SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

善意に悪意が牙を剥く。


Episode21-04 うそつき

 情報は統合されていく。バラバラだったパズルのピースは合わさり、真実の輪郭が露わになる。

 何事も無い平和な結末など最初からありはしない。だが、キリトは自然と拳を握る。

 

「裏は取れました。グルメ・クルセイダースが卸していた料理店は裏で犯罪ギルド・ヴェノム=ヒュドラと繋がりがあったようです」

 

「あら、随分と手際が良いじゃない」

 

「サインズとしても不祥事で傷口を広げるわけにはいきません。シノンさんを派遣すれば1発でした」

 

「ああ、だからシノンがここにいるのか」

 

「そういう事よ。まったく、貴方達がどんな仕事をしているのかと思えば、とんでもないクズの膿じゃない」

 

 サインズ本部の会議室にて、揃い踏みするのは今回の担当受付嬢であるヘカテ、黄金林檎のグリセルダ、シノン、そしてキリトとクゥリだった。

 クゥリは呑気にシノンの参加を指摘したが、キリトとしても一刻も早く事件に決着をつけたい気持ちだった。だが、現在はサインズ上層部の到着待ちである。マクスウェルにも連絡したが、こちらからは返答がない。

 

「今回の件はイレギュラーですし、依頼の範疇を脱しています。キリトさんとクゥリさんの依頼はひとまず完了したものとして処理されました」

 

「当然よね」

 

 納得したグリセルダはこれ以上の関与を望まないといった眼であり、対するクゥリは静観を貫いている。一方のキリトは渦巻く感情を腹の内で止めるので精一杯だった。

 そんなキリトの内心を察してか、そっと隣に立ったシノンは肘で小突く。

 

「感情的になるんじゃないの。こんなの傭兵あるあるの1つじゃない。ネームド相手に戦ったり、ダンジョンに取り残された人を救助したり、そんな仕事ばかりだったら、こんなにストレス溜まらないわよ」

 

「そう……だな」

 

 エイジの件でも十分に味わったはずだ。1つの依頼の裏に潜む数々の陰謀と策謀を。推し量れぬ悪意が牙を剥くことを。分かっていたはずだ!

 感情的になるな。心は熱く、思考はクールに。キリトは深呼吸を繰り返し、自分とは対照的に、もはや眠そうとも形容できる様子のクゥリの動きを見守る。

 

「完全にオフモードに入ってるわね」

 

「……だな」

 

 ふわふわ、といった擬音が今にも聞こえてきそうな程にクゥリは気の抜けた様子だ。グリセルダが受理した通りに依頼は既に終了しているのだから、クゥリからすれば仕事終わり……オフも同然なのだろう。

 

「遅れて申し訳ありません。サインズの【ヒルジャンク】です」

 

 会議室に入ってきたのは、豊かな口髭と横っ腹が特徴的な男だった。サインズを取り仕切る上層部の1人であり、此度の事件の管理を任された人物なのだろう。

 

「この度はサインズの失態で皆様に要らぬ苦労を――」

 

「御託はいいわ。依頼報酬が支払われるなら、こちらに文句はないわよ。支払いは即金でお願いするわ」

 

「畏まりました。どうぞ、お受け取りください」

 

 準備していた小切手を取り出したヒルジャンクに、グリセルダは満足そうに受け取る。

 

「あら、ちょっと多過ぎるんじゃないの?」

 

「此度の件の口止め料と思っていただければ……」

 

「サインズとしてはあり得ない失態よね。良いわ。有難く受け取っておく。さぁ、帰るわよ、クゥリ君」

 

 これ以上の長居は無用とばかりにクゥリを連れ出そうとするが、待って欲しいとばかりにヒルジャンクは慌てて出入口に立ちふさがる。

 

「申し訳ありません。後もう少しだけこちらのお話を聞いていただけないでしょうか?」

 

「結構よ」

 

「そこを何とか!」

 

「くどい」

 

「グリセルダさん、オレも自分の仕事の顛末が気になります。話を聞くだけならばよろしいのでは?」

 

 今にも殴り掛からん勢いで血管を浮き彫りにさせたグリセルダを諫めたのは、まるで覇気もないクゥリの一声だった。

 何か言いたげなグリセルダであったが、キリトやシノン、ヘカテの視線に囲われ、仕方ないとばかりに席に着く。

 

「まずはキリトさん、クゥリさんの両名の現地調査とマップデータ、黄金林檎とヘカテが収集した情報を照らし合わせた結果、此度の事件の裏には犯罪ギルド・ヴェノム=ヒュドラの関与が明るみになりました」

 

「ごめんなさい。話の腰を折って悪いけど、私はサインズからの緊急依頼で件の料理店に押し入って吐かせたわけだけど、まるで事情を呑み込めていないのよ。1から説明してもらえると助かるわ」

 

 同席するシノンの希望により、今回の事件……そして、DBOで起きていた連続誘拐事件についての詳細が明らかになる。

 キリトが得た地下ダンジョンのマップデータの通り、どうやらこれまでの犯行は地下ダンジョンを利用して行われていた。拉致対象を何らかの手段で地下ダンジョンにおびき寄せ、そのまま連れ去るのである。

 問題はどのようにして地下ダンジョンに連れ去るかのであるが、キリトの収集したマップデータと当時の市場周辺のマップデータを比較したところ、近隣で大規模な改修工事が行われており、その関係で部分的に地下ダンジョンの入口が表面に露呈していたのである。それも市場から極めて近しい位置である。

 

「よく気づいたわね」

 

「別に難しい事じゃない。地下ダンジョンの入口は終わりつつある街に整合性を取るべく変化する。だったら、近隣で工事が行われれば地下ダンジョンの形も変わる。見てくれ。緩やかな斜面で続く地下ダンジョンの入口は、そのままレモネーの失踪予想ポイント付近にまで繋がってる。あくまでダンジョンの入口は反応が喪失したこのポイントからなんだろうな」

 

 これならば拉致現場など目撃されないはずである。地下ダンジョンの入口に踏み込むその瞬間を見届けようにも、工事による陥落を示すバリケードで封鎖されているのだ。物乞いも目撃しようものがない。

 

「この情報を基に過去の類似した失踪事件についても照合したところ、失踪した女性プレイヤーの多くが教会の慈善活動に参加していたことが判明しました。これらの事から、ターゲットは主に教会の関係者であったことが予想されます」

 

「それは早合点じゃないかしら。あくまで教会の活動に参加しているだけで、教会の人間とは限らない。地下ダンジョンに誘導する上で教会の活動に参加するような人物は都合がよかったんじゃないかしら」

 

 グリセルダの指摘に、ヒルジャンクは確かにと頷く。

 

「ねぇ、そもそも地下ダンジョンにわざわざ入る理由って何かしら? 確かに表層はせいぜいレベル10程度あれば十分でしょうけど、私だって依頼でもなければ入りたくもないわ」

 

 シノンの指摘の通りだ。無差別ではなく、ターゲットには共通点があった。教会の活動に参加するような女性プレイヤーを狙い、なおかつ地下ダンジョンまで誘導する方法とは何だろうか? キリトは考えるもこれだという発想は浮かばない。

 

「キリトさんの指摘から現在のマップデータと地下ダンジョンの入口を調査したところ、過去の拉致現場と類似した地理状況となるポイントが4ヶ所発見されました」

 

 ヘカテは淡々と報告書を読み上げるが、明らかな嫌悪感が表情からは滲み出ている。キリトも気持ちは同じである。

 

「グルメ・クルセイダースは?」

 

「メンバーに任意同行を求めたところ抵抗。降伏したコーンロットさん以外の……いいえ、麻薬アイテムの治療で入院中のギルドリーダーを除く全員の死亡が確認されました」

 

「容赦がないわね。生け捕りできなかったの?」

 

「予想外に抵抗が強かったそうです。完全な奇襲だったんですが、相手の方が自力も装備も上でした。まぁ、幸いにもこちらには犠牲者が出ていませんが」

 

 だが、今回の事件の重要人物であるコーンロットの捕縛には成功した。いや、降伏したという表現から察するに、彼は最初からこの展開を狙っていたのかもしれない。キリトは捕らえられたコーンロットの現状を求めた。

 

「現在はサインズ本部が保有する施設にて留置されております。事件が事件であるだけに、教会と3大ギルドには連絡してあるのですが……」

 

「いずれもこの時期に何たる間の悪さと思いながらも、影響力を高めるチャンスと自分たちが管轄だと言い張るでしょうね」

 

 くだらないとばかりにグリセルダは言い放つ。だが、大ギルドはいずれが主導権を握るかを最後まで言い争うだろう。

 

「コーンロットは自白しているのか?」

 

「それが黙秘を貫いておりまして」

 

「変な奴ね。自分のギルドが麻薬アイテムの材料で小遣い稼ぎをして、副リーダーを拉致させて、挙句に今度は大人しく降伏したと思ったら黙秘? まるで意味が分からないわ」

 

 シノンの言う通りだ。キリトもコーンロットは自白したものだとばかりに思っていたのだが、彼の行動にはまるで論理性というものが見られなかった。

 ならば、コーンロットの行動の核になっているのは感情なのだろう。そうであるならば、普遍的に当てはまる論理性よりもコーンロットという人間を形作り、また今回の事件の引き金となった感情の背景こそが必要不可欠なピースだ。

 

「でも、今回の事件は太陽の狩猟団も黙っていないでしょうね。下部組織ならともかく、攻略に携わっていた本メンバーに犠牲者の疑惑があるんだから」

 

 だからこそ、サインズも他でもないシノンに緊急依頼を出したのだろう。今回の事件が明るみになった場合に備えて、サインズとしても太陽の狩猟団の顔を立てねばならないのだ。

 3大ギルドの協議とは、要は太陽の狩猟団をメインにして、ヴェノム=ヒュドラに如何様な落とし前をつけるかだろう。教会も自分たちの慈善活動を利用されたとなれば、太陽の狩猟団と連携して行動するだろう。キリトが連絡した以上、チェーングレイヴも黙ってはいないはずだ。

 

「ですが、気になりますね」

 

 と、そこで疑問を提示したのはヘカテだった。

 

「失踪者を時系列に並べてみたところ、最初はレベルが高いと言っても中堅の50前後でした。ですが、徐々に高レベルプレイヤーをターゲットに変更し、直近ではレベル90圏内の上位プレイヤーにも犠牲が出ています。ヴェノム=ヒュドラにとってハイリスクを取るだけのリターンはあるのでしょうか?」

 

 キリトも同意見である。たとえ高値で売れるとしても、高レベルプレイヤー程に大ギルドが関係している確率は高まる。事実として、太陽の狩猟団の上位プレイヤーが含まれていたのだ。

 

「御託は十分よ。ヴェノム=ヒュドラに報復でも何でも好きにすればいいわ。DBOの治安維持に貢献しているとアピールできる格好の宣伝材料なのだから、太陽の狩猟団の主導でも大ギルドも足並みを揃えるでしょう。そんな美味しい依頼をありつけられるはずもないし、私たちは退席させてもらってもいいかしら?」

 

 グリセルダの言い分にヒルジャンクは言い返せない。キリトも認めたくないが、今回のような宣伝性の高い依頼をクゥリに回すことはないだろう。なにせ社会はまだ先のラストサンクチュアリ壊滅作戦で持ちきりなのだ。

 ならばこそ、ヒルジャンクが脂汗を拭いながらも、申し訳なさそうな顔をしている様子にキリトは嫌な予感を募らせる。

 

「そ、それが……実は……【渡り鳥】さんに是非とも引き受けていただきたい依頼がありまして……」

 

 キリトとシノンをチラチラと見るヒルジャンクに、態度をハッキリさせろとばかりにグリセルダはテーブルを叩く。だが、頼りない風貌でもヒルジャンクもサインズ上層部の人間なのだろう。脅しに屈する様子はない。

 

「ここで言いなさい。さもなければ、絶対に引き受けないわ」

 

「……分かりました。お恥ずかしながら、ヴェノム=ヒュドラの拠点が何処にあるのかも分かっておらず、ましてや最下層に関しては大ギルドすらも十分な情報を持ち合わせておりません。攫われたプレイヤーが何処にいて、どうなっているのかも手掛かりがなく、【渡り鳥】さんに是非とも早急な調査と『戦力判断』をお願いしたいのです」

 

「それはつまり?」

 

 これまで沈黙を保っていたクゥリが穏やかに微笑みながら尋ねる。

 

「『手段は問いません。確実な成果をお願いします』」

 

 言葉にしないが、ヒルジャンクがクゥリに『何』を依頼したのかを察知したキリトは理性が溶ける勢いで頭の芯から熱が発する。

 

「アンタ……自分が何を言ってるのか、分かっているのか!?」

 

 荒々しく席を立ったキリトはそのままヒルジャンクの胸倉をつかむ。

 

「アンタの……いいや、アンタたちの考えは読めてるさ! サインズの見逃しのせいで放置され、しかも太陽の狩猟団の顔に泥を塗るような事件だからな! しかもこのリストを見る限りだと、大ギルドのお墨付きをもらっていた飲食店まで麻薬素材を卸していたと来たもんだ! しかもグルメ・クルセイダースは氷山の一角に過ぎない! 実際に関わっている連中はどれだけいるやら! それこそ大ギルドと懇意にある商業ギルドや有力ギルドもな!」

 

 3大ギルドと纏め上げても、1つの巨大なギルドが仕切っているわけではない。大ギルドの手足となる下部組織となるギルドが無数と存在し、支援・協調関係を保つ有力ギルドがあり、大きな財力と発言力を持つ商業ギルドも存在する。彼らを蔑ろにするわけにはいかない。なにせ、誰もが大ギルドの掲げる理想に、信念に、方針に従っているのではない。むしろ、大多数は勝ち馬に乗るべく吟味しているのである。

 軍事力と強権を振るえば『その場』は始末をつけられる。だが、自分たちにとって都合が悪い、締め付けられると分かれば離れる者達も多いだろう。3大ギルドは表向きの足並みを揃えても裏では殴り合いどころか出血上等の刺し合いをしているのだ。当然ながら勢力を削ぎに動く。

 清廉な組織など1つとして存在しない。清濁併せ呑んでこそ覇道を歩む権利が与えられる。それくらいはキリトも理解している。

 キリトにはまだ何の音沙汰もない。もしかしたら、今回の件からは完全に手を引くことになるかもしれない。あるいは、大ギルドから正式に依頼が来るだろう。

 ヒルジャンクは顔色1つ変えない。だが、ヘカテは暗雲が広がる空と同じく顔に影を落とす。彼女にとっては『日常』なのか。

 殴りたければ殴ればいい。胸倉をつかまれたままのヒルジャンクは無防備だ。

 この場で感情的になっているのは自分だけだ。グリセルダの態度は交渉術の類だとキリトも見抜いている。

 

「……クソ!」

 

 この感情は自分が未熟であるが故にか? キリトには判別が出来ない。だが、ここで怒りを露わにせずに呑み込むことだけはしたくなかった。たとえ、まだまだガキだと嗤われることになるとしても、感情に従わねばならない時がある。

 

「私としても不本意でした。このようなデリケートな案件の『調整』は、傭兵やマネージャーとだけ行うものなのですが。3大ギルドはともかく、教会は教会剣のギルド化を前倒ししてヴェノム=ヒュドラへの攻撃を計画しているという情報が入っています。事は一刻を争うだけに……」

 

 ヒルジャンクの物言いは既に依頼を引き受けることが決まっているようだった。キリトはこんなおかしな依頼を引き受ける道理などないとばかりにグリセルダを見つめる。

 だが、グリセルダは先程までとは異なる氷のように冷たい表情だった。

 

「今回の事件の謎を解いたのはウチの薬師よ。それにこの情勢下でクゥリ君を使いたいとなると……相応の報酬は期待できるのでしょうね?」

 

「報酬に関する協議は後程させていただきますが、ご満足いただけるかと」

 

「何を言ってるんだ!? こんな依頼を引き受ける必要なんて――」

 

「少し頭を冷やしなさい」

 

 シノンはキリトの肩を叩き、ヒルジャンクの胸倉を掴む手を緩めさせる。

 

「本当にクローズされる依頼なら、ヒルジャンクさんも私たちに聞かせないわ。つまり、私たちの『作戦の参加』は内定しているってことよ。クーが騒動を起こし、後々で私たちが大ギルドの部隊の先遣隊として乗り込む。そうでしょ?」

 

「…………」

 

 ヒルジャンクの無言は肯定なのだろう。キリトは拳を握り、壁を殴りつける。彼の高STRで繰り出された全力のパンチは壁に大きな亀裂と轟音をもたらした。これにはさすがのヒルジャンクも口をパクパクと、見た目通りの丸々太った金魚のように開閉する。

 キリトは最後に、自分が引き受けることになるだろう依頼を巡った言い争いなど気にする素振りもないクゥリを見つめる。

 サインズやグリセルダが何と言おうと、最後に決めるのはクゥリ自身だ。だが、キリトはある種の諦観にも近しい確信があった。

 

「クゥリさん……その……早急に準備していただけますか? 嫌ならもちろん……」

 

「それが依頼ならば万全を尽くすまでです」

 

 ヘカテの申し訳なさそうな確認に、クゥリは何の躊躇いもなく頷いた。

 彼が『この程度』で依頼を断るならば、【渡り鳥】という悪名が生まれるはずもないのだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ごめんなさい」

 

「藪から棒にどうしたんですか?」

 

 新たな依頼の準備を傭兵寮で行っていれば、グリセルダさんは前触れなく頭を下げた。

 何か謝罪されるようなことがあっただろうか? むしろ、今回の依頼はコーンロットの件からの地続きのようなものだ。オレが招き寄せた厄なのだから、むしろ頭を下げるべきはオレの方なんだがな。

 

「マネージャー失格ね。貴方にまともな依頼は来ない。【渡り鳥】という戦力価値をDBOに知らしめた以上は、それに見合うだけの……貴方に纏わりつく恐怖の眼差しに相応しい暴力の行使を求められることになると分かっていて、どんな依頼だろうと最高の条件と報酬を引っ張り出すのが私の仕事だと覚悟していたはずなのに」

 

「…………」

 

「それなのに、私は心の何処かで踏ん切りをつけられていなかった。キリト君たちの前で依頼内容の開示を強要したのは、そうすればお流れになるんじゃないかって……私が『感情的になったせい』で霧散するんじゃないかって……ちょっとだけ期待しちゃったのよ」

 

 ああ、だからか。グリセルダさんらしくないなと思った。オレとしてはてっきり『この程度』ならばキリトたちにバラしても問題ないと判断したと思ったのだがな。

 

「でも無駄だった」

 

 徒労を噛み締めるように、豪雨と雷鳴が轟く窓の向こうを眺めるグリセルダさんに、オレは何も気にしていないと首を横に振る。

 

「グリセルダさんは何も悪くありません。オレは傭兵です。それに良かったじゃないですか。今回の依頼でうまくいけば、日蝕の魔剣の修理が前倒しになるかもしれませんし、悪くはありませんよ」

 

 日蝕の魔剣は修理素材の希少性から修理が大きく遅れている。どうやら予定していたルートから聖剣騎士団関連の素材が黄金林檎に渡らなくなってしまったのだ。ラストサンクチュアリ壊滅作戦に対する細やかなお返しなのだろう。グリムロックの事なので代替素材を準備しているだろうが、手間はかけたくない。

 あの後、改めて依頼内容の確認があったのであるが、今回の依頼の形式上の雇い主は3大ギルド合同である。そうなれば聖剣騎士団関連の素材の要求も捗るはずだ。そう考えればプラスである。

 

「貴方は本当に……いいえ、それでこそ貴方なんでしょうけどね」

 

 力なく笑ったグリセルダさんが不意に近寄る。不本意であるが、オレよりもグリセルダさんの方が背は高いので見下ろされる形になってしまう。

 

「無理しちゃ駄目よ? まだ回復しきっていないんだから」

 

 グリセルダさんの手が優しくオレの頭を撫でた。あの男の乱暴な……だが温かくて何処か懐かしくなる手とは違う、労わりに満ちた優しい手だった。

 キリトとの戦いで無茶したせいか、左手の痺れと動作不良は回復しきっていない。せいぜいが3割といったところか。慢性的な内側から染み出す痛み、肺を圧迫するような嘔吐感、視覚・聴覚不良といったところか。両足の感覚不全も幾らか悪化したようだが誤差の範疇だろう。元より痛覚代用しないといけなかったしな。やや注意が必要なのは右手の残されていた感覚が更に薄くなった気がする。まぁ、いずれは左手と同じく完全に感覚を失うだろうな。

 だが、思っていたよりも後遺症が『軽い』のも確かだ。トータル時間が短かったせいもあるだろう。むしろ、問題なのは獣性解放の反動だ。飢餓感が増した分だけ殺意は御し難くなっている。

 そうだ。『喰らう』必要があるのだ。飢餓を騙し騙しで今日に至るが、ザクロたちを喰らったことでより飢餓を強く感じるようになってしまった。

 それだけではない。ランスロットとの戦いの中で起きた絶食状態……あの時は獣性を完全解放してデーモン化までの大判振る舞いだったわけであるが、デーモン化を封印したからといって絶食状態が起こらないわけではないだろう。むしろ、あれは飢餓状態で更に獣性解放したからこそ併発してしまったものである。

 今の飢餓状態が悪化し続ければ、左腕の不調や深淵の病以上のいつ暴発するか分からない爆弾になる。

 

(お腹が空いたなら食べればいい。アナタが『獣』になることをワタシは拒まない。アナタがそれを望むなら……)

 

 ヤツメ様は囁く。目の前に熟成した『携帯食』があるではないか、と喰らい付くことを是とする。

 そうだね。でもね……それでもね……『食べない』よ。

 撫でてくれるグリセルダさんの手……温かい。感覚が随分と失われた右手で触れてもほのかに感じる。感じることが出来る。でも、飢餓を抑える為にも……狩りの全うという使命を改めて刻み込みたい。

 グリセルダさんの手を取って、失礼を承知でオレの頬に触れさせる。ああ、頭を撫でられた時よりも、右手よりも、ずっとずっと温かさを感じる。『人』の熱が籠っている。

 

「ク、クゥリくん!?」

 

「ごめんなさい。嫌なら離してもらって構いません。でも、少しだけ……」

 

 これが『人』の温もりだ。凍える冷たい闇の夜の先に……暁の光が満たされる時まで残さないといけないものだ。

 

 でも、それ以外にも何かを感じる。

 

 もう思い出すことができない、灼けてしまった『何か』が疼くのだ。

 

 灼けた記憶の穴の疼きが広がり、違和感を拾い上げていって、オレは失った『何か』の輪郭をぼんやりとつかみ取る。

 

 ああ、そうか。オレは……オレは……オレは……灼けて失ってしまっていたのか。

 

 当たり前だ。オレにだっていたはずなのだ。

 

 父がいたならば、母だって……いるのだ。

 

「……ありがとうございます」

 

 会いたいのだろうか。何か伝えたいことがあったのだろうか。もはや、それすらも灼けてしまって定かではない。母にどんな想いを抱いていたのかさえも。

 

「いいのよ」

 

 心なしか、グリセルダさんの目で渦巻く感情が濃くなったような気がした。やはり失礼過ぎたか。この埋め合わせはグリムロック経由で何かするべきだな。思えば、夫婦水入らず……という機会も少ないだろうし。

 改めて作戦の準備を始める。今回は最下層まで潜り込むので教会服では浮ついてしまう。だからといって白夜の狩装束の大部分もまだ改修中だ。贄姫も魔剣もミディールも手元にない。グリセルダさんからグリムロックに至急とメールを送っているが、さすがに足掻きようがないようだ。

 装備が戻るまで待つという手もあるにはあるが、速度に定評があるグリムロックでもいつになるか確定しない。グリムロックなら明日の朝までには贄姫くらいなら何とかしてくれそうな気もするが、当てにはしない。

 

「ひとまず現時点では依頼目標は情報収集のみね。襲撃も内定しているけど、3大ギルドが仲良く肩を並べるはずもないし、会議次第で正式な依頼主が決定するでしょう」

 

 オレが得た情報と各大ギルドの暗部が収集した情報を統合し、いずれの大ギルドが『抜け駆け』するか。それ次第というわけか。

 ヴェノム=ヒュドラの拠点……拉致されたプレイヤーが何処にいるのか、状態はどうなっているのか、そして戦力判断という体裁を持った襲撃だ。適当に暴れ回ればいい。要は奇襲だ。オレの得意分野にして本領である。まぁ、『本部襲撃』や『殲滅』じゃないだけマイルドだよ、うん。大ギルドもこの状況でヘドロが溜まった水底みたいな裏社会の最深部をお掃除したくないでしょう。そのコストを誰が支払うのって話になるだろうしな。

 なるべく派手に混乱を起こし、その間に拠点の位置情報を通達した大ギルドが治安維持の名目で派遣といったところだろう。裏が噛んでるとなると体面の為にもチェーングレイヴの別働、あるいは参戦もあり得るな。この辺りはパイプがあるクラウドアースが何とかすると思いたいが、グリセルダさんの情報によると議長交代によってどうなるか分からない。

 既に大ギルドの暗部も動き始めているし、情報収集はつつがなく完了するだろう。とはいえ、わざわざ拠点の調査まで求められたのは『荒事』が必須だからだ。つまりは情報を持っているヤツがいても、そう簡単には口を割らせることができず、下手を打てば勢力内に波乱を巻き起こす。それどころか、自陣営の傷を浅くしようとすれば、暗部同士のぶつかり合いになる。というか、もうなっているかもしれない。

 そこでオレの出番というわけだ。サインズから提供された資料には『有力情報源』なる複数名が記載されている。グレーなヤツ、一攫千金を当てた新興ギルド、明らかにアウトなヤツ。生死は問わない。むしろ殺せと言わんばかりだ。え? もしかして、今回の事件をチャンスとばかりに始末したいとか思ってる連中なんじゃないの? どうでもいいけどさ。

 

「やっぱり装備に不安があるわね。調達は必要かしら?」

 

「パラサイト・イヴもレガリアもありますし、インナーと腕だけとはいえ白夜の狩装束もあります。それに、グリムロックはしっかり仕事もしてくれていますしね」

 

「……そういえば『改修』だったわね」

 

「ええ。オーダーを伝えたら、想像以上の出来栄えみたいです。まだ試していませんが」

 

「ぶっつけ本番なんて無茶はしないで。今ある手札だけを活かしましょう」

 

 ふーむ、とはいってもサブばかりしか残っていないんだよな。あ、そういえば面白い武器があったな。市場に出回っているキメラウェポンで簡易的な変形機構が取り入れられている武器であるノコギリ鉈だ。片方は厚い鉈の刃、片方は鋸状の刃だ。鉈として振り回すもよし。刀身と柄の接続部分で折り畳めるギミックになっていて、この時はノコギリ状の刃を効率よく振るうことができる。まぁ、柄を鉈の刃で囲うような形になるから、下手に鋸刃のところで受け止めて破損しようものなら自分の指を斬りかねないんだけどな。

 流血システムのお陰で再評価されているらしい鋸刃は効率よくアバターを破壊できる一方で深く斬り込むのに適さず、また扱い難い。それに血もドバドバ飛び散るので精神衛生上にも悪いらしく、結局は人気が再燃することもなく、だからといって上位プレイヤーからすればわざわざ素材変更の大改造を施して使う程に惚れ込んでいる物好きもおらず、グリムロックが手持無沙汰の時に改造した品だ。

 鉈刃はイジェン鋼に、鋸刃は【青角の毒蛇の牙】に置き換えられている。毒々しい青の鋸刃がその実は研磨された毒蛇の牙なのだ。ちなみに毒蛇と名前を持っているが、その実は牙にデバフの毒はなく、攻撃が命中したら悪くない確率で対象の防御力、アバター強度、スタン耐性を下げることができる。青角の毒蛇は牙で相手を弱らせ、角の毒で仕留めるというちょっと面白い毒蛇なのだ。ちなみに角のドロップ率は伝説級に悪いらしくグリムロックがいかなるルートでも仕入れられず、しかも毒もレベル2と大して高くないらしい。まぁ、蓄積性能は優秀らしいがな。

 あとはグリムロックの改造品【グレネード・トンファー】だな。トンファーに炸薬や火器を仕込まれたものは教会の工房からも発売されていたのだが、グリムロックはこれをグレネードに変更しやがった。うん、馬鹿だな。しかも装填数はたったの1発。うん、1発火力の追求は浪漫だけどもっと色々とあるだろ? 更に言えば撃てば爆散して武器は破損して使いものにならなくなる。アイツ、もうなんか色々と諦めてないか? オレは武器を使い捨てにしているのではなくて使い潰しているだけなんだがなぁ。

 まぁ、軽いし、打撃属性攻撃力は悪くないし、トンファーの時はそこそこ優秀だし……脆いけど。使い捨てにしては高過ぎるんだよな。まぁ、割り切って基礎攻撃力に全振りした素材だしな。武器の寿命とか完全無視した産物だし、グリムロックの研究が生んだ悲しき作品なのだろう。何故か3本もあるけど。

