探知できない状態になる』の3つだ」

 

「1番目と2番目は分かる。3番目は?」

 

 正直言って≪朋友探知≫は仲間内でもダンジョンに潜る時以外は歓迎されないスキルだ。なにせ、何処にいようとも居場所がバレる。スキルの熟練度次第ではより精度と範囲は増す。たとえ信頼を置く仲間であるとしてもプライバシーは保ちたいはずだ。

 グルメ・クルセイダースはダンジョン帰りだったこともあり、彼女も普段はオフにしているはずの≪朋友探知≫の設定も探知可能にしたままだった。それが今回の謎を生んでいる。もちろん、虚言という説も捨てきれないが、とりあえずは反応が消えたことを前提に調査すべきだ。

 

「≪朋友探知≫も万能じゃないって事さ。そもそも≪朋友探知≫はどれだけ熟練度を高めても、誤差なく居場所を特定できるのは半径200メートル圏内が限界なんだ。加えてマップ情報がないと更に精度は低くなるし、徘徊型ネームドには反応そのものを隠蔽する能力もあるから、ダンジョンに取り残されたプレイヤーを救出する際も過信はできない。終わりつつある街にしても、厄介なことに地下はダンジョン判定なんだ。コイツのせいで≪朋友探知≫の精度は更に下がる。しかも無秩序な開発・拡張と崩壊ですぐにマップデータ自体が更新されて使い物にならなくなるしな」

 

「答えになっていない。探知できない状態とはどういう状態だ?」

 

「あるプレイヤーが≪朋友探知≫の有効条件について調べたことがあるらしい。どうやらこのスキル……居場所というよりも対象の『接地部位』を感知するスキルらしいんだ」

 

「どういう事だ?」

 

「≪朋友探知≫は≪気配察知≫の上位スキルだ。上位スキルの解放条件は基礎スキルの所有と一定の熟練度だけど、この熟練度が曲者なんだ。≪朋友探知≫の解放熟練度は≪気配察知≫と≪追跡≫の合算なんだ。しかも≪朋友探知≫の精度は≪追跡≫の熟練度が高い程に増すんだよ」

 

 オレは無意識で≪朋友探知≫とはレーダーのようなものかと思っていたが、キリトの説明が正しければ、むしろ足跡を追う≪追跡≫に近いことになる。

 

「そんな情報を何処で仕入れた? オマエも≪朋友探知≫を持っているのか?」

 

 そもそも≪朋友探知≫なんてスキルをわざわざ獲得しているプレイヤーは少ない。なにせデスゲームなのだ。検証作業も命懸けになるし、現時点で1度獲得したスキルを消去する方法は……まぁ、無いことも無いらしい。あくまで噂レベルだがな。だが、噂の時点でも割に合わないデメリットが囁かれ、オレでもやりたいとは思わない程である。

 シノン曰く、ベータテスト時点では『スキルの消去・再登録は有料サービス予定』という告知だったらしい。シビアなゲームシステムと合わせてベータテスト時点でも批判は多く、本サービス時には無償のスキル消去アイテムが実装されるのではないかとネット上では噂されていたが、残念ながらシビアなままにデスゲーム化しました。後継者はあと100回くらい死ねばいいんじゃないかな?

 さて、キリトの情報の出所は何処だ? コイツが≪朋友探知≫なんてまず持っているはずがない。なにせ、フレンドリストの登録数はオレの倍程度しかないことは昨日の宴会時点で把握済みだ!

 ……うん、なんだろうね。胸が痛い。うわぁい。まだ人間性がちゃんとあるぞぉ。

 

「救出依頼で自然と≪朋友探知≫スキルを持っているプレイヤーと同行することが多かったんだ。彼らから集めた情報を統合して俺なりに出した推論だよ」

 

「はいはい、人気者はつらいですねー。救出依頼たくさんこなして偉いですねー。どうせオレは襲撃依頼とか襲撃依頼とか襲撃依頼とかしか来ないがな」

 

 灼けているせいかもしれないが、救出依頼なんて片手の指の数ほどしか受けた覚えがないぞ! しかも記憶に残っているほぼすべてに裏があった案件しかないぞ!?

 その一方で、キリトは仮面野郎時代から救出依頼を結構な頻度でこなしていたな。救出依頼は比較的オープンにされるから目につく機会が多かっただけかもしれないがな。まぁ、妙に……というか、比率的におかしいくらいに女性プレイヤーの救出が多かったのはもう何も言うまい。コイツが無自覚でどれだけヤンヤンを増産していようとオレには関係のないことだ。ヤンヤンホイホイはせいぜい世界滅亡級ヤンヤンにぶっ刺されて死なないように頑張ることだな。

 

「あ、拗ねたのか? これからは俺と協働してたくさんの人を救助すればいいじゃないか」

 

「安易に協働しようとするな。傭兵は傭兵らしく単独でこなせ。協働し過ぎると評価が下がるぞ。ランクも下がるぞ」

 

「サインズも今後は傭兵の死亡率低下の為にも協働を推進するつもりらしいけどな」

 

 まぁ、確かに最近は傭兵も協働の比率が増えてはいるんだがな。それだけ依頼が高難度・複雑化してソロでこなすには厳しさが増しているという事だろう。依頼主も協働前提の報酬額であることも珍しくない。だからこそソロでこなしたら実入りも多いんだがな。

 とはいえ、基本は個人主義……もとい、協調性が著しく欠落した傭兵たちが大人しく協働するわけがないんだけどな。大抵は現地でバラバラになって個人プレーに走る。あくまで頭数が欲しいだけで連携を取りたいわけではないのだ。

 

「いいじゃないか。俺だけでは助けられない人を、キミと一緒なら助けられるなら」

 

 だったら余計に止めておけ。オレと協働すれば、オマエが助けられたはずの人も助けられなくなる。

 まぁ、キリトもいつまでも独立傭兵のつもりはないみたいだし、専属先が決まれば安易にオレと協働なんて出来なくなるだろう。なにせ、キリトは気にしなくても専属先はそうもいかないだろうし、大ギルドも俺とキリトが組み続けることを良しとはしないはずだ。

 

「つまりこういう事か? レモネーは何者かによってここまで連れ込まれて、昨日のラジードみたく肩に担がれたと?」

 

「違うだろうな。市場からこの十字路まで直線距離で200メートル圏内だし、熟練度次第にもよるけど概ねこの場所の周辺で反応が途絶えたのは間違いない。でも、ここだと人目が多過ぎる」

 

 キリトの言葉の通り、見渡す限りでも市場での物乞いに向かう、あるいはゴミ漁りをする貧民プレイヤーが目についた。人とモノが集まる市場に近いだけ貧民プレイヤーの数も増えるというわけだ。

 もしもレモネーが連れ去られたならば、貧民プレイヤーの誰かしらが目撃しているはずだ。だが、先の調査依頼の資料の中で、貧民プレイヤーによる有力な目撃情報はなかった。

 貧民プレイヤーからすれば、上位プレイヤーは金銀財宝を身に纏っているようなものだ。装備を1つでも売れば、足下を見られて買い叩かれたとしても、ゴミ漁りでは決して得られない金額を得ることができる。だから、もしもレモネーが連れ去られる最中だとしても、正義感や道徳心で止めようとする者は決して多くないだろう。その程度には貧民プレイヤーの生活は厳しい。

 だが、逆に言えば金さえ払えば些細な情報でも喜んで売るということである。レモネーが強引に連れ去られたならば誰かしらに目撃されているはずであり、貧民プレイヤーは喜んで我先にと情報を売るだろう。

 

「……で? 違うなら今の長々とした説明は何だったんだ?」

 

「可能性の1つを潰す作業」

 

「そうか。どうでもいい」

 

「……また拗ねた」

 

「拗ねてない。勿体ぶるオマエをぶち殺したいだけだ」

 

「分かったよ。考えてみれば簡単なトリックさ」

 

 キリトは来た道を戻る。複雑に入り組んでおり、まさしく迷宮と呼ぶに相応しいだろう。だが、キリトの足が止まったのは何の変哲もない排水溝だった。金網の下には浸かるだけで毒が蓄積しそうな汚水で満ちた下水道があり、プレイヤーが落ちてくるのを待っているようにトサカのついた犬ネズミが待機している。普通の犬ネズミではなく、リーダー格だ。多数の犬ネズミを率いる他にも召喚する能力も持っている厄介なモンスターだ。

 とはいえ、せいぜいがレベル10水準である。数で押し切られる前に早々にトサカ付きを倒せばいいだけだ。対処法を知っていれば普通の犬ネズミと大差ない。逆に言えば、数に気圧されてトサカ付きを倒さなかった場合、上位プレイヤーでも単独ならば抗う術なく殺される数の暴力を発揮しかねないのだが。

 

「やっぱり、ここは『近い』みたいだな」

 

「何がだ?」

 

「終わりつつある街の地下には何がある?」

 

「それは……ああ、そういう事か。指摘されてみれば簡単なトリックだな」

 

 終わりつつある街の地下には広大なダンジョンがある。それは無秩序な開発と拡張に呼応して、同じく無秩序に広がり、時として地表近くまでダンジョン判定にカウントされるエリアが隆起する。

 

「つまりはこういう事か? レモネーは≪朋友探知≫の反応を切ったのでもなければ、担がれて連れ去られたわけでもなく、『地下ダンジョン圏内』に入ったから消えた、と」

 

「可能性は高いだろ?」

 

 だが、そうであるならば疑問も残る。確かにこの場所は地下ダンジョンと紙一重なのかもしれない。レモネーが地下ダンジョンにこの場所で連れ去られたことで反応が消えたことも理解できる。だが、それならば目撃情報があってもおかしくないのではないだろうか。

 可能性1、この周辺の貧民プレイヤー全員が買収ないし脅迫されている。情報を売るデメリットが上回るならば、目撃情報を売ることもないだろう。

 可能性2、偶然にも目撃者がいなかった。絶対にあり得ないとは言い切れない。

 可能性3、目撃者が生まれない環境が形成されていた。どうやって? 引っ掛かる。違和感がある。キリトの推理が正しいならば、何かがおかしい。

 

「……地下ダンジョンにレモネーは本当に『連れ去られた』のか?」

 

「俺も同意見だ。やっぱり不自然過ぎる。レモネーは高レベルプレイヤーでダンジョン帰りで武装もしていた。回復アイテム等は減っていたとしても、少なくとも市場を闊歩できる状態だったんだ。欠損や負傷で抵抗できない状態でもなかった」

 

 キリトは地下ダンジョンに続く金網を蹴破ると下水道に着地する。オレも続いた頃にはトサカ付きは既に始末されていた。

 キリトがギターケースの中から取り出したのは独特の黒光り……イジェン鋼の片手剣のようだ。コイツは高STRで重量型片手剣も難なく扱えるだろうが、本当にイジェン鋼シリーズは人気だな。純度にもよるが、そんなに安い素材ではない。キリトならば高純度品の手配もできるかもしれないが、聖剣を折った経歴を考えれば余り良い感情は持てない素材だと思うんだがな。

 

「この重さ! この威力! この堅牢さ! 武器はやっぱりこうでないとな!」

 

 上機嫌のキリトさん、やっぱりバトルマニア兼冒険野郎でいらっしゃる。犠牲は出したくないだろうが、それはそれとして、これもコイツの性なんだろうな。まぁ、こうした部分が大なり小なりなければ未知なるフィールドやダンジョンを探索するモチベーションなど保てない。

 キリトは右手に片手剣を持ち、左手で松明を掲げる。ほんのりと香るのは薬草だろう。松明に含ませてあるな。低レベルモンスターを遠ざける効果があるようだ。犬ネズミも汚物スライムも近寄ってくる素振りさえも見せない。だが、隠密ボーナスは下がるし、光源として視認されるだろう。威嚇も込めてなのだろうが、オレのスタイルとはやっぱり合わないな。

 

「地下も入り組んでるな」

 

「注意しよう。浅い層なら今の装備でも十分に対処できるけど、何処から深層になるのか分からない」

 

 多くのプレイヤーが暮らす終わりつつある街の地下に広がるダンジョン。そこに何があるのか、誰も知らない。だが、キリトの横顔には何処となく悲しみに近い感情が滲み出ているような気がした。今では見る影もないが、終わりつつある街はアインクラッドの始まりの街を模している。キリトには何かしらの思い出があってもおかしくないか。

 下水が滝のように落ちる終着点にて、キリトは松明を落とす。炎の光はどんどん小さくなり、やがて止まる。

 

「20メートルってところだな。オレが先行するか?」

 

「いや、別の道を探そう」

 

 悪臭に満ちた下水道は嗅覚を苛める。オレは後遺症のせいで幾らか鈍くなっているが、キリトには相当に堪えるはずだ。表情には見せていないが、装備も揃っていないし、長居はよくないだろう。

 新しい松明を掲げるキリトが目指すのは何処なのか。悪臭で湿った空気の中で自然と口数は減っていく中で1時間、あるいは2時間は歩き続ける。分岐する道があれば行き止まりにたどり着くまで歩き、あるいは途中で引き返し、キリトはマップデータを更新させていく。どうやらキリトの目的はこの周辺の地下ダンジョンのマップデータの更新にあるようだ。また開発されたら更新されて無駄になるだろうに。

 

「この周辺の地下ダンジョンのマップデータの記録を持っていそうな奴に心当たりはないか? できれば、事件が起きた1ヶ月前のこの周辺の詳細なマップデータがあればいい」

 

「何に使う?」

 

「もちろん、事件の調査さ」

 

「……犯罪ギルドだろうな。大ギルドも定期的に地下ダンジョンの調査に人員は派遣しているだろうが、地下ダンジョンに関しては犯罪ギルドの方が情報は確かだ」

 

「やっぱりか」

 

 キリトには伝手がないのだろう。まぁ、犯罪ギルドと交流関係なんて傭兵でもそんなに多くはないだろうがな。裏の情報が欲しい時も情報屋を噛ませる場合がほとんど……というよりも、むしろ犯罪ギルドとのパイプとか情報屋の領分だしな。

 今のキリトは独立傭兵1年生。マネージャーも情報屋もおらず、下位ランクどころかランク無し新米にも匹敵する無残な状態だ。まぁ、これも仮面とシリカのデメリットだな。特にマネジメントと情報関係はシリカが牛耳ってキリトに関わらせないことで『依存』させていただろうし。本当にあのツインテールはやる事が汚い。これだからヤンヤンは始末に負えない。独立させるならせめて伝手くらい渡してからにしろ。尤もシリカの情報網だからキリトがそのまま引き継ぐことも無理なんだがな。

 それに今の発言で、キリトもシリカを意図して今回の件に関わらせない目的があるようだ。シリカを使えば得られる情報もあるだろうに。彼らの関係に何かがあったのだろう。あのヤンヤン娘がマネージャーから降りたのは何よりの証拠だ。2人の不健全だった関係にも何かしらの改善があったのだろうか。

 ……どうでもいい。シリカとキリトの関係がどうなろうとオレに被害をもたらさないならばそれでいい。

 

「シリカなら情報を集められるだろう? ラストサンクチュアリ専属の時も、ほとんどは聖剣騎士団の依頼だったとはいえ、マネージャーとして独自に情報収集のサポートもしていたはずだ」

 

「……今はシリカを頼れない。彼女も彼女で大変だろうし、負担を増やしたくない」

 

「そうか」

 

「心配してくれるんだな」

 

「するか。オマエとアイツの関係は面倒臭いから火の粉が降りかかる前に情報を集めておきたいだけだ。オマエの秘書を自称していたシリカが別行動なんて、オレからすればあり得ないからな」

 

 オレの問いかけにキリトは地上に戻るルートを歩く足を速める。だが、オレも大股で歩いて横に並ぶ。

 

「それで? 実際のところ、どうなんだ? シリカとは恋仲なのか?」

 

「キミはここぞという時にストレートだな」

 

「悪いが、オレからすれば切実な問題だ」

 

 主に労力的な意味でな。オマエのヤンヤンホイホイだけは決して舐めるわけにはいかない! それこそ聖剣ランスロットとミディールを同時に相手取るくらいに気合を入れておかなければならない案件なのだ!

 

「俺とシリカの関係は名前を与えられるようなものじゃないよ」

 

「…………」

 

「恋人じゃないんだろうな。友人でもないんだろうな。相棒でもないんだろうな。やり直すと互いに決めても、どうしようもなく互いを繋ぐ糸……いいや、鎖が絡みついているような、そんな関係なんだ」

 

 うーん、ドロドロだ。分かり切っていたことだけど、ドロドロしている。コイツとシリカの関係がまともであるはずもないから予想通りなんだがな。まぁ、原因は幾つもあるが、その中でも最も大きな問題はわかり切っている。

 

「……アスナが忘れられないか?」

 

「忘れられるわけないだろ。俺にとってアスナは……」

 

 キリトはそれ以上を口にしなかった。言葉にしたくなかったのだろう。

 アスナを失い、蘇っているという夢を見せられてDBOに身を投じ、アルヴヘイムを冒険し、堕ちて、堕ちて、堕ちて……アスナの屍を前に死者を求める旅は終わった。これを悲劇と呼ばずに何を悲劇と呼ぶのか。そして、本来はあったはずの一瞬でも叶ったはずの再会の時を奪ったのはオレだ。

 地上の光が見える。蹴破った金網が太陽の光に照らされて鈍く輝いている。梯子も何もない数メートル頭上の排水溝であるが、オレとキリトならば余裕で戻れるだろう。

 先にオレが跳び、キリトがそれに続く。松明の光があったとはいえ、地上の光に眩しそうにキリトは目を細めた。

 

「それでも、区切りをつけないといけないって分かってるんだ。忘れることはできずとも、彼女を思い出にしないといけないって……ちゃんと分かってるんだ」

 

「……そうか」

 

 頭では分かっていても心は許さないから苦しいのだろう。だからこそ、キリトは笑うのだろう。精一杯の強がりなのだろう。本当は忘れたくないのだろう。思い出にしてしまえば、自分の中のアスナを殺してしまいそうで……怖いのだろう。それでも前に進もうとしている。

 キリトの笑顔にオレの灼けた記憶の穴が疼く。まるで呪いのように頭の響くこれはなんだ? 舞い散る記憶の灰が蘇らせるのは両手の感覚。何かを……『誰か』の首を絞めた甘美で蕩けるような感触だ。

 ああ、そうか。オレはきっと『誰か』を殺したのだろう。『獣』の殺意のままに殺してしまったのだろう。貪り喰らうように殺してしまったのだろう。これはその時の『誰か』が残した叫びなのだろうか?

 痛い。頭が……痛い。断続的に鋭くも鈍い、焼き焦げた穴が軋むような頭痛がする。だけど、痛みの内に確かな『痛み』もあって、何処か落ち着く。

 

「なぁ、キリト。もしも……」

 

 もしも、アスナが生きているならば、オマエはどうする? 会いに行く? たとえ、その先に待つのが彼女の死でオマエの破滅だとしても?

 

「どうした?」

 

「……何でもない」

 

 キリトは市場に向けて歩き出し、オレはそれに続く。今度は並ばない。オレは影を踏むように後を追う。

 何を馬鹿なことを。アスナの生存を伝えたとして何になる? アスナの覚悟を無駄にするのか? もう2度と会えないと分かっていても生きる道を選んだ彼女を愚弄するのか?

 それでも、オレがキリトに期待してしまうのは、オレには無理な『ハッピーエンド』を掴んでくれる気がするからなのだろう。オレは救えなかった人々も、キリトならばきっと……きっと……きっと……そう期待しているのだ。キリトならばアスナを救えるのではないかと期待しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、期待通りに『ハッピーエンド』を迎えたアスナを無意味な蛇足のように殺して、殺して、殺して、殺して、悲鳴と絶望と涙で塗れた聖剣を振るうオマエを殺し尽くしたいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、オマエの刃はオレの首に届くのか? この心臓を刺し貫けるのか? あらゆる祝福と呪詛を超えて『バケモノ退治の英雄』に己の意思でなったキリトを喰らい殺した時、涙を流して悲しめるのか? たくさんの人々がくれた人間性ではなく、獣性ばかりが満ちていく魂の奥底にある心で……オレは泣けるのか?