 だが、いざという時の瞬間火力には使えそうだ。グレネードで一掃したい時とか、不意を突く時にも活躍できそうなスペックである。まぁ、グレネードという特性から武器枠を2つ消費する上に使えばトンファーとしても使えないからなぁ。グレネードで即殺できる保証もないし、弾速も遅いし、タフなモンスターだと割と耐えるし、やっぱり1発だけというのがなぁ。

 あとはイジェン鋼の太刀でいいだろう。イジェン鋼シリーズは1つ持っていけば安定するしな。

 こんなものか。足りなくなったら現地調達すればいい。パラサイト・イヴの強みの1つは触れていれば何でも暗器にできる事だ。

 

「防具は変えないの?」

 

「まずは『情報収集』だけですし、そのまま直行しませんから1度戻ってきます」

 

「そう……気を付けてね。こちらも手は打っておくわ。コーンロットが何を企んでいたのか知らないけど、傭兵を舐めたらどうなるのか、身をもって教えてあげるわよ」

 

「……程々でお願いしますね」

 

 彼の意図は何か分からないが、少なくともグルメ・クルセイダースの……仲間の……そして自分の滅びを欲しているかのようだ。グリセルダさんがどのような形でコーンロットを揺さぶるかは定かではないが、それが彼の望みを存外に叶えることになるかもしれない。

 最後に【ハッピートーク・パーティセット】を持って出発する。

 さて、まずはリストの全員を回って情報を引き出すとするか。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 さすがと言うべきか。やはりと言うべきか。どちらであろうとも、欲しくないタイミングでトラブルを起こす、あるいは招き寄せてくれるものだ。ディアベルはクゥリとキリトの2人によって暴かれた犯罪ギルドの事件に対して嘆息を堪えつつ、執務室で額に手をやって疲労を滲ませる。

 ただでさえラストサンクチュアリ壊滅後の後処理や社会不安の解消で忙しいというのに、今度は犯罪ギルドの火種である。

 DBOの現人口は推定40万人であるが、これは実数と異なるとされている。アンダーグランドである下層・最下層の住人が正確にカウントされておらず、教会ですら把握しきれていないからだ。諸説あるが、先日の報告では実数は100万を超えているなどという、さすがにオーバー過ぎるものまで飛び出す始末である。だが、このまま人口増加が続けば、大台の100万到達も時間の問題だった。

 いずれの大ギルドも『ギルド間戦争なんかしてる場合じゃねぇ!』とばかりにフロンティア・フィールドの攻略に注力しているのは、絶対的に資源……特に食料が足りないからだ。アップデートのせいで備蓄していた食料もほとんどが廃棄処分を免れなかったのだ。

 腹が減っては何とやら。先人は偉大だ。ディアベルはギルド間戦争を見越した備蓄計画と目算の報告書にも目を通した時など頭痛の余りに立ち眩みを覚えた程である。それだけの膨大な備蓄食料を確保する為にはどれだけのコストが必要なのかなど言うまでもない。ましてや、単に腹を膨らませるだけではなく、士気を維持するならば相応の質も求められるのだ。

 ようやく農地を確保したかと思えば、有力ギルドによる代理戦争で焦土となり、備蓄すれば倉庫を傭兵に奇襲されて灰と化す。やられたらやり返し、ひたすらにエスカレートし、支援する有力ギルド同士の代理戦争も激化する。

 聖剣騎士団も下部組織の中小ギルドなどを除いても、正規メンバーは2万人にも到達する大所帯にまで成長した。もちろん、戦闘員だけではなく生産から内務に至るまで含めた数である。更に言えば、戦闘員の内の最前線に立てる上位プレイヤーは少数であり、大半が中位プレイヤーである。上位プレイヤーはクラウドアースの育成方針の通りに戦闘に秀でた才覚を持った『エリート』なのである。そうしたエリートの中でも特に輝く異才を誇る者が死闘の経験を積んで錬磨されて相応の装備を得てトッププレイヤーと呼ばれるようになるのだ。更にトッププレイヤーの中でも飛び抜けているのがネームド単独討伐などが出来る人類最高峰クラスの『英雄』と謳われるに足る者達なのだ。

 攻略においては意外にも数のごり押しが通じる場面は限られる。たとえば、ネームド戦には参加可能メンバーが定められていたり、参加人数が一定数を超過すると超強化が施される仕様になっているからだ。また犠牲を考慮しない攻略は人的被害のみならず評判にも傷がつく。人口増加が無限に続くと仮定したとしても、消耗品だとばかりに露骨に死地に送り込まれる組織に誰が属したがるだろうか。

 だが、PvP、あるいはGvGにおいて『数』は絶対的な有利だ。これはDBOの仕様のお陰である。たとえレベルや装備で勝っていても数の暴力で覆せるのだ。上位プレイヤーが油断してレベル10水準のダンジョンでモンスターに囲われてタコ殴りにされ、何もできずに死んだ……という笑い話にならないこともあることこそが何よりも証明している。

 だからこそ大所帯を食わせるだけの食料は必要不可欠だ。GvGに勝つ為には、『質』を蔑ろにしていいとまではいかないが、相応の『数』を戦力として機能させる必要があるのである。食わせるだけの食糧確保が急務だ。

 そうなると力を持つのは商業ギルドだ。下部組織という『配下』という名目こそ持っていても、実際には大ギルドでも幹部に、あるいはそれ以上の発言力を持つギルドもあるのだ。また、食料生産部門が調略によって独立してギルドを名乗る……という事例も少なくない。懲罰的な意味を込めて傭兵を派遣する事もあるが、そうすると他の大ギルドから『ギルド独立の自由』に反するとばかりにネガティブキャンペーンの材料を与えてしまうことになる。こんな時に役立つのはクゥリであり、彼を雇ってギルド1つに壊滅的なダメージを与えたところで『【渡り鳥】だから』という強烈な負の印象で抑え込むことができる上に、それぞれの大ギルドが【渡り鳥】を使って散々と裏工作をしてきた為においそれと攻撃材料にできないという利点もあるのだ。

 

(イジェン鋼の市場価格向上で思わぬ利益を得て、増産体制にも目途が立ったと思えば『これ』か。まったく、本当に飽きさせないな、キミは)

 

 聖剣を破壊したという思わぬ付加価値を得たイジェン鋼は工房も経理も驚くほどの売れ行きであり、市場に出回っていたイジェン鋼をメイン素材にした武器は売り切れ御礼であり、素材販売していたインゴットも有力な工房による買い占めが多発して消え去った。

 イジェン鋼は聖剣騎士団が誇る最新素材であり、高STRでこそ真価を発揮し、重量型武器のメイン素材にも適しているが、その重さがネックの素材だ。生産側からすれば、コストに見合うとはいっても工程もそれだけ複雑であり、他の競合する素材もあってか、宣伝期間が終われば次世代素材に取って代わられると思われていた。

 それが今や聖剣騎士団と言えばイジェン鋼というブランド化である。3大ギルドは傭兵を用いた装備・素材の販売戦略の価値を再認識したのだが、それを引き起こしたのが最もスポットライトが当たらない仕事ばかりをしていた【渡り鳥】なのだから皮肉も過ぎるものだった。

 聖剣騎士団の工房でもイジェン鋼を完全メインにしたGAの開発計画すら立っている有様だ。それだけ聖剣破壊のインパクトは強過ぎたのである。酒場では『聖剣騎士団なのに聖剣を破壊する素材を作るとか自殺願望なんじゃないの?』というジョークまで飛び出す始末である。

 

「ディアベル様! 今回のヴェノム=ヒュドラの殲滅作戦には是非とも私の参加をお許しください!」

 

 やるべき事が多過ぎて思考が迷路になりかけていたディアベルを引き戻したのは、執務室で見事なまでの直立不動の敬礼を取っているソフィアだ。ディアベルの親衛隊に配属されて以来、一貫して忠実な部下としての態度を崩さず、またジョークの1つも言えないお堅い性格の彼女は、ディアベルの悩みの種の1つだった。忠犬はいても困らないが、期待と尊敬の眼差しで四六時中傍に控えられては肩が凝って堪らないのだ。

 これが創設時代から苦楽を共にした円卓の騎士たちならば違ったのだが……とディアベルは亡き戦友たちに思いを馳せる。

 

「殲滅じゃないよ。あくまで拉致事件の解決が目的だ。深入りすれば飛び火して消耗を強いられる」

 

 たとえば、聖剣騎士団が率先してヴェノム=ヒュドラの殲滅を目論んでも皆殺しなどできるはずもなく、必ず組織の遺志と資産を継いだ者たちが残る。彼らは聖剣騎士団への復讐を決意し、犯罪ギルドからテロリストにクラスチェンジする。いや、そうなるように敵対ギルド……他の大ギルドが裏から手を回す。そうなれば、どれだけの出血を強いられるのかは言うまでもない。

 3大ギルドが足並みを揃えたように見せかけても裏では何を画策しているか分からない。今回も太陽の狩猟団の主力メンバー……貴重な上位プレイヤーに犠牲者が出ていても理性的な対応を見せたミュウは一切の隙を見せなかった。これが内部の突き上げを受けてヴェノム=ヒュドラの殲滅を掲げていれば、ディアベルは暗部を動かして即座にヴェノム=ヒュドラの幹部を『保護』して再起させるだけの支援を行い、太陽の狩猟団を攻撃するテロリストに仕立て上げていたところである。

 3大ギルドだけならば『殲滅』という選択肢はない。得られる資源もない。名声も出血に見合わない。最悪の場合、犯罪ギルド全ての敵愾心を煽ってしまう。娼館経営などを担う、グレーゾーンの『名目上』犯罪ギルドさえも敵に回してしまった場合、組織を構成する人員のガス抜きすらも難しくなる。結論から言えば現状で『殲滅』など一利あっても百害なのである。

 そう、3大ギルド『だけ』ならば……の話である。問題は今回の事件には教会が首を突っ込んでいる点だ。なにせ拉致には教会の慈善活動が利用されていた可能性が高いと報告があったのだ。教会の面目を潰し、威厳を傷つけるどころか、今後の慈善活動にも大きな差し障りがあり、それはそのまま求心力の低下をもたらす。

 教会もまた宗派という、ディアベルでは理解し難い派閥がある。更には教会1強とはいえ、他の宗教団体も存在しないわけではないのだ。

 だが、組織運営という論理的思考とは別の分野において、エドガーの怒りに着火してしまったらしく、彼は3大ギルドの協議の場に乗り込むと、ヴェノム=ヒュドラの殲滅……いいや、『皆殺し』を宣言してしまったのである。

 

『我が聖女より賜った神託に泥と唾を吐きかけた蛆を1匹残らず踏み潰し、灰より出でる大火を迎えるに相応しくない愚劣にして腐敗した魂を滅却させることこそ我が使命。我は神の代行者であらず。我が刃は神託の下で振るわれる浅ましき人の憤りであり、我が銃弾は神託の洗礼を施された恐ろしき人の怒りである。故に我はただの人として教会剣を率いてヴェノム=ヒュドラを例外なく絶滅させん。アンバサ』

 

 完全に意味不明である。会議に参加していたラムダは完全に思考がフリーズし、10秒遅れで退室しようとしていたエドガー神父に待ったをかけ、慌てて乗り込んできた他の教会関係者によってエドガーも囲われて説得され、それでも一切の妥協をしないどころか、誰も見たことがないとされるエドガーのデーモン化発動1歩手前までの暴走の危機になったところで、会議に参加していた3大ギルドの幹部のそれぞれの護衛が束になって何とか制圧に成功したのである。

 さすがのエドガーも武装状態で会議場に現れなかったお陰で死者は出なかったが、それでも大暴れに違いなく、素手でありながら完全武装の護衛総勢9名の全員を相手取って互角以上に立ち回り、射撃によって右膝を破壊して機動力を奪ってようやく封じ込められたのである。

 教会側はエドガーの暴走を平謝りして事件解決までの軟禁を誓約したが、このまま黙っているわけにもいかない旨だけを通達した。相応の報復を3大ギルドは『代行』することになったのである。

 信仰とは……やはり度し難い。拘束服を着せられ、椅子に縛り付けられたまま密やかに教会へと連れ戻されたというエドガーを思い浮かべ、ディアベルは悩みの種が増えたと溜め息を幾ら重ねても足りなかった。

 

「ですが、今回の事件は聖剣騎士団の……いいえ、ディアベル様の理想と大義を穢す輩を一掃する好機です! より良い未来の為に尽力せず、大ギルドから甘い蜜を啜って汚れた私欲を優先する者たちをここで……!」

 

「危険な思想だね。俺は確かに理想と大義を掲げているし、共感してもらいたいとも思っているが、全員が同じ志を持つ必要はないと思っている。大事なのは同じ旗の下に集えるかどうかだ。違うかな?」

 

 私欲を優先する。結構である。むしろ、理想や信念が行動原理の人間よりも分かり易くて助かるとさえディアベルは思っていた。大事なのは私欲の比率と限度だ。

 

「自惚れでもなく、俺の影響力は聖剣騎士団の行く末を左右するだろう。俺の発言1つで方針を変えることもできるだろう。だけどね、俺だけで聖剣騎士団は……いいや、聖剣騎士団を中心とした勢力は回っているわけじゃない。聖剣騎士団というギルドの外には多くの下部組織がいて、そうでなくとも生活を支えられている者たちがたくさんいるんだ。聖剣騎士団と懇意にある有力ギルドが雇用する人々がどれだけいるのか、ソフィアは考えたことがあるかい?」

 

「……申し訳ありません」

 

「責めているわけじゃないんだ。ソフィアのように俺の理想の為に戦ってくれる者が親衛隊にいる。嬉しいよ。だけど、キミが思っているよりも多くの人がキミの言う汚れた私欲を満たすのに必要な財力を得る為の経済活動によって生活基盤を得ているんだ」

 

「理解……できます。ですが……!」

 

「比率と限度と言っただろう? エバーライフ・コールの残酷なショーを見物・賭博するくらいなら取り締まらないけど、3大ギルドの看板を傷つけるようならば『見せしめ』は必要だからね」

 

 3大ギルドの暗部は優秀だ。ヴェノム=ヒュドラが関与していると分かれば調べはすぐについた。まずは自陣営における『利用者』を把握し、作戦開始前に『警告』を行った。ただし、線引きを超えた……明らかに深みに入り込み過ぎた上に、暗部によって早々に暴かれるような杜撰な隠蔽しかできなかった者達はいずれ厄介の種になる。今回の事件は後に大々的に報道を行う予定だ。そこに逮捕者リストに入る前にこの世から『自発的』に退場してもらわねばならない。

 名目上は『自殺』として処理されるだろう。3大ギルドの統制下で隠蔽され、彼らの死は公にされることなく、スムーズに後継が地位と実務を受け継ぐ。その為の工作は既に済ませてある。ディアベルが直々に会う必要などない。聖剣騎士団には『この程度』ならば任せられる人材が十分に揃っているのだ。

 

(リストはクーに渡っている。今夜中には滞りなく『処理』されるだろうね。あとは……暗部の人事も必要だな。今回の事件、ヴェノム=ヒュドラは大きく動いていたのに初動が明らかに遅れていた。対3大ギルド、有力ギルドのみならず、犯罪ギルドにも目を光らせてもらわないと困ると言うのにね)

 

 教会の点数稼ぎもしておきたい。エドガー神父の暴走は予定外にも程があったが、ここで教会で大きな発言力を持つ彼に恩を売るべきだ。線引きをした上でパフォーマンスはすべきである。

 そうなると傭兵と部隊の派遣は不可欠だ。太陽の狩猟団は既にシノンの派遣を決定したと報告を受けている。聖剣騎士団はいち早くキリトを押さえて雇用の準備に入っているが、太陽の狩猟団もクラウドアースも同様であり、何処が雇用するかで激戦中だ。

 

(まさか、このタイミングでラストサンクチュアリ壊滅作戦が響いてくるとはね。ここで【聖剣の英雄】を派遣して大々的に報道すれば、彼の専属入りが内定しているように世間誘導もできたんだけど、そう上手くいかないか)

 

 そうなると……別の手を打つか? いや、今は戦力増強と資源確保に尽力すべきなのだ。クラウドアースの切り崩し工作も進めねばならず、しばらくは代理戦争が続く時期だ。『人気取り』に注力するのがベターである。

 

(ギルド間戦争……GvGを想定した部隊を投入するか。対モンスターと対人の違い……特に集団戦の違いを明確にしておきたいからね。訓練や実験で得られない貴重なデータ収集になる)

 

 さて、そうなると宣伝用として専属傭兵を派遣したい。ならば決まっている。こんな時の為に、わざわざ聖剣騎士団から離籍したアレスが傭兵業界に身を置いているのだ。ディアベルは冷徹な計算式を立て、自分がすべきことは大筋が決まったと判断する。後は優秀な部下に任せればいい。自分がすべきことはトップとして組織が迷わないように堂々と振る舞い、また指針を示すことだ。

 

「ソフィア、準備してくれるかい? 日の光の当たる場所に出てきたモグラには教えてあげないといけない。地中で覇者争いをするのは結構だけど、太陽の下には真なる王者がいることを……ね」

 

「……はい! 身命を賭してディアベル様の威光を知らしめて御覧にいれます!」

 

 嬉々と敬礼したソフィアに、ディアベルは期待を込めて笑んだ。

 相手は犯罪ギルド。ある意味において『対人』では大ギルドを上回るだろう。だからこそ、絶好のデモンストレーションになるだろう。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 古来より人は死を恐れる一方で、死にこそ芸術を……美を求めていた。

 ある者は忌避の為に、ある者は賛美の為に、ある者は克服の為に、死に形を、色を、象徴を与えようとした。

 むせ返るような血の香り。無残に刻まれた数多の屍が敷かれ、暗雲に隠された月光さえも遮るカーテンの内側では蝋燭が燃ゆる。温かくも儚い灯だからこそ闇は強調され、暗がりより死人の恐怖の叫びが聞こえるようだった。

 

「もう1度聞きます。ヴェノム=ヒュドラは攫った人々を何処で『管理』しているのか? 何処から貴方の手元まで『出荷』されているのか? 運搬を行うのはヴェノム=ヒュドラの直轄なのか、それとも切り捨ての中間業者なのか? ああ、それから麻薬アイテムの素材の仕入れルートについても情報をいただけると嬉しいです」

 

 魂まで蝕むような、黄金色に輝く蜂蜜のように甘く蕩けるような声音。まるでお菓子を欲しがる無垢なる子どものおねだりのようだ。

 これで何度目だろうか? 何度『同じ質問』をすれば気が済むのだろうか? 商業ギルド【牛穀商会】のリーダーの【ウイロン】は、自慢の口髭も半ばから鼻ごと削ぎ落とされた顔を涙と血で染めて嗚咽と血の泡で濁った声を漏らす。

 両腕と両足は荒縄で椅子に縛り付けられて動けず、苦悶の吐息ばかりが零れる。ウイロンは削げた唇を動かす。

 

「もう……ぜん、ぶ……はな、した……はなし、たから……ころ……し……てくれ!」

 

「そうかもしれません。だけど『もう1度』お願いします」

 

 先程から何度も、何度も、何度も、同じことの繰り返しだ。同じ質問をして、同じ答えを吐き出す。そのサイクルの内で繰り返されるのは苦痛だ。

 

「教えてください。アナタの知っていることを全て」

 

 尊厳を踏み躙る暴言などなく、むしろ労わるような慈愛の響きすらも込められている。

 その一挙一動はまるで舞踊のように魅せられる。蝋燭の光の中でまるで聖女のような教会服の白を、まるで穢れを知らない雪のような髪の白を、血の赤色で染めあげているというのに、それさえもが化粧のようにより一層に美を際立たせる。

 おぞましくて恐ろしいはずなのに、相反するように魅了する。人は……いいや、全ての生物は『命』を持つが故に惹かれてしまう……それこそが『死』であるかのように。

 剃刀は皮膚1枚から始まり、骨に至るまで丁寧に肉を削がれた。

 蝋燭で熱せられた鉄糸はまるで令嬢が刺繍をするかのように脊椎の周囲に縫い込まれた。

 右耳には細いストローで油を注ぎ込まれ、点火されたマッチで内側より焦がされた。

 歯は抜かれるのではなく釘と小槌で1つ1つ砕かれ、刺さった釘がインプラントのように歯の代用品となって金属特有の響きを散らした。

 足の指は全て潰された。男根はじわじわとワイヤーで絞められて千切り飛ばされた。右目は瞼を削がれて乾いていたが、今は血で濡らされていた。

 ただひたすらに痛めつける。特別な何かをするのではない。『プロ』と呼ばれる者からすれば手ぬるいとさえ思えるだろう。

 だが、精神をヤスリで削いでいくかのように、じわじわと病魔で侵すかのように、苦痛を地層のように重ねていく。あるいは、ふわふわの羽毛で包み込まれるかのような甘美な感覚さえも錯覚してしまうのだ。

 それはおよそ最悪であるはずなのに、最高にして最上の拷問だ。生命に塗装されていた経験も、思想も、人格さえも丁寧に剥ぎ取られて、生まれたての赤ん坊のような裸になっていく、大自然に還元されていくような取り返しのつかない誘惑だった。

 苦痛の底であるはずなのに欲してしまう。つまらぬ俗世のしがらみも、人間として当然の如く持っていた欲望も拘りもなくなり、死につながる苦痛に占められていくのだ。

 ウイロンは血で汚れた涎を垂らしながら死を欲する言葉の内側で、もっともっと目の前の血染めであってもなお純白の天使に……恐怖という名の魅了にのめり込んでいく。

 

「嘘は駄目ですよ?」

 

 嘘など吐くものか。どうせ死ぬまで終わらぬ甘く熟した悪夢なのだから。ウイロンは半ば恍惚とも思える程に何度目かもわからない真実を語る。死天使の欲する情報をそのまま差し出すのだ。

 ヴェノム=ヒュドラから買った女をどれだけ甚振っても、尊厳を踏みにじって最悪の死を与えても得られなかった快楽が自らの死の際にこそある。自分には被虐趣味があったのか? いいや、違う。誰だってこうなるのだ。ウイロンは諦観にも似た渇望で、骨まで露出した自分の膝に可愛らしく腰かけた死天使の上目遣いに……自分だけに甘えるように問う眼差しがあるという独占欲に、焼けるような痛みが支配する脊椎を通して、意識が絢爛と輝くかのような幸福感を覚えた。

 

「もう1度同じ質問をします。嘘を吐いてはいけません。いいですね?」

 

「はい……はい……はいぃいいいい! だから……もう……もうこれで終わりに……殺して……殺してください! これ以上は嫌だぁあああ……!」

 

 いかなる麻薬アイテムを使っても得られないだろう至福。だが、楽園の果実には決して齧りつくことができず、ただ香りだけが鼻腔を擽るばかりの終わらぬ悶絶と不満。そして、もはや苦痛の内側で自分自身すらも失って、おぞましい死をもたらすはずの血染めの純白に魅入られた、もはや筆舌尽くしがたい精神を蹂躙する冒涜的な恐怖。

 ウイロンは自分という存在が根こそぎ破壊し尽くされる瞬間を味わい続ける甘い、甘い、甘い、まるで砂糖菓子のように甘い悪夢の侵蝕によって自我という名の現実を噛み砕かれていく。これこそが真なる拷問だ。痛みは入口に過ぎないのだ。

 もう嫌だ。もうこれ以上は魅了されたくない。『自分』を壊されたくない。それなのに、死天使は優雅とも思える程に麗しく微笑み、ぺろりと皮も残らぬ血で濡れた肉が露出した首筋を舐めた。そして、そのまま穴だらけで口内が見えてしまっている頬を撫でた。それだけでウイロンの自我は蹂躙されるほどの絶頂があった。

 

「いやだぁああああああああああ! 殺して! もう嫌だぁあああ! 殺して! 殺してください! お願いです! お願いですぅううううううう!?」

 

「だ~め♪ もう少し、アナタとじっくり『お話』したいんです♪」

 

 肋骨の間に指を差し込まれ、肺を掻き回される。まるで自分の指でスープを混ぜるかのように、ねっとりと穴を抉られて広げられる。HPが危険域に達する度に点滴の数は増やされてHP回復量が上昇するのだが、使用されている薬のせいか、意識と感覚が過敏になって余計に苦痛が増し、だからこそ自我が丹念に噛み砕かれる甘く優しい絶望が鮮明になる。

 

「そうだ。少し休憩で雑談でもしましょうか。ねぇ、教えてください。アナタにとって今宵までの日々は『幸せ』でしたか? たくさんお金を稼いで、人々が言う『悪い事』をして、でも自分の欲望を満たしてきました。貴方の選択のせいで、少なくない人が苦痛と恐怖と絶望を味わって死んだはずです。ああ、誤解しないでください。アナタは『アナタ』として生きただけなのだから、何も責められるべきではありませんよね。だって、『自由に生きること』はいつだって素晴らしいと讃えられているんですから」

 

 首に両腕を回して自分のニオイでもつけるかのように頬擦りし、まだ形を残す左耳に甘噛みした死天使は囁く。

 

「この世に因果応報なんて存在しません。あるのは命の循環……生と死の摂理だけ。悪しき者が必ず罰せられる定めなどありません」

 

「ひぃあああ……あひぃ……うひぁあああああああ!?」

 

「でもね、時々……とても寂しくなるんです。ううん、これは悲しみ? 怒りとも……違いますね。何だろう? ぽっかりと穴が開いたような感覚です。別に悪であることに興味はないんです。善悪など関係なく『人』であることこそに意味があるのだから。価値があるのだから。尊さがあるのだから。美しさがあるのだから。花壇だろうと、山頂だろうと、汚泥だろうと、何処だろうとも咲き誇る花に優劣などなく、等しく愛おしいものだから」

 

「うぃあああああああががががががあ!?」

 

「欲望に従順だからと『人』を失うのではありません。手段を選ばないからと『人』を失うのではありません。『人』が『獣』に堕ちるとは、人間性を捨てるということです。どういう事なのか、分かりますか?」

 

「はっ……はひ……はっ……はっ……!?」

 

「理性と知性と善性が『人』の定義ではないということです。理性が乏しくとも、知性が足りずとも、悪性であろうとも『人』は成立する。大事なのは生と死における矜持と尊厳なのです。たとえ、日々を漠然と生きている者達であっても『人』であるならば、そこに確かに息づいている。彼らは足掻き生きる中で輝き続け、己の内に真実を抱いて矜持と尊厳を捨てることなく死ぬ」

 

 単体で意味を持たぬ星の光を繋いで物語を紡ぐように、あるいは子々孫々と語り継がれた神話を聞かせるように、夢見心地とも言えるだろう、うっとりとした熱の籠った眼差しで、心底楽しそうに、嬉しそうに……蕩けた表情で死天使はウイロンに抱きつきながら蝋燭の光に手を伸ばした。

 

「怒り、悲しみ、憎しみ……どんな負の感情を抱いていても、死の刹那に絶望に打ちのめされながらも輝く。ああ、やっぱり『人』は素晴らしいです! みんな……みんな……みんな……『なれる』はずなんです! キリトみたいに! キリトみたいなキラキラと輝く『人』になれるはずなんです! どれだけ絶望して、堕ちて、堕ちて、堕ちていこうとも、必ず立ち上がって闇を切り開いて進む『英雄』の如く……『誰であろうとなれる』はずなんです! そこに『人』がある限り!」

 

 そんな日は来ない。来るはずがない。もはや自我の残り滓になったウイロンでもハッキリと断言できる。死天使が望む『人の世界』とは、決して人間ではたどり着けず、実現してしまえばそこに『人』などいないのだ。

 だが、子どもが実現性のない夢を語るように死天使はそれこそが必然にして当然の『通過点』だと言わんばかりだった。

 

「ねぇ、それなのにどうしてですか? どうして、アナタや……アナタみたいに簡単に『人』を捨てられる者がこんなにもいるんですか? 生まれ持っているのに。尊い輝きを最初から持っていて、幾らでも磨くことができて、次代に受け継がせることだってできるのに? どうして?」

 

 本当に分からない。だからこそ教えて欲しい。賢者に知恵を欲するかのような死天使はいっそ哀れだった。

 ウイロンに言わせれば、死天使の言うところの『獣』に堕ちる……それもまた『人』として、いいや……『人』だからこそ持ち、捨てることができない真理だからだろう。

 

「死の間際でも『獣』に人間性を与えてくれた『人』がいました。自らを『獣』の顎に差し出した誇り高き『人』がいました。祈りと呪いのままに『獣』を退治すればいいのに、己の意思で戦うことを選んだ『人』の英雄がいました」

 

 悲劇なのだろう。天使は地上に降り立つべきではなかった。人間に夢など見るべきではなかった。欲望で汚れた大地など知らずに天上に残るべきだったのだ。

 

「善も悪も関係なく『人の意思』は輝きを放つ。でも、やはり比率というものがありますよね? 自らの意思を貫くのではなく、堕落によって悪になった者ほどに『人』を捨てて『獣』に堕ちる傾向にあるようです。悪を『選ぶ』ではなく、悪に『逃げる』。善悪の理というのも1つの目安になるのだと最近になって分かってきました♪」

 

 まるで満点のテストを親に見せて褒めてもらいたいように可憐で幼く愛らしい、だが反転して残虐極まりない魔獣が牙を剥いているかのような笑みで、死天使は両手の拳を握って目をキラキラと輝かせながらウイロンに同意を求めるように顔を近づけた。

 くるくる、くるくる、くるくる……くるくる回って踊る。止まらぬ風車のように、あるいは供物を捧げる演舞のように。

 

「善だと驕って『獣』に堕ちる。悪に逃げて『獣』に堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる。堕ちる」

 

 ウイロンの血や彼の護衛の者達『だった』残骸で染め上げられた世界で、白の天使は蝋燭がもたらす光と影の境界線で踊る。

 

「クヒヒ……それとも『鬼』になりますか? かつて我らの祖先がそうしたように、『人』を持たぬからこそ『獣』を封じるべく『鬼』を子々孫々に継がせて『縛らせた』ように。でも、それは1歩間違えれば命取り。『鬼』は『人』にあらず。羅刹を……夜叉を……修羅を生む。血に酔った狩人になるか、本来は自縛だったはずの『鬼』が修羅を生むか。ああ、とても度し難い。どう足掻いても『人』にはなれない。『人』の皮を被り続けるしかできない」

 

 まるで昔話を語る口ぶりは、幼さ残る容貌に反して古めかしい懐かしさを潜ませていた。まるで、過去に何度も何度も何度も同じものを見てきたかのような、ある種の寂しさすらも滲んでいるかのようだった。

 と、そこで何かに気づいたように死天使はシステムウインドウを展開して溜め息を吐く。

 

「……予定変更みたいですね。もう情報は要らないみたいです」

 

 死天使は名残惜しそうに溜め息を吐き、やがて悪戯を思いついたように口元を歪めた。

 

「願いを叶えましょう。殺してあげます。だけど……少しだけ付き合ってもらいましょうか」

 

 そして、ウイロンは死の間際に目にした光景に心を奪われた。いや、今度こそ心も……そして体も破壊し尽くされた。

 

 この世に神も仏もなく、ただ人だけがいる。そう思い込んでいた。だが、天使は舞い降りていたのだ。

 

 世界は滅びるのだろう。『人』に絶望と諦観を抱いた天使によって、古き時代がそうしたように、地の果てまで、海の底まで、空すらも焦がす程に焼き尽くされるのだろう。

 

 

 

 

 そして、『人』が滅びた世界で天使は今度こそ何の憂いもなく笑いながら踊るのだろう。

 

 

▽     ▽     ▽ 

 

 

「【渡り鳥】さんの報告は如何ですか?」

 

「はい、暗部の情報と統合し、ヴェノム=ヒュドラが何処に拉致したプレイヤーを監禁しているのか、目星がつきました」

 

「絞り込みまであと6時間もあれば可能です! 残りの『リスト』から【渡り鳥】が情報を引き出せば、精度は更に高まるかと」

 

「急がせてください」

 

 3大ギルドが早急な協議をして『処分』を下した商業ギルドのトップや重鎮、他有力ギルドの幹部の資料が保管庫に運ばれていく。彼らの死は自殺や物取りの被害として処理される。巻き込まれた護衛もいたようであるが、自宅や『お楽しみ』用の別荘の警護だったならば、主の所業は承知だったはずだ。自業自得である。頭のいい護衛は先んじて離れるか、情報をつかんで接触を図って保身に走っている。

 まだラストサンクチュアリ壊滅作戦の処理も終わっていないというのに。ミュウの側近である双子のルーシーとスーリは彼女の執務室で内務処理に追われ、内外問わずに徹夜どころか明日の朝まで仮眠すらも許されないだろう。

 

「ミュウ様、【瓦音組】の【ハルタ】様が面会の希望です。どうやらライバルの【師走建設】の此度の不祥事を嗅ぎ付けたようですね。師走建設が落札したプロジェクトの請け負いを申し出てくると思われます。他のギルドの目もありますし、どうされますか?」

 

「ミュウ様、聖剣騎士団に動きがあります。先んじてヴェノム=ヒュドラとの関与が疑われる中小ギルドの検挙に動いている模様です。メディア戦略部門からも、聖剣騎士団系列の報道ギルドに動きがあると報告が……!」

 

 双子に同時に問題を突きつけられ、ミュウはまだ焦るべきではないと眼鏡を輝かせながら背筋を伸ばす。

 

「あくまで師走建設のリーダーの不祥事であり、ギルド自体が起こした問題ではありません。ですが、プロジェクト後の保守点検業務に関しては瓦音組に一任する旨をお伝えください。詳細と契約の詰めはスーリにお任せします。聖剣騎士団には協議を尊重し、歩調を合わせるようにギルドとして警告したいところですが、まだ事件の公表も出来ませんし、絶好の人気稼ぎ……抜け駆けは止められないでしょう。こちらも部隊編成を急いでください。ルーシー、貴女が密使となってディアベル団長と面会して牽制を。私の側近である貴女ならば無下にも出来ません。時間稼ぎにはなるはずです」

 

「「かしこまりました」」

 

 太陽の狩猟団が主導する建設プロジェクトは幾つもある。それらを請け負うのは大手の建設ギルドである。今や終わりつつある街でもフロンティア・フィールドでも建設ラッシュだ。住居、各種商店、各種戦闘訓練・娯楽施設……数えきれたものではない。終わりつつある街だけを見ても右も左も工事現場で作業員が汗を流しているのだ。彼らを取り纏める大手の建設ギルドは相応の財力と権力を持つ。

 彼らの間に立って調停するのも、利益が偏らないように調整するのも、横領・賄賂・ハニートラップ等々に日夜奮闘するのも、大ギルドの内政を取り仕切るミュウの仕事だ。

 聖剣騎士団に不審な動き? 想定内である! ミュウとて既にヴェノム=ヒュドラの拉致事件の1番手柄を得て大々的に報道する下拵えを進めている。だが、なにせクラウドアース壊滅作戦からまだ1週間である。とてもではないが、メディア戦略部門は泡を吹いて倒れそうな程の激務であり、これ以上の負荷はとてもではないがかけられない。だからといって、幾ら自陣営の影響下にあっても報道ギルドに丸投げはできない。

 さて、どうしたものか。ミュウが数秒と思案する時間も与えないとばかりに執務室のドアがノック音も置き去りにする勢いで開かれる。

 

「失礼します! クラウドアースがフロンティア・フィールドにてミッション中のユージーンに即時帰還命令を出しました! 確定情報です! ユージーンを中心とした部隊の派遣が予想され、既に週刊サインズにもインタビュー打診の通達があったと! クラウドアースはヴェノム=ヒュドラの麻薬素材仕入れを担当していた複数の中小ギルドを既に逮捕しています! またクラウドアースは既に対ヴェノム=ヒュドラの緊急報道の準備に入っています!」

 

「取り込み中、申し訳ありません! 聖剣騎士団より円卓の騎士・真改様がミュウ副団長との面会の希望です! 内容は『3大ギルドによる対ヴェノム=ヒュドラに関する調整』とのことです!」

 

 部下たちに槍を投げられる勢いで問題を運び込まれ、ミュウは眼鏡のブリッジを眉間に押し上げる。

 

「ユージーンのファンクラブに彼の帰還をリークしてください。ラストサンクチュアリ壊滅作戦の敗北で、彼女たちも『傷心しているユージーンとお近づきになるチャンス』と思っているはずです。彼もあの性格とはいえ、中身は紳士ですから。自分を囲う女性ファンを粗雑に扱うことはできないはず。1時間も拘束できれば十分でしょう。その間に私が……いいえ、スーリがベクターと談合してクラウドアースの動きを内部から乱させます」

 

「かしこまりました。『手土産』はどのように?」

 

「ベクターは再び議長の座に返り咲くべく事を進めているはず。私はリップ・スワン主催のお茶会で、彼女と個人的に親しくさせていただいています。『贈り物』をするのに今は何が相応しいのか、私ならばアドバイスができるでしょう。これだけで十分なはず」

 

 ベクターがクラウドアースで再び議長の座を得るにはリップ・スワンの協力が不可欠だ。だが、彼とリップ・スワンは決して良好な仲ではない。彼女と個人的に親しいミュウと一時的な協力関係も辞さないだろう。

 

「真改さんには……そうですね、団長と一緒にコロシアムを楽しめるVIP席でディナーなど如何でしょうか? 私は職務の関係で出席できませんが、団長ならば私よりも格は上。聖剣騎士団も『文句』は出しようもありません」

 

 ディアベル……いや、これはラムダのやり口か。こちらがルーシーを送り込もうとしたように、あちらも牽制と時間稼ぎで、この手の作戦に全く向かない、世間向けの広告塔にもならなければ、メディア対応もできず、外交的にも役に立たず、まさしく戦闘以外に活躍の機会がない真改を無駄なく使ってきた。

 真改自体は政治のいろはも身に着けていないが、そもそも無口で我関せずの武人だ。口八丁を送り込んでも無意味だ。なにせ本人が『だから?』と聞き流しているからだ。【渡り鳥】がよく耳を貸した上で喋ってしまうお馬鹿ならば、真改は自分の領域ではないと割り切って耳すらも貸さない賢さを持っている。

 ならばこちらもカウンターだ。この手の事件で真っ先に暴走するだろうサンライスを拘束できる時間があるならば万々歳である。ミュウとして最も恐れているのは、団員に犠牲者がいると知って暴走しかけたサンライスをいかにしてどっしりと席に座らせておくか、である。

 こんな事件の現場までトップが乗り出していたら、万が一があったら、太陽の狩猟団は終わりだ。未来を見据えてサンライス亡き後の太陽の狩猟団の運営まで練り込んでいるミュウであるが、この乱世を乗り切るにはサンライスのような器の大きい人物が不可欠なのだ。

 あとはアルコール度数の高い酒を振舞わせ、武人の2人が意気投合できるような面白い試合で盛り上がらせればいい。コロシアムの試合表を取り寄せして空き選手を……いいや、手の空いている傭兵を雇ってでもスペシャルマッチを開催すべきだ。あとは試合の熱気と酒で酔わせればいい!

 

「副団長! 団長が精鋭部隊を率いたヴェノム=ヒュドラ壊滅作戦の会議を開くと申されています! ラジード君も乗り気で……とにかく何とかしてください!」

 

 と、そこに飛び込んできたのは太陽の狩猟団が誇るトッププレイヤー【雷光】のミスティアだ。完全武装とはいえ、首筋に赤い斑点……何とは言わないが、恋人とよろしくやっていた痕跡が残ったままで、気づいた双子は頬を赤らめて目を逸らす。報告に来た男性部下2人もまだ抜けきっていない彼女の色気に動揺している様子だった。

 先日のフロンティア・フィールド突撃に続いて、今度は『これ』か!? ミュウは微笑みを描いたまま、だうーと口から魂が抜ける。

 

「ミュウ様!」

 

「お気を確かに!」

 

「……はっ!? わ、私は何を……?」

 

 だが、双子に両肩を揺さぶられ、乖離しかけた魂を引き戻したミュウは、だからといって目の前の現実が変わるわけではないと絶望する。

 だから……だから団長の耳にだけは情報が入らないように暗部まで動かしたのに! 明日の早朝にはダンジョン探索に赴かせて、帰ってくる頃にはすべて終わらせるつもりだったのに! ミュウは今回の事件における最難関『サンライス』の対応に失敗してしまった事実に打ちのめされる。

 こうなってはサンライスを止める手段などないと諦めかけるが、それだけは駄目だとミュウは食いしばる。ここでサンライス自らがヴェノム=ヒュドラの壊滅とまでいかずとも作戦指揮を執ってしまっては、太陽の狩猟団はヴェノム=ヒュドラどころか犯罪ギルド全体との対決姿勢があると見られかねない。いや、ここぞとばかりに聖剣騎士団もクラウドアースも称賛という名の偏向報道を仕掛けて炎上させるだろう。

 

「だ、団長は私が説得します。ですが、ぶ、ぶぶぶぶ、部隊の派遣は……ミスティアさんが……いいえ……少し待ってください。少しだけ時間を……!」

 

「心中お察しします」

 

「どうぞ、珈琲です」

 

 人前ではまず見せないだろう動揺を露呈したミュウに、この場の誰もがそれもそうだろうと哀れみ、双子は労わりを見せる。

 震える手では珈琲カップをまともに持つこともできず、珈琲が波立って零れかける。

 落ち着け。どうすれば暴走状態の団長を止めることができる? ミュウはこれまでまともにサンライスの暴走を止められたことがなかった。

 ラジードを部隊長に据えてはどうだろう? 人気のある彼ならば世評も良く、またサンライスも納得するだろう。いや、駄目だ。彼ばかりに功績を立たせては不満が出る。何よりも今回は個人の武勇を発揮させるのではなく、あくまで大ギルドとしての戦力をアピールする場面なのだ。英雄的活躍は要らないのである。

 だが、攻略を主に請け負う上位プレイヤー……最前線に立つ者達はいずれもサンライスの人柄に惚れ込んだ人格者ばかりだ。ラジードの部下として推薦したマダラのような野心ある人物もいるが、彼もまた根っこの部分は同類であるとミュウは判断している。仲間の為ならば躊躇なく命懸けで戦える人間だ。ミスティアのように政治を弁えている者もいるが、彼女もまた内心は決してミュウ寄りではない。今回の事件に関しては、むしろサンライスの暴走を見逃すとすらミスティアは危惧していた。だが、幸いにも彼女は頭がよく、ちゃんとギルドの未来と情勢を考えられる理性と知性があったようである。

 サンライス側のラジードでは『一兵卒の太陽マン』が登場しかねない。しれっと部隊に混じって大暴れされては惨事だ。ミュウが頭を抱えていると次なる難題とばかりに部下が飛び込んでくる。

 

「申し上げます!」

 

「次は……何ですか?」

 

「そ、それが教会から使者が! シノンさんを協働させたい依頼があると!」

 

「無理な相談ですね。彼女は此度のヴェノム=ヒュドラの……まさか!」

 

 宙に浮いていた1つの案件が磁力に引き込まれるようにして組み込まれ、ミュウは唖然とする。

 そうか。そうだったか。彼もまた白の傭兵の相棒を務めた男だ。ここで『やらかす』のは当然のことだったのだ。

 

 

 

「はい! あくまで系列のギルドではありますが、教会が事実上の専属として【黒の剣士】キリトの獲得に成功し、対ヴェノム=ヒュドラ作戦に参加させると通達がありました。そのバックアップにシノンさんを雇用したいと!」

 

 

 

 

 この数時間で何が起こっている? ミュウはありとあらゆる情報を頭の中で組み合わせるが、いかなる核融合が起きて、キリトが教会の専属になったのか、まるで予想できなかった。

 だが、運気は向いてきた。教会の専属になったのは少々予定外であり、また個人の武勇の宣伝には向かないが、彼を大々的に前面に出せば、教会との親密性のアピールができる。彼を起用する旨ならばサンライスもギリギリ納得してくれるかもしれない。なにせ【渡り鳥】によって傷ついたと言っても【聖剣の英雄】なのだから。

 

「10分ください! 使者とは私が直接面会して契約を纏めます!」

 

 まだまだ夜は明けない。ここからが正念場だとミュウは珈琲を一気に飲み干すと自分の戦場へと歩み進んだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「いつまで落ち込んでるのよ」

 

「落ち込んでない」

 

 間もなく日が沈むだろう、灰色の空がより冷たい暗闇に呑まれていく。ワンモアタイムも夜の顔……酒場に衣装替えされていく中で、キリトはカウンター席で顔を伏せていた。

 まるで子供の不貞寝のようだ。キリトも自覚はある。だが、必死に自制心をかけるにはこれ以外に思いつかなかったのだ。

 

「まぁ、酒に手を出していないだけ褒めてあげるわよ。ほら、私の奢り」

 

 隣に座るシノンが大ジョッキのミルクを注文する。キリトはジョッキを両手でつかむと冷たいミルクを喉に流し込む。

 

「濃い。高級品だな。さすがはワンモアタイム」

 

 肩が凝るような格式ある佇まいでこそないが、調度品や食器の1つを取っても拘りを感じさせるワンモアタイムは、さすがは傭兵とその関係者にとって憩いの場となっているだけの事はある。

 キリトは考える。コーンロットには何の意図があってクゥリに依頼したのか? 何故、2度も依頼してまでレモネーの行方を探らせたのか。彼の行動は滅茶苦茶に見えて、だがそこには彼なりの目的があったはずだ。

 何を見落としている? 人間どころかAIさえも100パーセントの合理性には至らない。見落としがあり、失敗があり、感情がある。だが、何かしらの目的があっての行動ならば一貫性だけは存在するはずだ。もちろん、それさえも精神や状況によって揺れ動くものでもあるので絶対ではないが、少なくとも2度の依頼にはキリトには見えない通った筋があるはずなのだ。

 そもそもグルメ・クルセイダースはどうして麻薬アイテムの素材を卸すようになったのか? 彼らの経歴は綺麗なものだった。即ち、情報屋でも易々とは暴けない程度には真っ当にギルドとして長く活躍していたことになる。

 大金に目が眩んだ。十分にあり得るが、何かが引っ掛かる。キリトはミルクを飲みながらパズルのピースを組み合わせていくが、どうしても穴があって真実が見えてこない。

 

「お疲れみたいですね」

 

 と、そこに話しかてきたのはワンモアタイムの看板娘であるアイリだ。お淑やかで落ち着いた、それでいて目を離せば消え去っていそうな儚さが人気なのであるが、ワンモアタイムの鉄の掟によって彼女に告白するだけで死よりも恐ろしい制裁が待っている。

 

「疲れてなんかないわよ。傭兵の苦労を今更になって噛み締めてるだけ」

 

 辛辣であるが、シノンの言う通りである。キリトは改めて自分が傭兵としての適性がないのだと実感する。

 

「大変ですよね。傭兵の方々も本当はやりたくなくても嫌な依頼を引き受けないといけない時があるなんて……」

 

 傭兵たちが集う場所であるが故にか、彼らの様々な姿を見てきたのだろうアイリはグラスを磨きながら労いの言葉を口にする。

 

「でも、本当にやりたくないならやらなくていい。それも傭兵だからこそ許された自由なんだと思います。ギルドに……組織に属しているならば、命令に絶対服従しないといけない事もあると思いますけど、傭兵は自分を商品として売り込んでいるからこそ、自分の価値を……自分の信念を曲げない権利があるのでしょうね」

 

「自分が商売道具だからこそ依頼主からの評価は絶対でもあるわ。依頼を選り好みできる傭兵なんて一握りよ。自分の信条に反するからと言って依頼を投げ出すような奴なんて、余程の帳消しにできるメリットでもない限りは雇わないわ」

 

「でも、依頼を断る権利はいつだってあります。もちろん、1度引き受けたからにはやり遂げないといけないでしょうし、専属ならば専属先から強権を振るわれて従わざるを得ない時もあるかもしれません。でも、私は知っています。時には多額の違約金を支払うことになっても、専属から外されることになるとしても、自由を選んだ傭兵の方々がいることを」

 

「……そうね。私も専属が少し長過ぎたかもしれないわ。傭兵としての心意気、忘れちゃ駄目よね。私もキリトに倣って独立傭兵にでも――」

 

「それだ!」

 

 キリトは勢いよく立ち上がり、シノンとアイリは驚いて目を見開く。

 

「ちょ、どうしたのよ? も、もしかして本気にしちゃった? 冗談よ、冗談! 私は射撃メインだし、専属にでもなって十分にバックアップを受けないと家計が死ぬのよ! もちろん、スミスさんみたいに独立傭兵としてやっていけない事もないでしょうけど、私はどちらかと言えば協働メインだから取り分が少なくて回数をこなさないといけないし、で、ででで、でも、貴方が支援要員が欲しいなら――」

 

「アイリさん! 教えて欲しいことがあるんだ!」

 

 何やら1人で盛り上がっていたシノンには目もくれず、キリトはアイリに迫る。彼女は一瞬だけ気圧されたようだったが、傭兵が集うワンモアタイムの従業員として鍛えられているらしく、すぐに平静を取り戻す。

 

「傭兵や関係者の仕事・プライベートについてお答えできませんが、よろしいですか?」

 

「ああ。知りたいのはむしろワンモアタイム……いいや、アップデート後の飲食業界についてだ」

 

 キリトは矢継ぎ早にアイリに質問を飛ばす。数々の問題ある客を対応した実績のお陰か、アイリは彼の質問に対して丁寧に1つ1つ返答していく。そうして、キリトは今回の事件の最大の謎……コーンロットの目的に到達する。

 そういう事だったのか。キリトがコーンロットに覚えたのは怒り、そして哀れみだった。

 

「……ねぇ、何を1人で納得しているの? 私にも教えなさいよ」

 

 今度は逆転して不貞腐れた、もとい気恥しそうな様子のシノンに、キリトは今回の事件の全貌を明かそうとするが、アイリの前ということで口を閉ざす。

 

「構いませんよ。たとえ暗殺計画であろうともお客様の情報を口外しない。それがワンモアタイムです」

 

「分かった。俺の想像で補っている部分もあるし、2人にも筋が通っているか確認してもらいたい」

 

 キリトは珍しく他の客がいないワンモアタイムにて、コーンロットがどうして2度も依頼を持ち込んだのか、その背景を語る。

 

「確かに考えられるけど、そこまで無謀な事をするかしら?」

 

「私は……キリトさんの言う通りだと思います」

 

 事件について教えてもらい、またキリトの推理を聞かされたアイリの両目には涙が溜まっていた。

 コーンロットへの哀れみもあるだろう。だが、それ以上の別の何かが彼女から涙を溢れさせようとしているだった。

 アイリは首から下げたロケットの蓋を開けると顔を俯かせる。そして、次に面を上げる時には涙などなく、だが影のある微笑みを描いていた。

 

「止めてあげてください。彼がこれ以上……失わない為にも」

 

「……善処するよ」

 

 シノンと共にワンモアタイムを後にする頃にはすっかり日も暮れて夜の帳が下りていた。吐息は白く濁り、街灯は光と闇の境界線を生み出し、終わりつつある街に潜む騒乱の息吹を感じさせる。

 いいや、違う。キリトの視界が変わっただけだ。世界は昨日と大差ない。道行く人々はヴェノム=ヒュドラの非道を知らず、今日を必死に、あるいは怠惰に生きているだけだ。

 誰かが笑っている一方で誰かが泣いている。それは何ら不思議ではない当たり前のことである。キリトがこうして歩む最中も、何処かでクゥリは血に染まっている。

 

「ねぇ、どうするの? コーンロットの目的が分かったからって、貴方にできることは依頼を待つことだけ。クーの『凶行』を止めたいのだろうけど、貴方個人が突っ込んだところで何も意味はない。むしろ、後々に禍根を残すだけよ。しかも相手は犯罪ギルド。個人で相対すれば貴方個人に報復が及んでも守ってくれる人はいない。下手をしたら裏の世界全てを敵に回すことになるかもしれない」

 

「……分かってる。昔の俺じゃない。自分だけで解決できる規模じゃないし、自分だけで後始末できるなんて驕って大切な人を傷つけさせて堪るか」

 

 相手は犯罪ギルドだ。大義名分や外聞を気にすることなく報復に動くことも考えられる。ならばこそ、ヴェノム=ヒュドラの件にしても『キリト』ではなく『組織』として相対しなければならない。

 

「そう。貴方ならてっきり自分だけで突っ走るのかと思っていたけど、杞憂だったわね」

 

「もしかして、それが心配で?」

 

 シノンも依頼待ちで協働する確率は高いとはいえ、どうして自分と一緒にいるのか疑問であったが、もしかせずとも自分が暴走しないように見張っていたのだろうか。キリトの質問に、シノンは今更になって気づいたのかと、彼の方を見ることなく、だが横顔に信頼の笑みを描いた。

 

「悪い? これでも貴方の事、少しは分かってるつもりだったんだけど?」

 

「助かるよ。正直に言えば、シノンがいなかったら冷静さを失っていたかもしれない。俺は自分だけで行動するといつも間違ってばかりだからさ」

 

 考えろ。どうすればクーを止められる? キリトが願うのは白き友にこれ以上の泥を被らせないことだ。

 大ギルドの計画通りに進んだ場合、クゥリは単独で犯罪ギルドの拠点に乗り込んで大暴れするだろう。暗殺を得意とする彼ならば大人数を相手にしても上手く立ち回れるかもしれないが危険な任務になるはずだ。そして、そこに称賛などなく、むしろ悪しき喧伝によって大ギルドが堂々と犯罪ギルドの拠点に乗り込む材料とされるだろう。事件の懲罰的な意味合いを持つとしても警告無しで踏み込むには相応の理由が必要だからだ。『あの【渡り鳥】が先んじて暴れている』だけで十分過ぎるだろう。

 投降を呼びかけたが、先んじて潜入した【渡り鳥】の暴走によって望まぬ交戦状態に入り、止むを得ずこれを迎撃した。吐き気がするが、建前となるストーリーは表にも裏にも必要なのだ。

 あとは功績合戦だ。3大ギルドは足並みを揃えているとしても、いずれが1番手柄かを競い合う。ラストサンクチュアリ壊滅事件で揺れるDBO社会において、大ギルドがもたらす秩序をアピールし、またいずれが未来を担うに相応しいかを宣伝する絶好のチャンスなのだから。しかも拉致に活動を利用された教会にも恩を売れるのだ。いずれの大ギルドも既に拠点を探り出す為に、そして他の足を引っ張る為に、苛烈な情報戦と謀略を仕掛けているはずだ。

 そうだ。教会だ。今回の対ヴェノム=ヒュドラで鍵を握るのは、クゥリでもなく、グルメ・クルセイダースでもなく、大ギルドでもなく、教会なのだ。

 必要となるのは拠点を確定させる情報だ。裏の情報は裏に。幸いにもヴェノム=ヒュドラの件でチェーングレイヴとは繋がりができている。彼らならば拠点を割り出す手がかりさえ与えれば、大ギルドよりも迅速に動くことができるだろう。

 

「その顔、何か思いついたみたいね」

 

「まぁな。シノンはもう帰った方がいい。依頼もそろそろ来る頃合いだろうしさ」

 

「嫌よ。私もヴェノム=ヒュドラには頭にきてるの。企みがあるなら聞くわ」

 

「確率はまだ半々さ。だけど、コーンロットから情報も、それに大きな支援も得られる。クーも送り込まずに済むかもしれない。なにせ、先に俺が突入するんだからな」

 

「……ねぇ、自分だけでは突っ走らないって言ったばかりよね?」

 

 呆れた様子のシノンに、キリトは悪戯を思いついた子供のように口元を歪める。

 キリトが向かった先はマユの工房だ。教会と技術協力しているだけに治安が良く、また教会関係の施設や住人も多い。工房は看板こそぶら下げているが来店はほとんどない。戸を開いても商品など陳列されておらず、商売をする気など毛頭ない。マユはキリトの専属、シノンの装備開発、教会との技術協力、そしてアイドルとしての活動によって莫大な収入を得ているのだ。なお、そのほとんどが開発費に消えているのはマユもまたHENTAIだからである。

 

「マユ! いるか?」

 

「んー? どうしたの?」

 

 メイデンハーツの改修中だったのだろう。炉は猛々しく燃え盛り、金属と灰のニオイが充満していた。だが、作業するマユ自身はおよそ不釣り合いな和服姿だ。ただし、これはいつもの事であり、もはやツッコミを入れる価値すらもない。

 

「あ、もしかして受け取り? だと思った! もう、キリりんが急いでるみたいだからマユも頑張っちゃった! 明日の朝には――」

 

「頼む! 今晩中……いや、数時間以内にメイデンハーツを使いたいんだ!」

 

「……は?」

 

 途端にマユの顔から表情が抜け落ちる。キリトも無茶は承知だ。

 

「無理……無理ムリ無理ムリ! だってまだ組み立て中だもん! メインフレームからバラしちゃったんだもん!」

 

「そこを何とか!」

 

「無理だよ! 組み立てだけなら2時間もあれば出来るけど、マユはGRと違ってちゃんと調整に調整を重ねて渡すの! それに明日の朝に渡すにしても、微調整は不可欠なんだからね!? キリりんが幾ら射撃センスが無いにしても微調整抜きだったら命中精度は落ちてるし、新しく組み込んだ機能もキリりんがテストしてからじゃないと危ないよ!」

 

「マユなら出来る!」

 

「出来る出来ないじゃなくて、やりたくないの! マユの武器が不調だったせいで、キリりんが負けたり……死んだりするのは嫌なの!」

 

 専属だからこそ断固として譲らない決意を示したマユに、キリトはそれもそうだと頷く。その反応を待っていたのだ。

 

「だったら、別のお願いを聞いてもらえないか?」

 

「……何?」

 

「教会系列のギルドで、すぐに専属契約を結んでくれる相手に心当たりはないか?」

 

「「は?」」

 

 マユはもちろん、今度はシノンまでは呆けた声を発する。

 

「待ちなさい! 貴方の今後を左右する大事な選択よ! それなのに、こんな……!」

 