 ああ、それさえも『嘘』なのだ。『殺す』ことの理由付けだ。より良質な糧で腹を満たそうとするケダモノの性に過ぎない。

 ただの飢えと渇きだ。痩せ細った『獣』は新たな獲物を求めている。咄嗟に右目を手で覆う。瞳の分裂する前触れを覚えた。危うかった。今ここで装備も決意も不十分なキリトを狩り殺すのは『惜しい』と堪えることができた。

 どうでもいい。切り捨てる。頭を真っ白にしよう。今は仕事中だ。キリトは情報を欲しがっている。

 

「伝手ならあるぞ。欲しがってる情報は高確率で持ってるだろうな」

 

「本当か!?」

 

「無意味な『嘘』に何の意味がある?」

 

 振り返ったキリトにオレは微笑みかける。ああ、殺したい。殺したい。殺して、殺して、殺して、殺したい。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「…………」

 

 今の心情を10文字以内で示しなさいと問いかけられたならば、彼女は迷わず『殺意』と断言するだろう。

 

「……本当にごめん。クーに悪気があったわけじゃな――」

 

「黙れ。それくらい分かってるから。クーが悪意で動くタイプだったら、キミの頭と胴が繋がってると思う? 無いよ。絶対に無いよ。それくらい理解しなよ」

 

「……すみません」

 

「謝るな。囀るな。呼吸するな」

 

 ああ、嫌になる。嫌になる。本当に嫌になる! 感情のままに暴言を吐き出す自分が嫌になる!

 可憐なメイド服姿のユウキは、自分の心情など知った事ではないとばかりに、だが呼び出した自分を気遣って昼食を買いに行こうと屋台の列に並ぶクゥリに、複雑な視線を向ける。

 場所は終わりつつある街の『表』ではもっとも新鮮な食材が集まる場所、通称『市場』。それらを目当てに集まった客を狙った屋台も多く、ご丁寧にテーブルと椅子も並べられて空の下で好きなように飲食できるようにスペースも確保されている。今日も多くの客で埋め尽くされており、またクリスマスに期待を膨らませる飾りつけは普段ならば殺伐としているDBOの数少ない浮かれた雰囲気を表していた。

 円形テーブルを挟んで対面する形でユウキが相対するのは、ヴィジュアル系バンドマンに変装した【黒の剣士】キリトである。初見では見抜けなかったユウキであるが、教会服姿のクゥリはノータイムで見抜き、そのまま隣にいる真っ黒野郎ともなれば連想ゲームで即座にキリトと勘付いた。

 ヴェニデの屋敷で兼業メイドをするユウキは、当然ながら昨夜の傭兵たちの大騒ぎの情報を耳にしていた。あのクゥリがキリトに連れられて素顔を晒し、そのまま傭兵たちの宴を催したと聞いた時、彼女は職務放棄して宴会の席に殴り込みに行こうかとキレかけた程である。何処かの馬鹿がクゥリに調子よく飲ませた場合、文字通りの血の雨が降りかねないからだ。

 だが、メイド長のブリッツに物理的に頭を冷やされ、3大ギルドが既に要監視体制に入っている旨を聞かされ、ギリギリで理性で堪え抜いた。ラストサンクチュアリ壊滅事件以降は以前に増して正体を隠すことに余念がないクゥリが少しでも解放感を味わえるならばと我慢した。

 しかし、監視者からの定期連絡でエイミーがクゥリを膝に置いて大ジョッキでカンパーイしている写真を見て……危うく≪絶影剣≫を展開して突撃しかけたが、既にブリッツの手の者によってエイミーの酒のアルコール度数を変更済みで20分と待たずして泥酔するだろうと通達され、何とか堪え抜いた。

 そうして迎えた翌日、クラウドアースの議長選挙もあってか、夜通しの勤務を終えたユウキが仮眠室で休んでいた時、クゥリから……あのクゥリから『会いたい』という場所だけを指示する簡潔な文面のメールが送られてきたのだ。

 デートの甘い誘い文句もない。だが、ユウキからすれば衝撃的だった。これまで、それこそ1度として! クゥリの方から接触を希望するメールなどなかったのだ!

 今から家に帰って服を着替える余裕などない。今すぐ会いに行かないと心変わりされてしまうかもしれない! だからといって戦闘服では味気がない! だったら外出しても問題がない仕事服でもあるメイド服しかない! ヴェニデの屋敷の大浴場に飛び込み、しっかりと汗を洗い流して髪も洗い、ブリッツにお願いして自分に合った香水と睡眠不足で血色の悪い顔色を隠す軽いメイクを施してもらい、笑顔の練習を鏡の前で高速で100回済ませた後に出立した。

 ああ、クーから会いたいなんて、きっと仕事関係か何かだろう! 期待なんかしない! でも、クーから会いたいなんて言ってくれたのは初めて! クーのことだから、呼び出したからには何か奢ろうとするだろうし、そのまま昼食を一緒に取れば、もはやデート! 実質的にランチデート!

 ユウキ、まだ10代の乙女だった。余りにも……余りにも……白の傭兵に対して……夢を見過ぎていた。

 待っていたのは真っ黒野郎。この時、ユウキの両目から光が消え失せたのは言うまでもないだろう。これがグリムロックならばギリギリ堪えられた。シノンといった女傭兵でも我慢できた。だが、真っ黒野郎だけは断じて否だった。なお、呼び出した白の傭兵は『仕事中だったのか。悪かった。何か奢るよ』的なことを言い、その隣で真っ黒野郎はユウキとは異なる質の無言で頭を抱えていた。彼は正しく全てを察したのである。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……何か喋りなよ」

 

「いや、キミが――」

 

「言い過ぎた! ごめん! ボクが悪かった! これで満足でしょ!?」

 

 半ば怒鳴るようにして自分の非を認めたユウキに、仮面を失った……ただし、仕事の関係で絶賛変装中のキリトは、何を言うべきか悩むような素振りを見せて、深く頭を下げた。

 

「キミには謝罪のしようもない。俺のせいでアリーヤは……」

 

「もう終わったことだよ。ボクは自分で仕掛けた戦いに負けた敗者。アリーヤはボクの代わりに死んだ。だから……誰かが悪いとするなら、負けたボクだよ」

 

「キミは俺を止めようとしてくれた。あの時、キミが戦ってくれていなかったら、俺は……もう引き返せなかったはずだから。戻れなかったはずだから。だから、『ありがとう』も言わせてくれ」

 

「……身勝手な奴だね、キミは」

 

「自覚はあるさ。それでも、謝罪と感謝を伝えるのは、俺の責任だから」

 

 ああ、嫌になる。本当に嫌になる。何もかもが嫌になる! 感情のままに吐き散らした自分がみじめになるばかりだ! ユウキは嘆息1つに冬の寒空を見上げる。

 

「言ったでしょ? もう……終わった事なんだよ。キミのことは大嫌いだけど、でも……憎しみや恨みを抱いているわけじゃないんだ。キミは踏み止まって戻れた。アスナが好きな『キミ』のままでいられたんだ。うん、それでいいよ。だったら、ボクはキミとの戦いには負けたけど、アリーヤのお陰で『勝てた』んだもん。むしろ、命懸けで戦ってくれたアリーヤを誇らないといけない」

 

 屁理屈? いいや、違う。あの戦いの勝敗とは生死によって定められるものではなかった。自分の刃は届かずとも、続いた誰かがキリトを踏み止まらせ、誰かが戻らせたのだ。キリトが『キリト』としてあり続けられるように。

 

「ねぇ、あとで殴ってもいい?」

 

「もちろん。殴られるだけの理由はある」

 

「冗談だよ。それで? 2人が組むなんて、どれだけ凶暴で強力なネームドが相手なの?」

 

「失踪者の調査依頼だよ」

 

「冗談だよね?」

 

「本当さ。少し……いや、かなりきな臭くなっているけどね」

 

 キリトの説明にユウキは苦虫を噛み潰したかのように表情を歪めた。事の経緯を聞いて、グリセルダが先手を打ったことに感謝もする。もしもクゥリの単独調査だった場合、ユウキの耳に入るのは全てが終わった後だろう。そして、事件後には間違いなくクゥリの目は混沌とした静寂となっていたはずだ。

 

「グリセルダさんが仕組んでキミと協働になった事は秘密なんだね?」

 

「ああ。秘密にするようなことでもないだろうけど、グリセルダさんから頼まれてるんだ」

 

 グリセルダの意図は明確だ。自分の采配でキリトが組んでいると悟れば、クゥリはスタンドプレーに走り易くなってしまう。それこそ『二手に分かれて調査した方が効率はいい』とでも言って独自調査を始めていたはずだ。敢えて自然な流れで組んだと思わせることによって、クゥリの暴走を抑制する狙いなのだろう。事実として、キリトをサポートする為にクゥリはユウキを呼び出すという本来ならばあり得ない行動を取っている。

 事件のあらましと欲しい情報を聞き、ユウキは思案する。確かに奇妙な点が多く、チェーングレイヴの協力があれば解決の糸口も見えるだろう。たとえば、地下ダンジョンのマップも取り寄せは可能かもしれなかった。

 

「羽振りがいい……狩猟ギルド……1ヶ月前……うーん……」

 

「心当たりがあるのか?」

 

「ごめん、思いつかない。でも、その人はわざわざクーを指名したんだよね? だったら……」

 

「……『最悪』のパターンを予想して動いた方が確実にいいな。嫌な展開だよ。でも、事件の真相さえ分かれば手の打ちようはあるさ」

 

 さすがは元相棒だ。よく分かっている。ユウキはクゥリの今回の相方がキリトで良かったと少しだけ安心した。

 

「それにしても遅いな」

 

「そうだね。クーは何をしてるんだろ?」

 

 屋台に昼食を買いに来た行列客。そこには大きな紙袋を抱えたクゥリの姿があった。だが、様子がおかしい。明らかに荷物量がおかしい。3人分だと仮定しても多過ぎる。それも複数の店を跨いで買い込んでいるようだった。

 クゥリはユウキの視線に気づくと、無表情で……だが『お邪魔虫は退散しているから、若い2人でごゆっくり!』とお見合いを応援するような眼でサムズアップした。

 

「…………」

 

 ああ、そういう事か。ここ最近のクゥリの妙な『愛人』推しはそういう理由だったのか。あの愛おしい愛おしい愛おしい白の傭兵はなんとお馬鹿でポンコツなのだろうか。ユウキもまた無表情となる。

 

「……あ」

 

 そして、キリトも察する。この男、女運は果てしなく激烈の類であるが、決して察しの悪い男ではないのだ。

 

「弁解させてくれ! 彼に悪気はないんだ!」

 

「知ってるけど何か? むしろ、ああいうポンコツな部分も含めて愛していますけど何か?」

 

「あ、愛……!? キミ、意外と堂々と宣言するんだな。だったら、何でキミと俺の関係を勘違いしているんだ? そもそも、俺達の仲が悪いって彼は知らないのか?」

 

「いや、仲が悪いことは知ってるはずだよ。知ってる上で誰にも予想できない捩じれ曲がって歪んだ結論に到達してしまうのがクーなんだよ。それに……その……ボク……まだ告白して……ないし……」

 

「それだけ堂々と愛してるって言えるのに?」

 

「そ、そうだよ……!」

 

 呆れたように頬杖をついたキリトに、ユウキは屈辱感を堪えながら掠れた声を出して涙目になる。

 

「だって、クーなんだよ? 告白しても……『今』はきっと拒絶されるだけ……だし……それはいいんだ。えと……ううん、違う……かな? 今は少し……かなり……怖い……かも。気持ちを伝えてしまったら、クーは……もうボクに近寄ってこないって……思うんだ。そしたら、クーは……きっと……」

 

「でも、受け入れてもらえるかもしれないじゃないか。少なくとも、クーは男女関係なく本気で告白されたら本気で対応するはずだ」

 

「『男女』って部分が本当に重要だよね」

 

 そして、クーが受けた告白の比率は男:女=10:0だったことも2人は当然の如く理解している。

 

「受け入れてもらえたとしても、きっと『届かない』。クーを余計に苦しめるだけかもしれない。だったら、それはボクの独りよがりだ」

 

 ヘタレでも何とでも呼べばいい。ユウキはテーブルに顔をうつ伏せにして、およそ好悪における悪の方に振り切れているキリト相手に最もデリケートな心情を吐露してしまったことに苛立つ。この男、女性限定で精神ロックを解除させるスキルを持っているのではないだろうかと疑いたくなる程に口が滑ってしまった。

 

「独りよがりでもいいじゃないか」

 

 腕を組んで唸ったキリトは正しく他人事のように唱える。

 

「駄目だよ!」

 

「キミの言う『届かない』は……悔しいけど、俺には『まだ』分からない。でも、キミ達の距離はこのままでは絶対に変わらないって確信はある。キミがクーに『届く』為には関係を変えるしかない」

 

「でも……!」

 

「キミはクーに『届く』ことを望んでいるだろう? だったら距離を近づけないと駄目だ。たとえ、形からでもキミたちの距離が近くなれば、その分だけ相手の違う面も見えるだろうし、見せてくれる機会も増える。その分だけキミがクーに『届く』手がかりも見つけられるようになるかもしれない」

 

 そうだろうか。ユウキはこれまでのクゥリとの関係を振り返り、そして気づく。

 確かにこれまで色々な事があった。クゥリもユウキに対しては色々な顔を見せるようにもなった。だが、ユウキとクゥリの関係の根底は……あのクリスマスの夜からほとんど変化していないのだ。

 預かった祈りは呪いとなり、ユウキは自分の『答え』に祈ることを選んだ。その果てに今の関係がある。だが、クゥリが微睡んで今もユウキに無防備な姿を見せてくれるのは、2人の関係が変わったからではなく、クゥリの側で何かがあったからだとユウキもぼんやりと察している。

 

「俺も偉そうなことは言えないさ。シリカは早々に俺との新しい関係を築く覚悟を決めたのに、俺は彼女の想いに対してまるで応えきれていない」

 

「好きなら好きでお付き合いを始めればいいし、嫌いなら嫌いでフッちゃえばいいじゃないかな?」

 

「キミも他人事だと物が言えるんだな……。俺達の関係はそう簡単じゃないんだ。俺が拒絶を告げてもシリカは決して離れない。たとえ、俺がシリカとの関係を断とうとしても、彼女は地獄の底まで俺についてくる。そんな彼女と俺はどう向き合えばいいのか、悩んでいるよ」

 

「男冥利に尽きる贅沢な悩みだね」

 

「ああ、本当にな」

 

 愛してくれるから愛する。それが理であるならば、どんな告白も成就100パーセントだ。この世から恋愛相談など消えてなくなる。だからこそキリトは悩み苦しみながらシリカの愛情に真面目に対応しようとして、それ故にシリカの術中に嵌まっているようなものなのだろう。

 

「……キミの好きなようにすればいいんだよ。理屈で管理するようなものじゃない。自分が好きになった人に『好き』って伝えればいいんだ。それが誰なのか分からないし、結果的にシリカを苦しめるかもしれないけど、でも……それ以外にキミにできることはないよ」

 

「ユウキがそれを言うのか? まだクーに告白もできていないヘタレのくせに」

 

「言っておくけど、客観的に2人の関係を見たら、キミってシリカで遊んでるクズ男だからね? それも含めてシリカの罠って気づいてる?」

 

「……う、薄々だけどな」

 

「自覚があるようで何よりだよ」

 

 少しだけ視線を重ね合って、どちらからだったかも分からずに互いを嗤う。互いを嘲って、互いの理解を深める。好悪は変わらずともお互いの存在を認めることはできるのだから。

 

「貴重なアドバイスを受け取っておくよ。俺の知り合いだとキミみたいな率直過ぎる意見は聞けないからさ」

 

「ボクも頑張ってみるよ。クーとの関係を変える。変えてみせる。怖いけど……でも……」

 

 ヨルコも応援してくれた。1度あったからといって2度目のチャンスがある保証などない。

 

「じゃあ、戻ってきたら告白だな!」

 

「そ、それはさすがに無理だよ! それに、もうちょっと……雰囲気とか……」

 

 そうだ! 折角の12月だし、クリスマスとか! 早速『逃げ』のヘタレ思考にユウキが走ったとキリトは見抜いたのか、大袈裟に思える程に溜め息を吐くとやがて口元を歪める。

 あ、嫌な予感がする。ユウキはキリトの視線の先……紙袋いっぱいを抱えて戻ってくるクゥリに気付き、この真っ黒野郎が恐るべき暴挙に出るつもりだと察知する。

 

「そうか。じゃあ、とりあえず俺がクーのキミに対する気持ちを軽く確認しよう。なーに、あくまで『軽く』さ」

 

「ま、待って! 駄目! せめて心の準備を――」

 

「HAHAHA! 2人して何を楽しそうに話しているんだ? やっぱりオレはお邪魔だったかな? なにせ2人は……うん! なかなかに息が合いそうだし、お似合いだとオレも思うぞ!」

 

 うわぁ、凄いわざとらし過ぎて浮いてる演技だ。これだからクーは……! ユウキは思わず唖然とするが、今はそれどころではない。キリトを何としても封じ込めるのが最優先だ。

 即座に≪絶影剣≫を発動させようとしたユウキであるが、キリトの方が1枚上手だった。クゥリの荷物を受け取るべく立ち上がり、彼の正面ポジションを確保する。

 

「そっか。俺達がそんなにお似合いに見えるのか。でも、そう言うキミ自身は彼女のことを……『女の子』としてどう思ってるんだ?」

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 突然の問いかけに、オレはユウキの耳まで真っ赤な顔とキリトの真面目な表情を何度も見比べる。

 オレがユウキを『女の子』としてどう思っているかって?

 それはもう決まっているだろう。愛している。大好きだ。殺して、壊して、殺して、壊して、殺して、殺して、殺して、涙と悲鳴で濡れて恐怖で味付けされた『命』を残さず貪り喰らいたいくらいには愛している。

 首を絞めればどんな風に泣いてくれるだろうか? どんな苦悶の表情を見せてくれるだろうか? どんな涙を流してくれるだろうか?

 刃を臓物に突き立て、退くと肉を食い千切り、骨の髄まで丹念に噛み砕く。そしたら、どんな悲鳴で囀ってくれるだろうか?

 ただ……ただただ殺して愛したい。愛して殺したい。あらん限りの愛のままに殺したい。あらん限りの殺意のままに愛したい。

 だからこそ、ユウキには夜明けの光の向こう側にたどり着いてほしい。

 オレは知っているから。キミはきっとオレの為に泣いてくれる『優しい人』だから。こんなにも愛して殺して愛したいから。どうか暁の先にある黄金の稲穂を。キミはオレが見た夜の太陽だったからこそ、夜明けを阻む全てを狩り尽くしそう。

 人間性を捧げ続けても、その最後まで……キミが知っている『オレ』であろう。『優しくあろうとする』ことが『オレ』であるならば、キミを貪り喰らいたい殺意と愛に誓って、痛みと『痛み』の海に溺れる……灰となって散る瞬間までユウキが知っている『オレ』であろう。

 まぁ、オレのユウキに対する気持ちなんてその程度のものだ。特筆事項はない。

 

 その上で……考える。

 

 キリトの発言の意図を……考えねばならない!

 

 かつて、キリトがここまで強く、アスナ以外で……最重要ではあるが、アスナ以外で! 女の子について言及したことがあったか! エロい下心とか抜きのこんな真面目な顔であっただろうか!? いや、無い! 絶対に無い!

 つまり、これは……脈があるのではないのか? キリト、思いの外にユウキを『女の子』として好いてる感情に気づいてしまったのではないのか!?

 いやいや、待て! 早合点するな。ここで打つべき手を考えろ。今ある手札の有効的な使い道を考えろ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(フッ、この程度のことも分からないとはね、ワトソンくん!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こ、この声は……ヤツメ様! まるでシャーロック・ホームズのような鹿撃ち帽とパイプと口髭を装備したヤツメ様ではありませんか!?

 

(簡単な推理だよ。キミと彼女の関係を考慮すれば、彼女に好意を抱いている男がまず確認するのは、彼女に近しい異性であるキミの感情に決まってるだろう?)

 

 確かに……確かにその通り! キリトはヤンヤンホイホイではあるが、自発的に女の子を口説き落とそうとしているわけではない! ましてや、俺達はYU☆JOを誓い合ったフレンド! オレがユウキに好意を抱いているならば、キリトもまだぼんやりとした好意を敢えて握り潰す選択をするだろう!

 そして、ユウキの反応! これ、満更じゃない! 自分の為にわざわざオレとの関係に突っ込むキリトに対して満更じゃない反応! いや、それは当然だ! ユウキはキリトに対してかなりの好感を抱いている! この情報は灼けていないからまず確定だろう!

 ホームズ! ここでオレが取るべき発言は!? どれなんですか!?

 

(ワトソンくん、キミがすべき最適解は……これだ!)

 

 ヤツメ様は背伸びしてオレに耳打ちする。ふむ……ふむ……ふむむ!

 これがヤツメ様の導きだ。分かりました! オレが取るべきことは1つ!

 

「オマエの言いたいことはよく分かった。気を遣ったつもりが、逆に気を遣わせてしまったみたいで悪かったな」

 

「……そうか。幾らキミでも分かってくれたんだな?」

 

「ああ、もちろんだ」

 

 キリトの肩を叩き、オレはテーブルに荷物を置き、目元まで深くフードを引き寄せて背中を向ける。

 

「2人の邪魔はしない。ここからは『二手に分かれて捜査』しよう。こっちも何か掴んだら――」

 

「「絶対に駄目!」」

 

 え!? 何!? コイツら急に血相を変えてどうしちゃったの!?

 

「ほ、ほら! これは俺達が引き受けた依頼だし! ユウキはあくまで情報提供者だろ?」

 

「そうそう! ボクも及ばずながら手伝うよ! その方が仕事も早く終わってクーも楽でしょ!?」

 

「……2人とも無理していないか?」

 

「「全然」」

 

 ふむ。呼吸はぴったりだな。高VR適性者同士、やはり通じ合うものがあるのだろうな。

 ところで、ヤツメ様が狩人にいつも以上に切り刻まれて連行されているのは何故だろうか? 今回はヤツメ様……珍しく平和的な最適解を出してくれたはずなんだがな?

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ごめん。クーを舐めてた」

 

「いや、そもそもキミのフライングだし」

 

 ユウキに冷たい視線を浴びせられ、キリトは確かにその通りであるが、援護射撃が全く掠りもしないクゥリの回避能力……もとい、鈍感っぷりには呆れるばかりだった。

 キリトが知る限り、クゥリはむしろ他人の感情の機敏を細やかに拾い上げるタイプである。人間関係の些細な不和にも口にこそしないが察知している節がアインクラッドの頃から散見していた。

 特に戦闘時……対人戦においてクゥリが無類の強さを発揮するのは、相手の思考や感情を分析……いいや、トレースする域にまで達した驚異的な予測にある。それが野生動物すらも上回る直感と組み合わさることによって凶悪さが増すのだ。

 だが、自分に向けられる感情……特に正の感情に対してはあまりにも鈍過ぎる。逆に負の感情に対しては極めて鋭敏だ。

 

(やっぱり、自己評価の低さが原因……なのか?)

 

 言動に騙されがちであるが、クゥリは恐ろしく自己評価が低い人間である。調子に乗って増長して転落して自己嫌悪に陥る傾向があるキリトとはある意味で対極と言えるだろう。

 

「でも、心遣いは感謝するよ。ボクも……決心がついた。クーにちゃんと気持ちを伝える」

 

 だが、キリトが着火させた甲斐はあったらしく、ユウキも決意を固めたようであった。

 

「クリスマスに……告白する!」

 

「そっか。気持ちさえあれば告白なんていつでも出来るんだろうけど、やっぱり雰囲気は大事だしな。それに丁度いいじゃないか。クリスマスって確かクーの誕生日だろ?」

 

 気持ちさえあれば告白なんていつでも出来る。だが、やっぱり怖くて二の足を踏んでしまう。だからこそ、雰囲気とタイミングで後押しを求めるのだ。聖夜が想い人の誕生日など、告白の絶好のシチュエーションである。

 問題はクゥリの方だろう。現在、ユウキはキリトが求める情報を持っている人物の元へと案内しているのだが、明らかにクゥリは距離を置いている。具体的には、キリトとユウキが2人で『仲良く』会話できるように、自分は邪魔しないとアピールするように露骨に離れている。

 

「……何がどう捻じ曲がったら俺達の誤解ができるんだ?」

 

「『クーだから』だよ」

 

「説得力以外になくて反論できないのが心苦しいな」

 

 和解したかに見える2人であるが、キリトの方は罪悪感で、ユウキの方は嫌悪感で大方を埋め尽くされている。こうして会話が成立しているのは、感情を超えてコミュニケーションを取らねばならないと互いに認識しているからであり、また2人の間にはクゥリという存在の重要性が共通しているからだ。

 許されたとしても消えることはない。いつまでも心の内に残り続け、重荷のようにのしかかり続ける。それが『罪』というものなのだろう。逆に言えば、罪悪感を覚える内は『人』と呼べるのだろう。

 

「キミの欲しがってる情報だけど、そもそも無償提供できるわけじゃないし、相応の対価は覚悟してね?」

 

「タダより怖いものはないからな。むしろ相場以上の金額を提示された方が安心するさ」

 

「……クー程じゃないにしても、キミも交渉は得意じゃなさそうだし、せいぜい足下を見られないように願っておくよ。ほら、ここだよ」

 

 ユウキが案内したのは快楽街にある階段を下り、更に軋んだ音を立てるエレベーターを降りた先にある地下である。

 酒場から娼館まで並ぶ快楽街は元より治安はよろしくないが、そこにもランクが存在する。快楽地下街はより貧民街がある下層により近しく、太陽の光は決して当たらず、また下水道の湿気で路上も薄っすらと濡れていた。まだ昼過ぎであるというのに、既に娼館勤めではない立ち娼婦や怪しげな薬のバイヤーまでおり、盗品市場程ではないにしてもグレーな商品を並べる露天商も多かった。

 自然と身構えるが、これでもDBOの治安の最下ではない。むしろ、ここ最近の『表』の治安の方が良化しているのだ。大ギルドは横暴であり、時として多くの人々を巻き込む闘争や陰謀を生み出すが、いずれも社会秩序の形成を目指している。大ギルドの存在がなければ、人口増加の一途を辿るDBOは攻略などする余地もない程にプレイヤー同士でその日を生きる為の争いが続いていただろう。

 

「これから会う人だけど、クーの来訪は伝えていないし、正体は明かさないで欲しいんだ」

 

「重々承知してる。オレがいたら暗殺しに来たと誤解されるからな」

 

「そ、そうじゃないよ!? ただ、今は少し時期が悪いだけで……うん……ごめん」

 

 キリトは努めて何事もないように接しているが、現在のDBOは先のラストサンクチュアリ壊滅作戦の衝撃から抜けきっていない。クゥリはもはやいつ爆発するか分からない核爆弾、あるいは街に放たれた手が付けられない猛獣のような扱いだ。各報道ギルドも熱を冷め切らせることなく、あの時の中継映像を使っている。もちろん、ショッキングな映像にならないように切り取られているが、それでもクゥリの危険性・凶暴性がクローズアップされる傾向にある。

 ラストサンクチュアリを物理的に壊滅させたのはクゥリであるが、歩調を合わせた度重なる報道は『【渡り鳥】によってラストサンクチュアリは壊滅された』という点を繰り返すことによって刷り込みが行われているのだ。

 人々か真実を問おうにもDBOは仮想世界でありながらネット環境とは無縁であり、より前時代的なツールを頼るしかない。各種通信インフラも大ギルドを中心にして整備され始めているが、今も主だったツールはフレンドメールであり、即応性があるチャット機能がない。DBOの運営……茅場の後継者にはわざとプレイヤー間のコミュニケーションを限定的にすることによって、プレイヤー間の疑心暗鬼を促進させる狙いがあり、また拡張次第では現実世界と変わらぬインフラを手に入れられることは、DBOの自由度の高さ……もとい『永住』という終着点を想像させるには十分だった。

 

「気にしていない。そこの黒いのと違って、オレはちゃんと今の自分の状況を客観視できている」

 

「…………」

 

 クゥリの発言にユウキの目と顔から感情が抜け落ちる。キリトは彼女の内心を察する。他でもないクゥリが自分を客観視できているとか笑い話にもならないからだ。彼は自分が思っている以上に他者にも社会にも影響を与えている。もう少し自覚でもあれば軟着陸できた案件は無数とあったはずである。

 ユウキが案内したのは紫色のランプが灯された怪しげな店だった。外観はまるで魔女の館のようであり、他の建造物に比べても年季が入っている……ように塗装されている。いわゆる雰囲気作りなのだろう。

 木製の戸を開けると脳まで突き抜けるような薬のニオイが突き抜けた。数多の香草を煮込んで濃縮させたような香りである。キリトは眉間に皺を寄せ、大鍋で煮込まれている緑色の液体や天井から吊るされている乾燥した草束や動物の足は否応なく不安を募らせる。

 

「マクスウェルさーん?」

 

 ユウキが店主の名を呼べば、畏敬の頭蓋骨が並ぶカウンターの奥からスキンヘッドの男が姿が現れる。キリトはその男に見覚えがあった。ワンモアタイムの前身の店を襲っていた借金取りである。

 

「馬鹿娘が。『表』の仕事着で来るヤツがいるか」

 

「ここは一応グレーゾーンでしょ?」

 

「普段の油断が真なる危機を招く。心構えの問題だ」

 

 ユウキを叱りつけたスキンヘッドの男は不機嫌そうにキリトを、次にクゥリを訝しむように見つめる。とはいえ、クゥリは教会服でフードを深く被っている為に正体がバレていないだろう。

 キリトは色眼鏡を外して素顔を晒す。マクスウェルは事前に連絡を受けていたらしく、特に反応を示さなかった。

 

「はじめまして。サインズ傭兵のキリトだ。ユウキから話は――」

 

「2度目だろう? そちらは仮面をつけていたがな」

 

「『キリト』としては初対面だ」

 

 過去の遺恨は流したいと暗に伝えたキリトに、マクスウェルも承知したのだろう。クゥリにも視線を向けたが、彼はフードを外すことなく沈黙を保った。

 

「あ、こっちの人は気にしないで。ただの同行者だよ。ボクが保証する」

 

「……いいだろう。詳しくは追及しない」

 

 ユウキには随分と信頼を置いているらしく、マクスウェルはクゥリの正体を不問とした。

 

「ここにある薬はいずれも『表』では流通させ難いものばかりでな。素材にしてもそうだ。アインクラッド完全攻略の立役者にして、聖剣の使い手たる偉大なる【黒の剣士】殿が踏み入るには穢れが過ぎるのはご了承いただこうか。そちらの『お嬢さん』はここで待っていただきたい。ユウキには悪いが、顔を見せぬ輩とは出来ぬ話もあるだろうからな」

 

「…………」

 

「頼む、堪えてくれ」

 

 交渉に加われないことではなく、地雷を踏まれたことでクゥリがフードを外そうとする所作をキリトは止める。ユウキが事前通達しなかったのは、クゥリが同行していることを知られれば取引に支障が生じかねないと判断したからだ。クゥリも理解しているが、半ば反射的な行動に近かった。

 マクスウェルは店の奥に案内する。そこは取引用の応接室にて数分ほど待てば、彼は温かな緑茶を運んできた。マクスウェルの隣にはユウキが座り、キリトはテーブルを挟んで彼らと相対する形となる。

 

「美味い。良い茶葉を使ってるんだな」

 

「1袋300コルの安物だ。味のわからない男だな」

 

 強烈なカウンターを喰らわせてきたマクスウェルの隣でユウキが笑いを堪える。

 ……お世辞だ。それに美味しいのには変わりない。キリトは黙々と緑茶を喉に流し込む。

 

「さて、言うまでもないことだが、チェーングレイヴは犯罪ギルドにカテゴライズされる。とはいえ、『表』とも相応の折り合いをつけた関係を保っているのも確かだ。他でもないユウキからの紹介でもあるし、所望の情報を提供できないこともない」

 

 娼館経営を代表されるように、敢えて犯罪ギルドとカテゴライズされる者達が支配権を有している領域がある。彼らに対して大ギルドは表面上こそ是としない立場を取っているが、実際には『裏』にまで介入して余計なコストと火種を作りたくないというのが本音である。キリトもそれは重々承知している。

 

「1ヶ月前の市場周辺の地下ダンジョンのマップデータ……30万コルで売ろう」

 

「30万か。いくら何でも――」

 

「高過ぎるか? 何事にも希少価値というものがある。地下ダンジョンのマップデータを細かく更新し、かつ保存しているのは我々だけだ。浅い階層ならば好奇心で探索したプレイヤーもいるかもしれないが、果たして都合よく1ヶ月前のマップデータを持っている者が見つかるだろうな」

 

 吹っ掛けられているのか。それとも適正価格か。キリトはまずユウキを見れば、彼女は面白おかしそうに口元を歪める。彼女が味方であるはずがない。

 

「これでもユウキからの紹介を考慮に入れた良心価格だ。本来ならば倍額でも足りん」

 

「マップデータの価値は知ってるさ。でも30万は高過ぎる。せめて半額だ」

 

 通常のダンジョンならともかくとして、終わりつつある街の地下ダンジョン……それも表層部に限定するならば、そこまでの値打ちもないのも事実である。SAOで多くのマップデータを提供していたキリトだからこそ大よその相場も把握できた。

 

「話にもならんな」

 

「それはどうかな? 俺達の今回の依頼は1ヶ月前の失踪者の捜索で、その範疇で止まらない事になるとしたら?」

 

「何が言いたい?」

 

「俺も犯罪ギルドについて詳しくないけど、チェーングレイヴは武闘派集団で、他犯罪ギルドの用心棒のような役割を担うことで逆に統率する立場にあることくらい知ってるつもりだ。大ギルドが『表』の支配をし、チェーングレイヴは『裏』に秩序を敷く。大規模な犯罪ギルド同士の抗争がこれまで起きていないのは、チェーングレイヴが楔となっていたからだ」

 

 逆に言えば、あらゆる犯罪ギルドが敵に回したくないと恐れる程度にはチェーングレイヴの武力は突出しているという事でもある。一説によれば、全構成員が大ギルドの精鋭に匹敵するとされており、幹部陣に至ってはトッププレイヤーにも匹敵する。なおかつ彼らのいずれも暗器使いであり、対人戦に特化されており、一筋縄ではいかない。

 だが、人口増加によって貧民プレイヤーが増えただけではなく、『裏』を根城とする住人もまた増加を辿った。犯罪ギルドもその分だけ増え始めており、チェーングレイヴの武力による統率が十二分に行き届いていないのもまた実情である。

 

「ユウキを介したとはいえ、俺に情報を易々と売るとは思えない。アンタにとって情報を売ることが『有益』でもない限り……な」

 

 つまりはキリトに情報を売ることでチェーングレイヴは何かを狙えるということだ。『売却できる希少な情報』であるならば、ユウキを介在して売却するだけでいいはずだ。だが、マクスウェルはわざわざ面会するというリスクを犯した。

 つまりはこちらの出方を見る必要があるという事である。キリトはマクスウェルの反応を待つ。

 

「……ふむ、どうやら節穴ではないようだな。合格だ」

 

 顎を撫でたマクスウェルは薄く笑う。

 

「え? え? え!? 何のこと!?」

 

 何も知らされてなかっただろうユウキは混乱している。だが、キリトも1から説明する義理はなかった。

 

「こちらの意図を読めない阿呆ならば踊ってもらうつもりだったが、【黒の剣士】の眼は存外に腐っていなかったようだ」

 

「褒めないでくれ。こっちもギリギリだし、交渉事で裏を読むなんて不慣れなんだ」

 

「だが、取引に値する人物であるとお前は示した。馬鹿娘とは大違いだな」

 

 自分が貶されたことに頬を膨らましたユウキであるが、マクスウェルの声音にはむしろユウキの素直さを褒めるような好感が宿っていた。

 ユウキは良くも悪くも真っ直ぐなのだろう。会話の内で裏の読み合いをするような人間にとって、それはむしろオアシスのようなものなのだ。

 

「察しの通り、人口増加に伴い治安は悪化し、より悪質な犯罪ギルドの乱立と抗争を招いている。新興の犯罪ギルドは形振り構わぬ手段で組織拡大と資金調達を行い、それは旧来の『裏』の秩序を担ってきた犯罪ギルドの調和を乱している」

 

「チェーングレイヴとしては何とかしたいけど、人員も足りない。質の高さを売りにした武闘派であるが故に数を増やして対応することはできないってわけか」

 

「どれだけ個人の質が高くとも数で勝られてはな。なにせ、チェーングレイヴのメンバーは100人程度だ。武力で潰すにしても、やり過ぎれば新興同士で結託されるし、エバーライフ・コールのように我々とは手を結ばずに中立を表明する犯罪ギルドも敵に回してしまう」

 

 著しく悪質な犯罪ギルドならばチェーングレイヴが粛清するのだろうが、その線引きを誤るわけにはいかない。だからといって大ギルドなどの『表』の権力が介入し過ぎれば面目丸潰れでチェーングレイヴの影響力は落ちてしまうのだ。そうなれば、方針を変更してチェーングレイヴの増員を行うのが筋であるが、それは彼らの理念……『裏』の秩序を敷くのとは別の部分で看過できないのだろう。

 

「……クラインはどう考えているんだ?」

 

 チェーングレイヴの謎に包まれたボス……かつて鉄の城で共に駆けた戦友の名を出し、キリトはかつて打ち抜かれた目が痛みを発したような気がした。約束の塔にて、ユウキとアリーヤを斬ったキリトはクラインに敗北した。『力』に傾倒して呑み込まれた彼を破って殺そうとした。かつての友の命を奪ってでも止めるという覚悟を示した。

 今再び顔を合わせればどんな話が出来るだろうか。まずは殴られるだろう。その後はどうなるか定かではないが、少なくともキリトとクラインは相容れない道を進んでいるのは間違いなかった。

 だが、それでも顔を合わせば殺し合いの関係でもない。キリトとしても、必要悪としてチェーングレイヴを率いるクラインの意図は承知しているつもりだ。青臭い正義感や理想論で彼の背負う業を無視するつもりはない。

 

「ボスにはボスで考えがある。事業拡大で影響力を高めているのもその一環だ。だが、なにせ人口増加が止まらんからにはどうしようもない」

 

 デスゲームを攻略する上で、SAOでも悩まされたのが人的資源の枯渇であったが、DBOは真逆の事態の陥っている。それは奇妙であり、同時にキリトに言いしれない不安を発露させる。

 

(そもそもプレイヤー人口を増やす意味は何なんだ? プレイヤーが増え続けることに茅場の後継者にとって何のメリットがある?)