 シノンが慌てるのも無理はない。彼女は元より太陽の狩猟団に誘っていたからだ。いや、そうではなくとも友人として安易な選択は見逃せないだろう。

 だが、キリトからすれば以前から考えていた選択肢だ。グリセルダにも指摘された通り、彼が懐に入り込める余地のある組織は神灰教会だけなのである。

 問題は神灰教会が傭兵を雇うか否かだ。もちろん、あり得ないだろう。教会自体が傭兵を専属にすれば、よからぬ前例となるからだ。ならばこそ、実質的に教会の手足となって動いている教会の影響下にあるギルドに属することになる。

 

「ま、ままままま、待って! ちょっと待って! マユ、話の流れが分からない!」

 

「安心しなさい。私も分かってないわ!」

 

「大丈夫だ! 俺も半分以上は感情で突っ走ってる!」

 

「「だったら止まって!」」

 

「無理だ。クーを止めたいし、それに今こうして手をこまねいている間にも犠牲者が増えているかもしれない。重荷を背負うことになるとしても、俺は『今』の選択で悔いを残したくない」

 

 たとえ、明日には、1週間後には、1ヶ月後には、半年後には、1年後には……もしかしたら一生かけて後悔することになるとしても、『今』を悔やみたくない。時を巻き戻そうとも同じ選択をする在り方を貫きたい。キリトは自分が馬鹿で短慮だと自覚した上でマユに迫る。

 

「だったら教会から依頼を引き受けましょう! それでも十分に支援を引き出せるはず!」

 

「教会は3大ギルドと歩調を合わせないといけない。俺がやろうとしていることは教会自ら足並みを崩す真似だ。相応の対価を支払わないと動かないさ」

 

 キリトの読みでは、教会ならば……いや、エドガーならば教会の威厳にかけて教会剣を率いてもヴェノム=ヒュドラの殲滅に乗り出すはずだ。だが、教会に動きはない。つまりは教会としてはあくまで実働を大ギルドに任せ、自分たちは支援に甘んじるということだ。

 

「私が太陽の狩猟団に話を通すわ! それでどう!?」

 

「駄目だ。言っただろう? 3大ギルドはいずれも『建前』が欲しいんだ。俺が情報提供したくらいで『建前』を手放さないさ」

 

「バックアップが必要なら太陽の狩猟団でいいじゃない! 貴方の専属デビューなら多少の無茶は聞いてくれるはず!」

 

「大ギルドは駄目なんだ」

 

「なんでよ!?」

 

「シノンが1番分かってるだろ?」

 

 キリトの返答にシノンは声を詰まらせる。彼女自身が大ギルドの専属であるが故の手厚い援助と引き換えとした専属ならではの息苦しさを知っているからだ。

 

「で、でも、それは教会も変わらないじゃない!」

 

「そうだな。でも、教会は決定的に違う点がある。大ギルドが目指すのは各々が掲げる『社会体制』だけど、教会が目指すのは得体のしれない『何か』だって事さ。一般の信徒はともかく、組織の運営を担っている中核……いいや、教会の大願成就を目論んでいる奴は、大ギルド程に『俺の目的』は束縛しないって踏んでる」

 

 灰より出でる大火を迎える。それこそが教会の存在意義であるとエドガーは嘯く。それを真に理解している者はいない。キリトは少なくとも会ったことがない。

 だが、あの男は嘘を吐いていないという確信がある。信仰という名の狂気に骨の芯まで染み込ませた男はキリトと同じく魂の叫びに従うことを是とした男だ。どれだけ狂っているように見えたとしても、己の魂を裏切らぬ生き方を貫いているのだ。

 もちろん、教会はエドガーだけのものではない。大ギルドの息吹がかかった者もいれば、教会の権威を利用して立身出世を企む者もいるだろう。だからこそ、キリトが教会の専属になる余地があるのだ。

 

「本気なんだね?」

 

「ああ」

 

「……まぁ、マユは元から教会に技術提供している身だし、マユの専属のキリりんが教会の専属傭兵になるのも周囲は納得する。マユにお願いするのも、マユなら伝手があるって確信してるからなんでしょ? ずるいなぁ」

 

「ごめん」

 

 キリトの専属ではあるが、教会に技術提供しているマユならば、既に内々に教会側からキリトの専属化に関する誘いや探りが入っているだろうと確信していた。彼は自分が彼女の心を傷つける真似をしていると自覚して頭を下げる。

 

「いいよ。怒ってるけど、マユは優しいから許してあげる。でも、1つだけ約束して。教会には染まらないで」

 

「約束する」

 

 マユはシステムウインドウを開くと何者かにメールを送る。キリトが専属になれるようにアポイントを取ってくれるのだろう。

 

「専属傭兵を抱えるともなれば、教会の影響下にあるにしても相応の規模のギルドじゃないといけない。しかも即決で専属契約を纏めてくれるギルドだよね?」

 

「間違いなく買い叩かれるわね。どれだけ悪条件で契約を結ばされるのか、考えだけで寒気がするわ」

 

「あ、あははは。何とか短期契約にして、次の更新に期待するさ」

 

「そうだね。相手が『普通』のギルドだったらね。でも、要らない心配だよ。間違いなく好待遇で迎えてくれるから」

 

「あり得ないわね」

 

「そうそう! さすがに俺でもどれだけ自分が無茶苦茶な真似をしているかくらい自覚が――」

 

「……うん、『普通』の相手ならね」

 

 意味深な物言いをしたマユは道具や素材で汚れたテーブルを掃除して来客に備える。どうやら相手は工房に足を運んできてくれるらしく、キリトは最低限の礼儀の為に身だしなみを整える。

 マユが準備を終えた5分と待たずしてノック音が響き、入ってきたのは陰鬱そうな顔をした妙齢の女だった。冬場ということもあってか厚着であるが、それにしても度を越した防寒具であり、本人も汗を掻いている。

 

「はじめまして、ギルド【アスクレピオスの書架】の副リーダー【ヒストニア】です」

 

「キリトです。この度はご足労をいただき感謝します」

 

 握手を求めたヒストニアの右手は重ねられた毛糸の手袋で覆われていた。

 

「ああ、お気になさらずに。私、FNCなんです。感覚異常を患っていまして、実温度よりも寒く感じるみたいなんです。それなのに発汗機能は正常なのでこの通り……汗まみれで申し訳ありません」

 

 頭にもニット帽を被り、その上から更に分厚い毛皮のコートのフードを被り、口には耐寒用のマスクだ。外気に唯一晒した目元が陰鬱そうに見えるのは、彼女にとって冬はまさに地獄の季節だからなのだろう。

 

「ごめんね。炉に火を入れてるから暖房も切っちゃってたんだ。すぐに――」

 

「これ以上実温度を上げられたら汗で話すどころではありませんし、冬である以上は仕方ないと割り切っています。皆さんの過ごしやすい温度でお願いします」

 

 これだけ厚着をしても震えが止まらない様子でありながら、まるでサウナのように肌も髪も汗で湿っているヒストニアの苦労……FNCはデスゲームと化したDBOにおいて致命的なデメリットだ。彼女のように一見すれば戦闘に支障がないように見えるFNCも、症状の通りに気温の多少の変動によって身動き1つすらもまともにできないという事だ。もしかせずともコートを1枚剥いだだけで体は凍えて動かなくなるかもしれない。そんな状態で戦えるはずもないのだ。

 水に濡れただけでも、雨に打たれただけでも、彼女は寒さによって動けなくなるかもしれない。まさしく致命的な弱点である。

 

「メールでお伺いしていますが、何でも即急に教会系列のギルドと専属契約を結ばれたいとか……」

 

「ああ。無理な申し出なのは承知してる。こちらとしてはどんな条件でも――」

 

「では、細かい条件は後日詰めるとしまして……ひとまずは経費の50パーセントを一律で補助、教会関係の依頼ならば追加で経費として最大20万コルまで補助金で……如何でしょうか? あと、教会系列の依頼を引き受けた時には、難易度・依頼成否を問わずに……拘束補償として依頼報酬額の10パーセント、最低保証で5万コルを……追加でお支払いします」

 

「……え?」

 

「それから希望されるならば……住居もこちらで……手配します。もちろん、維持も全額こちらで負担しますし、入居時の調度品に関しても……あ、すみません。ちょっと震えが……」

 

 体の震えのせいで途切れ途切れであり、気力切れ寸前のような声でヒストニアはあり得ない好条件を提示していく。

 

「ま、待ってくれ! アンタ、本気か!?」

 

「そうよ! 大ギルドでもそんな破格の条件は出さないわよ! コイツ、ランク9よ!? 装備の修理だけでもとんでもない金食い虫よ!?」

 

 太陽の狩猟団の専属であるシノンの同席を特に気にした様子もなく、ヒストニアは恭しく頭を下げた。

 

「私は……エドガー神父とギルドリーダーより『書架』の運営を……一任されています」

 

 そもそもキリトはアスクレピオスの書架についてほとんど知らない。大ギルドは当然であるが、有力ギルドの名前はすべて頭に入っている。だが、アスクレピオスの書架については少なくとも記憶に残っていなかった。

 

「私たちはいわゆる医療ギルドです。元は教会の製薬部門で……回復アイテムの開発はもちろん、『医療』に応用できる様々な……技術・知識・アイテムの収集・栽培を行っています。特に『医療』や『治癒』に関する……聖遺物探索と収集後の活用は……私たちにも大きな権限を持つのですが……肝心の実働部隊がおらず……これまでは教会剣に頼っていたのですが……大ギルドを筆頭に教会剣の活動の自粛で……いよいよ人員の確保が出来なくなりまして……う! 寒い! あの、やっぱり暖房……入れてもらってもいいですか?」

 

 ちなみにこれがギルドの概要です、とヒストニアが差し出した資料を目にしてキリトは仰天した。いわゆる豪商と呼ばれる商業ギルドすらも軽く上回る収益だ。もちろん、教会に『お布施』として多額を支払っているが、それを抜きにしても自由に回せる額は膨大だ。

 ようやくキリトは目前のギルドの正体を理解した。今や教会は回復アイテム市場をリードする存在だ。彼女たちは教会の回復アイテム……いいや、DBOの最先端医療を目指した先進的ギルドなのである。

 ギルドメンバーのほとんどが教会関係者であるが、確かにいずれも武闘派というよりも技術者……薬師なのだろう。彼女自身も当然ながら教会関係者であり、修道会に籍を置いているらしく、上層部にも顔が利く存在のようだ。

 

「大ギルドでも工房を独立させてギルド化させる動きがあるみたいだし、教会はどうやら教会剣をギルド化させる為の下準備を前々から進めていた……ってことかしら」

 

「シノンも知らなかったのか?」

 

「聞いたことあったけど、ここまで資本力を持っているとは思わなかったわ。そもそも教会に敵対的行動は大ギルドも取らないし、知る機会もないわよ」

 

 シノンは悪びれることなく影が薄いとほぼストレートに発言したのであるが、自覚があるらしくヒストニアは機嫌を悪くする様子もなかった。

 

「私の耳にも……今回の事件について情報は入っています。保管庫から……貴重な薬が幾つも持ち出されましたから」

 

 大ギルドが教会から引き出した支援だろう。政治はどうであれ、対ヴェノム=ヒュドラに向けて着々と準備を進め、戦闘員に最大のバックアップを欠かさないのはさすが大ギルドと言うべきだろう。

 

「キリトさん、私は貴方がどんな目論見で私たちのギルドの専属になろうとも興味は……ありません。その代わりに……私たちの至上の目的の為に……最大限の協力を……そして決して裏切らぬ誓いを……灰より出でる大火にかけて……いいえ、お持ちの聖剣にかけて誓うことを求めます。それさえしてくれるならば、望むままの待遇を……お約束します」

 

「……至上の目的って何なんだ?」

 

「『死の克服』」

 

 医療ギルドと名乗るのに相応しい目的であり、同時に危険な思想だ。だが、まだ話は続いているとキリトは沈黙を保つ。

 

「最終目標は不老不死です。現実世界では不可能に等しいですが、肉体の束縛がない仮想世界ならば可能であるはず。『あり得ない』ことが起こるDBOならば、告知・周知された情報以上が常のDBOならば……完全攻略後に更に自由度が高まる余地があるならば……到達できるはずです。ですが、ひとまずは蘇生アイテムの開発……その前段階として完全回復アイテムである女神シリーズの複製を当面の目標としています」

 

 私的にはFNCの治療もできればいいのですが、とヒストニアは冗談のように付け加えた。

 不老不死うんぬんはともかくとして、蘇生アイテムについてはSAOでトラウマ級の思い出があるキリトが良い顔をするはずがなかった。だが、アスクレピオスの書架が当面のところ目指す女神シリーズの複製は是非とも応援したかった。

 完全回復アイテムの複製と所持数制限の増加が見込めるならば、プレイヤーの死亡率は劇的に低下するだろう。歓迎しない道理はないのだ。

 だが、アスクレピオスの書架の専属になるとして、キリトには大きな問題がある。メイデンハーツにはエスト弾がある事だ。

 傭兵は装備・アイテムの広告塔でもある。クゥリには全く意図などなかったのだろうが、聖剣を破壊したことでイジェン鋼シリーズが大売れを超えて聖剣騎士団の顔……もはやブランド化したように、傭兵にとっては……特に専属傭兵は半恒久的に背負わねばならない義務のようなものである。

 エスト弾の回復を控える……など戦闘中にできるはずもない。もちろん、他の回復アイテムを使わないわけではないが、アスクレピオスの書架の回復アイテムを使う機会は減るだろう。

 

「知っての通り、俺には回復アイテムに頼らない回復手段がある。ギルドの回復アイテムを使う機会は必然的に減るけど、いいのか?」

 

「我々は営利目的ではないのでお気になさらずに」

 

 逆に言えば、教会という既存の最強の宣伝機関があるということだ。キリトが属しているだけで広告効果も十分なのだろう。また、HP回復以外のアイテムならば、アスクレピオスの書架製を使うならば、彼らの面目も保てる。

 大ギルドの専属のように武器や防具に文句を付けられることもない。それどころか、教会ならば独立傭兵のように3大ギルドから良いところだけを使うこともできる。これもまたキリトが教会の専属になることを計画した理由の1つでもあった。

 

「分かった。聖剣に誓おう。アスクレピオスの書架の悲願成就に尽力する」

 

「畏まりました。では、私はこのままサインズで専属契約を纏めてきます。こちらの契約書にサインを……」

 

 契約書を隅々まで読み直したが、破格な好待遇はそのままに、後日の協議で更なる支援・補助を追加する旨まで記載されている。

 なるほど。これは大ギルドではありえない大胆さだ。専属を獲得するにしても緻密に条件を纏める大ギルドに対して、キリトの獲得による教会の権威強化と戦力価値を除けば興味がなく、なおかつ不老不死を至上目的とするギルドらしい無頓着さである。

 だからこそ危険である。彼女たちが不老不死に関して暴走を起こした時、聖剣にまで誓いを立てたキリトが不義理を起こせば、教会全体を敵に回しかねないということなのだ。

 

「ですが……急な専属契約……マユさんからメールで仄めかされていましたが、何か理由があったご様子。それにキリトさん程の御方ならば、『書架』に属すにしても、まずは神父とお話を通してからと思っていたのですが。まぁ、神父は今……監禁されているのでしばらく会えませんが」

 

「監禁!? 何があったんだ!?」

 

 キリトはエドガーとそこまで親しくなく、またフレンド登録もしていない。故に今回の専属入りの際にはエドガーに話を通してもらうことも期待していたのだが、状況は思わぬ方向へと転がっているようだった。

 

「大ギルドの対ヴェノム=ヒュドラの会議に突入して……1人残らずの皆殺し……殲滅を宣言されたとか。教会としては非公式であると平謝りして……今は事が済むまで……」

 

「本当に狂人ね。いっそ感動したわ」

 

 発言に反したシノンの冷めきった声音にキリトは苦笑するしかなかった。エドガーならばあり得なくもない暴走だからである。

 

「我々アスクレピオスの書架を選んでいただき、感謝します。フフフ……これで教会内でも発言力が増し……また悲願に1歩……!」

 

 ……教会の政争には巻き込まれたくないが、そうも言っていられなさそうだ。とはいえ、ギルドの資料にはエドガーが大々的な公認をしている旨が写真とインタビュー付きで記載されている。少なくともエドガーを敵に回さないならば、キリトとしても一安心である。先の皆殺し宣言の時点で、キリトの中で教会で最も敵に回してはいけない危険人物として格上げされていた。

 キリトから話を聞いたヒストニアは寒そうに体を震わせながら思案し、マユが持ってきたストーブで暖を取りながら頷く。

 

「可能ですね。我々はヴェノム=ヒュドラの麻薬アイテムの犠牲者の治療も引き受けています。中毒症状が悪化して危険な状態の患者が出たため、人道的見地から『麻薬アイテムのレシピ獲得』の為にキリトさんを対ヴェノム=ヒュドラの拠点に送ることはできます」

 

 腐ってもギルド経営を担う者だ。建前の必要性を承知している。しかも人道的見地……問題点の1つにもなっている麻薬アイテムの中毒症状の回復を目的としたならば、後々に問題視されて突かれる心配も減る。キリトはヒストニアを味方につければ彼にはない強力な政治力を発揮してもらえると睨んだ。

 

「ですが、ご存じの通りに『書架』にはとてもではありませんが、犯罪ギルド相手でも機能するだけの戦力はありません。教会剣も動員できませんね」

 

「そうか。そうだよな。大丈夫さ。教会のお墨付きさえあれば俺が……」

 

「はい、ストップ。それだと作戦後の報道はともかく、無茶をするクーの役を貴方が身代わりになるだけじゃない。それに最終的には大ギルドの部隊と連携も必要になる。ヒストニアさん、キリトの支援として私の協働を希望するわ。並列して太陽の狩猟団にこの事も報告して頂戴。コイツが取って置きの手土産を準備するから確実に動くはずよ」

 

「期待されても困るな。彼が何処までの情報を持ってるやら……」

 

 だが、コーンロットの目的が想像通りならば、決して悪くない情報を所有しているはずだ。それ次第では大ギルドに先んじてヴェノム=ヒュドラの拠点に辿り着ける。

 あとは『人道的見地』やらで拠点に侵入して盛大に花火を上げるだけだ。クゥリの悪用とヴェノム=ヒュドラに拉致された人々の救出が主な目的である。

 そして、キリトは何も1人だけで挑むつもりはない。シノンも協力してくれるのは予定外だったが、彼女には取って置きの援軍を目にしてもらうとしよう。

 

(クライン、俺達の道は違えたのかもしれない。もう同じ場所に辿り着けないのかもしれない。それでも……肩を並べられる戦場はあるだろう?)

 

 アルヴヘイムがそうであったように。キリトは対ヴェノム=ヒュドラならば、必ず動いてくれるだろうとかつての戦友の活躍を確信した。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「雑魚君にはがっかりだよ!」

 

 ダンジョンから帰還したエイジは自分と違って余裕綽々といった様子のライドウとの差異に、超えるべき壁の高さと厚さを思い知る。

 ライドウの思い付き……ではなく、前々からプランニングしていたという聖杯の儀式によるデーモンシステムの解放を行い、そのままダンジョンに赴いたのである。

 デーモンシステムの恩恵はデーモン化とデーモンスキルの獲得だ。特に後者のデーモンスキルはセレクトとランダムに分けられ、より強力なスキルを獲得できるというものだ。

 ここで慎重にならねばならないのはセレクト・デーモンスキルだ。消去・再登録するアイテムはあるにはあるが貴重品であり、あのライドウでさえ1個も持っていないのだ。ほぼ全てが大ギルドの管理下にあり、まず市場に出回ることはない。つまり、普通のスキルと同じく安易な選択は後悔を生むのである。

 ライドウが薦めたのはEXソードスキル獲得系である。直接的な恩恵をもたらすデーモンスキルは確かに強力であるが、熟練度が無いので成長性もまた無いのである。それに対してEXソードスキル獲得系は、習得先のスキルの成長次第で次々にアンロックされていき、手札が増えるタイプなのだ。

 ただし、千差万別のデーモンスキルは通常スキルよりも遥かに情報が少ない。故にどれを選べば正解ということはなく、まずはEXソードスキル獲得系を選んだ場合にアンロックされるEXソードスキルを確認し、そこから大よその方向性を予測した上で確定することになる。

 セレクト・デーモンスキルは個人によって獲得可能リストが異なる。どうやらこれまでのプレイヤー履歴によって解放される獲得可能なデーモンスキルが増える仕様らしく、エイジの場合はライドウの時の半分以下だと大笑いされた。

 だが、それでもライドウも知らないデーモンスキルが複数あり、デーモンスキルの豊富さに驚いた。

 エイジはライドウに見られないようにデーモンスキルを選択して獲得した。吉と出るか、凶と出るかは、いずれ分かる事である。

 そのままエイジをダンジョンに連れ込んだライドウは『実験』を敢行した。すなわち、ネームドからラーニングできる能力の範囲の確認である。

 たとえば、エイジには≪戦斧≫のスキルがない。その状態で斧に関する能力をラーニングした場合、ダーインスレイヴはどのように発露させるのか、という疑問の解消である。ライドウの精力的な指導に、この男も傭兵なのに毎日のようにエイジにマンツーマンで暇なのだろうかと疑ったが、とんでもない勘違いだった。

 ライドウと共に足を運んだのはセンの古城という、アノールロンド攻略の為のキーアイテムが入手できるダンジョンである。聖剣騎士団が所有権を持つダンジョンへの侵入だった。

 裏ルートがあるとライドウは招き入れ、道中の戦闘を全てエイジに任せた挙句に、センの古城の地下深くに待っていた<白塗りのアイアン・ゴーレム>とのネームド戦に突入させたのである。

 アイアン・ゴーレムは数多く登場するネームドであるが、ユニークに該当するものも何体が確認されていた。たとえば、センの古城のボス・ネームドは<光輪の守護のアイアン・ゴーレム>という名称であり、他のアイアン・ゴーレムとは挙動がまるで違っていた。とはいえ、その全ての能力を発揮する前に開幕10秒で突撃したグローリーの攻撃を膝に受けてリングアウトからの転落死をするという、アノールロンドに向けて心血を注いだ聖剣騎士団の攻略部隊全員が無表情になった事件は今でも各所で語り継がれている。

 活躍できなかったアイアン・ゴーレムとの再戦……と聞こえはいいが、ライドウがクラウドアースから受けた依頼はネームドの情報収集だったらしく、エイジに戦闘を任せっきりにした。

 

『俺が許可するまで攻撃したら殺す。回復アイテムを使っても殺す。相手のラーニングできる能力を見るまでに死んでも殺す』

 

 最後は殺される前に死んでいる。エイジはツッコミを堪えながら白塗りのアイアン・ゴーレムに挑む羽目になった。相手は水準レベル70であるが、ネームドであることに変わりはなく、またネームドには対戦プレイヤーのレベルに合わせた補正がかかる為に、水準レベルよりも攻撃力・防御力が強化されていた。だが、それでもレベル90には届くかどうかである。

 白塗りは他のアイアン・ゴーレムと同じく斧を主体に攻撃してきた。前門のアイアン・ゴーレム、後門のライドウという状況で、エイジは攻撃も回復も許されずに立ち向かう羽目になった。

 重たい斧の一撃。エイジはそれを弾こうとして、だが逆に弾き飛ばされた。瞬時にダーインスレイヴを突き立ててアンカーにして堪えなければ、ボス部屋を囲う四方の深い溝に落ちていただろう。アイアン・ゴーレムが10メートルを超える巨体に対して狭すぎるボス部屋であり、斧から発せられるアイアン・ゴーレム特有の風の刃の攻撃範囲によって呑み込まれているというプレイヤーに不利な状況である。

 とはいえ、ボスだった光輪の守護とは違い、HPバーは2本。隠しネームドは総じてボスより強めに設定されているが、今回は違った。正確に言えば、HPの削り合いではなく、これまでのアイアン・ゴーレムの恨みを晴らすかのように、白塗りは吹き飛ばし性能に特化されていた。プレイヤーをリングアウトからの落下即死を狙ったネームドだったのである。

 瞬時にエイジは悟った。ライドウという悪意の権化、事前に下見を済ませていたのである。もちろん、ネームドの能力も把握済みだろう。

 エイジがまず選んだのは弾き。この時点でアウトだった。1つ間違っていればリングアウトである。自分の戦法で主導できたならば勝率は上がる。だが、そう上手くはいかない。敵の領分で、自分にとって不利な状況で、あらゆる苦難が重なった環境で戦い、その上で勝たねばならないのである。

 白塗りの攻撃は回避が基本であるが、そればかりでは駄目だ。大振りな斧の一撃の中で小技の蹴りや拳が巨体ながら繰り出される。特に不味いのは足踏みによる地響きであり、接近し過ぎればこれによって高衝撃を蓄積させられる。風の刃も巨大な一撃と細かい連撃を使い分けるのだ。見えない風の刃は、アイアン・ゴーレムが風の刃を使うという知識がなかった場合、エイジは何が起こったのか分からないままにリングアウトさせられていただろう。

 ひたすらに回避する。だが、細やかなダメージが蓄積していき、それが焦りを生む。VITに相応のポイントを割り振っているとはいえ、防具も心許ない上に相手はアイアン・ゴーレムである。パワータイプの一撃は場合によってHPを根こそぎ奪いかねない。ましてや、今回の戦いはHP損壊よりも攻撃を受けたことによる落下死こそが最大のリスクだった。

 10分を経過する頃にはエイジの息も荒くなっていた。だが、自分の想定とは違い、スタミナが危険域に達していない。アイコンは表示されていなかった。ライドウとの訓練により、白塗りの攻撃を潜り抜け続けてもスタミナを温存できるだけの体術が身についていたのだ。とはいえ、これは攻撃の比率ゼロの回避極振りにした場合という注釈もついた。

 だが、エイジにとって驚いたのは集中力の持続である。『ユナ』を連れてコピーネームドと戦い続けた時は、回復アイテムを使い、なおかつスタミナも毎度のように枯渇寸前だった上に精神もギリギリだったというのに、白塗りの攻撃を見極めてから動くだけの余力があった。

 それでもエイジのHPは細かなダメージで3割を切っていた。それでも酷く冷静な思考を保てる。HPが1ポイントでも残っている限りは死なない。死の足音が余計に集中力を研ぎ澄ますのは、ライドウによる死を前提とした防御・回避・カウンター技術の習得トレーニングのお陰だろう。

 視覚警告もまたエイジを補助した。斧がもたらす、ジャンプ以外の回避を許さない足下を這うような巨大な風の刃に対し、白塗りの斧の解像度が極度に上昇し、どのような攻撃が来るか分からずとも心構えができたのだ。お陰でモーションの派生を見逃さず、冷静に跳躍回避することができた。

 そうして回避され続けたことで、白塗りは戦闘が長引いたせいか、あるいはエイジの『引き』が悪かったせいか、ようやくダーインスレイヴが強く反応する能力を解放した。

 白塗りの固有能力なのだろう。右手に持って大振りに構えた斧を振り下ろす。ただそれだけの破砕の一撃だ。だが、舞い散る塵から風の刃を纏わせているとエイジは理解した。振り下ろされた場所から風が爆発し、周囲を吹き飛ばす。エイジは何とかリングアウトを免れたが、それでも強烈過ぎた。回避したからリングアウト寸前で済んだものも、これを開幕1番に使われていたならば、弾きも受け流しもガードも通じずに相手を砕き潰していただろう。

 

『ラーニング!』

 

 ライドウの指示と共にエイジは大技を避けられて隙を晒した白塗りの胸部の核にダーインスレイヴを突き刺した。ラーニングに成功したと感覚で理解すると同時にライドウに首根っこを掴まれて放り投げられ、危うくリングアウト仕掛けたが、それは些事だった。

 

『グロやんにできて俺にできないわけないだろ。いくぞぉおおおおおおおおおおおおお!』

 

 ライドウの連撃を集中的に右足に受けた白塗りは位置取りも悪かったのか、あっさりと転落死した。開幕12秒の出来事だった。アイアン・ゴーレムと名乗る者は転落死する運命にあるのだろうとエイジは何処か達観してしまった。

 エイジにも経験値とコルが入ったが、貢献度システム的には『活躍していない』と判断されたのか、僅かなものだった。だが、確定ドロップアイテムは美味しいと思っていれば、すべてライドウに没収されることになった。もちろん、エイジが自分の依頼に関与した記録を抹消する為である。

 そして、センの古城から無事に脱出したところで、失望発言からの右ストレートである。日頃の訓練のお陰で回避できたが、エイジの顔面を破砕する勢いと殺意が籠っていた。疲労しきっていたエイジはセンの古城で最も危険な攻撃だったと断言できた。

 

「減点その1、最初の攻撃を弾こうとした。あの巨体からのパワーなんだからさ、雑魚くんのSTRでどうにかなるわけないじゃん! せめて選択するなら受け流しでしょーが!」

 