 

 デスゲームにおける『運営側』の勝利の定番はプレイヤー側の全滅である。SAOの場合、茅場晶彦は完全攻略というゴールこそ提示したが、プレイヤーを仮想世界の囚人にすることで彼自身の目的は達成されている。

 ここだ。人口増加というプレイヤー側の本来は強化要素にこそ、茅場の後継者の悪意とDBO攻略の糸口が隠されている。キリトは探るべきことができたと静かに拳を握った。

 

「ユウキから連絡を受けた通り、地下ダンジョンのマップデータが欲しいのは失踪者の捜索の為だったな」

 

「ああ。さすがに1ヶ月前ならもう死んでるかもしれないが、それでも依頼人は納得していない」

 

「人攫いなど珍しくもないが、ここ最近は大ギルドや教会が治安維持に尽力しているように『表』は社会秩序の構築に執心だ。大ギルドの介入を防ぐ為にも、チェーングレイヴは旧来の有力な犯罪ギルドと連携を取っている」

 

 人攫いなど珍しくもない。そんな発言にキリトは眉を顰めるが、それもまたDBOの現実だ。貧民プレイヤーは日常的に生命の危機に……理不尽に見舞われ続けている。

 後ろ盾がなければ生きていくことさえもできない。ラストサンクチュアリの1000人の貧民プレイヤーを思い返す。腐った聖域と嘲われようともラストサンクチュアリの庇護下にあるというだけで彼らには後ろ盾があったのだ。だが、今やそれもなくなかった。ラストサンクチュアリの資産を分配し、また職も優先的に紹介されるように手筈も整えているが、柵に囲われて守られていた羊が狼との苛烈な競争をしなければならない未来が待っている。

 

「【ヴェノム=ヒュドラ】という犯罪ギルドを聞いたことはあるか?」

 

「……いいや」

 

「犯罪ギルドでも特に悪質な連中だ。新興の犯罪ギルドを次々に平らげて勢力を拡大中で、多くの子飼いの盗賊ギルドも抱えている。純構成員は1000人を超えているだろう」

 

 単純な人数で言えばチェーングレイヴの10倍だ。末端も加えれば更に人数を増すだろう。

 

「『表』を支配するのが3大ギルドと教会ならば、『裏』はチェーングレイヴが取り纏める旧来の犯罪ギルド、エバーライフ・コールを代表とした中立、ヴェノム=ヒュドラが率いる新興の3つに分けられる。娼館などの快楽街や下位プレイヤーが主に暮らす下層など、『表』の住人も比較的立ち入りやすい地区は旧来の犯罪ギルドの縄張りだが、旧市街の奥地や最下層となるとヴェノム=ヒュドラの影響力の方が強い」

 

「つまり、今回の人攫いはヴェノム=ヒュドラが関与しているかもしれない……ってわけか」

 

「ああ。連中は勢い付いていて、ここ最近は下層にまで影響力を広めようと企み、また我々が作り上げた『裏』の秩序を綻ばせる真似を繰り返している。たとえば『これ』だ」

 

 そう言ってマクスウェルが具現化させたのは、美しい金色の液体が入った小瓶だ。途端にユウキは露骨に嫌悪感を示す。

 

「マクスウェルさん、それ……」

 

「これが何なんだ?」

 

 少なくともまともな薬ではないのは間違いないだろう。キリトは小瓶を手に取り、アイテム説明欄を確認する。名称は【甘蜜の水金】だ。まるで水銀のような黄金という意味だろう。マクスウェルの許可をもらって蓋を開ければ、舐めとりたい誘惑が駆られる程に甘い香りがしてキリトは嫌な予感を募らせる。

 

「……麻薬アイテムだよ。それもかなりの中毒性がある」

 

「安酒にでも混ぜればまるで名酒を口にしたような極楽に至るような酩酊を味わえ、また精力増強剤にもなる。だが、この興奮作用が曲者でな。使用すると攻撃的になり、思考力も低下する。中毒性も高いから始末に負えん。少し前にも娼館で使用した馬鹿がいてな。娼婦を絞め殺した。レシピも分かっていないから素材の流通ルートも不明。ヴェノム=ヒュドラの資金源の1つだ」

 

 チェーングレイヴは敢えて麻薬アイテムの流通を取り仕切ることによって蔓延と中毒者をコントロールしてきた。だが、人口増加に伴う新興勢力の拡大によって制御しきれなくなっているのだろう。

 

「だが、これでもマシな方だ。ここ最近は質が落ちたせいか、中毒症状も幾らか緩和されている。娼館における客層への蔓延も、何処かの阿呆が『とんでもない媚薬』の臨床実験で配布したお陰で流行を完全に持っていった。お陰で別の意味で悲鳴を上げたい惨状ではあるがな。製作者とは連絡も取れてレシピも買い取り、フォックス・ネストが生産を行うことになった。娼館での甘蜜の水金の流行は抑えられるだろう」

 

「そ、そうか」

 

 どう見ても感情を表に出さないタイプだろうマクスウェルですらも額を押さえる程度には、娼館で流行中の媚薬は『酷い』のだろう。キリトがごくりと思わず生唾を飲めば、ユウキの絶対零度の視線を浴びて顔を背けた。

 

「連中は手段を選ばないが、ここ最近になって悪質になるだけではなく、より組織化されて洗練されている。どうやら強力なブレインがついたようだな。暗殺から人攫いまで何でもする。この前も連中の手先が快楽街に来ていた、クラウドアース所属の女性プレイヤーを拉致しようとしていた所を防いだところだ。その時は末端のやったことだとして尻尾切りされてしまったがな。いっそ泳がせてもよかったのだが……」

 

 そこまで良心を捨てたつもりはない、という事なのだろう。たとえ犯罪ギルドに身を置こうとも線引きを弁えているのがマクスウェルという人物の一端を示していた。 

 

「こんな発言は間違っているけど、どうしてわざわざクラウドアースのメンバーを?」

 

 もちろん、外観からは判断できないという理由もあるかもしれないが、身なりからして少なくとも貧民プレイヤーとの区別は出来るはずだ。それなりの組織に属しているともなれば、最悪の場合は大ギルドが重い腰を上げてチェーングレイヴなどの旧来の犯罪ギルドの面子を潰すと分かっていても殲滅に乗り出すはずである。もちろん、その後には大きな禍根と波紋を残すことになるだろう。

 

「貧民プレイヤーでは『物足りない』。本来ならば手が届かない存在……高レベルのプレイヤーを貧民のゴミ溜めに引きずり下ろしたい、貶められたい者はいるということだ。美しい絵画を引き裂きたい黒い衝動を持つ者はいる」

 

 そんな理不尽があってたまるものか。キリトは自然と拳を握る。

 確かに大ギルドの下で安全に成長した『養殖プレイヤー』などと揶揄される者達もいる。だが、彼らとて育成を受けるに足るだけの素質を見出され、また最低ラインをクリアするだけの地力を得る努力をしたはずだ。

 

「もしかしたら、レモネーの拉致もヴェノム=ヒュドラが関与しているかもしれない。そういう事なんだな?」

 

「確定情報ではないが、連中ならばやりかねないし、我々としても奴らの勢いを挫きたい。簡単に言えば『言いがかり』が欲しいのだよ。『【黒の剣士】が動いている』というだけで『大ギルドが大手を振って介入してくるかもしれない』というカードになる。それだけで十分だ」

 

 だったら『【渡り鳥】が動いている』となるとどうなるのだろうか? キリトとユウキの気持ちは同じだったように、この場に居合わせていない事が幸運だったと安堵の吐息が重なった。

 

「そちらの意図は分かった。俺としてもそんな危険な連中は放っておけない。何か情報を得たら連絡する」

 

「これが私のアドレスだ。フレンド登録はするな。我々は犯罪ギルドだ。『何か』があった時に共犯扱いされたくあるまい?」

 

 手段を選ばない連中ならば、これから分配された資産を受け取るラストサンクチュアリの貧民プレイヤーたちを見逃さないはずがない。キリトとしても、チェーングレイヴが勢力をそいでくれるならば歓迎できる。

 

「だが、聞いた限りでは期待できんがな。そのレモネーだったか? いくら奴らでも市場から堂々と拉致などできるはずもない。人目が多過ぎる」

 

「……だよな。何か心当たりはないか?」

 

「あるならば我々だけで動いている。だが、そちらには何か読めたことがあるのだろう?」

 

「まだ推測さ。別の情報が欲しい。次は失踪者リストと失踪場所かな?」

 

「ならば大ギルド……いいや、教会の方が確かだろう。教会剣の活動で連中は終わりつつある街の膨大なマップデータを保管しているはずだ。失踪者が出たならば、まずは教会に駆け込むのも定番だろうしな。先程の教会のお嬢さんにお願いすれば、情報を引き出せるだろう」

 

 クーは教会関係者ではないんだけどな。キリトは苦笑を隠しながらマクスウェルのアドバイスに感謝して握手を求めるが、彼は応じようとはしなかった。

 

「今回はお前の捜査が我々の利益になると判断したまでだ」

 

「それでも感謝するよ。支払いはここでいいか?」

 

「後でユウキを経由して請求書を送る。お前ほどの男が支払いを渋るとは思わんさ」

 

「えー! なんでボクが!?」

 

「誰が火種を持ち込んだ?」

 

「……分かったよ」

 

 ユウキは文句を垂らしながら先に席を立ち、キリトもそれに続こうとするが、マクスウェルの視線に気づいて足を止める。彼にはまだ話があるようだった。

 マクスウェルは1人で茶を飲みながら、だが揺れる水面に何かを映し込んでいるように静かな声音を響かせる。

 

「アリーヤは勇敢だったか?」

 

「…………」

 

「アレは私がテイミングしたものだ。臆病で女好きで、ユウキにはよく懐いていたのだが、十分に役立ったか不安でね」

 

 キリトの所業をすべて知った上で何事も無かったように接してくれていたのだろう。キリトはマクスウェルに頭を下げようとして、だがそれは彼に対する非礼であると悟る。

 

「……ああ。俺は彼に『負けた』よ。お陰で今の『俺』がいる」

 

「そうか。あの【黒の剣士】から白星を奪ったとなれば誉れ高い」

 

 それ以上はマクスウェルも何も言わなかった。

 キリトは応接室から退室する。だが、商品が陳列された店内スペースにて暇にしているだろうクゥリの姿はない。代わりにいるのは何処か飄々とした態度をした細身の男だった。

 

「おやぁ? ユウキったらあの【黒の剣士】とご一緒だったんですかぁ? もしかして2人は――」

 

「違うよ! ボクはただの付き添い!」

 

「ムキになって否定するのが逆に怪しいですねぇ」

 

 この男にも見覚えがある。マクスウェルと同じく、キリトがかつて戦ったチェーングレイヴの構成員であるチャクラム使いだ。

 

「レグライドです。以後お見知りおきを。ああ、過去の事はお気にならさらずに。あんなの我々にとって日常茶飯事。命あるだけ儲けですよぉ。それで? ユウキとの関係は?」

 

「キリトだ。俺とユウキの関係は……えーと……友人?」

 

「は?」

 

「ごめん」

 

「アハハハ! いえいえ、大体は予想していましたよ! なんとも奇怪な関係ですね!」

 

 最初から把握してからかったのだろう。キリトとユウキの関係は奇妙以外に言い表せないのも確かだ。知人と呼ぶには互いを知り過ぎた。仲間や友人など以ての外だ。

 

「騒がしいと思えばお前か。何の用だ?」

 

「例の媚薬が入庫したと聞いて急いで足を運んだんですよぉ」

 

「売り切れだ」

 

「えー!? 身内用に残していないんですかぁ!?」

 

 現れたマクスウェルはレグライドの要求を鼻で笑う。先の話で出た媚薬は優先的に娼館に配られているらしく、一般で購入するには希少性が高いようだった。

 男の爛れた欲望にユウキは顔を赤くして後退る。同情するキリトであるが、それよりも優先しなければならないのはクゥリの不在だった。

 

「すまない。ここに教会の人はいなかったか? 俺の連れ合いなんだ」

 

「教会? ああ、あの美人さんですね! いやぁ、顔は見えなかったですけど、あれは絶対に美人ですね! ユウキ並みに胸が無いのは残念ですが」

 

「ねぇ、ここの男にデリカシーって無いの?」

 

「アハハハ! 犯罪ギルドにデリカシーを求める方がおかしいですよぉ」

 

 いや、そのデリカシーが無いには俺も含まれてるんだよなぁ。キリトはレグライドが五体満足であることから、少なくとも彼は地雷を踏まなかったのだと確信する。仕事中は暴発を防ぐクゥリであるとしても、発言次第では腕の2本と足の2本くらいは折っているはずである。

 

「私が店主を待っていると聞いたら、一緒にいる連れに伝言をお願いしたいと頼まれましたよ。『ちょっと教会で調べものしてくる。2人でごゆっくり』とのことです」

 

「「あの馬鹿ぁあああああああああああああああああああああああ!」」

 

 キリトとユウキの同質にして異質の叫びが重なり合い、レグライドは自分が何か失敗してしまったのかと頬を掻く。

 2人は顔を見合わせ、急いで教会に向かおうとするが、ユウキはマクスウェルに肩を掴まれる。

 

「その格好で何処に行く? お前は『仕事』があるだろう?」

 

「……うっ!」

 

 時刻を確認したユウキは顔を歪める。どうやら勤務時間らしく、ユウキが自由に動けるのはここまでのようだった。

 

「俺がすぐに行く」

 

「……頼んだよ」

 

「任せてくれ」

 

 ユウキからすれば屈辱だろう。キリトは強く頷くと弾けるように店外に出る。教会……大聖堂の事だろう。ここから距離もあり、クゥリが出立した時間にもよるが、追いつけないこともないだろう。最悪でも大聖堂で合流できるはずである。

 ちょっと目を離したらすぐこれだ! キミは5歳児か!? キリトはスローネを持ち込んでいなかったことを悔いながら、最大スピードで大聖堂を目指した。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「こちらがご所望の失踪者リストになります」

 

「感謝します、エドガー。このお礼には何を?」

 

「いえいえ、見返りを求めようなど、そんな……」

 

「オレは仕事で調査をしています。善意の提供はありがたいですが、こちらが謝礼を支払うのが筋かと」

 

 エドガーが持ってきたマップデータと失踪者リストを受け取り、オレは彼が用意した紅茶を口につける。うん、味がしないね。仕方ないよね。味覚が死んでるもんね。

 オレがいつもエドガーと会うのは、大聖堂の中庭が見下ろせる応接室だ。どんよりとした灰色の空が残念であるが、本来はここから鮮やかな花畑を眺めることができる。孤児院の子らもよく遊んでいる場所だ。

 

「孤児院を拡張したと聞きました。『お布施』をしてもよろしいでしょうか?」

 

「喜ばしい事に孤児院の経営費は充実しております。今の人数ならば十分に養えるでしょう。行く行くはDBOの全ての子らに同等の庇護を与えたいものですが、その道のりはまだ遠いようです」

 

「では如何様に?」

 

「このエドガーは見返りなど求めぬと申したはずです。ですが、【渡り鳥】殿がそこまで仰られるならば、このエドガーのお願いを1つ聞いてもらえないでしょうか?」

 

「オレにできることであるならば。もちろん、依頼料の割引となるとグリセルダさんとの協議が必要になりますが」

 

「ははは。そのような真似は致しませんとも。むしろ、【渡り鳥】殿はもう少し欲を出された方がよろしいかと。正規の金額の倍を吹っ掛けるくらいが交渉の始まりというものですよ」

 

「それは不義ではありませんか?」

 

 まぁ、最初に大きな要求をして後から本命を通すのは常套手段であるがな。だが、サインズを通して仕事をする以上はサインズの面子もある。彼らの作った規定には基本的に従うべきなのだ。

 

「教会は12月25日に慰霊祭を行います。【渡り鳥】殿には是非とも聖歌独唱をお願いしたいのです」

 

「お断りします」

 

 エドガーよ、オマエは知らんのだ。オレがどれだけ音痴なのかを!

 というか、何でまた聖歌独唱なんて大役をオレに任せる? 実質的な上層部であり、祭儀の一切を取り仕切る聖歌隊というダイレクトネームな組織が存在するだろうが。わざわざ大役を外部の……それもオレに任せるなんて反発必須だろうに。

 

「ああ、もちろん素性を明かされる必要はありません。ご心配なら最大限の配慮と情報統制を行いましょう」

 

「いえ、そういう問題ではありません。教会ならば人材に事欠かないでしょう? どうしてオレに……」

 

「そのご様子だとしばらくは孤児院に足を運ばぬおつもりなのでしょう?」

 

 エドガーの指摘通り、オレはしばらく……いいや、今後は孤児院を訪れるつもりはない。例の生中継は孤児も見たかもしれないし、そうでなくとも連日の報道でオレの所業は画像付きで伝わっているはずだ。

 彼らは一様に心に傷を負った者達だ。エドガーは孤児たちを保護し、健やかに育てることを是としている。彼らには帰るべき場所などないのだから。現実世界にすら待っている者はいない、仮想世界で……DBOで生きて死ぬ以外にないのだから。

 

「意外かもしれませんが、チョコラテ君など【渡り鳥】殿が姿を見せぬことに寂しさを覚える者もいます。彼らも慰霊祭には参加します。たとえ、肩を並べて語らうことはできずとも、同じ時を過ごしてあげる。それもまた彼らには必要なことかと……」

 

 たとえ、オレが同席していることは知らせずとも同じ場所で同じ時を過ごすことには意味がある……か。確かにそういうものかもしれないな。

 だが、何にしてもオレは音痴なのだ! どんな隠れた意図があるにしても、音痴では何もかも台無しではないか!

 

「オレが慰霊祭で聖歌など、それこそ冒涜では?」

 

「【渡り鳥】殿だからこそ相応しいのです」

 

「根拠はありますか?」

 

「『【渡り鳥】殿だから』です」

 

「…………」

 

 うーん、会話が成立しない。でも、エドガーは1歩も退くつもりはないようだ。まぁ、金銭でもなければ厄介事を押し付けられたわけでもない。これで情報が得られるならば安いものではあるんだがな。どうせクリスマスは暇だろうしな。暇だろうしな。暇だろうしな!

 世間はクリスマスを口実にしてせっせと愛を育む。あっちもこっちも急造カップルだらけだ。

 グリセルダさんとグリムロックは夫婦でディナー。ヨルコも予定が入っているらしい。キリトは……まぁ、ほぼ予定確定だろう。他の連中も似たり寄ったりだ。

 

「やはりお断りします」

 

 だが、無理なのだ。オレにはアウトなのだ。音痴はどう足掻いても音痴なのだ!

 

「何故!? 理由をお聞かせください!」

 

 そしてエドガーよ、どうしてそこまで粘る? 目を見開いて食い下がるエドガーに若干の戸惑いを覚えながら、彼にどうすれば諦めてもらえるか悩む。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……音痴、なん……です」

 

 さすがに恥ずかしくて顔が熱い。顔を俯けながら、自分でも分かるくらいに消え入りそうな声であることに情けなくなる。でも、音痴なのはしょうがないのだ!

 

「え?」

 

「だから……音痴なんです!」

 

 訊き返すな! あー、もう! 羞恥で泣きたくなるとか何これ!? こんなので泣けたとしても泣けた内に入らん! おい、これで満足か!? これで満足だろう!? これ以上とない理由だろう!? ほら見ろ! エドガーも思わず顔を背けているじゃないか!

 

「失礼。ちょっと信仰が溢れてしまいまして……」

 

 ハンカチで鼻を含めて顔下半分を隠したエドガーはどうやら笑いを堪えられない様子だった。ん? でも、なんかハンカチが赤く染まっているような……?

 

「畏まりました。ですが、まだ25日まで時間があります。このエドガーもお手伝いしますので、どうか……どうかご検討を!」

 

「そこまで……ハァ、分かりました。練習して、最低限でも人前で歌えるようなものに仕上がったならば、という条件付きで如何ですか?」

 

「もちろんです! アンバサ!」

 

 はいはい、アンバサ。情熱の入れどころを間違えたエドガーは何処に行きたいのやら。だが、引き受けたからにはしっかりと練習しないといけないな。どうせしばらく仕事は来ないだろうし、丁度いい暇潰しになるだろう。

 その後もエドガーは取り留めのない話をしてくれた。最近入った多くの孤児たちは社交性がなく、また孤児院のルールを守らなくて困っているらしい。ほとんどが貧民街暮らしが長く、教会の人間に対しても敵愾心を剥き出しにしているようだ。まぁ、彼らの境遇を考えたならば当然だろう。

 だが、何人かは心を開いてくれて、それが少しずつ波紋のように広がっているらしい。特に新しく入った女の子の1人が品行方正であり、他の子たちを注意して上手く馴染めるように努力してくれているようだ。

 

「しかし、いきなり倍ですか。人手が足りないのでは?」

 

「はい。そこでユナ殿に……エイジ殿の連れ合いにご協力をお願いしております」

 

「エイジの……そうですか」

 

 例の事件のせいでエイジは傭兵業界にも戻れなくなったと聞いている。保護は無事に行われ、これ以上はオレが関与して藪蛇になっても困るので近寄らないようにしていたのだが、どうやら彼には彼で何かがあったようだ。

 青空教室の謝礼もまだ済んでいない。いずれはまた会いに行かねばならないと思っていたんだがな。

 エドガーの話によれば、ユナはFNCらしく発声が出来ないらしい。それではDBOを生きていくのは大変だろう。だが、教会の庇護下ならば少なくとも安全は確保されているはずだ。

 

「エドガー神父、お時間です」

 

「そうですか。【渡り鳥】殿、申し訳ありません」

 

「いえ、こちらこそ貴重なお時間に感謝します」

 

 エドガーも多忙なようだ。オレは応接室を離れると中庭に向かう。この寒空では孤児たちも遊びに来ておらず、また冬の吐息で花々はすっかり散っている。オレはその足で孤児院の方に向かえば、どうやら業者が到着した頃合いだったようだ。物陰に隠れて様子を窺う。

 

「うわー! 雪だるまのアイスだ!」

 

「もーらい!」

 

「コラ! たくさん数はありますけど、1人1本までです! 聞いていますか!?」

 

 孤児の世話をする修道女がアイスを配ろうとする前に、クーラーボックスから我先にと孤児たちは奪い取っていく。なるほどな。エドガーの言う通りだ。しばらくは躾が必要だな。

 

「誰からの差し入れ? 神父から?」

 

「それが分からないの。神父様は自分ではないと仰られていたわ」

 

「……そうかよ。自分で持って来いつーの」

 

 複数本を持っていこうとする孤児に片っ端から拳骨を食らわしていたのはチョコラテ君の発言に、オレは苦笑して背中を向ける。悪いが、オレが孤児院に足を運ぶことはもうないだろう。

 しかし、キリトのレビューを参考にして正解だったな。好評で何よりだ。計画通りに完売で泣かせてやったぞ。『えー? この程度の数も準備していないんですかー? やる気あるんですかー?』と煽りまでしてやったからな! HAHAHA!

 その足で墓所の方に向かう。かつてリゼットさんと座ったベンチに腰を下ろし、曇天を見上げる。

 

「少し……緩み過ぎだな」

 

 キリトと久しぶりに一緒で少し気が緩んだか。依頼をこなすスピードに難がある。できれば明日か明後日までには決着をつけたい。

 地下ダンジョンのマップデータ。キリトはそれで何かを掴んだのだろう。そうであるとしても、オレがやるべき事は変わらない。

 そもそもレモネーの失踪は彼女だけで完結しているのか? エドガーから提供してもらったのは、教会が把握している限りの過去半年間の失踪者リストだ。うん、膨大だな。これだけの数が終わりつつある街で行方不明になっているのだから魔境もいいところだ。

 クリスタルに保管されているのも喜ばしい。展開されたシステムウインドウで操作し、検索対象にフィルターをかける。レベル50……いいや、60以上でいいだろう。それでもかなりの数に上るな。

 レモネーの失踪と同時期……市場……検索……彼女を合わせて2件か。多いと見るべきか、否か。だが、どちらも女性だな。

 高レベル……検索。期間は過去3ヶ月に限定。21名か。女性限定で再検索……14名か。太陽の狩猟団の所属者も含まれているな。どうやら太陽の狩猟団からの依頼で教会剣による捜索も行われたようだが打ち切りになっている。

 ミュウに確認は尚早だな。ラジードも今日は……『まだ』だろうなぁ。ミスティアからたーっぷり『愛』を受け取ってる最中だろうしなぁ。邪魔しないでおいてやるか。

 

「よう、【渡り鳥】」

 

「アナタは……」

 

 と、そこに声をかけてきたのは髪をオールバックにしたスーツの野性味溢れる男だ。ビジネスマンというよりもギャングといった方が相応しいだろう。

 以前にも声をかけられて驚いたが、今回はあの時の比ではない。ラストサンクチュアリ壊滅作戦後でもあるし、何よりもフードを深く被って顔を隠しているからだ。

 

「それが変装のつもりか? 俺には通じない」

 

「…………」

 

「おお、怖い怖い。そんな物騒なものは仕舞ってくれ。ちょいと見かけたんで声をかけただけだ」

 

 手首からワイヤー付きナイフを取り出し、男に見えない死角でいつでも投擲できるように準備したが、即座に看破される。なるほどな。コイツ……強い。それも暗殺や暗器に対してかなりの場慣れをしている。多少の隙を突いた程度では仕留められないな。

 男は敵意がないとばかりにオレの隣に腰かける。何処か馴れ馴れしさがあるな。

 

「顔を見せてくれ。今日は墓参りもいやしない侘しい日じゃねぇか」

 

「アナタに顔を見せる義理がありますか?」

 

「ないな。だが、別に隠し事があるわけじゃないなら良いだろ?」

 

「……そうですね」

 

 確かに見回す限りでも墓所に人気はない。今にも雨が降りそうな天気のせいだろうか。あるいは、降るのは雪なのかもしれない。それ程までに寒さは著しい。

 

「お前……その格好……!?」

 

「恰好が何か? ああ、今更ですか。別に教会の人間ではありません。この格好は何かと都合がいいだけです」

 

 男はオレの顔から胸元までジロジロと見た挙句に顔を覆って溜め息を吐いた。何やら濃い心労を感じさせる。

 

「ですが、アナタも随分と図太い御方ですね。今のオレに話しかけるなど……」

 

「1人でも殺せば生涯途絶えることなく人殺し。100人殺そうと1000人殺そうと同じだ」

 

 そういう考え方もあるな。どうやら、この男にとって殺しに数など関係なく、殺した業を背負った時点で皆同類といったところなのだろう。

 

「奪う為だろうと守る為だろうと殺しは殺しだ。だったら1つしかない。殺してるんだ。殺されもするさ。それがルールってもんだ」

 

「奇遇ですね。オレも同じ言葉を知っています」

 

「それは……いや、そういう事か。そうか。そうなんだな。まったく……」

 

 男が何処か嬉しそうに見えたのは気のせいではないだろう。何故だろうか。そういえば、オレに誰かが似ているって前に話していたな。

 

「しかし、驚いたぜ。【黒の剣士】相手に完勝とはな」

 

「何か1つでも違っていれば負けていたのはオレです」

 

 戦いとはそういうものだ。旭光ノ妖刀まで使って完勝はない。お陰で贄姫も日蝕の魔剣もオーバーホールだ。

 

「褒めてるんだ。素直に受け取れよ」

 

「止めてください。頭を撫でないで……な、撫でるなぁあああああ!」

 

 男の大きな手で頭を撫でられて、オレは払い除けようとするが、それより先に手を引いた男は笑う。なんだろうか。この男を相手にしていると自然とペースを握られてしまうな。

 

「相変わらず撫で甲斐のある頭だぜ」

 

「そんな頭はありません」

 

「いやいや、ここにあるじゃねぇか」

 

「……無駄話も過ぎました。失礼します」

 

「おい、そりゃないぜ。悪かった。もう少し話がしたい。いいだろう?」

 

 男の真っ直ぐな眼差しにオレは溜め息を吐く。なんかキリトから教会で待っているようにってメールが10連発で来てるし、もうしばらく時間を潰すのもいいだろう。

 

「それで? 何を見ている? どれどれ……」

 

 しまった。オレの私用とは違って、クリスタル側はプライベートモードではない。可視されてしまう。隠そうとしたが遅く、覗き見た男は眉を顰める。

 まぁ、失踪者リストなんか見られたところで何の問題もないんだがな。別に怪しいものでも何でもない。

 

「コイツは不自然だな」

 

「不自然……ですか?」

 

「ああ。市場、噴水大広場、繁華街……こんな場所で何人も高レベルプレイヤーが消えるはずがない」

 

「ですが、事実として彼女たちは消息を絶っています」

 

「そこだ。失踪場所が分かっているケースなんて稀なのに……だ。そうだろう?」

 

 言われてみれば確かにそうだ。レモネーのケースのように知人が同伴していて、なおかつ≪朋友探知≫を使用したケースなど希少だ。そうなると、彼女たちの失踪場所が明確に判明しているのは相応の何かがあったという事になる。

 

「過去3ヶ月で分かっているだけで14名。その内の半数の失踪場所が判明しているな」

 

「何か因果関係がある……という事でしょうか」

 

「それを調べるのはお前の仕事さ。頑張れよ、虐殺者様」

 

「だから頭を撫でるな!」

 

 男は笑いながら背を向けると手を振って去っていく。まるで嵐のようなヤツだな。しかし、どうにもヤツの言葉は……こう……するりと入り込んでくる。まるで、懐かしい故郷の風のように。

 しかし、言われてみれば確かに奇妙だ。オレは口元を手で覆い、思案するが……まるで分からない。ここにある情報だけでは不足が生じるのだろうか。

 失踪者の経歴を確認する必要があるな。そこにレモネー失踪との因果関係が分かるかもしれない。

 

「クー! ここにいたのか!」

 

「……キリト」

 

 キリトは全速力でオレの所まで来ると息を荒く額を拭う。汗が流れる程に急いできたのか。ユウキとゆっくり逢瀬を楽しめばいいものを。気配りの分からんヤツめ。

 

「失踪者リストだ。レモネーと類似ケースがあるか調べていた」

 

「そ、そうか。それよりも……」

 

「結論から言えば、奇妙な共通点があった。これから失踪者の経歴を調べる。情報屋がいるな」

 

 キリトの言葉を遮り、オレは男から指摘された内容をそのまま説明する。

 

「確かに妙だな。彼女たちの失踪場所が特定できるだけの理由か」

 

「事前に何処に、何時から何時まで、如何なる理由でいるなんて細かく伝えるなんてありえない。彼女たちがこの場所にいたと断定できる何かがあった」

 

「あるいは、失踪に通報者が関与しているか……だな」

 

 キリトの言う通りであるが、レモネーの件と同様にわざわざ失踪したことをアピールする理由は何だろうか? 周囲を欺く為? あり得る。だが、レモネーの場合は2度だ。1度は死亡と断定されていながら、もう1度捜索依頼が出されている。

 

「……そもそも、彼女たちの失踪とレモネーの失踪は同類なのか?」

 

「それもあるな。だが、類似性があるのも確かだ」

 

「調べる価値はある。でも、よく気づいたな。さすがはクーだ」

 

「オレの手柄じゃない」

 

 首を傾げるキリトに、オレは男の顔を思い出し、散々撫でられた頭に触れる。

 それはやっぱり、何処か……何処か懐かしくて……こうやって……昔も誰かに……いや、どうでもいい。

 

「……失礼極まりない輩の、有難い助言のお陰だ」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 今も昔も素直だ。『人』を愛するが故に根本的に他人の言葉を疑わない。経験則から真偽を問うロジックを思考に組み込んでいるが、繰り返された精神負荷の受容は重度の記憶障害だけではなく、ある種の精神退行ももたらしている。後はちょっと揺さぶって思考を阻害してやればいい。そうすれば、懐疑のロジックをすり抜ける。

 PoHは【渡り鳥】を撫でた右手を見つめ、小さく笑う。殺戮の1点に凝縮されているが故の弊害。最強の捕食者であるが故に、小賢しい策謀になど興味を示さない。

 ポケットから取り出したのは現実世界でも廃れ始めた通信機器、スマートフォン。グリーンの迷彩カラーのそれを操作して連絡を取る。

 

「ロザリア、俺だ。情報提供に感謝するぜ」

 

『別にアンタの為じゃないわよ。ご執心の【渡り鳥】の動きを教えてあげただけ。でも、わざわざ接触するほどの事だったの?』

 

「まぁな。なかなかに面白い事件に首を突っ込んでるみたいだぜ」

 

 まだラストサンクチュアリ壊滅から時間も経っていないというのに、すぐこれだ。大人しくすることはできないのだろうか。だが、それでこそ【渡り鳥】であるともPoHは感激する。羽ばたき1つで巻き起こすのは嵐だ。有象無象は吹き飛ばされ、あるいは地に伏せて去るのを待つしかできない。

 だが、嵐を予想できるならば手の打ちようは幾らかある。被害を抑えるのも、増やすのも、思いのままだ。

 

『そう。それで? 引っ掻き回すのがご所望ならアンタ1人でやってよね。アタシを巻き込まないでくれる?』

 

「これが【渡り鳥】だけなら静観しているのも面白いんだが、なにせ【黒の剣士】が動いているからな。ヤツはなるべく早めに潰しておきたい。ベストは【黒の剣士】をアイツに殺害させる事なんだが、骨が折れる。仕込みをするなら……」

 

『どうしたの?』

 

「後でかけ直す」

 

 PoHは一方的にロザリアとの通信を切り、目の前に現れた人物を睨む。

 鮮やかな金髪をした、毒々しい紫の口紅を塗った美女。全身に纏うのは漆黒であり、優美な笑みにはおぞましい猛毒が含まれているようだ。

 

「フフフ、お邪魔してしまったようですね」

 

「デュナシャンドラ……だったか。俺に何の用だ?」

 

「同盟相手の要と是非とも親睦を深めたいと思いまして」

 

「思い違いで悪いが、俺は下っ端でね。拷問したところで重要な情報は持っていないぜ?」

 

 事実だ。PoHはレギオン陣営でもマザーレギオンの直属であるが、重要な情報は渡されていない。あくまで指示通りに動いているだけだ。もちろん、その中でPoHは独自に情報収集を行い、また己の目的を達成する為に布石を打っている。それもマザーレギオンは承知済みだ。

 

「貴方ほどの逸材を遊ばせているとは、レギオンは羨ましいですわ」

 

「白々しい世辞は止せ。幾ら同盟相手のトップとはいえ、俺が礼儀正しく茶でも出すと思っているのか?」

 

 PoHは多くの組織を渡り歩いたが、従うのはサーダナが授けてくれた思想のみ。彼が真に頭を垂らす王などいない。ただ『天敵』の到来を欲する思想家であるのだから。

 

「情報収集をしているのは貴方だけではありません。面白い事になっているようではありませんか」

 

「引っ掻き回すつもりか?」

 

「愚かな人の業が生み出した罪の坩堝。渇望の熟した果実。『欲望』の観測者としても興味深いケースですね」

 

「マザー抜きで俺と交渉は命取りだぜ? オリジナルと違ってレギオンには頭がキレる奴が揃っているからな」

 

 あくまで関わり合いになりたくないPoHに対してデュナシャンドラは楽しそうに笑うばかりだ。

 

「私のお願いとはまさにその事で、マザーと是非とも共同で行いたい企画がありまして、ですが『今は都合が悪い』と取り合っていただけないのです」

 

 困りものだとばかりにデュナシャンドは息を吐く。PoHからすれば知った事ではない。同盟を結んだからといって即日で仲良くなれるものではない。むしろ、いずれは互いに叩き潰すと宣言し合っているのだ。

 そもそも上位レギオンにおいても交渉ごとに長けているのはレヴァーティンだけであり、他の上位レギオンは不向きだ。下位レギオンではレギオンプログラムの飢餓と残虐性が前面に出て話にもならない。肝心のレヴァーティンも忙しくて時間は取れないだろう。マザーレギオンはそもそもデュナシャンドラと面会など余程の理由がなければ望まないだろう。

 PoHが紹介できるとするならば、グングニルかミョルニルだ。ギャラルホルンはレギオンでもかなり狂っている部類であり、なおかつレギオンの中でも自由に動ける特権を持つが故に交渉の窓口にはならない。ダーインスレイヴは謎が多くてPoHも会話をしたことがない。そうなると先に挙げた2人になるのであるが、グングニルは無類のお人好しであり、デュナシャンドラとは相性が悪い。ミョルニルは馬鹿の中の馬鹿過ぎて論外だ。

 やはりオリジナルがオリジナルだけに幹部たる上位レギオンは力押しが多過ぎる。レヴァーティンが奇跡の部類だ。いや、マザーより切り分けられたオリジナルの『誠実』を継いでいるが故の特性なのだろう。元管理者である月輪といったAIを自陣営に取り込んでいるのも組織経営の人材不足をマザーも承知しているからだ。むしろ、それを理解して人材を積極的にスカウトできるだけでもオリジナルよりも秀でている。

 PoHはデュナシャンドラに待っているように頼むとマザーレギオンに連絡をかける。社長とのホットラインを誰でも持てる。レギオン陣営は風通しの良い組織なのだ。

 

『……なーに?』

 

 まるで心地よい眠りから叩き起こされたような不機嫌な声音に、PoHはタイミングが悪いと顔を顰める。

 

「マザー、デュナシャンドラが話があると俺を通じて接触してきた。面会を希望するらしいが、どうする?」

 

『どうせろくでもない事でしょ? レヴァちゃんも出張でいないし、貴方に全権を委任するわ』

 

「……俺に? 正気か?」

 

『あら、それとも貴方は裏切るつもりなの? 別にいいわよ。貴方がデュナシャンドラの側につくなら、来たるべき時に殺すだけよ』

 

 確かにその通りだ。今は同盟者であり、来たるべき時まで肩を並べるのであるならば、PoHが裏切ったところでレギオンにとっては痛くも痒くもない。情報を抜かれたならば、裏切りごと踏み潰すのもまた王道というものだ。

 

「話は俺が聞こう」

 

 マザーレギオンとの通信を終えたPoHは面倒な事を押し付けられたとデュナシャンドラを連れて馴染みの店に向かう。もちろん、レギオンの影響下にある密室であり、情報が洩れることはない。仕事を終えたロザリアやデス・ガンも憩いを求めて足を運ぶだろうが、タイミングがよければ巻き込むこともできるだろう。

 毒を喰らわば仲間も道連れ。それがPoHのスタンスだ。デュナシャンドラから何を要求されるかは知らないが、実務の半分はロザリアに押し付けられるだろうと踏んだ。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 叩いて出る埃などなかった。黄金林檎の工房にて、グリセルダは馴染みの情報屋から早々に上がってきた調査報告に目を通して眉間に皺を寄せる。

 グルメ・クルセイダースの経歴は綺麗なものだ。いずれの大ギルドとも接触は見られない。レモネーを筆頭にしてレベルが高いプレイヤーが揃っているが、いずれも中小ギルドの域を出ない。

 キリト経由でグルメ・クルセイダースの金遣いの荒さについて連絡があり、期待もしていたのであるが、資産についても規模に対して適正そのものだ。何1つとして問題点が見つからなかったのである。

 敢えて指摘するならば、グルメ・クルセイダースのリーダーである【ギャラクシーオレンジ】の現状だ。現在、彼は教会の施設にて治療中なのだ。どうやら麻薬アイテムによって重度の中毒症状を起こしているようであり、1件の殺人に関与している。

 

(そう、まるで埃が出ない。それがおかしいのよね)

 

 ギャラクシーオレンジの治療の為に、教会に支払っている『お布施』も高額であるはずだ。グルメ・クルセイダースに豪遊するだけの財力はない。とてもではないが、傭兵を2度も雇用するだけの資産はないのだ。

 もちろん、ギルドハウスの売却などで工面できない事もなく、また借金して分割支払いできるだけの稼ぎもある。サインズとしても支払い能力があると判断したのは妥当だ。リーダーが麻薬中毒で殺人の経歴を持つなどDBOでは些細な事である。全てにおいてクリーンな顧客だけを求めていてはサインズも成り立たない。

 だが、この1ヶ月の間でもグルメ・クルセイダースの豪遊は目に余る。余程の稼ぎがなければ不可能だ。だが、グルメ・クルセイダースについての調査において不審点はない。彼らはギルド結成の目的通りに各地で狩りを行い、食材を集めて調理し、また料理店に卸すことで稼ぎを得ている。狩猟ギルドとしては真っ当なものだ。

 

(卸している食材のランクを考慮すれば確かに資産は平均より上でしょうけど、治療費を支払いながらこれだけの贅沢が出来るものかしらね。しかも傭兵を……クゥリ君を雇用してまで2度目の調査希望なんて普通じゃないわ。何か裏があるにしても、こちらがグルメ・クルセイダースの調査をするなんて想定内のはず。でも、複数の情報屋を使っても調査報告に大きなズレは見られない)

 

 とはいえ、まだ調査開始から1日と経っていない。現時点で判明していないだけで、まだ裏も隠されているかもしれない。本来ならば依頼主の内偵などサインズの仕事なのであるが、大ギルドが関与している以外の場合は一通りの調査を行うのは慣例のようなものだ。傭兵とは単に依頼を引き受けるだけではなく、膨大な経費をかけて事前調査が不可欠なのである。とはいえ、クゥリの場合は雇用主が99%以上は大ギルドである為に依頼主調査という手順はほとんどの場合において不要である。

 

「うー……頭……痛い」

 

「ヨルコ、もう午後3時よ。いつまで寝てるのよ」

 

 クゥリの薬師として自前の植物園と工房を与えられてからヨルコの酒癖は悪くなる一方だ。本人も自覚しているらしく、断酒会にも自主的に参加するようになってくれたのは嬉しい限りであるが、悪化しているのには変わりない。

 グリセルダの小言を聞き流したヨルコは、言った傍から缶ビールの蓋を開ける。二日酔いにはビールが効くと言わんばかりに美味そうに喉を鳴らすヨルコに、グリセルダはまともなのは自分だけかと頭を抱えたかった。

 グリムロックは工房に閉じこもってクゥリの装備の改造に没頭し、ヨルコは朝から晩まで酒浸り。プロデュース兼マネジメント対象であるクゥリは御覧の有様だ。グリセルダはあの手この手で仕事を探しているが、いずれの大ギルドも今は時期が悪いと断られるばかりだ。せいぜいが先日の盗賊ギルドの殲滅くらいであり、次回の仕事は何になるか、目途も経っていない。