 仰られる通りだ。エイジも最初の判断ミスは責められても仕方ないと頷く。だが、どちらにしてもエイジには白塗りの一撃を受け流しきれるようには思えなかった。舞い散る木の葉を運ぶ流水の如き柔剣こそが求められるのだ。なお、この場合は木の葉ではなくエイジを両断しても余りある巨大な斧なのであるが。

 

「減点その2、間合いの管理がアホ。風の刃を連発されるってことは、相手に有利な攻撃の間合い内にアホみたいに居座り続けたってこと。確かに大斧の攻撃圏外で回避しやすい飛び掛かり斬りばかりになるけど、風の刃がどれだけ連発されたと思ってんの? 俺がどれだけ無駄に回避行動させらされたと思ってるわけ? 殺されたいの?」

 

「ですが、斧の間合い内だと格闘攻撃と地響きも含まれて――」

 

「奴の攻撃で1番危険なのは1発リングアウト確定の風の刃。だったらダメージを受けても耐えきれる確率がある斧の間合いの方がいい。それにアイツは巨体であるが故に攻撃の挙動が読みやすい。四肢の動きから次の攻撃を予測して位置取りしていれば、スタミナ消費は半分以下で済んで、しかもダメージを受ける危険もぐっと下がる。防御・回避技術とは位置取り技術も含まれてる。それはそのままカウンターに繋がる。そんなことも分からないから雑魚君は雑魚なんだよ」

 

 暴言も含まれているが、真面目なのかと言いたくなるくらいにピンポイントの指摘である。だからこそエイジも反論することもできなかった。

 

「減点その3、時間をかけ過ぎ。ラーニングできる能力を引っ張り出すのにどれだけ時間をかけてるわけ? あの程度の相手の手札を全部引っ張り出すのに5分以上もかけるな」

 

「運が悪かったとしか言いようが――」

 

「だから雑魚なんだよ! 観察がまるで足りない! 奴は大技を撃つタイミングをずっと狙ってた! 大技を凌げばそのままカウンターチャンスでもある! 敢えて隙を晒して誘う! 大技の雰囲気を察したら踏み込む! 雑魚君はさぁ、守りはそこそこ様になってきたけど、攻めの姿勢がまるで足りないんだよ! 相手の能力をとにかく引き出すのがクリア条件なら、積極的に相手の攻撃を誘え! 自分の命をチップにするのを躊躇うな!」

 

 言うだけ言ってスッキリしたのか、ライドウは頭を掻くと面倒臭そうに息を吐いた。

 

「まぁ、雑魚君が雑魚たる所以を改めて把握できたことは収穫かな? そりゃあんだけ死に物狂いでレベリングしても成長率が低いわけだわ。悪い意味で慎重で、悪い意味で堅実になり過ぎ。もっと冒険しなよ。俺に一撃入れようとした時や弟子入りした時のキミは最高に面白おかしいくらいに攻めてたのにさぁ」

 

「…………」

 

「慎重で堅実なのは雑魚君の強みだけど、チャンスを見逃すのはただの臆病だって弁えなよ。攻撃的に慎重で堅実になれ」

 

 HPが削れる中でも冷静さと集中力を保てた程度ではまるで足りない。より攻撃的に踏み込んでいく必要性がある。ライドウの提示したルールの本質を理解しきれず、表面だけをなぞっていた証拠だ。

 

「それで、ラーニングはできたんでしょ? どんな感じ?」

 

 ダーインスレイヴを確認すれば【破砕の斧撃】という能力が追加されていた。発動させれば左手にまるで霊体のような半透明の形作られたアイアンゴーレムの斧が出現する。だが、それは時を待たずして消滅した。

 

「ふーん、武器スキルは必要ない……と。でも、あくまで能力として発動させる瞬間だけ具現させるって感じかな?」

 

 ラーニングしている【つらぬきの刃】に比べても火力もリーチも劣るが、その分だけ燃費が軽い。能力としては振り下ろしの一撃は風の刃を放出して高衝撃を付与してガードブレイクさせ易いといったものだ。アイアンゴーレムだからこそガード不可の印象を与えたが、エイジが使っても必殺とはなりえない。

 思えば、つらぬきの騎士の能力にしても、エイジが使ったものとは規模が比べ物にならなかった。ラーニングといってもネームドが使用した威力・性能をそのまま得られるのではなく、プレイヤー規格に合わせたダウングレードは免れないという事だろう。

 しかも今回の【破砕の斧撃】は正直に言えば、ソードスキルと大して違わないではないかといった能力だ。アイアン・ゴーレムが使うからこそ凄まじく強力なのであって、プレイヤー規格にダウングレードされてしまえば、すっかり萎んだ寂しい技である。

 

(考え方を変えよう。瞬間的とはいえ斧の破壊力を手に入れられる。それも見切られやすい振り下ろしだけ……)

 

 普通に考えたらスキル枠を消費して≪戦斧≫を獲得し、なおかつ武器として斧を装備して、カスタマイズもできるソードスキルを撃った方が強く、また応用も利くに決まっている。あくまで瞬間的に、見切られやすいとはいえ、ダーインスレイヴには足りなかった破壊力を補えるのは強みだ。しかも【つらぬきの刃】と違って魔力消費が乏しいので使い勝手もいい。ただし、スタミナ消費は斧だけに大きいだろう。

 要は使い道だ。何よりもダーインスレイヴのラーニングについて研究が進んだのは大きな収穫だった。

 

(待て。ネームドはHPバーが減る程に能力が解放されていく。もしも2段階目の能力もラーニング対象だった場合、どちらが優先されていたんだ?)

 

 エイジに習得を選ぶ権利があるのか? そもそもとしてラーニングできる能力の分別は何処で決まる? やはりダーインスレイヴには謎が多かった。能力の元の持ち主であるスレイヴならば知っているかもしれないが、頑なに語ろうとしない。即ち、未知でこそ成長に繋がるのか、あるいはラーニング自体にろくでもないデメリットがあって敢えて隠蔽しているのか、そのどちらかである。

 

(武器熟練度の上昇で総コストも成長している。【つらぬきの刃】は高コストで高燃費。今後もラーニングできて能力が増えるなら外した方がいい)

 

 破壊力もリーチも【破砕の斧撃】よりも上であるが、こうも燃費が悪すぎては使い物にならず、また発動モーションも固定である為に斧以上に見切られやすい。まだ自由度の高い【破砕の斧撃】の方が戦術に組み込めるだろう。

 

「さーて、どう報告しようかなぁ。情報収集だけで倒すなって依頼だったけど……雑魚君が雑魚過ぎてストレス溜まったのが原因だし、雑魚くんのせいって報告しようっと」

 

「待て。僕が関与したことを隠すんじゃなかったのか」

 

「だ~る~いぃいいいい」

 

 計画的に見えて、その実は感情的な男だ。本当にサインズにエイジが携わったと報告しかねない。エイジは惜しいと思いながらもまずは獲得したコルを小切手化してライドウに譲渡し、コルもアイテムもそっくりそのままクラウドアースに提出すれば、とりあえず問題にはならないかもしれないとアドバイスする。

 

「は? 俺が倒したんだから俺のモノ。雑魚君は俺の仕事を手伝ったんだから、雑魚君が得たのは俺のモノ。なんで渡さないといけないわけ?」

 

 それが傭兵だからだろうが! 情報収集と命じられていた依頼範疇を超えて倒した挙句にドロップアイテムもコルも提供しなかったらトラブルになるだろうが! エイジは懇切丁寧に説明したかったが、ライドウが弁えていないはずもないと悟る。この男、そうした理屈も全て把握した上で自分の感情と我欲を優先させた選択をするつもりなのだ。

 クラウドアースは本当に何を考えて、この男を専属にしているのだ? もしや、命じた依頼を超えて撃破するはずだと見越した上なのだろうか。あり得るが確信は持てない。

 このままでは本当にエイジの関与を報告しかねない。ダンジョン圏外に脱したエイジは頭をフル回転させるも名案は浮かばなかった。

 と、フィールドに出ると同時にシステムメッセージでメール受信の通知が表示された。自分にフレンドメールを送るような人物は1人しか思い浮かばない。

 ユナだ。それも3件もメールが来ていた。内容を確認したエイジは思わず握りそうになった拳を堪える。

 

「分かった。どうせクラウドアースは自分を責めないって確信があるんだろう? 今回の調査についてもネームドの撃破が目的じゃなくて、センの古城の地下を探索すること自体に意味があったんじゃないか? それか、依頼内容自体に虚偽が混ざっていてもおかしくない」 

 

「んー、どうだろうねー。クラウドアースが俺を利用しているように、俺も連中が戦う機会と場所と便宜を図ってくれるから専属をやってるだけだしねー。それに俺の専属を決定したベクターも失脚したっぽいし、俺もどうなるやらねぇ」

 

 専属として重要な時期でありながらいい加減な態度を取るライドウに対して、エイジは努めて冷静に対処する。ライドウはなんだかんだで自分の不利益を極力減らす努力を怠らない人間だ。感情だけでエイジの関与を報告するはずがない。ライドウにとってそんなことに利益などないからだ。

 ならばリソースを割くのは無駄だ。今は1秒でも早く帰還することが重要だ。ライドウもエイジへの失望もあってか、今日はこれ以上の追加鍛錬をするつもりもないのだろう。

 メールの内容はユナが孤児を引率してラストサンクチュアリの難民キャンプの慈善活動に参加するというものだった。急な欠員が出たのが原因であり、エイジに通達するメールも届いていた。だが、最新のメールはスレイヴが不在である為に単身で参加する旨だった。

 孤児の引率と教会の慈善活動ならば、最低でも教会剣の警護が付く。危険地帯に……ましてやダンジョンに赴くわけでもない。ユナにとって知識不足の終わりつつある街の風景は衝撃的かもしれないが、いずれは知らねばならない事でもある。

 だが、この胸騒ぎはなんだ? エイジは終わりつつある街に到着すると即座に白塗りから得たコルを小切手にしてライドウに手渡す。

 

「ところで、今日の復習についてですが……」

 

「自分でやってろ、ざーこ」

 

 予想通りの返答だ。エイジは詫びるように深々と頭を下げてライドウを見送り、彼の姿が見えなくなると全速力で大聖堂に帰る。

 スタミナ消費を度外視した加速をかけ続け、瞬く間に汗塗れの顔になっていく。だが、エイジは止まることなどなかった。

 もはやユナに抱いていた気持ちすらも分からない。ただ憎悪の炎だけが心を満たし、魂まで焦がしている。

 だが、ユナの笑顔を見ても、気遣いを受けても、まるで微動としなかった憎しみの炎が揺らめいている。外側に漏れ出したいと叫んでいるかのように。

 走りながら何度もメールを飛ばす。だが、返事は一向に来ない。エイジのようにダンジョンに潜って確認できない環境にいるのか? いや、そんなはずがない。きっと立て込んでいて返信する余裕がないのだ。

 

「あの時のにーちゃん……!」

 

「キミは……確かチョコラテ君……だったか」

 

 汗を拭うことも忘れて孤児院に辿りついたエイジが出会ったのは、かつて投げナイフについて教示した少年だった。孤児院の玄関で胡坐を掻き、誰かを待っていたようだが、待ち人はエイジではなかったらしく、落胆を見せる。

 

「ユナと……連絡が……つかないんだ。何か……知ってる……か?」

 

 呼吸を整えながらエイジが問えば、チョコラテは悲痛な表情で顔を俯けると大きく頭を下げた。

 

「そっか。アンタがねーちゃんの言ってた……ごめん! 俺……やっぱり止めるべきだった! あのねーちゃん、まだDBOを……いいや、『人間の恐ろしさ』をまるで分かってなかったのに!」

 

「何があった?」

 

「行方不明なんだ。難民キャンプで……大乱闘が起きて……その時に……!」

 

「キャンプか」

 

 ラストサンクチュアリの貧民プレイヤー1000人が押し込められた場所だ。エイジは即座に踵を返したが、チョコラテに袖を掴まれる。

 

「待った! 多分だけど、キャンプの連中じゃねぇよ! いやね、俺も最初は疑ったよ? ねーちゃんは喋れないし、可愛いし、カレシのアンタに言うのはなんだけど、『襲う』なら都合いいじゃん?」

 

「カレシじゃない」

 

「え? マジ? いや、うん……分かった。ともかく、にーちゃんもそれくらい分かってんだろ? だからさ、今日の参加者の舎弟に頼んでおいたんだ。『ねーちゃんをよく見張ってろ』って」

 

 舎弟……つまりは孤児仲間だろう。ナイスアシストをしたチョコラテだが、表情は曇ったままであり、よからぬ報告しかできないことは疑う余地もない。

 

「ねーちゃん、どうやら自分でキャンプの外に出て行ったみたいなんだ」

 

「自分で? ユナはそこまで馬鹿じゃ……いや、あり得るな」

 

「おい、自分のカノジョを馬鹿と認めるのかよ」

 

「カノジョじゃない。ユナは『誰か』の為になると無鉄砲になりやすい。僕が……僕が1番よく知ってる」

 

 思えば『ユナ』もそうだった。NPCを守る為に、侮辱されたエイジの名誉の為に、2度もライドウに啖呵を切った。

 

「ソイツは乱闘のせいでシスター達に誘導されてねーちゃんを追えなかったらしいけど、自分でキャンプの外に出て行って、そのまま戻って来なかった。他にも参加者にもう1人行方不明も出ていて……」

 

「待て。行方不明って……ユナはともかく、まだ慈善活動が終わってからそんなに時間も経ってないだろう? もう1人は途中で抜け出しただけなんじゃないのか?」

 

「まだ公には発表されてないけど、ヤバいことになってるみたいなんだ。神父がブチギレてたしな。俺達もしばらくは外出禁止」

 

 エドガーが怒り狂ってる様子を想像し、事の深刻さをエイジも理解できた。

 

「キミは神父を待ってたのか? ユナを心配してくれているんだな?」

 

「……まーな」

 

「ありがとう」

 

 エイジが感謝を告げれば、チョコラテは驚いた様子だった。

 子どもだって殺した。『力』を求める為ならば何だってやる。『ユナ』を殺したライドウにも弟子入りしたのだ。

 それでもエイジにだって感謝を告げるべき時と相手くらいは判別できる。

 

「他に何か知っていることは?」

 

「ねーよ」

 

「……そうか」

 

 チョコラテをその場に残し、エイジはまず自室に戻る。だが、スレイヴの姿はない。レギオンの会合だろうか? ダーインスレイヴを通じてコンタクトを取ってみようにも、スレイヴ側からアクセスを閉ざされているかのような封鎖された感覚があり、エイジは困惑する。

 

「ユナ」

 

 テーブルにはスレイヴに宛てたメッセージが置いてあった。ユナも自分だけで参加することを後ろめたく思っていたのだろう。だが、それでも踏み切ったのは孤児たちを思い、また一刻も早く独立しようと焦っていたからだ。エイジが教会を出ていく旨を伝えたのも原因の1つだろう。

 エイジにはこの期に及んでも分からない。憎しみの炎が揺らめくばかりで、ユナに対してどのような想いを……今この瞬間さえもどんな感情を抱いているのかさえ分からない。それどころか、ユナにとって『幸せ』であるはずの歌声を取り戻すことを恐怖している。

 だが、ユナが男たちの慰みものになっている姿を想像すれば、その歩みに淀みはなくなる。まずはエドガーに何が起こったのか問わねばならない。

 

「申し訳ありません。神父との面会は一切お断りしています」

 

 だが、エドガーの執務室の前では教会剣が4名も控えており、エイジを通そうとはしなかった。

 出払っているのではない。この様子だとエドガーが執務室にいるのは違いないだろう。だが、この警備は様子がおかしい。ひとまずは退散したエイジはもう1度チョコラテから情報収集しようと中庭を突っ切って孤児院に向かおうとした時、ガラスが割れる音と共に何かが墜落するのを目撃する。

 

「むぅうううううううううううう! むぅううううううううううううううううううう!?」

 

「神父!?」

 

 まるで手に負えない凶悪犯のように、金属製の黒椅子に拘束服ごと縛り付けられたエドガーである。口も猛犬の顎を封じ込めるような拘束具が取り付けられていた。

 

「神父が! 神父が逃げたぞ!」

 

「あの状態からどうやって!?」

 

「神父の信仰を舐めるなとあれ程言っただろう! すぐに捕まえろ! 神父を自由にすれば、教会存続の危機だ!」

 

 途端に囚人が脱走したかの如く教会剣の怒声が飛び交う。エイジはもしや教会でクーデターでも起きたのかと想像し、この場で神父を捕まえて教会剣に引き渡す事と神父を助ける事を天秤にかけ、後者を即決する。少なくともユナの現状について情報を得るにはエドガーの口以外に方法はない。たとえ教会剣に引き渡したとしても情報は何1つ得られない確率は高いのだ。

 重たい椅子だ。エイジは椅子ごとエドガーを背負うと全速力で駆ける。喋れない様子のエドガーであるが、むーむーと言いながらも体を動かしてエイジの逃亡進路を誘導する。

 さすがは教会の創設メンバーと言うべきか。迷宮の如き構造をした大聖堂も脳内マッピング済みらしく、何とか教会剣の追跡を振り切る。

 DBOの歴史や物語に関する書籍で埋め尽くされた暗室にて、エイジはエドガーの口の拘束具を外す。カギはないためにダーインスレイヴで切断すれば、ようやく息が出来るとばかりにエドガーは大きく深呼吸した。

 

「アンバサ。よもやエイジ殿に我が使命の窮地を救っていただくことになるとは……!」

 

「何が起きているんですか? ユナに何があったんですか? この様子だとクーデターに巻き込まれ――」

 

「いいえ、彼らもまた教会の未来を思っての事。まだ信仰心が足りぬが故の無知がもたらす許されるべき愚行なのです。このエドガーと共に穢れた魂の滅却に赴かねばならぬはずが、信仰心が足りぬばかりに私を捕らえて……これも私に彼らに神託の意義を説き、灰より出でる大火をお迎えする真なる意味を啓蒙できなかったからこそ! おお、我が聖女よ! どうか至らぬこのエドガーをお許しください! アンバサ! アンバサ! アンバサァアアアアアアアアアアアア! ほら、エイジ殿もご一緒に!」

 

「神父、さすがにそのような大声では居場所がバレます」

 

「む!? 確かに!」

 

 まるで訳が分からない。文字通り、神父が何を言いたいのか直訳することさえもできない。

 ともかくクーデターの類ではなさそうだ。エイジは先のように政治的動乱に巻き込まれなくて良かったと思う反面、この男の信仰心とやらに付き合わねばならないのもハード過ぎると辟易した。

 

「くっ……! イジェン鋼か! なんで拘束具にこんな高級素材を……!?」

 

 口の拘束はベルトだった為に容易に切断できたが、エドガーを椅子に縛り付ける拘束服との接続部はいずれも高純度のイジェン鋼製である。さすがに破壊するには骨が折れる。そうでなくとも金属同士がぶつかり合う甲高い音で居場所が知られてしまうだろう。

 ダーインスレイヴでは無理でも【破砕の斧撃】ならば? エイジは発動させようとして、だが破壊音によってどちらにしてもアウトだと奥歯を噛む。

 

「……申し訳ありません。このエドガーが油断したばかりにユナ殿を……ああ、我が聖女になんと申し開きをしたらいいのか。エイジ殿にかけられた我が聖女の慈愛。すなわち、エイジ殿の連れ合いたるユナ殿もまた恩寵を授かったというのに! そうであるのにこの体たらくとは!」

 

「ユナに何があったんですか?」

 

 エイジの問いに、エドガーは事のあらましを説明する。

 ユナが犯罪ギルドのヴェノム=ヒュドラに拉致された疑いが濃厚である事。

 ヴェノム=ヒュドラの拉致の目的は人身売買であると思われる事。

 既に事件は大ギルドの耳にも入っており、準備が整い次第に拉致被害者の救出を目的とした作戦が実行される事。

 エドガーがわざわざ嘘を吐く必要性もなく、すべて真実だろうと呑み込んだエイジは額を押さえてよろめく。

 

「3大ギルドもわざわざ『裏』の火種を欲しないでしょう。せいぜいが『脅し』程度のはず。ですが、このエドガーが望むは1人残らずの絶滅!」

 

 拘束されて当然だ。エイジはとんでもない狂人を口だけとはいえ解き放ってしまったものだと己の愚かさを噛み締めた。これだから宗教家は厄介なのだと再認識する。

 

「……作戦の決行はいつになるんですか?」

 

「早くとも明日の明朝でしょう。いえ、時期を見て2、3日は置くかもしれません。なにせ3大ギルドの協議が済んでいませんから」

 

 遅すぎる! その間にも……いいや、こうして手をこまねいている間にもユナが危うい。早急に救出作戦を敢行する必要がある。

 ユナ以外は『どうでもいい』。ヴェノム=ヒュドラがどれだけの人数を拉致していようと、どれだけの犠牲者がいようと、ユナだけを無事に救い出せるならばそれでいい。ならば必要なのはヴェノム=ヒュドラに乗り込み、最低限の戦闘を速やかに済ませ、ユナを救出する隠密性だ。

 だが、エイジには装備がない。まともな防具もなければアイテムも揃っていない。エバーライフ・コールのお陰で借金を返済し、多少の金銭的余裕があるとしても装備に回せるほどの貯蓄に至っていないのだ。

 情報も装備もいる。スレイヴの伝手を使いたくても彼女がいない。改めて無い無い尽くしだと歯ぎしりしたエイジは、目前にある選択肢に気づく。

 ああ、そうか。『力』を得る方法は何もライドウに弟子入りするだけではない。エイジは目の前の狂信者もまた手段の1つなのだと悟った。

 

「神父、先日のお話を覚えていますか?」

 

「はて、どのような話をしましたか?」

 

「教会剣に関するお話です。確かに、教会剣を独自の戦力として保有することは不可欠でしょう。ですが、こうして神父を拘束し、神託に反するという愚行に走るほどに、彼らの信仰心は心許ない。そう思いませんか?」

 

「……ほう。自分は違う。そう仰りたいのですか?」

 

 狂信者の表情のまま、だが冷徹なる策略家でもあるエドガーの眼差しにこそ活路を見出す。

 まるで無知なる民衆によって刑に処される聖者に洗礼を求めるかの如く、エイジは恭しく片膝をついて跪いた。

 

「いいえ、まさか。神父もご存じでしょう? 僕に信仰心などありません。ならばこそ、神父が欲する教会の敵を悉く滅ぼす刃となりましょう。陰の太陽グウィンドリンが暗月の剣を率いるように、教会の陰となり、この身に宿らぬ信仰心を補うべく、人心によって下された罰の代行を務めましょう」

 

 これは賭けだ。だが、勝率は高い。エイジの打算を見抜いた上でエドガーは決断するはずだ。彼は狂信者だからこそ、この場における選択肢は1つしかない。

 

「……ユナ殿は悲しみますよ?」

 

「僕が求めるのはユナからの評価でも感情でもありません。神父が抱く大いなる使命の為に、この身に教会の『力』をお貸しください」

 

 事実だ。ユナを救出しようとしていても、心に彼女に対する想いはまるで宿っていない。ひたすらに『力』を欲する憎悪が最上の機会だと燃え上がるばかりだ。

 だから、これでいい。『ユナ』の復讐を出汁にしてライドウに弟子入りして『力』を求めたならば、ユナを利用して更なる『力』を得るのに何の躊躇いがある?

 跪いたまま目を閉ざせば、ユナの笑顔が思い浮かぶ。だが、何も感じない。ただ虚しいばかりだ。だからこそ、余計に憎悪の炎が荒れ狂う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「汝、教会の暗き刃となり、神託を穢す悉くを滅すると誓うか?」

 

「誓います」

 

「汝、灰より出でる大火をお迎えし、聖歌が奏でられるその時まで、血で血を洗う闘争に心身を捧げると誓うか?」

 

「誓います」

 

「汝、民心より誹りを受ける致死の猛毒となろうとも、煌めく水銀とならんことを誓うか?」

 

「誓います」

 

「よろしい。ならば復唱しなさい。アンバサ」

 

「アンバサ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 面を上げたエイジを歓迎するように、エドガーは『にっこり』と笑った。

 そうだ。それでいい。存分に僕を利用すればいい。教会の目的も理想も大義も『どうでもいい』のだ。

 欲するのは『力』だけだ。得られるならば教会でも何処でもいい。

 

「このエドガーもエイジ殿だけでヴェノム=ヒュドラの絶滅を求めませんが、相応の戦果を求めます。しかし、ひとまずはユナ殿の安全をお願いしますよ」

 

「神父の期待に背きません。この身は教会の暗き刃なのですから」

 

 エイジよりもエドガーの方がユナの安否に真摯だ。彼は神託に基づいてエイジを保護し、彼の連れ合いだからこそユナも恩寵を得たと信じて疑わない。

 

「よろしい。それでは歓迎しましょう。貴方も今宵から【水銀の槍】。今後はこのエドガーの指揮下に入ってもらいます。よろしいですね?」

 

「もちろんです」

 

 この場所がバレるのも時間の問題だ。既に足音が近くまで迫っている。エドガーは緊迫した面持ちとなる。

 

「教会の工房に向かいなさい。このエドガーより『悪を滅する水銀の調合を頼まれた』と伝えれば守衛に通してもらえるはずです」

 

「分かりました」

 

「あと、情けないことですが、ユナ殿の行方……ヴェノム=ヒュドラの拠点についてはまだ掴めていません。水銀の槍となったならば、同志が情報収集に手を貸してくれるでしょうが、はたして間に合うのか……」

 

「その件については『確実に知ってる人物』に心当たりがあります」

 

 こんなにも『面白い』ことをライドウが知らないはずがない。あの男は間違いなくヴェノム=ヒュドラの欲望に染まり切ったビジネスにも何かしらの伝手があるはずだ。

 問題はどうやって情報を引き出すかであるが、ここまで来たらアドリブである。

 

「エイジ殿に灰より出でる大火の導きがあらんことを。アンバサ」

 

「アンバサ」

 

 暗室を飛び出したエイジはそのまま教会の工房に向かう。教会でも24時間フル稼働している、ある意味で正常とも言うべき好奇の坩堝である。【黒の剣士】の専属にしてHNETAIでも変形機構の最前線を走るマユの影響を強く受けており、複数の武器スキルを組み合わせたキメラウェポンでも特に変形武器に特化しているのが特徴だ。

 エイジは守衛に止められるも、エドガーが教えてくれた合言葉を口にすれば直々に通され、炉が猛る工房ではなく、地下へと続くエレベーターに乗せられる。

 古めかしいエレベーターは扉ではなく柵によって閉ざされて地下へと向かう。そこは特に隠されている様子はなく、工房の住人も右往左往しているが、どうやら資料の保管、素材の研究、試作品の実験などが行われているようだった。

 

「『俺達』に明確な仲間という枠組みはない。普段は普通のギルドなり、教会の仕事なりをして暮らしている。アンタが教義に殉じる本物か、それともフリだけなのかは重要じゃない。大事なのはアンタが『俺達』に加わることを認められたってことだ。心から同情するよ」

 

「どういう意味ですか?」

 

「分からないなら救いようもない。分かって尋ねているならば盛大に後悔しろ」

 

 守衛の言いたいことが分からないエイジは沈黙を選ぶ。そうしてたどり着いたのは、多くの武器が保管されている倉庫だった。管理人らしきは髭だらけの小男である。

 

「『新入り』だ。見繕ってやってくれ」

 

「……そうかい」

 

 小男は守衛から引き継ぐとエイジを冷たい石造りの倉庫の奥へと案内する。

 

「この棚から適当に選べ。足がつかない装備ばかりだ」

 

「いいのですか?」

 

「言っただろう? 足がつかないって。ここで何を選ぼうが教会は責任を持たない。お前は水銀の槍。教会が『悪』と定めた者達を悉く滅ぼす猛毒の刃だ。支援はするが、いつでも切り捨てられる立場だってことを忘れんなよ」

 

「……覚悟の上です」

 

「皆、同じことを言う。そして、同じように『覚悟』を抱いて死ねる奴は少ない。お前の真価が問われるのは死の間際の時だ」

 

 それなら味わった。自分の醜さも愚かさも弱さもな。エイジは内心で自嘲する。

 もうユナが知る『エイジ』は何処にもいない。ここにいるのは憎悪の炎に焼かれ続ける残骸だ。

 エイジは自分の戦闘スタイルに見合う防具を選ぶ。小男は武器も選定してくれたが、自分にはダーインスレイヴがあると断る。だが、呪術の火はありがたく貰うことにした。

 装着するのはクラウドアース製を流用したアサルトスーツだ。近未来的な密着性の高い軽量ボディアーマーである。やや紫がかかった青のアーマーには胸に刻まれた本来の名称が塗り潰されている。だが、これはインナー装備の類であり、更に上からブルーコーティングされたコートを羽織る。

 靡く青色は自分に不似合いだ。だが、だからこそエイジは気に入った。

 

「この火薬も貰っても?」

 

「火薬を? 物好きだな。好きにしな」

 

「助かる」

 

 これで爆閃も使える。ライドウの指導も受けてより武技として磨かれている。まだ付け焼刃程度であるが、使用できるか否かで戦術が変わる。

 