 VOBの提供や太陽の狩猟団の工房との共同開発のお陰で収入は得たが、クゥリの仕事が少なくなるならば首が回らなくなる。なにせ、クゥリの装備はいずれもユニークソウルや希少素材をたっぷり使ったオーダーメイド品だ。修理だけでも莫大なコストがかかる。クゥリが使うサブウェポンにしても、普通の上位プレイヤーならばメインウェポンに据えてもおかしくない高コストだ。そもそも彼が使い潰し前提のイジェン鋼は高純度品ともなればDBOでも現時点で最高峰量産素材である。しかも需要過多で希少性が高まり、市場価格は釣り上がるばかりだ。

 

(今回の仕事を無難にこなして、リップ・スワンの警護依頼で稼ぐのが良さそうね。とはいえ、彼女も先の生中継のせいで及び腰なのよね。まぁ、クゥリ君の『容姿』に惚れ込んでいるわけだし、前々から希望されていた会食を餌にするのがよさそうね)

 

 とはいえ、クラウドアースも情勢がよろしくない。情報屋によれば、クラウドアース議会は此度のラストサンクチュアリ壊滅作戦の失態について、ベクターの責任を追及した。弾劾が通る前に彼は辞任を表明した。即日で議長選挙が行われ、新たな議長となったのは、先の機密漏洩事件の主犯として逮捕されたウィーン・ベラ派閥のナンバー2だった【ベルベット】である。

 ベルベットは親聖剣騎士団派であるが、此度のラストサンクチュアリ壊滅作戦の背後には聖剣騎士団の横槍があったのはほぼ確定であり、分裂寸前だった派閥を纏め上げた。そして、親太陽の狩猟団派と足並みを揃えることでベクター派閥を追いやり、議長の座を射止めたのである。

 だが、グリセルダの評価ではベクターに比べてもベルベットは小物だ。ベクターはいけ好かない、まるで蛇のように狡猾な人間ではあったが、一方でパワーバランスという点においては絶妙であり、事実としてギルド連合であるクラウドアースをその手腕で実質的に支配していたのは見事と言わざるを得ない。

 一方のベルベットは政治力にこそ長けているが、外交力があるかと問われれば疑問の余地がある。またベクター以上に軍事に疎い身でありながら口出しするタイプだ。ベクターが自分は門外漢であるとして、主だった軍事采配はヴェニデに頼っていたのとは違い、彼女はあくまでクラウドアースの軍事力は議会が掌握すべきというスタンスなのだ。

 そして、何よりも問題なのがベルベットが掲げるクラウドアースの戦力の完全統合化だ。これまでギルド連合という性質上、クラウドアース所属と言ってもそれぞれが属するギルドは異なっていた。ベルベットはこれを否とし、クラウドアースの軍事力を完全統合し、1つのギルドとして纏め上げることを目的としている。

 聞こえはいいが、これは悪手だ。なにせ、クラウドアースはギルド連合なのだ。共通戦力をそれぞれの派閥が出し合い、選任された軍事責任者と議会の下で制御されていた。だが、ギルド化されてしまった場合、必ず強権をシステム的に与えられた『リーダー』が誕生する。

 同様のケースで教会も教会剣のギルド化を計画しているが、あちらとは性質が異なる。クラウドアースのような連合体にとって、軍事力の完全統一などあってはならないのだ。同じくギルド連合であり、後発である自由開拓連盟の方がまだ現実を弁えている。

 ベルベットの狙いはこの機会にクラウドアースの支配力を高めるつもりなのだろうが、生み出されるのは不和であり、また統一された戦力がもたらすのは暴走だ。シビリアンコントロールなんて上品なものは暴力が是とされる世界に存在しない。このままでは、クラウドアースは議会ではなく、クラウドアースの戦力を取りまとめるギルドリーダーが掌握するのだろう。彼女の根本的な間違いは、今もDBOに敷かれているのは暴力によるものだという事だ。ディアベルはギルドリーダーという立場でありながら危険を承知で幾度となく最前線で指揮を執り、サンライス自身が強力なネームド相手でもダメージディーラーとなるように、他の大ギルドのギルドリーダーは有無を言わさぬ功績によって輝かしく君臨しているのである。

 

(まぁ、ベクターが何とかするでしょうね。あの男が考えなしで辞任するとは思えないわ。後はリカバリーが間に合うかどうかだけね)

 

 クラウドアースが陥落した場合、ギルド間戦争はいよいよ前夜となるだろう。皮肉なものである。秒読みされていたラストサンクチュアリの壊滅という未来があったように、今度は名目上滅ぼした側であるはずのクラウドアースが次なる破滅の予見をされる立場となったのだ。

 そうなると鍵を握るのは、クラウドアースでも随一の財力とお茶会による情報網を持つリップ・スワンだ。ベクターとは不仲であり、またクラウドアースの経営にも興味を持たないのであるが、求心力は高い。彼女を神輿にすれば、あるいは正式に自分の派閥に取り込むことができれば、ベクターの再起もあり得るだろう。

 クラウドアースの権力闘争に【渡り鳥】などという爆弾は持ち込みたくないグリセルダであるが、今後の傭兵業の為にも彼女との繋がりは欠かせない。どれだけ頭を抱えても足りない案件である。

 

「なーに? そんなに頭を抱える仕事なの?」

 

 早くも2本目に突入したヨルコのアルコール臭がする吐息に、グリセルダは自分が飲みたいくらいだと視線で訴える。グリムロックもヨルコも言うなれば技術屋であり、グリセルダが日々戦う分野は門外だ。彼女たちはDBOでも稀有な才能の持ち主であるが、彼女たちを守り、またその技術を使って黄金林檎の経営を回すグリセルダの苦労は尋常ではない。しかも要となる傭兵が御覧の通りである。

 

「ヨルコは気にしなくていいのよ。それよりも新薬の方はどうなの?」

 

「……【若狼】は悪くない実験になったかな。元々【渡り鳥】の不自由になった四肢を補助する為に開発したものだしね。まぁ、中身が中身なだけに興奮作用も強いし、連用は避けた方がいいけどね。後は彼用に個人調整するだけなんだけど、教会経由でレシピは渡してあるし、あっちで何とかするでしょ」

 

「媚薬の応用なんて、さすがはヨルコよ」

 

「逆よ、逆。この薬を作る過程で媚薬が出来たの。アレは反応の閾値を高めるもので、アバターに反映させる運動を拡大解釈させるもの。制御の原理はステータスの高出力化と同じ。だから【渡り鳥】にも使えるかなーって思ったけど、アレは駄目だわ。深淵の病……だっけ。あんな滅茶苦茶なものがあったんじゃ使い物にならない。戦闘中に使うなんて危険過ぎる」

 

 ヨルコが媚薬を開発して娼館で勝手にばら撒いて臨床実験していたなどという、グリムロックにも似たマッドサイエンティストっぷりを発揮した時にはグリセルダはいよいよ狂いそうになったが、ヨルコにもヨルコの考えがあったらしく、クゥリの痛覚代用に思う所があっての行動だった。

 白木の根。白夜の狩装束によって体内に白木の根を張り巡らせ、痛覚代用で失われた感覚を補助している。体内からの補強などはあくまで副産物だ。グリムロックはむしろ副産物に重きを置いて開発をエスカレートしているが、そもそも開発の前提である痛覚代用が狂った代物だ。

 想像すれば簡単な事だ。皮膚の下……筋肉から臓器に至るまで、細やかな針金が無数に行き届いているようなものだ。指1本動かすだけで絶叫で頭が割れるほどの激痛であるはずだ。クゥリは戦闘中に顔色1つ変えることなく白木の根を発動させている。日常生活においても、戦闘時ほどの密度ではないが、痛覚代用を行っている。

 ヨルコは新薬で、せめて日常生活の間だけでも痛覚代用から解放させたかったようだが徒労に終わった。クゥリは謎の病魔……深淵の病に侵されているからだ。ヨルコはクゥリから提供された情報から深淵の病の抑制剤を作成したが、服用時は目を背けたいものだった。なにせ、苦痛を抑え込むはずのものが、余計に苦痛をもたらす代物だったからである。

 

「深淵の病の苦痛まで拡張されたら洒落にもならない。今は深淵の病について調べてるんだけど、現代医学が通じるわけでもないし、そもそも意味不明だし、お手上げかな。フレーバー要素からなんか分からないかなって教会が保管してる蔵書とか探ってみたけど手がかり無し。深淵狩りの伝承にいくつか発見できたけど、それだけじゃね。せめて深淵の病に詳しい深淵狩りのNPCがいればいいんだけど、教会でさえ見つけられないNPCをどうやって捜し出せばいいんだか」

 

「クゥリ君に頼んでみたら? 貴女が私利私欲の為だけで媚薬を開発したと思われたままよ」

 

「嘘じゃないし。実用性も兼ねてたし。途中からそっちが本命になっていたし。それに……結局は完成できなかったじゃん。私にもアイツの薬師としてのプライドがある。『頑張ったけどアンタの体質上使えませんでしたー』なんて、みっともないだけじゃない」

 

「似た者同士ね。貴女も、グリムロックも、クゥリ君も……やっぱり何処か似てるわ」

 

 クゥリと似ていると指摘されたのが嫌なのか、ヨルコは顔を歪めた。

 

「アイツと似てるとか止めて。それよりも何見て悩んでるの?」

 

「クゥリ君の仕事関係よ。依頼主の内偵をしたんだけど、埃の1つも見つからなくて」

 

「良い事じゃない。アイツの依頼主にしてはクリーンだったってわけでしょ?」

 

「それが逆なのよ。埃が出ないとおかしいのに見つからないの」

 

「どれどれ……うわぁ、文字が多過ぎ。これ全部チェックしたの?」

 

「もちろん」

 

「尊敬するわ」

 

 ヨルコは目が痛いと言いながらも内偵結果に目を通し、途端に露骨に嫌悪感を示した。

 

「コイツら、真っ黒じゃん」

 

「え? どういう事なの!?」

 

 自分に見落としがあったとするならば大失態だ。グリセルダは慌てて読み返すが、何1つとして怪しい点はない。疑う余地があるほどに清廉潔白なのだ。

 

「……そっか。グリセルダさんも情報屋も専門じゃないし、分からないのは仕方ないか。まぁ、知ってる方が少ないだろうし、まずレシピだって公開されないだろうし」

 

「どういう事なの?」

 

「コイツらが料理店に卸してる素材、麻薬アイテムの材料よ」

 

「何を言ってるの? いずれも希少であってもまともな食材じゃない」

 

 情報屋は彼らが料理屋に卸している食材についての資料も添付している。【鬼笑いの赤果】、【大蜂背負いの大亀の肝】、【萎びた虹苔】。生産できない食材ばかりであり、故にダンジョンでたまたまドロップした、あるいはグルメ・クルセイダースのような狩猟ギルドが納品するのは定番となっている。

 

「ねぇ、食べ合わせって知ってる?」

 

「一緒に食べたら体に悪いものよね」

 

「それと同じ。コイツらは1つ1つだと無害……というか『食す』だけならただの食材。でも≪薬品調合≫の『素材』と見るなら話は別。たとえば、最も一般的な回復アイテムである燐光草だって、≪薬品調合≫で毒薬の材料になる。『食材』と『薬の素材』は別の顔。バフをかけるはずの食材が致死の猛毒に早変わり。それが≪薬品調合≫の怖いところなのよ」

 

 その辺の有用性を【渡り鳥】は全く理解していないけどね、とヨルコは付け加えた。彼女に言わせれば、せっかく持っているスキルをまるで活用できていないとの事であるが、今はヨルコの文句を聞いている時ではなかった。

 

「幾つか足りない素材はあるけど、この組み合わせはほぼ確定ね。特に大亀の肝がアウト。これって媚薬の材料……要は高い興奮作用をもたらすんだけど、組み合わせ次第で中毒性が高まるのよ。虹苔もあるとなると……酒を使った服用が前提かもね」

 

「貴女まさか媚薬だけじゃなくて……!」

 

「さすがの私もヤクまで作らないわよ。仕事上どうしても偶然にできることはあるけどレシピは廃棄してる。教会にだって教えてない。何処から洩れるか分かったもんじゃないしね」

 

 それを聞いて安心した。胸を撫で下ろしたグリセルダは、グルメ・クルセイダースの思わぬ闇に今度は疑問を浮かび上がらせる。

 

「貴女だから見抜けたけど、普通の薬師に同じことはできる?」

 

「さぁ? 私はたまたま類似した組み合わせを幾つか知ってたのと教会からお願いされて小遣い稼ぎで麻薬アイテムの解析をしたことがあったから分かっただけ。それなりにキャリアがあって、素材集めも楽な程に資金も十分にあるなら可能なんじゃない? あとはダンジョンに潜って素材を片っ端から調合する奴とかも見抜けるかもね」

 

 ヨルコは改めて卸されている素材リストを確認したが、その内の実に7割が麻薬アイテム関連であると言い切った。いくら食材としては問題なくとも、7割ともなれば偶然ではないだろう。

 

「大ギルドなら看破できないこともないってラインかしら」

 

 だが、ヨルコもヨルコで自分の希少価値をまるで理解していない節がある。グリムロックがHENTAI鍛冶屋の称号を欲しいままにするならば、ヨルコは3大ギルドが喉から手を出しても欲しい……実際にグリセルダには幾度となく大金を積んだ移籍依頼が来る程度には希少性の高い逸材だ。

 寝涎の染みがついたヨレヨレの白衣を纏ったヨルコは大したことをしてないとばかりに3本目のビールを飲んでいるが、彼女が生み出した媚薬1つをとっても娼館経営どころか、DBOの社会にすら影響を与えてしまっている。彼女はそのことをまるで気にかけない。理由は単純明快である。アルコール中毒の自暴自棄。それこそがヨルコだからだ。

 ヨルコだからこそ即座に看破できたが、情報屋がそうであったように、サインズがそうであったように、グリセルダがそうであったように、見逃すのは仕方のないことなのだ。その上でグリセルダは考える。

 コーンロットがわざわざ【渡り鳥】に2度目の捜索依頼を持ち込んだ訳はなんだろうか? 彼の残虐性が最もクローズアップされた時期に後ろめたい行為をしている者たちが自殺を望むように依頼を持ち込むだろうか。当然ながら自分たちの調査をされることくらいは想像がつくはずなのに。

 

「お手柄よ。これで先手を打てるわ」

 

 普段ならば全てが終わった頃に見えるはずだった真相の更なる裏側にたどり着けたのだ。グリセルダの誉め言葉に、ヨルコは興味ないとばかりに工房へと戻っていく。

 ある意味で救いなことがあるとするならば、グリムロックにしてもヨルコにしても、その才能を発揮するのにクゥリという指向性が与えられていることだろう。グリムロックがより社会的にHENTAI技術を発揮しようとすれば、ヨルコが自暴自棄のままに生み出した薬をばら撒いてレシピを売りさばいていたならば、想像を絶する混沌が生み出されていたはずだ。

 

「さてと、ウチの傭兵に舐めた真似をしてくれたじゃない。きっちり痛い目を見てもらうわよ」

 

 

▽     ▽    ▽

 

 

(『ただの幼馴染』……か)

 

 ベッドで横になっていたユナはスレイヴの発言を反芻させていた。

 SAOで1度目の死を体験し、気づけばDBOという未知なるデスゲームの中にいた。ただでさえ混乱する状況で、ユナにとって感謝すべきだったのは現実世界の時から幼馴染だったエイジの存在だ。彼がいなければ、右も左も分からない状況が続いていて、今のような落ち着いた精神状態の獲得は程遠かっただろう。

 だが、見知った幼馴染はすっかり変わってしまっていた。年齢は離れ、すっかりと大人の男になっていた。それだけではない。前にはなかった暗い影を帯びており、エイジは今日に至るまでに多くの苦難があったことを物語っていた。

 死んだ自分が安易に触れていいものではない。ユナはエイジを気遣いながらも踏み込むことを躊躇った。幼馴染として時間を共有するのが当たり前だった彼女にとって、死後という本来あり得ない時間の溝は容易く受け入れられるものではなかった。

 エイジは自分を気遣ってくれている。今のユナには生活力がなく、エイジ自身も苦しい状況でありながらも何も言葉にしない。ユナが自立を急いだのも、このままではエイジの負担になってしまうと考えたからだ。彼が何も語らないのは自分が扶養される立場であり、以前のような『幼馴染』という対等な立場になれていないからだと思ったのだ。

 だが、スレイヴの発言がユナの心に切り込まれた。『幼馴染』であるならば、エイジにこれ以上深く関わるなと突き放された。

 

「調子はどうだ?」

 

 悩んでいるユナに、悩みの原因が現れる。相変わらずの表情の薄さだ。以前も感情表現は苦手の部類だったはずであるが、輪をかけて悪化している。ユナはエイジが運んできた食事を受け取り、もう大丈夫だとアピールするべく笑む。

 声を出せない。それだけで不便だ。気持ちがちゃんと伝わっているのか分からなくて不安になる。ユナは自分が昨夜作った野菜スープを口にしながら、どうすればエイジの悩みを訊き出せるだろうかと思案する。

 

「これ、スレイヴから預かってきた」

 

 食事を終えたエイジが差し出したのはスケッチブックだ。今のユナにとって必要不可欠な情報伝達ツールである。

 

<ありがとう>

 

「お礼はスレイヴに言ってくれ」

 

 スレイヴの名前を出すエイジに、ユナは文字にして彼女について問おうとして、だが指は止まる。スレイヴの刺した釘が問いかけを文字にすることを拒む。

 声を出せるならば、感情が後押しして質問を飛ばすことができる。だが、文字にするというアクションを挟めば思考が邪魔をする。

 ユナはどちらかと言えば感情で動くタイプの人間だ。時として無鉄砲な行動に出ることもあり、そのせいでエイジに心配をかけたことも1度や2度ではない。ハッキリと述べるならば、死因の1つも彼女の後先を考えなかった行動にある。

 ぼんやりとではあるが、自分の死に様は憶えている。最後に見たのはエイジだったはずだ。こうして彼が生きているならば、あの窮地を無事に彼は生き延びたということで安堵できる。自分は死んだが、エイジは助かったのだ。それだけで彼女は心から自分の死に意味があったと言い切れる。

 その一方で気がかりなのは、自分の死後に辿ったエイジの道のりだ。こうして生きて再会できた以上は、彼もまたデスゲームを生き残ったということなのだろうが、新たなデスゲーム……DBOに巻き込まれている経緯を彼は頑なに明かそうとはしなかった。

 

「傷は……まだ消えてないな。包帯を変えよう」

 

 エイジはユナが自分で掻き毟った喉の傷の様子を確認する。

 スレイヴから説明を受けたが、声を失ったことによってユナは自傷障害を起こしているとのことだった。悪化すれば生命の危機にも直結し、それは主に発声……歌に関与するらしく、くれぐれも声を出そうとしない事、歌おうなど論外であると説明を受けた。

 その時点でユナの絶望は大きなものだった。彼女にとって歌うことは魂に刻まれた使命にも等しく、故に歌えないとは存在意義の否定にも等しかった。

 ユナが自立を急ぎ、教会の仕事を手伝おうと躍起になっているのは、声を出せない現状から目を背ける理由でもあった。何か仕事をしていれば、意識を別の事に傾けていれば、それだけで歌が頭から離れる気がしたのだ。

 だが、実際には違う。何をしている時も声を出せない事実が付きまとう。苦しみは増すばかりで、指は歌声を取り戻そうとするかのように喉を掻く。

 エイジは優しい手つきでユナの喉に巻かれた包帯を取り換えた。エイジの胸板に自分の吐息がかかる程に近くなり、改めて体格差を理解する。大人に成長したエイジは、彼女が知る細身の少年時代とは違い、スマートでありながらも男らしさを手に入れていた。それが余計に時間の流れの違いを知らしめる。

 

「終わった」

 

<ありがとう。いつもごめんね>

 

「謝らなくていい。喉の包帯を取り換えるなんて、自分では大変だろう?」

 

 やっぱりエーくんは優しい。何事も無いように、大したことではないように、誰かに優しくすることが出来る。ユナが知るエイジのままだ。

 小さい頃からそうだった。エイジは自己主張が乏しかったが、ここぞという時にはいつも行動が出来るタイプだった。普段は慎重にも過ぎるくらいなのであるが、何かがトリガーとなると驚くほどの行動力を発揮する。

 1番印象的なのは小学生の頃、ユナが虐められていた時に勝てるはずもないのに上級生たちに殴りかかっていったことだ。結果は多勢に無勢かつ小学生という年齢がそのまま体格差ともなり、なおかつ同年配でも小柄な部類だったエイジはボロ負けしたのであるが、お陰でユナは傷1つ負うことはなかった。

 

『悠那が怪我しなくてよかった』

 

 痣と鼻血と涙で汚れた顔で、だがエイジは自分の傷よりもユナの無事に安心していた。

 あの日、ユナにとってエイジは目標になった。『誰か』の為に掛け値なしで助けられる人になりたい。黙って見ているのではなく、自分を危険に晒してでも助けに行ける人になりたい。その為にどれだけ傷つくことになろうとも恐れずに立ち向かう人になりたい。

 SAOでも死に怯えながらも、モンスターを相手に近接戦闘が出来る才覚がなかった自分にも出来ることはないかと抗い続けた。そうして見つけた手段は自分を死に追いやったが、最後まで戦い続けられた自負はあった。

 だが、今のエイジを見ていると分からなくなる。自分は本当に正しい事が出来たのだろうか。ユナは疑問を言葉にしようとしても声は出なくて、文字にしようとすると思考が邪魔して出来なくて、故に無言を生み出すしかなくなる。

 

「僕はもうすぐ教会を出ていく。ユナは教会に残れるようにお願いするつもりだ」

 

<どうして? 何処に行っちゃうの?>

 

「教会は善意で僕たちを置いてくれているけど、僕は教会の仕事をしているわけじゃない。周囲の目もあるから、いずれは出ていくように促されるはずだ。しばらくは稼ぎにも困らないから、今の内に自分の家を見つけて拠点を移そうってだけさ」

 

<それならいいけど、ギルドに入ってるの? まさかソロじゃないよね?>

 

「『ちょっとしたギルド』の仕事を任されてるんだ。新居の目星もついてるし、決まったらユナにも教えるよ」

 

 嘘だ。ユナはエイジが嘘を吐く時の癖を知っている。普通ならば嘘を吐く時、目は泳ぎ、挙動不審となる。だが、エイジは逆だ。驚くほどに冷静に嘘を吐く。身振り手振りにもまるで違和感がない。ただし、相手の目を射抜くように見つめる癖がある。本来ならば真実を語っているような仕草にこそ嘘の証拠が紛れている。そこにある小さな違和感を拾い上げることが出来るのは、幼少の頃から一緒だったユナくらいのものだろう。

 だが、問題なのは何処に嘘を吐いたのかだ。ギルドの仕事か、新居か、それともユナに教えることか。ストレートに問いかけてもエイジははぐらかすだけだけだろうと、声を出せないことを恨みながら言葉を選んでいれば、エイジはシステムウインドウを操作して届いたメールをチェックしたようだった。

 

「ごめん、仕事だ。今日はなるべく安静にしているんだ。いいな?」

 

<子ども扱いしないで! 私はもう大丈夫だから!>

 

 ベッドから飛び起きて元気をアピールしたユナに、エイジは口元が微かに動いて、だがぎこちなく止まる。

 そのまま無言で出て行ったエイジに、何もできなかったとユナは悔しさを滲ませてベッドに倒れる。

 

(『幼馴染』じゃダメなの? スレイヴさんは何が言いたかったの?)

 

 大事な幼馴染だ。こうして未知なるデスゲームで少なからずの安心感を抱けるのはエイジがいるからだ。

 ああ、思えばSAOでもそうだった。急に始まったデスゲーム宣言の時、ユナは泣くしかなかった。だが、エイジが同じく泣き出しそうな顔で、だが必ず現実世界に連れ帰ると約束してくれたのだ。そして、何度も何度も挫けながらもエイジはレベルアップを重ね、装備を整え、攻略組に近づいて行った。ユナが知る最後の頃には、あの血盟騎士団にすら在籍していたのだ。

 一方の自分はどうしても戦うことが不慣れで出遅れていた。現実では運動も苦手ではなかったが、戦いは全くの別物だった。恐怖を乗り越えても才能の無さに打ちのめされた。剣も、槍も、何もかもユナには適性がなかったのだ。それどころか、ソードスキルの扱いすらもいつになっても慣れなかった。

 怯えながらも努力を重ねてどんどん強くなっていくエイジの背中に焦燥感を覚えていたのは確かだ。自分もみんなの為に戦いたい……デスゲームを終わらせたいと意気込んでいながらも結果を出せずにいた事実に、エイジが強くなる中で悩みを抱えていることを知れば知るほどに、すっかり後れを取ってしまった自分に悔しさを覚えた。

 そんな中で見つけた『歌』に関するスキル≪吟唱≫。自分の死因にもなったスキルだ。様々なバフをかけることができる後方支援用スキルである。ユナは地道なレベルアップで何とかエイジと並んでも問題ない程度のレベルを手に入れ、彼に≪吟唱≫で自分も攻略に携わりたいと打ち明けた。

 そうだ。思えば、あの時に自分の夢もエイジに語ったのだ。大きなホールで歌いたい、と。みんなの為に歌って、それが少しでも救いになってほしいと祈りを込めた願いだった。

 そして、程なくしてユナは死んだ。あっさりと死んだ。夢を叶えられないままに。そして、失われた夢はそのままに生だけを取り戻した。

 死にたい。そう一瞬でも頭を駆け巡ったことにユナは自己嫌悪に陥る。あんなにも親身になってくれているエイジを差し置いて死にたいとは何事だ!? 甘えるな! まずは自分の生活くらい自分で支えられるようになれ! ユナは今の自分にできることを並べる。エイジが周囲の目があると語ったように、ユナもとりあえずの居場所として教会で暮らすならば、相応の対価を支払わねばならないのだ。

 ベッドで寝てなどいられない。着替えたユナは自分に割り当てられた仕事の通りに孤児院へと向かう。

 

「おや、ユナ殿ではありませんか」

 

<神父様、おはようございます>

 

「ええ、健やかなる朝とはまさにこの事です。さぁ、ユナ殿もご一緒に! アンバサァアアアアアア!」

 

<アンバサ!>

 

 エドガーが片膝をついて朝日に向かって両腕を広げるならば、ユナはスケッチブックに書いて両手を高く突き上げる。アンバサがいかなる意味かは不明であるが、エドガーのノリに合わせておけばとりあえず教会の生活は上手くいくとユナは既に学んでいた。

 

「ハハハ、ユナ殿は信仰の何たるかをよく分かっていらっしゃる。そうです。誰もが最初から神への祈りに目覚めるものではありません。まずは形から入り、全身全霊を捧げる事。そうすることで祈りの意味を、信仰の行き着く先を、灰より出でる大火とは何なのかを理解するのです!」

 

 エドガーはユナ達の実質的な保護を担っている人物であり、また教会でも高位らしく、彼の言う事に信徒はよく耳を傾けている。ユナの目から見ても、時間さえあれば孤児たちの為に時間を割く素晴らしい人物に思えた。

 その一方で理解しきれない信仰に身を任せる様にはある種の恐怖を覚えるのも確かだ。信仰とは無縁の人生を送っていただけに、ユナにはエドガーの神に捧げる情熱には驚かされるばかりだった。

 

「朝から元気だなぁ」

 

 と、そこに欠伸を噛み殺しながら箒を手にして現れたのは孤児たちのボス的な役割を果たしているチョコラテだ。

 

「あ、黒のねーちゃんも一緒か」

 

「ほう。黒とは何事ですか?」

 

「いや、そこのねーちゃんのパンツの色」

 

 黒とは何かとエドガーと一緒に首を傾げたユナは、チョコラテの指摘に顔を赤らめる。

 

「大人しそうな顔して、黒とか俺も吃驚した……ってぎゃぁああああああああ!?」

 

 エドガーから強烈な拳骨を貰ってチョコラテは頭を抱えて転がり回る。

 

「申し訳ありません、ユナ殿。決して悪い子ではないのですが」

 

<分かってます。スカート捲りされた時も、他の子を叱ってくれていましたから>

 

「そ、そうだぞー。つーか、神父……レベル差……STR……加減して」

 

「加減はしています。私が本気で殴ったならこの程度では済みませんよ?」

 

 HPが減って生命の危機を覚えたらしいチョコラテに、『にっこり』と笑ったエドガーに、この人だけは怒らせないようにしようとユナは誓った。

 エドガー達と3人でまずは孤児院の周辺の掃除を行う。子どもたちも続々と起きてきて、3人に倣って窓や床の雑巾かけを率先して行い始める。冬の寒さにも負けず、冷たい水をバケツに溜めて躊躇いなく手を突っ込む姿に、ユナは自分も負けていられないと励む。

 次に朝食の準備だ。最初に手に入れた≪料理≫スキルのお陰で食材を調理することが可能になった。とはいえ、熟練度も低いために凝った料理も作れないが、孤児院の食事に贅沢などなく、パンとスープと牛乳だけである。だが、孤児たちは嬉しそうにパンを頬張り、スープを啜る。彼らにとってこれはご馳走らしく、教会の外を知らないユナは彼らがいかなる境遇で暮らしていたのか想像できなかった。

 昼までは勉強時間であり、ユナはその間に食器の片づけを行い、先輩の修道女から指示された仕事を行う。

 

「今日は外の奉仕活動に一部の子は参加する予定だけど、スケジュール表を神父のところに持って行ってもらえる? 神父の最終承認が必要なのよ」

 

 頼まれた書類をエドガーの所へとユナは運ぶ。エドガーの執務室は孤児院の傍にあり、如何に彼らのことを日々見守っているかの表れでもあった。

 

<お疲れみたいですね>

 

「ええ。12月は教会にとっても重要な祭事がありますので。特にクリスマスの慰霊祭は何としても成功させねばなりません。やはり聖歌独唱……これが最も重要ですね」

 

 教会は聖歌隊、教会剣、修道会の3つに分けられる。エドガーはその中でも聖歌隊と教会剣の両方に強い影響力を持つ身だ。教会の運営にも大きく携わっており、ユナが傍目で見る限りでも激務に追われており、日に日に疲労が濃く表れているようだった。

 聖歌独唱。ユナは喉の疼きを覚えて堪える。無意識の内に伸びていた指を握りしめる。

 

「ユナ殿も教会の生活には慣れてきたようですね」

 

 紅茶を淹れて振舞うエドガーに、ユナは自分が彼の休憩するタイミングになったことを素直に喜ぶ。

 エドガーは本人も聖遺物探索と呼ばれる業務に携わっており、危険なダンジョンにも赴くことがある。曰く、かつてはDBOの支配者である3大ギルドの1つである聖剣騎士団でもトップ集団であった円卓の騎士と呼ばれるプレイヤーに数えられていたらしく、多くの謎に包まれた過去を経て教会を設立したとのことだった。

 孤児院や教会の運営はもちろん、自身の鍛錬やダンジョン探索、そして祈り。寝る間も惜しんで働いているエドガーであるが、本人にとって労働という意識はない。彼にとって教会とは人生そのものなのだろう。

 信仰に生きる。エドガーを見ているとそれもまた1つの生き方なのだとユナも自然と受け入れられる気がした。

 

<質問をしてもよろしいですか? どうして私とエー君を保護してくれているんですか?>

 

 エイジの発言の限りでは、彼とエドガーの間に深い親交があるようには思えなかった。ならば無関係の人間でも保護してくれるのかと思えば、教会の生活の限りでもそうではないと見えてくる。むしろ、自分たちは特別扱いをされている部類なのだと実感した。

 

「全ては我が信仰。我が聖女より下された神託なればこそ! アンバサ!」

 

 うん、答えになってない。ユナは笑顔でどうせまともな回答は得られないだろうと期待していなかったと諦める。エドガーは基本的に常識人であるが、少しでも信仰が絡むと途端に発言から論理性が失われてしまうのだ。

 

「そういえば、ユナ殿はポイントやスキルの割り振りは終わりましたかな?」

 

<まだです。どうしても悩んでしまって選べなくて>

 

「そうでしょうな。ポイントの割り振りは1度だけ。スキルも同様です。DBOはプレイヤーにとってシビアなシステムを採用されています。スキルに関しても特定のイベントのクリアなどの条件を満たさねば獲得できないものも多い。まずは必要なスキルだけで選び、将来に合わせたポイントの割り振りをするのがよろしいでしょう」

 

<私は戦うのが苦手なので、後方支援に特化しようと思っているんです>

 

 SAOとは違い、射撃や魔法が存在するDBOならば、ユナにも選択肢がある。特に支援や回復に秀でた奇跡の獲得はユナにも魅力的だった。

 

「ふむ、ですが戦うのが苦手ならば、生産関連スキルを得るのも1つ道ではないかと。もちろん、自衛の為に武器系スキルは必ず1つ習得しておくべきではありますが、わざわざ『戦い』を前提としたスキルを獲得しなくてもよろしいのではないでしょうか」

 

 エドガーの指摘はもっともだ。ユナも自分の性格からしても戦闘には出ない方がいいのではないかと悩んでいる。

 教会の仕事は嫌いではない。むしろ、穏やかな時間を過ごすことが出来る。その上で自分の日々の仕事が誰かの役に立っていると実感できる。

 

<私は戦わないといけない。私のデスゲームはまだ終わっていないんです>

 

「……そうですか。このエドガーも元SAOプレイヤー。ユナ殿の気持ちはよく分かります。戦えるならば戦わねばならないというある種の義務感も理解できます。ならばこそ、十分に悩んで選択されるのがよろしいかと。言い方は悪くなりますが、ユナ殿のレベルは不相応なもの。DBOはレベルや装備ではなく、本人の技量の高さが生存に直結します。SAOとはまるで異なる戦場なのですよ」

 

 ユナの事情を知る数少ない人物であるエドガーの言葉を受け止めながらも、ユナには選択が定まっていた。

 誰もが口にする。DBOは地獄だ。教会の外を知らないユナにはその意味がまだ分からない。だが、もしもDBOがエイジの顔をあんなにも曇らせてしまっているならば、自分も戦って駆け付けねばならない。

 たとえ、それが死を招くとしても。そう決意したユナは微かな頭痛を覚える。

 

 

 

 誰かが手を伸ばしている。

 

 這って

 

 這って

 

 這って

 

 誰かが必死になって這い続けて手を伸ばしている。

 

 血塗れの痛々しい姿で、それでも魂を擦り減らしても守るべきものがあるかのように。

 

 

 

 

「ユナ殿、顔が真っ青ですが、大丈夫ですか?」

 

 気遣ってくれたエドガーに、ユナは大丈夫だと伝えるように頷くと震える足で立ち上がる。これ以上は長居するとエドガーの仕事の邪魔になってしまうからだ。

 ステータスとスキルの割り振りは早めに行わねばならない。自分に不相応なレベルだと承知しているならば、足りるだけの能力を身につけねばならない。ユナは勉強から解放されて遊び回る孤児たちの相手をしながら、自分にできることを考える。

 まずは何処かのギルドに入れてもらわねばならない。DBOにはソロで多くの戦いに赴く傭兵と呼ばれる業種があるらしく、彼らは一騎当千の活躍を当たり前のようにすると聞かされているが、ユナはそんな吃驚人間にはなれない。

 

「え!? それじゃあ引率が足りないじゃない!」

 

 昼食が終わった頃、ユナは修道女の困り果てた声を耳にする。

 

<どうかしたんですか?>

 

「あら、ユナさん。それがね、今日は一部の子を引率して奉仕活動に参加する予定だったんだけど、参加予定だった人たちが急用で来れなくなってしまったのよ。空いている人たちもいないし、どうしようかしら」

 

<延期はできないんですか?>

 

「無理よ。12月はとにかく忙しいし、それに今の情勢だと、あの子たちが外に出られるのは奉仕活動の時だけだから。いつになるか分からないって聞いたらまた暴れるに決まってるわ」

 

 孤児たちもまた教会の外には出られないのだ。自分と同じ立場であることにユナは同情心を覚える。

 

<私でよろしければ、同伴しましょうか?>

 

「あら、いいの!? でも、ユナさん大丈夫? 声が……」

 

<みんなが勝手に何処かに行かないように見張っていればいいんですよね。私にもできます>

 

「そう言ってくれるとありがたいわ。じゃあ、1時間後にここでね」

 

 頷いたユナは部屋に戻り、エイジにフレンドメールを飛ばす。教会の外に出ることを時期尚早だと反対しているエイジには通達しておくべきだと考えたのだが、いつまで経っても連絡は来ない。

 フレンドメールは特定の場所……ダンジョンとかでは開けないんだっけ? 思い出したユナは彼がダンジョンにいるのかもしれないと推測した。ギルドの仕事ならば、もしかしたらヘルプ要員として探索に参加しているのかもしれない。エイジの仕事を想像したユナは次にスレイヴと連絡を取ろうとしたが、彼女とはフレンド登録していないことを思い出す。

 先の件もあり、顔も合わせづらいのであるが、致し方ないだろう。スレイヴが同行してくれるならば、後から知ったエイジも心配を和らげるはずだ。だが、エイジの部屋を覗いてみてもスレイヴの姿はなかった。

 いつも暇そうに、食べているか、食べているか、食べているか、をしているスレイヴであるが、今日は留守のようだった。ユナは書置きを残すと修道女が待つ孤児院の正面玄関に向かう。

 

「え? 黒のねーちゃんも参加するのか? 大丈夫かよ」

 

<神父様に言いつけるよ?>

 

「ごめんなさい。お願いだからそれだけはご勘弁を!」

 

 それに今日は黒じゃないし! 頬を朱に染めたユナに叱られたチョコラテは不安そうに眉を顰めた。

 

「でも心配だなぁ。俺は次の参加だから一緒に行けないし、ねーちゃんは声出せないんだろ? いざという時に危ないぜ」

 

<大丈夫だよ。引率するだけだから>

 

「それ、油断だから。教会の中は安全だから忘れそうになっちまうけど、1歩出れば待ってるのは……地獄だ。人の皮を被った悪魔がうようよいやがる。絶対に油断するなよ。男女シスターも言ってたけど、悪人ほど善人の面して近寄ってくるもんだからな!」

 

 男女シスター? 首を傾げるユナに、同行する修道女は顔を顰める。

 

「コラ! ユナさんをあまり脅かすんじゃないの! それにあの人の事は……口にしない約束でしょ? ああ、おぞましい!」

 

「うるせー! アイツが何をしようと何だろうと俺は変わらねぇ! それなのに、いつまで経っても来やしねぇしよ! あーもう! 腹立つ!」

 

 ここにはいない誰かに怒りをぶつける様子のチョコラテと修道女の態度の差異に驚きながら、ユナは孤児たちを率いて出発する。

 これが初めての教会の外だ。これから冒険に出るような高揚感を微かに覚えたユナは気を引き締める。チョコラテやエイジが警告する程に危険なのだ。

 

(ここが終わりつつある街……想像していたのと違う)

 

 敷地の外に出てもしばらくは教会関係の施設が並んで治安もいい。だが、それもすぐに終わりを迎える。

 余りにも巨大な都市。SAOのどんな街とも比べ物にならない程に広大であり、何よりも一目で分かる程に無秩序な立体構造をしていた。

 露店には見たこともない食べ物やアイテムが並び、道行く人々はこれからダンジョンに向かうかのように装備で身を固めているかと思えば、作業服姿で資材を担いで走り行く人々が数多といる。

 SAOとはまるで違う。彼らはここで生きている。ここで『生活』を営んでいるのだ。攻略しようという気概すら微塵と感じず、日々の糧を求めるような、ある種の健全な活力で漲っていたが、それは同時に攻略に対する諦観でもあった。

 

「うげぇええ!?」

 

 そして、引率の列に吹き飛ばされてきたのは顔面血塗れの男だ。被っているヘルメット型の兜は凹み、激しい吐血を繰り返す。

 

「オラオラ! これで終わりかよ!」

 

 どうやら喧嘩らしい。慌ててユナは止めに入ろうとするが、違和感を覚える。

 誰1人として見向きもしない。それこそ日常の1ページだと言わんばかりに、HPがどんどん減らされていく男を脇に通り抜けていく。

 

「はいはい、そこまで! 教会剣だ! これ以上は……分かるな?」

 