「ルールは3つだ。1つ目は『悪』を滅しろ。疑問は抱くな。2つ目は教会の名を口にするな。お前の所業に関して教会は無関係だ。3つ目は『悪』を滅したならば証を残せ。『左目』を抉り取れ」

 

「……左目?」

 

「水銀の槍がかける唯一の慈悲だ。『悪』の左目を抉り取ることで、それを知った者達は己の悪徳と罪を理解し、真なる信仰に目覚めることで許される……だとよ」

 

 ……今度、改めて聖典でも捲ってみるか。誰が編纂したのかもしれぬ、あるいはエドガー本人の著かもしれない分厚い聖典を思い出し、エイジは静かに嘆息した。

 仲間はいない。だが、エイジの他にも水銀の槍はいる。『何処か』に潜んでいる。彼らは密やかに、密やかに、密やかに与えられた使命を全うしているのだろう。

 

「裏口から出な。墓地の空井戸まで続く地下道がある。ここにはもう2度と来れない。連絡はコイツに書いてある。定期的に変わるが、明後日までは同じはずだ。次の連絡先もそこで手に入る。欲しいアイテムや情報があるなら、出来る範囲で準備してやる」

 

 小男は折り畳んだメモ書きを渡す。確認は後でいいだろう。エイジはアイテムストレージに収納する。

 

「だったらアーチボルトというプレイヤーを探したい。元クラウドアースの鍛冶屋だ」

 

「アーチボルト……ああ、知ってるさ。上の連中が馬鹿にしてたな。ランク1の自爆珍事の主犯だろう? そんな奴を探して何が欲しい?」

 

 教会の工房からもお笑いの人物なのだろう。だが、そうした爪弾き者で、狂っていようともランク1の装備を任された程の人物ならば、エイジにも出目は残っているというものである。

 

「『仲間』じゃないんだろう? 詮索は抜きだ」

 

「……だな」

 

 エイジは裏口から出れば、暗闇の地下道を進む。小男から借りたランタンの灯だけが頼りである。やがて、夜の薄っすらとした明かりが見えてきた。暗雲に遮られても月光は微かに地上を照らしているのだろう。

 ライドウにメールを飛ばす。内容は『ヴェノム=ヒュドラの人身売買について知りたい』というストレートな内容だ。ライドウには変化球よりも直球ど真ん中の方が有効であるとエイジは理解していた。

 返信はすぐに来た。どうやらライドウはエバーライフ・コールが経営する店にいるらしく、用があるならば来いと通達してきた。

 道行く人々は何も知らない。ヴェノム=ヒュドラがユナを連れ去ったことも、これからエイジがやる事も、何も知らずに今日を生きる。

 誰も知らなくていい。エイジも自分がどうしてこんなにも走っているのか分からないのだから。

 それでも、『いつか』のようにエイジは止まらない。普段の慎重さなど完全に消え失せ、赤熱したエンジンが溶けて焼き付くまで止まらないように意識は狂ったように覚醒していた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 さて、お喋りしましょうか。グリセルダは『にっこり』笑いながら、両腕を手錠で椅子に拘束されたコーンロットと金属製の冷たいテーブルを挟んで相対する。

 場所はサインズ本部の地下だ。興奮してまともに会話もできない依頼主を一時的に拘束する座敷牢である。現在は3大ギルド、あるいは教会に引き渡し予定のコーンロットの収監に利用されている。

 自殺されては問題になる。アイテムストレージは空にされており、両腕も拘束されている。舌をかみ切った程度では現実世界と違ってHPはゼロにならない。よってコーンロットはどう足掻いても、それこそ暗殺でもされない限り、ここから生きたまま『地獄』に搬送されることになる。

 グリセルダとしては、コーンロットが『地獄』で原型を失う屍になろうとも、過酷な鉱山送りにされようとも興味はない。そもそもとして、このタイミングでクゥリを大事件に巻き込んだコーンロットには眉間に1発撃ち込んでやりたい気分だった。

 だが、よもや3大ギルドと教会が動き出す大事件にまで発展するとは思わなかった。オマケにグリムロック経由でチェーングレイヴもヴェノム=ヒュドラに対する『ケジメ』を付けるようだ。とはいえ、チェーングレイヴにとって予期しなかったことは、クラウドアースのベクターが辞任し、勢力図が変化したことによって、これまでは暗黙の了解でもあったチェーングレイヴとの裏の繋がりを良しとしない動きがある件だ。

 新たな議長になったベルベットは、戦力統合のみならず、ベクターの政治的基盤の破壊に勤しんでいる。再起できないように封じ込めるつもりなのだ。その1つとしてチェーングレイヴとの繋がりを断とうとしている。それどころか、犯罪ギルドとの癒着であると、よりにもよってヴェノム=ヒュドラという犯罪ギルドに相対しているこのタイミングで、大々的にネガティブキャンペーンをするつもりなのだ。

 派閥抗争、ここに極まれり。古今東西、国だろうと宗教だろうと企業だろうと、味方同士の争いで滅びた例は数知れず。今頃はベクター派がベルベット派との交渉を持ち掛けているだろう。そうしている間はチェーングレイヴも大ギルドの動きを邪魔しない為に大きく動けず、だがタイムリミットと面子がある以上は、いずれはゴーサインを待たずにヴェノム=ヒュドラに攻撃を仕掛けるだろう。

 このクラウドアースの内乱をあの男……セサルはどう乗り切るつもりか? いや、あるいは楽しんですらいるのかもしれない。あの男はそういう類の危険人物であるとグリセルダは断言出来た。

 

(想定以上にクラウドアースはガタガタね。ベクターが議長の座を取り戻せるまでに残っているかしら? クラウドアースが崩壊したら、聖剣騎士団と太陽の狩猟団の両雄しか残らない。教会が間に入っても時を待たずして戦争ね)

 

 いっそ全部焦土にしてしまった方が人口も減っていいんじゃないかしら? そんな破滅的終末を求める思考が生まれかけたグリセルダは、ともかく現状におけるキーマンであるコーンロットの口を割ることに意識を集中する。

 クゥリがリストに則って『お喋り』をしているが、まだ確定情報は得られていない。こうしている間にも嫌な予感が募るのだ。なにせ、今のクゥリには『重石』がない。単独行動……しかもこんな厄介な依頼を引き受けている以上、何かが起こるのではないのかと気が気ではないのだ。

 ……いいや、それだけではない。依頼に出発する前に、クゥリはグリセルダの手を取って自分の頬に当てた。まるで温もりを欲するかのように。最初は驚き、自分は人妻だからと言い聞かせて胸の高鳴りを押さえ込んだが、すぐに別の感覚が彼女をよぎった。

 クゥリの行動が、雰囲気が、何処か泣き出しそうな眼差しが、まるで親の庇護を求める雛鳥のようにも思えたからだ。だからだろう。母性が湧き出したグリセルダが覚えたのは哀れみだった。

 クゥリは記憶を失っているとグリセルダは確信してる。いかなる理由かは不明であるが、四肢の動作不全や感覚喪失も関係しているのだろう。

 だが、何処かで甘く見ていた。彼はもしかしたら家族の……母親の記憶すらも失っているのかもしれない。不安すらも態度に見せないが、自分のルーツに関する記憶を失うとはどれほどに恐ろしいことだろうか。

 

「やってくれたわね。こうなると最初から予想して依頼したのでしょう?」

 

「…………」

 

 コーンロットは開口すらせず、黙って俯いたままテーブルの1点を見つめている。だが、そこに何かがあるわけでもなく、淡々と虚ろに時間を……自分の末路を待っているかのようだった。

 グリセルダは知っている。もはや全てが『どうでもいい』と魂が抜けきった者の目だ。彼は己がやるべき事をやり遂げた感慨すらもなく、淡々と死を待っているのだろう。

 

「【渡り鳥】の拷問は悲惨よ。泣き喚いて自分から死を欲する程度にはね。貴方も死に際を醜く汚したくないでしょう? 私に話した方が楽になるわよ」

 

「それも……いいかもしれないですね。楽に死ねるとは思っていませんでしたから」

 

 ようやく口を開いたかと思えば、やはり最初から死ぬつもりだったのか。だが、それならば疑問も残る。サインズがギルド拠点を襲撃した時、どうして投降したのか。

 死に方を選ぶ為か、それとも語るべきことが残っているからか。どちらにしてもグリセルダがやるべきことは変わらない。

 

「貴方が何をやりたかったのか、まるで分からないわ。罪悪感からヴェノム=ヒュドラの非道を知らせたかったならば、大ギルドにでも教会にでも好きにリークすればいいじゃない。それとも何処に連中のスパイが潜り込んでいるか分からなくて、怖くてできなかった? いいえ、違うわ。貴方は確固たる目的があってクゥリ君に依頼した」

 

「…………」

 

「もういいんじゃないの? ヴェノム=ヒュドラの悪行はバレたわ。壊滅こそされないにしても立て直しを迫られる程度には削り取られる。そうすれば他の犯罪ギルドが黙っていない。ヴェノム=ヒュドラは肥やしになるでしょうね」

 

「…………」

 

「ああ、そういえば貴方達のリーダー……ギャラクシーオレンジさんだったかしら? 随分と大金を前払いして、教会から別の施設に移送する手続きをしていたようじゃない。そうよねぇ、今回の事件が明るみになれば、教会の治療施設になんていられなくなる。でも、残念だったわね。支払いした履歴……『無い』そうなのよ。あらあら、残念だわ。回復しつつあるとはいえ、まだまだ治療が必要なギャラクシーオレンジさんは貧民街に放り出されることになるでしょうね」

 

「……貴様!」

 

 あら、ようやく反応を見せた。グリセルダは怒りの形相を見せたコーンロットに、やはり事件を紐解くヒントは彼らのリーダーにあると確信する。

 

「非道が! あの人は……あの人は何も関係ない! ゲスが! クズが! お前みたいなのがいるから……!」

 

「そっくりそのままお返しするわ。アンタみたいなゴミがいるから、この世界は少しも良くならないのよ。麻薬の素材を売りさばいて豪遊していた悪党で、しかも偽りの依頼で傭兵を騙した。どちらがゲスでクズなのかしらね?」

 

 ちなみにギャラクシーオレンジの移送に関する工作はグリセルダのブラフ……ではない。彼女はクゥリと違って、やり返す時は実力行使ではなく裏工作で締め上げる。移送と治療を請け負っていたギルドにはヨルコの薬のレシピを餌にして工作を依頼した。コーンロットが支払っていた前金をそっくり懐に入れられる上に一儲けできるレシピの獲得だ。2つ返事で工作には応じてくれた。

 

「【渡り鳥】は暴力しか能がないお馬鹿だと思った? まぁ、否定できない部分はあるけど、ああ見えてあの子はちゃんと考えて動いているのよ。考えた上で無視したり、見逃したり、深く探らなかったり、何よりも……『信じる』ことを前提とするのよ。あの子なりの優しさなのよね。どれだけ裏があるように感じられても、どれだけ兆候があろうとも、裏切られる瞬間までは決して裏切らない」

 

 グリセルダは立ち上がるとコーンロットの傍らに立ち、彼の拘束された右手を見下ろすと迷うことなく人差し指を折った。関節があらぬ方向に曲がり、コーンロットの呼吸が止まるも悲鳴はない。さすがは狩猟ギルドだ。モンスターとの戦いで負傷がもたらすフィードバックには慣れているのだろう。

 監視していたサインズ職員が微動するが、グリセルダが睨めば何も見ていなかったとばかりに顔を背ける。彼らには事前に『差し入れ』をしてある。多少の乱暴は見て見ぬフリをしてくれるだろう。

 

「……は! 悪魔の連れ合いは魔女か。お似合いだな!」

 

「ふーん、それが本音かしら? でも、あの子を悪魔呼ばわりなんて随分と安く見られたものね。あと見え透いた挑発で買う気にもならないわ」

 

「何を企んでるか分からないって言ったな? 教えてやるよ。ギルド内のトラブルさ。勘定役とはいえ、取り分が少なくてな。もっと寄越せって要求したら断りやがった。俺がいなければ帳簿もろくにつけられないくせによ! だから台無しにしてやったのさ!」

 

「筋が通っていない見え見えの嘘ね。残念賞もあげられないわ」

 

 コーンロットは焦っている。彼にとって予定外だったのはギャラクシーオレンジの移送先にまで手を回されていたからだろう。だが、グリセルダからすれば、むしろ想定していなかったのかと疑問すらも覚えた。

 と、そこでグリセルダは気づく。今回の事件が3大ギルドと教会まで動かす程の大規模に発展したことをコーンロットは知らず、また想定もしていなかったのだ。そもそもとして、今回の事件が大きく育った原因の1つは、被害者と思われる人物に太陽の狩猟団の主力メンバーまで含まれていたからである。

 つまりは教会まで敵に回す気などなかった。あくまで教会から別施設への移送は保険に過ぎなかった。彼は拉致に関して教会の慈善活動が利用されていたとまでは知らなかったのである。

 

(そうだとするならば、コーンロットがレモネーの失踪……いいえ、拉致を調べた理由は何? 本当に訳が分からないわ!)

 

 コーンロットは何か重要な情報を握っている。そう思い込んでいただけなのか? それともコーンロットに騙されているのか? どちらにしても、彼が全てを吐き出せば分かることである。

 もう一押しだ。ギャラクシーオレンジの処遇でコーンロットは動揺している。ブラフを使ってでも更に追い込みをかける! グリセルダは拳を握る。

 

 

 

 

 

 

 

「全ては復讐だったんだろ?」

 

 

 

 

 

 

 これは予定に入っていない。開かれた座敷牢の扉にもたれかかっているのは、この場にいるはずがない【黒の剣士】だ。

 コーンロットの依頼を引き受けた時とは違い、何の段取りも組んでいない。完全な乱入だ。困惑するグリセルダを尻目に、キリトは先程まで彼女が座っていたコーンロットと正面から相対する席に腰かける。

 

 

「アンタの身柄は教会が預かることになった。教会……というよりエドガーは怒り心頭らしいが、殺しはしないさ。アンタの協力次第では無罪放免とまではいかずとも最低限の身の保証もしてもらえる」

 

「ちょっと待ちなさい! 勝手に話を進めないでくれるかしら!?」

 

 サインズに幾ら支払って尋問の時間を買ったと思っているのだ!? いきなり入ってきた横槍にグリセルダは掴みかかろうとするが、彼女の肩を掴んで止めたのは遅れて入室したシノンだった。

 

「補填は後でこの黒馬鹿がするわ。だからお願い……我慢してくれる?」

 

 シノンが同席するということは太陽の狩猟団が関わっているということだろう。聖剣騎士団との関係が回復していない状態で太陽の狩猟団の覚えを悪くするのはまずい。ただでさえクラウドアースは内紛中なのだ。即座に計算したグリセルダは肩を竦めてコーンロットから離れる。

 

「怖い刑事の次は優しい刑事か。その手には乗らない」

 

「誤解してるな。言っておくが、アンタを斬り捨てたいくらいには怒りで理性が吹き飛びそうだ」

 

 茶化すように笑っているが目は違う。グリセルダも背筋が凍る程にキリトの眼差しにはギリギリの理性で止められた憤怒が宿っていた。

 

「それに、後は答え合わせだけのはずだ。アンタの目的は復讐だ。麻薬によって廃人同然になったギャラクシーオレンジの……そして、彼の作ったギルドを汚した『仲間』と守り切れなかった自分自身に対しての……な」

 

「どういうことかしら?」

 

「そもそもの疑問の出発点はギャラクシーオレンジだった。最初は麻薬アイテム素材で得た大金で浮かれて麻薬アイテムを使い過ぎただけかと思ったよ。でも、調べてみたら違った。ギャラクシーオレンジは甘蜜の水金の中毒者だった」

 

 キリトの言葉にコーンロットの顔から表情が抜け落ちる。必死になって溢れそうな感情を我慢しているのだ。

 

「ここからは俺の想像も混ぜる。間違いがあったら指摘してくれ。そもそもの発端は偶然にも麻薬アイテムのレシピが『出来てしまった』ことだった。それまではアンタたちも普通の……腕の立つ狩猟ギルドだったんだろうな。だけど、誰かが思いついてしまった。麻薬アイテムのレシピを犯罪ギルドに売りつけ、更には素材を卸すことで大儲けしようってな」

 

「…………」

 

「だが、ギャラクシーオレンジは反対した。そんな真似をすれば『裏』と深い関係を持つことになるし、何よりも多くの犠牲者が出ることになる。誰が言い出したのかしらないが、計画はお流れになった。せいぜいが酒の席で出た大口程度で禍根にもならなかったんじゃないか?」

 

「…………」

 

「だけど実際は違った。リーダーの目から隠れて計画を進めていた。犯罪ギルド……ヴェノム=ヒュドラと接触して商売を持ち掛け、素材を卸す飲食店も決定した。素材をバラバラの飲食店に卸すようにしたのはリーダーの目を誤魔化す為か」

 

「…………」

 

「ギャラクシーオレンジも最初は気付かなかったんだろうな。もしかしたら、麻薬アイテムだからとレシピの素材をろくに見ていなかったのかもしれない。もしかしたら、それを知ってて素材集めをリーダーにもやらせて、後々になって言い逃れできなくしてから巻き込もうって計画だったのかもしれない。共犯にしてしまえば悪に堕とすのはずっと簡単になるはずだったからな」

 

 キリトの語りにコーンロットは反応を示さない。その沈黙こそが何よりも重く、また真実をなぞっているとグリセルダに実感させた。

 

「アンタはグルメ・クルセイダースの金庫番だ。真っ先に計画の1部になったはずだ。アンタ無しでは『共犯』させるまでにリーダーの目を誤魔化しきれないからな。だが、ギャラクシーオレンジは馬鹿じゃなかった。アンタのつけていた帳簿に違和感を覚えた。最初は卸し先が増えたから程度に思っていたのかもしれない。でも、やがて違和感は確信に変わった。自分のギルドが麻薬に関わっているってな!」

 

「…………」

 

「調べたよ。先のアップデートで、アンタたちは多額の『見えない負債』を抱えていた。卸す食材を多量に倉庫で抱えていたのに廃棄処分だ。換金性のある高級食材ばかり扱っていたのが仇となった。契約先に品質を保った食材を卸せなくなって違約金の支払いを命じられていたんだろう? 酷いよな。あんなアップデートが来るなんて誰にも分からなかったはずなのに。契約先はアップデートのダメージを少しでも和らげるために、アンタたちから契約違反でむしり取ることにしたんだ」

 

「どうやって、そこまで……」

 

「蛇の道は蛇。食の道も同じだ。同業者から教えてもらったんだよ」

 

 綺麗に言い当てられたからか、困惑を隠せなくなったコーンロットに、キリトはテーブルの上で両手を組んだ。

 

「狩猟ギルドとは聞こえはいいが、装備を整えるのにも金がかかる。違約金だけではなく、ギルドの運営自体も困難に直面した。麻薬アイテムに手を出したのはそうした理由もあったんだろうな。大儲けしたいだけじゃなくて、ギルドの存続の為でもあった。そう……『最初』はな」

 

「……アンタの言う通りだ。計画を思いついたのは副リーダーのレモネーだった。レシピを作ったのは俺だよ。ギルドでは戦闘で特に秀でていたわけじゃなかったからサポート役で、軽い気持ちで≪薬品調合≫で素材を混ぜ合わせたら偶然にも出来てしまったんだ」

 

 好奇心が無ければ何も生まれない。コーンロットにとっては野営中の暇潰し程度だったのかもしれない。だが、それこそが悲劇の幕開けだった。グリセルダはシノンを傍らに壁にもたれかかって腕を組み、ひとまず話に耳を傾ける。

 

「俺は何をやらしても60点みたいな男さ。それなのに食い意地だけは張っていて、だからDBOは……本当に地獄だった」

 

 DBOの食事情はお粗末なものだ。現代人の肥えた舌にはつら過ぎる。財力さえあれば現代の味覚も味わえないこともないが、そもそも食材もレシピもないといったこともあり得るのである。

 グリセルダは日々のやりくりで食費を確保し、ユウキとのレシピ開発に余念がなく、なおかつ様々な伝手で香辛料をお得意様価格で得ているが、他ギルドの『自炊』は決して良いものではない。

 

「そんな俺を拾ってくれたのが……ギャラクシーさんだったんだ」

 

「……だから、アンタは計画に協力したんだな? ギャラクシーオレンジが作ったギルドを守る為に」

 

「違約金自体はギルドハウスも装備も売却すれば何とか準備できる額だった。ギャラクシーさんはギルドを畳むことになっても真っ当に支払おうとしていた。だけど、俺は……ギルドを失いたくなかった。レモネーは知ってたんだ。俺がレシピを捨てずに持っていたことを。情けない話だ。何もできない……何も作れない男が偶然にできた、途方もない額がつくレシピをトロフィーみたいに大事に持っていたなんてよ」

 

「そして、悪魔の計画に乗った」

 

「ああ。レシピだけを売り捌いて終わりにしたかったけど相手は犯罪ギルドだ。バラされたくなければ素材集めに協力しろって脅してきた。それに、レシピを売った金だけでは違約金も支払いきれなかったからな。仕方ないって繰り返して、いつの間にか沼から抜け出せなくなっていた」

 

 同情する気はない。だが、世知辛いものだ。グリセルダは嘆息する。DBOには法の秩序がなく、治安維持機関もない。だからこそ、箍が外れてしまう者はいる。1人いれば、それは瞬く間に波及していき、全体に蔓延していく。まるで疫病のようだ。

 

「ギャラクシーさんが気づいた時には全てが遅かった。他の連中はすっかり金の魔力に魅入られていた。自分たちは素材を……いいや、『食材』を売っているだけって言い訳ができたんだろうな」

 

「でも、アンタは違った。ギャラクシーオレンジの目を誤魔化す為に帳簿を偽るだけじゃない。入ってくる大金の管理までしていた。アンタにはいつも……恩人に対する裏切りの罪悪感があった」

 

 キリトの指摘にコーンロットは苦笑で返す。その度に彼の両目に灯るのは在りし日の……悪事に手を染めなかった頃のギルドか。

 

「ギャラクシーさんに問い詰められて……嘘は吐けなかった。ギャラクシーさんは『自分も同罪だ。みんなで自首して、これ以上の犠牲は出さないようにしよう』って言ってくれた。俺は自分が大きな間違いを……恩人を悲しませることをしていると、やっと自分を誤魔化していた言い訳を捨てて受け入れることができた」

 

「アンタは……アンタは『間違いを正す』ことを決めた。でも、他の連中は違った」

 

「……ギャラクシーさんは無関係だ。俺達だけで自首しようってレモネーに相談したんだ。そしたら、あの女……ギャラクシーさんを……!」

 

「なるほどな。ギャラクシーさんは麻薬漬けにされてしまった。もしかしたら、それだけじゃなくて精神が壊される程に拷問もされたのかもしれないな」

 

「ヴェノム=ヒュドラの連中は容赦がなかった。レモネーは2人っきりで話したいって連れ出して、数日と経たずしてあの様だ。ヴェノム=ヒュドラは俺のレシピを更に改造して、レモネーは最高品質の『食材』を提供してやがった。麻薬アイテムと拷問で……ギャラクシーさんを廃人に変えちまったんだ!」

 

 酷い話だ。堕ちてしまったコーンロットを引き上げたギャラクシーオレンジは、リーダーだけは巻き込みたくないと願った彼の『密告』によって廃人に変えられてしまったのだ。

 ギャラクシーオレンジは人が好過ぎたのだろう。自首など考えずに通報すべきだったのだ。元より自分も罪を被る覚悟だったならば猶更だ。だが、彼は仲間の胸にまだ人の心があるはずだと信じたのだろう。そして、事実としてコーンロットは心の底から自首を決意したからこそ、レモネーの罠に嵌まってしまった。副リーダーともなれば、付き合いの長さはもしかしたらレモネーが1番だったのかもしれない。

 だが、信じた心は最悪の形で裏切られた。ギャラクシーオレンジは心を麻薬アイテムと拷問によって破壊され尽くした。殺されなかったのは、もしかしたらレモネーに残っていた僅かばかりの恩情だったのかもしれない。だが、それが逆にコーンロットの怒りに火を点けてしまったのだとグリセルダにも想像できた。

 

「レモネーは笑いながら言いやがった。『これでバレる心配がなくなった』ってな。俺はギャラクシーに問い詰められて弱気になっているだけだと勘違いされて……見逃されたよ。いいや、咄嗟に演技してレモネーを上手く騙したんだ」

 

「……レモネーを殺したのはアンタだな?」

 

「ああ。高く売れそうな新しいレシピができたから、儲けは俺達だけで山分けしようって誘えば1発だった。あの女は骨の髄まで金に毒されていたからな! 嬉々と急ぎ足で現れた時は笑いを我慢するのが大変だったぜ!」

 

 これで謎が1つ解けた。彼女は自分の意思で死地に赴いたのだ。それがコーンロットの罠だったとも知らずに。

 

「地下ダンジョンに呼び出して背後から頭から叩き斬ってやったよ。レモネーは俺よりもずっと強かったが、油断して背後から襲えば思っていたよりも簡単だった」

 

「アンタにとって予想外だったのは、≪朋友探知≫でレモネーさんの反応の消失を他の仲間に知られていたことだ。待ち伏せしていたアンタも、まさか仲間とすぐに分かれて現れるとは思わなかった」

 

「まさかレモネーがあんなにも慕われていたとはなぁ。まぁ、アイツが実質的にヴェノム=ヒュドラとの交渉も受け持っていたし、計画を主導したもアイツだ。当然か」

 

「傭兵を雇ったのはレモネーの死を立証する為か。アンタは自分にレモネー殺害の疑惑が及ぶことをなんとしても避けたかった。まだ復讐は終わっていなかったんだからな」

 

「ああ。お涙頂戴の演技も頑張ったし、レモネーを殺した時に遺体から装備を剥ぎ取っておいたから闇市場に流せば、後は思い通りに事は進んだよ」

 

「誰なのよ。そんないいように利用された傭兵って……」

 

「「「エイリーク」」」

 

「あの……馬鹿!」

 

 同じ傭兵の恥晒しだと言わんばかりのシノンにグリセルダ、キリト、コーンロットの3人の声が重なった。彼女は顔を押さえて項垂れる。何かと自分にアプローチをかけてくる独立傭兵の馬鹿さ加減に呆れ果てたのだろう。

 コーンロットは依頼料から独立傭兵のエイリークを選定したことになっているが、もしかしたら突撃馬鹿の彼ならば、不慣れの調査依頼で上手く誘導できると踏んだのかもしれない。彼が闇市場で遺品を発見できたのも、グルメ・クルセイダースに事情聴取した時にコーンロットがそれとなく入れ知恵したからかもしれなかった。

 とはいえ、まんまと利用されたエイリークは傭兵の恥……とはグリセルダも恩情で断じきれない。なにせ利用されてばかりの傭兵こそが彼女のマネジメント対象だからだ。

 

「ま、まぁ、エイリークは戦闘専門だし、彼に落ち度はないってことで……」

 

 さすがのキリトもフォローを入れる。グリセルダはこの場にいないエイリークに同情の念を禁じ得なかった。

 

「レモネーの死に場所を地下ダンジョンに選んだのは、ヴェノム=ヒュドラが拉致に使ってる話を、他でもないレモネーから聞いていたからだ。万が一、レモネーの足取りがバレたとしてもギルドの連中に『レモネーはギャラクシーさんの件でビビってた。自分だけ助かろうと自首していたから粛清されたんだ』って言えば納得させられるって踏んだ保険だったんだがな」

 

「アンタの復讐はレモネーの殺害が始まりだった。ギャラクシーオレンジを廃人にした実行犯であるヴェノム=ヒュドラも含めた、麻薬アイテムに関わった全てだった。そこでアンタが目を付けたのが……クーだった」

 

「計画を練っていただけど最後の1ピースが足りなかったからな。ヴェノム=ヒュドラを確実に破滅させる方法を! だけど、ラストサンクチュアリ壊滅作戦の生放送を見て確信した!