 ユナが介入するより先に引率に参加していた教会剣が割って入る。一方的に殴りつけていた男は舌打ちをすると、倒れ伏す男に唾を吐きかけて去っていった。

 誰も倒れたままの男を起こそうともせず、ユナはポケットからハンカチを取り出すと顔の血と吐きつけられた唾を拭う。目を見開いた男はユナの手を荒々しく振り払うと人目を忍ぶように走り去っていった。

 

「ねぇ、おにいさーん。カッコいい鎧のおにいさーん。良いお酒も揃ってるわよ。それに宿も決まってないなら案内す・る・け・ど♪」

 

「失せな。昼間から酒を飲む程に暇じゃねぇんだよ」

 

「えー! リーダー、今日は休もうって話じゃなかったじゃないっすかぁ! この子可愛いし、ここにしません?」

 

「そうそう。ごめんねー! ウチのリーダーはすぐ格好つけたがるからさ!」

 

 今にも胸がすべて露わになりそうな程に露出した服を着た女が酒場に男たちを誘い入れる。だが、男も女も先程の喧嘩と同様に見向きもしない。

 これが日常。これがDBOの日常。ユナの価値観が大きく軋む。彼女が暮らしていた平和な日本とも、誰かが言わずとも確かな秩序があったSAOともまるで違う。異世界にでも来てしまったかのような感覚だった。

 

「お姉さん、大丈夫?」

 

 と、怯えるユナの袖を引いたのは、新しく孤児院に来たと【ハナミ】という女の子だ。年齢はまだ10歳にも満たないが、他の子に比べてもしっかりした性格であり、率先して周囲の子を取り纏める存在だ。

 

「お姉さんは声が出せないし、怖いよね」

 

<ううん、大丈夫! みんなの方がもっともっと怖いだろうし、お姉さんも頑張らないと!>

 

 そうだ。自分が怯えていては子どもたちにも波及してしまう、と意気込んだユナであるが、彼らの方がDBOの日常には慣れているらしく、情操教育によろしくない光景にもまるで無反応だった。

 エーくんが何であれだけ反対していたのか、ようやく分かった気がする。確かに事前にしっかりと学んでいなければ、あまりにも刺激が強過ぎる。

 

「これでも『表』の治安は良くなった方なんだ。昔はもっともっと悪くて、とてもじゃないけど表通りも人が安心して歩けるような所じゃなかったんだって」

 

 ハナミの説明にユナは身震いした。今の終わりつつある街も十分にクレイジーの部類だというのに、これよりも更に悪かったなど想像もできなかった。

 これからユナ達が向かうのは難民キャンプと呼ばれる場所だ。先のラストサンクチュアリ壊滅作戦によって移り住んだプレイヤーの暮らす地域である。教会剣も多く派遣されているらしく、貧民街でありながらも比較的治安が守られている部類とのことあった。

 無数と並んだ黄色のテント。そこで暮らすのはみすぼらしい格好をした人々だった。言葉を失うユナであるが、修道女も孤児もまるで驚く様子もなかった。

 

「はーい! それでは皆さん、炊き出しの準備を行います! まず≪料理≫を持ってる子は私と一緒に厨房へ! 持っていない子はあちらの備品保管庫に向かってください! ユナさんは備品保管庫の方をお願いね」

 

<分かりました>

 

 今回の奉仕活動は炊き出しの手伝いと掃除、そして石鹸の配布だ。石鹸と言っても小石のようなものであり、ユナの感覚からすればもう使えない程に小さなものだ。だが、これでもキャンプの人々は喜んで受け取るとの事である。

 

「割り込まないでよ!」

 

「待ってくれ! 俺の……俺のパンだ! コイツ、盗みやがった!」

 

「ちょっと! お肉が入ってないじゃない! こんな豆だけのスープを飲ませるなんて、あたしらに死ねっていうの!?」

 

 炊き出しは既に大混乱のようだった。1000人分準備しているとはいえ、我先にと列に割り込み、また奪い取る。およそ秩序はない。

 教会が準備した簡易シャワールームも酷い有様だった。お湯がぬるいと教会の者に掴みかかる者もいれば、服を盗まれた泣き叫ぶ者もいる。

 これでも治安が良い? およそ無秩序な様相であり、ユナには到底信じられなかった。

 

「あのー……すみません」

 

 と、ユナに声をかけてきたのはボサボサの髪をした男だった。およそ精気の無い眼をしており、疲労が深く滲んでいる。

 

「配給券を盗まれてしまって……その……もう1度だけいただけないでしょうか」

 

 倍ほどの体格もある男に迫られ、圧迫感に怯えたユナであるが、こんな状況で配給券を盗まれたならば必死にもなると理解を示す。

 喉を数度叩いて声が出せないことを教えると新しい配給券をもらってこようとするが、ユナの手をハナミが掴んで止める。

 

「おじさん、さっきも列に並んでたでしょ? 1人1回まで。ルールは守って」

 

 え? ハナミの指摘に、子どもの法螺だとばかりに男は笑うが、ユナが見つめていると顔を怒りで染め、背中を向けると荒々しく人ごみの中に消える。

 

「最低だよね。ゴハンを貰えるだけでも幸せなのに、人を騙そうなんてさ」

 

<でも、あの人にも何か事情があったのかもしれない>

 

「お姉さんはお人好しだね。とっても綺麗な目。貧民街を見るのは初めてでしょ? すぐに分かったよ」

 

 自分よりも遥かに年下であるはずのハナミは何処か達観した物言いだった。

 

「ここにいる人たちはラストサンクチュアリの庇護下にあった人達。英雄様にずーっと守ってもらっていながら、それを当然だと甘受していた連中。私……大っ嫌い」

 

 3時間以上も続く配給は数多の問題を起こしながらも終える。こんな酷い奉仕活動など初めてであり、とてもではないが孤児に参加させるものではないと思ったユナであるが、これでもトラブルが起きなかった部類らしく、それが余計にユナを驚かせた。

 

「ラストサンクチュアリ出身者の人たちは行儀がいい方よ。そうじゃないと子ども達を連れてこれないわ。本当の貧民街の炊き出しはもっと厳重警備で行われるわよ。それに必ずと言っていい確率で死人も出るしね」

 

「そうそう。配給の奪い合いで殺しなんて珍しくもないわよね。だから教会も注意しているんだけど、1度渡してしまった後までは面倒が見切れなくてね。なるべく目が付く場所で食べるようにお願いしているんだけど、後から半分食べようとか、色々な理由で持ち帰ろうとして、そこを……ね」

 

 主に富裕層が暮らす上層は特に治安は良いが、平均的な収入を持つ中層でも喧嘩等は絶えず、教会が安全を確保しながら慈善活動をする『限界』である下層、古き街並みが残る旧市街、そして社会の底……最下層に至ってはもはや想像を絶するとのことだった。

 エドガーは単独で時として下層、最下層へと赴いて調査し、数人ばかりの子どもを連れて戻ってくることがあるらしいが、孤児院の受け入れ能力にも限界がある。ようやく拡張はできたらしかったが、それでもDBO全ての子供を受け入れるキャパシティはないとの事だった。

 

(これがエーくんが言っていた……教会の外)

 

 自分がどれだけ甘い想像をしていたのか、よく分かった。もちろん、今日見たものがすべてではないのだろうが、少なくともDBOプレイヤーが日常的に生活している空間がここなのだ。

 何も知らない自分を思い知り、ユナは嘆息した。これではエイジが何も語ってくれないのも納得だ。自分と彼とではDBOに対する認識がまるで違うのだ。

 では、それを穴埋めできたならば? ユナは僅かな期待を抱く。

 昔と同じように笑って欲しい。ユナはエイジの笑顔を思い出す。普段から不愛想の部類であったが、いざ笑うと子供っぽくて、ユナは嫌いではなかった。

 そろそろ点呼の時間だ。ユナは名簿を片手に子どもたちを集めようとした時、先程から自分の傍にいたハナミがいない事に気づく。

 何処にいるのだろうか? キャンプの狭間を歩いて探していれば、ハナミの鮮やかな赤毛を視界の端で捉える。だが、それは難民キャンプの境界線の向こう側……教会剣が敷いたバリケードの先の角である。

 どうやって向こう側に?  いや、バリケードに動かされた形跡がある。固定用の杭の片側だけが緩くなっており、まるで片開きの扉のような状態になっているのだ。

 表通りとキャンプでさえ酷い有様なのだ。ユナもバリケードの向こう側がどれだけ危険なのかは想像できた。だが、ハナミをこのまま放っておくことおできない。

 ユナは修道女……いいや、戦い慣れた教会剣に助けを求めようとしたが、物資を巡って喧嘩が起き、瞬く間に大乱闘へと発展し、とてもではないが助けを呼べる状況ではない。ユナはスケッチブックに助けを求める旨を記載して掲げるが、怒声で彼女のアクションは押し流され、殴って蹴られての流血沙汰は彼女を物理的に押し返す。

 このままではハナミを見失ってしまう。今ならばまだ追いつけるかもしれない。ユナはバリケードの向こう側に行こうとして、だが足を止める。皆の忠告を思い返す。

 ハナミは態度から察するに貧民街をよく知っているのだろう。ならば無事だ。少し待っていれば帰ってくる。そう言い訳を心の内で繰り返し、ユナは頭を振って己に喝を入れる。『何か』があってからでは遅いのだ。

 ユナはバリケードの先に踏み込む。側溝から漂う悪臭は酷く、人の頭ほどの大きさもある鼠が顔を覗かせる。途端に勢いを挫かれかけたユナであるが、生唾を飲んで先に進む。

 幸いというべきか、側溝から溢れた汚水のせいで地面は薄い泥の膜が張られ、足跡がハッキリと残っていた。だが、奇妙なのは足跡が3人分もあることだ。大きさからして1つはハナミ、残りは子どもと大人であるようだ。

 キャンプの喧騒はまだ聞こえる。精神の震えに呼応するように歩幅が小さくなっていたユナは経過時間に反して移動距離は短かった。あるいは極端な緊張が体感時間を狂わせたのか、ユナは額を、頬を、顎を伝う汗の分だけ心拍が高まる。

 やがて足跡はぽっかりと空いた、地下へと続く下り坂までユナを案内する。まるで地下ダンジョンの入口のような気配を感じ取ったユナは、これから冒険に挑むかのような後ろ姿で立つハナミを見つける。

 ユナに気づいたのか、ハナミは不安そうな顔で振り返る。

 

「……お姉さん」

 

<無事でよかった。勝手に離れちゃ駄目だよ>

 

「ごめんなさい。でも……」

 

 ハナミは素直に謝るが、視線を改めて地下への入口に向ける。

 

「知り合いの……孤児院に入れてもらえなかった子がいて……変な人と一緒だったから……」

 

<変な人?>

 

「武装もしてる様子はなかったし、大丈夫だろうけど不安になって、後を追ったらここに着いたんだ」

 

 なるほど。それでか。ユナは納得し、だが今はまずハナミをキャンプまで連れ帰ることは先決だと彼女の手を引いて戻ろうとする。

 

「待って! あの子、元ラストサンクチュアリでもないのにキャンプに入り込んで……権利もないのに配給をもらっていたの! 悪いことだって分かってる! でも、生きる為にはしょうがない! そうでしょ!?」

 

<怒ってないよ。私が事情を説明して同行してくれる人を連れてくるから>

 

「お姉さんは何も分かってない! 子どもが1人いなくなったって……死んだって誰も気にも留めない! この世界はお姉さんの知ってる常識なんて通じない! ここから先はダンジョンになってるし、何かがあったら間に合わない!」

 

 焦りを示すハナミに、ユナは迷い、だが顔も名前も知らない子どもの死に様を想像する。

 フラッシュバックしたのは、先の生中継された、キャンプで暮らすラストサンクチュアリの人々が住処を追われる原因となった戦いだ。

 白の傭兵。【渡り鳥】と恐れられる傭兵による凶行。生々しい殺戮はユナの心にも深く刻み込まれている。

 

<2人はどれくらい前に入ったの?>

 

「3分くらい……前だと思う」

 

<だったらまだ間に合う。後を追って連れ帰ろう>

 

「でも、悪い人だったらどうするの? お姉さんは戦えるの?」

 

<大丈夫。命に代えても逃がすから。ハナミちゃんは助けを呼んできて。ここからキャンプまで走れば1分もかからないし、私なら教会剣の人たちも動いてくれるかもしれない>

 

 もちろん、抗う術もなく殺されるつもりはない。途中敗退したとはいえ、SAOでもそれなりに生き残ってきたのだ。逃げのいろはも最低限に身についている。

 何か武器になるものはないか。ユナは周囲を見回し、工事用の資材らしき木材を発見する。武器にカテゴライズこそされていないが、何も武装しないよりマシである。

 

「分かった。すぐに戻るから、お姉さんも気を付けてね!」

 

 ハナミは涙目で頷くと走ってキャンプに戻っていく。喋れない自分よりもハナミならばあの乱闘の中でも応援を呼べるだろう。ユナは深呼吸をすると大きく陥没して坂になった地下への入口に入る。どうやら近辺の改築・増築の影響によって破損してしまったらしく、汚水が溝を伝って地下の奥へと流れ込んでいた。

 途端に圧迫するのは濃厚な死の気配だ。アインクラッドでダンジョンに入る度に味わった感覚だ。

 だが、いつも隣には別の誰かがいた。臨時でパーティを組んでくれた人たち、レベリングに付き合ってくれたギルド、そして……エイジだ。

 誰も隣にいない。それだけでこんなにも恐ろしくなるものなのか。まるで地震に襲われたように上手く歩けない。だが、それは自分の足が震えているせいだ。

 負けるな。たとえ、死ぬことになってしても恐怖にだけは負けるな。ユナはハナミの涙を思い出し、今度は確かな1歩で奥に進む。

 足跡は続く。排水溝から届く光だけが地下の闇を払う。だが、それでも視界は不明瞭であり、1歩間違えれば汚水に足を踏み外してしまうだろう。ユナは慎重になりつつも早足になる。

 しかし、これまで続いていた足跡は途切れた。これまでは湿った泥土のお陰で足跡がハッキリと浮かび上がっていたが、滴る汚水で洗い流されてしまっていた。しかも足跡が消えているのは十字路であり、これではどちらに行ったのか分からない。

 これ以上は闇雲に進むべきではない。入口付近に戻ってハナミが連れてくる応援を……いいや、ハナミに怒られるとしても1度キャンプに戻るべきだろう。

 だが、振り返ったユナは驚くべきものを目にする。

 

「……お姉さん、良い人だね」

 

 キャンプに戻ったはずのハナミだ。

 誰か連れてきてくれたのかと思えば、彼女は単独だった。隣にも後ろにも誰もいない。

 

「本当に良い人で……騙されやすい人」

 

 そして、ハナミは嬉しそうに、嬉しそうに、嬉しそうに……嗤った。

 ハナミはユナを強く押し飛ばす。バランスを崩したユナであるが、暗闇から伸びた腕が汚水に落ちる寸前で助ける。

 

 

 

「よーしよし! よくやったぞ、ハナミぃ! 教会の……それもとんでもねぇ上玉じゃねぇか!」

 

 

 

 次々と明かりがつき、現れたのは10人ほどの男たちだ。ユナを掴む男は彼女の腕を捻り上げる。

 これは何!? どういうこと!? 状況が飲めないユナに対してハナミは嘲う。10歳にも届かない子供とも思えない程に邪悪な笑みを浮かべる。

 

「本当にお人好しで、なーんにも知らない馬鹿な人。すぐに分かったよ。お姉さん、流民で来たばかりに保護されたんでしょ? たまにいるんだよね。そういう幸運に恵まれていながら、まるで価値が分かっていない人。私、お姉さんみたいな人……大っ嫌い」

 

「へへへ。そう言ってやんなよ。俺達としては万々歳だぜ。こんな上玉で、お前の言う通りまるで擦れた様子もねぇんだからよ! ピカピカの宝石みたいじゃねぇか!」

 

「今回は緊急事態よ。この人は教会でも固く守られていたし、手は出せないって思ってたけど、変に報告されて勘付かれたら今後に差し障りがあるかもしれないしね」

 

「しかし、よく神父の目を騙せたな。あの人に1度あったことあるが、ありゃ相当なキレ者だぜ。さすがに子どものお前にまでは警戒していなかったか?」

 

「ラストサンクチュアリ壊滅後は難民キャンプとか慰霊祭とかで忙しかったからね。私も1対1で会う機会があったらヤバかったかも。なんか、もうある種の超能力って感じかな? 人を見抜く目があるっていうか……そこの馬鹿なお姉さんとは真逆かな?」

 

 態度を変えてユナを嘲うハナミが、先ほどまでの怯えて、品行方正で、何かと自分にアドバイスしてくれた同一人物だとは思えず、ユナは状況を呑み込めないままに……いいや、想像したくないままに血の気を引く。

 男たちが連れているのは、ぐったりと気を失っている金髪の女性だ。残されていた足跡の1つの主だろう。そして、彼女の傍らにはハナミより1つか2つ幼いだろう少女が姿を現す。

 

「ハナミ! 間に合ったから何とかなったけど、急に獲物を増やさないでよね!」

 

「ごめんごめん! ちょっと油断しちゃってさ。でも、1人より2人でしょ? あの【渡り鳥】のせいで見回りも厳しくなってるし、しばらくは控えないといけないし、丁度いい臨時収入じゃない」

 

「それはそうだけど……」

 

 不満と不安を隠せない少女に、親しそうに大丈夫と肩を叩いたハナミは、自分よりも倍の背丈はあるだろう男に物怖じすることなく手を突き出す。

 

「ねぇ、それよりも支払い。予定外とはいえ、出すものは出してよ」

 

「後払いって約束だろうが」

 

「誰のおかげで『狩り』ができていると思ってんのよ。私たちストリートチルドレンのお陰でしょ? 教会の上玉なんだから前払い!」

 

「チッ……! 分かったよ。ほらよ!」

 

「毎度あり!」

 

 換金性が高いのか、指輪の類を投げ渡されたハナミは最後にユナを一瞥する。

 

「あ、その人、声出せないらしいから」

 

「マジかよ。まぁ、これだけ面が良けりゃ問題ないが」

 

「ということでお姉さん、ご愁傷様♪ まぁ、変態達の『玩具』で7割、『ペット』で3割かな? せいぜい長生きしてね」

 

 ハナミはユナのことなど忘れたとばかりに指輪を愛おしそうにアイテムストレージに収納すると、少女の手を引いてそのまま振り返りもせずに戻っていった。彼女が修道女や他の孤児にどんな言い訳を披露するのかは定かではないが、すぐにでもユナを助けに来るヒーローなど現れないだろう。

 ようやく自分の状況を悟ったユナは助けを呼ぼうとするが、声は出ない。繰り返されるのは潰れたような呼吸音ばかりだ。

 

「あ……あぎぃ……あが……!」

 

「おいおいマジだぜ! カワイソー! この子、本当に声が出せないみたいだぜ!」

 

「確かFNCってやつだな。生で見たのは初めてだ」

 

「汚い声だな。まるでカエルが潰れる悲鳴みたいだぜ。でも悪くねぇ。男のアレを突っ込まれたらどんな風に泣き叫ぶんだろうな」

 

 下卑た笑みを浮かべる男に、ユナは身震いする。これから待つのは死んだ方がマシと思うほどの地獄だと想像することが容易い程度には、男たちに良心など微塵もなく、ただ欲望に塗れた視線だけがユナを『女』として舐め回す。

 

「いや、もしかしたから高値がつくかもしれねぇな。ほら、例の『アレ』だよ。ウチも近々チェーングレイヴとの対決は免れないかもしれねぇ。上は早急な戦力強化をお望みだ。『母体』コースかもしれないな」

 

「うへぇ。それはそれで……!」

 

 助けて。助けて。助けて。誰か……! ユナは口を押えられ、闇の中に引っ張り込まれていく中で手を伸ばすが、誰もつかむ者はおらず、届くこともなかった。




土を掘り返したまえ。
汝の知らぬものが埋まっているだろう。
だが、日の光の当たらぬそれらは隠されるべくして隠されたものである。


それでは、341話でまた会いましょう。














絶望「さぁ、始めようか」

恐怖「3話分だ。休暇はもう十分さ」

苦悩「いつでもいけるぜ?」

悲劇「人類に……暗黒の時代を……!」

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