 そう……【渡り鳥】なら必ず殺し尽くしてくれると!」

 

「だから、もう1度レモネーの失踪調査を依頼した。クーに真相に辿り着かせ、依頼主である自分の裏切りを気づかせ、背後のヴェノム=ヒュドラを壊滅させるために」

 

「それは少し違うな。予定では【渡り鳥】が地下ダンジョンに入った時にヴェノム=ヒュドラに手頃な獲物がいるって連絡して襲わせる計画だったんだ。ほら、【渡り鳥】ってあの容姿だろ? スラムを探るなら依頼中は変装もするだろうし、暗がりの地下ダンジョンなら見間違う。襲わせれば、後は報復で……って手筈だったんだけどな。まさか【聖剣の英雄】と協働するなんて予想外だ。アンタたち、殺し合ったはずなのに、なんであんなにも仲がいいんだよ?」

 

 ご尤もだ。傭兵とは昨日の協働相手が今日の敵もあり得るとはいえ、あれだけ派手に殺し合っていながら、キリトとクゥリがまるで何もなかったかのように友人関係を維持できるのはグリセルダにも理解できない。

 

「詰めが甘いわね。幾らクーでも女と間違えられて襲われたからって、犯罪ギルド1つを潰すような真似するわけないじゃない」

 

 シノンは馬鹿々々しいと鼻を鳴らす。だが、グリセルダはそれこそが間違いだと首を横に振った。

 

「キリトくんやシノンさんはクゥリ君と親交があるから言い切れるのよ。でも、世間は違う。【渡り鳥】といえば『見境なく敵も味方もなく殺し尽くすバケモノ』って認識なのよ」

 

 それは他でもないグリセルダがよく理解している。ヘカテがどれだけの依頼を却下しているかも彼女は把握済みだ。そのほとんどが【渡り鳥】なら殺してくれる、破壊してくれる、台無しにしてくれるといった、破滅的な依頼ばかりだ。もちろん、そんな依頼のほとんどは処分され、なおかつ依頼者は危険人物リスト行きであるが。

 

「違うのか?」

 

 そして、この場で認識を否定されて最も驚いているのはコーンロットだった。当たり前だと吐き捨てたいグリセルダは、だがキリトから放たれる怒気に気圧される。

 

「クーが殺すのは……自衛か依頼を果たす為だ」

 

 静かに、感情を殺した声でキリトは呟く。それだけで十分とばかりにコーンロットの顔が引き攣る。

 ほら、やっぱり感情的になるタイプ。グリセルダは改めてキリトへの評価は正しいと判断した。彼は理性よりも感情を優先する。ここぞという時に、依頼よりも自分の意思を優先した判断を下す。良くも悪くもライドウと同類であり、クゥリと真逆だ。

 

「……【渡り鳥】だけで壊滅できると思っていなかった。1番は麻薬アイテムの件が明るみになることだ。本当は手がかりになる情報を色々と準備していたんだけど、まさか卸していた『食材』だけで看破されるなんてな。侮ってたよ」

 

 コーンロットにとって予想外その2はヨルコの存在だ。彼女がいなければ、キリトの協働で乱された彼の計画も軌道修正されていたのだろう。

 

「俺達とヴェノム=ヒュドラの繋がりを【渡り鳥】に掴ませて、グルメ・クルセイダースは仲良く皆殺し……って予定だったんだけどな。上手くいかないもんだ。いや、そもそも最初から破綻したんだな。アンタの言葉通りなら、【渡り鳥】はそもそも俺達を皆殺しなんて――」

 

「いや、クーなら皆殺しだな」

 

「確定ね」

 

「あら、失礼ね。手足を千切る程度で情報源として生かすはずよ。その後は死ぬでしょうけどね」

 

「…………」

 

 コーンロットの虚無の表情に、グリセルダも気持ちは分からない事もないが、矛盾することはないのだ。自衛や依頼の範疇でしか殺害しないが、裏切りは『自衛』の範囲内である。降りかかった火の粉を焼き尽くすのがクゥリの流儀なのである。

 

「これで謎は解けた。アンタがだんまりを決め込んでたのは、最後の復讐対象である自分を裁く為か」

 

「俺が計画に乗っていなければ、もっと早くに罪の大きさに気づいていれば、レモネーに喋りさえしなければ、ギャラクシーさんはあんな姿になることなんてなかった。それに復讐を優先したせいで犠牲になった人もいるしな。俺は惨たらしく殺されないといけない。【渡り鳥】が現れなかったから、だったらギャラクシーさんと同じように拷問で……そう思ったんだ」

 

 だから投降しながら謎の黙秘を続けたのか。納得したグリセルダは、キリトによって背景を暴かれた今ならば全てを明かすことができるはずだと詰め寄る。

 

「貴方はまだ把握していないだろうけど、望み通りに……いいえ、それ以上にヴェノム=ヒュドラは追い込まれている。3大ギルドと教会が総出でお灸を据えるわ。立ち直る前に他の犯罪ギルドの食い物にされるでしょうね」

 

「3大ギルドまで? 話がデカいな。俺が知っていた以上にヴェノム=ヒュドラはやり過ぎていたみたいだな」

 

「アンタは復讐を優先して犠牲が増えたことを理解してる。だったら、もうこれ以上の罪を重ねるな。ここで喋れば、その分だけ救われる人がいる。拉致された人々が何処に監禁されているのか教えてくれ」

 

 なるほど。そういう事か。キリトは3大ギルドが牽制し合ってコーンロットから情報を引き出せない内に、先手を打って拠点を割り出して襲撃するつもりなのだ。もちろん、シノンがいるとなると彼を唆した、あるいは彼の計画に乗った組織……教会と太陽の狩猟団がいるのだろう。

 

「……ギャラクシーオレンジは教会がこれからも継続して治療を続ける。これで憂いもないはずだ」

 

「本当か?」

 

「今ここで証明する手段はない。だけど、俺を信じてくれ。嘘はつかない」

 

「…………」

 

「アンタが欲しているのは罰だ。でも、その為にこれ以上ギャラクシーオレンジを悲しませるのか? いつか正気を取り戻した時……仲間に裏切られて、復讐に走ったアンタも死んで、その上に復讐のせいで余計に死んだ、苦しんだ、悲しんだ人がいるって……そう泣かせるのか!?」

 

「…………」

 

「違うだろ!? アンタがすべきだった本当の復讐は……この事件を……ヴェノム=ヒュドラの悪行を正すことだ! そして、いつの日かギャラクシーオレンジに、自分は『間違いを正すことができた』って伝えることだろ!?」

 

 キリトには『信用』はなくとも『信頼』はある。自分の武器を理解しているのかいないのか、自分を信じろという言葉1つでコーンロットは口を閉ざし、俯き、涙で頬を濡らした。それだけで十分だったのだ。

 

「……奴らはまず小さな商業ギルドを買収して客に近づき、最初はグレーなものを売って、見込みのあるやつにはどんどんヤバい商品を紹介していく」

 

 力なく椅子の背もたれに体を預けたコーンロットは、だが何処か健やかさを感じる無気力さで湿った声で話し始める。

 

「行き着く所まで行って引き返せなくなるくらいに真っ黒な世界に嵌まった奴に、最後に紹介する商品が『人間』ってわけだ。金を持ってる客ばかりだから隠しの別荘の1つや2つ持っているが、ゲストハウスも貸し出ししてる。ウチはレシピや素材の件でヴェノム=ヒュドラともズブズブの関係だったからな。その関係で安くゲストハウスを使わせてもらっている奴がいた」

 

「ゲストハウスね。そうなるとヴェノム=ヒュドラと仲良くやってるクズは不動産関係にもいるみたいね」

 

「……協力した連中の掃除は後からだ」

 

「分かってるわよ」

 

 シノンが義手を鳴らせば、キリトは引き出したい情報には順番があるとコーンロットに続きを求める。グリセルダも同意見であるが、不動産関係の清掃は急務だった。なにせ、クゥリは現在進行形で住居を探しているのだから。

 

「レモネー達やヴェノム=ヒュドラを騙す為にも同類になるべく振舞って近づいたが、奴らは相当に慎重だ。幾つも中間を挟んで、いつでも切り捨てができるようにしてる。拉致の実働にしても運搬にしてもそうだ。もしかしたら、末端は定期的に『入れ替え』もしているかもな」

 

「人が増えた分だけ命も軽くなってるわね」

 

「人の命の重みはいつだって同じだ。差をつけるのは人の心だ」

 

 命の重みは同じだとしても、赤の他人と親しい人を天秤にかけて選ぶのは人の心である。決して全ての命は平等だと言い切らないところにキリトらしさを覚えたグリセルダは、クゥリが彼と親しくしている理由を1つ把握した。

 命は平等であっても差異を付ける己がいる。そして、それを恥じる様子もない。開き直りとも違う、真っ直ぐと貫き通された傲慢さだ。そして、命は平等と口にすることこそが、命を天秤にかけて選び続けることに苦しみ続ける業すらも感じる。

 彼に聖者の資格はないのだろう。だからこそ人間らしい。聖者になるとは心と在り方が神に近づくことなのだから。

 グリセルダは自然とキリトに心を許している自分に気づき、これもまた彼の持つ力……人を惹きつける魔性と呼べるものなのだろう。ユウキもユウキで魔性の女っぷりを発揮する節があるが、どうやらクゥリが好んで接するタイプには思わぬ共通点があるようだ。

 

「連中には必ず監督役がいる。『商品』の持ち逃げや密告を防ぐ為にな。ウチはヴェノム=ヒュドラを大儲けさせていたし、信用もあった。だから監督役から酒を持って接触してきたのさ。出世か儲けの種でも欲しかったんだろうな。なんか『すんごい媚薬』のせいで娼館で蔓延させる計画も失敗したとか愚痴を零してたな」

 

「……すんごい媚薬か」

 

「キリト、真面目になりなさい」

 

「お、俺はいつだって真面目だ! それにすんごい媚薬については娼館で麻薬を駆逐したのはもう情報を得ているしな!」

 

 あら? シノンから嫉妬にも似た感情を察知し、キリトも罪な男だとグリセルダは面白がる。どうやらこの2人、友人・同業者と思っているのはキリトだけで、シノンの方は自覚があるのか無いのか、それ以上の関係に進展したい願望があるようだった。

 ……これ、地雷案件じゃないの? そして、グリセルダは更に気づく。キリトの元マネージャーであるシリカが猛烈アプローチを仕掛けている件も、仮面の剣士時代から決して少なくない女性プレイヤーにロックオンされている件も、それとなくキリトについて尋ねる度にクゥリの目線が何処か遠くなるのも、彼に潜在的な……それも女性関係に関する何かがあるからではないだろうか。

 だが、今は追及すべき時ではない。グリセルダは先程までの真面目な雰囲気を崩されかけて目線が泳いでいるコーンロットに助け舟を出す。

 

「その時に何か重要な情報を得たのね?」

 

「……ニオイだ。奴からはいつも海の香りがした。この辺で海と言ったら終わりつつある街から南方にある霧の海だな」

 

「あそこはダンジョンを除けば海原と崖1つない緩やかな平原よ? 隠れる場所なんてないわ。ダンジョンにしても、駆け出し連中の修行場と登竜門として大ギルドの管理下にあるし、探索され尽くしているから、とてもじゃないけど隠れ家になんてできない」

 

 シノンの指摘の通りだ。グリセルダたちがメガフロートを建設する程度には何もない海である。隠れる場所など何処にもない。

 

「やっぱり地下じゃないか? 終わりつつある街や周辺は無数の地下道で繋がっているしな」

 

 ラストサンクチュアリの拠点だった白の都が建設されていた湖の底に抜け道があったように、知られていない地下道が無数とあってもおかしくない。キリトの指摘はおかしくないが、それでも弱い。グリセルダは思案し、今ある情報を整理する。

 そもそも大ギルドがターゲットにした以上はヴェノム=ヒュドラの拠点が全て暴かれるのは時間の問題だ。今回はその時間こそがカギを握るからこそ正確な情報が求められている。いずれの大ギルドも足並みを揃えているが、それは広報向けに過ぎず、裏を掻いた主導権争いも勃発しているはずだ。

 この場にはシノンがいる。グリセルダが手を貸せば太陽の狩猟団寄りと判断されかねない。グリセルダが悩んでいると彼女の内心を察したのか、キリトは肩を竦める。

 

「シノンはあくまで『個人的興味』で俺に付き添ってるだけだ。ここで得た情報を太陽の狩猟団にリークはしない。まぁ、シノンの力は借りたいし、俺が情報をバラすだろうけど、グリセルダさんの関与まで明かさないさ。コーンロットさんも、見張りの人たちもね」

 

 グリセルダが見張りを買収して尋問しているのは承知済みなのだろう。彼女も彼女でコーンロットから情報を得たら大ギルドに競売をかける予定だった。ここはキリトに協力し、クゥリの負担を減らすのも悪くないだろう。

 

「……あくまで『噂』だけど、地下ダンジョンには複数の転移ポイントがあるらしいわ。チェーングレイヴが武闘派だとしても、単独で大ギルドの上位プレイヤーと肩を並べられるレベルや装備をメンバー全員が整えられるのはおかしいでしょう? アルヴヘイムのように想起の神殿以外にしか入口がないステージもあるし、信憑性は高いわ」

 

 というよりも確定情報である。ユウキだけではなく、チェーングレイヴのリーダーや幹部にはグリムロック製の武器を提供している。彼曰く『面白味の欠片もない武器』とのことであるが、だからこそグリムロックらしさが無いお陰で提供していることもバレてはいない。チェーングレイヴには様々な配慮をしてもらっている代わりに相応の見返りも差し出しているのだ。そうでもなければ、クゥリに近しいだけでユウキの装備開発を請け負うなどグリムロックは許してもグリセルダは認めない。

 グリセルダからチェーングレイヴに連絡すれば海に関する情報は得られるだろう。だが、キリトはそれだけ聞ければ十分だと立ち上がる。

 

「アンタの罪は重い。でも、身柄は教会が預かれるように尽力する。司法取引なんてDBOには存在しないけど、だからこそアンタの協力は罪を軽くするはずだ。償いには時間もかかるだろうけど、元に戻ったギャラクシーオレンジを迎えられるように、俺も応援する」

 

「……ありがとう」

 

「構わないさ。俺だって……罪人だ。だから仲間が欲しいだけだ。罪を償いながら生きるのは俺だけじゃないって、アンタにも支えになってもらいたいんだよ」

 

 許しはしない。だが裁きもしない。自分はそこまで偉くもなければ清らかでもない。キリトがコーンロットに向けた笑みに多くのものを感じ取る。

 ああ、そうか。彼が『英雄』と呼ばれる本当の理由はこれか。グリセルダは座敷牢を去るキリトの背中に、彼ならば闇を切り裂いて光が溢れる世界に辿り着けるのかもしれないという期待を抱く。 

 キリトが背負う罪を知りたいとは思わない。クゥリが友と呼ぶ相手の弱みまで探りたくない。それがグリセルダの線引きだ。たとえ知略と謀略を駆使して立ち向かうとしても、たとえ将来的に不利になるとしても手を出してはならない領域を弁えている。

 

「クゥリ君を利用したことをその命で償わせてやりたいくらいよ。でも、あの子はきっと貴方の全てを受け入れる。キリト君と違って、罪も罰も関係なく、貴方の破滅的な復讐心さえも認めて受け入れる。だから、私は許すことなく貴方を罰するわ。『何があろうと生き抜きなさい』。足掻いて、足掻いて、足掻いて、自分が犯した罪に苦しみ続けながらね」

 

 キリトとシノンが立ち去った後、座敷牢に残したコーンロットにそう言い残したグリセルダは、あとはクゥリの帰還を待つだけだとサインズ本部のロビーに立つ。あの様子だとキリトはクゥリが襲撃する前にヴェノム=ヒュドラに痛烈な一撃を与えるつもりなのだろう。たとえ、それが教会や太陽の狩猟団の目論見通りだとしてもクゥリをこれ以上巻き込まないならば、グリセルダとしては万々歳だ。

 

「あれ? グリセルダさんがどうしてここに……」

 

 と、グリセルダは軽く跳ねて宙を浮きそうになる。振り返れば、此度の騒動で徹夜確定だろうヘカテだ。その両腕には多量の書類を抱えている。

 ヘカテはサインズ職員として誇りを持っている。買収には決して応じない。むしろ、見張りに金と現在最もプレミアがついている『すんごい媚薬』を握らせて尋問の時間を得た彼女に激怒するだろう。

 下手な言い訳は許されない。どうにかして誤魔化そうとしたグリセルダに、ヘカテは疑惑の眼差しを向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クゥリさんなら出発しちゃいましたよ? 現地のサポート要員がいるにしても、マネージャーとして今回は現地まで赴いた方がいいんじゃないですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 この娘は何を言っているのだ? ヘカテが何を言っているのか理解できないグリセルダは思考が停止する。

 

「確かにクゥリさんの強さは傭兵でも群を抜いています。でもあくまで1人なんですから、大多数の敵を相手に無謀な真似をさせるなんて、担当として推奨は――」

 

「何を言ってるの? 私はクゥリ君に新しく何の依頼も許可していないわよ?」

 

「……え? でも、確かにクゥリさんはさっき……」

 

「クゥリ君はどうしたの!?」

 

「ちょ、待ってください! 私も何が何だか……! だってグリセルダさんが承認を私の前で……だから私……!」

 

 ヘカテの両肩を掴んで揺さぶれば、彼女たちの足下に書類が舞い散る。騒ぎを聞きつけた他のサインズ職員も集合する。

 

「ねぇ、何の騒ぎ?」

 

「あ、ルシア! 貴女も見ていましたよね!? グリセルダさんが依頼の承認をしたところを!」

 

 3大受付嬢の1人であるルシアは顎に手を当て思案するとヘカテに同意するように頷いた。

 

「後ろ姿だけだったけど、確かにグリセルダさんだったかな? ラビズリン! 確かあの時、ヘカテの隣にいたよね?」

 

 カウンターでヘカテが運んだ3倍はあるだろう書類の塔に囲われた3大受付嬢のラビズリンは、殺気立った眼を向ける。

 

「アンタ、この仕事の山で誰が来たか一々確認できると思う?」

 

「ごめん」

 

「あー、でも確かに来てたかもね。あれ? でも、なーんか違和感があるような……」

 

 ラビズリンは倒れそうな書類を手で押さえながら、眉間に皺を寄せる。彼女の言葉に呼応するようにヘカテもルシアもジロジロとグリセルダを観察する。

 

「グリセルダさん……着替えました?」

 

 ヘカテの一言に、納得したようにラビズリンはそれだと頷き、ルシアも両手を叩く。

 

「それね! さっき来たグリセルダさんは赤色の派手なスーツでもっとスカートが短かったし!」

 

 グリセルダの今日のスーツはピンク色とはいえ落ち着いたデザインである。赤も持っていないことはないが、滅多に着ることはない。

 いや、それよりも重要なのは彼女たちが赤色のスーツを着たグリセルダと顔を合わせ、しかも仕事の請け負い処理を済ませたという点だ。

 

「クゥリ君が請け負った仕事は何!?」

 

「え? クラウドアース系列の【ビート・スターズ】経由できた……潜入依頼です。その、クゥリさんの仕事って……代理のギルドを経由したものも多いですし……さっきの仕事の続きかと……」

 

「いますぐ書類を見せなさい!」

 

 グリセルダが奪った依頼申請書には確かにクラウドアース系列のビート・スターズの複製できないギルドサインが入っていた。そして、グリセルダのサインもある。

 

「どうして私の『プレイヤーサイン』が!?」

 

 ギルドサインと同じくプレイヤーサインも複製・偽装ができない。

 ヘカテはサインをタッチする。プレイヤーサインをタッチすれば、個々に割り振られたプレイヤーナンバーが表示される。システムウインドウに記載されているのは、サインズにも登録されているグリセルダのプレイヤーナンバーだ。

 

「貸してみなさい」

 

 カウンターから飛び出してきたラビズリンは書類を奪い取ると目を細め、やがて舌打ちした。

 

「……やられた! ヘカテ、アンタは目の前でプレイヤーサインが記載されるところを見た?」

 

「み、見ました」

 

「そう。でもね、これ……偽装よ。正確に言えば、サイン部分が『切り貼り』されてるわ! アンタ、確か処理中に私の書類の山が倒れそうになったのを支えたわよね! その時、目を離さなかった!?」

 

「一瞬だけ……でも……そんな……!」

 

 ラビズリンの指摘通り、巧妙ではあるが、依頼申請書のサインする部分が切り取られている。普通ならば気づくだろうが、敢えて書類自体に小さな皺を持たせて境目を誤魔化すだけではなく、職人技だと言わんばかりに繋ぎ目には糊の後すらも見受けられない。

 だが、それでもラビズリンが見抜けたように、決して完璧ではない。そう、事件の影響で仕事を山積みされていない平時であるならば……だ。

 

「目の前でサインを書いたところを見せた上で、私の書類をわざと崩してヘカテの目線を一瞬だけ外して書類をすり替えた。まさか目の前で堂々と書かれたサインが偽物なんて疑わないし、タッチして確認しても本物のプレイヤーナンバーが表示される。心理と物理、両方から騙すなんて、やってくれるじゃない」

 

「本当ね。つまり、私たちが見たグリセルダさんは……偽者? でも、サインズ本部では≪変装≫スキルが使えないわ!」

 

 ルシアの動揺も仕方がない。サインズ本部は依頼主の偽装を封じる為に高額を投じて≪変装≫スキルへのカウンターセキュリティが設定されている。もちろん、高熟練度ならば突破することもできるが、≪変装≫は最も看破しやすいスキルである。対策を練っているサインズでは不可能だ。

 

「≪変装≫以外に顔も体格も真似る方法があるという事でしょうね。それこそ、私もサインズも知らない方法が……!」

 

 グリセルダの指摘に周囲は騒然とするが、今はどうやってグリセルダの偽者が入り込んだかよりもクゥリの安否が重要だ。

 私のサインを何処かから入手して偽装書類を作った? だが、ギルドサインは本物だ。こちらは切り貼りで偽装されていない。もちろん、ギルドサインを書いて放棄された途中依頼書という線も無くはないが、そもそもギルドサインは最後にするのが通例だ。考え難い。

 ヘカテはすぐに依頼主であるビート・スターズに連絡を取る。だが、どうやら通じないらしく首を横に振る。

 

「クラウドアースに連絡して、すぐにビート・スターズのギルドハウスを包囲して確保をするわよ!」

 

「…………」

 

「ヘカテ! 呆けてる場合じゃないわよ! アンタの担当でしょうが!」

 

 呆然とするヘカテの頬にビンタして喝を入れたラビズリンの怒声で、事態を呑み込めなかった他のサインズ職員も動き出す。

 

「そうね。まだリカバリーできるはず! ごめん、ラビズリン!」

 

「いいのよ。まったく、世話の焼ける同僚なんだから」

 

 サインズ職員が走り回る中で、グリセルダは偽装された依頼書を改めて確認する。

 内容はこうだ。クラウドアースが手配した内通者によって『女性プレイヤー』に擬態して連行され、本拠地に乗り込む。そして、合図があり次第、内部より攪乱し、本体の突入を支援するというものである。

 

「待って。あの子なら私に連絡を取る……はず……よ! でも、メールなんて1通も……!」

 

 いいや、違う。クゥリならばもしかせずともと思ったが、メールは来ていた。だが、地下は座敷牢もある関係であらゆる連絡手段が取れない。彼女が出るまでメールは受信されたことにはならないのだ。

 相手はこちらの動きを完璧に掴んでいる。それも秒単位で把握され、敵は高度に連携を取っているのだ。

 

「お願い……出て……出て……お願いよ!」

 

「無駄よ。私も今回の事件についてあまり聞かされていないけど、拉致した女性プレイヤーを『商品』として売り捌いているような連中でしょ? 彼女たちが助けを求められないようにフレンドメールから何から何まで連絡手段を封じているはず。アイテムや装備の類でも考え付くだけでも両手も指の数でも足りないわ」

 

 珍しく動転したグリセルダに、ラビズリンは無情に切り捨てる。だが、彼女は怒りで唇を噛んでいる。そもそも騙された自分たちの責任を感じているのだ。グルメ・クルセイダースの件も含めれば、これでサインズは2度目の失態を繋がった事件の内で重ねたことになる。

 

「今……クラウドアースから連絡がありました」

 

 フラフラとヘカテは体を揺らしながらグリセルダの前に現れ、貧血を起こしたように両膝をつく。

 

「ギルドハウスで、ビート・スターズの……遺体が……発見されたそうです。特にギルドサインの権限を持つリーダーは……酷く拷問された形跡がある……と」

 

「譲渡や回数限定でも認可ならメンバー内ならできる。というか、皆殺しなら外部犯で間違いないわね。でも、ビート・スターズは少人数とはいえクラウドアースにも信を置かれる精鋭揃いじゃない! 彼らが皆殺しなんて……!」

 

 親指の爪を噛んだラビズリンの苛立ちに、更に悲報があると言わんばかりにルシアが駆け寄る。

 

「う、上がこの件に箝口令を敷くって……! クラウドアースも依頼権限を持つビート・スターズのギルドサインが利用されたなんて不祥事、隠したいんだろうけど……でも!」

 

「私はサインズの職員でもないし、クラウドアースでもない。勝手にやらせてもらうわ」

 

 まずはキリトに連絡だ。動揺してすっかり頭から抜けていたが、彼に連絡しておかなければならない。フレンドメールを送って緊急事態を知らせようとしたグリセルダの右腕を何者かが掴む。

 

「誰に連絡を取るつもりか知らねぇが、やらせねぇよ」

 

 酷く不機嫌な面をしたレックスだ。傍らには無表情の虎丸もいる。

 

「クラウドアースから緊急依頼が入ってね。グリセルダさん、貴女をビート・スターズ殺害の重要参考人としてクラウドアース支部まで移送する」

 

 虎丸の全く感情が籠っていない発言に、彼らも嫌々ながらも専属先であるクラウドアースに従っているのだと理解した。

 

「……どういうつもり?」

 

「偽装されたとはいえアンタのサインだ。丁重に扱わせてもらうが、抵抗するようなら『容疑者』に格上げしろだとよ」

 

「僕らも今回の事件については既に情報を仕入れている。まだ見ぬ素晴らしいちっぱいがクズ共のせいで失われたと思うと腹立たしいよ」

 

「虎丸、こんな時におっぱい戦争を起こす気か? 時と場所くらい選べよな」

 

「これは失敬。冗談でも平常運転でなければ、キミが暴走しそうだし、僕なりの配慮のつもりだったんだけど、要らない世話だったみたいだね」

 

 クラウドアースの動きが早過ぎる。いや、さすがは大ギルドと言うべきか。秒単位で先手を打ってきた。大組織とは思えないフットワークの軽さだ。特に合議制のクラウドアースではありえない。これまで強権を振るってきたベクターがいないのだから猶更だ。

 つまりは高確率で自分が議長になったばかりで不祥事を起こしたくないベルベットの独断であり、彼女は迅速に情報を吸い上げるだけの暗部を飼いならしているということだ。

 前評判よりも出来る新議長様のようね。舐めていたか。歴戦の傭兵であるレックスに対抗できる術などあるはずもなく、また箝口令を敷かれたサインズ職員も連行されるグリセルダを見守るしかできない。

 

「待ちなさい!」

 

 だが、サインズ本部の玄関で立ちふさがったのはラビズリンだ。

 

「アンタ達にプライドはないの!? 女の前で乳だの尻だのデリカシーもないし、2人でやーっと1桁ランカークラスだけど、それでもプライドのある馬鹿共だと思っていたのに!」

 

「ああ、そうかい。失望させて悪かったな」

 

「悪いと思ってんなら失望させんな! 皆も黙ってんじゃないわよ! 何が箝口令よ! サインズは3大ギルドの配下じゃないでしょ! 私たちはいずれのギルドにも与さず、傭兵が傭兵業を憂いなく従事できるように全力を注ぐのが仕事でしょ! 自分たちや3大ギルドの不祥事を隠して、傭兵を危険に晒したら存在意義がないでしょーが!」

 

 咆えたラビズリンに共鳴し、黙り込んでいたサインズ職員がざわめき出す。怯えて動けなくなっていたヘカテや彼女に寄り添っていたルシアも強く頷き返す。

 

「まずいな、レックス。強行突破するよ」

 

「だな。まったく、因果な仕事だぜ。おら、どけよ。足が震えてるのも隠せないくせによ」

 

 レックスの指摘通り、啖呵を切ったラビズリンの両足は震えていた。心なしか両目にも恐怖で涙が溜まっている。なにせ、2人揃えば1桁ランカークラス……常人では及びつかない超人だ。ラビズリンは手も足も出ない。ましてや、今の自分はサインズ上層部に喧嘩を売ったようなものなのだ。下手をせずとも切り捨てられかねない。

 

「……嫌よ!」

 

「そうかよ」

 

 それでも動かないラビズリンをレックスは押し飛ばす。STR差もあってか、踏ん張る余地もなく宙を浮いたラビズリンはそのままサインズ本部の外まで吹き飛ばされる。

 そう、吹き飛ばされるはずだった。

 宙で彼女を受け止めたのは、テンガロンハットがトレードマークの傭兵……カイザーファラオだ。

 

「無事か?」

 

「……カイザー」

 

 チャーミングにウインクしたカイザーファラオはラビズリンを下ろすと、ここからは傭兵の問題だとばかりに彼女を遠ざけながらテンガロンハットを深く被り直す。

 

「おいおい、至急戻れと御上から命令があったかと思えば、これはどういうことだ? 女に暴力を振るうとは見下げたぜ、レックス」

 

「依頼中は男女平等だ。それとも何だ? お前は依頼中でも相手が女なら戦わないってのかよ?」

 

「依頼中ねぇ。その割には嫌々って顔に書いてあるぜ?」

 

 カイザーファラオの指摘通りだ。ポーカーフェイスが出来るが敢えて嫌悪感を示している虎丸とは違い、感情型のレックスは依頼に対する怒りで爆発寸前だ。グリセルダを連行した上に邪魔するラビズリンを押し飛ばしたなど彼の性格からしたら看過できるものではないのだろう。

 

「俺達は傭兵だ。引き受けた依頼には万全を尽くす義務がある。だがな、俺達は自由でもあるはずだ。嫌な依頼は断る。たとえ、専属であろうとも心の底から嫌ならば、自分の流儀に反するならば、断固としてNOを突きつける! だからこそ、俺達は傭兵なんだ! それこそが傭兵のプライドだったはずだ! 違うのか、レックス!? 虎丸!?」

 

「……黙れよ」

 

「いいや、黙らないね」

 

「そうかい。だったら力尽くで黙らせてやる」

 

「お望みならかかってきな」

 

 無理だ。レックスは典型的な近接ファイターであるが、カイザーファラオは探索専門だ。傭兵としての戦力基準はクリアしているとしても隔絶した差が存在する。グリセルダが止める暇もなく、レックスは彼女の拘束を虎丸に押しつけると背負う両手剣を抜く。

 勝負は一瞬だった。レックスの右片手の袈裟斬りから瞬時に派生する突き……と見せかけた本命の蹴りを軽々と捌いたカイザーファラオは、レックスの足を払いながら左腕を掴み、転倒させながら捩じり上げる。

 今の動き……明らかに『対人』のものだ。それも抜きんでたものがあり、グリセルダも目を見開いて信じられない程に俊逸なカウンターである。

 

「……ぐが!? お前!?」

 

「ったく、馬鹿のせいで隠してた爪がバレちまったじゃねーか。悪いな、レックス。俺、探索専門だし、モンスター相手にはお前程に強くはないが、対人なら負けないぜ?」

 

 カイザーファラオの動きはサインズにとっても衝撃だったのだろう。最も付き合いが長い受付嬢であるラビズリンさえも開いた口が塞がらないようだった。

 

「僕を忘れてもらっては困るな。レックスを拘束しながら僕の攻撃が防げるかい?」

 

 だが、竜には片割れの虎がいる。近接戦闘と魔法の両方をこなせる長杖を使った戦いが主の虎丸もまた傭兵としての実力を備えているのは当然だ。

 

「無理だな。だが、お前が加わればそちらの美女は逃げちまうぜ? お前ら2人が追えないように、全力で妨害してやる」

 

「ふむ、それもそうか。レックス、ここまでのようだ。カイザーがずっと隠していた取って置きの切り札を使ったんだ。負けを認めるしかないよ」

 

「……ちくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 あっさりと負けを認めた虎丸に、動きを完全に封じられていたレックスは悔しそうに唸り声をあげる。

 

「おいおい、嫌々だってのは分かってるが、諦めが良すぎるぜ? 何か企んでるのか?」

 

「別に。僕はレックスが引き受けたから付き合っているだけだしね」

 

「……そ、そうだ! 俺が無理に虎丸を誘ったんだ!」

 

 すぐに同意して虎丸を庇うレックスであるが、それを待っていたと言わんばかりに竜虎のコンビの『知』を担当する男は眼鏡を光らせる。

 

「そうそう。僕は巻き込まれただけ。『グリセルダさんを連行すれば、ヴェノム=ヒュドラの拠点攻撃作戦の最先方で連中を好きなだけぶちのめしてもいい』……なーんて、報酬をぶら下げられた、自分の外聞も気にせずに突っ走ったおっぱい星人に従わされただけさ」

 

「お前……だからこんな依頼を……」

 

 周囲の軽蔑の眼差しから一転して、傭兵のプライドを捨ててでもヴェノム=ヒュドラを自分の手で裁く……という、どちらかと言えば竜虎コンビのヒール役として振舞うことが多いレックスの印象通りにして全く真逆の心意気に、温かく優しい目が……もとい、なんて熱血正義馬鹿だという堪えきれない笑い声が漏れる。

 

「レックスさん、いつも悪ぶってるのにね。可愛いじゃない」

 

「止めろ」

 

「でも、あの人、ああ見えて女の子にはすごい優しいんだぜ」

 

「や、ややや、止めろ」

 

「そうそう。自分のファンや俺達職員の名前もちゃんと憶えてるし!」

 

「止めろぉおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 顔を真っ赤にして周囲の声を否定したレックスと盛大にバラした虎丸コンビが何故『コンビ』なのかハッキリしたところで、グリセルダはようやく解放される。

 

「いいの? 私を解放したらクラウドアースからの評価が……いいえ、傭兵としての評価が下がるわよ?」

 

「その時は独立傭兵に戻ってコツコツとやり直すさ。それにこれは依頼放棄じゃない。失敗だよ。見なよ。カイザーだけじゃなくてサインズ職員のほとんどが僕たちの敵だ。こんな状況で貴女を連行するなんて不可能だ。放棄じゃなくて失敗なら、傭兵としての筋は通せる」

 

「……悔しいが、虎丸の言う通りだ。傭兵として依頼を引き受けた以上は何があろうとアンタを連行するが、失敗したなら別だ。依頼主に平謝りするしかねぇよ」

 

 カイザーファラオの実力を素直に認めたレックスは、だが次は負けないと睨む。

 

「サインズ本部の周囲は僕たちが失敗した場合に備えて、クラウドアースが潜んでいるはずだ。さすがにサインズ本部まで乗り込んでこないだろうし、動かない方がいいだろうね」

 

「助言に感謝するわ」

 

「助言? いいや、これは『独り言』だよ。僕はレックスと違って口が軽い男なんだ」

 

 いつもはふざけてばかりの竜虎コンビであるが、彼らもまた歴戦の傭兵だ。この失敗を受けてクラウドアースが手放すことはないだろう。

 とにかくキリト君に連絡だけは入れておこう。メールを飛ばすが、一向に彼から返事は来ない。もしやと思うが、彼もまた連絡が取れない場所、もしくは既に敵の魔の手にかかってしまっているというのか? 焦るグリセルダを尻目に、カイザーファラオはラビズリンに襟を掴まれて振り回されていた。

 

「アンタ! サインズにまで虚偽申告していたの!? 今の動き、どう見ても超一流じゃない! それだけの対人技術があれば、サインズだってもっと高評価を……!」

 

「だから切り札なんだって。あと対人も探索には必須なんだよ。他のプレイヤーと競合することもあるからな。それに傭兵は対傭兵もあり得るわけで、いざという時まで切り札は隠しておくべきだろ?」

 

「だったら何でこの場面で切ったのよ! 腐っても傭兵なんだからレックス相手でもいつも通りに戦っても粘るくらいできるでしょ!? いつかアンタの命を救うかもしれないジョーカーをここで切るな! だから馬鹿なのよ! この馬鹿傭兵!」

 

「……いや、アレだ。ほら、お前が突き飛ばされて……頭に血が……な?」

 

 目線を逸らしながら小声でカイザーファラオが呟けば、さすがのラビズリンも察したのだろう。わなわなと震えて顔を真っ赤にする。傍から見ればカイザーファラオが馬鹿をやってラビズリンがキレるという様式美を周囲は夫婦漫才と茶化していたが、これからは新たな見解が加わりそうであった。

 今年のクリスマスは3大受付嬢はいずれも日程が予約済みになりそうね。グリセルダは淡々と2人を祝福するが、今はクゥリの一大事である。

 ロビーで傭兵同士が派手に激突したのだ。箝口令を敷いたサインズ上層部も騒動を聞きつけて出張ってくる。だが、ラビズリンの喝でサインズとしての誇りを取り戻した職員の反発は凄まじいものだった。

 緩やかに進んでいたサインズの腐敗もこれで幾らかマシになるだろう。だからと言ってクゥリの依頼の性質が変わるわけでもないのであるが。今はともかくクゥリに危険を知らせることが最優先だ。

 

「同じ傭兵として手を貸す……って言いたいところだが、俺も対ヴェノム=ヒュドラで待機命令だしな」

 

「僕たちはとりあえず依頼主に弁解かな? もう連絡されたのか、メールが来ちゃってね」

 

「そういうわけだ。力になれなくて悪いな。まぁ、あの【渡り鳥】だ。無事だと思うが、アンタもマネージャーとして心配なのは理解するぜ」

 

 竜虎コンビも依頼に不満は持っていてもクゥリの身を心配しているわけではない。

 ラストサンクチュアリ壊滅作戦で見せた絶大な戦闘能力。多少の不意打ちや不利な状況でも生還を疑われないのも当然だろう。

 だが、クゥリのコンディションはラストサンクチュアリ壊滅戦の影響から回復しきっていない。いつ戦闘不能の状態になるか分からないのだ。クゥリもそれを理解していたからこそ、先行潜入からの攪乱は彼が得意とする暗殺で大暴れするつもりだったはずだ。

 だが、虚偽の依頼によって捕らわれの状態からスタートするとなれば、敵に四方八方を囲われている。幾らクゥリでも余計な継戦を重ねれば、いつ症状が悪化するか分からない。

 こういう時に露呈するのが組織力の無さだ。技術力に秀でていても黄金林檎は中小ギルド……いいや、木っ端の零細ギルドだ。規模に反した資産と技術力を持っているに過ぎない。本来ならば、真っ先に叩き潰されて吸収されるところを、グリセルダの政治力とクゥリという『核ミサイル』のお陰で保たれているだけだ。

 

「これは何の騒ぎだ?」

 

 と、そこに現れたのは聖剣騎士団の元円卓の騎士にして今は同ギルドの専属にジョブチェンジしたアレスだ。人口増加に伴い、年齢層が広がったとはいえ、今も珍しい高齢のプレイヤーである。今回の対ヴェノム=ヒュドラにも参加するのは確定しているのか、聖剣騎士団の関係者を引き連れていた。

 ……まぁ、別に口封じされているわけでもないし。グリセルダはこの状況の打破、もといカウンターを食らわす方法を思いつく。キリトも私から得た情報を太陽の狩猟団に流すならば、こちらは後れを取るだろう聖剣騎士団を利用するまでだ。

 3大ギルドの足並みが崩れる? そもそも出し抜き合いをしているのだ。最終的に外聞さえ保たれていればいいのである。

 

「なるほど。サインズを騙すとは相当な手練れ。如何に規模が大きいとはいえ、犯罪ギルド如きにできるとは思えんな。分かった。私からディアベル様に報告しておこう。クラウドアースの横暴も見逃せん」

 

「ありがとうございます」

 

「気にしなくてよい。今は私もただの傭兵。この地位もなかなかに居心地がいいと思っていた頃だ。サインズの中立性の瓦解は3大ギルドの不和をもたらす。何としても守らねばならん」

 

 ヘカテから事情の説明を受けたアレスに、グリセルダは背筋を伸ばしながら歩み寄った。

 そっちがその気ならば、こちらは3大ギルドに幾らでも点火をしてやろうではないか。グリセルダは今あるカードから何を切るべきか冷徹に計算しながら、政治が分かる老骨に大損確定の賭けを挑んだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 ふむ、ここか。俺は港に建造された巨大な要塞を見上げる。

 ヴェノム=ヒュドラの拠点の1つにして、拉致されたプレイヤーなどが監禁されている場所だ。この大きさ、もはやちょっとしたダンジョンだな。

 まさか地下ダンジョンから更に別ステージの転移ポイントがあったとはな。まぁ、アルヴヘイムの例もあるし、こういうステージやダンジョンは少なからずあるだろうな。キリトがしれっと幾つか占有していても驚かん自信はある。

 

「元からあったんですか? それとも改造を?」

 

「……あ!? えー……さぁな。俺も詳しくは知らねぇ」

 

「そうですか。ひとまずマップデータをください。地理を把握しているか否かで動き方が変わりますから」

 

「え? えあ!? えーと……!」

 

 手から肘まで覆い尽くす手袋型の拘束具を装着したオレを先導するのは、大ギルドの内部工作員だ。まるで野盗のような革装備で顔にはピアスだらけという威圧感たっぷりの顔の割には随分と肝が小さくて先程から何度も緊張で言葉が詰まっている。裏切らせたのか、それとも前々からヴェノム=ヒュドラに潜入させていたのか。まぁ、後者だったらオレに集めさせた情報は何なんだという話になるし、工作員にしてはお粗末すぎる。大ギルドが金と安全を約束して裏切らせたのだろう。

 

「【渡り鳥】さん、看守による検査が不定期に行われますし、その際に詳細なマップデータがあっては怪しまれます。荷物検査は我々で誤魔化すにしても、その後は合図があるまで牢獄で待機となるわけですし、十分なバックアップができません」

 

 緊張してばかりのピアス顔とは反して、今回の作戦のブレインを務めるというのは、紳士然とした長い黒髪を1本に束ねた男だ。黒のスーツを着こなし、足取りにも隙が無い。少なからずの修羅場を潜り抜けた猛者だろう。

 

「今回の作戦の肝は、大ギルドの部隊に呼応して【渡り鳥】さんが内部攪乱と同時に拉致プレイヤー救出部隊の援護にあります。【渡り鳥】さんが怪しまれて正体を看破された場合、被害者に危険が及びかねません」

 

「……なるほど。確かにその通りですね」

 

「作戦開始と同時に提供しますので、それまでは大人しく待機をお願いします」

 

 こういう連携を前提とした作戦は苦手だ。うん、オレらしい。業腹であるが、とりあえずは合図があるまで『拉致された教会の女性プレイヤー』という扱いだ。だったら修道服に着替えるべきなのだが、教会服のままでいいそうだ。失敗できない作戦なのだからクオリティは上げるべきだろうに。

 フードを被っているお陰もあってか、連行されている最中もオレが【渡り鳥】だとバレている様子はない。黒髪の男は工作員に後を任せると要塞前で別れた。どうやら彼は別ルートから侵入するらしい。

 

「ひ……ひぃ……大丈夫……何もできない……何もできない……はず!」

 

「何ができないんですか?」

 

「ひぃいいいい!?」

 

「もっとリラックスしていきましょう。大ギルドが謀略大好きでも貴方を切り捨てませんよ。そんな真似をしたら今後、同じような工作が出来なくなりますからね」

 

 拘束具に取り付けられた鎖で引っ張られるという形なのであまり近づくべきではないのだがな。オレはコケたフリをしてピアス顔に近寄って耳打ちする。

 恐らくはヴェノム=ヒュドラを裏切っているストレスとその後の安否が気がかりなのだろう。振り返ったピアス顔は頬を引き攣らせながらも顔を赤らめる。

 

「こ、こうしてみると……スゲェか、かわ……いやいやいや!」

 

「…………?」

 

 なんだ、コイツは? オレが首を傾げると頬を赤くして挙動不審が更にひどくなる。おい、何処が裏切らせたのか知らないが、明らかに人選ミスだろう。

 まぁ、作戦の成功率を上げる為だし、こういう馬鹿っぽい奴の方が安い利で動いて裏切らせやすいだろうしな。

 ふむ、ここか。鉄格子かと思ったら個室のようだ。石造りの冷たい牢獄であり、金属製の分厚い扉が無数と並んでいる。耳を澄ますが、吐息もすすり泣く声も消えない。どうやら防音性は高いようだ。

 最奥の牢獄に通され、更に両足に枷を付けられる。まったく、足枷までいるのか。まぁ、看守が不定期で見回りに来るらしいし、仕方ないか。

 

「こ、ここだ。合図があったら俺が鍵を開ける。そしたら作戦通りに……」

 

「派手に暴れる……とは聞いていますが、どの程度ですか? 手当たり次第にでよろしいでしょうか?」

 

「て、手あたり次第って……な、なななな、何を?」

 

「もちろん『殺し』ですよ。レベルや装備差もありますが、殺す方が手間をかけずに済みますから」

 

 正直言って無力化だと線引きが難し過ぎる。基準を設けてもらった方がやりやすい。

 

「ひぃああああああああああああああ!」

 

 あ、待て! 他にも聞いておかないといけない事がある! 合図って具体的に何なんだ! すぐに分かるって説明を受けたが、さすがにそれだけだと間違うかもしれないだろ! それにここは防音完備っぽいしな!

 まったく、この傭兵に細かいところは任せるようなわざとらしい杜撰さ……太陽の狩猟団のやり方だな。クラウドアースからの依頼にしては緻密さと傭兵への情報提供に欠ける。クラウドアースを隠れ蓑にした、あるいは手を組んで聖剣騎士団を出し抜くといったところか。

 まぁ、太陽の狩猟団の主力メンバーに被害が出ているわけだし、音頭を取ってもおかしくないし、ミュウならオレを拉致されたプレイヤーと見せかけて内部に仕込むという大胆なかつ傭兵の安否なんて全く気にしない作戦を立案してもおかしくないし。むしろ、ミュウならやりかねなくて納得しかない。

 

「……ガチガチだな」

 

 足枷はともかく、腕の拘束具はドラゴン素材とイジェン鋼を組み合わせたものだ。本当に何処でも使われてるな、イジェン鋼! しかもドラゴン素材……想像以上にヴェノム=ヒュドラは財力があるようだ。

 

「…………」

 

 暇だ。合図って具体的にいつなんだ? さすがに1週間とか待たされることはないだろう。部隊編成込みならば最速でも明日の朝か?

 そもそも、あの内部工作員で大丈夫なのか? 他にもいると願いたいが、ミュウの発案となると最悪を想定すべきだ。アイツが合図の時に迅速に動いてもらわないと作戦失敗なのに、ビビッて来れなかったら困るからな。

 腕の拘束具については外せないこともない。手段は思いつくだけでも3つほどある。拘束具の強度にもよるが問題ないだろう。扉についても破壊は可能だ。

 

(……退屈ね。しりとりでもしない?)

 

 ヤツメ様、それはさすがに気が抜け過ぎです。

 狩りの基本は待つことだ。作戦開始の合図……だから合図って何なんだ? やっぱり杜撰すぎるぞ。おのれ、ミュウめ! ともかく、基本に忠実に合図を待つとしよう。

 

「……ケホ」

 

 しかし、この港要塞に来てから深淵の病がやたらと疼く。もしや、ここは深淵と縁がある土地なのだろうか? 両腕が拘束されていては薬が使えないし、我慢するしかないな。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「し、信じ難い! 本当にあの【渡り鳥】を無力化して捕らえるとは……!」

 

 監視カメラの映像にて『空き倉庫』にて監禁された【渡り鳥】に興奮するのは、針金のような体躯と骨ばった顔が特徴的な男だ。

 

「これでお分かりいただけましたか? 我々はヴェノム=ヒュドラの味方です」

 

「確かに貴女の言う通りだったようだ。部下の報告からも大ギルドに動きがある。だが、よもやここに部隊を差し向けるなど……!」

 

「ですが、朗報です。大ギルドはまだヴェノム=ヒュドラを『ただの犯罪ギルド』と戦力的には侮っています。相応の部隊を派遣するでしょうが、数はヴェノム=ヒュドラが上。しかも大ギルドは知らない『実験の成果』もある。最終的には敗れるかもしれませんが、大ギルドにヴェノム=ヒュドラに手を出せば想像以上の出血を強いられると脅すことはできます。それだけで十分過ぎる戦果と呼べるでしょう」

 

「うむ、そうだな。それに万が一に備えて『博士』には既に別の拠点に移動してもらった。『博士』は替えの利かない人材。【銀舌】様よりお預かりしたヴェノム=ヒュドラの今後を左右する御方だ。『博士』が大ギルドに捕縛されていたならば、死してお詫びしなければならないところだった」

 

 馬鹿な男だ。そもそも大ギルドに囲われた時点でゲームオーバーだ。良くてここで討ち死にであり、悪くて拷問の後に死ぬ。

 だが、この男は要塞の表向きの主に過ぎない。ここは『商品』の保管庫にして、『博士』の実験場なのだ。重要拠点ではあるが、着任は頭のキレより忠誠心の高さから選定されたのだろう。ヴェノム=ヒュドラの首領に心酔するこの男はまさに適材適所なのだろう。

 そして、馬鹿な男だけに重要拠点を任せるはずもない。新たに入室してきたのは、長い黒髪を1本に束ねた長身の男だ。

 

「おお、【ハリデル】! 戻ったか! 見ろ! あの【渡り鳥】が! はははは! 馬鹿な奴だ! まさに籠の中の鳥だな!」

 

「侮ってはなりません。相手はあの【渡り鳥】です。両腕を拘束され、足枷をつけられて敵地に単独放置されてもあの余裕……奴は『本物』です。今ならば先手を打てます。レベル3の毒ガスで仕留めましょう。【渡り鳥】は低VITでHPが低いと聞きます。毒は致命的な弱点のはず」

 

「だからこそオススメしないわ。【渡り鳥】の装備までは確認できていないのでしょう? 自分の弱点である毒に対策をしていないはずがないわ」

 

 事実としてパラサイト・イヴにはセットした薬品の種類とレベルに合わせた耐性を獲得できる能力がある。だが、そこまで彼らに明かす必要はない。

 

「今は『騙して無力化する』ことこそが最善よ」

 

「……どうだろうな。そもそも奴は騙されたフリをしているだけなのではないか? 私はまだお前を信頼していないぞ、【ロザリー】とやら。派遣される大ギルドの情報と到着予想時間、更には【黒の剣士】や【魔弾の山猫】といった傭兵。しかもチェーングレイヴの動きまで……どうやって手に入れた?」

 

 そりゃレギオンが内外から見張ってるから筒抜けよ、とロザリーことロザリアは内心で今にも破裂しそうな心臓を押さえ込みながら不敵の笑みを浮かべる。

 

「別に信じたくないならそれでいいのよ。【渡り鳥】を殺せばいいわ」

 

 なんでアタシがこんな危険な仕事を……それもPoHに命じられてしないといけないのよ!? 底辺犯罪ギルドかと思えば想像以上の戦力だし、この男に至ってはトッププレイヤーにも匹敵しそうな実力でアタシでは勝ち目なんてないし! ロザリアは必死に震えないように精神力を動員して、『謎の女』を演じる。

 

「アタシたちの目的は大ギルドへの復讐。ヴェノム=ヒュドラを支援するのは、連中の顔に泥を塗りたい以上の理由はないわ。後はそうね……未来のDBOの犯罪王への投資かしら? 貴方達が更に実力を備えれば、逆に戦力や物資の調達先になるわ」

 

「持ちつ持たれつ……か」

 

 まだ疑っているが、ハリデルは『ロザリー』をテロリストと考えているようだ。外れているような当たっているような、とロザリアはホワイト企業路線を走りながらもロザリアには依然としてブラックの顔を見せるレギオン陣営を思い浮かべる。

 

「それに【渡り鳥】は上手く扱えれば貴方達の武器にもなる。【渡り鳥】が傭兵業をやっているのは良質な『殺し』の機会が得られるからよ。ヴェノム=ヒュドラが傭兵業以上の殺しの仕事を回せるならば、喜んで味方に付くでしょうね」

 

「た、確かに! 敵も味方も殺し尽くすジェノサイド・モンスターと名高い【渡り鳥】だ! 十分な支援と戦場さえ約束すれば、喜んで我々の敵を抹殺するだろう! 奴を我々の子飼いにできれば【銀舌】様の敵はいなくなる! 大ギルドの幹部連中は震え上がるぞ!」

 

「私は反対です。【渡り鳥】は確かに虐殺者として名高いですが、私が収集した情報の限りではありますが、彼の行動には理性と知性に基づいた抑制が見受けられます。そもそも、彼の残虐性は大ギルドの喧伝による誇張も含まれます。短い時間ですが、連行するまでに会話した限りでは、彼は依頼主に対して極めて忠実であることが伺えました」

 

 この男、犯罪ギルドには勿体なさ過ぎる。【渡り鳥】を正確に分析した挙句に危険性を微塵も落とさず、脅威と判断した上で最も確実性の高い殺傷手段である毒殺を躊躇なく選択できるなど度胸も含めて並ではない。

 

「……好きにすればいいわ。こちらは最大の脅威だった【渡り鳥】を無力化した。この後の対応はそちらに委任するわ」

 

「うむ、そうだな。次の問題は大ギルドと傭兵……特に【黒の剣士】か」

 

「見張りは増員させていますし、迎撃態勢は完璧です。博士の『実験体』も含めて全戦力を動員しました。これらで先行して潜入した【黒の剣士】を始めとした傭兵を包囲して殲滅します。しかし、相手は【黒の剣士】。イレギュラーに備えて精鋭をプールさせてあります」

 

「それがベストね。確かに【黒の剣士】はプレイヤーとして最強格だし、聖剣もある。でも、あくまで『個人』よ。対処しきれる数には限界がある。質が相応に伴っていれば猶更ね」

 

 雑兵など使い捨てられるヴェノム=ヒュドラならば自爆同然の特攻も仕掛けられる。潜入した【黒の剣士】を罠に嵌めればチェックメイトだ。

 だが、念には念を入れる。特に【黒の剣士】には。ロザリアは思案する素振りを見せ、だが予定通りに小箱を差し出す。

 

「こちらをどうぞ」

 

「これは?」

 

「フロンティア・フィールド産の特殊な装備……深淵の指輪です」

 

 さて、あの女……デュナシャンドラからの贈り物であるが、どれ程のものか。小箱の中には3つの闇を溶かし込んだような黒い指輪が入っている。

 

「使えば必ずや強大な『力』を授けてくれるはず。ただし、ご注意を。何でも深淵に呑まれるとか。まぁ、設定の1つに過ぎないのでしょうが……」

 

「ふむ、強力な指輪のようだな。ハリデル! 1つはお前が装備し、もう1つは選抜した部下に渡せ。最後の1つは私が持つ」

 

「……畏まりました」

 

 深淵の指輪を受け取り、だが即座に装備する素振りを見せずにハリデルはアイテムストレージに収納した。今はそれでいい、とロザリアは目的の1つを達したと安堵する。

 

「1度は撃退しきれても2度目はないだろう。必要な人員だけを連れて脱出する準備を進めておくぞ。ロザリーさんには是非とも我が要塞の雄姿をご覧いただくとしよう」

 

 終わるまで逃がすつもりはないってわけね。上等よ! ロザリアは通された客間にてベッドに腰を下ろすとアイテムストレージからスマートフォンを取り出す。レギオン製の何処でも通信機だ。実はこの端末自体にレギオンプログラムが仕込まれており、レギオン・ネットワークを利用して通話しているのである。すなわち、通話内容はもれなく全レギオンに筒抜けとなる。

 これは嫌だけど……! スマートフォンからコードが伸び、先端の針が喉を突き刺す。こうすることで声を発することなく通話可能なのだ。

 

『私よ。作戦の第3段階をクリアしたわ。要塞のトップは馬鹿だけど、側近は疑り深くて頭もキレる上に相当な実力者よ』

 

『そうか』

 

『そうか……じゃないわよ!? アタシはどうすればいいのよ!? これから大ギルドと【黒の剣士】まで来て、オマケに【渡り鳥】までいるのよ!?』

 

 通話相手はもちろんPoHだ。デュナシャンドラから持ち掛けられた作戦に強制参加させられたロザリアは、あろうことか最も危険な現地要員である。なお、デス・ガンは要塞外で大ギルドの部隊が到着した時の連絡役だ。

 

『いざとなったら【渡り鳥】を牢から逃がせ。アイツがそれが合図だと勘違いして大暴れするはずだ。後はそれに乗じて上手く逃げればいい』

 

『脱出の成功率は?』

 

『30パーセントってところだな。【渡り鳥】に遭遇したら潔く死ぬしかない』

 

『嫌よ!』

 

『だが、それはお前だけだった場合だ。俺が助けに行けば90パーセントってところだな。【渡り鳥】に遭遇すればやっぱり死ぬしかないが、俺なら言いくるめられるかもしれないし、上手く脱出させられるはずだ』

 

『慰めにもならないわ。30パーセントに賭けるしかないなんてね!』

 

『助けに行くと言っただろう? お前は俺の大事な「仲間」だからな』

 

 アンタの口からの『仲間』扱い程に信じられないものはないわよ。ロザリアは内心で吐き捨てるが、言葉にできないのは、最近のPoHの心境の変化を肌で感じているからだ。

 アルヴヘイムの顛末を経て、アインクラッドの犯罪王は変わった。ロザリアたちを明確に仲間として扱う素振りがある。自分の目的はどうであれ……いいや、だからこそ仲間として役割を担ってもらいたいという信頼をしようとし、また自分もその為に動く努力をしようとしているのだ。

 

『……期待しないで待っておくわ』

 

 通信を終えたロザリアはベッドに倒れ込み、これから港要塞で起こる大騒動を想像する。

 ヴェノム=ヒュドラの思わぬ戦力。デュナシャンドラによって大幅な強化が施された。大ギルドや傭兵の動きも筒抜けだ。

 最終的には誰もが予想する通りに港要塞は陥落するだろう。だが、そこに至るまでの過程は大きく変わったはずだ。

 

「最悪の夜になりそうね」

 

 だが、絶対に死んでたまるか。2度目の人生を何としても生き延び、自らの幸福を追求することこそがロザリアの目的なのだから。




嘘と陰謀は闇夜の港で絡み合う。

約束されたのは陥落。されども至るまでの道筋を変えるのは人間であるが故の願い、想い、そして業。

ならばこそ、純白の怪物は虚言と策略の海で踊る。


それでは、342話でまた会いましょう!

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